ショーエイのアタックまんがーワン -7ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第二十三話 大は小を飲み込む 前編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

戦国時代の下剋上を現代社会で考えた場合、自動車産業の変革に照らし合わせると面白いかもしれない。

ガソリン車の時代から、EV(電気自動車)へと変革していく中で、車作りの技術で圧倒していた大手が、新興産業に押し込まれつつある状態がそれを物語っている。

足利幕府という大きな力の下で、各地の守護はその力を堅持していた。いわばその家臣団がその守護に逆らう事は、幕府全体を敵に回す行為と成るなからだ。

所が、応仁の乱を得て、明応の政変にて幕府の権威が弱まると、地方に対する影響力は低下していった点は、ガソリン車が技術として絶対の時代が終焉し、大手各社が電気自動車という新たな技術で新興勢力と戦わなければならない状態に似ている。

ガソリン車という技術は新興勢力では太刀打ちできないほど、大手とでは技術差が生じていた。

それは幕府を中心とした中央集権の力の下では、その権力下でまとまる守護大名の存在は絶対であったと言える。

所が、中央集権の力失われ、力の連携が無くなった時点で、地方は独立した運営を余儀なくされていった。

電気自動車という新しい技術の獲得で、車製造分野で新たな地位を獲得できる機会が生じたと同様に、地方という小さく纏まった地域を得るだけで新たな勢力となれる時代が戦国時代の始まりである。

 

明応の政変で2つの将軍勢力に分散したことは、守護大名同士の連携にも分散を招いたわけで、隣の守護大名が敵方なら、隣の守護大名と連携して、自国の守護大名を引きずり落とすことも容易と成った。

 

また、今川義元の様に、そうした反逆を利用して他国を取り込むことも、斎藤道三の様に他国守護大名が連携してこない状態を利用して自らがその地位を奪い取ることも、戦略上やり易くなった時代と言える。

 

>第10話よりの続き

花倉の乱を経て、承菊こと太原雪斎は森山崩れより混乱した三河の情勢に目を向けていた。

北条家とは河東の乱(第一次河東の乱)で富士川以東を奪われたままだったものの、富士川を挟んで防備を堅め易くなった地の利を活かして東に備えた。

 

当時三河の情勢はかなり複雑化していた。

守護職は本来、吉良氏で、松平家は本来その下の守護代であるというよりも、小豪族の身から守護代職に当たる地位を獲得した身分と言える。

 

守護家の吉良氏は三河、遠江を支配する大名であったが、先の応仁の乱で吉良氏は東西に分かれて戦い東条と西条吉良氏に分裂して力を失っていった。明応の政変などで尾張の斯波氏と駿河の今川氏を頼って両吉良氏が復権を試みようとした結果、遠江の地はその二つの勢力が入り乱れ、結果として吉良氏は遠江の支配権を奪われた。

残った三河で復権を試みるも、東西で分裂したまま争い続けた結果、三河の影響力は松平氏に奪われていった。

正し外交上の権威は守護職として上手く残していたとみられ、尾張と駿河を動かす存在という意味で、三河の軍事面で支配していた松平氏を存在的に牽制した。

 

そうした状況下もあって、支配権を得た松平氏も、清康の死後、松平信定派と清康の嫡子である松平広忠派で分裂した状態が続いた。

 

酒井忠尚こと将監は信定の下で松平を纏めるべく画策したものの、不本意な形で清康が死んだため、寧ろ家臣団に清康に対する忠義が残存した。

 

ここで酒井将監(忠尚)という人物を考えてみる。

史実としては家康の祖父清康であり、父広忠、そして最後はその家康にも反逆した叛臣のイメージが高い。

家康側から見れば当然そうなるが、将監の忠義は当時の三河の英雄ともいえる松平道閲(長親)に注いでいた。

筆者は将監を先見の明のあった人物と考えるものとしている。

実際に三河という国が尾張(斯波氏、織田家)と駿河の今川と対等な国に成るためには国を団結させることが最優先で、西条と東条で別れた吉良氏の影響力を排除せねば成らなかった、もしくは統一せねばならなかった。

 

清康が東、いわば今川の方へ目を向けていた時分は清康が20代にも達していなかった頃で、その祖父・道閲(長親)や将監の進言通りに動いていたと思われる。

そうした中で東三河攻略で見せた若き清康の勇姿は多くの家臣団の信頼を勝ち取ることと成ったのかもしれない。

そうした家臣からの信頼に慢心し始めた青年期に達すると、それまで支えてきた長親、、叔父にあたる信定、そして将監らの進言を無視し始めるようになってきたと考えられ、そういう事から両者に隔たりが生じ始めたと考えてもよい。

 

今川と因縁のある長親と将監は、今川と対峙して結果遠江を追われた西条吉良氏を守護とみなしていたと考えられる。

 

西条吉良氏は応仁の乱時から、京都で将軍の近習として仕えていた事もあり、足利幕府の中でも別格な地位を得ていた。

その為領国経営はその家臣団に委ねていたと思われる。

駿河の今川氏の本流はこの西条吉良氏であったというほど、歴史的な血筋としては格式もかなり高い。

西条吉良氏は遠江の浜松壮を領していて、足利幕府の威信が有るうちは寧ろ安泰であったと言えるが、その威信が失墜することで、西条吉良氏の威信も陰りはじめ、領国を守るのに尾張の斯波氏を頼ったり駿河の今川氏を政治的に操る形で凌ごうとしたと思われる。

ある意味京に於ける幕府中央の役務で忙しかったと言える。

しかし、西条吉良の当主は京都にて采配を振るった形で、領国を任せていた飯尾氏、大河内氏を斯波氏と今川氏の遠江に於ける勢力的な都合で交代させるなどして乗り切ろうとした結果、最終的にはその本拠の浜松壮すら失ってしまう。

この際、今川氏親(義元の父)は自らの長女を吉良義尭に嫁がせる形で和睦したと記されている。

 

その後、将軍足利義稙の失脚で京都での居場所も奪われた吉良義尭は、残った三河で領国支配に専念しようと試みるが、実質の支配権限はすでに松平氏にあった。

それでも松平長親(道閲)らは西条吉良氏を主家として尊重する意識があったと思われ、そのもとで今川から浜松壮奪還を目指していたと考えられる。

 

一方の東条吉良氏は岡崎南の海側にある愛知県西尾市吉良町に東条城を本拠として構えていた。

東西の吉良氏の戦いは、一説には応仁の乱からとあるが、実際の戦闘で争ったというよりも寧ろ、領国経営の中での政争であったと考える方が良い。いわば代理戦争を用いて争う形であった。

いわば西条吉良氏が将軍近習として京へ出仕していた半面、東条吉良氏は三河の東条城の領国経営を担っていた。

吉良氏の正当性を求めての画策があったことは考えられ、特に明応の政変で別れた将軍家への立場を異することで、東条吉良が西条吉良の権威を貶めようと試みた点は否めない。

足利義材(のちの義稙)が1490年に将軍職を義政から継ぎ、1493年の明応の政変で失脚すると、一時的に東条と西条の立場が逆転したと考える。

三河で立場上領国経営を担っていた東条吉良氏は細川政元側の新将軍となる義澄派に与して、今川と手を結んだと察する。

三河の豪族松平氏もこの東西に分裂した吉良氏の間で別れた。

 

そうした混乱の中1506年から1508年にかけて、松平長親(道閲)は、今川氏親の後見人として参戦した伊勢宗端(北条早雲)率いる今川軍と対峙して見事にこれを退けている。

一方で松平宗家に当たる岩津松平家はこの戦いで岩津城を落とされ以後衰退し、その力は長親(道閲)の安城松平家に吸収された形と成った。

 

1507年明応の政変の首謀者である細川政元が暗殺れると、三河の情勢も再び流れが変わる。

1508年に義尹と改めた義材(義稙)の側近として将軍復帰に貢献した吉良義信(義尭の祖父)は三河の守護に任じられる。今川が三河侵攻を撤退したのにはこの経緯が何らかの影響を与えているともいえる。一説には松平の主流岩津松平家が落ちた為の撤退と言われるが、安城松平家の存在をないがしろにして考えられる状態とも言い難い。

ただ、伊勢宗端(北条早雲)を以てしても苦戦し軍の疲弊が著しかったと考えるなら、それを以て和睦とした事は十分に考えられることと、その戦いで遠江に於ける斯波方への尾張からの援軍が防がれた点で、今川が遠江での支配権を大きく獲得したことが考えられる。

西条吉良当主の義信は、将軍義尹(義稙)の近習として京に滞在したままであった為、本拠の浜松壮を守る意味で、今川に遠江の守護職渡して和睦とした。これらは資料を総括すると正当な流れとして十分に考えられる。

 

その際に、西条吉良氏は斯波氏と結んで浜松壮を守っていた大河内定綱から今川側を支持していた飯尾賢達にその奉行職を交代させ上手く難を逃れようと試みたが、1510年遠江の支配権をめぐって斯波義達が攻めてくると大河内定綱はこれに呼応して共に争った。

結果、1516年この戦いで斯波義達は捕らえられ、大河内定綱が滅ぼされると今川方に遠江の支配権が完全に移り、恐らくその和睦条件として飯尾賢達の今川への被官を承諾させたと思われる。

 

中央の将軍家が細川家の相続争いに巻き込まれて混乱していることは既に地方にも知れ渡っていたと思われ、将軍の側近として本来権威を振るえる立場の吉良義信は今川氏親に誑かされた形でその本領である浜松壮を奪われた。

記録では1516年に嫡子吉良義元の急死を理由に、義信はその嫡男義尭に家督を譲ったとあるが、恐らく吉良義元の失態により浜松壮が奪われた形となり、その責を取って自害した可能性は考えられ、その失意の下、義信は隠居したと考える方が流れとしては成立する。

 

こうした流れから東条城という本領を堅持している東条吉良氏の三河に於ける権威は、西条吉良氏より評価されたとも考えられる。

勿論、道閲(長親)や将監は西条吉良氏の権威を知る世代で西条の吉良義尭を仰ぎ、今川とは敵対し、寧ろ尾張の斯波氏、織田家と上手く付き合う方針にあったと察する。

しかし依然、西条吉良の当主は足利義稙(前義尹)が将軍職にあるうちは京に滞在していた為、東条吉良氏が名目上三河の守護として見なされていた可能性は十分にある。

松平清康の父、信忠は今川の三河侵攻の際には家督を継いでおり、年も16歳と若く、伊勢宗瑞(北条早雲)との死闘がトラウマとして残った可能性もある。その為、今川との戦いには消極的な立場をとったとも考えられる。

考えてみれば初陣にも近い戦で、松平宗家の岩津城が陥落するほどの激戦だった。

ゆえに普通に考えればPTSDに掛かっても不思議ではない。

寧ろ松平長親であり、酒井将監が如何に優れた武将であったかを

評価されるべき戦いだ。

何せ相手は、のちの北条早雲だったのだから。

結果、今川は後にもこの酒井将監を松平家とは別格の扱いをしたほど敬意を表したことでも察しは着くと言える。

 

トラウマを抱えた事で松平信忠の判断は寧ろ三河の家臣団を分裂させた。

いわば浜松壮の一件である。

 

三河を守る上では、今川の方が斯波よりも遥かに脅威であった。

無論、この時分に信長の父・織田信秀はまだ尾張で台頭していない。

ゆえに将監ら西条吉良派は、大河内、斯波と結んで浜松壮を取り返すべきと睨んでいた。

無論、西条の吉良義信は今川寄りの飯尾氏に奉行職を任せている。

しかし、1508年から陥落する1516年までには8年の月日があり、その中で動く情勢は日に日に変化している。

寧ろ、京に居座る当主の義信が、実際の現場を知る由もなく、当人は幕府再興で忙しかった。

ゆえに守護である上からの命令はないにも等しい。

そうした中で三河は三河で決断せねば成らなかった。

一方の信忠に家督を譲った長親(道閲)は複雑だったともいえる。

ある意味、守護職からの指示が一切ない状態で、勝手に動くのは不忠に値しないかという錯誤もあったと言える。

無論、戦略的な部分では将監らの主張に同意していたわけだが…

 

そうした中で今川と結ぶ東条吉良氏が信忠を上手く懐柔したと言える。

信忠自身が今川との戦にトラウマを抱えていた分、取り込みやすかったとも言える。

そこで浜松壮の三河関与を断念させて静観させる提案をしたのだ。

三河国内の序列で考えるなら、一応は西条吉良氏を最上位と扱い、その下に東条吉良氏、そして松平家で安城松平家がこの中の主家と成る。

西条吉良氏から何の通達もないのだから、三河は動くべきではないと言われれば、それで動けなくなる。

無論、今川氏親が浜松壮をそれで搾取しなければ、信忠の判断に異論をなすものは居なかったかもしれない。

所が結果として浜松壮はまんまと今川に搾取されてしまった。

無論、飯尾氏が今川に被官しただけの話なら、明確に搾取されたとは察しにくいかもしれない。

しかし、すぐさま浜松壮を廃して引馬城の管轄としたことで、寧ろ西条吉良氏から今川に移ったことが明らかと成った。

岩津城の陥落で、松平家の地位が岩津から安城に移ったように、浜松壮の陥落で西条吉良の地位は守護職として陥落した印象を与え、寧ろ本拠を守っている東条吉良氏が正当な三河の守護として残った意味をも為す。

ある意味この流れで西条吉良義信の嫡子義元の動きを想像すれば、今川と交渉の末、飯尾氏と共に浜松壮を維持してほしいと願ったが、今川が聞き入れず、結果その責を取って自害したと考えられる。

その流れで体裁の悪くなった今川は、その後で義信の後を継ぐことと成った義尭に政略結婚を持ち掛けてこれを成立させたとも考えられる。

実際に西条吉良氏は長親や将監らの思いを知ることなく、浜松壮が無くなったことで東海での権威は既に無くなったと認めてしまったのかもしれない。

ある意味、下剋上の最中にあった京での惨状を知る上では、自ら軍を率いて赴けない現実を踏まえて、早々と諦めたとも考えられる。

 

そうした流れが自然と三河の中にも浸透し、次第に東条吉良氏の権威はより強くなっていく。

しかし、浜松壮が奪われたという事は、西条吉良家臣団としての意識を持つ将監であり、長親のもう一人の息子信定からすれば、信忠はさぞかし暗愚に見えたのだろう。

無論、結果として信忠の決断は愚かに感じるが、自らの嫡子で家督を譲った長親(道閲)は些か迷ったのだろう。

1516年の浜松壮陥落から1523年に信忠の嫡子である清康が家督を継ぐまで7年の猶予を与えた形と成る。

その間、結果信忠では三河の分裂を収拾できないと判断した。

しかし、将監らが求める信定ではもう一方の家臣団、おそらくこちらには信忠と信定の弟の義春が存在したとされ、義春は東条吉良持清の家督相続の後見人だったとされる人物で、逆に纏まらなくなると考えた長親(道閲)は、あえて東条吉良持清を交えて清康に家督を与えることで何とか家中を収拾したのであった。

この時、清康こと清孝はまだ12歳であり、その後見人には信定と将監が着くことでまとまったと考える。

以後、後編に続く

 

どうも…ショーエイです。

うつけの兵法 最新話を更新しました。

まあ、世の中色々ありまして、

とりあえず宦官野郎は姿を消してくれるので、

先ずは良しとします。

ただ、自民党では何も変わらないと思うけど、

かといって野党は全く主張に元気がない。

日本は政治的に残念な国です。

 

新型コロナ…収束?

嘘つけ…検査数減らしてるだけじゃ!!

 

 

 

 

【第二十二話 長槍】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

庄内川の治水工事を得て、河原で八郎らとやりあいながら、吉法師は元服を迎える13歳に達した。

相変わらず沢彦の指導で戦ごっこに明け暮れる毎日であった。

吉法師は成長するにつれて激しい気性の持ち主に成っていった。

癇癪持ちともいえばいいだろうか…

突然切れだすのだ。

普段はそういう事はないが、いざ戦の事で思うように事が進まないと切れ始める。

それは劣勢に立たされる状態で切れるのではなく、むしろ味方が勝手な動きをすると切れだすのだ。

 

一方で城内では平手政秀によく𠮟られることが増えた。

合理的というか横着な性格で自我が芽生え、戦ごっこの汚れた服装のまま城内をウロウロすることが増えた。

それを見かけた政秀は、

 

「城主たるものが農民と同じ格好で居ては困ります!!」

 

と、叱るのであったが、

吉法師も着替えるのが面倒だったゆえにその都度、

 

「後で着替える。」

 

と、あしらう様になった。

帰城するやすぐさま食事を取った。

その食事の席では意外な進展もあった。

今まで弟分の小政(恒興)のおかずを横取りするのが日課で、その都度恒興の膨れっ面を拝んでいたが、ある日から小政は吉法師のおかずが切れるや早々と吉法師におかずを差し出すようになったのだ。

最初は

 

「良いのか?」

 

と、恒興に聞いたうえでそれを受け取っていたが、不思議なものでそういう姿勢に切り替わるや吉法師の態度もまた変化を見せた。

この変化は、人間の心理でよく起こる「何か気持ち悪い」という違和感から発生するもので、日常当たり前の光景が変化したことで感じるものだ。

人によってはそのまま態度を変えないケースが多々ある。

ところが吉法師は不思議と態度を変えたのだ。

しばらくの日がたって小政がおかずを差し出すと、吉法師は食事係に、

 

「すぐに代わりを用意しろ」

 

と、命じて、小政にその代わりで出てきた魚を自らが与えたのだ。

しかし、これでは不合理と思った吉法師は、

 

「今後はおかずを先に用意しろ」

 

と、食事係に命じて、逆に自分のところに余分に来たおかずを逆に小政に分け与えるようにしたのだ。

ある意味吉法師は些細な変化が生じたことで、小政に心を開いたのかもしれない。

今までは寧ろ大好きな養徳院の実子ゆえにその愛情に対するライバル心のような感情がお互いにあったとも言える。

それは小政の中により強くあったと思われ、吉法師は何気にその心情を感じ取ってか、むしろ意地悪な形を出していた。

そこに小政の方から逆に心を開いた形となったため、吉法師は寧ろ大事な弟分として小政を認めたのである。

実際小政の方からすれば吉法師が自分のおかずを取り上げるのはいつもの出来事ゆえに諦めて先手を打っただけのことでしかなかったのだが、それを期に吉法師の態度の急変に心地よさを覚え、吉法師を本当の兄として慕うようになる。

この二人のやり取りを猫にしてみるととても可愛らしく見えるだろう。

2匹の猫が最初は餌の取り合いでけん制しあうも、一方が勝ち目無いと折れだしもう一方に権利を譲りだすと、2匹の猫は逆に仲良くなっていく光景を時折目にする。

そういうイメージでその光景を見た養徳院にとっては、とても微笑ましい形に見えただろう。

後に信長と恒興の関係が良好だったのは、こうした経緯があったからと言え、むしろ平手政秀の子らは父の寵愛を意識してか、信長に対抗心を抱き続けた態度があった為、信長は彼らを受け入れなかったと言える。

いわば繊細に人の感情を読み取れる信長は、小さな対抗心であり自分に心を開かない相手を警戒し敬遠したのである。それでも政秀に対する愛情と敬意があったためそこまで蔑ろにはしてはいなかったとも言える。

 

そしてこの変化で小政の心の変化がより良好になったと感じた吉法師は、人に優しくする大切さも同時に薄々と感じ取っていくのである。

 

この物語では「天才」の定義を挙げている。

天才と言って一般的には身近に感じない人は多いかも知れないが、実は天才に成る気があれば誰でも天才に成れるのだ。

身近に居ないのではなく、殆どの人が他人の長所を見ようとしないゆえに天才を見極められていないと言った方が良いだろう。

天才に成る気があればというのは、自分の才能を信じてその才能を活かす場で自らその研究に没頭することにある。

ネット調べでその知識に満足してしまうのでは、その人は決して天才にはなれない。

天賦の才とは興味と好奇心である。

そもそも誰もが持ち合わせるものだ。

この興味を知識で満足してしまうと、他人の才能を借りて理解しただけのことに成る。そして理解したと勘違いして満足してしまう。

興味を持つなら様々な矛盾であり疑問にも直面しなければならない。

興味を飽くなき追及によって不明な部分の解明にまで注いでこそ天才なのだ。

ある意味科学者としてこうしたプロセスで挑んでいる人はすべて天才であると言っていい。

スポーツの世界でも同じで、教わる技術で満足しているのは天才ではない。

研究者として自分が出来ることを増やし、その効果を見極めて更に効果的に機能する技へと生み出していく。

この追求心を持ち続けることで天才に成れるのだ。

いわば天才に成るには興味と疑問を持ち続けて矛盾を許さない追求に没頭できるか否かという部分にある。

そして更なる大きな違いは結果に興味を持たず、そのプロセスを楽しもうとする遊び心を持てるかにも関わってくる。

いわば天才に成れば成るほど、結果を知った喜びは一瞬でしかないことを知る。結果が出るまでの悪戦苦闘の時間こそが一番楽しい状態だと知るのである。

スポーツで勝負に勝ったという喜びは一瞬だが、勝ち続ける、結果を出し続けるにはその一瞬は単なる通過点でしかない。

人の評価は自らのキャリアを終えたときに真価が出るもので、それまで強欲に結果を求め続けるなら、それを出し続ける長い道のりを如何に楽しんでいくかはモチベーションを維持するという意味でも大事な要素となるのだ。

 

とは言え、万物に興味を注ぐ吉法師は、些細な変化をも感じ取ることによって違和感を感じ、そしてその要因を追求しようとするのだ。

「人心」に於いては小政との一件があったこの時点で何かの結論を得たという事ではない。寧ろ、今後起こりうる政秀の子らとの出来事であり、前田利家の起こす事件などを得て、様々な違和感であり、「何故」を考えていくことで学んでいくと言え、そして信長としてそれらをどう統治するのが「公平」なのかを探求していくのである。

 

その吉法師の探求心は今まさに戦の事に向いている。

食事を終えるや自室で戦のことを試行錯誤したり、武芸の研究をするのが日課となっていて、吉法師にとって着替える時間が無駄に感じるほどだった。

 

次回は、あれを試してみよう・・・

今日は岩室のあの動きは面白かったな…

千秋は剣技はいまいちだが、石を投げさせたら凄かったな・・・

 

