藤原義懐は伊尹の3男で、道長の従兄(行成の叔父)です。摂関家(九条流)の嫡流でありながら、17歳のときに父が死去して後ろ盾がなくなったため、しばらく官位の昇進が停滞していましたが、永観2年(984年)に花山天皇が皇位に就くと、その外叔父として蔵人頭に抜擢され、翌年には参議を経て権中納言に昇進しました。

 

藤原惟成は雅材の子で、母は道長の生母時姫の姉妹。つまり、道長とは互いに母方の従兄弟同士ということになります。母が花山天皇の乳母であったことから、乳兄弟として側近となり、花山が皇位に就くと、五位蔵人、検非違使佐、権左中弁を兼ねて実務能力に優れた官人のみが就くことができる三事兼帯の栄誉に浴しました。

 

義懐と惟成は、花山天皇を補佐して荘園整理令、破銭法、沽買法等「花山新制」と称される新たな政策を推進し(惟成はその辣腕ぶりから「五位摂政」との異名をとった)、『大鏡』によると、世に「内劣りの外めでた」と評されたそうです(ただし、『大鏡』は、本来であれば皇統の嫡流であった花山天皇が排除されたこと(そして、本来は傍流であった一条天皇の系統が皇統を継ぐこと)を正当化するため殊更に花山をdisっていると考えられるため、真にこのような世評がなされたのかは不明)。しかしながら、まだ若く地位もさほど高くない義懐と惟成が政治を主導することに対しては公卿層の大半が反発し、ついには花山天皇が突如出家するという事態に至ります(寛和の変)。すると、義懐と惟成もこれに従って出家し、政界から身を引くこととなりました。

 

義懐の嫡男成房は、従四位上右権中将に昇ったものの、早くから出家遁世の願望が強く、一度は義懐や行成(従兄弟であり親友でもあった)の説得により思いとどまったのですが、ついには21歳で出家を遂げてしまいました。成房の弟の伊成は、従五位上左少将のときに能信から暴行陵虐を受けたことを恥辱としてこちらも出家しています。この二人はいずれも男子はなく、また、義懐のその他の子らも年少時に出家するなどしたため、彼の家系のその後は不明です。また、惟成の子も年少時に出家していて子孫はいないようです。