平家物語の「殿下乗合事件」で有名な松殿基房は藤原忠通の次男として生まれ、保元2年(1157年)従三位に叙任されて公卿に列すると、以後摂関家の子弟として急速な昇進を遂げ、長寛2年(1164年)には弱冠21歳で左大臣に就任します。そして、2年後の永万2年(1166年)彼の長兄である摂政近衛基実の急死により、その後任となります。これは、基実の嫡男基通が未だ幼少であったため、中継ぎに立てられたものです。

 

その後、基房は、嘉応2年(1170年)に太政大臣となり、承安2年(1172年)には関白に転じますが、後白河院と結んで次第に反平氏的な姿勢を強めていったため、治承3年(1179年)清盛のクーデターにより関白を解任されて太宰権帥に左遷され、出家します。

 

基房はその後赦免されて帰京し、寿永2年(1183年)源義仲によって平氏が都を追われると、義仲と組んで復権を図ります(娘の伊子を義仲に差し出したともいわれています)。そして、同年11月、義仲がクーデターを起こすと、僅か12歳の嫡男師家を摂政内大臣に据えることに成功します。しかし、翌年1月、義仲が源義経によって討たれると、師家は解任され、以後政界に復帰することはありませんでした(なお、師家は家の再興を期して、姉の伊子が源通親との間に儲けた道元を養子にしようとしたものの果たせなかったという説があります)。師家の子基嗣は大納言となりますが、その子基定をもってその家系は断絶します。

 

師家の弟忠房は元仁元年(1225年)には大納言に昇り、寛元5年(1247年)、いわゆる宮騒動に連座して摂政一条実経が罷免されると、その後任候補の一人に名前が上がります。このとき松殿家が摂関家に復帰する可能性もあったのですが、実現することはなく、結局彼はそれ以上昇進することなく出家します。その後、忠房の家系からは公卿となる者は出たものの、大臣に昇る者は出ないまま、戦国時代に断絶します。

 

江戸時代に入り、松殿家再興の動きが2度ありました。まず、寛永年間に九条幸家の子道昭が松殿家を再興し、権大納言兼右大将に昇りましたが、正保3年(1646年)嗣子のないまま死去し、同家は再度断絶してしまいます。次に、明和2年(1765年)に九条尚実の子忠孝が九条家の分家として松殿家を建て、権中納言に昇ったものの、明和5年(1768年)こちらも嗣子なく死去したため、結局同家は再興されることなく終わりました。