せきらら性教育

ほんとに、ティーンエイジって難しい、と思う今日この頃です。


このブログも、放置が進み、たまの更新では愚痴ばっかり(笑)。ブログタイトルを、せきらら育児愚痴にかえたほうがいいかもー、とか、思っちゃいます。


それでも、何かの参考になるかしらね?


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黄金のきまり

ここしばらく、だんなと息子の関係の修復をしていました。


問題ははっきりしている。


だんなが息子は自分の手を(ほとんど)離れたと認めること。また、子供に過剰の期待をしないようにすること。


だいたい、メトロノームを使って練習をするのが好きな子なんかいるもんか。


だいたい、親の言うことを、


「そうだね。それが正しいんだよね。」


って言って、一発で聞く子なんかいるもんか。


「わあ、注意してくれてありがとう」


なんて、感謝に満ちていう子がいるもんか。


わざわざ苦しいことをしたいと思う子がいるもんか。


部屋を整理整頓してないと勉強ができないのって、せっせと掃除をする子なんかいるもんか。


いたら、びっくりだよ(たまにいるんだ、それはでもここじゃない)。


そりゃ、いるかもしれない。そりゃあ、あんたはそうだったかもしれない。かつての秀才君。しかしね、君の息子は君の妻に似て、ぼんくらで整理整頓ができなくて、適当でお気楽な性格をしているんだよ。


ということを、かなりマイルドに薄めてゆっくりゆっくり、少しずつ、繰り返し、繰り返し、言い聞かせ・・・。


「誰が、一回言ったら、正しいことを言われてるんやから聞くべきやって、青年の主張しとったんや。ゴルァ」


って、襟首つかんでやりたいが、所詮小さな日本人女性のわたしが、でっかいだんなの襟首つかんだらぶら下がってしまいますわ。・・・というわけで、我慢に我慢を重ね、忍耐に忍耐をかさね。



黄金のきまり


1) 注意は短くはっきりと、一度だけ。
2) 相手が反抗してきても無視。
3) 期待するな。



細かく細かく言いたくなるのはわかる。説教たれたくなるのもわかる。が、それをしても、息子はどんどん機嫌が悪くなって、揚げ足を取るばかり。それで、反抗をしてきて、怒って、こちらをいらいらさせて、けんかになり、しなくてもいい言い訳を与えるばかりだ。それで、これらのことは期待をしすぎてるからおきるわけで。


幼児期の子供もそうなんだけど、わいわい反抗したり、わざと悪いことをするのは、基本的に親の注意を引くためであることが多いらしい。それで、親の注意を引き、自分のゲームに巻き込み、そういう形で親が注目してくれることを求める。一番いいのは無視すること。愛している、ということは、ほめるとか一緒に遊ぶとか別の形でしっかり示してやればいい。


(注意) もちろん、個々の子供によって違います。うちはそういうよくあるパターンだったということです。きちんと専門家に相談されることをお勧めします。


それで、黄金のきまりをだんなに守らせるように、努力中・・・。


おかげで、関係は大分改善されましたが。


が・・・。


息子に文句を言わない分、息子への文句を


わたしに言ってくるかい?!


「何で、あんなことができないんだろうねえ」
「いったい、どういう神経をしていたらこんな汚い部屋で生活できるんだ?」
「あんなの、ぜんぜんちゃんとやったうちに入らないじゃないか」
「また、洋服を床の上に落としてるよ、見てごらん」
「なんで、字がこんなに汚いんだろうねえ」


・・・。


子供に期待しないのは美徳だと思う今日この頃です。

あー、もー。だからいったじゃん!

またしても愚痴。


ほんとはねー、だんなにはっきりいってやりたいんだけど。彼を傷つけることが目的ではないので、こちらで愚痴らせてくださいませ。


こちら の記事で、だんなと息子の子離れ親離れが問題になっていることに触れた。


それで、それとまた、ほぼ同じことがこの週末に起きた。


ことは、だんなと息子の永遠の話題、


1) 部屋を片つける

2) 音楽をするときにメトロノームとつかう


の二つから起きた。


わたしははっきりいって、この二点に関しては


どーでもいい


と思っている。そりゃあ、家族で共有しているスペースであるところの、風呂場とか便所を汚く使われたらいやだ。でも、息子の部屋は息子の部屋であって、わたしには関係ない。


が、だんなは、それを放っておけない。


それで、今日も言い合いになった。


それもね、はっきりいってだんなが悪いと思う。彼が息子の部屋の掃除になぞ、手をかさなければいいのだ。それで、汚くなったら、自分できれいにするか、汚いまま住むか、どっちかで、それでいいじゃないかと思う。


わたしはそんなことには関心がない。関心を持って、干渉したってむだなことを知っているので、はじめから関心なんか持たない。


でも、だんなにはだんなのやり方があると思うので、ほうってあった。


「なんで床の上にものがあるの?」

「今使ってるから」

「でも、これからおとうが君の部屋に掃除機をかけてあげるんだから、床の上のものを拾いなさい」

↑この時点で問題があると思う。自分でさせればいいのだ。


息子はぶすーとして、床の上のものを拾い、その辺に適当に置く。


「なんで、そんなところにおくの?」

「あとでつかうから」

「鉛筆は鉛筆、おもちゃはおもちゃで別の棚に置けばいいでしょ?」

「知ってるよ!」

「知ってるんだったら、なんで、ここに鉛筆を置くの?」

「あとで直すよ!」

「じゃあ、今、はじめからおけばいいじゃない。簡単でしょ?」

「わかってるよ!」


・・・不毛すぎる。


と思っていたら、


「おとうに怒鳴り返すんじゃない!」


と、だんなが怒鳴りつけているではありませんか。


ますます不毛だ。


「どっかにいっちゃえ! 死んじゃえ!」


息子が怒鳴る。なんて、なんて、不毛なんだ。


結局、息子は自分の部屋にこもり、だんなはイライラをわたしにぶつけてくる。


「もう、部屋の方付けも、洗濯も、勉強も、音楽も、手伝ってあげない!」


そうしろ、とわたしはいいましたよ?


