今、メリットのCMに幸福論が起用されている。といってもテレビを観てないので私が知ったのは割と最近で、しかもそれを知ったのはテレビでなくTwitterという(ツイ廃)。幸福論がまさかこんなに親心に合う歌だったなんて…と、話題になっているのを見て、林檎班としては誇らしい気持ち。こどもを持つ年齢になって、親として聞いたその歌詞の聴こえ方に驚いている人達はおそらく私と同じくらいの世代だろう。当時の初々しい彼女が歌う幸福論には決して母性など感じなかったし、ほぼ100パーセント恋愛の歌だと思っていたはず。勿論私もだ。ところが私もふしぎなことに、少しお先に気づいてしまっていたんである。しかも割と最近というのがミソである。示し合わせてもいないのに、同じ時期に他人とつながる無意識は、本当に不思議なものがあります。


上の記事で私は推しの話とあわせて幸福論について書いたけど、我が子へ対する想いと推しへの想いを同じ天秤にかけたら推しへの想いなんて笑われそう。上の記事の話だが、何も我が子ほど中田裕二を愛しているとかそういう話ではないのでまじで誤解しないで欲しい。私が言いたいのはシンプルに、幸福論という曲が惚れた腫れたの話ではなく、何かを強く愛おしむ歌だと気づいたということだ。愛おしむ対象は、子でも親でも動物でも本でも音楽でもいい。自分の好きな物が、気づきとか、教訓とか、出会いとか、思い出とか、ときめきとか、そういったものをくれるんだというシンプルなこと。そしてそれは自分にとって想像以上にかけがえのないものだということ。願わくばそれが一生そこに幸せなまま存在しつづけてほしいと思うこと。そしてそう思えることが私の何よりの幸せだということ。私には今大切な音楽と思い出がたくさんあります。










最近の私といえば、Xの民です。いわゆるツイ廃というやつ。とはいっても本物のツイ廃を前にしたならお前なんてまだまだだと言われるだろうけれど、事実として暇さえあればXを開いています。昔からテレビっ子だった私の情報源はもうテレビではない、ツィッターなのだ。情報を受け取りやすくしようとしたらアカウントが4つになってた。「このアカウントではこんな私」みたいに自然となっているのが、社会生活と同じですごい。少々ご無沙汰していたロキノン系をつぶやくためのアカウントに久々に戻ってみたところ、フォロワーさんがRIP SLYMEについて言及しているのを見つけてしばしフリーズした。………え?リップ復活すんの…???SixTONESを語るためのアカウントでは出てこなかった情報が出てきておののく。そしてすぐに検索する。あった!あったぞ!!




どなたかが共有してくれたそれは見慣れたステッパーズディライトのMVのイントロ部分。

(これはまさに擦り切れるほど観た当時のMV)



構成は同じ、だけどよく見ると、5人全員が年をとっている!つまりこれ最新のやつやないか!!!!!午後から家族とカフェに行く予定だったけれどちょっとそれどころではなくなった。私はこのRIP SLYMEの再始動の真相をつかみたい。ググる。検索しまくる。



3月24日15時現在、リップスライム再始動の正式発表はなかった。公式から既出なのは、今後のライブの出演の情報のみ。そしてこのフェスのアカウントが5人が再始動を発表したとフライング発表したようです(該当のポストは削除)これ真実ならフェス側なかなかやってしまった感あるけど、ファンとしてはあまり責めたくない……あまり落ち込むなよな……どっちにしてもファンは嬉しいんだから………もうホント………メンバーの笑顔で泣いたから…………



☆これは1年前の記事







かねてより「映画が苦手」を公言している私だが、気になっている作品ならイベント的感覚でたまに行く。どっちやねんとよく言われるが、単に面白いか分からない作品のためにこれから2時間拘束される、というプレッシャーがしんどいだけなのかもしれないと最近思う。とにかくこの映画には私を突き動かす要素が詰まっていた。まず、松たか子さんが好きだ。