こうして吉法師はその日起こったことを思い起こして、次に備えて考えるのだ。

今までは勝ちに拘った気質もあって自分しか見えていなかった。

いわば自分が戦場で目立つ事に注視していたといえる。

スポーツで言うなれば選手として結果を出すために、自らの武技にすべてを集約して考えていたのだ。

ところが自分が一歩引いて指揮官という立場で考えだすと、また別なものが見えてくる。

無論、選手であることを止めたわけではない。

ただ、他の人間の動きが見え始めてそれらを観察して分析する事への興味が付随してきたという感じだ。

故に考える時間が足りないほど楽しくなってきたのだ。

そして、大方「次に試す事」が決まって来ると、

 

(どうせ明日も同じ服で出るのだから。)

 

そう考えて寝てしまうのだ。

 

先の庄内川の戦ごっこで八郎が降参しなかったのは、吉法師の成長にとっては都合が良かった。

結果、一度は庄内川から身を引いたものの、何度も何度も再戦を繰り返す日々となり、相手も成長し、自らも成長する切っ掛けとなった。

八郎が近隣の兵隊を集めて再戦してくれば、吉法師も近隣を制圧して兵隊を吸収し、八郎にまた挑む。

庄内川の戦ごっこは当初の50人程度の規模から、200人規模の戦闘へと変化していった。

庄内川の治水工事が完工した時分で、上流の水位が上昇したため、決戦の場所はそこから下流の方へと移っていった。

治水の堰を現代の東海道新幹線陸橋付近と定めた場合、以前の戦地は庄内緑地公園周辺と設定し、新しい場所はその陸橋のすぐ川下の現在の清須市と名古屋市中村区を挟んだ河原の辺りで考えると丁度いいと思える。

※史書にない出来事で、信長の成長過程で必須の出来事と想定したものゆえに地形からの凡その予測でしか判断できない。

 

初陣前の吉法師の軍団には、まだ小学生の年長に達したころ合いの佐々成政や前田利家も加わっており、農民上がりのメンバーとしては中村を制した際に加わった藤吉郎(のちの秀吉)の姿もそこにあった。

無論、成政や利家と違い、農民として混ざって参加していた藤吉郎はまだその頭角を現していない。

しかし後に成長を遂げて信長に仕えるときに、この参戦した時の思い出は信長と藤吉郎を結びつける大きな切っ掛けとなったのではと筆者は考えている。

 

依然として八郎の槍捌きには苦戦を強いられた。

勿論、吉法師たちも太刀のタイプから、槍のタイプへ武器を変更したが、年齢も体格も勝る八郎たちの方が戦闘面では有利であったと言える。

それでも一進一退を繰り広げながら、度々決戦を執り行った。

 

そうした中、堰の工事は終了し、コメの生産も600石分は増加したわけだが、以前信秀が吉法師に伝えたように、更なる石高を増やす為の工事は継続していた。

無論、清州側もその増築には勘づいていたが・・・

工事が始まった1544年は信秀が美濃の斎藤道三こと斎藤利政と戦を始めた頃合いであり、この戦は美濃の守護である土岐頼芸が1542年に斎藤利政により追放され尾張へ逃げ込んだことが切っ掛けとなったと史実では伝えられる。

その意味では信秀単独の戦いではなく、尾張の守護斯波義統主導で行われた戦となり、清州の大和守家、犬山の伊勢守家もこれに参戦した形となっていた。

尾張随一の戦上手であった信秀が主流となってこの戦いに挑んだことは史書の通りであると思われ、斎藤利政の居城稲葉山城まで迫って大激戦を行った。

後ほどこの情勢は記すものとするが、こうした時分でもあって那古野の治水拡張は曖昧な形で清州も黙認したと言える。

 

その治水工事の現場を久々の手伝いで吉法師らは訪れた。

相変わらず遊び半分での手伝いであったが、イベント的に大人たちも楽しむ形と成るため寧ろ歓迎されたと言える。

そうした中、たまたま納屋に立てかかった長い竹の束が突然崩れる事件が起きた。

その竹は治水の溝の側面を補強するためのもので、かなり重く長いものだった。

幸い通りかかった吉法師たちにケガはなかったが、何名かの人夫がその下敷きになってケガしたのを目撃した。

その時は咄嗟に下敷きになった者を救出しに動いたが、その事件が切っ掛けで吉法師は面白いことに気づいた。

 

吉法師が類い稀な天才である所以は、事故で運良く助かったで終わらない点だ。

いわばあの事故は自分に襲ってきたかも知れないと考えるのだ。

その時に自分はどう対処するかを想像する。

竹が崩れるのをすぐさま反応して避けれたか・・・

崩れる竹に反応して持ち手の道具でそれを防げたか…

そこから発想の閃きを生じさせるのだ。

そして吉法師は気づく・・・

 

竹を避けるにしても、防御するにしてもその時に自分に隙が出来る!!

いずれにしてもそれをしなければ下敷きになってしまう・・・

 

そして以前に千秋が八郎の足元に石を当ててケガさせた事を思い出して…自ら竹が降り落ちる際の避ける動作を試してみた。

 

(上から降り注ぐ竹を防ぐため腕は上段に構えて、体は避けるか…)

 

そう見極めてから、

 

(避けた体の足はその際に止まる…)

 

吉法師はそこに生じる絶対の隙の存在を見極めたのだ。

史書などを参考に語る際、日本の戦で盾を用いることはあまり意識されることがない。ところが実際に盾は用いられていた。

西洋の鉄の丸い盾ではなく、寧ろ木製の板状にした盾が使われていた。いわば弓矢を防ぐための盾だ。

絵は船上のものだが、実際の陸でも用いられたと考える。

寧ろ盾もなく弓矢が狙う敵陣に突撃する元来の発想は、ある意味無謀ともいえる。

これは石合戦をする際にも、盾を用いるのは当然と考えるのが普通で、盾を用意する発想すら無かったという話なら、当時の日本人は本当に頭の悪い人たちという事にしかならない。

 

いわば盾が邪魔して弓や石が上手く相手に当たらないのは当然の成り行きで、それゆえに少しでも上から降り注ぐ矢を浴びせるために、上に弧を描く斉射が用いられた訳で、それを防ぐのに盾を上に構えれば下が開くなどという状況が考えられた。

これらは平安時代より用いられた発想ゆえに、それらが進化して戦国のころには前衛が下段に盾を構えて、その後衛が上段の矢を塞ぐといった陣立てくらいまでは発想が進んだと考えるべきだ。

無論、この陣容は鉄砲が主流になって来ると無意味と化して行ったと考えられ、独自の兵書の乏しい日本では自然と伝わらなかったとも考えられる。

火矢を用いて盾を焼き落とすなどの発想もあったと思われるが、基本的には弓矢は殺傷力の低い兵器であったと考えられ、戦ではより近づいて乱戦によって敵を殲滅することがより得策と考えられたともいえる。

そういう意味では騎兵に長けた武田信玄や上杉謙信が恐れられた点も理解できる話で、それ以前の中華ではモンゴルのチンギス・ハンが最強であった点は理解できる。

 

正直なところ、信長が長槍を好んで用いたことを知った際に、筆者は理解に苦しんだ。

長槍を扱うのは相当に腕の長けた人間でないと使いこなせないという事もあって、それでも達人同士なら長槍より短い槍の方が立ち回りがしやすく有利になる点は否めなかった。

いわば物理的な優劣でも、長いリーチの懐に入れば入るほど、短い方が有利になるからだ。

また長い分、重さも重なって逆に動きが鈍って不利にもなる。

そういう意味で長槍が何故重宝された?

ただし、筆者はその分、他の研究者と違い、長槍を用いるなら寧ろ戦闘の素人向けである点は確信していた。

そうした中、石合戦で盾を用いるだろう状況が見え、本来の戦でも弓合戦に対して盾を用いる状況が当然と見極めた際、近づいてきた強兵を有利に駆逐する方法として長槍の使い道を思いついたのである。

 

納屋に立てかけた竹が崩れたように、長い槍を真上に立ててそのまま敵の方に倒すだけならある意味技術は必要ない。

寧ろ戦闘が上手くないものを使いこなす意味ではこの長槍作戦は十分な補足として機能するのだ。

上から倒れて来るその槍に対して、人は必ず避けようとする。または咄嗟に盾を上に向けて防ごうとする。

盾を前面に置いて後ろに後退する動きを見せたとしても、実は長槍の重さとその威力で盾は崩れるか、手を離したっ時点で倒れるのいずれかが生じて、避けた人間に大きな隙が生じる事は否めない。

無論、盾を上に向けた時点で、その正面には隙が出来る。

その隙に弓矢や石合戦なら石を放てば、確実に隙が生じた部分を狙い定めることができる。

または太刀でも短槍でも、そのタイミングで突っ込めば相手の懐を取りやすくなる。

そうした近接での優位性を高めるための長槍なのだ。

おそらく多くの研究者がこの発想に気づかなかったと同様に、信長の長槍戦法はかなり当時としても奇抜な発想だったと言えよう。

それゆえに鉄砲が主流になるまでの期間であっても、織田軍団が強かったのは近接戦闘に於ける優位性が功を奏していたと言える。

 

吉法師は長槍の有効性をこの時点で発想し、八郎たちとの勝負でこれを試すうちに、乱戦優位の状態を担保していったのである。

また三段撃ちの原点ともなる、上手い奴に投げさせろも発想にあったと言え、鉄砲に限らず、弓の射ち手は射ち手として活用していく形が生み出された。

更には本来、戦力にならないとされる雑兵も様々な形でうまく活用することで、ある意味戦力に無駄の生じない機能で構成した。

その意味では一人ひとりの様々な長所を伸ばしてプロフェッショナル化させることでより効果的な機能に成る点を実感していくことにもなった。

先に、誰にでも天才に成りうる…と、いう話を用いたが、吉法師は「天が人に不公平であることは認めない」という発想で、誰もに才を活かす機会があるべきだと信じて、それを実践した分、以後、多くの長所を見極めてその長所を活用していくことの大切さを「天命」として理解していくのである。

 

三国志の曹操と信長の違いは…

曹操も才ある者を活用したが、曹操の才ある者はその才を自ら示したものである。

信長は寧ろ、現代の経営者、寧ろ中小企業やベンチャーで野心的に大きくなろうとする人に求められるもので、才ある者を見出して育てる意味と成る。

信長は尾張という僅かな人の資源の中で、それらを上手く活用して大きくなった人間活用法が注目され、寧ろ大きくなった際は求めずとも才ある者は集まってきたという感じである。

曹操も魏を建国するにあたって似ているような形でのし上がっているが、筆者は信長のそれとは異なるものとして見ている。

寧ろ曹操は才を自負するものを好み、信長は寧ろ才を自負するものは嫌う点で大きく異なると言える。

曹操ならば、竹中半兵衛や黒田官兵衛を自らの側に置こうとしただろうが、信長は寧ろ側に置かなかった。

曹操は才を自負するものを上手く扱えたゆえに天寿を全うしたともいえるが、信長はそれを嫌ったゆえに謀反によって夢が崩れたともいえる。

しかし民主制が主流となる現代社会においては、曹操のような人物は腐敗を招くわけで、寧ろ人に潔癖な信長の方が万民を幸福に導ける人物である点は強調しておくものとする。

 

さて…元服をまじかに控えた吉法師は愈々信長として新たな一歩を踏み出すわけだが、その時分の尾張周辺の状況はいかなるものか…

 

先ずはそこを解説するものとしよう。

 

どうも・・ショーエイです。

オリンピックがとうとう始まってしまいます。

ああ、因みにここまでのグダグダ状態に+最後の演出家まで更迭した件はこれ炎上商法です。

小山田氏の件まではどうしようもなくグダグダだったわけですが、演出家をさっくり切った目算は、炎上して結果、開会式がどんだけグダグダになるのかという興味を引き付けるための最後の演出と言っていいかも。

多分、そういう意味で視聴率はかなり上がるでしょうね。

間違いなく。

その上で、何の変更も加えずに、キャストリストだけ変更して無事に開会式をこなすだけのツマラナイ展開だと思います。

まあ、そういう意味では排除された人達のものがそのまま使われるという状態になってしまうわkですが…

 

日本のフェイク主義ってこういう事を平気でできてしまうところ。

何がフェイクかって?

今更変更加えられないから、そのままやってそれを演出した人は関係ありませんという態度で通す感じです。

実際にその演出は様々な問題視を受けた人が生み出したもので、その人たちの作品を人間性とか関係なく見せられてしまうという現象です。

結局、社会が指摘した人たちの感性がフェイクで表現されるわけで、結果、彼らの人間性を批難した事の意味すらあやふやになるという話で終始するのです。

 

キャストのフェイクを外して考えるなら、本来そこで外された人の感性をそのまま表現してしまう行為は、どんな作品でも受け入れがたいと考えるのが当然です。

実際はそういうふざけた意味の開会式であることはご理解ください。

まあ、政府やJOCなどに質問しても、彼らは関係はないと言い張れるわけだし、前もってどの部分が関与したかも演者以外知らないから、口止めしておけば一般人には解らないでしょうね。

ただし、現実的な話、リハーサルなども込めて今更新規で作り出す時間はないわけで、結局は追い出された演出家の演出がそのまま名前だけ変えて演じられるという事でしか対処が出来ないというわけです。

既にそうした人は現場に出没しないのだから、開会式の演出そのものは関係ありませんと言い張るだけの話です。

 

そいう状況の開会式を、グダグダに成るかもという冷やかし根性煽って視聴率につなげようと政府やJOCは試みているのです。

 

正直言います!!

多分、期待するようなグダグダは起こらない、平凡でツマラナイ開会式になると思いますよ。

そしてその開会式は、辞任や更迭された人たちが手掛けた作品そのものであるのです。

 

それを理解した上で、見る人は見てくださいねというしかありません。

 

因みにIOCのトンデモ・バッカ?…トーマス?トンマッすだっけ…

あいつは空気を読めないのは日本人の方だとか言ったらしいけど…

馬鹿ですか?

その発言自体が空気を読めてないでしょ!!

 

空気は!!

キサマ程度の無責任かつ傲慢な人間が主催するオリンピックをわが国で開催させるのは腹立たしいという意味なのだよ!!

コロナの話は、その一端で、

全ての元凶は、トンマです・バッカ!!Thomas Bschお前のその間抜けさが原因なのです。

そういう反省すら理解できてないから、空気が読めないという話です。

 

アスリートたちの長となるIOC会長がこんな程度であるという事は、すべてのアスリートの頭がこの程度のレベルに見えてしまう責任も感じなさいよ!!

最低でもメダルなど栄誉を手にしたアスリートは全て

傲慢になり下がって、体育会系特有のパワハラ、上から目線でしかモノが見れなくなり、論理的な解釈が脳みそまで筋肉質で柔軟性がなくなっている分、理解すら出来ないレベルに落ち込む。

社会は、そういう偏見を持つしかないという事なのですかね?

アスリートの脳みそは信用できない!!

トンマです・バッカとは、そういう印象を浸透させる存在なのです。

 

ドイツ人への偏見も重なって…こいつはヒトラーの心酔者なんだろうねとも言っておきます。

人間のクズがこういう立場に立つと本当にロクな事は起こらないです!!

まあ、日本のクズとドイツのクズが意気投合すると、すべての国民をだましてでも厄災広げてでも自分たちの利益追求に走り出すのでしょうね。

しかも、そういう事に共感しあってしまう…

 

【日本人言います!!】

オリンピックをテレビで見るな!!なんてことは言いません!!

見たい人は見ていいのです!!

応援するなら応援してもいいのです!!

でも、豊田社長には申し訳ないが…

オリンピックのスポンサー企業への不買運動を浸透させましょう!!

報復の為に世界中でこの不買運動を広げましょう!!

 

そしてIOCのやった事に、明確にNOと社会的制裁与えるのです。

そのためにオリンピックを見ながら、

見つけたスポンサー企業をチェックしてください。

 

例えば、コカ・コーラの製品は買わないようにしましょう。

アクエリアス飲むならポカリスウェット!!

スーパードライなら一番搾り!!

コーラはペプシ!!

 

そんな感じでオリンピックを見れば…

ハッキリ言って視聴率稼がれても、スポンサーにはデメリットしか生じなくなるわけです。

 

IOCにNOを突き付けて、暇つぶしに見るものちゃんと見て、応援するものはちゃんと応援しましょうね!!

その上で代替え商品が効くスポンサー企業には、犠牲を払ってもらいましょう!!

【第二十一話 方程式崩壊】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

この物語では山本勘助が愛用したとされる「兵は詭道なり」という孫子の兵法の一句を用いる。

一般的な解釈では、「戦は騙しあいであり常に臨機応変に対応するべし」というのが定着しているが、もっとこの言葉を深く読み解くと、戦では常に予期せぬ想定外の出来事が生じるものと捉えて、現代のビジネスにおいても応用できる言葉とする方が良い。

 

再び庄内川の河原で清州の八郎ら率いる集団に挑むこととなった吉法師らは、川に面して一列に隊列を組んで、対岸の敵を挑発した。

ただ相手は那古野村の子らが現れただけで挑発することもなくいきり立っているんだが挑発されて更に血が上ったようである。

こうした挑発も沢彦は戦で大事なことと吉法師らに教えた。

いわば相手を自分たちの罠に嵌めるには、相手がムキに成って力押しを仕掛けてくることだ。

卓上の教育では逆に挑発に掛かってはならないと教えるだろう。

そしてそう学んだ誰もが挑発などに掛からない冷静さを心掛ける。

ところが人間の心理は複雑で、解ってはいても引っかかるのだ。

 

挑発の基本は相手を煽ることではない。

相手を焦らせることがポイントである。

煽られて血が上ってムキになる人間も多くいるだろうが、

実際に現実的な思考で考えると軍を任されている人間が

簡単に冷静さを失うと考える方が不思議なのである。

マンガであり小説の世界、もしくは歴史学者ですらこの辺を勘違いしている人が多い。

 

相手の性格をついてもほぼ効果はない。

悪口を用いて相手がムキになる事は現代社会のネット上でよく見かけるだろが、ステータスを持つ人はそういう言動にも比較的冷静に対応しようとしている。

いわば好感度を大事にする芸能人は悪口などはあえて無視するような姿勢で対処できるわけだ。

それが出来ない芸能人も居るには居るだろうが、

そちらの方が稀で、大半は上手く冷静に対応できている。

これは軍の指揮官に於いても同じで、

馬鹿にされてムキに成って出撃するようなのを指揮官に使っているのは寧ろその人選に問題があると言える。

 

では何を以て挑発するのか?

「焦り(アセリ)」を誘発するのが挑発の基本である。

ここでも孫子の基本をおさらいしよう。

「彼を知り、己を知らば百戦危うからず。」

この言葉を応用して

自分が困る事は、相手も同じように困るという事に着目してみる。

自分が軍の指揮権を任されている立場からすると、戦における功績を求められる立場になるわけだ。

これは現代社会でも同じことで、営業成績であり実績が出てこないと自分の評価が下がってしまうという部分に直結する。

そうした中で戦では持久戦に持ち込めば持ち込むほどこうした焦りが生じるのだ。

ここが心理的なポイントで、焦ってはいけないと理解していても、どうしても焦らざるを得ない状況に陥るのだ。

そうした心情を逆手にとって、兵士に敵兵の前でダラダラとのんびり過ごす様子を見せつけることでいわば「挑発」の効果が得られるのだ。

これらは逆に兵糧攻めであったりするとより効果的になって、むしろ敵は戦意喪失、いわば打つ手なしの状態になる。

ある意味秀吉の中国攻めの手口はこういう感じとも言っていいかもしれない。

 

勿論沢彦はそこまでの高度な方法をここで教えるつもりはない。

寧ろ単純に引っかかる相手が徐々に引っかからなくなる様子を学ばせながら。「では、どうする?」と考えさせる機会を望んでいた。

 

吉法師らは

 

「清州の馬鹿連中!!河童が怖くて川を渡れないのか?!」

 

と、かなり子供らしい文言で挑発した。

清州側の連中は、その言葉に腹立てて石を投げあう石合戦なくして渡河しはじめた。

前回吉法師らが簡単に逃げて行った分、それで十分と思ったのだろう。

挑発は真ん中に陣取る吉法師らが主に浴びせたことで、憤り立った八郎の標的は吉法師らの狙い通り自分たちに向けられていた。

見事に計に嵌った…

渡河してくる八郎らに、吉法師らは石を投げつけた。

八郎は木の盾でそれを防ぎながら突進してくる。

八郎が渡河を終えるくらいの間合いに成ると、吉法師らは徐々に後方へと距離を取って動いた。

 

「また逃げるのか!!」

 

八郎は後退する吉法師にそう浴びせかけた。

すると吉法師は…

 

「逃げているのではない!!今からお前に戦の何たるかを見せてやる!!」

 

と、逆に挑発に乗せられた。

さすがは…おバカ…

岩室たちも内心…

 

(若が挑発に乗ってどうする?)

