関係記事

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編13(韓国と北朝鮮の成立)‐

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編17(朝鮮戦争後の北朝鮮)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その1(1972年 第一章 1条~17条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その2(1972年 第二章 18条~34条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その3(1972年 第三章 35条~48条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その4(1972年 第四章 49条~72条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その5(1972年 第五章 73条~88条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その6(1972年 第六章 89条~99条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その7(1972年 第七章 100条~106条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その8(1972年 第八章 107条~114条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その9(1972年 第九章 115条~132条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その10(1972年 第十章 133条~146条)‐

 

‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む 最終回(1972年 第十一章 147条~149条)‐

 

 

 

『朝鮮民主主義人民共和国国旗』

 

http://freesozai.jp/itemList.php?category=nation_flag&page=ntf_128&type=sozai

 

 

〔政党・団体〕

 

朝鮮民主主義人民共和国憲法は、結社の自由を保障し、複数政党の存在を認めてきた。この規定は新しい社会主義憲法にもひき継がれている。

 

政党には朝鮮労働党、朝鮮民主党、天道教青友党の三つがあり、ほかに祖国統一民主主義戦線と呼ぶ政治団体(統一戦線)がある。

 

社会団体と呼ばれる諸団体には、勤労者団体(階層別大衆組織)とそれ以外のものとがある。

 

これらの政党、諸団体の多くは<大日本帝国>解放直後北朝鮮で結成され、その後、一九四九年から一九五〇年にかけて、対応する南朝鮮の政党、団体を吸収合併した。これは一九四八年の大韓民国樹立にともない、それまで南朝鮮にあった反李承晩系の政党、団体の幹部たちが北朝鮮へ移動したためである。

 

※<>は筆者註

 

時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 181頁より

 

 

・振り返る戦後史 政党・政治団体および結社

 

時事通信社の書物(1973年)から、北朝鮮には朝鮮労働党をはじめ、朝鮮民主党天道教青友党三つの政党があり、さらに社会団体と呼ばれる、ホワイトカラーやブルーカラー、その他含めた労働者の団体(勤労者団体・階層別大衆組織)ないし、それ以外のものが存在します。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編13(韓国と北朝鮮の成立)‐

 

同文の繰り返しになりますが、ここで再び歴史をみると、アメリカ軍政府と李承晩らは、単独であれ選挙という形式を踏んだことによって、政権樹立を急いだ。5月31日制憲国会が開催7月12日憲法承認7月20日李承晩が大統領に選出されて、アメリカ軍政から政権を移譲された8月15日大韓民国(以下韓国とも略す)樹立が宣言された。

 

解放後、朝鮮民衆の意思を一貫して無視し、弾圧し続けてきたアメリカの圧力の下で、南朝鮮地域だけの単独政府が正式に発足し、8月15日解放からちょうど3年、米ソ冷戦が激化するなかで、朝鮮はまたも「大国」による思惑、とりわけアメリカの手によって、国土の分断という民族の悲劇に直面させられた。

 

しかし大韓民国樹立をもって、南朝鮮民衆のたたかいが終わりを告げてしまったわけではなく、単独選挙反対運動は、韓国成立後ひきつづき残留していたアメリカ軍の撤退を要求する運動として継続され、済州島では本土での単独選挙実施後もパルチザン闘争が展開され、島民を鎮圧するために本土から派遣されようとした国防警備隊は、逆に麗水(ヨス)・順天(スンチョン)で反乱をおこし、その後、智異山(チリサン)一帯の山岳地帯に立てこもり、長期のパルチザン闘争を展開しました。

 

南朝鮮民衆のたたかいは、ソ連軍が年内撤退を表明(1948年9月19日)するに及んで、さらに盛り上がった。一方、ソ連軍の撤退によって、近い将来「軍隊の撤退」を約束せざる得なくなったアメリカは、南朝鮮を反共基地として確保するための整備に乗り出した。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編12(日韓軍事基地化と南朝鮮単独選挙の強行)‐

 

『国家安保法』の制定(1948年11月16日)による反政府活動の弾圧『南朝鮮労働党』(1946年11月、朝鮮共産党と親民党・人民党が合体して成立、委員長許憲)の国会内組織があった」とされる国会フラクション事件(1949年5月7日、アメリカ軍撤退要求を推進してきた若若水副議長をはじめ13名の若手国会議員が、「共和国に内通していた」として逮捕・投獄された事件だが、でっちあげ事件とみる人が多い)法院(裁判所)・警察・中央庁など各フラクション事件のでっちあげによる反李承晩勢力の一掃を、粛々と実行していきました。

 

これに続けて、これまで朝鮮統一と独立のため常に運動の先頭にたち、民衆の信望を集めていた金九の暗殺、繰り返されるパルチザンへの掃討作戦と、アメリカの軍事・李承晩政権による民衆弾圧は、より苛烈さを増していった。

 

結果的に、アメリカの反共軍事政策の下に成立した李承晩政権は、国内における「平和統一」勢力を徹底的に弾圧し、「北進統一」路線をこれに対置した。

 

一方北朝鮮では、1946年の道(ド)・市(シ)・郡(グン)の選挙翌年の面(ミョン)・里(リ)の選挙を経て北朝鮮人民会議が形成(1947年2月)され、金日成を委員長とする「北朝鮮人民委員会」が選出されていた。この人民委員会は、臨時人民委員会のおこなった民主的諸改革の成果のうえに、北朝鮮の経済・文化建設を発展させる任務をになうものでした。

 

それは三国外相会議にもとづく米ソ共同委員会の決裂アメリカによる朝鮮問題の国連付託など、朝鮮をめぐる国際情勢が次第に悪化し、東西冷戦が進行するなかで行われる建設であった。金日成委員長は北の「民主基地」建設に力を注いだ。

 

南朝鮮で単独政権樹立の動きが進行していた1948年、北朝鮮でもまた、これに対して共和国政府を樹立する準備が進んでいた。まず、1948年の2月7日、北朝鮮人民会議第四次会議に、朝鮮臨時憲法草案が提出され、広く討議に付された。そして南北連席会議において、全朝鮮代表者による南朝鮮単独選挙反対の意思を内外に表明したあとすぐ、北朝鮮では朝鮮民主主義人民共和国憲法草案が採択された(1948年4月29日/1972年12月27日以前の『旧憲法』)

 

この草案採択には、許憲・朴憲永など南北連席会議に参加したのち、北朝鮮にとどまった南朝鮮の代表者が出席していました。

 

さらに南朝鮮で李承晩らの単独選挙が実施されてしまった6月に入ると、南北朝鮮諸政党・社会団体指導者協議体がひらかれ、「南北朝鮮代表者によって朝鮮中央政府を樹立」することが決定された。

 

7月10日の北朝鮮人民会議第五次会議は、朝鮮民主主義人民共和国憲法実施と、全朝鮮の朝鮮最高人民会議選挙実施が決定し、1948年8月25日が選挙日と決められた。北朝鮮での選挙はともかく、すでに大韓民国が樹立されていた南朝鮮で、この選挙が実施されるのは極めて難しい状態でした。

 

弾圧とテロ支配の下にあった南朝鮮での直接選挙は不可能なため、間接選挙の方法がとられ、360名の代議員(北朝鮮は212名)が選出された。

 

このような大きな歴史過程の中で、北朝鮮における政治のベースが作られていきます。

 

 

<参考資料>

 

・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

ブログランキングに参加しております。

皆さまのご支援が頂けるとありがたいです

(下のバナーをクリック)

 

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村