坂元裕二さんの脚本には散々泣かされている。なんともいえない幸福感がある。最高の離婚もカルテットも好きだけど、人生で好きなドラマベスト3に入るのは大豆田とわ子だ。


そして私、何を隠そうスト担である。


つまりもう、観るしかないのである。



既に鑑賞済みのスト担の友人に感想をきいたところめちゃくちゃ泣いたと言っていたので、結末はハッピーエンドか?(悲しいの嫌い)と問えばネタバレを案じてか、ハッピーエンドでは…ないかも…いやどうでしょう…というなんとも微妙な返答だった。同じくスト担の別の友人に感想をきいたところ、既に4回は観ており初回は泣きすぎて記憶がないと言っていた。坂元裕二脚本なら十分有り得る話だ。これはバッドエンドかも知れん。私は大きめのハンドタオルを持参していった。結果として記憶が無くなるほど泣きはしなかったし、思ったよりハッピーエンドで大変安堵した。でもこれを友人はハッピーエンドと言わなかったわけで。様々な感想があると思う。



※以下ネタバレ



未来は変えられる。予告でもポスターでも印象的だったお松(※マシューズベストヒットTVでの愛称、これが好き)のセリフだ。お松演じるカンナが15年前に事故死した夫カケルを救うべく何度もタイムリープするという内容。結末を知らない私たちは、さて未来は変わるのか?という視点でカンナとカケルを見守ることになる。結論から言うと、未来は変わった。でも、カケルが死ぬ事実だけは変わらなかった。私はこのラブストーリーが伝えたいことはシンプルで、「今を生きよう」ということなんだと受け取った。




私は25の時に父を亡くした。父は満55歳だった。カンナが夫の死亡届を出したり、遺影のある部屋で日常を送る姿は、母の姿に重なった。私は夫がいるので夫との日常を振り返ることもできるが、どちらかといえば私の父と母のことを考えていた。私は父の人生をよく知らない。父はシャイだった。父とリビングでなんとなく一緒に晩酌をしたのは、社会人になってほんの数回だった。酔った父から、リストラされ無職だった期間に母にプロポーズした話を聞いた事がある。「アレ、よく俺と結婚したよね」と言っていた。他にも、初任給を母(私の祖母)に捨てられた話とか、昔事故にあった影響で左足の方が少し短いときいて、あぁだから歩き方が少しぎこちないのかとその時初めて知るなどした。だから私が知るのはほんのそれくらいで、父が生きてきた55年を私は知らない。カケルの遺影が映されるたびに、実家のリビングにある父の遺影が重なる。はたして、父は幸せだっただろうか。




私はこの映画をバッドエンドだと予想していたんだと思う。それは、人生は現実世界ではやり直すことが出来ないと知っているからである。ガンにさえならなければ、と悔やんでも父の時間を巻き戻すことは出来ないし、遺族は家族が死んだ事実をただ受け入れることしかできないのを知っているからだ。だから、最後に遺影の中のカケルの表情が変わったのを見た時、心底よかったと思えた。涙しながらほっとした。この映画はハッピーエンドだと思った。といいつつ、私がこの映画で最も泣けたのは実はラストシーンではない。カンナがカケルを救うための作戦を練るときに「私たちは結婚しない」という選択肢の存在に気づくところだ。出会わなければいいのだと赤い糸を切るシーンで、実は私の涙腺は崩壊していた。それでも全てを知ったカケルは、自分の死も覚悟したうえで、カンナと出会い結婚するのだ。夫婦ってべつに、100パーセント仲良しで幸せ満載な訳でもないと思う。たまには喧嘩もするだろうし苦難もあるだろう。そしてそれはそのまま人生のことだとも思う。楽しいばかりが人生ではない。それでも人は生きたいし、生きなければならない。死を意識して今を生きることは日常ではなかなか難儀だ。たとえば余命宣告されるときに初めて今生きることの有難みがわかる。この話、ファンタジーだけど描かれる人間心理はファンタジーではないから、どうにも心が揺さぶられてしまう。父は余命宣告された際何を思っただろうか。何を思って最期を迎えただろうか。私はやはり父のことを思っている。




