ショーエイのアタックまんがーワン -6ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第三十話 マムシ戦法】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕

 

 毒蛇は草むらに潜み相手の隙をついてその毒を以て捕食する。

 道三の頭は今、まさにその毒をどこに潜ませるかを考えていた。

 

(敵は既にこちらの窮地を悟っている…)

 

 一般的多くの人は相手に自分の弱みを見せたくないと考える。

 いわばその後の交渉で少しでも優位性を保とうとするためにそう考えるのである。

 その為、情報漏洩を防ぐため四苦八苦するのだ。

 そうして四苦八苦すると、指揮を執る本人は状況を理解していても周りの人間は指揮者が理解していないのではと錯綜するのだ。

 どこの企業の会議室でもよく見られる光景かもしれない。

 指揮者以外の人間は情報を把握して打開策を練る方向で考えたいのだが、指揮者は寧ろその打開策で何とかできるとは思っていないため、ついつい外部に漏れないようにとそれを否定しまいがちにもなる。

 いわば指揮者の頭は戦争なら休戦であり和平交渉で解決する形に持って行こうとするからだ。

 人間、保身が先行すると自然とこういう形に成りがちである。

 ところが死ぬ覚悟を決めた者は全く別物なのだ。

 

 達人同士が刃を交える際に、我武者羅に自分を殺す気で向かって来る相手は確かに怖い。しかし、そこで脅えるのは敗北を意味してしまうのだ。

 相手が野獣同然に向かって来るのなら、相手に一打食らわせるだけで相手は怯む。一打食らわせずとも上手く避けるだけでも効果は出る。いわば殺す気で向かって来る相手が一度自身の保身を頭に過らせると意外ともろく崩れるからだ。

 そういう意味で一番怖いのは、死ぬ覚悟を持った相手で、一挙手一投足冷静に見極めてくる分、一瞬の隙が命取りになるのだ。

 プロボクサー同士の戦いでボクサーが殴られる事を恐れない姿は正にそういう境地と言っても良い。

 

 決死の覚悟とは誰もが簡単に口に出すが、実はそんな簡単なものではない。

 また猪突猛進の様な自決する覚悟の相手も違うのだ。

 

 道三の覚悟は、勝負に負ければ命を落としても悔いはないという所である。その上で今命のやり取りの中で、相手との勝負を楽しむというものである。

 いわばこの窮地を道三は楽しみ始めたのだ…

 ゆえに自然と孫子の基本、「彼を知り、己を知る」事が見極められるのであった。

 

 軍議を開く中で、家臣たちは口々に…

 

「殿…敵がここまで迫った以上、木曽川に展開する部隊を集結させて稲葉山で籠城するのが得策かと…」

 

 と、懸案してくる。

 道三はその言葉を寧ろ冷静に受け止めて、

 

「他の者も、それが適切と考えるか?」

 

 と、あえて聞くのであった。

 すると家臣団は顔を見合わせつつお互いにうなづき合って意思を確認しだした。

 道三はその様子を観察して、あえて返答を求めることなく、

 

「ははは・・・なるほどな、皆がそう考えるのならそうなのであろう。」

 

 と、笑いながらそう伝えた。

 この時、道三の中では自身の思い描く計が大方機能する事を確信した。

 更にはその場でこう告げたのである。

 

「ならば…籠城する方向で調整しよう。皆の者沙汰を待て」

 

 と言って締めるのであった。

 敵を騙すなら味方から…と、良く言うものだが、

 味方に嘘を述べるのが得策ではない。

 味方には「前向きに考える」という形で道三は伝えたのだ。

 これは君主として人の心をとらえる者は常に考えておかなければ成らないのだ。

 味方に嘘を述べて計を行うと、その計を知らされたものと、嘘を付かれたものとではその信頼関係に差が生じてしまう。

 「敵を騙すなら味方から」という言葉は当時でも誰もが認知する言葉である。その中で「嘘」の中に置かれた者は、自分が信用されていないのではと錯覚する者も出てくる。

 人の心がそうした些細な事で崩れていくこと知る上では、事が治まった後の事も考えて注意しなければ成らない。

 ゆえに道三は「前向きに考える」と伝え、「沙汰を待て」と止めた上で、必要最小限の指示で行うという形にしたのである。

 

 さて…ここからは戦の演出家の手腕が問われる部分である。

 道三は先ず、笠松に布陣する安藤守成に稲葉山寄りに幾分か後退して、高台のある場所に陣を敷くように命じた。

 無論、これは木曽川を挟んで対陣する尾張本隊からすれば水計を狙ったあからさまな布陣に見える。

 また道三はその場所であえて要塞を建設するようにも命じたのだ。

 要塞と言っても木材で防御を固める程度のものだが、その作業で何日かは掛るのだ。

 対陣する尾張本隊の坂井大膳は2,3日もすると少し違和感を感じ始めるのであった。

 大膳も稲葉山が包囲されつつある状況は知っている。

 その上で今水計に嵌めようとする動きを警戒して木曽川の渡河を躊躇している自身の判断に疑念を抱くのであった。

 

 (足止め…か・・・?)

 

 大膳はそう警戒感を抱いて、木曽川の堤防付近の様子を探らせるように犬山城の織田信康に命じた。

 対岸の堤防を守る氏家直家隊は未だそこの守りを固めて、さらには可児郡の斎藤正義隊も陣容を崩していない事を確認した。

 勿論この時点で道三からの指示は双方に伝えられている。

 更には氏家直家は堤防の場所に大軍が渡りやすいように橋を拡張し始めた。

 ここまで来ると何か怪しさを感じる。

 そこで大膳は道三が今何を一番狙っているのかを考えた。

 

(尾張からの渡河の足止めで一番狙いやすいのは…)

 

 無論、誰もが気付くであろう…

 

(稲葉山を包囲する井ノ口の部隊への奇襲か!!)

 

 勿論、道三もそれを実は狙っていたのだ。

 しかし、安藤守成も氏家直家の部隊も、そして斎藤正義の部隊も未だ動いてはいない。

 大膳は策士らしく思考を巡らせて考えた・・・

 

(ならば奇襲の機会をどこかで合わせるか…)

 

 策士なら孫子の兵法の基本は誰でも知っている。大膳はそのタイミングを見極めるのに自身が渡河を一番警戒する時と考えた。

 

(雨の降った時・・・)

 

 はてさて道三との駆け引きは如何に…

 

 大膳は自身の考えをすぐさま早馬を走らせて井ノ口側の方へ伝えたのである。

 無論、信秀と宗滴という優秀な戦略家が居る井ノ口対岸でも木曽川の状況は把握していた。故に大膳の知らせに驚くことは無かった。

 恐らくはその頃合いと誰もが意識したのである。

 

 1544年10月8日(旧暦 天正13年9月22日)ついにその時が訪れた。

 さて…ここで誰もが忘れている稲葉一鉄の存在である。

 前日の夕刻過ぎに雨が降ろ始めると、揖斐城付近で潜伏していた稲葉一鉄の部隊が突如、その揖斐城を急襲した。

 勿論の事、道三より開城して潜伏することが伝えられていた一鉄はここに攻め込みやすい抜け道をあらかじめ用意していたのだ。

 更に加納口への兵力集中で揖斐城の守備は薄く備えていた事もあってそこに入っていた土岐頼純を逃がすのが精いっぱいで陥落したのである。

 この一報が尾張越前連合に伝わるや、焦りを生じさせたのである。

 道三の狙いはこの焦りを生じさせることにあった。

 井ノ口対岸の部隊は急襲がある事に備えて陣容を構えてはいたが、越前への退路と越前からの補給路を断たれたことで動揺したのだ。

 こうした動揺を察して信秀も宗滴も、

 

(道三め!!やはり備えていたか!!)

 

 と、痛感したのだ。

 いわば兵士より寧ろその動揺は越前の将たちに広がったのだ。

 彼らは孝景に、

 

「殿!!ここは先ず後方の退路を守るのが適策なのでは!!」

「根尾川との合流地点を固めねば、我々は孤立しますぞ!!」

 

 信秀も宗滴も、この動揺こそが道三の狙いであると悟った。

 宗滴は孝景に、

 

「これは敵の謀!!今動くは敵の思う壺です。ここは敵の急襲を防いだ後に対応するべきかと!!」

 

 そう伝えた。

 孝景も冷静な将である故に、宗滴の懸案を受け入れた。

 

 こうした状況は木曽川の坂井大膳の元にも届いた。

 大膳はもしやと思い、犬山の織田信康に堰のある坂祝を急襲するように命じたのだ。

 無論、無策に急襲するのは敵に備えが有ったとき大被害を被る。

 ゆえに密偵を放って、先ず様子を見させた。

 既に夜更けで辺りは暗く、雨が降ったことで月明りも無い。

 密偵は敵に悟られないギリギリのところでは敵陣に軍旗が立っていることしか確認できない。

 雨音で敵の気配は音では確認できない。

 しかし、信康はその密偵に敵陣に侵入して確認するように告げていた。まさに決死の密偵である。

 もし、その密偵が帰らぬ時は、敵はまだそこに布陣していると判断するつもりであった。

 

 戦に興じる者は様々に思考を巡らし、それぞれが慎重に対処している。歴史小説に書かれる間抜けな結末など、現実では作家の空想に過ぎないのだ。

 

 密偵は命を賭して、敵陣中に入り込んで確認した・・・

 

(誰も・・・居ない…偽兵の計!!)

 

 そう判断するやその密偵はすぐさま信康の元に報告した。

 信康はそれを聞くや大膳にも早馬を走らせてすぐさま木曽川を渡河するように告げた。

 

 大膳の元にそう伝わるや大膳はすぐさま渡河を指示した。

 勿論その場合に備えて準備をしていたのである。

 無論対岸に安藤守成の部隊が居る可能性はあった。

 しかし、木曽川の堰の決壊が無いと判断したら、大軍でごり押しすることは十分可能と考えていた。

 雨で水かさが増すとは言え、渡河するために近くに逆に堰を設けて水位を更に下げる準備をしていた為、船を使うことなく渡れる状態にあった。

 敵がそれを妨害して来ない事は状況から逆算して想定済みだったのだ。

 どんな指揮官でも様々な思考を巡らして戦っているのだから当然である。

 そして夜更けから明け方の頃合いには渡河が完了して、安藤守成が築いた要塞への攻撃が始まった。

 

 さて…こうした情報の伝達や報告は早ければ早いほどいい。

 笠松から道三が堰を設けた坂祝までは20キロほどある。

 晴れている日ならば狼煙を使う事は出来るが、雨の日ではその煙を確認するのは困難とも言える。

 そこで道三は笠松の状況を坂祝に居る氏家直家に素早く伝える為におよそ100m感覚で弓兵を200名ほど配置して、矢文ならぬ矢を届かせて伝達させる方法を用いた。

 それでも失敗する可能性を考慮して早馬も走らせるのだが…

 100mなら大方狙いを定めやすく、馬より早く伝わるのだ。

 無論、200人と言っても貴重な戦力故に緊急時にしか用いられない代物である。

 

 敵が井ノ口側への急襲へ向かったものと考えて、今のうちに坂祝の堰を占拠しようと信康は軍をそこへ進めた。

 万が一の伏兵に備えてはいたものの、そこへ突如斎藤正義の部隊が襲い掛かってきたのだ。

 さらに対岸から突如氏家直家の部隊が出現し、信康はまんまと空城の計に踊らされたのだ。

 空城の計とは城を空に見せかけて敵を策に嵌める事で、必ずしも警戒して撤退させるだけのハッタリ計ではないのだ。

 

 1544年10月8日のこの日に、信秀の弟の織田信康は加納口の戦いで戦死したとされている。

 おそらく犬山に居た彼がこうした戦いの流れで敗死したのではと推測する。

 この道三の逆転劇の計はそうした資料に基づき算出して見たものである。

 

 坂祝での空城の計が成功するや、渡河した大膳の尾張本隊は一気に窮地に立たされた。

 いわば…堰を決壊させての笠松への水攻めが可能になったからだ。

 更に大膳は速やかな渡河を狙って、自陣の近くにも堰を設けた。

 大量の水が木曽川を伝って急流のごとく流れていき、その自らが用意した堰に到達したのならこの被害は言うまでもない。

 道三の本命はここに敵を嵌めこむ事であって、信秀らへの急襲はその次なのであった。

 

 大膳の尾張本隊は無残にも命からがら逃げかえるしか無かった。

 そしてかなりの被害をここで被ったことに成る。

 この笠松から稲葉山の間に加納という場所があり、そこを中心に戦の大局が決した事から加納口の戦いと呼ばれたと推測する。

 

 尾張本隊の倒壊を得て、10月8日の早朝には井ノ口の状況は一変してしまったことに成る。

 稲葉山城を包囲していたはずの状態が、一夜にして逆に包囲される状況へと変わったのだ。

 今と成っては揖斐城方面へ守備を固めるのも危い。

 笠松で尾張本隊と対陣していた安藤守成の部隊は、結果としてほぼ無傷で動ける状態に成っていた。

 また、堰の守備に回っていた氏家直家の部隊も犬山に居た織田信康が打ち取られ、更には斎藤正義が土田に居る限り他に回れる状態になったのだ。

 

 この時、信秀は大垣の守備を警戒し、孝景と宗滴は越前方面への退路を警戒した。

 孝景と宗滴は井ノ口からそのまま北に抜けて土岐氏の守護所であった大桑城へと向かうことにした。

 そこで信秀ら尾張の部隊が殿(しんがり)を務める事にして、越前部隊を先ず大桑に向かわせ態勢を立て直そうと試みた。

 

 越前軍からすれば揖斐(北方)城を奪い返された以上、大桑を攻略し根尾川上流から揖斐川上流の道筋を繋げて美濃北西支配から再起を図る算段に転じた訳だ。

 この時点で井ノ口対岸の陣は殿を残すのみで、信秀はその西方にある鷺山城で追撃を食い止めるように後退した。

 

 越前の将たちの中には、もっと早く・・・いわば揖斐城陥落の時点で動くべきだったと不満を呈する者も出ていた。

 それを退けて様子見を進言した宗滴と信秀は今と成っては立場を失う形だったとも言えよう。

 軍というものは結果だけを見て意見が錯綜して崩れやすい所もある。

 道三は笠松の戦況が決した時点で、井ノ口対岸を急襲する考えでいたが現状を冷静に考え、迂闊に態勢を崩す状況も危いと感じ、

安藤守成には笠松での尾張本隊の残党狩りを継続させ、氏家直家の部隊のみを稲葉山城に帰還させるに留めた。

 

 無論、道三は井ノ口対岸に自軍の渡河を阻止する殿(しんがり)が待機する事、鷺山城辺りで更なる追撃を阻止するだろう配置は予想できており、無理にこの追撃で兵力を消耗することは相手にむしろ再起の機会を与えかねないと警戒した。

 しかし…長良川を挟んだ対岸の鷺山城に尾張勢が居座る状況も芳しくない。

 そうして総括して考え、時期を得て更に形勢を取り戻す意味で考えると、ここで一度休戦を申し入れる方が得策に思えたのだ。

 

 敵である越前と信秀の軍勢は今混乱しているのは定か。

 されど現状背水の陣同様に、彼らは必死で退路を生み出そうとする。

 そういう状況で追撃を仕掛けるのは時として逆に被害を自軍に拡大させてしまう。

  これは笠松の尾張本隊の様な壊滅した相手とはまた違うからだ。

 ただし、越前と信秀は必死であるがゆえに兵の士気は高いが、むしろ交渉には弱腰に成りやすい。

 道三はそういう心境も察した上であえて休戦交渉の使者を送るのであった。

 

 条件は…

 鷺山城と揖斐川と根尾川の拠点を放棄しろという条件で、越前と信秀の撤退を保証するを交換するという形で休戦を申し入れたものである。

 この交渉に美濃側から赴いた使者は堀田道空であったとしよう。

 

 道空は先ず越前の朝倉孝景の下を訪れて、南方からの尾張本隊が瓦解した以上、美濃兵は集中して越前と信秀の部隊と対峙できることを説いた。

 その上で…

 

「双方がぶつかりあえば双方で激しい戦闘に成るのは必至。」

 

 道空はあえて美濃が孝景らを侮っていない事を述べた上で、

 

「その上で美濃は必ず勝利するつもりでおります。こちらも必死で挑む所存・・・それゆえの被害は覚悟の上です。」

 

 そして続けた

 

「その上で越前側は退路を断たれた状況で、我々に必死に成って挑むが得策と考えられるか?」

 

 道空はそう相手を諭すのであった。

 

「ここは是非、痛み分けという事で一旦兵を引かれる事でいかがでしょうか?」

 

 道空はハッタリを述べるわけでもなく、双方が甚大な被害覚悟で挑む形が越前側にとって既に大きな賭けでしかなくなる点を強調したのだった。

 孝景もそういう言われ方をすると、ある意味今博打を打つよりも、安全にここは退けるべきかなと冷静に考え始めた。

 そばで聞いいていた宗滴も流石に勝てるかもしれないが、五分以下の博打ならばと孝景に耳打ちした。

 

 こうして道空は先ず越前側の撤退を確約させたのである。

 そしてそのまま信秀の鷺山城に赴き越前側との交渉の結果を通達した。

 信秀も流石に尾張本隊に続き、越前までも撤退すると成っては、むしろ笠松の安藤守成に大垣を急襲されては退路を断たれるどころではない事は察した。

 寧ろ信秀は多くは聞くことなく大垣に撤退する旨を道空に告げその上で休戦を全うするように求めたのだ。

 

 史実にある1544年10月に起こったとされる加納口の戦いは先ずもって休戦と言う形で幕を閉じたのである。

 されど…歴史的な記録上では1547年説または1547年に2度目の衝突があったと記される上で、この戦いは天文16年9月22日(1547年11月4日へと休戦を得て続くものとする。

 

どうも・・・ショーエイです。

ちょっと加納口の位置が最初よくわからなくて、

井ノ口の対岸を加納口と考えていたわけですが…

何と…加納という駅が岐阜駅のそばにあるでは無いですか!!

 

ある意味資料上の逆算みたいな形で軍を動かすように

この戦いの構成を考えていたのですが…

何気にこの戦い「加納口の戦い」とも「井ノ口の戦い」とも記されており、結果として岐阜駅の南方の場所が加納と呼ばれる地だと判明した後でも、この構成は寧ろ問題なく成立するものであったことに成ったわけです。

 

元々地名を勘違いしていたけど、笠松の木曽川方面の戦いにも焦点を当てていた為、むしろそこの決着が加納口にあたる事に成ってたわけです。

 

更に色々な資料と照らし合わせて、

木曽川で2、3千人がおぼれ死んだとかいうものも含めると、

この戦いの概要はこうした流れであったことが妥当と考えられます。

とにかく道三は圧倒的不利な状況を打開したのは事実な訳で、

その意味の明確な資料は実は存在もしてません。

 

想像力をフルに働かせて

リアルにその逆転劇を再現してみた訳ですが、

何気に史実の戦いは

こういうものであった感じに成ったのかなと

ちょっと満足しております。

 

その分、かなりの時間を擁しましたが・・・

 

さて次回からはいよいよ信長たまの元服への過程で話を進めます。

とりあえず加納口の第2戦目は・・・濃姫こと帰蝶との関係性へと結びつけていきます。

ちょっとフィクション的な要素も含めますが・・・

実際に信長たまはこんな感じだったという所で、

史実資料から外れない形で今後もお送りして行きたいと思います。

【第二十九話 尾張と越前】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕修正版

 

 道三が籠る稲葉山城から長良川を挟んで対陣する尾張越後の連合軍。この場所はその長良川を挟んで稲葉山城下がある道三側の場所を井ノ口と言うらしい。加納口はどうやら現在の岐阜駅南東の名鉄名古屋線加納駅辺りをいうらしい。

 その井ノ口の対岸に布陣した尾張の信秀、そして越前の朝倉孝景は火矢での攻撃や夜襲を駆使して、稲葉山城下の井ノ口を破壊した。

 いわば道三方への経済制裁の意味があったのだが、最終的な補給路は井ノ口から稲葉山城を完全に封鎖しなければ成らのだ。

 尾張朝倉連合の中には、総兵力1万5千ある為稲葉山城包囲に十分と唱える者も居た。

 しかしそれに異を唱えるのが朝倉宗滴であった。

 長良川を挟んだ対岸から井ノ口へ渡っての布陣は、兵法上背水の陣になり、こうした兵法を熟知すると勿論嫌う。

 ただ大陸の楚漢戦争の歴史に於いて漢の名将韓信が背水の陣を用いた例を挙げて、そう主張する者も多かった。

 戦は戦費が嵩張るもの、それ故に早期決戦を目指してしまう思考が頭をよぎる。1万5千人分の兵糧を運び込むのも大変な労力だ。

 更に言えば稲葉山城は敵の本営。故に敵は既に追い込まれたものとも考えてしまいがちになる。

 そういう周りの雰囲気の中で、宗滴は今はまだ時期尚早と異を唱え続けた。

 朝倉孝景も国の経営を考える身ゆえに、どちらかというと早期決戦に傾いてしまうのだ。

 周囲が焦りを示す中で、信秀とその参謀の林秀勝は宗滴の考えに同調したしたのだ。

 

 信秀は相手が道三である事を伝え、南方から攻め入っている笠松の状況が膠着している状態では、背水の陣を敷くことは命取りに成ると説明した。

 いわば長良川の上流は道三方の手にあり、水計を以て長良川の両岸が分断されれば、井ノ口の方は退路も失い大損害を被るのである。

 ここでいう水計とは、かの小説などで諸葛孔明が敵を一網打尽にする様な形とはまた異なり、上流の決壊で洪水を齎し足場のぬかるみなどを作って相手の動きを鈍らせるという程度の効果しかない。

 ただし井ノ口は稲葉山の真下にあり、稲葉山は高所に成る分、地の利を得て足が鈍った敵を弓矢で狙い撃ちしやすくなるという効果も発生するのだ。

 また水害は数日で収まるわけではなく、それが収まったとしてもその足場の悪い状況は中々改善されない。

 勿論知恵を絞って船などを活用して対策を練るような考えもあるが、結局井ノ口を破壊してしまった事が、むしろ敵に最良の視界を与えてしまったことに成り、船を以て逃げるにしてもそれも敵の的の対象と成に成るのだ。

 更には補給した物資もそこで無駄になり、結果包囲は崩れて撤退を余儀なくされかねない。

 

 口達者な信秀は宗滴にに代わってそう伝えたのだ。

 見事なまでに自分と同じ考えを代弁してくれた信秀に、宗滴は一目を置くのであった。

 

 結果、孝景は宗滴らの戒めを理解して笠松の戦況が動くまでは暫く対岸に布陣する事に決めたのだ。

 

 無論、長期戦が厳しいのは道三の方も同じである。

 城下町の井ノ口があそこまで破壊された上では、むしろ敵が井ノ口に布陣してくれることを期待した。

 そういう意味で信秀が警戒しているような備えは十分であるが敵は対岸から動かないのである。

 戦上手な者同士の戦いとはこういうものお互いに都合よく隙を見せてくれないのだ。

 いかに兵法を熟知していようとも、結局はこうした駆け引きを知らねば常に失態を演じる愚者と成るが常だからである。

 故にここからの勝敗は更なる展開の発想力が決め手と成ってくる。

 かの諸葛孔明の軍略もそうであるが、動かぬ敵を動くように仕向けるのがその発想力の根源である。

 とは言え、動かぬ敵を動かすのは中々難しい。

 

 では…道三はどう考えるのか…

 今の目的は…敵を井ノ口に布陣させたいのだ…

 

 そこで笠松で膠着している尾張の本隊が動き出せば、長良川対岸の部隊は井ノ口に入り込んでくる…無論、尾張本隊と信秀が居る越前との連合軍の合流は避けねば成らない…

 

 そうやって一つ一つ分析しながら何が可能かを考えるのだ…

 

 そこで…対岸の井ノ口側の部隊は動かせずとも、尾張本隊は動くかも知れないと…そういう閃きで道三は頭を切り替えていくのだ。

 

 井ノ口に対陣されている状況は、敵はこちらの不利を予測する。

 ならば突然笠松の部隊が後退したとしても、敵は自然な行動と認識するだろう。

 問題は…笠松への備えとして木曽川に設置した堰の決壊を警戒するか否か…

 ここが警戒されると…恐らく敵は動かない可能性もある…

 いわば道三は自ら笠松へ尾張本隊を渡らせないように備えたものが寧ろ邪魔になってくる事を理解した。

 

 道三はそうやって状況の欠点をも見極めながら考えを巡らせた。

 無論、木曽川の堰を捨てるわけには行かない。その条件でこれをどう謀るのか・・・

 

 道三が状況の打開を試行錯誤している中、井ノ口の対岸に布陣する尾張越前の連合軍では、軍議の後、しばしば親睦を深める酒席が設けられた。

 ここで多くの人は勘違いしがちだが、尾張の織田信秀と越前の朝倉孝景は同格の扱いには成らないのだ。

 元々は織田と朝倉は斯波氏を主家とした家臣団である。

 しかし、そうした意味でも孝景は越前の守護代に成るわけで、尾張の守護代はあくまで大和守家であって、信秀の弾正忠家はその下の扱いに成る。

 応仁の乱以降、朝倉家は斯波氏から独立した存在と成っており、そういう意味では越前守護で尾張斯波氏と同列に成る。

 加納口の連合軍の大将はその朝倉孝景であり、信秀は尾張から派兵された援軍の将に過ぎないのだ。

 

 信秀が宗滴に同調して井ノ口へ布陣の不利を解いた後の酒席の中で、突如当主の嫡男自慢が話題に上がった。

 ここでいう当主とは朝倉孝景と信秀のことに成る。

 

 孝景の嫡男は後の朝倉義景ことで1533年生まれで、1534年生まれの信長とはほぼ同年代に成る。

 その義景は孝景が41歳の時にようやく生まれた男子だったという。史実上幼少期の記録はほとんど残っていないようだが、幼名は長夜叉であったという。

 その長夜叉こと義景はこの1544年時点では11歳であり、吉法師はまだ10歳である。

 そんな次期朝倉家当主となる長夜叉の話を朝倉家臣団が持ち掛けた。

 

