きもちを満たしたい
お寿司作りに挑戦している図。
わたしと彼は、よく議論する。
何かきっかけにがあればすぐに議論。
大体テレビを観ていてネタになる場合もあるし、わたしの課題がきっかけになることもあるし。
かれこれ、、、
アメリカの肥満の問題
芸術作品の値段
社会的性差の問題
若い人の性の問題
などなど。
会えば必ず議論するから、ここには挙げ切れないほど多くのネタで議論している。
価値観は近いから、それほど極端に意見が食い違うこともないが、やはり育ったバッググラウンドと性が違うだけに考え方は異なっていて、それがまた刺激になって面白い。自分自身について振り返ることにもなるし。
でも、日曜日にした議論は、どうしてもすりあわせられない、彼との差異というものを痛感させられるものだった。だからといって、もちろん嫌いになるというわけではないのだが、やっぱり話し合うことで相手を本質的に知ることになるんだな~、と。
日曜日の夜のニュースにて。
ビタミン剤を摂取する習慣をもつグループが、摂取しないグループに比べ、ガンの罹患率が10%低減するというデータが、ある医療研究グループによって報告された、というニュース。
わたしは、彼が、習慣的ではないが、気が向いたときにビタミン剤を飲んでいるのを知っている。
が、わたしは言った。
「わたしはビタミン剤を飲むことは好きじゃない。」
案の定、過敏に反応した彼が、反論をまくしあげ、いつもになく激しい論争を繰り広げた、というわけ。
彼の意見の概要としては、
「ビタミン剤の効果はある程度認知されているのに、何故拒否するの?だって普通の薬と違って副作用もないんだよ。飲んだって害にならないじゃない。」
それに対してわたしの意見。
「効果があることも害がないことも知っているよ。だけど、その行為そのものが好きじゃないの。わたしにとって、食べることは愉しみであるから。ビタミン剤を飲むことで、「食べている感覚になる」ことが好きじゃないの。食べる行為その過程が重要だと思っているから。」
一応わたしのきもちはわかったのかな。
でも、ビタミン剤を飲むことなんて、取るに足らないこと。飲んでも飲まなくてもたいした違いはない。それなのに、ここまで飲まないことに固執することが理解できなかった様子。
わたしも固執していない。
どうしても飲まないと決めているわけではない。
実際のところ、偏頭痛や生理痛があれば鎮痛剤でごまかしているわけだし。よっぽど、この薬の方が害にあるに決まっている。
ただ、「栄養剤を飲む行為が好きじゃない」と言っただけ。
言ってしまえば、やっていることと言っていることに矛盾が生じること承知で、甘いものに依存したり、鎮痛剤を飲む行為も「好きじゃない」。
多分に、わたしの生まれ育った環境が影響しているのだと思う。
わたしの母は、それこそ薬好き、栄養剤好きで、それこそ小さいときからいろんな種類の「体にいいもの」をとらされ続けていた。一時は、高いのに、ネズミ講みたいなもので売っていた「体にいい食品」を購入していたし。
そのくせ、うちは貧乏で、なおかつ母親の料理の腕が散々たるもので、食事そのものは貧しかった。
しかも、食事時間が異様に遅い上に、父親の帰りが遅く、母親は決して子供と一緒に食べようとしなかった。
いつもわたし一人か、弟と二人のさびしい食卓。
その矛盾が大キライだった。
物理的に健康の条件を満たしていても、ちっとも楽しくない。つまらない「食事」。
だからこそ、食べることは物理的な要件を満たす目的ではなく、きもちを満たす行為、を追求したくなったのかもしれない。
娘が日本で通っていた保育園で、数々の野菜を育てていたのだが、毎日目をかけて世話してきた園児は、苦手だったトマトも食べられるようになったそうだ。
それが、究極の「食べること」なのではないか、と思ったのだ。
彼と、退院したばかりの彼のお母さんを喜ばせようと、お寿司を作ることを計画して、新鮮な魚を入手できる店が探し、友達から本を見せてもらってレシピを入手し、ネタを購入し、この土曜日に、彼のご両親宅で一緒にお寿司作りに挑戦した。
彼のみならず、わたしも初めての挑戦で、二人とも思い切り我流で、ネタはガタガタ、シャリもガタガタだったけど、とても楽しかった。
とてもおいしかった。
先週は、一緒に春巻きを作ったのだが、彼のめちゃくちゃな巻き方で揚げている最中に中味から水分が出てきて油がはじけるハプニングもあったけど、やっぱり楽しかったし、おいしかった。
