「癒しの五語展」 ~ 展示というエンターテイメント ~
展示は、エンターテイメント乗り物だと思ったバイクに乗せてあげるよと言われ、五十CCのスクーターに乗るつもりできたら、ナナハンが置いてあったみたいな感じ五語は、わたしたち五人のネガティブワードだ四人の作家が四通りの方法で、よってたかって自分を癒してくれた 展示会をすると決まったときから、わたしたちは、癒されまくり* * *五語展が終わった。五語二十五の作品ができた。それ以上の作品も勢揃いした。こんな日が来るということは、わかっていた。確かすぎる予感で。何もできていなかったのに。マッシロだったのに。できあがったときの高揚感が、胸にあった。本当に、二か月前は何もなかったものな。でも、ぜったいできると思っていた。いったいいつからとりかかったのだっけ? 展示会開催に向けて、わたしたち五人は月に一度の全体ミーティングと、オンラインのメーリングリスト、オフラインの個別デートなどを適宜行っていた。要所要所で、総司令官の二段さんが「要」となって、綿密な「やることリスト」を作りあげてくれた。ぼよよ~んと、お気楽にしている私たちのオシリを、ビシバシ叩き上げてくれた。制作にあたっての「スケジュール」も、二回目のミーティングの場で二段さんに提出することになっていたので(宿題だった)、今となってはウソだらけの、「当初スケジュール」が手もとにある。それによると浜田は、「ブログで、読者からネガティブワードを募り(応募者多数の場合は抽選をして)、当たった人に作品をプレゼントするとともに、ボダイジュカフェにて展示する」という計画になっていて(笑)なんと、スケジュールの中に、「ブログ告知(募集)」「採用決定」などと書いてある。高ビーこのうえなし。本当に実施するつもりだったけれど、ふと魔がさして「言葉ではなく物語にしよう」「合わせて一つのストーリーにしよう!」などと思い至ったものだから、なんだかんだいって弱気になってしまった浜田は、五つ以上の言葉を扱う自信がなくなり、コトバの募集も展示も中止した。その名残が、五語展メイキングのオープニング記事となった「アンケート」だ。該当の文章を転載する。「イヤ(悲しい・つらい・みじめ・いたたまれないなど)な気持ちになる言葉を嬉しく元気になる言葉にチェンジするアート」をプレゼントされるとしたらどれがいいですか?」本当は、このあとに、「応募してくださった人のなかから、抽選で○名のかたに、アートをプレゼントします。さらに作品はボダイジュカフェにて展示いたします」と続いていたのだった(どひゃー)。きっぱり削除して、応募特典のなくなったアンケートに応えてくれる人などいなかったから(笑)、ポーズで終わってしまったけれど、もしもだれか回答をくれていたら、五語ではなくて、「六語の処方箋」になっていたかもしれない。「七語の処方箋」もアリだった。その心づもりはあったのだ(ほんまやな??)。六でも七でも八でも九でも大丈夫だ。どれだけ数が増えたとしても、その言葉たちのなかに、つながるものを見つけることは可能だし、さらに豊かな話になっただろうと思う(ほんまやなーっ??)。さらに。「ウソだらけのスケジュール」では「挿画」も描くことになっていた(爆)ずいぶん後に作った「ゲージ」や「スワッチ」と称した構成曼荼羅の中にも、挿画のイメージラフが書かれているので、けっこう最後までやる気だったことがわかる。やってみればよかったなあと思う。いやいや、そんな時間はどこにもなかったけれども(笑)まあ、だいたい、ざっと眺めて、二週間遅れくらい(笑) 「記録魔」浜田は、当初立てたスケジュールの横に、実際の進捗状況を記しているので一目瞭然。こんなの大好き!もしも……スケジュールどおりだったら、気づくことができただろうか? もっと早くに。* * *搬入のときだった。ボダイジュカフェに作品を展示していて、「え」と思ったのだ。座席を乗りこえるようにしてピンをとめたり、後ろにまわりこんでバランスを確認したりしていて「あ! お客さんが座っていたら、このあたりは見えなくなるんだ」と、気づいた自分。展示だけを観に入ってきてくれた、あまり時間のないお客さんは、フロアが満席の場合、まったく作品に近づけずにカフェを出なくてはいけないことを、はっきりと実感し、茫然とした自分。五語展コーナーはギャラリースペースになっているけれど、小さな作品ばかりだ。「作品をどう魅せるか」と同じくらい、「残った余白をどう魅せるか」に気をとられてしまった自分。字だらけのボードを、壁にとりつけながら、疲れていて、立っているだけでもしんどくて、こんなときに「長い文章なんか読めない」と思った自分。観に来てくださるかたは、荷物だって持っているだろう。