 「大殿(孝景)、そういえば長夜叉(のちの義景)様は最近、孫子を諳んじたとお聞きしましたが…」

 

 「諳んじているとは言っているが…まだ11を数えたばかりで愛読しているに過ぎないだろう。」

 

 「とは言え、あのような代物を愛読できるとは何とも末恐ろしいですな。」

 

 後の朝倉義景は博識という意味では優秀だったと言える。

 多くの作品では凡庸な人物に描かれるが、むしろ現代風の高学歴なエリートの典型と言っても過言ではないだろう。

 

 「まあ、勉学に熱心なのは頼もしい事は確かだな。」

 

 孝景にとって晩年の子ゆえにより可愛いのであろう。孝景は気分よくそう語った。

 そして孝景は信秀にも年の近い子息がいる事を思い出して、

 

 「ところで信秀殿のご子息も、ウチの長夜叉と年が近いと聞いているが…」

 

 無論、多少酔ってはいると言っても信秀は立場を弁えていた。

 自慢気に吉法師を立てるのではなく、むしろ話を盛って場を盛り上げることに徹したのだ。

 

 「ウチの嫡男は、勉学など全くそっちのけで遊びほうけております…いや長夜叉様がうらやましい限りですな…」

 

 そして更に場を盛り上げる意味で、

 

 「孫子などを読めと申し付けても、この言い訳が何とも大たわけでしてのう・・・」

 

 話し上手な信秀は少しタメを作って周囲の興味を煽るのであった。

 

 「はてさて、いかように・・・」

 

 信秀は周囲がそうして興味を示した事を確認して

 

 「それが…孫子なんぞ自分で考えるから要らぬと抜かしよったのですわ」

 

 すると周囲はその突拍子もない子供の言い訳を聞いて場は大いに盛り上がった。

 

 「ははは、それは何とも大それた言い訳かな・・・子供らしいというより大そうな大物ですな。」

 

 実情を知る林秀貞は寧ろ悩まし気な表情を浮かべていただろう。

 それ以外の者は吉法師のうつけっぷりに大笑いして信秀のネタを楽しんだ。

 孝景は寧ろ信秀の話の上手さに一目を置くのであった。

 その周囲の殆どが、信秀の口上のネタか、またはその大たわけぷりを楽しんだのだが…そこに朝倉宗滴ひとりは別な見方で興味を示したのだ。

 史実の資料としてこの朝倉宗滴が死ぬ間際に信長の行く末に興味を示していたという事は有名な話である。

 朝倉をその後亡ぼす事に成る信長で、まだ尾張の隣国というほどではない越前の宗滴が信長に興味を持っていた事はある意味不思議である。

 その宗滴の死は1555年で、桶狭間の戦いも終わっていない、また弟の決着も着いていない時分の事ゆえに、なぜ信長を気にかけていたのかという見識には些か不思議に思う点がある。

 

 先見の明とは些細な情報から直感的に派生するものを分析して見極めるものである。

 宗滴は信秀の口上であると知りながらも、むしろ信秀が冗談語ったその教育方針に何かを感じたのだろう。

 先の作戦会議で宗滴は信秀の才覚に一目を置いた。

 その人物が話を盛ったであろうと知りつつも、自分の嫡男に自らで考えるという教育を施していると考えたのだ。

 無論この時点ではそれが成就するという保証はない。

 宗滴自身が多くの戦を経験した事で、戦が書物通りに流れわけではない事を知っている。

 現代風にビデオゲームを題材にゲーム理論的な要素で伝えるなら、書物はその攻略法である。ビデオゲームの様にプログラム化された内容で進行する出来事ならそれで攻略することは可能だろう。

 しかし、一般的に使われるゲーム理論では、孫子の兵法で記された「兵は詭道成り」と同じで、現実社会は騙し合いの世界であり、そこに協調や協力の必要性を説いたものと成っている。

 いわばその中での判断力は、自らの思考力が試される場で単純に攻略法的な知識が試される場では無いのである。

 

 政治をゲームの中に盛り込むと、善良な言葉を吐くことが一種の攻略法的な要素として認識される。

 しかし、情報社会でマジョリティである人々の思考が偽善という言葉の有り方を意識すると、その善良な言葉だけでは意味がなくなるのだ。

 思考力の無い人間はこの攻略法に基づき、偽善を貫こうとするが、社会営利の関係でその偽善を暴こうとするものが存在したりすることでその偽善は淘汰されることにも成る。

 ゆえに思考力の高い者は自らが偽善になる事を避け、むしろ人間としての自然な言葉を用いてそこに説得力を込めるのである。

 いわば状況を適切に見極めて今何を伝えるべきかを把握してそこに言葉の重みを与えるのである。

 これは戦いの場に於いても同じで、状況を見極めて今何をするべきかで勝敗の行く末を有利に進めなければ成らないのだ。

 

 宗滴にとって朝倉の行く末を考えたときに、長夜叉が孫子を諳んじて喜んでいる事よりも、むしろ信秀の様に自分で思考させる教育の方が理想的であると感じた事が切っ掛けだったのかも知れない。

 

 故にこうした酒席での切っ掛けで信秀と宗滴の間で何らかの交友関係が生じて互いに文のやり取りがあったか、または宗滴自身の興味から様々な文化人を通じて義景と信長の成長を比較する意味でその情報を収取していたことも考えられるのである。

 

 もしこの加納口の戦いが1547年説に従っていれば、吉法師は13歳で、この話の筋書きとして、戦ごっこに明け暮れている事、または灌漑工事を齎した様な話が伝わって宗滴の興味を惹いたという流れも考えられる。

 しかし、ここでは1544年説としているため、それらの内容は後に宗滴が個人的に取得する以外、尾張と越前に接点が無くなるのである。

 

 こうして酒席を交えて信秀、宗滴二人の知将が理解を深めた形で越前と尾張の団結は強まったわけであるが…

 ここに道三の謀(はかりごと)が如何にして襲い掛かるのか…

 

 いよいよ加納口の戦いは決着へと向かうのである。

 

どうもショーエイです。

【修正版の理由】

加納口の戦いとされる加納口がどこにあるのか・・・

中々よく解らなかったため、最初は井ノ口の対岸と考えていた。

ところが…地図を見ると岐阜駅南東の名鉄線駅に加納という駅があるでは無いですか!!

 

それでも侵攻ルートの計算上では、長良川を挟んだ井の口の対岸が尾張越前の布陣する場所と考えます。

大垣から長良川を渡って今の加納駅辺りに布陣する場合、恐らく退路が断たれる危険性がある。

木曽川から北上して加納口に布陣した場合だと、むしろ道三の逆転劇は難しくなるのです。

 

加納口の戦いなのか井ノ口の戦いなのか名前が2つある所以。

こうした事も踏まえて形で考えて行く感じで構成していきます。

 

 

【修正前↓】

朝倉宗滴が死ぬ間際に、信長たまに言及していたという資料を目にしてかなり困惑しました。

本編でも書いたように、1555年に亡くなったとされる宗滴が信長たまの大成を予言していた根拠をどう辻褄合わせて考えるか…

実はこの戦いで信秀と宗滴が一緒に戦っていた資料が有ったのでここでの流れが切っ掛けだろうとは推測出来たものの、1544年説と1547年説とでは信長たまこと吉法師のエピソードに違いが生じるのでかなり悩みました。

1547年説ならもっと興味を惹く内容で宗滴に伝わったと思うのですが、どう考えても1547年説では無いと思うので1544年の時点である意味まだ良い子に近い吉法師にどう興味を持たせられるかで試行錯誤していたわけです。

 

さて…ウクライナ情勢…

既に3か月以上経過して、世の中もこの情報から熱が冷めてきた感が有ります。

ゲーム理論の中で少し語った状況の流れというのはこういう事も当てはまるのです。

戦争の優劣も、いささか変化しており、今後またどう変化していくのか正直解りません。

ただウクライナが巻き返すとか、ロシアが圧倒するという予測を立てるのは寧ろ愚かしい人のやる事で、自分に主導権のない出来事に対しては柔軟に見極める必要性があると言えます。

 

その中で違和感を感じる点は、ロシアが最新兵器の投入をまだそんなにしていない事。

背後に潜むNATOや米軍の情報収取を警戒しての事なのか、それとも技術的な事情で出来ないのか…

いわば後者の可能性を予測してウクライナが巻き返すと考えると、前者であった場合、その思考は後手に回ります。

逆にここまでの流れではロシアの作戦実行力が機能しなかった点が明白と成って事ですが、今後ここが修正されてくるのかは考慮しなければ成りません。

また兵の士気に関しても、意外とここまではモロかった印象が有ります。

ただ、そのことがNATO諸国に馬鹿にされていたことでロシア兵がどう考えてくるか…悔しいという気持ちを抱くのか、それとも諦めムードが漂うのか…正直ここも解りません。

 

当方はここまでロシアを過大評価して考えていた感が有りますが、それは結果です。

ウクライナを過小評価する感じでは考えていなかったので、いわば現状ウクライナにとってロシアに脆さが有ったのは運が良かったというだけの話です。

 

今後の展開もロシアの脆さが浮き彫りに成ればウクライナはいい形に展開すると言えますが、その脆さが修正されてくるとまた展開は変わります。

 

ニュースなどでは英軍の見解が良く出てきて、米軍の見解はあまり出てきてません。

英軍はロシアが脆いという点を指摘してウクライナが優勢に成る事を主張してますが、米軍は一応ロシアを過大評価して見続ける感じで考えているようです。

 

さて…兵は詭道成り

常に敵を過小評価して見ようとすることは、その過小評価に謀略があった時に予測しなかった奇襲を食らうのです。

いわば敵を油断させていた場合です。

過大評価をすることは常に相手がやりうる事を想定して考えます。

故にその警戒を越えた奇襲でない限り、そこに対処することはでき、また奇襲を受けた場合でも被害を最小限に止められます。

ここは現状でロシアがウクライナを過小評価していた可能性で考えられる部分で、ロシアはウクライナの反撃で大打撃を食らった感じです。

 

情報を過信して過小評価することは、それだけ準備の費用も時間も抑えて対応できる分、ある意味労力が抑えられます。

誰もが最小限の労力で戦いたいと考えるのは人間の嵯峨です。

逆に過大評価をして挑む場合、むしろ無駄なこともしなければ成りません。

この無駄なことを嫌う人が多いので、出来る限り情報収取を信じて対応しようと考えたくなるのです。

ところが予測と違って混乱してしまうのは前者の方で、後者はあらゆる予測に対応している分、混乱せず冷静に対応できるのです。

ここで実は大きな差が生じることを「兵は詭道成り」の一文に盛り込まれているのです。

 

無駄な労力に兵力を割けるように大軍を維持しておきたいわけで、ウクライナに対してロシアはまだそれが可能であるのです。

寧ろウクライナは無駄な兵力を割ける余裕がない分、そこを抑えて戦わなければ成りません。

ところがロシアをウクライナが過小評価する事は、こうした状況に博打的な奇襲で挑みがちに成ります。

その奇襲が運よく成就すれば良いのですが、運悪く失敗した際にはそこで貴重な兵力を損失します。

 

歴史的な評価では、織田信長も諸葛亮孔明も奇襲をあまり用いなかったとされてます。

実は相手を過小に考えて戦うことを嫌い、むしろそれで失敗した際のリスクを恐れたのです。

 

ただし…

これはブログで何度も書いた内容で、魔仙妃の言葉として伝えている事ですが…

 

「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げて実行する事、これ奇策なり」

 

と、いう言葉です。

いわば奇襲も確実に成就すると判断できるものなら実行するのです。それだけ用意周到に準備とタイミング見計らって実行するものであると伝えておきます。

うつけの兵法では、これが桶狭間の戦いに用いられるわけですが、果たして桶狭間は奇襲になるのか、それとも正面突破だったのか、その実態を期待しつつ是非ご覧いただければと思います。

【第二十八話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】後編

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕

 

 

信秀の大垣攻略の出来事は、吉法師元服の3年前出来こどで、1544年の事であった。

 大垣を攻略した信秀軍は、そのまま主力を北上させて越前の朝倉と揖斐城で合流してこれを攻めた。

 既にもぬけの殻状態だったが、信秀も朝倉孝景も敵が素早く引いたものと判断した。

 一方の道三は稲葉一鉄に授けた計を悟られぬように、別動隊を用いて大垣へ進軍させた。

 その大垣から信秀の元に敵が現れたという報が届くや、信秀は揖斐城の部隊が切り返して大垣に向かったものだと確信したのだった。

 信秀は揖斐城からすぐさま大垣に戻ると朝倉方に伝え、部隊を再び大垣に戻した。

 朝倉方はそのまま揖斐川下流へと進軍し、支流の根尾川と合流する三角州までの攻略を目指した。

 

 信秀が大垣に戻ると、道三の別動隊はすぐさま大垣から離れて後退してしまう。

 この時点で信秀は道三に何らかの計略があるのでは察した。

 明らかに大垣に誘導された形に感じたからだ。

 道三の計をしる読者の目には、稲葉一鉄が潜む揖斐城付近のことは周知だろう。しかし、この地域の地形を見ると更に別な警戒をしなければ成らないのだ。

 いわば朝倉方が侵攻しようとする揖斐川と根尾川の三角州部分の警戒で、この根尾川の上流はまだ道三の手にあった。

 根尾川上流からの川の決壊は、そのまま揖斐川を伝って大垣にも被害を及ぼすのであった。

 無論、朝倉孝景も名将として名を遺すほどの人物ゆえに、地形を見てすぐさま根尾川上流の警戒に部隊を動かした。

 信秀が大垣に居た敵部隊がすぐさま撤退したという報を、朝倉方に知らせるや、

 

「既に対応した、現状大垣にて備えられよ」

 

 と、回答してきたのだった。

 孝景は三角州への進軍でその北側にある現代の大野町にまで進んだが、その本隊を一旦現代の揖斐川町まで退いて陣を構えた。

 どうやらここら辺に清水(きよみず)城というのが存在しており、資料によれば1356年~1557年まで存在したと成っている。

 そして斥候部隊を根尾川上流に向かわせて、その状況の掌握に努めたのだった。

 

 この戦いの資料として現存する内容は、基本信秀が大垣城を攻略しそのあと揖斐城を攻略したといった内容くらいしか残っていない。

 それらの内容を吟味して、当作品では地形からそこで生じる戦略や戦術を計算し、細かい郷土資料等を参考に辻褄を合わせていく形で表現している。

 

 朝倉が現代の揖斐川町の清水城(清水古城)に入り、信秀が大垣で陣容を整えた時分は1544年5月ごろと推測する。

 朝倉が斥候を放って、根尾川上流を探索すると現代の岐阜県の樽見鉄道に沿って下流から、本巣、織部、木知原、神海、高科などに美濃側の拠点があったと推測し、最終的には高科辺りまでを攻略して根尾川上流の峡部に土塁などを用いて堤防を設け、それ以上からの川の決壊を防げばという形に成る。

 

 一方で笠松で対峙している尾張と美濃両軍は木曽川を挟んで膠着状態が続いていた。

 おおよそ半年以上も大きな動きを見せていない。

 犬山方面の可児地方との状況も大きくは動いていなかった。

 また、揖斐城付近で潜伏している稲葉一鉄は、尾張と越前がまだ掌握していない大垣以西の地から秘かに補給を受けつつ、時をしのいでいた。

 ところがここで道三側に思わぬ伏兵が登場してきたのだ。

 伏兵と言っても兵でも軍隊でもない。

 寧ろ政治的な伏兵である。

 それは朝倉方に保護されていた土岐頼純と尾張側に保護されていた土岐頼芸の存在であった。

 

 元々頼純と頼芸は土岐家の家督相続が元で争っていた。

 道三が美濃を簒奪できたのはこうした状況あってのものであるが、土岐家を全て取り除いた事で、むしろ土岐家を団結させてしまったという形に成った。

 この土岐家の団結が、越後と尾張を動かす形と成ったのは言うまでも無い。

 しかし、美濃に於いて道三のカリスマ性はそうした状況下でも支配するのに十分に機能していた。ある意味その才知が美濃の将来的な安定を齎すのならという意味で土岐の家臣団らもこれに従っていた訳だが…

 ところが信秀が大垣を落とし、そして朝倉が揖斐城(揖斐北上城)を落として美濃平野部に侵攻してきた状況で大きく流れが変わったのだ。

 道三は戦略上、揖斐城を捨てる形を取った。

 更にはここが政治的な起点に成ってしまう事は寧ろ見落としていたと言えよう。

 

 朝倉孝景は先の1519年の土岐お家騒動で、頼純の父、頼武を伴って美濃に侵攻している。その際には土岐頼芸を破って土岐頼武を守護に着かせている。

 敗軍となった頼芸に付き従っていたのは、斎藤道三の父、長井新左衛門厨であった。

 最近の資料では、松波庄五郎という司馬遼太郎氏の「国盗り物語」の道三前半生で描けれた人物は、実はこの父・長井新左衛門厨

であったということで定説化されているらしい。

 いわば、道三の出世物語は親子2代に渡っての話だったという事に成る。

 1525年、土岐頼芸は再び美濃の守護職を奪還するべく挙兵した。

 これが道三の父・長井新左衛門厨の画策であったのか、当時30か20歳であった道三こと長井規秀の画策であったかは解らないが、いわば美濃の支配を狙って自らの出世の糸口とした事は十分に考えられる。

 道三親子には油商人という肩書も有った。

 いわば大きな財源を持っていた訳で、こうした財源を活用して美濃の頼純派を買収するなどの調略で功を上げたと考えられる。

 1527年には頼純が居城とした革手(川手)城を急襲してこれを奪いとり頼芸をそこに招き入れている。

 こうして1530年までには頼純を追放し、頼芸を見事に守護職に復権させたのだ。

 1530年までか、1533年には道三の父・新左衛門厨が亡くなっているという事もあり、こうした軍略の功績は恐らく長井規秀こと道三の手柄であったと考える。

 この時、道三の主家筋に長井長弘という人物が居た。

 多くの歴史小説では、この長井長弘は道三によって殺されたとあるが、資料上では懐疑的なものが多々残っているという。

 寧ろ、長井長弘は道三の父・新左衛門厨を重用して、その背後にある財力を充てにしていたと考えるべきで、その新左衛門厨の子に稀代稀な軍才の持ち主である規秀こと道三が居たのなら、これを我が子の様に溺愛した可能性は高い。

 後に道三は実子の義龍より、娘婿の信長を溺愛する形と成る。

 それは寧ろ自分の出世過程に照らし合わせて、当時一般的には不条理とされた考え方も良しとする心理が働いたと言えるのだ。

 逆に不条理な行動故に、美濃国人衆の分断を生んでしまったともいえる。

 とは言え、そういう流れを察すると、長井長弘の溺愛を受けた規秀は頼芸の第一の補佐としての地位も譲り受ける。

 兄頼武側に着いた斎藤利良から守護代職を受け継いだ斎藤利茂は、長井規秀(道三)らに守護所の福光館を奪われ、更には居城の稲葉山城も攻め取られて、実質その地位をはく奪された。

 その為、守護代職を規秀(道三)に引き継がせる為、頼芸は関白近衛種家の庶子(側室の子)を招き入れ、規秀の養子とした上で守護代斎藤の姓を与えた。

 ある意味規秀の身分が守護代として申し分ない形と成るように頼芸や長弘が手配したものである。

 これにより道三は斎藤利政と名乗る。

 道三が斎藤性を名乗るには諸説有るようで、無論前述の通り長井長弘を暗殺した説なども登場するが、頼芸の信頼を得ずして守護代の斎藤姓を得るにはかなり無理が生じると考えるべきである。

 また1538年に斎藤利良の死を受けて斎藤利政と名乗ったする説もあるが、実は利良は頼純派の人間で、頼芸と頼純の和睦が成立するのが1539年であるとするなら、その経緯に矛盾が生じるのである。

 また当時の道三の身分で関白近衛氏との関係があった事は逆に疑うべきで、むしろそれほどの繋がりは土岐氏の名前が無ければ成立しないとも言えるのだ。

 こうした過程を精査すると、道三は寧ろ頼芸の軍師として長井長弘らに招かれた様な形が一番腑に落ちるのである。

 また、そういう軍師的なカリスマ性があった故に、土岐家を排除した後でも美濃の実権を掌握できたと言える。

 よって1535年までに道三は斎藤姓を得て頼芸復権に貢献した功績から守護代職を一度得たと考える方が適切である。

 近衛種家の庶子で道三の養子となった斎藤正義の経歴から逆算すると、ほぼ1532年にはこの流れで斎藤姓を名乗っていると考えられる。

 

 1535年美濃で再び劣勢となった土岐頼武の子頼純を支援するべく、頼純の外戚に当たる朝倉孝景は美濃に侵攻した。

 更には近江の六角定頼もこれに加わり、頼芸を主とする道三は苦境に立たされた。

 六角、朝倉、土岐頼武は明応の政変で将軍足利義尹(義稙)派に属して細川高国を支援して義澄派の細川澄元と戦い、高国の京掌握に貢献した間柄である。

 しかし、1526年にはその高国も澄元の子、細川晴元らに反撃され1530年には形勢が再び逆転してしまう。

 道三ら頼芸派はこの畿内の動乱に合わせて挙兵したと思われ、晴元と連携する形を取ったと思われる。

 この間、朝倉も六角も畿内の動乱と更には一向一揆の対応に追われて動けずにいた。

 1532年には細川晴元と足利義晴が和睦する。

 和睦は一向一揆に対する利害の一致で、これにより晴元と六角定頼の対立も解消された。

 頼武の子、頼純は朝倉孝景の妹の子にあたり、その縁もあって孝景は朝倉景高を美濃の援軍を送った。

 1535年当初は六角定頼もこれに呼応して美濃に攻め入るが、斎藤利政こと道三は見事にこれを退けている。

 孝景も定頼も当時としては名将でこれらの連合を凌いだ道三の手腕は美濃に留まらずその名声を得たことに成る。

 おそらく揖斐城で北からの朝倉勢を退け、関ケ原から大垣に掛けて六角勢との攻防を繰り広げたと考える。

 そしてこの戦いで美濃国人衆の一体感を見事に纏め上げた道三は、守護代として美濃の救世主となる地位を固めたのだ。

 この間に六角定頼は比叡山延暦寺の要請で京の法華一揆に加担している。

 美濃での苦戦と新たに京で起きた騒動に挟まれた六角定頼は頼純に従っていた前守護代の斎藤利茂を囲って、頼芸と和睦を結んだ。無論そこには細川晴元と連携していた関係もあってか、足利義晴から頼芸に美濃守護職の任官を受けたことも関係していると言える。

 そこで定頼は頼芸に娘を娶らせた上で、自分の傀儡となる斎藤利茂を守護代にすることで和睦とし、逆にこの戦いで美濃での影響力を拡大させた斎藤利政こと道三の地位を奪おうと考えたのだろう。

 結果、美濃侵攻は朝倉方が単独で残る事となり、揖斐城で苦戦を強いられたまま最終的には1539年に頼純が頼芸と和議する形で終結したのだった。

 

 美濃の頼芸の臣下は、ここまでの見事な采配を振るった利政こと道三に心服していたのだろう。

 先の六角との和睦で守護代に返り咲いた斎藤利茂には、こうした家臣団がむしろ不信感を抱いていたのが大半だったことも想像できる。

 いわば新たに守護代と成った利茂は、頼芸の為に戦った同士では無いからだ。その意味で真の同士は道三こと利政であると意識される。

 道三を題した小説では、様々な悪説が登場する。

 実はこうした悪説は道三が美濃を乗っ取ったことから派生した後生の創作である可能性が高い。

 1541年に土岐頼芸の弟頼満を毒殺したという事で道三と頼芸は仲たがいに成ったように書かれている。

 しかし、あからさまに悪逆非道に走った人物が主君を排除してまで美濃一国を維持するだけの信頼を得るとは考えにくい。

 そこで、ここでは寧ろ六角との和睦で守護代に返り咲いた斎藤利茂を原因とすることで自然な形で成立すると考えるのだ。

 いわば、頼芸が守護職に返り咲く中で、道三が中心的役割を担いそれを導いたのは疑う余地もなく、その功績が頼芸を補佐する同士たちのリーダー的存在になるのだ。

 そうした中で、突然、政治的な事情で守護代職を得た利茂を寧ろ排斥するべき動きが出てもおかしくはない。

 いわば本来その利茂は頼純側のリーダーなのだから。

 その反対側の人間が自分たちの上に居る事は、その都合で自分たちの地位が危ぶまれることを心配せざるを得ない。

 いわば頼純派の人間を重用し、利茂が守護代としての地位を安定化させようとする事も考えられたからだ。

 1541年の頼芸と道三こと利政が不仲となった出来事は、むしろ斎藤利茂が守護代としての地位を盤石にする意味で、利政(道三)派の家臣を排斥した形で始まったと考えた方が自然である。

 そうした出来事に守護代利茂の謀略で頼芸の弟頼満を毒殺または暗殺し、その首謀者が利政(道三)派の人間であったとした事件が後世の伝承として残った事も考えられる。

 その結果、その謀略に利政(道三)派の家臣団が怒り、最終的に守護代利茂は襲撃されてその職をはく奪された。

 そして事の事情を把握していない頼芸はその事件の首謀者が前守護代の道三が企んだことと疑った。

 頼芸が事実、無能という評価の通りなら適正な情報収取が出来ず勝手な憶測から判断してしまうことも考えられる。

 いわば自分が美濃の守護であることを驕り、臣下の事情は考慮しないのだ。また様々な思惑が錯綜する事を理解もせず安易に一方的な諫言であり、むしろ六角との和睦の意味で自身の保身を優先させて考えを纏めてしまったのだ。

 無論、無能とは言っても馬鹿では無い。

 頼芸は一応の配慮として守護代は斎藤利茂でも、実際の美濃の運営は利政こと道三に任せていた。なので美濃の政治的には問題無いだろうと考えていたのだ。

 勿論、道三こと利政もそこに不満は無かったとしよう。寧ろ有能であるがゆえに内心とは別に表面上では全く不満を出さなかった。

 しかし、その下の者たちは自分たちが認めた人間が守護代職に無い事に不満であり不安を感じるのだ。

 そうした心境を理解できていない頼芸は無能…というより普通のは中々そこまで気が回らないのが当然である。

 勿論、頼芸の元に度々そうした要望が届くことが多々あったが、自己の判断を過信するのは人間の嵯峨で、道三こと利政に実質任せているのだから心配は無いとしていた。

 寧ろその事が逆に本来守護代職にある利茂の動機となったと言える。

 頼芸は利茂には地位を与え、利政には実権を与えているのだから双方に不満があるはずが無いと信じていた矢先の出来事である。

 この状況下で頼芸として事件を精査したところ…利茂の実権が無く地位のみ不満を抱いての犯行か、利政の実権と地位が伴わない事に不満を抱く犯行かで天秤に掛けたのだ。

 そこで頼芸は人の強欲を疑い、利政こと道三を首謀者と考えた。

 無論、天秤に掛けて際に悩むところであるが、結果が利茂が襲撃されたという事情であり、自身の弟が何者かに殺されたという事を踏まえて、最終的にそちらに傾いたと言える。

 

 自己の地位が盤石なものと考えていた頼芸は、自らの采配がそうした家臣団に理解されることを信じて道三こと利政を追放する決断をした。

 ところが寧ろ事情を知るその家臣団は美濃の英雄である道三の追放より、頼芸を追放する方を選んだ。

 

 昨今のメディアでも歴史資料でも、カリスマ的に野望を為しえた人物への評価を野蛮な思考で考えるケースが見受けられる。

 こうした見方をもっと合理的に考えるべきと筆者は伝えたい。

 

 国主とも言うべき守護職の土岐頼芸から国を奪って、道三がそのまま国を引き継げた事実を踏まえるなら、強引で周囲の理解を得られない方法ではその後が上手く機能しない。

 寧ろ、悪逆非道な手段で国を簒奪した場合、国の内乱はその地位を危ぶむレベルで発生する。

 道三の場合、この直後に越前朝倉と尾張が攻め入ってこの戦いを繰り広げる事に成るのだが、国としての結束が齎されない事情ではそれらを凌ぐ力は無いと言える。

 そうした事情が何故避けられているのか?

