ショーエイのアタックまんがーワン -7ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第九話 森山崩れ】桶狭間へのカウントダウン 残り15+10年

〔ドラフト版〕

 

清康の孫、家康と信長、そして明智光秀の間で生じた

奇妙なエピソード先に話しておこう。

多くの人にも聞き覚えのある話で、

明智光秀が信長に足蹴にされて、

それが本能寺に繋がったと言われるエピソードだ。

現代でも良くある出来事なので知っておくといい。

信長が腹を立てたのは光秀が出した料理ではない。

いわば明智光秀ほどの人物が

そんな粗相な料理を出すとは思えないのである。

寧ろ、料理自体は完ぺきなものであった。

ところが光秀は当時上品とされた京風の味付け出しており、

薄味に慣れない家康は一瞬、顔をしかめて見せたのだ…

信長は寧ろそこは気にしなかった。

ある意味、家康の口に合わなかっただけと察した。

しかし、その表情を光秀も見逃さなかったわけで、

信長の目…いわば信長が

その些細な表情も見逃さないことを知っていた光秀は家康に

 

「京風の味付けにした故に、徳川殿の口に合いませぬか…

こちらの手違い故に誠に失礼いたしました。」

 

と、家康に謝罪したのだ。

普通の人は光秀の謝罪に何の問題も感じないかもしれない。

現代の日本では光秀は誠実に謝罪したのだから、

何に問題が生じているか解らないだろう。

 

ところが信長は

家康は何とも言えぬにがにがしい表情を浮かべたのを見逃さなかった。

信長はここでキレたのだ。

そして信長は光秀を睨め着けて、ため息をついた上で、

家康にこう説明した。

 

「京は内陸で、長年荒廃した状態であった故に、

塩が貴重品らしくてのう…それ故に薄味が当たり前の様だ…」

 

そして同じ出された品を口に入れて、

 

「まあ、慣れればこの生臭い味も悪くないが…

味としては貧相に感じるやもしれぬ…まあ、楽しんで下され。」

 

と、家康に伝えた。

別段、ブチ切れてその場で光秀を足蹴にしたかは別であるが、

信長が光秀を政治の舞台に呼ぶことは

以後無くなったのは言うまでも無い。

そこで光秀は自身の評価が落ちた事へ苛立ちを感じたのかもしれない。

無論、信長からすれば足蹴にして叱責してもいいほどの失態である。

 

普通の人は何でも謝罪すれば許されると思っているが、

サービス業でも同じだが、

客人に恥を掻かせるような行為は、

謝罪では無く侮辱なのだ。

信長からすれば

それなら何の謝罪も要らなかったという考えで、

寧ろ光秀の謝罪は、

「家康殿は田舎者ゆえに都会である京の味は解らない」

と、伝える意味を与えたのである。

故に、信長は京は貧乏くさい故に薄味なのだと、

寧ろ家康の心情を察してフォローを入れたのだ。

 

因みにここでは「慣れれば生臭い味も悪くない」と、

京風の味付けを否定もしていない為、

京をあからさまに侮辱している訳では無く、

寧ろ客人である家康への心遣いが優先で言っているのだ。

 

この事件を新聞の見出しの様に記すと、

「信長激怒!!生臭いといって光秀を足蹴に!!」

と言えてしまい、足蹴りしてなくても

光秀の行為をを一方的に否定した意味の「足蹴り」とも書けるのである。

 

こうした見識の違いから生じる人間関係のズレは、

「森山崩し」の中でも有ったと言える。

 

清康が進軍を開始したのは、1535年の12月であった。

記録上では12月3日(旧暦)に岡崎を出発して、

12月4日には守山城に着陣している。

西暦で言うと、12月29日に森山崩れと成っているため、

12月27日に出立、12月28日に守山に到着である。

 

さて、気になするべきはこの日付。

12月後半と言えば、寒さも厳しく、雪が降っても可笑しくない時期である。

米の収穫期が一段落を得た時期でもある。

岡崎市から守山城のある名古屋市守山区までは、

現代の自動車のルートで計っても大体32キロほどの距離がある。

 

8千人の軍規模でこれを移動するとしても、

武家の人数は多くて2千人、残りは農民から徴兵された足軽である。

 

マラソン選手なら45.195キロを、2時間半位で駆け抜ける距離で、

一般男性で完走できる平均が4時間半と考えると、

さほど遠くは感じないかもしれないが、

実際に歩くと成るとかなり遠い。

しかし、一両日掛けての進行であったのなら、

冬の寒空の中でも、

早いとも遅いとも言えない普通のものと考えられる。

 

清康は前もって攻め落とした、岩崎城(愛知県日進市)と、

品野城(愛知県瀬戸市)から先発隊を出して、

守山城近くに布陣の準備をさせた。

数は、岩崎城からの1千を工兵として布陣に当たらせ、

時間差で遅れてくる品野城からの1千に増援としての伏兵という形で、

その防衛に…

そして本体が到着する頃には8千人規模の布陣が完成している状態で、

守山城に面した。

実際に8千人は大きくサバ呼んでの数値だとしても、

半分の4千人でも大掛かりな人数と言える。

 

一方の守山城はほぼ60m四方の規模の城で、

サッカーフィールドの半分位の大きさと考えればいい。

その規模で考えれば農民兵を入れても

城内に入れるのは500人前後であったと言える。

城を攻める基本的な人数は城兵の倍以上有ればという所なので、

4000人の兵が有れば十分すぎる話に成る。

 

清康が冬場のこの時期を狙ったのは、

寧ろ敵の援軍が来にくい状況を考慮しての事かも知れない。

それでも援軍は二日以内には到着すると考え、

敵の援軍と対峙する部隊に3千、城の攻め手に1千と考えれば十分である。

敵の援軍より先に地の利を得た場所に布陣できれば、

いわば勝算は大きくなると言える。

 

信秀がこの事態で急遽兵を徴収できても2000~3000が限界と見切れた。

また、更なる増援となる場合も、清州の大和守家が関与せねばならない話で、

それ以上は厳しく時間を有するとも踏んでいた。

記録上には、弾正忠家と反目状態にある織田藤左衛門が清康の軍を招いており、

ここで清康、信秀両方が雌雄を決する状態に成れば、

むしろ信秀は弱体化する事と成り、藤左衛門寛故は漁夫の利を狙えるとも言えた。

また更なる増援という部分でも、大和守達勝が絡む話に成っており、

那古野城の件で信秀の父・信定に煮え湯を飲まされた両名にとっては、

信秀を弱体させる好機としても考えられた。

清康と藤左衛門寛故の話はそういう部分で調整されていたと言える。

 

さて、ここで三国志演義並みの計略用いて話を進めるものとする。

まず、離間の計である。

清康の運の悪さは、策士が敵に居たというよりも、

策士が味方に居り、そして自分の反目を支持していた事だ。

 

冬場の行軍に於いては様々な弊害が生じる。

それは物資の運搬である。

先に述べた様に、兵士は身軽に2、3日の食糧を携えて目的地に向かえば、

それで十分な速さで着陣できる。

しかし、その後に軍需品である矢、そして兵糧、

また冬場であったため薪などが追い付いて来なければ、

寒さで兵は凍えてしまう事にも成り、

布陣に影響が出る。

 

記録上では岡崎を出立してから3日目の早朝に

事件が起きたことに成っている記事があるが、

清康の守山着陣から5日ないし7日は有ったと考える。

※史実とされる記録では兵数や日にちの部分は曖昧な所が多いため。

伝承を辿って記録された話は特に怪しい。

 

清康の目算では、着陣して後日には物資が到着する予定であった。

しかし、その物資が一向に到着するどころか、

その手前の岩崎城にも到着していないという知らせを受けた。

この物資運搬に当たっていた人物が阿部定吉である。

これに類似したエピソードは

三国志演義の諸葛孔明と李厳という部将の話でも出てくる。

この時、孔明は李厳が物資の到着を遅らせた事で、

北伐退却の決断を迫られているのだ。

故に、物資運搬の遅延が軍に多大な影響を及ぼすことは、

理解するべき話である。

後に忠義を示して清康の子の広忠に阿部定吉が許されたとするならば、

清康が定吉を疑ったとする話に結びつけて考えると、

自然と辻褄としてこういう経緯が生まれてくる。

 

では…離間の計の話に戻して、誰が糸を引いていたのか…

それは酒井忠尚で有ったと考える。

忠尚は清康の祖父の長親(松平道閲)に忠誠を持っていた。

長親は清康よりむしろ信定の方が思慮深いと感じており、

今回の清康の行軍は三河を危うくするだけのものと危惧していた。

何故か…

清康は戦上手だと認めてはいるが、

織田信秀も中々の戦上手であることは聞き知っていた。

また、那古野城を一兵も損ずることなく、

ある意味、計略によって落としたという話が伝われば、

かなりの智謀の持ち主である点も伝わる。

 

この戦で清康が負けると考えるより、

寧ろ勝っても相当な痛手を受ける事は考えられた。

長親は北条早雲、いわば当時の伊勢盛時率いる今川軍と

死闘を交えて、辛うじて三河を守り抜いた経験がある。

それ故に清康が守山に出した兵力がギリギリでしか残らないとなれば、

春先に今川が攻め込んできた場合防ぎきれないだろうと考えてもいた。

実際に清康の目論見は外れており、

甲斐の武田信虎に今川を当たらせたものの、

今川は北条と結んで寧ろ武田の動きは牽制された。

いわば今川にはそれだけの余力が残ったのだ。

この見識は寧ろ酒井忠尚も同意しており、

長親が可愛がる清康の叔父・松平信定も認識していた。

故に清康では三河は守り切れないと踏んでいた。

 

事実は小説より奇なり…

離間の計を小説として組み入れるなら、

酒井忠尚が実行犯の阿部正豊を洗脳したとすれば、

話は簡単に作れる。

しかし、それは策士が策に溺れただけの物語で、

実際に策を弄するには博打でしかない。

いわば実行犯が必ずそれをこなすとは考えにくく、

寧ろそこから実行犯が清康に寝返って事実を暴露する危険もある。

また祖父である長親があえて孫の清康を誅殺するようなことは好むはずもない。

 

そこで考えられるのが清康がこの行軍で失態を演じたとすることで、

孔明が撤退した様に、軍を引かせるというものだ。

その間に手薄となった岡崎を松平信定が手中に治める事で、

清康の危うさを咎め、清康の父・信忠が廃された様に、

信定に家督を譲るというシナリオである。

いわばこれを信忠の代で一度成功させている酒井忠尚なら、

同じ事に勝算を抱くことは十分に考えられるという流れである。

 

物資の運搬を担っていたのは実行犯となる阿部正豊の父・阿部定吉である。

阿部定吉は三河各地から集められる物資を待って岩崎城でとん挫していた。

岡崎を発した物資が、未だ到着しないのである。

実は、酒井忠尚が野武士らを雇ってワザとその物資を奪わせたのである。

無論、物資の一部は報酬として野武士らに渡し、

残りは岡崎に戻している。

しかし、阿部定吉の下には物資が奪われたという報告だけが到着した。

離間の計は、いわば清康と阿部定吉に発生した不和である。

 

さて…ここからが酒井忠尚も予想だにしなかった出来事である。

弾正忠家には松平信定から関係を維持する意味で、

清康に撤退させる意図の話が通っていた。

無論、その詳細は示されなかった訳だが、

信秀は密偵を守山城に居る信光に送って、

「松平信定殿が清康を撤退させるよう計らう故に、それまで城を堅守せよ・・・」

と、伝えようとした。

この時の信秀の参謀は林秀貞である。

秀貞はこの内容を敢えて清康に掴ませるように進言した。

そして信光の下には、

「清康の大軍に怯えたふりをして、降伏を申し立てる。」

ように伝えたのである。

虚報・足止めの策である。

いわば、仮に清康が撤退しなくとも、これで2~3日の時は稼げると踏んだのだ。

2~3日稼げれば、信秀はある程度の軍を招集して援軍に向かえる。

仮に松平信定の計が功を奏すれば、

無事に事なきを得られる。

 

では…何故清康に堅守する報を掴ませたのか?

清康が事前に「信定が裏切るから堅守するように」という伝令を掴んだならば、

信光にはその事が伝わっていないと判断する。

その上で信光が降伏を申し立ててきたのなら、

寧ろその心情を好意的に察すると踏んだのだ。

そしてその交渉の間戦は止まり、

信光が交渉に様々な条件を盛り込んで、

あえて拗らせることで長引かせるのだ。

清康としても事前に伝令を阻止したという事も有って、

好意的に捉えられる故に迂闊に交渉を無碍にすることは出来ない。

いわば無駄な兵力を使わずに城が手に入るのなら、

それこそ望ましいと考えるのである。

 

それゆえ清康は対陣したまま動きを止めたのだ。

しかし、気がかりなのは叔父の松平信定の事である。

そこで物資が一向に届かない事に猜疑の念を抱いたのである。

いわば阿部定吉が叔父・信定に与して物資を留めているのではと疑った。

 

冬の寒空に凍えるような状態で対陣し続ける事になる軍は、

少ない物資で薪だけでなく兵糧も節約して布陣を続けねばならなかった。

清康は信光が降伏の申し出をしてきた以上、

今、ここで引くことは出来ない。

しかし、そうした陣中では様々な苛立ちが芽生え始める。

それは清康自身も同じだった。

 

心理的な条件、そして環境的な条件が揃った上で、

史実として残る記録に照らし合わせると、

ここからはそのままの内容と合致してくる。

史実の記録に有るのは、

信光が清康に内応を呼びかける。

清康が阿部定吉に謀叛の疑いを掛けて、

その息子の阿部正豊が清康を切り殺すである。

 

清康の苛立ちは猜疑の目を向けた阿部家に向けられる訳で、

陣中に居た阿部正豊へ風当たりは大変なものであった。

いわば清康のみならず、他の家臣らからも白い目で見られる事となるのだ。

そこで清康は岩崎城の阿部定吉を陣中に召喚するが、

物資が野盗に奪われたという言い訳など通じるとは思えぬゆえに、

息子の阿部正豊に手紙を渡すのである。

「もし自分が謀叛の濡れ衣で誅されるのなら、殿にこれを見せて欲しいと」

陣中で猜疑の目を向けられ、肩身が狭くなった正豊の心は病んでいた。

父の手紙から忠義を裏付けるものは無い。

寧ろその手紙を清康に見せたところで

疑いを晴らしてくれる状況に無いと踏んだ正豊は、

旧暦の12月5日(12月29日)の早朝、

朝一の馬稽古で馬に跨った清康の馬を襲った。

その際に忍者が使うクナイの様なもの…

矢の矢じりを用いて、馬の首筋に突き刺した。

馬が突然暴れて清康は振り落とされた。

そして落馬した清康に切り掛かり、

短刀で清康の首筋を描き切った。

突然の出来事で清康の供回りは動きが鈍ったが、

正豊が逃げる前にこれを取り押さえてそのまま誅殺することは出来た。

 

無論、正豊に精神的な苦痛が生じるまでに

たったの1日では少し無理があり、

ある意味、犯罪者としてここまで追い詰められるには、

最低でも5日、もしくは2週間以上の時間が生じたと考える。

故に清康の守山城での着陣は最低でも1週間は有ったと考える。

 

こうして松平清康は享年25歳で、阿部正豊によって切り殺され、

これが森山崩れとして伝えられる。

この死は松平信定方にとっても誤算であった。

無論、それは酒井忠尚にとっても同じである。

いわば清康が死んだことで、守山城から軍を引き上げる事に成ったが、

家臣団はこれを清康の不徳とすることは無く、

寧ろ清康に対して忠義で団結する事となるのだ。

その為、この清康の行動に協力的でなかった信定らは、

目論見とは外れて三河安定に繋がる信頼を得るには至らなかった。

 

それでも松平信定は岡崎城を手中に治めて、

長親らの後押しもあって家督を継ぐ形となった。

そして10歳の清康の嫡男広忠(当時は竹千代)は、

その身を追われる形に成るが、

正豊の父・阿部定吉はその罪滅ぼしの意味か、

広忠に忠義を示してこれを引き取り、

本来松平家の主家筋に当たる吉良持広の下へ届けた。

松平信定も広忠を始末するまでは最初は考えなかった。

 

その後、松平信定は信秀に申し掛けて、

三河に攻め入る様に促した。

これは三河の譜代(家臣団)を纏める為の政略戦争で、

守山攻めの報復として軍を発した信秀の軍に、

松平信定が外交にて上手く治めたという実績を与える意味であった考える。

そしてそれから暫くは松平信定の下で三河は一応纏まるのだが、

家督を巡って広忠にという話も聞こえ始めたため、

吉良持広がこの内情を利用して

三河の支配権を取り戻そうとする動きが警戒された。

その為、広忠の命は狙われる事となったため、

阿部定吉は持広と組んで、広忠を伊勢に逃がしたのである。

 

松平広忠は、吉良持広の庇護の下で1539年に元服し、

持広から「広」の字を頂いて、広忠とした。

しかしそれから間もなくして持広がこの世を去ったため、

吉良一族の間で家督争いが生じたため、

広忠、定吉は吉良氏の庇護から離れる決断をした。

 

森山崩れの翌年、駿河の今川氏輝が享年24歳で急死した。

当初、その弟の彦五郎が跡目を継ぐとされていたが、

その彦五郎も急死してしまう。

そこで後継者として名乗りを上げたのが、

玄広恵探という人物で、

氏輝の父・氏親と今川家家臣であった福島正成の娘の間に生まれた子供である。

この玄広恵探が福島氏の居城花倉城に招かれた事で、

花倉の乱として記録される今川家の御家騒動で有る。

 

今川氏親の正室である寿桂尼は、

それと同じくして実子として三男に当たる梅岳承芳(今川義元)を還俗させて、

これを迎えることで対抗した。

 

尾張は大和守、伊勢守、そして弾正忠家が覇権争いを演じているにもかかわらず、

傀儡ではあるものの斯波氏中心で何とか維持できたのも、

東の脅威、松平清康そして今川が崩れて行った運も有ると言える。

 

さて…しかし桶狭間で信長を窮地に立たせた今川義元が

ようやく登場するのは信長、いわば吉法師がまだ2歳のときであり、

この義元によって今川家は全盛期を得るのである。

 

果たして花倉の乱から、そして松平広忠の行方…

これらの出来事が如何に桶狭間と結びついていくのか・・・

 

どうも・・・ショーエイです。

元服を迎える前の信長たま…

それ以前に発生した近隣の出来事を

纏めて話を進めていく訳ですが、

ようやく今川のヨッシー(義元)が登場しました。

 

はてさて…第10話では花倉の乱から、

広忠の三河奪還と続き、

そして家康(竹千代本命)が登場します。

 

さて…いつもの愚痴ですが・・・

 

冒頭に話した信長、家康、光秀のエピソード。

客を持成すという意味ですが…

そもそも御持て成しの精神を説いて、

東京五輪を招致した日本人が、

こうした精神を全く理解できていないのは残念です。

「お客様は神様…」

客は神様じゃない!!

という「神様」の意味を勘違いした世論も

頭のイカレタ状態と言っておきます。

まあ、客の方が

「神様だから大事にしろ!!」

という間抜けな主張をする事も有るがゆえに、

可笑しな解釈に成っていると言えますが、

これをマスコミまでも俗解釈に沿ってしまっては、

日本の精神はその時点で嘘に成ってしまいます。

 

【ホリエモンの餃子店事件。】

ホリエモンの餃子店とマスク事件。

正直ホリエモンの様な人間は好きでは有りませんし、

ホリエモンを支持するつもりは無いのですが、

悪いのは餃子店の方です!!

 

心無いサービスを提供する店なら、

寧ろこんな店潰した方が良い。

ホリエモンが嫌いという以上に、

その店に腹が立った話です。

 

店がマスクの着用を義務付けて入店のドレスコードにした点は

法律上問題有りません。

問題は寧ろ…それを理由に客を蔑ろにした点。

いわば客を侮辱した事です。

わざわざ客は広島の尾道まで足を運んで、

その店に来店してきた訳で、いわばファンの様な感じです。

ルールはルールなので入店は出来ないとすしても、

折角のファンを蔑ろにして追い返すその精神は、

日本人のサービスを意識する意味で淘汰されるべき話です。

いわば入店はルール上させられないが、

持ち帰りの餃子は用意するので、

どうかそれで事を治めて欲しいい。

そういう姿勢が大事だと言えるのです。

最近の日本の若者にしても、

ルールがルールだからと客への配慮を考えない、

サービスが横行してます。

一部ゆとり世代を悟り世代などと持ち上げているが、

彼らが悟っていると勘違いする程度の低い社会レベルと言っておきます。

彼らは本質を理解していない生兵世代と言っておきます。

ルールを盾に主張すれば法律的には有利に成るが、

ビジネスとしては不利になる。

 

これは客を不快にして逃がしている話で、

経営側からすると死活問題です。

現実、日本企業が弱体化している背景は、

こうした配慮不足の点もあり、

この思考を不要とする意識から、

クレームから派生する

利便性向上のイノベーションも齎されなくなっている。

アップルや海外の企業が新製品に色々な機能を齎すのは、

そういうイノベーションを商品化していく発想で、

かつての日本企業が用いた方法だったはずなのですが…

 

話を戻して、

不快に感じたからという話で、

それを理由に店の営業を妨害する行為、

脅迫やら何やらすれば違法です。

しかし、ネット上で店に行くことをボイコットさせる運動は、

違法ではないのです。

ただし、威力業務妨害という行為に該当する点は否めませんが、

侮辱を受けたという事実の下で、

ネット上にボイコットを呼びかける場合は、

天下両成敗という観点で、相殺して考えてもいい話です。

いわば裁判で侮辱行為に対して認定する事が難しい内容なら、

その反撃で直接的な妨害の無い流布ならば、

侮辱をされたという事実公表で相手の行為を批難するのは

当然表現の自由の範疇で治めていい事と成るのです。

そしてボイコットに賛同するしないは、

その内容を意識した人が個人的に判断する話に成ります。

逆に店側に同情を抱くのも自由なわけですし…

 

日本人が和の精神を唱えて、

それこそ日本であるとするのなら、

マナーやルールに縛られれずに許し合う精神が一番大事です。

他人は他人、自分は自分で、

自分の価値観を他人に押し付けない事こそ、

社会が和む形です。

寧ろ、権力者のマナーやルールには厳しくし、

特に法に関わり国民の権利を脅かす事には、

妥協するべきではない。

 

日本人の考え方は寧ろ逆で、

国の違反を蔑ろに見て、

社会がルールやマナーを厳しく監視する状態は、

寧ろ個人の自由が認められないどこかの国と同じであると考えるべき話です。

 

と、は言え

ホリエモン…あの程度の餃子店を潰すのに

餃子の食べ放題で挑もうとする発想は、

間抜けに等しい話と言える。

潰すのなら同等の味の店を何店舗か作るのが得策で、

東京や大阪で名のある店を斡旋して、

金を使うのなら出店資金と一時的な運営経費を保障した上で、

それらの名店を尾道に3、4店舗ぶち込むかんじにするのが良い。

 

いわば問題の店が特別に旨いという印象を、

他にも旨い店は幾らでもあるという風に市場心理をもっていくべきで、

一番の効果は、似た様な味の店を多く設けて対抗する事となる。

その方がより強い効果を発揮するという物である。

いわば簡単に真似できる味という印象にして

特別感を喪失させる方法です。

その上でサービスに格差を付ければ、

横柄な態度の餃子店は淘汰され、

潰れて行くのは明白です。

 

経営コンサルタントなどをする意味でも、

あの程度の餃子店一つ潰せないのは、

寧ろ経営心理学に精通していない話なので、

そんなコンサルタントではむしろ弱いという話にも成る。

 

【マスクの着用の話に関して】

義務化は不要と言えば、

トランプと同じ意見に成る。

ただ、個人として義務化は不要とは言えるが、

国としては「不要」では無く、

寧ろ国が個人の自由を守る意味としては

そこに踏み込みたくは無いと表現するべきなのです。

その上で「推奨」という形は与えておくべきという事です。

 

オッサン先生はマスクはしません。

ただ、咳やくしゃみをする際には、

手や洋服で口元を隠す癖があるからと言えます。

ある意味上品にそういう仕草で振舞うからという感じで、

寧ろステイatホームで家に居るようにしているのだから、

外では新鮮な空気を吸いたいということらしいのです。

それで感染したらどうするの?

自分がそれで感染してしまうのは自分の責任です。

まあ、他人に感染させない様に配慮して動くので、

感染しても十分にエチケットは守られている。

よって他人がどうこう言うのは大きなお世話です。

 

マスクをしないので白い目で見るのは勝手だが、

それで文句を言ってきたら、

「マスクしてない相手に公衆の面前で怒鳴らせるつもりか?」

と、皮肉を言って怒鳴り散らすことに成るそうです。

 

マスクをしない事には文句は言いませんが、

最低でも手で口を覆ってクシャミや咳などをしない人には

「汚ねぇ!!」

と、文句を言う事には成るそうです。

 

いわば

「人に唾を飛ばすなボケ!!」

と、言っているだけなのです。

合理的にはそれさえ気を付ければ

飛沫感染の話は防げるわけで、

マスクはあくまで自身の防衛の話と言えるのです。

無論、そういう事に気を使う人を批難はしませんし、

むしろそれに適応できる人はマスクをして頂ければいい話で、

マスクをしている分、クシャミや咳はマスクの中で、

好きなようにして下さいという話です。

 

マスクをしないで罰則って…

マスクをしないのが公然わいせつ罪のように

扱われるのって感じです。

まあ、そうだという頭の可笑しい人も居る訳で、

マスクなんて必要ないと唱える頭の可笑しい人と交われば、

その中間の個人の自由で纏まる方が、

不要な口論で有り喧嘩は避けられると言えます。

 

多くの日本人の間でこうした和を重んじる意識は有ると思うのです。

むしろそれが正論として伝わるべきで、

「社会に不要な口論や喧嘩が発生しない為、

個人の自由を尊重するべきじゃ」

と、言う主張が主流となるべきで、

それこそが民主国家である意義で、

それが霞んでいくなら、

それこそ民主国家に反する社会を肯定している事に繋がると言えます。

 

【中国の監視社会に関して…】

民主国家とは逆の意味で中国の社会が取り上げられます。

中国の政策を今までは肯定的に考えていたが、

善良な行為をポイント化している状態は、

寧ろ残念に感じる政策です。

犯罪を取り締まる意味で監視システムを導入する事には、

反対ではなく、寧ろアメリカであり日本でも強化されつつあるものです。

 

善良行為をポイント化する話自体は問題ないが、

善行を拒否したり、軽犯罪でマイナス化される考え方は、

寧ろ善行を強要している事でも有り、

密告社会で人間が人間を信用できない本質を強化していく意味で、

愚策と言っていい。

中国がこれに気づいて政策を見直すならそれはそれで良いが、

見直さないなら逆に黙ってみていればいいという考えで、

元々の方針に変更は有りません。

 

前にも話したように、中国が一線を越えてしまった時に

中国を攻め立てるチャンスが生じるとしたように、

中国は人権問題で自ら勝手に一線を越えようとしているだけなので、

放置していればその内爆死するという感じです。

むしろ中国の爆死を喜んで見ていて、

自らの溺死に歯止めを掛けようとしない日本を危惧する話で、

これも日本人が溺死していくことに気づかないのなら、

もうそのまま放置して溺死させても良いかなと思います。

でも、自身が日本に居る以上、その災厄は自分にも降りかかる訳で、

簡単に見て見ぬふりは出来ないのも事実。

 

とは言え、気遣いという日本人が本来大事にするべき事が、

気遣いを強要している社会に成ってしまい、

力を持った側が気遣いを受ける側になり、

忖度やら天下り、またはパワハラという事が生じている訳です。

本来は力のある方が弱者を気遣う事がその姿で有り、

気遣いを受けるのが当然では無く、

気遣いを持てる事が一流である条件として認識するべきです。

その上で個人の権利主張は

そうした気遣いの中で認められる社会になれば、

日本のサービスはかつてよりも上回るレベルで向上し、

それによってよりよいイノベーションが生まれて、

技術躍進にも繋がると言えます。

日本の司法でも気遣いの部分が欠落している為、

弱者の主張より、強者の言い訳に寄り添う形に成っている訳です。

それ故に強引な論拠しか考えない故に、

外交でも相手にされない状態が続くのです。

賢く交渉するには、相手への気遣いを用いた上で、

両者の落としどころを策定していかねばならない訳です。

気遣いの無い相手だと正直話に成らない訳で、

日本という国は気遣いの無い主張を繰り返して、

交渉を決裂させているだけなのです。

いわば日本と話は纏められないと言われている訳で、

それを逆上して批難する日本の行為は、

寧ろ気遣いという話を通り越して迷惑な行為に成っているのです。

 

最近までのアメリカのカスタマーサービスは

そういう気遣いの意識に変革されて向上し、

製品にも様々な配慮が技術として投入される故に、

魅力的に感じると言えます。

その背景には企業に対する賠償責任が付きまとうわけで、

司法の気遣いの中で、弱者に対する配慮が

寧ろ企業にいい形の意識を芽生えさせた事例と言えます。

マックの熱いコーヒー事件の訴訟にしても、

タバコの発がん性を表記しなかった件に関しても、

日本人には言いがかりに思える話でも、

実は強者になるべく営利を得る側の責任という観点から、

弱者となる消費者への配慮が厳しく正当化される点を考えると、

当たり前にも成るのです。

その結果、損害賠償を恐れてコンプライアンスが意識され、

よし厳格なカスタマーサービスの充実へと繋がり、

米国の技術革新にも寄与したのです。

日本人は改めてその違いを分析して行くべきなのです。

 

信長が気遣った部分…

結果としてミッチーは謀叛を起こした訳だが…

謀叛が起きたから気遣いは無用だったと考えるのか、

気遣いが有った関係故に家康は信長の盾として、

東海地方東側の安全が保障され、

それによって天下躍進が容易になっていたと考えるべきなのか、

何を利として考えられるかで、

この見方も変わる話と言えます。

 

皮肉で言えば…

揚げ足取って言う事しか出来ない無能者ほど…

光秀が裏切った事を挙げて盛り上がるのだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第八話 戦世】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

吉法師が元服を迎える前に、

この当時の情勢を一度整理しよう。

 

1532年に信秀は那古野城を手中に治めた。

当時21歳であった信秀は清州の織田大和守達勝の怒りを買ったのである。

記録上では信秀がある種独立した存在で記されている様に見えるが、

実際はまだ斯波家を主家とした形式上の体制が維持されていた時代である。

そうした中で織田大和守達勝が実権を握っており、

今川との関係を維持したまま、三河で勢力を強める松平清康に対抗しようと画策していた。

先にも述べた様に、将軍家の義澄派から義材派に切り替えたのも、

その関係性を意識してのものであった。

その矢先に信秀は今川竹王丸から那古野城を奪ったのだ。

そこに如何なる事情が有ったかは清州の達勝は知らない。

寧ろ若気の至りで、尾張を取り巻く情勢も考えずに、

ただ目先の利益に捉われて行動したと思ったのだ。

 

