いまのしゅんかん -424ページ目

読みたいもの


雪の結晶
バイキングの歴史
エゴン・シーレ
自分を再評価すること

試験が終わって、読みたいと思っているもの。
いずれも英語の本なので、今までペンディングしていたけれど、英語の勉強のためにも是非読もうと思っている。

いずれも興味がある本ばかりなのだけれど、「雪の結晶」は、とにかく写真がすばらしく、つい一目ぼれして即買いしてしまったシロモノである。
内容ももちろん興味深い。
というのは、その雪の結晶成長のメカニズムこそ、わたしが研究したいという原動力の契機ともなったあるメカニズムに酷似しているからである。
そして、昨日パスしたばかりの専門授業の内容にも通じている。

温度差と、水の分子の濃度によって結晶の形が決まるそうだけれど、分子の挙動を想像するだけで面白い。

考えるのが愉しくて、研究したい!と思ったときには、まさか日本を出て、離婚もして、試験に苦しむハメになるとは想像だにしてなかったけれど。
というか、こんなにも深い世界だとは思わなかった。
やっぱり、世界を広げるって、困難を伴うもの。
でも、後悔はしていない。

コミュニケーションは成長のための必須事項

3つの試験、すなわち英語クラスと2つの専門授業、無事試験に合格した。
これで晴れて、ほとんどの単位を取得できた。
もっとも懸念していたことがクリアできたのだから、とびあがってもいいくらいのもの。

、、、が、今のわたしはちっともうれしいという感情がない。
いずれも一定の評価を得たものの、いずれも
「英語力をもっと磨かなくては。」
とのコメント。

そう。
今までも認識していたことではあるが、この試験を経て、語学能力が深刻な問題であることをより強く認識したからだ。
そして、その問題を解消するのに、決して平坦な道ではない、とても厳しい道であることを改めて認識したからだ。

英文を書くことに関しては、だいぶ改善できた。
しかし、いまだ会話は苦手である。
瞬時に相手の言うことを理解して、瞬時に自分の意見を述べる。
これがなかなか難しい。
書くときには考えることに充分時間を費やすことができるが、会話はその場で理解しなければならない。

それともうひとつ。
重大な問題は、「自信」である。
彼や友達と話すときにはかなりラクにコミュニケーションをとることができる。
それは、多少誤っても理解してくれるという信頼あってのことだと思う。
でも、ほかの人と話すときには、理解してもらえる自信がないためにいつも緊張してしまう。

だけど、どんなに自分の中で理解していたとしても、それを外側に伝えなければ意味がない。
お互いのもっているものを交換しながら互いに成長していくものだからだ。
科学者にとって、コミュニケーションは、必要不可欠のもの。
英語力と、コミュニケーション能力は、どこまでも要求されるものなのである。

わたしは、大学を出てからすぐに、ある民間会社に研究員として働き始めた。
研究そのものはけっこう面白かったが、仕事はつらくてしょうがなかった。
今思うと、わたしのコミュニケーション能力の乏しさが、その苦しさの根源だったと思う。
チームを組んでいるから常に誰かと協力しあいながら研究しなければならないし、自分の手に負えない仕事があるときには誰かに協力を請わなければならない。
特に知識も経験も乏しいわたしにとっては、自分ひとりでこなせることなど皆無であり、常に誰かの助けを必要としていたにもかかわらず、わたしはその度に多大なエネルギーを費やさなければならなかった。

今回の試験にしても、与えられた知識を自分の中で理解して消化することよりも、自分が理解していることを証明することにものすごくエネルギーを費やした。
自分の意見を英文にまとめたり、プレゼンテーションのスライドや原稿を作ったり。
理解していることを、自分のことばで表現することが、とてつもなく困難な作業だった。

だけど、コミュニケーションが、仕事だけでなく、人生の中でも重要なことだとわかっている。
今年になって友達ができてきて、いろんな人に自分の思いをはきだす機会が増えたのだが、その際人の意見を聞くことができたり、または共感しあったり、人と交わることで得るものはたくさんあった。
去年は、友達もあまりいなくて、そのことをあまりさみしいとも思わなかったけれど、今思うと一人よがりだったなぁと思う。
いくら意見をもっていても、それを省みるチャンスがなく、つい自分の中で思い込みだけが強くなってしまう。どこかにフィードバックにさせないと、事実を間違ったまま認識する可能性だって高い。

