本記事は、2016年7月に投稿した記事に補訂と追記を加えたものです。

 

藤原道兼は兼家の三男で道長の同母兄です。寛和2年(986年)6月、父及び兄弟たちと謀って、寵妃藤原忯子を亡くして悲嘆に暮れていた花山天皇を騙して出家させ、兼家の外孫である一条天皇を皇位に就けるのに成功したというエピソードは有名ですが、史実であるかは疑わしいようです。それはともかく、天皇の外祖父たる地位を獲得した兼家は摂政(後に関白)となり、道兼も参議、権中納言を経て永延3年(989年)2月には早くも権大納言に累進します。

 

ところが、翌永祚2年(990年)5月に兼家が病により関白を辞職すると、その後任に任じられたのは兄道隆でした。兼家の摂政/関白就任実現の最大の功労者を自負していた道兼は当然自分が後任の関白となるものと思っていたため、この人事に不満で、同年7月に兼家が死去した後その喪中にもかかわらずどんちゃん騒ぎをしていたそうです(『大鏡』による)。

 

道隆政権の下では正暦2年(991年)9月に内大臣、同5年(994年)8月に右大臣に昇り、翌長徳元年(995年)4月10日に道隆が死去すると、同月27日その後任として念願の関白に就任します。ところがその時道兼は病に侵されていて、5月8日には死去してしまい、「七日関白」と称されました。

 

道兼の子兼隆は、道長の側近となって中納言に昇ったものの、その後は公卿を輩出することもなく、下級貴族として室町時代まで存続しました。なお、下野国の名族宇都宮氏は道兼の子孫と称していますが、確証はありません。

 

[追記]

大河ドラマ『光る君へ』では、主人公まひろの母を殺害するなど、「あんまりな」描かれ方をされている道兼ですが、『大鏡』では「非常に冷酷で人々から恐れられていた」、『栄花物語』では「顔色が悪く毛深く醜かった」と、こちらも散々です。しかしながら、『大鏡』にしろ『栄花物語』にしろ、いずれも後世に成立した説話なので、どこまで道兼の実像を伝えているかは定かではありません。なお、平安貴族は、死穢を極度に恐れて/嫌っていたので、道兼が自らの手で人を殺めるなどということは実際にはあり得ず、ドラマ上の演出であるとはいえ、やりすぎであり、首をかしげざるを得ないというのが正直な感想です。