 ここを合理的にもっと深く考えなければ成らないのだ。

 

 そういう前後の事情を精査すると、むしろ流れはこうした道三を支持する家臣団のクーデターだったとする方が解りやすい。

 いわば、道三の指示は関係なく、家臣団が美濃を道三に任せるべく土岐頼芸を追い出したとする方がいいのだ。

 逆にそうした流れで道三にクーデターをと薦めた流れで、道三がそれに応じて反乱を起こしたとする方が纏まって見えてくる。

 ただし、内実を伝えきれない後世の評価としては、道三が美濃を簒奪した結果としてしか伝わらないと言える。

 

 そして話はその後戦いが膠着した1544年中ごろの話に戻る。

 美濃の国人衆が道三を立てて起こしたクーデターであったが、それは美濃の中枢を担う者たちの反応で、各領地を治めていた者たちは寧ろ道三にそこまで心服していたとは言えない。

 ただ国主が頼芸から道三に代わって、長いものに巻かれろで無難に従っていたという状態である。

 そこに尾張が大垣を支配し、越前が揖斐を攻略したという形勢に成ると、道三よりも前領主の土岐に従った方が安泰なのかなという、ある意味姑息な心理が生じてくるのだ。

 朝倉方が根尾川上流を攻略していく際に、この土岐氏の名前を用いた。ある意味美濃でも辺境の地の豪族が支配していた地域故に、これらは簡単に寝返った。

 また、信秀も大垣付近の豪族の調略に頼芸の名を用いた。

 ただ、この地には道三に心服する者も多く、完全に寝返らせるには至らなかったが、信秀が安定して大垣を維持する上では程々にこの地域を分断出来たと見る。

 

 一方、本来頼芸と同盟関係にあるはずの六角定頼だが、前述の通りこの時期浅井家と争っても居た。

 それ故に越前からの朝倉は近江を通過できない。

 資料として近江との関係は定かではないが、道三が浅井を支援することで六角の牽制としていた可能性は高いのだ。

 とは言え、根尾川の寝返りと、大垣周辺の寝返りに道三は焦った。

 無論、土岐を追い出してから時は浅く、そうした豪族たちを掌握するには時間が無かったと言えよう。

 ただし、あらかたそういう状況に成る事は想定していたが、実際に生じると心情は定かではなくなる。

 いわばどれだけの豪族が寝返っていくのか、不安に駆られてくるのだ。

 そこで気がかりに成ったのが犬山と接する可児郡の方面である。

 可児郡は明智氏の方が有名で、実際に森氏が当時この付近を治めていたかは不明だ。可行の子である森可成の出生地で言えば尾張本隊と対陣している笠松がその場所に成る。

 ただし、森可成が後に所領としたのがこの可児郡で、むしろ先祖代々の地を信長から与えられたと考えても良い。

 また土岐家の家臣という立場では、明智氏同様に森氏も美濃に土着した源氏の名門であった。

 さらには土岐頼芸を擁して頼純と戦った時期に、武勲を上げていた年齢でもあるため、そうした信頼もあってと考える。

 そうした家柄とその子供の可成が実直な性格であったと同様に可行もまたそういう人物であったと考え、道三の信頼も厚くこの地の指揮官に据えたと考える。

 因みに光秀の叔父である明智光安の可能性もあるが、光秀の父光綱が1535年に死去しており、光秀の後見役でしかない光安に重責を与えるかは不明である。

 よってここでは森可行が道三の元を出奔する流れで進めるものとする。

 

 森可行(可成の父)は道三と仲が悪かったと記されているが、そこは定かではない。実際にこの可行に関する資料はあまり無いのだ。  

 ただ道三からすれば土岐家代々に使える家柄で、信頼はしているものの内心ここが寝返ると困ると考えた。いわば土田にある堰が奪われると、笠松から尾張本隊が雪崩れ込んできやすくなるからだ。

 その実力は認めるものだが状況が状況だけに不安にも感じるのだ。

 そこで道三はここの指揮権を斎藤正義に任せることにしたのだ。

 この斎藤正義は道三が斎藤姓を名乗る際に、関白近衛種家の庶子を養子とした時のその子で、1537年この可児郡に鳥峰城を築いている。

 この鳥峰城は後に森可成がこの城に入って金山城とした場所で、犬山との境よりもっと木曽川を東奥に進んだ所にあるが、この地域を支配する拠点として何らかの意図で設けられたのだろう。

 

 一方の森可行は栗栖と接する土田城の土田源太夫や、明智城の明智光安と連携して織田信康率いる犬山の部隊相手に実に良く戦っていた。

 特にこの辺りは山々に囲まれておりゲリラ戦を展開して戦うにはうってつけの場所だ。

 しかし、善戦しているとはいえ、明智も含めて元々は土岐の家臣たちだ。明智に関しては、濃姫の母親である小見の方を道三の正妻として差し出しているとはいえ、それでも安心できるとは限らない。

 それだけ西美濃が次々と寝返っていった状況は道三にとって色々な猜疑を感じさせる事態なのだ。

 勿論、可行はそうした背景も察しつつ、それでもここで功績をあげて道三の信頼を勝ち取ろう奮闘していた。

 実直であるがゆえにむしろ頼芸が追放受けたことに対して、道三のそれまでの献身に対する頼芸の扱いが理不尽に感じ、道三の美濃簒奪に同情したとも言える。

 しかしここで鳥峰城の斎藤正義に指揮権が移ったことで可行はその信頼から外されたことを理解し道三に失望した…と、言うよりもむしろ可行自身が道三から警戒されたことを悟りこの戦いのあとで粛清の対象にされるのではと察したのかもしれない。

 この可行から引き継げれる森家の信義の精神を考えるなら、ここで敵である尾張に寝返ることは許されない…その上で森家を守るという決断の中ではここで出奔してどこかでひっそりと暮らすことを選んだのだろう。

 筆者は信長同様にこの森家を信義の塊と考えている。

 その理由は多妻が許された時代にあって、可行の子である森可成りは一人の妻のみを愛し続け側室を設けなかったほどだからだ。

 こうした精神は時代が時代ゆえに人を大事にする気持ちが無くては成り立たない。そこを信長は見ていたと考える。

 ゆえに信長は可成の子供たちにも信頼を置き、特に森蘭丸を我が子の様に溺愛して用いたことを意味するのだ。 

 

 可行から引き継いだその斎藤正義は傲慢な人物であり、後に家臣に謀殺されている事から危うさを感じるところがある。

 しかし、かれの元服の時から共にしている日根野弘就など優秀な家臣を道三は宛がっており、これをよく補佐していた。

 その為、可行が抜けた後もここの守りは上手く引き継がれたようである。勿論明智や土田といった土着の者たちも引き続き良く戦った。

 更に道三は、犬山から木曽川を挟んだ鵜沼に後の美濃三人衆の一人氏家直家(卜全)配置し、更に笠松には安藤守成といった若手を中心にその守備を任せた。

 美濃三人衆、稲葉一鉄、安藤守成、氏家卜全といった人物が道三の信頼を勝ち取ったのはこうした戦いでの功績があってのことで、恐らく状況から妥当な配置を考えればこうした布陣になると思われる。

 道三からすれば熟練の者たちを外して、新しい時代を担う若い者に思い切って世代交代させる形でこの難局を乗り越えるかんがえだったのだろう。

 大きな賭けでもあるが、敵の調略に落ちることこそより事態を危うくするのだ。

 

 その一方で大垣付近の西美濃一帯は大きな動きが生じた。

 朝倉方の名将朝倉宗滴らが美濃赤坂(大垣の北西)で道三の軍を破るなどの功績で一気に戦況が動き、そのまま一気に揖斐川を渡り、稲葉山城下から長良川を挟んだ所まで迫ってきた。

 この長良川を渡って稲葉山城が包囲されると、木曽川で食い止めている笠松の部隊は逆に挟み撃ちされる。

 

 こうした緊迫した事態を冷静に考える能力があるか無いかで最終的な結末が異なってくるのだ。

 古参のもの達を信頼して守り抜くべきか…

 彼らが寝返る可能性をあらかじめ警戒するべきか…

 いずれの判断もその決断で副作用が生じるものであり、実質正解は無い。その正解は決着のついたあとのみ解るものだ。

 事態はより敵に寝返るものが続出するだろうことを道三は悟っていたのだろう。その為、本拠の稲葉山の周辺には命がけで自分を支持するもの達を配置し、古参の者たちはその中心から外れたところへ移動させ、仮に寝返る者が出ても稲葉山の包囲に影響が出ないようにと考えた。

 

 そしてこの戦いは史実で記録される「加納口(井ノ口)の戦い」へと移るのである。

 この戦いの日付は1544年10月8日説と、1547年11月4日説と分かれるが、この物語では1544年説を採用した上で話を進めるものとする。

どうも・・・ショーエイです。

4月の時点で大方の内容は完成していたのですが…

加納口の戦いまで盛り込んで投降するかで迷ってました。

その間に…裁判の件やらの動きもあって…

正直頭の中はパニック状態。

 

ウクライナの件も無力ながら色々と思う所もあり…

結局、加納口の戦いは次号にという形で

今回の投稿とすることにしました。

 

さて…ウクライナの情勢です。

多くの人がロシアの残虐性を非難する意識で見られています。

情報が錯綜する中では、

どちらか信頼する方を信じるのは

当然の成行と言えばそう成ります。

 

ただ・・・少し考えて欲しいのは、

戦争状態が継続する限り、

情報から出てくるこうした

一般的には残虐と思われる事態は継続します。

それに対抗する戦略として、

ロシアに侵攻を諦めさせるため、

ウクライナの抵抗を支援するという意見も有りますが…

根本から戦争被害を残虐な行為としている中で、

戦争状態が終わらない支援をしているだけの話は、

寧ろ残忍な発想なのではと思うのです。

仮にロシアが侵攻を諦めるとしても、

あと何か月、または何年掛るのという事です。

 

前回に書き記した

哲学…ウクライナ紛争で得た教訓とその和平への道。 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

これも参考にしてもらえたらと思います。

 

ここに記した哲学⑩では、

戦争はどちらかが負けを認めるまでは終わらないもの

と、説明してます。

いわば当事者の心理として、

ウクライナが先ず負けを認めるか?

ロシアが負けを認める状況にあるのか?

双方が現状で負けを認めることは有りません。

これに対して、

バイデンとボリスまでもプーチンに負けを認めませんし、

プーチンもバイデンとボリスに負けを認めません。

 

よって…ロシアをどれだけ非難しても、

ウクライナの状況をウクライナ寄りでロシア不利と伝えても、

何の解決も成らない情報なのです。

 

そこをはき違えてどれだけ議論しても…無意味です。

 

なので…ロシアがあとどれ位の期間、戦争を継続させれるか?

適切に分析し、

ロシアの狙いが11月の中間選挙までは

負けを認めないだろう心境は察した方が良いです。

11月の中間選挙まで、

ウクライナ問題が何も解決への進展を見せないのなら、

先ず、バイデン政権の無能さは米国民からの判断を受けます。

その無能さを隠す意味で、バイデン民主党政権は、

一生懸命ウクライナ問題が

戦争として継続する状態をサポートするでしょう。

 

ある意味、米国民がバイデン民主党政権の無能さに気づき、

この冷戦時代の思考を残した残飯を捨て去れば、

プーチンの戦いの本命との勝敗は一応は決着します。

 

仮に米国民が残飯を残した状態を選択した場合、

プーチンが負けを認める内容では無く、

寧ろ別な形で勝負を挑むだけの話に成っていきます。

逆にロシアでプーチン政権が倒れる事態が発生したなら、

その時はプーチンの負けが確定する訳ですが…

世界がここまでロシア人という人々を

あからさまに非難した状態で、

ロシア人がそういう負け方を選択するのも

難しいのではと思います。 

 

実は…ウクライナの軍事力…

報道では何だかショボい感じで伝わってますが…

何気にフランスに次ぐレベルで、

欧州ではそこそこ高いレベルなのです。

 

現状、勝敗の行方は、このウクライナでの戦況次第です。

実はロシアが苦戦する状況は当然と言えば当然なのです。

それ故に双方に更なる犠牲者が出続ける。

 

これが…信長の戦いだったら…

ロシアは当初、占領を焦って市街地に攻撃を仕掛けました。

それをやればロシア側に犠牲が出るのは目に見えてます。

城攻めの怖さはそこに有ります。

信長なら包囲した状態で、炙り出し戦術を取ります。

兵糧攻めをされる側は備蓄が乏しくなって来れば、

自然と包囲を解く戦術に出てきます。

 

例えるなら…キエフを攻略するのに、

周囲の街を包囲して、敵がそこに援軍を送ってくるのを待つ。

その援軍が来る戦いに網を張って待つのが得策なのです。

局地の戦いでは防御を固めている方が強いです。

故に市街地を守る方は強く成ります。

どの様な状況でも防御の固い方に

攻撃を向けては不利に成ります。

ロシアはキエフ事態を包囲する事焦って、

寧ろその周囲の街の占拠を焦ったのかも知れません。

そこはウクライナを過小評価した結果と言えます。

 

援軍が来れば挟み撃ちという事にも成りますが、

援軍に備えて援軍側に対応していれば、

実はその援軍側は侵攻するのと同じで、

防御面では弱く成ります。

なので戦術的に削るという表現に成りますが、

削るのは防御を固めた方より、

援軍に来る側の方がはるかに削りやすい。

 

その上で、市街地への無駄な攻撃は避け、

相手が包囲を突破しようとする動きにだけ備えていれば、

民間への直接的な被害は極力避けれた。

 

そういう戦略でロシア軍の統制が為されていたのなら、

戦況は別物と成り、ある意味ウクライナ人たちの心の抵抗も、

些か緩和されたかもしれません。

 

4月頭くらいにこの状況が失敗している事を感じ、

その時点でロシアの人道的な戦略は無理と感じました。

ただ、哲学⑩で述べた様に…

戦争はどちらかが負けを認めなければ終わらないので、

普通の戦争=ガンガン攻めたて被害を与えるだけの戦い

に成ると伝えたのです。

 

現状ではウクライナ人たちの

ロシアに対する心の抵抗は分厚いものと成ってます。

恐らく個人個人が降伏することも認めないでしょう。

そういう状況下では、戦況を有利にと考える意味では、

ロシアがそこまで人道的な配慮を意識しなくなるのも当然です。

これが戦争なのですから。

 

それをどれだけ残虐な行為だと非難しても、

今と成ってはただ単にロシアに「負けを認めろ」

と言っているだけの意味でしか伝わらなにので、

ロシアがそれを真に受けて感じることは無いと

心理学上の解析で述べておきます。

 

双方がそういう形で戦いを意識する状態に成った以上、

人道的にどう導くかも無力な話で、

この戦いを止める事にも無力です。

 

既にロシアはウクライナへの過小評価は改めていると思われ、

更なる激戦化は予想しなければ成らないとも言えます。

 

人道的に今出来る唯一残されている方法は、

投降するウクライナ市民の扱いを

ロシア側と協議する事くらいです。

いわばロシアが投降したウクライナ人をどう扱い、

彼らの身柄をどう引き受けるのか。

この戦いに関係の無い所で、

ウクライナの投降者たちが再び関わらないという形で、

その人権と人命優先で交渉を進めることが求められます。

 

いわばロシアが受け入れる所で交渉を纏めなければ成らず、

ロシアが信頼して順守する状況で無ければ意味有りません。

何れにしても難局な話ですが…

纏められない状況が続く限り、

包囲されている中の市民は死ぬだけです。

ロシアを非難しているだけの人は、

無力にそれを見殺しにしているだけの事でしかない事を、

先ず気付いてほしいです。

事が進んで見殺しにした上で、ロシアを非難して、

その人たちを結果救えたのですが?

 

ここを考えてロシアを非難するだけの人たちが、

ロシアと協議できる役割を担えると思いますか?

逆にロシアがそういう人の話に

猜疑を抱いて見るだけと察した方が良いです。

いわばロシアは自分たちを戦況で不利になるように陥れる

策略としてしか見ないからです。

 

本来なら中立を維持する国々がこうした役割を担うべきで、

フィンランドでありスウェーデンの様な国も、

NATOの加盟に考えを寄せなければ、

こうした役割を維持できたはずなのです。

日本もそういう役割を維持できた方が、

本当に平和を愛する国として評価されたのでは…

 

平和ボケした人たちは、

冷静に自分がどういう役割で貢献できるかも、

戦争という残酷な現実を目の当たりにして混乱するのでしょう。

 

まあ、平和ボケという揶揄した表現にしてますが、

ほぼ90%の人類がここに陥るわけで、

ある意味マジョリティな状態なのだから、

周りがそれを平和ボケと認識しないのなら、

誰もそれを平和ボケと認識せず、

少数派の心理分析で冷静かつ戦略的に考える人達を

寧ろそう呼んで非難するのです。

 

もう、やっぱり・・・一回死んでみる?

頭が痛いほど悩ましい…人類本当に大丈夫か?

【第二十七話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】中編

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+5

〔ドラフト版〕

 

 信秀が道三の稲葉山城を包囲した加納口の戦いは、歴史の資料上では1544年と1547年の説に分かれている。

 この2説の存在を考慮して、この尾張・越前連合と美濃の戦いは1542年から1547年まで続いた戦として取り扱うものとする。

 5年の歳月とは長い様な話だが、停戦や膠着状態が発生する状態と成れば当然の年月と言える。

 

 1543年、信秀は坂井大膳の本隊とは別に、勝幡城に自らの軍を集結させ美濃南西に当たる大垣城攻略へと向かった。

 その坂井大膳ら尾張斯波軍の本隊は、美濃の笠松と木曽川を挟んで布陣した。

 木曽川を挟んだ位置に対陣された美濃側の道三はこれに対応するべく軍を配置せねば成らなかった。現代風に表現するならロシアが国境付近で軍を集結させた状態のウクライナ側の心境に似ているだろう。

 とは言え、川を挟んでの防戦であり、更には美濃が上流を支配している点も利用して、木曽川が尾張犬山城から北に曲がっていくその北端部分からやや東に行った土田あたりに堤防を築いて、この水を堰き止めて敵の足止めを行った。ここは木曽川の北岸と南岸の可児という場所を美濃側が支配している場所に当たる。

 坂井大膳は対面する木曽川の水位が低下した事を察するや、迂闊な渡河は避けなければ成らない事態と判断した。

 その為、犬山より北上して栗栖からその東にある可児の地の攻略を優先させ、木曽川の南岸の支配を試みる。

 ところがこれを察した道三は笠松(東海道本線と名鉄名古屋本線が木曽川を渡る部分)に主力部隊を集結させて、尾張側に対抗したのだ。

 この時点で川の渡河の主導権は道三側にあるわけで、坂井大膳はここの本陣を動かせない状態で膠着した。

 いわばここを手薄にすることは道三に渡河を許してしまう事になり、尾張側の戦局は寧ろ不利に成ってくる。道三の部隊が笠松から渡ってくれば、そこから東の犬山方面に向けての侵攻を許してしまい、むしろ犬山城は東西から包囲される事態を招きかねないのだ。

 尾張本隊が可児地方の攻略で動く危険性がそこに有るわけだ。

 その為、犬山北部の栗栖と可児の攻防は、織田伊勢守家の重臣として犬山城に入っていた信秀の弟、織田信康に任せる形をとるしか無かった。

 栗栖と可児の攻防は小競り合い状態で膠着し、双方譲らぬ戦いとなった。この時可児側を守っていたのは森可行(森可成の父)で土岐の家臣である立場を取っていたという。その為、道三に対しては内心不服を抱いていたともいえる。

 とは言え、栗栖の戦況が動かない状態もあって笠松木曽川の状況も対陣したままの膠着が続いた。

 

 その笠松の状況は道三側に若干の余裕があったと言える。

 しかしそれ以外にも北から攻めてくる朝倉にも対応せねば成らなかった。

 その朝倉側は北近江を通って関ケ原から美濃に侵攻するルートを用いる事出来なかった。

 後に浅井と朝倉の同盟関係を考えると利用できそうな話だが、この時分北近江の浅井と南近江の六角で戦争していた事もあって、迂闊にその領国を通過できる状態に無かったと言える。

 その為朝倉側は、揖斐川上流で美濃北西にある徳山湖方面に山間部を通って侵入し、そのまま揖斐川を伝って南下する形を取ったと考える。その分、進軍にはかなりの時間を有した。

 揖斐川の上流から南下して、朝倉軍が攻略を目指すのは大垣の北にある揖斐城(現在の揖斐川町役場から更に上流に入った国道号線乙原交差点付近)であることを道三は想定した。

 渓谷に挟まれた要衝でもあって、朝倉への備えとしてはかなり有用な場所であった。

 またこの揖斐城を守る揖斐氏は土岐家の末裔でもあるゆえに、今回の戦で敵に寝返る可能性もあった。ゆえに道三は真っ先にこの揖斐城を攻略し、自らの手兵をここに置く形を取ったと言える。

 その為笠松の余力をその付近に差し向けたのだった。

 勿論、大垣への警戒も怠ってはいなかったが、むしろ近江の情勢を考慮して関ケ原方面からの侵攻は無いと考えた道三は、大垣より揖斐城の防衛に優先度を置き、大垣は最小限の城兵で守り向く形で考えた。

 

 さて…このころの信長こと吉法師は不思議な興味を持っていた。

 勿論史実にはのってすらいない話だが、実は信長の成長過程に於いては大事な話と成ってくる。

 いつの時代でも幼少期に抱く興味は大人になって得る趣味に直結するものが多い。

 無論、絵を描くという興味でも、何の絵を描くかでまた異なるわけで、現代風に言えばゲームをするのもどういうゲームに興味が有るかで変わってくるのだ。

 実際に子供の興味から将来性を見極めるには一般的な知識では難しい話と言えるだろう。いわば子供への先入観を無くして、その子が何に対して興味を示すかを見極めなければ成らないからだ。

 信長が後に戦略・戦術に於いて奇想天外な才能を開花させたことは言うまでもない。

 ここはそこからの逆算に成るのだが、その奇抜な軍才を開花させるのに、地の利を感覚的に理解してなければ成らないという点がポイントと成るのだ。

 多くの兵家は地の利の大事さを書物によって知りうる話だろう。

 しかし、信長は書物によってそれらを知ることはしなかった。

 それでも感覚的にその利を知り得たのは、幼少期からそういう感性を刺激する興味に触れていたからと言える。

 信秀が道三と対峙する前に吉法師に語り掛けた話は前述の通りで、その後吉法師はその戦況に興味を抱くようになったのだ。

 子供が戦隊ものの勝敗や、漫画の勝敗に興味を抱くのと同じである。しかし吉法師はただ単にどちらが優勢かでは満足しなかった。

 

 美濃での戦争が始まって間もなくのある時、政秀と沢彦が那古野城の広間で、地図を広げて戦況を話し合っていた。そこにまだ8歳か9歳の吉法師が現れて興味深くその話を聞きだしたのだ。

 沢彦たちが話し合っていたいたのは、坂井大膳と道三の笠松、犬山方面での布陣についてだ。子供にはいささか難しい。

 吉法師も良くは解っていないが、地図と白と黒の碁で配置された図柄に何となく興味を持ったのだ。

 するとそこに吉法師が興味を持ったことを察して、沢彦は吉法師に解りやすく解説し始めた。

 木曽川の堰止めで水が決壊したらどうなるか…

 それで兵士や城下はどうなるか…

 それを防ぐにはどうするか…

 また、そこで兵が動くとどういう事に成るのか…

 

 更には朝倉がどこから美濃に攻め入るか…

 そして道三はどう対処するか…

 

 地図の碁を動かしながら説明すると、吉法師は大いに喜んだ。

 

 そして大垣に父・信秀が向かう事を教えられると、吉法師は

 

「おお!!父上は大垣を攻めて道三から奪い取るのだな!!」

 