今回、実際には試験前に、
英語は彼と友達とディスカッションさせてもらい、
専門授業は担当教官と複数にわたってディスカッションさせてもらった。
彼らの意見に触れるたびに、ああそういう考え方、そういう事実もあるのだという新しい発見を見出すことができた。
そしてまた、彼らに自分の考えを表現しようと何度も試みることができた。
そして、表現することの難しさを改めて認識することができた。

来年から、指導教官と特例で週に一回ミーティングの場を設けてくれると約束をしていただいた。
多忙な方なのに、どれだけわたしの能力に懸念を示しているか。
ともかくありがたい処置である。

もっといろんな人と交わって成長したい。

だから、この試験結果で慢心したりせずに、英語能力はもちろんのこと、わたしの根源の問題、すなわち「自信のなさ」を克服すべく、人間として成長していけるよう努力していきたいと思う。

教育で大切なこと


この国の小学校の学習風景。
プロジェクトに取り組んでいるところ。

***************

指導教官の奥さんが日本に帰ることを勧めるのは、教育システムの違いによるところもある。
奥さんははっきりいって、この国のやり方にかなり懐疑的。
世界の国々の子供を対象に、計算能力、問題処理能力を国別で比較したところ、日本は上位3位くらいだったにもかかわらず、この国は下位3位ぐらいだったそうだ。
おまけに、18%もの子供が内容をほとんど理解できていないとのこと。
それに危機感を感じておられるのか、日本から某有名教育業者の学習ドリルを取り寄せ、4歳の息子さんに日本の文字を教え始めたそうだ。

わたしは逆に、日本のやり方に懐疑的。
確かに、計算や漢字を覚えるには、訓練が必要であることは認識しているが、そのかわり所定の答を求める以外の問題解決能力は育てられていないと考えているからだ。
それに、競争心をあおたてるような試験が多く、かえって本当の好奇心をそぐ結果になりはしないかと懸念している。

この国は、日本とは正反対の教育システムをとっており、15歳になるまで試験がないし、成績がつかない。
したがって、極めて勉強を怠る生徒も多数発生するというわけ。
しかも、もう取り返しのつかないほどの学力不足である。
本当に好奇心、興味のもつ子供だけが、どんどん発展していって、すばらしい学力をつけることができる。

確かに、これも問題だよなーと思う。
成績をつけることによって、生徒の勉強へのモチベーションを促すのもどうかと思うけれど、結果的に日本の場合はそれで高成績を収めているし、この国は逆にどん尻。
しかも、日本人は効率的ではないが、根はものすごく真面目だと思う。怠ることに罪の意識を覚えるほどではないだろうか。それも教育システムの成果なのかもしれない。

だけど。
これは本当に理想的な話であることを承知して言わせてもらえば、
わたしは、本当の好奇心を育てることが、重要だと思っている。
何かに取り組んでいくことによって得られる悦び。
そういう感性を育てることが、まず大切なことだと思う。

確かに、テストは一定の効果をあげると思う。
わたしも、今回の試験によって、ものすごく理解を深めることができた。
テストすることには何の異論もない。

ただ、やっぱりそこには、理解したい、難しくてもその先を知りたい、という原動力がないと、問題に対峙していくことはできないと思う。一見こなせるようで、好奇心なしではしょせん刹那的なテクを獲得できるにすぎない。

でもそれは、学齢期前の過程がものすごい重要であって。
自然への働きかけ、そこから得られる反応に対する感性。
それは小さいときに育まれるものだと思っている。

だから今は、コンピューターゲームやビデオなど一方的な情報流布の道具を極力使わず、主体的な働きかけができる、対話、実際の体験、運動の機会を与えるよう心がけている。
文字にしたって、結局表現したいと思うきもちが大事だと思うし。
たくさん読んだり話したり書いているうちに、語彙も増えるだろう。