こういうことが、「食べること」かなーと思うし、思いたい。
彼がよく言うセリフ。
「僕たちは、なんら特別なことしてないけど、それでも楽しいし充実しているよね。」
ま、そういうこと。
それにしても、彼の方が圧倒的に合理的なものの考え方なのだなーと、新鮮な驚き。
男性は概して、そういう傾向があるのかもしれないが。
もちろん、だからといって感情も豊かな人だという認識は変わらない。
わたしと彼は、よく議論する。
何かきっかけにがあればすぐに議論。
大体テレビを観ていてネタになる場合もあるし、わたしの課題がきっかけになることもあるし。
かれこれ、、、
アメリカの肥満の問題
芸術作品の値段
社会的性差の問題
若い人の性の問題
などなど。
会えば必ず議論するから、ここには挙げ切れないほど多くのネタで議論している。
価値観は近いから、それほど極端に意見が食い違うこともないが、やはり育ったバッググラウンドと性が違うだけに考え方は異なっていて、それがまた刺激になって面白い。自分自身について振り返ることにもなるし。
でも、日曜日にした議論は、どうしてもすりあわせられない、彼との差異というものを痛感させられるものだった。だからといって、もちろん嫌いになるというわけではないのだが、やっぱり話し合うことで相手を本質的に知ることになるんだな~、と。
日曜日の夜のニュースにて。
ビタミン剤を摂取する習慣をもつグループが、摂取しないグループに比べ、ガンの罹患率が10%低減するというデータが、ある医療研究グループによって報告された、というニュース。
わたしは、彼が、習慣的ではないが、気が向いたときにビタミン剤を飲んでいるのを知っている。
が、わたしは言った。
「わたしはビタミン剤を飲むことは好きじゃない。」
案の定、過敏に反応した彼が、反論をまくしあげ、いつもになく激しい論争を繰り広げた、というわけ。
彼の意見の概要としては、
「ビタミン剤の効果はある程度認知されているのに、何故拒否するの?だって普通の薬と違って副作用もないんだよ。飲んだって害にならないじゃない。」
それに対してわたしの意見。
「効果があることも害がないことも知っているよ。だけど、その行為そのものが好きじゃないの。わたしにとって、食べることは愉しみであるから。ビタミン剤を飲むことで、「食べている感覚になる」ことが好きじゃないの。食べる行為その過程が重要だと思っているから。」
一応わたしのきもちはわかったのかな。
でも、ビタミン剤を飲むことなんて、取るに足らないこと。飲んでも飲まなくてもたいした違いはない。それなのに、ここまで飲まないことに固執することが理解できなかった様子。
わたしも固執していない。
どうしても飲まないと決めているわけではない。
実際のところ、偏頭痛や生理痛があれば鎮痛剤でごまかしているわけだし。よっぽど、この薬の方が害にあるに決まっている。
ただ、「栄養剤を飲む行為が好きじゃない」と言っただけ。
言ってしまえば、やっていることと言っていることに矛盾が生じること承知で、甘いものに依存したり、鎮痛剤を飲む行為も「好きじゃない」。
多分に、わたしの生まれ育った環境が影響しているのだと思う。
わたしの母は、それこそ薬好き、栄養剤好きで、それこそ小さいときからいろんな種類の「体にいいもの」をとらされ続けていた。一時は、高いのに、ネズミ講みたいなもので売っていた「体にいい食品」を購入していたし。
そのくせ、うちは貧乏で、なおかつ母親の料理の腕が散々たるもので、食事そのものは貧しかった。
しかも、食事時間が異様に遅い上に、父親の帰りが遅く、母親は決して子供と一緒に食べようとしなかった。
いつもわたし一人か、弟と二人のさびしい食卓。
その矛盾が大キライだった。
物理的に健康の条件を満たしていても、ちっとも楽しくない。つまらない「食事」。
だからこそ、食べることは物理的な要件を満たす目的ではなく、きもちを満たす行為、を追求したくなったのかもしれない。
娘が日本で通っていた保育園で、数々の野菜を育てていたのだが、毎日目をかけて世話してきた園児は、苦手だったトマトも食べられるようになったそうだ。
それが、究極の「食べること」なのではないか、と思ったのだ。