 と、理解して父を誇らしく感じるのだった。

 政秀も吉法師がこうした話に興味を示すことにその将来を少し安堵した。そしてこれからしばらく、沢彦と吉法師の為にこうした場を設けるようにしたのだった。

 勿論、吉法師が完全に内容を理解するまでには、暫くの時が掛かるのだが寧ろこうして話を聞いていくだけでその戦術眼が自然と養われていったと言えよう。

 ある意味、吉法師は地図の上にあった碁を自分なりに動かして、シミュレーションゲームでもやるかのように遊び始めたのだ。

 そうして遊ぶ内に、聞いた作戦を模倣しながら自然と感覚を養ったといえる。

 そしてこの感性が後の桶狭間でも生きてくるのだった。

 

 さて、話を尾張・越前連合と美濃の道三の戦いの話に戻そう。

 簡単に年数的な話を合わせていくと、1542年に信秀ら尾張斯波の陣営は道三に追放を受けた土岐氏からの要請を受けて軍備を執り行った。そして1543年中ごろから年末あたりで木曽川付近の尾張軍本陣や勝幡城の信秀の布陣が決まったと考える。

 信秀は勝幡城から木曽川を渡り海津(岐阜県海津市)を先ず攻略し、更には揖斐川の西部に渡って大垣の南、養老方面に進出した。

 そこから揖斐川西岸と東岸で部隊を分けて攻略しながら、大垣の包囲へと進めたと考える。

 信秀の予想通り、比較的に手薄と成っていたこともあり、1544年頭には大垣に到達したと考える。

 そして朝倉の当主朝倉孝景率いた部隊は、揖斐川上流から南下し、揖斐城で道三の部隊と対面した。

 渓谷に挟まれた山城であることから、大軍を以てしても容易に落とせる城では無い。それを考慮した上で、信秀は林秀貞を使者として朝倉に送り、大垣陥落の後、信秀軍が後方から挟み撃ちする形で攻め込む時を合わせて朝倉も揖斐城を攻略するように勧めた。

 ある意味朝倉の兵力をここで無駄に損じさせないための配慮でもある。

 無論、朝倉もその話を良策として、無駄に揖斐城を攻略しない形で待機した。

 

 道三からしてみれば信秀の大垣侵攻は可能性として想定はしていたものの、出来ればあって欲しくない事態で考えていた。

 しかし、やはり大垣が狙われた点を察するや、すぐさまこの時点で別な手を講じるしかなくなったのだ。

 有能な戦略家はこうした切り替えも早いのだ。

 道三は既に大垣は守り切れないと察していた。

 そして大垣が奪われる事は、稲葉山の経済にも影響する事態も想定せねば成らない。

 いわば京からの物資が大垣で止まる事に成るからだ。

 よってこの戦争を長期化させることは避けたいとも考えた。

 また、揖斐城の状態も大垣が陥落すれば大きく異なる。

 上流側への一方向の防衛なら耐えれるが、下流からの双方挟み撃ちとなると別である。

 そうした状況を冷静に判断して策を講じるのであった。

 

(恐らく敵は、揖斐と大垣から合流して勢いに任せて稲葉山に攻め入るな…)

 

 道三はそう考えて、むしろ敵が勢いづく形に仕向けるように策を練ったのだ。

 そして揖斐城の部隊に使者を送り、大垣陥落と共に城を捨てるように命じた。

 こうした重責ある役割に、後に名を上げる人物が任される可能性を考え、揖斐城の部隊を30歳前後だった稲葉一鉄(良通)が指揮したと伝えておこう。

 そして道三は一鉄に、

 

(揖斐の兵を解散させ、時を合わせて揖斐に集結させよ。伝達の法を設けて、山野村に潜みその時を待て)

 

 と伝えるのであった。

 いわば兵を散開させて山や野、村に潜伏させて待機するように命じたのだった。

 実際にこれだけの言葉でどうすれば良いかの判断ができるのは、相当に優秀な人物でなければ成らない。

 どれだけ総司令官が優秀であっても、その作戦の意図を察して動ける想像力のある指揮官が下に居なければ、その作戦は機能しないのだ。

 現代社会でよく見る一般的な人は、「兵を解散させて時を待て」と言われて…「えっ、どういう事?」と説明不足な点を嘲笑います。

 SNSの世界では笑い話にして済ませられる事でも、実際はその人の能力が無いから解らないだけです。

 こうした人間は決して重責につけては行けないと言っておきます。

 また、指示を与える人間は、指示を受ける人間の想像できる範囲を理解していなければ成らないのも事実です。

 道三がここで稲葉一鉄を使うという事は、稲葉一鉄という人物なら自分の指示を聞いて自分の想像と同じ形で実行できると判断したからと言える。

 逆に後に美濃3人衆と称される人物クラスで無ければ、この大事な作戦は任せられないだろうという話に成る。

 

 揖斐城で指示を受けた一鉄は、状況を精査した上で道三の言わんとするところを想像して察した。

 いわばゲリラ戦である。

 そしてそのゲリラ戦の意味は、敵の糧道をここで断つという意味も想像した。ある意味朝倉側の糧道であり退路はこの揖斐川に沿った所しかない。

 無論、道三は後に退路を断つ意味で、時を得てらから城を取り返せという意味であったが、一鉄は部隊を散り散りにするのではなく、山野に潜み、敵の糧道を断ってそのれを奪う事で兵の維持を考えたのだ。

 さらに一鉄は山野での暫くの野営を考えて、近くの山中に兵糧を秘かに移しつつ準備を始めたのだった。

 

 こうして信秀が大垣を包囲し、数週間で陥落させると、一鉄はその夜には数千の兵を率いて揖斐城から脱出した。

 そして用意した野営地に軍を潜めたのだ。

 野営地は数十か所に点々と設けて、敵に悟られない形で伏せた。

 そして信秀が予定通り揖斐城に到達し、朝倉方との挟撃でこれを攻略するや、城は既にもぬけの殻状態に成っていたのだ。

 信秀は、

 

(どうやら敵は挟撃の不利を察して早々と稲葉山の方へ引いたか…)

 

 ある意味、笠松からの本隊合流も含めて考えるなら、むしろ稲葉山に兵を集中させる可能性が高いと見て、伏兵の存在を無視したといえる。

 

 果たしてこの伏兵がどの様な効果をもたらすのか・・・

 話は後編へとつづく・・・

 

どうも…ショーエイです。

今回は適材適所という話を盛り込みました。

この適材適所、解ってはいても実は中々難しいのです。

いわば指示通りに従うと言っても、

人は中々指示通りに動いてはくれないものです。

簡単なルールやマナーなら誰も従えるのですが、

指示に関しては受ける側の経験も必要に成ります。

 

企業ではこうした指示通りの作業に

経験を積ませることで対応しているようですが、

難しい内容になれば成るほどその指示はより複雑化します。

 

この難しさは現在ロシアの行軍でよく見られる事と言っておきます。

 

実はプーチン大統領の指示と、

軍に伝わる指示が一致していない点が見受けられます。

単純に…「一般市民を攻撃するな、市民は大事にしろ」

とは伝えていたとしても、

武器を持った市民であり、

またウクライナ兵士が潜伏する建物をどう対処すれば良いか、

軍を指揮する人の判断によって異なる部分と成ります。

 

またプーチン大統領が差す市民の意味も、

親ロシア派市民だけという曲解した意味で考える人も居ます。

 

先ず人によっては成果を求められると考える人も居ます。

マリウポリならマリウポリを早く攻略せねばと考える人も居ます。

市民を直接攻撃しなければ

良いだけという判断をすることも生じます。

ある意味、プーチン大統領の意図は、

市民に対する攻撃は避けて、

極力兵糧攻めによって降伏させていくというプランだったと考えます。

しかし、現場が敵からの攻撃に応戦せざるを得なくなり、

味方に被害が出ない点を優先させ、

通常戦闘通りの爆撃と砲撃を実行した結果、

市民にも大きな被害が生じてしまったという事態です。

 

無論、指示を出したプーチン大統領も、

味方の被害の事を考えれば

そこは現場の判断を責めれないと理解したのでしょう。

 

しかし、指示を受けた側が兵糧攻めの意味を理解していたのなら、

もっと市民への被害が少ない陣容で対応したかも知れません。

 

恐らく今までロシア軍が体験もしたことのない作戦故に、

ロシア軍も混乱した状態にあった点は否めません。

またプーチン大統領自身も、

自分の存在の意味を熟知していない。

彼はカリスマであっても、

彼に従う人たちはプーチン大統領に依存し、

ある意味恐れている。

それ故に功を焦る者や、失敗を恐れる者が、

寧ろその言葉を曲解して捉えてしまうのです。

 

功を焦る者は、結果を早く示そうとして、

寧ろ人道的な配慮より都市攻略を優先してしまう。

失敗を恐れる者は、

人道的配慮より包囲の欠陥が生じる事を恐れ、

そこを寧ろ徹底してしまう。

 

そうした状態を統制するのに賞罰は徹底して、

且つ公正に行わなければ成らないのですが、

現状、この辺をロシア軍がどう対応しているかは知りません。

 

逆に米軍はこの辺を徹底している感じです。

米軍も兵士の失態は多々生じますが、

一応、そうした失態にたいしての罰則も徹底してます。

 

ロシア軍がある意味模倣するべきは、

こうした米軍の賞罰に対する姿勢で、

失態あった部分は隠さずに、

賞罰を以て対応するという姿勢を示せれば、

軍のイメージも変わってくるかも知れません。

 

逆にこうしたハイブリット戦争に於いて、

SNSの投降などで錯綜する状態に、

常時適切に対応する姿勢を示すことで、

寧ろ情報発信の信頼性は向上するとも言えます。

 

結果どれだけトップが理想的な作戦を述べたとしても、

その理想を理解し適切に指揮に反映できる指揮官が居なければ、

その部隊は混乱してしまうだけでもあるのです。

今、ロシア軍に生じているのは士気が低いという話では無く、

寧ろ作戦に対してどう扱っていいのか混乱していると言えます。

前述したように市民を撃つなとは言え、

武器を手にした市民を撃っては成らないのか、

兵士が立てこもる学校や病院はそうするのか?

そうした指示からの矛盾で、

最終的には従来通り攻撃する部隊、

一次後退して行く部隊など、

様々な形で対応している様に見えます。

 

現状、ロシア軍は一貫した統制を取る事は難しく、

部隊それぞれの方針で進む状態になると考えられます。

特に驚異的なのはマリウポリに展開する部隊で、

その部隊は容赦なく破壊を行っていくかも知れません。

 

また、キエフの攻略に関しては、

時限恐怖とでもいう形の方法も考えられます。

いわば一時的な平和の後に

再び爆撃の恐怖が襲うという事の繰り返しで、

精神的な破壊を目指す方法です。

ある意味拷問に近い方法の作戦です。

 

戦争を善悪で言っているだけの人は、

戦争の本当の怖さを知らないのです。

その戦争が発生しないようにすることが善であり、

戦争を発生させたらそれに関わる全てが悪です。

一度戦争が始まってしまえば、

双方が相手を屈服させることしか考えなくなる。

その為にはあらゆる残酷な方法も手段として用いるのです。

ポーランドやバルト三国の多くの人々は、

ロシアに勝つつもりでいるでしょうが、

その勝つまでの間の地獄は全く想像すらしていません。

米国の政治家であり、日本の政治家も同じで、

ロシアに勝てる、中国に勝てると思っているが、

勝つまでにどれだけの犠牲が生じるのか、

全く想像すらしていないのです。

長い戦火の中では、

訓練された米軍兵士ですらPTSDに掛る状態です。

そういう意味では安易に戦争を考えないでほしいです。

 

貴方は今の生活を捨てても良いと考えますか?

戦火に巻き込まれた後に、勝利したとしても、

今の生活をすぐに取り戻せると思いますか?

 

この戦争はロシアのプーチンも悪だが、

ウクライナのゼレンスキーも、

アメリカのバイデンも、ブリンケンも、

全てが悪であり、

多くの国々はこれらの戦争に関わるべきでは無いのです。

ウクライナを助ける必要もない。

ロシアを支援する必要もない。

その上で両国の和平が成立しやすいように、

中立的な立場で見守るべきなのです。

どちらかを助ければ、戦闘は終わりません。

どちらかに制裁を課せば戦争を止めません。

そういう事を少しは理解してほしい話です。

 

因みにアカデミー賞のウィル・スミスさんの平手打ち。

クリス・ロックさんの過失で

奥さんへの公然侮辱罪が成立する話です。

逆に暴力という平手打ちで事が治まってよかったのでは?

双方がその上で罪を犯して両成敗で終われるのだから。

逆に冷静な対応で、

クリス・ロックさんを公然侮辱罪で訴える方が適切なのか?

そういう形で見れば、ウィル・スミスさんの感情的な反応は、

寧ろ過失を犯したクリス・ロックさんを庇ったことにも成ります。

無論、あれが平手打ちだけで無く、

ボコボコに成るまで殴ったのなら別の問題です。

 

何でもカンデモ暴力反対という話ではなく、

相手が怪我しない程度の感情表現は、

寧ろ言葉の暴力に対する正当防衛として見なすべき話です。

逆に暴力を行わずに法廷でクリス・ロックさんを裁こうとする方が、

グロイ話に成ってきます。

逆にこれで治まったのだから、

むしろメディアは言葉の暴力に対する正当防衛として、

妥当かどうかを議論するべき話と言えます。

まあ、クリス・ロックさんもジョークのつもりが

過失となって生じた事態ゆえに、

法廷で裁かれる話より、あれで終わった事は、

寧ろ不幸中の幸いなのではとも感じる話です。

 

【第二十六話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+5

〔ドラフト版〕

 

 吉法師の元服前の信秀の動向は、北は美濃、西は今川を相手に立ち回った記録となる。

 1542年には「信長公記」の記載では第一次小豆坂の戦いで信秀が勝利したとあるが、実はその「信長公記」以外の資料ではその実態が記されていない。

 いわば全話の通り松平信定の後継者、松平清定を支援しての戦いで安祥城を支配した訳ではない。

 ただし斯波義統の名を大義とした戦いであったことを全話に伝えたように、後世の信長には尾張斯波が西三河を押さえたという形で伝わっていたのかも知れない。

 歴史の伝わり方というのはある意味このように曖昧な伝承も含まれることを理解しておく話であるのだ。

 時節と照らし合わせてこれをNATOとロシアのウクライナ介入で見てみると何気に類似した勢力支援が伺える話だが、いずれにしても戦乱時代の産物というのが現在の見方としてほしい。

 どちらが正しいかではなく、今川織田の様に完全に相容れぬ時代ではなく、経済的な繋がりを以て解決できる現代では、むしろ双方の意識が平和的に向かう事を望むだけの話である。

 

 そのNATOとロシアの話同様に、双方が直接ぶつかり合う緩衝地帯を三河に求めたというのは戦略心理上大事なことである。

 今川とすれば東の北条との緊張状態が終わらない時期で、信秀としては次に尾張全体の戦として美濃に備えなければならない時期であった。

 この戦略心理という点で、ロシアを信秀側の視点に照らし合わせてみると、三河を東欧全体で捉えた場合、位置的には逆だがウクライナやベラルーシは西三河に該当する。

 NATOがポーランドであり、バルト三国にミサイルを配備するというのは、ある意味今川が軍を岡崎に入れたような話に成る。

 その上で西三河を攻略し始める動きは正に死活問題で、完全に直接対決を意識させる緊張状態と成るのだ。

 仮にお互いが平和的な形で不可侵を誓うのなら、むしろ相手が緊張してしまう状況を緩和しておくほうが望ましい。

 いわば三河が緩衝地帯となって、お互いの敵対心理を増長させないようにするには、双方が軍事的な支配をその地域で放棄する方が望ましいのだ。

 寧ろ軍事的な支配または支援として軍を入れる事は、相手との距離間で突発的な戦争に対応せざるを得なくなるのだ。

 緩衝地帯を設けていれば、いわば今川が遠江から軍を発しても三河を通る間の時間で対応を考えられるわけで、緩衝地帯がその時間の猶予を考えさせる場所となる意味を持つのである。

 ある意味、ミサイルがポーランドから発射された場合、ロシア圏に到達するにはロシアはその数分で迎撃処置が取れるのだ。

 しかしそれがベラルーシやウクライナに成ると、迎撃できる時間はほぼ無くなってしまう。

 この点を理解した上で平和的な緊張感を考えていかねばならないと筆者はお伝えしておきたい。

 国際社会の調和の意味で、欧米の意見だけでは欧米の横暴を許す話になるだけという意識が、当然中国やロシアにあってもおかしくない点を理解した上で、こうした問題を解決しなくてはならないのだ。

 寧ろ民主的な意識の中では、中国やロシアの視点も欧米の視点も対等に議論されたうえで国際的な解決に結びつける方が、一方的な意見による支配から逃れられるという事は理解した方が良い。

 

 さて、話を戻して信秀は三河との緩衝地帯が維持されたことで、暫くの時は東を意識しなくてもいい状態になった。

 このころ尾張全体は大きな局面を迎えていた。

 美濃の斎藤道三が幕府守護職である土岐頼芸とその子の頼次を追放して美濃の完全支配を敢行したのだ。

 下克上の世界では当然の成行と、道三側の視点から見れば理解もされるだろう。

 ある意味、専務によって会社が上手く回っていた中で、無能な社長が欲に任せて勝手に動き出したら、会社の為にその社長を排斥したくなるのは当然の話だ。

 しかし、外部からすればその内部混乱の話は付け入る隙として見なす絶好のタイミングだ。

 その意味として道三の行為をある意味、反幕府行為としたのである。外部の目線で言うならば、ロシアのクリミア併合に対するものも同じだが、革命という意味では軍事革命を引き起こしたミャンマーに対してに近い。

 無論、ミャンマーの軍事支配は大きな過ちであるという意識に筆者も変わりは無いのだが、民主派のスー・チー氏が手順を早まったという点は否めない。

 それは彼女らが軍部を敵扱いにして政策改革を望んだからだ。

 土岐頼芸も斎藤道三の支配に反感を持つ家臣の意見を聞き入れて、その専横を排斥しようとした事が事の発端であろう。

 寧ろ現代の国際社会の目線同様に、幕府側の目線で見れば斎藤道三は守護職の指示に従って、支配権を放棄するのが当然と見なされる。

 それに反したことは、幕府の大義を掲げて美濃攻略を考える勢力が出てもおかしくは無いという事になる。

 ただし何度も言っておくが、これは戦乱の時代ゆえに支配欲望による大義の利用が当然であった時代の話で、戦乱の歴史に終止符を打つべく現代、いわば日本国憲法にも記載された意味で「平和を希求する」意味では、こうした情報はもっと丁寧に扱わなければならない。

 ミャンマーのケースは、寧ろスー・チー氏を焦らせた欧米の諜報機関の失態…いわばミャンマーの民主化を急がせた結末と伝えておこう。六韜で有名な太公望ならスー・チー氏に、このような急かせた事はさせなかっただろうという点は伝えておく。

 欧米がそうしたミャンマーの平和的な革命を支援する形で取った事はロシアがウクライナを考えるように、中国としても戦略的に好ましく考えないのは当然で、むしろ軍事政権の維持を許してしまう形に成るのなら、欧米の活動は無策無能で無責任なモノであったと断じるしかなくなる。

 

 こうして様々な視点を解説しているのには実は理由があるのだ。

 基本、読み手は自らの印象的先入観で善悪を考えてしまう。

 土岐頼芸の行動を、斎藤道三の存在と比較すると、頼芸の行為を理解する方は少なく、寧ろ無能者として道三に淘汰されて当然と考えるだろう。

 そこをもっとその時代に入り込んだ視点で、この問題を考えてみてもらいたい。

 尾張などまだ斯波家を守護として立てている勢力からすれば、室町幕府の政策に順応して対応する事が当然の認識となる。その幕府の政策を崩してしまう様な道三の行為が当時如何に秩序を乱す行為として理解されるかをよく考えてみて欲しい。

 それを踏まえたうえで、吉法師が父親の敵方ともなるはずの斎藤道三を認めていた点を逆に不思議に感じてみるべきなのだ。

 本来当時の視点で考えれば、逆賊の斎藤道三はそれを悪とした尾張の視点で見ると認められない存在となる。

 後にその道三と姻戚関係を以て同盟するなどという事は、反逆者と同盟したというレッテルをも貼られる話となる。

 人間の意識の中で悪と決めつけてしまった相手を中々信用できないというのは当然であり、信秀の織田家中の中に於いてもそうした議論に及んでいた状況は想像できる話として先ず理解してほしい。

 日本人でありアメリカ人でも、欧米側の視点で見ればロシアのプーチン大統領を悪と決めつけて信用できないとするのもそれに近いのだ。

 しかし、史実でもあるように吉法師こと信長は、後にその道三を信頼して、その援軍に自陣の防衛を任せるような判断までしている。

 後にこの経緯は解説するが、その上でこの時点の道三の話は、他の尾張の視点とは違った意味で吉法師に伝えられていたと考える方が面白いのだ。

 

 こうした現象を不思議な出来事として精査して見ると、道三の真意を別な形で吉法師には伝えられていたと考えるのも大事なこととなる。

 無論、野心家としての才覚が有った故に、その才覚で道三の行動を肯定していたという事も考えられなくはないが、実際に吉法師がこの出来事に遭遇するのは10歳前後の話で、心理学上まだ自我が確立する前の段階で、親や周りの影響を受けやすい時期であったことを考えれば、誰かが吉法師の視点に影響力を与えたと見る方が現実的となる。

 その影響力を施せる人物は、平手政秀、沢彦または佐久間盛重も含まれるが、一番大きな存在は織田信秀だったと考える。

 

 信秀は道三との戦の前に那古野を訪れて、嫡男吉法師を膝に抱えて不思議と戦前の覚悟を語って聞かせた。

 信秀からすれば大戦で勝てる勝算は無く、自らが命を落としてしまうかもしれないという覚悟の上でのものだった。

 それだけ信秀は道三の才覚を認めていたのだ。

 

「道三はこのご時世で思い切った事をしたものだな…」

 

 信秀はそう吉法師に語り掛けるように話し始めた。

 信秀は寧ろ敵となる道三に同情したようにも聞こえた口調であった。

 それは信秀自身も様々な形で主家である大和守家と再三にわたって反抗してきたからだ。

 それでも主家を亡ぼすという不義までは為しえていなかった。

 その反抗の一つが那古野の一軒であり、那古野を調略して落した信秀に大和守家が引き渡せと迫った事件も思い浮かべられる。

 信秀の元々の支配地は津島付近の尾張西側である。

 それが東側にまで勢力を拡大したのだから無論尾張支配権をめぐって主家と揉めるのは理解できる話である。

 もちろん尾張国内における弾正忠家こと信秀の財力は大きく、それ故に主家大和守家との戦でも優位に立てた。

 しかしそれでも信秀は主家を亡ぼす様な戦い方はせず、大和守家が手を引くまでの防戦という形で抵抗して、尾張に於ける信義、いわば反逆者と成る事は避けたのだ。

 それだけこの下克上の時代でも不忠に値する行為へのリスクを意識せざるを得なかったと言える。

 いわば反逆者として尾張国内に敵を作る事は、いくら財力が有っても孤立し、そして東の三河松平に今川まで相手に生き残らねばならない。

 明瞭な頭脳の信秀ならそのリスクの大きさを十分に理解していただろう。

 ゆえに道三の行動には一目を置いてみていたのだ。

 それは吉法師にもそれとなく伝えられた。

 勿論、10歳の吉法師にはその時点でその真意を理解する事は難しい。しかし、天才たちの記憶の中にはその言葉が後に鮮明に残って、(親父は前にあんなことを言ってたな…)と、何かを判断する情報として残存するのだ。

 逆にこうした言葉をその言葉通りに理解できる子供いるだろうが、残念な事にその子は寧ろ天才には成れないのだ。

 一般的に神童として見なされるのは後者の方だろう。

 しかし、それは忠実に飼い主の言いつけを覚えてくれる犬と一緒で、野性的自分の判断で動く猫…言い換えれば獅子とは成らないのだ。犬で例えるなら忠犬と、野性の狼の違いとでもしておこう。

 

 織田弾正忠家の家中に於いては、この二つの違いは信長である吉法師と後の信勝(信行)こと勘十郎の違いで見れる。

 勘十郎なら、信秀の言葉をそのままの意味で

 (道三はの行動は思い切った事をした行動なのか…)

 と、理解してしまう。しかし、何が「思い切った行動」として考えずに、ある意味他の情報と合わせて、「主家を裏切ったという思い切った行動」としてだけで認識してしまうのだ。

 実は勘十郎の様な認識は一般的で、こうした思考で言葉通りに理解する人間は情報に洗脳されやすい。

 ただ語り手としては、勘十郎の方が勉強熱心に話を聞く姿勢に見える分、一般的には好感度も高くなる。

 逆に吉法師の場合…アホに見えるほどボーっとその言葉を聞いているだけだ…ある意味、猫に「お手」を覚えさせようとして「その躾」事態に全く興味を示さないのと同じだ。

 しかし、人の好みによりけりだが、子供を可愛いものとして見た場合、吉法師の方が愛嬌ある反応に成るのだ。

 いわば、吉法師からすれば「道三が思い切った行動をした」という事に今、興味は無いのだ。

 ただ、親父が「道三が思い切った行動をした」と言っていたことだけは何故か記憶出来てしまう。

 そしてここが天才という意味で後に大きく異なる点に成るなのだが、道三という人物を自分で判断する時=興味に直面した際、親父こと信秀はこういう評価をしていたな…と自分が精査する際の題材の一つとして、その真意まで考慮して用いるのだ。

 ゆえに分析を以て相手を計る意味での「情報」であって、その言葉を真に受けて自分の判断の基準とすることは一切ないのだ。

 

 勿論、信秀は賢者ではない。

 ただ、直感的にどちらの雰囲気がリーダーに向いているかを見極めた際、人の話をある意味真摯に聞いてそのまま取り入れる勘十郎より、自分勝手に動きながら不思議と領内で実績…いわばこの物語で登場したエピソード治水や水田開発といったものが齎されていく…無論そこには政秀ら家臣団の苦慮も有るわけだが…それらを踏まえて考えれば吉法師に不思議な神秘性を感じさせるものがあったという点は否めない。

 寧ろ史実的現実としても、このような不思議が存在するゆえに信秀は吉法師に惹かれていたと言える。

 

 しかし、信秀が死ぬまでどちらを正当後継者にするかで迷っていた点は最終的な結末で見られる部分として残るゆえに、信秀の心情に葛藤があったことは否めないのだ。

 ある意味、吉法師が何の実績も残さずにただ普通に嫡男として勉強にも励まない「うつけ」として過ごしていただけなら、むしろ勘十郎の方が優秀に見えたであろうし、家臣団の評価もあって吉法師は寧ろ廃嫡されたとしても可笑しくはない。

 参謀的存在の林秀貞が勘十郎の才能を後押ししていたのは明らかで、信秀直属の評価は明らかであったと考える。

 その上で、吉法師の家臣団が那古野に何らかの実績を積み上げてその評価に対抗していたと考えるのが妥当な状態となる為、物語で上げたエピソードはフィクションであってフィクションで無いと考えて欲しい。

 この経緯なく信長の才能は現実的に30代前に開花するのは難しく、政秀無くした信長側が、本来信秀直属となる正規軍に対抗できる団結力を得ることは難しい話に成るという点で理解してもらいたい。

 ただし、史実に記録が無いゆえに、現実想定として設けたフィクションである事は変わりない。

 

 信秀は膝に吉法師を抱えたまま、ひたすらに語り掛けた。

 

「さて、その道三がこの状況をどう戦うか見ものだな…」

 

 吉法師は信秀の言葉をボーっと見上げるように聞いていた。

 まるで飼い猫に独り言を語り掛けるような感じだ。

 むしろ勘十郎の様に真剣にかしこまって聞いてくれるより、むしろ吉法師の様な反応の方が親として可愛げがあるのかもしれない。

 そして信秀は、

 

「その道三にワシが勝ったなら、吉法師よこの父を誇りに思ってくれ」

 

 いわば、信秀は一目を置く斎藤道三との戦いにその覚悟を吉法師に伝えたのだ。

 1542年前後の出来事で吉法師はまだ10歳にも満たない8歳ぐらいであった。

 ゆえに深い意味を察する事は無かったにしても、信秀の覚悟の言葉は、むしろ斎藤道三は凄い人物という印象で残ったのだ。

 信秀は道三を相手に負けて死んでも、父を恥と思うなという意味で息子に伝え残しておきたかったのだろう。

 ある意味、この意味は吉法師の興味に触れたのだった。

 それは単純に子供が戦隊ものや、アニメの格闘シーンに興味を示すのと同じである。

(相手は強敵、その強敵に親父殿(信秀)はこれから戦いを挑むのだ…何か凄いことだ!!)