そんなこんなで、先のことは考えず、今のこの時期を大切にしている。

身の丈にあった幸せ


「へぇ、、、お金がないのに、カメラ機能付きの携帯買ったんだ。そんなにカメラって必要なものなの?」

やっと、奥さんに6,000円する携帯を、クリスマスプレゼントとして贈ったことでケンカしたこともなりをひそめたと思いきや、、、

奥さんは、とりあえず、アパートを購入するまでの暫定住居を確保した。
だけど、家賃10万円で、しかも敷金が4か月分の家賃。
ケアに気を配れば返ってくるお金ではあるが、入居する際に50万円の資金を必要とする。それで、彼のお父さんにお金を借りるべく、借用状にサインするために彼のご両親の家まで来たのだった。
もちろん、子供に会う目的もあった。

そのとき、わたしも娘も泊まりにきていた。
それで、はしゃぎながら携帯で写真を写している彼女の姿を目撃したのだった。
そのあと彼と食器を洗っているとき、またもや怒りを爆発させたのだった。

この国は、日本と違って、まだカメラ付きどころか、折りたたみ式の携帯もポピュラーではない。
もちろん、値段も落ちてきているとはいえ、わたしはまだそのタイプのものを見たことがなかった。

いや、彼女がどのタイプの携帯をもとうが、わたしの知ったことではない。以前のものが使えなくなったのだから新しいのを買う必要があったのは知っている。
ただ、お金がないのにもかかわらず、ほとんどフリーで購入できる従来型のタイプではなく、カメラも付いている高機能タイプのものを、わざわざ彼にクリスマスプレゼントとして買ってもらったことに腹をたてたのだ。

***************

「わたしは、身の丈にあった生活をしたいのよね。」
指導教官の奥さんはそうおっしゃった。
わたしも、激しく同意である。

彼女は、限られた状況の中で、工夫をこらしながら生活に潤いを与えている。
さりげなく、手作りののれんがかかってあったり、フエルト製のクリスマスカレンダーがかかってあったり、庭に日本式池があったり。
窓のところにはかわいいキャンドルポットが並んでたり。
決して高級ではないけれど、そういう手作りのものや廉価な雑貨でなごやかな雰囲気を与えてくれる。
そういう奥さんのオリジナリティが、わたしは大好きである。

お金は雨のように降ってくるものではない。
それなりの対価分働いた結果である。
だからこそ、もっとお金に対して敬意を払うべきなのである。

彼の奥さんにしてみれば、今まで、足りなくなれば彼や彼のお父さんに無心して簡単にお金を得ることができただろう。
容易だからこそ、切り詰める必要もなく、欲求の働くまま生活してきたのだと思う。
そして。
彼にとっても、おそらく彼女と同じ感覚が働いていたのではないか?と思う。
いざとなればお父さんが助けてくれる。
その安心が、彼女の欲求を際限なく受け入れる結果につながったように思えてならない。

いくらお父さんがお金持ちで、快く資金援助してくれるとしても。

わたしは、お金に対して軽くみることが大キライである。

指導教官の奥さんは、日本式池を作るのに、2週間のイースター休暇をまるまるつぶしたそうである。
だけども、完成させたときの感慨はなんとも言い尽くせないほど大きなものだったそうだ。

わたしは、簡単に目的を果たせることによって、結果的に得られる感動は小さくなると考えている。
そして、さらに大きな満足感を得ようと、欲求がひたすら大きくなることを懸念している。

「6,000円なんてたいしたことがないよ。」
と彼が言った。
問題はそこではない。
わたしは、他人にあてにしてまで自分の欲求を満たそうとする、その根性が大嫌いだと言いたいのだ。
わたしは、自分の力で、自分の悦びを創り出したい。
自分の身の丈にあった幸せを創りたい。

洋服も満足に買えないし、高級なものを食べれるわけでもない。
でも、それなりに幸せ。

わたしは言った。
「わたしは、クリスマスプレゼントとして、あなたの時間が欲しい。」

外国に住むということ


娘が保育園で作ったアベンドクランツ
粘土に葉などをさして、ろうそくを立てたもの。

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ようやくクリスマスらしいこともぽつぽつとできるようになってきた。
さすがにクリスマス前とあって、人にお呼ばれしたり、ツアーがあったり、お茶会があったり。
人に会う機会が多い。
 