 

と、密かに感じたであろう。

しかし、八郎はっそんな吉法師の言葉を気にかけることなく追っていった。

計はそのまま為された。

 

この状況を土手で見ていた沢彦は、

 

(なんとも子供らしい光景かな…)

 

と、笑いを浮かべた。

そして、

 

(どうやらあのうつけた言葉は寧ろ逃げる言い訳に聞こえたのかもしれんのう・・・)

 

と、意外な事に気づいた。

 

(実戦でもこれは作用するやもしれん…前回無残に逃げた分、逆に強がって見せた方が相手は警戒せぬか…なるほどのう…)

 

まさに沢彦が感じたとおりである。

無論、八郎が兵法を理解した将であることはないが、それを理解した者でも人間の心理の驕りや怠慢を引き出すことは多々にある。

かの諸葛孔明が用いる「挑発」という計は、こうした心理を巧みに利用したものであったと言えるだろう。

 

吉法師たちの布陣は面白いほどに形を整えていった。

逃げる吉法師に合わせて八郎は鶴翼の奥深くまで入り込んでいった。

するとその周りを囲むように他の者たちが取り囲むように動き、そこで一斉に投石を開始した。

相手が年少者とはいえ、石に当たればかなり痛い。

清州側の子らは一斉に崩れ落ち、痛みをこらえながら川の方へと退散していった。

ところが数百単位の大きな戦と違い、数十単位の少数戦では時折想定外の戦局が発生する。

吉法師らに近づいた八郎ら5名ほどは、むしろ投石の的に成らなかったのだ。

いわば投石すれば吉法師らに当たってしまい可能性があったためだ。

またその5名は猛者ともいうべき存在で、多少の痛みは平気だった。

更には槍の様な丈の棒を振り回して暴れまわっている分、吉法師らも意表を突かれた感じになってしまった。

吉法師らは使い慣れた刀の長さの棒を用いていた分、槍よりもリーチが短い。

迫ってきた八郎にまず山口と長谷川が仕掛けていったが、八郎の槍捌きともいうべきか、長いリーチをぶん回して近づく隙を与えず、防戦一方となる2人に時折突きの一撃を加えて撃退した。

吉法師もその光景を目の当たりにしてどう対処していいか困惑した。

そして八郎以外の残った者たちは、投石してくる左右に突進していきこれらを粉砕し始めた。

新介や小平太が勇みよく対峙したが、やはり長物相手に打つ手がなくあっさりとやられてしまう。

少数戦ゆえに個の勢いで一気に形勢が変わってしまう。

吉法師は岩室、加藤、千秋らで八郎を囲むも、迂闊に近づけないまま、防戦の一方であった。

振り回す得物に対しては、その軌道を木刀で抑えることで対処はできたが、八郎はそれを防がれるやすぐさま突きに切り替え、そして今度は逆回転に振り回すなど実に巧みな動きを見せている。

そういう状況下で吉法師も何発か八郎の攻撃を食らうありさまだ。

 

(こんな攻撃をどうやって倒すんだ…)

 

吉法師の頭の中は混乱していた。

そんな中、八郎の攻撃で一時的にもだえていた長谷川が起き上がり、背後から八郎に不意の一撃を浴びせるが、八郎は全く怯むことなく、

 

「痛てぇな!!この野郎!!」

 

と、すぐさま振り向いて長谷川を蹴りの一発で吹き飛ばした。

その直後に切りかかった岩室は怒りに乗じた八郎の上段から振り下ろしてくる連打に押し負けて頭上に一発を食らってしまう。

 

吉法師は今まで同年代の子らに武術で負けたことがなかった。

ここまでで唯一本気でやりあったと言えるのは新介との勝負位である。いわば自分よりも強い相手を見たことがなかったのだ。

しかし、今回の相手である八郎は全く異質な存在であった。

吉法師も上手く打撃を与えるも全くダメージを感じないのだ。

そして岩室に浴びせた上段からの怒りの連打が今度は吉法師に向けられた。

無論、剣技に長けた吉法師はすぐさま頭上に木刀を構えてこれを防ぐも、長いリーチと八郎の馬鹿力で振り下ろされるその攻撃に持ち手はどんどんと下がってしまう。

また布陣した那古野村の子供たちはあっさりと他の4人に粉砕されて既に散り散りに逃げ出してしまうありさまだ。

 

この光景を眺めていた沢彦は

 

(これは若にとって意外な収穫があったやもしれん…)

 

沢彦のいう意外な収穫とは、八郎という人物を差すのではない。

むしろ本気で負けたという経験のことである。

 

(しかし…このままボコボコされて万が一があっても不味いな…)

 

沢彦は子供の喧嘩という認識で口出しはしたくはない。

しかし、この時代、現代の様に法律が浸透して完全に管理された社会とは違い、こども喧嘩でも打ちどころ悪ければ死人が出る時代である。

程ほどという状態で引き際を考える者なら安心だが、子供ゆえに寧ろその見極めは逆に怪しい。

そういう意味もあって沢彦は傍で付き添っていた河尻に、

 

「秀隆殿…不本意ではあるが止めに行ってもらえぬか?」

 

すると、河尻は

 

「御意!!」

 

と、すぐさま動いた。

何とも過保護な状態…そう感じるだろうが…

寧ろこれがリアリティーである。

とは言え、八郎に押された吉法師は既に耐えきれない状態まで追い込まれていた。

万が一八郎の一撃が吉法師の頭上に致命的な形で入れば吉法師は歴史に名をとどろかせる事なく「うつけ」のままこの世から消え去ったであろう。

その矢先である…

吉法師と一緒に八郎を囲んでいた千秋が八郎の膝に向けて石を投げつけ見事にぶち当てた。

木刀ではビクともしなかった八郎だが、足に食らった一撃はさすがに効いたようである。

そこでようやく八郎の連撃は止まった。

そして吉法師から怒りの矛先を千秋に向けたその瞬間、八郎に隙が出来た。

窮地に立たされた吉法師は、

 

(今だ!!)

 

と、仕留めるタイミングが見えたその矢先、背後から河尻が割って入り、

 

「今日の喧嘩はこれまでだ!!」

 

と、声をかけて来た。

すると怒り心頭な状態の八郎は、

 

「大人が喧嘩に割り込むな!!」

 

と、河尻に意気込む感じで食ってかかった。

何気に千秋から浴びせられた投石で足の痛みを相当に抱えたのか、八郎は少しビッコをひいていた。

そして河尻は意気込む八郎に近づいて、

 

「今日の喧嘩はおしまいだ…その足では…」

 

というや八郎は河尻に向かって得物を振り回した。

それに対して河尻はすぐさま八郎の方へ間合いを詰めた状態でその攻撃を防ぎ蹴りで軽く八郎の引きずった足を蹴り飛ばした。

すると八郎はもだえるように転がり込んで、足を抱えながら悶絶した。

 

吉法師は河尻のその動きを何気に見逃さなかった。

 

(凄い!!ああするのか!!)

 

吉法師が驚いたのは、河尻の蹴りではない。

寧ろ間合いを詰めてから防いだ動作に感激したのだ。

武術的な物理計算で考えると、

振り回す力は起点の内側に成れば成るほど力は弱まり、外へ行くほど力は大きくなる。

これは野球のバットで考えるといい。

バットの手元にボールが入るとどうして打球は弱まる。

また時折バットが折れたりもする。

逆に芯と呼ばれる外側のちょうどいいところで捉えると、力は最大限に引き出される。

ところが今度は外すぎると内側ほどではないが実は球の球威に持ち手の支える力が徐々に押し負ける状態になる分、軸が折れやすくなる。ある意味自身のパワーと球威の衝突が手に思いっきり伝わってくるという形だ。

とはいえ内側へ行けば行くほど力の伝達は弱まるのである。

 

物理学がまだ無い時代でも、そういう事は感覚的に知識として伝わっている。

吉法師の場合は、むしろ才能として微かな感覚の違いを感じ取っている分、河尻の動きを見ただけで何となくその原理が理解できるのだ。

 

足を抱えて悶絶した八郎に、

 

「そんな足ではもう戦えないだろう…とりあえず喧嘩は終わりだ。」

 

と、言い放ち、

通りがかりの行商人を装ったふりのまま、

 

「ほらガキども、今日はさっさと帰れ!!」

 

と、追い払うように言い放った。

吉法師は河尻の立場と役割は沢彦から聞かされている。

そして河尻が乱入したことで周りを見渡せば、

確かに那古野村の子供たちは散り散りになって逃げまわっていた。

そして吉法師は喧嘩の勝敗よりもむしろ河尻の見せた動きに興味が移っていた分、

 

「皆、今日は引き上げるぞ!!」

 

と、潔く引き上げた。

 

後日、吉法師は盛重の剣術の指南の際に、河尻が見せた動きを師範である盛重に問いた。

盛重は、

 

「若、剣を構えて私と距離を取ったまま立って居て下され」

 

と、言い長柄の棒が芯で当たるように振りかざした。

吉法師の受けた衝撃はかなり大きなものであった。

そして次に

 

「では私の側に立って同じ攻撃を受けてください。」

 

すると今度は衝撃はさほど大きくはなかった。

 

吉法師は体でその違いを体感することでようやくその原理を納得した。

そこで盛重は、

 

「若、我々が何故腰に太刀と小太刀を二本付けているかご存じですか?」

 

と、語る。

無論、吉法師はよく知らない。

 

「解らん!!」

 

吉法師は躊躇なく答えた。

 

「では、ご覧あれ…」

 

というや、まず太刀を構えて吉法師に対面した。

次の瞬間、盛重は太刀を投げ捨てて、小太刀を取り出して吉法師に一気に間合いを詰めて、いわばドス突きの構えでその懐に飛び込んだ。

あまりの早業に吉法師は驚いたほどだった。

そこで盛重は、

 

「敵と間合いを詰めた際に、太刀では距離が長すぎるのです。小太刀に切り替えれば詰めた間合いではそれだけ有利に動けるのです。」

 

吉法師はその言葉に可愛らしく、

 

「おお!!」

 

と、感激する言葉しか発せなかった。

沢彦から話を聞いていた盛重は吉法師に、

 

「どうやら今回は八郎とかいう御仁に苦戦されたようですな。」

 

と、言葉を柔らかくして聞いた。

寧ろ負けたと言われるより素直に吉法師は受け入れた。

 

「あいつを倒せる気がしなかった…」

 

吉法師はそう答えた。

そこで盛重はようやく、

 

「負けたと感じましたか?」

 

と問いた。

吉法師はそこも素直に

 

「負けたと思った。」

 

と答えると、

 

「負けたことで今、次の戦い方を見極めたわけですな…」

 

と、言うと、

 

「ああ、そうだ!!次は勝つ」

 

そう吉法師が答えるや、

 

「では負け戦も悪くは無いでしょう」

 

と優しく諭すと、

吉法師はそこも素直に、

 

「ああ、悪くはない」

 

と認めた。

そして今度は厳格な表情で、

 

「しかし、首を取られては負け戦に成りませぬ…もっと引き際を見極めて大敗を避けるよう心掛けて下され。大敗こそ恥ずべき負け戦で、撤退は次への布石の負け戦と思ってください。」

 

吉法師は盛重に諭される形でようやく沢彦が言っていた言葉を理解した。

勝ちに拘るのは人間の嵯峨である。

吉法師は寧ろ負けず嫌いの性格もあって今までは勝ちに拘っていた。

ところがこれを機に「負け方の必要性」を意識するようになってくる。

発明や科学の世界では、ある意味「失敗」はつきものである。

その「失敗」を積み重ねることで「新たな発見」を生み出して、ようやく発明や解明という所に到達する。

これは戦やスポーツの世界でも同じなのだ。

ところが戦やスポーツでは負けを許されないケースが多々存在し、冷静に負けを拾うという事も難しいかもしれない。

故に凡将は常に大敗にして散っていくのだ。

 

吉法師が天才的に戦神となるのは、負け方を知り尽くすことにある。

いわば程よく戦って引き上げるのだ。

これは後に信長として美濃攻略で見せる技となるのだが、

勝ちを焦らず犠牲を少なくして大局へ備える。

それにより絶対なる勝利を引き寄せるのである。

そしてこれがさらに後の姉川の戦いでも生きるわけで、

朝倉、浅井の奇襲に大敗せず立て直せた所以でもある。

 

この後、庄内川の八郎との戦いは、投石の三段撃ち。

いわばコントロールの良い投げ手に石を集中して投げさせるため、石拾い、渡し手と逆に投げるのが上手くない者に役割を与えることで、効果的な攻撃を繰り出す方法を用いたのだ。

それにより渡河する八郎らに程よく打撃を与え、

渡河終える頃には、速やかに退散する状態を繰り返した。

そして連日の戦いの末、ケガや疲労で疲れた八郎たちを最後は渡河したところで一気に畳みかけて勝負を決めた。

子供の喧嘩としては、かなり狡猾なやり口であるが、

吉法師はこういう勝ち方こそ将たる者の勝ち方と割り切るようになる。

ただ、負けた八郎は吉法師の戦い方に納得がいかず、結局は心服することはなかった。

 

そして…吉法師はようやく元服の時を迎えて、初陣を飾ることとなる。

 

どうも・・・ショーエイです。

ブログを始めて、何気に6年くらいたった感じです。

なんだか気づけばそんな時間が…

僕なんて当時10歳くらいの設定だったのが…もう16歳。

まあ、サザエさん方式なので年取らない設定ですが。

 

ところで東京オリンピックを強行開催するの?

まあ、知らないけど…

開催中にデルタ株+新たな変異種発見でパンデミックが拡大したら、本当に笑いものに成るからもうどうでもいいといえばどうでもいい話です。

ある意味日本人というより日本の政治家であり、無知なサポーターに科学的な懸念を伝えても馬と鹿に念仏と同じなんでしょうね。

ワクチン打っても重症化しないだけで感染しなという話は出てきましたよね。

更には9月くらいに3回目の接種が必要という話も。

そして疑問なのがワクチンの効果は本当に変異種に対処できるか?

新たな変異種がワクチンをすり抜ける可能性は?

色々未知が重なる状況下にあるという事です。

 

運よくの博打に出られてもという感じです。

 

ある意味ギャンブル依存症体質の国家なのでしょうね。

このうつけの兵法でも語っている話ですが、

勝てばなんでもいいというのが本質で、

どういう相手に勝ったか、どういう勝ち方をしたかは関係ないみたい。

とにかく日本人がどんなレベルでもメダルを取ればいいという…

 

オリンピックなんだから最高レベルの勝負がみたいという考えはないに等しい。

最高レベルの参加者で、最高レベルの勝負ができない状態で、何が面白いの?

NBAのレブロンやカーショーが来ない。

MLBの大物は来ない。

エムバペやネイマールも来ない。

 

はっきり言ってどうでもいい大会だね。

これでメダル取りました。

薄っぺらい栄誉だよね。

 

相手の最強と雌雄を決して初めて本当の勝利なのです。

レベルの下がった大会なんて見るに値しない。

本当に勝負の世界を大事に考えるなら、

そういう気持ちが当然で、そういう人の方が明らかに勝負強いのです。

国全体が衰退状態のこの国では負け犬根性が浸透しすぎてるのかな?

まあ、パワハラ気質のこの国の状態は、強いものには逆らえない根性が勝負事でも出てくるんでしょうね。

はっきり言って東京五輪のメダルの価値は3流の大会程度の価値でしかないと言っておきます。

【第二十話 勝利の方程式】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

庄内川の河原で悔しい負け方を経験した吉法師は、翌日の剣術稽古で師範の佐久間盛重にその胸中を語った。

吉法師は沢彦の言葉を多少理解はしたものの、負けて逃げるということに納得していなかった。

 

「決してみなければ勝負の行方は分からんのじゃないのか?」

 

吉法師はそう盛重に投げかけた。

盛重は黙ったまま吉法師の主張と沢彦が伝えたかった意味を考えていた。

吉法師の言葉は続く…

 

「勝てたかもしれない勝負に何故逃げるのだ!!むろん負ければ首が飛ぶのは解っておるが、それは覚悟の上だ!!」

 

吉法師の表情に悔しさがこみあげてくる。

吉法師からすれば逃げたことで相手に恥をさらした形となったことが一番く口惜しいといった感じだろう。

ましてや相手が農民の子相手だったわけで、武家としてのプライドも重なってのことだ。

 

「俺は新介にも勝ったのだから、あの八郎とかいうやつにも勝てた!!」

 

盛重は吉法師の悔しさは十分に理解できた。

しかし、沢彦が伝えようとする意図も何気に理解できた。

すると盛重は、

 

「若!!剣を構えて下され」

 

というと、吉法師は突然のことだったがそれに従った。

吉法師が木刀を取って構えるや、盛重は上段から振り下ろすように軽く切りつけた。

普段の稽古通り、吉法師はそれを構えた木刀で何気なく防いだのだった。

すると盛重は、

 

「若、今なぜ防がれた?」

 

と、聞いた。

無論、当然の反応ゆえに吉法師はその質問の意図が解せない。

 

「なぜ防いではならんのだ?」

 

その言葉に盛重は、

 

「若が今私の一撃を防いだのは当然のことです。でも、それは私の一撃から逃げたのと同じことです。」

 

「逃げた?」

 

「私は軽く振り下ろしましたので、若が私の一撃を恐れなければ、反撃することも出来たでしょ。」

 

吉法師は言われてみればという感じで、

 

「確かに」

 

と答えるや、盛重は

 

「では、次は逃げずにそのまま反撃してみて下され」

 

と言って再び同じ一撃を繰り出した。

吉法師はそれを今回は防がずに、中段から体ごと盛重の懐に入るように突きを入れた。

すると盛重はその攻撃を体ごと避けて、今度は素早く吉法師の首元へ寸止めの一撃を与えた。

そして、

 

「若…今、私は若の攻撃から逃げました。そして逃げたことで若の首元の隙を見つけて振り下ろしたのです。」

 

盛重は再び吉法師と対面する構えに切り替えた。

稽古の習わし通りに盛重が再び構えをとるや、吉法師も態勢を整えて再び向き合うように構えた。

そして盛重は対面した状態でこう語った。

 

「武技の勝負に於いて、防ぐ、避けるは逃げたのと同じです。逃げずに相手の謀(はかりごと)に嵌って首を取られるのは、逃げて相手に恥をさらすより愚かなことなのです。」

 

武術指南の厳粛な雰囲気ゆえに盛重の言葉は吉法師によく届くのであった。

 

「戦に於いて退くことは武術の防ぐ、避けると同じことです。武術の構えが敵の攻撃を退けることにあるのと同様に、敵の攻撃を退けるために戦では陣というものを敷きます。」

 

盛重はさらに続ける。

 

「国という大きさで戦をするなら、城もその陣のうちです。ゆえに野戦で防ぎきれない時は、城を守るのも兵法です。」

 

そして再び盛重は上段に構えて、

 

「武術では首を取られたら負け、戦では城を取られたら負けです。その勝敗が着かないうちは…」

 

と言って再び上段が振り下ろすと、吉法師はそれをしっかりと受け止めた。

そこで盛重は、

 

「逃げても負けではないのですぞ…若」

 

というや、吉法師もようやく納得したようで、

 

「解った!!」

 

と、受け止めたまま答えたのであった。

 

ギリシア神話で有名なアーテナーの言葉、「絶対の勝利を」。

無論、キリスト教宣教師の存在すら知らない吉法師にそんな言葉は何の意味も持たないかもしれない。

しかし、吉法師は「逃げる」という事に踏ん切りが着いたことで、この「絶対の勝利を」という意味に近づけたのである。

いままで吉法師は「絶対の勝利」を常に求めて、

「絶対の勝利」を目指すのに常に勝たなければ…

いわば常勝が条件だと思い込んでいたのだ。

しかし、庄内川でその常勝が消えうせたことで、自身に抱いた神がかった妄想に区切りが着けたといった感じだろう。

何度も語るように吉法師は自身の「天命」をすでに意識していたわけで、それゆえに「絶対の勝利」はその条件であると思い込んでいたのだ。

無論、これを機にその意識が変化したわけではない。

むしろ「逃げても良い」という新たなルールが付与されたことで、より柔軟に「勝利の方程式」を考えやすくなったと言っていいだろう。

人によってはこれを「姑息」と感じる部分、そこが吉法師の中にも存在したわけで勿論完全にそれが抜け切れたという訳ではない。

それゆえに後日再び庄内川での決戦を考える吉法師は八郎との一騎打ちを捨てきれずにいたわけだ。

 

盛重との稽古の翌日、那古野村の悪ガキと岩室ら供回りを交えた作戦会議で吉法師は先ず八郎との一騎打ちに挑む懸案を打ち立てた。

するとこれを聞いた沢彦は、

 

「大将が自ら一騎打ちを望むものではない!!お主にとってこれは初陣に挑むための前哨戦じゃぞ。」

 

姑息さを半ば受け入れつつある吉法師だが、やはり男子として武技での勝負に拘ってしまうのだ。

ある意味姑息に挑む前に、正々堂々とした部分を出しておきたかったのだろう。

しかし、それを沢彦は「初陣の為の練習」という位置づけで止めたのだ。

それでも吉法師のそういう拘り部分を早めに取り払いたいと考えた沢彦は、

 

「まあ、一騎打ちに拘るのなら、一騎打ちになりやすい状態を作ればいい。」

 

と、理解を示すと、吉法師は食いついてきた。

 

「どうするんじゃ?」

 

そこで沢彦は、

 

「鶴翼の陣を試してみるか?」

 

と、戦らしい提案をした。

無論、卓学を全くしない吉法師らは鶴翼の陣という言葉は何となく知っていてもそれが何なのかは知らない。

しかし戦の実戦でそれを試せるならと興味深々で乗り出してきた。

 

鶴翼の陣とは陣立ての基礎中の基礎であるが、実際に現代ではその基礎中の基礎の構造すらまともに理解されていないのも事実である。

ストラテジーゲームなどでもお馴染みのものだが、最初からV字の状態で布陣するのは間違っている。

ある意味、最終形態がV字なるのが本来の陣立てである。

最初の形態は一字で構わない。

一文字の一の中心を押し込めば、自然とUかV字のような形になっていくのが鶴翼の陣だ。

いわば一の真ん中に大将を置いて、敵がそこめがけて推し進めてくれば、真ん中を中心に後方へ下がっていくというものである。

そうすることで鶴が翼を上に向けて畳むように、突っ込んでくる敵を囲むというのが基本的な動きとなるのだ。

弓などの飛び道具を用いる際は、味方に当たらないようにV字の状態で総攻撃を仕掛けるなど工夫も様々で、ある意味伏兵を用いた方法なども鶴翼の陣の特徴といえるのだ。

沢彦は敵の大将を八郎という少年としたうえで、大将自ら先陣を切って突進してくることを見切った上で、この基本的な陣形を教えた。

それゆえに先陣切った大将と那古野側の大将の吉法師が最終的に一騎打ちになりやすい状況が生まれると説明した。

 

ある意味この陣立ては吉法師に退くまたは逃げるという事が戦術の大事な要素であることを意識させる意味でも役立つと考えた。

案の定、吉法師は乗り気でこの陣容を採用した。

そして包み込んだ状態で他の者は石を投げつけて八郎以外の敵を粉砕するという作戦で挑むこととなった。

 

吉法師らは鶴翼の陣が機能するようにしばらく沢彦の指導で練習したのだった。

そして再び庄内川の決戦場へと足を運んだ。

先の敗戦で意気消沈していた那古野村の悪ガキどもも、鶴翼の陣を用いて練習したことで自信が着き、意気揚々と赴くのであった。

すでに相手が年長者であることは忘れているのも事実であった。

果たしてその決戦は如何に・・・

 

どうも・・・ショーエイです。

世の中はオリンピックの開催どうなるので盛り上がっているようですが、根本的に何かおかしくない?

開催国の感染状況という部分では確かに危うい話でもありますが、ある意味感染状況が一時的に緩和される可能性はあります。

ただ、緩和されるだけで感染拡大が治まるという訳でないのですが。

そういう事を考えて中止にする決断は、日本政府または東京都の判断になるべきです。

次にIOCは…

アメリカ、イギリスの感染状況が落ち着いたから開催できる?

選手がオリンピックに参加するのは問題ない?

はぁ?

オリンピックに参加する国は英米だけじゃありません!!

アフリカや中南米の国々、アジア諸国もその対象です。

こうしたワクチンが届かない国々選手が十分な力を発揮できない、または十分な選考も出来ない状況下にあって、何のオリンピックなの?