 そういう意味で吉法師は信秀の言葉を理解した。

 

 もし、仮に信秀が斎藤道三を悪者として、馬鹿にして吉法師に伝えていたのなら、吉法師の道三に対する印象は違っていたともいえる。

 歴史を紐解く心理上の流れとは、こうした些細なことで変化する。

 ゆえに子を持つ親は、自分の言葉一つ一つが子供の将来に大きな影響を与える点は意識しておくべきと言える。

 

 そして暫くの時を吉法師ら共に那古野で過ごした後、こうして信秀は斎藤道三との戦いに挑んでいったのだ。

 

 その斎藤道三の形勢は圧倒的不利であった。

 南からは斯波義統の大義の下で土岐頼芸を支援する形で、弾正忠家、大和守家、伊勢守家と織田の勢力が総集結して向かってくる。

 そして西からは頼芸の美濃先代守護である頼純、いわば道三が頼芸を祀り上げて実権を握った際に追放した人物で、その後に越前の朝倉を頼った経緯の持ち主であり、その朝倉がそれを大義に尾張と連携してこの戦いに当たったのだ。

 

 いわば二方向からの敵を迎え入れる所業ゆえに、見方によっては道三の美濃簒奪は失策と成ったともいえる事態だ。

 普通に考えれば馬鹿にされても可笑しくはないが、信秀は道三には恐らく勝算あるという点を見抜いていた。

 それは美濃の地形で、東美濃に行くほど山々に挟まれ渓谷上となっていく為、その影響から西と南は自然と合流して向かわねば成らなくなるからだ。

 いわば稲葉山城を起点に美濃は双方からの攻撃に対して守りやすくなる。

 将棋で言うなれば「穴熊」という戦略だ。

 

 南の尾張斯波軍は、今の尾張一宮あたりに集結して作戦会議を開いた。弾正忠家のほかに大和守家、伊勢守家も総集結したものである。

 ある意味、この戦いは織田大和守家が威信を掛けて挑んだ戦いとでも言うべきものであった。

 一次資料として残る「信長公記」「美濃国諸旧記」にも尾張の主力は織田信秀と成っているが、いずれも信長の系譜を主体に見なされた記述故に無視して考える話とする。

 現実的に朝倉をその同盟として動かすには、まだ斯波氏の名目を必要とするため、尾張方総大将かつ、戦の発起人は織田大和守信友であるとしなければ説得力がない。不明瞭な資料の関係上、先代の織田達勝であった可能性もあるが、むしろ尾張の実権と忠誠を計る意味でこの戦いに挑む意図も加え、更にその後信秀の古渡を急襲するという出来事に繋げて考えるなら、信友の方であったと考えて妥当となる。

 ここには複雑な尾張の事情も反映して考えるとより面白い。

 上記の通り達勝からその養子として大和守家を引き継いだ信友は、大和守家の重臣、坂井大膳、河尻与一(左馬丞)、織田三位らの三頭政治の傀儡として擁立されたと考えてもいい。

 いわばその三頭が尾張の実権を握る意味で、守護代大和守家の影響力を試した形として考える。無論、戦の名目は斯波義統の名を借りての話となる。

 政治的な意図があったとはいえ、その時分に逆賊として美濃の斎藤道三が台頭してきた事は好都合な題材であった。

 またその逆賊討伐を名目に、越後の朝倉と連携する形まで結び付けた点は、この三頭政治が無策であったという感じではない。

 それ故に尾張の諸侯はこの戦に集結せねば成らなかったと言える。

 織田信友を総大将として担ぎ、その指揮権は恐らく坂井大膳にあったと誰もが感じたであろう。

 坂井大膳は尾張諸侯の参加状況を

 

「織田弾正忠信秀、兵5000…」

 

 と読み上げながら、その作戦会議の議長として自分が主導する存在であることを諸侯に知らしめた。

 作戦は漠然とした形で、古今の定石を用いて、尾張一宮の現在の拠点から北上して美濃との境界に当たる笠松(名鉄名古屋本線笠松駅と木曽川堤駅の間)で木曽川を挟んで対峙するというものであった。

 無論、坂井大膳の構想では稲葉山城攻略までは視野に入れていない。寧ろこの戦いで尾張の主導権を自分が握っているという証明が出来れば良いと考えていたのだ。

 ゆえに戦は古今の定石で、川を挟んで一進一退を繰り返し、朝倉の方の援軍の状況次第で稲葉山攻略までを判断すると考えていた。

 そういう全ての状況を見越して、尾張国内でも今川とやり合うほどの戦上手で知られる信秀はこう提案したのだ。

 

「主力はここから稲葉山へ北上する形ならば、朝倉の援軍と合流する役目を我々が引き受けましょう。」

 

 ある意味、朝倉の援軍の手引きという大膳の作戦からすれば脇役を買って出た形で信秀の提案は聞こえたのだろう。しかし、戦上手の信秀故に何か裏があるのではと疑わざるを得なかった。

 

「いや、弾正忠殿には主力として笠松で奮闘してもらいたい…」

 

大膳は一応、そう切り返した。

しかし信秀は、

 

「むしろ我々が勝幡より北上して朝倉と合流することを考えられたら、敵がどう判断するかを描いてみてください…」

 

 信秀は恐らく道三なら「穴熊」でこの難局を切り抜けるだろうと見越していた。寧ろそうでなければ美濃は遅るるに足らない存在なのだ。

 その遅るるに足らない形で坂井大膳が考えるであろう、むしろ自分と同じ考えを気付いているのなら、一目を置く存在として見なすという意味で鎌をかけた…

 

「なるほど…そうなれば美濃の笠松への対峙は手薄になるという事か…」

 

 大膳は戦を定石から判断する典型的なタイプだ。

 故に、定石から相手の綻びが見られるなら得策と考える。

 更に信秀は調子よくこうも加えた。

 

「道三の所業は断じて許すまじきもの、ここは斯波の旗の元で美濃を攻略して天下にその力を知らしめるべきと存じます。」

 

 無論、信秀の腹の底はそんな事微塵も感じてない。

 しかし、この言葉は大膳ら尾張の支配を考えるものからすれば、捨て置けない言葉に成る。

 いわば自らの器量を示さねば成らない言葉なのだ。

 そして信秀が伝えた様に稲葉山を見事に攻略出来たなら、ここで指揮を執った大膳の権威は尾張国内で示されることに成る。

 実際に、敵である斎藤道三が失態を犯して稲葉山城を失っていれば坂井大膳という存在は歴史的に別物として評価されたと言える。

 ただし、信長が桶狭間で今川を打ち破ったような器量までは無く、どの道運よく歴史が変わっても、今川に駆逐され斯波の名と共に消えゆく存在となる事は否めない。

 寧ろこの戦で斎藤道三という存在が有能であった事は、歴史的な事象から運が悪かったのは今川義元と成ってくる。

 

 坂井大膳はそこまでという言葉として信秀の提案に器量示し、

 

「ならば是非もなし、その忠義の心見事に示されよ」

 

と、信秀の作戦を受け入れた。

 信秀は更に付け足し、

 

「恐縮ながら死地を選ぶわが軍に、奮闘する士気を頂きたく考え攻略は切り取り次第でご了承いただきたいが…」

 

信秀はしたたかにこう述べた。

 無論、大膳は自らの器量を示して当然と考えた。

 

「勿論、好きに為されよ…おおいに奮闘して頂こう!!」

 

 更に信秀の脇で参謀として同席した林秀貞が、その言葉に、

 

「これで朝倉方の援軍に対しても斯波の義が伝わる事に成りますな。」

 

 と、付け加えたのだった。

 秀貞の言葉は、その真意をより鮮明に「斯波への忠義」という意味で印象付けたのだ。

 寧ろ余計な勘繰りが入って、この作戦を他の者に任されても困るわけだし、むしろ作戦が認められなくなる事態では、元々の狙いが無に帰するからだ。

 そういう抜け目のない才覚をこの林秀貞は持っているのだ。

 

 大膳はこの軍議で気分が良かったことだろう。

 尾張をこれから自分の権威で支配する上では、その器量が大いに評価されるだろう状況は好ましい。

 無論、それでも三頭の一角、河尻与一は大膳に今しばらくの吟味を促した。与一の再考する話は勿論大事なことだが、むしろ三頭政治であることがそれを邪魔したのだ。

 大膳は与一の耳打ち、

 

(この場で優柔不断な回答は、むしろ今までの大和守家と変わらなくなるのでは…)

 

 いわば、優柔不断にダラダラとした形で、尾張斯波家は過去に遠江を失い、大和守家に至っては権威を失墜させてきた。

 三国志演技などでも記されるように、史書としても優柔不断は反董卓連合に見るような袁紹を想像させる。

 そういう様々な知識からも、ここは自らの器量によって明瞭な決断が下される改革が行われた点を示すべきと判断したのだろう。

 無論、そういう論理で三頭の一角である河尻与一の思慮を封じるという腹も加わってのことだ。

 

 信秀らは本体の了承を得た形で、自陣の有る勝幡へ向かい、ここから北上して大垣を目指す準備に取り掛かった。

 信秀は秀貞に、

 

「はてさて…大膳が道三を甘く見ているのか…それとも我々が道三を買被っているのか…ここが見極め時だな…」

 

 と、軍議の事をそう語りかけた。

 

「もし、我々が道三を買被っている状況ならば、朝倉方の主力に大垣を攻略させれば良いのです。」

 

 と、秀貞は答えた。

 そして、

 

「その時は私が語った意味で、朝倉に対する義理を示せば問題有りますまい…」

 

 すると信秀は、

 

「後は、大膳の器量次第で尾張の行く末を図ることになるか…」

 

 と、あくまで臣下の立場であることを伝えている。

 信長への遺伝的な先入観で信秀を見ると、野心家のように感じる人も多いかもしれない。

 しかし、信秀は斯波家の臣下としての立場を考える事はしておらず、むしろ領土拡大を目指す野心は、尾張斯波家を盛り立てて行ける者が居ないのなら、その補佐する地位を自らが勝ち取る必要性があるという意味で担保していたと考える方が信秀の真意としては現実的になる。

 いわば信秀は歴史にその名を斯波家再興の名臣として残せればよいと考えていた訳で、自らが名君となる事は考えても居なかった。

 ゆえに過去の大和守家との戦いでも相手を亡ぼすまではしなかったのだ。

 もし、坂井大膳が名臣としての器が有るのなら、大膳と共に斯波家の再興と繁栄を目指しても構わないと考えていたとも考えられる。

 その上で自分の地位向上を図るなら、織田の血脈を利用して、吉法師か勘十郎の何れかを大和守家の養子として継がせる形をも思い描いていた事は否めない。

 

 しかし、それもこれも全てはこの戦いの行く末に寄るところであり、現状その分かれ目は大膳にはなく、むしろ斎藤道三の戦い方によるとこである。

 次に続く…

 

この話では信秀の野心の部分が語られたわけですが、 

実際は信長たまも含めて

自分が頂点であるという意味での

野心はなかった事を知っておいてほしい。

 

誰もがそうであるように、

平穏に自分が正しい形で何かに貢献できれば

それで良いという考え方なのです。

 

その考えを汲み取ってくれる、

理解してくれる人間が上に立ってくれていれば、

その中で遣り甲斐をまたは生き甲斐を

見出すには十分なのです。

 

ただし、諸葛孔明がそうであったように、

孔明の才能を理解し、

孔明の才能を有意義に使いこなせるのは、

劉備玄徳しか居なかった。

曹操でも孫権でも、孔明は使いこなせなかった。

孔明の奇想天外な発想の行く末に、

絶対的な世界観が存在する事を想像するには

先ずもって相当難しいと言っておきます。

 

「現世界において国連の下でアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合しなければ、世界は上手く纏まらない。」

 

この言葉にあらゆる要素や現実的な意味が含まれることを、

普通の人が理解できるか?

 

ここで、何でアメリカ合衆国憲法?

日本人なら日本国憲法の方が理想的なんじゃ?

とか

国連なんて力が無いし、何の効力も無いのでは?

 

と、こう考えてしまう人は、絶対に孔明を扱えません。

なぜという意味で説明しておくと、

上記の一文には下に列挙した意味が含まれているから…

 

 ①現実的にアメリカの影響力は無視できないし、排除できない。

 ②アメリカの社会は多人種、他宗教、多国籍の人が集結した場所であり、その状況で社会整備されたアメリカ合衆国憲法は国際社会を纏める意味でも理想的である。

 ③合衆国とは州の自治の統合を意味するもので、国の統合という意味で参考にするには、やはり合衆国憲法は理想的である。

 ④現実的にアメリカ合衆国の国政に取り込まれる形は、ロシア、中国に限らず、日本や欧米も含めて国としての自立性が無くなる為、納得することはまずない。いわばアメリカに吸収される状態は他の国の人はほぼ望まない。

 ⑤国連という枠組みでの統合なら、各国の自立性は対等とする事が出来る為、現状そこが理想的な場所となる。しかし、その上でアメリカ合衆国はその他国々と同列であり、その一国である立場を理解し、盟主としての存在は許されない状態が望まれる。

 ⑥アメリカ合衆国のここまでの貢献を蔑ろにして、盟主から外す事にアメリカ国民は納得しない。ゆえにアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合するという形を以て、アメリカで統合したという部分が生きる形で各国はそこを敬意として妥協しなければ成らない。

 ⑦現状には冷戦時代を知る世代が各国に残っている事実もあり、今直ぐに受け入れるという形で進めることは難しい。ただしグローバル社会に於いて経済的な繋がりが必須となった現状から、時代と新たな世代に「一つの地球」という意識が浸透していくことで、徐々に議論はスムーズなものと成っていくことを、旧世代の人達は寧ろ理解していく話に成る。

 ⑧よって時間的には、2050年までは最低でもゆっくりと世代意識の変革に努めていかねばならない。

 

このたった一言、

  「現世界において国連の下でアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合しなければ、世界は上手く纏まらない。」

これで全ての意味を直感的にでも理解できなければ、

孔明の話は難しすぎて面白くないで終わってしまう。

 

まあ、なぜ僕が孔明先生を出してこう語るかというと、

諸葛孔明が現実的に現代の世界を統合すると考えるなら、

恐らくこの辺で分析して結論付けるだろうという推測からです。

 

そうした現実的な分析の中で、

ましてや、日本人として

日本の社会ベースで世界を統合しなければ…

何て非現実的な野心で語るなら、

むしろ孔明先生から邪魔とあしらわれます。

いわば信長たまもそいう事です。

 

バラバラに成った日本を統合するには、

足利義昭の様に、

「室町時代の権威を復活させねば成らない」

とした考え方では、

そんなもの必要ない!!と、断じます。

 

日本を統合する意味では、先ずは民。

民となる者が統合日本の社会を享受できなければ、

先ずは一揆は治まらない。

そしてその意識の浸透こそが、

反逆者の兵力をこちら側に引き寄せる大きな大義となる。

ある意味、大名たちが兵力として充てにする民衆の心を、

先ずは政治面でこちら側に引き付けて

味方とすることが大事と考えたのです。

いわば、室町幕府の権威だけでは、

先ず結果として民百姓を生活面で苦しめる状態は変わらず、

本願寺の一向宗が権威打倒を唱えて蜂起する大義を

止められないわけだす。

また武田や上杉、毛利や北条と言った大大名の治世とも

差異を生じさせなければ、

敵方を調略する意味でも難しくな訳で、

論理的な説得力を持たせる意味でも大事と考えたわけです。

 

また、そこに信長たまは

「誰でも自由に自分の生き方を選べる社会」の構築を

目指したのです。

無論、そこに秀吉の様な存在が身分として台頭する中で、

「昨日まで粟を食っていた農民が、なぜ俺らと同列に?」

と、妬む者も出てきます。

そういう妬みは、偶々生まれた家が違うだけで、

なぜ人として、また才能を見極める意味で、

差別されなければいけない?

と信長たまは天地人の平等を視野に

無駄な権威として排除して考えたのです。

 

勿論、あからさまにその考えを否定する事も

現実的でない点は理解していた上で、

ある意味、古き権威が最低限尊重される部分を残しつつ、

新しい社会システムが徐々に浸透して行くように、

調整しながら政策を進めていたのです。

室町幕府を排除しても、天皇制を残そうとした部分は

寧ろそういうバランスの意味でも大事な事だったのです。

 

ある意味、鎌倉幕府からそうであったように、

天皇が政治に口出しせず、

幕府に政策を任せていた状態は、

劉備の子、劉禅が諸葛孔明に任せっきりで居たのと同じ状態で、

孔明がその劉禅を君主として尊重したように、

信長も天皇を君主として尊重する事に何の問題も感じなかった。

と、理解すれば解りやすいかも。

 

これを一部の学者は革新的でなかったと評価してるが、

言っちゃ悪いけど、それ違います!!

 

蘭奢待の話や、楽市楽座が信長独自の発想で無かった点など

指摘する点はあるが、

蘭奢待の話はまた次の機会にするとして、

楽市楽座の話は、

日本人が自動車を発明した訳でもなく、

自動車の産業で一時代を気付いた事を否定する話と同じです。

 

ベースとなる元ネタは他から仕入れる形であっても、

日本の自動車産業が技術面でアレンジして、

素晴らしい品質で世界を席巻した意味と同様に、

信長たまも、他から楽市楽座の発想を取り入れて

自分の政策としてアレンジして

社会繁栄に努めた点では、

良いものを確実に吸収する先見の目が合ったという事を

理解するべきです。

 

エジソンだけが天才では無いのです。

良いもの使えるものとして評価するのも才能なのですよ。

 

優秀な経営者であり、名君というのは、

他人が出すアイデアも適正に評価して、

上手に採用し、そして最大限の効果が出るように、

更に他から出るアイデアを求めて調整するのです。

こうした部分も才能であることを先ずは知っておいてほしい。

 

自分で全てを為せると思い込んでる人の方が、

寧ろ他の才能を無駄にする人に成るのです。

 

 

 

 

 

 

 

【第二十五話 大は小を飲み込む 後編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

松平広忠の三河復権に関しては、前述にも記した様に諸説さまざまである。

1537年説と1540年説だ。

問題は何れの資料も江戸時代に伝聞により記述されたものが多く、ハッキリと決定づけるものが無い点だ。

ただし、松平広忠の元服が1539年、その後、岡崎ではなく牟呂城に入城したとされるのが1540年という記録がある為、1537年から1540年に掛けては松平信定派と松平義春派で争った時期と見なしてもいいと考える。

 

中編からの続き…

1537年、今川家で起きた花倉の乱が終結すると、その期に乗じて遠江進出を考えていた松平信定思惑は大きく外れるものと成った。

ここで少し頭を捻って考えてみるとしよう。

歴史の結果を知ってしまった現代人の頭では、三河が花倉の乱に関わるなら今川義元と反目の今川良真こと玄広恵探に組みするだろうと考えるかもしれない。

いわば後の事を知れば、今川義元こそ三河存続の危機となるからだ。

ところがそれは後の経過を知るゆえにそう考えてしまうだけのことで、むしろ当時として花倉の乱の状況を精査すると、恐らく読みにくい状況であったと言えるだろう。

今川義元こと当時の梅岳承芳が何者であったのか、それを補佐する太原雪斎こと九英承菊がどれほどの人物またはその存在すら認知されていなかった状態と考えるべきであり、むしろ情報源の中心は今川氏輝の母であり、氏親の正妻である寿桂尼の動向にあったと思われる。

現代の資料でも、寿桂尼の動向は両者の間で右往左往していたように感じられるもので、恐らく三河でもその動向は錯綜して伝えられたのかも知れない。

これが寿桂尼の計略であったのなら驚きを隠せない話で、それによって今川のお家騒動に外部が介入して来なかった結果と見なせるであろうが、恐らくは単なる流れが齎した結果であったと断定する。

 

遠江奪還を計る上で三河勢がどちらに組みして進行するか迷った状態であったともいえる。

寿桂尼の背後には北条がある。

遠江を得たとしても、寿桂尼の反目と成れば北条と敵対するやもしれない。ましてその北には武田の存在も有るわけだ。

駿河が寿桂尼の反目に落ちれば、遠江には北条との緩衝地帯が設けられ、むしろそれを支援する形で三河、遠江の地盤を固める事も考えれた。

それには尾張と手を結び強固な同盟を気付いておく必要性も生じた。

清康から一時的ではあったものの三河の主導権を得た松平信定と酒井将監の目論見はここに有ったわけだが、清康寄りの松平義春らの勢力がこの動きを阻んでいたのも事実である。

 

花倉の乱がもうしばらく長引けば、三河の勢力図も大きく変わったのかも知れない。

ところがその花倉の乱が、三河で討議している間に終わってしまったのだ。

無論、その後で今川と北条が争う河東の乱が勃発した事で、信定らの主張は維持できたと言えるが、義春らは三河の主権を吉良持広に依存する事で対抗していた事も有り、その持広自体がある意味今川に取り込まれた形となっていた為、三河の対立はより激しくなったと言える。

現代の企業で言うなれば、松平信定は社長、吉良持広が会長という立ち位置で反目しあい、その会長が会社の大株主である。

今川は経営不振に陥った三河に大株主である会長側を支援する形で取り込んで三河の動きを止めていたわけだ。

 

ここで歴史資料の複雑さを紐解かねば成らない。

岡崎城奪還は1537年とされる説。

松平信定が1538年に死去し、同時期に松平義春も死んだとされる。

岡崎城は松平清康の弟である信孝によって1537年に奪われたとある上で、松平信定は岡崎城から出自の主城であった三河安祥城へ本拠を移動させたと考え、岡崎城は義春派に渡すことで対立を回避した可能性がある。

隠居の松平道閲が1544年まで生存していたと記される以上、三河の対立を調整する意味でこうした処置が講じられた可能性は高い。

更に1537年広忠が岡崎を奪還したとする説が伝聞として残った事を考えると、1537年に松平信定は三河安祥城に本拠を移す事、そしてその後継者は清康の嫡男広忠にすること、そして岡崎は義春側に引き渡すことで三河の混乱を纏めたとする方が辻褄が有ってきそうである。

その上で岡崎城は清康の弟にあたる松平信孝に渡し、義春は年齢または病の為隠居した可能性も考えられる。

記録によれば、1538年に信定と義春が同時期にこの世から消えたとされるなら、その後の経過の流れから双方の対立が過激化しないように抑えていた義春は病死し、岡崎城を得た松平信孝が反目の松平信定に刺客を送り信定を暗殺した可能性は考えられる。

 

これは松平信孝という人物を資料で分析すると、その後弟康孝の所領を横領して失脚に追い込まれた上で、織田方の勢力(信定方)に鞍替えした事が記されているため、恐らく信義に欠けた人物であったと推測できる。

岡崎城奪還の功労者として大久保忠俊が上がっている点を考えるなら、信定暗殺を実行したのはその大久保家の手の者か、大久保忠俊、忠員(ただかず・大久保忠世の父)が襲撃したかの何れであった可能性は高い。

三河物語はその忠員の孫で忠世の子の忠教によって記されたものであると考えるなら、こうした家系の暗殺という不忠を敢えて上手く隠蔽した可能性は考えられる。

大久保家は忠俊、忠員の父、大窪藤五郎という武芸者が清康によって取り立てられたのが始まりで、その直後、宇津と名乗っていた。

宇津から大窪に姓を戻し、その後に大久保に改名した事が三河物語でも記されているため、その経緯から不忠の功績で名を馳せた事は十分に考えられる。

一介の武芸者であったことと、これを期に松平家の重臣として出世したことまで裏付けると、忠俊と忠員の兄弟が信定を暗殺した点は否めない。ある意味ひと昔前の任侠の世界の出世話に類似している。

その功績により松平信孝に大きく取り立てられたと考える方がよいと言えよう。

そして、信定の死から2年後、1540年には織田信秀がその安祥城に兵を差し向けている。

そして信定の家督はそのまま嫡男の松平清定が継いでおり、安祥城をそのまま引き継いだと思われる。

 

これらの情報を総括してこの流れを分析すると、

1538年に松平信定が死んだことで、一時的に三河の実権は松平信孝に移ったと考える。

無論、信孝は広忠の後見人という立場を表明しながらも、その一時のおごりから横暴な統治をしたことが考えられ、吉良持広がいち早く広忠を岡崎に入城させたいと考えたともいえる。

また、安祥城の松平清定は信定暗殺の首謀者を信孝と見なすことも想定され、清定が尾張の織田信秀と通じて岡崎奪還を目論んだ可能性も高い。

このころ隠居の松平道閲の影響力は既に無くなっていた。

実子の信定と義春、二人が消えた以上、一族としての統制を訴える術がないとも言える。

清定は父・信定の暗殺は信孝の仕業と言い、信孝は尾張の手の者だと言い張る。この時点で両者の対立は完全に引けない状態に成ったと考えられるのだ。

道閲であり酒井将監が優秀であったとするなら、姑息な形で三河を支配しようと試みる、いわば義春の死後、広忠の後見を名乗って岡崎を専横し、信定を排して自らの地盤を固めようとする信孝をそのままにしておくのは国を危うくするだけと考えるのが普通である。

では、一方の尾張は信用できるのか?