「だいたい、何度も、部屋を片つけろ、音楽のときにメトロノームを使えといっているのに、聞かないから・・・」


わたしも、あなたに何度も息子に過度の干渉をするなと言いましたよ?


しかし、わたしが言いたいことをいってもはじまらないので、


「そうするのがいいと思う。でも、それを息子に通告したかって、またけんかになるだけやから、なんも言わんとするのをやめるんやね」


「君はさ、信じられないくらい、彼に対して関心がないよね」

「ないよ」

ものすごく冷たい人間だね


いいですか、わたしは冷たくありません。この言葉に、わたしは今、ものすごく怒っています。わたしは自分の経験から、子供に過度の干渉をすることはよくない、子供に期待してはいけない、と思ったので、自分の思うところにしたがって育児をしてきただけです。そして、その事については、あなたに何度も話しましたね?


でも、ここで、それをいってもはじまらないので。


「うん。そう。すごいね、冷たいんだよ」


そう答えておきました。



**********************************

そして、冷たいわたしは、冷たく分析する。


だんなと息子を見ていて思うのは、


1) 子供というのはどんどん成長していって変っていく動物

2) 親というのは、なかなか変われない


ということ。


息子はどんどん成長していく。だんなは、はじめは彼のやり方でよかったかもしれない。でも、息子が変わっていくときに、だんなは自分のやり方をそれに合わせてかえることがなかなかできていない、ような気がする。


時間がたてば、成長をして、それとともに自分なりに変わっていける息子に対して、ある程度大人として自分の考えもやり方も出来上がっている親は不利な立場に立たされると思う。この年になって、子供とともに変わらないといけない、という、理不尽な立場に立たされると思う。


ことに、今まで彼の言うことをよく聞くいい子の息子だっただけに、彼は、いうことを聞かなくなってきた息子がなかなか受け入れられない。今までのやり方、それがうまくいっていればいっていただけ、それを今になって変えることはなかなか難しい。右ハンドルを左ハンドルに変えるようなものだ(若けりゃ、簡単に変えられると思うけどね)。この点については、だんなも合意。


もちろん、だんなが物事をする際にどうすれば成功するかよく知っているのは、わたしは知っている。だからこそ、彼の今いる地位があるわけ。だから、自分の息子にも自分がやってきたやり方を教えて、成功をさせれやりたいのは、わかる。


そして、今まで、小さかったときに、それを教えることの大事さもわかる。


でも、今、少しずつ、親離れを始めている彼に対して、何時までも自分のやり方をしろと要求するのはいかがなものか。息子が自分のやり方やしたいことを見つけ始めている今、第二次反抗期も始まっている今、ああしろ、こうしろと言っても、絶対にいうことなんか聞かないって。むだだって。


それどころか、自分が疲れて、精神衰弱するだけやん?


息子がどうするつもりかは知らない。でも、それでも大丈夫かもしれない。だめかもしれない。大丈夫ならそれでいいし、だめなら、そのうち取り返しがつくでしょう。


「それは、僕にもわかってる。だから、もう、部屋に掃除機もかけてあげないし、音楽も見てあげないし、洗濯もしてあげないし、いろんなことでがたがた言わない。父親は辞める」


じゃあ、そうしてください。


そう、冷たく言ってみる。



ほんとは、


あー、もー、だからいったやろ! 口出しすんなって! ほっとけって! お前がアホで、いうこときかへんさかい、細かいことで、がったがった、がったがった、言いまくるさかい、息子が切れるんやん!


この、どあほ!


って、思いっきりいいたい。


そんでね、だんなは、自分に向って、息子が、死んじゃえ、とか、どっかにいっちゃえ、とかいったことが信じられないというわけです。


そんなの、誰だって、頭にきて親に言うよねえ?


しかし、ひどいことを言われた、と、怒りで体を震わせているだんなに、誰でも言うよ、とかいうと、事態の悪化を招くのはわかっている。だから、


「まあ、そういってもかまへんと思うくらい、親似たいして自信あるんとちゃうの? 幸せで、ええやん」


とか言ってなだめてさー。


あー、つかれた!



妖精はいるのかな?

息子は、サンタクロースの存在を疑いつつも、なんとなく信じている。


いると証明できないこと


は、


いないことの証明にはならない


と気がついたらしい。


えらい。


それで、歯が抜けると、歯の妖精(ツゥース・フェアリィ)が来るかなー、どうかなー、と思っているようだ。が、先日、いきなり言った。


「もうさ、歯の妖精は歯を取りに来てくれないから、おとうかおかあがお金くれる?」


歯の妖精は子供の乳歯を取りに来て、代わりにお金を置いていく。


「辛抱強く、歯の妖精が来るの待ったらええやん」

「こないもん」

「そのうち来るって。最近な、妖精の世界もなかなか不況らしくてな、かなりの妖精が首になったらしいで」

「・・・」

「そやから、なかなか歯を取りにこれへんみたいやねん」

「・・・うそだもん」

「なんでやねん?」

「歯の妖精なんかいないのしってるもん」


お、ついに言ったな。


「あーあ。妖精がいいひんって言ったから、お前さんのとこに来る妖精は死んでしもたわ。もう来いひんわ」

「うそだもん」

「なんでわかるねん」

「この前歯が抜けたときに来たのはおとうだったもん」

「それが、妖精や」

「違うもん。妖精は小さいかわいい女の子だもん!」

「あ・・・お前・・・アホやな。妖精のほとんどはおとうみたいなおっさんや。」

「そんなのやだー」


息子が嫌がります。そして、だんなも

「そんなのやだー。妖精は、ティンカーベルみたいに、かわいい女の子で、きれいな羽があって、ミニスカートはいて・・・」


はい、ここで、教育的指導、入ります。


「君たちねえ。君たち、ディズニーとかに毒されすぎや」


いったい誰が妖精はかわいらしい女の子やっていったんや? それこそ、ほんまに妖精を見た人がおるんかいな?


