嘉承2年(1107年)7月、堀河天皇が崩御すると、わずか5歳の皇太子宗仁親王が皇位を継承します(鳥羽天皇)。幼帝の践祚に伴い摂政が置かれることとなり、順当にいけば堀河朝で関白を務めていた藤原忠実がそのまま横滑りすべきところ、鳥羽天皇の外伯父(鳥羽の生母藤原苡子の兄)である藤原公実が、当時まだ30歳だった忠実を侮って、忠実のような若輩者よりも新帝の外舅である自分の方が摂政に相応しいと主張しました。これに対し、当時の最高権力者であった白河院は、公実は鳥羽の擁立に少なからず尽力し、さらには自身の従兄弟でもあることからその主張を無下に斥けることもできず、大いに悩んだのですが、院近臣である源俊明が、公実の高祖父公季こそ太政大臣に昇ったものの、その後は実成(中納言)、公成(権中納言)、実季(大納言)と三代続けて「ヒラ公卿」にすぎず、そのような家の出である公実が摂政を望むなど、あり得ないとその主張を一蹴したことで、忠実が無事摂政に就任したとされています。
このように、鳥羽天皇誕生の際、藤原道長の子孫である御堂流は、藤原公季(道長の叔父)の子孫である閑院流に摂関の地位を奪われそうになるという危機を迎えたのですが、そもそも摂関の職は、原則として天皇の外戚のうち最近親者が代々務めてきたことに鑑みれば、公実の言い分は決して無理筋なものとはいえず(公実が鳥羽の外伯父であったのに対し、忠実は鳥羽の父堀河の義理の従兄にすぎなかった)、俊明の前記指摘のみでは、公実の摂政就任を否定する理由としては十分でないように思われます。
この点、新帝鳥羽は、当時反白河派の中心と目されていた輔仁親王(白河の異母弟)という自らの地位を脅かす存在に対抗する必要があったところ、公卿が公実(権大納言)とその弟仲実(当時権中納言)の2名しかいない閑院流では後見として頼りにならなかったため、白河院としては、輔仁に対抗して孫である鳥羽の皇位の権威づけと正当化を図るには「保守本流」である御堂流と組むことが最適解であったという政治情勢に加え、御堂流は道長以来代々摂関を務めることで、天皇の作法・教育を担い、その故実(=ノウハウ)を蓄積していた(さらに御堂流は、道長の祖父師輔に淵源する九条流の有職故実も継承していた)のに対し、閑院流にはそれがなかったこと、ただし、当時の御堂流の当主忠実は父師通と祖父師実を相次いで失くして若くして関白となったため、その儀式作法を十分に習得しておらず、また経験も乏しかったのであるが、白河院はそれを逆手に取って、儀式作法を伝授するとともに政務も指導して忠実を育成しつつ、内裏の外から彼をコントロールする(なお、忠実の正室源師子は、白河院が寵愛した中宮藤原賢子(堀河天皇生母)の妹で、白河院の後宮に入って覚法法親王を儲けるが、彼女に一目惚れした忠実の懇願により彼に「下げ渡された」とされ、忠実は「義兄」(二重の意味で)でもある白河院に頭が上がらなかった)という手法により鳥羽の後見に当たることを図ったこと(その背景には、当時上皇・法皇は内裏に入ることができないという不文律(これは平城上皇の政治介入によりいわゆる薬子の変が引き起こされたことを教訓として、譲位後は内裏に入らなかった嵯峨上皇以来踏襲されてきたもの)の存在があった)など様々な事情があり、家柄の問題というような単純なものではなかったようです。ともかく、この危機を乗り切った御堂流は、以後外戚という地位の有無とは関わりなく天皇の後見を請け負うことが家業となって、「摂関家」という地位を確立していくこととなりました。
これに対し、閑院流は摂関家になることはできなかった(因みに、公実は鳥羽天皇の皇位継承から4か月後に死去している)のですが、公実の娘璋子が鳥羽天皇の中宮となって崇徳・後白河の二人の天皇の生母となったことにより、次男実行と五男実能は天皇の外戚として累進し、それぞれ太政大臣と左大臣に昇りつめました。そして、実行の子孫は三条家、実能の子孫は徳大寺家を建て、この二家と、公実の三男通季(早逝したため権中納言にとどまった)の子孫が建てた西園寺家は、摂関家に次ぐ格式の清華家に列せられます(鎌倉時代に西園寺家から分家した今出川家(菊亭家ともいう)も清華家に列せられた)。さらに、鎌倉時代には、後嵯峨天皇以降、代々の天皇は西園寺家(その分家の洞院家を含む)から皇后(中宮)を迎えるのが例となり、同家は関東申次の職を事実上世襲したことと相俟って、摂関家を凌ぐ権勢を誇りました。
参考文献:樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館)