彼と、退院したばかりの彼のお母さんを喜ばせようと、お寿司を作ることを計画して、新鮮な魚を入手できる店が探し、友達から本を見せてもらってレシピを入手し、ネタを購入し、この土曜日に、彼のご両親宅で一緒にお寿司作りに挑戦した。
彼のみならず、わたしも初めての挑戦で、二人とも思い切り我流で、ネタはガタガタ、シャリもガタガタだったけど、とても楽しかった。
とてもおいしかった。
先週は、一緒に春巻きを作ったのだが、彼のめちゃくちゃな巻き方で揚げている最中に中味から水分が出てきて油がはじけるハプニングもあったけど、やっぱり楽しかったし、おいしかった。
こういうことが、「食べること」かなーと思うし、思いたい。
彼がよく言うセリフ。
「僕たちは、なんら特別なことしてないけど、それでも楽しいし充実しているよね。」
ま、そういうこと。
それにしても、彼の方が圧倒的に合理的なものの考え方なのだなーと、新鮮な驚き。
男性は概して、そういう傾向があるのかもしれないが。
もちろん、だからといって感情も豊かな人だという認識は変わらない。
国民性の違い
この国に住み始めて間もない頃、孤独でなかなか研究も軌道にのらずに迷走していたとき、毎朝通るギャラリーにかかっていたこの絵に慰められていました。それでどうしても欲しくなってしまい、初めての育児手当金でこれを買ってしまいました。
今日は英語クラスの日。
前期もとっていたが、試験に落ちてしまったため、2度目の履修。
内容はほぼ同じだが、毎回ディスカッションやプレゼンが含まれて、話すテーマが違うから、2度目といえど刺激は大きい。
今日のプレゼンで、母国とこの国の違いについて話した人がいたのだが、思いのほか皆の意見交換が白熱。
このクラスは外国留学生が多いだけに、やはりそれぞれ自国との違いを感じながら生活しているんだな~、と改めて実感。
発表した人は、ヨーロッパの南の国出身の人で、典型的なラテンとこの国も属しているゲルマン系の違いについて話していたが、イギリス人である先生のコメントが印象的だった。
「こっちの人は、見知らぬ人には挨拶さえしないよね。それが自分にとっては驚きだった。そして、何人友達がいるかということを気にしているような気がする。誰にでも打ち明けるというよりは、限定された範囲の中で交流しているように思った。」
ちなみに、わたしの好きな彼も、最初は無愛想で挨拶ひとつしないような人だった。
はっきりいって印象はよくなかった。
子供を介して、急激に親しくなれたのだが。
わたしは、こっちの国民性は比較的好意的に受けとめている。
社会性に乏しい感はあるが、干渉されなくて気楽だし、かといって頼みごとしたり尋ねたりすることがあっても、拒否されることはなく、むしろ快く受け入れてもらえることが多いからだ。
でも、事あるごとに、誰かに
「友達はいる?どのくらいいる?」
と質問されるのは正直奇異な感をもっていた。
確かに、友達がいることにこしたことはないが、それほど気にされることなのかな~と。
まるで、生活の中でもっとも重要なポイントであるかのように。
でも、こっちでは、日本のように、歓迎パーティも送別会もない。
軽いランチの会ならあるが、同じデパートメントでも、長い時間交流をもつことはない。
飲み会なんてまったくないから、友達がいないと、仕事以外の場で誰かと交流をもつ機会もないことになり、ひどく味気ない生活ということになってしまうのだろう。
どうりで、彼が、わたしに対してかなり積極的にコンタクトとろうとしたのもうなづける。
彼は、恋人を欲していた以上に、深い交流をもてる相手を探していたのだと思う。
この国だから。
この国の人は、ひどくシャイなんだそうだ。
ものすごく親切なのに、人見知りがはげしいということ。
でも、わたしは、どちらかというと、そういう価値観の方が好きだ。
共感しあえるもの同士、深くつきあいたい。
同じ属性だからつるまなければならない、というのはツライ。
別に共感しあっているわけではないから、理解させるのが困難。挙句には互いの価値観を押し付けあうだけになってしまう。干渉とも受け取れるし。
本当の味方になるとは限らないし。
昨日、彼と離婚のことだけでなく、わたしが娘をモチーフにした絵を描いたときのきもち、
いいことも悪いことも、どんな局面でも受け入れる。どんなときでも娘の味方になる。
を話した。
彼は、わたしの描いた絵がみたい、と言った。
彼と話すときもちが通じ合っている感覚になって、なんともいえない幸福感にひたれる。