無論、そこは織田信秀という人物に寄るところであるが、恐らく信秀が優秀ならその二人の信用を勝ち取る意味での忠義は示してきたと言える。

信秀はこの時期尾張の支配者では無く、むしろ尾張の中にも敵は存在した。その上で三河と上手く付き合う必要性の方が十分に高かったのだ。

出来るだけ今川との緩衝地帯を設けたい。

戦略面で考えても、松平信定、道閲、酒井将監とは上手く付き合う必要性が生じるのだ。

 

1539年織田信秀は古渡城を築城して、熱田周辺、三河との国境の拠点を確保すると、清定の援軍として安祥城へ兵を向ける準備を整え始まる。

この動向は無論今川方にも伝わるわけで、古渡の築城という情報と三河の情勢を計算すれば推測するに至る。

今川方の分析では、岡崎を支配する松平信孝はその横柄なやり口から信用に値する人物と見なしておらず、むしろ今川方として三河を任せるには危うさを感じていたのだろう。

そういう経緯から1539年に広忠を元服させた点は合点がいく。

これは吉良持広とも共有していた考えであったのだろう。

今川の後ろ盾によって広忠が元服した事は、もちろん三河に伝わった、と、言うよりもあえて三河に伝えたのだ。

その上で松平信孝に圧力を掛けたのだ。

その松平信孝でも松平清定が織田信秀の援軍を得て岡崎を狙う事くらい察しはつくはずで、その上で今川まで敵に回しては太刀打ちできない。

何時の時代にもこうした調子のいい輩は存在する訳で、信孝はすぐさま態度を急変させて広忠を受け入れる準備に取り掛かった。

それが1540年の事だ。

 

この1540年の三河の情勢を精査すると、以下の事が発生している。

 

織田信秀が安祥城を攻略する。

松平広忠が牟呂城に入城し、そして岡崎城に入城する。

西条吉良の当主義郷が死ぬ。

東条吉良持広の後を継いだ西条吉良から養子いりした吉良義安は義郷の西条の当主となるはずだったが、叶わず尾張方と結ぶ動きをする。

 

とてもややこしい情勢が見受けられる。

 

複雑な情勢を齎す中では、様々な利害とそして策略が成立するのだ。

 

先ず織田信秀という人物が如何に有能であり、その参謀として林秀貞が如何に策略に長けていた人物であるかを伝えよう。

信長が化け物であった故に、今川義元も林秀貞の様な人物も、そして朝倉義景も暗愚な人物として評価された。

しかし信長の存在が無ければ、むしろ彼らは有能な人物として名を馳せたであろう事は理解してほしい。

 

参謀とは君主の要望と算段に一体となって実現に導くものを言う。

君主が奇策を採用した際に優秀な参謀はその奇策が確実に成立するように細かい手順を整えるのが役目なのである。

必ずしも策を提案する者が優秀な参謀では無いのだ。

大きな所帯の軍事会議の中で、様々な意見が往来するのは理解できるだろう。

これは今の企業に於いても同じだ。

ザックリとした策を唱える者はその中に沢山いる。

優秀な君主はそうした沢山出るアイデアを奨励して、どんどん出させる訳で、暗愚になればなるほど明確な企画を求めて発言を絞り込んでしまうのだ。

日本では後者が横行して会議に活気がない点で理解できるかもしれない。

ザックリと提案されるアイデアから可能性を引き出し、そして採用するのが本来優秀な君主なのだ。

そしてそのザックリとした提案を確実に成功するようにまとめ上げるのが優秀な参謀となる。

三国志でいう劉備は優秀な君主なのだ。

しかし、ザックリしたアイデアを出す人材が居ても、最終的にそれを取りまとめて確実に実行できる状態に以て行けないと、どこかで失敗するのだ。

いわば諸葛孔明が優秀な参謀とされた点はそこにある。

アイデアとしてこの地帯で火計を用いる。

ここで挟撃して殲滅する。

そういうアイデアは寧ろ経験豊富な関羽や張飛も思いつく。

無論、

「ここで敵が混乱状態で居れば、俺なら殲滅できる。」

というアイデアも張飛なら出しそうだ。

一つ一つはバラバラな提案に成ってしまうわけだが、

これが上手く構成されない状態だと、

関羽の様な人物が、

「拙者が敵陣に突入して敵を混乱させてみようか…」

などと行き当たりばったりな作戦に成ってしまうのだ。

無論、関羽なら出来るかもしれないが、それは敵に何の備えも無ければの話で確実性は無い。

相手がこちらの戦力を把握したうえで対処してきたのならという、詳細が欠けるのだ。

優秀な参謀とは、そういう詳細を考慮した上で、その場所で敵が混乱するという状態を導き出すのだ。

吉川英治の三国志の新野の攻防戦で見受けられるように、敵を誘引してその地点より奥深くまで誘い込むという形で考えた場合、

兵力差で敵が油断するように誘い込む演出をも構成する。

そこを計算した上で、その奥の地形を見て敵が火計に気づくだろうタイミングを予測し、その判断より早く火計を仕掛けることで敵は混乱した状態で後方へ下がる動きとなるのだ。

その地点に敵が斥候を放っても、味方の伏兵が察知されない状態で、伏兵が上手く動けるルートも調整する。

優秀な参謀がこれらを全て一人で計算するという妄想は小説の世界だけにして欲しい部分で、現実的には優秀な参謀は会議の中で色々な人に意見を求めながら現実的に出来る事を導き出すのだ。

伏兵を動かすルートにしても、その地形に詳しいものが居れば、知らなかったルートも見えるわけで、そうして確実に近づけることで高い精度の計略と成るのだ。

これを筆者は

「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げ実行すること、これ奇策なり」

と、表現している。

また六韜にも、殷を亡ぼす際に太公望が慎重に確実に実行できるまで計を待ったという話も似たような意味として成立するだろう。

 

織田信秀が優秀であったのは、尾張の一勢力、いわば企業で言うなれば営業部長という役職ほどな立ち位置で、大企業である今川と対峙しなければ成らない状態で十分に渡り合えた点だろう。

尾張自体でも意見がバラバラな状態で、尾張という企業を一体にまとめ上げて動かすのは難しい状態でもあった。

そうした中で自分の勢力圏を確保するのに、三河と結んで今川との緩衝地帯を設けて、今川が支配していた尾張南部を自分の管轄圏として手に入れたのだ。

尾張としては今川方の領地のため諦めていた場所ゆえに、信秀が自分の力で手に入れたところに干渉する余地はない。

無論、そのことで信秀は清州織田の大和守家と揉める事も有ったが、ある意味単なる役員同士の喧嘩で会社全体から締め出されるような不義を働いたことでは無いのだ。

とは言えその功績を妬む輩も存在する中での話ゆえに、信秀としては松平信定らの三河勢力は大事な存在であった。

そうして尾張の主要勢力が手出ししなかった地域を得ることで、信秀は大きく成長することが出来た。

無論信秀が無策無謀な人間ならその目を三河侵攻に向けたであろう。しかし、目先の欲に溺れて不用意に敵を作るような発想はせず、尾張での地盤を固めることに寧ろ専念することを選んだのだろう。

その為、大きな敵となる今川との境界線に緩衝勢力を設けておきたかったとするのは賢明な考えだと言える。

清康から信定に権限が移った際は、信秀の東への脅威は一旦薄れた。ところがその信定から信孝に移ると、今川への緩衝地帯の機能は薄れるのだ。

ましてや彼らが担ぎ上げた広忠と吉良持広は今川の手にある。

また、西条吉良も今川と縁者になり、その当主吉良義郷は今川の傀儡というより従属した存在となり果てたのだ。

そういう意味では今川が三河の主権を得たのも同然である。

 

ここでこの1540年に吉良義郷が急死するという話を挟んでおこう。そしてこれを期に再び吉良氏の跡目争いでいざこざが発生するのだ。

 

吉良義郷の死因には諸説あるようだが、1537年に今川との戦いで戦死した説はこの状況からは実際には考えにくい。

寧ろ1540年に信秀との戦いで戦死したという方が信ぴょう性がある。

 

それらを踏まえて今川の立場でこの情勢を考えるなら、三河で今川の反目に当たる安祥城の勢力を三河勢だけで殲滅させるには、松平信孝では心もとなく、広忠では逆に纏まりすぎる。いわば広忠では三河は松平の勢力として勢いづきすぎる。そこで吉良の威光の下でこれを殲滅するのが得策と考えた。

無論今川義元と太原雪斎の会話の中では、

義元が

「広忠が岡崎に入っては清康同様に三河勢が勢いづくのでは…」

 

と懸念を述べると、

雪斎が

「ならば吉良義郷を安祥攻略の総大将として送りなさっては」

 

と提案する。

義元はすぐさまその意図を汲み取ってその通りに採用した流れが見えてくる。

 

現状、西条の当主義郷と東条の当主となった義安は兄弟である。

いわば長男の義郷が西条吉良の当主となっている時点で、その弟が引き継いだ東条は完全に分家化した形となる。

故に吉良の威光を以て三河を支配するに、東条の義安よりも姻戚関係にある義郷の方が使い勝手が良かった。

その為、松平清定らを主家の吉良に対する反逆者として始末する形で安祥城攻略に送り込んだのだ。

更にこの時期に松平広忠を牟呂城に入れて参戦させる形を取ったことで、今川よりの松平勢力を吉良の名の下で団結させる効果も得たのである。

これに援軍を差し向けたのが織田信秀と成るのだ。

まるで信秀が義侠で援軍に向かったかの内容になるが、前述のとおり信秀にとっては死活問題で、むしろ三河が吉良の威光で今川に完全に奪われる方が厄介になる、その為の援軍なのだ。

しかし、今川が吉良義郷を総大将として送り込んだ点に信秀は形勢の不利を感じた。そこで林秀貞に相談するや、

秀貞は

「吉良は今川の傀儡のような形であからさまに送り込まれたのは誰が見ても感じる事…ならばその不信感を逆手にとって討幕の徒として今川に当たりましょう。」

 

信秀は、

「それでは三河の団結を如何ほどにも崩せまい…」

と疑問を投げかけるや、

 

秀貞は、

「まずは岡崎の団結を崩す前に、安祥の闘志を維持することが先決です。その上で形成によっては心変わりする勢力に期待するのです。」

 

そこまで秀貞が述べるや、信秀は

「なるほど・・・ならばその役目を義統公に頼んでみよう。」

と、秀貞の話で動き始めた形で進んでいく。

 

そしてその援軍の大義として信秀は寧ろ斯波義統の名を借りて、今川を幕府への反逆者いわば守護の吉良氏を傀儡として討幕を狙う者という形で対抗したと考えられる。

この大義がどういう意味を為すのか?

戦に於いて各勢力を味方につけて戦う方が有利になる点は理解できるだろう。

本来守護職にあたる吉良の名を以て三河を制圧しようとすれば、三河の諸勢力はそれこそ正当な側と見なして従いやすくなる。

しかし、その吉良が駿河の今川の傀儡として扱われているというネガティヴな情報を盛り込むと、三河が今川に乗っ取られてしまうというイメージが生まれるわけだ。

民主的な見識でもこれで世論が分断されてしまうように、三河の勢力もこうした大義の主張で分断されるのだ。

それによって団結した力は削がれ、むしろ戦いやすくなる。

相手が100%団結して向かってくるより、70%でも60%でも力が集結しない方が不利な側としては戦い易いのだ。

故に信秀のこの戦いでの安祥城攻略は、占領では無く寧ろ松平清定と酒井将監らの勢力を三河に維持する事にあったと言えるのだ。

信秀が占領した方に成れば、今川に疑念を抱く徒を誑かしたことに成り、その後の緩衝地帯という目的で維持するには色々と厄介な状態に成る。

無論、歴史的な結果として、この戦いで担ぎ出された吉良義郷は戦死し、安祥城の勢力は斯波家の大義の下で生き残ったことに成る為、信秀に攻略されたという風に映ったのだろう。

 

吉良義郷の戦死は、ある意味今川にとっては誤算となった。

そこで弟で東条を引き継いだ吉良義安が西条の家督も次ぐ形で調整していたが、今川としては本来主家に当たる吉良両家が統合されることを良しとせず、義郷、義安兄弟の三男にあたる弟義昭に西条を継がせる形にした。

今川義元にとっても、太原雪斎にとっても今となっては吉良を恐れるゆえんは無いようにも感じる。

しかし、吉良義安に何らかの野心的な思惑でも感じたのか、義安に大きな権威を与えたくは無かったためとも推測できる。

ある意味、その義安に両吉良当主の立場を与えたなら、三河の松平を抱き込んで三河で独立を果たしたのかもしれない。

また、安祥攻めで西条吉良の名目で松平広忠を担ぐ三河勢を動かしたこともあって、今川の影響下で当主にした義昭の方が西条吉良を傀儡にして三河勢力を支配する意味としては取り込みやすくなると判断したのだろう。

結果として東条吉良を相続した義安は西尾城に、そして西条吉良を相続した義昭が東条城に入ったと思われる。

その義昭はその後に家康と戦いその東条城を追われたとされている結果からこうした流れとする裏付けになる。

 

こうして今川の仕打ちに苦汁を舐めさせられた吉良義安は、吉良の復権を願って松平清定らと通じた事も理に適う話となる。

清定らを頼って三河を今川支配から取り返そうとするにあたって、自然尾張の勢力とも通じたという記録に成ってもおかしくはない。

無論、義安のこうした狙いは彼の素養や姿勢から今川も警戒していた通りだったのかも知れない。

後の結果としてこの吉良義安が信長と家康の間で上手く立ち回り、江戸幕府まで続く家柄として存続をはたすのである。

そして年末定番の赤穂浪士で有名な吉良上野介義央に続くのであった。

 

さて、一方の松平広忠はというと、今川の圧力に脅えた信孝が素直に岡崎城を広忠に引き渡して、安祥攻略に向かったため、大きな抵抗も無く松平当主となった。

その為、信孝と康孝の協力の下で岡崎入城を果たしたとされるが、その後安祥城攻略に失敗し、更には吉良義郷を死なせた責を信孝は取らされることと成り後見人から失脚する。

松平の名目上、弟康孝の所領を横領した罪に問われているが、実際は今川の権威を三河に浸透させる意味で、今川により理由を突き付けられて失脚させられたとする形が現実的である。

実際にこの時代の罪状は全てを信用するべき話では無い。

寧ろ後見役として信孝の素養が今川に危ぶまれたとも考えられ、信孝が広忠を上手く傀儡にしてしまう前に、弟の康孝を今川が取り込んで罪状を突き付けさせたうえで兄の命を救う代わりに失脚させたと考えても良いといえる。

寧ろそうした情状の様な形での調整が無ければ、安祥攻略の失敗および守護の吉良義郷を死地に追いやった罪で、良くて流刑、悪くて死罪で処理されたかもしれないのだ。

無論、その名目は新たな当主吉良義昭を通じて…

 

また、西条吉良の義昭が東条城に入ったことで、三河の守護はその吉良義昭であることも念を押された。

いわば今川は三河という企業の会長から大株主という権限を奪い取って名目上の会長職に傀儡の人間を送り込んだようなものである。

そしてそれは役員を送り込む話以上に大きな存在となり、社長となった広忠は社長として独立した采配を許されているが親会社である今川の意向には決して逆らえないという状態であることを意味した。

 

結局は松平広忠が無能であったという事では無く、その生涯は最も不運な人生で、死して初めて幸運を得たという感じではなかろうか。

松平道閲、信定そして酒井将監らが守ろうとした三河の独立性は、むしろ様々な形で崩れ去り、結果として今川に上手く取り込まれてしまった。

ある意味、今川氏親や北条早雲を以てしても切り取れなかった三河の地は、今川義元であり太原雪斎の調略でこうした抵抗勢力を上手く切り崩して手に入れたようなものである。

寧ろ織田信秀が今川との緩衝地帯として三河を意識していた点も利用され、今川は逆にその信秀ら尾張との緩衝地帯として調略で三河を懐柔することで河東の乱で敵対した北条との戦いに備えたと思われる。

甲斐の武田、相模伊豆の北条という戦上手との間で立ち回った今川の手腕は評価するべきと言えよう。

 

無論、織田と今川は結果として三河でお互いの緩衝地帯を残すことに成功した。そしてこの後に2つの勢力は一旦は別の方向へ意識を向けるのであった。

 

次回、信秀の美濃攻略へと続く…

 

どうも…ショーエイです。

ホントに戦国時代の情勢は解りにくいです。

小説では色んな所が端折られて、

色々適当に盛りこんで、

主人公の都合で作られているのですが…

端折らずにちゃんと辻褄合わせようとすると頭痛いです。

これ書く前は、正直オッサン先生逃亡していたようで、

それ故に中々筆が進められなかったみたい。

でも、書き始めると色々集中して見えるように成って、

スラスラと書けたらしい。

 

ただ、もう一点は時間を置いてしまって、

どの年の説を採用していたのか解らなくなるそうです。

「それは貴方の怠惰な生活のせいだろ!!」

と、一言で言えてしまうのですが…

 

さて日本の歴史を見るにあたって、日本の史書には私観が多すぎる。

あと、主観側の正義を主張し過ぎて、敵を馬鹿にしすぎる。

まあ、中華の歴史にもそういう部分は存在しますが、

その点は司馬遷を例に挙げても様々な観点から考慮されます。

しかし、日本人が物語として記す場合には、

正に時代劇そのものパターンに成りすぎる。

悪者が居て、その悪者を成敗!!

まあ、ウルトラマンにしても仮面ライダーにしても一緒です。

因みにハリウッドのヒーローものも一緒です。

そして間抜けなほど悪者はあっさりと倒されます。

 

まあ、今の時代を見ても、

どこかのアホな元首相の様に、

「越後屋…お主も悪よのう…」

みたいな事は行われている様に見えるので、

正直何とも言いようが無いと言えば言いようが無いのですが…

こうした間抜けな悪は、江戸時代の象徴でもあるように、

平和ボケした社会の成りの果てなのです。

 

寧ろ緊張感のある戦国時代では、

着服や横領などは反逆行為で始末されます。

それだけ神経とがらせてピリピリした状態な訳です。

 

情報の扱いも神経とがらせて処理しないと、

計略によって大切な味方を誤って失ってしまう。

今の時代も昔もフェイクニュースが飛び交う中で、

フェイクニュースに踊らされる状態は

間抜けな結末を齎すのです。

 

そうした中で大きな勢力として残った存在は

決して間抜けでは無いと考えるべきなのです。

 

さて、織田信長と武田信玄どちらが

戦上手かという話をしてみます。

誰もが武田信玄と疑わないと思います。

織田信長は武田信玄にビビってた。

確かに信長たまは信玄にビビってた、出来れば戦いたくない。

そう考えてたのは事実ですが、

仮に信玄が三方ヶ原の戦いで家康を粉砕して尾張の境界線に踏み込んでいたらと成れば別物です。

寧ろこの時信玄は一歩も動かずに撤退した訳ですが…

信玄が信長にビビったという事を

避けるために病気に成ったとしているだけなのです。

無論すぐにそのあと死んじゃいますが、

何故その前に信玄が立ち止まってしまったのか?

フェイクニュースの憶測で言うなれば上記の通りです。

 

しかし、ちゃんと戦況を分析してみれば、

信玄が賢かったゆえに動かなかったと言えるのです。

それだけ信長にビビったともいえる。

何故か…

資料によると信長は浅井朝倉との戦の真っ最中で、更には足利義昭とも対立した時期、その後で、すぐに岐阜で軍備を整えてます。

誰もが岐阜で軍備を整えて

南下して信玄を迎え撃つ発想をするでしょう。

そもそもが違います。

そんな程度なら信玄は立ち止まらなかった。

ある意味、戦術で決戦する構えで進行してきた。

ところが信長の狙いは岐阜から

木曽の方へ向かう動きでけん制したのです。

東美濃の岩村城が陥落したのは武田方の奇襲の為でした。

畿内、越前、北近江の戦で手が回らなかった事も有り、

ある意味武田方に降伏させた形にした。

 

三方ヶ原の戦いまでの経緯で、浜松城の北側の二俣城を攻略した武田信玄は浜松城を狙わずにそのまま浜松城北西の野田城方面へ兵を向けた。これは長篠の戦いで敗れた勝頼も同じルートを通ている。

このルートは山間部が多く、決戦として迎えるには武田方が有利に働く計算だったと思われる。

三方ヶ原は二俣城から野田城への間の場所で、武田軍が山間部に入ってしまうとその消息を追跡することが困難で、三河方面の防衛に支障を来たす状況にあった。

家康は武田方と決戦するにはこの視界が見通せるこの地でしか無いと悟った。

武田方の戦略は巧妙。しかし歴史評論家では分析しきれない。

家康は武田の大軍を前に二俣城と浜松城どちらで迎え撃つかで奔走した。その結果浜松城に主力を留めた。

大軍を以てしても兵を城攻めで削られていく状態は、その侵攻に支障を来たす。寧ろ家康は二俣城は陥落しないだろうと見越して、浜松城で待ち構えた。

ところが水を断つという計略によって、二俣城は陥落してしまう。

更には武田の兵力は殆ど減っていない。

そこでより一層浜松城への警戒を強めたのだ。

ところが武田軍はそれを逆手に取って、援軍や兵力が集中できない場所を攻略していった。

無論、三河の岡崎にも警戒のための兵力を用意していたが、武田方が動けない徳川方を尻目に、好い様に城を攻略されていく状態ではジリ貧していく感じになってしまう。

寧ろ信玄の挑発の狙いはここにあったのだ。

そして地の利を活かせる状態で敵の主力を殲滅できるのなら、浜松城はその後落しても十分と考える。

三方ヶ原に誘い込まれたのはそういう事である。

ところが恐らく徳川軍は総兵力で三方ヶ原に向かわなかった。

寧ろ浜松城に仕掛けを残してそこに誘因する作戦で挑んだと思われる。

そして武田軍に敗北した振りで浜松城に逃げ帰った。

無論、山県昌景が追撃してくるが、

あえて空城の計を用いた為、警戒されたのだ。

???

孫子などを良く知る武田軍が空城の計を見て、策なしと判断することは無い。

家康は裏の裏を相手が読んでくると考え、あえて空城の計を用いた可能性の方が高い。

また三方ヶ原から浜松城までガチで逃げ帰った事も間違えないだろう。

適当に戦って上手く逃げるつもりだったが、武田の騎馬隊の足の速さに逃げ切れるのかすら危うく成るほど焦ったのも事実だろう。

その為に多くの戦死者を出してしまった。

ガチで逃げ帰ったのだから武田も騙されてくれる…そう感じて用意していた伏兵も、結局は山県の速やかな退散で無駄に終わったのが結末だ。

確かに武田信玄は凄い。

ところが…三方ヶ原に来ていた兵数を見るや、意外に少ないのだ。

ここも家康の誤算であった。

山間部に持ち込まれたら、武田の伏兵やゲリラ戦術に太刀打ちできない。

そのため出来るだけ平野部で戦いを挑もうとしたわけだが、平野部では逆に味方の兵数もおおよその規模でバレてしまう。

無論、浜松城に8000の兵を入れていたとして、1000を城内、2000を伏兵、そして残り5000で三方ヶ原に挑んだとしても、逆にそれ以上の軍で行軍している相手に対しては少なすぎる。

また、織田方の援軍を合わせても1万ちょっと…

寧ろこれに信玄は警戒心を抱いたのだ。

 

信玄は織田方の援軍は大軍で迎え撃ってくると想定していた。

その上で織田軍が得意としない山間部に誘い込んで、これを殲滅する算段であった。

そうすれば徳川も織田も厳しい状況に追い込まれる。

ところが織田軍は援軍を抑えてきたわけだ。

更には尾張にも美濃にも相当な兵力を残していると警戒する状態だ。

そして織田軍の美濃衆の存在で、彼らは山間部のゲリラ戦に慣れている。

そいう警戒心から野田城攻略に慎重に成ったと言え、信玄は信長の動向をイチイチ気にし始める。

さて前にも話した様に、動向を探ってくる相手を逆に翻弄させるには、オープンな自分の動きが予測できない状態で動けばいいのだ。

寧ろ信玄の興味が自分の動向に移ったのだから、信玄を惑わすのは簡単と言える。

そして信長はいつ岐阜に入るタイミングとするかで勝負が決まると察していた。

因みに、そのタイミングを計算してはいません。

だから一層相手が読めないのです。

無論、野田城攻略に時間を掛けているという情報は信長にも筒抜けです。

勿論信玄も遠江攻略に別動隊を動かしているが、家康もあえて動かない。

そこで信玄ほどの人物が最悪な事態を想定しないわけが無いのです。

信玄にとって最悪な事態は…

木曽から信長が大軍で攻めてくることです。

または飯田のあたりに。

実際、後の武田攻めではここから進出している。

無論、木曽との境にある恵那地方を抑えているため、簡単には木曽へ抜けられないと考えるが…

信長の戦略は読みにくいと感じるでしょう。

病に侵されて死期を悟った信玄は、死ぬ前に信長と決戦しておきたかった。しかし、死期を前に信長が正面衝突を避けて、あえて糧道を遮断してくる作戦に出られると、三河の奥地に入り込んだ武田軍は逆に苦境に落とされる。

そして案の定、野田城が開城降伏するや…信長は岐阜に現れるのです。

さて、武田方の軍記物では、この時信長が1万の兵を以て岩村城に現れ、馬場信春ら有志が決死隊でこれを撃退したと有ります。

その際に27将の首を取ったとか書いてあるが、信長はあえて岩村城に侵攻せずに撤退しただけとみます。

いわば武田軍が三河から撤退したわけで、無理に戦争を続けることは避けたという形。

 

無論信長たまからしてみれば、浅井・朝倉に本願寺と忙しい中で武田まで相手にしてられないわよ!!