一部のメダルを取れる人たちだけ参加すればいいという話になって、何がアスリートファーストなんでしょうね?

限られた枠にしかチャンスが無いオリンピックなのは明白で、そんな大会ならやる意味すらない。

期待された選手も、期待されていない選手も参加して雌雄を決することでメダルの意義があるわけで、期待されていない選手の大躍進もその一環なはずです。

バッハがマラソンを札幌に持って行った時点で、こうしたフェア精神は崩壊しているわけで、あの嘘つき男爵は結局は本命が勝てば盛り上がるといった意味で八百長仕組んでるようなものです。

 

こういう輩が調子ぶっこいてやろうとしている興行は許すべきではない!!

総括した話で中止にするべきという結論なのです。

最近になってようやくバッハとコーツの本性がメディアで取り上げだされたのでありがたいことです。

出来れば中止に早くなってほしいね。

そしてその二人をIOCから追放!!

コーツに関しては2032年ブリスベン大会決定の裏でホコリが立ち込めそうなので、この辺で首にすればいいのに。

 

因みに変異ウィルスの怖さは以前にもブログで書いたように、日本で発生する変異株が一番怖いという話。

既にいろいろな変異株が混ざり始めているので、ファクターXを持つ日本人から変異したら本当にワクチンすら効かなくなるという懸念は、科学的に危惧されるものなのです。

実際に発生してから、やっぱりでは遅いのです。

でも、そうならないと気付かないのが日本政府なので、これ以上変異が進行しないことを願うしかないですね。

全てが神頼みの国ゆえに、科学の話なんて理解できないのでしょうね。

こうした主張に腹を立てる人こそ、そういう人たちなわけで、

なんとも皮肉な話です。

寧ろ理解できる人たちの主張が弱くなるのも、日本の中枢がポンコツ化しているせいなのでしょう。

因みにこの日本の状態に信長たまが出現すれば、そういうポンコツはすべて容赦なく抹消されるのに…

物理的に抹消しなくても、論理的に理詰めで抹消していく感じで・・・

 

【第十九話 負け戦】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

勝利に方程式は無い。

方程式で勝利できるのは相手も方程式に頼っているから。

いわばこの戦いを生兵法の戦いと言っておこう。

科学の世界で様々な難題を解き明かすのに、

様々な方程式が用いられるが、

最終的にその難題を解き明かすのは答えの有る方程式では無く、

人間の研究努力と難題を解読していく頭脳でしか無いのだ。

これを「英知」と呼ぶ。

 

ここでも既に取り上げた孫子の兵法にある「兵は詭道なり」。

常時変化を齎す戦局に方程式のみを頼みにするなど愚の骨頂と言えるのだ。

 

沢彦に連れられて吉法師たちは清洲橋の北にある庄内川の河原へと向かった。現代の場所としては庄内緑地公園の付近としておこう。

新介や小平太は既に良く知った場所で、対面する清州側の集団とも既に面識があった。

それ故に、新介と小平太は些か弱気に構えていた。

小平太は吉法師らに、

 

「ここの清州の連中には、 八郎がおるで…わしらじゃ敵わんぞ」

 

と告げると、新介も

 

「八郎は俺らより3つも年長じゃ…ここは俺らが来る場所じゃねぇだ」

 

吉法師らのグループは沢彦の見立てもあって吉法師と同年代で固まっていた。いわば小学6年生か中学1年生に当たる、12、3歳である。

一番の年長に当たる新介も14歳だ。

一方の清州側の子らは15歳から17歳のグループで、

体格差もそれなりにあると言える。

 

無論、武家としてのプライドを持つ吉法師らは新介らの言葉を意に介さなかった。

ある意味まだ怖いもの知らずと言える。

武家として武技に自信があるゆえに、農民相手に負ける気がしないのだろう。

そんな吉法師は自信満々と

 

「俺らが居るから心配するな!!」

 

と、強気に新介たちを勇気づけた。

 

一行が河原に到着すると、対岸には清州側の子らが待機していた。

いつの時代もヤンチャな子供たちはさほど変わらない。

ある意味河原でたむろする不良グループといった様相だ。

そして吉法師らの姿を目撃するや、威勢のいい掛け声とともに、

威圧してきた。

 

「おうら!!那古野モンが何しに来た!!」

 

そう荒々しく叫ぶや、清州側の子らはすぐさま河原の石を手にして、那古野側の方へ投げつけてきた。

石合戦というのは当時の遊びで有名であるが、歴史家の多くはこの仕組みを勘違いしていると思われる。

現代のようにスポーツ化したような形で考えると石の投げ合いだけの勝負に思われがちだか、ルールなどという意識も低い当時にそうした先入観を抱くのは時代錯誤でしかないと言っておこう。

石合戦という言葉から察するに、通常の合戦では弓撃ちで始まるのに対して、石の投げ合いで始まる合戦…いわば喧嘩という表現でこのような表現に成ったと推測した方が適切である。

特に川を境にした場合は、お互いに川を渡らせない為に石をまず投げあったとする方が合理的な様相となる。

 

清州側からの投石が始まるや、吉法師らもすぐさま石を拾い上げて投石し、それに応戦した。

とっさの宣戦布告ゆえに、吉法師らの連携はバラバラで、個々に石を拾って相手に向かって投げるだけとなった。

よく想像される光景は無防備に石を投げあうものであろうが、前述のとおりルールなど存在しない状態で、無防備に石を投げあうだけという状態は寧ろ人間の知能を馬鹿にしすぎといってもいい。

いわば投石に対抗する手段は安易に思い浮かぶはずで、木の板で造った簡易な盾は用意しているのが当然である。

むろん、吉法師らもそれを用意していた。

そのうえで吉法師らはあらかじめの戦略がなかったわけではない。

渡河してくる相手の足元を狙って、集中攻撃するという作戦だ。

特に、警戒する八郎という少年に対しては、一斉に狙うつもりでいた。

ところが咄嗟の戦闘開始で統制がとれず、石合戦が初陣となる吉法師らの作戦は所詮は卓上理論でしかなかった。

 

清州側は石の投げ合いで、盾を持つ吉法師らの頭の方を狙い投げつけてくる。

そうすると自然盾の持ち手は頭を防ぐ構えとなり視界が遮られる。

後方の投石がそういう狙いで石を投げて来る間に、八郎たち数名の渡河部隊が川を渡って那古野側に進んでくるのだ。

 

想定していなかった展開ゆえに、吉法師らは盾を構えているのが精いっぱいで、那古野村の子らの一部は清州側の渡河が半ばまで進むと恐れをなして逃げ出すものも出始めた。

そして清州の八郎たちが渡り切るころ、それを確認した沢彦は大きな声で、

 

「ほらガキ共!!逃げろ!!役人が来るぞ!!」

 

と、あえて水を差した。

すると逃げずにいた那古野村の新介や小平太も戦線を離脱し始めて、やむなく吉法師らもその場から撤退した。

清州の八郎らは役人が来るという言葉に驚いて、逃げる吉法師らを追わずに、清州側へと引き換えしていった。

 

子供の喧嘩に水を差した沢彦だが、沢彦はすでに負け戦とわかる状況ゆえに、万が一吉法師の身に何かあってはと察してそれを止めたのだ。

すると吉法師は沢彦に詰め寄って、

 

「沢彦!!なんで止めた!!」

 

と意気込んだ。

すると沢彦は、

 

「あれが真の戦なら、お主の首は取られておったぞ。」

 

と、笑いながら答えた。

そして吉法師の供回りとして参加している岩室らに対して、

 

「若殿の供回りとして参加していた者らは、若の周りを固めもせずに何をしてたんだ?あれでは敵に見す見す大将首を与えていたようなものだ!!」

 

まだ子供ながらも武家としての教育を施された家柄ゆえに、沢彦の言葉は十分に理解できた。

しかし、吉法師はどうにも納得がいかない様子で

 

「それでも勝てたかもしれん!!」

 

と、意気込むや、沢彦はさらに大笑いして、

 

「なんともうつけた事を…将たるもの死に場所は選ばねばならぬ。首を敵に捧げても誇れる場所か?それとも負けを察して再起を図る場所か?そこの見極めを間違えればお主は単なる恥さらしに終わるぞ。」

 

その言葉に吉法師は、

 

「あそこで負けても首は取られぬ!!」

 

どうやら吉法師は子供らしい意地を張っている。

おそらく沢彦の言葉に腹が立つというよりも、むしろ負け戦になったことがくやしいのであろう。

そう察しながらも沢彦は、

 

「これはそなたの初陣の為のものじゃ。そなたはあの場面で無理に戦いを続け、首を取られて晒し者になる道を選ぶのか?」

 

むろん吉法師もそこは理解しているゆえに、何も言い返せない。

しかし、どうにも悔しさが収まらない。

 

「引き際を素早く察して、お主の首も、味方の命も無駄にせぬ戦いこそ名将の戦じゃ!!」

 

沢彦はさらに続ける、

 

「戦に常に勝てると思っているのは愚者の考え、大局を制する為に小事、いわば小さな負けを捨て、大きな勝利を確実とすることこそ常勝たる将の考えじゃ。」

 

そして沢彦は吉法師の周りに残ったものを振り返り、

 

「ここにどれだけの者が残っておる?さすがは武家の子らじゃが…村の子は2人だけじゃぞ」

 

吉法師の供回りは誰一人として欠けてはいなかったが、村の子は新介と小平太のみであった。

 

「兵の大半は、勝ち目の無い戦からはすぐに逃げる。まずは勝ち目を生み出して兵を留まらせることじゃ。」

 

すると吉法師は

 

「臆病者たちを充てにして戦えというのか?!」

 

と、沢彦の言葉に嚙みついた。

それに対して沢彦は、

 

「臆病者たちが逃げてしまう戦い方は勝ち目の無い戦じゃということじゃ。」

 

さらに続けた

 

「兵の士気というのは、臆病者たちから信頼を得て、その将のために命を捧げる事で成り立つ。」

 

すると吉法師は、

 

「そんなものは軍律で罰すれば何とでも成る!!」

 

と反撃するや、

沢彦は再び大笑いして、

 

「軍律?それこそそなたの首が飛んでしまえば意味がないものじゃ。首に成ってしまった将がどう罰する?」

 

そして吉法師の目をしっかりと見て、

 

「賞罰も勝ってなればこそ意味あるもの…負けてしまえば恩賞得られず、そこで罰すれば兵は逃げ出す。これが人の心ぞ!!」

 

「ゆえに勝ち目あらば人は従い、勝ち目なくさば兵は己の身を案ずるものと思え。」

 

ある意味、ここまで来ると沢彦の言葉は難しい。

そう自認する沢彦は簡単に、

 

「簡単な話、戦に勝ちたくば勝ち目を作れ、勝ち目がなくなれば臆病者たちと一緒にさっさと兵を引いて次の勝ち目に備えよ。」

 

そして沢彦は吉法師を揶揄うように、

 

「それともその勝ち目を考える能力はお主にはないのか?」

 

と、挑発すると吉法師は寧ろその言葉にムキになって、

 

「ならば次は絶対に勝ってやる!!」

 

と、言い放った。

そこで沢彦は、

 

「次は止めぬぞ…引き際を間違えて敵に殴られたら、お主の首は飛んだものと思え、そして負け犬として大笑いしてやるからのう・・・河原の向こうにお主の晒し首が飾られたと想像してのう…」

 

と、言い聞かせるように揶揄った。

沢彦は吉法師がイノシシ武者にならないように言い聞かせるつもりでそういう形で諭したのだった。

 

そして最後に教育者らしく、

 

「大陸(中国)の古の皇帝に劉邦という者がいる。劉邦は宿敵の項羽に幾戦も負け続けたが最後のたった一つの勝利で宿敵の首を取って天下を治めた。」

 

むろん史記には記されない話で、沢彦はつづけた。

 

「負けから勝ち目を拾い続け、最後の一勝で敵の首を取れば全ては勝ちなのじゃ。敵に勝てずとも次の勝ち目を拾えたなら、首を取られる前に陣を立て直せ!!これが大局を制したものの兵法じゃ。」

 

と、あえて教えた。

ある意味、この説明は吉法師には解りやすかった。

何故なら負けた悔しさから次の戦い方を既に見極めていたからだ。

吉法師は頭の回転が速いゆえに、沢彦との会話の中で、

そうした思考も並行して働くのだった。

そして、吉法師が、

 

「次は必ず勝ってやる!!」

 

と、溢すと、

沢彦は、

 

「次の引き際も考えておきなさい・・・首が取られたら戦も天下も無いのだから。」

 

と、さらに念を押した。

無論、若武者の吉法師にはまだその言葉は届かない。

そう察する沢彦は、

 

「お主の戦い方で、村の子らの信頼を得られずに再び逃げ出したら、その時が引き際と思え…それが出来ないのならお主の元服はお預けじゃな。」

 

と、吉法師に条件を付けて言い聞かせた。

子供ゆえに元服して大人の仲間入りを果たすことはある意味待ち遠しいものだ。

その元服が遠のくとあらば、さすがの吉法師も沢彦の言葉を無視できなかった。

解りやすいほど単純な子ゆえに沢彦ほどの人物になると扱いやすかった。それゆえに沢彦にとっては教えやすかったのだろう。

逆に普通の教育者からすれば、勉強嫌いな吉法師は教えにくい子でしかないだろう。

信長が早い段階で才能を開花させれたのは、むしろこうした人に恵まれていたからという点は伝えておきたい。

 

さて次の石合戦に吉法師はどのような方法を用いるのか、そして次こそ勝てるのであろうか…

 

どうも…ショーエイです。

実はこの石合戦を研究する上で、

エルダーズ・スクロール・オンラインというMMORPGで、

ギルド仲間と難所を攻略しながら

様々な要素を参考にさせていただいてるのです。

半分趣味も兼ねてるけど・・・

攻略できそうで、中々攻略できない。

面白いのは一人の力だけで攻略できないゆえに、

ギルドメンバー個々の力を引き出さないとならないというところ。

ある意味、特別に突出したプレイヤーを充てにしない分、

チーム力で試されるところもあり、

いろいろな部分で調整していかなければならない点。

また、なかなか攻略しきれない中、

ギルメンにモチベーションを下げないで参加してもらうように気を遣う点など、戦に挑むための士気などの参考に勉強もさせてもらってます。

戦い方に意見の食い違いが生じることもある中で、

どう纏めていけばいいのかなど苦慮しながら遊ばせてもらってます。

幸いギルメンに恵まれていることもあってか、

いい形で前進していくことが叶い、

今のところ攻略目前まで迫っているのです。

 

ゲーム全体としては既にそこを攻略しちゃっているギルドも多々あるのですが、ヴォイスチャット無しで人を選ばずに希望者のみを募ってやる方法は寧ろ珍しいらしく、それだけ他よりも難易度は高いとも言えますが、それでもチームワークでカバーして戦える形は、むしろこの小説の信長軍団が構成される過程にマッチしたものであるといえます。

 

Twitchの「liberteen」のチャンネルで日曜、月曜以外の日はほぼ毎日21時くらいからライブ配信しているので興味あったら見てみてください。

ちなみにプレイヤーは誰がやっているかは一応秘密にしてます。

 

ゲーム内チャットのやり取りも見られる状態で配信してますので、

ぜひ興味ある方はご覧ください。

 

ある意味リアルな形の戦場の心境を体現できる場で、

ゲームゆえに様々な将が主張する場であったりと、

この小説と照らし合わせて見てみると面白いかもです。

 

現在、趣味でゲームに没頭している分言い訳でしかないのですが、こうしてリアルな人の動きを勉強しつつ、信長軍団の構成を上手く表現する為に研究している状態と思ってください。

そしてそうした中で自己の反省点を見つけながら、信長という人物の葛藤を描いていけたらと思ってますので、何卒今後ともうつけの兵法をよろしくお願いします。

 

【第十八話 神童】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

科学的に様々なものが立証されようとも、例え宇宙の始まりを知れたとしても科学者たちが必ず行きつく疑問があるという。

誰がこの仕組みを生み出しているのか?

いわば神という存在でも認めない限り、自然のメカニズムは正に合理的すぎるからだ。

そういう意味で見えざる大きな力を肯定して考えてみると、

諸葛孔明と織田信長が同一の魂であるという事を伝えておこう。

無論、この話はこの小説でもしている事だが、殆どの人が信じていないだろうとも言える。

2人の大きな違いは、成長過程のトンネルの長さだ。

信長はある意味領主の子として領地を引き継ぎ、それから勢力を得た。

一方の孔明は、里を追われて各地を転々として、劉備に出会うまでは天下の事など妄想でしかないという状態で生活していた。

トンネルとは苦労の長さで、出口が目ない限り暗闇で進み続けるしかないものだ。

信長のトンネルは合ってない様なもの。

治水工事を手伝っているにしても、結局はいつでも投げ出せる。

一方、孔明は投げ出せば生活を追われる時期が長く続いたとも言える。

故に、同じ魂でも信長として経験する底辺の気持ちは、孔明ほど深い場所に行きつけていなかったとも言える。

苦労すればするほどより多くの苦難から経験を得られるが、苦労が少なければ少ないほど浅く理解した気になり、隔たりを生むのだ。

また苦労する故にそこから脱却するために知恵を絞り、向上心の下で多くの事を学ぼうとする。

人はこの苦労が無いと思考が停止して学ぼうとすらしなくなる。

年配の政治家や実業家がパソコンを使いこなそうとしなくなるのも結局はこういう事である。

自分が出来なくても、誰かにやらせればいい…

そこが分かれ目に成るのだ。

 

結果として信長は天才であっても万物の現象いわば森羅万象を知った量は孔明に及ばなかったと言える。

 

逆を言えば、孔明と同じ様に苦労の下で森羅万象を知る意識が有れば、孔明を越える事も十分に有りうる話として伝えておこう。

 

それでも今吉法師が入り込んだ抜けられないトンネルは沢彦のプレッシャーによって生み出された。

故に何とか苦痛から解放される方法を3っ日間考えた。

再び「敵」の話である。

苦痛を感じている最大の「敵」は単純作業で飽きが生じる事だ。

そこで己を垣間見て、飽きないでやっていられる状態を見つめ直した。

まあ、最初の10分程度だろう…

残りの飯の時間までは苦痛でしかない。

苦痛を感じると正直動きも鈍ってくる。

そうした中で「あそこまでは頑張ろう」という目標を定めてやると、そこまでのモチベーションは保てることに気づいてきた。

いわばジョギングをする人なら同じような発想をした経験があるのではと言える。

別段、特別な発想と言う訳でもない。

そうした発想を促す意図があってか、沢彦は子供たちに、

 

「お前らの作業ペースではやっぱり足手まといかのう・・・?」

 

と、皮肉を言ってくる。

故に子供たちグループで何とかペースを維持して作業しようという思考は働くのだったが、苦痛は苦痛でしかない。

目標を定めて、目標に達した際の褒美に値するものも考えた。

ただ「休む」という褒美も考えてみたが、それだけではやる気は回復しない。

投げ出してしまう事も考えた。

勿論、武家の子が態々やる作業ではない。

大人たちが背負う義務という逃げられない環境ではないのだから。

 

それを理解してか、沢彦は更に

 

「この程度の仕事も出来ないという事は、武家の根性は農民には敵わぬという事かもな…」

 

と、あえて煽るのだ。

道徳的に差別は良くない事だが、

プライドを刺激する部分では大事な心理作用を齎す。

ある意味、バスケットボールで黒人に負けたままではいられないという思考を以つ白人が、その自身のプライドを努力の目標として抱くことは悪い事ではない。

その上で最終的に目標にたどり着いた際に、黒人も白人も関係なくチームメイトとして同じフィールドに立てれば、それは差別ではないのだ。いわば対抗心を抱く気持ちと、差別の分別が付いていればいい訳で、劣等感から対等へ、対等から先は優越感では無く特別感…

いわば目標を達して対等に成った時点でそこから先は人種では無く自分自身が特別だったと意識する事だ。

それを白人の方が黒人よりやっぱり上と感じるのは間違いだという事だ。

 

吉法師らは沢彦に根性という言葉で武家のプライド刺激された。

沢彦は那古野の城への帰り道、武家の子たちだけに成った時にこうも言った。

 

「農民に根性で負けるような武家が、その農民の一揆を防げるとおもうか?」

 

沢彦はそう言って吉法師たちの精神的な逃げ道を塞ぐのであった。

吉法師ら武家の子供たちは武家の仕事ではないのだからと割り切ろうとも考え始めたが、沢彦の言う様にあの農民が一揆を起こして向かって来た時に逃げ出してしまうような武士には成りたくないとも感じた。

ましてや初陣を控え武家の子として初陣を認めてもらう様に成りたいと願う吉法師には、沢彦の言葉は大きな意味を持つ。

 

「負ける武将には成りたくない!!」

 

それ故に吉法師の思考は投げ出すという選択を排除して、如何に苦痛に立ち向かうで働き始めた。

もっと大人たちを圧倒するようなペースで驚かせる。

そういう優越感を褒美の代わりのモチベーションで思考し始めた。

 

吉法師の思考は強欲である。

 

「子供でも大人に負けない様に・・・」

 

いわば自身が初陣した際の事を想定し、農民の大人に勝てない状態は子供の自分が戦に勝てないと危惧するのだった。

 

さて…天才の発想はそこから傲慢といえば傲慢になってくる。

 

吉法師は楽しい事をしている…遊んでいるときは日が暮れてしまうのが早い事を思い出した。

これが発想の転換である。

 

「楽しくやれればあんな作業は楽勝なのか…」

 

遊ぶと沢彦に叱られるが、遊びを取り入れて作業効率を上げれば沢彦にも文句を言わせない。

そこでいかに遊びと作業を結びつけるかを考えた。

 

4日目、吉法師は桶、桶と言っても直径1メートルくらいのものだが、それを一人が倒して縦に持ち、それを的に、皆で石を投げ入れて遊ぶようにして見た。

沢彦は最初それを見た時にまた遊びだしたと思って注意したが、

吉法師は、

 

「この方が作業が早い!!」

 

と言い返して皆にそれを続けさせた。

大人たちは石を拾っては桶に持って行って、再び石を拾う動作で作業していた。

子供たちは桶から外れる事は多々あるも、遊び半分で石を投げ入れて行くうちに、桶の周りに十分な量の石が集まる。

それがある程度の量に成ったら皆で拾い集めて桶を満杯にした。

結果、大人たちの作業より早く桶が埋まるのだ。

川の生地は余計な石を取り除き、土壌状態にしてから杭を打ち込み、そこから堰を作っていく。

大きな石より手のひら位の石が多い。

故に子供でも投げれるレベルだ。

ときおり見かける大きな石は、流石に大人たちが処理した。

無論、その大人とは金森可近と沢彦が吉法師たちについていた訳だが…

 

