本記事は、2016年10月に投稿した記事の補訂版です。

 

藤原道雅は伊周の嫡男。和歌に優れ、百人一首第63番の「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな」でお馴染みですね。

 

長和4年(1015年)に左中将、翌長和5年(1016年)には蔵人頭(頭中将)となり、さらに従三位に叙せられて25歳の若さで公卿の仲間入りを果たします(但し、その代わりに蔵人頭を更迭されているのだが)。ところが、同年、三条上皇鍾愛の皇女当子内親王との密通が発覚して三条の逆鱗に触れ、勅勘を蒙ります。これにより、当子との仲を引き裂かれた(「今はただ~」の歌はこのとき当子に贈ったもの)のみならず、これが影響したのか、以後官位の昇進がストップしてしまいました。

 

このように、道雅は悲恋の主人公として知られていますが、その実彼は、しばしば乱闘事件を引き起こし、「荒三位」(あるいは「悪三位」)の異名を取ったほどの乱暴者でした。当時の貴族社会では、皇族や公卿がやくざの出入りさながらの乱闘事件を起こすことが珍しくなかったのですが、通常はその実行犯は従者であって、「親分」は指示を与えるだけなのに対し、道雅は自ら暴力を振るうことすらあったそうです。さらに、路上で取っ組み合いの喧嘩をするなど、相当気性が荒い人物だったようです(当子との仲を無理やり引き裂かれたことが原因で精神的に荒んでしまったのかもしれない)。

 

さらに、当時の貴族社会を震撼させた花山院皇女殺人事件において、逮捕された容疑者が道雅の命により皇女を殺害したという驚くべき自供を行い、これにはさすがの道長も「驚嘆」したそうです。この事件はその後「真犯人」を名乗る者が自首したのですが、最終的にどのような決着がつけられたのかは記録がなく不明とのことです。ただ、事件から1年ほど経った万寿3年(1026年)、道雅は突如花形ポストの左中将から閑職の右京権大夫に左遷されます(従三位はそのまま)。その理由は不明のようですが、事件との関連性が強く疑われるところです。

 

その後、寛徳2年(1045年)に左京大夫に転じた(形式的には昇進した)ものの、その地位に据え置かれたまま天喜2年(1054年)出家し、程なく世を去りました。

 

道雅には二人の男子がいましたが、いずれも仏門に入り、その家系は絶えています。ちなみに、彼の夫人は、紫式部の夫藤原宣孝が式部とは別の女性との間に儲けた娘です。父伊周の政敵である道長の人脈に連なる者(それも身分のあまり高くない)を妻に迎えたということからは、彼の微妙な立場を窺うことができるように思われます。