ここの国と縁ができた契機を作った人でもあり、大学でわたしの世話役もしてくれる人のお宅におじゃました。
彼の奥さんは、偶然日本人であるので、ここに来たばかりのときは、それこそ多大なお世話もしていただいた。
最近ご無沙汰していたのだが、今月娘の誕生日があるということで、ささやかなお祝いをしてくださると、ご招待してくださったのだった。
本来なら、わたしの方がアレンジするべきであるところを、本当にありがたいことである。

その奥さんに、離婚について告白した。
すると、
「今すぐサインはしない方がいいよ。プロジェクトが終わって、日本に帰ってからでも遅くはないから。」

奥さんは、日本に帰った方がいいとしきりに勧める方である。
10数年も住んでいるだけに、どれだけ外国に住み続けることが困難なことなのか、熟知しているからなのだろう。
ここの国の言葉ができないと、仕事も得られないどころか、当たり前のように享受できるはずの文化さえ乏しい生活になってしまう。
本や新聞が読めないし、テレビを理解することもできない。
衣食住を満たすことはできても、人間として生きている実感を得るのが、日本に住むよりもはるかに難しくなってしまう。
人とのコミュニケーションだって、やはり日本人に比べると理解しあうことが難しい。たとえ言語を習得したとしても、ことばのもつニュアンスを理解するのは、やはりバッググラウンドあってこそである。
日本語だって、ネイティブな日本人ですら、人それぞれ表現の仕方が異なる。それだけ言語というのは、深いのである。
だから奥さんは、どうせ日本では使わない英語に労力を費やすよりは、研究に特化して、それを日本で還元させるのが得策ではないか、という意見をもっておられるのだ。

彼に、こう言ってみた。
「わたしと話して充実する?こんなに貧しい英語能力だし、もっている文化も違うし。やっぱり、外国人同士が関係をもつのって難しいのかなぁ。」
すると、

「君と話すのはとても楽しいよ。それに、誰もが違う文化をもつことは自然じゃないかな。みんなそれぞれもっている文化を大切にすることは大事なことだと思う。だけど同時に、それを認め合うことも大切なんだと思う。」

彼は、この国のことをたくさん教えてくれる。
近所のいいところに連れていってくれたり、クリスマスにしても、ホットワインの作り方を教えてくれたり、一緒にクッキー作りもした。
アンデルセンの話をしたり、キルケゴールの話をしたり。
もちろん、最近のニュースについても教えてくれる。

同時に、日本のことにも興味をもってくれる。
わたしもいろんな話をしたし、いろんな日本料理を作った。漫画をみせて説明もした。
宗教の話をしたときに、病気を受け入れ病気と共に生きた三浦綾子の話をしたら、えらく神妙に聞き入っていた。

確かに、日本に比べると情報量も少ないし、享受できる文化も乏しいけれど、そういうやり取りが楽しい。
まぁ、先のことはわからないけれど。
あと1年ちょっともたてば、彼と一緒にやっていけるかどうか、判断できると思う。

子供のために


クラフトショップでみつけた、ガラス製のトナカイと天使
こういった、手作りものが好きである。

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彼の子供が、突然大泣きしたそうだ。

誰も、その息子さんの本当の心理はわかっていない。
ただ、今週から、彼と奥さんが実質的な別居生活になり、ときどき彼と奥さんが電話するのをみて、突然、離婚という事実を認識したからではないか?というのが、彼のお父さんの見解である。
別居する前から、母親が帰ってこなかったり、数ヶ月も母国に帰ったりというのはあった。
だけども、こんなに長いこと家には帰らずにおじいちゃんちに泊まりつづけ、しかも母親はここには来ない。
そんな状況から、母親と父親の関係性について、ある変化を察知したのかもしれない。

これは、彼の努力によるところが大きいのだが、奥さんにどんなに理不尽なことをされようとも、彼は一回も声を荒げたことがないそうである。
決して子供の前では、両親の不仲を見せなかった。
わたしも何度か、彼と奥さんが話しているのをみたけれど、ときどき笑っていたりするほど、いたって普通の夫婦の姿そのものであった。しょっちゅう、奥さんの悪口を言っているにもかかわらず、あれはなかなか不思議な光景だった。
確かに、あの様子だったら、まさか別れることになろうとは思わなかったのかもしれない。

