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ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第三十三話 干し柿の美味】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 1547年9月、信秀は岡崎城を陥落させた。

 史書には様々な説が存在し、三河物語などでは竹千代こと後の徳川家康は今川へ人質に出される際に、田原城で戸田康光の裏切りによって尾張の信秀に送られたともされている。

 近年ではこの時期に信秀が岡崎城を陥落させたという資料も見つかり、その際に松平広忠が信秀に人質として差し出したという見解が些か有力視されているようだ。

 しかし、疑問に感じるのは何故、三河物語(1626年著)の著者である大久保忠教は戸田康光の裏切りとして記したのか。

 忠教の父、大久保忠員は兄の忠俊と共に、この時代の松平広忠を支えた人物である。ゆえに詳しい詳細を知っていても可笑しくはない。

 そこで何が食い違ったのかを先ず分析して見よう。

 恐らく今川と松平との関係上、竹千代こと後の家康が人質として差し出される話は既に存在していたと考える。

 その盟約が成立する中で、信秀の三河侵攻が発生しそれに同調して寝返ったのが戸田康光であった。

 戸田康光の居城は今川の遠江に近く、信秀侵攻の際に今川からの援軍の足止めに成ったと考えられる。

 実際に同時期に戦闘があったようである。

 それ故に忠俊、忠員らはこの戸田康光の裏切りによって岡崎城陥落を招いたと伝えても可笑しくは無いのである。

 では、船の行先が突然変わったという表現は何が原因か。

 それは当時まだ6歳でしか無かった竹千代の曖昧な記憶、いわば家康が後にこの事を思い出した際に、今川の駿府へ行くはずだったのが突如織田の尾張に辿りついた記憶をそう表現したとも考えられる。いわば人質として差し出されると聞いていた場所が違ったという事だけを覚えていた。

 

 これらを踏まえて実態に近づけて話を進めるのなら…

 

 今川と松平の間で竹千代を人質として駿府に送る盟約が成立していた。しかし岡崎が陥落してしまった事で信秀が竹千代を人質として持ち帰ったと考える。

 

 当初竹千代は駿府へ行くと伝えられていた。

 勿論、6歳の身でも岡崎陥落の出来事は理解できる。

 しかし、家康自身にその記憶や実家が落城したという記憶があるのなら、その衝撃は鮮明に覚えており、一次資料として扱われる史書の中に何らかの形で残っていても可笑しくはない。

 ところが史書の記述が混在状態ゆえに、後の家康の記憶の中には鮮明では無く曖昧な記憶として残ったレベルだった可能性が高いのだ。

 そこから読み解くに、竹千代は既に駿府へ向かって出立していた。

 いわば広忠が今川からの援軍を得る約定として、落城前に竹千代を送り出したと考える。

 ここで戸田康光が織田方に寝返ったとする史書の表現は間違えであることを言っておこう。

 と、言うより何故田原城という今川領に近い戸田康光がリスクを覚悟で織田に寝返るのか…かなり不可思議な現象となるからだ。

 田原城は静岡県浜松市から愛知県に入る豊橋市を得て、渥美半島の中腹に位置する場所に成る。

 いわばかなり今川領の方に近い勢力と成るのだ。

 その勢力が今川と織田の戦いで考えた中で、織田方に与する利は殆どないと言える。

 なので実はこの表現は間違いなのだ。

 ところが実は本編25話を参考に見れば流れは説明が付くのだ。

 うつけの兵法 第二十五話「大は小を飲み込む」後編 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

 

 岡崎を巡る三河の支配状況は吉良氏の存在がこの時点では左右する。

 いわば東条と西条吉良の存在である。

 元々松平清康であり松平広忠は東条吉良側の豪族で、広忠の広は元服時に吉良持広から一字を拝領したものである。

 その東条吉良は西条吉良との関係から今川と手を結んで三河の守護としての地位を維持しようとしていた。

 そうした中で松平氏の間でも西条方と東条方で分裂し争っていたのだ。

 ところが今川の調略で政略結婚を得て、西条吉良が完全に今川の傀儡と成ってしまった。この時の当主が吉良義堯である。

 逆に東条吉良は西条の吉良義堯の次男義安を養子に迎えてこの義安が東条吉良を受け継いだのだった。

 当初の今川の目論見では東西の吉良が統一されると見込んでの調略であったが、東条を引き継いだ吉良義安は今川の傀儡として扱われる吉良氏の存在が許せず、尾張いわば斯波氏であり織田信秀と結んで吉良氏の威光復帰を目論むのであった。

 この時点で三河の命運は尾張と駿府に委ねられる形に成っているのだが、且つて西条方として尾張と結んで戦っていた勢力も反今川、いわば今川の傀儡となる三河を嫌って東条の吉良義安に与するように成るのだ。いわば吉良氏を巡って、三河の独立か駿府の属国かを掛けた戦いに成ると言ってもよい。

 この吉良義安の動きが信秀を岡崎に引き入れ、かつ戸田康光を動かしたのだ。

 いわば戸田康光は織田方に寝返ったのではなく、吉良義安に与した形を取ったのだ。

 言い換えれば現実的な話、戸田康光が信秀に忠義を示す意味で寝返るには利害として成立せず、寧ろそれが東条吉良の当主吉良義安なら三河を守るという意味で忠義が成立するのだ。

 

 そして竹千代ら一行は駿府へ陸路で向かう途中、吉良義安かまたは戸田康光、恐らく史書の通り戸田康光の兵に見つかってそのまま尾張へ移送されたとする感じになる。

 いわば援軍を求める為の一行が早々と吉良義安の勢力に見つかって捕まったという形で考える。

 そしてその数日後に岡崎城は陥落した。

 それを知った今川勢は三河へ侵攻して、戸田康光ら率いる吉良義安、いわば東条吉良の勢力と遠江三河の国境で争った。

 そうした状況もあって岡崎勢が今川、ある意味西条吉良を傀儡にした今川に寝返らないよう、竹千代を安全地帯となる信秀の元へ送ったという流れに成る。

 現状の史実として見られる資料を精査するなら、これが一番辻褄が合う状態である。

 こうした吉良義安を三河の守護とした勢力として、酒井将監らもこれに与した形で考える。

 

 それ故に人質として尾張に連れてこられた竹千代の扱いは、丁重なものだったと考える。

 いわば名目上は信秀が岡崎を支配する為の人質では無く、東条吉良方に岡崎を組み込む為の人質として預かっているからだ。

 また更に言い換えれば、尾張斯波の代理で信秀が竹千代を預かる形にも成るのが実態である。

 ゆえに竹千代を粗末に扱う事は出来ないのだ。

 更にこの年、いわば9月に岡崎を陥落させた2か月後には美濃の斎藤道三が信秀に対して攻勢を仕掛けてくるのだ。

 ゆえに三河の吉良義安の勢力には今川を食い止める盾という意味で耐えてもらわねば成らないという利害も生じてくるのだ。

 

 さて…初陣を終えた信長と人質として尾張に来た竹千代の出会いは実際に有ったのかという点である。

 史実の有力な資料にはそうした記述は一切ないという。

 なので2人は出会っていないとする事の方が、歴史を検証する上では正当なのだ。

 ところが信長と家康の関係はある意味不可思議であると言える。

 信長の義理の弟に成る浅井長政は裏切った。

 家康は三河から遠江にも領地を獲得し、ある意味浅井長政より裏切る条件としては有利であった。

 また、三方ヶ原の戦いなどの敗戦を考えるなら、武田に寝返っても可笑しくはないと言えた。

 それでも家康は信長と共に戦ったのだ。

 信長包囲網という第三者から見て明らかに信長絶対絶命の危機に見える状態に於いて、信長と共に有るのは寧ろ自滅覚悟の決断とも言える状況だった。

 それでも尚、家康は裏切る事は無かったのだ。

 

 こう考えるなら一次資料では無く、その後世に美談として加えられたような物語が寧ろ真実味を帯びてくる感じに成るのだ。

 

 筆者はここで一つの賭けをした。

 当時、資料を細かく調べる前に、竹千代が人質として滞在した場所が熱田の加藤家なら出会っている、そうで無ければ出会っていないとすることにした。

 なぜ熱田の加藤家だったのか・・・

 先ず、その加藤家からは信長の悪友に加藤弥三郎が居る。

 そしてもう一つは…筆者の何らかの勘か、何かの記憶かである。

 

 結果、竹千代が居たのは熱田の加藤順盛の所だったそうだ。

 ここで熱田の加藤の事も調べが付き、前述として加藤家当主は「左衛門」とする形にしていたが、どうやらそれは「図書助」と名乗っていたらしいので、そこは改めておくものとする。

 ただ筆者はそれだけ漠然とした形でしか熱田の加藤家を記していなかった中でのこの流れであることは強調したい。

 

 ゆえに信長と竹千代は実は会っていたとする事と成った。

 

 熱田の加藤家なら、弥三郎から話は伝わり、信長がふらりと立ち寄ることも有りうる場所と成る。

 また初陣の関係上、信秀の最終的な目標が岡崎であった訳で、信長にとってその「岡崎から来た人質」という興味の対象となるのだ。

 

 初陣を終えてから間もなくの事、信長は弥三郎から実家に岡崎の人質が来たことを聞いた。

 そして、悪童らを引き連れてどんな奴か見てみることにした。

 竹千代は熱田の加藤家の羽城に幽閉されていたと記されているが、恐らく幽閉では無く最低でも軟禁状態で殆ど不自由のない状態であったと言える。

 その根拠には竹千代の心を織田方というより吉良義安方として洗脳する意味で扱う必要性もあったからだ。

 また信秀は生き別れとなった竹千代の実母、於大の方を面会させるなどして竹千代の心を調略しようともしていた。

 この於大の方は水野忠政の娘で、1544年いわば竹千代が3歳にも満たない時にその忠政が死に、於大の兄信元が継いで、ここでは織田方に成るが方針転換をしたことで今川方の松平広忠と絶縁する。

 その際にこの於大の方は実家の水野家へ戻され、丁度竹千代が那古野に連れて来られる1547年に水野家の政略結婚の相手として久松俊勝の元へ嫁がされた。

 

 竹千代自身の記憶に母、於大の事は何も残っていなかったのは実態であろう。

 また、多くの歴史家は竹千代が那古野に来た時点で、まだ数え年で6歳という事は実質5歳の子供で、小学生にも満たないいわば現代で言うなれば「5歳の幼稚園児」でしかない事を忘れがちである。

 

 色々とドラマや小説などでは凛々しい感じで描かれる事が多いが、現実的に考えるなら知らない土地に連れて来られて脅える毎日であったと考える方が無難である。

 そこに実母と名乗る於大を面会させるなどして、竹千代に安心感を与えるのだ。

 実際に洗脳という形の調略として用いるなら、於大の方は偽物でも良い。しかし、流れからして偽物を使う必要も無さそうなので、竹千代に面会した於大は実母であったと考えてもいいであろう。

 

 勿論、この時竹千代は於大の顔など覚えても居ない。

 いわば母を名乗る知らない女性が突然面会で現れたというのが最初の印象であろう。

 ところが母親が我が子を慈しむ想いは、不安に駆られて過ごす竹千代を直ぐに包み込むのであった。

 生き別れになった我が子との再会に嘘の涙を流すことは無い。

 子供心・・・寧ろ純粋な子供ゆえにその真偽は敏感に感じ取れるのかも知れない。

 偽物の演技では無く、実母故の愛情表現で寧ろ何も知らない5歳児には直感的に違いを感じるとも言える。

 そこには心臓の鼓動であり、包み込んでくる優しさなど不自然でない何かを感じ取り、竹千代はその人物が本当の実母於大で有る事を認識した。

 

 もし、この於大に偽者を使っていたのなら、成人した家康はこの人物を疑うだけの根拠を見つけたであろうし、もしそうなら信長との信頼関係も無かったとも言える。

 結果、そうでは無く後の家康はこの於大を実母として丁重に扱っている。

 またこの時竹千代の側目として同行していたのは酒井正親(後に酒井忠世という人物がこの系譜から出る)と、23歳の酒井忠次であっと考えられる。

 ※記録上では駿府へ同行した2名として記されているが、恐らく那古野にも同行していたと考えられる。

 この両名の酒井家はあの酒井将監(忠尚)の親戚筋にあたり、一説には将監は忠次の叔父にあたる。

 その為、織田方と連携していた酒井将監意向でこの両名が竹千代の側目として選ばれた可能性も否定できない。

 寧ろこれが酒井家が徳川の時代に残り続けた切っ掛けとも考えられ、将監一代の話では一族は断絶していたとも言えるのだ。

 と、は言えこの両名は広忠の妻の時代の於大を知る世代で、面識はあった可能性もある。

 なのである意味誤魔化しは効かないと言えるが、両名が将監の指示を受けて任についていたのならそこは定かではないとも言える。

 ただし流れとして偽者を必要とする情勢下ではなかった事は明らかなわけで、余計な勘繰りを捨てて話を進めるものとする。

 

 こうして母との面会を経てようやく尾張での生活に安心感を抱き始めた頃、竹千代の下に信長がやってきた。

 

 弥三郎の実家で、熱田の加藤家とは馴染みもある信長は自分の庭の様に羽城を歩き回って竹千代の所にやってきた。

 勿論、その姿は戦ごっこの帰りであり、小汚い農民の服装のままであった。

 竹千代は宿所の庭で側目の両酒井と遊んでいた。

 鬼ごっこでもしていた感じか…

 

 そこへ突然農民の様な出で立ちの信長が現れたのだ。

 側目の二人は狼藉者として身を構えた。

 

 信長は何も気にしない風で、

 

 「おお!!そなたが岡崎の」

 

 と、言って庭に面した軒床に胡坐をかいて座った。

 すると弥三郎、岩室、長谷川といった悪童の面々が信長に追いついてくるように現れ、

 

 「信長さま岡崎の子は見つかりましたか?」

 

 と、聞き

 

 「居ったぞ、ここに」

 

 と、信長は返事した。

 酒井両名は「信長」という名前に気づき、すぐさまそれが尾張の若殿であること察した。

 ドラマや小説の様に、その出で立ちなど気にすることは無い。

 若殿と気付くやすぐさま無礼を詫びなければ、自身どころか竹千代の立場まで危うくしてしまう。

 ましてや加藤家の羽城に得体の知れないものがズカズカと入り込めることなどないのだ。

 2人は片膝を信長の前でついて、頭を垂らしてすぐさま、

 

 「これは失礼つかまつった。」

 

 と、詫びた。

 

 「若!!すぐこちらへ!!」

 

 そして2人はすぐさま竹千代を呼びよせ脇に寄せ付けた。

 竹千代は二人の間に入り込んで立ったまま信長の方を見ているだけだった。

 両酒井は焦って、すぐさま竹千代に

 

 「若!!私らと同じような姿勢で!!」

 

 と、耳打ちするように伝えた。

 それに対して信長も察して、

 

 「気にするな。そのままで良い。」

 

 と、優しく声を掛けた。

 2人は再度平服するような形で、

 

 「はっ!!」

 

 と述べるだけであった。

 すると信長は自分の懐から袋を取り出して、そこから干し柿を取り出して食べ始めた。

 相変わらず行儀の悪い悪ガキである。

 そして一口食うや、竹千代に、

 

 「そなたも食うか?」

 

 と、聞いた。

 目の前の信長が美味しそうに食べてるのを見て、竹千代はすぐさま頷いた。

 信長は袋からもう一つ取り出して、竹千代を手招きで呼び寄せた。

 既に於大に出会ってから尾張に安心感を覚え始めたのか、何の警戒心も無く竹千代は信長の手招きに近づいて行った。

 信長はまるで猫でもあやすかのような感覚で竹千代を見ていたのだろうか…

 干し柿につられて近づいて来た竹千代を両手で抱きかかえて、

 

 「ほら捕まえたぞ!!」

 

 と、言って鬼ごっこをしていた続きの様にしてあやしたのだ。

 こうした茶目っ気のある演出は信長の上手さと言っていい。

 と、いうより信長も神童で実は人懐っこいところが有る故に、こういう接し方を自然と出来るのだ。

 竹千代にはその雰囲気が心地よく感じたのか、ツボに嵌ったように大笑いした。

 それを見た信長もすっかり竹千代の可愛らしさを気に入った。

 どの年齢でも人懐っこい生き物には愛着を覚える。

 信長が竹千代に感じたのは正にそんな感覚であろう。

 そして竹千代に干し柿を手渡してやり、次に自分の膝の上に乗るように誘った。

 5歳児の子供でもそこは躾のためか、少し遠慮して酒井たちの方を見て確認した。

 信長はその遠慮を察してか、こんどは竹千代の脇腹をくすぐって、

強引に膝の上に寝かせるように押し倒したのだ。

 キャッキャキャッキャと笑う反応を示す子供は可愛い。

 まるで猫が喉を鳴らして懐くようなかんじだ。

 

 信長は人心掌握術に長けていたのは事実だが、多くの人はこれを策士の様に計算で為されたものだと考えてしまう。

 しかし、人心掌握術の基本は、相手が喜ぶことが何かを知る事にあり、それは今でいうエンターテインメントの基本とも言えるのだ。

 人を楽しませる事を楽しみとして考える場合、逆に陰湿な策士の計算ではなく寧ろ気持ちを伝えねば楽しさを共有できないのだ。

 いわば一緒に楽しむ事を目指すゆえに一方的では無くなり、相手も自然と心地よさを感じるのだ。それ故に相手はその存在を大事に考えてくれる。

 この関係性を生み出す意味で、信長は生来エンターテインナーとして人心掌握術を身に着けていたと言えよう。

 

 そして信長は竹千代を膝の上に座らせて、

 

 「どうだ?美味しいか?」

 

 と、干し柿を食べる竹千代に聞くと、

 竹千代は笑顔で、

 

 「うん!!」

 

 と頷いた。

 こんな反応を示されたら誰でもこの竹千代を可愛いと思ってしまう。

 それは例え魔王の心を持っていたとしても、癒されてしまう様な光景である。

 信長の側に居た岩室にしても、長谷川、弥三郎も同じ様に感じただろう。

 

 筆者はこれを記す前に、13歳の若者と5歳の子供が一緒に遊ぶという接点に疑問を持っていた。

 それ故に、信長と竹千代は一度だけしか会っていない関係だったと考えていた。

 様々な流れを精査しながら、ごく自然な流れでストーリーを展開して行くうちにこうしたエピソードが生じることと成った。

 ある意味これが自然な形であり、恐らく二人の間にこうした出会いがあったのは間違いないと言えよう。

 

 信長にとって竹千代との将来をこの時点では全く考えていない。

 後に岡崎と同盟を結ぶという戦略的な視野も全くないのだ。

 ただ、自分に懐いてくれた竹千代が凄く可愛く感じた、ただそれだけの関係でしかないのだ。

 ある意味、竹千代にはそういう愛される雰囲気を醸し出す神童としての素質があったと言ってもいいだろう。

 

 一方の成人した竹千代こと家康は、こんな出来事を全く覚えても居ないだろう。ただ記憶として残る大きな刺激は、この時に食べた干し柿の味。

 その味は別段格別なものでは無いにしても、信長という得体の知れない存在に何となく心を許し、初めて食べた甘味として残るなら、格別に美味しかったものとだけ印象に残ると考える。

 

 その後、信長らは可愛い三河の坊主に会いに度々熱田の羽城に足を運んだのは間違いない。

 鬼ごっこや隠れん坊をして遊んであげる流れは十分に考えられる。

 ある意味、信長の優しさで竹千代と遊んだのではなく、寧ろ幼少期の家康こと竹千代の愛らしさに信長たちは癒されに行ったと表現する方が適切と言えよう。

 家康が天下人と成る上では信長の存在は絶大である。

 その関係性が上手く生じるには、この出会いは天命であり、神童としての竹千代が信長を魅了したと言えよう。

 

 そして、もう一つは後に家康の重臣となる両酒井、特に酒井忠次の目にこの光景が焼き付いていたことだ。

 寧ろこちらでは人質として尾張に滞在する竹千代の心を、この時の信長は気遣ってくれたように映るのだ。

 勿論、筆者は正直に記している。信長は可愛い竹千代に癒されに遊びに行っていただけ。別段、竹千代を気遣っての行動ではない。

 信長はまるで猫でも愛でるかのように竹千代を可愛がっていた。

 それでも酒井忠次らからはその二人の関係性がとても有難く映るのは事実であろう。また、傍から見ればまるで兄弟の様な関係で見れたとも言える。

 

 こうして後の信長と家康の関係性は、この時分の出来事が大きく影響したという従来の見識は間違いでは無いといえる。

 家康の記憶の中に、あの甘くて美味しかった干し柿の味が染みついているのに対して、忠次が幼少期の二人の関係性を耳打ちする中で、家康の心の中に信長へ対する信頼が構築されたことは自然な流れとして成立するのである。

 見方によれば、家康は幼少期に信長に対する信頼を洗脳されたとも見えるが…全ては天命の為しえたもので、人間の思惑が及ぼすものでは無いとは言っておこう。

 

 次回は…信長の恋話、「吉乃と帰蝶」です。

 

どうも・・・ショーエイです。

Youtube向けの動画制作。

まだまだ勉強する部分が多くて大変なのですが、

とうとう「どうする家康」も始まってしまい、

しかも昨年の9月から

「うつけの兵法」の更新がない事も気づき、

急遽書くことにしたわけです。

 

まあ、普通の小説として想像力を張り巡らせて、

良い感じのストーリーにしようと思えば、

そこまで労力は掛からないのですが、

この「うつけの兵法」は出来るだけ史実というより、

事実に近づけて話を構成したいので、

調べものを解析するのに労力をものすごく使います。

 

前の記事にも記した様に、

小説や物語として歴史を見るのは

それはそれで素敵な事です。

「どうする家康」での信長と家康の関係性も、

あれはあれで十分にありです。

物語として見るなら、

寧ろあちらの方がファンタジックな雰囲気もあって、

ストーリー性としては面白いと言えます。

 

ただ、その上で実際はどうなの?

と、いう意味で今回の「干し柿の美味」というタイトルで、

書き記したわけです。

 

ここでは歴史家も見落としている事実。

三河の覇権は、表面上は今川と織田の戦いでは無く、

依然として東条吉良と西条吉良の覇権争いであった事。

その裏で今川と織田の調略合戦があったという点で考えなければ、

戦略的な心理的な流れで

本当にグジャグジャに成ってしまうという事。

 

ある意味、ここでも記した様に

今川領に近い戸田康光の田原城が

何故織田方に着くのか?

殆ど地政学的に考えると自殺行為であり、

織田に寝返る利点すらない訳です。

 

歴史家たちはそんな不可思議な点を考慮せずに、

史書の記述のみで決めつけてる有様なのかな?

 

まあ、こうした意味不明で曖昧な情報が多い中で、

色々な観点から辻褄が合うように整理していく作業は、

本当に時間が掛かるのです。

ある意味、一次資料だけの話でなく、

伝承ベースの二次、三次資料であっても

何故その様な伝承が発生するのかまで考慮して、

一次資料に書き落としがあった点を踏まえて精査するので、

動画を作る作業より頭が爆発しそうになります。

 

今回の竹千代と信長の出会いは有ったのか?

という点では、一次資料には全く存在しません。

かと言って出会っていないと決めつけるのも違う。

伝承ベースでは様々な美談の様に描かれている訳ですが、

出会う可能性など信長の性格であり、

当時の竹千代の環境から探って考えなければならないという事。

 

本編でも記したよう、13歳の少年と5歳児が一緒に遊ぶか?

と、いう疑問も先行して生じた訳ですが…

とりあえず流れで…

多分会っては居るけど一緒には遊ばないだろう…

と、いう想定で書き始めたら…

なんと…いや…これ一緒に遊んじゃう流れだね…

と、思わぬ展開が見えてきたのです。

 

頭で色々と悩んで書かないより、

適当に書いて柔軟に考える方が良いのかな

と、気付かされた感じです。

 

さて・・・次回の恋話…

とにかく信長が吉乃が好きで好きで

仕方なかったのは間違いないです。

ここでも史実はグジャグジャなので…

色々と悩ましいです。

さて…まだ書き始めても居ないのですが…

色々な疑問点を前もって記しておきます。

 

何故、斎藤道三と織田弾正忠家の間で

政略結婚が成立したのか?

 

誰も疑問にすら感じない部分ですが…

織田弾正忠家は尾張の支配図で言うなれば、

斯波氏>織田大和守家>織田弾正忠家という序列です。

 

美濃の守護を追い出した形で、

その座を得た形の斎藤道三は、

いわば斯波氏と同格と言えます。

 

ここで大垣城の存在がキーポイントに成るのでが…

大垣城を調べると…

1544年に織田信秀に落とされて、

1549年に斎藤道三に攻め落として奪い返された。

 

うつけの兵法では1544年に

加納口の戦いが有った形で記したのもこの流れを汲んでからです。

しかし、1548年に織田と斎藤で

政略結婚が取りまとめられていることに成り、

1549年には帰蝶こと濃姫が輿入れしてます。

なので…1549年に斎藤道三が攻め落したというのは、

ちょっと辻褄が合わなくなる。

ただし、政略結婚の条件が、大垣城の返還であったとするならば、

政略結婚が成立する条件としては実は申し分が無いのです。

 

また、時系列での話をすると…

1547年に加納口の戦いがあったとするなら、

織田信秀は岡崎にも行って、美濃にも行っていたことに成ります。

無理では無いにしても、こんな戦い方では身を滅ぼします。

しかし、事実はこれに近い事は想定できます。

 

1547年9月に岡崎城陥落で、1547年11月に加納口の戦いが有った。しかし、この加納口の戦いとされるのは1544年に結んだ休戦からの延長と考えます。

すると岡崎攻めに労力を費やした信秀の隙をついて道三が仕掛けた形は戦略的に有りうる話の流れに成るのです。

 

史実ではこの2つの状況が混在して存在するため、グジャグジャに成って見えますが、精査するとここは上手く整理できる流れの様です。

しかし…1549年に大垣城が攻め落されたという記述を信用するなら、織田と斎藤で結んだ政略結婚の話とどう辻褄を合わせるのか?

それとも単に攻め落とされたという表現は

何らかの過剰な形で残る記録で、

実は斎藤方から竹越尚光という人物が

城主として普通に入って取り戻しただけなのか?

 

実は帰蝶こと濃姫が輿入れする話を作るまでに

色々グジャグジャ情勢を整理して考えなければ成らないのです。

結構…辛い作業でもありますが…

最終的には…辻褄が合うようにすればそれで見えてくるのです。

 

ただし…次話の問題は…

信忠君の生年が何時かで異なる。

記録上では1557年が有力とされているが…

一応、吉乃という人物であろうと考えられるも、

生母不明という形も有力視されています。

 

信忠君は、

信長たまの嫡男ですよ!! 

 

何故そんな子の母親が生母不明な扱いなの?

吉乃姉さんではダメなのですか?

 

という意味で、ちょっと何気に怪しくない?

 

ただし、その生年を前倒しで考えてみたが…

元服が1572年となると…1557年で丁度15歳。

元服の記録は前後しても前倒しは無さそうなので、

生年も前倒しは難しいと考えます。

 

ここから逆算すると、

吉乃と信長たまのラブラブな時期は、

濃姫が輿入れした後で…

濃姫に失礼な言い方で、

現代風に言うなれば…不倫な関係?に成てしまう。

 

また、資料によると、

信正君と言う子がその前に生まれているようですが…

これらの関係性を盛り込みつつ、

信長たまの女性関係を探っていかねば成らない訳で…

色々と大変な作業でもあります。

果たして…どのような展開に…

まあ、史実に記録がない部分なので…

史実から外れない所で纏めるのが妥当なのかな?

 

因みに色々な史書に残る内容を参照して

濃姫と吉乃姉さんに当時の印象を聞いてみると…

 

濃姫

「何か…結構放置されてた気がする。別に仲が悪かった訳ではないけど…あまり表舞台に出る感じもなかったし…」

 

吉乃

「信長さまとの記憶は色々とあって、充実していた感じ。でも、濃姫様の手前もあってあまり表舞台に出る事はありませんでした。」

 

歴史上の記録や伝承を元に精査するとこんな感じで、

実は秀吉や蜂須賀小六、そして前野長康らといった立身出世組からは吉乃の方が慕われた存在として残る。

ただし、武功夜話であり前野家文書という記録は盛った話が多く信ぴょう性は疑われるものである。

しかし、それでもその存在が残されることはそれだけの人物であったと考えても良さそうである。

 

こうした流れから次話の構成を考えていきます。

果てさて・・・どんな話になるのやら・・・ 

【第三十二話 初陣】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 信長の初陣は1547年の吉良大浜の戦いとされている。

 信秀は1544年に越前朝倉と連携して道三の美濃へ侵攻したが、双方が痛み分けという形で和睦した。

 一方の今川は北条と和睦を計り東からの脅威を収めようと試みるも、既に北条氏綱から三代目の氏康に代替わりした北条がその和睦に難色を示したため不調に終わった。

 今川からすれば尾張が美濃と停戦した事で、寧ろ尾張の矛先が三河に向くことを警戒して考えたのだ。

 

 一方で甲斐の武田は、北条と敵対していた信虎が1541年に追放され、それ以後武田晴信(信玄)が当主となっていた。

 信虎は関東との関係に固執して寧ろ甲斐から領土を広げられずにいた訳だが、晴信は寧ろ関東への関与の前に信濃方面へその地盤を広げ、武田家をより強固なものとすることを目指したと考える。

 

 晴信の巧みな所は、信虎の時代に成立していた甲駿同盟をそのまま維持した事にある。

 更には1541年に北条は氏綱が死去し、氏康に代替わりした時期でもあった。

 この期に関東の山内上杉家と扇谷上杉家は連携して北条へと侵攻したのであった。

 武田は信虎の時代ではその山内、扇谷両家と同盟して北条と対立していたが、晴信は寧ろその双方に天秤を掛けるように働きかけて、逆に動かない姿勢を示して氏康に先ず貸を作ったと考えられる。

 歴史の評価では暴君気味で考えられる武田信虎であったが、寧ろ信虎の行動は源氏と足利幕府に対して義を通した存在と認識してもよさそうである。

 しかし、その義を通す姿勢が裏目に出て、信濃佐久郡の攻略の際、敵方が山内上杉家を頼って援軍を求めたことで、信虎は同盟国との対峙を避けてその攻略から速やかに手を引いているのだ。

 その際に晴信も同行していたわけだが、甲斐の地から一向に領土が広がらない状況を察してか、信虎の判断に疑念を抱いたとも考えられる。

 屈強な将を抱えながらも、甲斐一国では軍の規模は限定され、武田家の繁栄を妨げると晴信は考えたのかも知れない。

 こうした晴信の疑念に、板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らが賛同して信虎追放という処置に至ったとと考えられる。

 仮に信虎という人物が暴君の様な存在であったら、追放と言う形では無く寧ろ内乱が生じていたとも考えられ、その際に駿河の今川との関係も崩れていた可能性もある。

 比較的追放というよりも隠居させた感じが強く、信虎もあえて抗う形もなく速やかに身を引いた形に成っている。

 また、信虎の隠居先は今川で、その今川と晴信の間で信虎の隠居量を求めるなどの外交が散見している点からも、事はかなり穏便な形で終始している。

 恐らく信虎は晴信の行く末と甲斐の繁栄を陰ながら見守る決意に転じたと考えられ、

 今川には、

 

 「晴信が暗愚なものであるのなら、今川が甲斐を得ればよい、もし晴信が名君ならばこれと結ぶことは寧ろ今川の利と成る。」

 

 と、いう風に伝えていたのだろう、と考えてしまう。

 どの道、武田信虎という人物の行動を分析すると、義に厚くかなり良い人格者であったと評価する方が適切である。

 甲陽軍艦で彼の治世が悪政であったとする記述は、寧ろ晴信の不義を後世に正当化させるためのものとして考える方がよさそうである。

 

 こうして家督を継いだ晴信は、寧ろ父・信虎の義によって今川との関係は繋がれたと言っても過言ではない。

 また北条氏綱が死んで、氏康に代替わりしたタイミングで晴信は過去の因縁を清算する機運を与えたのだ。

 寧ろこうした算段の中で、1541年は晴信にとって絶好の機会であったとも言える。

 関東の混乱に乗じて、晴信はすぐさま信濃へ侵攻する機会と定めたのだ。

 更には矛先を東から西に向けたことで関東で奮戦する氏康に対して晴信は暗に相互の利害の一致を示したとも言える。 

 

 一部資料には瀬沢の戦いで、諏訪と小笠原の連合軍が甲斐に攻め込んできたとされている。

 これも寧ろ晴信の侵攻を正当化するための方便で、実際に史家の間でもそういう評価で考えられている。

 信虎の時代には信濃の勢力と同盟を結んでおり、その同盟連合で信濃佐久の攻略に出向いている。

 寧ろ晴信は諏訪頼重に対して、先の信濃佐久攻略の件で援軍を差し向けた山内上杉家と諏訪氏が勝手に和睦し、一部所領を分割して受けた事が、同盟の違反に当たるとして、これを理由に関係を断ったとされている。

 義に厚かった信虎の時代から、不義に働く晴信の時代へと甲斐が変わった事もあって、一方的な関係断絶を表明した晴信の挑発に諏訪頼重が乗ってしまった事は十分に考えられる。

 瀬沢の戦いはそうした形で事実として発生した事は否定できない。

 晴信はそれを見越して準備を整え、それを理由として信濃攻略に乗り出したのだ。

 

 晴信の家臣団は苦しい領内運営のまま、義に奉仕させられていた信虎の時代よりも、所領を増やして繁栄へと導こうとする晴信の考えに傾くのは当然の成行だったとも言える。

 いくら経営者が人格者であっても、給与が低いままで働かされるのは苦しいだけで、寧ろ野心的に業務を広げ、その給与が功績によって上がっていくほうが有難いと思う心理は誰でも同じなのである。

 信虎は義に厚い人格者であったかも知れないが、晴信は寧ろ家臣思いの人格者であったという対比で考えてもいいかもしれない。

 

 対外的な信用は信虎の方が高かったといえるが、家中の信用は晴信の方が高く、それ故に屈強な武田軍団を組織できたとも言えよう。

 

 こうして今まで甲斐一国で頓挫していた武田家を信濃まで拡大させた晴信の地盤は2年足らずで安定した。

 

 一方の北条氏康は西に駿河の脅威を抱えながら、関東の地盤を固めるために奔走していた。

 更には天文の飢饉なども起り、かなり厳しい中でのものともなった。

 寧ろ今までならそこに加えて甲斐武田の脅威が加わる中、晴信は逆に目を西に向けて脅威となる態度に出なかった事もあって、唯一利害を共有できる存在として氏康は意識し始めたのだ。

 こうした心理作戦は恐らく晴信が想定していた流れとも考えられる。

 晴信からすれば、信虎は寧ろ関東に目を向け過ぎたゆえに甲斐から広げられなかった。逆に信濃に目を向ければ領土拡大は比較的容易であると考えたのだろう。

 その上で誰と結んで誰と敵対するのが理に適うのかを見極め、寧ろ勢いのある今川と北条と争うのは下策と分析していた。

 そういう流れで今川との関係をいじしたまま、北条とは利害の一致を説いて1544年には甲相同盟を成立させたのであった。

 

 一方で氏康は今川との関係がこじれたまま、関東の問題にも対処せざるを得なかった。

 今川は氏綱の時代に起こった第一次河東の乱で失った富士川以東の河東地域の奪還を求めていた。

 晴信の仲介で、今川と氏康の和睦が提案されるも、今川がその河東地域の返還を求めるゆえに不調に終わった。

 先の話でも記した様に、川を挟んで境界とする方が、実は双方にとっても守りやすい。今川はそれを最終的な備えとして北条に対応し、西の三河の動静に些か力を注げたが、北条としても富士川を挟んだ守備で今川を食い止めて東の関東に力を注ぐ算段で考えていたのは同じである。

 逆に同盟が成立すればその双方の脅威は払拭されるのだが、とは言え早雲の時代から三代目の氏康としては義元の父、氏親の時代の様な信頼関係は想像できないといった状態である。

 こうして和睦が不調に終わるや、今川が今度は河東地域奪還に向けて兵を差し向けてきたのだ。

 

 北条が関東の攻略にやきもきしている事は、今川の参謀太原雪斎も承知の事であった。

 また、今川としても美濃と尾張が停戦した状態では、次に三河の動向が気に成る状態でもあった。

 ゆえに北条とは出来るだけ早く和睦しておく必要性は熟知していたが、北条にその必要性と河東地域の返還を意識させるためにあえて関東の支配権で北条と敵対する山内上杉と同盟を結んだのである。

 

 30歳に成ったばかりの氏康はまだ血の気が多かったのか、今川の脅威と関東のいざこざを同時に処理する難しさを理解していなかった。

 そうした中で1545年に第二次河東の乱と呼ばれる、今川方の河東地方奪還作戦が発生した。

 そしてそれに呼応するように山内上杉家と扇谷上杉家が大軍で武蔵の河越城を包囲した。

 無論、北条の主力は河越の防衛に注がざるを得なかった。

 その為、河東地域は今川軍の攻勢に押され伊豆の手前の三島まで侵攻される状態に成った。

 本来なら富士川でこの侵攻を食い止めれるはずだったが、戦力をどうしても河越を含む武蔵防衛に注がざるを得なかった氏康は、半ば河東地域が奪われる覚悟で対応したと考えられる。

 資料の中には今川と武田の連合軍と成っているが、武田がこの時点で北条と対峙する状態は考えられないため、今川軍の単独行動であったと考える。

 

 こうしてあっという間に窮地に立たされた状態で、武田晴信は北条に今川との和平仲介を再び申し出た。

 戦略上、こういう流れが一番適切であり、この和平には今川義元も太原雪斎もあらかじめ算段していたと言える。

 無論、条件は先の和平仲介と同じもので、河東地域の今川への返還であった。

 氏康もまんまと嵌められたと察するも、既に失った形ゆえにこれを諦める形と成った。寧ろ氏康は今川とは最悪和平が成立すると考えていた為、主力を武蔵方面に向けたと言える。

 と、は言えこの和平で、氏康にもようやく晴信や義元が北条を潰す意図がないことが伝わったのだろう。寧ろ北条には関東に専念してもらいたいという利害を察せられる形と成った。

 後の甲相駿の正式な三国同盟成立はこの7年後の1552年と成るが、この時点の三国間和睦はその前哨として成立したものと考えられる。

 こうして三国間の利害の一致が成立した後、氏康は河越を包囲した両上杉家を通説では8万対1万の圧倒的な不利を覆して、見事にこれらを打ち破り、関東の地盤を徐々に固めていくのであった。

 

 信長が元服した1546年は今川の情勢が東から西へ向き始める頃合いでもあった。

 

 1543年三河では、織田方の勢力として安祥城周辺を支配していた松平信定の子、清定が死去してまう。

 これに伴って松平広忠は今川の支援を受けて安祥城奪還に動いた。

 この時期の三河情勢は資料が様々な見解に分かれており、実はかなり混沌とした状態である。

 松平清定の子で、その後を受け継いだ松平家次は1545年に広畔畷の戦いで父・清定、酒井将監、榊原長政らと一緒に戦って敗れたとされているが、清定の死が1543年ともされている中では、寧ろ清定の死を切っ掛けに発生した戦いと考える方が妥当である。