遠くから歩いてきて疲れているだろう。時間もないだろう。自作を推敲するとき、部屋で椅子にすわって読んでいた。壁にとりつけられたボードを立ったままで五作通して読んだことなど、一度だってなかったのだ。* * *わたしは何をしたいのだろう? 誰に伝えたいのだろう? ここにはどんな人が来るのだろう?カフェ内で展示をするということがどういうことなのか?そのメリットデメリットについて考えた上で、展示作品を決めたのだろうか?そもそも展示とはなんだろう?だれに向けたものなのだろう?「ボダイジュカフェ」という場所が先に決まっていた。「ボダイジュカフェ」に、人が集う。展示を観る人も、観ない人も。「ボダイジュカフェ」という場所を思う存分に活かした展示だったのだろうか?「ボダイジュカフェ」以外の場所には、この展示はできない! そう言い切る気概が、果たしてあったのだろうか?あの五枚のボードを、そのまま公民館の展示スペースや、貸ギャラリーや、ビルの構内に出せるのだとしたら……。それは、もう、ちがうということじゃないか。* * *今回は、ほかの四人がいたことに甘えていて、作品のことしか考えていなかった。作品を創ること、完成することに、いっぱいになりすぎて、「展示」というエンターテイメントに、考えが至っていなかった。そんな重大なことに、搬入の日に気づくなんて。展示は、エンターテイメント。乗り物だと思った。バイクに乗せてあげるよと言われ、五十CCのスクーターに乗るつもりできたら、ナナハンが置いてあったみたいな感じ。すごいショックでへたりこみそうになった。翌日から展示なのに。* * *わたしたち五人は何を伝えたかったのだろう?創る作品も個性もバラバラなわたしたち五人が、なぜ結びついて、一緒に展示をしているのだろう? ゼロアーティストだからだ。ゼロってなに?初めて来た人は、どう思うだろう?「ゼロティブ思考」や、「ゼロアート」を、簡単な文章でわかってもらうのは難しい。講座を受けて、実際にワークを重ねても、いつでも無限自在に使えるというわけにはいかなかった。ネガティブまみれの言葉から、作品を生み出すまでの過程が「ゼロティブ」だ。それは、人によってちがう。やりかたも幾通りもある。* * *作る作品も個性もバラバラなわたしたちがつながっているのは、「ゼロアーティスト」という点においてだけなのだから、そのことを説明しなければ、来場者は何を軸に、どこに集中すればよいのか、わからなかったのではないだろうか?それでも、説明なしに作品を観てもらおうと、みんなで言えたのは、作品に、ゆるぎない自信があったからだ。それならば。「ゼロティブ」を説明することなく、作品を観てもらうのであれば、五語展のコーナーも、一人ずつの展示にしたほうがよかったのだろうか?あんとみさんらしさ。あんとみさんの世界。あんとみさんのゼロ。二段さんらしさ。二段さんの世界。二段さんのゼロ。きゃらめるさんらしさ。きゃらめるさんの世界。きゃらめるさんのゼロ。まきさんらしさ。まきさんの世界。まきさんのゼロ。浜田らしさ。浜田の世界。浜田のゼロ。五つの花の五つの花びら。どうだったのだろう?わからない。だって、わたしたちは栄えある「一期生」!吉井さんが「ゼロティブ」を伝授した初めての五人なのだ。* * *今回の展示では、「ゼロ」ということばは、「ゼロ丸くん」の名前に登場するだけだった。「ゼロ」ってなに?「ゼロアーティスト」ってなに?* * *どの作品も、説明なしで、素晴らしいものばかりだけど、それが導きだされた過程を聞いたら、お客さんは、もっと、作家の深いまなざしのやさしさや、あたたかさや、豊かさに胸打たれたと思う。いわば、作家にとっての企業秘密みたいな、その道すじを、展示会開催に向けてのミーティングのなかで聞けたことこそが、わたしの宝物だった。完成品を待つまでもなく、そのアプローチの言葉だけで、癒されてしまったのだ。その癒しがあったから、作品ができた。五語は、わたしたち五人のネガティブワードだ。考えてみてほしい。四人の作家が四通りの方法で、よってたかって自分を癒してくれたのだ。 自分でも創った。作品だってカルタだって。自分を癒しながら、人も癒すことができる。展示会をすると決まったときから、わたしたちは、癒されまくり(笑)* * *次に何か発表するとき。作品が先ならば、その作品が一番生きる場を探す。場が先に決まっているのなら、その場を活かした作品づくりをする。五人でやるなら、五人の軸を考える。五人の魅力を、存分に、最大限に生かしながら、さらに大きな花が咲きほこるように。* * *ゼロアーティスト養成講座を卒業したとき、残っていた課題は…(!!!)このまま一気にクライマックスに突入したいけれど、長くなったので、つづきは明日にします。浜田えみな