松平清康の勢いは尾張でも大いに危惧されていた。

僅か12歳で家督を継いだ清康は、

隠居していた祖父・松平長親と

実質、家中で実験を握っていた家老・酒井忠尚(将監)の力で、

三河を転戦し、14歳の頃には岡崎城を別の宗家松平昌安から奪い取っている。

この時、宇津忠茂という家臣が岡崎の支城山中城を攻略して後に、

松平昌安に降伏を持ちかけるように進言しており、

その策が功を奏したと言われる。

この宇津忠茂が後の大久保氏の祖となるのだ。

まだ若い時分の清康は

後の家康を支える一族、酒井、大久保、更には本多らの活躍で、

その地盤を築けたとする方が現実的で、

特に酒井忠尚の存在は、

清康の父信忠を隠居に追い込んだ上で清康に家督を譲らせた人物で、

後に今川義元に三河が併合された際、

この忠尚は元康(徳川家康)とは別扱いの勢力として扱われていた実力者となる。

桶狭間以降、元康が三河で独立を果たすと、

忠尚は元康に反旗を翻しその身を追われるのだが、

今川への恩義の為か、織田方に与する元康に嫌気が差したのかは定かでは無い。

ただ、この人物が若い清康を支えた軍師で有った可能性は高いと見る。

若年の清康を支えたもう一人の人物は、清康の祖父に当たる松平長親で、

長親は且つて今川氏親が伊勢盛時(北条早雲)を総大将として三河に攻め込んできた際、

奮戦してこれを退けている。

松平長親は隠居したもののそのまま実権は握っており、

酒井忠尚は清康より寧ろ、三河の英雄として敬愛する長親に忠誠を誓っていたとも言える。

 

そうした長親と酒井忠尚を師として成長した清康は、

1529年18歳位に成るとその才覚を発揮して三河をほぼ手中に治める。

自ら陣頭に立って攻め込む

勇猛果敢な清康の戦ぶりは尾張にも聞き及ぶほどであった。

1526年今川氏親がこの世を去り、

その嫡男氏輝がようやく16歳に成った頃で、

今川の実権も氏輝の実母・寿桂尼から

氏輝に少しづつ移行されて来る時代でもあった。

故に今川にとっては実に危うい時期に清康が登場している。

 

丁度、今川氏親がこの世を去った1526年には、

信秀の父、いわば信長の祖父・織田信定と

松平長親の三男松平信定の間で姻戚関係が結ばれている。

この出来事は清康がまだ15歳の時の出来事で、

裏では松平長親の意向が働いたとも言えるが、

寧ろ松平信定が自ら提言して行った外交と見ても良く、

清康の後見人であるその父・長親はこれを支持する感じであったと考える。

 

この外交によって松平信定は津島の資金が背景にある、

織田信定より支援を受けることに成り、

その見返りとして当時松平家が所領していた守山城を、

織田信定に譲った形である。

三河の松平家としては尾張で実力を持ちつつある

織田弾正忠家を抱え込み、

尾張との国境を安定的に固めた上で、

今川の遠江、駿河を伺う体制へと考えたのであろう。

現実的に長親にとっては今川との因縁を考える方が強く、

積年苦しまされた氏親がこの世をさり、

若い後継者問題で揺れるだろう事を想定とした

外交戦略として捉えたとしても不思議ではない。

実際に長親はこの三男の松平信定を溺愛しているほど、

聡明な人物と考えていたようで、

織田弾正忠家と結ぶことに気づいた点を評価されても可笑しくはない。

 

しかし、長親は家督を清康にした責任も感じていた。

故に松平家の行く末を考える上では清康中心である事が望ましい。

18歳に成って勇猛な武将に育った清康は、

長親にとっては頼もしい人物に映ったことであろう。

故に、長親自身、溺愛する三男信定と、期待する孫の清康の間で、

色々心が揺れ動いたと思われる。

 

実際にこの松平長親、名を改め道閲(どうえつ)とするが、

早い時期に隠居し家督を譲って、権力は一応握っているが、

必ずしも自身の考えで推し進める感じでもない不思議な人物に見えてくる。

様々な記録を読み解く上で、家臣らの言葉によく耳を傾ける人格者に見えてくる。

いわば徳川家康が引き継いだ基礎的な部分は、

この松平道閲から来るのではと思えてきた。

 

道閲が隠居を決めた時期は、早雲こと伊勢盛時に攻め込まれそれを退けた後で有るとされ、

その功績に多くの家臣たちの奮闘があり、

必ずしも自分の采配で勝ち取ったものでは無いと意識したのか、

松平家を盛り立てて行くのはそういう家臣たち支え合っての事と察したのか、

家督を譲り、それを支えて行く家臣たちの成り行を見極めようと考えていたようにも思える。

と、は言え、

結果、直後には松平家は今川に吸収されてしまうから評価を受けないのか、

それともその後、松平家は家臣の団結によって躍進していくことに成る点を評価するべきなのか、

そこは読み手の感性に任せるものとする。

 

長親こと道閲や松平信定の尾張と結んで遠江・駿河を狙うという意図は、

清康には理解できていなかった。

連戦連勝に浮足立つ清康は今度は尾張の方へとその意識を向けた。

1530年には岩崎城(名古屋駅から東へ10Km先の現在の日進市)から

北上して品野城(現在の瀬戸市、日進市から北東に10km)へと攻め込んでいる。

 

こうした尾張東部での松平清康の動きを警戒して、

清州織田大和守家の達勝は今川との連携を深めようとしたわけだが、

それを信秀がまんまと台無しにしてくれたのだ。

後継者問題で揺れると思っていた今川は、

以外にも寿桂尼が後見となって上手く纏まっている。

それ故に今は今川との関係を大事にしたかったのだ。

それ故に出しゃばった信秀に腹を立てた達勝は、

織田藤左衛門家寛故(ひろとも)と共謀して信秀に戦を仕掛けた。

これが1532年の出来事故に、

この小説では信秀が那古野城を奪った年を1532年としたのである。

 

無論、達勝の怒りは信秀の出しゃばった行動に有るが、

他にも津島を得て、更に熱田まで得た織田弾正忠家の勢いを

警戒した点も含まれる。

故に、織田寛故には那古野へ出兵させ、

その暁には那古野を渡すことで話を付けていたと思われる。

 

戦国時代の戦い方には明確な記録が無い。

そういう中で部隊編成などを計算すると、

部隊兵1000人当たりに、部将1名、副将2名、部将と副将の供回り27名の30名。

騎兵50名~100名、弓兵100名~150名で、

ここまでが武家とされる人数。

10名単位の小隊長が70名が武家に含まれるかは勢力単位で異なるところし、

残りの700名は農民徴兵のような形だ。

 

この計算は1000人単位の部隊が機能的に動く状態を想定したもので、

100人単位に小隊長を置く編成も有ったと思われる。

 

しかし、尾張という小国の内戦で態々農民を徴兵して戦う事は考えられず、

織田寛故が送った部隊はせいぜい多くて500人程度で、

下手したら300人位であったと考える。

300人程度でできる攻撃は、

信秀の居城と成った那古野城下を焼き払う程度で、

城下と言っても密集した街では無く、

寧ろ農村の田畑を焼き討ちして

那古野城に籠る信秀の部隊を挑発した感じであったと言える。

 

その信秀も大事な田畑を無駄に消失する事は嫌い、

すぐさま同等の300人程度の手勢でこれに挑む。

 

戦争と言うより抗争…いわばヤクザのそれの様なものである。

寛故の兵が田畑に火を掛けようとするのを、

信秀の兵士が見つけてそれを追い払う。

寛故の兵が逃げ出すのを信秀の兵が追いかけると、

近くに居た伏兵がそれを攻撃する。

こうした流れで信秀は野武士を雇って今度は清州の田畑に焼き討ちを仕掛ける。

また寛故の動向を探り、隙を見て敵の頭を直接狙う機会を探る。

それは寛故の方も同じで信秀の命を狙うのだ。

 

この時まだ存命であった信秀の父・織田信定は、

織田達勝に和解の話を持ち掛けて、

国内の混乱を収拾しようとした。

 

織田信定は達勝に、

 

「三河の清康が勢力を伸ばす中、

尾張国内でこの様な内戦がある事は寧ろ清康にとって好都合では?」

 

と、説きかけると…

 

「それは弾正忠家が熱田を抑えるための良い訳であろう」

 

と、達勝は反発した。

すると信定は…

 

「三河には綻びが生じており、

我が弾正忠家はその綻びを支援する事でこの事態に備えています。」

 

いわば、松平信定の方と縁組した件を言っている。

さらに信定は、

 

「弾正忠家は主家に忠実であり、斯波家再興の方策を考えております。」

 

達勝は黙って聞くしかなかった…

それほど愚かでは無い。

寧ろ、信定の脅しを察した。

いわば力のバランスでは既に弾正忠家が尾張最強であり、

その尾張最強が三河と手を組んで大和守家を

追い出すことも出来るという意味も含んでいた。

下克上とはそういう時代である。

そこで信定は、

 

「尾張の国が一丸となってこの問題に挑むのか、

それとも尾張を分断して滅ぼすのか…今、ご決断ください。」

 

隠居するとはこういう事である。

いわば家督を継いだ信秀の意思では無いが、

隠居者の権限でそのように動かすことはできるという事。

それは隠居者の決断であって、家の裏切りでは無いという意味も生み出せ、

仮に不義理な結末となっても全ては隠居者の責任としてしまえば良いのだ。

 

達勝は若い信秀より、むしろ弾正忠家をここまでにした信定を恐れた。

那古野を得たのは寧ろ信秀の考えによるところが大きいが、

信定はこの時代に力を求める信秀を支持していた。

故にこの問題で清州の大和守家が足を引っ張ることに歯止めを掛けたいのだ。

 

そして達勝は和議の条件を提示しようと口を開いた。

 

「では…」

 

そこまで言うと、信定は、

 

「では…?…はて…大和守殿がこの件を直ぐに治めないのなら…

上様(斯波義統)に奏上してお話を纏めてもらいましょう。」

 

と、立ち上がってよ斯波義統の所へ向かう姿勢を取った。

すると達勝は、

 

「わかった!!和議を結ぶように藤左衛門(寛故)には伝える!!」

 

と言い放った。

無論、信定はそれだけで事を治めない。

 

「では、直ぐに上様にこの件のご報告を致しましょう。」

 

と、言って義統を証人として話をまとめる方向に持って行った。

達勝には何もできない。

仮にここで信定を反逆者に仕立て上げても、

信秀が本気で清州を目指ざす口実を与えるだけで、

三河の清康を目の前に控えて、

逆に尾張を弱地化させる話にしか成らない事は察せられたからだ。

 

和議は主家の斯波義統を交えて結ばれた。

信定は礼儀として大和守達勝を立てて、

信秀と寛故が勝手に始めた戦と説明し、

達勝がこれを上手く治めてくれるという形で報告している。

そして信定は問題の一点は弾正忠家にもある事を詫びた上で、

斯波家再興の為に尽力を尽くす気持ちとして説明した。

義統は、信定の忠義に感謝し、達勝に和議を取りまとめるように指示した。

 

こうして弾正忠家信秀と、藤左衛門家寛故、

そしてその背後の大和守家達勝の間の和議が成立した。

記録上でも1532年に起こった紛争は両者の和議にて直ぐに治まっている。

 

一方、三河の清康は、叔父である松平信定の考えとは逆に尾張を目指した。

実は清康の見識の方が信定より優れていたとも考えられる。

いわば今川は今、家督問題で揺れており、寧ろ三河への進行は無いと踏んだのだ。

また自身が幼い時分、家臣団に支えられて三河平定にこぎつけた様に、

駿河は寧ろ家臣団が団結している状態と考えた。

その点、尾張は大和守家と伊勢守家が一枚岩でない事と、

その大和守家も弾正忠家の台頭に揺れ動いている。

そういう意味では駿河、遠江の今川より、尾張の方が狙いやすいのだ。

更には尾張は美濃の斎藤利政(道三)とも争っており、

美濃と呼応する事で狙いやすいという点もあった。

寧ろ今川の背後には伊勢盛時の立てた伊豆の北条家が有り、

そういう意味では今川はあえて刺激せずに、

尾張を先に得た上で後に今川に対抗する事を考えたと言える。

その際に美濃との同盟が確立すれば、

寧ろ尾張と今結ぶよりも有利に成ると言えた。

 

人の見方は様々である。

いわば「十人十色」と簡単に言いそうであるが、

自身の存在を他人がどう見るかは、中々気づかない。

また世の中には正解という答えが無い故に、

人は自身の考えに固執する。

 

清康は強すぎた。

強すぎる事は味方にとっては頼もしくも感じるが、

敵にとっては脅威である。

 

松平信定はやはり三河との同盟に興味を示す

尾張の弾正忠家と結ぶことが得策と考えていた。

現状、今川は家督が代わって揺れ動いているだろうが、

北条との同盟を考えれば寧ろ、

京を目指す西に興味があり、

三河はどうしても外せないルートと成る。

 

勿論、清康と信定の間には確執もあった。

1530年の尾張侵攻の後、東三河に

清康が、福釜松平家親盛と共に、宇利城を攻めを行った際に、

窮地に陥った親盛親子を松平信定が救わずに見捨てたとして、

清康は信定を大叱責した。

実はこれらは「三河物語」に記されており、

大久保忠教が1626年以降に変遷した内容である。

太田牛一の「信長公記」同様に、

年号と事件の関係性を見る上では参考に出来るが、

清康、広忠、家康の系図を好意的に描く意味で、

一方的な見識が有ると思われ、

一部では情勢、状況に辻褄が合わなくなる。

特に「森山崩れ」という清康の死を描いた部分には、

不明な点が多い。

 

宇利城の話は否定するものでは無いが、

実際に信定と清康の確執は、

清康が尾張を目指した時点で発生しており、

お互いが険悪な状態であったことは察せられる。

 

尾張東部の攻略から、

一転して三河東部の攻略に切り返した背景を察すると、

尾張攻略に対して今川に和平の使者を送っていたが、

結局、何の返答も無く態度が曖昧であったため、

宇利城を攻めて牽制した。

信定(松平)は今川が清康の申し出を受ける事は無いと踏んで、

尾張侵攻を寧ろ咎め、尾張弾正忠家と結んで今川に備えるべきと

主張していた背景は見える。

 

結果、その後も今川からの返答は無く、

寧ろその抑えとして今川を牽制する為に、甲斐の武田信虎(信玄の父)と結んで、

信虎に今川を攻撃するように働きかけた。

 

さて…読み手の人々もお気づきだろうか…

こうした状況に清康は陥った訳で、

駿河・遠江の今川と尾張を敵に回し、

まんまと挟まれた形に成って膠着したのである。

寧ろ、信定(松平)の見識の方が無難であると見えてくる。

 

松平信定と結ぶ話は、織田弾正忠家が進めていた。

寧ろ織田達勝の見識は、清康が孤立する事に有ったといえ、

ここで今川と結んで三河を挟撃すれば成果はあったかも知れない。

いわばその目論見は弾正忠家信秀が今川方の那古野城を落とした事で、

大いに崩れていますのだ。

 

今川方からすれば、1530年の時点では

尾張斯波家との和睦はまだ継続していた状態で、

織田達勝が将軍家の支持方を今川に合わせて足利義維派に転じた事で、

寧ろ今川は尾張との関係を意識した。

※足利義維派は、12代将軍足利義晴の反対勢力で、

細川晴元の支援を受けて堺公方となる側。

 

清康の目論見が外れるのはこの状況故の事で、

織田弾正忠と繋がっていた松平信定は、

恐らく察していた話となる。

 

清康がこの時点で現実を踏まえて、

信定の意見に耳を傾けていれば、

時代は清康を迎え入れたかもしれないが、

清康は同族の信定も弾正忠家も信頼する事は無かった。

 

1530年頃は京の方で異変が起こった時期で、

堺公方の三好元長と細川晴元が対立し始めた時期である。

ある意味、16歳と思春期の若い晴元の後ろ盾として存在した、

三好元長(長慶の父)は家中の実権を巡って、

柳本賢治と、三好家嫡流の政長と対立する。

先にも述べた様に、三好長慶は堺と繋がり、その支援を受けていたとしたように、

その父・三好元長も実際に堺との繋がりで力を得ていた。

その元長の活躍で足利義晴の後ろ盾である細川高国を追い込んだ訳だが、

元長の主導で、潮時と見て有利な条件で足利義晴との和議を目論む。

ところが若い晴元(当時六郎とされる)は他の家臣団の主張に押され、

寧ろ自らの立てた足利義維を将軍にすることに拘った。

そうした中で、元長は晴元の側近としての地位を追われ、

阿波に下向した。

元長の下向によって、晴元らの軍は大いに弱体化したようで、

結果、追い詰めたはずの細川高国らに挽回を許してしまい、

寧ろ自身らが窮地に立たされる。

それを救ったのがまたしても三好元長で、

元長の復帰で、晴元側は息を吹き返し、

再び細川高国らはそれに押され始めて、

1531年には結果、再び追い込まれた高国は自害する事となった。

 

結果として三好元長ありきで勝利した細川晴元の陣営は、

細川京兆家としての元凶である高国が居なくなったことで、

今度は勢力としての元凶に三好元長を見据えた。

無論それは細川晴元が勝手に抱いた猜疑心から来るもので、

また元長の功績に嫉妬した無能な家臣団の嫉妬が齎したモノと言える。

寧ろ元長に晴元に対する忠義が無いのなら、

自分が阿波に下向して窮地に立たされた晴元を救う事などせずに、

晴元らが滅んだ後に高国と和睦するか、もしくは高国を追い詰めるかの

何方かを選択すればよかった。

そうはせずに晴元を救ったのは、元長に忠義の心が有ったからといえ、

結果、晴元の謀略にはまって命を落としているのだ。

その謀略とは晴元が一向宗の本願寺証如(顕如の父)と結んで、

堺付近で一向一揆を勃発させ、

いわば堺を救済する為に動く元長をそこで始末した。

記録では一向一揆に押されて死んだ形に成っているが、

恐らく一向一揆に紛れて暗殺されたとみる方が可能性が高い。

いわば戦略・戦術に優れていた元長が、

一向一揆との戦いで苦戦の末命を落とすとは考えにくいからである。

 

元長を始末した晴元にとっては、高国が死んだことで、

今度は足利義維も不要に成ってくる。

寧ろ京の混乱を収拾する意味では、現将軍義晴と和睦する方が賢明で、

その為に自分の傀儡であった義維を阿波に流すことで決着をつけた。

 

ここまでが1532年の出来事である。

信秀が那古野城を1532年に手に入れたとする場合は、

中央の実情とは関係なく、寧ろ若気の野心によるところが大きいと見る。

しかし、その父・信定が達勝と和睦を計る際は、

中央の動向は引き合いに出したと考えられ、

三好元長の死が1532年7月後半とされるなら、

その年の10月くらいには足利義維の動向は堺から商人伝えに、

織田信定の耳にも入っており、

達勝に方針転換を迫る口実とする事も出来たと言える。

 

無論、1532年の達勝と信秀の争いは、

指示する将軍家の方針転換が起因で有ったとも考えられ、

その後に三河の清康の脅威が消えた事で、

信秀が1538年に那古野を落としたという説も否定は出来ない。

しかし、この場合、清州の大和守家が黙って弾正忠家の領土拡大を

認めるとは考えにくい点もあり、

当小説では1532年那古野陥落説をそのまま採用して、

流れを検証するものとする。

 

1535年今川が甲斐の武田信虎と争い始めたのを機に、

清康は尾張の守山を目指して軍を動かした。

その数は8千名とかなり大掛かりな部隊であったとされる。

しかし、今川の武田との戦には相模まで支配した伊勢盛時の子、

北条氏綱が共に動いており、

松平信定だけでは無く、後見人で清康の祖父・松平長親に

長親を慕う酒井忠尚も、

清康が喜ぶほどの成果は無いと踏んでいた。

寧ろ、尾張と駿河・遠江の板挟みとなる点を危惧した。

 

さて…この後、森山崩れという出来事によって、

清康はその命を落とすことに成るが…

果たしてその謀略の実態は…

織田信秀の実弟、織田信光の内応によってという話も、

それに清康が易々と乗っかるとも思えない。

如何にして清康は計に嵌められたのであるか・・・

 

キーマンはその清康を切ったとされる、

阿部定吉の子、阿部正豊であり、

彼が何をもって主君を謀殺したのか…

謎めいた実態を紐解いていかねばならない…

 

どうも・・・ショーエイです。

さて…日本では日本学術会議の問題に、

ちょっと気に成るのが伊藤詩織さんの事件。

アメリカではいよいよ大統領選が始まります。

 

【日本学術会議任命の件】

日本学術会議任命の件の良い訳として、

宦官・菅が言い出した言い分は、

「憲法15条第一項があるから、選任や罷免の権利がある」

というものです。

では、憲法15条を見てみます。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm#3sho

原文の参照は↑のサイトをご覧ください。

憲法15条 

1項(本文) 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人はその選択にも責任を問われない。

 

確かに1項だけを見ると、日本国民なら誰でも公務員を選定したり罷免する権利を持ってます。

と成ると・・・誰でも好きに内閣総理大臣を首に出来るという話?

1項だけの話を独り歩きさせると、とんでもない意味に聞こえますが、

権利を有する故に、その権限のある人の責任は問われないというのが基本文です。

ところが2項の内容が付与されると、

公務員は全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者であっては成らないとあり、

内閣総理大臣も公務員として、個人的な恣意または見識で

公務を行っては成らないと歯止めがかけられています。

いわば国民として選定したり罷免する権利は有りますが、

公務員として理由なき行為は禁止される。

いわば全体の奉仕者として国民全体に公平に成る様にしなくては成らず、

その公平性は法的な規約に基づいた行為故に、

公平性を証明できる話に成ります。

それが無い場合は、一部=自民党の都合に奉仕した行為と成り、

違憲に成るのです。

 

実際に任命に関しては拒否権は付与されておらず、

日本学術会議の選定、任命に関しては法で記された通りであります。

これを国民の権利と称して、任命拒否を行った宦官(菅)は、

公務員として義務を放棄し、

更にはそこへの言及を避けてその行為を憲法15条1項のみの理由で

正当化しようとした行為は、

憲法12条違反 「憲法を乱用した行為」に該当する為、

弾劾に値する行為であると認定します。

 

さすがは宦官・菅、

再び「馬鹿」の故事を用いた訳ですが、

こんな「バカ」の故事に成る様な首相を放置する国民は、

バカによって衰退する運命と諦めるしかないのでしょうか…

バカな政治家は淘汰する方が国の為なので、

馬鹿を用いたバカというレッテルを貼って、

信用しない様にすることをお勧めします。

いわば馬鹿の故事に成った宦官・菅を

「馬鹿」だと誰もが堂々言える状況に成ったのは言うまでも有りません。

名誉棄損でも何でもなく、馬鹿の故事を宦官・菅がしたから

菅は馬鹿だといっても良いのです。

 

因みに憲法第15条の1項は国民全体としては、

不正等の立証により

裁判によって罷免する事が認められた意味で有り、

選任という部分は、3項に記された様に

普通選挙によって議員と言う公務員を選ぶ意味での権利です。

内閣総理大臣が1項の権利のみで好き勝手に人事をする事は、

自分の恣意的判断で全てを行うことに成り、

公務員として全体の奉仕には成らず、

一部どころか自分個人へ奉仕する行為に成るという事です。

こうした独裁色が生まれる意味を阻止するモノとして、

2項が存在する訳で、

内閣総理大臣は国民で有る前に、

公務員である事を自覚せねば成らない話とも言えます。

 

まあ、こういう事を理解していない政治家である意味でも、

宦官・菅は馬鹿と言い切っても良いと思います。

 

 

 

【伊藤詩織さんのセクハラ事件】

さて…多くの人が

「まくら営業」という言葉に疑念を抱くと思いますが、

「まくら営業」が成立する過程を考えて見て下さい。

まくら営業は、権利であり権力を持った相手が、

その行為によって人選の判断を行う事で成立するモノで、

営業を掛けた側の意図は、

その心情を計る意味としては真意を見極めるには難しく、

むしろ力による圧力の過程が成立する事実のみを参考に考えるべきです。

 

いわば力を持っているからそういう環境を利用できるのであって、

力に従う側はそこに忖度する必要性が必ず生じるという事です。

 

とは言え、力を持つ側が、

相手に愛情ないし何らかの配慮を持っていたのなら、

その行為は憂慮されるべき話で、

それが明確に示されないのなら、

いわば約束の代償=相応のプレゼント等が

発生していないのなら、

力による強要で相手の権利を侵害した

だけの行為と見なされるべきなのです。

 

いわば俗語で言う「やらせた」場合でも、

やった側は快楽という利を得た訳で、

そこに行為に対する「対等性」が成立しなければ、

「やらせた側」は不快を得た上、快楽に利用されただけの心情が残り、

「やった側」にいい様に扱われたという侮辱だけが残る訳です。

寧ろ、「やった側」は快楽を得たこととその優越感を得るわけで、

行為自体の中に「心の対等性」は無いと言えます。

 

やった側に恋愛感情がある場合は、

それ相応にその事を感謝する気持ちが出るものと思われ、

その気持ちを受けるか受けないかは相手側の裁量と成る為、

この場合の「心の対等性」は成立するものと考える。

 

現状、裁判の証言で、心の対等性を示す部分は感じられず、

相手が被害者に一方的な言い分で、

寧ろ被害者を誹謗中傷した感じに成っているため、

被疑者に同情する話ではない。

ハッキリ言って男として恥じる存在である。

と、オッサン先生ですら言ってます。

 

男性であり女性で有っても、

力に寄り添ってくる可能性の有る状態で、

それに乗っかったとしても、

その相手を配慮する気持ちが無いのなら、

そういう事をするリスクは考えるべき話である。

寧ろ人として、異性として大事に考えるのなら、

それ相応に「心の対等性」を示すのが、

リスクを回避する意味での証拠になる。

そういうケアが出来て、男としては紳士となる。

 

寧ろこういう紳士的な考えのない男性は

逆に恥ずかしいので淘汰されて欲しいとも言える。

これは現代社会では女性側も気を付けるべき話で、

淑女では無いにしても才女として考えるべき事とは言える。

 

紳士的な姿勢が示されないのなら、

そこに「心の対等性」は意識されていないと判断するのが賢明で、

それが心的外傷を与える要因となる事は、

「相手を思いやる気持ち」を考える日本の常識として、

理解するべき事と言え、「和」を語るのなら、

寧ろそういう考えは浸透させるべき意味を持つ。

 

また被疑者に同調して、ツイッターで「いいね」した行為は、

法律上で裁くほどの意味は難しいが、

法律上で問題視された時点で、

そういう考えを世の中に示した行為は、

寧ろ、社会が人間性を疑う部分として問題視するべきである。

政治家であるなら寧ろ政治生命を絶ってしまう方が良い。

 

【アメリカの大統領選】

2016年のトランプvsヒラリーは、

嫌われ者同士の選挙で、

何方がベター(マシ)かで争われた。

2020年のトランプvsバイデンは、

嘘つき同士の選挙であるが、

何方に成った方が

敗者側の心情をより絶望感に浸らせるかで考えた方が良い。

 

恐らくトランプの再選は、バイデン支持者を絶望感に浸らせる

完全に米国を分断する結果と成るだろう。

そういう意味ではバイデンが勝つ方が、

トランプ支持者はまだ絶望的に感じない。

そういう選挙と言える。

 

 

 

 

 

 

 

【第七話 修練】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

熱田の遊郭を訪れた吉法師は、

芸子さんたちにのせられるがまま楽しい時を過ごした。

芸子遊びを楽しんだり、

さらには信秀らを前に、

養徳院仕込みの舞踊を披露した。

この時に吉法師は敦盛も舞っていた。

芸子さんたちが小鼓を打ち、歌を奏でる中で、

吉法師は舞(能)を踊って見せたのである。

子供ながらも美しい線を描くその舞は見事なもので

芸子さん達もその愛らしさと能美に賞賛を与え、

吉法師はノリノリで楽しんだ。

 

信秀自身も時折その舞に参加して

吉法師と楽しく戯れ、

供回りとして参加した政秀や盛重も混ざり、

場は大いに盛り上がった。

 

この時、吉法師が感じたものは見せるという快感である。

自分を美しく表現する事で承認欲求が満たされる…

そういう快感を覚えたのである。

その後も、

戦の前に舞いを踊り、自ら茶を煎じるなど、

また行儀作法などに関しても同じくして、

自らを美しく表現するツールとして意識する事と成るのである。

 

織田信長という荒々しい経歴の中で、

真逆とも言える作法の部分が史実として残るのは、

幼少期に受けた感銘と快感が基であると考える方が自然と言える。

史実には残される事の無いエピソードであるが、

おそらくこうしたエピソードが実際には有ったと考えなければ、

信長と言う人間構成を表現することは難しいのである。

 

そして熱田を堪能した吉法師は、

今度は徐々に初陣へ向けた教育を受けて行くのである。

 

10歳までの吉法師は政秀の指南の下で

武術の基本は学んでいた。

政秀が教えた基本は、そもそもが基本で、

いわば「素振り」というものでしかない。

寧ろ政秀は「素振り」を徹底的に仕込んだと言っても良い。

 

吉法師も無論、単純な「素振り」だけと言うのであれば

退屈に感じたであろう。

剣道の様にただひたすら竹刀を振って鍛錬するような光景であれば…

実際の武家の鍛錬はそうであったとする方が適切であろうが、

吉法師、いわば信長自身が実は武技に精通していたと考えるなら、

より特殊な教育があったとする方が面白い。

 

大陸の武術で少林寺拳法であり、また太極拳を参考に

この特殊な鍛錬を説明すると、

型という基礎を体に覚えさせることで、

体が瞬時にその動作に反応できるように鍛錬するモノと成る。

いわば人が前に倒れる際、

条件反射で手が前に出てしまう様に、

ある条件に遭遇した際、条件反射でその動作を発生させる事こそが、

最大の武器、いわば瞬発力として機能する部分に成るのである。

実はスポーツの世界でもここの部分はまだそこまで意識はされていないが、

基礎的な動きの練習と言うのはそこに基づく部分である。

サッカーで言えばリフティングだが、

脚とボールの感覚を基礎的に覚える事で

ドリブルやパスの際に使う微調整の技術として応用されると考えるべきである。

しかし、才能の有る選手はそれでも感覚を覚えるのだが…

 

禅から生み出される静動の流れ…

さて少林寺拳法の始祖とされる達磨大師がそこまで伝えているかは定かでは無いが、

科学的な見地と検証から

実はこれを基礎とすることが一番望ましいと言える。

禅とは精神の集中である。

基本的に考えられる禅は座禅の様に動かず無心となる修行であるが、

禅そのものを言うのなら、「気」という見えない物質を想像力で操る事で、

その動作に脳から集中力を与えると言うのが科学的に説明できる原理なのだ。

座禅は不動という体の体感を無心で維持する為の修行で有り、

様々な「欲」や「苦痛」を親指と親指の間の気を練る事で

意識転嫁するいみの修行である。

※残念な事に、仏教徒でもここまでの意味は理解していないのは事実です。

実際に座禅を行う際に、重ねた手の親指の間が少しだけ空いている状態を意識して、

両方の指で体温を感じる程度の距離を意識して、

それを保つ様に集中してみて下さい。

目で見ながら触れている感覚と、わずかに空いている感覚、

そして離れすぎた感覚を確かめるようにして始めると

徐々に理解できると思います。

そしてその指が触れた感覚と、離れているという感覚を意識しながら集中すると、

科学的な意味でも集中力がそこに高まり、

そこに没頭する事で時間を忘れてしまうという原理が発生します。

座禅の意味をを科学的に分析すると実はこういう話なのです。

因みに長時間その感覚を維持すると、

親指通しが最初より離れた状態に成ります。

その離れた感覚だけ「気」が練られており、

「気」を通じて指先の感覚が維持されていた事を痛感できる現象と成ります。

 

実際に太極拳をこうした意識の下で行うだけでも、

かなりの達人に成れるのです。

ただ意識無く踊りを踊る感覚で有ればあまり意味が無いのである。

 