 1544年から1545年に掛けては、信秀は美濃の斎藤利政(道三)との戦で動けない状態であり、松平広忠として見れば三河を纏める絶好の機会であった。

 更には1542年に信秀と今川が小豆坂の戦いで衝突したとあるが、これらは実質、松平広忠と松平清定の三河領有を巡っての戦であったと考え、織田、今川双方が援軍を差し向けた中での話として考える。

 そうした中、結果決着がつかずに終わったとするのが妥当で、寧ろその後清定が死んで、1545年の広畔畷の戦いで一応の決着がついたとする方が流れとして辻褄が有ってくる。

 恐らくこの戦いで安祥城は広忠方に奪われたであろう。

 ゆえに安祥城を失った家次らは北三河の現在の豊田市から瀬戸市あたりを拠点に暫く広忠に抵抗していたと考える。

 因みに榊原長政は後の徳川四天王にも准える榊原康政の父である。

 

 一方で、愛知県刈谷市及び知多半島北部を支配していた水野忠政が清定と同じくして1543年に死去している。

 水野忠政の娘で於大の方と言われる女性は、家康の実母であり、いわば広忠の正妻に当たる人物であった。

 また、忠政の後を継ぐ、信元の正妻は松平信定の娘で、外交上この水野氏は半独立した豪族として双方に中立した存在として所領を維持したと考える。

 いわば勢力としては信秀と三河の松平に挟まれた場所と成る為、迂闊に戦に巻き込まれれば最初に狙われる事になる。

 その上で中立であること守って、むしろ双方の戦に巻き込まれないように堅持していたと考える。

 ところが忠政が死んで、信元の代に代わると中立の立場から信秀に与するようになった。

 

 信元の目的は知多半島の征服であったと考えられ、信秀は三河の安祥城の松平清定らに加え、水野氏の勢力を組み入れる事で今川との緩衝を設けようと考えていた。

 そのため信元に知多半島制圧を許す形で引き込んだと言える。

 知多半島は中部国際空港セントレアのある半島で、尾張にも三河にも与しない豪族が点在していた場所と考えるのが良さそうである。

 水野信元はこれら豪族を制圧して尾張と三河の間に一大勢力を興そうと画策したとしてもおかしくは無い。

 故に信秀との間で利害が一致したのだろう

 しかし、その連合の一角であった安祥城の松平家次らは、広忠に敗北してしまった。

 そうした中で信元は1546年に酒井将監を味方に引き入れたとする。しかし、1545年の広畔畷の戦いで敗北し、安祥城を失っても尚、現在の豊田市にある三河上野城で抵抗を続けていたと考える場合、継続して連携していたと考える方が妥当で、寧ろ1547年に信秀が岡崎城に攻め込む流れで、それに呼応するように酒井将監らに働きかけたという意味で解釈する方が正しいと考える。

 

 更には今川が北条と和睦した事も信秀の耳に入っていた。

 ゆえに信秀にとって今は再び三河方面の事が最優先事項となったのだ。

 

 信長が初陣を迎える1547年はそうした流れからの出来事であった。

 この初陣は1547年9月に織田信秀が岡崎城を陥落させる流れに合わせて組み込まれたものと考える。

 

 刈谷城の南方、知多半島の半田から衣浦港を挟んだ対岸に、碧南という場所がある。ここが信長の初陣の吉良大浜だとされている。

 この大浜という場所は、現在でこそ東の西尾市と陸続きに成っているが、当時は油ケ淵と矢作川が合流して湾を形成していた。

 そのため大浜は知多半島の東に並行して突出した半島の南端に位置する事と成る。

 この地を治めていたのは長田氏で、恐らく長田重元であったと考える。そしてその重元は広忠の時代に信秀の侵攻に備えるためこの大浜の砦の守将を命じられたとされるが、元々平安時代より長田氏の所領であったため広忠方に与した三河の豪族として存在していたとする方が正しと思われる。

 刈谷城の南方に位置する勢力で、寧ろ水野信元の背後を脅かす存在にあった。

 場所も知多半島から湾を挟んで場所ゆえに、海側から侵攻が無い限りある意味刈谷方面へ動きやすい場所でもあった。

 水野信元もこの長田氏の勢力が敵方にある上では、迂闊に動きが取れなかった。

 信長の初陣の記録では、大浜に2000の兵が居たとされている。

 更には油ケ淵から安祥に向けて現在長田川というのが流れている。それから察するに、その長田川の東から現在の安城市南辺りまで長田氏の所領であった可能性も考えられる。

 一方の水野氏は知多半島北部の東浦から刈谷に掛けての領地を持つ豪族で、信元が織田方に寄り添った後は長田氏とは隣接する形で争っていたと思われる。

 そうした状況の下で、信元は信秀に相談を持ち掛けたのだ。

 

 信秀も長田の勢力を攻略しようと思えば出来なくもなかった。

 しかし、そこで兵力を割くのは岡崎攻略を目指すうえでは得策では無かったのだ。

 長田氏の勢力は大浜で2000人で、それ以外の兵力も合わせると5000人規模の豪族と考えても良い。

 仮にその砦を正攻法で攻略すると成れば、兵力はその倍から4倍は必要に成る。いわば10000人以上必要なのだ。

 そうした中で攻略出来たとしても全ての兵力が残るわけではない。

 寧ろ怪我なども含めれば砦を落とすまでに半数は使えなくなる。

 

 松平広忠を中心に岡崎の三河勢力が地盤を固める前に、岡崎を攻略しておきたい。それが適わねば三河は今川に飲み込まれてしまう事に成る。

 それ故に信秀としても無駄に兵力を割くより、岡崎攻略に集中させたかった。

 信元を交えてそうした会話が流れる中で、大浜の長田の勢力を足止めさせるいい妙案がないものか模索しているところに、林秀貞が懸案を出した。

 

 「では、大浜の兵力が迂闊に動けないよう、対岸の亀崎(半田市北東部沿岸)から奇襲を掛けてそれを警戒するようにさせては如何でしょうか?」

 

 すると、信秀は

 

 「対岸からの兵を警戒させて、動けないようにさせるという事か?」

 

 と聞くや、秀貞は

 

 「その通りです。寧ろ、大浜の隙を我々が狙っていると悟らせるのです。」

 

 すると信秀は成程な…と少し考えた。

 そこで秀貞は、

 

 「先ず、水野殿の刈谷城の部隊を安祥方面へ侵攻させます。更に我々の主力部隊も安祥へ進めるのです。これに対して大浜の部隊がどこへ動くか…これも見極めます。」

 

 そこで信秀は、

 

 「もし、大浜の部隊が動かずにその場にとどまった場合は?」

 

 すると秀貞は、

 

 「我々が岡崎へ向かって進軍する中で、大浜の部隊が動けないようにするのが目的です。その為、一応の奇襲は行った上で、大浜の港に火をかけて速やかに撤退するだけでも効果は有ります。」

 

 秀貞は続けた

 

 「大浜の港が焼失すれば、長田の動きは止まるでしょう。大浜の主体は水兵で、船の消失大きな痛手と成りますゆえ。」

 

 当時の大浜は海運の要衝で、江戸時代には江戸廻船の基地であったとされる。

 記録上に長田氏の詳しい事は残されてい居ないが、地勢的な事を考慮するなら大浜は長田氏の水軍基地であったとする方が良さそうである。

 そこで、信秀は、

 

 「その奇襲部隊は誰がやるのだ?」

 

 それに対して秀貞は、

 

 「望みとあらば、那古野の部隊を私が指揮してやりましょう。」

 

 と、言うや…

 信秀は少し考えてから、

 

 「いや…そなたには主力の方に居てもらう必要がある…と、するならば信長の初陣に丁度いいかもしれんな…」

 

 その言葉に流石の秀貞も驚き、

 

 「殿、簡単な役目とは言え、この奇襲はかなり危険なものと成ります…若の初陣として扱うには些か賛同しかねます。」

 

 と、諫めるも信秀は

 

 「むしろこの程度で死んでしまうならそれまでよ。ある意味、将としての見極めが出来るなら、速やかに引き返せば危険はない。」

 

  更に目の前に置いてあった地図を差しながら、

 

 「大浜からの退却には、すぐ北の高浜を伝って刈谷に抜ければいい。幸いその北側の勢力は水野殿の支配地域だ・・・この程度の作戦も理解できないうつけならば嫡男として失格とも言える。」

 

 そうまで聞くと秀貞は何も言いかえさなかった。

 そうは言うものの信秀は、

 

 「まあ、信長には歴戦の雄の勝介(名古屋城の家老の一人内藤勝介)を付けておくゆえに、心配はあるまい」

 

 と、大浜攻めを信長の初陣としたのであった。

 

 こうして初陣が決まるや信長は大いに喜んだ。

 

 (やっと本当の戦が出来る!!)

 

 この時、供回りとして岩室らも初陣としてあてがわれた。

 そして河尻秀隆と佐久間信盛が信長の護衛として付き添った。

 総指揮として初陣の守役を任された内藤勝介は、その大役に大いに意気込んだ。

 寧ろ、この勝介の意気込みが、信秀の安心を逆に覆すことに成る。

 勝介は確かに歴戦の雄で、小豆坂の戦いで功績を挙げたとされている。実際に小豆坂の戦い事態は不明瞭だが、以前の安祥城攻略など三河での戦で大功を上げた人物として考えればよいであろう。

 それ故に信長の初陣を前にして大いにその腕っぷしを披露しようと意気込んだのだ。

 

 1547年8月頃と推定(吉良大浜の戦いの日時は不明)

 信秀は部隊を編成して古渡から水野信元と合流するため、刈谷城へ出発した。

 そして、刈谷城で水野信元と合流するや、三河上野の酒井将監らと呼応して先ずは安祥城奪還を目指した。

 安祥城にはかつての松平信定、清定らに使えていた者も多く、それらと呼応する形で包囲を展開し速やかに攻略したものと考える。

 大浜にはもう一つの勢力があったとされ、恐らく大浜の半島北部で高浜との境目辺りに領地を持つ河合氏が居たとされ、その河合氏は信秀と結託しており、長田重元の動向を監視していた。

 安祥城攻略までの過程では重元に動きは無く、いわば刈谷と安祥の距離感からも長田が奇襲を用いるには近すぎた為と考えれた。

 そこから信秀らは岡崎に入る手前の矢作川に差し掛かると、いよいよ長田が動くなら絶好の距離と察して、那古野に早馬を走らせた。

 

 信長の初陣は予め準備されていたこともあり、政秀は紅の横筋を織入れた頭巾に、陣羽織、鎧を着せられた軍馬を用意してそれに備えて信長を着飾った。

 そして那古野城の兵800名を従えて、知多半島を南下し、

 現在の半田市亀崎という場所に布陣し、船で対岸の大浜を狙う作戦に出た。

 既に河合氏からの報告では、大浜の砦ではあわただしく水煙が立ち上り、更には船舶の準備も行われているという事だった。

 ゆえに長田氏が戦支度を整えている事は予想された。

 

 そして半日も経つと大浜から船が出航し始めた。

 船団、関船20隻、小早船50隻という規模だと思われる。

 当時の船には安宅船という巨大なもので、水夫50名と兵50名の100名が乗り込めたという規模で、その下に関船(せきふね)が30名、小早船が10名という定員。

 よって関船20隻で兵数600、小早船50隻で兵数500の総勢1100人の部隊が大浜から出航したことに成る。

 そしてその船団は大浜の半島を南に迂回してから、東に進路を進め、吉良(西尾市)に上陸、または矢作川を上って岡崎へ向かう形で確認された。

 

 対岸の亀崎から大浜は5~6キロ程度の距離ゆえに、そこからもそれは確認できた。

 それから日暮れの時を待って、信長らは大浜の港の北方1キロの場所(碧南市天王町)に向かって出航した。

 恐らく関船は用いずに小早船約80隻で渡ったと考える。

 この天王町とする場所に河合氏の部隊300程度が先行して待機しており、信長の部隊が合流するのを待った。

 この際に河合氏側から軍馬をいくらか運ばせる手はずも整えている。

 

 大浜の砦には900の兵が残っており、対岸から敵が向かって来ることは警戒していたと思われ、その為すべての行軍は夜に行った。

 仮に敵がそれに気づく可能性を察して、予め河合氏の部隊を先行して待機させ、いざという時の伏兵にしておいた形である。

 

 実はこの初陣に於いては信長は指揮権という指揮権は無かったと言える。

 部隊の指揮はほぼ内藤勝介に委ねられ、信長はただ、参戦して経験を積むだけのものでしかなかったのだ。

 河合氏との連絡も勝介が取りあっており、こうした手はずもその勝介によるものであった。

 勝介はその夜の内に簡素な陣容を作って、そこで一晩過ごし、明け方を狙って大浜の港を焼き払う作戦に出た。

 実は寧ろ手早く敵の港を焼き払って夜の内に撤退する方が結果としては賢明であった。

 しかし、長田の本隊は夕刻頃出航し岡崎へ向かったと察した勝介は、砦に残った兵を挑発しておびき寄せ、あわよくば砦を落として信長の初陣の手柄にしようと考えた。

 その為、ここは休息を取って明日に備える事としたのだった。

 勝介の家老としての親心とでもいう所だったのだろう。

 

 そして日が昇る頃には準備を整え、信長を引き連れ300程の部隊で南下し、一気に大浜の港と城下町を焼き払った。

 その後速やかに元の天王町に引き返して、城兵が打って出るのを待った。

 案の定、大軍でないと悟った城兵は、僅か100名ほどを残して追撃してきた。

 焼き討ちに出た信長らが天王町に差し掛かると、城兵の追撃隊も数百メートル付近まで迫ってきた。そこへ居残りの300と河合氏の援軍300で、一気に弓矢での斉射が行われた。

 これで追撃してきた城兵は大きな痛手を被る事と成った。

 そしてこれに信長らの部隊と入れ替わるようにして居残り部隊が追撃してきた城兵に突撃を仕掛け、一気に殲滅を掛けた。

 ところがその後、北から予期していなかった長田の伏兵が現れたのだ。

 伏兵というよりもほぼ岡崎へ向かったはずの兵が北から引き返してきたのだ。

 大浜の半島北の方角は河合氏の拠点があり、退却路として想定していたもので、寧ろ備えは薄かった。

 岡崎へ向かう体で、東に進んだはずの部隊が何故、想定した退却ルートの北側から現れたのか…

 

 奇襲を察して伏せていたのか・・・

 さすがの勝介も混乱した。

 

 勿論、長田重元も奇襲を察していたわけではない。

 寧ろ重元は刈谷へ奇襲を掛ける上で、河合氏がその動向を探るだろうことを想定して、一旦は東に進路を向けただけなのだ。

 その後、油ケ淵に入り込んで進路を西へ切り返し、先ずはその河合氏の居城(恐らく大浜の北、現在の高浜川南方と新川に囲まれた場所)を急襲しようと考えていた矢先の出来ごとだったと考える。

 下手に河合氏に察せられると、むしろ河合氏が刈谷方面から援軍を呼び寄せて刈谷への攻略が頓挫すると考えての策略だったのだろう。寧ろその河合氏に岡崎への援軍に出たと装って、油断した隙にこれを攻略すればという動きであったと考える方が良い。

 長田重元も奇襲を狙って、夜の内に進路を変更し明け方を狙って攻撃を仕掛ける予定であった。

 ところが大浜の港から煙が立ち上るのが見えた為、そのまま南下して引き返したところだったという具合である。

 いわば双方の奇襲がこの天王町で遭遇してしまったという奇妙な形と成ったわけだ。

 

 実際に碧南市の記録では、信長の初陣である吉良大浜の戦いは信長の大敗だったという記録もある。

 その中で、信長は城下を放火したが、長田方の伏兵に遭遇して大敗して逃げ延びたとあり、死者も多数出て現在の碧南市天王町には織田方の使者の為に13の塚が立ったとされている。

 半島の形状から北に退路を確保した状態でこの作戦が実行された場合、それほど大きな損失を受ける前に撤退していたであろう。

 ましてや城内に長田の兵が2000人そのまま残っていた場合、800の兵でこれを迎え撃つことは恐らく考えないであろう。

 仮に伏兵を配置するとしても、織田方の奇襲を予期できた事は難しく、この場所は比較的平地で部隊が影を潜めて動くには難しいのも事実である。

 兵数の観点から見ても、信長の方が半数以下で少なく、寧ろ奇襲による焼き討ちが狙いであった事は明白で、敵地に潜入する場合でも信長の方が夜間に移動した事が想定される。

 そうした中で長田方が伏兵を忍ばせるにしても織田方とその夜間に遭遇する可能性もある。

 

 実際に大浜のもう一つの勢力である河合氏がどの辺を拠点としていたかは定かではない。しかし、半島の形状と、刈谷方面に水野氏が居たとするならば、自然とその後ろ盾を持って長田氏と大浜で対立できたとすれば、大浜の北側にあったと推測する方が無難と言える。

 

 信長の進行ルートに関しては、刈谷から陸路で高浜を通ってそのまま大浜に南下したルートは想定できる。

 しかし、経験も無く初陣である信長が敵よりも少数で無理やり戦う様な作戦は現実的に行わないだろうと考えるのと、仮に多数の死者が出るほどの乱戦と成った場合、そこから無事に逃げれる状況にあったとは考えにくい。

 ただし馬術に優れた信長ならという事も考えられなくも無いが、敵に弓矢が有った場合、中々ドラマの様に上手くは行かないとも言える話だ。

 実は陸路を通って敵の拠点を焼き討ちし速やかに引き返す状態であったら、信長の損失は殆どなく事を終えることに成功したと言える。

 火矢を用いて軍馬を走らせれば300騎も有れば要は足りると言え、追手が追いつく前に撤退することも十分である。

 寧ろ、信長公記などの資料に基づき、無事に役目を終えたとするならば信長の初陣はこうした成行で成立するだろう。

 

 しかし、そうではなく天王町という場で多数の死者が出たという事に成ると、作戦遂行の足は遅く、撤退も速やかに行かなかった事が想定される。

 

 この時代、数百の軍を動かせば何らかの動向は必ず何者か…いわば斥候または間者や忍の目に留まる事は考えねば成らない。

 仮に長田重元が多くの間者を抱えるほどでないとしても、刈谷方面であり、知多半島方面に情報網を持つことは十分に考えられる。

 筆者はその状況を踏まえて、刈谷方面に信長が動き、そこから高浜方面へ向かう動きは寧ろ奇襲としては失敗する可能性を考えた。

 それ故に知多半島の半田方面へ南下して、寧ろ知多半島の攻略に動いたように見せかける方が策としては面白く感じたのだ。

 

 結果として天王町に長田重元の本隊が慌てて引き返してきた時点で、重元が不用意に動く危険性を感じる点では成功している。

 いわばこれが足止めという策略の効果でも有るのだ。

 

 長田重元に対する心理的な効果は上手く機能したとは言え、信長は南北からの挟み撃ちに遭遇し、寧ろ陸路による退路は絶望的な状況と成った。

 されど幸いなことに天王町の海岸には渡ったて来た船がまだ残っていた。

 勝介は敵の存在に気付くやすぐさま秀隆と信盛に、信長と室井ら初陣の子らを船に向かわせ逃がすように命じたのだ。

 幸いな事に敵、長田方の船舶は油ケ淵に停泊した状態に成っており、信長らの船を追跡する部隊は無く無事に亀崎へと渡れたのだった。

 無論、挟撃を受けた状態で、兵力差も倍近くある長田の部隊に対して勝介は奮戦した。勿論信長を無事に逃がす為に殿として立ちふさがったのだ。

 勿論、この状況を察した河合氏もすぐさまその長田の伏兵に対して挟撃するように援軍を差し向けた事は言うまでもない。

 そして河合氏の援軍が届くや、双方が挟撃状態となり長田方にも混乱が生じて乱戦状態に成ったと考えられる。そうした中で殿として立ちふさがった内藤勝介ら殿(しんがり)部隊は多数の戦死者を出しながらも、全滅には至らず、その内藤勝介も何とか無事に生還できたのである。

 

 確かに局地戦としては信長の初陣は負け戦である。

 しかし、大局としては長田重元の河合氏への奇襲は未然に防げたわけで、刈谷方面への脅威もこれによって暫くは封じられたと言える。

 長田重元も信長の奇襲は退けたものの、恐らくはこの乱戦で大打撃を受けて暫くは大人しく静観せざるを得なかった。

 

 無事に那古野に生還した信長は、その後で生還した勝介からその後の経緯を聞いて、その経験を新しい指南役となった森可行に話した。

 そこには沢彦の姿もあった。

 可行は沢彦からも詳細を聞いて、信長の初陣に対して、

 

 「まさにそれこそ孫子で言う、兵は詭道なりですな。」

 

 と、信長に伝えた。

 信長は、

 

 「兵は詭道なり?と、は?」

 

 と、可行に聞くや、

 

 「兵は詭道なりとは、戦は騙し合いの世界でこちらが相手を騙しているようで、相手もこちらを騙そうとするものだという事です。ゆえにこちらが相手を騙せたと思い込んでいるだけでは、逆に相手の企みに嵌って痛手を食らうということです。それ故に戦では常に臨機応変に備えて挑む事が肝心という意味です。」

 

 信長からすれば初陣で痛い経験をしたことから可行の言葉は解りやすかった。

 そして信長はもしかしたらあそこで死んでいたかも知れないという経験を得て、戦をより慎重に考える事の大切さを学んだのである。

 更に可行は、

 

 「先ずは命あっての無事が何よりです。その上で局地的には負け戦だったやも知れませんが、大局として見るならば勝ち戦だったのですぞ…その功もあって信秀殿は無事岡崎を落とされたようですので。」

 

 と、信長を労った。

 

 実際最近の資料では、1547年に信秀は一度岡崎城を落としている。その際に後の家康である竹千代は織田の人質として連れ去られたという説が現在では有力と成っているのだ。

 

 こうして信秀は自身の版図を最大に広げたのであったが…

 寧ろこれが彼の全盛期であり、斎藤利政と今川義元を同時に敵に回したことで、この信長の初陣から翌年には大きな苦境が待ち受けるのであった。

 

 次回は信長と竹千代がいよいよ対面する話へと続くのである。

 

やっと信長たまの初陣にまでこぎつけた訳ですが…

本当に資料を参考にしながら

この流れを見ると頭が痛くなるのです。

 

実際に周辺の情勢を考慮しながら考えないと、

本当にどの資料が正しいのかすらはっきりとしないのも事実です。

 

信長公記には初陣は勝ち戦で終わったと記されているものの、碧南市の資料では負け戦だったとある。

資料の優先度で、信長公記を優先して考えても良いのですが、伝承でその真逆の結果が残っているのはやっぱり無視できない。

そういう流れで精査して、更にはその辺の情勢をも調べてみると、意外と局地的には負け戦でも、大局的には勝ち戦になる状態が見えてきたわけです。

 

まあ、元々800人対2000人の戦いな訳で、

流石に初陣でこれに勝ったのなら、

信長公記で

もっと勇ましく記されててもいいと思う感じでもあったのですが、

意外と内容はさっぱりした感じだったので…

何か…都合悪い事隠したのかなと怪しむ感も否めなかった訳です。

 

そうした中で状況であり地形…

実際に河合氏が大浜のどの辺を領有していたかまでは

定かではありませんが、

半田という知多半島の対岸から船で渡って、陸路を経由して刈谷方面から退却するルートは見えたので、

恐らく想定外の混乱が生じたとするならば、

河合氏の情報に誤りがあった、

また想定していた退却ルートが突如使えなくなったという事情が

思い浮かんだわけです。

 

また、碧南市の資料には信長方の兵が多数死んだと有りますが、

全滅するほどの規模では無かった感じもあり、

織田方に呼応していたもう一つの大浜の勢力である河合氏が、

何の行動も起こさなかったという状態も想定できません。

 

また、この河合氏は長田氏に比べて勢力としては弱かった感があり、水野氏や織田家の後ろ盾で長田氏と対抗していたよ思われます。

そう考えると長田氏がこの河合氏の勢力を狙うタイミングは、寧ろ後ろ盾の双璧が岡崎攻略に動き出す時とも考えられ、今回のこうした流れが想像できたわけです。

 

更には初陣である信長たまがそうした乱戦の中、

無事でいられる保証もなくなるので、

恐らく渡航した際の船でさっさと逃がされたであろう状態も、

当然の事として考えられます。

 

こうした状況を総括してこの初陣を描いてみた訳ですが、

意外とこんな感じだったとして成立すると思います。

その後、信秀が岡崎を攻略したという

最近の資料と照らし合わせると、

戦略的にも辻褄が有ってきて、

寧ろ信長たまの初陣はその奇襲と足止めの意味では

無事目的を果たしたと言えます。

 

まあ、結構大変な作業で…

実はもう一つのPCのブラウザーは検索したページが分けわかんないくらい並んでいて、そうした人物であり出来事に記された内容が

全て繋がるように考えるのは本当に疲れる作業なのです。

一か月に一回しか更新できていない「うつけの兵法」ですが、

どうか末永く読んでいただければと思います。

 

そういえば…日本の元総理の国葬…9月27日って…

実はオッサン先生の誕生日なんですよね。

て…ことは…なんだかそういうプレゼントに成っちゃう感じで…

不思議な感じなんだそうです。

という事で…国を挙げてそういう事に成るのなら、

今回は何も言わないそうです。

 

因みに…悲しいかな…竹内裕子さんの命日でもあるんですよね。

あ・・・それとアヴリル・ラヴィーンも同じ誕生日なんだって…

 

【第三十一話 織田三郎信長】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 吉法師の元服は1546年だったとされている。

 信長公記には13歳で元服したと記されており、現代風に生まれ年を0歳とした場合、1534年6月23日生まれから逆算すると、1547年6月23日に成る。

 しかし、当時は数え年である為、生まれた年は1歳で、その次の年の元旦を迎えると2歳に成るという仕組みらしい。

 ※筆者もこの事を忘れていた為、ここより年数を若干修正する。

 

 1544年加納口の戦いを得て、信秀は道三をあと一歩のところまで追い詰めるも、結果として奇襲受けて大敗を喫した。

 史実の概要と照らし合わせても、溺死者3千人という数字などから、前話に記した戦いでほぼ合致すると言える。

 その後、美濃と尾張、そして越前は暫くの休戦状態を迎える。

 大敗を喫したとはいえ、この戦いで信秀は大垣を得ており信秀の勢力としては全盛期を迎えていたと言える。

 

 吉法師が元服を迎えた1546年はささやかな平穏を迎えていた時期だったと言えよう。

 

 さてここまでの吉法師の成長を簡単に纏め上げておこう。

 

 吉法師は沢彦の薦めもあって、庄内川で戦ごっこに明け暮れていた。

 学業という分野はそっちのけで、自分の好きな事にのみ興味を注ぐ生活を続けていた。

 その一方で気前がいいのか、お人好しなのか、城下の子供たちとの約束で那古野に治水を齎す約束をして、治水工事を行い、結果として石高を飛躍的に上げる実績を得た。

 無論、そこには政秀、沢彦、熱田の加藤氏の補佐あっての物であり、信秀の入れ知恵も忘れては成らない。

 されどこの切っ掛けを導いたのは吉法師そのものである。

 

 実はこの時点で吉法師が「うつけ」であるとは、弾正忠家家臣の誰もがまだ思っていない。

 むしろそうした功績から大いに期待を受けていたと言える。

 

 これらの話は勿論史実として記されている事ではないのだが、今後に起こりうる尾張国内のいざこざ、いわば清州の大和守家と弾正忠家の争いであり、後に家督相続でバラバラに成っても信長に与する者が居た事も踏まえての布石となるエピソードなのだ。

 寧ろこうしたエピソードが無い限り中々曖昧に記された史実の辻褄を合わせることが難しいのである。

 

 この時分、林秀貞はまだ吉法師を見限ていない。

 無論、勉学はそっちのけで遊び惚けている事は承知しているものの、それはまだ元服前の子供の話ゆえに大目にみれる段階なのだ。

 寧ろ、元服に当たって以後の教育係として秀貞本人が引き受ける事を信秀に申し出たくらいであろう。

 

 秀貞としても、那古野治水の話の流れなどから吉法師の器に期待していた。確かに吉法師一人で為した事ではないことも承知の上だが、幼少期の経験としては十分といえる実績とも考えたのだろう。

 また、秀貞は越前の朝倉との酒席で、朝倉の長夜叉が兵法を諳んじる話を意識し、吉法師にもそうした知性を期待したのだ。

 

 こうして一次資料として存在する信長公記にある信長元服の流れが奇妙にも成立するのである。

 

 1546年の元服にあたって、信秀の居城古渡城で儀が執り行われ、筆頭家老として林美作守秀貞、平手中務政秀、青山与三右衛門信昌らがその後見人として名を連ねた。

 そして…元服を迎えた吉法師は、

 織田三郎信長と改め、いよいよ織田信長が歴史上に登場するのである。

 

 ここからは吉法師を改め信長として話を進める。

 

 信長としても元服は待ち焦がれたものであった。

 早く実戦に出てみたい…

 庄内川での戦ごっこに明け暮れながら、自分の中で準備を整えていたのだ。

 第22話うつけの兵法 第二十二話「長槍」 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)の話が丁度この時分になる。

 

 信長はこうした戦ごっこの中で、自然と適材適所の必要性を学んでいった。

 マイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツは部下に求める自信の考えの変化をこう述べている。

 若いころは部下に万能性を求めていたが、ある時からより専門性を求めるように考えが変わった・・・と・・・

 

 信長は庄内川の宿敵八郎と何度も勝負を繰り返すうちに、より効果的な戦い方を模索していった。

 沢彦が農民の子供たちを集めさせて戦わせた意図がそこに有ったのかは知らない。しかし、武家として万能教育を受けた岩室らとは違い、農民の子供たちには得手不得手が散見したのだ。

 最初の内は誰もがそれらを訓練し、自分たちと同じように何でも出来るようにと期待した。

 しかし、一朝一夕ですぐに出来るように成るわけでもなく、武家の子らが出来ているところに達するには数年掛るのも当たり前だ。

 それでも八郎たちとは毎日の様に戦わなければ成らない。

 そうして苦戦して行くうちに信長は出来ない事を求めても結果は出ない事に気づき始め、むしろ出来る事を特化させて戦術に組み込んでいく方法に転換し始めたのだ。

 そういう意識を持ち始めると自然信長の視野は味方全体を見渡せるように成って行ったのだ。

 

 (こいつは殴り合いはダメだが…石を投げさせたら上手いな…)

 

 そういう子には石だけを投げるように命じ、

 

 (ああ…こいつは臆病すぎて何をやらせてもダメか…)

 

 そう感じた子には寧ろ戦闘では無く石を拾い集めさせて、石を投げる奴に渡す役目を与えるのだ。

 更には石を投げる子がもっと早く数を投げれればより効率が上がると考えたら、更に戦闘に不向きな子に集めた石を手渡しする役目を与えることも思いついた。

 以前にも書いたが、これが通説で言われる三弾撃ちの原理である。

 更に信長は石を集める子に、効率よく石を集める方法を考えるようにも命じ、石を手渡す子により手早く渡す方法を考えさせた。

 信長自身もあえてその役割を担いながら方法を模索したのである。

 

 殆どの人間は出来ない子を見捨てる方向で考えてしまう。

 いわば弱い奴は弱いから戦力としては充てにしないのだ。

 信長は寧ろ人を使う意味では心が優しいのかもしれない。

 悪く言えばお人好しなのだ。

 弱い奴がただ殴られて終わるだけの状況を見て、それで良いとは考えない。戦力として自分の方について戦ってくれている事を大事に考えるのだ。

 こうした思考は戦ごっこの中で人を集める大変さから意識し始めたと言ってもいいだろう。

 相手が10人増やしてきたら、こちらも10人増やさねば成らない。

 そうした中でも戦ごっこは怖いから、痛いからと抜ける子も出てくるのだ。

 相手の八郎たちは自分らより年長である。

 その分確かに体つきも力も強いのだ。

 とは言え、信長からすれば相手は農民の子で自分は武家の子であるという意識が年の差の威圧感を克服している。

 しかし、兵力が増えれば増えるほど、味方の士気がより勝敗を左右してくるのも事実だ。

 沢彦が信長に戦ごっこを薦めた意図は、こうした経験から信長が何を吸収して成長していくかで考えており、むしろ何を学ばせるかは考えてはいなかった。

 勿論、大方「何を学ぶだろう」は期待していたが…信長のそれは予想を超えていたと言えるだろう。

 沢彦は戦に於いて兵の士気が勝敗を大きく左右する事を学ぶだろうことまでは期待しており、農民の子らは武家の子より、寧ろそこの差が大きく出る。

 勿論、沢彦は言葉でそういう教えを信長に伝えている。

 その上で信長がその士気をどうコントロールするかまでは、沢彦も黙って眺めるまでであった。

 信長の意識の中では、

 

 (農民相手に負けるわけには行かない…)

 

 自分が武家の子として、そして今後初陣して織田弾正忠家を背負って立つ上では、決して譲れない所だったと言えよう。

 そして本質的な優しさが、戦えない子に戦う意義・・・

 戦ごっこで言うなれば戦う楽しみを少しでも感じさせようとする配慮を齎すのである。

 石拾い…いわば野球部で言うなれば球拾いの様な役割に成るだろう。確かに野球部の練習中の球拾いは試合に何の関係もない雑用でしかない。

 新入部員もダラダラとそれをやらされていたら、野球に対するモチベーションも低下して行く。

 信長なら寧ろその球拾いに意義を持たせるのだ。

 球を拾う際の捕球する姿勢、拾ってからちゃんと的を目掛けて投げ返すという練習の意味を適切に与えてやらせるのだ。

 

 自分の役割に意義を持たせる。

 信長の優しさはそういう部分に出てくるのだ。

 ゆえに信長は自らも石拾いをやってみせた。

 そして誰よりも効率良く石を拾い集める方法を考えるのだ。

 他の者が一つ一つ石を拾って集める中、信長は木の板を用いてごっそりと寄せ集めたり、散見する場所ではその木の板に石を集めて一気に運んだりと効率のいい形を示した。

 さらに信長は投石の上手い千秋と組んで、千秋が素早い連射で石を投げれるように効率のいい渡し方をも練習した。

 最終的には千秋が石を投げたとき信長が石を軽く浮かせるように渡して千秋が左手でそれを掴み右手に持ち替えてまた投げるという連携が形に成ってくるのであった。

 信長は他の者にも投げ手と渡し手でコンビを組ませて、その連係プレイを徹底させたのだ。

 そうして行くうちに、石投げや殴り合いが下手な子でも、渡し手という役割に興味を示すものが出てきた。逆に自分は石を誰よりも効率よく拾い集めて貢献するという子も出てくるのだ。

 また、殴り合いは怖いけど石投げなら練習すれば何とか出来そうという子は石投げを徹底的に練習し始めた。

 信長がそうして皆に戦う意義を与えることで、其々が自分のやりたい役割を見出してそれぞれがそこに特化して修練を重ねることで、いわば短期間で部隊を強く成長させれたのだ。

 信長のこの成長ぶりは沢彦の予想を遥かに超えたものだった。

 沢彦は信長を見ながら、孫子の伝承の一節を思い出した。

 

 (孫子(孫武)は一兵一兵の動向にも気遣い、彼らを大事に扱う事で兵の士気を高めたというが…吉法師さま(まだ元服前)はまるで孫子を知らずして孫子の心を会得したのやもしれん・・・)

 

 こうして信長は組織化した部隊を何気に構成したのである。

 石拾いに限らず、長い竹の棒を振り下ろすだけの者。

 石を投げる者、渡す者、そして室井ら武家の子や、新介に小平太といった前線で戦えるものを統率し、対岸から迫ってくる八郎たち相手に毎日の様に戦い続けた。

 そしてその戦術の連携は徐々に効果的に機能し始めた。

 竹の長槍を振り下ろし敵が怯んだ矢先に投石の連射を浴びせ、近接部隊が切り込み敵を足止めする。その間に長槍と投石部隊は後方に下がって再び陣容を整え、合図とともに近接部隊は再び長槍部隊の後ろへ下がるという連携だ。

 当初は味方の投石が味方に当たるような事もあったが、近接部隊が投石の際に長槍の後ろで味方の投石が当たらないよう盾で守ったり、長槍の間隔を調整して投石の精度を向上させるなどして連携を模索しつつ高めていった。

 そうして行くうちに次第に八郎たちは信長に対抗できなくなっていった。

 

 沢彦はこうした戦いっぷりを政秀や盛重にも見せた。

 そして2人も信長の戦っぷりを大いに称えた。

 特に盛重はこれを見て…

 

 (若は…まるで軍神の化身なのかもしれん…)

 

 と、驚きを隠せずより信長に心を寄せるのであった。

 他にも側で警護していた河尻秀隆や佐久間信盛も大いに期待を寄せる形で見守っていた。更には朝倉宗滴が秘かに興味本位で送った患者もそれを目にしたことだろう。

 政秀に至っては、信長をここへ導いた沢彦の手腕に敬意を抱いた。

 

 元服した後に、信長の戦い方に心酔し始めた佐久間盛重は、筆頭家老として那古野に入った林秀貞にも信長の戦ごっこを視察するように勧めた。

 しかし秀貞は、

 

 「実際の戦と戦ごっこは訳が違う。」

 

 と、一笑して目もくれなかった。

 

 「むしろ若には兵書を学ばせ、初陣に向けて本当の戦に備えてもらわねばならん!!」

 

 と、堅物な考えで盛重の誘いを断ったのだ。

 秀貞からすれば盛重は一介の将に過ぎない。

 その一介の将が評価する戦は、勇猛果敢な猪武者の話だろうと小馬鹿にして聞いたのだろう。

 秀貞の様に軍全体を指揮するのが織田家嫡男としての戦い方と考える意味では、戦ごっこの戦い方など寧ろ「君主危うきに近寄らず」とは別の所にあると考えていた。

 こういう秀貞の堅物っぷりは、政秀はともかく、沢彦は寧ろ嫌っていた。

 盛重が沢彦に、

 

 「美作さま(秀貞)は若の戦ごっこなどには興味はないという感じで、一笑されました。」

 

 と、伝えるや沢彦は、

 

 「だろうな…あれは策士としては優秀かも知れんが…頭が固すぎる。まあ、若の戦い方を見たところで何も感じないやもしれんだろう。」

 

 「されど・・・信秀さまの参謀でもある方ゆえに・・・」

 

 と盛重が何やら残念そうに述べると、

 沢彦は

 

 「美作殿は軍師では無く策士じゃ、軍の動かし方は全て信秀さまの采配でしかない。他でそれが出来るのは政秀殿くらいか…まあ、そなた位だろう・・・」

 

 と、沢彦は盛重の才を称えつつ伝えた。

 

 「兵は詭道成り…軍を動かすのは水物と一緒で柔軟に戦況を見極めて動きを変化させねば成らない。頭の固い人間ではその指揮は採れないのだ。」

 

 さらに沢彦は続ける

 

 「策士は相手の隙を見極める事には長けており、その隙を的確につくことは実に巧妙だが…一進一退の攻防の中ではあまり役には立たない。戦の主体はその一進一退の攻防にあって、その攻防を巧妙に続ける中に隙が生じるのだ。」