 

と、言う状況な訳で引いてくれたの有難いというのが実情でもあった話です。

 

因みに武田信玄が名将である事には変わりないが、上杉謙信であり、北条氏康などとは一進一退を繰り返していた。

信玄びいきの話だと、信玄が信長を攻め滅ぼせたように幻想を抱いているが、上杉謙信であり北条氏康でも、強敵相手に決着を着ける事は出来ていないのです。

 

寧ろ信長たまは誰とでも喧嘩するクレイジーな人で、ある意味よくあの信長包囲網の状態で滅びなかったねという感じだと思います。

 

因みに三方ヶ原の状態で本当に信玄と信長たまで決戦に挑んでいたら?

恐らく信長たまは素直に

「勝てる自信は無いが…負けるつもりで勝負はしない。」

という感じになる。

それは上杉謙信との戦いを柴田勝家に任せた点から察する話で、

 

「カッチーよろしく!!」

 

で任せちゃう。

 

「まあカッチーでダメなら行くけどね。勝てるか知らんけど。」

 

みたいな感じになる。

 

ただ、実戦に入るとまた違う話で、

先ずヤバいと思ったら直ぐ撤収。

そして守りやすい場所を用意してそこで迎え撃つ。

相手がアホならそこで殲滅。

アホじゃ無ければ引くだろう。

これが信長流であり多分諸葛孔明流です。

故にアホな敵は計略に引っかかったように成ってしまう。

別に狙ってそこに誘ったわけじゃ無く、

ただヤバい時用に用意してただけ。

 

多分、浅井の裏切りで逃亡した金ヶ崎の戦いでは、

こういうのを用意していた。

そこで殿入れて防いだので無事逃げ切れたのと、

殿組も生き残れたという感じだと思う。

いわば朝倉方の敵をそこで防げば、挟撃してくる浅井側は逃げるついでに突撃して撃退していけば良い。

背後から来る予定の相手を撃退していくことで退路が開くわけですよね。

四散して逃げるほど間抜けな事は無いです。

朝倉側には用意した陣立てで

殿(しんがり)組みが防衛しているから、

敵は背後を狙う浅井の兵力だけ。

なら逆に油断している浅井兵に本来の主力騎兵が突撃したら?

相手は多分ビビるでしょ。

しかも、逆に大軍ですよ。四散していなければ。

こうして血路を開いて逃げた。

浅井兵がそれで退散しちゃったら、殿組は孤立することなく何とか逃げ切れるわけです。

ただし何処で敵に遭遇するか解らないのと、休む暇が無く逃げ続けるので敵が退散しても陣容と立て直すのは無理があるのと、

逃げる上で兵糧やら余計なものは捨ててきてるので、

逃げたら目的地までまっしぐらに逃げるしか無いです。

殿組は少数で要衝を守り続ける分、守り易くても疲れる。

その上で退路が開いたとしてもお腹もすくし疲れてるしで、命からがら逃げかえる感じになるのです。

 

勝てる自信が無いから用意周到に色々やっておくわけで、負けるつもりが無いから退路も確保してヤバいと思ったら直ぐに引いちゃう。

 

これが実はうつけの兵法の基本なのです。

因みに劉邦が項羽相手に死ななかったのもこんな感じ。

項羽は賢く深追いして来ないから、劉邦はいつも逃げて負けた状態に成ったという感じです。

 

なんかダラダラと書きすぎたかな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第二十四話 大は小を飲み込む 中編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

前話の清康家督相続を経て、若年時の清康の動きには酒井将監や清康の叔父にあたる松平信定らの進言が反映されていたと考える。

逆にこのころ清康の祖父である松平道閲(長親)はほぼ政治の世界から離れて完全に隠居したのだろう。

道閲という人物が英明ならば、信忠が廃された動きは自分の存在が家中の分断を招いたと感じても可笑しくない話で、それを避けるべくして隠棲を決断したと思える。

以後、しばらくは道閲の存在は史書からもあまり見られない点でそう察するものとする。

 

松平、いわば安祥松平の当主となった清康は先ず三河の松平家を統合する意味で、岡崎城の攻略に動く。

無論、崩壊した本家筋にあたる岩津松平家に代わって分家筋にあたる安祥松平が幅を利かせているのに反感を持つ家があっても可笑しくは無いからである。

 

そして岡崎の大草松平家を降伏させると、1529年清康18歳の時に東三河攻略に動いている。

3年前の1526年には今川氏親(義元の父)この世を去っており、今川が盤石でない状態をついて東三河に目を向けた可能性はある。

これが清康の判断であったとするには18歳という微妙な年齢でもあるため、恐らくこの進言は酒井将監や信定のものであったと察する。

 

また、吉良持清も氏親の死を知って今川寄りの姿勢を緩めたことも考えられる。

ある意味東条吉良としては、京の混乱でほぼ消息不明状態になっている西条吉良の義尭の存在を気にする必要もなくなったわけで、松平の勢いを頼り浜松壮を取り返したうえで東条が吉良正当家としての証明を考えても不思議ではない。

無論、政治的、いわば外交的な立場を堅持する意味で表立って東三河攻略を指揮することはしないまでも、信定や将監の意向をただ黙認していた状態にあったと言える。

 

所がその当時の今川は氏親の正妻である寿桂尼によって纏まっており、その1529年に清康が今橋(現在の豊橋)付近を攻略した時点で、遠江との国境に達したことを悟ってか、寿桂尼は三河の外交ルートを維持していた持清にある種の和平を持ち掛けたと考えられる。

 

清康の年齢を18歳という微妙な年齢を表現した意味は、信定や将監らの進言通りという形の指示で動かされていたことに対して、自己の自我が芽生え始める年齢でもあったためである。

 

三河の政情を今川方から推察するのなら、氏親の死を以て生じる隙を狙って吉良の威光を示すべく浜松壮奪還を狙っている点は察しが付く。その背後に吉良持清の存在がある点も警戒して考えたであろう。

今川の北には武田信虎が控えており、東の北条と結んで上手く退けてはいるが西まで危ぶまれれば今川としては窮地に追い込まれかねない。

この時点の状況下で西の最大の脅威は松平道閲の存在である。

無論当時の情報網のレベルでは、道閲が隠棲しているという確証は持てない為、院政状態を疑う方が賢明で、最低でもいわばその息子の信定と酒井将監の存在は意識して考えねば成らない。

東三河攻略を得て、浜松壮奪還、そして遠江制圧まで目指すだろう道閲一派と想定する相手に対抗する手段を模索せねばならなかった。

 

そういう困惑の中で今川に確実な情報として伝わるのは、東条吉良持清と当主と成った若武者松平清康との関係性である。

名前の「清」の文字にその関係性を見出すのは当時の技術として当たり前とも言えるもので、持清を動かせば清康を動かせる可能性を見出したと察する。

また18歳という年齢は現代でも同じで、思春期から青年期への転換時期でもあり、色々と心を動かしやすい年代でもある。

いわば14歳くらいで生じる反抗期の延長線で心理学上自我や自尊心を大きく求める時期でもある。

もし、寿桂尼を中心とした今川家臣団がこれらの情報を元に戦略を練るのなら、西への備えは道閲一派と清康への「離間の計」であると察する。

離間の計とは敵同士の仲たがいを促す策である。

この時点で考えられる「離間の計」の効果としては、最大で道閲一派と清康が同士討ちを始めることにあり、最小でも今川への目線を寧ろ尾張方面に向けさせることにある。

そこで今川は外交ルートを残していた持清を操って、清康を翻弄させる手段を用いたのだ。

 

先にも記したように持清からすれば西条吉良の存在が自身の身分の行方を左右するものと成る。

そして今川は浜松壮を落とした際のその西条吉良との和解で、吉良義尭の正室に寿桂尼と氏親の長女を娶らせた。

この時点で今川は吉良義尭の所在を情報として手中に収めていることになる。

この政略結婚が三河を意図したものであったかは定かではないが、恐らく体裁上の理由で、策略に用いる切り札としては考えてはいなかったと思える。

しかし、ここへ来てその政略結婚が持清を動かす最良の道具として機能するのである。

いわば今川は、持清に

「三河と今川との関係を良好に導いてもらえぬのなら、浜松壮は娘婿の吉良義尭にお返しせねば成らなくなる。」

と送るのであった。

文脈は「脅し」であるが、

体裁上は三河が浜松壮を奪還するのなら、それは吉良義尭殿の所領と成るだろうという文脈にもなるのだ。

いわば東条吉良の持清としては奪還であり返却であり、どういう形であっても避けたい意味を持つ。

そこで御しやすい若武者清康に、今川との関係は自分の顔を立てて崩さない様に頼むのであった。

 

持清は齢50代半ばか60代に差し掛かる人物で、老練巧みな言葉を以て清康に語り掛ける。

 

「今川方も清康殿の武名を大いに恐れて和平を申し出てきた」

 

と、いう形を用いて清康の自尊心を刺激した上で、

 

「これを機に今川とは今後、友好な関係を用いて寧ろ西に目を向けるべきではないかのう・・・」

 

とさらに説き、

 

「そなたは吉良…いや三河の宝じゃ、ここは小事は捨て、将軍の混乱を救うべく西に目を向けて天下に名を轟かせるべきではないか。ワシも大事を前に吉良の本願である浜松壮奪還の気持ちは捨て去ろう」

 

と、若武者の気持ちを煽るのだった。

いつの時代も焦る老害はこうして上手く若者を誑かすのだ。

 

この席に信定や将監らの反目の立場にいた信定の弟にあたる松平義春も同席していたのなら清康は大いにその言葉に後押しされたと言える。

実際にその義春は持清家督相続の際の後見人だった記録があるのだが、寧ろ時系列で考えた際、怪しい伝承である事も考慮するとそこは無視しても構わない。ただし吉良持清との関係性を考慮する意味では参考としもよいと考える。

 

無論、清康と持清の関係も「清」の文字の偏諱の関係のみならず、若き清康の良き相談相手として常に接していたとも考えられる。

持清が三河勢力を御するための算段で接していたのか、偏諱という絆を意識して情を以て接していたのか、いずれにしても清康を可愛がっていた事は考えられる。

また酒井将監や松平信定らの傀儡として不満を抱くこともあった清康の愚痴を聞いてやる存在でもあっただろう。

ただ、これまでは将監と信定の浜松壮奪還を目指す動きに持清自身も期待を抱いていたわけで、そういう意味で清康を上手くなだめていた存在として考えられるが、事態が急変した事で寧ろ清康を煽って方向転換を示唆した形と成った。

 

同席した義春が持清の言葉に惑わされたというより、持清の自論である西条は遠江、東条は三河の守護という事に同意しており、領国に留まっていなかった西条より領国に留まっていた東条を守護として立てて三河を纏めるべきという立場に居たと思われる。

これは清康の父信忠もその考えであったと言える。

どちらの忠誠が正しいのか、それは三河を纏めるという目的の中でそれぞれに見識が異なっても可笑しくはなく、寧ろ西条吉良の存在があやふやになった以上、義春らの主張が強くなるのも自然な流れであると言える。

 

一方の酒井将監や信定らは、西条の消息が不明と成った状態では清康が守護代(守護の代わり)という意味で、下剋上の下で力をつけるべきと考えていた。

その忠誠は西条吉良にもあるが、安祥松平家にもあり、当主である清康をそういう存在として育てようとしていた。

その目標は西条吉良の領地復旧で、遠江をはじめとし、駿河もその対象と考えていた。そして古くから協力関係にあった尾張斯波氏と結び今川を敵と見なすものであった。

 

所が清康としては父信忠を侮蔑する形の考えでもあるゆえに、若いながらも将監らのやり方に葛藤を抱いていたことも察せられる。

そういう葛藤を持清であり義春に相談すれば、自然と将監や信定に対して違和感をいだくのも無理が無い。

 

義春や持清は清康に

「尾張も斯波義達殿が今川に捕らえられてから、斯波ではなく織田が仕切っておるゆえに…三河との関係もどうなるか解らぬな…」

 

いわば、清州の織田達勝はその斯波義達と遠江遠征をめぐって対立し反乱して敗れた織田達定の弟に当たる。

この遠江遠征は西条吉良への支援とも、遠江守護としての防衛ともとられる行動である。

無論、西条吉良の姿勢が浜松壮を守るために今川と斯波両方にどっちつかずの態度で居たことは前話でも記した通りで、そういう遠江の情勢に関わることで尾張も対立した点は否めない。

その織田達勝が斯波に代わって尾張を牛耳っているのだから、むしろ尾張と三河の関係は危ぶまれるのも仕方がない。

現代ですら様々なフェイクニュースで情報が錯綜して惑わされる話であるわけで、当時の情報を正確に把握するのはかなり困難な話であったといえる。

それ故に誰かのコメントを鵜呑みにしてしまうように、情報を精査することなくその言葉を信じてしまうのは無理のない話である。

 

因みに織田信長が情報に精通していたのは、むしろ信長が情報を発信する立場にあったからで、その立場を寧ろ信長は利用した。

これは「うつけの兵法」の兵法としても記すものだが、正確な情報を得る方式はある意味ネット回線と似ている。

送信して受信するといういう仕組みなのだ。

自分側から発信される情報を把握し、相手がその反応で動く情報を仕入れるのだ。

単純に説明すると「大軍で攻めるぞ」と送信することで、相手が動揺する状態が簡単に想定される。その中で様々な敵方の寝返りなどの情報が受信され、更に条件などを盛り込んで相手に送信してその真意を探っていくのだ。

自分の動きが情報として筒抜けに成る事も利用して、さらにその動きで相手がどう動くかを探るのである。

「大軍で攻められなくなった」という情報を逆に送信すると、寝返りの動きを見せていた敵方は当てが外れて困惑する状態も想定できる。そうした中で本気で寝返る者はむしろ信長にクレームを入れてくるだろう。

こうした心情の変化を更に受信することで誰が本気か誰が偽りかの可能性を精査していくのだ。

そして信長側があてにする相手を選別して役割を考えるのだ。

これは長曾我部元親を計る際にも使われている。

元親に四国は切り取り次第という条件を出したあと、三好との和睦成立で寧ろ一部領地を返せと伝えている。

長曾我部からすれば約束を反故にされた形となるが、信長からすれば天下を統一する意味で長曾我部の野心的な真意を探る意味となる。

相手が野心的な考えを重視すれば、約束を反故されたことで敵対してくる訳で、それは元親が信長の天下に心服していない意味を与えるのだ。

そういう人間であるのなら信長からすれば浅井長政であり荒木村重、更には松永久秀の様な人物を放置した経験と同様の結末を齎すと考えた。

寧ろ松平家康(徳川家康)の様な盟友と呼べる存在なら大事に出来る相手と見なせるのだ。

そういう意味でこうした探りを入れるのだ。

この反応を利用して情報として正確に把握するのが「うつけの兵法」流である。

「うつけの兵法」ゆえに情報をたれ流したり、約束を反故してみたりと相手に馬鹿にされるような事を利用する訳だが、その分「うつけの兵法」ゆえにお人好しなほど信頼できる相手には融通を利かせることも忘れないのだ。結果松平元康は武田が滅んだ後に、遠江に加えて駿河の所領も許されて旧・今川の領地を全て任された形となっている。

何故信長がこうした情報の扱い方を取得できたかは、のちの「うつけの兵法」で書き記すものとするが、しかし情報の扱いは普通に考えればとても難しいのである。

 

そうした時代の情報の流れを古い関係性と新しい流れで若者は感じ取っていく。いつの時代も同じなのだ。

そういう意味でも尾張との古い関係性に固執するような将監や信定より、時代の流れを先取りしたような持清の言い分は理解しやすかったとも言える。

 

これが清康が殺される切っ掛けとなった森山崩れの内情である。

 

結果、清康は尾張勢と戦う道を選んだゆえに、再び三河に内部混乱が生じた。

1532年にはその東条吉良持清は亡くなっており、跡目はその子の持広が継いでおり、清康との関係は維持されていたと思われる。

松平義春が吉良氏の後見と成った伝承の話は、時系列からすると持清ではなく持広の方だった可能性は高い。

 

清康の死を切っ掛けに、信定と義春の間で対立が生じた事は流れから察するもので、さらには信定方がその背後の東条吉良を排除しなかったのは、不忠を恐れたからなのか…

寧ろここで、まだ生存していた松平道閲の存在が双方の争いに楔を齎していたと考えるべきであろう。

その道閲からしてみれば松平の主家としての立場を早雲との激戦で岩津松平の崩壊によって手にしたものであるわけで、それが家督争いによって失われることを寧ろ危惧したと察する。

ゆえに隠棲の身でありながら、再び信定と義春の間の調整を行ったことが考えられ、結果双方に決定的な戦をさせなかった。

そういう流れの中で、吉良持広の存在も体裁上で立てられた形だったのだろう。

そして清康の子、広忠はその持広によって匿われたのだ。

 

所が翌年の1536年に今川氏輝が死亡し、後ろ盾として頼っていた駿河では花倉の乱が勃発。

辛うじて松平義春の存在で何とか事なきを得ていたが、三河でその均衡がいつ崩れるか気が気でなかったとも言え、その為所領のあった伊勢に一時移った形と成る。

1537年には花倉の乱が今川義元の勝利で決定すると、再び後ろ盾として今川を頼った。

その際に恐らく西条吉良義尭の次男義安を養子に迎えてこれを後継者とした。

この時点で、吉良持広は今川の傘下と成ったようなもので、その庇護下に置かれた松平広忠も同様の立場に自然置かれることと成ったのだろう。

 

さて、話を再び戻して、1539年広忠は吉良持広の庇護の下で元服し持広より「広」をもらって広忠と成った。

吉良持広はその広忠の元服ごすぐに死んでしまっている事から、おそらく死期を悟って自分が生きている内に元服させようとしたのかも知れない。

 

さてここからは話を戻して、

元服を迎えた広忠を使って、今川義元と太原雪斎(承菊ここからは雪斎とする)は三河攻略に動き出した。

1540年に広忠を牟呂城に入城させたとある。

この牟呂城に関しては愛知県西尾市(岡崎南の吉良氏の東条城の北側)と豊橋市の牟呂と二つ考えられるが、松平義春が東条吉良氏の所領を守り抜いていたと考え前者に入城したと考える。

一説では出来事は1537年という記録があるが、時系列を考えてみると1540年が妥当な計算となる。

 

歴史の史書は気を付けてみる必要がある。

例えば太田牛一の「信長公記」などは、何時から書き始めたかが問題で、その書き始めから遡った年号は曖昧と考えてもいい。

現代であるなら日々記されるニュースなどで、詳細に記される時系列であるが、中世は日記などの記録でもない限り年号や日時に関してはかなりズレが生じる。

直に現役だった丹羽長秀などから話を聞いていたしても、人間の記憶を辿ったモノでしかないのだ。

 

「さて…あれはいつの話だったかな…?」

 

ある程度年齢を重ねていくと当人ですらうる覚えに成ってくるのが当然で、これが全体資料としてズレが生じた場合は絶対的なモノとしてとらえる必要性はないのだ。

恐らく史家たちもそのように比較して議論しているものと考えるが、科学でいう仮定同士の議論故に定説に至らない部分である事は伝えておこう。

 

資料を精査した上で辻褄を合わせて見ると、

1536年の今川で起きた花倉の乱を期に、松平信定と松平義春の間で均衡が崩れる状態が生じたと考える。

信定からすれば今川が崩れた状況に応じて、尾張と手を結んでいる事がやはり最良の選択であったと主張でき、この混乱に乗じて遠江を攻略するべきと考えたのだろう。

実際に信定そして酒井将監らの考え方の方がこの時点では戦略的に妥当であったとも考えられる。

この時点で三河が団結していれば遠江攻略は適ったかもしれない。

無論それには尾張の斯波というより織田信秀の援軍も宛てにした上での話となるが…

一方の義春からすればその尾張の軍勢と手を結んで遠江を得たとしても、遠江の主権は斯波家に戻されるだけという予測もある。

義春からすれば敵視している信秀を信用できないわけで、逆に信秀に三河は利用されるだけだと感じるのも当然といえば当然になる。

 

こうした議論を現代の企業の危機として考えると実に面白い。

一方は企業の事業拡大を目指して、大きな他社との業務提携を模索する話に対して、もう一方は他社に自社の特許を不用意に利用させず企業として安定した独立を維持する事を目指すという主張になる。

前者は信定で、後者が義春の主張となるだろう・・・

しかしその未来を知る現代の人からすると結果義春の主張は今川に飲み込まれてしまうわけで、信定の考えならばという「もしかして」の話で期待されるだろうが果たしてどうなったかは不明である。

 

未来の行方を知らない両者はどちらも正しいと考えるわけだ。

無論両者とも三河という国を案じての議論に成るのだが、いずれにしても対立したままで動けないという状況を生み出した事が愚作であったと言えよう。

そういう意味では隠居している松平道閲の気がかりが的中した考えと言えたかもしれない。

 

「内なる紛争に外敵あり」

 

何時の時代も内に紛争を抱えるところに外敵は介入してその利をむさぼるのである。

 

結果として松平義春は今川の花倉の乱を期に吉良持広の元に保護されている清康の嫡男当時の竹千代(広忠)を擁立した事が推測され、それ故にある記述では1537年に広忠入城というものが記されたのだろう。

この義春の行動で三河が大きく分裂した。

むしろ道閲は信定と将監に今は放置するように働きかけたためとも考えられる。

いわばこれを期に花倉の乱同様に三河も崩れてしまえば、それこそ尾張に付け入る隙を与える機会にしかならない。

確かに尾張と手を結ぶ考えにある信定と将監らだが、手を結ぶから信用するという甘い考え方はしておらず、むしろ国として対等であるから交渉上の信用が成立する点は熟知していた。

その対等が内部分裂によって崩れたならそこは相手の思う壺で、むしろ策士であるゆえにそこは割り切れて考えれたのだろう。

 

案の定、義春の動きは吉良持広を通じて今川方に筒抜けであった。

1537年は今川にとっては三河攻略の好機となるはずだったが、寿桂尼と北条の関係を充てにして武田とまで同盟を結んだ算段が外れた為、北条の怒りを買って河東の乱が発生したのは説明したとおりである。

寧ろこの時の太原雪斎は武田と紛争中の北条が今川まで敵に回すような行動を取らないだろうと高を括っていたのかも知れない。

ある意味、武田と結んだことで考えようによっては北条は和睦する際の仲介に今川を使えた訳で、必ずしも裏切りの意味が先行する状態では無い。寧ろ北条の目が寧ろ武蔵の上杉であり関東制圧を目指す意味では、のちに今川、武田、北条の三国同盟が成立した意図としても効果的であったはずなのだが、北条側は雪斎の意図をまだ考えきれず、単に裏切りと見なしたのである。

ここが雪斎の算段が狂った部分であった。

所が存在を危惧していた三河の清康が死に、三河が分裂し始めた状態になったことで軍事的な侵攻よりむしろ三河を取り込む算段が良策として生じたのだ。

 

意外とここの部分は長くなりそうなので、

前、中、後の三部に分けて書くようにします。

まあ、3か月くらい怠けてた感じですが、また再開します。

 

一応、信長たまの成長を書いてい行きたいのですが、

結局今川義元が桶狭間で死んだ

単なるアホな武将で終わらせたくないので、

こうした部分は大事に成ってくるのです。

 

ただ結構ややこしくて中々上手く纏めにくいのもご理解ください。

 

基本歴史小説では今現在では事が全て終わって

記録された状態を未来目線で想像して書かれるものですが、

「うつけの兵法」ではその当時の目線を重視して、

本編でも書いた情報がどういうレベルで流れたか、

そういう流れから当事者がどういう算段を考えたか、

そしてそこで生じる双方の誤解などを見極めて、

歴史の記録に辻褄合わせて作成する作業をしているので、

物凄く疲れるのです。

 

ある意味かなり科学的に記そうと頑張っているのです。

ほぼ小説では無く論文に近いかも…

そういう意味では時間は掛かるかも知れないですが、

是非今後ともよろしくお願いします。

 

【情報の難しさ】

ネット上の情報に限らず、

本に記された話でも

正確性には欠けるものが多いと疑った方が良いです。

科学の定義を元に情報も精査する事は大切です。

科学の定義とは…

仮説に成るのか、定説に出来るのかをちゃんと考える。

裁判のでも一緒で、証拠不十分な話は冤罪を生みます。

それでも裁判は判決をしなければならないので、

提示された情報で最終的には

答弁書の主張に根拠があるか、

そして本来は社会的影響力として

不法性や犯罪抑止等の効力で判断していくものです。

 

科学でも同じで根拠を元に基本は仮説を立てていきます。

宇宙の神秘である「ビッグ・バーン」という宇宙誕生説。

多くの人はこの情報を

「定説」として認識しているのではないでしょうか?

実はこれ「仮説」の一つで、

言い換えれば科学者が一番有力視している「仮説」なのです。

 

日本に限らず、ネット上の一般議論では

これを「定説」の様な形で語り、

他の想像性を無意味に否定します。

 

単純に仮説には疑問を抱いてください。

ビッグバーンという宇宙誕生の大爆発、

どうやって何もない世界にそんな現象が生じるの?