だいたい、ああいうイメージは男の人が、


「妖精はかわいい女の子がええなあ、どへヘ・・・」


とかいいながら作ったもんや。そんで、女の子はみんな妖精みたいにかわいらしくしてて、男の子に媚売って・・・みたいなイメージを作るんや。それで、小学校やら幼稚園やらの芝居では、男の子が冒険する役をして、女の子はかわいらしい妖精の役をして・・・。


それで、それがそのまま、女の子はかわいらしいもの、ミニスカートはいて、みたいなイメージ作って、男の子は・・・って言う、思い込みを作るんや。


そんなんおかしいやん。


女の子はかわいくないとあかんのか? 妖精みたいにかわいくないと女の子やないんか?


なんで、三匹のヤギがらがらどんで一番大きいヤギは女の子やったらあかんの?


妖精におっさんがおってもええやん。


神様が年食ったじじいやなくてもええやん。


「じゃあ、おかあは、おとうみたいなおっさんの妖精が来たらうれしい?」

「・・・うーん・・・そやなあ・・・」


わたしは、妖精なんだったら、


やっぱり、色っぽい50歳くらいのハスキーボイスの大人の女の人が・・・(をい)。





***********************************


追記:

ちなみに、妖精がかわいい女の子で、天使がかわいい男の子、というのは19世紀くらいに定着をしたイメージのようです。それ以前のものを見ると、天使はけっこう大人のおっさんっぽい人がいたり、妖精もじいさんがいたりしますね。

 

もちろん、注意深くみていると、型にはまったイメージではない妖精や女の子も常に出てきます。


バベット・コールはわたしの好きな絵本作家です。彼女の絵本に出てくる女の子たちはちょっとずれていて、ユーモアがあってわたしは好きです。彼女の本の中で


Princess Smartypants


という本があります。これ、だいすき。女の子は結婚せんでも、怪物とかと楽しく生活できるねんって言う話。


そういえば、ディズニーのムーランも、そういう意味では冒険する女の子の話だったけど。結局は結婚して女の子に戻って幸せになるあたりが・・・うーん。やっぱり、結婚かよって思っちゃいます。


それと同じで池波正太郎の「剣客商売」に出てくる女の人(名前忘れた)も、かっこいいんだけど、結局は結婚するしねー。それで、女装に戻るし。


不思議なことに、女の子は美人でおしとやかでなくてもいい、という話は多いんだけど、なぜか、「そうでなくてもいい」ということの証明に、


幸せな結婚をしました。


という結論になるのは何ででしょうね。結婚だけが幸せのゴールかい?


そうそう、同じ、バベット・コールの本で


Hair in Funny Places


は、けっこうお気に入り。第二次性徴がはじまる直前の子供に読ませる性教育の本です。明るくて、前向きで。息子が10歳くらいのときに買い与えたんだけど、すごく真剣に読んでいて、しばらくいろんな友達が出入りをしてはみんなで読んでいました。

ぜんぜん自信なし・・・とほほ

今日は、ちょっと、ぐちぐちとながいかも。しかも、自分を正当化しようとしてるしさ・・・。ほんとは、自分のしたことに自信がないんですね。たぶん、こうすべきだ、と、理論的に考えてみたんだけど。理論と実践はいつでもずれずれだしね。だから、ちょっと自分を正当化したい・・・。それで、もし、ご意見を聞かせていただけると、ほんとにうれしいです。


小さいころのしつけよりも、多様な対応が求められて、独立心を持たせなきゃいけない10代の子供のほうが扱いってずっとずっと難しい・・・。教師として接するのは面白かったけど。やっぱり、人の子だから、突き放して、冷静にみれたからかな。


しかも、ほんとに、放置主義の生みっぱなしで、子供に興味なし、な人だから。


ひとりで育ってくれよな、オイ。・・・なんて思います。




わたしは基本的には親が子供に押し付けることができるのは名前だけで、あとは期待しないことくらいしかできない、と思っていると以前に書いた。やる気がない子供に対して、勉強しろって言っても、あれしろって言っても、無理だろう・・・と思っている。


本人がやる気がないとね。


それで、そのやる気を育てるのは親の責任かもしれないけど。


そうすることで、過干渉になったり、実際にはやる気を育てるんじゃなくて、やらせていることがほとんどになるんじゃないか・・・と思っている。


小さいころは、いいかもしれない。


でも、息子はいま、12歳。


難しいところだ。


何よりも。


やる気を育てる、といいつつ、実は、自分に都合のいい「よい子」になれと言っている場合が多いような気もして。


わたしは、自分の経験から、もし、本気で学ぶ気があるんだったら、英語でも23歳から学んでも遅くないことをしっている。大学に入りなおすことだって可能なことをしっている。


取り返しのつかないこと、というのはないような気がする。もちろん、取り返すために時間がものすごくかかることもあるだろうけど。麻薬中毒とかね。それとか、冤罪の犠牲になるとかね。


だから、息子をほうってあるんだけど。


実は、息子はいま、初めてのどん底を経験している。いままでは、たいていなんでもうまくいってたし、うまくいきそうにないと、周囲(ことに父親)が出てきて、助けてくれていた。宿題ができないときでも、ピアノがうまくできないときでも。