 

 沢彦は盛重をじっと睨むように見て、

 

 「武人としてのそなたなら、武技を交える相手との攻防でそれは理解できるであろう」

 

 盛重も沢彦の話はよく理解できた。

 これは寧ろ現代風に言うなれば、サッカーにおけるフェイントが策で、ボールキープが攻防の技術として説明した方が解りやすいかもしれない。

 策いわばフェイントの種類をどれだけ多様に持っていても、相手の当たりに対してのボディバランスやボールキープが出来なければ、相手のディフェンスを結局は避けきれないという話と同じなのだ。

 そしてそうした攻防の中で策=フェイントを適切な場とタイミングで用いなければ寧ろ何の効果も無いものと成ってしまう。

 逆に多様なフェイントを用いずとも、相手の隙を的確について動けばディフェンスを突破する事は十分に可能な話で、多彩なテクニックを披露するネイマールより、地味な動きで的確なコントロールを用いるメッシの方が突破力がある違いでも言える。

 

 秀貞の教えようとしている事は、兵書を学ぶことで多彩なフェイントいわば小細工を学ばせようとすることにある。

 寧ろ沢彦は戦ごっこという実戦に近い状況の中で、柔軟に判断できる感覚を修練させる方が効果的だと考えているのだ。

 

 無論、信長の性格を考えればどちらが適しているかは言うまでもない。ただし、沢彦の教え方は寧ろ信長ゆえに効果的に作用するもので、むしろ他に対しては秀貞の考え方が有効的とも言えるのだ。

 その違いは・・・いわば信長は自分で考えていくからだ。

 いわば、自分で考えるゆえに自分なりの策もそこで適切に編み出していくわけで、兵書で教わった策を手探りで実戦しながら身に着けるのと訳が違うのである。

 ある意味、信長が策を編み出した瞬間は、その場とタイミングにどうしても必要だから思いついたわけで、故にいつでも必要に応じて使いどころまで理解したものになるのだ。

 これはメッシのドリブルでも言えることで、彼の微かなフェイントは常時自分に必要な絶妙なタイミングと場で機能する故に、その動きも自然でぎこちなさも無くディフェンスも簡単に惑わされるのだ。

 そしてそれは自身の必要性と自身の動きに合わせた独創的なものゆえに、相手も見極めにくいものとして機能するのである。

 

 一部の歴史家は最近の研究で信長は革新的ではないという評価を与えようとしてるが…それはその歴史家たちが革新的で無いゆえに解っていないだけの話でしかない。

 また、皇室を尊重していたという姿勢で保守的だったなどと評価しているが…そもそもが彼らの勘違いでしかないのだ。

 確かに信長は誰もが想像するような魔王化した英雄的な人物ではない。

 実は信長は根本的な野心家でもない。ただ自分のやりたいようにやれれば良いだけなのだ。

 そこに無駄な意見が入り込むのは好ましくないと考えているだけで、自分の考えが絶対であるという事でもない。

 ただし自分以外の人間では誤った選択をしてしまう事まで考えると、全ての判断を自分に委ねてくれればその方が効率が良いというだけの話なのだ。

 よって皇室が地位として自分の上にあっても気にはしない。

 むしろ皇室が自分の統治に無駄に意見を述べてかき回す様な事さえなければ、上方の存在として尊重する事も厭わない。

 織田信長という人物を説明する上で、何度も言うが、信長を使いこなせる人物は劉備玄徳しか居ないという事を先ず伝えておこう。

 いわば信義と誠実、そして目指す目標が合致する人物なら、信長はその下でも安心して居られるという事だ。もしくは劉備の子劉禅の様にすべてを信長に託す人物ならその下で最大限に補佐する役割を担うであろう。いわば当時の皇室(宮中)はそういう感じでもあったのだ。

 と、言うことに成ると…信長と諸葛孔明は同一の存在になるのだ。

 

 一般的には性格が違うのでは…と、反論されるのが当然ともいえる。しかし、それは三国志演義で神格化され穏やかなイメージの孔明があるからで、史実として残る孔明の「偉大なる凡人」という評価とは実はかけ離れているのだ。

 更に普通の人は孔明の様な軍師が居ればと恋焦がれるだろうが、実際に普通の人に諸葛孔明を部下として扱えるか?と聞けばどうだろう。

 恐らく孔明は普通の人の下では真面に働かないだろうと言っておこう。

 実際に劉備に出会う前は、言うなればニート状態だった感じで、曹操もNG、劉表もNG、兄の諸葛瑾が使える孫権もNGだった。

 今で言うなればどこも大企業のようなもの。

 その理由は…どこも自分のやりたいようにやらせてくれそうも無いから…だったら何もしないで遊んでるという選択なのだ。

 

 信長にしても孔明にしても、人に試されるのは凄く嫌う。

 普通の人は、その人の実力を見極める上である程度試すのは当然と言えるだろうが…信長や孔明のレベルに成るとその試された中では結果が出せない事を知っているから嫌がるのだ。

 ???何故か…

 実は個人の能力としては突出した才能を引き出せないからだ。

 ある意味、ある程度の剣術は出来ても、自分より優れた剣術家は他にもいる。細かい業務に関しても…例えば経理作業のようなものも自分より経験のある人の方がより効率的にこなせる。

 では…一介の将としては…

 他人の戦術の中に一介の将として組み込まれも、無難にその作戦をこなすことは出来ても、目立つような働きには成らない。

 ただし、そうした中でも他人からする驚くような成果を出すこともあるだろう、しかし彼ら本人からするとその成果は通過点の作業に過ぎず自慢できるほどの成果とは考えないのも事実である。

 ゆえに試験的に使われるような事も嫌うのである。

 寧ろ自分の立てた企画を企画リーダーとして組織編成まで委任してやらせてくれればようやく実感できる成果を出せるといった感じに成るのだ。

 普通はいきなりそんな事をやらせてくれない訳だが、サッカーで言う司令塔であり自分中心で動き回れて初めて機能する才能と言っても良い。

 実際のところ普通は恐ろしくて扱いにくい人物なのだ。

 ある意味やらせてみれば突然化けるのだが…

 普通の人はそんな化け物が目の前に現れてるとは信じられない…

 いわば、誰かを見てその人にそんな才能が有るなんて信じれる人は殆ど居ないだろう。寧ろ大抵の人は自分より才能がある人物と見定める器量は持たないのも事実だ。

 

 ところが…劉備玄徳はやらせてくれるのだ。

 劉備や孔明、信長は人の才能を見極める能力があると言えるが、実際はそれ以外の人でも出来る人は結構いる。

 ビル・ゲイツの話でも出したが、

 大抵の人は人に万能型を求める。

 こういう場合、自然と自己顕示欲が働き、人を下に見てしまいがちになる。そして万能を求めるゆえにどうしても人の短所に目が行くのだ。

 ところがビル・ゲイツが後者として語ったように、特化型を求める意識だと…更に付け加えれば自分に足りないものを求める意識で人見ると、なぜだかその人の長所を探そうとするのだ。

 この意識の違いだけで人を見る目は大きく変わるのだ。

 

 ここで三顧の礼を用いて劉備が孔明をどう見定めたかを説明しておこう。

 劉備は孔明と話している内に、その思考力に圧倒された。

 一般的には天下三分の計に感銘したとされているが…

 正直、あんなものは架空の話でしかない。

 現実的に事実として提示するならば、劉備の目標は漢朝の復興である。劉表の一介の客将でしかなっかた劉備の主導でそれを為しうる話は現実的あり得ないのだ。

 三国志の正史にも演技にも明確に記されない内容でこの三顧の礼を解明するなら…

 

 劉備は孔明に

 「漢朝を曹操の手から救い出すにはどうするべきか…」

 と、いう質問投げかけた。

 孔明はこれに対して・・・

 「劉表の荊州と劉璋の益州が盟約を結び、これに孫呉を加えれば天下を二分して戦うことは叶います。」

 そして、

 「曹操を逆賊となし、大義を劉氏漢朝復興とするならば、手順として先ずは荊州と益州を結び付け劉氏の連合を作り、そこに孫呉を朝廷への貢献という利害を説いて勢力に組み入れるのが得策でしょう」

 これに対して劉備は、

 「その連合は成りうると思いますか?」

 と聞くや、孔明は

 「連合は恐らく今なら成立するでしょう。」

 劉備は

 「今なら?と、は…」

 そして孔明は

 「先ず、荊州にも益州にも、また孫呉にも、曹操の勢いを好ましく感じない勢力は多々居ます。寧ろ曹操を打倒せねばと考える方が主流でしょう。なのでこの連合はどの国でも構想上にあるはずです。」

 更に

 「勿論、曹操もその事は察しているところで、その前に荊州へ攻め込む算段も考えられます。問題は…この荊州をどうやって先ず守り抜くかです。荊州が先ず曹操の手に落ちれば連合を意識する勢力は保身を考え曹操を支持する勢力に圧倒されることも考えられます。また益州と孫呉が分断される形に成ると…連携もまた難しく成ります。」

 劉備の

 「この荊州を曹操の大軍から守り抜くことは出来るのですか?」

 という質問に対して、

 「絶対は無いと言いますが…曹操の進み方次第では可能です。」

 「進み方…次第とは…?」

 劉備が惚れこむ言葉は恐らくこの後の孔明の発想です。

 孔明はこう伝えます。

 「如何なる大軍を以て攻め込んでも、糧道を断たれればその軍は孤立します。漢の高祖が彭越を用いて項羽との戦いで後方攪乱した遊撃戦(ゲリラ戦)を誰かが出来ればの話でもありますが…」

 いわばこの戦い方は劉備の得意な戦術でもあったわけで、知ってか知らずか孔明がそこに目を付けたことに衝撃が走ったのだ。

 ある意味、劉備からすればその役割は自分たちなら出来るという意味で。

 

 少し脱線して三国志のエピソードを伝えたが、

 とにかく信長も孔明も扱いにくい人物で、会話の内容や質問の仕方一つで機嫌を損ねる事もあるわけです。

 むしろ短所を見るような会話だと、凡人にしか感じない回答をするのです。

 扱うには劉備の様に長所を引き出す会話ができ、その内容を理解して馬鹿にせずに素直に受け止める器量が必要に成る。

 いわば話を聞く以上、相手の話を大事に理解しようとする姿勢が求めらる。劉備が「その連合は成りうると思いますか?」とか「今なら…と、は・・・?」と質問する姿勢で自分の理解がまだ及んでいない点を素直に示し考えを聞きたいという形で、今の時間を興味を持って大事にしているという事を伝える気構えが無ければならないのです。

 実は寧ろ海外では当たり前の姿勢な訳で、日本人が知らない事や理解していない事を恥ずかしいと思うとか、相手に無駄な時間を使わせるのは失礼かなと気遣う事は逆に失礼に成るのだ。

 逆に、孔明はあえて「絶対は無い」とも伝えているなかで、そこに揚げ足取る意味で、

 「しかし曹操が守りを固めたらそれは上手くは行かないのでは…」

 と、間抜けな事を言ってしまったら、孔明的にその人物はアウトに成る。

 信長にしても、孔明にしても基本は自分のやりたいようにやらせてくれるかがポイントで、下手な反論を用いることはその人物が時として自分の言葉を拒絶する事を感じさせるのだ。

 ある意味天才ゆえとここは伝えておくが…

 ほんの些細な事でも、自分の思考と異なる状態に成るとその計算が微妙に狂ってくるのだ。

 「泣いて馬謖切る」のエピソードでもあるように、自分の指示を些細な思惑で無視して大失態を及ぼす状態。

 本人は些細な失態で終わると思っている事でも、孔明的には大失態に成るのだ。

 無論、その後馬謖を切って撤退をするわけで、孔明が大敗して逃げ帰ったという状態ではない。

 しかし…孔明の計算では馬謖の居た場所を守らねば結果大敗する状況まで見えていたのだ。

 なのでさっさと引き返すしかないと判断した。

 

 信長にしても孔明にしてもこうした余計な思惑を勝手に挟まれることを嫌うのだ。

 

 一方で劉備の様な人物は解らない事は聞いてくる。

 これも大事なポイントで、そういう人物は自らの思惑を挟む前に必ずこちらの考えを聞いてくる。その上で適切に議論してお互い納得した上で決定してくれるため、孔明であり信長の様なタイプでもやり易い。

 ただし…議論に於ける内容を適切に理解し更には適切に何が一番効果的を見極める能力が無いとダメなのも事実だ。

 いわば孔明や信長の計算以上に効果的または孔明や信長が気付かない発想がそこに無ければ他への決断は許されないのも事実だ。

 ここまでの判断力がある人物と成ると、一般的に、または現代社会の優秀な人物たちの中でも限られてくるか、またはそのレベルでも存在しないと言える。

 

 信長のこうしたエピソードで有名なのは、長篠の戦で奇襲作戦を提案した酒井忠次の話がその一つであろう。

 軍議で提案した時、信長は忠次に激怒して見せその懸案を一蹴したという話で、軍議の後でひっそりと呼び出してその懸案を大いに褒めたたえて実行させた。

 結果、その功もあって長篠の戦いは予想以上の効果を上げたとされるが、軍議の場でそれを採用すれば、敵の密偵がまぎれていた場合、それが筒抜けに成ってしまう些細な配慮まで信長は気付けてしまった点にある。

 これは史書に記されているエピソードだから、信長の配慮まで知りうる話になってはいるが、ここに信長の上に誰か居た場合、むしろ信長が孔明の様な立場で軍師であった場合、激怒を演じて忠次の懸案をみおくる姿勢を察せられるかというと…ほぼ皆無で、むしろその場で忠次の懸案を採用してむしろ失態を演じてしまうのではないかと思われる。

 

 劉備の様な人物は、孔明の話す内容を「状況次第では可能」という意味で適切に捉えて、その内容が理に適う点で納得できる。そういう所から、また別な状況に成ればその時何か思いついてくれる人物としての期待を孔明の長所として見抜いたわけだ。

 また孔明が異質な才能ある人物とも見極め、信長が見せたような感情的とも見える部分も、何か意図するものがあると察して合わせられる度量も劉備にはあった。

 故に、孔明はその後も劉備から離れずに入れた訳だ。

 反対に孔明であり、信長の怖さのもう一つは、言葉の流れ、表情、声のトーンまで見極めて相手の心情まで読み取る事にある。

 なので一言間違えたら逆鱗に触れるわけで、相手が誠実な姿勢で挑んでいるか否かまで見抜いてくる。

 とは言え誠実に求めれば彼らを使いこなせるというわけでもない。

 先ず、前述にも記したように、ある意味我がままなのだ。自分がやりたいようにやらせてくれるか否かで仕事に対する姿勢も態度も変わってくる。その辺は凡人いわば普通どこにでもいる人と変わらないように見えてくるだろう。

 更に厄介なのがやる気がない時に文句を言われると逆鱗に触れて去っていくから、むしろ真摯職をこなす真っ当な人からすると凡人以下にしか見えないのである。

 ただし、三国志の龐統エピソードでもあるように、自分の分野の仕事の場合、やる気を出した時の手際の良さは常識を超えたものに成る点は事実だろう。

 馬鹿と天才は紙一重と言うが…信長や孔明に限らず、世の中にはこういう天才型が結構埋もれているのも事実である。

 凡人なのか奇人なのか区別つかない故に普通の人は避けてしまうのも事実だろう。ただし彼らの才能を引き出し味方に付ければその心強さは計り知れないと言っておこう。

 しかし、彼らの気質を理解し、その才能を見いだせていない人には寧ろ失望が先行してしまうだろう。

 仮に彼らが能力を発揮して実力を示した際は、その才覚に恐怖してしまうケースもある。

 

 ある意味、足利義昭がそこに陥ったと言える。

 昨今信長は誤解されて見られがちで、孔明の様な人物ではなく寧ろ野心を剥き出しにした曹操の様に見られがちだ。

 ゆえに足利義昭を傀儡として扱おうとしていたと考えられがちだ。

 しかし、多くの人が義昭と同じ錯覚に陥る程、信長の実績とその才覚にに畏怖したと言えよう。

 畏怖して見えるゆえにその本心まで野心的なものと考えてしまうのだ。

 しかし、信長が義昭に送った「殿中御掟」であり「異見十七ヶ条」は君主たる者の姿勢をしたためたもので、信長からすれば決して自分の傀儡とするための義昭への束縛ではない。

 寧ろ、その内容は信長が当然の事として心がけている内容とも言えるもので、むしろそれは自分の臣下に対して誠実な姿勢を示している。

 孔明は劉禅に対して似たようなものを送り付けている。

 また、出師表でもそういう戒めの言葉を伝えている。

 

 土岐頼芸が斎藤道三を恐れた話は前に記したと思う。

 信長も誠実に義昭を補佐して天下泰平を実現しようとした。

 無論多くの人が信長を疑うように、数多に存在する敵を効率よく排除するために義昭を利用したとも言えるだろう。

 それも信長の計算の中では嘘ではない。

 ただし誤解されるのは信長の合理的思考だ。

  信長の目的は天下泰平を齎すことで、それを自分の天命としていた。そこには自分が将軍であり王として君臨する必要性は無く、その地位はそれ相応の人物が担っても構わないと考えていたのだ。

 ただし自分の理想とする社会構成がその中で実現できれば良いだけの事だった。

 いわば万民誰もが身分に関係なく生きる選択が出来る社会を目指したのだ。

 これはこの物語の最初に伝えたことでもあり、信長は自らが死した後、生まれ変わる先が農民でも自分の才覚一つで伸し上がれる土台を作りたいだけなのだとも伝えている。

 いわばそれこそが英雄が為しえるべき世界で、それを齎してこそ真の英雄なのだとも考えていた。

 結果として…この信長の理想は坂本龍馬を経て、明治維新になって初めて実現した社会で…今の日本がその姿そのものとも言える。

 

 信長がそれを理想としたその証明の一つが秀吉の存在でもあるのだ。

 信長は秀吉の才覚を単に利用したのではなく、才能あるものは農民の中にも居る事を証明して見せたのだ。

 また義昭に示した戒めの中にも身分に関係なく丁重に扱うようにお願いする文脈も残っている。

 先ず、これが信長の目指した社会であり世界観であることを理解してほしい。 

 

 故にその社会を実現するには、先ず天下を泰平に導くことが最優先であったのだ。

 そういう意味で足利義昭という征夷大将軍の下で実現することもその道の一つとして受け入れていたのだ。

 されどその義昭が名君として泰平を導ける存在に成らねば戦乱の時代の争いは収まらないという事情もあった。

 いわば将軍の評判が良ければ、その人物を将軍として立てる事に異を為す者は少なく成り、逆に評判が悪ければ異を為して別の者を立てようとする勢力が増大する。

 応仁の乱から明応の変を経ての戦国時代と言われる状態が実際にそれを物語っている。

 信長が義昭にしたためたものは全てそういう戒めを込めたものなのだ。

 しかし、信長のそうした誠実な願いは義昭に届かなった。

 逆に義昭は細川の傀儡として、三好の傀儡として将軍職が利用されてきた事から、信長もそれと同じと疑いはじめたのだ。

 そして表面では誠実さを保っているものの、腹の内では自分を排斥しようと考えているのではと疑うのも無理ない事だ。

 信長にしても孔明にしても、相手がそういう猜疑に陥るだろうことは直ぐに察せられるが…その猜疑が出たとき相手をコントロールする難しさも知っている。

 信長の勢力はそれだけ義昭よりもはるかに大きく、また事実そういう誠実な姿勢を示す信長の人間としての魅力は寧ろ人望の無い義昭にとっては脅威にすら感じるものだったのだろう。

 むしろなまじ教養があり、三国志の曹操の様な人物として信長を見ていたのなら、そう感じても不思議ではないのだ。

 

 勿論、信長も信長で自身の勢力を広げることで義昭をある程度コントロールする地位は担保して考えていたのは間違いない。

 ここは理解が難しい部分かも知れないが、信長の目標は自分が理想とする社会を天下に定める事だ。

 そういう意味でもし義昭では無理と判断した場合は、最悪割り切らねばとも考えていた。

 いわば最悪割り切らねばと考えていた訳で、合理的に考えるとその行為は自らの信義を損ねる事も覚悟せねば成らない事を信長は知っていた。

 いわば、信長は美濃攻略を果たした以前の家臣は別として、それ以後に加わった家臣たちに対しては幕府復興を信長の信義として従っていた訳で、それを裏切る事の意味を考えていたと言える。

 打算で考えれば、彼らが反乱を起こすのを避けたいという思考にも成ろう。

 ただ信長は誠実な心を尊重したい故に、彼らの想いを踏みにじるような事は避けたいという意識があったとも言えるのだ。

 そこは人それぞれの見方で構わないが、いずれにしても義昭を排除する考えは得策ではないのだ。

 故に義昭が信長に反旗を翻しても、信長は義昭を殺さずにいたのだ。寧ろ殺さずにいたというよりも、どうやら現行の資料解析では義昭と何度も和解しようとしていたらしい。

 簡単に倒せる相手だった故の演出なのか、誠意だったのか・・・

 既に義昭が猜疑を抱いてしまったその時点での信長の思考は性格上どうとも言えないが…そこは既に前者の形で考えていたと言ってもいいだろう。

 

 諸葛孔明と照らし合わせて巷で考えられる信長とは全く別物である点はある程度理解できたかもしれない。

 そして信長の革新的な発想は、自由と平等をその時代に既に求めていたことだった。

 保守的な室町の身分社会に固執する人間たちからすれば、それはあまりにも革新過ぎる発想で、アメリカの奴隷解放を唱えたエイブラハム・リンカーンにも似た事情がそこに有ったと言えよう。

 歴史家たちは一度その辺を紐解いて信長の功績を見直してみて欲しい。

 

 合理的に考えようとする信長と、固定観念で「戦のやり方とはこういうものだ」と決めつけた様に考える林美作守秀貞とは、実に相性が悪いのだ。

 

 勿論、元服を迎えた当初は、秀貞の授業も暫く聞いていた。

 しかし信長からすれば眠くなる話でしかないのだ。

 悪く言えば学校の詰め込み授業と言えるが、

 信長からすれば進学塾の講師が解りやすく教える授業でも眠くなるだろう…何故なそこに合理性が無いからだ。

 同じ鶴翼の陣の話でも、沢彦はその使い方を合理的に教え、実践することでその効果まで実感させた。

 しかし、秀貞のは

 

 「鶴翼の陣の形は箸をこのよう(V字)に置いた形で考え、敵を両翼の内側に引き込んで包むように攻撃するものです。」

 

 と、説明するのだった。

 信長の言う合理的とは、どうやって敵をその内側に引き込むかが大事なので有る。

 また、敵がその陣容を見れば鶴翼であると分かってしまう。

 相手がこちらが鶴翼を敷くと解らないように陣容をどう組み立てるかが秀貞の話には無いのだ。

 無論、信長は既に沢彦からそうした事も教わっている。

 故に秀貞が説明しないのならこちらから質問する気もないのだ。

 ある意味、秀貞は教え方下手だっただけなのかも知れない。

 ただ、信長に限らず、室井らも秀貞の授業は耐えられないと感じるほどだった。

 

 父信秀の参謀でもある林美作守秀貞の授業であるがゆえに、どんなものかと期待したが、結局は沢彦や盛重のそれと比べると全くつまらないのである。

 そして暫くすると信長たちは秀貞の授業を抜け出して、庄内川へ遊びに出るようになったのだ。

 信長の年齢も丁度現代で言う反抗期に差し掛かったころである。

 秀貞は信長に立派な教養をと思って授業をしていたわけだが、自身の教え方は差し置いて、それを投げ出す信長に呆れかえった。

 無論、秀貞は実質弾正忠家のナンバー2という地位もあって、政秀も秀貞に何も言えなかったのも事実。

 寧ろ守役として信長に授業を受けるように口うるさくいうしかなかった。

 政秀の心労が始まるのはこの頃からであろう。

 ある意味、今までは政秀も自分の裁量で何とでしてあげられる範疇ゆえに仕方ないと許せてきたのだが、秀貞を交えた話に成るとそう簡単には行かないのだ。

 勿論、信長はそんな政秀の話など聞く耳も持たず、むしろ

 

 「美作(秀貞)の話など無駄事だ」

 

 と、反抗するのであった。

 秀貞としても期待を裏切られたどころか、逆に信長に馬鹿にされたと感じたであろう。

 そして暫くすると秀貞は那古野に顔を出さなくなった。

 

 秀貞は策士として執念深い性格でもあった。

 寧ろ、策士である故に執念深い。

 また、策士で有る故に陰湿なのだ。

 逆に信長の執念深さとはまた違うのである。

 

 秀貞は信長の近況を古渡で信秀に報告した。

 開口一番、秀貞は

 

 「殿、申し上げておきますが…今のままでは若は猪に成りますぞ!!」

 

 そう伝えるのであった。

 信秀はその言葉に、

 

 「猪とは…どういう事だ?」

 

 「若は確かに勇ましく成長されてます。しかし、あれは一介の将としての成長で、軍の指揮を執る者では有りませぬ。」

 

 秀貞は盛重を勇猛な将としては認めているが、盛重の戦い方は自ら先陣を切ってその武技によって敵を殲滅するのものだった故に、盛重が評価する意味をそう捉えたのだ。

 逆に自らが教えようとする兵法であり戦術、そして教養などに興味を示さない姿勢でより強くそう感じるであった。

 

 そして信秀は、

 

 「で…そなたは何を教えようとしたのだ?」

 

 と、聞くや、

 

 「勿論、兵法から陣立てに至るまで・・・しかし、若は全く興味を示す様子もなく、孫子ですら全く覚えようとしませぬ。」

 

 と、秀貞はまくし立てるように語り、

 

 「彼を知り、己を知らば百戦危うからず であり、風林火山の言葉すら暗記しませぬ・・・あれはうつけなのかと思ったほどです」

 

 秀貞の話を聞いていると信秀も心配に成ってきた。

 ある意味、孫子の初歩で暗記するのにさほど難しい言葉ではない。

 逆に、信長からすればその意味を理解できれば十分なのだ。

 無論、その様な事は既に盛重から教わっており、

 寧ろ、盛重からは、

 

 「自分が相手だったらどう考えるか、相手が自分だったらどうするか、それを常に心がけて敵と向き合いなされ・・・」

 

 と、信長は教わっている。

 故に孫子のそれを聞いて、信長としては既にそれは理解しているで言葉をイチイチ暗記する必要性を感じなかっただけだ。

 

 しかし、信秀は盛重や沢彦が信長に何を教えたのかまでは知らない。勿論、治水の際に、熱田の加藤から知行の話であり商売の話は学んでいるくらいは逆に知っている訳で、信長がそこまでうつけとは思っていないのも事実だ。

 

 そこで信秀は一応信長の指南役として認めている盛重を呼び出して話を聞くことにした。

 後日その盛重は古渡に現れた。

 

 「大学助(盛重)よ、そなたは信長の成長をどう見る?」

 

 すると盛重は誇らしげに、

 

 「まるで軍神の様に成長されております。」

 

 人の言葉は時として誤った意味で伝えてしまう。

 いわば盛重の伝えたいのは、陣立て、陣容、指揮すべてに於いて見事だと伝えたつもりであった。

 しかし、信秀も盛重の勇ましいまでの戦いっぷりを良く知っている。

 それはまさに鬼神の如く敵を殲滅するもので、むしろ力で敵をねじ伏せる様なイメージであった。

 無論、盛重は兵法にも長けている。

 されど盛重が戦場で与えられる役割は寧ろ戦術に組み込まれた突撃という役目なのだ。

 勿論盛重の突撃は敵の陣容を見定めて効果的に敵が崩れる場所を見極める戦術眼が求められる。

 時には敵の一部を引っ張り出して陣形に穴をあけるなど、ただ猪武者として突っ込んでいくわけではない。

 それでもそれを指揮し指示するのは信秀の様な大将のすることで、盛重の様な将を駒として使うのが役目になる。

 信秀は盛重の言葉を秀貞と同じように駒としての勇ましさと受け止めた。

 故に…

 

 「信長の戦い方は勇ましいか?」

 

 と、聞いた。

 信秀の意味は駒としてのものであるが、盛重はその質問をそのまま信長の軍を動かす指揮力で捉えた。

 

 「はい!!勇ましいです。」

 

 ある意味信秀は駒としての勇ましさも将として大事な事と思ってはいるが、それに加えて信長には秀貞が言うようにもっと指揮官としての成長も望むのであった。

 

 信秀は暫く言葉を考えて盛重に

 

 「信長に対するそなたの教育には大変感謝しておる。しかし、そなたにはやはり今後、前線で活躍してもらわねばと思ってな…」

 

 盛重も何気に察した…

 

 「また三河の動きがキナ臭くてな、今後は那古野の守備ではなく鳴海方面を任せたい。」

 

 そして盛重はその下知を素直に受け止め、

 

 「はっ!!有難きに存じます。」

 

 と、従った。そして一言付け加えたのだ。

 

 「今後の信長さまの指南役の件ですが…一つ宜しいでしょうか?」

 

 信秀も盛重は大事な家臣で有るゆえに、無下にはできない。

 信秀は盛重の発言を許した。

 

 「先の美濃との大戦で、美濃より出国してきた森可行という者がおります。犬山の信康さまと栗栖で対峙していた将ですが、道三とは馬が合わず将を解任された事もあって、美濃を出奔し今は私の客人として庇護しております。」

 

 信秀も弟の信康からその名前はしばしば聞いていた。

 

 「それで…その森可行とは…どういう人物だ?」

 

 盛重は、

 

 「義に厚い人物で、その武技は鮮やかでこの盛重も魅了されるものでした。されど美濃から出奔した事もあって織田家に使える事は出来ぬと申しておりますが、むしろ信長さまの指南役としてならと思いまして…」

 

 後の信長の腹心となる森可成の父、森可行はあまり史実に記録のない人物であるが元は美濃の名家である。

 源頼朝の流浪時代からの縁もある家柄で、土岐氏の中でもそれ相応に地位があったと察せれる。

 土岐頼芸が追放された後も、道三に一時期使えていた様でもあり、故に本編では道三から栗栖方面の指揮官に一時期任命されたとした。

 しかし源氏の名家として、また土岐家の家臣として寧ろその忠義を疑われ斎藤正義と交代させられた人物として記している。

 その後、その交代で道三からの信用は得られないと察した森可行は、下手に森家家名に汚名を着せられて粛清を受けるならばと考え、秘かに美濃を出奔する流れで記している。

 

 出奔してからの流れは、義に厚い人物であるがゆえに旧知で以前の主君でもった土岐頼芸を頼る事は寧ろできなかった。

 森可成の出生場所から笠松方面で何らかのつながりがあり、ある意味美濃加納の商人との繋がりから熱田の加藤家に身を寄せた流れで考える。

 そして熱田の加藤家の紹介で平手政秀の紹介を受け、そこから織田家への士官を薦められるも、政秀の説得が叶わず、むしろ武芸の面で話が合う佐久間大学盛重に客人として預けた流れとする。

 

 盛重も可行の士官を説得しては見るものの、それは難しいと考えてはいたが、むしろその義侠心に惚れこみ彼を庇護する形で扱っていた。

 可行は盛重の知行からいくらかの農地を買い上げて、家族と共にひっそりと暮らすことを考えていた。

 

 こうした流れから盛重は信長への指南役としてならと考え、この期に信秀に推挙したのだった。

 信秀は盛重から経緯を聞き、その可行に興味を持った。

 当初は信長が猪武者として成長するのを警戒して、盛重を体裁よくその指南役から外すことが狙いだったが、可行の話を聞いたあとではもうそれはどうでもいいことに成った。

 また、可行が栗栖で指揮官として弟の信康と一進一退の攻防を演じた人物であったこともあり、むしろ危惧していた部分も払拭されると考えた。

 信秀は、

 

 「盛重よ…ならばその森可行に信長の件よろしく伝え申せ」

 

 といって盛重の推挙を聞き入れた。

 

 その後、盛重は可行に信長の指南を頼んだ。

 この時、盛重は沢彦を一緒に連れて行った。

 勿論、可行は士官は断る話であったが、沢彦が、

 

 「わしも織田に仕官している訳ではない。わしは坊主として信長さまを弟子にしておるつもりでな…」

 

 そして沢彦は、

 

 「信長さまは中々に面白い。弟子にしてみるのもいいと思うのだが…」

 

 と、可行の心情を察しつつそう説いた。

 その言葉に可行は

 

 「弟子などとは恐れ多い事です。されど…仕官するという事でなく私程度の者でも何か伝えれるものがあるならば、それをお伝えするのも一興かなと…」

 

 そして可行は改めて、

 

 「大学殿(盛重)…ならば是非よろしくお願い申し上げます。」

 

 と、盛重の誘いを受け入れたのだ。

 

 さて…この森可行はその子息である森可成を通じて、後の信長の秘蔵っ子森蘭丸、そして最強の武人とも言われる森長可へと繋がるのである。

 信長がこの森家を特別に扱っていたのは言うまでもない。

 ある意味、この森家との繋がりが有る故に蘭丸は特別な子であったのだ。

 

 こうして元服を終えた信長は森可行という新たな師範を迎えいよいよ初陣へと向かうのであった。そしてこうした繋がりが家中で劣勢に立たされる信長の窮地救うのである。

 

どうも…ショーエイです。

一般的には信長たまが大事にしていた武将は、

は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と

池田恒興、前田利家では無いかと言われています。

それはある意味、後の実績から察せられる事なのですが…

 

実は総合的な統治能力とは別に、

信長たまが個人的に大事にしていたのは、

幼少期の悪童たち、岩室、長谷川、山口、加藤、千秋に、

池田恒興や前田利家、佐々成政などはもちろんの事、

今回の話で登場した森可成、

更には河尻秀隆や佐久間信盛も実は大事にしていた武将です。

ただし、信盛に至っては

あまりにも人に対する礼を欠く存在あったため、

再三の忠告を無視して驕りも生じていたので、

見せしめに追放した感じです。

更には内政面では

実は村井貞勝も大事にされていた人物で、

これらの人は基本的に信長たまの小説などでは

あまり目立って登場しないです。

 

秀吉に至っては、農民上がりで才能が有ったため、

ここでも話した様に

身分の関係ない社会の理想を証明する意味で、

大事にされていたと言えます。

 

こうした中で、信長たまは軍を統率して行ける才能と、

そのリーダーとしての魅力があるかで判断し、

寧ろ戦いでの武功があっても、

大軍を統率するという指揮官としての才能というより、

それを寧ろ望まない性格の人物は、

自分の直属として側に置いていた感じです。

 

因みに…信長たまの直属、

黒と赤の母衣衆は滅茶苦茶強かったです。

というよりこの部隊が強かったから、

信長たま自身の戦功も突出していたと言えるのです。

寧ろ織田軍団の立場としては、

彼らの立場は柴田勝家や丹羽長秀、秀吉、光秀、

より高かったと言えます。

 

いわば現代の政治で言うなれば、

柴田勝家らは大臣という見方もあるかも知れませんが、

寧ろ都知事や県知事の存在です。

アメリカ的には州知事で、

州軍を指揮したり、州の政治決定を委任された感じ。

 

寧ろ大臣や長官的な中央の政治にかかわる人は、

黒と赤の母衣衆や村井貞勝の様な立場で、

信長たまの側に居たという感じです。

仮に勝家たちを大臣とした場合、

母衣衆は政策秘書と言う感じにもなりますが、

権限や地位を考えるとまた違う感じなのです。

 

因みに黒母衣衆だったとされる津田盛月が、

柴田勝家の所領と接していて入り組んだ利権の争いで、

柴田勝家の代官を切り殺してしまった事件があったようです。

勿論信長たまは裁判上、身内同士の抗争は許さず、

犯行に及んだ津田盛月と

その兄中川重政を改易処分にしてますが、

あの柴田勝家と

そういう事件を起こせるほどの立場であった事は明白です。

 

いわば母衣衆が勘違いするほどの権限が

彼らにあったという感じで察すればと言う話です。

 

とは言え元服をようやく迎えた本編…

いよいよ初陣へを駒を進めていきますが、

その前に林秀貞や森可行との関係を交えて、

初陣の裏側を次回に記したいと思います。

 

ネタバレでいうと…

吉良大浜の戦いは…信長たまの負け戦です!!

【第三十話 マムシ戦法】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕

 

 毒蛇は草むらに潜み相手の隙をついてその毒を以て捕食する。

 道三の頭は今、まさにその毒をどこに潜ませるかを考えていた。

 

(敵は既にこちらの窮地を悟っている…)

 

 一般的多くの人は相手に自分の弱みを見せたくないと考える。

 いわばその後の交渉で少しでも優位性を保とうとするためにそう考えるのである。

 その為、情報漏洩を防ぐため四苦八苦するのだ。

 そうして四苦八苦すると、指揮を執る本人は状況を理解していても周りの人間は指揮者が理解していないのではと錯綜するのだ。

 どこの企業の会議室でもよく見られる光景かもしれない。

 指揮者以外の人間は情報を把握して打開策を練る方向で考えたいのだが、指揮者は寧ろその打開策で何とかできるとは思っていないため、ついつい外部に漏れないようにとそれを否定しまいがちにもなる。

 いわば指揮者の頭は戦争なら休戦であり和平交渉で解決する形に持って行こうとするからだ。

 人間、保身が先行すると自然とこういう形に成りがちである。

 ところが死ぬ覚悟を決めた者は全く別物なのだ。

 

 達人同士が刃を交える際に、我武者羅に自分を殺す気で向かって来る相手は確かに怖い。しかし、そこで脅えるのは敗北を意味してしまうのだ。

 相手が野獣同然に向かって来るのなら、相手に一打食らわせるだけで相手は怯む。一打食らわせずとも上手く避けるだけでも効果は出る。いわば殺す気で向かって来る相手が一度自身の保身を頭に過らせると意外ともろく崩れるからだ。

 そういう意味で一番怖いのは、死ぬ覚悟を持った相手で、一挙手一投足冷静に見極めてくる分、一瞬の隙が命取りになるのだ。

 プロボクサー同士の戦いでボクサーが殴られる事を恐れない姿は正にそういう境地と言っても良い。

 

 決死の覚悟とは誰もが簡単に口に出すが、実はそんな簡単なものではない。

 また猪突猛進の様な自決する覚悟の相手も違うのだ。

 

 道三の覚悟は、勝負に負ければ命を落としても悔いはないという所である。その上で今命のやり取りの中で、相手との勝負を楽しむというものである。

 いわばこの窮地を道三は楽しみ始めたのだ…

 ゆえに自然と孫子の基本、「彼を知り、己を知る」事が見極められるのであった。

 

 軍議を開く中で、家臣たちは口々に…

 

「殿…敵がここまで迫った以上、木曽川に展開する部隊を集結させて稲葉山で籠城するのが得策かと…」

 

 と、懸案してくる。

 道三はその言葉を寧ろ冷静に受け止めて、

 

「他の者も、それが適切と考えるか?」

 

 と、あえて聞くのであった。

 すると家臣団は顔を見合わせつつお互いにうなづき合って意思を確認しだした。

 道三はその様子を観察して、あえて返答を求めることなく、

 

「ははは・・・なるほどな、皆がそう考えるのならそうなのであろう。」

 

 と、笑いながらそう伝えた。

 この時、道三の中では自身の思い描く計が大方機能する事を確信した。

 更にはその場でこう告げたのである。

 

「ならば…籠城する方向で調整しよう。皆の者沙汰を待て」

 

 と言って締めるのであった。

 敵を騙すなら味方から…と、良く言うものだが、

 味方に嘘を述べるのが得策ではない。

 味方には「前向きに考える」という形で道三は伝えたのだ。

 これは君主として人の心をとらえる者は常に考えておかなければ成らないのだ。

 味方に嘘を述べて計を行うと、その計を知らされたものと、嘘を付かれたものとではその信頼関係に差が生じてしまう。

 「敵を騙すなら味方から」という言葉は当時でも誰もが認知する言葉である。その中で「嘘」の中に置かれた者は、自分が信用されていないのではと錯覚する者も出てくる。

 人の心がそうした些細な事で崩れていくこと知る上では、事が治まった後の事も考えて注意しなければ成らない。

 ゆえに道三は「前向きに考える」と伝え、「沙汰を待て」と止めた上で、必要最小限の指示で行うという形にしたのである。

 

 さて…ここからは戦の演出家の手腕が問われる部分である。

 道三は先ず、笠松に布陣する安藤守成に稲葉山寄りに幾分か後退して、高台のある場所に陣を敷くように命じた。

 無論、これは木曽川を挟んで対陣する尾張本隊からすれば水計を狙ったあからさまな布陣に見える。

 また道三はその場所であえて要塞を建設するようにも命じたのだ。

 要塞と言っても木材で防御を固める程度のものだが、その作業で何日かは掛るのだ。

 対陣する尾張本隊の坂井大膳は2,3日もすると少し違和感を感じ始めるのであった。

 大膳も稲葉山が包囲されつつある状況は知っている。

 その上で今水計に嵌めようとする動きを警戒して木曽川の渡河を躊躇している自身の判断に疑念を抱くのであった。

 

 (足止め…か・・・?)

