本記事は、2016年7月に投稿した記事に補訂と追記を加えたものです。

 

藤原道綱は藤原兼家の次男で、母は『蜻蛉日記』の作者で歌人としても名高い藤原倫寧の娘(実名不詳。百人一首でいう「右大将道綱母」)です。藤原道長にとっては異母兄に当たります。しかしながら、父兼家や異母弟道長のような政治的才能もなく、母のような文学的才能もない凡庸な人物として知られています。それでも、道長の妻源倫子の妹と結婚して相婿となる等して道長に取り入り(兄弟仲も悪くなかったようである)、道長政権の下で大納言兼右大将に昇りました。もっとも、道長は、左大臣として廟堂の首班となると、従兄の藤原顕光を右大臣に、叔父の藤原公季を内大臣に、それぞれ据えていますが、この二人はいずれも政治的に無能であったことに鑑みると、道綱の大納言起用も、身内の中で自らの地位を脅かす心配のない者により廟堂の上層部を固めるという方針の一環であったと考えられます(ちなみに、大納言の定員は2名であるところ、道綱と並んでその座にあったのは道長の義兄(妻倫子の兄)源時中であった)。

 

道綱の大納言在任は23年の長きに及びましたが、顕光と公季が彼よりも長生きして大臣の座を占め続けたため、大臣になることなく死去しました(無論、特筆すべき業績もない)。道綱の子孫は一時受領階級に転落しかかりましたが、道綱の玄孫季行(九条兼実の岳父)が従三位に昇って公卿に復し、季行の子孫は楊梅家と樋口家(後に二条家次いで平松家と改称)という堂上家(家業は管弦)となりました。しかしながら、いずれも室町時代に断絶しています。

 

[追記]

大河ドラマ『光る君へ』が始まりました。過去、摂関時代を取り上げたものは、平将門(演・加藤剛)を主人公とした『風と雲と虹と』(私が最初に全編通して観た作品)が辛うじてあるくらいなので、どのように描かれるのか、楽しみにしたいと思います。本ブログでは、これまで、摂関時代に関する記事を少なからず投稿してきましたが、この機会に便乗して(笑)、今後しばらくの間、過去記事に補訂を加えて再投稿していくこととします。なお、「藤原道長を取り巻く人々とその家系」シリーズは、対象となる人物の家系がどうなったかに主眼を置いたもので、当該人物の月旦については軽く触れるに留めています。

 

ところで、道綱が大臣になれなかったのは前記のとおりですが、藤原実資の日記『小右記』によると、寛仁3年(1018年)6月に、顕光が左大臣を辞任するとの風聞と、これを受けた道綱が、1か月でよいから大臣になりたいと述べたとの噂が流れたそうです。これを耳にした実資は、「一文不通之人」が大臣を望むなどあり得ないとこき下ろしています。結局、顕光が大臣を辞任することはなく、その翌年に道綱は世を去りました(なお、顕光が死去したのは道綱死去の翌年)。