が、そうそう、いつまでも親が責任を取り続けることはできない。


ガールフレンドにはふられる。

ピアノではバッハのプレリュードがまったくできない。

フルートは音楽コンクールの予選で落ちる。


どん底である。


だんなは、かわいそうだから、と言って、一生懸命に慰めたり、ピアノを教えたりしている。それに対して、息子は反発するばかり。それに反するやり方を押し付けてくる父親に反抗することで、自分のやり方に正当性が出てくるといわんばかり。


基本的には、わたしはわたしの息子との付き合い方があるし、だんなにはだんなのやり方があると思う。でも、やっぱり。


このままでは、息子は自分で何をしたいのか分からないままなんじゃないか、と思った。だから、だんなに息子をほうっておくように、と通告した。


「でも、このままだと、ピアノもフルートもできなくなるよ?」

「そんなんかまへんやん。できひんようになったかって。それでもしたいんやったら、自分でなんとかするやろ」

「でも、ちゃんとできないじゃん」

「悪いけど、今かって、ちゃんとできてへんやん?」

「・・・」

「自分で何がしたいのか、どうしたらええのか、きちんと考えさせてあげなあかんと思うよ。うまいこといかへんかったら、かわいそうやけど、しゃあないやん。それで泣いたかって、しょうがないやん」


という会話のあと、息子にだんなが言った。


「おかあが、おとうはもう、君にいろいろ口出しするなって言うから、もう、何も言わないから、自分でしなさい」


・・・あ、きさまー。人のせいにしやがったなー。


と、思ったんだけど、たぶんね、だんなにとっても、この子離れはきついかもしれん。わたしのように、生みっぱなしで、子供に興味なし!な人に比べたら。赤ちゃんのときから、ずっとずっと大事に大事に腕の中に抱えるようにして育ててたんだもんね。


真面目な話、わたしは息子をほとんど抱いたことがない。それくらい、だんなは息子を愛して、息子もだんながだいすき。


まあ、だから、なかなかね、難しいよな。・・・と理解を示し、だんなには文句を言うのをやめておいた。


「あのな、自分で何がしたいのか、わかってへんかったら何にもできひんよ」

「うん・・・」

「そんでな、できひんのは自分のせいやろ。やり方かってわかってるはずや。そやけどそれをしてへんのも自分やん。自信を持つのはええよ。そやけど、練習とか勉強もセントできるって思うのと、きちんと練習やら勉強やらをしたら出来るようになるって思うのでは、違うやろ?」

「・・・」

「おとうが、せい、ゆうたからとか、もう、そういうのなし。自分でわかってるんやったら、自分でし。そんで、できひんのは自分のせいやって、きちんと認め」


・・・と、ここまできて、息子は、


「じゃあ、音楽なんかもうしない!」


と、叫ぶと、だだだだだ・・・と走って、自分の部屋にこもったのでした。そして、聞こえてくる泣き声。大泣きであります。だんなはとめる閑もなく、息子の部屋のまえに行き、扉をたたき、


「ここを開けなさい。大丈夫なの?」


・・・ほうっておけよー。泣かせろよー。自分で考えさせろよー。


「でも、音楽をやめさせるわけにはいかない」


かまへんやん、やめたかって。どっちにしても、一流の音楽家なんかにはなれへんやん。



まあね、だんなにもわかってると思うんですよね。自分でもいってたから。やり方がわかってるのに、それを自分が息子にさせようとするから、反発して、できずにいて。それで、自分ができないからじゃなくて、父親が押し付けてくるのがいけない、ってほかに責任を転嫁するほうがらくだから・・・反発するんだよねって。


わかっているなら、話は早い。


息子は自分で部屋から出てくるまで放っておこうと思う。


せいぜい、とってもいいにおいがする料理をたくさんして、腹をすかせて、おめおめと部屋から出てくるのを待とうと思う。




傷口に塩はもみこまないでください。

バレンタインでーのとき、わたしが留守をしていたせいかもしれない。


わたしが、バレンタインデーに家にいて、しっかりとサポートをしていれば、事態はこんなことにはならなかったかもしれない。


「いや、君がいたら、最悪を通り越してたね」

「おかあがいなかったから、立ち直れたんだよ」


・・・。


家族の信頼がうれしいなあ(怒)。



日本から帰ってきて、ちょっと息子の様子がおかしいことに気がつきました。なんとなく沈んでいる。ふむ。フルートで参加することになっている音楽祭が近くなっていて、それの練習がきついせいかな?