 

 大膳はそう警戒感を抱いて、木曽川の堤防付近の様子を探らせるように犬山城の織田信康に命じた。

 対岸の堤防を守る氏家直家隊は未だそこの守りを固めて、さらには可児郡の斎藤正義隊も陣容を崩していない事を確認した。

 勿論この時点で道三からの指示は双方に伝えられている。

 更には氏家直家は堤防の場所に大軍が渡りやすいように橋を拡張し始めた。

 ここまで来ると何か怪しさを感じる。

 そこで大膳は道三が今何を一番狙っているのかを考えた。

 

(尾張からの渡河の足止めで一番狙いやすいのは…)

 

 無論、誰もが気付くであろう…

 

(稲葉山を包囲する井ノ口の部隊への奇襲か!!)

 

 勿論、道三もそれを実は狙っていたのだ。

 しかし、安藤守成も氏家直家の部隊も、そして斎藤正義の部隊も未だ動いてはいない。

 大膳は策士らしく思考を巡らせて考えた・・・

 

(ならば奇襲の機会をどこかで合わせるか…)

 

 策士なら孫子の兵法の基本は誰でも知っている。大膳はそのタイミングを見極めるのに自身が渡河を一番警戒する時と考えた。

 

(雨の降った時・・・)

 

 はてさて道三との駆け引きは如何に…

 

 大膳は自身の考えをすぐさま早馬を走らせて井ノ口側の方へ伝えたのである。

 無論、信秀と宗滴という優秀な戦略家が居る井ノ口対岸でも木曽川の状況は把握していた。故に大膳の知らせに驚くことは無かった。

 恐らくはその頃合いと誰もが意識したのである。

 

 1544年10月8日(旧暦 天正13年9月22日)ついにその時が訪れた。

 さて…ここで誰もが忘れている稲葉一鉄の存在である。

 前日の夕刻過ぎに雨が降ろ始めると、揖斐城付近で潜伏していた稲葉一鉄の部隊が突如、その揖斐城を急襲した。

 勿論の事、道三より開城して潜伏することが伝えられていた一鉄はここに攻め込みやすい抜け道をあらかじめ用意していたのだ。

 更に加納口への兵力集中で揖斐城の守備は薄く備えていた事もあってそこに入っていた土岐頼純を逃がすのが精いっぱいで陥落したのである。

 この一報が尾張越前連合に伝わるや、焦りを生じさせたのである。

 道三の狙いはこの焦りを生じさせることにあった。

 井ノ口対岸の部隊は急襲がある事に備えて陣容を構えてはいたが、越前への退路と越前からの補給路を断たれたことで動揺したのだ。

 こうした動揺を察して信秀も宗滴も、

 

(道三め!!やはり備えていたか!!)

 

 と、痛感したのだ。

 いわば兵士より寧ろその動揺は越前の将たちに広がったのだ。

 彼らは孝景に、

 

「殿!!ここは先ず後方の退路を守るのが適策なのでは!!」

「根尾川との合流地点を固めねば、我々は孤立しますぞ!!」

 

 信秀も宗滴も、この動揺こそが道三の狙いであると悟った。

 宗滴は孝景に、

 

「これは敵の謀!!今動くは敵の思う壺です。ここは敵の急襲を防いだ後に対応するべきかと!!」

 

 そう伝えた。

 孝景も冷静な将である故に、宗滴の懸案を受け入れた。

 

 こうした状況は木曽川の坂井大膳の元にも届いた。

 大膳はもしやと思い、犬山の織田信康に堰のある坂祝を急襲するように命じたのだ。

 無論、無策に急襲するのは敵に備えが有ったとき大被害を被る。

 ゆえに密偵を放って、先ず様子を見させた。

 既に夜更けで辺りは暗く、雨が降ったことで月明りも無い。

 密偵は敵に悟られないギリギリのところでは敵陣に軍旗が立っていることしか確認できない。

 雨音で敵の気配は音では確認できない。

 しかし、信康はその密偵に敵陣に侵入して確認するように告げていた。まさに決死の密偵である。

 もし、その密偵が帰らぬ時は、敵はまだそこに布陣していると判断するつもりであった。

 

 戦に興じる者は様々に思考を巡らし、それぞれが慎重に対処している。歴史小説に書かれる間抜けな結末など、現実では作家の空想に過ぎないのだ。

 

 密偵は命を賭して、敵陣中に入り込んで確認した・・・

 

(誰も・・・居ない…偽兵の計!!)

 

 そう判断するやその密偵はすぐさま信康の元に報告した。

 信康はそれを聞くや大膳にも早馬を走らせてすぐさま木曽川を渡河するように告げた。

 

 大膳の元にそう伝わるや大膳はすぐさま渡河を指示した。

 勿論その場合に備えて準備をしていたのである。

 無論対岸に安藤守成の部隊が居る可能性はあった。

 しかし、木曽川の堰の決壊が無いと判断したら、大軍でごり押しすることは十分可能と考えていた。

 雨で水かさが増すとは言え、渡河するために近くに逆に堰を設けて水位を更に下げる準備をしていた為、船を使うことなく渡れる状態にあった。

 敵がそれを妨害して来ない事は状況から逆算して想定済みだったのだ。

 どんな指揮官でも様々な思考を巡らして戦っているのだから当然である。

 そして夜更けから明け方の頃合いには渡河が完了して、安藤守成が築いた要塞への攻撃が始まった。

 

 さて…こうした情報の伝達や報告は早ければ早いほどいい。

 笠松から道三が堰を設けた坂祝までは20キロほどある。

 晴れている日ならば狼煙を使う事は出来るが、雨の日ではその煙を確認するのは困難とも言える。

 そこで道三は笠松の状況を坂祝に居る氏家直家に素早く伝える為におよそ100m感覚で弓兵を200名ほど配置して、矢文ならぬ矢を届かせて伝達させる方法を用いた。

 それでも失敗する可能性を考慮して早馬も走らせるのだが…

 100mなら大方狙いを定めやすく、馬より早く伝わるのだ。

 無論、200人と言っても貴重な戦力故に緊急時にしか用いられない代物である。

 

 敵が井ノ口側への急襲へ向かったものと考えて、今のうちに坂祝の堰を占拠しようと信康は軍をそこへ進めた。

 万が一の伏兵に備えてはいたものの、そこへ突如斎藤正義の部隊が襲い掛かってきたのだ。

 さらに対岸から突如氏家直家の部隊が出現し、信康はまんまと空城の計に踊らされたのだ。

 空城の計とは城を空に見せかけて敵を策に嵌める事で、必ずしも警戒して撤退させるだけのハッタリ計ではないのだ。

 

 1544年10月8日のこの日に、信秀の弟の織田信康は加納口の戦いで戦死したとされている。

 おそらく犬山に居た彼がこうした戦いの流れで敗死したのではと推測する。

 この道三の逆転劇の計はそうした資料に基づき算出して見たものである。

 

 坂祝での空城の計が成功するや、渡河した大膳の尾張本隊は一気に窮地に立たされた。

 いわば…堰を決壊させての笠松への水攻めが可能になったからだ。

 更に大膳は速やかな渡河を狙って、自陣の近くにも堰を設けた。

 大量の水が木曽川を伝って急流のごとく流れていき、その自らが用意した堰に到達したのならこの被害は言うまでもない。

 道三の本命はここに敵を嵌めこむ事であって、信秀らへの急襲はその次なのであった。

 

 大膳の尾張本隊は無残にも命からがら逃げかえるしか無かった。

 そしてかなりの被害をここで被ったことに成る。

 この笠松から稲葉山の間に加納という場所があり、そこを中心に戦の大局が決した事から加納口の戦いと呼ばれたと推測する。

 

 尾張本隊の倒壊を得て、10月8日の早朝には井ノ口の状況は一変してしまったことに成る。

 稲葉山城を包囲していたはずの状態が、一夜にして逆に包囲される状況へと変わったのだ。

 今と成っては揖斐城方面へ守備を固めるのも危い。

 笠松で尾張本隊と対陣していた安藤守成の部隊は、結果としてほぼ無傷で動ける状態に成っていた。

 また、堰の守備に回っていた氏家直家の部隊も犬山に居た織田信康が打ち取られ、更には斎藤正義が土田に居る限り他に回れる状態になったのだ。

 

 この時、信秀は大垣の守備を警戒し、孝景と宗滴は越前方面への退路を警戒した。

 孝景と宗滴は井ノ口からそのまま北に抜けて土岐氏の守護所であった大桑城へと向かうことにした。

 そこで信秀ら尾張の部隊が殿(しんがり)を務める事にして、越前部隊を先ず大桑に向かわせ態勢を立て直そうと試みた。

 

 越前軍からすれば揖斐(北方)城を奪い返された以上、大桑を攻略し根尾川上流から揖斐川上流の道筋を繋げて美濃北西支配から再起を図る算段に転じた訳だ。

 この時点で井ノ口対岸の陣は殿を残すのみで、信秀はその西方にある鷺山城で追撃を食い止めるように後退した。

 

 越前の将たちの中には、もっと早く・・・いわば揖斐城陥落の時点で動くべきだったと不満を呈する者も出ていた。

 それを退けて様子見を進言した宗滴と信秀は今と成っては立場を失う形だったとも言えよう。

 軍というものは結果だけを見て意見が錯綜して崩れやすい所もある。

 道三は笠松の戦況が決した時点で、井ノ口対岸を急襲する考えでいたが現状を冷静に考え、迂闊に態勢を崩す状況も危いと感じ、

安藤守成には笠松での尾張本隊の残党狩りを継続させ、氏家直家の部隊のみを稲葉山城に帰還させるに留めた。

 

 無論、道三は井ノ口対岸に自軍の渡河を阻止する殿(しんがり)が待機する事、鷺山城辺りで更なる追撃を阻止するだろう配置は予想できており、無理にこの追撃で兵力を消耗することは相手にむしろ再起の機会を与えかねないと警戒した。

 しかし…長良川を挟んだ対岸の鷺山城に尾張勢が居座る状況も芳しくない。

 そうして総括して考え、時期を得て更に形勢を取り戻す意味で考えると、ここで一度休戦を申し入れる方が得策に思えたのだ。

 

 敵である越前と信秀の軍勢は今混乱しているのは定か。

 されど現状背水の陣同様に、彼らは必死で退路を生み出そうとする。

 そういう状況で追撃を仕掛けるのは時として逆に被害を自軍に拡大させてしまう。

  これは笠松の尾張本隊の様な壊滅した相手とはまた違うからだ。

 ただし、越前と信秀は必死であるがゆえに兵の士気は高いが、むしろ交渉には弱腰に成りやすい。

 道三はそういう心境も察した上であえて休戦交渉の使者を送るのであった。

 

 条件は…

 鷺山城と揖斐川と根尾川の拠点を放棄しろという条件で、越前と信秀の撤退を保証するを交換するという形で休戦を申し入れたものである。

 この交渉に美濃側から赴いた使者は堀田道空であったとしよう。

 

 道空は先ず越前の朝倉孝景の下を訪れて、南方からの尾張本隊が瓦解した以上、美濃兵は集中して越前と信秀の部隊と対峙できることを説いた。

 その上で…

 

「双方がぶつかりあえば双方で激しい戦闘に成るのは必至。」

 

 道空はあえて美濃が孝景らを侮っていない事を述べた上で、

 

「その上で美濃は必ず勝利するつもりでおります。こちらも必死で挑む所存・・・それゆえの被害は覚悟の上です。」

 

 そして続けた

 

「その上で越前側は退路を断たれた状況で、我々に必死に成って挑むが得策と考えられるか?」

 

 道空はそう相手を諭すのであった。

 

「ここは是非、痛み分けという事で一旦兵を引かれる事でいかがでしょうか?」

 

 道空はハッタリを述べるわけでもなく、双方が甚大な被害覚悟で挑む形が越前側にとって既に大きな賭けでしかなくなる点を強調したのだった。

 孝景もそういう言われ方をすると、ある意味今博打を打つよりも、安全にここは退けるべきかなと冷静に考え始めた。

 そばで聞いいていた宗滴も流石に勝てるかもしれないが、五分以下の博打ならばと孝景に耳打ちした。

 

 こうして道空は先ず越前側の撤退を確約させたのである。

 そしてそのまま信秀の鷺山城に赴き越前側との交渉の結果を通達した。

 信秀も流石に尾張本隊に続き、越前までも撤退すると成っては、むしろ笠松の安藤守成に大垣を急襲されては退路を断たれるどころではない事は察した。

 寧ろ信秀は多くは聞くことなく大垣に撤退する旨を道空に告げその上で休戦を全うするように求めたのだ。

 

 史実にある1544年10月に起こったとされる加納口の戦いは先ずもって休戦と言う形で幕を閉じたのである。

 されど…歴史的な記録上では1547年説または1547年に2度目の衝突があったと記される上で、この戦いは天文16年9月22日(1547年11月4日へと休戦を得て続くものとする。

 

どうも・・・ショーエイです。

ちょっと加納口の位置が最初よくわからなくて、

井ノ口の対岸を加納口と考えていたわけですが…

何と…加納という駅が岐阜駅のそばにあるでは無いですか!!

 

ある意味資料上の逆算みたいな形で軍を動かすように

この戦いの構成を考えていたのですが…

何気にこの戦い「加納口の戦い」とも「井ノ口の戦い」とも記されており、結果として岐阜駅の南方の場所が加納と呼ばれる地だと判明した後でも、この構成は寧ろ問題なく成立するものであったことに成ったわけです。

 

元々地名を勘違いしていたけど、笠松の木曽川方面の戦いにも焦点を当てていた為、むしろそこの決着が加納口にあたる事に成ってたわけです。

 

更に色々な資料と照らし合わせて、

木曽川で2、3千人がおぼれ死んだとかいうものも含めると、

この戦いの概要はこうした流れであったことが妥当と考えられます。

とにかく道三は圧倒的不利な状況を打開したのは事実な訳で、

その意味の明確な資料は実は存在もしてません。

 

想像力をフルに働かせて

リアルにその逆転劇を再現してみた訳ですが、

何気に史実の戦いは

こういうものであった感じに成ったのかなと

ちょっと満足しております。

 

その分、かなりの時間を擁しましたが・・・

 

さて次回からはいよいよ信長たまの元服への過程で話を進めます。

とりあえず加納口の第2戦目は・・・濃姫こと帰蝶との関係性へと結びつけていきます。

ちょっとフィクション的な要素も含めますが・・・

実際に信長たまはこんな感じだったという所で、

史実資料から外れない形で今後もお送りして行きたいと思います。

【第二十九話 尾張と越前】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕修正版

 

 道三が籠る稲葉山城から長良川を挟んで対陣する尾張越後の連合軍。この場所はその長良川を挟んで稲葉山城下がある道三側の場所を井ノ口と言うらしい。加納口はどうやら現在の岐阜駅南東の名鉄名古屋線加納駅辺りをいうらしい。

 その井ノ口の対岸に布陣した尾張の信秀、そして越前の朝倉孝景は火矢での攻撃や夜襲を駆使して、稲葉山城下の井ノ口を破壊した。

 いわば道三方への経済制裁の意味があったのだが、最終的な補給路は井ノ口から稲葉山城を完全に封鎖しなければ成らのだ。

 尾張朝倉連合の中には、総兵力1万5千ある為稲葉山城包囲に十分と唱える者も居た。

 しかしそれに異を唱えるのが朝倉宗滴であった。

 長良川を挟んだ対岸から井ノ口へ渡っての布陣は、兵法上背水の陣になり、こうした兵法を熟知すると勿論嫌う。

 ただ大陸の楚漢戦争の歴史に於いて漢の名将韓信が背水の陣を用いた例を挙げて、そう主張する者も多かった。

 戦は戦費が嵩張るもの、それ故に早期決戦を目指してしまう思考が頭をよぎる。1万5千人分の兵糧を運び込むのも大変な労力だ。

 更に言えば稲葉山城は敵の本営。故に敵は既に追い込まれたものとも考えてしまいがちになる。

 そういう周りの雰囲気の中で、宗滴は今はまだ時期尚早と異を唱え続けた。

 朝倉孝景も国の経営を考える身ゆえに、どちらかというと早期決戦に傾いてしまうのだ。

 周囲が焦りを示す中で、信秀とその参謀の林秀勝は宗滴の考えに同調したしたのだ。

 

 信秀は相手が道三である事を伝え、南方から攻め入っている笠松の状況が膠着している状態では、背水の陣を敷くことは命取りに成ると説明した。

 いわば長良川の上流は道三方の手にあり、水計を以て長良川の両岸が分断されれば、井ノ口の方は退路も失い大損害を被るのである。

 ここでいう水計とは、かの小説などで諸葛孔明が敵を一網打尽にする様な形とはまた異なり、上流の決壊で洪水を齎し足場のぬかるみなどを作って相手の動きを鈍らせるという程度の効果しかない。

 ただし井ノ口は稲葉山の真下にあり、稲葉山は高所に成る分、地の利を得て足が鈍った敵を弓矢で狙い撃ちしやすくなるという効果も発生するのだ。

 また水害は数日で収まるわけではなく、それが収まったとしてもその足場の悪い状況は中々改善されない。

 勿論知恵を絞って船などを活用して対策を練るような考えもあるが、結局井ノ口を破壊してしまった事が、むしろ敵に最良の視界を与えてしまったことに成り、船を以て逃げるにしてもそれも敵の的の対象と成に成るのだ。

 更には補給した物資もそこで無駄になり、結果包囲は崩れて撤退を余儀なくされかねない。

 

 口達者な信秀は宗滴にに代わってそう伝えたのだ。

 見事なまでに自分と同じ考えを代弁してくれた信秀に、宗滴は一目を置くのであった。

 

 結果、孝景は宗滴らの戒めを理解して笠松の戦況が動くまでは暫く対岸に布陣する事に決めたのだ。

 

 無論、長期戦が厳しいのは道三の方も同じである。

 城下町の井ノ口があそこまで破壊された上では、むしろ敵が井ノ口に布陣してくれることを期待した。

 そういう意味で信秀が警戒しているような備えは十分であるが敵は対岸から動かないのである。

 戦上手な者同士の戦いとはこういうものお互いに都合よく隙を見せてくれないのだ。

 いかに兵法を熟知していようとも、結局はこうした駆け引きを知らねば常に失態を演じる愚者と成るが常だからである。

 故にここからの勝敗は更なる展開の発想力が決め手と成ってくる。

 かの諸葛孔明の軍略もそうであるが、動かぬ敵を動くように仕向けるのがその発想力の根源である。

 とは言え、動かぬ敵を動かすのは中々難しい。

 

 では…道三はどう考えるのか…

 今の目的は…敵を井ノ口に布陣させたいのだ…

 

 そこで笠松で膠着している尾張の本隊が動き出せば、長良川対岸の部隊は井ノ口に入り込んでくる…無論、尾張本隊と信秀が居る越前との連合軍の合流は避けねば成らない…

 

 そうやって一つ一つ分析しながら何が可能かを考えるのだ…

 

 そこで…対岸の井ノ口側の部隊は動かせずとも、尾張本隊は動くかも知れないと…そういう閃きで道三は頭を切り替えていくのだ。

 

 井ノ口に対陣されている状況は、敵はこちらの不利を予測する。

 ならば突然笠松の部隊が後退したとしても、敵は自然な行動と認識するだろう。

 問題は…笠松への備えとして木曽川に設置した堰の決壊を警戒するか否か…

 ここが警戒されると…恐らく敵は動かない可能性もある…

 いわば道三は自ら笠松へ尾張本隊を渡らせないように備えたものが寧ろ邪魔になってくる事を理解した。

 

 道三はそうやって状況の欠点をも見極めながら考えを巡らせた。

 無論、木曽川の堰を捨てるわけには行かない。その条件でこれをどう謀るのか・・・

 

 道三が状況の打開を試行錯誤している中、井ノ口の対岸に布陣する尾張越前の連合軍では、軍議の後、しばしば親睦を深める酒席が設けられた。

 ここで多くの人は勘違いしがちだが、尾張の織田信秀と越前の朝倉孝景は同格の扱いには成らないのだ。

 元々は織田と朝倉は斯波氏を主家とした家臣団である。

 しかし、そうした意味でも孝景は越前の守護代に成るわけで、尾張の守護代はあくまで大和守家であって、信秀の弾正忠家はその下の扱いに成る。

 応仁の乱以降、朝倉家は斯波氏から独立した存在と成っており、そういう意味では越前守護で尾張斯波氏と同列に成る。

 加納口の連合軍の大将はその朝倉孝景であり、信秀は尾張から派兵された援軍の将に過ぎないのだ。

 

 信秀が宗滴に同調して井ノ口へ布陣の不利を解いた後の酒席の中で、突如当主の嫡男自慢が話題に上がった。

 ここでいう当主とは朝倉孝景と信秀のことに成る。

 

 孝景の嫡男は後の朝倉義景ことで1533年生まれで、1534年生まれの信長とはほぼ同年代に成る。

 その義景は孝景が41歳の時にようやく生まれた男子だったという。史実上幼少期の記録はほとんど残っていないようだが、幼名は長夜叉であったという。

 その長夜叉こと義景はこの1544年時点では11歳であり、吉法師はまだ10歳である。

 そんな次期朝倉家当主となる長夜叉の話を朝倉家臣団が持ち掛けた。

 

 「大殿(孝景)、そういえば長夜叉(のちの義景)様は最近、孫子を諳んじたとお聞きしましたが…」

 

 「諳んじているとは言っているが…まだ11を数えたばかりで愛読しているに過ぎないだろう。」

 

 「とは言え、あのような代物を愛読できるとは何とも末恐ろしいですな。」

 

 後の朝倉義景は博識という意味では優秀だったと言える。

 多くの作品では凡庸な人物に描かれるが、むしろ現代風の高学歴なエリートの典型と言っても過言ではないだろう。

 

 「まあ、勉学に熱心なのは頼もしい事は確かだな。」

 

 孝景にとって晩年の子ゆえにより可愛いのであろう。孝景は気分よくそう語った。

 そして孝景は信秀にも年の近い子息がいる事を思い出して、

 

 「ところで信秀殿のご子息も、ウチの長夜叉と年が近いと聞いているが…」

 

 無論、多少酔ってはいると言っても信秀は立場を弁えていた。

 自慢気に吉法師を立てるのではなく、むしろ話を盛って場を盛り上げることに徹したのだ。

 

 「ウチの嫡男は、勉学など全くそっちのけで遊びほうけております…いや長夜叉様がうらやましい限りですな…」

 

 そして更に場を盛り上げる意味で、

 

 「孫子などを読めと申し付けても、この言い訳が何とも大たわけでしてのう・・・」

 

 話し上手な信秀は少しタメを作って周囲の興味を煽るのであった。

 

 「はてさて、いかように・・・」

 

 信秀は周囲がそうして興味を示した事を確認して

 

 「それが…孫子なんぞ自分で考えるから要らぬと抜かしよったのですわ」

 

 すると周囲はその突拍子もない子供の言い訳を聞いて場は大いに盛り上がった。

 

 「ははは、それは何とも大それた言い訳かな・・・子供らしいというより大そうな大物ですな。」

 

 実情を知る林秀貞は寧ろ悩まし気な表情を浮かべていただろう。

 それ以外の者は吉法師のうつけっぷりに大笑いして信秀のネタを楽しんだ。

 孝景は寧ろ信秀の話の上手さに一目を置くのであった。

 その周囲の殆どが、信秀の口上のネタか、またはその大たわけぷりを楽しんだのだが…そこに朝倉宗滴ひとりは別な見方で興味を示したのだ。

 史実の資料としてこの朝倉宗滴が死ぬ間際に信長の行く末に興味を示していたという事は有名な話である。

 朝倉をその後亡ぼす事に成る信長で、まだ尾張の隣国というほどではない越前の宗滴が信長に興味を持っていた事はある意味不思議である。

 その宗滴の死は1555年で、桶狭間の戦いも終わっていない、また弟の決着も着いていない時分の事ゆえに、なぜ信長を気にかけていたのかという見識には些か不思議に思う点がある。

 

 先見の明とは些細な情報から直感的に派生するものを分析して見極めるものである。

 宗滴は信秀の口上であると知りながらも、むしろ信秀が冗談語ったその教育方針に何かを感じたのだろう。

 先の作戦会議で宗滴は信秀の才覚に一目を置いた。

 その人物が話を盛ったであろうと知りつつも、自分の嫡男に自らで考えるという教育を施していると考えたのだ。

 無論この時点ではそれが成就するという保証はない。

 宗滴自身が多くの戦を経験した事で、戦が書物通りに流れわけではない事を知っている。

 現代風にビデオゲームを題材にゲーム理論的な要素で伝えるなら、書物はその攻略法である。ビデオゲームの様にプログラム化された内容で進行する出来事ならそれで攻略することは可能だろう。

 しかし、一般的に使われるゲーム理論では、孫子の兵法で記された「兵は詭道成り」と同じで、現実社会は騙し合いの世界であり、そこに協調や協力の必要性を説いたものと成っている。

 いわばその中での判断力は、自らの思考力が試される場で単純に攻略法的な知識が試される場では無いのである。

 

 政治をゲームの中に盛り込むと、善良な言葉を吐くことが一種の攻略法的な要素として認識される。

 しかし、情報社会でマジョリティである人々の思考が偽善という言葉の有り方を意識すると、その善良な言葉だけでは意味がなくなるのだ。

 思考力の無い人間はこの攻略法に基づき、偽善を貫こうとするが、社会営利の関係でその偽善を暴こうとするものが存在したりすることでその偽善は淘汰されることにも成る。

 ゆえに思考力の高い者は自らが偽善になる事を避け、むしろ人間としての自然な言葉を用いてそこに説得力を込めるのである。

 いわば状況を適切に見極めて今何を伝えるべきかを把握してそこに言葉の重みを与えるのである。

 これは戦いの場に於いても同じで、状況を見極めて今何をするべきかで勝敗の行く末を有利に進めなければ成らないのだ。

 

 宗滴にとって朝倉の行く末を考えたときに、長夜叉が孫子を諳んじて喜んでいる事よりも、むしろ信秀の様に自分で思考させる教育の方が理想的であると感じた事が切っ掛けだったのかも知れない。

 

 故にこうした酒席での切っ掛けで信秀と宗滴の間で何らかの交友関係が生じて互いに文のやり取りがあったか、または宗滴自身の興味から様々な文化人を通じて義景と信長の成長を比較する意味でその情報を収取していたことも考えられるのである。

 

 もしこの加納口の戦いが1547年説に従っていれば、吉法師は13歳で、この話の筋書きとして、戦ごっこに明け暮れている事、または灌漑工事を齎した様な話が伝わって宗滴の興味を惹いたという流れも考えられる。

 しかし、ここでは1544年説としているため、それらの内容は後に宗滴が個人的に取得する以外、尾張と越前に接点が無くなるのである。

 

 こうして酒席を交えて信秀、宗滴二人の知将が理解を深めた形で越前と尾張の団結は強まったわけであるが…

 ここに道三の謀(はかりごと)が如何にして襲い掛かるのか…

 

 いよいよ加納口の戦いは決着へと向かうのである。

 

どうもショーエイです。

【修正版の理由】

加納口の戦いとされる加納口がどこにあるのか・・・

中々よく解らなかったため、最初は井ノ口の対岸と考えていた。

ところが…地図を見ると岐阜駅南東の名鉄線駅に加納という駅があるでは無いですか!!

 

それでも侵攻ルートの計算上では、長良川を挟んだ井の口の対岸が尾張越前の布陣する場所と考えます。

大垣から長良川を渡って今の加納駅辺りに布陣する場合、恐らく退路が断たれる危険性がある。

木曽川から北上して加納口に布陣した場合だと、むしろ道三の逆転劇は難しくなるのです。

 

加納口の戦いなのか井ノ口の戦いなのか名前が2つある所以。

こうした事も踏まえて形で考えて行く感じで構成していきます。

 

 

【修正前↓】

朝倉宗滴が死ぬ間際に、信長たまに言及していたという資料を目にしてかなり困惑しました。

本編でも書いたように、1555年に亡くなったとされる宗滴が信長たまの大成を予言していた根拠をどう辻褄合わせて考えるか…

実はこの戦いで信秀と宗滴が一緒に戦っていた資料が有ったのでここでの流れが切っ掛けだろうとは推測出来たものの、1544年説と1547年説とでは信長たまこと吉法師のエピソードに違いが生じるのでかなり悩みました。

1547年説ならもっと興味を惹く内容で宗滴に伝わったと思うのですが、どう考えても1547年説では無いと思うので1544年の時点である意味まだ良い子に近い吉法師にどう興味を持たせられるかで試行錯誤していたわけです。

 

さて…ウクライナ情勢…

既に3か月以上経過して、世の中もこの情報から熱が冷めてきた感が有ります。

ゲーム理論の中で少し語った状況の流れというのはこういう事も当てはまるのです。

戦争の優劣も、いささか変化しており、今後またどう変化していくのか正直解りません。

ただウクライナが巻き返すとか、ロシアが圧倒するという予測を立てるのは寧ろ愚かしい人のやる事で、自分に主導権のない出来事に対しては柔軟に見極める必要性があると言えます。

 

その中で違和感を感じる点は、ロシアが最新兵器の投入をまだそんなにしていない事。

背後に潜むNATOや米軍の情報収取を警戒しての事なのか、それとも技術的な事情で出来ないのか…

いわば後者の可能性を予測してウクライナが巻き返すと考えると、前者であった場合、その思考は後手に回ります。

逆にここまでの流れではロシアの作戦実行力が機能しなかった点が明白と成って事ですが、今後ここが修正されてくるのかは考慮しなければ成りません。

また兵の士気に関しても、意外とここまではモロかった印象が有ります。

ただ、そのことがNATO諸国に馬鹿にされていたことでロシア兵がどう考えてくるか…悔しいという気持ちを抱くのか、それとも諦めムードが漂うのか…正直ここも解りません。

 

当方はここまでロシアを過大評価して考えていた感が有りますが、それは結果です。

ウクライナを過小評価する感じでは考えていなかったので、いわば現状ウクライナにとってロシアに脆さが有ったのは運が良かったというだけの話です。

 

今後の展開もロシアの脆さが浮き彫りに成ればウクライナはいい形に展開すると言えますが、その脆さが修正されてくるとまた展開は変わります。

 

ニュースなどでは英軍の見解が良く出てきて、米軍の見解はあまり出てきてません。

英軍はロシアが脆いという点を指摘してウクライナが優勢に成る事を主張してますが、米軍は一応ロシアを過大評価して見続ける感じで考えているようです。

 

さて…兵は詭道成り

常に敵を過小評価して見ようとすることは、その過小評価に謀略があった時に予測しなかった奇襲を食らうのです。

いわば敵を油断させていた場合です。

過大評価をすることは常に相手がやりうる事を想定して考えます。

故にその警戒を越えた奇襲でない限り、そこに対処することはでき、また奇襲を受けた場合でも被害を最小限に止められます。

ここは現状でロシアがウクライナを過小評価していた可能性で考えられる部分で、ロシアはウクライナの反撃で大打撃を食らった感じです。

 

情報を過信して過小評価することは、それだけ準備の費用も時間も抑えて対応できる分、ある意味労力が抑えられます。

誰もが最小限の労力で戦いたいと考えるのは人間の嵯峨です。

逆に過大評価をして挑む場合、むしろ無駄なこともしなければ成りません。

この無駄なことを嫌う人が多いので、出来る限り情報収取を信じて対応しようと考えたくなるのです。

ところが予測と違って混乱してしまうのは前者の方で、後者はあらゆる予測に対応している分、混乱せず冷静に対応できるのです。

ここで実は大きな差が生じることを「兵は詭道成り」の一文に盛り込まれているのです。

 

無駄な労力に兵力を割けるように大軍を維持しておきたいわけで、ウクライナに対してロシアはまだそれが可能であるのです。

寧ろウクライナは無駄な兵力を割ける余裕がない分、そこを抑えて戦わなければ成りません。

ところがロシアをウクライナが過小評価する事は、こうした状況に博打的な奇襲で挑みがちに成ります。

その奇襲が運よく成就すれば良いのですが、運悪く失敗した際にはそこで貴重な兵力を損失します。

 

歴史的な評価では、織田信長も諸葛亮孔明も奇襲をあまり用いなかったとされてます。

実は相手を過小に考えて戦うことを嫌い、むしろそれで失敗した際のリスクを恐れたのです。

 

ただし…

これはブログで何度も書いた内容で、魔仙妃の言葉として伝えている事ですが…

 

「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げて実行する事、これ奇策なり」

 

と、いう言葉です。

いわば奇襲も確実に成就すると判断できるものなら実行するのです。それだけ用意周到に準備とタイミング見計らって実行するものであると伝えておきます。

うつけの兵法では、これが桶狭間の戦いに用いられるわけですが、果たして桶狭間は奇襲になるのか、それとも正面突破だったのか、その実態を期待しつつ是非ご覧いただければと思います。

【第二十八話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】後編

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕

 

 

信秀の大垣攻略の出来事は、吉法師元服の3年前出来こどで、1544年の事であった。

 大垣を攻略した信秀軍は、そのまま主力を北上させて越前の朝倉と揖斐城で合流してこれを攻めた。

 既にもぬけの殻状態だったが、信秀も朝倉孝景も敵が素早く引いたものと判断した。

 一方の道三は稲葉一鉄に授けた計を悟られぬように、別動隊を用いて大垣へ進軍させた。

 その大垣から信秀の元に敵が現れたという報が届くや、信秀は揖斐城の部隊が切り返して大垣に向かったものだと確信したのだった。

 信秀は揖斐城からすぐさま大垣に戻ると朝倉方に伝え、部隊を再び大垣に戻した。

 朝倉方はそのまま揖斐川下流へと進軍し、支流の根尾川と合流する三角州までの攻略を目指した。

 

 信秀が大垣に戻ると、道三の別動隊はすぐさま大垣から離れて後退してしまう。

 この時点で信秀は道三に何らかの計略があるのでは察した。

 明らかに大垣に誘導された形に感じたからだ。

 道三の計をしる読者の目には、稲葉一鉄が潜む揖斐城付近のことは周知だろう。しかし、この地域の地形を見ると更に別な警戒をしなければ成らないのだ。

 いわば朝倉方が侵攻しようとする揖斐川と根尾川の三角州部分の警戒で、この根尾川の上流はまだ道三の手にあった。

 根尾川上流からの川の決壊は、そのまま揖斐川を伝って大垣にも被害を及ぼすのであった。

 無論、朝倉孝景も名将として名を遺すほどの人物ゆえに、地形を見てすぐさま根尾川上流の警戒に部隊を動かした。

 信秀が大垣に居た敵部隊がすぐさま撤退したという報を、朝倉方に知らせるや、

 

「既に対応した、現状大垣にて備えられよ」

 

 と、回答してきたのだった。

 孝景は三角州への進軍でその北側にある現代の大野町にまで進んだが、その本隊を一旦現代の揖斐川町まで退いて陣を構えた。

 どうやらここら辺に清水(きよみず)城というのが存在しており、資料によれば1356年~1557年まで存在したと成っている。

 そして斥候部隊を根尾川上流に向かわせて、その状況の掌握に努めたのだった。

 

 この戦いの資料として現存する内容は、基本信秀が大垣城を攻略しそのあと揖斐城を攻略したといった内容くらいしか残っていない。

 それらの内容を吟味して、当作品では地形からそこで生じる戦略や戦術を計算し、細かい郷土資料等を参考に辻褄を合わせていく形で表現している。

 

 朝倉が現代の揖斐川町の清水城(清水古城)に入り、信秀が大垣で陣容を整えた時分は1544年5月ごろと推測する。

 朝倉が斥候を放って、根尾川上流を探索すると現代の岐阜県の樽見鉄道に沿って下流から、本巣、織部、木知原、神海、高科などに美濃側の拠点があったと推測し、最終的には高科辺りまでを攻略して根尾川上流の峡部に土塁などを用いて堤防を設け、それ以上からの川の決壊を防げばという形に成る。

 

 一方で笠松で対峙している尾張と美濃両軍は木曽川を挟んで膠着状態が続いていた。

 おおよそ半年以上も大きな動きを見せていない。

 犬山方面の可児地方との状況も大きくは動いていなかった。

 また、揖斐城付近で潜伏している稲葉一鉄は、尾張と越前がまだ掌握していない大垣以西の地から秘かに補給を受けつつ、時をしのいでいた。

 ところがここで道三側に思わぬ伏兵が登場してきたのだ。

 伏兵と言っても兵でも軍隊でもない。

 寧ろ政治的な伏兵である。

 それは朝倉方に保護されていた土岐頼純と尾張側に保護されていた土岐頼芸の存在であった。

 

 元々頼純と頼芸は土岐家の家督相続が元で争っていた。

 道三が美濃を簒奪できたのはこうした状況あってのものであるが、土岐家を全て取り除いた事で、むしろ土岐家を団結させてしまったという形に成った。

 この土岐家の団結が、越後と尾張を動かす形と成ったのは言うまでも無い。

 しかし、美濃に於いて道三のカリスマ性はそうした状況下でも支配するのに十分に機能していた。ある意味その才知が美濃の将来的な安定を齎すのならという意味で土岐の家臣団らもこれに従っていた訳だが…

 ところが信秀が大垣を落とし、そして朝倉が揖斐城(揖斐北上城)を落として美濃平野部に侵攻してきた状況で大きく流れが変わったのだ。

 道三は戦略上、揖斐城を捨てる形を取った。

 更にはここが政治的な起点に成ってしまう事は寧ろ見落としていたと言えよう。

 

