本記事は、2016年7月に投稿した記事の補訂版です。

 

藤原隆家は藤原道隆の子で道長の甥ですが、兄の伊周とともに道長とは政敵の関係にありました。荒くれ者として知られ、伊周が、自分が通っている女性のもとに花山法皇が通っていると誤解して(実際には花山が通っていたのは伊周が通っていた女性の妹であった)、隆家に相談したところ、隆家は花山に矢を射かけるという暴挙に出た(この有名なエピは、『栄花物語』で語られるものであるが、史実であるかは確認できない。この点、実資によると、件の女性の邸で遭遇した花山法皇と伊周・隆家の間で「闘乱」となり、その際、故意であるか過失であるかは不明だが、花山に矢が射かけられたということである)ほか、時の一条天皇の母藤原詮子を呪詛したこと等を理由として伊周ともども失脚します(長徳の変)。

 

これにより道長が完全に政権を掌握しましたが、事件の2年後の長徳4年(998年)には、詮子の病平癒を期した大赦によって帰京を許され、さらに長保4年(1002年)には権中納言、次いで寛弘6年(1009年)には中納言と、事件前の官に復しました(しかしながら、それ以上の昇進はすることなく終わった)。また、長和3年(1014年)に自ら望んで大宰権帥に任ぜられて現地に下り、寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇の際に賊撃退の指揮を執ったことはよく知られています。彼の人となりは、頭の良さを鼻にかけたイヤな奴だった兄伊周に対してやんちゃな次男坊であって、道長もその硬骨漢ぶりに一目置いて比較的良好な関係を築いており、うるさ型の藤原実資とも昵懇の間柄であった(実資の最初の妻の姪が隆家の妻)ほか、花山法皇とも、あれだけの事件を起こしながら、関係は悪くなかったということで、愛されキャラだったようです。

 

隆家の子孫は坊門家と水無瀬家に分かれ、坊門家からは後鳥羽天皇の生母七条院藤原殖子や源実朝夫人坊門信子らが出ましたが、室町時代に断絶しました。水無瀬家はその後も存続し、江戸時代になって七条・町尻・桜井・山井の4家が分家しました。家格はいずれも羽林家で、明治になって子爵に叙爵されています。また、平治の乱の首謀者藤原信頼や、平忠盛の妻(清盛の継母)で源頼朝の助命嘆願をしたとされる池禅尼も隆家の子孫です(さらに、北条時政の妻牧の方は池禅尼の姪だという説があり、それが正しいとすると、彼女も隆家の子孫だということになる)。南北朝時代に南朝の懐良親王を擁して九州に勢威を誇った菊池氏も隆家の子孫を称していますが、こちらは仮冒と考えられています(ちなみに、西郷隆盛は菊池氏の末裔を称していて、西郷家が代々「隆」を通字としているのは隆家(あるいはその父道隆)に因むと考えられる)。