吉法師の言うがままにそれを見ていた沢彦は…

 

(成程…遊びながらも効率を考えての事か…)

 

と、驚いた。

真面目な可近は大きな石を担当する傍ら、吉法師らが埋めた桶の運搬もかってでていた。ある意味吉法師の作業には可近と数名の武家のものが作業を手伝っていた状態である。

こうした光景は戦国の世ではかなり異質な状態といえるが、流石に若殿が作業しているのに何もせずに監督だけしている状態は不忠に感じたのだろう。

吉法師らのペースは徐々に速く成り、農民の大人たちより効率よく作業し始めた。

遊び始めたと感じていたが、吉法師たちのやり方を観察して効率よくまた飽きる状態も無くなって作業が進んでいくことに可近は驚いた。

 

いくつかの石を拾って桶まで歩いて持って行くより、投げてでも桶の近くに貯めた分を拾い集める方が移動距離が短く成る分、効率が上がると見えた。

最初の内は農民の大人たちもペースを維持してやっていた分、差は見られなかったが、時間が経つにつれてそのペースにも差が出る事が見えてきたのだ。

大人たちは徐々にダラダラと歩調も鈍りだしてペースが落ちてくるが、子供たちは遊び半分でやっている分、ペースがほとんど落ちないのだ。

そこで可近は桶を縦にして持っていた吉法師の仲間内の一人にあえて横にして寝かせさせて、

 

「若…どうせならこの状態を的にして、この中に石が上手く入る様に練習してみたら如何ですか?」

 

と、提案したのだ。

吉法師も、

 

「おお、それも面白そうじゃな」

 

と乗り気になり、今度は桶を寝かせて玉入れのような形で作業し始めた。

沢彦はその様子を見て、吉法師らと一緒に玉入れ作業をやってみた。

 

(成程…これは良いかも知れん…何気に楽しいな)

 

と、その効果を実感した。

 

小説や漫画などの物語では、神童が何でも思いつく存在に描かれるモノだが、実際に神童は全てを与えるわけではない。

実際は、大人の発想を導き出す切っ掛けを不思議と齎す子供が神童なのだ。

吉法師の遊びの発想から、可近がアレンジしたやり方を思いつき、そして今度は沢彦に大人たちも同じように楽しめる方法を思いつかせる。

大人の発想を不思議と導き出す子供を神童と呼ぶのだ。

無論それに気付ける優秀な大人があって初めて神童は活きてくる訳で、そこを子供あつかいしているだけの大人では、神童はただ単にかわいい子供でしか無くなるのだ。

吉法師の齎した閃きの切っ掛けは、沢彦にも伝播した。

 

(これを組みに分けて競わせるのも面白いやも知れん…と、成ると…褒美には昼飯のオカズでも出してみるか…)

 

5日目 沢彦は可近に、大人たちを10人一組に分けさる提案をした。そして各組が積み上げる石の山を固定して、子供たちも含めてどの山が昼までに一番早く積み上がるかを競わせるように提案した。

そして褒美には上位5組には100%白米の握り飯を、更に上位2組には鳥の丸焼きのおかずを出すように勧めた。

可近もそれを採用して、5日目の作業が開始された。

無論、どういう風に作業するかは各自のやり方に任せていた。

ところが子供たちのペースに圧倒され始めた大人たちは、その子供たちのやり方を自然と真似し始めて効率を上げて行ったのである。

いわば効率がいい子供たちの遊び的な作業をしてても許される事を察し始めたという感じだろう。

 

生真面目な人間は仕事で遊んではいけないと考えがちだが、それは見た目だけの姿勢であって、効率が上がるのなら本来は遊びながら作業しても良いのだ。

合理的に見た目だけ真面目にやってても、効率悪いなら無意味と考える方が良いのだが、それを監督する人間も、作業する側もお互いが気を使って踏み切れない部分でもある。

Googleの様な会社では寧ろこういう遊びの中からという考えで作業でも様々な形が優遇されているという。

無論、携帯を弄って遊んでいるという非効率なやり方は論外であるが、作業効率を促進する遊びは大いに取り入れる方が良い。

 

吉法師が齎した発想は、大人たちの作業効率も向上させて、工事は予定より速いペースで進んで行った。

また、沢彦はさらに可近に大人たちのバランスを上手くコントロールするように提言して、毎日組み分けを変えて、誰もが上手く褒美にありつけるようにも調整させた。

そうしておくことで褒美に有りつけないモチベーション低下を抑制したのだ…いわば今日はダメでも明日は褒美を貰えるかもという期待で。

 

吉法師も現場で作業をしながら、沢彦のやり方を実際の経験と、実務的な効率を見ながら学んでいった。

沢彦が自慢たらしく、

 

「どうじゃ…こういう風に褒美で競わせると、人間は良く働くじゃろ」

 

と言う言葉に、

 

(確かに楽しく働いて、作業も早くなる…)

 

と、理解をしていくのだ。

 

治水を統括する大工の棟梁は最初は足手まといに成ると思っていた若殿だったが、結果として予定より早く川べりの生地が進んだことに、

 

(こんな現場は始めてだ…こりゃあの若殿はただモノで無いな・・・)

 

と、その神童ぶりを認めるのであった。

寧ろ堰の木材加工の方が遅れを取り始めた感じである。

 

無論、棟梁以外にも吉法師たち存在に誰もが好意的な印象を抱いた。

ある意味こうした人工(にんく)仕事は労役の様な印象もあった当時に、吉法師のお陰で楽しく働くことが許されたと言えるからだ。

また、そういう吉法師らと昼飯のご馳走を掛けて競争する事で、お互いが親近感を抱く雰囲気も醸し出した。

単に競争する感じの労働でも、半分玉入れ遊びで競技の様な感覚を齎した分、仕事の活気も全く違うものに成った。

こうした環境が許されるのも吉法師が那古野の城主であり、吉法師自らがそういう方法を許しているからだ。

故に共に働いた大人たちは、吉法師を領主として歓迎するのであった。

 

吉法師と領民の結びつきはこうした出来事から生まれたと言える。

資料には無いと言え、何かの切っ掛けでもない限り、領民と領主の対等な関係など築けるわけもなく、そういう絆があってこそ吉法師であり信長は城下を安全かつ自由にウロウロ出来たと言える。

 

数週間後…川の生地が済むと、沢彦は

 

「そろそろお前らは子供としての本業に戻ろうか」

 

と、吉法師たちに言った。

その言葉に吉法師は、

 

「子供としての本業とはなんじゃ?」

 

と聞くや、

沢彦は、

 

「遊びじゃ…戦遊びの事を忘れたわけではあるまい?」

 

と言うと、吉法師は思い出したかのように、

 

「そうじゃ!!その為に村の連中と約束したのだった」

 

最初は面倒な石拾いも、徐々に色々な成果が上がる感じが寧ろ楽しく感じてきた頃合いだった。

それは吉法師のみ成らず、他の子らも同様に感じていた部分でもあった。沢彦が齎した実習教育の効果と評価しても良いだろう。

また単なる労働では無く、前述の通り大人たちとの競技の感覚で挑んでいたこともあり、そうした感じで勝つための試行錯誤も楽しめた要因である。

更なる効率を求めて子供たちは分業制を敷くなども思いついた。

いわばコントロールの良い人間の近くに石を集めて、そのコントロールの良い人間が確実に桶を狙って入れて行く。

外れが少ない分、桶も確実に貯まりやすい。

いわば後で周りの石を入れ直す手間を極力省けたのだ。

バスケットボールのシュートの上手い人間にシュートをガンガン打たせるという作戦の様なものだ。

 

こうした発想はこの後の石合戦でも活きてくる。

投げるのが上手い奴に石を手早く渡して投げさせる。

そうする事で素早くより正確な投石が効率よく生み出されるのだった。

 

石合戦で長篠の戦いの鉄砲三段撃ちが生まれたのではという説はよく見かけるが、そもそもが連射性のみを追求した考えであるゆえに、実は信長の本意には近づけていない。

信長が用いた三段撃ちの原理は、射撃の上手い人間に連射させる効率を考えたものである。

連射だけで考える歴史家は、3千丁の一斉射撃と、1千丁の連射の違いが全く解っていない。近年50~60年三段撃ちの説が様々に唱えられているが、全く的を得ていないのも不思議なくらいだ。

3千丁の射撃で、1500発しか当たらずに、次の充填時間を待つよりも、、正確に射撃できる千人に絞り込んで、900発確実に的を得る方が、効率的に同じ時間差でも2700発近くは命中することに成る。8割の800発だとしても2400発、7割でも2100発と、効率はそれでもいい計算に成る。

いわば、上手い射手が連射できるようにと考えた効率である。

そういう意味で、ここでの話の応用で、バスケットボールの上手いシューターにボールを集めてガンガン打たせるという様な事と一緒なのだ。

閃きや発想は知らず知らずの経験の積み重ねで、徐々にアレンジを加えて変化していく。

筆者があえて川の石採り作業から、石合戦へと結びつけたのは、発想が生まれやすくなる過程を伝える為と考えて貰っても良いが、信長の才能を逆算していくとこうした流れである方が資料に基づく信長像と合致するという事は言っておこう。

 

川の生地が終わった翌日、沢彦は吉法師たちを清洲橋より少し上流の川べりに連れて行った。

そこには那古野側と反対の清州側に住む子供たちが集まっていた。

戦遊びの宣戦布告は簡単だった。

無論、那古野村の新介たちはそれを知っていて反対側の清州側の子供たちに石を投げて挑発すれば開始する。

川を挟んで、最初は石合戦から始まる。

そして活きのいい子供は木の棒を持って川を渡って攻め込んでくる感じだ。

そして最終的に負けを認めた側が退散すれば終わる。

そうすると自然とその川べりはそこの地域の子供たちの縄張りと成っていく感じだ。

清州側の子供たちは以前から那古野村の子供たちと争って、その場所を縄張りとして独占していた。

 

川を挟んで最初は石合戦で相手に向かって石を投げ合う。

そしてしばらくすると木の盾と棒を持って川を渡って切り込んでくるのが出てくる。そこからは棒合戦の殴り合いに成っていく感jじだ。

どうやら清州側にはその棒合戦の強者が居たらしい。

 

無論、小学生の年長組…いわば12歳前後の那古野村の子供たちに対して、清州側の子供たちは中学生、15歳位の集団が混じっている相手と言ってもよい。

沢彦はそれをちゃんと知りつつ吉法師たちをそれに向かわせた。

 

はてさて…石合戦の戦法だけで勝てる相手ではないような勝負なのかもしれない…

 

どうも…ショーエイです。

最近あまりグチグチ言わない感じにしてますが…

本当にグチグチ言いたくなるような世の中である事は、

多分多くの人が感じている事と思います。

 

色々このブログでは予言に近い話で的中させてます。

コロナウィルスの日本変異種登場も言ってるし…

ただ予言では有りません。

寧ろ、危惧して起こりうる可能性を言っているだけなので、

それが的中しちゃうレベルだと、どうなの?って感じです。

 

人の意見を纏まるのはとても難しい作業です。

様々な思惑やら、危惧などが入り乱れて、

情報は複雑な形で入ってきます。

ただ、未知の状態にあるものは全てが仮説でしかないのです。

それを自分の都合で一方の情報を定説として受け止めると、

間違った方向に進むことに成ります。

 

科学的見地でという言葉…吉村大阪知事は勘違いしているけど…

仮説なのか確定した定説なのかを明確に把握しなけば科学とは先ずかけ離れた話でしか無いという事。

変異種の傾向に関しても…まだ仮説段階が殆どです。

コロナウィルスの特性に関しても、

変異がどうこで治まるかは解っていません。

それを希望的観測の仮説に寄り添って考えると、

仮説が間違っていた場合、取り返しのつかない事に成ります。

 

基本的には危惧する仮説を払拭していくように対応するのが賢明と言えます。

その上で指示する事も、科学に要請する事も明確に出せます。

 

以前の作品「炎獄」でギリシア神話のアーテナーをキャラクターに入れ込みましたが…

そのアーテナーの名言「絶対なる勝利を…」

絶対なる勝利とは何であるか…

これを考えて見るべきです。

常に勝ち続けることは有り得ない。

特にスポーツを見てたら

「絶対なる勝利」は不可能と考えてしまいます。

でも…勝敗では無く、優勝という目標が勝利とするならば…

日本ではソフトバンクが4連覇したりという形で達成されたりもします。

 

絶対の勝利というのは

大局を見据えて何を勝ちとするかが大事なのです。

一回の試合の勝敗に拘るのは愚者の発想。

大局は何を守って何を得る為に戦うのか…

一般的に言われる目標を明確に定める事です。

その上で落としてもいい勝負には策を用いて敵を躍らせ、

落としては成らない勝負には万全の体制でそれに挑む。

そういう姿勢が絶対なる勝利を齎すのです。

ただ矛盾の話と同じで、

絶対なる勝利同士が戦ったら?

それは最高の勝負の舞台であり、

どちらが勝っても絶大な賞賛を受ける者であり、

負けても誇りを得られるそういう勝負となり、

それを演じ大衆を奮起させたという勝負が勝利の条件ならば、

歴史的には両者が英雄として名を刻む意味での

勝利を得る事と考えてもいいと思います。

 

アメリカ今何をもってアメリカの勝利とするべきか?

中国に軍事的、技術的に勝つ事なのか?

否!!

アメリカは世界を一つに纏め上げて勝利とするべき事で、

国連加盟国すべてにアメリカをその盟主として称えてもらう事です。

それを為すのは力では無い。

世界にアメリカの自由と平和を守るという意識を持たせることです。

アメリカ大統領を守るのではなく、

自由の女神を守る為に、世界が団結する事こそ、

アメリカの絶対なる勝利なのです。

トランプの様にアメリカ・ファーストでは、各国も自国民ファーストの意識が生まれて結果、アメリカは利益を失うだけです。

アメリカ・ファーストの中では、

日本人ですら、アメリカの大統領やアメリカ国民を守るために行動する意識は生まれません。日本人の優先順位はアメリカ国民より下に感じる心理が生じるからです。

でも、自由と平和を守るという世界共通の意識ならば、

各国の国民の優先度は対等であり、

同じ価値観共有して守るという意識で各国の結束力も強まります。

民主制をまもるという限定されたものでは、制度の異なる国に対しては仲間外れにされた疎外感をその国民の半数以上に植え付けます。

 

中国でも民主制を望む人は半数位いるかも知れません、しかし残りの半数は現状維持で満足していると考えた場合、民主制の為に国を分断するかと言う議論で、内戦でも発生すれば彼ら民主制を望む人たちの生活は脅かされます。

そいう現状心理の中で、民主制を望んでも民主制で無い国の人として生きる人たちは、民主制の国から仲間外れにされる疎外感を感じます。

しかし、自由と平和というものであれば社会制度は関係なく、誰もが抱ける希望です。

民主制を望んでいなくとも、自分の生活を保持するのに自由と平和は絶対条件です。

故に彼らにも疎外感を与えずに共有できる意識に成ります。

 

これはダライラマに向けて言った事ですが…

(実際にチベットの団体に話した事で、それ以降、かれはチベットの政治を他の人に渡しました。)

ブッダは自分が一国の王族である以上、他国に如何なる言葉を用いてもそれは策略にしか成らない事に気づき、その上で国を捨てて出家の道を選んだ。

一人の哲学者の言葉として説くことで、異なる国の人の心も救えるようになった。

これが正教分離の原点で、ブッダはそれを実践していたのです。

 

オッサン先生も僕も、

宗教に属する事はありません。

それ故にキリスト教徒とも、イスラム教徒とも、仏教徒とも、哲学として彼らと話すことが出来るのです。

そして其々から哲学として学び彼らの信仰を尊重できる。

その中で共有できる感性が「自由と平和」なのです。

その「自由と平和」を基軸に、様々な人種と様々な宗教、様々な思想が共存共栄できる国がアメリカ合衆国であり、

この形を尊重し守る事が世界の目指す場所なのです。

アメリカ合衆国を守るのではない!!

アメリカ合衆国がモデル化した「自由と平和」の世界を守り、世界全体でそれを元に団結して行こうという話です。

そしてこれが最終的にアメリカ合衆国が得る絶対の勝利なのです。

 

絶対の勝利とは…歴史的な意義として、

アメリカ合衆国が誕生し国として政治的、経済的に成長した事が、世界人類が一つに成る事を導いたという事です。

この勝利を逃せば…寧ろアメリカ合衆国はローマ同様に衰退していくだけの単なる時代でしか無く成ります。

 

30年後なのか、それとも100年後なのか…

トランプの様な愚か者が危惧する衰退という状態をそのまま引き起こすのか、それとも世界から大事にされる国際社会の象徴として残り続けるのか、何れかの選択肢はアメリカ国民に委ねられますけど…

 

 

 

 

 

 

【第十七話 己】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は父・信秀の助けも有ってようやく治水工事を着手することが叶った。

それでも那古野村の子供たちと約束をして、ひと月あまりで実現した。

吉法師は沢彦と悪童ら、そして政秀を伴い領主として正装で那古野村に向かった。

この2年前に初めて城下を訪れた時とほぼ同じ行壮だ。

先方の河尻秀隆が先ず村を訪れた。

そして大きな声で、

 

「これより那古野城主吉法師様が御触れを出しに来られる!!村民は全員表に出て触れに従う様に!!」

 

と、伝えると村民はゾロゾロと外に出て街道を固め始めた。

500戸3000人規模が街道に並ぶと、家族で固まったとしてもおおよそ300mには成る。

そうした中、暫くすると吉法師の一団が到着した。

あの時と同じように農民たちは地べたに平伏してこれを迎え入れた。

この時の一団の先頭には吉法師が立っており、その横に沢彦と政秀がが並び、その後ろを悪童たち、そして佐久間盛重、信盛らが続いた。

吉法師は平伏した農民たちに近づくや、

大きな声で、

 

「全員面を挙げて楽にせよ、」

 

と、言い放った。

農民たちは言われるがまま面を上げた。

その列に並んでいた新介、小平太ら子供たちは、

行列の先頭に立っている吉法師を見て、ようやくあの時の悪童が那古野の領主であったことを知る。

知るというより確証した。

そして吉法師の脇にいた政秀が、

 

「こちらにおわす方は那古野城主の吉法師様にあらされる、これより城主直々に御触れを出される故によく聞いて従え!!」

 

と、伝えた。

ハッキリ言えば吉法師が領主である証明はこうすれば成り立つ。

しかし、それは沢彦の方針ではない。

偉い人間が偉そうに自らを証明しても、人はただ威圧されるだけだ。

人を威圧だけで支配すれば、一度力を無くした時に人は簡単に見限る。または反抗する。「飼い犬に噛まれる」という表現に成るだろう。

そして時は戦国の下克上である。

いついかなる時に敵に攻め立てられ窮地に陥るか解らない中で、領民が敵方に寝返る事など当たり前なのだ。

領主が領民を締め付けて従わせていただけなら、尚更領民はここぞとばかりに寝返るだろう。

沢彦は吉法師をそういう人間に育てたくは無かった。

故にああした約束で証明させたのだ。

無論吉法師も領主として出向く方法は思いつくだろう。

そして治水と言う約束を交わすなど本来面倒な事だ。

それでも沢彦の提案に臨んだのは吉法師の才覚ゆえの事と言っても良い。

こうした才覚は論理で考えられる事ではない。

いわばペットに愛情を注いで共に暮らす喜びを求めるか、

それとも厳しく芸でも仕込んで自分に従わせようとするかの違いの様なもので、その人間の感性とも言える部分だ。

 

吉法師は感覚的に前者である。

織田信長という人物を今までの価値観で眺めれば寧ろ後者の様に感じている人も多いだろう。

冷酷で無慈悲な性格と評して。

無論、冷酷で無慈悲な人間であることは否定しない。

しかしそれは自分の敵に対しての感情で有り、

逆に味方に対しては異なるのだ。

こうはいうものの後に佐久間信盛を追放した件などを挙げて、異論を述べるものも居るだろうが、そもそも地位に胡坐をかいてその他の家臣や領民を蔑ろにした人間を情で許す方が慈悲なのか、それとも許さない方が慈悲なのかと考えればその判断の本意は解ってくるのではなかろうか。

 

大人に成ればなるほど、他人を計算づくで見てしまう。

また計算して考えようとする。

芸能人や政治家が好感度を意識する時など、こうした計算を用いるだろう。しかし、捉える方は十人十色で実際は計算してどうにかなる話では無い。

寧ろ計算するより素直に直感で行動する方が良いとも言えるが、この直感というのはその人間の本質で、それは才能とも言える部分だ。

解りやすく言えば「違和感を感じる」という時は誰しも経験を持つだろう。

この「違和感」は自分のポリシーや信念に基づいて感じ取る部分で、それが野心的な部分なのか、人情的な部分なのかで変わってくる。

野心的な違和感は寧ろ計算に近い。

いわば保守的な考えで、自分の事が優先なのだ。

ここの直感部分が「ここでは嘘をつく」といった行動に成る。

人情的な違和感は個人の信念と言える。

ある意味自分の生き様として曲げられない部分だ。

野心的な違和感と違って損をしやすいと言える。

こうして説明するならば三国志で描かれる曹操と劉備の対比と同じになる。

曹操は曹操で成功している訳で、劉備も最終的には曹操に対抗しうるだけの力を得るのだ。

それでも曹操が中華を平定できなかったのは対比の劉備の存在があった故。

先行して力を得ても、損し続けた劉備を捕らえられなかったのは劉備という人間の徳の偉大さで理解すると良いだろう。

野心的な違和感で行動する才能は、威圧によってその勢いは付きやすいが敵を多く作る事にも成る。

いわば多くが怯えて従うだけで心腹する者はごく僅かな側近だけ。

逆に人情的違和感で行動する者は信頼を得られやすく、味方が増えやすい。何故なら多くの人がその存在に安心感を抱くからだ。

損を多くするが、その分助けも多く得られる。

その助けが威圧に対する反感からのものであれば、敵中に於いても得られるのだ。そうして劉備は生き残た。

大人に成ればこうした両者のやり方は計算によって使い分けられる。

そこは違和感では無くむしろ「こうしたらネットで騒がれる」という警戒感によるものと言えるだろう。

そして計算では「これくらいなら問題ないだろう」と魔が差す事も生じるのだ。

こうした計算で誤魔化し誤魔化し立ち回って成功する人間も居るが、そこには力や金、権力と言った威圧で黙らせていると言える。

結果その計算には信念が無く行動原理がブレてしまう為、人は信用しなくなるのは言うまでもない。

 