 朝倉孝景は先の1519年の土岐お家騒動で、頼純の父、頼武を伴って美濃に侵攻している。その際には土岐頼芸を破って土岐頼武を守護に着かせている。

 敗軍となった頼芸に付き従っていたのは、斎藤道三の父、長井新左衛門厨であった。

 最近の資料では、松波庄五郎という司馬遼太郎氏の「国盗り物語」の道三前半生で描けれた人物は、実はこの父・長井新左衛門厨

であったということで定説化されているらしい。

 いわば、道三の出世物語は親子2代に渡っての話だったという事に成る。

 1525年、土岐頼芸は再び美濃の守護職を奪還するべく挙兵した。

 これが道三の父・長井新左衛門厨の画策であったのか、当時30か20歳であった道三こと長井規秀の画策であったかは解らないが、いわば美濃の支配を狙って自らの出世の糸口とした事は十分に考えられる。

 道三親子には油商人という肩書も有った。

 いわば大きな財源を持っていた訳で、こうした財源を活用して美濃の頼純派を買収するなどの調略で功を上げたと考えられる。

 1527年には頼純が居城とした革手(川手)城を急襲してこれを奪いとり頼芸をそこに招き入れている。

 こうして1530年までには頼純を追放し、頼芸を見事に守護職に復権させたのだ。

 1530年までか、1533年には道三の父・新左衛門厨が亡くなっているという事もあり、こうした軍略の功績は恐らく長井規秀こと道三の手柄であったと考える。

 この時、道三の主家筋に長井長弘という人物が居た。

 多くの歴史小説では、この長井長弘は道三によって殺されたとあるが、資料上では懐疑的なものが多々残っているという。

 寧ろ、長井長弘は道三の父・新左衛門厨を重用して、その背後にある財力を充てにしていたと考えるべきで、その新左衛門厨の子に稀代稀な軍才の持ち主である規秀こと道三が居たのなら、これを我が子の様に溺愛した可能性は高い。

 後に道三は実子の義龍より、娘婿の信長を溺愛する形と成る。

 それは寧ろ自分の出世過程に照らし合わせて、当時一般的には不条理とされた考え方も良しとする心理が働いたと言えるのだ。

 逆に不条理な行動故に、美濃国人衆の分断を生んでしまったともいえる。

 とは言え、そういう流れを察すると、長井長弘の溺愛を受けた規秀は頼芸の第一の補佐としての地位も譲り受ける。

 兄頼武側に着いた斎藤利良から守護代職を受け継いだ斎藤利茂は、長井規秀(道三)らに守護所の福光館を奪われ、更には居城の稲葉山城も攻め取られて、実質その地位をはく奪された。

 その為、守護代職を規秀(道三)に引き継がせる為、頼芸は関白近衛種家の庶子(側室の子)を招き入れ、規秀の養子とした上で守護代斎藤の姓を与えた。

 ある意味規秀の身分が守護代として申し分ない形と成るように頼芸や長弘が手配したものである。

 これにより道三は斎藤利政と名乗る。

 道三が斎藤性を名乗るには諸説有るようで、無論前述の通り長井長弘を暗殺した説なども登場するが、頼芸の信頼を得ずして守護代の斎藤姓を得るにはかなり無理が生じると考えるべきである。

 また1538年に斎藤利良の死を受けて斎藤利政と名乗ったする説もあるが、実は利良は頼純派の人間で、頼芸と頼純の和睦が成立するのが1539年であるとするなら、その経緯に矛盾が生じるのである。

 また当時の道三の身分で関白近衛氏との関係があった事は逆に疑うべきで、むしろそれほどの繋がりは土岐氏の名前が無ければ成立しないとも言えるのだ。

 こうした過程を精査すると、道三は寧ろ頼芸の軍師として長井長弘らに招かれた様な形が一番腑に落ちるのである。

 また、そういう軍師的なカリスマ性があった故に、土岐家を排除した後でも美濃の実権を掌握できたと言える。

 よって1535年までに道三は斎藤姓を得て頼芸復権に貢献した功績から守護代職を一度得たと考える方が適切である。

 近衛種家の庶子で道三の養子となった斎藤正義の経歴から逆算すると、ほぼ1532年にはこの流れで斎藤姓を名乗っていると考えられる。

 

 1535年美濃で再び劣勢となった土岐頼武の子頼純を支援するべく、頼純の外戚に当たる朝倉孝景は美濃に侵攻した。

 更には近江の六角定頼もこれに加わり、頼芸を主とする道三は苦境に立たされた。

 六角、朝倉、土岐頼武は明応の政変で将軍足利義尹(義稙)派に属して細川高国を支援して義澄派の細川澄元と戦い、高国の京掌握に貢献した間柄である。

 しかし、1526年にはその高国も澄元の子、細川晴元らに反撃され1530年には形勢が再び逆転してしまう。

 道三ら頼芸派はこの畿内の動乱に合わせて挙兵したと思われ、晴元と連携する形を取ったと思われる。

 この間、朝倉も六角も畿内の動乱と更には一向一揆の対応に追われて動けずにいた。

 1532年には細川晴元と足利義晴が和睦する。

 和睦は一向一揆に対する利害の一致で、これにより晴元と六角定頼の対立も解消された。

 頼武の子、頼純は朝倉孝景の妹の子にあたり、その縁もあって孝景は朝倉景高を美濃の援軍を送った。

 1535年当初は六角定頼もこれに呼応して美濃に攻め入るが、斎藤利政こと道三は見事にこれを退けている。

 孝景も定頼も当時としては名将でこれらの連合を凌いだ道三の手腕は美濃に留まらずその名声を得たことに成る。

 おそらく揖斐城で北からの朝倉勢を退け、関ケ原から大垣に掛けて六角勢との攻防を繰り広げたと考える。

 そしてこの戦いで美濃国人衆の一体感を見事に纏め上げた道三は、守護代として美濃の救世主となる地位を固めたのだ。

 この間に六角定頼は比叡山延暦寺の要請で京の法華一揆に加担している。

 美濃での苦戦と新たに京で起きた騒動に挟まれた六角定頼は頼純に従っていた前守護代の斎藤利茂を囲って、頼芸と和睦を結んだ。無論そこには細川晴元と連携していた関係もあってか、足利義晴から頼芸に美濃守護職の任官を受けたことも関係していると言える。

 そこで定頼は頼芸に娘を娶らせた上で、自分の傀儡となる斎藤利茂を守護代にすることで和睦とし、逆にこの戦いで美濃での影響力を拡大させた斎藤利政こと道三の地位を奪おうと考えたのだろう。

 結果、美濃侵攻は朝倉方が単独で残る事となり、揖斐城で苦戦を強いられたまま最終的には1539年に頼純が頼芸と和議する形で終結したのだった。

 

 美濃の頼芸の臣下は、ここまでの見事な采配を振るった利政こと道三に心服していたのだろう。

 先の六角との和睦で守護代に返り咲いた斎藤利茂には、こうした家臣団がむしろ不信感を抱いていたのが大半だったことも想像できる。

 いわば新たに守護代と成った利茂は、頼芸の為に戦った同士では無いからだ。その意味で真の同士は道三こと利政であると意識される。

 道三を題した小説では、様々な悪説が登場する。

 実はこうした悪説は道三が美濃を乗っ取ったことから派生した後生の創作である可能性が高い。

 1541年に土岐頼芸の弟頼満を毒殺したという事で道三と頼芸は仲たがいに成ったように書かれている。

 しかし、あからさまに悪逆非道に走った人物が主君を排除してまで美濃一国を維持するだけの信頼を得るとは考えにくい。

 そこで、ここでは寧ろ六角との和睦で守護代に返り咲いた斎藤利茂を原因とすることで自然な形で成立すると考えるのだ。

 いわば、頼芸が守護職に返り咲く中で、道三が中心的役割を担いそれを導いたのは疑う余地もなく、その功績が頼芸を補佐する同士たちのリーダー的存在になるのだ。

 そうした中で、突然、政治的な事情で守護代職を得た利茂を寧ろ排斥するべき動きが出てもおかしくはない。

 いわば本来その利茂は頼純側のリーダーなのだから。

 その反対側の人間が自分たちの上に居る事は、その都合で自分たちの地位が危ぶまれることを心配せざるを得ない。

 いわば頼純派の人間を重用し、利茂が守護代としての地位を安定化させようとする事も考えられたからだ。

 1541年の頼芸と道三こと利政が不仲となった出来事は、むしろ斎藤利茂が守護代としての地位を盤石にする意味で、利政(道三)派の家臣を排斥した形で始まったと考えた方が自然である。

 そうした出来事に守護代利茂の謀略で頼芸の弟頼満を毒殺または暗殺し、その首謀者が利政(道三)派の人間であったとした事件が後世の伝承として残った事も考えられる。

 その結果、その謀略に利政(道三)派の家臣団が怒り、最終的に守護代利茂は襲撃されてその職をはく奪された。

 そして事の事情を把握していない頼芸はその事件の首謀者が前守護代の道三が企んだことと疑った。

 頼芸が事実、無能という評価の通りなら適正な情報収取が出来ず勝手な憶測から判断してしまうことも考えられる。

 いわば自分が美濃の守護であることを驕り、臣下の事情は考慮しないのだ。また様々な思惑が錯綜する事を理解もせず安易に一方的な諫言であり、むしろ六角との和睦の意味で自身の保身を優先させて考えを纏めてしまったのだ。

 無論、無能とは言っても馬鹿では無い。

 頼芸は一応の配慮として守護代は斎藤利茂でも、実際の美濃の運営は利政こと道三に任せていた。なので美濃の政治的には問題無いだろうと考えていたのだ。

 勿論、道三こと利政もそこに不満は無かったとしよう。寧ろ有能であるがゆえに内心とは別に表面上では全く不満を出さなかった。

 しかし、その下の者たちは自分たちが認めた人間が守護代職に無い事に不満であり不安を感じるのだ。

 そうした心境を理解できていない頼芸は無能…というより普通のは中々そこまで気が回らないのが当然である。

 勿論、頼芸の元に度々そうした要望が届くことが多々あったが、自己の判断を過信するのは人間の嵯峨で、道三こと利政に実質任せているのだから心配は無いとしていた。

 寧ろその事が逆に本来守護代職にある利茂の動機となったと言える。

 頼芸は利茂には地位を与え、利政には実権を与えているのだから双方に不満があるはずが無いと信じていた矢先の出来事である。

 この状況下で頼芸として事件を精査したところ…利茂の実権が無く地位のみ不満を抱いての犯行か、利政の実権と地位が伴わない事に不満を抱く犯行かで天秤に掛けたのだ。

 そこで頼芸は人の強欲を疑い、利政こと道三を首謀者と考えた。

 無論、天秤に掛けて際に悩むところであるが、結果が利茂が襲撃されたという事情であり、自身の弟が何者かに殺されたという事を踏まえて、最終的にそちらに傾いたと言える。

 

 自己の地位が盤石なものと考えていた頼芸は、自らの采配がそうした家臣団に理解されることを信じて道三こと利政を追放する決断をした。

 ところが寧ろ事情を知るその家臣団は美濃の英雄である道三の追放より、頼芸を追放する方を選んだ。

 

 昨今のメディアでも歴史資料でも、カリスマ的に野望を為しえた人物への評価を野蛮な思考で考えるケースが見受けられる。

 こうした見方をもっと合理的に考えるべきと筆者は伝えたい。

 

 国主とも言うべき守護職の土岐頼芸から国を奪って、道三がそのまま国を引き継げた事実を踏まえるなら、強引で周囲の理解を得られない方法ではその後が上手く機能しない。

 寧ろ、悪逆非道な手段で国を簒奪した場合、国の内乱はその地位を危ぶむレベルで発生する。

 道三の場合、この直後に越前朝倉と尾張が攻め入ってこの戦いを繰り広げる事に成るのだが、国としての結束が齎されない事情ではそれらを凌ぐ力は無いと言える。

 そうした事情が何故避けられているのか?

 ここを合理的にもっと深く考えなければ成らないのだ。

 

 そういう前後の事情を精査すると、むしろ流れはこうした道三を支持する家臣団のクーデターだったとする方が解りやすい。

 いわば、道三の指示は関係なく、家臣団が美濃を道三に任せるべく土岐頼芸を追い出したとする方がいいのだ。

 逆にそうした流れで道三にクーデターをと薦めた流れで、道三がそれに応じて反乱を起こしたとする方が纏まって見えてくる。

 ただし、内実を伝えきれない後世の評価としては、道三が美濃を簒奪した結果としてしか伝わらないと言える。

 

 そして話はその後戦いが膠着した1544年中ごろの話に戻る。

 美濃の国人衆が道三を立てて起こしたクーデターであったが、それは美濃の中枢を担う者たちの反応で、各領地を治めていた者たちは寧ろ道三にそこまで心服していたとは言えない。

 ただ国主が頼芸から道三に代わって、長いものに巻かれろで無難に従っていたという状態である。

 そこに尾張が大垣を支配し、越前が揖斐を攻略したという形勢に成ると、道三よりも前領主の土岐に従った方が安泰なのかなという、ある意味姑息な心理が生じてくるのだ。

 朝倉方が根尾川上流を攻略していく際に、この土岐氏の名前を用いた。ある意味美濃でも辺境の地の豪族が支配していた地域故に、これらは簡単に寝返った。

 また、信秀も大垣付近の豪族の調略に頼芸の名を用いた。

 ただ、この地には道三に心服する者も多く、完全に寝返らせるには至らなかったが、信秀が安定して大垣を維持する上では程々にこの地域を分断出来たと見る。

 

 一方、本来頼芸と同盟関係にあるはずの六角定頼だが、前述の通りこの時期浅井家と争っても居た。

 それ故に越前からの朝倉は近江を通過できない。

 資料として近江との関係は定かではないが、道三が浅井を支援することで六角の牽制としていた可能性は高いのだ。

 とは言え、根尾川の寝返りと、大垣周辺の寝返りに道三は焦った。

 無論、土岐を追い出してから時は浅く、そうした豪族たちを掌握するには時間が無かったと言えよう。

 ただし、あらかたそういう状況に成る事は想定していたが、実際に生じると心情は定かではなくなる。

 いわばどれだけの豪族が寝返っていくのか、不安に駆られてくるのだ。

 そこで気がかりに成ったのが犬山と接する可児郡の方面である。

 可児郡は明智氏の方が有名で、実際に森氏が当時この付近を治めていたかは不明だ。可行の子である森可成の出生地で言えば尾張本隊と対陣している笠松がその場所に成る。

 ただし、森可成が後に所領としたのがこの可児郡で、むしろ先祖代々の地を信長から与えられたと考えても良い。

 また土岐家の家臣という立場では、明智氏同様に森氏も美濃に土着した源氏の名門であった。

 さらには土岐頼芸を擁して頼純と戦った時期に、武勲を上げていた年齢でもあるため、そうした信頼もあってと考える。

 そうした家柄とその子供の可成が実直な性格であったと同様に可行もまたそういう人物であったと考え、道三の信頼も厚くこの地の指揮官に据えたと考える。

 因みに光秀の叔父である明智光安の可能性もあるが、光秀の父光綱が1535年に死去しており、光秀の後見役でしかない光安に重責を与えるかは不明である。

 よってここでは森可行が道三の元を出奔する流れで進めるものとする。

 

 森可行(可成の父)は道三と仲が悪かったと記されているが、そこは定かではない。実際にこの可行に関する資料はあまり無いのだ。  

 ただ道三からすれば土岐家代々に使える家柄で、信頼はしているものの内心ここが寝返ると困ると考えた。いわば土田にある堰が奪われると、笠松から尾張本隊が雪崩れ込んできやすくなるからだ。

 その実力は認めるものだが状況が状況だけに不安にも感じるのだ。

 そこで道三はここの指揮権を斎藤正義に任せることにしたのだ。

 この斎藤正義は道三が斎藤姓を名乗る際に、関白近衛種家の庶子を養子とした時のその子で、1537年この可児郡に鳥峰城を築いている。

 この鳥峰城は後に森可成がこの城に入って金山城とした場所で、犬山との境よりもっと木曽川を東奥に進んだ所にあるが、この地域を支配する拠点として何らかの意図で設けられたのだろう。

 

 一方の森可行は栗栖と接する土田城の土田源太夫や、明智城の明智光安と連携して織田信康率いる犬山の部隊相手に実に良く戦っていた。

 特にこの辺りは山々に囲まれておりゲリラ戦を展開して戦うにはうってつけの場所だ。

 しかし、善戦しているとはいえ、明智も含めて元々は土岐の家臣たちだ。明智に関しては、濃姫の母親である小見の方を道三の正妻として差し出しているとはいえ、それでも安心できるとは限らない。

 それだけ西美濃が次々と寝返っていった状況は道三にとって色々な猜疑を感じさせる事態なのだ。

 勿論、可行はそうした背景も察しつつ、それでもここで功績をあげて道三の信頼を勝ち取ろう奮闘していた。

 実直であるがゆえにむしろ頼芸が追放受けたことに対して、道三のそれまでの献身に対する頼芸の扱いが理不尽に感じ、道三の美濃簒奪に同情したとも言える。

 しかしここで鳥峰城の斎藤正義に指揮権が移ったことで可行はその信頼から外されたことを理解し道三に失望した…と、言うよりもむしろ可行自身が道三から警戒されたことを悟りこの戦いのあとで粛清の対象にされるのではと察したのかもしれない。

 この可行から引き継げれる森家の信義の精神を考えるなら、ここで敵である尾張に寝返ることは許されない…その上で森家を守るという決断の中ではここで出奔してどこかでひっそりと暮らすことを選んだのだろう。

 筆者は信長同様にこの森家を信義の塊と考えている。

 その理由は多妻が許された時代にあって、可行の子である森可成りは一人の妻のみを愛し続け側室を設けなかったほどだからだ。

 こうした精神は時代が時代ゆえに人を大事にする気持ちが無くては成り立たない。そこを信長は見ていたと考える。

 ゆえに信長は可成の子供たちにも信頼を置き、特に森蘭丸を我が子の様に溺愛して用いたことを意味するのだ。 

 

 可行から引き継いだその斎藤正義は傲慢な人物であり、後に家臣に謀殺されている事から危うさを感じるところがある。

 しかし、かれの元服の時から共にしている日根野弘就など優秀な家臣を道三は宛がっており、これをよく補佐していた。

 その為、可行が抜けた後もここの守りは上手く引き継がれたようである。勿論明智や土田といった土着の者たちも引き続き良く戦った。

 更に道三は、犬山から木曽川を挟んだ鵜沼に後の美濃三人衆の一人氏家直家(卜全)配置し、更に笠松には安藤守成といった若手を中心にその守備を任せた。

 美濃三人衆、稲葉一鉄、安藤守成、氏家卜全といった人物が道三の信頼を勝ち取ったのはこうした戦いでの功績があってのことで、恐らく状況から妥当な配置を考えればこうした布陣になると思われる。

 道三からすれば熟練の者たちを外して、新しい時代を担う若い者に思い切って世代交代させる形でこの難局を乗り越えるかんがえだったのだろう。

 大きな賭けでもあるが、敵の調略に落ちることこそより事態を危うくするのだ。

 

 その一方で大垣付近の西美濃一帯は大きな動きが生じた。

 朝倉方の名将朝倉宗滴らが美濃赤坂(大垣の北西)で道三の軍を破るなどの功績で一気に戦況が動き、そのまま一気に揖斐川を渡り、稲葉山城下から長良川を挟んだ所まで迫ってきた。

 この長良川を渡って稲葉山城が包囲されると、木曽川で食い止めている笠松の部隊は逆に挟み撃ちされる。

 

 こうした緊迫した事態を冷静に考える能力があるか無いかで最終的な結末が異なってくるのだ。

 古参のもの達を信頼して守り抜くべきか…

 彼らが寝返る可能性をあらかじめ警戒するべきか…

 いずれの判断もその決断で副作用が生じるものであり、実質正解は無い。その正解は決着のついたあとのみ解るものだ。

 事態はより敵に寝返るものが続出するだろうことを道三は悟っていたのだろう。その為、本拠の稲葉山の周辺には命がけで自分を支持するもの達を配置し、古参の者たちはその中心から外れたところへ移動させ、仮に寝返る者が出ても稲葉山の包囲に影響が出ないようにと考えた。

 

 そしてこの戦いは史実で記録される「加納口(井ノ口)の戦い」へと移るのである。

 この戦いの日付は1544年10月8日説と、1547年11月4日説と分かれるが、この物語では1544年説を採用した上で話を進めるものとする。

どうも・・・ショーエイです。

4月の時点で大方の内容は完成していたのですが…

加納口の戦いまで盛り込んで投降するかで迷ってました。

その間に…裁判の件やらの動きもあって…

正直頭の中はパニック状態。

 

ウクライナの件も無力ながら色々と思う所もあり…

結局、加納口の戦いは次号にという形で

今回の投稿とすることにしました。

 

さて…ウクライナの情勢です。

多くの人がロシアの残虐性を非難する意識で見られています。

情報が錯綜する中では、

どちらか信頼する方を信じるのは

当然の成行と言えばそう成ります。

 

ただ・・・少し考えて欲しいのは、

戦争状態が継続する限り、

情報から出てくるこうした

一般的には残虐と思われる事態は継続します。

それに対抗する戦略として、

ロシアに侵攻を諦めさせるため、

ウクライナの抵抗を支援するという意見も有りますが…

根本から戦争被害を残虐な行為としている中で、

戦争状態が終わらない支援をしているだけの話は、

寧ろ残忍な発想なのではと思うのです。

仮にロシアが侵攻を諦めるとしても、

あと何か月、または何年掛るのという事です。

 

前回に書き記した

哲学…ウクライナ紛争で得た教訓とその和平への道。 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

これも参考にしてもらえたらと思います。

 

ここに記した哲学⑩では、

戦争はどちらかが負けを認めるまでは終わらないもの

と、説明してます。

いわば当事者の心理として、

ウクライナが先ず負けを認めるか?

ロシアが負けを認める状況にあるのか?

双方が現状で負けを認めることは有りません。

これに対して、

バイデンとボリスまでもプーチンに負けを認めませんし、

プーチンもバイデンとボリスに負けを認めません。

 

よって…ロシアをどれだけ非難しても、

ウクライナの状況をウクライナ寄りでロシア不利と伝えても、

何の解決も成らない情報なのです。

 

そこをはき違えてどれだけ議論しても…無意味です。

 

なので…ロシアがあとどれ位の期間、戦争を継続させれるか?

適切に分析し、

ロシアの狙いが11月の中間選挙までは

負けを認めないだろう心境は察した方が良いです。

11月の中間選挙まで、

ウクライナ問題が何も解決への進展を見せないのなら、

先ず、バイデン政権の無能さは米国民からの判断を受けます。

その無能さを隠す意味で、バイデン民主党政権は、

一生懸命ウクライナ問題が

戦争として継続する状態をサポートするでしょう。

 

ある意味、米国民がバイデン民主党政権の無能さに気づき、

この冷戦時代の思考を残した残飯を捨て去れば、

プーチンの戦いの本命との勝敗は一応は決着します。

 

仮に米国民が残飯を残した状態を選択した場合、

プーチンが負けを認める内容では無く、

寧ろ別な形で勝負を挑むだけの話に成っていきます。

逆にロシアでプーチン政権が倒れる事態が発生したなら、

その時はプーチンの負けが確定する訳ですが…

世界がここまでロシア人という人々を

あからさまに非難した状態で、

ロシア人がそういう負け方を選択するのも

難しいのではと思います。 

 

実は…ウクライナの軍事力…

報道では何だかショボい感じで伝わってますが…

何気にフランスに次ぐレベルで、

欧州ではそこそこ高いレベルなのです。

 

現状、勝敗の行方は、このウクライナでの戦況次第です。

実はロシアが苦戦する状況は当然と言えば当然なのです。

それ故に双方に更なる犠牲者が出続ける。

 

これが…信長の戦いだったら…

ロシアは当初、占領を焦って市街地に攻撃を仕掛けました。

それをやればロシア側に犠牲が出るのは目に見えてます。

城攻めの怖さはそこに有ります。

信長なら包囲した状態で、炙り出し戦術を取ります。

兵糧攻めをされる側は備蓄が乏しくなって来れば、

自然と包囲を解く戦術に出てきます。

 

例えるなら…キエフを攻略するのに、

周囲の街を包囲して、敵がそこに援軍を送ってくるのを待つ。

その援軍が来る戦いに網を張って待つのが得策なのです。

局地の戦いでは防御を固めている方が強いです。

故に市街地を守る方は強く成ります。

どの様な状況でも防御の固い方に

攻撃を向けては不利に成ります。

ロシアはキエフ事態を包囲する事焦って、

寧ろその周囲の街の占拠を焦ったのかも知れません。

そこはウクライナを過小評価した結果と言えます。

 

援軍が来れば挟み撃ちという事にも成りますが、

援軍に備えて援軍側に対応していれば、

実はその援軍側は侵攻するのと同じで、

防御面では弱く成ります。

なので戦術的に削るという表現に成りますが、

削るのは防御を固めた方より、

援軍に来る側の方がはるかに削りやすい。

 

その上で、市街地への無駄な攻撃は避け、

相手が包囲を突破しようとする動きにだけ備えていれば、

民間への直接的な被害は極力避けれた。

 

そういう戦略でロシア軍の統制が為されていたのなら、

戦況は別物と成り、ある意味ウクライナ人たちの心の抵抗も、

些か緩和されたかもしれません。

 

4月頭くらいにこの状況が失敗している事を感じ、

その時点でロシアの人道的な戦略は無理と感じました。

ただ、哲学⑩で述べた様に…

戦争はどちらかが負けを認めなければ終わらないので、

普通の戦争=ガンガン攻めたて被害を与えるだけの戦い

に成ると伝えたのです。

 

現状ではウクライナ人たちの

ロシアに対する心の抵抗は分厚いものと成ってます。

恐らく個人個人が降伏することも認めないでしょう。

そういう状況下では、戦況を有利にと考える意味では、

ロシアがそこまで人道的な配慮を意識しなくなるのも当然です。

これが戦争なのですから。

 

それをどれだけ残虐な行為だと非難しても、

今と成ってはただ単にロシアに「負けを認めろ」

と言っているだけの意味でしか伝わらなにので、

ロシアがそれを真に受けて感じることは無いと

心理学上の解析で述べておきます。

 

双方がそういう形で戦いを意識する状態に成った以上、

人道的にどう導くかも無力な話で、

この戦いを止める事にも無力です。

 

既にロシアはウクライナへの過小評価は改めていると思われ、

更なる激戦化は予想しなければ成らないとも言えます。

 

人道的に今出来る唯一残されている方法は、

投降するウクライナ市民の扱いを

ロシア側と協議する事くらいです。

いわばロシアが投降したウクライナ人をどう扱い、

彼らの身柄をどう引き受けるのか。

この戦いに関係の無い所で、

ウクライナの投降者たちが再び関わらないという形で、

その人権と人命優先で交渉を進めることが求められます。

 

いわばロシアが受け入れる所で交渉を纏めなければ成らず、

ロシアが信頼して順守する状況で無ければ意味有りません。

何れにしても難局な話ですが…

纏められない状況が続く限り、

包囲されている中の市民は死ぬだけです。

ロシアを非難しているだけの人は、

無力にそれを見殺しにしているだけの事でしかない事を、

先ず気付いてほしいです。

事が進んで見殺しにした上で、ロシアを非難して、

その人たちを結果救えたのですが?

 

ここを考えてロシアを非難するだけの人たちが、

ロシアと協議できる役割を担えると思いますか?

逆にロシアがそういう人の話に

猜疑を抱いて見るだけと察した方が良いです。

いわばロシアは自分たちを戦況で不利になるように陥れる

策略としてしか見ないからです。

 

本来なら中立を維持する国々がこうした役割を担うべきで、

フィンランドでありスウェーデンの様な国も、

NATOの加盟に考えを寄せなければ、

こうした役割を維持できたはずなのです。

日本もそういう役割を維持できた方が、

本当に平和を愛する国として評価されたのでは…

 

平和ボケした人たちは、

冷静に自分がどういう役割で貢献できるかも、

戦争という残酷な現実を目の当たりにして混乱するのでしょう。

 

まあ、平和ボケという揶揄した表現にしてますが、

ほぼ90%の人類がここに陥るわけで、

ある意味マジョリティな状態なのだから、

周りがそれを平和ボケと認識しないのなら、

誰もそれを平和ボケと認識せず、

少数派の心理分析で冷静かつ戦略的に考える人達を

寧ろそう呼んで非難するのです。

 

もう、やっぱり・・・一回死んでみる?

頭が痛いほど悩ましい…人類本当に大丈夫か?

【第二十七話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】中編

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+5

〔ドラフト版〕

 

 信秀が道三の稲葉山城を包囲した加納口の戦いは、歴史の資料上では1544年と1547年の説に分かれている。

 この2説の存在を考慮して、この尾張・越前連合と美濃の戦いは1542年から1547年まで続いた戦として取り扱うものとする。

 5年の歳月とは長い様な話だが、停戦や膠着状態が発生する状態と成れば当然の年月と言える。

 

 1543年、信秀は坂井大膳の本隊とは別に、勝幡城に自らの軍を集結させ美濃南西に当たる大垣城攻略へと向かった。

 その坂井大膳ら尾張斯波軍の本隊は、美濃の笠松と木曽川を挟んで布陣した。

 木曽川を挟んだ位置に対陣された美濃側の道三はこれに対応するべく軍を配置せねば成らなかった。現代風に表現するならロシアが国境付近で軍を集結させた状態のウクライナ側の心境に似ているだろう。

 とは言え、川を挟んでの防戦であり、更には美濃が上流を支配している点も利用して、木曽川が尾張犬山城から北に曲がっていくその北端部分からやや東に行った土田あたりに堤防を築いて、この水を堰き止めて敵の足止めを行った。ここは木曽川の北岸と南岸の可児という場所を美濃側が支配している場所に当たる。

 坂井大膳は対面する木曽川の水位が低下した事を察するや、迂闊な渡河は避けなければ成らない事態と判断した。

 その為、犬山より北上して栗栖からその東にある可児の地の攻略を優先させ、木曽川の南岸の支配を試みる。

 ところがこれを察した道三は笠松(東海道本線と名鉄名古屋本線が木曽川を渡る部分)に主力部隊を集結させて、尾張側に対抗したのだ。

 この時点で川の渡河の主導権は道三側にあるわけで、坂井大膳はここの本陣を動かせない状態で膠着した。

 いわばここを手薄にすることは道三に渡河を許してしまう事になり、尾張側の戦局は寧ろ不利に成ってくる。道三の部隊が笠松から渡ってくれば、そこから東の犬山方面に向けての侵攻を許してしまい、むしろ犬山城は東西から包囲される事態を招きかねないのだ。

 尾張本隊が可児地方の攻略で動く危険性がそこに有るわけだ。

 その為、犬山北部の栗栖と可児の攻防は、織田伊勢守家の重臣として犬山城に入っていた信秀の弟、織田信康に任せる形をとるしか無かった。

 栗栖と可児の攻防は小競り合い状態で膠着し、双方譲らぬ戦いとなった。この時可児側を守っていたのは森可行(森可成の父)で土岐の家臣である立場を取っていたという。その為、道三に対しては内心不服を抱いていたともいえる。

 とは言え、栗栖の戦況が動かない状態もあって笠松木曽川の状況も対陣したままの膠着が続いた。

 

 その笠松の状況は道三側に若干の余裕があったと言える。

 しかしそれ以外にも北から攻めてくる朝倉にも対応せねば成らなかった。

 その朝倉側は北近江を通って関ケ原から美濃に侵攻するルートを用いる事出来なかった。

 後に浅井と朝倉の同盟関係を考えると利用できそうな話だが、この時分北近江の浅井と南近江の六角で戦争していた事もあって、迂闊にその領国を通過できる状態に無かったと言える。

 その為朝倉側は、揖斐川上流で美濃北西にある徳山湖方面に山間部を通って侵入し、そのまま揖斐川を伝って南下する形を取ったと考える。その分、進軍にはかなりの時間を有した。

 揖斐川の上流から南下して、朝倉軍が攻略を目指すのは大垣の北にある揖斐城(現在の揖斐川町役場から更に上流に入った国道号線乙原交差点付近)であることを道三は想定した。

 渓谷に挟まれた要衝でもあって、朝倉への備えとしてはかなり有用な場所であった。

 またこの揖斐城を守る揖斐氏は土岐家の末裔でもあるゆえに、今回の戦で敵に寝返る可能性もあった。ゆえに道三は真っ先にこの揖斐城を攻略し、自らの手兵をここに置く形を取ったと言える。

 その為笠松の余力をその付近に差し向けたのだった。

 勿論、大垣への警戒も怠ってはいなかったが、むしろ近江の情勢を考慮して関ケ原方面からの侵攻は無いと考えた道三は、大垣より揖斐城の防衛に優先度を置き、大垣は最小限の城兵で守り向く形で考えた。

 

 さて…このころの信長こと吉法師は不思議な興味を持っていた。

 勿論史実にはのってすらいない話だが、実は信長の成長過程に於いては大事な話と成ってくる。

 いつの時代でも幼少期に抱く興味は大人になって得る趣味に直結するものが多い。

 無論、絵を描くという興味でも、何の絵を描くかでまた異なるわけで、現代風に言えばゲームをするのもどういうゲームに興味が有るかで変わってくるのだ。

 実際に子供の興味から将来性を見極めるには一般的な知識では難しい話と言えるだろう。いわば子供への先入観を無くして、その子が何に対して興味を示すかを見極めなければ成らないからだ。

 信長が後に戦略・戦術に於いて奇想天外な才能を開花させたことは言うまでもない。

 ここはそこからの逆算に成るのだが、その奇抜な軍才を開花させるのに、地の利を感覚的に理解してなければ成らないという点がポイントと成るのだ。

 多くの兵家は地の利の大事さを書物によって知りうる話だろう。

 しかし、信長は書物によってそれらを知ることはしなかった。

 それでも感覚的にその利を知り得たのは、幼少期からそういう感性を刺激する興味に触れていたからと言える。

 信秀が道三と対峙する前に吉法師に語り掛けた話は前述の通りで、その後吉法師はその戦況に興味を抱くようになったのだ。

 子供が戦隊ものの勝敗や、漫画の勝敗に興味を抱くのと同じである。しかし吉法師はただ単にどちらが優勢かでは満足しなかった。

 

 美濃での戦争が始まって間もなくのある時、政秀と沢彦が那古野城の広間で、地図を広げて戦況を話し合っていた。そこにまだ8歳か9歳の吉法師が現れて興味深くその話を聞きだしたのだ。

 沢彦たちが話し合っていたいたのは、坂井大膳と道三の笠松、犬山方面での布陣についてだ。子供にはいささか難しい。

 吉法師も良くは解っていないが、地図と白と黒の碁で配置された図柄に何となく興味を持ったのだ。

 するとそこに吉法師が興味を持ったことを察して、沢彦は吉法師に解りやすく解説し始めた。

 木曽川の堰止めで水が決壊したらどうなるか…

 それで兵士や城下はどうなるか…

 それを防ぐにはどうするか…

 また、そこで兵が動くとどういう事に成るのか…

 

 更には朝倉がどこから美濃に攻め入るか…

 そして道三はどう対処するか…

 

 地図の碁を動かしながら説明すると、吉法師は大いに喜んだ。

 

 そして大垣に父・信秀が向かう事を教えられると、吉法師は

 

「おお!!父上は大垣を攻めて道三から奪い取るのだな!!」

 

 と、理解して父を誇らしく感じるのだった。

 政秀も吉法師がこうした話に興味を示すことにその将来を少し安堵した。そしてこれからしばらく、沢彦と吉法師の為にこうした場を設けるようにしたのだった。

 勿論、吉法師が完全に内容を理解するまでには、暫くの時が掛かるのだが寧ろこうして話を聞いていくだけでその戦術眼が自然と養われていったと言えよう。

 ある意味、吉法師は地図の上にあった碁を自分なりに動かして、シミュレーションゲームでもやるかのように遊び始めたのだ。

 そうして遊ぶ内に、聞いた作戦を模倣しながら自然と感覚を養ったといえる。

 そしてこの感性が後の桶狭間でも生きてくるのだった。

 

 さて、話を尾張・越前連合と美濃の道三の戦いの話に戻そう。

 簡単に年数的な話を合わせていくと、1542年に信秀ら尾張斯波の陣営は道三に追放を受けた土岐氏からの要請を受けて軍備を執り行った。そして1543年中ごろから年末あたりで木曽川付近の尾張軍本陣や勝幡城の信秀の布陣が決まったと考える。

 信秀は勝幡城から木曽川を渡り海津(岐阜県海津市)を先ず攻略し、更には揖斐川の西部に渡って大垣の南、養老方面に進出した。

 そこから揖斐川西岸と東岸で部隊を分けて攻略しながら、大垣の包囲へと進めたと考える。

 信秀の予想通り、比較的に手薄と成っていたこともあり、1544年頭には大垣に到達したと考える。

 そして朝倉の当主朝倉孝景率いた部隊は、揖斐川上流から南下し、揖斐城で道三の部隊と対面した。

 渓谷に挟まれた山城であることから、大軍を以てしても容易に落とせる城では無い。それを考慮した上で、信秀は林秀貞を使者として朝倉に送り、大垣陥落の後、信秀軍が後方から挟み撃ちする形で攻め込む時を合わせて朝倉も揖斐城を攻略するように勧めた。

 ある意味朝倉の兵力をここで無駄に損じさせないための配慮でもある。

 無論、朝倉もその話を良策として、無駄に揖斐城を攻略しない形で待機した。

 

 道三からしてみれば信秀の大垣侵攻は可能性として想定はしていたものの、出来ればあって欲しくない事態で考えていた。

 しかし、やはり大垣が狙われた点を察するや、すぐさまこの時点で別な手を講じるしかなくなったのだ。

 有能な戦略家はこうした切り替えも早いのだ。

 道三は既に大垣は守り切れないと察していた。

 そして大垣が奪われる事は、稲葉山の経済にも影響する事態も想定せねば成らない。

 いわば京からの物資が大垣で止まる事に成るからだ。

 よってこの戦争を長期化させることは避けたいとも考えた。

 また、揖斐城の状態も大垣が陥落すれば大きく異なる。

 上流側への一方向の防衛なら耐えれるが、下流からの双方挟み撃ちとなると別である。

 そうした状況を冷静に判断して策を講じるのであった。

 

(恐らく敵は、揖斐と大垣から合流して勢いに任せて稲葉山に攻め入るな…)

 

 道三はそう考えて、むしろ敵が勢いづく形に仕向けるように策を練ったのだ。

 そして揖斐城の部隊に使者を送り、大垣陥落と共に城を捨てるように命じた。

 こうした重責ある役割に、後に名を上げる人物が任される可能性を考え、揖斐城の部隊を30歳前後だった稲葉一鉄(良通)が指揮したと伝えておこう。

 そして道三は一鉄に、

 

(揖斐の兵を解散させ、時を合わせて揖斐に集結させよ。伝達の法を設けて、山野村に潜みその時を待て)

 

