違い | いまのしゅんかん

違い

今日、日本人のお友達とお会いした。
彼女とは不思議とウマが合う。
何が大事なのかとか、感情の機微とか、共感しあえる感じ。
とても、楽しいひとときだった。

彼のことは、大好きだけれど、どうしてもわかりあえないなぁ、と思うことがある。

こないだの、奥さんへのクリスマスプレゼントでもめたときも、彼にとっては、なぜわたしがここまで怒るのか理解できなかったようだ。
それに、もはや変えることのできない過去をいつまでもうだうだと、非生産的なことにエネルギーを費やすことにもよしと思わなかったよう。

わたしからしてみたら、逆に、かなりの大金を奥さんにつぎこむまで、なぜ問題意識をもたなかったのか、実態はすでにないのに問題を先延ばしにして家族というものに執着したのかがわからない。
彼は、奥さんが出産を母国ですることを勝手に決めて、妊娠3ヶ月で母国に帰ってしまったり、出産後養育を拒否するなど問題が多発したため、ph.-D(博士課程)プロジェクトを断念し、国立研究所を退職している。以来、パートタイムでお父さんの事業を手伝っている。

日本人だから、ということでもないのかもしれない。
でも、わたしだったら、仕事や家庭の経済状況に支障をきたしてまでも、家族の問題を受け入れることはできないと思う。

悲しいかな。
自立できるように育てられて、実際に子供を得ても、親からはろくに援助を受けることもなく、わたし自身そういうことを求めてもこなかったし、できる限り自力で対応してきた。
夫にも期待せず、代わりに保育園や乳児園などの公的機関や、友達などの助けを得ながらここまでやってきた。
いや、夫にも参加してもらったけれど、「一緒に」というよりは、「助けてあげてる」。恩着せがましいので、むしろ友達に頼む方がラクだった。

だから、「家族」は、もはや必要ない、と思うようになってしまった。
社会的なつながりこそ、わたしには必要、と。
実際に、外の人と交わることで、学ぶことは多かった。

逆に彼は、ご両親の多大な援助によってここまでやってきている。
友達との助け合いはほとんどない。
だから彼は家族が必要だった。
たとえ、奥さんとのお互いに刺激を与えあうような会話や、一緒に育児に携わり成長しあう過程がなくとも、そして外でそういう場がなくとも、家族と一緒にいる時間さえあれば彼には満足だった。

まぁ、社会的なつながりを求めたがるのは、日本人だから、というのも多分にあるだろうし、家族というプライベートな枠組みに執着するのはこの国の典型的な特性でもある。だからこそ、離婚もさくっとしてしまうお国柄だ。

彼女とお話して、やっぱりわたしは安心してしまう。共感しあえることに。
そして、彼とこの違いをすりあわせていくことができるのか、覚悟を決めなければならない、と思った。