タイムリープが題材のひときわファンタジーな、しかもラブストーリーなんだから、カケルを生存させるシナリオだってあっただろう。でもそうしなかったところがさすが坂元裕二だと思った。たしかに私たちは過去と今と未来のミルフィーユの中で生きている。でもこの映画みたいに過去に繋がるトンネルはない。私たちが生きているこの現実世界には、今しかないのだ。大丈夫、未来は変えられる、今を生きれば。この映画は、最後の最後で餃子の伏線が回収される。自分で頼んだ餃子は夫が頼んでくれてた餃子になる。きっと今回はうまく焼けるんだろう。これだから坂元裕二さんの作品が好きなんだと思った。そして主演以外も含め、キャスティングがこの上ない良さだったと思う。お松の演技と存在感はもちろん、松村北斗においてはこの人SixTONESやねんって言いふらしたいまである。











私よ、椿屋見るまでは絶対に風邪ひけないぞ、何があっても健康体で行くんだ、そして終わったらうまいビールを飲むんだからな、という気合いのもと先日無事に椿屋四重奏2025をこの目でとらえ、その夜は安心と興奮とでひとり中洲を飲み歩くなどした結果、しっかり風邪をひいた私ですこんばんは。終わってからひいたあたりマジほめてあげたい。ライブハウスにノーマスクで立ち入った私が悪いのだ。でも今年は風邪ひきすぎてさすがに年齢のこと考えざるを得ない。昔は私マスクなんて買ったこともなかったですから。かかりつけ医に、市販薬飲んでも効きが悪くてこれ慣れですかね?と問うたら歳ですねとアッサリ言われ笑った。私の中のペラック神話、崩壊しつつある。ちなみに副鼻腔炎になってた。ついでにいうとそのかかりつけ医にもらった薬はその時の私の体調に合わなかったらしく、夕食時ぶっ倒れ、手足がしびれた。あとから調べたらトルソー兆候というやつでぞっとした。



私は今それ以外にも通院をしているのだが、先日は仕事中どうしても抜け出して診療してもらわねばならぬ事案が発生して、上司に相談して急遽抜けさせてもらった。それを見ていた先輩(といっても年下)が今日になってやや神妙な面持ちで声をかけてくれて、私は突然のことに「?」だったのだが、言えないことなら全然いいすよ、と言われた時に全てを理解した。明らかに体調悪そうな私を案じてくれているのだ。副鼻腔炎です、と言ったら笑ってくれた。この人いい人だなぁと思った。こうして恋とか生まれるのだろうか。とか書くとこのご時世不適切なのかもしれんが、本当に恋するようならこんなところに書かない。先輩がこんな素敵なことを言ってくれて嬉しかったと日記に書こうと思った。私も誰かの日記に書いてもらえるようなことをしたい。








映画は苦手だ。明確な理由はわからないけどこれから2時間動けないというプレッシャーが嫌なのかもしれない。でも自宅で観るのもあまり好きではないからそれだけとも言えない。昔から映像はMVが限界と言い続けてるんだ。そんな私が朝早くからチャリに乗って観にいった映画がこれ。内容は割愛して、私の感想だけメモしたいと思う。



どうすればよかったか?という問いに対しての答えなら、ほぼみんなが同じことを答えると思う。「早く病院に連れていくべきだった。」発症後25年経過したのちにようやく治療ができたお姉さんの、3ヶ月投薬後の回復ぶりを見ればそう思う。でもこの質問、そんな単純なものではないと観終えた者ならわかる。この映画から伝わるのは「理屈ではわかっているのにそれができない」現代社会への問題提起だ。