「バレンタインデーはどうやった?」


ときいても、


「うん・・・」


くらいしか、いわない息子。すると、だんなが袖を引く。


「ちょっとちょっと・・・」

「なんどすか?」

「なんかねー、様子がおかしいんだよねー。プールにも行かなくなっちゃったしー。バレンタインデーにも何にももらってなかったんだよねー」

「なになに?」

「それでさー、ほれ、例のイヤリング 、あげたの?って聞いても、曖昧な答えしか帰ってこなくってさー。それで、ジョーンは何にも言わなかったようなんだよね・・・」

「お礼もかい?」

「うーん・・・よくわかんないけど」

「最近の若いもんは、ものをもらうのが当たり前やと思ってて、礼もよう言われへんのやな。あかんなあ」

「うーん・・・そうなのかなあ」

「ちゃうかもしれんなあ・・・」

「かわいそうだよねぇ」

「ま、ええんちゃうか?」


とうような会話があった数日後。


息子の部屋の散らかり具合にだんなの堪忍袋の緒が切れました。こういうときには、わたしはこっそりと自分の部屋に避難をします。なぜなら


わたしの部屋も同じくらいに散らかっているので(汗)。


それで、遠くに二人の会話を聞いていると


「これ、なに。このイヤリング、これどうしたの?」

「・・・し、しらない」

「ジョーンにあげたんじゃないの?」

「あ・・・あげたよー。あげたー」

「じゃあ、なんで、イヤリングがあるの?」

「し・・・しらない。だ、誰かが、わ、忘れて・・・いった・・・ん・・・じゃ・・・」

「じゃあ、友達に電話して聞く?」


・・・だんなよー。


察してやれよー。


しょうがないので、


「ダンナ、ダンナ。ちょいと話がごさんす」


と、だんなのすそを引く。


論点を整理すると


1) このイヤリングは断じて盗んだものではなく、あの例のイヤリングに違いない。

2) それがあるということは、あげることができなかったに違いない。

3) あげられなかったことがいえないから、曖昧にごまかしていたに違いない。

4) ばれたら困るから、隠していたに違いない。


「それを見つけてな、なんでこれがあるねん、ってきかれても、答えられへんやん」

「で、でもー。隠してたし、ごまかしたし」

「だから、それは、いえへんからやん」

「むぅ・・・」

「そやのに、そんなに迫ったら、傷口に塩を塗り込んでるみたいもんやん」

「・・・」


翌朝。


朝ごはんが終わったときにさり気なーく聞いてみました。











































「なあ、

ジョーンには

ふられたんか?」

↑ぜんぜんさりげなくないって。思いっきりいきなり核心にせまっとるし。




息子は、照れたようにうなづいて、


「でも大丈夫。もう立ち直ったよ」


と、けなげに笑っておりました。


後ほど、だんなに報告すると、


「あー、なんてかわいそうなんだー。ふられちゃったのかー」

「まあ、そんなもんやって。本人は立ち直ったっていってるんやし、ええやん」

「冷たいねー、君はー。かわいそうだよ。うちの息子の何がいけないのかききたいー」


・・・冷たいってか?

傷口に塩を塗りこんどったんはお前ちゃうんか?


と、ちょっとキレかけたりしたわたしでした(笑)。お前もふったろかー、とか言って。


そして、だんな。


「ねえねえ、何があったか聞きたくない?」


・・・聞きたい。


が、今回は好奇心を黙らせました。やっぱりね、仁義ってものがあらぁ。


ま、とりあえず。失恋をして、大人への階段をまたひとつ、息子は登ったんだわ♪


失恋を乗り越えて、むすこよー、おおきくおなりー。


そして、息子の初恋を応援してくださっていた皆様、ありがとうございました。

語るに落ちるとはこのことか

放置に放置が進んでいます。申し訳ありませぬ。でも、これからも、ぼちぼち更新していきたいと思いますので、見捨てないでくださいませ。


さて、うちのバカ息子はピアノとフルートをしています。わたしは、まあ、適当でいいんじゃないの?って感じなんですが(万事適当御気楽小人閑居中です)、だんなは違う。


奴は、真面目だ。


だから、息子のピアノとフルートにも真剣に取り組んでいます。本人よりもかなり真剣(笑)。まあ、それもね、いいんじゃないかと思っています。


わたしは、親が子供に押し付けるのは名前だけで、あとはあんまり期待しないことが親が子供にしてやれることかな、と思っています(・・・要するに、放置主義。笑)。


だんなは、反対。できると信じてあげて、それを最大限に引き出したいと考えています。最大限に能力を発揮するための協力は惜しみません。


すごい、えらいと思う。


でも、わたしのやり方じゃない(と、えらそうに言ってみる・笑)。


そして、だんなが現在、息子に何とかさせようとしていることが、ピアノやフルートのときの指の形です。


楽器を演奏するとき、基本的に指は丸く曲がっています。そのほうが力が入りやすいし、正確に動かしやすい(少なくとも、フルートとピアノとハープはそうだな。自分の経験からみると)。


しかし、息子は指を伸ばしています。それを丸くさせようと、だんなは過去5年ほど努力を続けています。なんて根気のある人でしょう。


そして、ある夜。


子供向けの科学番組を見たあとで、息子が


「マッチ棒を一本ちょうだい」


といってきた。


「お前、放火でもする気か」

「そんなことしないよー。実験したいの」

「放火のか?」

「・・・おかあ・・・」


この段階で息子はわたしを無視します。親って切ないよね(って、悪いのはわたしか・笑)。


父親からマッチ棒をもらって、人差し指と薬指を下にして、中指を上にして、その3本でマッチ棒を挟み込むようにして持ちます。


「折れないんだよねー、マッチ棒が」


やってみると、たしかに折れない。


「そやけど、こうやったら折れるでぇ」


と、わたしがやって見せると、


「あー、だめー。指を曲げちゃだめー」


指はまっすぐ伸ばさないといけないらしい。それで、指を伸ばしてしてみると、たしかに折れにくい(わたしは折れなかった)。でも、指を曲げると、簡単にマッチ棒を折ることができる。


「指を曲げるとさ、簡単に力が入るし、動かしたい方向に簡単に動かせるでしょー。まっすぐなままで折れるかどうかが大事な実験なの」


と、息子。


それを聞いていただんな、


「ね、だから、ピアノでもフルートでも指を曲げないとだめなんだよ」

「さ、実験終了」


息子は、だんなを無視して自分の部屋へと引き上げました。


ま、そんなもんよね。

育ってるねえ・・・

ここしばらく、時おり息子の声が裏返ったり、不安定になっていた。


すわ、声変わり?と思っていた。しかし、朝に、おはよう、という声が低いのは、6時半にたたき起こしているから、機嫌が悪いからのような気がしている。


でも、やっぱり、声が低くなってきていて、しかもでかくなっている。あのかわいらしいボーイソプラノではなくなっている。


というわけで、正式に声変わりがはじまったようです。どうも、いろんなところに毛も生えてきたらしい。


はぁ。成長してるんやなあ。


背も、いつの間にかわたしよりもずうっと高くなってるし。一緒に買い物にいくと高い棚のものを取らせるのに便利になった。


足も大きくなっている。先日、買ったけどぜんぜん履いていないジョギングシューズはもう履けない、とか言うから、ためしに履いてみたら、あら、わたしにぴったりやん♪


もう小さくなった、というラグビーのユニフォームも、あら、胸周りがちょーっときついけど、ぴったりやん♪


・・・息子のお下がりをもらってしまいました。あう。


昨夜、息子は年男なので豆を盛大にまいてもらいましたが、変な発音で


おには外

福は内


といっている声が、去年よりもやっぱり低くなってるなー、と感じました。


立春とともに、せいしゅんも・・・。


などといいながら、週末にガールフレンドとデートするよりも、男の子たちと山を駆け回っている姿に、まだまだ子供やな、とも思うのです。

認めなきゃいけないのか?