こうした基礎は日本舞踊や能楽にもあり、

日本舞踊がゆっくりとした流れで披露される事は、

それだけつぶしが効かずに綺麗な形を見せないと成らないわけです。

腕の振り一つにしても、真っすぐと綺麗な弧を描かねば、

その美は表現されません。

その美が崩れない様に腕に神経を集中させるわけで、

腕に神経を集中させてゆっくりとふる事で、

脳から神経を通じて筋肉に正確な形を認識させていきます。

いわばそこで脳が筋肉に正確な動きを伝える訓練が為され、

筋肉はその動きに合わせて形成されていくわけです。

 

そして同じ動作を素早く行った場合でも、

同じ伝達方式が自然と発生する為、

美しい形のままを保った状態に成るわけです。

いわば体に癖をつけるという意味です。

 

日本刀を用いて綺麗に物を切るという事を意識した場合、

現代人は包丁の使い方を参考に考えると良いでしょう。

いわば魚をさばく包丁の入れ方…

手前から引くように切るという意識が大事に成る訳ですが、

刀を用いた場合も実際は同じなのです。

そしてその接地面がブレたりよれたりすると、

それだけ切れ味は落ちる…

いわば切れが最大限に作用する真っすぐな直線から逸れてしまうのです。

 

こうした意味を簡単に理解したい、子供に理解させたいのなら、

ノコギリで板を切ってみれば解ると思います。

ノコギリの刃が板を切る線から少しでもよれたら、

それだけ切りづらい感覚は体感できますので…

 

更になぜゆっくりとしたモーションが効果的なのかを意識する上では、

サッカーのシュートモーションをスローモーションのようにやってみれば解ります。

早いモーションでは重心で軸が動くため全く感じられない

軸足の軸の基礎部分が、遅いモーションではハッキリと意識されます。

いわば軸足で立っている時間が長くなる分、

その状態を維持する難しさを痛感できるのです。

この軸足のブレない状態を維持する事が体感と呼ばれる部分になり、

シュートの制度であり、誰かと接触した際の強さの部分として鍛えられるのです。

 

スポーツの練習ではゆっくりとした基礎的な動きを素振りで、

シュート練習の様な実戦的な練習では早いモーションで鍛える事で、

効果的な練習に成ると言えるのです。

 

さて…吉法師が受けた、いわば科学的な特殊トレーニング。

史実を元に可能性を探ると…

信長が好んで敦盛を舞ったという部分で察せられる話に成ります。

また、信長自身前線で戦う事がしばしあったという記述が多くあり、

桶狭間でも今川義元の目の前に信長居た事は、

その供回りの者が首を取った事でも理解できます。

また筆者が気付くレベルは天才信長なら気付くはずという点でも、

あえて根拠とします。

いわば禅の精神にしても、動作の基礎を痛感する過程においても、

気付けるレベルと言う意味で考える話です。

 

ただし、信長自身が剣豪で有ったという事は無く、

また平手政秀も剣術に精通していた訳でもない為、

あくまで盛り過ぎなエピソードでは有るが、

武術を極に持って行く話として意識してもらえればと思います。

 

吉法師が受けた「素振り」は、いわば剣舞である。

剣舞と言っても大陸のものでは無く、

日本刀を切る意味でその型を能楽の動きとして採用したものである。

ゆっくりと正確な動きを、舞を教わる中で仕込んだ。

吉法師自身も舞を覚える事は好きであり、

芸達者な養徳院が見せる舞の美しさに

吉法師が憧れを抱くのも当然の流れとして意識される。

 

政秀が優秀な教育者であったと仮定をするのなら、

寧ろ教え子が興味を持つ部分を察して、

そこに組み込んで教える事は考えるだろう。

そいう過程も想像すると、

能楽式の剣舞という素振りは可能性があるとも言える。

 

10歳までに基本的な動作を身に着け、

更に信長自身蹴鞠も好んだという話から、

蹴鞠なども嗜んで、

体の体感部分は十分に備わっていたと考える。

 

そこから今度は初陣に向けた教育が行われるのだ。

 

初陣に於いては

先ず馬を自分で乗りこなせなければ成らないという条件が

合ったことは史家も察するべき話である。

馬を乗りこなせない事は退却の際に致命的に成る訳で、

そんな子供に戦場に出向かせることは先ず有り得ない。

基本戦国武将の初陣が13歳位であった点も踏まえると、

現代の競走馬として主流のサラブレッド無く

木曽馬という一回り小さい品種なら、

その年齢が乗りこなせる意味としても理解できる。

 

10歳を過ぎた吉法師には生まれて間もない仔馬が宛がわれた。

いわば12歳から13歳での初陣を想定した際に、

仔馬は2歳から3歳位に成っており、

競走馬の世界で言えば丁度乗り頃の状態に成る。

仔馬を宛がう事で馬と心身一体に成る事を期待されると考えたのである。

吉法師はペットとして仔馬を可愛がり、

その仔馬の成長と共に乗馬も覚えて行った。

気の知れた相手故に双方に安心感も生まれ、

仔馬の調教過程を通じて吉法師自身もそういう調教面を学んでいった。

実際に合理的すぎる程、合理的な教育を受けたことに成るが、

方便でモノ言うならば、

合理的な教育を吸収する事で真の天才は生まれるのである。

 

戦国の教育方針の細かい部分がどこまで残っているかは不明だが、

初陣で有り武将として馬を操る意味で考えた場合、

こうした方法は当然して考えられたとも言える。

いわば織田弾正忠家が特別では無く、

戦国の世では当たり前だったする方が正しい。

これが江戸時代に成ると戦争が無くなり、

初陣と言う儀式も廃れたため、

知らず知らずの内に仔馬を宛がう教育も消えて行ったのではと言える。

 

吉法師は仔馬に天翔と名付けた。

天翔ける馬という意味で、政秀が教えたものだが、

吉法師もその名前を気に入った。

しかし、「てんしょう」呼ぶのが何気に堅苦しいと感じたのか、

次第に「たま」と短くして呼ぶのである。

 

吉法師はたまを本当に可愛がった。

たまもそんな吉法師に良く懐いたのである。

吉法師は犬の散歩の様にタマと城内のアチコチを歩き回り、

タマに色んなことを語り掛けた。

タマはそれを理解しているかのように聞いた。

無論馬が人間の言葉を理解することは無い。

しかし馬も人間の表情を読み取ることは可能で、

賢い動物なら、その表情や言葉のトーンで

様々な気持ちを読み取ることくらいは出来るのである。

 

吉法師が喜ぶ時は、

タマも同じように首を上下に振ってブルブルと鼻息を荒くして喜び、

吉法師が悲しんでいるときは優しく舌でなだめるのであった。

 

タマの成長と共に、吉法師も徐々にタマの背中に跨る様に成る。

政秀が自分の馬で調教の仕方を教え、

吉法師がその通りに調教していくと、

タマは素直にそれを覚えて行った。

 

信頼し合う関係で、

タマは自分の背中に跨る吉法師が落馬しない様に気遣う心も生まれたのだろう。

または吉法師が英才的に培った体感の良さもあってか、

吉法師の乗馬術は見る見る内に上達していくのである。

 

こうして初陣に向けて馬を乗りこなす訓練を受けていた一方で、

本格的な戦術の訓練も始まった。

 

武術の指南として政秀が招いたのは、

やはり佐久間盛重である。

 

盛重が指南役と成る上で一点だけ吉法師の父信秀頼んだことがある。

それは…吉法師を殴っても良いか…という事だ。

いわば戦での恐怖心んを克服する上で、痛みを克服せねば、

立派な武将に成れないという意味である。

その言葉に無論信秀は、

「構わぬ…厳しく鍛えよ!!」

と、許したのである。

 

吉法師が盛重の指南を受ける際に、

後に信長の近習となる子供たちも一緒に宛がわれた。

無論弟分の小政(池田恒興)は勿論のこと、

桶狭間の時に、信長に真っ先に従った、

岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守らがほぼ同年代として招集され、

そして熱田加藤家の次男、加藤弥三郎と

熱田神宮宮司の息子千秋季忠に

佐々成政などが居た。

結局、彼らが信長の悪童の仲間であり、

それ故に桶狭間でも信長と共に行動したと考える方が良い話に成る。

 

盛重の教え方は厳しいというより寧ろ優しかった。

とは言え、先ず盛重が行った稽古は、

痛みに耐えるという物であった。

何故この稽古が必要であったとされるかと言えば、

戦での恐怖心は痛みを恐れるところから来ると言えるからで、

これを克服できていない武将は、

先ず自ら前線に立つようなことは出来ないと言える。

 

かといってスパルタ教育の様にすれば

子供はトラウマを抱える危険性が有るのだ…

 

盛重は先ず子供たちに木刀を持たせて軽く叩くように命じた。

盛重自らは吉法師を木刀で軽く叩いて先ず手本を見せた。

 

「この様に軽く頭を叩く感じじゃ!!」

 

盛重は緩やかにコツンと吉法師の頭を叩いた。

そして、

 

「若?!痛かったですか?」

 

と、恐る恐る聞くと、

吉法師は平然とした様子で、

 

「全然、痛くないぞ。」

 

と、言う。

盛重は他の子どもたちにも同じ感じで叩きあうように指示した。

すると子供たちは笑いながら軽く叩き合った。

そして今度、盛重は吉法師に木刀を渡して、

 

「今度は若が叩く番です。さあ、盛重の頭を叩かれよ。」

 

と、言って吉法師に叩かせた。

無論、吉法師は遠慮気味に同じ程度で盛重を叩くと、

 

「若、それではハエが止まったくらいにしか感じませぬ…もっと強う叩いて下され」

 

と催促した。

吉法師はその言葉に遠慮なく今度は振りかぶって盛重の頭を殴った。

 

ゴツン!!

 

明らかに痛そうな音が聞こえたが、

盛重は何気に気持ちよさそうな素振りを見せて、

歌舞伎役者が台詞を奏でるように、

 

「いや!!いとうない(痛うない)!!あ!!いとうないぞ!!」

 

と言い放ち、歌舞いた振りを付けて見せた。

盛重の茶目っ気溢れる演出に子供たちは喜び、

その様子を楽しそうに笑った。

 

そして盛重は子供たちにまた軽く叩きあう様に指示をして、

叩かれた方は自分と同じセリフで歌舞くように教えた。

無論、吉法師もその流れに乗っかり、

盛重が吉法師の頭を小突くと、

吉法師は喜んで、

 

「「いや!!いとうない!!あ!!いとうないぞ!!」

 

と真似るのであった。

こうして盛重は暫くの時間を掛けて徐々に叩く力を強くして、

痛みを笑いで吹き飛ばす訓練をしたのである。

すると吉法師を中心とした子供たちは

痛みに耐えて歌舞く強さを競い合うのであった。

しかし実際に痛いもの痛いのであり、

まだ我慢しているレベルなのである。

 

そうして半月が過ぎると、

今度は盛重は痛みを感じない方法を子供たちに教えたのである。

先ず盛重が手本を見せた。

子供たちの目の前で体全身の筋肉を硬直させて、

気合を入れるポーズを取った。

そして吉法師に思いっきり自分を叩いて見せるように言うと、

その吉法師の振りかぶった木刀が盛重の体に当たるや、

バキッ!!

と音を立てて割れたのだ。

子供たちはそれを見て仰天した様に驚いた。

痛みを感じていないというより、

寧ろ盛重の超人的な肉体で木刀を逆に割った事に驚いた。

無論、盛重はそこに興味を持たせるために、

木刀に割れやすい細工を用いた事は秘密である。

寧ろそうでもしなければ子供の力では無理があるからだ。

 

盛重が子供たちに意識させたかったのは、

鍛錬を積むことで痛みどころか

それを超越した力を得られるという事であった。

 

そこを意識させて子供たちに鍛錬の大切さを感じさせ、

心身共に鍛える事の目標とさせる意味であった。

無論、盛重もそういう鍛錬のやり方を教わった故に

強い武将と成った訳である。

 

無論、まだ子供たちに、

そこまで思いっきり叩き合うように指導はしていないが、

痛いと感じるレベルで我慢する程度には進んでいた。

そして子供たちに気合の入れ方のポーズを教えて、

叩かれる瞬間に大きな声で、

「シャぁぁ!!」

と、気迫の声を上げるように指導した上で、

お互いに叩き合わせたのである。

 

こうした興味をそそって楽しく教える授業は、

現代の学習塾でも考えられているモノで、

それがあるか無いかで子供の吸収力も変わってくる事は、

現代人でも理解できる話だと言える。

 

そして吉法師に対しては

盛重自らが調整しながらそれを行い指導した。

 

「若!!行きますぞ!!」

 

と、言うと

吉法師は

 

「シャァァァ!!」

 

と気合を入れてその一撃を受け止めるのであった。

すると吉法師は全く痛みを感じないことに気づいて、

驚いたように盛重を見上げた。

 

「おお!!本当にいとうないぞ!!」

 

すると盛重は吉法師に、

 

「痛いと怖がるから痛いのです。痛くないと思えば痛くないものなのです。」

 

と、伝え吉法師に今度は木刀を渡して

 

「では若…その木刀でまた思いっきり私に切り付けてきなされ。」

 

と言った。

そして吉法師の目の前で跪いて、頭の位置を下げた上で、

 

「さあ、私の頭に目掛けて振りかざしてみて下され」

 

と、促した。

吉法師は言われるがままに盛重の頭に木刀の一撃を浴びせると、

盛重はその動作を凝視するようににらみつけたまま、

両手で見事な白羽取りを披露した。

それを見た吉法師も子供たちも大いに驚いて、

驚嘆の喝さいで声を上げた。

 

おお!!

 

そして盛重は、

 

「相手の攻撃が当たると痛いから、その攻撃が怖く見えるのであって、

痛くないと思えば、その攻撃は怖くは無いので逆に良く見えるのです。」

 

そして、

 

「今度はお互いに木刀を以て、攻撃をかわす練習です!!」

 

そして盛重は別の木刀を取り出して、

 

「では・・・若、私の攻撃をその木刀でかわしてみて下され」

 

と言って軽く攻撃して見せた。

縦に上段から振り下ろす攻撃を吉法師は木刀を横に構えて防いだ。

その動きを他の子らにも見せつけてお互いに同じように防御するように指南した。

 

こうして盛重の始めた基礎訓練は、

痛みを恐れぬ気合の鍛錬、そして防御の型を仕込んだ打ち込みを覚えさせ、

更には相手の隙を伺う切り付けを仕込んで、

より実践的な剣術を教えて行ったのである。

それ故に吉法師は元服する前に怖いもの知らずの少年へと成長していくのであった。

 

一方の弟信行の方は、柴田勝家より指南を受け、

基礎的な素振り、そして組手などで普通に剣術を仕込まれるのである。

いわば恐怖心を克服するモノでは無く、

技と技術のみを教わったという感じである。

 

剣術の鍛錬に加えて吉法師ら子供たちは

書道であり、兵法などの教育を学校の様な形で受けるように成る。

しかし、それらの指導は寧ろ実践的でなく、

ただ兵書を読んだり、字を覚えたりするだけで、

実に退屈なものであった。

 

思春期を迎えて

さらに剣術の鍛錬によって恐怖心という部分が克服され、

怖いもの知らずな状態で成長すると、

徐々に悪童化し始めるのである。

喧嘩の強い子の素行が悪くなるのは、

ある意味こういう心理要素が生まれからとも言える。

いわば師として招かれた者たちの顔色どころか、

政秀の叱責すら怖くなく成り、

むしろ我がままな性格を前面に出して

なりふり構わない生活を送るように成るのである。

 

ただ、実践的な事を教えてくれる佐久間盛重だけに対しては別で、

吉法師を含めて子供たちは彼の授業だけは一生懸命に受けたのであった。

 

そんな吉法師が12歳にも成ると、

愛馬タマも立派に成長し、吉法師を乗せて自由に走り回れるように成った。

吉法師は無駄な授業は全て放り出して、

岩室、長谷川、山口と熱田の加藤や千秋らと城を抜け出して、

那古野の城下は勿論、熱田などに繰り出して

遊び始めるのであった。

 

逆に佐々成政と小政(池田恒興)は吉法師より2歳若く、

馬を乗りこなす前でも有って、

素直に授業を受けていたと考えられる。

 

こうした中に、7歳と6歳に達した前田兄弟…

いわば利家と佐脇良之が入ってきた時期でもあり、

後の信長との関係であり、成政と利家の関係を考えれば、

そういうグループであったという事も想定できる話である。

これが悪童の絆とも言うべきか、桶狭間の戦いの絆を生むのであった。

 

無論、政秀は吉法師が授業を放り出して城外に遊びに出る事を叱りはするが、

寧ろそれも社会勉強と割り切って見ていた。

吉法師の好き嫌いの激しさは理解もしており、

退屈な授業を強いるものより、

盛重の様な合理的な授業を好んでいる時点で心配はしていなかった。

寧ろ信長の父・信秀の若い頃を知る政秀は、

(大殿もあんな時期があった…)

と、感じるのであった。

 

そうした中で政秀は沢彦宗恩に相談したのである。

それでも武家の者としてそして一軍の将として

兵法などは大切な事である。

いわば政秀は如何に吉法師にそういう部分の興味を持たせられるか?

それを沢彦に相談したのである。

 

そして沢彦は吉法師の成長ぶりを聞いて大いに興味を持ったのか、

自ら吉法師に会って自分の住まいの寺に遊びに来るように誘ったのである。

吉法師も堅苦しい話では無く、寧ろ遊べという沢彦に好感を抱き、

喜んで沢彦の下を訪れるのであった。

 

さて…この小説が太田牛一の「信長公記」が

公式の書物で無いと言った点を改めて説明しておこう。

太田牛一の経歴を見ると、

元々は織田家の主筋に当たる斯波家の家臣で、

信長に仕えるのは1554年頃からだとされる。

最初は柴田勝家の足軽衆として使え、

弓の腕を見込まれて信長の近習と成ったと記録がある。

とは言え実際は信長の側近と言うよりも、

丹羽長秀の下で働いていたようである。

 

では、信長公記は何時書かれたか?

1581年までは太田信定という署名で文書が残っており、

牛一の署名で確実に残るものは1589年からであるそうで、

信長公記が執筆されたのは1582年の本能寺の変以降とも考えられる。

いわばこの小説でも話したように、

信長の記録が明智光秀に消された為、

太田牛一が変わってそれを残そうとしたとも言える。

 

その分、太田牛一の信長公記は

年代の事変だけを参考に見る上ではほぼ正確なものに近いと見なされるが、

内容に関しては全く正確性が無いとも言える。

 

例えるなら、吉法師が城主となった那古野城の家老衆の序列を見ると、

第一家老 林秀貞、第二家老 平手政秀、 

第三家老 青山信昌、第四家老 内藤勝介と成っているが、

 

何れも信秀の家老序列で有ったと考える方が適切である。

いわば林秀貞も平手政秀もそういう立ち位置であり、

信秀の死後、それ以外に有力な家老が居ない時点で、

信長付き家老とするのは腑に落ちない話に成る。

 

そしてこれは信秀の葬儀の際にも同じ序列が見られる。

信行方の重臣は柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛とされており、

実は1552年の信秀の死んだ頃の年齢的な部分で見ても、

林秀貞40歳、平手正秀61歳、内藤勝介不明、青山信昌不明

柴田勝家31歳、佐久間盛重不明、佐久間信盛25歳

と成っており、

林、柴田は信行に付き、平手、佐久間両名は信長に付いている事でも、

意味不明な話になってしまう。

 

寧ろ嫡男側の序列に家老を、次男側にその下の重臣を参列側として記録したとする方が、

適切になる。

また、太田牛一自身はこの当時斯波氏の家臣であったとする事も有り、

実際に当時の斯波家側の話を記憶して記述したのか、

それとも誰か織田家家臣に聞いて記述したのかは定かではない。

青山信昌に至っては、1542年の時点、信長が生まれる前に死んでいるという記録もある。

ただ、こうした太田牛一の記録から見れる事は、

林秀貞が信秀の参謀的な存在として重宝されていた事と、

信秀が41歳で死んだときに、40歳と年齢も近かったため、

信秀幼少時からの供であったという点も察せられる。

寧ろ平手政秀は信長の祖父に当たる織田信定から引き継いだ家老であったとも言える。

 

こうした記述以外に太田牛一の記録は合戦の記録でも曖昧に表現されており、

信長と信行の戦、稲生の合戦を見ても、

信長が一喝して劣勢で追い込まれた状態を打開したななんて、

漫画の覇気でも使ったかのような記述で終始している。

この辺はうつけの兵法で

詳しい戦い方は説明していくものとします。

 

こうした意味で信長公記の話は曖昧過ぎるという意味で伝えており、

信長公記の話では辻褄が合わなくなる事が多すぎるのです。

いわば科学的な分析の上で参考にする点はあるが、

その記述通りの内容で記すつもりは無いという事です。

 

さていよいよ悪童に成りつつある吉法師が、

沢彦の下で何を学ぶのか…

 

実戦教育と卓上教育。

信長と信行の差が大きく出る分かれ道と成るのです。

 

どうも・・・ショーエイです。

歴史の記述と言うのは実に曖昧なものが多く、

日本では文化的であり流行などの記録は

西洋と比べるとあまり残っていない様に思えます。

 

無論、残された芸術作品を参考に

色々な分析を行っていく訳ですが、

それでも城や寺社同様に、

戦禍で焼失したものも多く見えにくい事も多々あるのは

学者さん達を悩ませる部分なのでしょう。

 

伝承や祭りとして残される部分などを伝っても

実際には限られた部分しか解らず、

決定的な事は何も言えないというのが現実で、

どれだけ議論を重ねようとも

基本的には全てが仮説に成るのです。

 

と、ここまでは学者さんを立てて話ですが…

日本の学者さんたちは何処まで精通しているのですか?

 

過去の小説にしても、

色々な解説を見ていても、

信長たまの話に関しては全く雑なのです。

 

司馬遼太郎先生の国盗り物語の信長では、

司馬遼太郎先生の真意だという部分で理解し、

そういう表現故に小説として楽しめた訳ですが、

「信長が何を考えていたか解らない」とする記述が

多々あります。

 

桶狭間の戦いを想像で色々研究している資料を見ても、

何故勝てたのか?

それすら解っていません。

雨が降って運が良かった…とか、

今川が油断した…とか…

いわばハッキリ言って兵法に精通していない歴史家が

資料だけを充てにして色々言っているだけの話にしか感じないのです。

無論、歴史に精通しても兵法に精通しても無い

一般の人にはそんな細かい事は興味すら無いのでしょうが…

桶狭間の話に関して言えば、

実はこれ呉子の兵法を読めば理解できる話なのですが…

信長たまがうつけであったとする意味で、

呉子を理解できているはずが無いと決めつけている時点で、

実は無知と言える話で、

日本人が如何に天才の領域を知らないかが伺えるのです。

 

天才の領域は、

孫子を知らずして孫子を語る。

いわば孫子が見つけた兵法は天才であれば知らずとも見いだせる。

孫子はその洞察力で自らの兵法としてそれを記した訳で、

同じ洞察力を以て人間を観察し、様々な現象を察すれば、

自ずと同じ景色にたどり着くという事です。

 

実は「うつけの兵法」という意味はこういう意味なのです。

 

何故、オッサン先生がこれを知るのか・・・

孫子を知らずして孫子を語れない自分は、

孫子の領域に達せない事を知っていたから。

だから孫子を若い頃あえて読まなかったみたいです。

 

インターネットが復旧して色々簡単に調べられるように成ると…

逆に孫子の内容を逆引用する感じに成ったそうです。

孫子ならコレ言ってるはずだ…

それが偶に呉子だったり、六韜に書いてあったりする内容だったりするわけです。

 

オッサン先生は自分が天才かどうかなんて事より、

天才の領域に挑戦してみた人な訳で、

まあ、勘違いからのチャレンジャーという方が良いのかな。

もし、若い人で同じチャレンジをする人が居れば、

多分出来る領域とも言える話です。

 

これは寧ろ法律も同じ。

人の社会を統治する上で、何が大切かを理解すれば、

自ずとそれが法律に成っている。

あとはその法律の文章を見つけるだけなのです。

だから日本の法律やら憲法を読んだとき凄く驚いたみたい。

実に素晴らしいく、殆ど申し分のない状態で構成されている。

寧ろ司法の人間がこれらの保護法益を理解していない事が悩ましい。

 

前話で解説した信長たまの治世。

そこは盛り過ぎだろうと感じたのならそれは大きな間違いだそうです。

寧ろそこまでやらないと成立しない話なのです。

いわばファクターX=信長の軍隊が徴兵で無く自衛隊の様な専門兵であった

とするならばその原資をどうしてたかが方程式の様に発生する訳で、

税の徴収だけの話なら、三好長慶ら他の戦国大名も同じ事が出来た。

いわば堺の商人を後ろ盾にしていた三好長慶、松永久秀の方が

本来財政上有利に成るはずなのに、

信長は尾張、美濃を支配するだけで、

遥かにそれを凌ぐほどの力があった。

関所を設けて人の出入りに気を使っていた時代に、

信長は関所を撤廃している。

このファクターYを考えると何故それが可能だったのか?

いわば情報が簡単に他国に漏れてしまう危険性も有ったわけだが、

それを差し引いても織田軍団は強かった。

その理由は簡単で、

信長の治世が住み心地が良く、

他国から寧ろ入る人間の方が多く、出る方が少なかった。

さらに出る情報と出ない情報をコントロールする術を有していた。

 

多分、こう説明しても

その合理的なシステムは理解できていないと思います。

 

さて…ここからは天才の領域の話です。

魔仙妃という話でこれを記そうとした内容でもあります。

 

普通の人は全ての情報を隠そうとして、

その秘匿性を武器に戦おうとする。

ところが天才は相手が知りうる情報を把握して、

その条件の中で戦う方法を考えるのです。

 

いわばどういう情報がどのタイミングで他国に流れるかを知った上で、

その情報を利用して相手をかく乱するのです。

これサッカーで言うならフェイントみたいな効果に成ります。

 

また情報が漏れていないと信じるより、

情報が洩れていることを想定する方が

相手の奇襲にも備えられる訳で、

寧ろ天才にとっては逆にその方が戦いやすいのです。

 

いわば米国の様な国を相手に戦う事を想定した場合、

衛星やらスパイが潜入している事を想定して

それらによって情報が筒抜けに成っていると割り切った上で戦うのです。

情報が漏れていないことの方が勿論、戦いやすいが、

情報が漏れていないと思い込んで戦う方がむしろ間抜けな結果を生むのです。

 

その上で孫子の言葉

己を知り、敵を知れという応用です。

自分の指示や言動がいつ為されたかを常に把握し、

その言葉が一番早いどのタイミングで洩れるだろうかまで把握する。

これ「天命を受けたもの」の思考でも有りますが、

「天知る、地知る、己知る」

を常に意識して、

自分が知りうることは相手も知りうることと

常に隠し事はバレると覚悟しなければ成らないという事です。

更に戦いに於いて証拠が無いからバレないは関係なく、

怪しいと疑われた時点で嘘も真も関係なく、

それに備えてくるのが当然なのです。

 

そこまで冷静に察した上で、

戦っても多くの犠牲が出る。

戦っても勝利を得る事は無いと判断するなら、

寧ろそのフィールドで戦う事は避けて外交によって他のフィールドを模索するのです。

 

合従連衡などはそういう発想の転換を齎したもので、

外交によって大きな敵より大きな連合で挑めるのなら、

それによって敵を退ける方法を用いるのです。

そしてその大きな敵が野心的な動きを封じるように成るなら

外交によって平和を構築する形で模索するのです。

 

いわば合従連衡によって戦う事を考えるより、

むしろ相手をそこに組み込む形で懐柔する。

古の合従連衡の失敗は、そこまで考えなかった点にあると言えます。

 

これも孫子が外交を以て敵を制する事が上策で有り、

戦争は最終手段とするべきだと言った言葉もその通りなのです。

現代社会で見るなら国連はその合従連衡の成り立ちで、

加盟国がお互いの戦争と言う部分を意識すると崩れ去る。

むしろ経済的な繋がりを以て、

全てがその繋がりに依存する形で

戦争という手段が大きな損失しか招かない最低最悪な愚策と成るまで、

軍事に於いては均等を保ちつつ、

対話によってまた対等な関係を重視して、

一つの連合国というものを目指すことを上策とするべきなのです。

 

天才は常に勝負に勝つ事に執着せず、

如何に有利な形を自分で作るかを模索するのです。

そして敵よりも結果として圧倒的に成ろうとするのです。

今までの米国は寧ろそういう国で、

どういう技術を有しているかをほぼ公開しています。

その上で圧倒的な経済力と圧倒的な軍事力を構成する事で、

他国よりも常に有利な条件で行動できるのです。

圧倒的故に戦争で勝てなくとも、

敵が自国内に攻め込んでくることは避けられる。

いわばそれだけの戦力がまだ後ろに控えているという状態なわけです。

 

敵が米国の動向を監視しても、

米軍が動けばどうしようも無くなる。

空母を派遣したというだけで相手を威嚇もできる。

 

信長の考え方はそういう圧倒的を構成する事ゆえに、

関所などは必要なく、情報が出る事すら気にしない。

寧ろ情報が出る事で、人が自国の魅力に興味を持てば、

それは宣伝効果を齎すわけで、

そこで集まった人が自国内に留まれば、

それだけ人口が増え、農業や産業が活発化し、

商業にもそれだけ需要が生まれる。

農民にも金を握ぎらせる事で、

それだけ買い手も増えるわけで、

それによって経済が潤えば、

税率は少なくとも多くの税収が齎される。

誰もが自由に商売でき、誰もが自由に買い物が出来る。

故に需要が生まれやすく、供給する側もその労力を厭わない。

働いても働いても苦しい生活が続く人たちからすれば、

働けば働くほど潤うという世界は魅力的です。

 

これは資本経済の基本的な原理で有って、

結果アメリカに人が流れようとするように、

そういう魅力的な社会に人が流れる訳で、

優秀な人材もそこに感化されて集まりやすくなる。

 

天才は如何にこういう有利な形を構築するかを考えるのです。

実はこういう事も「呉子」に書いてあるみたいです。

 

【天才の発想は意外に単純な所から来る】

大きな都、大きな街を構成する上では、

人がそこに集まれば良いというだけの事です。

そこからどうしたら人が集まる場所に成るかを考えて、

人が暮らしやすい社会を作れば良いという簡単な発想を思い浮かべる。

 

頭の悪い人はこれを一気に改革しようとする。

日本の政治家の典型ですが…

 

天才はそこを目指して何から手始めに手を付けるかを考え、

微調整しながらゆっくりと改革するのです。

 

先ず信長が考えつくのは、農民の租税を低くした場合の、

兵力動員数です。

租税を低くしたい気持ちを目標にした際、

兵力動員数が減ってしまう事を危惧します。

しかし、信長は兵力動員数を少なく抑えて、

強兵を用いれば、それだけ必要な兵糧数は減る。

という事まで気付くのです。

凡人には何を言っているの?