わたしも、そういう関係性を欲していたのかもしれない。
来週は、わたしが日本の国民性についてプレゼンする予定。
なぜ日本で社会性が求められるのか、その理由について話します。
恋愛コンプレックス
今年の6月に、娘のたっての希望で、補助輪なしの自転車を購入。降園後も、頻繁に近所の芝生のところで練習。彼と初めて会ったのは、その練習現場だった。今日、彼と話し合った。
彼は、今セパレート中で、すでに離婚同意書も自治体に提出しているにもかかわらず、今もなお奥さんのことでいろいろともめている。
端的にいえば、離婚するのに、奥さんの自立する意識と能力に乏しいことが、問題を引き起こしている。簡単にいえば経済的な問題。
この4年間、さんざん彼からそして彼のお父さんからお金をしぼりとったくせに、今週ある事件の件で弁護士に会ったとき、ついでに離婚に関する話を聞いたそうだ。それに自信を得たのか知らないが、提出した同意書を彼女側により有利に変更できる可能性を彼に示唆したとのこと。
奥さんが弁護士に会った日、珍しく早い時間に彼はわたしのところに電話してきたものの、あまりにも混乱している様子でわたしも彼の問題が理解できなかったのだが、そのあとも彼は一晩中眠れなかったという。
そして、今日、彼のお父さんと彼から詳細の説明をしてもらい、ようやく今置かれている彼の状況が把握できた次第。
わたしは、もどかしかった。
なぜ、彼が毎回毎回、彼女の要求を受け入れてきたのか。
なぜ、彼女と戦ってこなかったのか。
なぜ、まるで奴隷と主従のような関係を、改めようと努力しなかったのか。
今、何よりも大事なものを守るべく、彼女が家を出て、実質的にセパレートするまでは、多少の要求を受け入れようと決めている彼のきもちは理解できた。
だけど、なぜ、問題を感じた3年前から、取り組もうとしなかったのか、自尊心を守る努力をしてこなかったのか、もどかしかった。
そのイラだちを、彼にぶつけたら、
「関係がよくなる期待をしていた。だから、自分はその努力を常にしてきた。だって、彼女と別れたら、新しい恋人を得る自信もなかったから。でも、彼女の浮気が発覚して、関係がよくなることを期待することをやめた。」
なんで、こんなにも彼らの関係性にイライラするのか、すごくよくわかった。
わたしも、そうだったから。
わたしも、一人になることが怖かったから、夫との関係に問題を感じつつも、がまんして受け入れていたからだ。
それがつらくてつらくて。だって、そんな依存関係が、夫がわたしを軽くみることにつながったから。いつも人の話を聞かない。受け入れない。
でも、夫は、わたしに対してひどいことをしても、わたしが離れるなんて思ってもみてなかっただろう。
そんな余裕と自信が、わたしの尊厳をふみにじり、深く傷つけた。
彼の話を聞くと、そんなわたしの傷をよみがえらせる。
わたしの問題ではないのに、悔しくてしょうがなくて。
でも、悪いのは、夫なり、彼の奥さんではない。
きっと、
「ひとりになったらどうしよう。」という、
わたしたちがもつ不安が、そんな平等ではない関係にさせたのだと思う。
わたしは23歳まで、
彼は26歳まで、経験がなかった。
恋愛ができない。このコンプレックスって、案外とシリアスな問題だ。
恋人ができないことで、いや、自分の性的な部分を異性に受け入れてもらわないと、人間性まで否定されるような感覚になるのだから。
だから、ひとたび恋に落ちれば、それを失うことを極度に恐れるようになってしまう。
でも。今はもうわかっている。わたしたちは、ひとりなんだって、こと。そんな独立したひとりひとりとして存在しているから、そんなひとりひとりが互いに関係を結ぶことがこの上ないすばらしいことなんだって、こと。。
今、やっと始まりつつある
Up to me
これは、去年受けた講義の成績評価のために課されたレポートを提出したのち、先生に真っ黒になるほどコメントを埋め尽くされて返ってきたもの。
これ、実は5月に返ってきたもので、そのコメントを加味して修正したものを5月末に再度提出したものの、評価の時期が12月と決まっているためにずっとペンディングされていました。
でも、その間、別の授業をとったり、自分のプロジェクトを進める中、その修正原稿を再度チェック。
新たに獲得した知識や経験のおかげか、我ながら滅茶苦茶なことを書いていることに気がつき、再度修正。今月初めに再提出して、今、少しコメントがついた原稿が返ってきている。これを修正して、ようやく晴れて別の評定員のところに送付、成績評価とあいなる。
