藤原道隆は兼家の長男で道長の同母兄(長兄)です。寛和2年(986年)、父や弟(道綱道兼、道長)らと謀って花山天皇を退位(出家)させ、兼家の孫(道隆兄弟の甥)である一条天皇を皇位に就けると、摂政となった兼家によって、その年のうちに従三位非参議から権中納言を経て権大納言に引き上げられました。その後、永延3年(989年)には内大臣となり、翌年兼家が亡くなるとその後任として一条天皇の摂政・関白を務めました。

 

兼家が自らの後継者を決める際、腹心である藤原在国(後に有国)と平惟仲(兼家はこの二人を「まろの両のまなこ」と呼んでいたとのこと)に道隆と道兼のどちらにすべきかを諮ったところ、惟仲が嫡男である道隆を推したのに対し、在国は花山天皇を退位させた最大の功労者である道兼を推したため、道隆はこれを根に持ち、政権の座に着くと、在国を在任わずか3か月で蔵人頭兼右大弁から更迭し、その翌年に発生した下級官人の殺人事件においてその首謀者として官位を停止しています。道隆は陽気な性格であり気配り上手でもあったようですが、このように、自らの意に染まない言動をする者に対しては容赦をしないという冷酷な面も持っていました。

 

道隆は長女の定子を一条天皇に入内させると、太皇太后、皇太后、皇后の三后に空席がないにもかかわらず彼女を中宮に冊立して四后としたり、父に倣って息子たち(伊周、道頼、隆家)を未だ若年にもかかわらず強引に公卿に昇進させたりして自らの家(中関白家)の繁栄を図りましたが、大の酒好きが祟り、過度の飲酒に起因する糖尿病により摂関在任5年で亡くなりました。彼の子女のうち、隆家の家系(水無瀬流)と、伊周の娘と道長の子頼宗の間に生まれた俊家の家系(中御門(松木)流)が現在まで続いています。