本記事は、2016年8月に投稿した記事の補訂版です。

 

藤原兼家は師輔の三男で道長の父。伊尹・兼通の二人の兄がいましたが、官位の昇進が次兄兼通を超えたことで兼通から恨みを買い、二人は犬猿の仲となってしまいます。

 

天禄3年(972年)、円融天皇の摂政を務めていた長兄伊尹が重病により辞表を提出します。このとき、兼家は大納言、兼通は権中納言であり、順当にいけば兼家が後任となるはずでした。ところが、兼通は、円融の亡母藤原安子(兼通の妹)から生前に「摂関は兄弟の順に任ずべし」という旨の一筆(注)を取っていたため、孝心の厚い円融は(兼通嫌いであったのだが)これに逆らえず、兼通を関白内大臣に任じ、兼家は兼通政権下で冷や飯食いを余儀なくされます。

 

貞元2年(977年)、兼通が重い病となり臥せっていると、兼家の牛車が兼通邸の方に向かっているとの報告が入ります。兼通は、仲が悪くてもそこは兄弟だから、兼家が見舞いに来るものと思い、支度をして待っていたところ、兼家の牛車は兼通邸の前を素通りして内裏へと向かっていきました。兼家は、兼通はもう長くないと思い、自分を後任の関白に任じるよう円融天皇に奏請するために参内しようとしていたのです。即座に兼家の意図を見抜いて激怒した兼通は病を押して参内します。そして除目を行い、仲の良かった従兄の左大臣頼忠を関白とするとともに、兼家の兼官である右大将を剥奪して治部卿に貶し、ほどなくして死去しました。

 

こうして、兼家は二度までも関白となる機会を取り逃がしたのですが、どうも自信家にありがちな脇の甘さを感じるところです。それでも、円融天皇と外戚関係のない新関白頼忠は、円融の叔父である兼家を無視することができず、翌年太政大臣に昇格すると、それに伴う人事異動で兼家を右大臣に任じました。こうして、復権した兼家は、政権獲得の機会を虎視眈々と窺うこととなります。

 

永観2年(984年)、円融天皇は花山天皇に譲位し、円融の第一皇子で兼家の外孫の懐仁親王が皇太子に立てられます。しかし、兼家は花山とは血縁関係が遠い(兼家は花山の大叔父であった)ため関白にはなれず、花山の叔父藤原義懐が権力を握りました。ところが、寛和2年(986年)、兼家は策謀により花山を出家させて懐仁(一条天皇)を皇位に就けることに成功し、念願の摂政の地位を手にしました。ちなみに、天皇の外祖父が摂政となるのは藤原良房以来2例目です。

 

兼家の権勢は、道隆を経て道長に受け継がれ、摂関時代の全盛期を迎えることとなります。

 

(注)『大鏡』による。ただし、安子が亡くなった応和4年(964年)の時点で摂関は未だ常置となっておらず、また、伊尹はその時点で参議の末席に連なってはいたが、兼通と兼家は未だ議政官に昇っていなかったことから、その内容は、単に兼家の官位が兄兼通のそれを超えることがないように、という程度のものにすぎなかったと思われる。