講義を受けたのは去年の9~11月。
本当は、12月半ばに、任意で関連論文を選んで、得た知識を駆使して先生とディスカッションするという口頭試験を受けなければならないのだが、英語を話すのが苦手なわたしは特例としてレポートでの評価となったわけ。
最初は評定期限となる1月半ばに提出したのだが、記述がシンプルすぎて本当に正しい知識を獲得しているか評価できないとリジェクトされ、2月末に大幅修正したレポートを再度提出。
その結果が、この写真というわけです。
かれこれ1年作業。
単にわたしのメモリーが足りなくて既存の理論にそぐわない記述が多かったのかもしれないが、毎回山ほどのコメントがついて、授業で習ったことを改めて深く考えさせられた。
日本で卒業した大学のときのように、インプットした数式や情報を何も変換せずにアウトプットするだけの小手先だけで通じた試験とは違い、本質的にその情報を理解することを要求される作業だった。
例えば、エントロピーなんてことばも、日本にいるときにすでに名前は知っていたけど、その中味について理解したのはこの授業でのこと。宇宙論にまで発展させて、とことん思考した。
いかに、わたしが今まで浅はかな思考をしていたのか、初めて認識させられた、いい機会であったと思う。
***************
先週、この国に在住されている日本人の女性と初めてお会いして、思いのほか話は盛り上がって充実したひとときを過ごしたのだが、その中で「旅行観」について語り合ったことが印象として残った。
彼女もわたしも、情報だけで与えられるような旅行よりも、自分自身の考えや感性を優先させた旅行をしたい、ということ。
ただ有名な観光名所やショッピング、人気のあるアクティビティをするよりは、できる限り地元の人と触れ合ってその場所の空気を感じたい。自分だけの感覚を愉しみたい。
そういう、「旅行観」だ。
そこでわたしは思ったのだが、旅行に限らず、文化にしろ、ものの価値観にしろ、日本人は情報に踊らされることが往々にしてあるのではなかろうか。
一たび何かが流行ると、猫も杓子もそれ一色。
本屋に行くと、毎回流行り物関連の本が10種類くらいずらっと羅列されているのには閉口する。
でも、そういうところが一般的な「日本人」なのだろうと思う。
わたしだってそうだったのだから。
わたしだって、情報を入手するだけで満足していたのだから。
入手した情報を、自分なりに味付けしようなんて、思ってもなかった。
入手した情報を、現実の生活の中でどうフィードバックさせようかなんて、考えたことなかった。
情報の、表面的なものをなぞっていただけ、だった。
それこそ、ひたすら所定の答えを導き出すことだけを重視された、日本の教育方針の弊害だと思うのだけど。
でも、この国にきて、いろんな人にあって、いろんなところをみつけて、旅行したときにはみえなかったものを発見できて、面白いな、と思った。
自分なりに考えて、人に意見をぶつけてみて、相手がそれに反応してくれて、また考えてみる。
そんなやりとりが愉しいな、と思えた。
自分の感覚で生きてみること、エキサイティングこの上ない。
彼女と時間たつのも忘れるほど、会話に夢中になってしまったのは、お互いに自分なりの感覚をもっていて、刺激を与え合ったからだと思う。
自分でイニチアティブとる方が、リスクはあるけど、愉しい。
これ共通の見解。
**************
レポート、また修正しなければならなくて苦しいけど、またこの過程がたのしい。
勉強が本当に愉しいと思えるようになったのも、この国に来てからかもしれない。
結婚と離婚
日本の皇室問題。
この国でも、ちょっとした話題になっています。
これは、5月のときに買った雑誌に掲載されていたものだけど、先週売っていた雑誌にも記事がありました。
この問題に関するコメントは差し控えますが、いろいろと考えさせられる問題であることは確か。
彼に、「この皇太子妃についてどう思う?」と聞かれ、つい自分のことにダブらせて感情的に意見を述べてしまった次第。
わたしの好きな彼は、来年3月に、両者の同意があれば離婚する予定。
この国の法律に従って、離婚の意志決定があって、それにまつわる諸条件(養育権、財産分与等)の同意が得られても、正式な離婚に至るには、所定期間待たなければならないのです。