 と伝えるのであった。

 いわば兵を散開させて山や野、村に潜伏させて待機するように命じたのだった。

 実際にこれだけの言葉でどうすれば良いかの判断ができるのは、相当に優秀な人物でなければ成らない。

 どれだけ総司令官が優秀であっても、その作戦の意図を察して動ける想像力のある指揮官が下に居なければ、その作戦は機能しないのだ。

 現代社会でよく見る一般的な人は、「兵を解散させて時を待て」と言われて…「えっ、どういう事?」と説明不足な点を嘲笑います。

 SNSの世界では笑い話にして済ませられる事でも、実際はその人の能力が無いから解らないだけです。

 こうした人間は決して重責につけては行けないと言っておきます。

 また、指示を与える人間は、指示を受ける人間の想像できる範囲を理解していなければ成らないのも事実です。

 道三がここで稲葉一鉄を使うという事は、稲葉一鉄という人物なら自分の指示を聞いて自分の想像と同じ形で実行できると判断したからと言える。

 逆に後に美濃3人衆と称される人物クラスで無ければ、この大事な作戦は任せられないだろうという話に成る。

 

 揖斐城で指示を受けた一鉄は、状況を精査した上で道三の言わんとするところを想像して察した。

 いわばゲリラ戦である。

 そしてそのゲリラ戦の意味は、敵の糧道をここで断つという意味も想像した。ある意味朝倉側の糧道であり退路はこの揖斐川に沿った所しかない。

 無論、道三は後に退路を断つ意味で、時を得てらから城を取り返せという意味であったが、一鉄は部隊を散り散りにするのではなく、山野に潜み、敵の糧道を断ってそのれを奪う事で兵の維持を考えたのだ。

 さらに一鉄は山野での暫くの野営を考えて、近くの山中に兵糧を秘かに移しつつ準備を始めたのだった。

 

 こうして信秀が大垣を包囲し、数週間で陥落させると、一鉄はその夜には数千の兵を率いて揖斐城から脱出した。

 そして用意した野営地に軍を潜めたのだ。

 野営地は数十か所に点々と設けて、敵に悟られない形で伏せた。

 そして信秀が予定通り揖斐城に到達し、朝倉方との挟撃でこれを攻略するや、城は既にもぬけの殻状態に成っていたのだ。

 信秀は、

 

(どうやら敵は挟撃の不利を察して早々と稲葉山の方へ引いたか…)

 

 ある意味、笠松からの本隊合流も含めて考えるなら、むしろ稲葉山に兵を集中させる可能性が高いと見て、伏兵の存在を無視したといえる。

 

 果たしてこの伏兵がどの様な効果をもたらすのか・・・

 話は後編へとつづく・・・

 

どうも…ショーエイです。

今回は適材適所という話を盛り込みました。

この適材適所、解ってはいても実は中々難しいのです。

いわば指示通りに従うと言っても、

人は中々指示通りに動いてはくれないものです。

簡単なルールやマナーなら誰も従えるのですが、

指示に関しては受ける側の経験も必要に成ります。

 

企業ではこうした指示通りの作業に

経験を積ませることで対応しているようですが、

難しい内容になれば成るほどその指示はより複雑化します。

 

この難しさは現在ロシアの行軍でよく見られる事と言っておきます。

 

実はプーチン大統領の指示と、

軍に伝わる指示が一致していない点が見受けられます。

単純に…「一般市民を攻撃するな、市民は大事にしろ」

とは伝えていたとしても、

武器を持った市民であり、

またウクライナ兵士が潜伏する建物をどう対処すれば良いか、

軍を指揮する人の判断によって異なる部分と成ります。

 

またプーチン大統領が差す市民の意味も、

親ロシア派市民だけという曲解した意味で考える人も居ます。

 

先ず人によっては成果を求められると考える人も居ます。

マリウポリならマリウポリを早く攻略せねばと考える人も居ます。

市民を直接攻撃しなければ

良いだけという判断をすることも生じます。

ある意味、プーチン大統領の意図は、

市民に対する攻撃は避けて、

極力兵糧攻めによって降伏させていくというプランだったと考えます。

しかし、現場が敵からの攻撃に応戦せざるを得なくなり、

味方に被害が出ない点を優先させ、

通常戦闘通りの爆撃と砲撃を実行した結果、

市民にも大きな被害が生じてしまったという事態です。

 

無論、指示を出したプーチン大統領も、

味方の被害の事を考えれば

そこは現場の判断を責めれないと理解したのでしょう。

 

しかし、指示を受けた側が兵糧攻めの意味を理解していたのなら、

もっと市民への被害が少ない陣容で対応したかも知れません。

 

恐らく今までロシア軍が体験もしたことのない作戦故に、

ロシア軍も混乱した状態にあった点は否めません。

またプーチン大統領自身も、

自分の存在の意味を熟知していない。

彼はカリスマであっても、

彼に従う人たちはプーチン大統領に依存し、

ある意味恐れている。

それ故に功を焦る者や、失敗を恐れる者が、

寧ろその言葉を曲解して捉えてしまうのです。

 

功を焦る者は、結果を早く示そうとして、

寧ろ人道的な配慮より都市攻略を優先してしまう。

失敗を恐れる者は、

人道的配慮より包囲の欠陥が生じる事を恐れ、

そこを寧ろ徹底してしまう。

 

そうした状態を統制するのに賞罰は徹底して、

且つ公正に行わなければ成らないのですが、

現状、この辺をロシア軍がどう対応しているかは知りません。

 

逆に米軍はこの辺を徹底している感じです。

米軍も兵士の失態は多々生じますが、

一応、そうした失態にたいしての罰則も徹底してます。

 

ロシア軍がある意味模倣するべきは、

こうした米軍の賞罰に対する姿勢で、

失態あった部分は隠さずに、

賞罰を以て対応するという姿勢を示せれば、

軍のイメージも変わってくるかも知れません。

 

逆にこうしたハイブリット戦争に於いて、

SNSの投降などで錯綜する状態に、

常時適切に対応する姿勢を示すことで、

寧ろ情報発信の信頼性は向上するとも言えます。

 

結果どれだけトップが理想的な作戦を述べたとしても、

その理想を理解し適切に指揮に反映できる指揮官が居なければ、

その部隊は混乱してしまうだけでもあるのです。

今、ロシア軍に生じているのは士気が低いという話では無く、

寧ろ作戦に対してどう扱っていいのか混乱していると言えます。

前述したように市民を撃つなとは言え、

武器を手にした市民を撃っては成らないのか、

兵士が立てこもる学校や病院はそうするのか?

そうした指示からの矛盾で、

最終的には従来通り攻撃する部隊、

一次後退して行く部隊など、

様々な形で対応している様に見えます。

 

現状、ロシア軍は一貫した統制を取る事は難しく、

部隊それぞれの方針で進む状態になると考えられます。

特に驚異的なのはマリウポリに展開する部隊で、

その部隊は容赦なく破壊を行っていくかも知れません。

 

また、キエフの攻略に関しては、

時限恐怖とでもいう形の方法も考えられます。

いわば一時的な平和の後に

再び爆撃の恐怖が襲うという事の繰り返しで、

精神的な破壊を目指す方法です。

ある意味拷問に近い方法の作戦です。

 

戦争を善悪で言っているだけの人は、

戦争の本当の怖さを知らないのです。

その戦争が発生しないようにすることが善であり、

戦争を発生させたらそれに関わる全てが悪です。

一度戦争が始まってしまえば、

双方が相手を屈服させることしか考えなくなる。

その為にはあらゆる残酷な方法も手段として用いるのです。

ポーランドやバルト三国の多くの人々は、

ロシアに勝つつもりでいるでしょうが、

その勝つまでの間の地獄は全く想像すらしていません。

米国の政治家であり、日本の政治家も同じで、

ロシアに勝てる、中国に勝てると思っているが、

勝つまでにどれだけの犠牲が生じるのか、

全く想像すらしていないのです。

長い戦火の中では、

訓練された米軍兵士ですらPTSDに掛る状態です。

そういう意味では安易に戦争を考えないでほしいです。

 

貴方は今の生活を捨てても良いと考えますか?

戦火に巻き込まれた後に、勝利したとしても、

今の生活をすぐに取り戻せると思いますか?

 

この戦争はロシアのプーチンも悪だが、

ウクライナのゼレンスキーも、

アメリカのバイデンも、ブリンケンも、

全てが悪であり、

多くの国々はこれらの戦争に関わるべきでは無いのです。

ウクライナを助ける必要もない。

ロシアを支援する必要もない。

その上で両国の和平が成立しやすいように、

中立的な立場で見守るべきなのです。

どちらかを助ければ、戦闘は終わりません。

どちらかに制裁を課せば戦争を止めません。

そういう事を少しは理解してほしい話です。

 

因みにアカデミー賞のウィル・スミスさんの平手打ち。

クリス・ロックさんの過失で

奥さんへの公然侮辱罪が成立する話です。

逆に暴力という平手打ちで事が治まってよかったのでは?

双方がその上で罪を犯して両成敗で終われるのだから。

逆に冷静な対応で、

クリス・ロックさんを公然侮辱罪で訴える方が適切なのか?

そういう形で見れば、ウィル・スミスさんの感情的な反応は、

寧ろ過失を犯したクリス・ロックさんを庇ったことにも成ります。

無論、あれが平手打ちだけで無く、

ボコボコに成るまで殴ったのなら別の問題です。

 

何でもカンデモ暴力反対という話ではなく、

相手が怪我しない程度の感情表現は、

寧ろ言葉の暴力に対する正当防衛として見なすべき話です。

逆に暴力を行わずに法廷でクリス・ロックさんを裁こうとする方が、

グロイ話に成ってきます。

逆にこれで治まったのだから、

むしろメディアは言葉の暴力に対する正当防衛として、

妥当かどうかを議論するべき話と言えます。

まあ、クリス・ロックさんもジョークのつもりが

過失となって生じた事態ゆえに、

法廷で裁かれる話より、あれで終わった事は、

寧ろ不幸中の幸いなのではとも感じる話です。

 

【第二十六話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+5

〔ドラフト版〕

 

 吉法師の元服前の信秀の動向は、北は美濃、西は今川を相手に立ち回った記録となる。

 1542年には「信長公記」の記載では第一次小豆坂の戦いで信秀が勝利したとあるが、実はその「信長公記」以外の資料ではその実態が記されていない。

 いわば全話の通り松平信定の後継者、松平清定を支援しての戦いで安祥城を支配した訳ではない。

 ただし斯波義統の名を大義とした戦いであったことを全話に伝えたように、後世の信長には尾張斯波が西三河を押さえたという形で伝わっていたのかも知れない。

 歴史の伝わり方というのはある意味このように曖昧な伝承も含まれることを理解しておく話であるのだ。

 時節と照らし合わせてこれをNATOとロシアのウクライナ介入で見てみると何気に類似した勢力支援が伺える話だが、いずれにしても戦乱時代の産物というのが現在の見方としてほしい。

 どちらが正しいかではなく、今川織田の様に完全に相容れぬ時代ではなく、経済的な繋がりを以て解決できる現代では、むしろ双方の意識が平和的に向かう事を望むだけの話である。

 

 そのNATOとロシアの話同様に、双方が直接ぶつかり合う緩衝地帯を三河に求めたというのは戦略心理上大事なことである。

 今川とすれば東の北条との緊張状態が終わらない時期で、信秀としては次に尾張全体の戦として美濃に備えなければならない時期であった。

 この戦略心理という点で、ロシアを信秀側の視点に照らし合わせてみると、三河を東欧全体で捉えた場合、位置的には逆だがウクライナやベラルーシは西三河に該当する。

 NATOがポーランドであり、バルト三国にミサイルを配備するというのは、ある意味今川が軍を岡崎に入れたような話に成る。

 その上で西三河を攻略し始める動きは正に死活問題で、完全に直接対決を意識させる緊張状態と成るのだ。

 仮にお互いが平和的な形で不可侵を誓うのなら、むしろ相手が緊張してしまう状況を緩和しておくほうが望ましい。

 いわば三河が緩衝地帯となって、お互いの敵対心理を増長させないようにするには、双方が軍事的な支配をその地域で放棄する方が望ましいのだ。

 寧ろ軍事的な支配または支援として軍を入れる事は、相手との距離間で突発的な戦争に対応せざるを得なくなるのだ。

 緩衝地帯を設けていれば、いわば今川が遠江から軍を発しても三河を通る間の時間で対応を考えられるわけで、緩衝地帯がその時間の猶予を考えさせる場所となる意味を持つのである。

 ある意味、ミサイルがポーランドから発射された場合、ロシア圏に到達するにはロシアはその数分で迎撃処置が取れるのだ。

 しかしそれがベラルーシやウクライナに成ると、迎撃できる時間はほぼ無くなってしまう。

 この点を理解した上で平和的な緊張感を考えていかねばならないと筆者はお伝えしておきたい。

 国際社会の調和の意味で、欧米の意見だけでは欧米の横暴を許す話になるだけという意識が、当然中国やロシアにあってもおかしくない点を理解した上で、こうした問題を解決しなくてはならないのだ。

 寧ろ民主的な意識の中では、中国やロシアの視点も欧米の視点も対等に議論されたうえで国際的な解決に結びつける方が、一方的な意見による支配から逃れられるという事は理解した方が良い。

 

 さて、話を戻して信秀は三河との緩衝地帯が維持されたことで、暫くの時は東を意識しなくてもいい状態になった。

 このころ尾張全体は大きな局面を迎えていた。

 美濃の斎藤道三が幕府守護職である土岐頼芸とその子の頼次を追放して美濃の完全支配を敢行したのだ。

 下克上の世界では当然の成行と、道三側の視点から見れば理解もされるだろう。

 ある意味、専務によって会社が上手く回っていた中で、無能な社長が欲に任せて勝手に動き出したら、会社の為にその社長を排斥したくなるのは当然の話だ。

 しかし、外部からすればその内部混乱の話は付け入る隙として見なす絶好のタイミングだ。

 その意味として道三の行為をある意味、反幕府行為としたのである。外部の目線で言うならば、ロシアのクリミア併合に対するものも同じだが、革命という意味では軍事革命を引き起こしたミャンマーに対してに近い。

 無論、ミャンマーの軍事支配は大きな過ちであるという意識に筆者も変わりは無いのだが、民主派のスー・チー氏が手順を早まったという点は否めない。

 それは彼女らが軍部を敵扱いにして政策改革を望んだからだ。

 土岐頼芸も斎藤道三の支配に反感を持つ家臣の意見を聞き入れて、その専横を排斥しようとした事が事の発端であろう。

 寧ろ現代の国際社会の目線同様に、幕府側の目線で見れば斎藤道三は守護職の指示に従って、支配権を放棄するのが当然と見なされる。

 それに反したことは、幕府の大義を掲げて美濃攻略を考える勢力が出てもおかしくは無いという事になる。

 ただし何度も言っておくが、これは戦乱の時代ゆえに支配欲望による大義の利用が当然であった時代の話で、戦乱の歴史に終止符を打つべく現代、いわば日本国憲法にも記載された意味で「平和を希求する」意味では、こうした情報はもっと丁寧に扱わなければならない。

 ミャンマーのケースは、寧ろスー・チー氏を焦らせた欧米の諜報機関の失態…いわばミャンマーの民主化を急がせた結末と伝えておこう。六韜で有名な太公望ならスー・チー氏に、このような急かせた事はさせなかっただろうという点は伝えておく。

 欧米がそうしたミャンマーの平和的な革命を支援する形で取った事はロシアがウクライナを考えるように、中国としても戦略的に好ましく考えないのは当然で、むしろ軍事政権の維持を許してしまう形に成るのなら、欧米の活動は無策無能で無責任なモノであったと断じるしかなくなる。

 

 こうして様々な視点を解説しているのには実は理由があるのだ。

 基本、読み手は自らの印象的先入観で善悪を考えてしまう。

 土岐頼芸の行動を、斎藤道三の存在と比較すると、頼芸の行為を理解する方は少なく、寧ろ無能者として道三に淘汰されて当然と考えるだろう。

 そこをもっとその時代に入り込んだ視点で、この問題を考えてみてもらいたい。

 尾張などまだ斯波家を守護として立てている勢力からすれば、室町幕府の政策に順応して対応する事が当然の認識となる。その幕府の政策を崩してしまう様な道三の行為が当時如何に秩序を乱す行為として理解されるかをよく考えてみて欲しい。

 それを踏まえたうえで、吉法師が父親の敵方ともなるはずの斎藤道三を認めていた点を逆に不思議に感じてみるべきなのだ。

 本来当時の視点で考えれば、逆賊の斎藤道三はそれを悪とした尾張の視点で見ると認められない存在となる。

 後にその道三と姻戚関係を以て同盟するなどという事は、反逆者と同盟したというレッテルをも貼られる話となる。

 人間の意識の中で悪と決めつけてしまった相手を中々信用できないというのは当然であり、信秀の織田家中の中に於いてもそうした議論に及んでいた状況は想像できる話として先ず理解してほしい。

 日本人でありアメリカ人でも、欧米側の視点で見ればロシアのプーチン大統領を悪と決めつけて信用できないとするのもそれに近いのだ。

 しかし、史実でもあるように吉法師こと信長は、後にその道三を信頼して、その援軍に自陣の防衛を任せるような判断までしている。

 後にこの経緯は解説するが、その上でこの時点の道三の話は、他の尾張の視点とは違った意味で吉法師に伝えられていたと考える方が面白いのだ。

 

 こうした現象を不思議な出来事として精査して見ると、道三の真意を別な形で吉法師には伝えられていたと考えるのも大事なこととなる。

 無論、野心家としての才覚が有った故に、その才覚で道三の行動を肯定していたという事も考えられなくはないが、実際に吉法師がこの出来事に遭遇するのは10歳前後の話で、心理学上まだ自我が確立する前の段階で、親や周りの影響を受けやすい時期であったことを考えれば、誰かが吉法師の視点に影響力を与えたと見る方が現実的となる。

 その影響力を施せる人物は、平手政秀、沢彦または佐久間盛重も含まれるが、一番大きな存在は織田信秀だったと考える。

 

 信秀は道三との戦の前に那古野を訪れて、嫡男吉法師を膝に抱えて不思議と戦前の覚悟を語って聞かせた。

 信秀からすれば大戦で勝てる勝算は無く、自らが命を落としてしまうかもしれないという覚悟の上でのものだった。

 それだけ信秀は道三の才覚を認めていたのだ。

 

「道三はこのご時世で思い切った事をしたものだな…」

 

 信秀はそう吉法師に語り掛けるように話し始めた。

 信秀は寧ろ敵となる道三に同情したようにも聞こえた口調であった。

 それは信秀自身も様々な形で主家である大和守家と再三にわたって反抗してきたからだ。

 それでも主家を亡ぼすという不義までは為しえていなかった。

 その反抗の一つが那古野の一軒であり、那古野を調略して落した信秀に大和守家が引き渡せと迫った事件も思い浮かべられる。

 信秀の元々の支配地は津島付近の尾張西側である。

 それが東側にまで勢力を拡大したのだから無論尾張支配権をめぐって主家と揉めるのは理解できる話である。

 もちろん尾張国内における弾正忠家こと信秀の財力は大きく、それ故に主家大和守家との戦でも優位に立てた。

 しかしそれでも信秀は主家を亡ぼす様な戦い方はせず、大和守家が手を引くまでの防戦という形で抵抗して、尾張に於ける信義、いわば反逆者と成る事は避けたのだ。

 それだけこの下克上の時代でも不忠に値する行為へのリスクを意識せざるを得なかったと言える。

 いわば反逆者として尾張国内に敵を作る事は、いくら財力が有っても孤立し、そして東の三河松平に今川まで相手に生き残らねばならない。

 明瞭な頭脳の信秀ならそのリスクの大きさを十分に理解していただろう。

 ゆえに道三の行動には一目を置いてみていたのだ。

 それは吉法師にもそれとなく伝えられた。

 勿論、10歳の吉法師にはその時点でその真意を理解する事は難しい。しかし、天才たちの記憶の中にはその言葉が後に鮮明に残って、(親父は前にあんなことを言ってたな…)と、何かを判断する情報として残存するのだ。

 逆にこうした言葉をその言葉通りに理解できる子供いるだろうが、残念な事にその子は寧ろ天才には成れないのだ。

 一般的に神童として見なされるのは後者の方だろう。

 しかし、それは忠実に飼い主の言いつけを覚えてくれる犬と一緒で、野性的自分の判断で動く猫…言い換えれば獅子とは成らないのだ。犬で例えるなら忠犬と、野性の狼の違いとでもしておこう。

 

 織田弾正忠家の家中に於いては、この二つの違いは信長である吉法師と後の信勝(信行)こと勘十郎の違いで見れる。

 勘十郎なら、信秀の言葉をそのままの意味で

 (道三はの行動は思い切った事をした行動なのか…)

 と、理解してしまう。しかし、何が「思い切った行動」として考えずに、ある意味他の情報と合わせて、「主家を裏切ったという思い切った行動」としてだけで認識してしまうのだ。

 実は勘十郎の様な認識は一般的で、こうした思考で言葉通りに理解する人間は情報に洗脳されやすい。

 ただ語り手としては、勘十郎の方が勉強熱心に話を聞く姿勢に見える分、一般的には好感度も高くなる。

 逆に吉法師の場合…アホに見えるほどボーっとその言葉を聞いているだけだ…ある意味、猫に「お手」を覚えさせようとして「その躾」事態に全く興味を示さないのと同じだ。

 しかし、人の好みによりけりだが、子供を可愛いものとして見た場合、吉法師の方が愛嬌ある反応に成るのだ。

 いわば、吉法師からすれば「道三が思い切った行動をした」という事に今、興味は無いのだ。

 ただ、親父が「道三が思い切った行動をした」と言っていたことだけは何故か記憶出来てしまう。

 そしてここが天才という意味で後に大きく異なる点に成るなのだが、道三という人物を自分で判断する時=興味に直面した際、親父こと信秀はこういう評価をしていたな…と自分が精査する際の題材の一つとして、その真意まで考慮して用いるのだ。

 ゆえに分析を以て相手を計る意味での「情報」であって、その言葉を真に受けて自分の判断の基準とすることは一切ないのだ。

 

 勿論、信秀は賢者ではない。

 ただ、直感的にどちらの雰囲気がリーダーに向いているかを見極めた際、人の話をある意味真摯に聞いてそのまま取り入れる勘十郎より、自分勝手に動きながら不思議と領内で実績…いわばこの物語で登場したエピソード治水や水田開発といったものが齎されていく…無論そこには政秀ら家臣団の苦慮も有るわけだが…それらを踏まえて考えれば吉法師に不思議な神秘性を感じさせるものがあったという点は否めない。

 寧ろ史実的現実としても、このような不思議が存在するゆえに信秀は吉法師に惹かれていたと言える。

 

 しかし、信秀が死ぬまでどちらを正当後継者にするかで迷っていた点は最終的な結末で見られる部分として残るゆえに、信秀の心情に葛藤があったことは否めないのだ。

 ある意味、吉法師が何の実績も残さずにただ普通に嫡男として勉強にも励まない「うつけ」として過ごしていただけなら、むしろ勘十郎の方が優秀に見えたであろうし、家臣団の評価もあって吉法師は寧ろ廃嫡されたとしても可笑しくはない。

 参謀的存在の林秀貞が勘十郎の才能を後押ししていたのは明らかで、信秀直属の評価は明らかであったと考える。

 その上で、吉法師の家臣団が那古野に何らかの実績を積み上げてその評価に対抗していたと考えるのが妥当な状態となる為、物語で上げたエピソードはフィクションであってフィクションで無いと考えて欲しい。

 この経緯なく信長の才能は現実的に30代前に開花するのは難しく、政秀無くした信長側が、本来信秀直属となる正規軍に対抗できる団結力を得ることは難しい話に成るという点で理解してもらいたい。

 ただし、史実に記録が無いゆえに、現実想定として設けたフィクションである事は変わりない。

 

 信秀は膝に吉法師を抱えたまま、ひたすらに語り掛けた。

 

「さて、その道三がこの状況をどう戦うか見ものだな…」

 

 吉法師は信秀の言葉をボーっと見上げるように聞いていた。

 まるで飼い猫に独り言を語り掛けるような感じだ。

 むしろ勘十郎の様に真剣にかしこまって聞いてくれるより、むしろ吉法師の様な反応の方が親として可愛げがあるのかもしれない。

 そして信秀は、

 

「その道三にワシが勝ったなら、吉法師よこの父を誇りに思ってくれ」

 

 いわば、信秀は一目を置く斎藤道三との戦いにその覚悟を吉法師に伝えたのだ。

 1542年前後の出来事で吉法師はまだ10歳にも満たない8歳ぐらいであった。

 ゆえに深い意味を察する事は無かったにしても、信秀の覚悟の言葉は、むしろ斎藤道三は凄い人物という印象で残ったのだ。

 信秀は道三を相手に負けて死んでも、父を恥と思うなという意味で息子に伝え残しておきたかったのだろう。

 ある意味、この意味は吉法師の興味に触れたのだった。

 それは単純に子供が戦隊ものや、アニメの格闘シーンに興味を示すのと同じである。

(相手は強敵、その強敵に親父殿(信秀)はこれから戦いを挑むのだ…何か凄いことだ!!)

 そういう意味で吉法師は信秀の言葉を理解した。

 

 もし、仮に信秀が斎藤道三を悪者として、馬鹿にして吉法師に伝えていたのなら、吉法師の道三に対する印象は違っていたともいえる。

 歴史を紐解く心理上の流れとは、こうした些細なことで変化する。

 ゆえに子を持つ親は、自分の言葉一つ一つが子供の将来に大きな影響を与える点は意識しておくべきと言える。

 

 そして暫くの時を吉法師ら共に那古野で過ごした後、こうして信秀は斎藤道三との戦いに挑んでいったのだ。

 

 その斎藤道三の形勢は圧倒的不利であった。

 南からは斯波義統の大義の下で土岐頼芸を支援する形で、弾正忠家、大和守家、伊勢守家と織田の勢力が総集結して向かってくる。

 そして西からは頼芸の美濃先代守護である頼純、いわば道三が頼芸を祀り上げて実権を握った際に追放した人物で、その後に越前の朝倉を頼った経緯の持ち主であり、その朝倉がそれを大義に尾張と連携してこの戦いに当たったのだ。

 

 いわば二方向からの敵を迎え入れる所業ゆえに、見方によっては道三の美濃簒奪は失策と成ったともいえる事態だ。

 普通に考えれば馬鹿にされても可笑しくはないが、信秀は道三には恐らく勝算あるという点を見抜いていた。

 それは美濃の地形で、東美濃に行くほど山々に挟まれ渓谷上となっていく為、その影響から西と南は自然と合流して向かわねば成らなくなるからだ。

 いわば稲葉山城を起点に美濃は双方からの攻撃に対して守りやすくなる。

 将棋で言うなれば「穴熊」という戦略だ。

 

 南の尾張斯波軍は、今の尾張一宮あたりに集結して作戦会議を開いた。弾正忠家のほかに大和守家、伊勢守家も総集結したものである。

 ある意味、この戦いは織田大和守家が威信を掛けて挑んだ戦いとでも言うべきものであった。

 一次資料として残る「信長公記」「美濃国諸旧記」にも尾張の主力は織田信秀と成っているが、いずれも信長の系譜を主体に見なされた記述故に無視して考える話とする。

 現実的に朝倉をその同盟として動かすには、まだ斯波氏の名目を必要とするため、尾張方総大将かつ、戦の発起人は織田大和守信友であるとしなければ説得力がない。不明瞭な資料の関係上、先代の織田達勝であった可能性もあるが、むしろ尾張の実権と忠誠を計る意味でこの戦いに挑む意図も加え、更にその後信秀の古渡を急襲するという出来事に繋げて考えるなら、信友の方であったと考えて妥当となる。

 ここには複雑な尾張の事情も反映して考えるとより面白い。

 上記の通り達勝からその養子として大和守家を引き継いだ信友は、大和守家の重臣、坂井大膳、河尻与一(左馬丞)、織田三位らの三頭政治の傀儡として擁立されたと考えてもいい。

 いわばその三頭が尾張の実権を握る意味で、守護代大和守家の影響力を試した形として考える。無論、戦の名目は斯波義統の名を借りての話となる。

 政治的な意図があったとはいえ、その時分に逆賊として美濃の斎藤道三が台頭してきた事は好都合な題材であった。

 またその逆賊討伐を名目に、越後の朝倉と連携する形まで結び付けた点は、この三頭政治が無策であったという感じではない。

 それ故に尾張の諸侯はこの戦に集結せねば成らなかったと言える。

 織田信友を総大将として担ぎ、その指揮権は恐らく坂井大膳にあったと誰もが感じたであろう。

 坂井大膳は尾張諸侯の参加状況を

 

「織田弾正忠信秀、兵5000…」

 

 と読み上げながら、その作戦会議の議長として自分が主導する存在であることを諸侯に知らしめた。

 作戦は漠然とした形で、古今の定石を用いて、尾張一宮の現在の拠点から北上して美濃との境界に当たる笠松(名鉄名古屋本線笠松駅と木曽川堤駅の間)で木曽川を挟んで対峙するというものであった。

 無論、坂井大膳の構想では稲葉山城攻略までは視野に入れていない。寧ろこの戦いで尾張の主導権を自分が握っているという証明が出来れば良いと考えていたのだ。

 ゆえに戦は古今の定石で、川を挟んで一進一退を繰り返し、朝倉の方の援軍の状況次第で稲葉山攻略までを判断すると考えていた。

 そういう全ての状況を見越して、尾張国内でも今川とやり合うほどの戦上手で知られる信秀はこう提案したのだ。

 

「主力はここから稲葉山へ北上する形ならば、朝倉の援軍と合流する役目を我々が引き受けましょう。」

 

 ある意味、朝倉の援軍の手引きという大膳の作戦からすれば脇役を買って出た形で信秀の提案は聞こえたのだろう。しかし、戦上手の信秀故に何か裏があるのではと疑わざるを得なかった。

 

「いや、弾正忠殿には主力として笠松で奮闘してもらいたい…」

 

大膳は一応、そう切り返した。

しかし信秀は、

 

「むしろ我々が勝幡より北上して朝倉と合流することを考えられたら、敵がどう判断するかを描いてみてください…」

 

 信秀は恐らく道三なら「穴熊」でこの難局を切り抜けるだろうと見越していた。寧ろそうでなければ美濃は遅るるに足らない存在なのだ。

 その遅るるに足らない形で坂井大膳が考えるであろう、むしろ自分と同じ考えを気付いているのなら、一目を置く存在として見なすという意味で鎌をかけた…

 

「なるほど…そうなれば美濃の笠松への対峙は手薄になるという事か…」

 

 大膳は戦を定石から判断する典型的なタイプだ。

 故に、定石から相手の綻びが見られるなら得策と考える。

 更に信秀は調子よくこうも加えた。

 

「道三の所業は断じて許すまじきもの、ここは斯波の旗の元で美濃を攻略して天下にその力を知らしめるべきと存じます。」

 

 無論、信秀の腹の底はそんな事微塵も感じてない。

 しかし、この言葉は大膳ら尾張の支配を考えるものからすれば、捨て置けない言葉に成る。

 いわば自らの器量を示さねば成らない言葉なのだ。

 そして信秀が伝えた様に稲葉山を見事に攻略出来たなら、ここで指揮を執った大膳の権威は尾張国内で示されることに成る。

 実際に、敵である斎藤道三が失態を犯して稲葉山城を失っていれば坂井大膳という存在は歴史的に別物として評価されたと言える。

 ただし、信長が桶狭間で今川を打ち破ったような器量までは無く、どの道運よく歴史が変わっても、今川に駆逐され斯波の名と共に消えゆく存在となる事は否めない。

 寧ろこの戦で斎藤道三という存在が有能であった事は、歴史的な事象から運が悪かったのは今川義元と成ってくる。

 

 坂井大膳はそこまでという言葉として信秀の提案に器量示し、

 

「ならば是非もなし、その忠義の心見事に示されよ」

 

と、信秀の作戦を受け入れた。

 信秀は更に付け足し、

 

「恐縮ながら死地を選ぶわが軍に、奮闘する士気を頂きたく考え攻略は切り取り次第でご了承いただきたいが…」

 

信秀はしたたかにこう述べた。

 無論、大膳は自らの器量を示して当然と考えた。

 

「勿論、好きに為されよ…おおいに奮闘して頂こう!!」

 

 更に信秀の脇で参謀として同席した林秀貞が、その言葉に、

 

「これで朝倉方の援軍に対しても斯波の義が伝わる事に成りますな。」

 

 と、付け加えたのだった。

 秀貞の言葉は、その真意をより鮮明に「斯波への忠義」という意味で印象付けたのだ。

 寧ろ余計な勘繰りが入って、この作戦を他の者に任されても困るわけだし、むしろ作戦が認められなくなる事態では、元々の狙いが無に帰するからだ。

 そういう抜け目のない才覚をこの林秀貞は持っているのだ。

 

 大膳はこの軍議で気分が良かったことだろう。

 尾張をこれから自分の権威で支配する上では、その器量が大いに評価されるだろう状況は好ましい。

 無論、それでも三頭の一角、河尻与一は大膳に今しばらくの吟味を促した。与一の再考する話は勿論大事なことだが、むしろ三頭政治であることがそれを邪魔したのだ。

 大膳は与一の耳打ち、

 

(この場で優柔不断な回答は、むしろ今までの大和守家と変わらなくなるのでは…)

 

 いわば、優柔不断にダラダラとした形で、尾張斯波家は過去に遠江を失い、大和守家に至っては権威を失墜させてきた。

 三国志演技などでも記されるように、史書としても優柔不断は反董卓連合に見るような袁紹を想像させる。

 そういう様々な知識からも、ここは自らの器量によって明瞭な決断が下される改革が行われた点を示すべきと判断したのだろう。

 無論、そういう論理で三頭の一角である河尻与一の思慮を封じるという腹も加わってのことだ。

 

 信秀らは本体の了承を得た形で、自陣の有る勝幡へ向かい、ここから北上して大垣を目指す準備に取り掛かった。

 信秀は秀貞に、

 

「はてさて…大膳が道三を甘く見ているのか…それとも我々が道三を買被っているのか…ここが見極め時だな…」

 

 と、軍議の事をそう語りかけた。

 

「もし、我々が道三を買被っている状況ならば、朝倉方の主力に大垣を攻略させれば良いのです。」

 

 と、秀貞は答えた。

 そして、

 

「その時は私が語った意味で、朝倉に対する義理を示せば問題有りますまい…」

 

 すると信秀は、

 

「後は、大膳の器量次第で尾張の行く末を図ることになるか…」

 

 と、あくまで臣下の立場であることを伝えている。

 信長への遺伝的な先入観で信秀を見ると、野心家のように感じる人も多いかもしれない。

 しかし、信秀は斯波家の臣下としての立場を考える事はしておらず、むしろ領土拡大を目指す野心は、尾張斯波家を盛り立てて行ける者が居ないのなら、その補佐する地位を自らが勝ち取る必要性があるという意味で担保していたと考える方が信秀の真意としては現実的になる。

 いわば信秀は歴史にその名を斯波家再興の名臣として残せればよいと考えていた訳で、自らが名君となる事は考えても居なかった。

 ゆえに過去の大和守家との戦いでも相手を亡ぼすまではしなかったのだ。

 もし、坂井大膳が名臣としての器が有るのなら、大膳と共に斯波家の再興と繁栄を目指しても構わないと考えていたとも考えられる。

 その上で自分の地位向上を図るなら、織田の血脈を利用して、吉法師か勘十郎の何れかを大和守家の養子として継がせる形をも思い描いていた事は否めない。

 

 しかし、それもこれも全てはこの戦いの行く末に寄るところであり、現状その分かれ目は大膳にはなく、むしろ斎藤道三の戦い方によるとこである。

 次に続く…

 

この話では信秀の野心の部分が語られたわけですが、 

実際は信長たまも含めて

自分が頂点であるという意味での

野心はなかった事を知っておいてほしい。

 

誰もがそうであるように、

平穏に自分が正しい形で何かに貢献できれば

それで良いという考え方なのです。

 

その考えを汲み取ってくれる、

理解してくれる人間が上に立ってくれていれば、

その中で遣り甲斐をまたは生き甲斐を

見出すには十分なのです。

 

ただし、諸葛孔明がそうであったように、

孔明の才能を理解し、

孔明の才能を有意義に使いこなせるのは、

劉備玄徳しか居なかった。

曹操でも孫権でも、孔明は使いこなせなかった。

孔明の奇想天外な発想の行く末に、

絶対的な世界観が存在する事を想像するには

先ずもって相当難しいと言っておきます。

 

「現世界において国連の下でアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合しなければ、世界は上手く纏まらない。」

 

この言葉にあらゆる要素や現実的な意味が含まれることを、

普通の人が理解できるか?

 

ここで、何でアメリカ合衆国憲法?

日本人なら日本国憲法の方が理想的なんじゃ?

とか

国連なんて力が無いし、何の効力も無いのでは?

 

と、こう考えてしまう人は、絶対に孔明を扱えません。

なぜという意味で説明しておくと、

上記の一文には下に列挙した意味が含まれているから…

 

 ①現実的にアメリカの影響力は無視できないし、排除できない。

 ②アメリカの社会は多人種、他宗教、多国籍の人が集結した場所であり、その状況で社会整備されたアメリカ合衆国憲法は国際社会を纏める意味でも理想的である。

 ③合衆国とは州の自治の統合を意味するもので、国の統合という意味で参考にするには、やはり合衆国憲法は理想的である。

 ④現実的にアメリカ合衆国の国政に取り込まれる形は、ロシア、中国に限らず、日本や欧米も含めて国としての自立性が無くなる為、納得することはまずない。いわばアメリカに吸収される状態は他の国の人はほぼ望まない。

 ⑤国連という枠組みでの統合なら、各国の自立性は対等とする事が出来る為、現状そこが理想的な場所となる。しかし、その上でアメリカ合衆国はその他国々と同列であり、その一国である立場を理解し、盟主としての存在は許されない状態が望まれる。

 ⑥アメリカ合衆国のここまでの貢献を蔑ろにして、盟主から外す事にアメリカ国民は納得しない。ゆえにアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合するという形を以て、アメリカで統合したという部分が生きる形で各国はそこを敬意として妥協しなければ成らない。

 ⑦現状には冷戦時代を知る世代が各国に残っている事実もあり、今直ぐに受け入れるという形で進めることは難しい。ただしグローバル社会に於いて経済的な繋がりが必須となった現状から、時代と新たな世代に「一つの地球」という意識が浸透していくことで、徐々に議論はスムーズなものと成っていくことを、旧世代の人達は寧ろ理解していく話に成る。

 ⑧よって時間的には、2050年までは最低でもゆっくりと世代意識の変革に努めていかねばならない。

 

このたった一言、

  「現世界において国連の下でアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合しなければ、世界は上手く纏まらない。」

これで全ての意味を直感的にでも理解できなければ、

孔明の話は難しすぎて面白くないで終わってしまう。

 

まあ、なぜ僕が孔明先生を出してこう語るかというと、

諸葛孔明が現実的に現代の世界を統合すると考えるなら、

恐らくこの辺で分析して結論付けるだろうという推測からです。

 

そうした現実的な分析の中で、

ましてや、日本人として

日本の社会ベースで世界を統合しなければ…

何て非現実的な野心で語るなら、

むしろ孔明先生から邪魔とあしらわれます。

いわば信長たまもそいう事です。

 

バラバラに成った日本を統合するには、

足利義昭の様に、

「室町時代の権威を復活させねば成らない」

とした考え方では、

そんなもの必要ない!!と、断じます。

 

日本を統合する意味では、先ずは民。

民となる者が統合日本の社会を享受できなければ、

先ずは一揆は治まらない。

そしてその意識の浸透こそが、

反逆者の兵力をこちら側に引き寄せる大きな大義となる。

ある意味、大名たちが兵力として充てにする民衆の心を、

先ずは政治面でこちら側に引き付けて

味方とすることが大事と考えたのです。

いわば、室町幕府の権威だけでは、

先ず結果として民百姓を生活面で苦しめる状態は変わらず、

本願寺の一向宗が権威打倒を唱えて蜂起する大義を

止められないわけだす。

また武田や上杉、毛利や北条と言った大大名の治世とも

差異を生じさせなければ、

敵方を調略する意味でも難しくな訳で、

論理的な説得力を持たせる意味でも大事と考えたわけです。

 

また、そこに信長たまは

「誰でも自由に自分の生き方を選べる社会」の構築を

目指したのです。

無論、そこに秀吉の様な存在が身分として台頭する中で、

「昨日まで粟を食っていた農民が、なぜ俺らと同列に?」

と、妬む者も出てきます。

そういう妬みは、偶々生まれた家が違うだけで、

なぜ人として、また才能を見極める意味で、

差別されなければいけない?