吉法師は実は人情的な違和感で考えるのだ。

かつて吉法師が感じた「死後の違和感」

「自分が農民に生まれ変わったら…どう生きて行く?」

そこが根底にあるゆえに、自分で自分を眺めて違和感を感じた事に抵抗を持つのだ。

言葉を代えれば、「自分が嫌だと思う事は他人も嫌だ」という事を知っているのだ。

しかし、劉備のそれとはまた異なる。

幼いながらもある矛盾に疑念を抱き、それを解決しようとする。

「では、戦争ではどうなのか?」

そう戦争では自分が攻め込めば敵は嫌がる…

それをためらっては天下を治める力を得られない。

自分が天下を治めなければ農民で生まれた時に農民として理不尽な社会で生きる事を強いられる。

野心的に都合よくそこで妥協すれば、

「情など捨ててしまわねば天下は望めぬ」

という結論で終わるだろう。

誰しもが織田信長という人物がその結論で終わったと誤解しているのだ。

吉法師は妥協で終わらせない。

複雑な疑念が子供ながら何年も頭を過っていたのだ。

これが天命を受けた定めなのだ。

そしてある時に吉法師は答えを見つけた。

これを「魔仙道」とでも言おう。

以前、語った様に、

「敵に対しては魔道を、味方に対しては仙道を」

というものである。

「敵は常に味方を脅かす存在で、その味方を守る為にはその敵を排除せねば味方は逆に苦しむ」

そういう考えのもとで、あの時那古野村の新介は敵として対峙した。

無慈悲なまでに叩きのめしたが…

さすがに殺しては成らないという違和感を感じて手を止めた。

そういう自分に吉法師は「何故だ」と問いかける。

相手を敵と定めて仕留めねば、自分が反撃で殺される。

そういう気構えだったはずで、これが本当の戦場であったら死活問題だと感じた。

しかし、それ以上に手が動かなかった。

心が敵では無いと判断したからなのか…

子供ながらに考えた。

天命を受けた故に、どこかで天からの歯止めが掛かったと理解するべきか…

 

那古野村の村民が面を上げて吉法師を見た。

まだ12歳の幼い子供である。

そんな吉法師を見るや新介、小平太ら村民の子らは吉法師が本当の領主であったと確認し、吉法師に向かって手を振って、

 

「吉法師さまぁ!!」

 

と、大きな声で声援を送った。

本来は無礼とされるモノであるだろう。

しかし、吉法師も彼らの存在を確認すると誇らしげに手を振って返した。

子供たちの突然の行動に、その親は無礼だとばかりに叱りつけた。

その様子を見た吉法師はすぐさま馬に乗って近くへ駆け寄り、

 

「構わぬ!!新介、小平太に他の者はワシの供を致せ!!」

 

と命じて、自分の列に招き入れた。

新介らは少し誇らしげに吉法師の命じる通りに列に加わった。

 

こうした些細な出来事で、吉法師はまた新たなる悟り垣間見るのである。まだ、言葉として確立は出来ていないだろうが、何かが吹っ切れた感覚で理解した。

 

「和に応じる者は味方であり情を以て接す、不和なるものは敵と見なして無情を用いて退ける」

 

深く読み解けば法の根底ともいうべき内容になる。

不和とは社会秩序を乱すもので、社会の敵=罪として裁くべきという意味にも成る。

法の中でこそ無情とは忖度無く公平に裁くという表現で用いれるが、戦国の下克上の世では、無慈悲という意味合いに成ってくるだろう。

勿論、こうした言葉として論理的に理解した訳ではない吉法師は、感覚的に「和に応じるもの味方、応じないものは敵」と区別する意味で理解したに過ぎない。

そしてその結果が、徳川家康と浅井長政の命運を分けたものである事は言うまでもないだろう。

こうした奇妙な天命論で話を考えるなら、

秀吉が天下を取れたのも信長の天命が導いたもので、身分に関係なく出世が出来た故の話であり、家康が天下を取れたのも、家康が信長の和の精神に逆らわなかったからと言える。

そして農民上がりでも天下を取れた歴史と、和を貫き通した恩恵が江戸幕府を起こしたのだと考えれば、信長の天命は日本という国の価値観に大きな変革を与えたと誇れるのかもしれない。

 

吉法師らが村民らが集まった街道の中腹に差し掛かると、そこには那古野村の村長らしき人物が待っており、その面前で平手政秀が御触れを大声で読み上げた。

 

「これより庄内川より那古野に向けて水田用の治水を行う。それに当たって村民から毎日100名の人工を出すことを命ずる。」

 

治水が行われるという話を聞いて、村民は大いに喜んだ。

そして政秀は目録状をその村長に手渡して、

 

「明日までに100名の人工を選別したせ、して明後日、朝より庄内川の清洲橋(現・東海道新幹線鉄橋付近)に集まるよう下知する。」

 

と、言うや村長はそれを平伏して受け取った。

その様子を見て吉法師は自分の側で隊列させた新介らに、

 

「明後日、約束の工事じゃ、お前らも集まって手伝え!!」

 

と言うや、新介らは喜んで、

 

「御意!!」

 

と、既に吉法師の家来に成った風で応じた。

 

翌朝、吉法師らと那古野村の子供たちは予定通り清洲橋の治水現場に足を運んだ。

現場には那古野村からの100名の人工に50名の大工が集結していた。

工事の初日とあって監督役の役人が那古野から派遣された。

この役人には信秀の所に仕官して間もない金森長近が担当した。

金森長近は元は美濃の土岐家の家臣で、斎藤道三に土岐家が追われると、父定近と共に一度は近江に潜んでいた。

1542年18歳に成ると、当時斎藤道三と争っていた信秀に仕官したのだ。

この当時はまだ金森可近と名乗っていた。

政治的な手腕と言うより、勤勉な姿勢を政秀から評価され今回の役目を与えられたのだ。

勤勉というのも、勉学や教養の方で勘違いする人も多いだろうが、勤勉と言うのは仕事に対して忠実に学ぼうとする姿勢である。

簡単に言えば解らない事を解ろうと努力する事であり、自分の仕事がどういうものかを的確に把握する力である。

ある意味こういう人物はどんな場面でも頼れる存在と言ってもいいだろう。

 

工事を始める前に祈願をして人災が起こらないようにする事は、昭和時代にはよく見られた光景だ。

戦国の当時もこうした儀式は執り行われていたと考える。

可近は大工の棟梁らとその儀式の準備を行っていた。

そこに吉法師ら子供たちがやってきたのだ。

無論、沢彦も同行している。

吉法師は作業をするつもりで来ていた為、農民の子らと同じような格好で現れた。

それを見た大工の棟梁は、

 

「何ですか…あのガキどもは…?」

 

と、近くに居た可近に尋ねると、

可近はその子供らの方へ振り向いた。

昨日の御触れ出しの時には同行しおらず、現場で治水工事の下見をしていた可近は、吉法師が来るなどとは聞かされていなかったため、吉法師を見るや驚いて、小走りに近づきながら

 

「若!!いかが為された!!」

 

驚く可近に吉法師は

 

「工事を手伝いに来た。」

 

と、簡単に伝える。

そして可近はその後ろに控えていた沢彦を見つめて、

 

「若自ら、この様な作業を?」

 

そう聞くと、沢彦が、

 

「後学の為、邪魔に成らない程度に頼みまする。」

 

と申し訳なさそうに伝えた。

勿論、沢彦は子供が工事の手伝いなどすれば邪魔にしか成らない事は知っての事だ。

そこへ可近の後ろで話を聞いていた棟梁が、

 

「ワシらは工事が捗らんでも文句言われなきゃ、一向に構わぬが…金森さまはそれでいいだかぁ?」

 

その言葉に可近は困り果てた。

いわば自分の上司に当たる人物は平手政秀で、吉法師はその政秀を介しての存在だからだ。

いわば社長の息子であっても、重役の指示から外れれば会社員の査定として響く意味を持つ。

無論、沢彦はそういう心情も察した上で、

 

「若がここに居る事は政秀殿も承知の事、その若が居る間足手まといに成る事は仕方ないじゃろ。」

 

吉法師は沢彦の「足手まとい」という言葉にムキに成って、

 

「ワシらは足手まといなどには成らん!!」

 

と意気込むや、

棟梁はなら仕方なしという表情で、

 

「じゃあ、若殿、容赦なくコキ使わせてもらいますだが…いいだか?」

 

と、言うと吉法師は、

 

「構わぬ!!」

 

と言い切った。

 

祈願も終わり工事が開始された。

吉法師ら子供らは川べりの石拾いが作業として割り振られた。

大工たちは用意した木材を加工して堰を作る作業。

那古野村から来た人工は吉法師らと同じように石拾いと川底の地ならしである。

無論、若殿である吉法師が作業している以上、可近もこれを手伝わざるを得なかった。ある意味真面目な性格故の事だ。

子供たちは石を拾って桶に集め、大人たちがその桶を担いで仮置きの石場へ持って行く。

仮置きするのはまたその石を工事で使うからだ。

 

最初は遊び半分でやっていた単純な作業も、一時を過ぎると子供たちは飽きてくる。

飽きてくると子供たちは水を掛け合ったり、小石をぶつけ合ったりしながら遊び始めるのだ。

それを見た沢彦は、

 

「それが足手まといじゃ、遊びたいのなら手伝うのを止めてさっさと遊びに行け!!」

 

と叱ると、意外にも子供たちは素直に従い仕事に集中するのだった。

子供なりに手伝うという意識を持ったプライドなのだろう。

軽作業で重労働でなくとも寧ろ精神的に疲れは溜まってくるものだ。

この時代は今の様に10時や3時の休憩など基準に成っていない。

寧ろ昼飯を食べる時くらいしか休ませてもらえなかったとも言える。

その昼飯でさえ、食ったら作業を始めるといった感じでせかされる様な環境だ。

吉法師はこの環境を自らで体験したのだ。

 

今の政治家は勿論、官庁の職員として働いている人間でこうした作業を経験した人間がどれほどいるだろうか?

逆に今の労働基準が確立されたのは、こうした経験を得た官庁職員が労働者の気持ちに成って成立させてくれたものと言えるが、逆にそれを監督する役所に経験者が少なくなると、その労働基準の意味すら履き違えて考えるのだ。

 

沢彦が吉法師にそういう経験を得て、自ら底辺の気持ちを理解できるようにとこうした教育を施したのだ。

 

勿論、子供によってはこんな仕事は底辺のやる事だと投げ出してしまう事も有っただろう。

吉法師も内心ではそう考えた。

しかし、自分が吐いた言葉のプライドを沢彦が上手く刺激してくる故に、上手く乗せられて踏ん張るのだった。

単純といえば単純な子供であり、単純故にうつけに見える。

しかし、その単純さが寧ろ我慢という過程を得て才能を開花させていくのである。

 

作業を始めてから3日目にも成ると、吉法師はチマチマと石を拾う作業に飽き飽きしてきた。

これは作業を投げ出すという事ではない。

天才とこの小説では一括りにして語るが、

天才は天才の境地を既に会得している場合が多い。

吉法師が天才であるゆえに、孫子の兵法、「己を知り、敵を知らば百戦危うからず」という事を自然と意識できるのだ。

いわば「己を知る」こと、そして「敵は何であるか」を見極めて考えようとするのだ。

兵法ゆえに生兵法者は敵を知る=情報と勘違いしやすい。

しかし敵は常に見えている敵だけではなく、見えていない己が持つ敵も含まれるのだ。

吉法師は孫子を知っている訳ではないが、

自らが作業に飽きてしまうことに己を理解する。

そして飽きてしまい作業のペースが徐々に落ちて行くことを、

作業上の「敵」として意識した。

普通の人は「仕方のない現象」と割り切ってしまうかもしれない。

ところが吉法師はこの苦痛を改善しなければ自分が投げ出してしまいそうな感じに成ってしまう。

自らが「足手まといには成らない!!」

そう豪語してしまった事も「己を知った」部分で有り、

敵はそう言わせた沢彦であり、投げ出すことは沢彦に負けた事を意味するのだ。

そういう葛藤の中から、何か自分を保てる方法を考えざるを得ないのだ。

そうして…吉法師は三日間考えたのである。

 

どうも…ショーエイです。

本当に小説を書くのって頭を悩ませます。

どういう形で面白くその場面を表現するべきか、

様々な構成に悩まされ、

時間だけが経ってしまう。

前も話したように、この治水の話は実は端折りたいようですが、何故か端折ってはいけないという不思議なプレッシャー存在するみたいです。

ある意味、吉法師がこの作業を投げ出したいという葛藤と同じなのかも。

 

では、最近の日常の話…

オリンピック開催問題、コロナ問題、ミャンマー問題、米中関係。

色々言いたいことはありますが、

もう失敗するなら失敗させようという事しか考えられない。

馬耳東風なのは解っている分、

ヒントすら与えたくもない。

寧ろ、失敗するなら失敗してくれがヒントに成ってしまうかも知れないが、その失敗を得て各国の国民が気付けば幸いかな。

ただ運よくというケースもあるので何とも言えません。

 

特にコロナに関しては変異種が運よくそれほど脅威に成らなければ、運よくワクチン接種で終息する可能性はあるという事です。

逆に運悪ければワクチン効果が機能せずに、更に脅威を招くという危険性も。

そうなったらリーマンショック以上の不況が待っているという恐ろしい話も出てきます。

その時に成って、経済凍結をやって完全ロックダウンをやっておけば良かったと気づいても時すでに遅しなのです。

まあ、こればかりは人間のサガなので致し方ない事とは言え、判断が出来なかった事を誰のせいにも出来ないとは言えます。

 

ただ中途半端にフラフラ経済とコロナ対策で右往左往している状態は、結局そういう人たちが国の上に居るんだという印象で見ているだけです。

 

米中関係にしても、中国の対応に関しても、中国が過激化していくように世界が無用なプレッシャーを与えている事に気付いてほしい。

単純な人間の心理です。

「お前が悪い」、「お前は悪い奴」だと決めつけられて、素直にその人がそれを認めますか?

自分の権利でやっている事にそういう言い方をしても、結局相手は言った側に腹を立てるだけです。

自分が中国と同じ立場に成ったらどう考えるか?

敵を知るとはそういう心理の意味も含まれるのです。

腹を立てて、会話が噛み合わずに、喧嘩でしか解決できない状態なら相手は喧嘩に負けない様に武装するだけです。

相手がナイフを手にするなら拳銃を、相手が拳銃を手にすれば機関銃を…法律の規制の届かない戦いで、喧嘩に成って負けない様にしていくのは人間として当然の反応なのです。

この現象を知らないで外交で解決しようなんて到底間抜けな話です。

 

そういう状況で戦争に発展させて、局地戦だけで終わると思いますか?

尖閣諸島近辺の局地戦で戦争が終わると思いますか?

沖縄は確実に戦禍に巻き込まれます。

下手すれば本土にもテロやら何やらが発生します。

サイバー攻撃も、台湾も巻き込んでの戦争に成ります。

戦争に成って勝てばいいけど、勝つまでの過程で皆は犠牲になるのです。

それを守らねばと考える前に、何をもって抑止とするべきか、

それを「塾考」しなければ成らないのでは?

そういう「塾考」無しに単純に反応しているだけの状態は、うつけよりも間抜けな思考としか言いようがありません。

 

まあ、そういう意味で呆れてるだけなのです。

 

【第十六話 兵は詭道なり】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

戦の世では所詮は騙し合い、故に兵は常に臨機応変に事を構えよ。

かの武田信玄の家臣山本勘助が愛用したという孫子の名言である。

「兵は詭道なり」という言葉は、騙し合いという意味で理解されがちだが実際は計画性に捉われず、常に臨機応変で柔軟に状況を見極めねばならないという意味。

Covid19のコロナ対策で迷走する国々は、いわばこれが欠けていると言える。

 

古渡に赴いて信秀に謁見した政秀は、早速那古野の治水工事の話を伝えた。

そして、

 

「清州を説得する材料として、吉法師様は年貢の半分を与える事で交渉する案を申されましたが…大殿はどうお考えに成られますすか?」

 

信秀は政秀から吉法師の教育の為という事も伺っていた上で、その提案をしばし熟考した。

 

「清州に見す見す年貢の半分をくれてやるのは腹立たしいな…しかし、清州がそれ以外で庄内川の堰を設ける事に納得はしまい・・・」

 

信秀は迷っていた。

 

「だが…一度堰を設けて治水すれば、後の水田はある意味広げやすいか…」

 

すると政秀が、

 

「確かに…しかしあからさまにそのような事をすれば、清州は勘づき黙ってはいないのではありませぬか?」

 

「そうじゃ…問題は…今は和睦状態に有るゆえに迂闊にこちらが仕掛けるような不手際を起こせば、伊勢守が大和守の方に付きかねぬ。」

 

尾張の三角関係ともいうべき勢力バランスの話である。

いわば出る杭は打たれるとも言う話で、迂闊に他より抜きに出ようとすれば、他は連携してこれを叩こうとする。

すると信秀は何かを閃き、

 

「政秀よ…ならば、那古野に置ける水田の年貢の半分を譲る旨を念書にしてしたためよう。」

 

その言葉に政秀は、

 

「はて…吉法師さまの案をそのまま受けるのですか?」

 

それに信秀は、

 

「形式上はそうなる…が…」

 

と、留め置いて、

 

「しかし水田は増やせばいい。寧ろ倍にする」

 

「水田を1200石に増やして今は半分は清州にくれてやる。しかし一度争いと成れば別じゃ…」

 

「だから年貢を半分くれてやっても、石高が増えるなら問題ないだろう」

 

政秀はようやくここで信秀の意図を掴んだ。

 

いわば治水して水田を開発するには時間が掛かる。

素直に600石のまま開発を止めておくより、早々と可能な限り広げておく方が効率が良いのだ。

そしていざと成った際に、その広げた分を使う。

念書に年貢の半分とした以上、水田を広げても年貢の半分を差し出せば相手も文句は言えないという事。

逆に600石程度増える「見込み」と記したに留めて、相手に年貢の半分という文章にのみ焦点を当てさせれば、「見込み」より大幅に拡張できただけという事は言える。

相手が念書に承諾してしまえば、逆に虚偽した事にはならないのだ。

いわば石高を増やすことは時間が掛かるが、年貢の約束を反故にするのは一瞬である。

一度、戦と成ればそこで大きな差が生じるという事だ。

 

無論、信秀がこうした方法でこっそりと自国の水田を広げる手立てを思いついたのは、吉法師が齎した話が切っ掛けである。

そして信秀はこれを好機とばかりに事を勧める様に、更に画策を巡らせた。

 

「政秀、これから久々に那古野へ遊びに行く…吉法師に直々に話しておくことがあるでな…あと、清州へはワシが出向く、その際はそなたは供をせよ。」

 

「はっ!!御意」

 

と、政秀が言うと、

信秀はさっそく外出の準備に立ち上がり、その後政秀と共に那古野へと向かった。

 

翌日、吉法師と政秀は古渡の信秀の下を訪れた。

吉法師も元服前に成長した事も有って、

且つて信秀が通い詰めた養徳院の子供たちへの語りは披露される事はほぼ無くなった。

そうした中で政秀は普通に宴席を設けて信秀を迎え入れた。

上座に着いた信秀の隣には吉法師が座った。

その席には政秀ら那古野の家臣団の他に、沢彦も招かれていた。

 

信秀は宴が始まるや、沢彦に

 

「沢彦和尚、実に面白い教育を吉法師に施してくれてるようじゃ」

 

すると沢彦は、

 

「真に恐れ入ります」

 

というや、信秀は誤解が無い様に、

 

「真に感謝しておる。下手に紙で教えるより吉法師の為に成る。」

 

と、沢彦に頭を下げて感謝を表した。

そして信秀は吉法師の頭を撫でながら、

吉法師に向かって、

 

「吉法師よ、和尚の師事でよく遊んで、よく学ぶがいい」

 

と、言うと、吉法師は

 

「御意」

 

と返事した。

更に信秀は、

 

「良いか”能ある鷹は爪を隠す”という言葉を覚えておけ、そして治水の話はワシが上手く纏めてやるぞ、安心せい。」

 

「有難き幸せ。」

 

と礼儀正しく、言うと、

信秀は、

 

「お前の話の通り租税の半分を清州にくれてやるわ、その分治水で600石とは言わずに石高を好きなだけ増やして見せよ」

 

まだ少年の吉法師には直ぐにはその意図を理解できなかった。

さらに信秀は、

 

「よいか…目先の利益だけを追うな!!武士(もののふ)とは大局に備えて強かにすることも肝心じゃぞ。」

 

と、伝えると、

吉法師は信秀に、

 

「是非、その話を詳しくお聞かせ願えますか?」

 

と解説を求めたが、

信秀は、

 

「それでは面白くない。寧ろ、そなたの力でこの父を驚かせてみよ。」

 

と、吉法師に自らで考えるように促した。

吉法師はそう言われると、その言葉に寧ろ奮い立った。

実際にこの時期の吉法師は他人が出す答えに興味を持っていない。

寧ろ会話の流れとしてそう聞いただけだ。

ある意味可愛げが無いとも言えるが、

相手が何も言わないのなら、勝手に自分で想像する事を許されたと考える。

 

そして信秀は、父として我が子を愛しむ様に頭を撫でながら、

 

「お前は自由に遊べ、遊びながら学べ…」

 

というと吉法師の顔を見つめながら、

 

「よいかワシはお前を信じる、そなたもワシを信じて、何があっても動じるな。そしてこの父のやり方を学んで見よ」

 

と、言い聞かせるように語った。

父親として信秀は自分と同じように

吉法師が自分で答えを見つけ出そうとすることを期待した。

親子故に解り合える共通の思考と言うのか、

吉法師の成長を陰で見守った父親ゆえに理解していた事なのか、

ただ答えを与えるのでは無く、考えさせることに徹したのだ。

 

その日信秀は那古野で一泊するや、

翌朝政秀と共に清州へ向かった。

 