離婚を決めたのは今年だけれど、1年目から波乱含みだったそうな。
しょっちゅう散財したり、一人で子供の養育ができなかったり。
わたしが思うに、彼の奥さんは、最初からこの結婚に納得していなかったのだと思う。
母親に説得されてしぶしぶ結婚を了承した結果、何においても、「彼がわたしをこんなに苦しめた」と彼を責めて、養育を放棄してパーティに行ったり散財するなどして現実から逃げていたのだと思う。
人として必然な責務まで放棄した奥さんを許せないきもちをもちながら、少し理解もできる。
わたしも、ごまかしていたから。
おかしいと思いながら、納得のいかないきもちをもちながらの結婚だったから。
日本にいるときは、声に出すかどうかはともかく、常に夫を責めていた。
育児がつらくなれば夫を責め、家事でてんてこまいになれば夫を責め。
今は完全一人でそれらをこなして状況的にはつらいはずなのに、日本にいるときほど苦になっていない。むしろ気楽。
やっと、男がいなくても一人でやっていけるという自信がついて、ラクになった。
かなり前から夫に対して愛情は完全喪失していたのに、経済的なこととか養育のこととかで決心つかなくて、ずっとごまかしていろんなことに逃げていたけど、やっと決意できたのはこの夏。
その矢先に、「彼」に会った。
「結婚」を了承してもらえたことによって、奥さんに多少は愛されていたと信じたかった彼だけれど、ようやく「最初から愛されていなかった」という事実を受け入れている模様。
愛情は、「結婚」とか「恋人関係」というカタチで確信できるものではない。
現実にある二人の関係性の中から見出されるもの。
だから、「結婚」していても、お互いに納得した関係性を持続する努力をしないと、簡単にこわれてしまう。
「永遠の愛」は約束されない。
今度こそ、自分のきもちを大切に。
先のことは何にもわからないけど、この瞬間瞬間をかみしめたいと思う。
enlightenment
まだ早いけど、クリスマスツリーと松ぼっくりのろうそく。
というか、去年購入して、かわいいのでそのまま放置していたら、いつのまにか1年たって2回目のクリスマスの時期がきたというべきか。
まだ11月中旬だけど、ここの国もクリスマスシーズンの様相を呈している。
日本も今頃からクリスマスらしくなっているかもしれないけど、ここはクリスマスの必然性がもっと切実。
11月から冬時間になって日が暮れるのがやけに早くなるし、天気も悪くて一日中暗い日が多い。もちろん、気温も低い。今週末は雪の予報。
だから、クリスマスの飾りつけでその鬱々とした気候の中、心を慰める必要がある。去年初めてクリスマスに救われましたわ。
クリスマスにはキャンドルが象徴的。
ロウソクに火をともすと、なんともいえないきもちになる。
この国は、ある意味進んだ国で、男女問わず皆自立している。子供をもつ女性ですら、就業率は100%に近い。
日本人からみると、皆はっきりしているしマイペースすぎるきらいがあるけれど、わたしはそれがちっとも嫌ではない。
自立しているからこそ、与え合う刺激も大きいから。
週末友達宅に行ったとき、友達が電子レンジを指さして、
「これね。わたしの初給料で買ったものなの。」と言った。
外国人である彼女は、もちろん結婚当初この国に来たばかりでことばもできないし、本国で取得した学位も認められないために仕事を得ることができず、専業主婦として新婚生活をスタートさせた。
けれども、ご主人の給料で、食料品などの必須物品は買えても、必須ではないが自分が欲しいと思うものは買えなかったという。
それで、老人ホームのヘルパーとしての職を得、その初給料で、「電子レンジ」を買ったとのこと。
これを聞いて、なんかじ~んときてしまった。
靴だの服だのではなく、「電子レンジ」。
今は、ここの国で教育も受け、わたしと同じ大学で働いているけれど、違う国で自分らしく生きるすべを見出すべく、よく努力してきたと思う。
実際、彼女は自分の意志に基づいてここまできたのだろう。感覚も独特で、ハっとさせられることが多い。
この国では、「enlightenment」に相当することばが重要なこと。
ひとりひとり違う灯りをともした人間同士が、互いに灯りをともしあい成長しあうこと。
このことばを象徴するロウソクが、わたしは好きである。