という話に聞こえるでしょうが、

戦力に成らない弱兵=農民から徴収された兵は、

寧ろ騎馬でひき殺せば良いだけ。

戦いに不慣れで直ぐに怯えてしまう相手なら、

鍛錬を積んだ兵一人で2~3人は倒せる。

いわば無名でもボクサーを相手に

素人が3人で挑んでも勝ち目が無いという事に繋がる発想です。

そこで先ず信長は少数精鋭部隊を構成して、

その戦力状態や被害を分析して、

兵力動員数を押さえる事で、どれだけの兵糧消費が抑えられるかを

村井貞勝に計算させている。

(面倒だから絶対に自分でやらないのも知ってますby森蘭丸)

その計算の上でようやく農民への減税が成り立つのです。

 

〈米の売買〉

米は領主が租税で徴収して、余った分が商人に流れる仕組みに成っており、

そのやり取りで相場が決まる。

信長も同じようにやれば兵力削減で余剰米がそれだけ出る分、

利益が出るのではと成る。

しかし、信長からすればそこに興味はない。

寧ろ、街を大きくすればそれだけ収益が上がる事を目指すのである。

天才は自分の理想世界に頑固で有る。

普通の人は他がやっている事をそのままやれば良いと考えるが、

天才は他との差別化で更に上の段階を目指すのだ。

いわば熱田が今の熱田のままでは面白くなく、

その熱田を堺並みの商業拠点にするつもりで考えるのだ。

 

大阪都構想で大阪が大阪のままの発想なら興味はない

と、このブログで述べている様に、

大阪がシンガポールや香港を目指すためで無ければ

何の意味もないという考えである。

いわば大阪都構想にはそういう部分が存在していないから、

無意味なパフォーマンスであると断定するわけです。

 

熱田をより大きな市場にする為には、

熱田での商売が繁盛する事が現実路線で、

堺の様に外国との貿易を目指すには、

尾張という小国だけでは力が無い。

 

さて…どうするか?

 

ここで一つの方程式zが発見されねば成らない。

方程式zとは、商売として売れる産業である。

いわば熱田が扱う特産品である。

熱田は瀬戸焼という特産品を扱う事で

有利な環境にある事は説明した通りだが、

方程式zに結びつく上で、

信長がそれを知っていた事が大事となる。

その上で草鞋一つにしても、

品質の良い品物を扱えばそれは特産品となり、

商売で有利に働くことを理解する。

では、品質の良い品物を生み出すには?

 

楽市楽座は近江の六角定頼が既に行っていたともされ、

信長の独自の発想ではないと言われている。

しかし、楽市楽座を導入する事で、

農民は農業以外の産業を副業とすることが出来る訳だ。

 

そうした楽座に商人である加藤家の者を連れて行き、

品定めをして商品とすることで、

いわば良質の産業を見出すことに努める。

良いモノを安く買い取って高く売るのは商売の基本だが、

良いモノは多少高く買い取っても、

より高く売れるようにマネージメントするのが投資家の基本である。

 

信長は良質の品物を高く買い取り、

商人に良質である事を保証させたうえで高く売る形で、

産業の品質向上につなげる。

売り手も、良いモノを作れば他よりも高く売れるという

競争原理が浸透して、

より高品質な品物を目指してくる。

そうした中で技術のある人間はドンドンと育ち、

より芸術性の高い商品などに進化していく。

 

方程式zが発見されると今度はそこにX〈かける〉αが必要になる。

それがより技術の高い人材が

尾張を目指したくなる環境

それを全国に宣伝する事で、

より高品質な産業への競争力と成る点に気づくのである。

そのαの中には有能/人口という確率も見えるわけで、

人口が増えれば増える程、

より有能な人材、将来性のある人材も多く集まるという計算になる。

 

そこでようやく信長は租税を低くする政策を用いるのだ。

更に租税を低く抑えた中で、

今度は投資という部分も含めて、米を買い取る事も行う。

いわば農民の副業として産業を発展させるには、

原資が必要になる。

欧米の様に出資と言う形の貸付までには至らずとも、

農民に金を持たせて副業やら趣味に使えるように成った。

 

発想そのものは「租税の安い国尾張」という

人を呼び込むためのもので、

租税を下げた分、何らかの方法で利益を上げようと考えて、

農民から米を安く買う事を思いついたに過ぎない。

結果として農民は米を売る事で原資を得て、

品質の高い副産物を生み出せるようになった。

副産物を生み出す原資としなくとも、

楽市楽座の中で商品の売買が活性化される事で、

より資本的な社会が構成されていくのである。

いわば米だけが農民の産業だったのが、

漬物を作れば売れる、

魚を釣れば誰かが買う、

牧畜にしてもそれなりの商売が出来る。

いわば買い手が金持ちに限られていた部分が、

農民にも売れる状態となり、

需要が増えるという事に繋がったのだ。

 

こうして発展した座の中に、

場所代という名目で徴収する事で、

立地の良い場所はより儲けがあり、

立地の悪い場所では儲けが下がる意味から、

不要な税率計算を用いずに調整する事も出来るように成るわけである。

 

またこうして発展した座の中から

商人は交易によって売れる商品を見定めて、

その産業から独占的に仕入れを行う事も出来た訳であるが、

信長は自身の権限を利用して寧ろ卸問屋的な状態で、

そういう品物を商人に渡して自身の利益とした。

 

これって実は江戸時代の経済状態の基礎にも成っている部分です。

信長のやっていた事は家康が何気に引き継いで、

信長の功績として消えてしまっている分、

江戸文化として認知された話です。

ただし大きな違いは対外貿易までを信長は活性化させようとしたのに対して、

江戸時代は鎖国政策を取ったという違いが生じます。

 

信長の治世は善政であったという意味は、

信長が意識して善政を敷いたという事ではないのです。

結果として善政を齎した才能は「天命」が齎したもので、

天命を意識しつつも、自己の利益を最大限に追究し、

そして自身の治世を魅力的な国とすることで、

結果善政という状態に結びついたという事です。

 

いわば究極の利益追求=万民の自由が齎す恩恵。

これが「天命」が教えることに成るのです。

また、究極の利益追求=万民の需要

という法則もあるのです。

「パン屋が200円でパンを20個売れる状態より、

パン屋が100円でパンを100個売れる状態の方が、

パン屋は儲かる。」

という言葉で表現する訳ですが…

 

これは、200円のパンが20個売れる格差の経済よりも、

100円に落としても100個売れる平均化した経済の方が、

パン屋としては利益率が高くなるという意味です。

 

想像力の無い人は言葉上の計算式に捉われて

100円のパンが100個売れる時は、

200円のパンが0に成ると想像してしまう。

ところが100円のパンが100個売れる経済状態なら、

200円のパンは20個よりもっと売れるのである。

仮に200円で売る品質を100円に値下げしても、

4000円の利益が倍以上の10000円の利益に成るわけで、

原価率40%で計算しても…4000-1600=2400円

10000-4000=6000円

20個しか売れないものが半額で100個売れるか?

半額のバーゲンセールの殺到率を見れば、

5倍どころか下手した10倍以上のおばさん達が

奮闘するでしょ。

 

とは言え100円にすれば買ってもらえる経済状態が望ましく

ガメツク200円に拘って100円なら買える人が買えない経済では

その収益は少なくなる。

いわば需要が増えるように物価は調整し、

需要に伴う形で雇用が齎せなければ、

最大の利益率を上げる事は難しいという話です。

 

現代社会でインフレ率の上昇なんてことを言っていますが、

結局はそのインフレ率に見合った需要が無ければ、

収益は上がらない訳で、

需要に直結する国民の収入を向上させなければ、

何の意味も無いという事です。

また収益向上に伴い物価も下がれば、

余剰金がそれだけ発生し、その他の需要にも結び付く。

卓上や知識だけの計算ではこうしたバランスは見えないわけで、

税収が下がるからといって、税収を上げるための政策や誤魔化しを用いれば、

経済は弱体化して更に税収は下がるだけのです。

そういう中で収益が落ち込む可能性が有るかも知れないが

一度価格(税収に基づく税率)を落として

思い切って価格を下げてみる決断は大事だという事で、

200円のパンを100円に値下げして見なさいという意味でもあるわけです。

 

高速道路の無償化一つでも大きな違いは出ます。

トラック一台に100円のキャベツ1000個輸送すると考えて、

高速料金で2万円、ガソリン代で1万円。

国内の輸送費だけで10万円分のキャベツから3万円近いコストが発生するわけです。

高速代だけでも減額されれば100円のキャベツが80円に下げられる。

更に高速代無償化で地方へ遊びに行くコストも下がる訳で、

国内旅行がより安価になる分、

GoToキャンペーンより効果的に成るのでは?

麻生太郎が前にやった週末高速無償化も良い意味で良かったのに、

今はそういう発想すら踏み込めないアホータローさんに成っちゃった?

外交問題も上手くこなせば防衛費もそこまで積まなくていい話に成るのに…

酒税を低下させてお酒が安く売れる方が、

飲食店としては食事商品がそれだけ売れるようになる。

生中一杯100円なら、250円以上余るから焼き鳥2本追加で頼める感じ。

 

不要な経費を全て削減して、経済活性に基づく税率に下げられないのは

信長の功績すら発見できなかったこの国の頭脳故に

到底、理解すら出来ない天才の理論なのでしょうか・・・

【第六話 熱田】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

〔改訂版〕

 

信秀は吉法師を抱えて熱田へ到着した。

一行は先ず熱田神宮を訪れて、

そこに馬を置き神宮を参拝した。

 

江戸時代の宮宿の図を参考にすると、

現在の熱田神宮の西側から南に掛けて

熱田(宮宿)の街は広がっており、

現在の地図で堀川から先の南側は、

海が広がっていた状態である。

※ブログ版なのでネット引用の地図を載せます。

 

神宮の西側の通りは既に街を形成していたため、

信秀ら一行は神宮東側より入って、

東門に馬を置いた。

そして、本殿を参拝した後に、

徒歩で南門へ向かい熱田の街に入った。

神宮境内を出るとそこには大きな港町が広がっていた。

多くの船が行きかう波止場があり、

街路は網目の様に形成され、

いくつもの建屋で埋まっていた。

 

吉法師は信秀に連れられて、

そこから東海道の本道に該当する、

大通りへと出た。

 

真新しい光景に吉法師は興奮して、

 

「まるで明〔みん〕の様ですな」

 

と、明の絵巻で見た光景を例えて信秀に伝えると、

 

「堺はもっと大きいぞ」

 

「堺?」

 

この時吉法師は日ノ本に

堺という場所が有る事をまだ知らない。

すると信秀は真西の方角を差して、

 

「あの山を越えて先に行った場所に堺という街がある…

堺は今では京より大きいかも知れんな。」

 

と、伝えると

吉法師は更に興奮して、

 

「京より大きいのですか!!」

 

と、興味津々に答えた。

無論、吉法師の中では明の都と京の区別すらついてないが、

京が日ノ本の都である事くらいは知っている。

吉法師一行が大通りに出ると、

そこには多くの人が行きかう賑わいがあった。

供回り入れて総勢50名位の団体であり、

明らかにどこかの領主の一団で有る事は察せられる状態だが、

街に居る人達は何のお構いなしにいつも通りに暮らしていた。

吉法師は那古野とまるで雰囲気の異なる事に疑問を感じて、

 

「父上、何故ここの者たちは普通に暮らせるのです?」

 

その質問だけでは信秀は意味を解せなく、

 

「どういう事だ?」

 

と、聞き直すと、

吉法師は街の人々を見ながら、

 

「那古野の城下で民は私たちを恐れていました。

でも、ここの者たちは父上を怖がっておりません。」

 

ようやく意味を理解した信秀は大きな声で笑いながら、

 

「おお!!なるほどな、そういう事か!!」

 

そして、

 

「ここの者たちは商人だからじゃ!!」

 

と答える。

その答えに吉法師は、

 

「商人?」

 

恐らく現代人でも信秀の答えを理解するには苦しむかもしれない。

すると信秀は少し言葉を考えて、

 

「商人は何も言わずとも大人しく働いて税を納める、

農民は何も言わねば働かず税を隠してしまうからじゃ…」

 

10歳の吉法師にはまだ税の事などよく理解できていなかったが、

商人は何も言わずとも働き、農民は働かないという事は理解できた。

そして信秀は、

 

「農民は服従させて働かせるもので、

商人は儲けさせてさえやれば勝手に働く。

だから領主を恐れなくても構わないのだ。」

 

信秀は君主として当然理解するべき事を伝えたつもりだった。

現代の言葉として聞いても、

労働者と経営者に対して言っている様な話にも聞こえる。

ただし、現代では経営者はよく税を隠す。

 

しかし、天命を得た吉法師には納得できない話である。

いわば農民は領主を恐れて暮らし、

商人は自由に暮らせる。

天命を理解する者には、

次の定めで

「農民に生まれ変わったら地獄だ」

と考えてしまい、

「次、農民に生まれ変わって地獄の様な暮らしに成るのは御免だ」

と想像してしまうのだ。

故に吉法師の中では万民が公平である事が望ましいのだ。

天命を知るものは常に自分が恵まれた状態で生まれるとは限らない事を理解し、

天命は全てに平等であるだろうと思い込んでしまう。

そう理解する故に、初めて特別な使命を帯びるのであって、

それを理解しないものは一時の隆盛を得ることが有っても、

時代に埋もれて行く存在にしか成れないのである。

いわば時代に淘汰されるのである。

無論、世の中が天命を理解できずに淘汰する事も有る。

しかし時代として天命は生き続け、そして新たな時代へ受け継がれる。

エイブラハム・リンカーンもそうであった様に、

天寿を全うする事が天命では無い。

何を残せたかが天命なのである。

 

ただし…信長の天命は何も残らなかった…

全てが夢幻の如く消え去ってしまった。

安土城が消え去ったように、

信長の治世の功績は何も残されていない。

ただ魔王として天下に布武を示した事以外は…

 

この物語では、その実像を解き明かすべく、

細かい情勢を記したうえで史書に残されなかった部分を

解析していくものである。

信長に関連する史書は太田牛一の信長公記などがあるが、

実際は軍書または兵書に近く、公式性はない。

宣教師の残した部分も、細かい領国経営は記されていない。

寧ろ公式な記録を記していた人物は

村井貞勝であったと推測できるからだ。

 

明智光秀は信長に仕える中でキリスト教の知識もあった。

光秀が本能寺へ向かう際に、

信長がキリストの様に成る事を恐れたのである。

いわば信長がキリストの様に神として崇められると、

自らはユダの存在として歴史に残る事を理解していたからだろう。

実際に稀薄では有るが史書の記録などから、

信長の治世は高い評価を得ている。

魔王と称しながらも万民に自由を齎した存在であった。

これを筆者は敵にとっては魔道、味方にとっては仙道をという意味から、

「魔仙」という言葉を生み出した。

ただし魔仙は権力者の象徴であって聖者では無い。

いわば仏教の開祖ブッダが悟りを開いた部分でも有り、

権力者では本来民衆の心に寄り添う事は適わないのだ。

ただ、大陸の諸葛孔明や関羽、そして菅原道真などの様なケースも有り、

光秀は信長がその領域に達する事を嫌ったとも思える。

無論、その領域に達する功績も光秀は認めていたわけで、

ある意味信長の功績を消し去った後に、

すべて自分の功績として書き換えるつもりだったのかもしれない。

 

光秀が実際に狙ったものは信長に関するあらゆる記録でもある。

それらは京の二条城や村井貞勝の屋敷、

そして安土城に有ったと推測でき、

村井貞勝の屋敷は本能寺の目の前に有ったとされているから、

光秀はこれらを側線して攻撃している。

安土城本丸に関しては本能寺の変後、光秀の腹心の明智秀満が入っている。

彼が安土城本丸を焼き払っていないとしても、

それらを占拠した際に必要な物は全て焼失させていると考えられ、

もし仮に何らかの物が残されていた場合、

明智秀満が坂本城に敗走し自害する際、

全ての遺品を掘直政に引き渡しているはずである。

いわばそこに紛れていたはずなのだ。

しかし、その遺品は全て明智光秀の収集物であったとされている。

 

光秀を擁護する側からすれば納得の行かない話に聞こえるだろう。

これこそ正に光秀が日本に残したもので、

「隠蔽すれば全ては謎に伏し、隠れたものは美化される」

という話である。

光秀が韓信に相当する人物で有ると同時に、

曹操という「乱世の姦雄」たる人物であったとする意味で、

自らを美化する策に長けていた点は、

寧ろ現代に至って全てを総括して見れば理解できる話だ。

もし美化される様な誠実な人間ならば、

謀叛では無く、寧ろ出奔していたか、

最低でも正々堂々と反旗を翻したであろう。

謀叛以外に信長を倒す方法が無いとしても、

美化するならその汚名を被る事を句にしたためた訳で、

「時は今雨がしたしる五月かな」

なんて句を残すことは無かったと言える。

これを美化している事事態、

陰湿な定めを受け継いだこの国の実態と言えるのかも知れない。

 

では、実際に信長の治世とはどのようなモノだったのか。

この話はとりあえず桶狭間までの物語としているので、

この辺の話は今の段階で簡単に説明しておこう。

 

信長の治世では楽市楽座などの話が有名で有るが、

寧ろ貨幣経済を農民まで浸透させた事が大きい。

詳しい記録は残ていないので様々な研究者が

勝手な妄想で色々と言っている部分でもあるだろうが…

 

先ず、信長は明の永楽銭を輸入し、自国通貨を作らなかった。

その理由は海外貿易を既に念頭に置いていたため、

独自の通貨では対外的な価値の保証が得られない事を知っていた。

歴史研究家でこの部分を考慮していないのはある意味想像力が足りない話だ。

今でこそ為替が国際基準で成立しているが、

どこぞの国が勝手に通貨を作っていきなり為替の基準に入ろうとしても、

その価値は評価を受けない。

これは明でありポルトガル、スペインとの貿易でも同じで、

それならば信用のある永楽銭を輸入する方が対外貿易で得策と考えた。

また永楽銭の価値は日本国内でも統一の価値で認識されており、

国内流通に関しても信用が得られた点でも便利であった。

 

農民への租税は寧ろ軽かった。

家臣の所領運営に差しつかい無い程度の税徴収を許していた感じで、

検知なども領主単位に任せる方針としていた。

では、信長はどうしたのか?

米の納税を軽くし、信長は米を農民から安く買い取って、

商人にある程度の高値で捌いた。

商人はそれを流通で捌くことで利益を上げる仕組みで、

信長は米の専売やその他に塩、油、酒などの扱い、

大きな利益を上げていた。

これらの専売権は寺社にあったともされ、

そういう意味で本願寺一向宗と揉めたことも考えられる。

 

こうした貨幣経済ベースの治世であったため、

農民は食う為の米では無く、売る為の米を作る感覚になり、

多くの米を買ってもらえれば多くの金が入るという意識改革も生まれた。

例えそれが実際は買いたたかれた値段でも、

税として義務付けられるよりは全然やりがいのあることに成る。

それ故に信長治世の農民は良く働き、

収穫量も著しく高かったとも言える。

いわば米を沢山作れば儲かる仕組み故に、

作業範囲を広げて田畑を耕せば自然収穫量も上がる。

食うだけの為の田畑ならば、

無理せずにそれだけの作業で終わらせてしまうが、

金に成るならそれ以上の作業にも精が出る話に成る。

そういう意味でも収穫量が1.2~1.5倍には上がったと考えられ、

場合によっては2倍にも成ったかもしれない。

 

逆に秀吉は寧ろ農民が金を以て武器を買い、

再び一向宗の様な反乱に発展する事を恐れたのかもしれない。

自身が農民出身であり、野心的な出世を成し得た分、

農民から信長が登場する事を恐れたと言える。

晩年の秀吉は大陸の話を耳に出来た環境でもあり、

黒田官兵衛などから「史記」などの話を聞いたであろう。

史記には秦の始皇帝が没した後、

農民上がりの「劉邦」が漢を興している。

秀吉は権力を握った自らを始皇帝と見定め、

死して生まれ変わる「劉邦」の存在に信長を見たのだろう。

勿論、生前の信長は秀吉に、

「おれは来世で農民に生まれても天下を狙える世にする」

という理想は農民出身の秀吉には聞かせていた話だろうし、

その実践の代表が秀吉自身であったことでも察せる。

故に秀吉は信長を恐れ、そのシステムを破壊した。

 

政治的な見識からも破壊した理由は説明が着く。

いわば信長が農民から買い取っていた米の分は

徴税で徴収すれば良い話で、

税で得た米は寧ろタダ同然で手に入り、

それを商人に流せば利益は更に増える。

これは塩、油、酒なども同じである。

それを権力で服従させれば、信長以前の時代の通り、

世の中は治まるわけで、

天下人としてはそれだけ大きな利益も得られる。

故に刀狩りと太閤検地が実施されているのだ。

寧ろ家臣に対しては徴税による収益も向上し、

領国経営もやり易くなる。

しかし、これでは農民の働く意識は薄れて行くことに成る。

 

信長と秀吉、どちらが賢いかは読み手の判断であろうが、

あえて言うならば、今の日本の経営者が陥りやすいのが

秀吉の考え方である。

いわば日本は秀吉の定めも受け継がれているのだ。

 

他国は旧ソビエト連邦の様な社会主義政策を取っていたのに対し、

信長は既に資本主義経済のベースを築いていた。

今でこそ当たり前の様に理解されているシステムが、

当時ではまだ理解すら及んでいなかった時代で、

信長がそこまでのシステム化していたのかと疑問に感じる人も多いと思う。

しかし兵士ですら金で雇うシステムであった点を考慮すれば、

これが実態であり、その原資をどうやって生み出したかを逆算すると、

ここまでのシステム化された社会で無ければ寧ろ成立しない。

それに対して秀吉は逆行した政治を敷いたことに成る。

 

無論、資本経済の問題点は脱税である。

故に貧相な家臣に対しては軽い税をキッチリ取り立てるようにも指示している。

その際に検地を行っても構わないという大雑把な経営指導で有ったとも言えるが、

結局信長自身はある意味日の本一の豪商で財を成したビリオネアーという存在で、

徴税に関してはほぼ無関心であったと言える。

何故なら租税に頼らずとも、金は幾らでも入って来るのだから。

いわば上納というものを廃止した上で、

織田商事として米の買取などさせて働かせていたと思われる。

所領を持たない下級武士に対しても戦争以外でこうしたビジネスで働かせ、

給金を支払ったと考えれば合理的に成立する。

様々な記録に残っている部分を精査して考えると、

信長治世の実態の辻褄はこうした考えで合ってくる。

更に信長が永楽銭を旗に掲げた意味も、

「I Love 金儲け」という意味の看板なのだろう。

 

同じ時期にしてヨーロッパのルネッサンス期には

農業資本主義や商業主義という資本主義のベースが誕生している。

寧ろ信長が同じ時期にこれらのシステムを考えていないとする方が、

日本人の能力として悔しい話で、

日本でも既にそういうシステムが構成されていたとする方が良い。

ただ、それがキリスト教宣教師によって齎されたアイデアで有る可能性も否定できないが、

恐らく信長なら信秀のこの時の言葉

「商人は儲けさせれば勝手に働く、農民は服従させて働かせる」

からヒントを得て、「農民も儲けさせれば勝手に働くように成る」

という部分は気づくはずで、

実際に熱田などの商人から「専売」という方法の膨大な利潤を教われば

徴税なくして国を潤わせる方法も考えれたと言える。

いわば「専売」とは現代では「独占禁止法」に該当する行為で、

その利益は巨万の富を生み出すのである。

 

光秀や秀吉も定めを受けた存在であり、

それは家康も同じなのだ。

しかし、それは万民を導く意味での「天命」では無く、

寧ろ「運命」という定めである。

もし彼らの定めを「天命」として理解したのなら、

この国だけの話で言えば、家康に天下を取らせる定めだったのだろうと言える。

しかし結果、現代社会の規範となるはずの信長の功績を

この国から消し去ったのならば、

いわば西洋中心のグローバル化を進める為に、

日本はその中心的な役割から遅れを取らせる意味での「天命」となり、

明治維新からの追い上げも、

ただ軍事的な躍進を遂げたのみで、

グローバルなビジネスで日本がようやく活動するのは

第二次世界大戦での敗戦を迎えた後である。

しかし、信長が天命で広げようとした「働く意義」

いわば「人は儲けさせれば自然と働く」

という社会原理は全く理解されず、

寧ろ秀吉の「服従させて労働を強要する」という考えが浸透し、

結果今の沈没寸前の日本が有ると思えば奇妙な「天命」である。

 

いわば信長の天命が世の中によって淘汰されたのは、

日本を世界の中枢として活動させない為の呪縛と言える。

自分の事、日本だけの国益で、

世界全体のバランスを考えられない国が、

世界の中枢に成っても誰も喜ばない。

それは今、2020年現在のアメリカを見ても同じで、

寧ろ禍をまき散らす存在でしか無い訳である。

日本という国が、

平和という武器を前面に掲げて世界に貢献する姿勢が無いのなら、

黙って世界の平和を待っていれば良いという話で、

これが日本の「天命」と成ってしまう。

故に何れも運が齎した「運命」であり、

日本人全体が日本に課せられた「天命」を理解できない内は、

このある意味悪しき「運命」の呪縛によって淘汰される国と成るのである。

 

恐らく信長の様な「天命」を得た者は、

心としての優しさは感じられないのかもしれない。

しかし、これが結果としての優しさに成るわけだ。

むしろ情けや憐みの優しさは

個人の優越感が齎す場合、

いわば己を美化する為のものも有れば、

本当に情という気持から来るものもある。

他人がそれをどう感じ、どう評価しようが、

実は当の本人ですら内心自分を疑う事でも有るのだ。

 

吉法師は我がままである。

寧ろ信長に成ってからは利己主義に近い考えである。

ただ全ての人間を利己主義という考えで割り切る分、

合理的に考えられるのである。

そして自身への裏切りは全て非合理な考えで、

合理的な世の中を阻害するモノに成るのだ。

 

天才の考える事は難しいとされるが、

合理的な世=天下泰平であり、

信長にとって如何なる生を受けようとも、

自分が自分で有り続けられる事を望んでいるだけだ。

その結果は利己主義では無くなり、

共存共栄の社会を齎すのである。

 

自分が利己的である様に他人も利己的であるから、

道徳など不要である。

寧ろ、他人も利する話で自分も利すれば、

お互いが共存共栄する利害を見極められる。

現代風に言えば「WINWINな関係だ」

いわばこれは商道の基本と言える。

 

この時、吉法師が想像したのは

単純に万民が笑って暮らせる世の中である。

ある意味少年らしく青臭い話である。

父親信秀が現実を説いても、

吉法師には関係が無かった。

ある意味、この世に極楽を齎せなければ、

恐ろしくて死ぬに死ねない位は考えたかもしれない。

そして吉法師は信秀に、

 

「私は農民もここの様に暮らせる世にしたいです。」

 

と、ハッキリと言った。

信秀は寧ろ吉法師の優しさから来る戯れと

和やかな笑みを浮かべながら、

 

「もしそれが適うなら天下を取れるぞ!!吉法師よ!!」

 

と、吉法師の頭を撫でながらそう言った。

内心、信秀もそう考えた時期があったのだろう。

誰しもそう青臭い事が過る時期はある。

しかし現実に直面する中で、

不可能に近いと考え大人になるにつれて割り切るのである。

そういう意味を込めて信秀は吉法師に語り掛けたが、

吉法師は

 

「成らば天下を取って、この世を極楽にして見せます!!」

 

と、言い放った。

信秀は「極楽」の話はどうでも良かった。

寧ろ吉法師が天下を目指すと意気込んだ事に

頼もしさを感じ大きな笑いとと共に

 

「おお!!成らば天下を取ってみせろ!!」

 

と、大喜びで吉法師を抱き上げ自分の肩の上にのせて

肩車をした。

二人の会話は単なる親子の話である。

相手の本心などはどうでも良い。

お互いに親子としてコミュニケーションが取れていれば良いのだ。

そして目線が高くなった吉法師に信秀は、

 

「どうじゃ世の中がよう見えるだろ!!」

 

と言うと、

目線が上がって熱田をより見やすく成った吉法師は、

寧ろさっきまでの会話など忘れて

熱田の賑わいに見とれた。

 

「父上!!熱田は素晴らしい所です!!」

 

吉法師のその言葉に信秀は、

 

「ならばもっと楽しい所へ行くか!!」

 

と、吉法師を肩に乗せたまま、遊郭街へと足を進めた。

吉法師はもっと楽しい所という期待を込めて

 

「そんな場所〔ところ〕がまだあるのですか?」

 

と高い目線で見渡しながら聞くと、

 

「宴じゃ宴、熱田はいつでも宴が楽しめるぞ!!」

 

とだけ信秀は伝えた。

信秀が向かったのは東加藤という商人が運営する

芸子の居る遊郭であった。

遊郭とは現代風に言えば風俗である。

ただ風俗と言っても様々だが

信秀が向かった先はいわば名古屋の栄にあるキャバクラ、

寧ろそれより品格のある高級クラブといった所だろう。

現代人からすれば子供をそんな場所に連れて行くなんて、

非常識にも程がある話だろう。

しかし当時はそんな常識などなく、

むしろ現代でも自分の顔の利く店なら常識を考えずに

子供の社会勉強と言う観点で連れて行く人も居るかもしれない。

 

この後、吉法師は素行がどんどん悪くなっていく訳だが…

それを見てどう考えるか、

むしろ天下統一に向けて躍進する信長を見てどう考えるか・・・

それは人それぞれであると思う。

実際はその子供の素養次第でしか無いのが現実で、

常識の中に押し込んでも奇才は生まれないとも言えるのだが…

 

信秀一行が熱田に居る噂は熱田の商人たちの中で直ぐに広がった。

 

熱田商人の権益は加藤家が牛耳っていた。

この熱田の加藤家は

鎌倉時代の加藤景正という瀬戸焼の開祖が本流と考えられ、

その末裔が美濃に移り住み岩村城に居城していたとされる。

岩村城が落城しその身を追われたのちに熱田に移り住んだらしい。

熱田で商業拠点を開設し、その後津島などに分家を派遣することで

加藤家の繋がりを活用した流通網が構築されて行った。

 

瀬戸焼という陶器を武器に豪商で名を馳せた一族と考えられ、

鎌倉時代より続くその家系は

いわば現代風でいう華僑やユダヤ商人の様な繋がりを基礎に、

各地に点在していたと考えられる。

当時の記録上明確な記述は見当たらず西と東加藤の存在は、

どういう形で有ったか時代時代で異なっても来る。

寧ろ信長と信行の御家騒動の話を参考にするならば、

津島でも加藤家が牛耳っていたと考えるべきで、

津島を西加藤とし、熱田を東加藤とする方が話の辻褄が合う。

 

瀬戸焼という高品質な工芸品を取り扱えたことで、

加藤家の商人としての優位性は十分に有ったと考えられる。

現在の愛知県瀬戸市は尾張東部に位置しており、

美濃と三河を跨ぐ場所に該当する。

尾張東部を瀬戸焼の本流と意識すると、

自然、熱田が加藤家の本家であったと推測できる。

この物語ではそのように考えるものとする。

 

所領が分断されていた戦国の時代に於いて

加藤家の様な商人は大事にされていた。

いわばそれらを蔑ろにしてしまうと、

領内に入って来る流通が止まる事も懸念された時代である。

商人側としても流通の拠点を不本意に失う事は、

寧ろ大きな損失と考えるべきで、

両者が共存共栄する上で権益保証という判物を

領主側が発給する事で、

いわば護衛契約という形が取られていたと思われる。

その上で権益保証という契約の中で租税に値する利益の一部が納付され、

契約締結の際にその金額が定められていたのだろう。

 

加藤家の当主左衛門〔加藤景正が四郎左衛門としていた記録から〕は、

江戸時代の記録で西浜御殿とされる場所に

大きな遊郭を構えていた。

熱田の加藤家が後に東西に分かれるが、

記録上の話では桶狭間以後の話である。

江戸時代の参考資料では西浜御殿と東浜御殿があり、

熱田の加藤家が分家した際に分かれたものと考える。

よってこの当時は東浜御殿に加藤家の屋敷があり、

船着き場に近い西浜御殿とされる場所に、

大きな遊郭施設があったとした。

 

西浜とする場所に構えられた大きな建物は、

芸子を抱えたいわば接待用の施設である。

そこに信秀ら一行が訪れる事を想定して、

加藤家当主自ら玄関口で待ち構えていた。

 

信秀の一行が加藤家の遊郭に到着するや、

左衛門は自ら外に出向いて信秀を迎え入れた。

 

「弾正忠さま…当家に足をお運びくださいまして誠にありがとうございます。」

 

と、丁寧に左衛門があいさつをすると、

信秀は肩に乗せていた吉法師を下ろして、

礼を正したうえで、

 

「加藤左衛門殿、自らの丁寧なご挨拶痛み入る。」

 

と、信秀も丁寧に返礼した。

こうした武家と商人の関係性は

大陸より伝わる常識であったとも考えられる。

革命の歴史が強いいわば中国では、

行商人の支援を得て天下躍進に繋がったケースも多く残り、

そうした行商人の離反はある意味脅威とするべきものと考えられていた。

行商人側も力を持たせる相手を選んで繋がりを築く。

いわばどの勢力に投資する方が

自己の権益を有利に運べるかを考えていた存在とも言える。

これは堺公方とされる足利義維〔よしつな〕を抱えた

細川晴元の家臣三好家(元長、長慶)が堺商人より出資を受けて、

勢力基盤を拡大した事でも想定される話である。

特に三好長慶は堺との繋がりは深かったと考えられる。

記録上では1539年に信秀はまだ細川晴元の供をしていた三好長慶に

献上した鷹を与えている。

行商人の情報から早々と有力な人物を信秀は把握していたとも考えられ、

彼がそうした関係を大事にしていた事も伺える。

 

肩車から降ろされた吉法師は

信秀と左衛門の礼儀に準じたやり取りを眺めて、

自らも政秀より散々に行儀を教わっていた事もあってか、

その様子に感銘を受けた。

 

(父上の様な人でも、こういう事をするんだ…)

 

ある意味、信秀が見せたのは上下の関係でなく

寧ろ対等な形の礼儀であった。

故に子供ながら格好悪いとは思わなかったのだ。

すると挨拶を交わした信秀は吉法師に、

 

「吉法師よ、加藤殿にちゃんとご挨拶を」

 

と、促した。

吉法師は勿論、行儀よく、

 

「織田弾正忠家嫡男、那古野城城主の吉法師と申します」

 

と挨拶すると、

左衛門は吉法師に頭を下げて

 

「加藤瀬戸家当主の左衛門と申します。以後、お見知りおきを…」

 

と、大人としての礼儀を示した。

吉法師はこうした大人としての作法に更なる感銘を受けた。

いわば自分が大人として扱われた事より、

寧ろ自分が大人として対応出来ている事に喜びを得たと言えよう。

 

こうした感動や感銘は世の中では些細な事かも知れない。

現代の教育ですら意識はされていないが、

幼少期のこうした経験であり感動は、

青年期を得て大人に成った際に、

深層心理に対する社会的修正力を養うのである。

 

単純に言えば、幼少期に虐めを受けた経験のある子は、

人に対する優しさを感知しやすく成り、

自分が仮に人を害する事をしてしまったら、

すぐさま過ちを認めて関係修復に努める事が出来るように成る。

ただし幼少期のそういう経験を覚えていればの話で、

当人が忘れてしまうと、そういう深層心理は芽生えないケースもある。

 

吉法師にとって礼儀を大事にすることは、

自分も気持ちが良いし、恐らく相手も気持ちがいい事だという、

単純な意味で理解した。

こうした意識は後の信長が

家臣に礼や感謝を伝える部分で生きてくるのである。

無論、逆の意味の癇癪〔かんしゃく〕持ちに成る部分は、

この後の吉法師に降りかかる不運が齎すもので有る事は

言うまでも無い。

そういう意味で信長は2重人格者の様な感じに成る。

 

そうして信秀ら一行は一部の護衛を門前に残して、

加藤左衛門に案内されるまま遊郭の中へと入って行った。

 

どうも…ショーエイです。

さて今日は「傾城の美女」の話をします。

 

「傾城の美女」と聞いて

美人に気を付けろという単純な意味で

理解している人も多いと思います。

でも、実際この話は女性に限った話では無いです。

 

あくまで男が美女の気を引くために、

ついついその言葉を鵜呑みに聞いてしまう心理を語った話で、

美女に限らず友人でも社員でも同じなのです。

 

では、傾城するのは何が原因か?