統合失調症のお姉さんとその家族のドキュメントということで、事前に観た予告はそれだけで胸をえぐられるものがあった。これを101分も観ていられるだろうか?と観終わったあとの私のメンタルを心配した。本編開始早々響き渡るお姉さんの絶叫、そして要約すれば「殺したかったけどできないと思ったからカメラをまわすことにした」という弟(監督)のナレーション。不穏極まりないが、中身は予想に反して穏やかだった。ただ、これは私の感想であってみんながそうだというわけではない。吐き気がしたという人、思わず席を立ったという人も見かけた。アレ私はそんな気持ちにはならなかったワと空になったコーヒーとポップコーンのカップを捨て、余裕の心持ちで映画館を出たが、家に帰ってからも、夜が明けても、この映画の余韻がなんとなくずっとあるから参った。即効性なのか遅効性なのかはまさにその人次第だけど、誰にとっても喰らってしまう映画なのは間違いない。




そして完全に喰らってしまった私は後日パンフレットを買いに同じ映画館に走ったが既に完売と言われてしまい、どうすればよかったか?とひたすら検索し、沢山のレビューやブログを読みまくった。映画だけでは分からなかった情報も得られた。私が見る限り、ご自身の家庭(もしくは知人)を重ねている感想が多かった。そのような方からするとこの両親はたしかに毒でしかなかったと思うし、そのようなまとめが多くなされていたように見える。私はというと、特に親がエリートというわけでもない。単なる一般家庭で平々凡々に生きてきたため家族全員仲もよく、勉強を強いられたことも圧力を感じたこともない。友人にも病気の子はいたがここまで大変な状況の人はいなかったし、この映画に出てくる人物と重なることが何ひとつなかったんである。そんな私からすると、たしかにこの両親は娘のためといいながらプライドや世間体を気にした毒親のようにも見えるが、根底には愛があったんだろうなという感想になってしまう。お姉さんの葬式で棺桶に論文を入れ、最後のインタビューでもなお失敗したとは思わないと言い切る父親。それは根底に娘への愛があるからだと、私は思ってしまう。棺桶の中の娘に語りかけている父親の姿にうっかり涙してしまったのは、私が幸運にも親から紛うことなき愛情をもらっていたからなのかもしれない。でもやっぱり、愛なしでは、プライドだけでは、あんなに年老いてまでつきっきりで面倒を見れないと思う。両親も娘をなんとかしようと必死だったのだ。みんな同じことを思っているはずなのに、なぜだろう、それができなかった。私の脳はまたこの映画のタイトルを延々とつぶやくことになる。



難しいことは置いておいて、映画後半の少し元気になったころのお姉さんの姿が私の心に強く残っているから書きたい。カメラを向けられ、おどけてピースをする姿。長い緊張状態から少し解放された瞬間だった。ちょっとニッコリしてしまいました。まだまだ不安定で治ったとは言い難いけど、ふと見せる表情からきっと本来はこういうお茶目で明るい人だったのだろうなと思わされる。そして弟は、そんなお姉さんのことが本当に好きだったんだろうなと切なくなる。出かけた先でカメラやタブレットを構え、静かに、でも心なしか嬉しそうにシャッターを切るお姉さん。その日撮っていたのは花火。でもそれは花火大会の盛大な花火なんかではなくて、こどもたちが公園であげてる打ち上げ花火。そんな小さな花火に向かって、空を見上げて何度も何度もシャッターを切る。家にかけられていた南京錠のことを思い出す。お姉さんはやっといま、花火を見て綺麗だと思う日常を手にすることができたんだと。そんなシーンのあとのビートルズには泣けてしまいました。お姉さん、ビートルズ好きだったんだなぁ。




どうしてこうなってしまったのだろう。どうすればよかったのだろう。わからない、人の家族に口出せない、というのがもっともらしい感想だと思う。簡単に感想を言っていいものか、そんな気にもなる。でも監督はこれは失敗例だと断言している。監督のもはや行き場のなくなってしまった怒りや悔しさといったものを強く感じる。どうすればよかったか?せっかくこうして秀逸なタイトルにして、作品にして問うてくれてるので、こんな私でもちゃんと受け入れて考えてみたいと思っている。でもまだ答えは出ていない。