だんなが、しつこくしつこく、インターネットでBBCのラジオニュースが聞けるようにしてくれ、と言ってくる。


「そんなん、BBCのHPにはいって、指示に従ったらええやん!」

「だって、リアルプレーヤーが必要って言うんだもん!」

「それをダウンロードしたらええやん!」

「どこから?」

「リンクがそこにあるやろ(怒)」

「あ・・・」


ばかめ。


「聞けるようになった。ふーんだ、ふーんだ、eiが助けてくれなくっても自分でできるもーん」


け。


まあ、そんな一件があったあと、だんなはネットでラジオニュースを聞いていたけど、突然、怒り出した。


イギリスの民主党があたらしい党首を決めるらしいんだけど、その候補者の一人(サイモン・ヒューズ)が、ここ数日、ゲイじゃないのか?といわれていたらしい。それを、一応遠まわしに否定していたらしいんだけど。


この日のヘッドラインの



を聞いて、だんなは怒り出した。

「なんで、ゲイって認めなきゃいけないんだ? 犯罪じゃないんだし、そんなのほっとけばいいじゃん!」

わたしも、そう思う。

このニュースについて、ピーター・テチェットというゲイの活動家がインタビューを受けていたけれど、わたしの考えは彼とほぼ同じ。

テチェットはこんな風に言っていた。

ゲイであることは犯罪ではないのだから、それを人に言う義務は誰にもない。

確かに、政治家にはゲイでありながらも、それを隠して、ホモセクシュアルに対して差別的な言動をとったりする人がいる。そういう行為はHomophobia(ホモセクシュアルに対する病的非理性的恐怖症)であるし、偽善的だ。だから、そのような場合には、その人のセクシュアリティーを公けにすることは必要だと思う。

しかし、サイモン・ヒューズに関しては、彼は一度もゲイに対して差別的な言動もとったことはなく、ゲイの権利を守る法案などにも常に賛成票を投じている。そういった意味において、彼はHomophobiaでもなく、偽善的でもない。

こういう場合には、彼のセクシュアリティーを公けにする必要はないだろう。ましてや、それを攻撃することなどまったく必要がない。

さまざまな立場にいる人で、自分のセクシュアリティーについては黙っている人がまだまだ多い。これは、カミングアウトすることによって自分が自分の属しているコミュニティーから差別を受けたり、排他的扱いを受けたりするからだ。こういう可能性がある限り、セクシュアリティーについて黙っていてはいけない、というのは、おかしい。黙っている権利だってあるはずだ。

本当に、わたしもそう思う。カミングアウトできたら、それは簡単でいいだろう。でも、実際にはそんなに簡単にできない。カミングアウトできないのは、その人に勇気がないからでも、その人がずるいからでもない。そういう人に対して偏見と差別を持っている社会が悪いのだ。


ゲイであることをカミングアウトしろ、そして、ゲイであることを「認めろ」と要求する背後には、やはり、どれだけイギリスがゲイに対して理解があるとはいえ、ゲイに対する恐怖感があるのかな・・・と感じた。


「だってさ、君がゲイだってわかってないと、安心できないじゃん」


と、暗に言っているような気がする。


この背後には、ゲイというセクシュアリティーを、性の怪物としてとらえている部分があるんだと思う。だから、怪物の居場所をはっきりさせることによって、安心感がほしいんだろう・・・。そこには、ゲイと性犯罪人を同列で捕らえている部分があるような気がする。


でも、ゲイは性犯罪人ではない。


だから、それを必要な場合を除いて、公けに言う必要はない。


そう思います。



何気ない会話

息子が学校で転んでひじをすりむいた。それで、絆創膏をはってくれ、といってきた。


だんなが、絆創膏を風呂場のキャビネットにとりに行こうとすると、息子が


「Oh, come on! Here you are! Ha」

もー、何してんだよぉ。ここにあるんだよ。はぁ。


と言った。思いっきり失礼な口調でね。このあとは、いわずと知れた、非常に不愉快な会話と、不愉快な言葉の応酬・・・。


ほんのちょっとね、柔らかく言うとか、柔らかく受けるとか、一拍おいてから言うとかね、ほんのちょっとのことで、もっと気持ちのいい会話ができるようになるんだけど。お互いのイライラをぶつけ合って、どっぷり自己嫌悪。


しかし、息子がえらい点は、こういうことがあった後に、謝りにくること。わたしにはできぬ(すまぬ)。


たとえば、人は言葉を獲得することで、コミュニケーションが潤滑になった。インターネットのおかげで情報量も豊かになった。


息子との関係に関して言えば、彼がほとんど話せなかったころよりも、彼との会話量などは確かに増えている。


でも。


そこで伝えているものはどうだろう。わたしは、ちゃんと愛情を伝えられているのだろうか。


息子が小さかったときに


「ねー、Yちゃんー」

「なあに?」

「なんでもない」


「ねー、おかあー」

「なあに?」

「なんでもない」


というくだらない会話をよくした。そのときに伝えられていたことが、今、どれだけ言葉を使っても伝えられていないような気がする。


ま、今、これを息子にやったら、


「用事がないなら呼ばないでよ(怒)」


なんてことになって、またしても騒ぎが起きるんだろうけど。


何も言わない、ということも、言葉の使い方かな。


誰だって幸福になる権利は持っている。

この記事を書こうと思い立ってから、もう一ヶ月以上になっています。忙しかったから、と言ってしまえばそれまでなんだけど。それ以外にも、このことについては、わたし自身の非常に個人的な部分においてかなり考えることがあって。