人間には嫉妬や妬み、恨みという業が存在します。

傾城の助言を用いる人は、

和を搔き乱して自分の立場を高めようとする人です。

 

「あの人は信用してはダメです。」

と、権力者に直接助言する人は全て傾城です。

明らかな結果を以て助言する場合は、また別です。

 

日本という国は実際に「傾城の美女」化した状態で、

 

北朝鮮は信用できない。

中国は信用できない。

ロシアは信用できない。

 

と、自分の好みで言っている人なのです。

信用できないから必ず禍を齎す。

まあ、当たり前の様に聞こえる話を

正論の様に主張してますが…

 

信用してもらっていないなら裏切るというのは

人間として当然の行動なのです。

貴方がその言動で人から信用されなく成ったら、

どうしますか?

 

まあ、見限って裏切るのは常識かな…

 

国際社会が上手く機能していく上では、

裏切らせる様な姿勢はNGなのです。

 

中国に対して脅威としたところで、

今のまま技術躍進が進む状態は継続していき、

信用されない状態で孤立させれば

自己防衛の為に軍事力を拡大するのは当然の流れです。

だって中からしてみれば信用されていない事を理解しているので、

いつ悪者にされて攻撃されるか不安で仕方のない話に成るからです。

 

それで結果戦争と言う状態に成った際、

中国に不信感を抱いていた人たちは、

「ほれ見ろ」

と、言う話に成るのでしょうね。

 

その「ほれ見ろ」を結果として齎したのは、

その人たちの不信感が齎した結果でしか無いのです。

それで戦争に成って勝てれ良いけど…

負けたらもっと最悪。

勝ちも負けも無く、ただ被害だけ発生する戦争が、

現代の状態です。

そういう事も考えずに言って、

結果、国を亡ぼすのです。

 

名君はそういう言葉を鵜呑みにしません。

信用できるか信用できないかは、

お互いの信頼関係の下で、

相手がその信頼を裏切らなければ良いのです。

 

ヤクザな言い方で言えば、

ある境界線を敷いてその境界線を越える真似をしたら

その時は容赦しない。

その境界線は合理的な意味のもので、

国連に於いては国連憲章に基づく話の中で、

内政不干渉という協定上、国の権利行使として

理解できる範疇か、

それとも人権保護の観点から譲歩させる話か、

この辺を「合理的に議論」して妥協する交渉をしなければ成りません。

 

ウイグル問題を例に挙げるなら、

ウイグル人の強制避妊などは人権問題に該当します。

しかしウイグル人が国=中国に順応して暮らす様に教育する事は、

ウイグル人によるテロ発生の事実などから、

中国の国家安全保障上の内国問題と考えるべきなのです。

現状、この境界線が入り組んだ議論に成ってしまう為、

中国政府に妥協させる議論は難しいのも事実です。

 

中国政府の権利としての部分は認めつつ、

人権保護の観点から修正させるべき点は修整するように交渉できなければ、

ただ一方的に西側の価値観を押し付けているだけの話に成ります。

仮に現状のまま中国に圧力を用いても、

中国が何れも妥協する事ない状態に成れば、

ウイグルの人たちの人権は何も改善しないのも事実です。

香港のケースのように寧ろ状況を悪化させかねない。

 

そういう状態で

結果として戦争する事で決着付ける話にしかならなければ、

双方が軍備を拡大して構えた状態を齎すだけなのは

目に見えて解る話です。

その上で南シナ海の話も絡んでくると、

まあ、そういう話も解決しないですねとしか言いようが有りません。

寧ろ、沖ノ鳥島埋め立ての事実が生じる意味では、

日本と中国に対する2重基準をどう策定するかも議題と成る話でも有ります。

 

2重基準が生じる上では、話し合いで中国が南シナ海のケースを

妥協することは無いのも理解できるからです。

 

日本人の言っている話は戦争で決着付けること前提の話でしか無く、

橋下徹くんの持論などは正直幼稚な話として一蹴させてもらいます。

 

自分達の都合の悪い事は隠す。

日本人特有のダメな発想で、相手にバレバレでも

証拠が云々で隠し通す。

基本、証拠はバレてる時点で既に発生しており、

国際基準では疑義を持たれた側が

逆に不正がない事を証明できなければ有罪とする事も出来ます。

「桜を見る会」「森友・加計」の様に、

政府が証拠を隠蔽できる状態で、

証拠を見せろと開き直る状態を良しとするのは間抜けな判決で、

寧ろ刑事裁判では

隠蔽した事実が明らかな状態なら、

不正が無かった証拠を明確に提示できなければ有罪に成ります。

いわばアリバイ証明。

まあ、あれだけの証拠が出てきているのに、

証明するべき証拠を隠蔽した自民政府を擁護するレベルも

民意が低いから仕方のない話として笑うしかないのがこの国なのかも。

 

ある意味、日本を滅ぼそうと思えば、

現状黙ってて勝手に滅んでくれというのがベストな話で、

中国人ですら日本をあえてバッシングせず、

おだてて調子に乗せたまま葬り去ろうと思っているのかも知れません。

 

ほっとけばドンドンダメになるだけなので、

それで良いならどうしようも無いよね。

だって国民の大半がダメに成っている事実から現実逃避したいのだから…

傾城の美女として、日本人は「一番最悪な女化」している事に気づけよ!!

 

上に書いた証拠証拠と言ってバレバレの事実を隠蔽する奴、

他人を悪く言って問題を複雑化する奴、

自分の主張を肯定させる為に

さらに他人同士の関係を悪化させる工作までして、

他人を巻き込んで大きな問題に発展させようとする奴。

 

これって最低最悪な奴だと思わないですか?

傍からみると日本てこんな状態ですよ。

【第五話 無情】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

〔ドラフト版〕

 

那古野城下の視察を途中で切り上げてた吉法師の一行は、

その足を古渡へと向けた。

那古野から南へ約3キロの行程である。

那古野城下の視察時とは異なり、

古渡までの道のりは、道中の人払いはするものの、

平伏させることはしなかった。

寧ろ政秀は先遣隊に命じて、

道中の人に吉法師様を拝むように命じて、

起立した状態で道を開けさせた。

 

この吉法師の一団を那古野から少し下った道中で

目撃した一人の少年が居た。

少年の名は、日吉丸、後の豊臣秀吉である。

少年は父親に連れられて熱田に買い出しに出かけた際に、

その行列に遭遇したのだった。

日吉丸は麻の粗野な服に身を包み、

鼻をたらし指をくわえてそれを眺めた。

立場が異なれば感じ方もまた違う。

日吉丸は馬上で大事に抱えられている

年も同じくらいの吉法師を見て、

少年ながらに羨ましいと感じた。

多くの配下に守られつつ、

我が物顔で道中の真ん中を

悠々自適に通り抜けていく様に、

自分もあんな身分に肖りたいと羨むのであった。

 

無論、日吉丸がこの時期に吉法師と遭遇したという記録は特に無いが、

恐らく尾張中村で幼少期を過ごす上で、

清州であり、尾張のいずれかの領主の行軍に遭遇し、

それに羨む気持ちを抱いたのは間違いないであろう。

その気持ちが晩年夢を達成した秀吉に

憧れていた人を統べるという喜びを与え、

強欲なまでに権力に固執した事を考えれば、

話としては結びつく。

 

勿論、この行列の主が吉法師で有る事を

日吉丸は全く意識してなどいない。

誰であれ自分と年が近い一人の少年が、

羨むくらいに輝いて見えたのだ。

 

(いいなぁ…あんなの…)

 

一方、その吉法師は多くの家来に守られたまま、

難無き道のりを進んで古渡へと入って行った。

齢10に成るまで、ほぼ那古野城から外に出る事の無かった吉法師…

 

ほぼ、とここでしておくのは冠婚葬祭に於いて、

外に出た可能性は否定できない為としておこう。

それは祖父である織田信定が吉法師4歳の時にこの世を去っており、

その葬儀は勝幡城で行われたとも考えられるからだ。

ただ、4歳の時の出来事故に吉法師もハッキリとは覚えておらず、

移動したとしても輿の様なものに入れられて移動した可能性もある。

ただし、これらは現代人の感覚で冠婚葬祭を考えた形で有り、

親族はそれに出席するのが当たり前だという

現代の常識での先入観であるともいえる。

 

戦国時代の葬儀は、喪主である相続者と、

それを認知する重臣が参列するだけという形で十分であったとも考えられ、

親族が必ずしも参列するという事は無かったとも言える。

いわば、吉法師の名代として平手政秀が参列したのみで、

吉法師は那古野に居た事も想定できるのである。

実際に仏式の葬儀が日本で定着するのは、

江戸時代に入った1635年頃とあり、

それまでは火葬や納骨などは行われていたが、

葬儀自体の規模や方式はまちまちで有ったと考えられる。

 

また、冠婚葬祭の度に、物々しい人員を宛がって移動させるなら、

その人員をそのまま城の守りに配置して、

常時緊急事態、いわば紛争に備えさせておく考えの方が

寧ろ合理的な状態であったとも言える。

尾張内外に敵の多かった織田弾正忠家なら、

寧ろそうした警戒状態で考える方が当然で、

自分の意思での移動手段が持てない、いわば馬を操れない子供は、

姫君同様に城の中に閉じ込めておく方が無難と考えても良い。

 

そう考えると実母である土田御前と吉法師が面会できた可能性も薄く、

面会出来たとしても土田御前が那古野へ行く形が取られた可能性が高い。

いわば嫡男の安全を最優先で考えた場合、

嫡男である吉法師は常に安全な場所から動かさず、

寧ろ正妻でも代わりの利く土田御前をある程度の警護の下で

移動させた方がお家のリスクとしては幾分下がる。

戦国の女性が乗馬に長けていたかは育ちの其々で有るが、

供回りを従えて引き馬でゆっくりと移動する方法は一般的であったと思われる。

 

しかし、後の信長と土田御前の関係、そして弟、信行との争い。

それらを踏まえると、実は信長と土田御前の間には母子の情が無いとも言える。

度々、土田御前が吉法師いわば後の信長と面会出来ていたのなら、

会えるまでの「待ち遠しさ」が寧ろ強い情を持たせたと考える。

息子の居ない日常、母のいない日常に意識が芽生えれば芽生える程、

会えた時の絆はより深まるとも言える。

しかし、10年もお互いにその存在を意識しないと、

寧ろ母子でも情は無く、

いわば吉法師にとっては日常に存在しない他人に成ってしまう。

特に吉法師の様に那古野城主として、

織田弾正忠家の若君として育った環境で、

政秀であり養徳院や小政など寂しさを感じさせない存在に囲まれていた分、

実母の存在を意識することは無かったとも言える。

 

そう…

古渡に到着した吉法師が先ず面会したのが、

実母である土田御前であった。

 

一方の土田御前は嫡男の吉法師は那古野に置かれ、

暫くは吉法師を案ずる日々に悩まされたが、

次男の信行、いわば勘十郎が誕生すると、

信秀は勘十郎を正妻の側に置くことを許し、

自身と共に古渡に住まわせた。

故に土田御前の気持ちの中では吉法師よりも、

むしろ自分の手で育てた勘十郎への情が強まったと言える。

 

故に吉法師と実母の土田御前は、

10年以上面識が無かったと考える方が、

辻褄が合ってくる話に成る。

 

巷に存在する小説などでは、

土田御前が吉法師を毛嫌いしていたと書かれる。

おそらくそれはある意味正解であったと言える。

 

吉法師が土田(御前)に面会した際、

上座には土田が座り、その横に勘十郎が居た。

吉法師は父と面会する時と同じように、

臣下の礼を取り、礼儀正しく挨拶を述べた。

 

「母君、土田御前さま…お初にお目に掛かります。

那古野城城主、吉法師にござります。」

 

頭を下げてそう述べる吉法師に、

土田の隣に座っていた勘十郎が、

 

「苦しゅうない、面を上げよ。」

 

と、子供ながらの悪ふざけでそう述べた。

土田は子供戯れと笑いつつ、

 

「勘十郎、吉法師はそなたの兄上じゃぞ。」

 

と、軽く注意する程度に言った。

実は吉法師は全くそれを気にもしていなかった。

寧ろそのまま礼儀正しく面を上げて見せた位である。

この時、吉法師にしてみれば初めて実母に会う事で、

粗相の無いようにと逆に子供ながらに気を使っていた程で、

ある意味少し緊張気味で、些細な事など気にも留めていなかった。

寧ろ同行した政秀は、黙ってはいたものの、

その不義、無礼には少し懸念を感じていた。

 

(何やら…不安がよぎる…)

 

面を上げた吉法師に土田は、

 

「さあ、吉法師や母の側に来られよ。」

 

と、自分の左にいた勘十郎と反対の右側に手を招いて、

吉法師を呼び寄せた。

吉法師は

 

「はっ!!」

 

と返事をして、

少し遠慮がちながらも、土田の隣へ向かった。

 

多くの読者はこの吉法師の礼儀正しさに疑問を感じるやもしれない。

寧ろ勘十郎の方が礼儀を知らない設定は、

通念の見識からすると逆である。

ところがこの信長の礼儀作法

後の斎藤道三と正徳寺で会見したとされる、

道中とは一変して礼節を弁えて対面したというエピソードを参考に考えると、

こうしたメリハリをつける姿勢は、

幼少期より礼儀作法を会得しているから

ごく自然に為せる技と考えれば、

実はこの方が現実味が高くなるのである。

 

無論、実母と初めて接触する吉法師は、

緊張気味で土田の隣にちょこんと座ったまま、

ただ黙っていた。

ある意味、実母に対して人見知りしている感じである。

一方の勘十郎はまだ齢6つの子供で、

母親土田にべったり寄り添って甘えていた。

無言でただ座っていた吉法師に、

勘十郎はそばに有った菓子を手に取り、

吉法師に差し出した。

吉法師は

 

「有難き事」

 

と、礼儀作法から離れられない状態で

両手でそれを頂戴し、口に含んだ。

土田は勘十郎の頭を手でなでながら、

 

「勘十郎は優しい子じゃな…」

 

と、褒めた。

吉法師は菓子を口に頬張りながら、

勘十郎に優しい笑みを返している。

 

そんな光景を見て政秀は少し後悔した。

 

(これは母子のあるべき姿ではなかったか…)

 

政秀は、吉法師に母君と対面する際、

粗相の無いよう礼儀正しく振舞えと念を押した。

無論、吉法師もその土田と会う事は初めてな分、

寧ろ特別な意識を抱いていた。

故に、母子の対面としては何処となくぎこちない。

 

土田は礼儀正しい吉法師の頭をなでて、

母親らしく、

 

「そなたは随分立派に育ったのじゃな…なんと利発で賢い子じゃ。」

 

と、そんな吉法師を褒めたたえ、

 

「政秀殿、誠に感謝するぞ。」

 

と、政秀に対しても労いの言葉を与えた。

この時点では、吉法師と土田の間には

何のわだかまりも生じていなかった。

むしろ礼儀正しく育った吉法師に

土田は我が子として好感を抱いていただろう。

逆に吉法師は堅苦しい行儀を維持しなければ成らない状態に、

徐々に疲れ始めるのである。

いわば実母に初めて会ったという感動が

少しづつその場にいる疎外感を感じさせていくのであった。

 

暫くの時を我慢した後、吉法師は政秀に

 

(もう十分じゃ!!)

 

と、言わんばかりの目線を送って、

その場を終わらせようとした。

それを悟った政秀は、

 

「御前様!!そろそろ大殿の所へ参る時ゆえに…」

 

すると土田は

 

「もう少しゆるりとされよ…まだ会うたばかりじゃ」

 

恐らくその時間は10分ほどであったのだろう、

それでも土田とどう接して良いのか解らない吉法師には

長い時間に感じた。

そして、吉法師は再び土田と対面する場に戻って、

 

「母上、大変貴重な時を有難く思います。」

 

と、挨拶を述べた。

そこに政秀が

 

「日暮れまでには那古野に戻らねばならぬゆえに、

真に失礼ながら…」

 

と頭を下げると、

 

「何ともせわしい話よの…」

 

土田は甘える勘十郎の頭を撫でながらも

残念そうに述べた。

土田は結局、吉法師に好感を抱きながらも、

心の中でどことなく距離感を感じていたのであろう。

故に「去る」という事にあえて無理に引き留める気持ちも無く、

直ぐにその関心は勘十郎へと移ったと言える。

 

土田との面会を終えた吉法師に政秀は、

 

「母君と会われて如何でした?」

 

と、聞くと

吉法師は困惑した表情で、

 

「あれが母君なのじゃな…」

 

と、言っただけであった。

会う前は、まだ見ぬ相手故に色々と思いを巡らしていたのだろう。

しかし、実際、会ってみればくつろげる余裕などなく、

むしろ会ったというだけの満足感でお腹いっぱいに成ったような感じだ。

恐らく普通に憧れる有名人に、実際に会った瞬間、

その人が距離感を抱いて感じてしまうと、

何気に熱気が冷めていくようなものだったのかもしれない。

それは吉法師に限らず、

土田の心にも気づかない程度に抱かせた感情でも有ったのだ。

 

吉法師と政秀は、土田の御所から大広間へ移動して、

そこで信秀に会った。

二人が到着するや、挨拶もままならぬ間に、

 

「吉法師よ!!熱田へ行くぞ!!」

 

と、立ち上がって我が子吉法師を抱きかかえて

颯爽と馬に跨った。

佐久間盛重が吉法師を抱えて馬に乗った様に、

今度は父、信秀が吉法師を前に抱えた。

初めて父親にそうしてもらった吉法師だが、

そこには父子の心地よさを感じた。

母との対面の後のギャップなのか、

吉法師にとっては何だか嬉しい形だったのだ。

そして信秀は予め那古野での話を聞いており、

吉法師の頭を撫でながら、

 

「吉法師よ・・・そなたは面白い感性を持っておるの。」

 

吉法師は何のことか解らないが、

優しく声を掛けてくれる父親の顔を振り向いて見上げた。

 

「よいか…熱田は極楽じゃ!!」

 

と、信秀が言うと、

吉法師は何気にその意味を理解して、

嬉しさと大きな期待を込めて、

 

「熱田は極楽なのですか?!」

 

信秀は頭を撫でたまま

 

「ああ、そなたが見たかったものを見せてやる!!ちゃんと馬に捕まっておれ!!」

 

と言って馬を走らせた。

先頭を駆け抜ける信秀に従う様に、

供回りの者たちも急ぎその後を追った。

 

信秀に抱えられながら馬の手綱を握りしめ

後ろを振り返ってみた吉法師は、

熱田へ向かうその行軍の姿に

ある種の憧れを持つ形で奮い立ったのであった…

 

 

どうも…ショーエイです。

先ず、竹内結子さんのご冥福をお祈りします。

大好きな女優さんの一人だった故に、

本当に何故?という感じです。

 

さて菅政権に代わって感じた事は、

携帯電話の利用料金値下げ…

やるなら直ぐに行動してという話です。

選挙の目玉公約として

一般の人の興味を向けさせるための

方便とも言えそうな話です。

いわば本気なら既に何らかの行動を行っているべきで、

国民にどういう交渉状態に有るのかを

オープンな形で示すべきです。

それが見えない状態は、

ハッキリ言って本気度が無いと考えるべきです。

 

次に、河野大臣の脱ハンコ、脱紙文書。

いわばデジタル化を促進する改革に感じる内容ですが、

隠蔽しやすいシステムにしているだけで、

これも中途半端です。

紙文書よりデジタルの方が消去が簡単だから。

本当に国民の為にこれをやるならば、

隠蔽対策も含めてどうするかを議論するべきです。

ある種民間の第三者機関、

いわば弁護士会でも良いですが、

彼らが文書の不正削除を監視できる様な形で

クラウドサーバーを利用して

デジタル文書を保存化出来るように考えた上で、

脱ハンコの政策を推進するべきです。

 

今のままでは、河野大臣にその意識は無くとも、

間抜けなまでに利用されて、

隠蔽しやすいシステムを促進しているだけの話に成ります。

これに賛同している小泉進次郎もいわば間抜け。

誠実な姿勢を前面に押し出し、

改革を一生懸命アピールしているが、

本人たちは根本的な隠蔽システムの構築に携わっている事に

気付いてもいない。

ただ周りから言われるがままに、

時代にマッチングした改革という点だけで、

一生懸命に成っているだけです。

 

まあ、半沢直樹の様な作品を国民は見ているのだから、

少しはこういう闇の部分を気を付けて見るべきじゃ?

 

日本国民は解らない事は

人任せにして信用するという悪い癖が横行してます。

人を疑う事は悪い事だ、

解らない事に口を挟むべきではない。

という感じが多いにも関わらず、

ゴシップ記事には飛びついて、

噂話レベルで誹謗中傷を平気で楽しむ。

 

ある意味、国民の資質としては最低です。

信念と行動が全く伴わない国民性。

その上、長いものには巻かれろ気質。

 

半沢直樹を見て半沢直樹の様な人物に好感しながら

その実は半沢直樹の足を引っ張る方へ、

知らず知らず踏み込んでいる。

そして現実に彼の様な存在を目の当たりにすると、

青臭いと小馬鹿にする。

 

こういう社会ゆえに、

寧ろ織田信長の様な強硬な姿勢の人物の方が

望ましいのかも知れません。

 

所で…NHKの「麒麟が来る」の信長像…

正直、普通の人にしか見えず残念です。

あんなものは天才の域ではないです。

明智光秀を良く見せる為に、

寧ろ普通の人にしてしまった分、

信長の魅力は全く感じない。

まだ、真田丸の時の市川海老蔵の信長の方が、

奇妙な雰囲気と誤解されやすい雰囲気が出ていて、

好感が持てたと言えます。

 

信長たまを勘違いしているのは

「戦が好き」なのではなく、「勝負事の駆け引き」が好きなのです。

実際に「戦」自体は嫌いなのです。

相手を称えられる戦いなら好きだが、

相手をたたえられない戦は大嫌い。

 

平凡にこの言葉を見れば一緒ですが、

実は全く異なる意味の話で、

スポーツ観戦で応戦するチームがただ勝てば良いという見方と、

勝敗は別としてどういう試合が見られるかを楽しむ

と言う違いほどの差が有ります。

 

また相手が戦う理由も大事で、

明確な大義を以て挑んでくる戦いには大いに敬意を払うが、

大義の見えない戦いを挑んでくる相手は嫌い。

まあ、信長たまが自分本位である点は魔王気質なのですが、

基本的には外交で上手く纏めたい人だったみたい。

そして外交で纏まらない相手は全て敵。

いつ相手が隙をついて攻めてくるか気がかりで仕方ないから、

とりあえず先に潰しておこう。

という考え方。

足利義昭がどうしようも無かった為、上手くやりようが無くなったから、

いわば「俺が天下を取る」という方針に強引に変えちゃったのも

「魔王」気質故の話だけど…

滅茶苦茶な人だねと思わせる位、

「クレイジー」な感じゆえに天才なのです。

実際は戦が嫌いだけど、敵は潰しておかないと安心して暮らせない。

自分の領民たちの平穏を考える上でも、

自分の領地に攻め込ませるわけには行かない。

あるいみ「クレイジー」な気遣いも実は有るのです。

 

また命がけで勝負を楽しむ故に、

相手の動きを良く観察しているわけです、

そして「負ける」時の判断も早く、

損失の少ない撤退を決断できる。

いわば戦で100%勝つ事は無い訳で、

勝ちに拘ればその損失は大きく成り、

そしてその敗北を挽回する事が叶わなくなって、

いずれは滅びる。

素早く負けを認めて撤退することは、

寧ろ損失を少なく抑え、

次の勝負で不利になることは避けられる。

 

第二次大戦の日本軍の戦い方は、

とにかく勝ちに拘って、

撤退を許さず、

結果損失を大きくしていた愚策な訳です。

寧ろ犠牲を少なくしていく考え方の

米軍の戦い方の方が賢明だったのです。

 

打算的に損失少なくすると考える事は、

それに参加する兵士としては、

犠牲が少なく済む話ですが、

打算的に損失の事を考えているから、

その指揮官に心は無いと感じる人も多い。

 

でもね。

心無く判断する人間に、

こういう打算的な考えは生まれないのです。

 

味方の力あっての勝負という事を

常に意識する故に、

味方を大事にする気持ちが優先され、

それ故にそれが最良の選択で有る事を知る訳です。

ある意味「負ける」という恥を背負っても、

何が最優先であるかを冷静に考えられる。

 

寧ろ自分の力を誇示しようと戦う人間は、

負けるという恥を背負う事すら無く、

撤退より決死を覚悟してしまうのです。

 

ただ「戦が好き」という人間は、

勝つことの優越感に浸ることに酔いしれているだけの話で、

普通なのです。

 

戦をするという責任感の下で、

「勝負を大事にする」人は

常に損失の無い、犠牲が出ない方法で挑もうとするのです。

 

まあ、現代風に言えば…

金儲けの為に顧客を顧みずに、

ただ利益だけを追求している企業より、

顧客の事を最優先に考えて、

顧客の満足感から利益を得る企業の方が、

より末永く大きく成長するという感じと同じとも言えます。

 

後者を心無い戦略と考えるのは、

それは無知な普通の人だからで、

そこを理解できないがゆえに利己主義に走るのです。

今の日本はどちらが主流に成っているのか…

そう考えると本当に残念な国ですよね。

【第四話 絵巻】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

〔ドラフト版〕

吉法師が城下へ行くにあたって、

那古野城内は慌ただしい状態であった。

吉法師の警備には200名近い人数が動員され、

その内150名は周囲に配置される斥候、いわば物見である。

 

実は那古野城に常駐している兵士数は300人程度で、

ほぼ、半数以上が吉法師の警備に当たる。

常駐兵が300人とは少なく感じるかもしれないが、

実際にこの時代はまだ徴兵制で、

武家と呼ばれる人間の数は意外と少ない。

 

現代風に武家を説明するなら、

市役所、区役所、町役場で働く公務員の様なもので、

ある意味その権限に自衛隊や警察権を含んでいる。

裁判所のようなものは存在せず、

寧ろ所領を持つ上級武家が市議会議員などの地位として、

所領をいわば選挙区の様な形で治め、

その所領の揉め事を聞いて裁く形が取られていた。

裁判所に相当する奉行所なんてものが登場するのは、

江戸時代以降であり、

それ以前の奉行は重臣の役職という感じで考えられていた。

戦国の尾張などと分割された各国を国として考えた場合、

いわば最高裁判所の判事と職員が居るだけという感じで、

将軍の元、いわば京に置かれるモノは

ハーグ国際法廷の様なもので、

外交上の問題しか取り扱わないといった感じである。

逆に不味しい農民は国の最高裁で裁判を受ける事など

出来ない時代と考えるべきであろう。

 

現代の大河ドラマやら、色々な小説のイメージで、

農民は弱い人たちを想像するだろうが、

徴兵制に動員されることを考えると、

そこそこたくましい感じに成るはずだ。

中には荒くれ者も多かったと考えるべきで、

必ずしも弱いという感じでは無い。

しかし武家が警察の様な存在であるゆえに、

武家に逆らえば処罰されるという常識から、

彼らはそれに服従していたという説明が適切であろう。

 

