本記事は、2016年3月に投稿した記事の補訂版です。

 

周知のとおり、織田信長は自ら平氏と称しており、織田家の系図も平資盛の子親真を祖としています。しかしながら、信長は若い頃藤原氏と称していたことがあります。彼が天文18年(1549年)11月に発した制札に「藤原朝臣信長」と署名したものがあるのです。信長以前に織田家が藤原氏を称していた文書は他にも存在することから、織田家の出自を藤原氏とする説もあります。そうすると、藤原信長というのは正しい名乗りなのかも知れませんが、真偽は不明です。

 

これに対し、平安時代の公卿に正真正銘の「藤原信長」という人物がいます。この人物は藤原教通の3男(つまり藤原道長の孫)で、母は藤原公任の娘という、サラブレッドです。二人の兄がいずれも教通より早逝したため、信長が事実上の嫡男となりました。

 

教通は治暦4年(1068年)4月に兄頼通から譲られて関白となり、翌延久元年(1069年)8月、兼任していた左大臣を辞任し、それに伴う人事異動により信長が内大臣に就任しました。ところで、教通が関白となったのは、父道長の遺命によるものでしたが、それによると、関白の地位は教通の一代限りで、その後は頼通の系統に返すこととされていました。この遺命に従い、頼通は関白の座を弟の教通に譲ったのですが、教通は、わが子信長に関白を継がせることを目論むようになります。頼通としては、自分の目が黒いうちにわが子師実を関白に就けておきたいと願い、教通に対し、関白の座を師実に渡すよう再三要請するのですが、教通はこれに応じようとしませんでした。これは人情としてやむを得ないところですが、そのため、兄弟の仲は険悪となりました。

 

頼通は延久6年(1074年)に亡くなりましたが、時の白河天皇が寵愛する中宮賢子は師実の養女であったこともあり、教通としても容易には信長に関白の座を譲ることができず、そのまま、翌承保2年(1075年)に亡くなります。結局、教通の後任の関白には師実が就任したのですが、信長はこれを不満として出仕しなくなりました。この信長のストライキにより人事が停滞したことから、承暦4年(1080年)、白河天皇と師実は、信長を太政大臣に祭り上げると共に、その地位を関白左大臣の師実よりも下座と定めます。この頃には、太政大臣は、会社でいえば代表権のない会長のような、実権のない名誉職となっていましたが、名目上はあくまで序列第1位でした。ところが、その名目上の序列すら否定されたわけです(師実の関白就任からこの人事を断行するまでに5年もの間が空いたのは、信長支持の(あるいは師実に批判的な)公卿が少なからず存在したため、その動向を慎重に見極める必要があったとの指摘がある。白河天皇の力を借りて自らの勢力固めをする師実に対する反感が根強くあったらしい)。

 

その後、信長は、事実上の隠退状態に追い込まれ、寛治2年(1088年)、従一位に叙せられたのを機に太政大臣を辞任し、同6年(1094年)に亡くなりました。

 

なお、信長の養女信子は、師実の嫡子師通の妻となりますが、これは両家の和解を図ったものです。ところが、二人の間には子供ができないまま、師通は早逝し、その後を継いだ忠実は師通が先妻全子との間に儲けた子でした。信子との結婚にあたり、師通は全子を離縁したため、全子は師通と信子を深く恨んでいました。そのためか、全子の子である忠実が師通の後継者として藤原氏を統率するようになると、信長の家系は全く振るわず、三位以上の公卿に昇った者を一人も出すことなく、歴史の中に埋もれてしまいました。