名目上は守護の斯波義統に治水の許諾を求める形であったが、

そこに大和守家の織田達勝も同席した事は言うまでもない。

勿論のこと達勝はこの話を渋ったが、

信秀が吉法師の後学の為に是非と嘆願した上で、

租税の半分は清州に渡すという事を

守護斯波義統の下で誓約したため、達勝も承知した。

また、治水の為に嵩上げする堰の場所も清州と那古野の間とすることで、清州側もその堰を利用できるという利点も盛り込んでいた。

いわば現代の庄内川に掛かる東海道新幹線鉄橋辺りに堰を設ける形で合意したのだ。

達勝として見れば、信秀が那古野の治水でどれだけ水田を増やそうが、誓約通り租税の半分が保証されるなら言い逃れは出来ないと踏んでいた。

無論、信秀が自らのそのずる賢さを封じる形で誓約したのだから、我が子可愛さに嘆願しに来たのだとも考えた。

達勝は内心

 

(嫡男の後学の為にとは、所詮は信秀も人の子か…)

 

と、寧ろ信秀には特別な戦略性は無いだろうと考えた。

 

常識に捉われる者は、非常識が起こるとは想定しない。

いわば常識では租税は7割取るのが当たり前で、

7割の租税を取らない事業など無意味で利が無いと考える。

また、自らに利の有る話ゆえに

人は希望的観測に陥りやすくなる。

 

達勝も愚か者ではない。

故に信秀に何らかの戦略的算段があるのならと考える。

その意味では、庄内川は弾正忠家の領内に川上がある為、清州に伺いを立てることなく治水するだけならそこから引けたのだ。

現代の名古屋城の堀に繋がる堀川は、清州との間よりもっと北東の位置から繋がっている。

いわば自国の領土の治水で考えるなら寧ろその辺りから引いた方が良いのだ。

無論、清州はそれを認める事は無い。

寧ろそこよりも庄内川の川下に位置する清洲領の水を握られてしまうからだ。

そうした争いの種を避けての交渉だった故に、寧ろ単なる親心として理解した。

領主として治水事業に参加させることで、嫡男吉法師の領国経営を補足する為だろうと考えた。

それに協力する意味で租税の半分を上納する形に成るのなら、達勝としても悪い話では無いのだ。

さらには大和守家と弾正忠家は和睦した状態にあって、守護斯波義統の下で尾張国内は現状纏まっている状態とも考えれた。

そういう意味で主従の礼を尽くして嘆願した信秀の申し出を無碍にすることも出来ないと判断したのだろう。

 

後にこの大和守家は信長に滅ぼされる事に成る為、

その結果だけを知ってしまえば、

達勝の決断は弾正忠家に力を与えた暗愚なものに見えてしまうかもしれない。

事実は小説より奇なりというのは、

結局小説の結果から、敗者=愚者としてしまう為、

敗者側の思考を雑に描いてしまうからだ。

そういう意味で達勝の決断を考えて見れば、

尾張国内を纏めるという名目で思考した場合は、

信秀の嘆願を受け入れた姿勢は寧ろ英断であったとも言える。

 

暴れ馬の様な信秀を寧ろ三河、今川への備えとして支援すると考えるなら、尾張という国で考えた場合、妥当でもあり、

斯波義統の下で主従の関係を維持しているのなら、

大事な家臣団の一人と見なすのも当然である。

 

結果として寧ろ達勝の時代に以後信秀が清州へ攻め入る事態は発生しておらず、三河、今川と対峙する最前線に立って戦っている。

更にはこの時期1546年前後は、尾張が総力を挙げて美濃の斎藤道三と争っていた時期でもあり、遡って2年前の1544年に信秀は大垣城を奪い取っている。

無論こうした戦功も有って弾正忠家は他の尾張織田家から警戒されていたのも事実だが、最有力の家臣として一目置かねば成らない存在だったとも言える。

 

様々な疑念が生じて尾張国内で小競り合いを起こすことはあっても、信秀が斯波家や大和守家を打倒するような謀叛を起こさなかった事から、主家に対しての忠義はそこそこに読み取れる。

そういう意味でも信秀は尾張国内の一家臣団であることを弁えている。

如何に力を持っていようともこうした家臣を使いこなそうと考える事は英断で、寧ろ達勝の後継者織田信友の様にこれを排斥しようと画策する方が暗愚と言えるのだ。

 

こうした流れの中で、吉法師と那古野村の悪ガキとの間で交わされた約束事はようやく実を結ぶことと成った。

そしてそこからひと月も経たないうちに人工も用意されて、庄内川の堰止め工事が開始された。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

更新のペースが遅くなって申し訳ないです。

最低でも月2話のペースで頑張る予定です。

是非、お待ちください。

 

さて…世の中の事ですが…

接待の問題やら、議員同士の大人数での会食を問題視するのは当然ですが、

夜の街に出かけた事は寧ろ問題視する方がおかしいです。

 

知り合いからコロナ問題で経営が大変だから、

何とか遊びに来てくれと頼まれて、

「問題に成るから行けない」

と断れる人を信用しますか?

 

自分の身の安全しか考えていない人にしか映らないです。

寧ろ、「大変そうだから助ける」

という気持の方を大事にするべきなんじゃないのかな?

 

正直、日本人は人情人情と言うけど、

全く人情を理解していない人が多いのでは?

加藤浩二氏はこの人情を批難したらしいけど、

人情解って無いのかな?

失望したよ!!

口だけのキレイごとか?

 

基本、政治家であっても芸能人であっても、

プライベートは尊重されるべき。

一般人も会社の外に出たら会社の規制に縛られるのは、

ある意味奴隷と同じ。

一歩、就業時間を過ぎたら、そこは一個人である。

 

勿論、政治家だからコロナ対策に従順に従うべきという見解は理解はするけど、政治活動ではないのならそこは自己判断で良いと思う。

無論、それが報道される事は仕方ありません。

公人なのだから…

でも、その行動がプライベートの範疇なら、基本的に社会は問題視するべきではない。罰則なんて以ての外。

ただし、その有権者が次の選挙でどう判断するかは、

その選挙区の人たちの判断に任せるべきです。

 

ただ、日本の政治家にこうした民主制に於ける個人の権利を適切に説明できる人間が居ないのは残念です。

結局、社会の目の流れに合わせて同調するしか能の無い人ばかりという事ですよね。

 

でも、よく考えて見て下さい。

友達を平気で見捨てる奴を信用しますか?

それともどうしても見捨てられなかったという心意気を評価しますか?

苦境に立たされた友達を見捨てられず断れなかったという人の方が、

人情あると思うけど…

逆にそれを理解もせずにルール違反と処分するだけの脳みそ程、ゴミ人間なんじゃないのかな…

ゴミ人間の上司(総理や幹事長クラス)が部下の議員の話に耳を傾けると思いますか?

友人の苦境を打開するには議員としてそれ相応の地位も居るし、発言権だってあるかどうかも解らない現実。

そういう中でその人が出来る限界と言うのもあるのです。

その限界をよく考えれば理解できるはずなのに、

そういう限界を考えてあげもせずに、ただ単にルール違反だからと非難できる社会って・・・日本人として誇れますか!!?

まあ、知らんけど…

【第十五話 誤算】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は熱田の加藤家から出資を受けて治水工事の費用は捻出できることに成ったが、まだまだ問題はあった。

前述の通り、清州との境界に流れる庄内川を利用するなら、清州の承諾も得ねばならなかった。

とりあえず熱田を後にした吉法師らは再び那古野の政秀の下に帰った。

そして資金捻出の報告をすると、

政秀は、

 

「若、今回は勉学という名目で致し方ありませんが…」

 

と、前置きして、

 

「治水で今回は600石増えるとして税はその7割で…」

 

税率7割とはとんでもないように思える。

秀吉の時代に太閤検地が行われた際の税率が66%であったというから、当時としては当たり前だ。

現代でこそ白米を炊いて食卓に上げるのは当たり前な話だが、戦国時代は基本麦飯である。

米は武家が食する物で農民は麦飯という感じであった。

麦飯の中に3割でも白米が混ざっているなら贅沢品だったといえよう。

とは言え米はある意味高級品であった為、税の残りの3割でも他の作物に比べれば高く売れたと言える。

 

現代で水田を持つ農家の生産量がおおよそ平均で15石位で、今の様に効率化された技術の無かった時代ではせめて7~10石位であったと推測する。

10石生産出来たとして、7石が租税で、3石分が農家の取り分である。

3石では3人が一年食べる量で、1農家の家族構成は2世帯として考えてもの5~10人で、3石では食うに足りない。

しかし水田の3石分であれば10石分の小麦や大麦を買うのに十分な量であったと考える。

 

では、1反=1石で、10石分の10反がどれ位の広さだったか…

先にも話したようにサッカーフィールドの広さで約6反位。

そう考えると大体陸上競技場のトラックを含めたフィールド内が当時の1農家が生産できる範囲だったといえる。

 

ただし現代の様に農業は個人経営が出来るものでは無い。

いわば村単位で農業生産の企業という形に成っていると考えた方が良いだろう。

その村の社長は村長ではなく領主である。

租税7割という形に成っているが、寧ろ村全体の生産量の3割が村民への給与と考えた方が解りやすい。

五公五民という言葉もあるが、税率50%は理想で有り、寧ろ太閤検地で66%であった点から逆算すれば7~8割の租税が普通であっと考えた方が良さそうだ。

そうした中で後の信長は33%位の租税に減税しているという記録もある。

 

農業は村単位の共同作業であったと考える。

那古野村の様に庄内川から水を引かなければ水田が作れない場所では、寧ろ小麦や大麦の栽培が中心で、大豆や野菜などと合わせて一年中何かが採れる状態で賄っていたと言える。

鮮度や旬が大事な作物はほぼ毎日かまたは最低でも毎週納税されなければ成らない。

納税という良いかたといより生産物を納品すると言った方が解りやすい。

米とは違い、保存が効かないこれらの品物に対しては納税率は収穫物の半分であったとする可能性も考えられる。

 

とは言え半分でも恐らく村全体で分けて食べるにギリギリだったとも考えられ、畑作農家は米農家に比べてかなり貧しかったとも言える。

それ故に那古野村の農民たちは水田が少しでも欲しかったのだろう。

 

政秀は租税の話をつづけた。

 

「年貢として得られるのは420石ですな…」

 

政秀の講釈はまだ続く

 

「1石が大人一人の一年分の食料の値である事はご存知ですね。」

 

吉法師は

 

「ああ、それは習ったから理解している。420石も有れば、420の兵が雇えることに成るのだな…」

 

と、答えると

 

「まあ、420の兵の食料は得られますが、兵が420増えるわけでは有りません。誰でも簡単に武家に成れるという訳では無いので。」

 

と説明し、

 

「ただし戦に成った際に、一年なら420名、半年なら840名の兵は徴兵できます。」

 

更に政秀は、

 

「那古野村にはおおよそ500戸あり、一戸に老若男女が6,7名は住んでおり、3000人が暮らす村です。しかしそれでも兵として徴収できるものは恐らく500か600が限界。いわば石高が420増えたとしても兵の数は増えるわけではないのです。

 

政秀の講釈に吉法師は疑問を感じた。

そして、

 

「では、何が問題なのだ?」

 

と聞くと、

政秀は、

 

「600石の水田を新たに得るという事は、その見た目の石高では弾正忠家の兵が420名増えた様に見えるのです。清州の大和守家とは色々とあってそれをやすやすと認めるとは思えぬという話です。」

 

大人の駆け引きとは、対抗心の有る中では自分が得しても相手が得をすることは許せない。寧ろ自分だけが得をしたいという力が働く。

少年吉法師にはまだそんな面倒な駆け引きは解らない。

寧ろ純粋にお互いが得するなら良いのではという考えだ。

 

「そういう事なら清州も同じ堰(セキ)から…」

 

前に話したのと同じことを言う前に政秀は、

 

「それは考え申したが、420石は大きいのです。」

 

現代人の感覚で420人兵が増えるというのは微々たるものに思えるかもしれない。

しかし、後に尾張を統一して今川と戦う際に5000の兵を集めるのに苦戦した時代である。

まだ、織田家としても伊勢守、大和守、弾正忠家と分かれて睨み合う状態では、420といういう数値は些か侮れない。

無論、兵数が420名増加する訳ではない点は先にも述べたが、見た目の許容量がそれだけ増えるのだ。

 

そこで吉法師は、

 

「成らば年貢の半分を清州に与えてやれば良い。」

 

吉法師からすれば那古野村での約束さえ守れれば良かった。

自分が優秀だと証明するような考えは寧ろないため、面子だけの話なのだ。

政秀は吉法師の言葉に迷った。

いわば沢彦が言う様に、

勉学の為に治水とはどういうものかを知る機会とするなら、それでも良いと思うのだが、弾正忠家の戦略上の都合で考えるなら清州にそれをタダでくれてやるという話は問題にも感じるのであった。

そこで政秀は、

 

「その件に関しては大殿(信秀)に相談してからにします故、しばし我慢なされよ。」

 

と、吉法師に伝え、

 

「自らの面子を保つために利を捨てるというのは愚者の考えですぞ、以後は決して為されない様に。」

 

とも釘を刺した。

吉法師の考え方は実際には子供らしい発想なのだ。

政秀が言う様に、子供の発想で面子を保てれば何でも良いという事を本来は許すわけにはいかないだろう。

普通の大人ならそう考える。

しかし、失敗を踏まえて何かを学べるのならと考えると、寧ろ興味深いと感じた。それは沢彦がそこで何かを教えるのだろうという期待もあったからである。

政秀は吉法師に釘を刺しておいて、その沢彦の顔を見た。

沢彦は「大丈夫」という表情で政秀にうなづいた。

そして政秀はそのまま席を立って、信秀の居る古渡へと向かった。

 

吉法師が信長へと成長していく過程で多くの大人が係わることに成る。

そうした大人たちの知識や知恵、そして悪知恵に至るまでを吸収する事でその才能を開花させていくのである。

特に吉法師であり信長という人物は、自分勝手が許されたことで早い段階で覚醒を迎えるのだが…

常識から逸脱した奇行でも有った事から、その代償に家中を纏めるのに苦戦した事は言うまでもない。

しかしこの治水工事というイベントが後の信長の治世の礎を築く大きな糧と成る事をしばらくを費やして伝えて行くものとする。

無論、これは史実には記載も無い出来事であるが、信長の発想の原点を探る上で必ず無くては成らないものという観点で重要視する者である。

いわば、天才と言っても人間であり、発想に基づく切っ掛けを経験の中で会得せねば、決してその発想には結びつかないのである。

長い人生で苦悩を重ねれば、何れは発想するだろうとは言えるが、早い段階で知恵を得る機会に恵まれたのなら、その発想はそれだけ早く生まれる。

エジソンの言う1%閃きが早ければ早いほど、99%の努力をする時間はそれだけ長く費やせるということである。

その中で成功と失敗を繰り返せる体力、いわば資金力であり研究費に恵まれていれば完成に近づくことはそれだけ早く齎されるのである。

信長はそのいずれにも恵まれていた。

同じように他の人間も恵まれていたなら、その人間が信長の様な才覚を発揮したかもしれない。

それ故にそれを得られた定めは天命なのである。

天命の有無は天寿を経て知りうる所であり、人は決してそれを諦めるべきでは無いという事は伝えておこう。

 

古渡へ向かった政秀は、学問に興味を持たない吉法師が寧ろ実践的な学びに興味を示している事に些か安堵した。

面子の為とは言え、これを期に領主として政治に興味を持ってもらえればと何とか成就させたいと考えていたのであろう。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

今日は愚痴を言うのも呆れている現状に愚痴を言うだけで終わります。

 

さて、今回の話で出てきた麦飯。

実際に100%麦飯を皆で食べてみたわけですが…

実に不味いです。

モチ麦と品種改良されたものでも100%はキツイ。

でも、戦国時代の農民はこれを食べて飢えをしのいでいたんだと思うばかりです。

確かに3麦:米7なら食べれて、モチ麦の食感はちょっと新鮮と言えます。

でも、ほぼ毎日100%の麦飯で米の飯食べたら、確かに麦飯は食えなくなる。

如何に米が美味しいのかを痛感した感じです。

 

ところが麦飯、米ほどの量を食べなくてもお腹一杯になることには気づきました。

オッサン先生はビールを飲むとお腹が膨れて量を飲めないと言ってますが、麦にはそういう効果があるようです。

実際、炊く前は米粒と同じ大きさなのですが、米より水分多めで炊くので大きさは米の倍に膨れ上がります。

不味いけど飢えをしのぐには最適だという点には気づきました。

 

麦飯以外にどんな食べ方があるかを色々考えた所、

もう一つは小麦粉で作るうどんかな。

うどんと言っても細長いうどんではなく、多分小麦粉を水で練り込んで、塊にしたものを刃物で削って茹で上げる食べ方なのかな…

 

よくいう刀切麺というやつ。

何れにしても米を食べれない粗食という位置づけなので、美味しいとは思えないが今度作ってみます。

 

因みに麦飯…小豆と混ぜて赤飯みたいにすると美味しいかもとは思います。

また麦飯には塩気が欲しいと感じるので、

お漬物などと食べると意外と100%でも食べれる気はします。

 

それでもやっぱり米は美味しんのだな痛感します。

 

日本は米食だと歴史の時間に教わっていますが、

那古野の地形を見ている内に安土の話と同じで

水源は何処?

という疑問が生じたのです。

そもそも現代並みに米が溢れているのなら、

麦飯なんてものは存在していなかったはずなのです。

現代の名古屋城の堀は江戸時代以降のものであると考えたなら

他に川らしい川は存在しない訳です。

そんな状態でどうやって水田を作るのか?

明治に入った状態でも、貧しい人は麦を食べていた位なので、

戦国の世では

ほぼ農民は麦飯といった麦食であったのは

間違いないでしょう。

 

そう考えるなら米は戦に出た際のご褒美としての位置づけは

十分に有りうる話に成ってきます。

 

麦飯を食べて確かに米食べれるなら

戦場に行くのも有かなと感じた次第です。

 

現代は何とも恵まれた時代かな…

そりゃ平和ボケした老害もたくさん出てくるのも仕方ないのかな…

日本に限らず…アメリカのトランプみたいなのも含む話で。

【第十四話 紙一重】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

馬鹿と天才は紙一重と言われるが、

一般的には馬鹿に成るか天才に成るかは

紙一重で解らないという意味で理解されているだろう。

しかしそれは大きな間違いであると言える。

簡単な話、現代風に言えば理系と文系ではものの見方が根本的に違う点である。

1万円札の福沢諭吉の名言

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」

 

これを文系の人は、先ず人類皆平等という意味で理解し感動する。

皮肉屋の意見だと、この言葉が「学問のすすめ」からきている事から、

学問の機会は平等に有るべきで、結果勉強したものが勝つのだという意味で資本主義の基礎を説いたと伝える人も居るわけだ。

文系の人は、こうした解説を読んで「成程一理ある」と言った感じで納得するだろうし、根拠なくそうではないと否定するかもしれない。

 

では理系というか論理的な思考で見ると…

先ずは言葉上の矛盾に気分を害し、何故その言葉を用いたのかを深く追求してしまうのだ。

勉強したモノ勝ちという意味に成るなら、勉強したものが人の上に立つという意味で、根本から「天は人の上に人を造らず」という意味から逸れてしまう。

福沢諭吉を軽視して、こいつの言葉は矛盾だらけとしてしまえば、それはそれで終わりな話になる。

しかし、福沢諭吉を軽視せずに矛盾が生じる言葉の意味をさらに追求すると…

実は資本主義の話では無く、寧ろ民主制における個人の権利を説いた意味なのではと解釈できてくる。

その個人の権利を守るために学びなさい、でなければ貴方の権利は守られず権力に使われるだけの存在にしか成らない。

と、言う意味で理解すれば言葉の意味と「学問のすすめ」の意味は合致する。

恐らく「学問のすすめ」で伝えたかった本意はそこに在るのでは…

ただしこれが否定されるなら合理主義者は、

成らば福沢諭吉の言葉には何の価値も無くなると結論付けるだけなのだ。それ以上の議論も無駄。合理性が無い。で、終わり。

 

天才は合理的な意味で通じるなら受け入れるが、非合理になった時点で「無意味」と捨て去ってしまう。

一般的には福沢諭吉の言葉だから「正しい」のだと、どの様な解釈も受け入れてしまうのだろう。両方の解釈を採用して十人十色でその感性も異なるという形にして綺麗に纏めようとする。

結果、天才からすれば合理性の欠けた矛盾した言葉に成るから意味不明と切り捨てるのに対して、一般的にはそれを無礼な行為と咎めて理解しようとしない事をバカにするだろう。

 

吉法師が勉強に興味を持たなかったのは、こうした「無意味な学問」に成ってしまう話を強要されるからで、それを受け付けない故にうつけとされたのも事実だ。

ただ、勉強をしないのは本当に動物的な本能だけで生きて行くタイプと同じ行動にも成るゆえに一般的な見識でその心を判別するのは難しいとも言える。

 

沢彦の誘導もあって、農民の子らと領主である証明として治水工事を行う約束をした吉法師は、その沢彦と共に守役であり那古野城の実質的な賄い頭である平手政秀の下を訪れた。

吉法師は城主として那古野村の石高を高める為に治水工事を行うとだけ説明した。

ある意味、突拍子もない言い方である。

その後、沢彦から事の経緯を聞かされた政秀は、

 

「その様な話で治水工事を行うとは、それこそ城主としての我がままでしか有りませぬぞ!!」

 

と、吉法師は政秀から叱責を食らった。

 

那古野村に水を引くには、当時の地形でも清州との境界にある庄内川から治水せねばならなかった。

現代のゲームの様に簡単に水を引ける話でも無かったのも事実で、濃尾平野と言われるほど平地であった那古野に水道を造るのに約3キロ、また庄内川の水かさをそれなりに上げなければ、農地まで水が届くことは無いとも言えるだろう。

いわば川の水位は農地が存在する平地より低い所流れていたと想定でき、その水を農地に持って行くにはその水位より低くなるほど掘り下げるか、水路の手前に堰を設けて水位を挙げた上で流す必要性があったと言える。

そんな工事を簡単に出来るはずも無く、ましてや主家筋となる清州が簡単に認めるとも思えなかった。

そうした説明を政秀は吉法師にした。

無論、教育係として沢彦が「水は高いとこから低い所に流れるもの」

だという補足の説明をした上で、吉法師はその話を理解した。

 

そして政秀は、

 

「若は、今の話を理解したのですか?」

 

と、吉法師に聞くや、

吉法師は、

 

「理解した。」

 

と、言い放ち、

 

「成らば清州が納得するようにすれば良いのであろう」

 

と、切り返した。

これに政秀は、

 

「どう清州が納得するのですか?弾正忠家の石高が増える話を快くは思ってくれませぬぞ…」

 

すると吉法師は

 

「ならば清州にも堰(セキ)で止めた水を分けてやれば良いのではないか?」

 

吉法師は続けて、

 

