後白河法皇と近衛基通の艶聞という大スクープを後世に伝えた九条兼実は、藤原忠通の3男として久安5年(1149年)に誕生しました。永暦元年(1160年)に従三位に叙せられて公卿に列すると猛スピードで昇進を重ね、長寛2年(1164年)に内大臣、次いで仁安元年(1166年)には早くも右大臣に昇ったのですが、その後20年間に亘りこの地位に据え置かれることとなります。これは左大臣の藤原経宗がその地位に居座り続けたこともありますが、当時は摂関家の勢威が衰えていて、平清盛と後白河法皇が主導していた政界において重用されないことを不満として出仕をサボりがちであったことが大きな要因であったようです。

 

このように不遇を託っていた兼実ですが、思いがけない援軍が現れます。文治元年(1185年)10月に後白河法皇が源義経に強要されて源頼朝追討の院宣を下したことを捉えて、頼朝が朝廷に対し改革の要求を突き付けたのですが、その中に兼実の内覧起用が含まれていたのです。頼朝は兼実と一面識もなかったのですが、近衛家は平氏と、松殿家は源義仲と、それぞれ関係が深かったのに対し、兼実はそのいずれとも関係が希薄で、手垢がついていないことに着目したのでしょう。そして翌年3月、義経に頼朝追討の院宣を与えたことに関わる責任を問われて摂政近衛基通が更迭されると、兼実はその後任となり、文治5年(1189年)には太政大臣を兼ね(但し翌年辞任)、建久2年(1191年)には関白に転じます。

 

こうして思いがけなく摂政・関白の地位に就いた兼実ですが、後白河法皇の存命中は実権がなく、建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御してようやく廟堂を主導する立場に立ちました。しかしながら、その門閥重視と有職故実に厳格な政治姿勢は中下級貴族の反発を招き、次第に孤立を深めていきます。さらに、盟友源頼朝も、長女大姫の入内を望んで反兼実派の丹後局に接近し、兼実との仲が疎遠となってしまいます。

 

建久6年(1195年)、兼実の娘で後鳥羽天皇の中宮任子が皇女を出産したのに対し、兼実の政敵源通親の養女在子が後鳥羽天皇の皇子(後の土御門天皇)を出産したことにより、兼実の命運は尽きます。翌年11月、廷臣らの支持を失った兼実は、通親の策謀により関白を罷免され、蟄居を余儀なくされます(建久七年の政変)。ここで話が終わっていれば、九条家も松殿家と同じ運命をたどっていたかも知れません。しかしながら、建仁2年(1202年)10月、通親の死去に伴い後鳥羽天皇が廟堂の主導権を掌握すると、同年12月に摂政近衛基通が更迭され、兼実の嫡子良経がその後任に任じられたのです。これは、摂関家を分断してその力を削ごうという後鳥羽天皇の意図によるものと思われますが、結果として九条家は復権しました。

 

九条良経の嫡子道家は、その子頼経が鎌倉幕府将軍となったことも手伝って、朝廷における最大の実力者となって、九条家の地歩を固めます。こうして、九条家は近衛家と並ぶ摂関家としての地位を確立し、後に道家の次男良実が建てた二条家、道家の4男実経が建てた一条家、近衛家から分かれた鷹司家と合わせて五摂家と称されることとなります。

 

[追記]

九条兼実は、「盟友」とまでいえるかはともかく、源頼朝と協調関係にあり、もちろん『鎌倉殿の13人』にも登場するので、この記事も外さず再掲します。彼は、藤原忠通の3男(実際は6男だが、長兄と次兄は幼少時に仏門に入り、三兄は夭折した)であり、二人の兄(近衛基実と松殿基房)が摂関の地位に就いたので、本来であれば傍流で終わるはずのところ、なぜか摂関家の嫡子が歩む出世コースを辿って昇進を遂げています。また、基実と基房と兼実の母はいずれも忠通の正室ではありませんが、基実と基房の母はどちらも公卿(権中納言源国信)の娘であるのに対し、兼実の母は諸大夫(太皇太后大進藤原仲光)の娘なので、そうした身分の低い母を持つ兼実が摂関家の嫡子並みの待遇を受けたというのはなおさら不可解といえるでしょう。この点に関し、忠通としては、基実の嫡子基通は平治の乱の謀反人藤原信頼の甥であるため、これを排除して兼実を嫡子と位置づけたのだとの説があります(これに対し、忠通の意中の後継者は自らの日記を譲り渡した基房であって、兼実は崇徳天皇の中宮であった異母姉聖子(皇嘉門院)の養子となってその祭祀を承継することとなっていたので、そのような地位に就く者にふさわしい待遇を受けたとの説もある)。なお、兼実の母は、彼のほかに、道円(早世)、兼房(太政大臣)、慈円(天台座主)の4人の子供を産んでいることから、忠通の寵愛を受けていたものと思われ(正室に準ずる扱いを受けていたのかもしれない)、そうであれば、忠通にとっては、その長子で優秀な兼実が殊更に可愛かったということもあったのかもしれません。