かといって、、、彼とわたしが仲がいいこともわかっているし、わたしにもそれなりに懐いているので、それが微妙なところなのだけど、、、やっぱり、母親の存在は大きいのだろう。
ちなみに、最近の食生活がひどいので、保育園から病院に行くことを勧められたらしい。

それに対して、うちの娘は、わたしと夫が別れたことは認識しているし、受け入れてもいる。
あまりにも理解があるので恐ろしいほどだが、とりあえず今のところ問題らしいところはみられない。
娘は、夫のことを好きだったと思う。
でも、わたしほどには信頼はしていなかったようである。
夫の前では、わがままも言わず、きわめて聞き分けのいい、「いい子」だった。

そのかわり、わたしへの執着はスゴイ。
わたしの微妙な変化にも敏感に感じ取る。
どんなにいろんな人にかわいがられようとも、最終的にはわたしの存在が絶対。
わたしにだけは、なんとしても受け入れてもらっている。そんな信頼がある。
かなり頻繁にめちゃくちゃな要求をしてくる。
だからか、こっちの国で2人きりの生活が始まってからも、夫を恋しがることはなかった。

わたしは、「子供のために我慢する」というのはどうか、と思うタチだ。
常に正直に、真正面から立ち向かっていく。そういう姿を見せたいと思っている。
もちろん、これが正しいわけではないが。

わたしの母親もがまんして、仲のいい夫婦像をみせる努力をしていた。
でも、がまんしていることは、うすうす感じていたし、それがものすごい嫌だった。がまんしてわたしに八つ当たりするくらいなら、もっと本質的な問題に向き合って欲しいと思っていた。

わたしの好きな友達は、わたしよりも7歳も年下でありながら、しっかりしていて自分をもち、彼女が21歳のとき、6ヶ月の子供を連れてさくっと離婚して以来、愚痴もこぼさずに親の援助を受けることもなく、娘さんと2人一生懸命生きている。
娘さんは、きちんと自己主張もして、とても活発でいろんなことに挑戦もする、とてもすばらしい女の子である。5メートルくらいある竹棒を、するする登ったときは感動させられたものだ。

片親であっても、それに卑屈にならずに、ウソをつかず、一生懸命生きている姿を子供に見せることが大事なのではないか、と思ったのである。

もちろん、娘に対して何も懸念がないわけではない。
でも、問題が起きても、何が何でも娘の味方になる。
娘が6ヶ月のとき、絵を描きながらそう決意した、それだけは変えない。

違い

今日、日本人のお友達とお会いした。
彼女とは不思議とウマが合う。
何が大事なのかとか、感情の機微とか、共感しあえる感じ。
とても、楽しいひとときだった。

彼のことは、大好きだけれど、どうしてもわかりあえないなぁ、と思うことがある。

こないだの、奥さんへのクリスマスプレゼントでもめたときも、彼にとっては、なぜわたしがここまで怒るのか理解できなかったようだ。
それに、もはや変えることのできない過去をいつまでもうだうだと、非生産的なことにエネルギーを費やすことにもよしと思わなかったよう。

わたしからしてみたら、逆に、かなりの大金を奥さんにつぎこむまで、なぜ問題意識をもたなかったのか、実態はすでにないのに問題を先延ばしにして家族というものに執着したのかがわからない。
彼は、奥さんが出産を母国ですることを勝手に決めて、妊娠3ヶ月で母国に帰ってしまったり、出産後養育を拒否するなど問題が多発したため、ph.-D(博士課程)プロジェクトを断念し、国立研究所を退職している。以来、パートタイムでお父さんの事業を手伝っている。

日本人だから、ということでもないのかもしれない。
でも、わたしだったら、仕事や家庭の経済状況に支障をきたしてまでも、家族の問題を受け入れることはできないと思う。

悲しいかな。
自立できるように育てられて、実際に子供を得ても、親からはろくに援助を受けることもなく、わたし自身そういうことを求めてもこなかったし、できる限り自力で対応してきた。
夫にも期待せず、代わりに保育園や乳児園などの公的機関や、友達などの助けを得ながらここまでやってきた。
いや、夫にも参加してもらったけれど、「一緒に」というよりは、「助けてあげてる」。恩着せがましいので、むしろ友達に頼む方がラクだった。