いろんな言葉の使い方があるんだけど、ゲイ、という言葉はわたしは同じジェンダーを持つ人をを愛する人たちをさす言葉として使っています。女性も男性もトランスセクシュアルも第三ジェンダーも含めます。


わたしが、普通、ホモセクシュアル、レズビアン、という言葉であらわされる人たちをゲイという言葉で示すのにはいくつかの理由があります。


ホモセクシュアルは異性愛を意味するヘテロセクシュアルに対応していていい言葉なのですが、差別的な意味で使われていることが多く、誤解を招くかな、と思うことがひとつ。


レズビアンはレズボズ島に住んでいる人という意味で、サッフォーという古代ギリシャの女性詩人がここに住んでいて、女性同士が愛し合う耽美的な詩をたくさん書いた・・・(ご参考までにこちら )かららしい・・・。しかし、レズボズ島にはいろんなジェンダーの人が住んでいるわけなので、なんとなく、その地名に由来する言葉を使いたくない。


ゲイ、という言葉を使うのは、長年すんでいたイングランドではそれが同じジェンダーの人を愛する人たちをさす言葉でなじみがあることがひとつの理由。


もうひとつは、これは以前に書いたんだけど、gayという言葉はもともと喜ばしい・幸せなという意味を持っている言葉だから。自分について正直であることで、自分が幸せであると、自分たちを差別する人たちに向って宣言をする誇り高い言葉だから。


・・・まあ、日本では、やっぱり差別用語になっていて、理解がされていないみたいだけど。


以上、本文に入る前に、長々と説明をさせていただきました。


わたしのセクシュアリティーについての基本的立場はセクシュアリティーによる差別は一切許してはいけないというものです。もう少し詳しく説明してあるこちらの二つの記事を読んでいただけると幸いです。


怒りながらゲイを語る

もうちょっとゲイについて語る


それと、セクシュアリティーについて考えてみる、というテーマで、関連した記事を一まとめにしてみました。


まだまだ勉強不足です。間違いや、不適当な表現などありましたら、やさしく指摘していただけるとうれしいです(甘えてる・・・笑)。


また、こういった記事に関して不快感をもたれる方もいると思います。それは人それぞれです。わたしは単にすべての人は幸福になる権利を持っており、それを守る・守ってもらう権利があると考えています。そういう考えで、こういった記事を書いています。ゲイの権利など守る必要がない考える方もいらっしゃるでしょう。わたしは、その考えは間違っていると思います。でも、ここにおいて、そういう深い議論をするだけの余裕もありませんし、時間もありません。ですので、わたしの側で不愉快である、と判断したコメントは勝手に削除させていただきますので、ご容赦ください。


それから、バイセクシュアルもあります。でも、この場合、へテロの場合は権利が保障されていて、ゲイのがわの権利が保障されていないので、まあ、二つに分けて(勝手にわけてます)。ですので、特にバイセクシュアルについては言及していません。


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2005年の12月は、わたしにとって次の二つのニュースが大きな意味を持っていました。


一つ目は、12月5日にイギリスにおいてゲイの「結婚」が法制化されたこと。ただし、結婚という言葉は使わずにCivil Partnership(市民的配偶関係、以下CPと省略します)と呼んでいます。


これは、結婚という言葉にヨーロッパ文化圏においては、宗教的意味合いが非常に濃いこと(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などにおいて。ことに、カソリックにおいては)が主な理由です。結婚という言葉を使うと、非常に反対が多くなり、法制化に手間取る可能性が高かった、と予想されていたようです。そして、同性間の配偶関係を認めるというのは法的にあたらしい概念であるので、新しい法律用語を作ったほうがいいだろう、という考えもあるようです。


この新しい法律については賛否両論あります。結婚という言葉を使うべきだと言う人もいれば、同性間の配偶関係は絶対に認めるべきではないという人たちもいます。


反対をする人たちの主張は、


結婚というものは異性間で行われることが正常であり、そうすることによって家族というものが成立する。同性間の配偶関係を認めると、彼ら・彼女らの生活形態が、伝統的な安定した家族のあり方を侵食する。


というもののようです。


しかし、このような考え方はいくつかの宗教的伝統に根ざした考え方で、この考え方を「真実である」とするには無理があるようにわたしは思います。


まず、何を持って正常とするかは、時代背景や文化的価値観によって異なります。現在では法律的に禁止されている三親等以下の結婚がごく普通に行われていた時代もありますし、日本においても、ゲイの関係が当たり前のものとしてとらえられていた時代もあります。


また、最近の研究で明らかになってきたように、生物学的性は遺伝子によって決まりますが、社会における自分の性の位置づけとしてのジェンダー、自分の性的傾向であるセクシュアリティーは、必ずしも遺伝子によって決定されるわけではないようです。脳の構造などの先天的要素が強いのではないか、といわれています。これらの研究の結果として、西ヨーロッパにおいては、ヘテロ以外のセクシュアリティーも自然なものであり、その自分の自然に正直に生きてゆくことは、個人の権利であると考えられる傾向が強くなりつつあります。


その考えの結果として、オランダやイギリス、ドイツにおける同性間の配偶関係を法制化するという動きがあるのです。


最後に、「ゲイの生活スタイルが伝統的家族形態を脅かす」というよくあるゲイに対する否定はまったくの誤解に基づくものだとわたしは考えます。

たとえば、すべてのヘテロセクシュアルの男性がすべての女性に対して欲情をし性交をしたいと考えていて、それを行動にうつしたいと思っている、とわたしが言ったとします。すると、多分、ほとんどの方から、