というか、去年購入して、かわいいのでそのまま放置していたら、いつのまにか1年たって2回目のクリスマスの時期がきたというべきか。
まだ11月中旬だけど、ここの国もクリスマスシーズンの様相を呈している。
日本も今頃からクリスマスらしくなっているかもしれないけど、ここはクリスマスの必然性がもっと切実。
11月から冬時間になって日が暮れるのがやけに早くなるし、天気も悪くて一日中暗い日が多い。もちろん、気温も低い。今週末は雪の予報。
だから、クリスマスの飾りつけでその鬱々とした気候の中、心を慰める必要がある。去年初めてクリスマスに救われましたわ。
クリスマスにはキャンドルが象徴的。
ロウソクに火をともすと、なんともいえないきもちになる。
この国は、ある意味進んだ国で、男女問わず皆自立している。子供をもつ女性ですら、就業率は100%に近い。
日本人からみると、皆はっきりしているしマイペースすぎるきらいがあるけれど、わたしはそれがちっとも嫌ではない。
自立しているからこそ、与え合う刺激も大きいから。
週末友達宅に行ったとき、友達が電子レンジを指さして、
「これね。わたしの初給料で買ったものなの。」と言った。
外国人である彼女は、もちろん結婚当初この国に来たばかりでことばもできないし、本国で取得した学位も認められないために仕事を得ることができず、専業主婦として新婚生活をスタートさせた。
けれども、ご主人の給料で、食料品などの必須物品は買えても、必須ではないが自分が欲しいと思うものは買えなかったという。
それで、老人ホームのヘルパーとしての職を得、その初給料で、「電子レンジ」を買ったとのこと。
これを聞いて、なんかじ~んときてしまった。
靴だの服だのではなく、「電子レンジ」。
今は、ここの国で教育も受け、わたしと同じ大学で働いているけれど、違う国で自分らしく生きるすべを見出すべく、よく努力してきたと思う。
実際、彼女は自分の意志に基づいてここまできたのだろう。感覚も独特で、ハっとさせられることが多い。
この国では、「enlightenment」に相当することばが重要なこと。
ひとりひとり違う灯りをともした人間同士が、互いに灯りをともしあい成長しあうこと。
このことばを象徴するロウソクが、わたしは好きである。
We can help each other
家から3kmほど離れたところ。
昔、この運河沿いにぽつぽつクラフトファクトリーが機能していて、陶器や金属の食器が生産されていたとのこと。
ここは紅葉が見事で、森の中を散策では思わず感嘆。
日本と違って、この国は人口も少ないし、静寂の中紅葉を堪能できる。
***************
友達宅でごはん。
子連れだけど。
わたしはひとりだけど、彼女は2人の子持ち。
今、ご主人は海外に2週間出張だから、その間彼女ひとりで、家事、育児、フルタイムの仕事もこなさなければならないから大変。
だから、ごはん作りに行くね、と提案して、日本のカレーライスを作ったのだけど、彼女も母国のスープを作ってくれていて、結局はわたしもごちそうになってしまった。
日本からもってきたルーを使ったカレーは無難なところだけど、ちくわみたいな魚のボールと大根入りのスープはおいしかった。
わたしは、彼女のことが大好き。
かわいいし、ユーモアあるし。
でも一番大きいのは、「人を受容する」ことのできるハートの持ち主だから。
自分の考えを決して押し付けない。
人のきもちを何よりも優先しようとする。
だからわたしが、英語が苦手だから、論文を書くのも課題をこなすのも人一倍かかるといえば、
「子供の面倒みてあげるよ。」
「英語はわたしの母国語だから課題やったらメール送って。添削してあげる。」
とすかさず言ってくれる。
わたしも助けることは好き。
この大学唯一の日本人だから、ってのもあるけど、
日本語の特許、論文の翻訳
日本製品の情報入手
通訳
というようなオファーもあって、協力する機会があるけど、楽しい。
それだけでなく。
好奇心とか興味だけでなく。
助けてあげたい。
今も、ある研究で相談しにきた人にアイデアを提案して
「興味があるから、そのアイデア是非トライしてみたい!」
と、キラキラした表情で言ってくれたとき、幸せ~と思った。
素敵な笑顔みれたから。
一番好きなひと。
今、困難な状況にあって、疲れ果てている。
助けてあげたい、と思う。
彼こそが、この国でさまよっていたわたしを、助けてくれたひとだから。