と信長たまは天地人の平等を視野に

無駄な権威として排除して考えたのです。

 

勿論、あからさまにその考えを否定する事も

現実的でない点は理解していた上で、

ある意味、古き権威が最低限尊重される部分を残しつつ、

新しい社会システムが徐々に浸透して行くように、

調整しながら政策を進めていたのです。

室町幕府を排除しても、天皇制を残そうとした部分は

寧ろそういうバランスの意味でも大事な事だったのです。

 

ある意味、鎌倉幕府からそうであったように、

天皇が政治に口出しせず、

幕府に政策を任せていた状態は、

劉備の子、劉禅が諸葛孔明に任せっきりで居たのと同じ状態で、

孔明がその劉禅を君主として尊重したように、

信長も天皇を君主として尊重する事に何の問題も感じなかった。

と、理解すれば解りやすいかも。

 

これを一部の学者は革新的でなかったと評価してるが、

言っちゃ悪いけど、それ違います!!

 

蘭奢待の話や、楽市楽座が信長独自の発想で無かった点など

指摘する点はあるが、

蘭奢待の話はまた次の機会にするとして、

楽市楽座の話は、

日本人が自動車を発明した訳でもなく、

自動車の産業で一時代を気付いた事を否定する話と同じです。

 

ベースとなる元ネタは他から仕入れる形であっても、

日本の自動車産業が技術面でアレンジして、

素晴らしい品質で世界を席巻した意味と同様に、

信長たまも、他から楽市楽座の発想を取り入れて

自分の政策としてアレンジして

社会繁栄に努めた点では、

良いものを確実に吸収する先見の目が合ったという事を

理解するべきです。

 

エジソンだけが天才では無いのです。

良いもの使えるものとして評価するのも才能なのですよ。

 

優秀な経営者であり、名君というのは、

他人が出すアイデアも適正に評価して、

上手に採用し、そして最大限の効果が出るように、

更に他から出るアイデアを求めて調整するのです。

こうした部分も才能であることを先ずは知っておいてほしい。

 

自分で全てを為せると思い込んでる人の方が、

寧ろ他の才能を無駄にする人に成るのです。

 

 

 

 

 

 

 

【第二十五話 大は小を飲み込む 後編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

松平広忠の三河復権に関しては、前述にも記した様に諸説さまざまである。

1537年説と1540年説だ。

問題は何れの資料も江戸時代に伝聞により記述されたものが多く、ハッキリと決定づけるものが無い点だ。

ただし、松平広忠の元服が1539年、その後、岡崎ではなく牟呂城に入城したとされるのが1540年という記録がある為、1537年から1540年に掛けては松平信定派と松平義春派で争った時期と見なしてもいいと考える。

 

中編からの続き…

1537年、今川家で起きた花倉の乱が終結すると、その期に乗じて遠江進出を考えていた松平信定思惑は大きく外れるものと成った。

ここで少し頭を捻って考えてみるとしよう。

歴史の結果を知ってしまった現代人の頭では、三河が花倉の乱に関わるなら今川義元と反目の今川良真こと玄広恵探に組みするだろうと考えるかもしれない。

いわば後の事を知れば、今川義元こそ三河存続の危機となるからだ。

ところがそれは後の経過を知るゆえにそう考えてしまうだけのことで、むしろ当時として花倉の乱の状況を精査すると、恐らく読みにくい状況であったと言えるだろう。

今川義元こと当時の梅岳承芳が何者であったのか、それを補佐する太原雪斎こと九英承菊がどれほどの人物またはその存在すら認知されていなかった状態と考えるべきであり、むしろ情報源の中心は今川氏輝の母であり、氏親の正妻である寿桂尼の動向にあったと思われる。

現代の資料でも、寿桂尼の動向は両者の間で右往左往していたように感じられるもので、恐らく三河でもその動向は錯綜して伝えられたのかも知れない。

これが寿桂尼の計略であったのなら驚きを隠せない話で、それによって今川のお家騒動に外部が介入して来なかった結果と見なせるであろうが、恐らくは単なる流れが齎した結果であったと断定する。

 

遠江奪還を計る上で三河勢がどちらに組みして進行するか迷った状態であったともいえる。

寿桂尼の背後には北条がある。

遠江を得たとしても、寿桂尼の反目と成れば北条と敵対するやもしれない。ましてその北には武田の存在も有るわけだ。

駿河が寿桂尼の反目に落ちれば、遠江には北条との緩衝地帯が設けられ、むしろそれを支援する形で三河、遠江の地盤を固める事も考えれた。

それには尾張と手を結び強固な同盟を気付いておく必要性も生じた。

清康から一時的ではあったものの三河の主導権を得た松平信定と酒井将監の目論見はここに有ったわけだが、清康寄りの松平義春らの勢力がこの動きを阻んでいたのも事実である。

 

花倉の乱がもうしばらく長引けば、三河の勢力図も大きく変わったのかも知れない。

ところがその花倉の乱が、三河で討議している間に終わってしまったのだ。

無論、その後で今川と北条が争う河東の乱が勃発した事で、信定らの主張は維持できたと言えるが、義春らは三河の主権を吉良持広に依存する事で対抗していた事も有り、その持広自体がある意味今川に取り込まれた形となっていた為、三河の対立はより激しくなったと言える。

現代の企業で言うなれば、松平信定は社長、吉良持広が会長という立ち位置で反目しあい、その会長が会社の大株主である。

今川は経営不振に陥った三河に大株主である会長側を支援する形で取り込んで三河の動きを止めていたわけだ。

 

ここで歴史資料の複雑さを紐解かねば成らない。

岡崎城奪還は1537年とされる説。

松平信定が1538年に死去し、同時期に松平義春も死んだとされる。

岡崎城は松平清康の弟である信孝によって1537年に奪われたとある上で、松平信定は岡崎城から出自の主城であった三河安祥城へ本拠を移動させたと考え、岡崎城は義春派に渡すことで対立を回避した可能性がある。

隠居の松平道閲が1544年まで生存していたと記される以上、三河の対立を調整する意味でこうした処置が講じられた可能性は高い。

更に1537年広忠が岡崎を奪還したとする説が伝聞として残った事を考えると、1537年に松平信定は三河安祥城に本拠を移す事、そしてその後継者は清康の嫡男広忠にすること、そして岡崎は義春側に引き渡すことで三河の混乱を纏めたとする方が辻褄が有ってきそうである。

その上で岡崎城は清康の弟にあたる松平信孝に渡し、義春は年齢または病の為隠居した可能性も考えられる。

記録によれば、1538年に信定と義春が同時期にこの世から消えたとされるなら、その後の経過の流れから双方の対立が過激化しないように抑えていた義春は病死し、岡崎城を得た松平信孝が反目の松平信定に刺客を送り信定を暗殺した可能性は考えられる。

 

これは松平信孝という人物を資料で分析すると、その後弟康孝の所領を横領して失脚に追い込まれた上で、織田方の勢力(信定方)に鞍替えした事が記されているため、恐らく信義に欠けた人物であったと推測できる。

岡崎城奪還の功労者として大久保忠俊が上がっている点を考えるなら、信定暗殺を実行したのはその大久保家の手の者か、大久保忠俊、忠員(ただかず・大久保忠世の父)が襲撃したかの何れであった可能性は高い。

三河物語はその忠員の孫で忠世の子の忠教によって記されたものであると考えるなら、こうした家系の暗殺という不忠を敢えて上手く隠蔽した可能性は考えられる。

大久保家は忠俊、忠員の父、大窪藤五郎という武芸者が清康によって取り立てられたのが始まりで、その直後、宇津と名乗っていた。

宇津から大窪に姓を戻し、その後に大久保に改名した事が三河物語でも記されているため、その経緯から不忠の功績で名を馳せた事は十分に考えられる。

一介の武芸者であったことと、これを期に松平家の重臣として出世したことまで裏付けると、忠俊と忠員の兄弟が信定を暗殺した点は否めない。ある意味ひと昔前の任侠の世界の出世話に類似している。

その功績により松平信孝に大きく取り立てられたと考える方がよいと言えよう。

そして、信定の死から2年後、1540年には織田信秀がその安祥城に兵を差し向けている。

そして信定の家督はそのまま嫡男の松平清定が継いでおり、安祥城をそのまま引き継いだと思われる。

 

これらの情報を総括してこの流れを分析すると、

1538年に松平信定が死んだことで、一時的に三河の実権は松平信孝に移ったと考える。

無論、信孝は広忠の後見人という立場を表明しながらも、その一時のおごりから横暴な統治をしたことが考えられ、吉良持広がいち早く広忠を岡崎に入城させたいと考えたともいえる。

また、安祥城の松平清定は信定暗殺の首謀者を信孝と見なすことも想定され、清定が尾張の織田信秀と通じて岡崎奪還を目論んだ可能性も高い。

このころ隠居の松平道閲の影響力は既に無くなっていた。

実子の信定と義春、二人が消えた以上、一族としての統制を訴える術がないとも言える。

清定は父・信定の暗殺は信孝の仕業と言い、信孝は尾張の手の者だと言い張る。この時点で両者の対立は完全に引けない状態に成ったと考えられるのだ。

道閲であり酒井将監が優秀であったとするなら、姑息な形で三河を支配しようと試みる、いわば義春の死後、広忠の後見を名乗って岡崎を専横し、信定を排して自らの地盤を固めようとする信孝をそのままにしておくのは国を危うくするだけと考えるのが普通である。

では、一方の尾張は信用できるのか?

無論、そこは織田信秀という人物に寄るところであるが、恐らく信秀が優秀ならその二人の信用を勝ち取る意味での忠義は示してきたと言える。

信秀はこの時期尾張の支配者では無く、むしろ尾張の中にも敵は存在した。その上で三河と上手く付き合う必要性の方が十分に高かったのだ。

出来るだけ今川との緩衝地帯を設けたい。

戦略面で考えても、松平信定、道閲、酒井将監とは上手く付き合う必要性が生じるのだ。

 

1539年織田信秀は古渡城を築城して、熱田周辺、三河との国境の拠点を確保すると、清定の援軍として安祥城へ兵を向ける準備を整え始まる。

この動向は無論今川方にも伝わるわけで、古渡の築城という情報と三河の情勢を計算すれば推測するに至る。

今川方の分析では、岡崎を支配する松平信孝はその横柄なやり口から信用に値する人物と見なしておらず、むしろ今川方として三河を任せるには危うさを感じていたのだろう。

そういう経緯から1539年に広忠を元服させた点は合点がいく。

これは吉良持広とも共有していた考えであったのだろう。

今川の後ろ盾によって広忠が元服した事は、もちろん三河に伝わった、と、言うよりもあえて三河に伝えたのだ。

その上で松平信孝に圧力を掛けたのだ。

その松平信孝でも松平清定が織田信秀の援軍を得て岡崎を狙う事くらい察しはつくはずで、その上で今川まで敵に回しては太刀打ちできない。

何時の時代にもこうした調子のいい輩は存在する訳で、信孝はすぐさま態度を急変させて広忠を受け入れる準備に取り掛かった。

それが1540年の事だ。

 

この1540年の三河の情勢を精査すると、以下の事が発生している。

 

織田信秀が安祥城を攻略する。

松平広忠が牟呂城に入城し、そして岡崎城に入城する。

西条吉良の当主義郷が死ぬ。

東条吉良持広の後を継いだ西条吉良から養子いりした吉良義安は義郷の西条の当主となるはずだったが、叶わず尾張方と結ぶ動きをする。

 

とてもややこしい情勢が見受けられる。

 

複雑な情勢を齎す中では、様々な利害とそして策略が成立するのだ。

 

先ず織田信秀という人物が如何に有能であり、その参謀として林秀貞が如何に策略に長けていた人物であるかを伝えよう。

信長が化け物であった故に、今川義元も林秀貞の様な人物も、そして朝倉義景も暗愚な人物として評価された。

しかし信長の存在が無ければ、むしろ彼らは有能な人物として名を馳せたであろう事は理解してほしい。

 

参謀とは君主の要望と算段に一体となって実現に導くものを言う。

君主が奇策を採用した際に優秀な参謀はその奇策が確実に成立するように細かい手順を整えるのが役目なのである。

必ずしも策を提案する者が優秀な参謀では無いのだ。

大きな所帯の軍事会議の中で、様々な意見が往来するのは理解できるだろう。

これは今の企業に於いても同じだ。

ザックリとした策を唱える者はその中に沢山いる。

優秀な君主はそうした沢山出るアイデアを奨励して、どんどん出させる訳で、暗愚になればなるほど明確な企画を求めて発言を絞り込んでしまうのだ。

日本では後者が横行して会議に活気がない点で理解できるかもしれない。

ザックリと提案されるアイデアから可能性を引き出し、そして採用するのが本来優秀な君主なのだ。

そしてそのザックリとした提案を確実に成功するようにまとめ上げるのが優秀な参謀となる。

三国志でいう劉備は優秀な君主なのだ。

しかし、ザックリしたアイデアを出す人材が居ても、最終的にそれを取りまとめて確実に実行できる状態に以て行けないと、どこかで失敗するのだ。

いわば諸葛孔明が優秀な参謀とされた点はそこにある。

アイデアとしてこの地帯で火計を用いる。

ここで挟撃して殲滅する。

そういうアイデアは寧ろ経験豊富な関羽や張飛も思いつく。

無論、

「ここで敵が混乱状態で居れば、俺なら殲滅できる。」

というアイデアも張飛なら出しそうだ。

一つ一つはバラバラな提案に成ってしまうわけだが、

これが上手く構成されない状態だと、

関羽の様な人物が、

「拙者が敵陣に突入して敵を混乱させてみようか…」

などと行き当たりばったりな作戦に成ってしまうのだ。

無論、関羽なら出来るかもしれないが、それは敵に何の備えも無ければの話で確実性は無い。

相手がこちらの戦力を把握したうえで対処してきたのならという、詳細が欠けるのだ。

優秀な参謀とは、そういう詳細を考慮した上で、その場所で敵が混乱するという状態を導き出すのだ。

吉川英治の三国志の新野の攻防戦で見受けられるように、敵を誘引してその地点より奥深くまで誘い込むという形で考えた場合、

兵力差で敵が油断するように誘い込む演出をも構成する。

そこを計算した上で、その奥の地形を見て敵が火計に気づくだろうタイミングを予測し、その判断より早く火計を仕掛けることで敵は混乱した状態で後方へ下がる動きとなるのだ。

その地点に敵が斥候を放っても、味方の伏兵が察知されない状態で、伏兵が上手く動けるルートも調整する。

優秀な参謀がこれらを全て一人で計算するという妄想は小説の世界だけにして欲しい部分で、現実的には優秀な参謀は会議の中で色々な人に意見を求めながら現実的に出来る事を導き出すのだ。

伏兵を動かすルートにしても、その地形に詳しいものが居れば、知らなかったルートも見えるわけで、そうして確実に近づけることで高い精度の計略と成るのだ。

これを筆者は

「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げ実行すること、これ奇策なり」

と、表現している。

また六韜にも、殷を亡ぼす際に太公望が慎重に確実に実行できるまで計を待ったという話も似たような意味として成立するだろう。

 

織田信秀が優秀であったのは、尾張の一勢力、いわば企業で言うなれば営業部長という役職ほどな立ち位置で、大企業である今川と対峙しなければ成らない状態で十分に渡り合えた点だろう。

尾張自体でも意見がバラバラな状態で、尾張という企業を一体にまとめ上げて動かすのは難しい状態でもあった。

そうした中で自分の勢力圏を確保するのに、三河と結んで今川との緩衝地帯を設けて、今川が支配していた尾張南部を自分の管轄圏として手に入れたのだ。

尾張としては今川方の領地のため諦めていた場所ゆえに、信秀が自分の力で手に入れたところに干渉する余地はない。

無論、そのことで信秀は清州織田の大和守家と揉める事も有ったが、ある意味単なる役員同士の喧嘩で会社全体から締め出されるような不義を働いたことでは無いのだ。

とは言えその功績を妬む輩も存在する中での話ゆえに、信秀としては松平信定らの三河勢力は大事な存在であった。

そうして尾張の主要勢力が手出ししなかった地域を得ることで、信秀は大きく成長することが出来た。

無論信秀が無策無謀な人間ならその目を三河侵攻に向けたであろう。しかし、目先の欲に溺れて不用意に敵を作るような発想はせず、尾張での地盤を固めることに寧ろ専念することを選んだのだろう。

その為、大きな敵となる今川との境界線に緩衝勢力を設けておきたかったとするのは賢明な考えだと言える。

清康から信定に権限が移った際は、信秀の東への脅威は一旦薄れた。ところがその信定から信孝に移ると、今川への緩衝地帯の機能は薄れるのだ。

ましてや彼らが担ぎ上げた広忠と吉良持広は今川の手にある。

また、西条吉良も今川と縁者になり、その当主吉良義郷は今川の傀儡というより従属した存在となり果てたのだ。

そういう意味では今川が三河の主権を得たのも同然である。

 

ここでこの1540年に吉良義郷が急死するという話を挟んでおこう。そしてこれを期に再び吉良氏の跡目争いでいざこざが発生するのだ。

 

吉良義郷の死因には諸説あるようだが、1537年に今川との戦いで戦死した説はこの状況からは実際には考えにくい。

寧ろ1540年に信秀との戦いで戦死したという方が信ぴょう性がある。

 

それらを踏まえて今川の立場でこの情勢を考えるなら、三河で今川の反目に当たる安祥城の勢力を三河勢だけで殲滅させるには、松平信孝では心もとなく、広忠では逆に纏まりすぎる。いわば広忠では三河は松平の勢力として勢いづきすぎる。そこで吉良の威光の下でこれを殲滅するのが得策と考えた。

無論今川義元と太原雪斎の会話の中では、

義元が

「広忠が岡崎に入っては清康同様に三河勢が勢いづくのでは…」

 

と懸念を述べると、

雪斎が

「ならば吉良義郷を安祥攻略の総大将として送りなさっては」

 

と提案する。

義元はすぐさまその意図を汲み取ってその通りに採用した流れが見えてくる。

 

現状、西条の当主義郷と東条の当主となった義安は兄弟である。

いわば長男の義郷が西条吉良の当主となっている時点で、その弟が引き継いだ東条は完全に分家化した形となる。

故に吉良の威光を以て三河を支配するに、東条の義安よりも姻戚関係にある義郷の方が使い勝手が良かった。

その為、松平清定らを主家の吉良に対する反逆者として始末する形で安祥城攻略に送り込んだのだ。

更にこの時期に松平広忠を牟呂城に入れて参戦させる形を取ったことで、今川よりの松平勢力を吉良の名の下で団結させる効果も得たのである。

これに援軍を差し向けたのが織田信秀と成るのだ。

まるで信秀が義侠で援軍に向かったかの内容になるが、前述のとおり信秀にとっては死活問題で、むしろ三河が吉良の威光で今川に完全に奪われる方が厄介になる、その為の援軍なのだ。

しかし、今川が吉良義郷を総大将として送り込んだ点に信秀は形勢の不利を感じた。そこで林秀貞に相談するや、

秀貞は

「吉良は今川の傀儡のような形であからさまに送り込まれたのは誰が見ても感じる事…ならばその不信感を逆手にとって討幕の徒として今川に当たりましょう。」

 

信秀は、

「それでは三河の団結を如何ほどにも崩せまい…」

と疑問を投げかけるや、

 

秀貞は、

「まずは岡崎の団結を崩す前に、安祥の闘志を維持することが先決です。その上で形成によっては心変わりする勢力に期待するのです。」

 

そこまで秀貞が述べるや、信秀は

「なるほど・・・ならばその役目を義統公に頼んでみよう。」

と、秀貞の話で動き始めた形で進んでいく。

 

そしてその援軍の大義として信秀は寧ろ斯波義統の名を借りて、今川を幕府への反逆者いわば守護の吉良氏を傀儡として討幕を狙う者という形で対抗したと考えられる。

この大義がどういう意味を為すのか?

戦に於いて各勢力を味方につけて戦う方が有利になる点は理解できるだろう。

本来守護職にあたる吉良の名を以て三河を制圧しようとすれば、三河の諸勢力はそれこそ正当な側と見なして従いやすくなる。

しかし、その吉良が駿河の今川の傀儡として扱われているというネガティヴな情報を盛り込むと、三河が今川に乗っ取られてしまうというイメージが生まれるわけだ。

民主的な見識でもこれで世論が分断されてしまうように、三河の勢力もこうした大義の主張で分断されるのだ。

それによって団結した力は削がれ、むしろ戦いやすくなる。

相手が100%団結して向かってくるより、70%でも60%でも力が集結しない方が不利な側としては戦い易いのだ。

故に信秀のこの戦いでの安祥城攻略は、占領では無く寧ろ松平清定と酒井将監らの勢力を三河に維持する事にあったと言えるのだ。

信秀が占領した方に成れば、今川に疑念を抱く徒を誑かしたことに成り、その後の緩衝地帯という目的で維持するには色々と厄介な状態に成る。

無論、歴史的な結果として、この戦いで担ぎ出された吉良義郷は戦死し、安祥城の勢力は斯波家の大義の下で生き残ったことに成る為、信秀に攻略されたという風に映ったのだろう。

 

吉良義郷の戦死は、ある意味今川にとっては誤算となった。

そこで弟で東条を引き継いだ吉良義安が西条の家督も次ぐ形で調整していたが、今川としては本来主家に当たる吉良両家が統合されることを良しとせず、義郷、義安兄弟の三男にあたる弟義昭に西条を継がせる形にした。

今川義元にとっても、太原雪斎にとっても今となっては吉良を恐れるゆえんは無いようにも感じる。

しかし、吉良義安に何らかの野心的な思惑でも感じたのか、義安に大きな権威を与えたくは無かったためとも推測できる。

ある意味、その義安に両吉良当主の立場を与えたなら、三河の松平を抱き込んで三河で独立を果たしたのかもしれない。

また、安祥攻めで西条吉良の名目で松平広忠を担ぐ三河勢を動かしたこともあって、今川の影響下で当主にした義昭の方が西条吉良を傀儡にして三河勢力を支配する意味としては取り込みやすくなると判断したのだろう。

結果として東条吉良を相続した義安は西尾城に、そして西条吉良を相続した義昭が東条城に入ったと思われる。

その義昭はその後に家康と戦いその東条城を追われたとされている結果からこうした流れとする裏付けになる。

 

こうして今川の仕打ちに苦汁を舐めさせられた吉良義安は、吉良の復権を願って松平清定らと通じた事も理に適う話となる。

清定らを頼って三河を今川支配から取り返そうとするにあたって、自然尾張の勢力とも通じたという記録に成ってもおかしくはない。

無論、義安のこうした狙いは彼の素養や姿勢から今川も警戒していた通りだったのかも知れない。

後の結果としてこの吉良義安が信長と家康の間で上手く立ち回り、江戸幕府まで続く家柄として存続をはたすのである。

そして年末定番の赤穂浪士で有名な吉良上野介義央に続くのであった。

 

さて、一方の松平広忠はというと、今川の圧力に脅えた信孝が素直に岡崎城を広忠に引き渡して、安祥攻略に向かったため、大きな抵抗も無く松平当主となった。

その為、信孝と康孝の協力の下で岡崎入城を果たしたとされるが、その後安祥城攻略に失敗し、更には吉良義郷を死なせた責を信孝は取らされることと成り後見人から失脚する。

松平の名目上、弟康孝の所領を横領した罪に問われているが、実際は今川の権威を三河に浸透させる意味で、今川により理由を突き付けられて失脚させられたとする形が現実的である。

実際にこの時代の罪状は全てを信用するべき話では無い。

寧ろ後見役として信孝の素養が今川に危ぶまれたとも考えられ、信孝が広忠を上手く傀儡にしてしまう前に、弟の康孝を今川が取り込んで罪状を突き付けさせたうえで兄の命を救う代わりに失脚させたと考えても良いといえる。

寧ろそうした情状の様な形での調整が無ければ、安祥攻略の失敗および守護の吉良義郷を死地に追いやった罪で、良くて流刑、悪くて死罪で処理されたかもしれないのだ。

無論、その名目は新たな当主吉良義昭を通じて…

 

また、西条吉良の義昭が東条城に入ったことで、三河の守護はその吉良義昭であることも念を押された。

いわば今川は三河という企業の会長から大株主という権限を奪い取って名目上の会長職に傀儡の人間を送り込んだようなものである。

そしてそれは役員を送り込む話以上に大きな存在となり、社長となった広忠は社長として独立した采配を許されているが親会社である今川の意向には決して逆らえないという状態であることを意味した。

 

結局は松平広忠が無能であったという事では無く、その生涯は最も不運な人生で、死して初めて幸運を得たという感じではなかろうか。

松平道閲、信定そして酒井将監らが守ろうとした三河の独立性は、むしろ様々な形で崩れ去り、結果として今川に上手く取り込まれてしまった。

ある意味、今川氏親や北条早雲を以てしても切り取れなかった三河の地は、今川義元であり太原雪斎の調略でこうした抵抗勢力を上手く切り崩して手に入れたようなものである。

寧ろ織田信秀が今川との緩衝地帯として三河を意識していた点も利用され、今川は逆にその信秀ら尾張との緩衝地帯として調略で三河を懐柔することで河東の乱で敵対した北条との戦いに備えたと思われる。

甲斐の武田、相模伊豆の北条という戦上手との間で立ち回った今川の手腕は評価するべきと言えよう。

 

無論、織田と今川は結果として三河でお互いの緩衝地帯を残すことに成功した。そしてこの後に2つの勢力は一旦は別の方向へ意識を向けるのであった。

 

次回、信秀の美濃攻略へと続く…

 

どうも…ショーエイです。

ホントに戦国時代の情勢は解りにくいです。

小説では色んな所が端折られて、

色々適当に盛りこんで、

主人公の都合で作られているのですが…

端折らずにちゃんと辻褄合わせようとすると頭痛いです。

これ書く前は、正直オッサン先生逃亡していたようで、

それ故に中々筆が進められなかったみたい。

でも、書き始めると色々集中して見えるように成って、

スラスラと書けたらしい。

 

ただ、もう一点は時間を置いてしまって、

どの年の説を採用していたのか解らなくなるそうです。

「それは貴方の怠惰な生活のせいだろ!!」

と、一言で言えてしまうのですが…

 

さて日本の歴史を見るにあたって、日本の史書には私観が多すぎる。

あと、主観側の正義を主張し過ぎて、敵を馬鹿にしすぎる。

まあ、中華の歴史にもそういう部分は存在しますが、

その点は司馬遷を例に挙げても様々な観点から考慮されます。

しかし、日本人が物語として記す場合には、

正に時代劇そのものパターンに成りすぎる。

悪者が居て、その悪者を成敗!!

まあ、ウルトラマンにしても仮面ライダーにしても一緒です。

因みにハリウッドのヒーローものも一緒です。

そして間抜けなほど悪者はあっさりと倒されます。

 

まあ、今の時代を見ても、

どこかのアホな元首相の様に、

「越後屋…お主も悪よのう…」

みたいな事は行われている様に見えるので、

正直何とも言いようが無いと言えば言いようが無いのですが…

こうした間抜けな悪は、江戸時代の象徴でもあるように、

平和ボケした社会の成りの果てなのです。

 

寧ろ緊張感のある戦国時代では、

着服や横領などは反逆行為で始末されます。

それだけ神経とがらせてピリピリした状態な訳です。

 

情報の扱いも神経とがらせて処理しないと、

計略によって大切な味方を誤って失ってしまう。

今の時代も昔もフェイクニュースが飛び交う中で、

フェイクニュースに踊らされる状態は

間抜けな結末を齎すのです。

 

そうした中で大きな勢力として残った存在は

決して間抜けでは無いと考えるべきなのです。

 

さて、織田信長と武田信玄どちらが

戦上手かという話をしてみます。

誰もが武田信玄と疑わないと思います。

織田信長は武田信玄にビビってた。

確かに信長たまは信玄にビビってた、出来れば戦いたくない。

そう考えてたのは事実ですが、

仮に信玄が三方ヶ原の戦いで家康を粉砕して尾張の境界線に踏み込んでいたらと成れば別物です。

寧ろこの時信玄は一歩も動かずに撤退した訳ですが…

信玄が信長にビビったという事を

避けるために病気に成ったとしているだけなのです。

無論すぐにそのあと死んじゃいますが、

何故その前に信玄が立ち止まってしまったのか?

フェイクニュースの憶測で言うなれば上記の通りです。

 

しかし、ちゃんと戦況を分析してみれば、

信玄が賢かったゆえに動かなかったと言えるのです。

それだけ信長にビビったともいえる。

何故か…

資料によると信長は浅井朝倉との戦の真っ最中で、更には足利義昭とも対立した時期、その後で、すぐに岐阜で軍備を整えてます。

誰もが岐阜で軍備を整えて

南下して信玄を迎え撃つ発想をするでしょう。

そもそもが違います。

そんな程度なら信玄は立ち止まらなかった。

ある意味、戦術で決戦する構えで進行してきた。

ところが信長の狙いは岐阜から

木曽の方へ向かう動きでけん制したのです。

東美濃の岩村城が陥落したのは武田方の奇襲の為でした。

畿内、越前、北近江の戦で手が回らなかった事も有り、

ある意味武田方に降伏させた形にした。

 

三方ヶ原の戦いまでの経緯で、浜松城の北側の二俣城を攻略した武田信玄は浜松城を狙わずにそのまま浜松城北西の野田城方面へ兵を向けた。これは長篠の戦いで敗れた勝頼も同じルートを通ている。

このルートは山間部が多く、決戦として迎えるには武田方が有利に働く計算だったと思われる。

三方ヶ原は二俣城から野田城への間の場所で、武田軍が山間部に入ってしまうとその消息を追跡することが困難で、三河方面の防衛に支障を来たす状況にあった。

家康は武田方と決戦するにはこの視界が見通せるこの地でしか無いと悟った。

武田方の戦略は巧妙。しかし歴史評論家では分析しきれない。

家康は武田の大軍を前に二俣城と浜松城どちらで迎え撃つかで奔走した。その結果浜松城に主力を留めた。

大軍を以てしても兵を城攻めで削られていく状態は、その侵攻に支障を来たす。寧ろ家康は二俣城は陥落しないだろうと見越して、浜松城で待ち構えた。

ところが水を断つという計略によって、二俣城は陥落してしまう。

更には武田の兵力は殆ど減っていない。

そこでより一層浜松城への警戒を強めたのだ。

ところが武田軍はそれを逆手に取って、援軍や兵力が集中できない場所を攻略していった。

無論、三河の岡崎にも警戒のための兵力を用意していたが、武田方が動けない徳川方を尻目に、好い様に城を攻略されていく状態ではジリ貧していく感じになってしまう。

寧ろ信玄の挑発の狙いはここにあったのだ。

そして地の利を活かせる状態で敵の主力を殲滅できるのなら、浜松城はその後落しても十分と考える。

三方ヶ原に誘い込まれたのはそういう事である。

ところが恐らく徳川軍は総兵力で三方ヶ原に向かわなかった。

寧ろ浜松城に仕掛けを残してそこに誘因する作戦で挑んだと思われる。

そして武田軍に敗北した振りで浜松城に逃げ帰った。

無論、山県昌景が追撃してくるが、

あえて空城の計を用いた為、警戒されたのだ。

???

孫子などを良く知る武田軍が空城の計を見て、策なしと判断することは無い。

家康は裏の裏を相手が読んでくると考え、あえて空城の計を用いた可能性の方が高い。

また三方ヶ原から浜松城までガチで逃げ帰った事も間違えないだろう。

適当に戦って上手く逃げるつもりだったが、武田の騎馬隊の足の速さに逃げ切れるのかすら危うく成るほど焦ったのも事実だろう。

その為に多くの戦死者を出してしまった。

ガチで逃げ帰ったのだから武田も騙されてくれる…そう感じて用意していた伏兵も、結局は山県の速やかな退散で無駄に終わったのが結末だ。

確かに武田信玄は凄い。

ところが…三方ヶ原に来ていた兵数を見るや、意外に少ないのだ。

ここも家康の誤算であった。

山間部に持ち込まれたら、武田の伏兵やゲリラ戦術に太刀打ちできない。

そのため出来るだけ平野部で戦いを挑もうとしたわけだが、平野部では逆に味方の兵数もおおよその規模でバレてしまう。

無論、浜松城に8000の兵を入れていたとして、1000を城内、2000を伏兵、そして残り5000で三方ヶ原に挑んだとしても、逆にそれ以上の軍で行軍している相手に対しては少なすぎる。

また、織田方の援軍を合わせても1万ちょっと…

寧ろこれに信玄は警戒心を抱いたのだ。

 

信玄は織田方の援軍は大軍で迎え撃ってくると想定していた。

その上で織田軍が得意としない山間部に誘い込んで、これを殲滅する算段であった。

そうすれば徳川も織田も厳しい状況に追い込まれる。

ところが織田軍は援軍を抑えてきたわけだ。

更には尾張にも美濃にも相当な兵力を残していると警戒する状態だ。

そして織田軍の美濃衆の存在で、彼らは山間部のゲリラ戦に慣れている。

そいう警戒心から野田城攻略に慎重に成ったと言え、信玄は信長の動向をイチイチ気にし始める。

さて前にも話した様に、動向を探ってくる相手を逆に翻弄させるには、オープンな自分の動きが予測できない状態で動けばいいのだ。

寧ろ信玄の興味が自分の動向に移ったのだから、信玄を惑わすのは簡単と言える。

そして信長はいつ岐阜に入るタイミングとするかで勝負が決まると察していた。

因みに、そのタイミングを計算してはいません。

だから一層相手が読めないのです。

無論、野田城攻略に時間を掛けているという情報は信長にも筒抜けです。

勿論信玄も遠江攻略に別動隊を動かしているが、家康もあえて動かない。

そこで信玄ほどの人物が最悪な事態を想定しないわけが無いのです。

信玄にとって最悪な事態は…

木曽から信長が大軍で攻めてくることです。

または飯田のあたりに。

実際、後の武田攻めではここから進出している。

無論、木曽との境にある恵那地方を抑えているため、簡単には木曽へ抜けられないと考えるが…

信長の戦略は読みにくいと感じるでしょう。

病に侵されて死期を悟った信玄は、死ぬ前に信長と決戦しておきたかった。しかし、死期を前に信長が正面衝突を避けて、あえて糧道を遮断してくる作戦に出られると、三河の奥地に入り込んだ武田軍は逆に苦境に落とされる。

そして案の定、野田城が開城降伏するや…信長は岐阜に現れるのです。

さて、武田方の軍記物では、この時信長が1万の兵を以て岩村城に現れ、馬場信春ら有志が決死隊でこれを撃退したと有ります。

その際に27将の首を取ったとか書いてあるが、信長はあえて岩村城に侵攻せずに撤退しただけとみます。

いわば武田軍が三河から撤退したわけで、無理に戦争を続けることは避けたという形。

 

無論信長たまからしてみれば、浅井・朝倉に本願寺と忙しい中で武田まで相手にしてられないわよ!!

 

と、言う状況な訳で引いてくれたの有難いというのが実情でもあった話です。

 

因みに武田信玄が名将である事には変わりないが、上杉謙信であり、北条氏康などとは一進一退を繰り返していた。

信玄びいきの話だと、信玄が信長を攻め滅ぼせたように幻想を抱いているが、上杉謙信であり北条氏康でも、強敵相手に決着を着ける事は出来ていないのです。

 

寧ろ信長たまは誰とでも喧嘩するクレイジーな人で、ある意味よくあの信長包囲網の状態で滅びなかったねという感じだと思います。

 

因みに三方ヶ原の状態で本当に信玄と信長たまで決戦に挑んでいたら?

恐らく信長たまは素直に

「勝てる自信は無いが…負けるつもりで勝負はしない。」

という感じになる。

それは上杉謙信との戦いを柴田勝家に任せた点から察する話で、

 

「カッチーよろしく!!」

 

で任せちゃう。

 

「まあカッチーでダメなら行くけどね。勝てるか知らんけど。」

 

みたいな感じになる。

 

ただ、実戦に入るとまた違う話で、

先ずヤバいと思ったら直ぐ撤収。

そして守りやすい場所を用意してそこで迎え撃つ。

相手がアホならそこで殲滅。

アホじゃ無ければ引くだろう。

これが信長流であり多分諸葛孔明流です。

故にアホな敵は計略に引っかかったように成ってしまう。

別に狙ってそこに誘ったわけじゃ無く、

ただヤバい時用に用意してただけ。

 

多分、浅井の裏切りで逃亡した金ヶ崎の戦いでは、

こういうのを用意していた。

そこで殿入れて防いだので無事逃げ切れたのと、

殿組も生き残れたという感じだと思う。

いわば朝倉方の敵をそこで防げば、挟撃してくる浅井側は逃げるついでに突撃して撃退していけば良い。

背後から来る予定の相手を撃退していくことで退路が開くわけですよね。

四散して逃げるほど間抜けな事は無いです。

朝倉側には用意した陣立てで

殿(しんがり)組みが防衛しているから、

敵は背後を狙う浅井の兵力だけ。

なら逆に油断している浅井兵に本来の主力騎兵が突撃したら?

