本記事は、2016年7月に投稿した記事に補訂を加えたものです。

 

藤原顕光の嫡子重家は従四位下左少将となり、容姿が優れていたため「光少将」と称されたそうですが、25歳で官を辞し、親友の右中将源成信(藤原道長の第一夫人源倫子の甥(姉の子)で道長の猶子(父致平親王は兼家の再従弟)。こちらも美男子で「照る中将」と称されたとのこと)と相計って園城寺(三井寺)で出家してしまいます。左大臣(道長)の猶子と右大臣(顕光)の嫡子という前途有望な公達であるのみならず、若き宮廷女官たちの憧れの的でもあった二人のイケメン貴公子が揃って出家したことで、貴族社会は騒然となり、道長と顕光は慌てて三井寺に駆け付けたものの時すでに遅し、でした。とりわけ顕光は悲嘆にくれたそうです(無理もないな)。

 

重家が出家した理由は、後に「四納言」と称されることとなる能吏カルテット(藤原公任藤原斉信藤原行成源俊賢)が朝議の場で議論しているのを聴いて自分の非才に絶望したからだとされています(注)。なんともヘタレな話だな、フツー、己の至らなさを痛感したのなら逆に奮起して自分も負けないように努力しようと思うんじゃないの、と思ってしまう私は、いわゆるスポ根ものを見て育った「巨人大鵬卵焼き」世代のおっさんです(笑)。

 

当時は浄土思想の浸透により次第に貴族の間で出家遁世に憧れる風潮が強まり、特に若年層の中に厭世観を抱く者が多くなっていったという社会的背景があったそうで、重家と成信だけではなく、道長が第二夫人源明子との間に儲けた顕信も19歳で世を儚んで出家して両親を嘆かせています(もっとも、顕信の出家の理由は他にもあるようだが、本筋から離れるので省略)し、道長夫人倫子の兄弟である源時通と時叙も若くして出家して父の左大臣雅信を慨嘆させています。そうすると、重家の出家も単なる現実逃避と断ずるのではなく、そうした時代背景を考慮した上で評価すべきでしょう。

 

重家のその後の消息は不明です。また、彼の子致貞は従五位下因幡守という低い官位に終わり、その子孫は存否不明です。

 

(注)重家が出家したのは長保3年(1001年)2月だが、その時点で行成は未だ参議に任じられておらず(他の3人はいずれも参議であったが)、朝議に参加する資格がなかった。それゆえ、このよく知られたエピの真偽のほどは定かではないと言わざるを得ない。