だから、「家族」は、もはや必要ない、と思うようになってしまった。
社会的なつながりこそ、わたしには必要、と。
実際に、外の人と交わることで、学ぶことは多かった。

逆に彼は、ご両親の多大な援助によってここまでやってきている。
友達との助け合いはほとんどない。
だから彼は家族が必要だった。
たとえ、奥さんとのお互いに刺激を与えあうような会話や、一緒に育児に携わり成長しあう過程がなくとも、そして外でそういう場がなくとも、家族と一緒にいる時間さえあれば彼には満足だった。

まぁ、社会的なつながりを求めたがるのは、日本人だから、というのも多分にあるだろうし、家族というプライベートな枠組みに執着するのはこの国の典型的な特性でもある。だからこそ、離婚もさくっとしてしまうお国柄だ。

彼女とお話して、やっぱりわたしは安心してしまう。共感しあえることに。
そして、彼とこの違いをすりあわせていくことができるのか、覚悟を決めなければならない、と思った。

試験で得ること


この街の中心街。
市名に「王様の」がつくので、王冠のイルミネーション。

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とても重要な課目の試験をパスした。
とはいえ、足繁く教授のところに通い、さんざんディスカッションさせてもらって改善させた結果であるが。合格できたのは、わたしの力のおかげではない。
実際に、何度も練習したおかげで、本番はほとんど緊張しなかった。
本当、快く相談に乗ってくれた教授に感謝!である。

それにしても、この大学の試験のやり方は本当にすばらしいと思う。
自分で関連文献を選び、それについて得た知識を駆使しながら理論的に自分の見解を発表する。
この国では、小学校のときから口頭試験を重視するという。
この試験でも、「もっと英語の力を磨きなさい。人に伝えることで、より世界が広がるから。」と別の評定員にサジェスションされたように、ただ与えられた質問に答えるよりも、自分なりの見解を人に伝えるやり方の方が、得た知識を自分の中で構築しなおす必要があり、理解しなければ合格できない。それに対して、所定の答を書くだけでは、「覚える」だけという荒技でも通用してしまう。

それに、実際の文献を引用するとなると、複数の知識が結合したり交錯したりして、理論的に説明するのがより複雑になる。
ただ個々の知識について説明するよりも、得た知識を実践に回帰させる方が、より理解力が要求されると思うのである。

例えば、先月に提出した試験課題などは、自分の研究に関係する文献を10件ほどピックアップし、しかもじかに著者の方にお会いしてお話をうかがったりもした。
ただ授業で学んだ知識をなぞるだけでなく、実際自分のプロジェクトをこの授業の角度から理論的に考える作業を徹底的にこなした。そして、研究の方向性にも多いに影響を与えることとなった。
その得た知識を使って自分のテーマについて深く洞察するようになったのである。実際に何度も自分がした考察について、ただ教科書を省みるだけでなく、データベースなどもひっぱってきたり、わたしが得たデータなどからさんざん考え抜いた。

この試験のやり方は、評価するためのものではなく、実社会に還元していくため、ということが前提にしてあるように思う。
高校の英語の試験でたくさんの単語を覚えたが、だからといって英語で文章を書いたり、英語で話せるようになったわけではない。いくら試験をこなしても、何も得るものがなければ意味はないのである。

だけど同時に、「表現すること」の必要性、も痛感させられた。
知識は利用してナンボ。アウトプットできなければ意味がない。
来週に英語の試験があるけれど、合格しようがしまいがもっともっと英語の力を改善させなければならない、と思った。
いずれにしても、来年から別途、英語のレッスンを受ける心積もりをしている。