相手は多分ビビるでしょ。

しかも、逆に大軍ですよ。四散していなければ。

こうして血路を開いて逃げた。

浅井兵がそれで退散しちゃったら、殿組は孤立することなく何とか逃げ切れるわけです。

ただし何処で敵に遭遇するか解らないのと、休む暇が無く逃げ続けるので敵が退散しても陣容と立て直すのは無理があるのと、

逃げる上で兵糧やら余計なものは捨ててきてるので、

逃げたら目的地までまっしぐらに逃げるしか無いです。

殿組は少数で要衝を守り続ける分、守り易くても疲れる。

その上で退路が開いたとしてもお腹もすくし疲れてるしで、命からがら逃げかえる感じになるのです。

 

勝てる自信が無いから用意周到に色々やっておくわけで、負けるつもりが無いから退路も確保してヤバいと思ったら直ぐに引いちゃう。

 

これが実はうつけの兵法の基本なのです。

因みに劉邦が項羽相手に死ななかったのもこんな感じ。

項羽は賢く深追いして来ないから、劉邦はいつも逃げて負けた状態に成ったという感じです。

 

なんかダラダラと書きすぎたかな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第二十四話 大は小を飲み込む 中編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

前話の清康家督相続を経て、若年時の清康の動きには酒井将監や清康の叔父にあたる松平信定らの進言が反映されていたと考える。

逆にこのころ清康の祖父である松平道閲(長親)はほぼ政治の世界から離れて完全に隠居したのだろう。

道閲という人物が英明ならば、信忠が廃された動きは自分の存在が家中の分断を招いたと感じても可笑しくない話で、それを避けるべくして隠棲を決断したと思える。

以後、しばらくは道閲の存在は史書からもあまり見られない点でそう察するものとする。

 

松平、いわば安祥松平の当主となった清康は先ず三河の松平家を統合する意味で、岡崎城の攻略に動く。

無論、崩壊した本家筋にあたる岩津松平家に代わって分家筋にあたる安祥松平が幅を利かせているのに反感を持つ家があっても可笑しくは無いからである。

 

そして岡崎の大草松平家を降伏させると、1529年清康18歳の時に東三河攻略に動いている。

3年前の1526年には今川氏親(義元の父)この世を去っており、今川が盤石でない状態をついて東三河に目を向けた可能性はある。

これが清康の判断であったとするには18歳という微妙な年齢でもあるため、恐らくこの進言は酒井将監や信定のものであったと察する。

 

また、吉良持清も氏親の死を知って今川寄りの姿勢を緩めたことも考えられる。

ある意味東条吉良としては、京の混乱でほぼ消息不明状態になっている西条吉良の義尭の存在を気にする必要もなくなったわけで、松平の勢いを頼り浜松壮を取り返したうえで東条が吉良正当家としての証明を考えても不思議ではない。

無論、政治的、いわば外交的な立場を堅持する意味で表立って東三河攻略を指揮することはしないまでも、信定や将監の意向をただ黙認していた状態にあったと言える。

 

所がその当時の今川は氏親の正妻である寿桂尼によって纏まっており、その1529年に清康が今橋(現在の豊橋)付近を攻略した時点で、遠江との国境に達したことを悟ってか、寿桂尼は三河の外交ルートを維持していた持清にある種の和平を持ち掛けたと考えられる。

 

清康の年齢を18歳という微妙な年齢を表現した意味は、信定や将監らの進言通りという形の指示で動かされていたことに対して、自己の自我が芽生え始める年齢でもあったためである。

 

三河の政情を今川方から推察するのなら、氏親の死を以て生じる隙を狙って吉良の威光を示すべく浜松壮奪還を狙っている点は察しが付く。その背後に吉良持清の存在がある点も警戒して考えたであろう。

今川の北には武田信虎が控えており、東の北条と結んで上手く退けてはいるが西まで危ぶまれれば今川としては窮地に追い込まれかねない。

この時点の状況下で西の最大の脅威は松平道閲の存在である。

無論当時の情報網のレベルでは、道閲が隠棲しているという確証は持てない為、院政状態を疑う方が賢明で、最低でもいわばその息子の信定と酒井将監の存在は意識して考えねば成らない。

東三河攻略を得て、浜松壮奪還、そして遠江制圧まで目指すだろう道閲一派と想定する相手に対抗する手段を模索せねばならなかった。

 

そういう困惑の中で今川に確実な情報として伝わるのは、東条吉良持清と当主と成った若武者松平清康との関係性である。

名前の「清」の文字にその関係性を見出すのは当時の技術として当たり前とも言えるもので、持清を動かせば清康を動かせる可能性を見出したと察する。

また18歳という年齢は現代でも同じで、思春期から青年期への転換時期でもあり、色々と心を動かしやすい年代でもある。

いわば14歳くらいで生じる反抗期の延長線で心理学上自我や自尊心を大きく求める時期でもある。

もし、寿桂尼を中心とした今川家臣団がこれらの情報を元に戦略を練るのなら、西への備えは道閲一派と清康への「離間の計」であると察する。

離間の計とは敵同士の仲たがいを促す策である。

この時点で考えられる「離間の計」の効果としては、最大で道閲一派と清康が同士討ちを始めることにあり、最小でも今川への目線を寧ろ尾張方面に向けさせることにある。

そこで今川は外交ルートを残していた持清を操って、清康を翻弄させる手段を用いたのだ。

 

先にも記したように持清からすれば西条吉良の存在が自身の身分の行方を左右するものと成る。

そして今川は浜松壮を落とした際のその西条吉良との和解で、吉良義尭の正室に寿桂尼と氏親の長女を娶らせた。

この時点で今川は吉良義尭の所在を情報として手中に収めていることになる。

この政略結婚が三河を意図したものであったかは定かではないが、恐らく体裁上の理由で、策略に用いる切り札としては考えてはいなかったと思える。

しかし、ここへ来てその政略結婚が持清を動かす最良の道具として機能するのである。

いわば今川は、持清に

「三河と今川との関係を良好に導いてもらえぬのなら、浜松壮は娘婿の吉良義尭にお返しせねば成らなくなる。」

と送るのであった。

文脈は「脅し」であるが、

体裁上は三河が浜松壮を奪還するのなら、それは吉良義尭殿の所領と成るだろうという文脈にもなるのだ。

いわば東条吉良の持清としては奪還であり返却であり、どういう形であっても避けたい意味を持つ。

そこで御しやすい若武者清康に、今川との関係は自分の顔を立てて崩さない様に頼むのであった。

 

持清は齢50代半ばか60代に差し掛かる人物で、老練巧みな言葉を以て清康に語り掛ける。

 

「今川方も清康殿の武名を大いに恐れて和平を申し出てきた」

 

と、いう形を用いて清康の自尊心を刺激した上で、

 

「これを機に今川とは今後、友好な関係を用いて寧ろ西に目を向けるべきではないかのう・・・」

 

とさらに説き、

 

「そなたは吉良…いや三河の宝じゃ、ここは小事は捨て、将軍の混乱を救うべく西に目を向けて天下に名を轟かせるべきではないか。ワシも大事を前に吉良の本願である浜松壮奪還の気持ちは捨て去ろう」

 

と、若武者の気持ちを煽るのだった。

いつの時代も焦る老害はこうして上手く若者を誑かすのだ。

 

この席に信定や将監らの反目の立場にいた信定の弟にあたる松平義春も同席していたのなら清康は大いにその言葉に後押しされたと言える。

実際にその義春は持清家督相続の際の後見人だった記録があるのだが、寧ろ時系列で考えた際、怪しい伝承である事も考慮するとそこは無視しても構わない。ただし吉良持清との関係性を考慮する意味では参考としもよいと考える。

 

無論、清康と持清の関係も「清」の文字の偏諱の関係のみならず、若き清康の良き相談相手として常に接していたとも考えられる。

持清が三河勢力を御するための算段で接していたのか、偏諱という絆を意識して情を以て接していたのか、いずれにしても清康を可愛がっていた事は考えられる。

また酒井将監や松平信定らの傀儡として不満を抱くこともあった清康の愚痴を聞いてやる存在でもあっただろう。

ただ、これまでは将監と信定の浜松壮奪還を目指す動きに持清自身も期待を抱いていたわけで、そういう意味で清康を上手くなだめていた存在として考えられるが、事態が急変した事で寧ろ清康を煽って方向転換を示唆した形と成った。

 

同席した義春が持清の言葉に惑わされたというより、持清の自論である西条は遠江、東条は三河の守護という事に同意しており、領国に留まっていなかった西条より領国に留まっていた東条を守護として立てて三河を纏めるべきという立場に居たと思われる。

これは清康の父信忠もその考えであったと言える。

どちらの忠誠が正しいのか、それは三河を纏めるという目的の中でそれぞれに見識が異なっても可笑しくはなく、寧ろ西条吉良の存在があやふやになった以上、義春らの主張が強くなるのも自然な流れであると言える。

 

一方の酒井将監や信定らは、西条の消息が不明と成った状態では清康が守護代(守護の代わり)という意味で、下剋上の下で力をつけるべきと考えていた。

その忠誠は西条吉良にもあるが、安祥松平家にもあり、当主である清康をそういう存在として育てようとしていた。

その目標は西条吉良の領地復旧で、遠江をはじめとし、駿河もその対象と考えていた。そして古くから協力関係にあった尾張斯波氏と結び今川を敵と見なすものであった。

 

所が清康としては父信忠を侮蔑する形の考えでもあるゆえに、若いながらも将監らのやり方に葛藤を抱いていたことも察せられる。

そういう葛藤を持清であり義春に相談すれば、自然と将監や信定に対して違和感をいだくのも無理が無い。

 

義春や持清は清康に

「尾張も斯波義達殿が今川に捕らえられてから、斯波ではなく織田が仕切っておるゆえに…三河との関係もどうなるか解らぬな…」

 

いわば、清州の織田達勝はその斯波義達と遠江遠征をめぐって対立し反乱して敗れた織田達定の弟に当たる。

この遠江遠征は西条吉良への支援とも、遠江守護としての防衛ともとられる行動である。

無論、西条吉良の姿勢が浜松壮を守るために今川と斯波両方にどっちつかずの態度で居たことは前話でも記した通りで、そういう遠江の情勢に関わることで尾張も対立した点は否めない。

その織田達勝が斯波に代わって尾張を牛耳っているのだから、むしろ尾張と三河の関係は危ぶまれるのも仕方がない。

現代ですら様々なフェイクニュースで情報が錯綜して惑わされる話であるわけで、当時の情報を正確に把握するのはかなり困難な話であったといえる。

それ故に誰かのコメントを鵜呑みにしてしまうように、情報を精査することなくその言葉を信じてしまうのは無理のない話である。

 

因みに織田信長が情報に精通していたのは、むしろ信長が情報を発信する立場にあったからで、その立場を寧ろ信長は利用した。

これは「うつけの兵法」の兵法としても記すものだが、正確な情報を得る方式はある意味ネット回線と似ている。

送信して受信するといういう仕組みなのだ。

自分側から発信される情報を把握し、相手がその反応で動く情報を仕入れるのだ。

単純に説明すると「大軍で攻めるぞ」と送信することで、相手が動揺する状態が簡単に想定される。その中で様々な敵方の寝返りなどの情報が受信され、更に条件などを盛り込んで相手に送信してその真意を探っていくのだ。

自分の動きが情報として筒抜けに成る事も利用して、さらにその動きで相手がどう動くかを探るのである。

「大軍で攻められなくなった」という情報を逆に送信すると、寝返りの動きを見せていた敵方は当てが外れて困惑する状態も想定できる。そうした中で本気で寝返る者はむしろ信長にクレームを入れてくるだろう。

こうした心情の変化を更に受信することで誰が本気か誰が偽りかの可能性を精査していくのだ。

そして信長側があてにする相手を選別して役割を考えるのだ。

これは長曾我部元親を計る際にも使われている。

元親に四国は切り取り次第という条件を出したあと、三好との和睦成立で寧ろ一部領地を返せと伝えている。

長曾我部からすれば約束を反故にされた形となるが、信長からすれば天下を統一する意味で長曾我部の野心的な真意を探る意味となる。

相手が野心的な考えを重視すれば、約束を反故されたことで敵対してくる訳で、それは元親が信長の天下に心服していない意味を与えるのだ。

そういう人間であるのなら信長からすれば浅井長政であり荒木村重、更には松永久秀の様な人物を放置した経験と同様の結末を齎すと考えた。

寧ろ松平家康(徳川家康)の様な盟友と呼べる存在なら大事に出来る相手と見なせるのだ。

そういう意味でこうした探りを入れるのだ。

この反応を利用して情報として正確に把握するのが「うつけの兵法」流である。

「うつけの兵法」ゆえに情報をたれ流したり、約束を反故してみたりと相手に馬鹿にされるような事を利用する訳だが、その分「うつけの兵法」ゆえにお人好しなほど信頼できる相手には融通を利かせることも忘れないのだ。結果松平元康は武田が滅んだ後に、遠江に加えて駿河の所領も許されて旧・今川の領地を全て任された形となっている。

何故信長がこうした情報の扱い方を取得できたかは、のちの「うつけの兵法」で書き記すものとするが、しかし情報の扱いは普通に考えればとても難しいのである。

 

そうした時代の情報の流れを古い関係性と新しい流れで若者は感じ取っていく。いつの時代も同じなのだ。

そういう意味でも尾張との古い関係性に固執するような将監や信定より、時代の流れを先取りしたような持清の言い分は理解しやすかったとも言える。

 

これが清康が殺される切っ掛けとなった森山崩れの内情である。

 

結果、清康は尾張勢と戦う道を選んだゆえに、再び三河に内部混乱が生じた。

1532年にはその東条吉良持清は亡くなっており、跡目はその子の持広が継いでおり、清康との関係は維持されていたと思われる。

松平義春が吉良氏の後見と成った伝承の話は、時系列からすると持清ではなく持広の方だった可能性は高い。

 

清康の死を切っ掛けに、信定と義春の間で対立が生じた事は流れから察するもので、さらには信定方がその背後の東条吉良を排除しなかったのは、不忠を恐れたからなのか…

寧ろここで、まだ生存していた松平道閲の存在が双方の争いに楔を齎していたと考えるべきであろう。

その道閲からしてみれば松平の主家としての立場を早雲との激戦で岩津松平の崩壊によって手にしたものであるわけで、それが家督争いによって失われることを寧ろ危惧したと察する。

ゆえに隠棲の身でありながら、再び信定と義春の間の調整を行ったことが考えられ、結果双方に決定的な戦をさせなかった。

そういう流れの中で、吉良持広の存在も体裁上で立てられた形だったのだろう。

そして清康の子、広忠はその持広によって匿われたのだ。

 

所が翌年の1536年に今川氏輝が死亡し、後ろ盾として頼っていた駿河では花倉の乱が勃発。

辛うじて松平義春の存在で何とか事なきを得ていたが、三河でその均衡がいつ崩れるか気が気でなかったとも言え、その為所領のあった伊勢に一時移った形と成る。

1537年には花倉の乱が今川義元の勝利で決定すると、再び後ろ盾として今川を頼った。

その際に恐らく西条吉良義尭の次男義安を養子に迎えてこれを後継者とした。

この時点で、吉良持広は今川の傘下と成ったようなもので、その庇護下に置かれた松平広忠も同様の立場に自然置かれることと成ったのだろう。

 

さて、話を再び戻して、1539年広忠は吉良持広の庇護の下で元服し持広より「広」をもらって広忠と成った。

吉良持広はその広忠の元服ごすぐに死んでしまっている事から、おそらく死期を悟って自分が生きている内に元服させようとしたのかも知れない。

 

さてここからは話を戻して、

元服を迎えた広忠を使って、今川義元と太原雪斎(承菊ここからは雪斎とする)は三河攻略に動き出した。

1540年に広忠を牟呂城に入城させたとある。

この牟呂城に関しては愛知県西尾市(岡崎南の吉良氏の東条城の北側)と豊橋市の牟呂と二つ考えられるが、松平義春が東条吉良氏の所領を守り抜いていたと考え前者に入城したと考える。

一説では出来事は1537年という記録があるが、時系列を考えてみると1540年が妥当な計算となる。

 

歴史の史書は気を付けてみる必要がある。

例えば太田牛一の「信長公記」などは、何時から書き始めたかが問題で、その書き始めから遡った年号は曖昧と考えてもいい。

現代であるなら日々記されるニュースなどで、詳細に記される時系列であるが、中世は日記などの記録でもない限り年号や日時に関してはかなりズレが生じる。

直に現役だった丹羽長秀などから話を聞いていたしても、人間の記憶を辿ったモノでしかないのだ。

 

「さて…あれはいつの話だったかな…?」

 

ある程度年齢を重ねていくと当人ですらうる覚えに成ってくるのが当然で、これが全体資料としてズレが生じた場合は絶対的なモノとしてとらえる必要性はないのだ。

恐らく史家たちもそのように比較して議論しているものと考えるが、科学でいう仮定同士の議論故に定説に至らない部分である事は伝えておこう。

 

資料を精査した上で辻褄を合わせて見ると、

1536年の今川で起きた花倉の乱を期に、松平信定と松平義春の間で均衡が崩れる状態が生じたと考える。

信定からすれば今川が崩れた状況に応じて、尾張と手を結んでいる事がやはり最良の選択であったと主張でき、この混乱に乗じて遠江を攻略するべきと考えたのだろう。

実際に信定そして酒井将監らの考え方の方がこの時点では戦略的に妥当であったとも考えられる。

この時点で三河が団結していれば遠江攻略は適ったかもしれない。

無論それには尾張の斯波というより織田信秀の援軍も宛てにした上での話となるが…

一方の義春からすればその尾張の軍勢と手を結んで遠江を得たとしても、遠江の主権は斯波家に戻されるだけという予測もある。

義春からすれば敵視している信秀を信用できないわけで、逆に信秀に三河は利用されるだけだと感じるのも当然といえば当然になる。

 

こうした議論を現代の企業の危機として考えると実に面白い。

一方は企業の事業拡大を目指して、大きな他社との業務提携を模索する話に対して、もう一方は他社に自社の特許を不用意に利用させず企業として安定した独立を維持する事を目指すという主張になる。

前者は信定で、後者が義春の主張となるだろう・・・

しかしその未来を知る現代の人からすると結果義春の主張は今川に飲み込まれてしまうわけで、信定の考えならばという「もしかして」の話で期待されるだろうが果たしてどうなったかは不明である。

 

未来の行方を知らない両者はどちらも正しいと考えるわけだ。

無論両者とも三河という国を案じての議論に成るのだが、いずれにしても対立したままで動けないという状況を生み出した事が愚作であったと言えよう。

そういう意味では隠居している松平道閲の気がかりが的中した考えと言えたかもしれない。

 

「内なる紛争に外敵あり」

 

何時の時代も内に紛争を抱えるところに外敵は介入してその利をむさぼるのである。

 

結果として松平義春は今川の花倉の乱を期に吉良持広の元に保護されている清康の嫡男当時の竹千代(広忠)を擁立した事が推測され、それ故にある記述では1537年に広忠入城というものが記されたのだろう。

この義春の行動で三河が大きく分裂した。

むしろ道閲は信定と将監に今は放置するように働きかけたためとも考えられる。

いわばこれを期に花倉の乱同様に三河も崩れてしまえば、それこそ尾張に付け入る隙を与える機会にしかならない。

確かに尾張と手を結ぶ考えにある信定と将監らだが、手を結ぶから信用するという甘い考え方はしておらず、むしろ国として対等であるから交渉上の信用が成立する点は熟知していた。

その対等が内部分裂によって崩れたならそこは相手の思う壺で、むしろ策士であるゆえにそこは割り切れて考えれたのだろう。

 

案の定、義春の動きは吉良持広を通じて今川方に筒抜けであった。

1537年は今川にとっては三河攻略の好機となるはずだったが、寿桂尼と北条の関係を充てにして武田とまで同盟を結んだ算段が外れた為、北条の怒りを買って河東の乱が発生したのは説明したとおりである。

寧ろこの時の太原雪斎は武田と紛争中の北条が今川まで敵に回すような行動を取らないだろうと高を括っていたのかも知れない。

ある意味、武田と結んだことで考えようによっては北条は和睦する際の仲介に今川を使えた訳で、必ずしも裏切りの意味が先行する状態では無い。寧ろ北条の目が寧ろ武蔵の上杉であり関東制圧を目指す意味では、のちに今川、武田、北条の三国同盟が成立した意図としても効果的であったはずなのだが、北条側は雪斎の意図をまだ考えきれず、単に裏切りと見なしたのである。

ここが雪斎の算段が狂った部分であった。

所が存在を危惧していた三河の清康が死に、三河が分裂し始めた状態になったことで軍事的な侵攻よりむしろ三河を取り込む算段が良策として生じたのだ。

 

意外とここの部分は長くなりそうなので、

前、中、後の三部に分けて書くようにします。

まあ、3か月くらい怠けてた感じですが、また再開します。

 

一応、信長たまの成長を書いてい行きたいのですが、

結局今川義元が桶狭間で死んだ

単なるアホな武将で終わらせたくないので、

こうした部分は大事に成ってくるのです。

 

ただ結構ややこしくて中々上手く纏めにくいのもご理解ください。

 

基本歴史小説では今現在では事が全て終わって

記録された状態を未来目線で想像して書かれるものですが、

「うつけの兵法」ではその当時の目線を重視して、

本編でも書いた情報がどういうレベルで流れたか、

そういう流れから当事者がどういう算段を考えたか、

そしてそこで生じる双方の誤解などを見極めて、

歴史の記録に辻褄合わせて作成する作業をしているので、

物凄く疲れるのです。

 

ある意味かなり科学的に記そうと頑張っているのです。

ほぼ小説では無く論文に近いかも…

そういう意味では時間は掛かるかも知れないですが、

是非今後ともよろしくお願いします。

 

【情報の難しさ】

ネット上の情報に限らず、

本に記された話でも

正確性には欠けるものが多いと疑った方が良いです。

科学の定義を元に情報も精査する事は大切です。

科学の定義とは…

仮説に成るのか、定説に出来るのかをちゃんと考える。

裁判のでも一緒で、証拠不十分な話は冤罪を生みます。

それでも裁判は判決をしなければならないので、

提示された情報で最終的には

答弁書の主張に根拠があるか、

そして本来は社会的影響力として

不法性や犯罪抑止等の効力で判断していくものです。

 

科学でも同じで根拠を元に基本は仮説を立てていきます。

宇宙の神秘である「ビッグ・バーン」という宇宙誕生説。

多くの人はこの情報を

「定説」として認識しているのではないでしょうか?

実はこれ「仮説」の一つで、

言い換えれば科学者が一番有力視している「仮説」なのです。

 

日本に限らず、ネット上の一般議論では

これを「定説」の様な形で語り、

他の想像性を無意味に否定します。

 

単純に仮説には疑問を抱いてください。

ビッグバーンという宇宙誕生の大爆発、

どうやって何もない世界にそんな現象が生じるの?

ほぼ意味不明です。

 

宇宙の銀河間であり星の間が広がって行くことが

立証されつつあるのは「定説」に近いです。

近いというのもイレギュラーに近づいているものもある。

でも大爆発でしかその現象が想像できないのは、

人類の想像力の限界なのでは?

 

ただしブラックホールの研究が進み、

高密度の限界が解明されれば

別な爆発要因として考えれると言えます。

いわば宇宙誕生では無く、

銀河が誕生する仕組みがビッグバーンという。

 

ブラックホール同士が接近して

ブラックホール同士が衝突する事は観測で見受けられるようです。

ただ、現状では大きなブラックホールが

小さい方を取り込む形だと言われてます。

そうなるとまだ高密度の限界は見えてこない。

高密度の限界とは、

圧縮されたものがどこまで圧縮された状態で保てるのかという疑問。

無論圧縮状態を拡大して

無限に大きく成長する可能性も想定できます。

ただ、圧縮状態に限界がある場合、かなり大きな爆発を生じさせ、

ある意味「ビッグバーン」という威力を齎す事は想像できそうです。

ただし現時点の観測上これは銀河規模の

莫大な大きさのブラックホールに成長する必要がありそうで、

銀河規模で吸収し合う状態とまで考えると、

ほぼ数字で表せる年数を超えた時間を要するとも言えます。

 

様々な仮説を精査して考えると…

宇宙に無限を想定した方が賢明。

無限という宇宙では無=0物質がその基盤となって、

本来その空間に素粒子すら存在してはならないのです。

ビッグバーンを引き起こすほどの

ブラックホールは究極の有限体と考えて、

無の空間に究極の有限体が多数存在する。

(おそらく地球からは観測できないレベル)

いわば小さな物質はその究極の有限体に引き寄せられるわけで、

究極のブラックホールとブラックホールの間は

0物質空間に成る。

我々地球で観測できる範囲は

この究極のブラックホールが

爆発して広がった世界を想像するべきで

この範囲のみを宇宙と呼ぶのなら、

ホーキンス博士のビッグバーン説は否定しません。

 

現状ブラックホールの存在は観測できているが、

ブラックホールが爆発するものは観測できていない。

仮にブラックホールが密度の限界を迎えて、

爆発したという観測が生じるのなら、

逆に宇宙誕生のビッグバーン説は否定され、

銀河誕生のためビッグバーンでしかない事になる。

そうなると宇宙空間全体は

小さな物質(素粒子より更に小さい物質)が

無限に存在する空間で有るのかもしれないが、

人間の想像力の限界は、物質0(光存在できない)ならば

無限は成立し、有限には限界が生じると考える。

 

まあ、情報を精査してみるというのは

この位繊細に色々疑ってみないといけない話で、

色々と考えた上で自分にとって有益と考えるものを

判断する方がいいです。

その上で自分にとって有益でない仮説は

他人にとっては有益かもしれない。

そういう事を踏まえた上でお互いの考えを尊重し合う、

議論のパラレルラインを理解することも大事なので。

 

【人を理解するための議論】

平行線辿るところでネット民は喧嘩別れるすけど…

そこがアホなのです。

お互いに平行線のポイントまで議論出来たのなら、

お互いを知り得たという意味で尊重し合うべきポイントなのです。

無論、論破するつもりガンガン理詰めで突き進むのは大事です。

ただしアホな人との大きな違いは、

相手が言葉に詰まって

自分の本意を表現できない事がある部分も

理解しようとすることです。

いわば自分の理屈を納得しきれてない相手に

どれだけ言葉を浴びせても解り合うポイントに達しないという事。

無論、相手も言葉巧みに表現できれば

お互いになる程という所に達せますが、

言いたいことが言えないで詰まる相手には、

その真意をこちらから汲み取って上げないと

こちらの真意も理解しようとすらしません。

 

よく論破を目指す人は自分に不利な情報を隠そうとします。

その大半が相手の真意に該当する部分で、

そこを省くと心情的に対立しか生まないのです。

 

もう一つ議論で大事なのは、その論理の目的です。

ビジネスでは双方の利益、政治的な議論では社会の為、

科学では問題の解明と成るわけですが、

そういう目的が合致している場合は議論として成立します。

寧ろネット民代表の誰かように、

自分が勝つことだけ、自分だけが利するだけという

利己的な話の場合、目的がWINWINでないため、

議論としては成立しません。

そういう相手はさっさと処分した方が良いと

信長たまの様な過剰な人は考えるレベルです。

欧米の議論ではここの焦点は大事にされます。

日本ではこの焦点を教育上習っていないという問題があって、

政治家や官僚のレベルが低いのはそのせいでもあります。

 

大きな違いは

「お互いが何を目指すかで共有した上で、その方向性の違いを理解し合えるか」

 

「ただ単に相手を言いくるめて、自分が勝ち誇りたいだけなのか」

 

前者のそれは新たな発見で歩み寄る余地が生じるわけで、

これが出来ないと

地球上の問題を平和的に解決することは出来ない。

 

後者の方は勝っても負けても相手に嫌悪を覚えるだけなので、

結果日本の政治の様に

「揚げ足取り」など嫌がらせをしあうだけの関係にしかならない。

最終的には

頃合いを計ってどちらかを排斥しようと考えるしかなくなるのです。

「やらねばやられる」という心理しか働かない関係で、

国家間同士なら戦争になるだけです。

 

喧嘩別れしてお互い否定し合って

行きつく先は力でねじ伏せるのですから。

 

まあ、そういう原理を理解しようとしていても

一方が戦争するバカなら、

戦争するしかないという結論にも達する訳なので、

信長たまの場合、そういう理解をしてても

相手がアホなら殺した方が早くない?

と、さっさと処分する思考に向かう感じです。

まあ、当時の比叡山がそういう例で言えます。

 

※比叡山の天台宗の偉い方がお亡くなりになったようで

お悔み申し上げておきますが…

今の比叡山とはまた異なる話なので言わせていただきます。

比叡山の焼き討ちに関しては

当時の信長たまが謝る話では無く、

むしろ腐敗した比叡山が謝罪しろ

と言っておきます。

信長たまの子孫がイベントで謝罪したとかニュースで言っていたが、

そもそもがフザケルな!!というレベルです。

何故謝る必要性がある?

その人らの祖先の所業を否定するのか!!

それを比叡山が「許す」なんてフザケタ態度を取るなら、

再び信長たまは焼き討ちするでしょう。

これも社会秩序を目的とした議論で、

仏教の教えに反して腐敗した形の比叡山で、

宗教として社会の規範として成立するのか?

という事。

そもそもがそれに反した行為をしていたのだから、

また戦という殺生に伴う事に関わった事実も用いて、

仏門の教えに反した状態であった事は証明できます。

 

それを仏門に逆らうのかという「脅し」で

信長たまに返したのなら、

社会害虫と化したものを殺処分するのは当たり前。

全く話に成らない!!

仏門として社会の規範となる弁明をするべきだろ!!

その上でその腐敗した状態に根拠が有るのなら、

そこは認める部分が生じるかもしれないが…

そもそも弁明できる話では無いという結論。

ゆえに比叡山は被害者面したまま何も弁明していない!!

焼き討ちして腐敗を取り除かなければ、

比叡山は仏教の権威を傘に

腐敗した教えで世の中に存在し続けたわけで、

説法という議論も通じない状態で、

対話による解決は不可という事に成るわけです。

 

これに第三者が焼き討ちまではやり過ぎなのでは…

と、いう事を述べるのは良いです。

信長が天下を治めた後に、

比叡山の権威を政治的にはく奪する方法もあったのでは…

という議論も成立するでしょうが、

まあ、天下を取るまでの過程でそんな余裕はなかった、

浅井、朝倉を支援した比叡山を放置している方が、

寧ろ戦略的に難しくなったとも言える。

ただ、信長の統治者として社会的イメージが

悪く成らなかったのではといえばそれも一理ある。

ただし信長が天下を取れてからの話ゆえに、

実際に直前で本能寺の辺で死んでしまったのなら、

生きている内に腐敗を強制排除した事は、

寧ろ比叡山が仏門として適切な形に戻る意味としては、

妥当だったとも言える。

まあ、善道非道の議論で平行線を辿る話ですが、

社会秩序という政治的な議論とした場合、

では、

どうしたら対話によって比叡山を説得できたか?

という事では比叡山を説得して腐敗を止めさせる方法が

見つからない以上、

天下を取って権威をはく奪しても本願寺同様に

逆らって反乱することも想定できる話で、

遅かれ早かれ焼き討ちに成ったともいえる。

 

ここで「それでも焼き討ちは良くない」

と、道徳的に反論する人は話に成らない人です。

ここでは焼き討ちの善道非道の話は

既に議論の目的とは別になっているのですから。

 

議論の目的は

「社会的規範のため比叡山の腐敗を取り除く」

であって、比叡山の腐敗を焼き討ち以外で

「現実的に」取り除く方法が無かったのなら、

焼き討ち以外の方法は無かったと成るだけです。

まあ、当時の住職だけをを暗殺という方法なら有りですが…

 

道徳的に問題視する場合、

では、道徳的に問題の有りすぎた

比叡山を放置したままで良いの?

という対立を生じさせ、

更には社会秩序という目的の行動に否定を用いた事になります。

優秀な議論では焼き討ちや暗殺以外の方法で

他の選択肢を発想出来ないなら、

「ならば仕方がないかな…」

と、一旦議論を治めます。

その上で他に何かいい方法が見つかったならば、

「この方法はどうだったかな?」

と、再び議論に持って行くことも出来ます。

しかし、相手の行為を一方的に否定するだけの主張は、

寧ろ相手の真意を理解していないという所で対立するのです。

いわば道徳を用いて自分の善良な心を示しただけで、

相手には善意が無いという形締めくくったようなものです。

信長たまは社会的な善意を考えて、業を背負ったわけです。

一方は自分だけの善意を示して、

「いい人間」である事をアピールしただけで、

結果、社会的善意になる事は何も提示できない。

 

筆者がウイグル問題で中国をあまり非難しないのは、

ウイグル人が独立を主張してテロを起こす危険性が有るからです。

ウイグル人の人権だけを道徳的に考えれば、

独立させてあげた方が良いと簡単に言えます。

しかし、国家支配であり、社会的秩序の話を考えると、

ではスコットランド、北アイルランドの独立を考える人たちも、

そうさせれば良いじゃないかという議論になる。

バルセロナを含むスペインのカタール地域だって、

独立投票で成立したのだからという事にもなる。

 

しかし、秩序の問題は事は単純ではないのです。

 

ウクライナはソビエト連邦またはロシアから独立したが、

クリミア半島などで国境問題が生じた。

クリミアの人は結果選挙でロシアに帰属する道を選んだわけです。

その他ロシア語圏の人たちも一部でそういう動きを見せている。

元々ソビエト連邦時代に境界の線引きが微妙であった事もあって、

独立後に国境問題でお互いが対立するケースが考えられる。

ウイグルやチベットを中国から独立させても、

その後国境問題でより強力な敵対関係が成立するだろう。

そこに欧米が香港問題同様に中国との対立を生じさせるなら、

中国はそれを許すとは考えられない。

中国側の見解を理解すると第三次大戦が起こっても

中国はウイグルやチベットの独立を認めないと言える。

 

ウイグル人が過去に独立を目指して

中国にテロを行った事も考えると

中国化させるために矯正教育を施す考えもある部分理解できる。

ここが道徳的な話と、現実的な秩序の話の分かれ目である。

道徳的には矯正教育または強制教育は良くないと主張して

中国政府を非難する訳だが、

中国の統治に対する敬意が無い。

寧ろ中国の懸念を察して、

ウイグルの独立は支援しないという保証の下で、

中国のやり過ぎている部分を緩和する方向で話し合うべきなのだ。

こうした教育方法にやり過ぎが生じる部分は当然理解できている。

ただし、現実問題として道徳的な批難だけでは、

対話による解決は不可能ともいえる。

中国の懸念とは、ウイグルの人たちを自由にさせて、

欧米諸国と結託して独立運動を広める事にある。

中国からすれば

それは欧米諸国の戦略的策略とも考えるポイントで、

そこに疑義があるのなら

そんな話はアヘン戦争と同じ道を辿るから

絶対に受け入れないだろう。

中国にとって将来的に不利益しか生まない議論で、

例え冬季北京オリンピックが失敗に終わったとしても、

そこで生じるリスクよりもウイグルを独立させてしまう方が、

中国国内の秩序を考えたら大きな問題と考えるのも当然である。

 

これで中国を道徳的に非難するだけで何が解決するの?

 

ネット上というよりアメリカ連邦政府下院議長の

ペロシもこの程度の間抜けな議論しか出来ないのだから、

正直、仮にウイグルの弾圧が本当に酷く行われていた場合、

むしろウイグルの人たちが救われる状態は程遠い。

 

中国側の見識も理解する。

無知な情報の元では、

道徳的に中国の弾圧行為を許している様に見えるだろう。

しかし、現実的にウイグルの人たちが本当に困っているのなら、

道徳で自分を美化して何の解決にも成らない話を

延々と述べている方が寧ろバカバカしい。

 

オッサン先生に言わせれば、

「戦争するのか?それとも中国に対話の門戸を開かせるか?」

と、言う2択だそうで、

道徳だけで語るのなら価値観の違いで戦争にしか成らないのです。

 

比叡山と違って中国との戦争は大きな損失が出過ぎる。

それは経済的な戦争でも比較に成らない。

頭の悪い人は先ずはこの現実的な分析で考えて欲しい。

 

また、中国は比叡山の様に理屈無く

強引に抵抗している状態ではない。

中国は経済的に国際社会との繋がりは重視しているため、

そういう意味では対話は十分に成立する。

寧ろ、道徳的な話しかしてない

ペロシ(下院議長)程度のレベルでアメリカが纏まっているのなら、

そちらの方が対話が成立しない。

ある意味、焼き討ちする対象は、米国の軍事力を背景に、

対話の余地を消し去るペロシの方であると言える。

ペロシを信長の価値観で殺せば、

ウイグル問題は対話で解決する。

と、オッサン先生は言ってます。

 

ただし、バイデン大統領がちゃんと掌握してれば

焼き討ちといった非道な話は大丈夫な話で、

ペロシに流されず無視した方が、

民主党の支持率も上がるというものです。

 

戦争を無くすことって本当に大変な話で、

人類はそろそろそういう尊重し合う事の大切さ、

そして対話が成立する認識を

ちゃんと学べよって話です。

 

風と太陽の話を前にもしましたが、

オッサン先生の様にコロナ化でマスクをしない人に

「マスク付けてください」

と、言っても喧嘩に成るだけです。

「(法律上認められた状態で)何故お前の価値観押し付けられなきゃいけないのか?人が裸で歩いているかのように侮辱するな!!」

と、逆鱗に触れてしまいます。

こういう部分では戦争する気満々で、対話に応じる事はないです。

ある意味中国政府の姿勢にも類似して見える。

元々マスクしない人は

社会的な強制状態に反発心を持っているので、

個人選択の自由というデモンストレーションの意味も有って、

「マスクを付けてください」

という言葉は絶対に受け入れないものなのだそうです。

所が…

マスクを手渡されて、

「これ上げます」とか、「もしよかったら使ってみてください」

というやり方だと相手の言葉に「強制」が無いため、

じゃあ、ここは着けてみるかな…

って心を開きやすくなるそうです。

 

あるお店では

「店のルールでマスクの着用お願いできますか?」

と言われて、

「マスク売ってるの?」

と、聞いたらその店員は

「売れないので、差し上げます。」

と言った。

そういう場合、オッサン先生は快く従い、

お会計の際に、マスク代の代わりに

チップとして50円余分に渡して帰るのです。

価値観を共有する意味では、

こうしたGive&Takeも大事な事です。

 

実際に人それぞれが価値観を尊重し合う事で

対話の門戸は開かれるわけで、

自己主張をハッキリさせる独自の価値観ある人には、

特に大事なのです。

※自分の価値観を相手に押し付けるのはモラハラです。

 

キリスト教の教えを理解しているはずの欧米人が、

「自分を愛するように隣人を愛せ」

という言葉の本意を理解しきれてないのも不思議なんだけど…

 

因みに信長たまはキリスト教に入らなかったけど、

この言葉の真意を多分理解して、

キリスト教OKと判断していたと思います。

 

何故?改宗しなかったか?

 

だって尊重社会を理解できないアホは

処分しなければいけないから、

そんな綺麗事の枷に自分が嵌る事は出来ないと理解してたから。

だから法華経などの仏教も信仰しておらず、

寧ろ自分の所業を「大魔王」と称したほうが適切と思ったのでしょう。

 

魔王だから悪魔なのでは無いのです。

社会の為に魔王となるべきだから「天下布武」なのです。

そして社会が理解できるように布武することで、

尊重社会によって人々は安寧を得られれば良いという考え。

これを筆者は「魔仙」という意味で記しており、

まあ、ブログでも登場する「魔仙妃」の由来としているのです。

中国語読みだとモシャン・フェイって

かわいい名前に成るんだけどね。