「あなたは男性というものに対しての強い恐怖を持っていて、その恐怖によって男性の性的な部分を怪物のように取り扱っていますね」


と言われると思います。そして、その恐怖は、わたしが男性をよく知らないことによって生じている、と判断されるのではないかと思います。


それとまったく同じことが、ゲイに対して行われているのではないでしょうか。それゆえ、「伝統的な家族形態が脅かされる」と言われるのではないか、と考えています。そういった意味においてラトビアで12月15日にゲイの結婚を憲法において禁止した 、というニュースは非常に興味深いです。


ラトビアは、2005年、EUのメンバーになりました。EUではゲイの権利を認める動きが進んでいます。ラトビアはこういったゲイの権利を認める動きに強い懸念を示し、憲法を改正し、ゲイの配偶関係を禁止する条項を書き加えました。国内法ではすでに同性間の配偶関係は禁止されているのですが、EU法のほうが国内法よりも優位に立つ場合があるため、EU法よりも上位に位置すると一般的に考えられている自国の憲法に改正をくわえたわけです。


EU法では今のところ、同性間の配偶関係は合法化されていませんが、いつされるかわからない、という感じをラトビアの国会議員の中で受けている人が多いようです。しかし、EU内にもカソリック国などあり、EU法として同性間の配偶関係が合法化されるのはまだではないかとわたしは思っています。


ラトビアの総理大臣やそのほかの内閣のメンバーはこの改正には賛成しておらず、必ずしも、ラトビアが国として一致した意見を持っているわけではありません。


ただ、国内法だけではなく、憲法まで改正してまでも、同性間の配偶関係を禁止しようとする動きや、この憲法の改正を要求したラトビアの与党の理由


ホモセクシュアル的生活形態から伝統的家族グループを守る。


などを見る限り、冷静に判断をして、というよりは、恐怖におびえてヒステリカルに行動しているという印象をどうしても受けてしまいます。

ゲイの生活形態というと、なぜ、乱交などのイメージが強いのでしょうか。これは、メディアなどの責任が問われるべきではないかと思います。しかし、実際には、へテロセクシュアルのカップルと同じようにお互いに対して愛情と責任を持ったカップルが多く存在しています。たとえば、今回のイギリスのCPを認める法律によって配偶関係を結んだエルトン・ジョンと彼の長年のパートナーなどがそのいい例であると思います。

そういった意味において、ゲイのカップルも異性のカップルと変わりはありません。二人の間で子供ができないことくらいでしょうか。しかし、異性のカップルでも子供ができない人たちはたくさんいます。それについてはさまざまな解決法があります。子供がほしくないというカップルもたくさんいます。子供がほしくないのであるから、この二人は結婚すべきでないとはいえないのではないでしょうか。


基本的にイギリスの今回のCPの法制化は、このように愛情と責任を持って関係を持っているにもかかわらず、配偶関係が成立できないため、相続権や、自分のパートナーの子供に対する権利、また、パートナーが病気などになったときに詳しい情報を知る権利などが与えられていないことに対する批判から始まったようです。


つまり、結婚をすることによって、二人がお互いの権利を守り、お互いに対して権利を持つことができるのと同じ権利を、同性間のカップルにも与えるのが今回の法律の主眼であると言ってよいかと思います。結婚というものをロマンティックな関係の結果としてではなく、お互いに責任を持ち一緒に生活をしていく際に二人が持つ権利としてとらえています。

この権利をお互いに対して持つというのは実ははなり大事なことです。以前、マッチーさん に尾辻かな子大阪府議員の書かれた新聞の記事をおくっていただいたのですが、そこでも、やはり、同居をしているパートナーが病気になったときや、たとえば事故にあった際などに、詳しい情報や安否などを知る権利がないことが指摘されています。


また、同じ記事の中で尾辻さんは人権問題としてゲイの権利が問題にされている、というのは表面上で、異性を好きになることが自然であると性教育の本に書かれる、ゲイについて教科書などで言及すべきではないという発言がおきる、など、実際にはゲイに対する差別が深まっていることも指摘されています。


そういった意味において、同性間の配偶関係を認める法律を作る、ということは、単にゲイの権利を法的に認めるだけではなく、ゲイのカップルも、ヘテロのそれと同じように、お互いに責任と愛情を持って結ばれているのだ、なんら違いはないのだ、と、広く一般に伝える役割も持っているのではないかと思います。


CPと結婚の間には違いはありません。子供に対する権利も二人で持ちます。離婚も異性間のそれと同じようにきちんとした法的手続きをふまなければできません。あるとすると、どの段階でそういう法的関係が成立したとみなされるか、です。CPの場合は、書類に二人が署名をすれば成立します。結婚は書類への二人の署名が行われ、証人と戸籍吏の前で口頭で結婚の宣言がなされた場合に成立します。


この違いは、ヨーロッパにおける言語論の伝統において面白い点だと思いますが、本論から外れるので、ここでは一応、無視します。


誰にでも幸せになる権利はあります。そして、自分の愛する人を守る権利を持つことはとても大切です。結婚という制度は、愛しているから、というような感情的なものだけではなく、自分の愛する人を守り権利を与えるという、非常に重要な法的側面を持っています。


日本でも、一日も早く、こういったことが議論され、ゲイの権利も含めた人権に対する理解が深まることを願ってやみません。

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文中で言及した尾辻かな子さんの記事です。上下に分かれています。クリックすると大きくなります。

Otsuji1

Otsuji2


参考までに

ゲイの結婚の歴史

ラトビアがゲイの結婚を禁止

イギリスでゲイのシビル・パートナーシップが法制化。

ゲイの結婚の詳細


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業務連絡

マッチーさん、もう、ものすごく時間がかかりました! ごめんなさい。記事をおくってくださってどうもありがとう。

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