ユーレが我が家に


今日は、M(娘)と一緒に保育園から帰りました。
Mはぼくたちのために、ミルクがゆを作りたいと言ったけれど、Mのお母さんは作り方がわからなくて、なんとかレシピを手に入れてくれたんだよ。
それでぼくたちは一緒にミルクがゆを作ったんだ。
思ったよりも、お米がたけるのに時間がかかって、時々ふきこぼれるからずっと見張ってなければいけなかったんだ。
でも、食べるのが楽しみ。
Mが牛乳と砂糖とバターを入れて、最後にはシナモンでトッピング。
う~ん、いいにおい!
Mもごはんが好きなんだって。赤ちゃんのときからずっと食べているから。
だから、Mはいくらごはんで、ぼくたちはミルクがゆ。
Mが食べさせてくれたよ。
ごはんのあと、Mはひとつしかない部屋の中で、椅子とか箱を使って自分の部屋を作ったんだ。
その中で一緒に遊んだよ。
Mは上手にもてなしてくれて、レーズンをお花のように盛り付けして出してくれたんだ。
Bamse(くまのぬいぐるみ)の家にも招待されたんだ。そこで、BamseとKylling(ひよこのぬいぐるみ)に会ったよ。
今日も、いい一日だった。

おやすみなさい。

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保育園から預かった、ユーレのぬいぐるみ。
まさか試験前に、英作文の宿題が出るとは思わなかったわ。
ま、楽しかったけど。
 

「肥満問題」とクリスマス


この国に来てから、クリスマスが好きになった。

飾りつけを作ったり、プレゼントやカードを用意したり。
娘は、毎朝彼のお父さんからもらった小さなプレゼントを開けるのを楽しみにしている。
保育園では、「ユール」という、サンタクロースに似た小人のぬいぐるみを各家庭順番にまわして、親が添付のノートに、あたかも「ユール」が体験したことを日記として書くというのをやっている。
先週の週末は、ちょっと遠くまで古い蒸気機関車を乗りに行き、汽車の中で子供たちはプレゼントをもらい、グロッグというホットワインを飲みながら皆でクリスマスソングを歌った。
近くのショッピングセンターで、無料でクッキー製作の体験をした。

日本でのクリスマスよりも、もっと心あたたまるクリスマス。

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英語の試験課題で、「肥満の問題」についてエッセイを書いた。
3つのテーマから選択したのだが、ほとんどの学生が「肥満」を取り上げたそうだ。
何気に興味深いテーマ。

記事の中で、著者は、「肥満の問題」は個人の問題ではなく、環境の変化によるところが大きいのだから、政府がもっと「肥満」について問題意識をもち、税金対策等で対応するべきではないか、という主張をしている。

わたしも、著者の意見に同意している。
日本は、欧米に比べるとはるかに「肥満」の率は低いといえよう。
だけど、日本の「食生活」に関して問題意識をもっている。
いつでもどこでも「食」に関する欲求がかなえられる環境。
そういったお手軽感が逆に、「食」の浪費につながっているように思えてならない。
基本的な「食」において、味わうことも愉しむことも乏しくなり、食べ物を捨てることもいとわなくなり、逆に満足感を得るためにコストをかけて高級なものを味わおうとする。

わたし自身、日本にいるときは、そんな環境が当たり前で、こっちの国に来てから、お店の営業時間の短さと、食品の種類の少なさに失望したけれど、徐々にそんな環境にも慣れてきた。
デザートも手作りするようになったし。
それはそれで、自ら工夫しようというプロセスが楽しさに変わったのである。

彼は太っていて、
「肥満の問題」について議論したときに、「誰もが肥満をいいと思ってないよ。誰もが過剰消費はよくないと思っているし、誰もが健康のために運動することはいいと認識している。にもかかわらず現状の生活を変えられないのが、肥満の問題なんじゃないの?政府の力なんて限界あるよ。」

わたしも、生活というのは、環境によるところが大きいからこそ、いくら政府の力をもってしても変えることはほとんど不可能だと思う。
結局は、個人の感覚によるところが大きい。
限定された状況の中で、自ら愉しむことができるかどうか。運動だって、楽しくなければ続かない。

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はっきりいって、日本のクリスマスは嫌いです。
なぜかって考えると、、、、
こちらの意思おかまいなしに、半ば強制的にクリスマスの雰囲気を味あわせて購買意欲を刺激させようという、商業的な意図がみえみえだったのが不愉快だったのかもしれない。

こっちも、もちろん経済活性のねらいも介在している。
だけどもっと自分が参加しているという感覚が得られる。
その過程が楽しいのである。

「肥満の問題」、そのものよりも。
自ら働きかけなくても、何でも与えられる環境。
何も考えなくても何でも得られ、流されるばかりになり、自分から感じることに乏しくなることが、問題だと思っている。