本記事は、2016年7月に投稿した記事の補訂版です。

 

藤原頼宗・能信・長家兄弟は道長の子ですが、母の源明子は道長の次妻であったため、嫡妻である源倫子所生の頼通・教通兄弟が摂政/関白に昇ったのに対し、頼宗は右大臣、能信と長家は権大納言に止まりました。頼宗と長家は異母兄頼通との協調路線を歩んだのに対し、能信は頼通に膝を屈することを潔しとせず、頼通との対立も敢えて辞さない言動を繰り返して父道長から睨まれることもあったそうです。それでも、後に後三条天皇となる尊仁親王の立太子を実現させたり、能信の養女茂子が白河天皇の生母となったりしたことから、能信の養子能長(頼宗の子)は後三条・白河両天皇に重用されて摂関家嫡流と対峙しました。能信の家系は断絶しましたが、頼宗と長家の家系は堂上家として存続しました。

 

頼宗の家系は中御門(室町時代に松木と改称)・坊門(さらに白川・高倉等)・持明院の各家に分かれます。このうち坊門系の各家は鎌倉時代から室町時代にいずれも断絶しました。持明院家の系統からは園・東園・壬生・高野・石野(いわの)・石山・六角の7家が分家します。松木家と持明院系の8家はいずれも家格は羽林家で、明治になって松木・園・壬生(初めは子爵)の各家が伯爵に、その他の6家は子爵に叙せられました。

 

長家の玄孫に歌人の藤原定家がいます。定家の嫡流は御子左家(二条家ともいう)と称し、冷泉家はその分家となります。御子左家は室町時代に断絶しますが、冷泉家は室町時代に上冷泉家と下冷泉家に分かれて存続し、上冷泉家からはさらに藤谷・入江の2家が分家しました。家格はいずれも羽林家で、明治になって上冷泉家が伯爵に、その他の3家が子爵に叙せられています。なお、加藤清正は長家の子忠家(定家の曽祖父)の子正家の子孫と称しています。しかし、この正家という人物は尊卑分脈に記載がなく、仮冒であると考えられます。清正というと武闘派のイメージが強いのですが、和歌の家に自己のルーツを求めているのは興味深いところです。意外と文への憧れがあったのかも知れません。