「清州も同じ条件で石高が上がるのなら、その堰を設ける話は双方が利する話になるのだろう。」

 

と、問いかけた。

戦略的な視点で考えていた政秀は吉法師の発想に驚いた。

寧ろ、大人になれば成程、こうした大人の事情が絡んできて、現代風にいう「WinWin」な考えは中々思いつかない。

いわば自分たちが相手より優位に成る事に固執してしまう。

ある意味、自分たちの領地の石高を高めて、相手の石高は現状維持にすることが出来るなら有利に慣れるという話だ。

しかし、あからさまな行動だと相手がそれを警戒する。

ただでさえ津島や熱田を押さえて経済的に優位に立つ弾正忠家が石高でも更なる力を付ける事は警戒されるだろうと政秀は考えていたのだ。

そうした視点より何も知らない子供の方が得策を唱える場合も有るのだ。

無論、清州がその流れに簡単に乗る保証はない。

寧ろ「WInWin」という発想より、弾正忠家がより力を付ける話に感じられないとも言えないのだ。

しかし政秀は吉法師の言葉で、その交渉を進められる可能性は見いだせた。

そこで政秀はあえて更なる課題を吉法師に与えた。

 

「では、その工事の原資はどうされるのじゃ?」

 

原資とはいわば資金のことである。

無論、吉法師は原資という言葉を知らないが、

沢彦が、

 

「原資とはお金の事じゃ」

 

と、また説明した。

どれだけ天才肌であっても何でも発想で乗り切れるわけではない。

寧ろ、

 

「那古野の城の金でやれば良い」

 

と、子供らしく言い放つ。

すると政秀は、

 

「城にはその為の資金は用意ありませぬぞ・・・戦でも起こったら負けてしまいます。」

 

と、吉法師にも解りやすく説明した。

無論、現代人の様に「働く」なんて発想は思いも付かない。

政秀に資金の事で拒まれては、吉法師は打つ手なしであった。

ところが沢彦はこの話の流れを面白いと感じた。

 

「政秀殿。若に少し時を下され…金の作り方を色々教える機会にしてみたいでのう。」

 

その言葉に政秀は

 

「成程…では、若、沢彦殿としばし相談なされよ」

 

と、言って席を立った。

 

如何に天才と言えども、知識の無い所からは発想は生まれない。

知識は学問のみならず経験や観察力によって得る事も出来る。

しかし既に存在する知識ならば教わる方が何倍も速い。

いわば学ぶという事は本来そういう意味で教わるものだ。

吉法師は今、必要に迫られた状態で沢彦から世の中の経済を学ぶことと成る。

ただし吉法師のそれは天運に恵まれ沢彦という、いわば家庭教師を得れたにすぎない。

もしそれが無いのなら、吉法師、後の信長はもっと長い時を費やして、さまざまな事を経験しなければ才能を開花できなかったと言える。

 

沢彦は吉法師に、

 

「さて、どうやって金を作る?」

 

と、あえて漠然とした質問をした。

吉法師は少し考えた。

沢彦はこうして考えて色々な発想をあえて思い浮かばせるのだ。

すると吉法師は、

 

「城にある名品を売って金には出来ないか?」

 

すると、沢彦はその答えに目をつぶって暫くの時を得てから、

 

「うぅむ…成らば熱田にでも行って知恵を拝借してみますか?無論、しろの名品を売るというのは最終手段で、それ以外に何かやり方があるやも知れん。」

 

すると吉法師は、

 

「ならば弥三郎の親父殿(加藤左衛門)に会いに行こう。」

 

弥三郎は熱田の加藤家次男という事は以前紹介していた人物で、武家見習いとして那古野に入って吉法師と共に学び、悪童の仲間として活動してる一人だ。

それに対して沢彦は、

 

「では、悪童全員で熱田に行きまするか」

 

と言い、準備を整えた後日、熱田へと向かった。

以前熱田を訪れた際は、実に物々しい状態であったが、吉法師が愛馬「たま」こと「天翔」に跨って動けるように成ってからはかなり自由に

成った。

それでもその陰で河尻秀隆や佐久間信盛が動いていた事には変わりはないのだが、馬を飛ばして行けば熱田までの5,6キロの距離はさほど遠くない。

現代競馬の天皇賞・春が3200m(3.2キロ)ほどあり、その勝ちタイムは3分20秒位で、そこから逆算しても10分程度で行ける距離と考えてもいい場所に成る。

 

沢彦は前もって左衛門に予定を取り付けた上で、直ぐに会えるとの返事であったため、早速熱田へ行くことが適った。

 

吉法師らは熱田へ到着するや、以前信秀がやったとき同様に、熱田神宮東門に馬を止めて、本殿を参拝した。

本殿を参拝するや悪童の仲間、千秋季忠の父親がここの宮司としてこれを出迎えた。

これに悪童ではなく礼儀正しい作法で対処した吉法師を見て、他の悪童たちもそれにならった。

以前熱田に訪問した際、学んだことがこういう場面で活きてくるのだ。

それは熱田の加藤左衛門が出迎えた際も同じである。

吉法師は大人の儀礼を見事に酌み交わして、初めての経験と成る他の悪童に手本を示したのだ。

そうした手本を示せることで、単なる肩書だけのリーダーでは無く、

リーダーシップを示せるリーダーとして意識させることが適うのだ。

そしてこうした事で他の悪童たちは吉法師に本心から敬意を払えるように成る。

 

現代社会でも同じである。

リーダーとは英語で「LEADER」で、「LEAD」する者を意味する位は知っていると思う。

ただ、「LEAD]するという言葉は、スポーツの先行するという意味では無く、「導く」という意味に成る。

これを理解していても、リーダーであるという「先行」の意識が働いて、「導く」が出来ない人間が多くいるのも事実だ。

 

ここで吉法師はただ単に父・信秀より教わった作法を他のものに示したに過ぎない。

しかし、その作法は堂々としており、流暢に見えれば見える程、他の者たちに感銘と尊敬を与えるのである。

また普段の粗暴な吉法師とのギャップも彼らを驚かせた要因と成った。

他の者たちはそんな吉法師に習ってタジタジながらも作法に従った。

無論、加藤弥三郎や千秋季忠は吉法師同様に慣れた感じで応対できたのだが、それでも吉法師の堂々とした振る舞いに敬意をいだくのだった。

 

リーダーとは口先で知識をひけらかすだけの者では務まらない。

行動で示せる者が適正なのだ。

自らを他人への手本として示すことで、他人は感銘を受けてそれに習おうと意識する。

口先で指示するだけの人間は、ただ単に権限に従わせているにすぎず、人は表面でしか受け入れない事を知るべきなのだ。

寧ろ行動で示せるリーダーは他人が自分に従ったり、尊敬を求めるような意識は持たず、部下がミスした場合それをサポートする事に自然務めてくれる。故に自然とリーダー性への敬意が持たれるのである。

 

長いものに巻かれる日本社会では、こうしたリーダーが評価されにくいのも事実で、忖度、媚び諂いの中で権限だけが先行してしまうのは本当に残念な話だ。

結局、外交上の対等な場に成ると相手に太刀打ちできなくなる。

いわば世界をリードできる人材がその立場にないこの国が世界をリードできるはずが無いという事だ。

故に失墜していくのだ。

戦国の世で失意していく国は、結局リーダー性の欠如が齎した結果とも言えるだろう。

 

熱田の加藤左衛門はあれから少し成長した吉法師に、

 

「しばらくお会いせぬうちに、随分とたくましく成られたようですな。」

 

「あれから剣技なども習い、今では馬も乗りこなせるように成り申した。」

 

「なるほど…どうりで武士らしい面構えに成られた訳ですな。」

 

そう談話をしながら左衛門は交渉用の座敷へと案内した。

左衛門は城主であり客人である吉法師を上座に座らせて、自身と他の者は下座で連座するように計らった。

すると同席したした沢彦が、

 

「左衛門殿、こたびは商いを学びに伺った故に、この様な配置は好ましくありませぬ。皆下座にて対面する様にお願いできませぬか?」

 

すると左衛門は上座に案内した吉法師を見た。

吉法師もその目線を察してか、

 

「左衛門殿、構わぬぞそのようにお願い申す。」

 

と、礼儀正しく答えた。

吉法師は案内されるがままに上座に座ろうとしただけで、別段そこに拘りを持っていなかった。

すると下座で縁側よりの入り口側に左衛門が座り、その奥側に吉法師ら客人を座らせて交渉の席を取り繕った。

そして左衛門は、

 

「交渉の席で有るなら、この様な形が望ましく双方が対等であるという形に成りまする。」

 

と、説明した。

すると吉法師は、

 

「入り口側が家主に成るのか?」

 

と質問した。

吉法師は好奇心旺盛でこう質問するのではない。

吉法師は合理的に理解しておかないと忘れるから合理的な意味を知りたいのだ。

いわばこういう配置が当然だから覚えろでは忘れてしまうのだ。

ある意味、右と左がどっちだか解らなくなる。

また場合によっては上座と下座で交渉する場合もあり、日本では馴染みのない英国式の円卓のような形もある。

どういう場面で使い分けるかをハッキリさせる意味で理屈が欲しいのだ。

様々なケース様々な方式を覚えるのに、こういう場面ではこうだからと記憶していくのは面倒くさい。いわばそれを覚えるのに暗記する時間が無駄という話に成るのだ。

天才ゆえの思考と思われがちだが、基本海外の学生はよく質問する。合理的な理解に成れたものはその方が効率良いと理解しているのだ。

単純に理屈で理解すれば、忘れても道理で思い出せるので簡単なのだ。

いわば、「こういう場面だからこういう理由で使えば失礼は無い」という理解で同じことが思い浮かぶように成る訳だ。

 

吉法師の質問に左衛門は、

 

「入り口側が家主である方が理想です。何故なら襲撃が有った際に最初に切り殺されるのは入り口側で、客人はしばし身構える猶予が出来るという配置に成ります。」

 

すると吉法師はその座敷の下座側の引き戸を差して、

 

「そこから襲撃されたら対等…いや寧ろ家主が縁側に逃げやすくとなるという事か?」

 

と、更に質問した。

この質問には左衛門も驚いた。

優秀な商人は柔軟に話を理解できる。いわば合理的だ。

故に自分が気付かなかった事を気付かされた時は、素直に受け入れるのだ。合理的でない者は矛盾してでもそれに対抗してしまう事はよくある話で、そういう矛盾で対抗する人間なら吉法師は信用しない。

左衛門は、

 

「確かにそう成りますな…」

 

と、吉法師の質問に大いに笑いながら、

 

「では、家主の特権という事で縁側に逃げ道を設ける為としましょう。逆に客人に失礼な話に成りますが」

 

吉法師はこういう素直な回答が好きだ。

それと同時にこの天才少年は上座と下座の配置も戦略的に理解するのだった。

上座の側に小姓を置き、下座の両端に家臣を、そして客人を真ん中に座らせるのは、上座の主が守られるための配置であると。

そしてそういう仕来りから通例の常識は自分の身を案じて考えても良いという事でも理解する。

もし左衛門が合理的では無く、通例の常識だからと回答するなら、吉法師はそんな話は受け入れないだろう。そしてその通例の常識を受け入れない故に「うつけ」とされるだろう。

紙一重とはこういう話でもあるのだ。

 

左衛門はいよいよ本題の話へと切り替えた。

 

「して、本日はいかようなお話を?」

 

すると吉法師は、

 

「庄内川より那古野の村に水を引くため資金が欲しい。どうすれば良いのか?」

 

すると沢彦は礼儀に関して口を挟む。

 

「若、教えを乞うのなら、どうすれば良いか教えていただきたく、とする事でより相手の知恵を引き出しやすくなるのですぞ。」

 

と、言うと吉法師は素直に、

 

「どうすれば良いか教えていただきたく思いまする。」

 

と訂正した。

吉法師が政秀と異なり沢彦の話に耳を貸しやすいのは、実は沢彦が

「知恵を引き出しやすくなる」という「利」の話で語るからである。

逆に「相手に失礼だ」という言い方に成ると、「何が失礼なのか?」と人間は反発心を抱くのだ。現代のネット上ではこういう事でぶつかり合う事が多く、結果、「失礼」とは誰に対してに成ってくる。

人間対等なら「礼」は不要である。そう考えて礼を用いなかった者が失礼なら、それを指摘する方も失礼。礼を意識して考える側も失礼に値するのだ。

礼はあくまで相手に敬意を与えてその敬意から生じる「利」を説かねば、礼を払っても礼を受け入れずに交渉を閉ざす側は更に「失礼」に成るのだ。

「礼」に心など求めるものでは無い、「礼」を以て「礼」で返すことで初めて作法として成立するのだ。

そういう意味で左衛門はこう切り返した。

 

「若輩ながら、私でお力に成れる事なら何なりとご協力させて頂きます。」

 

と、丁寧に伝えた。

そうした中で吉法師は那古野の村に治水を行う話を伝え、その資金を何らかの方法で捻出できないかを尋ねた。

すると左衛門は、

 

「成程、それは実に興味深い話ですな。」

 

現代の地図を参考に地形見ると、名古屋駅周辺に江戸時代の堀以外に川と呼べるモノは通って無かったと推察できる。

清州との境に流れる庄内川は現代の名古屋城北部には流れており、この一帯が米作りの中心だったと思われる。

川から2,3キロ以上離れた名古屋駅付近は寧ろ畑中心のエリアであったと言えよう。

 

畑の作物は収穫から長くても一月しか持たないが、米なら1年以上は持つ。畑作の農民はその米をある意味買わねば成らない。

畑にも租税が掛けられるため、大人一人の一年分=1石を得るのは大変な時代であったとも考えられる。

1石という単位は、お酒で有名な升で100升分。

升と言っても解りづらいので、

米を炊く際の目安である1合でいうと1000合分である。

現代の単位で1合=180ml=200グラムで、50合=10Kgと成る。

1000合はいわば200Kgで、10Kgの米袋が20袋積み重なった状態である。

現代の価格では、米10KG=4000円(コシヒカリ)で、

20袋=8万円だろうが…それが一人分。

農業技術の進化した現代でも、4人家族で年24万のコストな訳で、戦国時代の価値ではおおよそ10倍近い価値に成るとも考えられる。

 

ある意味、現代の月収20万円の年収=4石と換算しても良いかもしれない。

 

米の収穫面積は1反(たん)=300坪=991.7㎡でこれで1石分の収穫量とされている。

解りやすく言えば、31m×31m=1反というおおよその計算に成る。

サッカーのフィールドが100m×65mとすると、大体6反分の面積に成ると言える。

ここまで考えると田んぼの面積は想像しやすい。

 

左衛門は庄内川から那古野村に治水した際、そこで広がる田んぼの面積を推測し計算した。

長さは3キロで、新田と成るのは内陸の2キロ分。

治水から水路を伸ばして300m位。

2000m×300m/1000=600反。

ざっくりと600石増える計算に成る。

無論、こうした計算法を当時の尺などに変換して吉法師にも説明した。

治水に掛かるコストをおおよそ100人で1期(3か月)で換算して、1石=1人工/年で換算すると、25石分の必要となる。

この資金を左衛門が用意して、吉法師に貸し出す話をした。

 

返済はおおよそ600石増えるところから、利息を付けて100石分で返済するとし、25石分を4年間でどうかという提案をした。

年利でいえば75%と闇金顔負けの金額だが、生産量の増益分から換算すると17%分で、この増益分は吉法師にとっては何十年と続く話だ。

そういう相場で考えると良心的と考えられる。

沢彦もこの話を聞いて妥当と判断した。

吉法師に相場がどうかの知識は無い。

普通の人間ならそれ故に困惑するだろう。

しかし、吉法師はうつけである故に、

左衛門の話を好意的に捉え、

単純に増える石高にその利を見出した。

この時代でも一般的には交渉の段階で値引きをするのが常である。

左衛門もその辺を踏まえて25石の4年間とした。いわば別段25石の2年間分50石の返済でも構わないと考えていた。

ところが吉法師はそんな値引きをすることはしなかった。

沢彦も値引きをするもの踏んでいたが、

吉法師はほぼ即答で、

 

「ならば、それでいい」

 

と、承諾した。

沢彦は一応、

 

「商人との交渉の席では多少の値引きは構わないのだぞ。」

 

と、吉法師に教えるが、

 

「いや…条件はそのままでいい。俺が損する話ではないなら、左衛門殿も儲ければいい。」

 

と、言い放った。

吉法師は強欲かもしれないがケチではない。

普通なら些細な利益も追求して考えるだろう。

100円でも安く、10円でも安くという考えだろう。

吉法師は寧ろ興味を持たない。

いわば4年間で100石分の米高で自分は600石の領地が増えるのだから、100石の内50石分の米高をケチる必要性は無い。

寧ろそれだけの利益が見込めるなら、言い値で構わないという発想だ。

逆に言えば左衛門のお陰で自分は何の出費もせずに、目的が果たせるのだから寧ろ有難いと考え、その上で儲けが見込めるならそこに執着する事はしたくないという気持なのだろう。

良く言えば度量が広いと言えるが、

一般的にはネギリをしない事で寧ろ「うつけ」と見られても可笑しくは無いだろう。

 

左衛門は前者の度量の広い人物と吉法師を評価した。

吉法師を儲けさせれば自分達もそれだけ大きな利益が見込める。

そういうj人物ゆえに大事にし、そして育て上げたいと考えるのだ。

逆にケチ臭い相手なら、寧ろ儲けの少ない取引相手ゆえにそこまで肩入れしようとは考えないだろう。

 

結果として吉法師の判断は長い目で見た時に正解に成るのかもしれない。

 

勿論、沢彦も吉法師を良い形で評価した。

いわば目先の小さな利益に固執せず、それ以上の利益に満足する意識を評価した。

いわば大局を見据えて小事を捨てられる。

そういう人物と見極めた。

そして後の信長と成る吉法師はそういう人物であったのだ。

 

こうして吉法師は治水の原資を得る事が適い、約束通り那古野村に治水を齎す一歩を得た。しかし…次の問題は清州との関係である。

 

どうも・・・ショーエイです。

多くの人が天才というものを美化して考えている。

漫画などでも天才キャラはクールで冷徹な感じ表現される事が多い。

ところが実際のそれはただお勉強が出来るだけの秀才の事で、

天才では無いのです。

現実の天才を見て下さい。

ディエゴ・マラドーナ、長嶋茂雄など、

どこか爆裂した感じで、生きざまにインパクトがある感じです。

無論、メッシであり、イチローも天才の部類ですが、

基本天才と言うのは他の人とは感性が違う故に理解されにくい人が多いのです。

クレヨンしんちゃんの野原しんのすけも天才キャラと言えばそう成ります。

 

天才と言うのは普通の人が拘るところは捨て去れて、普通の人が気にしないところ気にするのです。

値切るというのは生活を切り詰めて考える人などにとっては大切な生活の知恵です。

ところがそういう値切りなどには興味を感じないのが天才なのです。

値切る時間の無駄。高いと感じたら買わないだけ。

寧ろ拘るのは、買った後の品質です。

価格に見合う品質なら問題視しないが、価格に見合わない品質またはサービスだと激怒する。値切ればそれだけこちらが不利に成る。

 

金銭感覚の違いと言うかも知れないが、安いものを安く買っても安いものは安いものという感覚で、寧ろ良いモノを相応の価値で買う方が価値ある買い物と考えるのである。

天才は野心的な考え方でもあるゆえに、庶民とはその時点で感覚が違うのである。

ところが値切らない値切れないという風にも見られ、そういう姿勢を馬鹿にされるのも天才なのです。

 

他人は他人、自分は自分。それ故に社会性は全くないのが天才です。

他人にどう見られようが気にしないタイプが多く、トラブルを起こすのも天才ゆえなのです。

それ故に馬鹿に見える。

天才ほどコロナ禍でマスクをしないとも言えます。

いわばマスクを付けるという行為に拘りを感じるのです。

信長的に考えれば、

マスクを付けていると命乞いしているようでヤダ。

そんな拘りです。

逆に自分の命大事な人は天才でもマスクをします。

むしろ命大事な人はマスク着けて防護していれば良いだけの話。

自身はコロナに感染しても文句ないし、感染したら死ぬかもしれない。

そこは承知の上で、天才ほどその時に腹を括って死ねたりする。

いわば自分の考えに責任を取ろうとする。

感染したくない人がマスク着けているのだからそういう人には迷惑掛からないだろう…いわば会話しなければ。

 

ここが天才のポイント。

と言うよりマラドーナ的主張とでも言うべきか…

 

マスクせずに会話して文句を言われたら…

君がマスクをしているなら問題ない。嫌なら会話しない。

 

マスクをしていない事を言われたら…

感染したくないなら声かけるな!!そうすれば喋らない。

 

インタビューなどの際に指摘されたらこういう言い方をするだろう。

 

社会に反発心を持つため馬鹿にされがちだが、

法律上で義務化されているわけで無いから問題ないで終わりなのです。

義務化したら?

マスクが再び品薄に成って社会問題に発展するかも…日本だと。

 

いわば天才であればあるほど他人と自分の違いを明確化する。

十人十色で個人個人の考え方の違いがあるゆえに、

その個人の見識をぶつけて争えば喧嘩に成るだけ。

喧嘩に成れば絶対に勝たないと気が済まない。

社会がでは無く、個人の考えを尊重しろが

天才の社会性としての結論なのです。

他人は他人の考え方で生活し、それはそれで尊重する。

マスクを付けるも付けないも個人の考え方次第。

感染に気を使う人はマスクをして、

気を遣う気が無い人は自己責任で…

 

医療崩壊やら感染をまき散らす行為という話も、

医療崩壊?自宅待機者がこれだけ居て何を言っているのか?

感染をまき散らす?その前に安心して自宅待機出来る社会システムでロックダウンしろ。

 

根本的に個人の生活を制御するのは難しい。

その上での自宅待機というロックダウンだが…

個人の生活コストが嵩むだけで、ストレスが生じる。

そこまで計算してロックダウンしろという話です。

 

マスクをしろという話では無く、

寧ろ無症状の感染者をPCR検査ガンガンやって隔離しろ!!

 

根本的にマスクを着用して外出して、無症状感染者がどこに潜んでいるか解らない状態で放置している事が問題でなのです。

マスクするしないの話は関係ないのです。

この合理的な部分を理解している故に、

マスクしても意味無いよ。感染する時はマスクしてても感染する。

と、知っているのです。

 

一般的にはマスクに拘るだろうが…

天才と言うより一般的にクレイジーな人は

無症状の感染者を放置している社会が一番問題なだけという事なのです。

 

紙一重とはこういう話です。