こうした環境に加え治安面を見てみると、

野盗的な感じの野武士と呼ばれる組織もあった。

野武士には未所属な自治軍団のものも有れば、

勢力との談合で、他勢力の地域で盗賊をして生業とする組織も有った。

ある意味ヤクザな組織である。

尾張に於いては、清州の織田大和守家と繋がる野武士、

岩倉の織田伊勢守家と繋がる野武士、

無論、織田弾正忠家と繋がる野武士などが、

其々の勢力圏を荒し合っていた状態である。

野武士の手勢は50人~100人位と考えればいいが、

馬足が遅く手勢が少ない状態で吉法師がうろつけば、

彼らはそれに追い付いて襲撃を仕掛けてる事は十分に考えられる。

信秀の嫡男であればその利用価値は十分に有り、

熱田の利権、津島の利権を絡めての

交渉にも役立つといえる。

こうした治安の状態故に政秀は慎重に考えた。

物見役の部隊は、何か起こればすぐさま伏兵と化して、

襲撃部隊を急襲できるようその合図を太鼓などで整えた。

また、物見部隊が散見する状態を以て、

襲撃する側に警戒心を与えるようにも考えた。

いわば襲撃しても返り討ちに合うと認知させるためだ。

 

こうして用意周到に行われた吉法師の城下視察は、

その当日を迎えた。

後に信長と成った吉法師はこの城下どころか熱田などを

自由にウロウロし始める。

この警備はいったい何の意味があるか疑問に思うだろうが、

それが信長が天才的であった所以で、

また周囲がその行動を「うつけ」と

あざ笑う話の意味に繋がるのである。

 

吉法師は佐久間盛重に抱えられるようにして馬に騎乗した。

無論、初陣までには単独で馬に乗れなければ成らない。

ある意味13歳位の年齢に成ればそれが適う年ごろで、

現代の競走馬サラブレッドより

一回り小さい木曽馬が主流の時代では、

大きさも13歳が跨ぐのには程よいサイズと言っていい。

寧ろ、馬に乗れなければ初陣は無いとも考えるべきだろう。

 

盛重は本当に嬉しそうである。

 

「若、何の心配も有りませぬ。私が命に代えてお守り申し上げまする故に。」

 

と、意気込んでそう言うが、

当の吉法師は寧ろ初めての城外ゆえにワクワクしており、

何の危険があるのかすら理解していない。

それ故に子供ながらその意気込みを不思議そうに見つめた。

 

そして盛重、吉法師の横固めに

当時、まだ16歳で後の重臣となる佐久間信盛が控えていた。

この信盛も従弟である盛重から散々とこの重責の意味を語られて、

ある意味少し緊張気味に成っていた。

そしてもう一方の横固めには後に信長の側近黒母衣衆の筆頭となる、

これも齢17歳の河尻秀隆が控えていた。

2人からすればこのイベントは何であろう…

甲子園に出場して、開会式の旗手持ちや

下手したら選手宣誓でもやるかのような

そんな重責に感じていたのかもしれない。

こうした切っ掛けが結果として後の信長への情に結びつき、

彼らは信長を支持し続けた所以に成るのかも知れない。

 

無論、こうした行事は史実の記録には存在しない。

しかし、後に信長が実弟信行との戦いで有利になる所以を考えると、

信長に従った者たちには、

家臣の責務以外の情が有ったと考える方が辻褄が合ってくる。

 

出発の前に、吉法師がどんな子供であったかを話しておこう。

那古野の城主であり、織田弾正忠家の嫡男として育った吉法師は、

ある意味我がままし放題に育ったと言える。

これは史実の記録でもあるようだが、

食事の時に他人のおかずを横取りするなど、

実際にそういう状態はあったと言える。

吉法師は弟分の小政(後の池田恒興)と食事を共にすることが多く、

好みの品が有ると

 

「小政、それくれ。」

 

と、小政が食べる前に、

小政のおかずをよく奪って食べた。

そして小政はよく泣いて母の養徳院にせがむのだった。

その都度、養徳院は自分のおかずを小政に分け与えて慰めた。

そんな小政に養徳院は、

 

「吉法師様はこの城の主で、小政はその主の為に我慢するのが務めですよ。」

 

と、教え、

 

「その我慢する半分を、母がこうして支えてあげるのです。」

 

と、小政に言い聞かせた。

吉法師は何故か養徳院が分け与えた分までは取らないのだ。

ある意味悪気は無いが、

小政を弄って楽しむ感じだったのだろうか…

小政が養徳院に泣きつく姿を楽しんでたのだろうか…

逆にひもじい感じで考えるなら、

吉法師が満足するだけの量を与えれば良いだけの事。

裕福な織田弾正忠家にあって、

そんな節約は必要ないといえばそうである。

実際に考えられる事は、

吉法師はせっかちで、ある意味合理的ゆえに

好みの食べ物だと、おかわりを頼んでから

それが持ち込まれるまでの時間を待つより、

隣の小政のを先食べた方が早いと考えたのだろう。

そしてそれが許されるから、

ついついそういう効率で行動したのだろう。

 

それでも、たまに平手に見つかると、

 

「若!!他人の物を奪うなどは盗賊のやることですぞ!!」

 

と、怒られ、

 

「主君としては、逆に家臣に分け与えなされ!!さあ、小政殿に取った魚を返されよ!!」

 

と、躾けられるのであった。

吉法師は政秀にまだ逆らえず、黙って小政に魚を返す。

更に平手は、

 

「さあ、謝りなされ!!」

 

と、謝罪する事を教えると。

吉法師は不貞腐れながらも、

 

「小政…すまん」

 

と、ボソッと謝る。

すると今度は養徳院が、

 

「小政、有難うですよ…」

 

と、小声で教えるように小政を促すと

小政は

 

「若…有難うございます」

 

と、腑に落ちない感じながらも言うのであった。

いわばこの頃の吉法師はクソガキと言えば

クソガキであったと言える。

無論、口うるさい爺である政秀の前では、

行儀のいい子で有ったのも事実だが、

自分の我ままがある程度通る事を知っていたのも事実である。

しかし、吉法師も小政も主従がハッキリ解るように

教育を受けたため、

後の池田恒興は弟分ながらも家臣として弁えた人物として

信長を支えて行くのである。

 

そんな我がまま放題に育った吉法師に大きな転機が生じる。

それがこの城下の視察である。

 

政秀が先導役で門を出た吉法師の一行は、

城から1.5キロ西南に下った那古野の集落を目指した。

そこまでの風景は田園地帯であり、

那古野城はその田園地帯に囲まれるように建っていた。

この一行の前に、物見の先発部隊が既に那古野の集落に入っていた。

先発部隊が集落に入るや、

 

「城主織田吉法師様の御成りじゃ!!皆の者外へ出てお迎えせよ!!」

 

と叫ぶと、集落の者たちは作業の手を止め、

母屋に居たモノも集落の街道沿いに出てきた。

馬上で命じる先遣隊は更に、

 

「皆の者!!頭をひれ伏してお迎えせよ!!」

 

と、命じるや、集落の者たちは言われるがままに

街道沿いの脇に整列して土下座するように頭を下げて到着を待った。

当時としてはこれが当たり前である。

いわば無抵抗な姿勢としてこれを要請するのだった。

逆に従わずに立ったまま居るものは敵意の表しであり、

またいつでも襲える態勢を維持していると見なされる。

主君の安全を確保する意味でも、当然の事として行われていた。

更に安全確保の為、誰か隠れていないか、

集落を一軒一軒くまなく見て回るのであった。

個人の権利やプライバシーなど全く関係の無い時代である。

 

そうした中で吉法師の一行が到着した。

政秀は集落の民が頭を垂れて迎え入れる状態を確認すると、

そのまま集落の街道を進んで行った。

その光景が吉法師の目に止まった瞬間、

吉法師は先ず、目を丸くして驚き、

そして突然泣き出した。

それに驚いた盛重は、

 

「わ…若…いかが為された?」

 

とおどろおどろ聞いた。

最初はショックで急に涙が零れ出すかんじだったのが、

段々と興奮するように泣き始め、

吉法師は

 

「これは地獄の絵と同じじゃ!!我はこんなの見たくて来たのではない!!」

 

と、我がままを言う様感じで言葉にした。

盛重には吉法師のいう意味が良く解らなかった…

吉法師の泣きじゃくる様子に、佐久間信盛も河尻秀隆も困惑した。

無論、武家の仕来りとして当たり前の光景なのだから。

彼らは何が間違っているのか、全く解らなかった。

するとその様子に気づいた政秀は直ぐに吉法師の下に駆け寄って、

 

「若!? どうされたのじゃ?城下がどうかしたのですか?」

 

すると吉法師は、

 

「これでは地獄絵巻と同じじゃ!!ここは極楽ではない!!」

 

最初は政秀も良く解らなかったが、

吉法師の趣味や好き嫌いを把握していた彼は、

何となくその意味に合点がいった。

 

吉法師は信秀が土産物として授けた絵巻や水墨画を色々見て育った。

更には養徳院が話す怖い話、お伽話など聞いて、

地獄や極楽の想像力を養っていた。

いわば那古野の集落で目撃した光景は、

鬼に怯えた人々の光景に見えたのだ。

 

そして吉法師は、

 

「城下とは楽しそうな場所じゃ無いのか!!」

 

と、更に言った。

そうである。

吉法師が想像していた城下とは、

町民たちが楽しそうに暮らす街の風景であり、

お祭りで騒いでいる様な光景である。

いわば、絵巻でも、養徳院の話の中でも、

「楽しそう」な世界が吉法師の興味をそそったのだ。

このギャップが吉法師にトラウマの様に押し寄せたわけである。

 

おそらく自分の見た世界は…「地獄」と映ったのだろう。

想像力だけで実際見るのは初めて故に、

それだけの衝撃を受け、

そしてその後の人生でこれがトラウマと成り、

織田信長の治世の理想を築き上げるのであった。

 

政秀は何となく吉法師の感性を理解し始めて、

すぐさま集落の者たちに、

 

「皆の者、ご苦労であった。面を上げて普通にしてよい」

 

と命じた。

集落の者たちは勿論戸惑った。

地面に座ったままお互いに顔を見合わせて、

中々立ち上がれずにいた。

すると政秀は、

 

「気にせずに立ちあがってよい。そしていつも通りにしていてよい。」

 

と命じるとようやく集落の者たちは立ち上がった。

しかし、戸惑いがあって普通に戻れず、

街道に立ったままであった。

政秀は吉法師を抱える盛重の下へ行って、

 

「これより古渡へ向かおう。」

 

と、言った。

吉法師はまだ泣きじゃくっている。

政秀はそんな吉法師の頭を撫でて、

 

「若はきっと素晴らしい名君に成られる!!」

 

と、吉法師のその感性を寧ろ喜んだ。

盛重も、そして信盛、秀隆も、

政秀が集落の者を立たせた事で、

ようやく吉法師の言っていた意味を理解し、

政秀が吉法師に掛けた言葉に感銘を受けて、

 

(若の見たかったのは、民が楽しむ極楽の世界か…)

 

と、ようやく吉法師の世界観を理解した。

 

そして立ち往生の状態で固まった集落の民を後に、

一行は古渡へと駒を進めた。

 

どうも…ショーエイです。

ようやく物語部分が進み始めました。

まあ、2話、3話で色々な戦国の情勢を説明しましたが、

実はああいうバックグラウンドを理解していないと、

この物語の心理的な部分が見えにくく成るのです。

 

簡単そうで複雑な心理の駆け引き。

これらが現実的な流れとして

人の行動に影響を及ぼし、

そして不可思議な結末を与える。

 

今、現代の世界情勢であり国内情勢で、

其々の人がそれぞれの理想で複雑に絡み合って、

時代を構成していくのです。

それは何時の時代でも同じで、

そういう事を理解する上でのバックグラウンドなのです。

 

人の世界を単純に性善説や性悪説で割り切ることは出来ません。

其々にそうなる理由が有るのです。

とはいえ、それで割り切って理解しているだけでは、

社会は滅茶苦茶に成る。

権力に奢る者は、時として弱者に犠牲を強いる。

犠牲として強いられた弱者を相手に戦うものは、

時として味方を守る上で残酷な結末を彼らに与える。

織田信長と本願寺の一向宗の戦いは、

そんな戦いだったのかも知れません。

 

また、広島や長崎の原爆投下。

日本人として複雑に見方は変わりますが、

その犠牲者は何れも弱者の市民です。

 

人には其々そうなる理由が有るとは言いますが、

他人事であれば、理解力と優しさで許せてしまうだろうが、

被害者に成ればそうはいきません。

そういうものの見え方の違いでも考え方は異なり、

時として優しさに走った他人事とした人を

許せなく感じてしまう事もあるのです。

 

優しいだけで悟りが開けると勘違いしないで欲しい。

性善説の様な理由があると割り切っても、

性悪説の様な利己的な考えも人間そのものなのです。

 

何を許容し、何を許さないとするか、

人それぞれでこれも異なる部分でありますが、

この小説を読んで信長たまの感性を感じ取ってみて下さい。

 

 

【第三話 煙】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

 

吉法師の城内での生活は

城外へ自由に出られない以外は何の不自由もなかった。

敷地は狭いわけではなく、400m×200mの8万㎡だと、

おおよそサッカーフィールドが8つは入る規模である。

その中にはサッカーフィールド一つ分の

庭園または広場は有ったと考えられ、

10歳の子供が外で遊ぶ分には十分な規模と言っても良い。

 

吉法師の実母は土田御前で、信秀の正妻である。

しかし信秀は土田御前を古渡に住まわせ、

那古野には置いていない。

織田弾正忠家の方針だったのか、

武家として良くある方針だったのかは解らないが、

実母に嫡男を育てさせない事は当時としてはよくある話で、

吉法師も実母から切り離されて育てられた。

 

無論、土田御前は自らの手で育てたい意向を信秀に示していたが、

当時の武家社会では「雌鶏歌えば国滅ぶ」という故事もあり、

いわば母親がその影響力で院政を敷くと、

国が亡ぶといった考え方も有った。

故に、その関係性を結びつけない為に

母子を切り離して育てることが妥当とされた。

日本の歴史で言えば、

今でこそ女性への評価は変化したものの、

当時としては女性蔑視が当たり前の世の中。

鎌倉幕府の源家が北条政子の専横によって、

北条家に執権を奪われた例も意識された話である。

 

先に述べた明応の政変に於いても、

義政の正妻、富子(日野富子)の影響で、

実子である9代将軍義尚が死ぬと、

一旦は10代将軍に自分の妹の子で敵側だった義視の息子、

足利義材を据える方向で富子は義政を説得するが、

その後、富子の影響力を義視、義材親子が警戒して、

両者の対立が発生すると、

富子は細川政元と結託してクーデターを起こした。

それで11代将軍足利義澄が登場した事で、

天下は再び分裂する事と成ったわけだ。

 

武家社会に於いてこうした話は尾ひれがついて、

各勢力に噂として伝えられるものだ。

その為に女性に影響力を持たせてはいけないという

意識が働くのは当然な話しであったと言える。

 

こうした考えもあって吉法師は実母と切り離されて

那古野で育った。

それゆえに信長の伝承では乳母の存在が登場する。

また信長と言う人物の気性から、

まるで鬼子の様な伝承も伝えられている。

乳母の乳首を噛み切ったとか…

しかし、現実的にこれは有り得ない伝承なのは、

現代人なら理解しうることである。

 

伝承に残る話は、必ずしも想像やイメージで

生まれた話とは限らず、

実際に何らかの記録や言い伝えが絡む場合もある。

 

吉法師(信長)の乳母で有名なのは、

養徳院という女性で、

信長の重臣となる池田恒興の実母である。

記録上、養徳院が乳母と成るのは、

吉法師が3歳の時で、恒興が生まれたころだとされる。

また、乳首を噛み切るという伝承の話では、

養徳院が乳母に成ってから治ったという伝えでる。

しかし、乳児では無くなった3歳の子供の話としては、

いまだ母乳を必要としていたのかと考えると、

ある意味、合点が合わなくなる。

 

これらを精査してこの伝承を一つの情報として

筋書きを組み立てると…

 

初産の実子を遠ざけられる事となった実母の土田御前は、

その弾正忠家のしきたりに心を痛めていた。

母親としては当然の感情である。

そんな土田御前を気遣ってか、

守役の平手正秀は彼女に吉法師の成長報告として謁見した際、

彼女に安心感を与える為、ちょっとした方便を使った。

 

「吉法師さまは母親のもので無いと察してか、

乳母たちの乳房を噛み切るもので困っております。」

 

無論、これが優秀な政秀の方便である。

すると土田御前は、

 

「それはまことに大変な話しじゃな…

わらわが見れれば良いのじゃが…」

 

と、少し気持ちが和らいだ感じで言うと、

 

「確かに、私もそれが適うならと思いますが、

何せ織田弾正忠家の習わしなので…」

 

と、政秀は土田御前のほのかな期待を断ち切って、

 

「そこで御前様(土田御前)と雰囲気の似た乳母を探し求めて、

ようやく見つかったところで、その御人を吉法師様に当てがったところ…」

 

さすがは政秀の外交術。

政秀の話に土田御前もかなり気が静まった。

政秀は続けて、

 

「何とか悪癖も最近では治まりました。」

 

無論、母親の心境としては複雑だ。

自分以外でも悪癖が治まったという事は・・・

しかし、かといって平手が言う様に

家の習わしで吉法師の側には行けない。

そういう事が噛み合わさって

彼女の表情は少し寂し気なものに変わった。

しかし、それでも武家の正妻として気丈に、

 

「それは何よりであったな…

政秀殿ご気苦労には痛み入る話じゃ。」

 

と、子を案じる母親として毅然とした振る舞いを見せた。

 

いわば、信長のこの伝承の話は、

政秀の土田御前に対する配慮から生じたモノと考えても良い。

そこから土田御前が周囲にこの話を小言の様に漏らすと、

周囲は噂話として更に広げ、次第に養徳院の話と結びついて、

可笑しな噂に変化しながら伝承として残ったというのが、

科学的に考えられる流れだろうと推測する。

 

その当の吉法師は…

ある意味普通の赤子として成長し、

乳母が誰であろうが普通に栄養を得ている。

3歳で物心ついた時には、

元々の世話役であった養徳院が恒興を出産した頃である。

吉法師に母乳を与えた御人かは定かでは無く、

恒興が池田家の嫡男であるなら、

出産前に母乳は出る事は無い。

ただ、それ以前に養徳院が吉法師の面倒を見ていた可能性はあり、

それを考慮してみると、

吉法師を寝かしつける子守歌役の乳母という存在で、

既に招かれていたと考えても良い。

そしてその流れもあり、

幼児が優しい保母さんに懐くのと同じで、

物心ついた吉法師のお気に入りの乳母が養徳院であったのだ。

 

その養徳院が恒興を生んだのちは、

その恒興を実弟の様に可愛がり、

後に恒興は信長の重臣として活躍するのだった。

因みにこの恒興の息子、池田輝政が、

かの姫路城を改修して、今見る形にしている。

 

養徳院の教養は子供の心を掴む部分で傑出していた。

教育者というよりも、寧ろ保母さんとしての才能である。

おとぎばなしや童話の語りが上手く、

美しい美声が放つ歌声は絶品である。

 

無論、信秀も政秀も、

そういう人物を探し求めて吉法師に宛がっている。

 

現実的な心理として

こんな保母さんを実母が意識したらどうであろう?

保育園の様な場所で、大勢の子供相手に

保母さんとして活動している人なら、

そこは保母さんという職業と割り切って、

問題なく受け入れる事が出来るだろう。

それが自分の子供の専属で、

その才脳で実子が自分より懐く相手と感じたら、

母親の本能として嫉妬するのは当然である。

 

こうした心理も考慮して母子が切り離される考えが、

ある意味男社会の都合で重宝されるのはやむを得ず、

戦国の世とはそういう時代であると、

女性には割り切ってもらうしかない。

 

無論、平手政秀の方便は、

その時は土田御前を安堵させるものであったかもしれない。

しかし女性はあえて口には出さずとも、

そういう矛盾を察する事には男性より長けている。

そしてその洞察が吉法師の成長と共に、

単なる政秀の方便(嘘)であったと見抜いていくのである。

それが信長と信行の関係に影響を及ぼすことに成るとは、

この時は誰も想像だにしていなかっただろう…

 

吉法師は養徳院の存在もさることながら、

その想像力、いわば創造力となる感性を磨く上では、

かなり贅沢な教育を与えられていた。

吉法師は3つ年下の弟分恒興、

幼名が伝わっていないので、

小政〔こまさ〕いわば小さな政秀と言う名にして物語を続ける。

その弟分小政と一緒に養徳院の語る物語を聞くのが好きだった。

最初はかぐや姫に金太郎など、

我々にも馴染みのある童話を

美しい声が奏でる語りと、

大女優としての見事なまでの演出。

養徳院が情景豊かに語るその話に、

二人は揃ってワクワクしながら聞き入っていた。

 

吉法師を子供として見て本当に可愛らしい時分である。

 

政秀はこうした吉法師の興味を上手く察して、

吉法師が6歳位に成ってくると、

養徳院に語るべき物語を学ばせた。

この時に明文学や日本文学に詳しかった、

沢彦宗恩を招き入れている。

もう少し吉法師と小政が成長すると、

この沢彦宗恩が家庭教師として

直接、指導に当たるが、

それ以前は沢彦が養徳院に

今日語るべき話を教え、

養徳院がそれを上手く演出して、

2人に聞かせるという形で幼少教育とした。

そこには日本書記は勿論、西遊記(唐代)や水滸伝(元代)

など物語に近いものを聞かせ始めて、

吉法師が10歳に成った時からは、

三国志演技(明代)か三国志(裴松之のなら中国南北朝時代)であり、

平家物語などより歴史に近い話を聞かせた。

 

その養徳院の語りは正に芸術そのものでり、

ある意味、天下一の大女優が、

芝居で名演技を披露している様なものだ。

故に、政秀も、そして信秀も次第に惹かれていき、

那古野ではしばし養徳院の舞台として楽しまれた。

主賓は勿論、吉法師と小政である。

那古野城の大広間で

二人は養徳院の前に着席して大人しく話を聞くのだった。

それを眺めるように信秀や政秀が座り、

酒の肴に子供が興奮したり怯えたりする様子を見ながら、

養徳院の講演を聞くという宴の様な形が連日繰り広げられた。

 

時に養徳院が怪談話をして、

その演技力のあまりに吉法師と小政が飛び跳ねて驚くと、

その大人たちはそれがが面白おかしく、

大いにその光景を楽しんだ。

 

記録上では養徳院は夫・池田恒利が早くに死去したとされ、

その後信秀の側室に成ったとある。

 

しかし、ここではそこは読者の想像力に任せるものとして、

信秀が養徳院の講演と吉法師のその様子を楽しむために

連日那古野に通い詰めたという事のみにする。

 

こうした環境を可能にしたのは、

織田弾正忠家の財力と、

この時押さえていた津島と熱田の交易の賜物である。

いわばほぼ国内の流通で手に入る物が

流れてきやすかったと言える。

書物は勿論、水墨画であり屏風など、

様々な品物がその2つの拠点にたどり着いたのである。

 

信秀は那古野に足を運ぶ毎に、

様々なお土産をおいていった。

子供のおもちゃ、木馬などは勿論のこと、

美しい水墨画や屏風など、

ほぼ那古野は弾正忠家の

宝物庫としての機能も備えていた。

 

幼い頃より、美しい掛け軸や屏風、

そして水墨画などに触れる事が出来た吉法師は、

その美的感性を英才教育で育まれたと言っても

過言ではない。

そして吉法師が10歳に成ると、

明などから入る風景画を好み始め、

現実では未だ見る事が叶わぬその光景を、

想像力で膨らませて、

頭の中で壮大な光景を思い浮かべるのだった。

それは養徳院の語りと合わさる事で、

より大きく華やかな世界に成ったと言える。

後の安土城はその頃思い描いた夢の世界だったのかも知れない。

 

時をもどして・・・

信秀が吉法師に城下を見に行くことを許した日のことである。

信秀が土産物を手に吉法師の部屋を訪れると、

吉法師は紙に筆で水墨画の真似事の絵を描いていた。

子供の落書き故に芸術性の部分は差し引いても、

何やら壮大な都を描いていた事は解る。

それを目撃した信秀は、

吉法師が見たいのは那古野の小さな村落では無く、

寧ろ、熱田や津島の様な大きく華やかな街であると悟った。

 

信秀はそう悟ると、一緒に付き従ってきた政秀に、

 

「政秀よ…那古野の城下を見た後は、古渡に連れて来い。」

 

政秀はその真意を伺う事無く、

 

「御意」

 

と返事をした。

信秀はそう命じたあとも暫くは黙って吉法師の様子を伺った。

 

この時信秀の脳裏には、そこから12年前、

吉法師が誕生する2年前の1532年の話。

いわばこの那古野城の城主が今川竹王丸の時代であった時の事を

思い出していた。

 

既に前述で那古野の歴史は簡単に述べているが、

当時の竹王丸は10歳であった。

丁度、今の吉法師と同い年である。

 

複雑な日の下の情勢から話すと、

今川家は10代将軍側の足利義材派で、

斯波家は細川京兆家との関係から11代将軍の足利義澄派であった。

しかし、1515年に遠江で斯波義達が捕虜に成ったのを機に、

斯波、今川両家では和睦が成立していた。

ところが今川家当主である氏親が1526年に死ぬと、

両家の関係は少しづつ微妙な空気を漂わせ始める。

 

そこで斯波家筆頭、いわば尾張守護代の織田大和守達勝は、

その関係が不穏なモノと成らない様に、

義澄派から義材派に切り替える方針を斯波義統に伝えた。

無論、この時の斯波家は権威を失っており、

その意向に逆らう事は無かった。

織田達勝の考え方は、今でいう保守である。

丁度、氏親がこの世から亡くなった頃、

隣国の三河では、徳川家康の祖父に当たる、

松平清康が勢力を伸ばしていた。

清康は斯波家と同じ11代義澄派の家系のはずだが、

戦国に入ったという時代で、

将軍家の権威を意識してなかったのか、

その勢いを尾張にも向けようとしていた。

織田達勝はこれを察して、

外交で清康を押さえ込もうと考えた。

 

先にも述べた今川家は、氏親が家督を継ぐ上で、

ある意味将軍家の意向を携えた北条早雲こと伊勢盛時に

助けられている。

その時分は、丁度、9代将軍義尚から10代将軍義材に変わる頃で、

その流れから義材派に与していたとされる。

その後、足利義材は、名を足利義稙と改め

1508年には将軍に帰り咲いている。

1513年には10代将軍と11代将軍の間で和睦が成立。

そして11代義澄の子、12代将軍となる義晴を

10代将軍義材の養子としその後継とすることで、

正式に将軍復帰が認められたはずだった。

 

ところがこの政争を寧ろ管領家細川京兆家が複雑にしており、

義澄の次男で、斯波家の息女を母親に持つ、

足利義維を立てて細川晴元らが堺を中心とした

政権(堺公方)を樹立している。

12代将軍となった義晴には細川高国が付いていたが、

1527年に高国は細川晴元らによって京及び山城、摂津を

奪われておりこの政争はより混迷を極めていた。

 

義澄派の継承が、この堺公方義維の側で、

斯波家は当初出生上の関係からそちら側に与していたとされる。

 

無論、こうした情勢に読者が混乱するように、

松平清康も、正当な将軍家を巡って混乱するのは当然で、

それが戦国時代化する背景とも言えよう。

 

とはいえ、そのような賊徒状態にある松平家より、

未だ将軍家の権威を重んじる今川家との和睦を維持した方が

安全と考えるのは当然で、

織田達勝は、松平清康率いる三河を挟んでの

今川との同盟関係を重視したと考える。

 

そうした尾張と駿河(斯波家と今川家)の関係を利用して、

織田信秀は幼い那古野城主今川竹王丸に近づいた。

吉法師に与えた様に、津島から得られる珍品を与え、

信秀は連歌の会を主催して竹王丸を招いたというより、

寧ろ竹王丸の守役を接待した。

竹王丸には逆に蹴鞠〔ケマリ〕を主催して楽しませるなどして、

まだ20代の信秀は優しいお兄さん役を演じた。

 

先の大和守家いわば清洲の方針で、

和睦関係は維持され、

寧ろ共通の敵を三河の松平清康としたことで、

今川那古野家も尾張勢に対して気を許しやすい状態であった。

 

記録上では那古野城主の今川氏豊(竹王丸)は

今川氏親の次男、今川彦五郎と同一であったとされる内容も有る。

その彦五郎は氏親と同年に死亡しているという内容もあり、

これらを採用して流れを精査すると、

1526年までは今川彦五郎が那古野家の当主として入っていたが、

死亡したため、1522年生まれの末っ子の竹王丸(氏豊)が

那古野家当主と成ったとするほうが辻褄はあってくる。

 

その彦五郎の死を、

信秀の手勢が暗殺したと安易に考えそうだが、

実際その彦五郎を暗殺した所で、

何かを得られる状態は考えにくく、

那古野に兵を出した形跡も無いので、

論理的には想定しにくい。

寧ろ彦五郎の後に誰が入るかは今川が考えるところで、

運よく竹王丸のような子供がは入るという

予測を立てるのも難しい話である。

この小説では未来視点のたらればの想像で構成する事は

極力避けたいと思っている。

とは言え、後継として入った竹王丸の守役で、

いわば今川那古野家の後見人に値する重臣を

誰かに定めねばならないが、

それらしき人物が見当たらない為、

架空で、飛騨守氏時という50代の人物を設けた。

氏時は連歌などの文化交流を好み、

戦よりむしろ教養に興味を示した人物であった。

 

信秀は情報を駆使して、飛騨守氏時が連歌に夢中である事を知り、

竹王丸の名代として信秀主宰の連歌会に参加させた。

現代で言うM&Aの様な工作である。

 

信秀はその財力を活用して、

当時の連歌界の著名な人物を誘い、

飛騨守氏時の連歌を絶賛するように工作した。

そして竹王丸自身には、蹴鞠の名人をその指導に宛がうなどして

竹王丸の機嫌も取っていた。

 

信秀自身も竹王丸のよき遊び相手となり、

さらに土産物を持参する事で、

竹王丸もすっかり信秀に懐いた。

無論、最初の計画では那古野の乗っ取りが目的だが、

竹王丸の懐きぶりは信秀にも情を感じさせるほどだった。

まるで今の吉法師を見ている様な感情が有ったのだろう。

 

そこで1532年のある日、

信秀は連歌ですっかり意気投合した

重臣の飛騨守氏時に話を持ち掛けた。

無論、嘘も交えて

 

「本来は、秘匿とすべきことなのですが、

竹王丸さまと氏時どのとのこれまでの関係を思うと、

心苦して…」

 

氏時は突然のことで少し不安がよぎった様子で、

 

「はて…いかがされ申した?」

 

「実は…主家の斯波義統様より、那古野を秘かに攻略せよと催促がありまして…」

 

氏時はそれを聞くや驚き、

 

「な…なんと!!」

 

そして信秀は

 

「実は既に兵を那古野の周りに置いております。

清州の手勢故に、私の生死に関係なく直ぐにもここに押しかけるでしょう」

 

無論、こういう交渉は命がけである。

ただ、飛騨守氏時を良く知る信秀は、

彼が迂闊に武力を頼らない事を知っていた。

寧ろ、連歌会での評判に気を良くした氏時は、

隠居してその道に進みたいとも漏らしていた程だ。

 

「私も竹王丸様や、友人である氏時どのを救いたいと思ってます。」

 

信秀はあえて情を用いて氏時の恐怖心を和らげ、

 

「どうでしょう…我が勝幡にひっそりと身を隠され、

余生を氏時どのは連歌で、竹王丸様は蹴鞠などを楽しんで

ゆるりとお過ごし為されるというのは・・・」

 

氏時の心配事は、主家今川家からの報復である。

しかし、今すぐという状況では援軍に頼る事は適わず、

頼ったとしてもその間に三河の松平清康がいる為、

どの道間に合う算段は整わない。

 

「今、私を殺して援軍を今川に乞うても、間には松平三河があるゆえに、

恐らくは持ちこたえることは無いでしょう…」

 

信秀はあえて現状を伝えた。

無論、氏時も理解している状況で、

ただ自身の身と竹王丸の身を

どう案じるかで困惑した。

 

「主家(今川)からの咎めが下れば、どの道わが身は滅びます。

ここは折角だが…」

 

そこまで言うと信秀は氏時の言葉を遮って、

 

「私に一計がございます。」

 

氏時はみなまで言わずに黙って信秀の言葉に耳を貸した。

 

「いわば…那古野を失う罪を私に着せるのです。」

 

命の掛かった緊迫した状態で混乱していた氏時には、

この言葉はある意味一縷の光に感じたのかもしれない。

 

「罪をそなたに?…とは…」

 

氏時は信秀の言葉に再び耳を傾けた。

 

「私に騙し討ちされた様に演じるのです。」

 

信秀はその一計の詳細を説明した。

いわば、自らが突然の病に掛かったとし、

家臣を城中に招き入れ、

その後に2人は裏口から逃げて、

信秀の手勢が城内に火を放つというものであった。

 

そして

「私が病を装いますので、我が家中の者を及び下さい。

城門の前に30名ほど待機させております。」

 

さらに、

「城門を開けたら、門番に直ぐに退出ができるよう、

門を開いたままにするようお伝え下さい。

さすれば城内の者をだれ一人殺さずに無事成し遂げっれます。」

 

と、あえて城兵への気遣いも与えた。

 

そして氏時は信秀の指示通りに事を進めて、

城中に信秀の家来を招き入れた。

城門前の30名とは別で、

実際に城外に伏せていた手勢は、

平手政秀ら擁する信秀の手勢で有り、

城内に30名が潜入する様子を確認するや…

 

「さすがは信秀さま…首尾よく行ったようですな…」

 

と、政秀は兵に継続して待機するよう命じた。

 

城内に潜入した家臣の一人は林秀貞である。

秀貞は予めの計画通りに上手く演じて…

 

「殿!!ご無事ですか!!」

 

と騒ぎながら信秀のいる場所へ駈け込んで見せた。

相手が不信に感じないよう、

抜かりの無い演出である。

秀貞が信秀の下に訪れるや、

信秀はケロッとした状態で

氏時そしてその場に呼び寄せた竹王丸と並んで座っていた。

秀貞はそこでも演じ続け、

 

「と…殿…これはいったい?」

 

すると信秀は、

 

「清州の手勢に気づかれぬよう、お二人を勝幡にお連れしろ!!」

 

そして秀貞は、手勢3、4人で竹王丸と氏時を誘導して、

裏門へと向かった。

信秀は氏時に城内の配置を予め変えさせたうえで

残りの手勢に城内に火をかけるように命じた。

城内に火が掛かると城内の兵士たちは混乱し、

開いたまま城門から次々と逃げ出し始めた。

そのタイミングで平手政秀の伏兵が現れたため、

那古野城はあっさりと陥落した。

 

信秀を完全に信じ込んでいた竹王丸と氏時は、

そのまま勝幡へと連れて行かれた。

信秀は勿論、約束通り2人を勝幡で優遇し、

大切な客人として迎えている。

それだけの財力が有った事と、

この計略で更に熱田も抑えた事の余裕でもある。

 

記録上では、この話の通り、

那古野陥落が1532年の出来事と成っており、

1533年に山科言継と飛鳥井雅綱が

信秀主宰の蹴鞠指導で招かれた際に、

今川竹王丸が参加したとして残されている。

それ故に、一部の史家の間では、

この那古野攻略の出来事は、

実は1538年だったのではという仮説にも繋がっている。

 

この蹴鞠大会の記述が残る意味として、

今川竹王丸の存在を隠さなかったのは信秀の落ち度なのか

それとも今川方に人質を押さえているというアピールで、

ワザと公に竹王丸を出していたのか、

この小説では寧ろ後者の策略として考えるものとする。

現に記録は山科言継の「言継卿記」に記されており、

各地を巡った人物故に、

秘かにその話は今川方にも伝わったと考えるのが普通である。

 

1532年に信秀は大和守家達勝と争いを始めており、

その切っ掛けが那古野騙し討ちの責が端を発したとも考えられる。

しかしこの争いは双方が和睦する形で治まっており、

信秀が主家の斯波義統の仲裁を取り付ける事で

治まったとも考えられる。

 

信秀は幼い吉法師を眺めながら、

ふと、その事を思い出した。

そして吉法師に新たな土産物「鉄砲」一丁を置いて、

政秀に

 

「吉法師をよろしく頼むぞ…政秀」

 

と言って、その場を去った…

 

どうも…ショーエイです。

最後の鉄砲を置いて行った話は、

作者の演出だそうです。

1543年に伝来した鉄砲が、

1544年の時点で、津島か熱田に入ってきた可能性はあるものの、

まだ入って来るほど普及してなかったのも事実です。

 

ただ、戦国の歴史を年代で追っていく上で、

「1543年鉄砲伝来」という歴史と繋げる意味で、

ここに鉄砲を土産に置くという演出にした感じです。

 

色々と調べながら辻褄合わせる作業は大変で、

何か洩れていそうなことも危惧されますが、

極力、記録=歴史上史実として扱われている内容を

分析してこの小説を組み立てて行くつもりです。

 

現状、織田家家中の騒動は、

既に見えているそうで、

今後の展開をお楽しみください。

 

大まかな流れはネタバレしていても、

今まで存在する話とは全く違う内容で、

誰も気付かなかった戦国に生きる人達の

心の変化を上手く構成していくという事です。

 

さて…本日の愚痴…

何の変化も感じない新政権、

そして野党。

本当にこの国は成長しないです。

本人たちは何かの想いが政治に有るのだろうが、

国民はそんな妄想どうでも良いという感じです。

 

PCやテレビのゲーマーである僕が言うのも何ですが、

寧ろゲームと現実のギャップを感じすぎて、

ゲームの構成に不足感を抱くほど故に、

逆に現実をゲームの様に考えません。

 

寧ろ政治家たちは権力ゲームであり、

忖度ゲームは勿論、

戦略ゲームで遊んでいる様な思考が感じられ、

逆に幼稚な感じに見えます。

 

政治は議論が大事で、

議論の無い多数決は、

常に「法の劣後性」を回避できません。

ハッキリ言って、「法の劣後性」は、

国政の仕組みを科学的に分析、理解していないから

発生するもので、

劣後として発生する「悪だくみ」

いわば法の抜け道なんてのは、

適正に議論する中で見えてくる話です。

 

これを見ようとしない政治は、

所詮腐敗政治で、

政治家個人の趣向を数のごり押しでやっている出kなのです。

 

まあ、いつの時代もこういう状態に成る訳ですが、

権力や力を意識するあまりにそれに溺れると、

お互いの力関係を意識して法案を商談のようにしてしまう為、

議論はやぶさかとなって、

政治理想だけの薄っぺらいものが施行されるという

愚かな状態です。

そういう思考に走っている故に、

反対意見を汲み取って何を修整するべきかを

素直に見れなく成り、

「法の劣後性」は当然と割り切って

施行後に修正すれば良いとしていまう。

 

結果、大失態を起こして修正する事無く政権を追われるか、

安部ちゃんの様に、やりたいこと多すぎて、

中途半端にそっちに追われて

一つも完成された法案に成らないどころか、

修正を考える話は後回しに成っていきます。

故に、一応やりましただけのパフォーマンス法案になる。

 

北方領土問題にしても、

現実的にロシアが手放す事は考えにくい状態で、

交渉だけしましたの結果で、

日本が何かその状態で得るものは何も無かった話です。

最低でも共同開発とビザなし観光で、

日ロ共同で自治政府の法案を交渉する位の進展は出来たはずです。

 

腐敗政治状態で、枝野君に期待はしたものの、

結局彼も権力闘争のゲームに没頭しだした。

自民との差別化で、

議論中心の野党という形をどうして生み出せないのかな?

既に現状立憲民主党はゴミに成ったと言っておきます。

 

と言う事で、日本に期待しない方がいいという話です。

 

【第二話 那古野】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

 

吉法師が城の木に登っていつも眺めていた景色は、

那古野の城下であるわけだが、

当時の城下は農村の集落でしかなく、

実際に街と呼べる規模の場所は、

熱田か清洲または西尾張の津島くらいである。

 

御年10歳まで、

城の外へ出してもらえなかった吉法師…

現代社会で考えれば家に閉じ込められた様な状態を

想像してしまうだろう。

ところが現在の名古屋城の二の丸の大きさで見ると、

東西に約400m×南北に200mの広さがある。

この中に常駐武士の屋敷というか家があり、

小さいながらも集落としての形成はあったと思われる。

言うなれば外には出て遊べたが、

城の敷地外には出してもらえなかったという事である。

 

とは言え、何故それでも敷地外へ出られないのか?

 

それは治安の問題といえる。

筆者も実はこのエピソードを

5歳の時か、10歳の時のエピソードかで

悩んだわけだが、

歴史的な背景であり、当時の那古野の環境を考慮すると、

警護上の問題に行きつく。

 

馬に跨って操作もおぼつかない子供だと、

大人が前に抱えて馬に乗るのが現実的な姿となる。

勿論、馬を引いて歩く形は一般的に考えられそうだが、

仮にその状態で襲撃を受けた際、

馬上の子供を馬の背に預けて走らせるという、

ある意味危険な状況に成りうる。

 

無論、大人が子供を前に抱えた状態でも

機敏に馬を操縦できなくては成らず、

寧ろ弓矢などで狙われた場合、

その大人はターゲットにされてしまう。

子供を抱えたまま蛇行して弓矢をかわす芸当は

恐らく相当な芸達者でも、かなり難易度が高い。

大事な若君をと成れば迂闊に落とすわけには行かない。

さらに若君を預けたその大人が、

弓に撃たれて馬から転げ落ちたら、

その若君は無防備に成り、

恐らくその曲者たちの虜となってしまうだろう。

 

この後、実際に信秀は竹千代(後の家康)を、

三河から拉致している訳で、

どこで何者が不意に人質に成る吉法師を狙ってくるか…

寧ろ策士であった信秀なら警戒しそうな話でも有る。

 

そういう状況下の中でも、

信秀は吉法師の願いを聞き届けたわけだが…

はてさて…

 

平手は教育上の考えもさることながら、

城外での警備のことでも頭を悩ませていた。

一番大事なのは、

誰が吉法師を抱えて馬に乗るかである。

信頼が置けて、

いかなる状況でも決して若君を粗雑に扱わない。

ある意味命がけで守り通してくれる者で無くては成らない。

そんな御仁が織田家中に居るのか?

 

そんな中、那古野城の平手屋敷を、

佐久間大学允盛重が訪れてきた。

屋敷に入るやすぐさま政秀の部屋に

盛重は訪れ、

 

「いよいよ若君の外遊ですか。」

 

と親しげに言い放つと、

腰刀を置いて政秀の前に座った。

勿論、盛重は外遊のことで

何か頼まれごとが有るのだろうとは察していた。

 

史実の中ではさほど目立って登場しない盛重だが、

信長の家臣の中でも実は1、2を争う武芸者であったと考える。

伝承としては、柴田勝家や前田利家などが挙げられるだろうが、

彼らは部隊を指揮して武功を挙げた武将であって

武芸者という感じではない。

武芸者の代名詞でいえば、

柳生一門であり宮本武蔵の様な人物を差す。

寧ろ武将としての武功はあまり目立ったものは無い。

こういう括りで見た時に、

信長の配下で真の武芸者であったと考えるのは、

森可成とこの佐久間大学允盛重くらいである。

 

その評価は何処から来るのか…

それは2人の死にざまが、武芸者たる誇り高きものであったからだ。

 

佐久間大学允盛重の生年は不明とされているが、

恐らくこの当時で20歳前後、

1522年生まれとされる柴田勝家より少し若い位であったろう。

武骨ものであるが、ガタイは大きくない

寧ろ俊敏性を活かしたタイプの武芸者である。

史実資料上では信長の弟・信行側の家臣として扱われているが、

信行が末森城の城主と成るのが父・信秀が死んだ後で、

実は、林秀貞、柴田勝家、そしてこの佐久間大学允盛重らは、

信秀直属の武将として働いていたというのが、

恐らく正確なものであろう。

後に、林、柴田は信行側に付くが、

この盛重は信長側に付く

何故か…盛重はあえて信長を選んだのか?

 

それは忠義の士であった故に、

正当性の序列を重んじて嫡男に従った。

そういう人物と認められていた故に、

政秀の信頼も厚かったのだろう。

 

「して…平手殿、折り入ってのお話とは?」

 

盛重は何の前置きも無く本題を促した。

政秀は予め盛重に頼みごとがあると伝えて

屋敷に招いたのである。

政秀は執務中の机から、盛重の方へ向き直して、

 

「こたびの若の外遊に於いて、大学殿(盛重の事)に

若の馬上での守役を頼みたいと思ってのう」

 

その言葉を聞くや、

盛重は突然、感慨深い表情で、

 

「若を抱えて馬に乗れと!!」

 

と、聞き直した。

政秀はそのまま頷いた。

すると、盛重は更に興奮気味に

 

「何と言う光栄!!

是非に、是非にこちらからお願い申し上げます!!」

 

盛重の興奮は只ならぬものであったが、

政秀は冷静に

 

「これは家中に於いて、そなたにしか頼めぬ事ゆえに・・・」

 

すると盛重は政秀の前で平伏して

 

「有難き幸せ!!」

 

と、興奮冷めやまぬ状態で感謝した。

これは決して大役を受けた事に興奮した訳では無い。

 

この小説に於いては史実に存在しない

または史実として曖昧なエピソードは、

全て行動心理の逆分析で考えるものとしており、

当時の時代背景に存在したであろう

書物、絵画、文化などの影響から、

様々な人物像を描いていくこととする。

 

そういう分析から、

佐久間盛重は実は三国志に傾倒していたとしており、

特に彼は趙雲子龍に憧れていたのである。

それ故に若君吉法師を抱えて馬に乗るというのは、

正に願っても無い運命と感じたのだ。

 

実際に1522年ものの三国志演義の版本が

日本国内に現存しており、

1522年以前には、既に明より入って来ていた可能性がある。

しかし、この版本は和訳では無く、漢語としての原文である。

 

この原文の版本を盛重がそのまま読んだと考えるより、

寧ろ、吉法師のもう一人の教育係として登場する、

沢彦宗恩という僧侶から、

原文を和訳した言葉で話聞かされたと考える方が、

より現実的な話に成る。

明・清代には「三国志演技」は兵法書として読まれていたらしく、

沢彦宗恩が弾正忠家の武家教育係としてその家臣団に

読み聞かせた可能性は大いにある話だ。

 

では…何故、趙雲子龍がここに出てくるのか・・・

三国志、特に三国志演義に於いては、

趙雲は阿斗と呼ばれる後の劉禅を抱えて、

長坂で曹操軍の包囲網を潜り抜け、

見事に劉備の下に戻ってきた。

後に、この劉禅は無能な君主として描かれるわけだが、

劉備の死後も、この劉禅を支え、

諸葛孔明と共に趙雲が奮闘する姿が描かれている。

 

信秀の死後、織田弾正忠家が分裂しても、

うつけとされた方の信長に付いたのは、

寧ろ、この趙雲の話と結びつけた方が、

より話の筋が通ると考えた。

 

そしてこの時点で既に、

盛重は自身を趙雲に例え、

政秀を諸葛孔明の様に考えていたのかもしれない。

無論、吉法師を劉禅と決めつけるような無礼は考えは全くない。

だが、信秀を主君として劉備の様にあがめ、

その子息である吉法師は自分が生涯大事にするべき存在として、

意識する切っ掛けとなったやも知れない。

 

勿論、政秀自身には三国志のそういう意識は全くなかった。

寧ろ、盛重がそこまで喜んでこの大役を受けてくれた事に

一層の信頼を感じたのである。

 

「盛重殿がそこまでこの大役を喜んでくれるのなら、

私の肩の荷もすこしは下りたというものじゃ…」

 

大役というより運命を感じて興奮していた盛重は、

すぐさま大役を全うするべく士に変わって、

 

「して…経路は如何に?」

 

と、外遊するコースを確認した。

 

「信秀公は、那古野の城下を見た後で、

古渡に連れてくる様に申せられた。」

 

今でこそ名古屋城の城下として見られる場所は

名古屋駅から錦、栄といった繁華街が広がっているが、

当時の那古野はあくまで尾張の拠点に過ぎない。

拠点といっても敷地は広く、、

木造の藁葺屋根か木造屋根で造られた、

少し豪華なお屋敷を本邸に据え、

周囲に家臣たちの住居がある集落、

もしくは平屋の集合住宅だったと考えるべきだろう。

 

実際に所領を与えられた家臣は、

その所領付近に其々の本邸を持っていたと考え、

平手の様な重臣と成ると、

那古野城内に別宅を与えられていたと思われる。

 

吉法師の那古野城が有ったとされる場所は、

現在の名古屋城二の丸の場所だと推測され、

そこから仮に名古屋駅までの距離を見ると、

直線でおおよそ1キロである。

現在のJR線沿いが、昔の東海道に近いと考えた場合、

名古屋駅の場所に集落があったとも考えられる。

実際に名古屋駅を出て直ぐ北東に那古野という交差点が存在し、

ここに那古野の集落が有ったのではと推測する。

 

この時期の織田弾正忠家の本拠地は古渡城で

現在の名古屋城二の丸から南に3キロ位下った場所に位置する。

ここは今のJR金山駅の北側に当たる。

古渡城から更に南に2キロほど下った場所に

熱田神宮一帯の熱田が有り、

後の江戸時代に整備された東海道53次の宮宿がここに当たる。

その時代には東海道一の宿場町で有ったとされるほどで、

それから遡った戦国時代のこの当時でも、

その規模は大きかったと推測できる。

渡し舟で西にある桑名の渡し場と繋がっていた要衝で、

海運、陸運の拠点としても機能していた場所だ。

それ故に那古野城より古渡城の方が

拠点として重要だったと考えられる。

 

JR熱田駅からJR金山駅までは1駅で約2キロ、

金山駅から名古屋駅は2駅挟んで約5キロ、

更に名古屋駅から清洲駅は10キロ離れている。

外遊のコースは那古野の集落まで1キロ、

集落から下って古渡まで5キロ位の6キロほどの距離に成る。

以後、この小説では読み手が現代の感覚で解るように、

数字の単位を現代の単位で表現していくものとする。

 

この6キロという距離の感覚を

現代人の感覚で考えると

車やバスなどの交通機関を利用して動けば

さほど遠くは感じない。

 

ただ、それを徒歩や馬の常足〔なみあし〕でと考えると、

結構面倒な距離である。

ジョギングで10キロ走るといっても、

一般的に速く走れる人で40分、

普通だと1時間20分は掛かる距離に成る。

時速7キロ~12キロだが、

徒歩だと時速4キロ位。

単純に考えれば休息などを入れて、

2時間位のコースとなる。

遠いと考えるか、近いと考えるかは、

人それぞれだが、

電車で2時間と言う距離で考えると結構遠く感じる。

 

この2時間を更に何事も無くやり過ごすには、

警備にそれ相応の人員が要される事は言うまでもない。

 

さてここからは少し、

織田家というものがどういう家なのかを少し紹介しておこう。

 

織田信秀の元々の拠点は勝幡城で、

今の名古屋市の西側に位置する地域であった。

その地は長良川と木曽川が合流する場所で

尾張側では津島として知られ、

長島、桑名がその一帯に存在する商業の要衝だ。

 

吉法師の祖父、織田信定が生きていた頃までは、

この勝幡城には信定が居たと考え、

元々はこの信定の代に津島支配を目的で建てられた城である。

尾張の物流の拠点の一つ西の津島を押さえる事で、

織田弾正忠家の財力は尾張国内で群を抜いていた。

経済力という点では、

守護である斯波氏も、守護代の織田大和守家も

凌ぐほどの力を有していた。

 

この尾張の支配図式を現代の企業で置き換えて説明すると、

以下の様な形に成る。

 

代表取締役社長 斯波氏=斯波義統(よしむね) 守護代の傀儡

取締役副社長 織田大和守家(清州 尾張下〔南)四郡守護代)=織田達勝、後に織田信友が引き継ぐ

専務取締役 織田伊勢守家(岩倉 元守護代か尾張上〔北〕四郡守護代)=織田信安

 

取締役 (清州三奉行)副社長派

織田因幡守家 織田信友(後に守護代に昇進)

織田藤左衛門家 織田寛維(とおふさ)

織田弾正忠家 織田信秀

 

いわば、織田弾正忠家は、織田大和守家派の取締役に過ぎないが、

ある意味、経営母体の中枢を担う存在だったとすると、

企業での立場はものすごく強く、

独立されたらっその会社は潰れてしまう様な存在だったと理解してもいい。

 

その弾正忠家が信秀の代に成ると、

尾張の東の要衝、熱田を更に加えるわけで、

経済面のでの実質的な力は、

既に弾正忠家が支配していたことに成る。

 

とは言え、統治支配には

農村の人口=兵力とも成り、

また兵糧という部分でもそこは寄与するため、

ある意味生産性の部分では、

他が大きな地位を占めてバランスがとられていた。

金だけ持っていてもどうしようもないという図式になる。

 

これを企業として考えた場合、

弾正忠家がいくら営業先を有していても、

製品製造面で他の家が影響力を担っていたら、

弾正忠家が単独でどうこう出来る話では無く成る。

いわば製造がストップを掛けたら、

営業は結局営業先に商品を提供できないのだから、

そういう意味でのバランスが存在したと考える方が、

この支配構図を理解しやすくなると思う。

 

次にこの時代の歴史的背景を説明しておこう。

西暦1532年(以後も西暦で年号を記します)

那古野から熱田一帯は、今川家に支配されていた。

当時の領主は今川氏豊で、

今川氏親の末っ子、、後の義元の弟に当たる。

 

そこから遡る事22年前、西暦1510年

当時の尾張守護・斯波家は遠江も支配に治めていた大大名で、

その当主・斯波義達はその遠江支配を巡って

駿河の今川氏親と激戦を繰り広げた。

今川氏親は、今川義元の父親である。

 

約20年前という歳月を今現在で考えると、

同時多発テロの9・11と同じころ合いの話に成る。

物語の時点、吉法師10歳の頃1544年からでは、

34年前で、恐らく米ソ冷戦終結の象徴

ベルリンの壁崩壊の時期に重ねて考えると、

さほど遠い時代の話では無いと理解できるかもしれない。

 

それから5年、斯波家と今川は幾度も戦いを繰り広げ、

結局、斯波義達は1515年の大敗で自らも今川の捕虜となってしまう。

捕虜として氏親の情けを受けた義達は、

遠江を失い、更には尾張の熱田一帯を今川に割譲し、

自信は尾張の守護としての威信を失っていく。

遠江遠征は尾張の織田一族が反対していた事も有り、

以後、織田家が台頭する事となった。

 

那古野という地名は、更に昔、今川氏の一族である

今川那古野氏が由来であると記されており、

今川家からすれば先祖の地を奪還したことに成る。

記録上の話では、

今川が奪還して間もなく今川竹王丸(氏豊)が、

この那古野家の養子となり城主となったとある。

ただ同じ記録上の情報を見ると、

実は竹王丸の生年が一応1522年とされているため、

1515年前後から、1522年前後までは、

空白が生じてしまう。

それ故に竹王丸が養子に入る以前は、

那古野氏の誰かが城主か、

若しくは今川家臣の誰かが入城していたと推測する方がいい。

 

今川と斯波、寧ろ駿府と尾張の関係を見る上で、

現代の人が世界情勢を見るように、

当時の日本国内全体の情勢も知っておく必要がある。

 

ある意味、今の国連という枠の中で世界が繋がっているのと同様に、

当時の日本も足利幕府という存在が各国大名を繋げていた。

様相もよく似ていて、

絶対的な権限として機能していない国連、

そして将軍職としての権威を失った足利幕府である。

国連は国連憲章とそこにある条約を大義として利用され、

足利家もその地位をのみを大義として利用される。

 

それを利用して名目上の大義を抱える大勢力が、

大名の派閥を構成していく形で対立したのである。

 

有名な「応仁の乱」を現代の感覚で同じように見ると、

1467年に勃発し、1478年に東西で和睦が成立している。

1544年から見て、約77年~66年前の出来事として考えると、

丁度、現代人の感覚の第二次世界大戦の時期に相当する。

いわばその当時を体験談として語れる世代が、

まだギリギリ残っている感じの昔なのである。

 

その応仁の乱終息から15年後の西暦1493年、

明応の政変が起こる…

これはある意味、東西冷戦米ソの対立が始まった時期として

認識しても良いかもしれない。

 

明応の政変が実は戦国時代の始まりと見ても良い。

政変の勃発は、第九代将軍足利義尚〔よしひさ〕の死である。

※将軍の名前は同一人物でも色々変わる為、一般的な名前で統一します。

義尚は応仁の乱終息時、八代将軍足利義政から12歳で将軍職を引き継ぐ。

応仁の乱で西軍として、義政に反抗した義政の弟、義視〔よしみ〕は、

このとき美濃に身を引いていた。

 

九代将軍義尚は1489年に僅か23歳で亡くなっており、後継者が居なかった。

1490年までは先代の足利義政が生きており、その義政の死後、

その弟の義視が息子の義材〔よしき〕を第10代将軍として擁立した。

義尚の死後、様々な裏工作の末、勝ち取った話では有るが、

その後、10代将軍義材は1491年にその父義視が死ぬと、

独裁的な思考を強めたため、

義政の正妻である富子と管領・細川政元の反感を買う。

ある意味、細川政元の存在を恐れ、

その力に対抗するべくその前管領である畠山政長と結んで、

彼に細川政元に匹敵する勢力に押し上げようとした事が、

事の始まりである。

元々応仁の乱の怨恨もまだ燻っていた中での話ゆえに、

西軍側として存在した方が、東軍側の将軍職に付いている時点で、

東軍側であった政元らから好感を持たれていなかったわけで、

結局、富子と細川政元は足利義澄を擁立して、

その10代将軍義材を追放した上で

第11代将軍に足利義澄を立てる政変(クーデター)を起こした。

 

追放された足利義材は、自身が肩入れしていた畠山政長を頼って、

抵抗をつづけた。

畠山政長は東軍側の人間であり、

応仁の乱時は管領も務めた実力者だが、

河内の領土で同族の畠山基家と対立していた、

その助力として義材に親征を求め、

それに応じた義材の力によって、

一時は河内再統一目前まで迫っていた。

この親征には細川政元が反対している。

 

畠山政長の河内再統一での台頭を阻止する意味でも、

細川政元は義材を追放したと考えられ

その後の結果として、畠山政長は

細川政元の支援を受けた畠山基家に

形成を逆転され、政長は自害、

そして義材は投降する事となった。

しかし義材は瀬戸内海の小豆島に幽閉される直前、

京であっさりと脱出して越中へと逃げている。

越中では、畠山政長の家臣で

越中守護代の神保長誠〔じんぼう ながのぶ〕

を頼ってそこで再決起する準備を行った。

 

河内(大阪南)と越中(富山)では領土的に離れすぎていて、

どういう関係性か混乱する時代であります。

いわば畠山政長という会社の本社が大阪に有り、

支社が富山に有った状態と考える方が良いかも知れません。

富山支社の支社長が神保長誠で、

大阪本社が乗っ取られて、富山支社が前社長派を引き継いで、

独立した様な感じで考えれば理解しやすいかと思う。

 

そしてこの時期、もう一人のキーマンが、

応仁の乱で西軍の雄として、いわば義材の父、義視に与した

周防長門(山口県)の大内家であります。

西軍の雄としては山名宗全が有名だが

後半活躍するのは大内政弘の方であった。

 

実は、足利義材の河内での戦いの際、

政弘の子、大内義興が兵庫近辺に在陣していた。

しかし、応仁の乱後、義興の父、政弘と細川政元の間で、

政略結婚が結ばれており、

細川政元が政弘の娘を人質としていたため、

その息子の大内義興は足利義材に与する事が適わず、

兵庫で静観する事となった。

 

その後、1494年に大内義興は政弘から家督を譲られ、

1495年にはその父・政弘が死亡した。

元々義材に与するつもりでいた義興は、

これを期に態度を明確化し、細川政元と対立する道を選ぶ。

しかし、細川政元の勢力は更に勢いを増し、

丹波、山城(京)、摂津、河内、大和、讃岐、阿波、土佐と、

広範にその支配を広げていた。

 

大内義興は、足利義材を自領に招き入れるも、

細川政元が生きている間の上洛は避けた。

寧ろ、義興は九州への領土拡大を進めて、

自らの地盤を固め、義材を招き入れる事で、

より強固な大義を得る算段であったが、

寧ろ細川政元がそれを朝敵として大内討伐を命じた事で、

一時は窮地に立たされた。

 

1507年、細川政元が暗殺された。

これにより複雑な養子縁組が火種となって、

細川家(細川京兆家)が分裂する事となる

政元の養子には、澄之〔すみゆき〕、澄元〔すみもと〕、高国〔たかくに〕

の3人が居た。

後継者としては細川澄元で決まっていたが、

政元暗殺の首謀者、香西元長と薬師寺長忠らが

澄之を後継者として擁立したため、

お家騒動に発展したのである。

政元暗殺の同機は

澄之が細川家の血筋でない養子で有った事から、

嫡男として廃嫡された為、

その後見人と成っていた香西元長は家中での地位を落とした。

逆に、澄元の後見人で新参者の三好之長が台頭してきて、

寧ろその腹癒せが要因と言っても良い。

 

勿論、彼らは澄元の暗殺も企んだが、

これは三好之長〔みよし よしなが〕(長慶の曽祖父)に阻まれ、

澄元と之長は近江へ一時逃れてこれを避わした。

簒奪者澄之派に対抗する為、一時澄元と高国は連携した。

そして三好之長と澄元は近江から上洛を果たし、

戦の末、澄之を自害に追い込んだ。そののち香西らも敗死する。

 

ところが大内義興はこの動乱で、

もう一人の細川政元の養子、

高国を抱え込む工作に成功しており、

いわば足利義材(義稙に改名)の御内書で、

細川高国を政元の正当後継者・・・

いわば細川京兆家当主であるとしたのである。

 

これにより再び足利将軍家は、

細川澄元が京兆家当主とする第11代将軍足利義澄派と、

大内義興が後見と成って京兆家当主とする細川高国の

第10代将軍足利義材(義稙)派で分裂することとなった。

 

この時分に、

斯波義達と今川氏親の遠江争奪戦が勃発した。

 

この斯波と今川の因縁を見るのに、

再び遡る事、応仁の乱発生以前の状況を説明せねば成らない。

実は斯波家は一時的に分断されていた。

全ては足利義政の愚行によるもので、

血族として本流の斯波義敏とその子義寛は、

その所領の越前、遠江での内乱勃発を理由に、

義政の関東政策による関東救援要請に動けなかったため、

その守護の座を幕府の指示で追われた。

この裏では、斯波家家臣の甲斐常治や

義政より関東政策で派遣された渋川義鏡といった人物の陰謀が絡んでおり、

特に渋川義鏡は実子を斯波義廉として斯波本流筋の後釜に据えている。

この時分に、

尾張の織田伊勢守(岩倉)敏広が義廉方の守護代と成っており、

後に義敏が復権すると、織田大和守(清州)敏定が守護代となる。

 

この経緯を大まかな話で言えば、

実子が義政の計らいで斯波家当主と成った後、

渋川義鏡が関東で失態を犯して失脚し、

将軍義政の命によって斯波義敏、義寛親子が赦免(罪を許される)され、

その権限を復権する。

父・渋川義鏡の後ろ盾を失った斯波義廉は、

本流の義敏、義寛にその地位が奪われること察して、

西軍側に与する事になる山名宗全との関係を深めてその力を頼る。

義廉は山名宗全を義父とする婚姻を取り付け、

応仁の乱が勃発した際、西軍での地位を確立した。

 

西軍に付いた義廉側に従い織田伊勢守敏広も西軍に属する事と成り、

義政によって復権した義敏、義寛側には自然と織田大和守敏定が属した。

山名宗全の西軍側の勢いを借りて

当時の管領・畠山政長(例の明応の政変に出てくる人物)を追い落とすと、

武功を上げた斯波義廉は後任として管領に就任する。

ところが、東軍の細川勝元(政元の父)らが巻き返すと、

義廉の家臣であった朝倉(7代目当主)孝景が

将軍義政との取引で東軍に寝返り、

そのまま越前を手中に治める。

※当時の斯波家の本拠は越前であり、尾張ではなかった。

※孝景は7代目と10代目(義景の父)に同名が存在する。

 

越前を失った義廉は、尾張の守護代織田伊勢守敏広を頼って、

斯波義敏、義寛父子とそれに付いた織田大和守敏定らの勢力を

尾張で一時は押さえ込むも、

東軍幕府、いわば足利義政の政治工作で、

織田大和守敏定が尾張守護代に任命され、

凶徒退治と言う名目を携えて義廉と伊勢守敏広への反撃が行われた。

尾張国内で凶徒として扱われた義廉と伊勢守勢力は、

支持基盤を失い、義廉は失踪。

伊勢守は奮闘して大和守の本拠清州を囲むも、

再三の幕府の介入も有り、最終的には両家で和睦する事となった。

それ以後、織田伊勢守家は岩倉に居城を構えて尾張上四郡を支配、

大和守家は下四郡を支配する取り決めが定められた。

 

結果、斯波家は義廉を追放した形になったが、

越前の支配は朝倉家が牛耳っており、

越前に残った父・義敏は同じ東軍に寝返った朝倉(7代目)孝景の

傀儡守護として扱われていたという。

尾張で大和守に合流し、義廉を追いやった子の義寛(当時義良)は、

尾張で守護の地位に着くこととなる。

これが尾張斯波家の始まりである。

応仁の乱終息後、1479年斯波義寛は越前に出兵し、父義敏と合流して、

越前奪還を計るも失敗し、

以後、越前は朝倉家のものと決定づけた。

しかし、辛うじて斯波家は尾張と遠江は守り抜くことが出来た。

 

この応仁の乱の騒乱時分に、

今川家は東軍方として最初は遠江奪還を目指して

西軍に属した義廉の勢力と戦っていたが、

斯波家の複雑な事情から、

いつしか遠江は義敏、義寛側に与した方も出てきて、

次第に西軍なのか東軍なのか解らない状態で、

遠江での戦を行っていた。

結局、当主の今川義忠はその戦いで遠江を奪還する夢叶わずに、

戦死してしまう。

残された義忠の嫡男、龍王丸(後の氏親)はまだ幼く、

その隙を狙って関東の勢力が駿河を脅かす。

幕府の東軍側として協力していた扇谷上杉家が背後で

今川義忠の従弟小鹿範満に家督を継がせようと動いていたとされる。

この時に扇谷上杉から出てくる人物が、

江戸城を築いたとされる太田道灌である。

そして幕府の思惑だったのか…

それとも個人的な策を以て龍王丸保護を幕府から取り付けて

駿河の地にやってきたのか…

その人物が伊勢盛時こと、後の北条早雲だった。

実際に龍王丸の母とされる義忠の正室北川殿は

盛時の妹に当たり、盛時は龍王丸の叔父に成る。

 

結果、幕府の命という名目で、

龍王丸が跡目を継ぐことに成った今川家は、

扇谷上杉との話で、小鹿範満を元服までの後見人とした。

しかし、龍王丸が元服を迎えても

小鹿範満が家督を譲らないと伝え聞き、

盛時は再び駿河に訪れ、龍王丸を補佐する名目で兵を集めるや、

範満が占拠する駿河館を襲撃して、その親子を殺害した。

そして龍王丸はようやく元服する事が叶い、

今川氏親を名乗り今川家の正当な当主となった。

 

応仁の乱の因縁を得て、

1510年に勃発した遠江での斯波家と今川家の戦い。

今川家の当主はこの氏親であり、

斯波家の当主は義寛の子の義達である。

義達は細川家との関係から、

そのまま11代将軍足利義澄の側に立っており、

今川氏親は寧ろ10代将軍足利義種こと義材の側に与して、

戦いを繰り広げている。

 

そして、斯波氏は遠江を失い…

那古野まで今川に押さえられた。

 

更に信秀が今度は奪い取る事で、

斯波氏に代わって、那古野は

織田と今川の因縁の地と成った。

 

吉法師が居る場所はその那古野である。

 

無論、敵は今川だけにあらず、

同族の織田家同士にも因縁は存在し、

政秀が警戒してやまない苦悩とは、

こういう事情が絡み合った中でのモノだった。

 

いやー今回は長い文章に成ってしまってます。

今のご時世、WIKIを中心にネットで

色々調べものが出来る訳ですが…

冗談抜きで、この戦国時代の時代背景の情報を

精査するだけで大変です。

 

年代も資料によって全然違うし、

名前も似た様な名前出てくるしで、

頭が混乱しそうだったって。

 

それら情報を出来るだけ解りやすく纏めて見たけど…

どうだろう解りやすいのかな?

 

本来は応仁の乱の部分ななんて

要らないだろうと思ってたらしいけど、

調べていくうちに複雑化した因果関係を説明するのに

そこも大事と判断したみたい。

 

特に、尾張にある織田家という関係性を知る上であり、

尾張と駿河の関係性も含めて。

まさか太田道灌とか北条早雲が少し絡んでくるなんてね。

 

戦国時代の始まりは

足利将軍がアホでした。

で終われる話じゃ無く、

大人の事情がいろいろ絡んで、

ドス黒い思惑が張り巡らされた結果なんですね。

今現代の外交問題もこれに近いのかな?

 

歴史小説は先の見えない展開を予想しながら楽しむものでは無く、

ネタバレした状態で、

どれだけ詳細に辻褄を合わせて、

話の展開を楽しませるか…

だと考えているそうです。

 

織田家のお家騒動…

既にネタバレする展開な訳ですが、

要は何故このお家騒動が発展したのか?

 

単純に、信長たまがうつけだったからとは行かないのです。

寧ろ、何故うつけとされたのか?

 

本編の小説部分はまだ殆ど進んでいないけど、

これから徐々にその謎が解明されていくそうです。

 

出来れば多くの人に楽しんでもらいたい。

大人の思惑で誰かバズらせてぇー

【第一話 天命】

 

 

「形あるものは何れは滅ぶ…」

 

それを定めとして刻み、

そしてそれを受け入れるのである…

 

少年吉法師は城下を見渡す大木の上から、

それを眺めていた…

 

少年の頭でそれを理解していた訳ではない、

その言葉が頭を過った訳でもない、

ただ、そののどかな那古野の城下を木の上から眺めて、

ただ感じるのである。

 

「死んだらどうなるんだろう・・・」

 

茶筅に城主として衣装を身にまとった

少年吉法師。

女の子の様に美しく愛らしい顔立ちの

まだ10歳にも満たない子供は、

ふと単純に考えた。

 

少年が考えた「死」とは、

決して宗教的な世界では無い。

ただふと…

自分の定めを純粋に感じ取っただけだ…

 

いわば…今が亡び、

死した後に

自分は同じ城主としての定めを受けられるのか?

 

定めを受けたものは…

決して自らの運を誇らない。

むしろ危ぶむのである。

 

織田弾正忠家の嫡男として生まれ、

生まれて間もなく父信秀より那古野城を与えられ、

守役の平手政秀を筆頭に、

多くの家臣を宛がわれて、

何の不自由もない生活を送ってきた。

 

それを「定め」として当たり前の様に受け取ってしまえば、

全ては周りが教えてくれる。

期待された定めの通りに教育を受け、

そして周りが認める定めと成れば良い。

 

大人として処世術を身に着けたものなら、

それが一番無難な生き方と説くであろう。

 

しかし、少年として「死」という将来を認めてしまった子供には、

寧ろ…

「今を楽しむ」思考が過るのである。

これが少年吉法師が「うつけ」となる切っ掛けだった。

死への答えなど見出す事も無い…

すでに少年の興味は「死」から「楽」へと移り変わっていた。

 

吉法師が何を感じ取り、

何を求めて城下に興味を持ったかなど知る由もない。

ただ好奇心に駆られて城下を見たいという話だろう。

無論、少年に何かの考えがある訳でも無い。

ある意味、その通りなのだ。

ただ、天命という感性を除いては・・・

 

吉法師は守役の平手に、

「爺!!城下を見たい!!」

と、せがむのであった。

爺と言っても、平手はまだ50台に差し掛かったばかり、

現代ではまだ働き世代の中心である。

爺と言って、執事長という身分に近く思われがちだが、

ある意味嫡男の教育係という立場は、

次世代の参謀候補として認められた者であり、

家中ではある意味一番の重責ある者と言える。

 

執事長の様な存在で平手を想像すれば、

とても優しい容姿を思いうかべてしまう。

しかし、弾正忠家の重臣としての彼は、

寧ろ威厳があり、厳格で厳しい人だった。

無論、それは吉法師に対しても同じである。

 

それ故に…平手は吉法師に問う。

「何故、城下へ」

平手は厳格な教育意識から、

行動に伴う明確な理由を考えさせる為に、

あえて吉法師に意地悪な言葉で問うのである。

 

そんな質問は少年吉法師には理解できるはずもない。

吉法師からすれば単なる好奇心なのだから…

そういう意味では

平手が意地悪で城下に行かせてくれないと感じるのであった。

 

そんなある時、

父信秀が那古野に足を運んだ際、

吉法師は謁見した父親に、

「父上!!城下を見てみとうございます」

と直談判した。

この当時の吉法師はまだ礼儀正しく、

父親との謁見の際も、臣下の礼をとり、

臣下としてそう申し出たるのであった。

無論、こうした行儀は平手の教育の賜物で有り、

当時の吉法師は何の違和感も感じずに、

その作法を受け入れていた。

父親からしても奇抜で賢い少年に見えた事だろう。

 

故に、信秀は生涯、信長を愛したのである。

年を重ねて吉法師が信長として成長しても、

信秀の心には幼い頃のこの従順で可愛らしい姿が、

愛おしく残りつづけたのである。

 

信秀は吉法師の申し出を受けて平手に問いた。

「政秀…どう思う?」

その言葉に、吉法師は少し不貞腐れた。

(どうして爺に聞く…爺はダメという)

しかし、作法に従順な吉法師は顔には出しても、

父親に我がままをあえて言わない。

そういう弁えも身に着けていたのだ。

すると平手は、

「若は何故城下を見たいのですか?」

と、平手は吉法師に問い返した。

 

(いつもの意地悪だ!!)

吉法師はそう心で感じた。

無論、教えられた作法を身に着けているのとは異なり、

吉法師にはまだ明確に理由を説明するだけの知恵は無い。

また、「好奇心」で見たいという事に理由を問われても、

その「好奇心」が理由になるという摂理すら理解していない。

故に平手の「何故?」という質問は

吉法師にとっては意味不明なのだ。

しかし、やりきれなくなった吉法師は

ただ我武者羅に子供らしい我がままを

敢えて父信秀にぶちまけて見た。

 

「父上、見たいから見たいのです!!」

 

すると信秀はその言葉に笑みを浮かべて

微笑ましく黙って頷いて見せた。

礼儀正しく振舞う子供が、

子供らしく我がままを言った様に見えて、

信秀は寧ろ愛らしく感じたのであろう。

平手は信秀のその仕草を悟ってか、

それともそれが「答え」という意味か、

「若…それならば…城下へお連れしましょう。」

と、吉法師の申し出を認めたのである。

 

吉法師は寧ろ、

何故それで城下に行くことが許されたのか…

ある意味解せない。

しかし、父親なら自分の気持ちを解ってくれる…

子供ながらにそう感じたのは間違いない。

 

そして信秀は

「吉法師よ…見たいという気持も、何故という問いの答えだ!!」

と父親らしく吉法師に教えた。

平手はその言葉を聞いて敬意の表しの一礼を

信秀に捧げた。

ただ実際は平手自身、吉法師にもっと厳格な理由を求めていたのである。

 

「城下の民の暮らしを見てみたい」

 

もっと崇高な意味で理由を語れるまで、

学問を学ばせる中で答えを引き出そうとしていた。

平手としては

ただ好奇心で見たいというのでは、

城下を見る事の意義を感じさせられないのではと思っていた。

それは平手自身の経験から感じたのか、

それとも平手が考えた教育方針なのか…

寧ろ、吉法師の好奇心を煽り、

城下を見て回る意義が、頭の中で成立するまで

君主として帝王学として

その行動の意味を教えようと考えていた。

 

教育理念は人それぞれに異なる。

実際にどちらが正解であるかは、

教える本人ですら解らない。

その教え子がどう育つかで見えてくるモノの、

それが正解か不正解かはないのである。

 

平手がこの時信秀の言葉に、敬意を記したのは、

自分の思惑の中で起こる葛藤に

一つの区切りを付けてくれた事へのモノなのか、

臣下の礼として、または処世術として、

主に対して示しておくべき作法だったと考えたのか、

実際、政秀の心の内は解らない。

ある意味優秀な人物故に、

自分の引き際もわきまえていたと言える。

 

ただ、何れにせよ主君の命として、

吉法師の申し出を受け入れた事には変わりなく、

吉法師を城下へ連れて行く事となったのである。

 

しかし、この好奇心がいわば「うつけ」の始まりとなる事は、

後にも先にも、神のみぞ知る摂理なのであった。

 

どうも…ショーエイです。

暫くはこの形でグジグジ言わせてもらいます。

 

《香港と中国政府》

一般的には民主主義が

絶対の正義という認識だと思われてます。

実際に僕も、民主主義を大事に考え、

このブログでも語っていますが…

 

もっと大きな意味で、

自由と正義を見つめ直す上では、

中国の試みは実際は大事なのです。

 

いわば、我々の民主主義は完全ではない!!

 

選挙で選ばれた議員が

常に国民が安心できる様な

真面な政治を出来る訳では無い。

議員に成れる人間の資質は、

政治家としての資質ではなく、

権力いわば政治的に力を持った人間に

忖度できる人間が主流です。

 

また、日本の国会議員に限らず、

最近では米共和党であり民主党も

党の意向が優先され、

法案可決の個人的な見識は無視されます。

 

故に今の民主主義では、

力による意向に従う形が当たり前で、

科学的と最近言われる

いわばロジックに基づいた議論の下で

個々が法案の是非を考えて投票する事は許されません。

(日本では特に)

 

更には国民が投票する際に、

議員候補者の主張で選ぶわけでは無く、

むしろ野球の試合の様に、

どの党に勝たせたいかで選ぶ感じに成っています。

 

中国の共産党と日本の自民党…

大きな違いは日本は辛うじて選挙を介して

国民が国会議員に投票できるだけです。

実際に米国も同様に、

国民が国会議員を選んでいる訳では無く、

党が立候補者を選んで、

国民に選ばせているのが事実です。

 

逆に中国の方式は、

国民に選ばせる権限を与えていないだけで、

選別している過程はほぼ一緒なのです。

 

民主主義では、

国家運営に不満が有れば、

アメリカなら共和党が気にいらないなら、

民主党にという選択肢が有ります。

ただし、それは共和党に任せるか、

民主党に任せるかの選択肢でしか無く、

議員の資質を吟味して選ぶ形とは程遠いと言えます。

 

中国では逆に

国家運営に不満が生じたら

革命が起きます。

とても安全とは言えないシステムで有る事は

間違いありません。

しかし、国家運営に不満が生じない状態だと、

逆に民主主義より盤石です。

今の中国は疲弊していた30年前と比べ、

格段に生活レベルは向上し、

国家運営としては盤石です。

これを幾ら諸外国が非難しても、

ハッキリいて無意味なのです。

 

日本ですら腐敗している自民党政権、

いわば安倍政権を長期的に維持させていた訳で、

中国の人も今の習政権を覆す考えは、

民主的な選挙を以てしても覆らない。

寧ろ選挙で、

ドナルド・トランプvs習近平で行ったら、

中国では圧倒的に習近平が勝つでしょう。

たとえそれがジョー・バイデンでも、

間違いなく習近平が勝ちます。

ポンペオ国務長官はそういう現実を理解せずに、

中国批判して何の意味が有るのか?

ハッキリ言ってこの人アホです。

無論、民主党のナンシー・ペロシ下院議長も、

同じ間抜けです。

 

己を知り、敵を知る。

 

こういう程度の低い人たちに

権力を与えている民主主義。

未だ不完全なシステムで有る事を理解するべきで、

安定化した社会情勢では、

人民共和制(中国は実は共産制では無い)と、

民主制どちらが政治システムとして優れているかは、

判別出来ない話です。

 

ただ社会を安全に維持できるシステムとしては、

民主制では選挙による変革は可能で、

人民共和制では、暴力的な革命が

その変革を意味するモノの違いで、

中国政府が現状のシステムのまま、

政権を保持しようとするのは

諸刃の剣に成るのです。

 

実際に中国政府もこのことは理解しているため、

人民共和制の修正を考慮しているのですが、

香港の様な状態が発生すると、

温和な対応では通じないという認識を与えるだけで、

より強固な圧力に転じていくだけです。

 

今の中国批判は実は、

中国の温和な変革思考を阻害して、

中国の思考を旧体制に逆行させているだけの話です。

中国の意識が、

いわば政権では無く、

共産党員のマジョリティとなる数が、

共産党の権力保持に傾けば傾くほど、

昔の中国を呼び起こす作用を働かせるだけで、

強大な技術力と人口を抱えた国として、

より驚異的な存在となるだけです。

 

無知でも見える脅威は同じで、

無知はその見える脅威に怯えて、

自らを警戒することで

その脅威を結局は実現化してしまう。

 

あえてその脅威を相手と共有して、

理解し考える事で、

実際の脅威を遠ざける事は叶うわけです。

 

無知は失敗する事を前提で、

何の対策せず、対応に備えるだけ。

 

対応に備える事は常に心掛けた上で、

対策を講じて脅威を回避する事が、

科学的かつ論理的な思考なのです。

 

結局、ダメな時はダメで同じなのだから、

最善を尽くさなくてどうするの?

って話です。

 

孫子曰く

外交を以て敵を制するは上策、

戦争は最終手段であるべき

 

正にこういう思考の話です。

 

《人の構造は複雑》

 

「うつけの兵法」でも上記の様な外交の話は出てきます。

武田信玄、上杉謙信を外交で押さえ込もうとした

織田信長…

足利義昭の無能さがそれを阻害した。

多くの歴史家はそれを知らないで、

信長たまを誤解しているが、

暴れ狂った信長たまは、

全てが無茶苦茶にされたからの結果です。

 

室町幕府成立の南北朝時代、

連合に分かれた南北朝勢力が、

正当な天皇を掛けて戦い、

正当な天皇を立てる事で最終的には、

足利幕府成立で終息した。

 

応仁の乱

これも東西に分断して行われた状態で、

ここでは足利家をめぐって争われた様なモノ。

諸大名はその旗本で連合し、

最終的には和睦で終息。

 

こうした歴史の経緯から、

信長たまも義昭を有して、

上杉、武田、朝倉、浅井、

などと連合して戦国時代を終息させようと考えていた。

まあ、一番てっとり早い話です。

でも…義昭は将軍としての地位に驕り、

自らの無能な主張で信長たまと対立したのです。

 

「うつけの兵法」では

一応、創作上の逸話になりますが、

信長たまは「三国志演義」を語り聞かされた際に、

自らの憧れを「曹操」でも「劉備」でもなく、

「諸葛孔明」としたことにします。

そして信長たまは自らの主君として

足利将軍に「劉備」を求めていたのです。

これは心理分析上、

義昭と信長たまが対立する大きなポイントに成る点で、

劉備を失った諸葛孔明=乱世の織田信長で見れば、

奇想天外な天才戦略家の構図がマッチングしていきます。

信長たまは諸葛孔明同様に、

天下を平定した人物で有る事より、

天下を治める貢献を望んでいた。

いわば名声よりその実績を望んでいた訳で、

現世における「地位」=「将軍職」などには

全く興味が無かったという事です。

 

出世欲に駆られたイメージで見ると、

信長たまの奇行は理解しにくいでしょうが、

こうして見れば歴史資料に存在する話と

辻褄は合ってくるのです。

 

諸葛孔明に憧れていたであろう武将は、

明智光秀しかり、竹中半兵衛、黒田官兵衛など、

後世のイメージで多くが存在しますが、

何れも実は諸葛孔明からは程遠い。

竹中半兵衛はまだ近いかも。

でも、イメージは寧ろ「郭嘉」

 

歴史家の多くは諸葛孔明を知らなさすぎ!!

 

孔明先生はかなりの偏屈ものですよ!!

曹操嫌い、曹操ムカつく!!

絶対に曹操の下では働かない!!

 

実は徐州での騒乱時、この騒乱の地域で

諸葛孔明は思春期を過ごしたようです。

それ故に、曹操の噂も、劉備の噂も耳にしていたでしょう。

 

荊州=劉表の所領に移った際、

孔明は仕官したかしなかったは実は記述が無い分

不明です。

ただ、劉表の下では

出世できない=自分が何かを動かす力を持てない

と感じて、出奔してニートに成ったか、

それとも元々ニート暮らしでノホホンと過ごそうとしていたのか…

 

まあ、予想ではニート万歳な人だったんでしょうね。

ある意味、叔父諸葛玄の遺産が幾らか有り、

隆中の一角で小作農を雇い、多分特産物の栽培を行って、

行商に出る事で財を成していた可能性はあります。

故に三顧の礼で言われるように、

孔明を見つけにくかった。

貧乏なだけのニートが

劉備の耳に入る様な人物としての評価は得られないという

現実視点です。

 

また、例の奥様月英の逸話でもある通り、

工作品も扱っていた可能性も有ります。

一輪車=木牛流馬はこの当時から持っていたとも考えられ、

こうした奇抜な発明家であり、行商のセンス、

そして行商で回って得た見識など

周囲の著名人が一目を置く存在となっていたと考えられます。

 

これだけの功績の下で、

劉備にその噂が届いたのなら、

そりゃ貧乏ニートという話より、

明らかに興味を惹く人物という扱いには成ります。

 

ただし!!

孔明は元々人の下で働ける人物では無かった!!

 

偏屈モノで才能ある故に、

人が上に居ると、決断面で邪魔に成る。

自分の判断でしか動けない人だったのです。

 

そこは劉備に推挙したとされる司馬徽も見抜いていた事で、

故に「孔明(臥龍)を得たなら天下を取れる」

と、話したともいわれます。

いわば、

「この偏屈モノを参謀に招き入れるには、

それ相応の器の持ち主で無ければ使いこなせない」

という意味で、

司馬徽は劉備の人柄を見て相性が良いと察したとも言われます。

徐庶君は、寧ろ司馬徽が孔明を推薦する位の器ならと、

興味本位で劉備に近づいたと考えた方が

実は偶然としても辻褄が合ってきます。

 

実は、これが諸葛孔明の実態で、

信長たまの歴史上の軌跡を参考に

精神鑑定するとかなりマッチングするのです。

 

まあ、戦国の世に信長たまを

下に於ける人物がいたとするなら

斎藤道三と北条早雲くらいなもので、

何れも信長たまより先に死んでいる訳です。

 

因みに精神鑑定は簡単に考えてはダメなのです。

一般的には実績=人物で鑑定されますが、

それは成長過程の「天命」が及ぼす要素を無視しているから、

全く当てはまらないケースが多く存在します。

 

今回の第一話「天命」でも語っている意味は、

その個人が何に「宿命」を求めるのか…

そこには「欲」の分類も作用し、

出世欲、財欲、名声欲などが発生します。

 

この話では

「死」を悟るとある訳で、

実は信長たまが好んだ敦盛の句

「人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻のごときなり」

が意味するところです。

人間はいずれ死ぬもので、

財も名声も全ては一時のものでしかない。

ここからが信長たまの信念で

天命を信ずるならば、

万民の為に世を平らにすることを目指すべきで、

自ら死した後に、

運を伴わずに平民として生を受けたとしても

その世を平穏に享受できるならなお望むべし。

 

人間の精神は基本的には利己主義です。

いわば自分本位です。

これは精神学上それが本質として

認められているモノです。

 

利己主義的に分析すると、

必ず「個人の欲」に結びつきます。

幸せを感じたいという欲

これがどこに存在するかも判定基準です。

いい意味でこの欲が現れると、

「家族愛」「交友愛」とか「動物愛」など、

心優しい作用として機能します。

そしてそれを守るために、

「財産欲」「出世欲」「名声欲」と、

複雑な作用を引き起こしてきます。

性善説も性悪説も関係ないです。

性善性の欲と、

性悪性の欲、

いわば味方を作る為の欲を性善性の欲、

敵を生み出す欲=

競争原理で誰かを犠牲にする行動が生じる

性悪性の欲、

人間には必ず生じてくるもので、

生まれた時はこれ全て無なのです。

子供が感じる性善性の欲は、

すべて孤独からの回避で、

甘えたりする行為に結びつき、

性悪性のモノは

好奇心からの悪戯から生じてきます。

性善性の欲は、愛情をはぐくみ、

性悪性の欲は、知恵をはぐくむ。

 

まあ、キリスト教の哲学で

堕天使ルシフェル(ルシファー)は

人間に知恵を授けたという一説は、

ある意味興味深い例えです。

 

これが人間の基礎精神の構造です。

この中で生まれた環境で様々な感性が構成されていき、

人間像に変化を齎していきます。

 

天命を一つの「魂」の要素として「仮説」すると

関羽が生まれ変わっても、

必ずしも関羽に成る事は無い。

 

武の達人として名声を得たものでも、

転生してその武を教わる事が無ければ、

その武が達人レベルに達する事は難しい。

武に対する興味が他に向けば、

その集中力と興味はその他へ向く。

 

遺伝子という複雑な機能が、

その興味を同じ方向に向かせない作用として考えられ、

体力の無い遺伝子を得たものが、

体力のある遺伝に体力で対抗する事は難しい。

遺伝子は魂が得るクジ引きの様なモノで、

「天命」が必ずしも絶対でない

公平な作用なのかも知れない。

 

これらの作用に加えて、

人生の誓約もその教育課程において

加わってきます。

「人を騙してはいけない」

「嘘をついてはいけない」

道徳過程で教わる話ですが、

ここでいう教育課程は…

人を騙さなくても有利になる実感。

嘘をつかなくても許してもらえる実感。

これらが無いと、人は言葉で教わる道徳を、

まったく身に付けません。

逆に人を騙した方が得をする実感や、

嘘をつけばバレない実感を経験すると、

人はそれを処世術として身に着けていきます。

 

この分野に成るとかなり複雑に成ってくるのですが…

簡単に説明すると…

遺伝子的に痛覚に耐性のある子供なら、

悪戯をして母親からクレヨンしんちゃんの様に

ゲンコツを食らっても平気で、

ある意味無理に嘘をついて身を守ることは

必要ないとうい成長に結びつくかも知れません。

逆に、遺伝子的に痛覚に敏感な子供は、

ゲンコツに対する恐怖心を覚え、

それから嘘をついてでも身を守らなければならない

という成長に結びつく。

 

こうした人間が遺伝子的に持つ耐性の作用で、

同じ教育でも全く異なる人格形成が生じるのです。

マニュアル教育が上手く行くはずないのはこういう事です。

 

人間の構造は本当に難しく、

マムシの斎藤道三=劉備玄徳なんて、

本当に成立するのかな?

劉備玄徳=イエス・キリストなら成立しそうだけど…

と、有り得ない事、有り得る事を

単純にしか見比べられないのも事実です。

 

ただ、斎藤道三=劉備玄徳は、

織田信長が唯一信頼した相手で、

斎藤道三も伝記上の話か、史実かまでは定かでないが、

織田信長を自分の夢を託す後継者として認めた事です。

斎藤道三は美濃一国でその勢力が留まり、

信長は天下統一まであと一歩のところまで進んだ…

玄徳が孔明無くして蜀を得る事が叶わなった

そんな関係でもある様に見えます。

こうした因果関係からも有りうる「仮説」なのです。

 

おお!!本編より愚痴の方が長くなって、

オッサン先生にクレーム言われたぞ…

では、失礼。

 

どうも…ショーエイです。

ナチスがユダヤ人を迫害し、ジェノサイドを行ったのと同じで、

リクード党がパレスティナ人を迫害してジェノサイドを行っている。

 

ただこう言えば良いだけの問題です。

 

ナチスをドイツ人、ゲルマン民族の総称と

見なしていないのと同じで、

現行のイスラエル政府をリクード党として非難するなら、

それは反ユダヤではない。

実際にそのリクード党が中心と成って、

パレスティナ人の迫害を続けているのが現状です。

そしてその迫害の事実の下で、

ガザ侵攻に於いて多くのガザ市民が殺害されている状態は、

明らかにジェノサイドの定義に当てはまります。

 

ナチスがユダヤ人を迫害している際に、

ユダヤ人がナチスに抵抗する行動を取るのは、

これはテロなのか?

勿論、無差別にドイツ市民を殺せばテロです。

しかしナチスという強者が

ユダヤ人という弱者を迫害する状況下において

その抵抗手段としては仕方のない手段にも感じます。

※ユダヤ人がその際にどういう抵抗をしたのかは知りませんが、

多くは逃げて捕まり殺されたと伝えられます。

 

同じ形でイスラエルに於いてリクード党が強者で、

パレスティナ人が弱者であった場合、

ヨルダン川西岸地区のパレスティナ人は、

抵抗することもできずに土地を奪われ、

時には一方的に攻撃されるなどの迫害を受けています。

ガザで起きたハマスの抵抗は寧ろそれに対する反撃です。

それでも無差別にユダヤ人を大量に殺害したのはテロです。

しかしこの問題の中枢には、

強者であるリクード党のパレスティナ人迫害政策が

大きな要因を占めている事は明白です。

 

南アフリカの国際刑事裁判所への提訴は認められるべきで、

イスラエルという国の括りより、

リクード党及び首相のネタニヤフを

犯罪者として認定することは、

反ユダヤの姿勢でも何でもない事なのです。

寧ろ反ナチスと同じ意味で考えるべき事と言っておきます。

 

欧米諸国がこれを認めないのなら、

世界は2分され、先のブログでも伝えた、

第三次世界大戦が現実味を帯びます。

この2分の意味は、

旧植民支配国対旧植民国に成るわけで、

今の先進国VS発展途上国の戦争に成ります。

 

欧米が植民支配意識で世界を見て、

理不尽な形で旧植民国を蔑むのなら、

その怒りはこれを期に絶頂へ達するとも言えます。

 

現実味がありそうで、

現実味無さそう・・・

しかし火種は既にあちこちに飛び散っていて、

あとは大きな切っ掛け次第という感じです。

 

近い未来なのか、遠い未来なのか…

解からないのはそこだけです。

 

多くの人が欧米の理不尽さを感じているとは思います。

日本人が感じるように、

世界中の人が同じ理不尽を感じる事態で、

この理不尽な状況を解決できるかで、

今後の情勢は大きく変わると言う話です。