ほぼ意味不明です。

 

宇宙の銀河間であり星の間が広がって行くことが

立証されつつあるのは「定説」に近いです。

近いというのもイレギュラーに近づいているものもある。

でも大爆発でしかその現象が想像できないのは、

人類の想像力の限界なのでは?

 

ただしブラックホールの研究が進み、

高密度の限界が解明されれば

別な爆発要因として考えれると言えます。

いわば宇宙誕生では無く、

銀河が誕生する仕組みがビッグバーンという。

 

ブラックホール同士が接近して

ブラックホール同士が衝突する事は観測で見受けられるようです。

ただ、現状では大きなブラックホールが

小さい方を取り込む形だと言われてます。

そうなるとまだ高密度の限界は見えてこない。

高密度の限界とは、

圧縮されたものがどこまで圧縮された状態で保てるのかという疑問。

無論圧縮状態を拡大して

無限に大きく成長する可能性も想定できます。

ただ、圧縮状態に限界がある場合、かなり大きな爆発を生じさせ、

ある意味「ビッグバーン」という威力を齎す事は想像できそうです。

ただし現時点の観測上これは銀河規模の

莫大な大きさのブラックホールに成長する必要がありそうで、

銀河規模で吸収し合う状態とまで考えると、

ほぼ数字で表せる年数を超えた時間を要するとも言えます。

 

様々な仮説を精査して考えると…

宇宙に無限を想定した方が賢明。

無限という宇宙では無=0物質がその基盤となって、

本来その空間に素粒子すら存在してはならないのです。

ビッグバーンを引き起こすほどの

ブラックホールは究極の有限体と考えて、

無の空間に究極の有限体が多数存在する。

(おそらく地球からは観測できないレベル)

いわば小さな物質はその究極の有限体に引き寄せられるわけで、

究極のブラックホールとブラックホールの間は

0物質空間に成る。

我々地球で観測できる範囲は

この究極のブラックホールが

爆発して広がった世界を想像するべきで

この範囲のみを宇宙と呼ぶのなら、

ホーキンス博士のビッグバーン説は否定しません。

 

現状ブラックホールの存在は観測できているが、

ブラックホールが爆発するものは観測できていない。

仮にブラックホールが密度の限界を迎えて、

爆発したという観測が生じるのなら、

逆に宇宙誕生のビッグバーン説は否定され、

銀河誕生のためビッグバーンでしかない事になる。

そうなると宇宙空間全体は

小さな物質(素粒子より更に小さい物質)が

無限に存在する空間で有るのかもしれないが、

人間の想像力の限界は、物質0(光存在できない)ならば

無限は成立し、有限には限界が生じると考える。

 

まあ、情報を精査してみるというのは

この位繊細に色々疑ってみないといけない話で、

色々と考えた上で自分にとって有益と考えるものを

判断する方がいいです。

その上で自分にとって有益でない仮説は

他人にとっては有益かもしれない。

そういう事を踏まえた上でお互いの考えを尊重し合う、

議論のパラレルラインを理解することも大事なので。

 

【人を理解するための議論】

平行線辿るところでネット民は喧嘩別れるすけど…

そこがアホなのです。

お互いに平行線のポイントまで議論出来たのなら、

お互いを知り得たという意味で尊重し合うべきポイントなのです。

無論、論破するつもりガンガン理詰めで突き進むのは大事です。

ただしアホな人との大きな違いは、

相手が言葉に詰まって

自分の本意を表現できない事がある部分も

理解しようとすることです。

いわば自分の理屈を納得しきれてない相手に

どれだけ言葉を浴びせても解り合うポイントに達しないという事。

無論、相手も言葉巧みに表現できれば

お互いになる程という所に達せますが、

言いたいことが言えないで詰まる相手には、

その真意をこちらから汲み取って上げないと

こちらの真意も理解しようとすらしません。

 

よく論破を目指す人は自分に不利な情報を隠そうとします。

その大半が相手の真意に該当する部分で、

そこを省くと心情的に対立しか生まないのです。

 

もう一つ議論で大事なのは、その論理の目的です。

ビジネスでは双方の利益、政治的な議論では社会の為、

科学では問題の解明と成るわけですが、

そういう目的が合致している場合は議論として成立します。

寧ろネット民代表の誰かように、

自分が勝つことだけ、自分だけが利するだけという

利己的な話の場合、目的がWINWINでないため、

議論としては成立しません。

そういう相手はさっさと処分した方が良いと

信長たまの様な過剰な人は考えるレベルです。

欧米の議論ではここの焦点は大事にされます。

日本ではこの焦点を教育上習っていないという問題があって、

政治家や官僚のレベルが低いのはそのせいでもあります。

 

大きな違いは

「お互いが何を目指すかで共有した上で、その方向性の違いを理解し合えるか」

 

「ただ単に相手を言いくるめて、自分が勝ち誇りたいだけなのか」

 

前者のそれは新たな発見で歩み寄る余地が生じるわけで、

これが出来ないと

地球上の問題を平和的に解決することは出来ない。

 

後者の方は勝っても負けても相手に嫌悪を覚えるだけなので、

結果日本の政治の様に

「揚げ足取り」など嫌がらせをしあうだけの関係にしかならない。

最終的には

頃合いを計ってどちらかを排斥しようと考えるしかなくなるのです。

「やらねばやられる」という心理しか働かない関係で、

国家間同士なら戦争になるだけです。

 

喧嘩別れしてお互い否定し合って

行きつく先は力でねじ伏せるのですから。

 

まあ、そういう原理を理解しようとしていても

一方が戦争するバカなら、

戦争するしかないという結論にも達する訳なので、

信長たまの場合、そういう理解をしてても

相手がアホなら殺した方が早くない?

と、さっさと処分する思考に向かう感じです。

まあ、当時の比叡山がそういう例で言えます。

 

※比叡山の天台宗の偉い方がお亡くなりになったようで

お悔み申し上げておきますが…

今の比叡山とはまた異なる話なので言わせていただきます。

比叡山の焼き討ちに関しては

当時の信長たまが謝る話では無く、

むしろ腐敗した比叡山が謝罪しろ

と言っておきます。

信長たまの子孫がイベントで謝罪したとかニュースで言っていたが、

そもそもがフザケルな!!というレベルです。

何故謝る必要性がある?

その人らの祖先の所業を否定するのか!!

それを比叡山が「許す」なんてフザケタ態度を取るなら、

再び信長たまは焼き討ちするでしょう。

これも社会秩序を目的とした議論で、

仏教の教えに反して腐敗した形の比叡山で、

宗教として社会の規範として成立するのか?

という事。

そもそもがそれに反した行為をしていたのだから、

また戦という殺生に伴う事に関わった事実も用いて、

仏門の教えに反した状態であった事は証明できます。

 

それを仏門に逆らうのかという「脅し」で

信長たまに返したのなら、

社会害虫と化したものを殺処分するのは当たり前。

全く話に成らない!!

仏門として社会の規範となる弁明をするべきだろ!!

その上でその腐敗した状態に根拠が有るのなら、

そこは認める部分が生じるかもしれないが…

そもそも弁明できる話では無いという結論。

ゆえに比叡山は被害者面したまま何も弁明していない!!

焼き討ちして腐敗を取り除かなければ、

比叡山は仏教の権威を傘に

腐敗した教えで世の中に存在し続けたわけで、

説法という議論も通じない状態で、

対話による解決は不可という事に成るわけです。

 

これに第三者が焼き討ちまではやり過ぎなのでは…

と、いう事を述べるのは良いです。

信長が天下を治めた後に、

比叡山の権威を政治的にはく奪する方法もあったのでは…

という議論も成立するでしょうが、

まあ、天下を取るまでの過程でそんな余裕はなかった、

浅井、朝倉を支援した比叡山を放置している方が、

寧ろ戦略的に難しくなったとも言える。

ただ、信長の統治者として社会的イメージが

悪く成らなかったのではといえばそれも一理ある。

ただし信長が天下を取れてからの話ゆえに、

実際に直前で本能寺の辺で死んでしまったのなら、

生きている内に腐敗を強制排除した事は、

寧ろ比叡山が仏門として適切な形に戻る意味としては、

妥当だったとも言える。

まあ、善道非道の議論で平行線を辿る話ですが、

社会秩序という政治的な議論とした場合、

では、

どうしたら対話によって比叡山を説得できたか?

という事では比叡山を説得して腐敗を止めさせる方法が

見つからない以上、

天下を取って権威をはく奪しても本願寺同様に

逆らって反乱することも想定できる話で、

遅かれ早かれ焼き討ちに成ったともいえる。

 

ここで「それでも焼き討ちは良くない」

と、道徳的に反論する人は話に成らない人です。

ここでは焼き討ちの善道非道の話は

既に議論の目的とは別になっているのですから。

 

議論の目的は

「社会的規範のため比叡山の腐敗を取り除く」

であって、比叡山の腐敗を焼き討ち以外で

「現実的に」取り除く方法が無かったのなら、

焼き討ち以外の方法は無かったと成るだけです。

まあ、当時の住職だけをを暗殺という方法なら有りですが…

 

道徳的に問題視する場合、

では、道徳的に問題の有りすぎた

比叡山を放置したままで良いの?

という対立を生じさせ、

更には社会秩序という目的の行動に否定を用いた事になります。

優秀な議論では焼き討ちや暗殺以外の方法で

他の選択肢を発想出来ないなら、

「ならば仕方がないかな…」

と、一旦議論を治めます。

その上で他に何かいい方法が見つかったならば、

「この方法はどうだったかな?」

と、再び議論に持って行くことも出来ます。

しかし、相手の行為を一方的に否定するだけの主張は、

寧ろ相手の真意を理解していないという所で対立するのです。

いわば道徳を用いて自分の善良な心を示しただけで、

相手には善意が無いという形締めくくったようなものです。

信長たまは社会的な善意を考えて、業を背負ったわけです。

一方は自分だけの善意を示して、

「いい人間」である事をアピールしただけで、

結果、社会的善意になる事は何も提示できない。

 

筆者がウイグル問題で中国をあまり非難しないのは、

ウイグル人が独立を主張してテロを起こす危険性が有るからです。

ウイグル人の人権だけを道徳的に考えれば、

独立させてあげた方が良いと簡単に言えます。

しかし、国家支配であり、社会的秩序の話を考えると、

ではスコットランド、北アイルランドの独立を考える人たちも、

そうさせれば良いじゃないかという議論になる。

バルセロナを含むスペインのカタール地域だって、

独立投票で成立したのだからという事にもなる。

 

しかし、秩序の問題は事は単純ではないのです。

 

ウクライナはソビエト連邦またはロシアから独立したが、

クリミア半島などで国境問題が生じた。

クリミアの人は結果選挙でロシアに帰属する道を選んだわけです。

その他ロシア語圏の人たちも一部でそういう動きを見せている。

元々ソビエト連邦時代に境界の線引きが微妙であった事もあって、

独立後に国境問題でお互いが対立するケースが考えられる。

ウイグルやチベットを中国から独立させても、

その後国境問題でより強力な敵対関係が成立するだろう。

そこに欧米が香港問題同様に中国との対立を生じさせるなら、

中国はそれを許すとは考えられない。

中国側の見解を理解すると第三次大戦が起こっても

中国はウイグルやチベットの独立を認めないと言える。

 

ウイグル人が過去に独立を目指して

中国にテロを行った事も考えると

中国化させるために矯正教育を施す考えもある部分理解できる。

ここが道徳的な話と、現実的な秩序の話の分かれ目である。

道徳的には矯正教育または強制教育は良くないと主張して

中国政府を非難する訳だが、

中国の統治に対する敬意が無い。

寧ろ中国の懸念を察して、

ウイグルの独立は支援しないという保証の下で、

中国のやり過ぎている部分を緩和する方向で話し合うべきなのだ。

こうした教育方法にやり過ぎが生じる部分は当然理解できている。

ただし、現実問題として道徳的な批難だけでは、

対話による解決は不可能ともいえる。

中国の懸念とは、ウイグルの人たちを自由にさせて、

欧米諸国と結託して独立運動を広める事にある。

中国からすれば

それは欧米諸国の戦略的策略とも考えるポイントで、

そこに疑義があるのなら

そんな話はアヘン戦争と同じ道を辿るから

絶対に受け入れないだろう。

中国にとって将来的に不利益しか生まない議論で、

例え冬季北京オリンピックが失敗に終わったとしても、

そこで生じるリスクよりもウイグルを独立させてしまう方が、

中国国内の秩序を考えたら大きな問題と考えるのも当然である。

 

これで中国を道徳的に非難するだけで何が解決するの?

 

ネット上というよりアメリカ連邦政府下院議長の

ペロシもこの程度の間抜けな議論しか出来ないのだから、

正直、仮にウイグルの弾圧が本当に酷く行われていた場合、

むしろウイグルの人たちが救われる状態は程遠い。

 

中国側の見識も理解する。

無知な情報の元では、

道徳的に中国の弾圧行為を許している様に見えるだろう。

しかし、現実的にウイグルの人たちが本当に困っているのなら、

道徳で自分を美化して何の解決にも成らない話を

延々と述べている方が寧ろバカバカしい。

 

オッサン先生に言わせれば、

「戦争するのか?それとも中国に対話の門戸を開かせるか?」

と、言う2択だそうで、

道徳だけで語るのなら価値観の違いで戦争にしか成らないのです。

 

比叡山と違って中国との戦争は大きな損失が出過ぎる。

それは経済的な戦争でも比較に成らない。

頭の悪い人は先ずはこの現実的な分析で考えて欲しい。

 

また、中国は比叡山の様に理屈無く

強引に抵抗している状態ではない。

中国は経済的に国際社会との繋がりは重視しているため、

そういう意味では対話は十分に成立する。

寧ろ、道徳的な話しかしてない

ペロシ(下院議長)程度のレベルでアメリカが纏まっているのなら、

そちらの方が対話が成立しない。

ある意味、焼き討ちする対象は、米国の軍事力を背景に、

対話の余地を消し去るペロシの方であると言える。

ペロシを信長の価値観で殺せば、

ウイグル問題は対話で解決する。

と、オッサン先生は言ってます。

 

ただし、バイデン大統領がちゃんと掌握してれば

焼き討ちといった非道な話は大丈夫な話で、

ペロシに流されず無視した方が、

民主党の支持率も上がるというものです。

 

戦争を無くすことって本当に大変な話で、

人類はそろそろそういう尊重し合う事の大切さ、

そして対話が成立する認識を

ちゃんと学べよって話です。

 

風と太陽の話を前にもしましたが、

オッサン先生の様にコロナ化でマスクをしない人に

「マスク付けてください」

と、言っても喧嘩に成るだけです。

「(法律上認められた状態で)何故お前の価値観押し付けられなきゃいけないのか?人が裸で歩いているかのように侮辱するな!!」

と、逆鱗に触れてしまいます。

こういう部分では戦争する気満々で、対話に応じる事はないです。

ある意味中国政府の姿勢にも類似して見える。

元々マスクしない人は

社会的な強制状態に反発心を持っているので、

個人選択の自由というデモンストレーションの意味も有って、

「マスクを付けてください」

という言葉は絶対に受け入れないものなのだそうです。

所が…

マスクを手渡されて、

「これ上げます」とか、「もしよかったら使ってみてください」

というやり方だと相手の言葉に「強制」が無いため、

じゃあ、ここは着けてみるかな…

って心を開きやすくなるそうです。

 

あるお店では

「店のルールでマスクの着用お願いできますか?」

と言われて、

「マスク売ってるの?」

と、聞いたらその店員は

「売れないので、差し上げます。」

と言った。

そういう場合、オッサン先生は快く従い、

お会計の際に、マスク代の代わりに

チップとして50円余分に渡して帰るのです。

価値観を共有する意味では、

こうしたGive&Takeも大事な事です。

 

実際に人それぞれが価値観を尊重し合う事で

対話の門戸は開かれるわけで、

自己主張をハッキリさせる独自の価値観ある人には、

特に大事なのです。

※自分の価値観を相手に押し付けるのはモラハラです。

 

キリスト教の教えを理解しているはずの欧米人が、

「自分を愛するように隣人を愛せ」

という言葉の本意を理解しきれてないのも不思議なんだけど…

 

因みに信長たまはキリスト教に入らなかったけど、

この言葉の真意を多分理解して、

キリスト教OKと判断していたと思います。

 

何故?改宗しなかったか?

 

だって尊重社会を理解できないアホは

処分しなければいけないから、

そんな綺麗事の枷に自分が嵌る事は出来ないと理解してたから。

だから法華経などの仏教も信仰しておらず、

寧ろ自分の所業を「大魔王」と称したほうが適切と思ったのでしょう。

 

魔王だから悪魔なのでは無いのです。

社会の為に魔王となるべきだから「天下布武」なのです。

そして社会が理解できるように布武することで、

尊重社会によって人々は安寧を得られれば良いという考え。

これを筆者は「魔仙」という意味で記しており、

まあ、ブログでも登場する「魔仙妃」の由来としているのです。

中国語読みだとモシャン・フェイって

かわいい名前に成るんだけどね。

 

【第二十三話 大は小を飲み込む 前編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

戦国時代の下剋上を現代社会で考えた場合、自動車産業の変革に照らし合わせると面白いかもしれない。

ガソリン車の時代から、EV(電気自動車)へと変革していく中で、車作りの技術で圧倒していた大手が、新興産業に押し込まれつつある状態がそれを物語っている。

足利幕府という大きな力の下で、各地の守護はその力を堅持していた。いわばその家臣団がその守護に逆らう事は、幕府全体を敵に回す行為と成るなからだ。

所が、応仁の乱を得て、明応の政変にて幕府の権威が弱まると、地方に対する影響力は低下していった点は、ガソリン車が技術として絶対の時代が終焉し、大手各社が電気自動車という新たな技術で新興勢力と戦わなければならない状態に似ている。

ガソリン車という技術は新興勢力では太刀打ちできないほど、大手とでは技術差が生じていた。

それは幕府を中心とした中央集権の力の下では、その権力下でまとまる守護大名の存在は絶対であったと言える。

所が、中央集権の力失われ、力の連携が無くなった時点で、地方は独立した運営を余儀なくされていった。

電気自動車という新しい技術の獲得で、車製造分野で新たな地位を獲得できる機会が生じたと同様に、地方という小さく纏まった地域を得るだけで新たな勢力となれる時代が戦国時代の始まりである。

 

明応の政変で2つの将軍勢力に分散したことは、守護大名同士の連携にも分散を招いたわけで、隣の守護大名が敵方なら、隣の守護大名と連携して、自国の守護大名を引きずり落とすことも容易と成った。

 

また、今川義元の様に、そうした反逆を利用して他国を取り込むことも、斎藤道三の様に他国守護大名が連携してこない状態を利用して自らがその地位を奪い取ることも、戦略上やり易くなった時代と言える。

 

>第10話よりの続き

花倉の乱を経て、承菊こと太原雪斎は森山崩れより混乱した三河の情勢に目を向けていた。

北条家とは河東の乱(第一次河東の乱)で富士川以東を奪われたままだったものの、富士川を挟んで防備を堅め易くなった地の利を活かして東に備えた。

 

当時三河の情勢はかなり複雑化していた。

守護職は本来、吉良氏で、松平家は本来その下の守護代であるというよりも、小豪族の身から守護代職に当たる地位を獲得した身分と言える。

 

守護家の吉良氏は三河、遠江を支配する大名であったが、先の応仁の乱で吉良氏は東西に分かれて戦い東条と西条吉良氏に分裂して力を失っていった。明応の政変などで尾張の斯波氏と駿河の今川氏を頼って両吉良氏が復権を試みようとした結果、遠江の地はその二つの勢力が入り乱れ、結果として吉良氏は遠江の支配権を奪われた。

残った三河で復権を試みるも、東西で分裂したまま争い続けた結果、三河の影響力は松平氏に奪われていった。

正し外交上の権威は守護職として上手く残していたとみられ、尾張と駿河を動かす存在という意味で、三河の軍事面で支配していた松平氏を存在的に牽制した。

 

そうした状況下もあって、支配権を得た松平氏も、清康の死後、松平信定派と清康の嫡子である松平広忠派で分裂した状態が続いた。

 

酒井忠尚こと将監は信定の下で松平を纏めるべく画策したものの、不本意な形で清康が死んだため、寧ろ家臣団に清康に対する忠義が残存した。

 

ここで酒井将監(忠尚)という人物を考えてみる。

史実としては家康の祖父清康であり、父広忠、そして最後はその家康にも反逆した叛臣のイメージが高い。

家康側から見れば当然そうなるが、将監の忠義は当時の三河の英雄ともいえる松平道閲(長親)に注いでいた。

筆者は将監を先見の明のあった人物と考えるものとしている。

実際に三河という国が尾張(斯波氏、織田家)と駿河の今川と対等な国に成るためには国を団結させることが最優先で、西条と東条で別れた吉良氏の影響力を排除せねば成らなかった、もしくは統一せねばならなかった。

 

清康が東、いわば今川の方へ目を向けていた時分は清康が20代にも達していなかった頃で、その祖父・道閲(長親)や将監の進言通りに動いていたと思われる。

そうした中で東三河攻略で見せた若き清康の勇姿は多くの家臣団の信頼を勝ち取ることと成ったのかもしれない。

そうした家臣からの信頼に慢心し始めた青年期に達すると、それまで支えてきた長親、、叔父にあたる信定、そして将監らの進言を無視し始めるようになってきたと考えられ、そういう事から両者に隔たりが生じ始めたと考えてもよい。

 

今川と因縁のある長親と将監は、今川と対峙して結果遠江を追われた西条吉良氏を守護とみなしていたと考えられる。

 

西条吉良氏は応仁の乱時から、京都で将軍の近習として仕えていた事もあり、足利幕府の中でも別格な地位を得ていた。

その為領国経営はその家臣団に委ねていたと思われる。

駿河の今川氏の本流はこの西条吉良氏であったというほど、歴史的な血筋としては格式もかなり高い。

西条吉良氏は遠江の浜松壮を領していて、足利幕府の威信が有るうちは寧ろ安泰であったと言えるが、その威信が失墜することで、西条吉良氏の威信も陰りはじめ、領国を守るのに尾張の斯波氏を頼ったり駿河の今川氏を政治的に操る形で凌ごうとしたと思われる。

ある意味京に於ける幕府中央の役務で忙しかったと言える。

しかし、西条吉良の当主は京都にて采配を振るった形で、領国を任せていた飯尾氏、大河内氏を斯波氏と今川氏の遠江に於ける勢力的な都合で交代させるなどして乗り切ろうとした結果、最終的にはその本拠の浜松壮すら失ってしまう。

この際、今川氏親(義元の父)は自らの長女を吉良義尭に嫁がせる形で和睦したと記されている。

 

その後、将軍足利義稙の失脚で京都での居場所も奪われた吉良義尭は、残った三河で領国支配に専念しようと試みるが、実質の支配権限はすでに松平氏にあった。

それでも松平長親(道閲)らは西条吉良氏を主家として尊重する意識があったと思われ、そのもとで今川から浜松壮奪還を目指していたと考えられる。

 

一方の東条吉良氏は岡崎南の海側にある愛知県西尾市吉良町に東条城を本拠として構えていた。

東西の吉良氏の戦いは、一説には応仁の乱からとあるが、実際の戦闘で争ったというよりも寧ろ、領国経営の中での政争であったと考える方が良い。いわば代理戦争を用いて争う形であった。

いわば西条吉良氏が将軍近習として京へ出仕していた半面、東条吉良氏は三河の東条城の領国経営を担っていた。

吉良氏の正当性を求めての画策があったことは考えられ、特に明応の政変で別れた将軍家への立場を異することで、東条吉良が西条吉良の権威を貶めようと試みた点は否めない。

足利義材(のちの義稙)が1490年に将軍職を義政から継ぎ、1493年の明応の政変で失脚すると、一時的に東条と西条の立場が逆転したと考える。

三河で立場上領国経営を担っていた東条吉良氏は細川政元側の新将軍となる義澄派に与して、今川と手を結んだと察する。

三河の豪族松平氏もこの東西に分裂した吉良氏の間で別れた。

 

そうした混乱の中1506年から1508年にかけて、松平長親(道閲)は、今川氏親の後見人として参戦した伊勢宗端(北条早雲)率いる今川軍と対峙して見事にこれを退けている。

一方で松平宗家に当たる岩津松平家はこの戦いで岩津城を落とされ以後衰退し、その力は長親(道閲)の安城松平家に吸収された形と成った。

 

1507年明応の政変の首謀者である細川政元が暗殺れると、三河の情勢も再び流れが変わる。

1508年に義尹と改めた義材(義稙)の側近として将軍復帰に貢献した吉良義信(義尭の祖父)は三河の守護に任じられる。今川が三河侵攻を撤退したのにはこの経緯が何らかの影響を与えているともいえる。一説には松平の主流岩津松平家が落ちた為の撤退と言われるが、安城松平家の存在をないがしろにして考えられる状態とも言い難い。

ただ、伊勢宗端(北条早雲)を以てしても苦戦し軍の疲弊が著しかったと考えるなら、それを以て和睦とした事は十分に考えられることと、その戦いで遠江に於ける斯波方への尾張からの援軍が防がれた点で、今川が遠江での支配権を大きく獲得したことが考えられる。

西条吉良当主の義信は、将軍義尹(義稙)の近習として京に滞在したままであった為、本拠の浜松壮を守る意味で、今川に遠江の守護職渡して和睦とした。これらは資料を総括すると正当な流れとして十分に考えられる。

 

その際に、西条吉良氏は斯波氏と結んで浜松壮を守っていた大河内定綱から今川側を支持していた飯尾賢達にその奉行職を交代させ上手く難を逃れようと試みたが、1510年遠江の支配権をめぐって斯波義達が攻めてくると大河内定綱はこれに呼応して共に争った。

結果、1516年この戦いで斯波義達は捕らえられ、大河内定綱が滅ぼされると今川方に遠江の支配権が完全に移り、恐らくその和睦条件として飯尾賢達の今川への被官を承諾させたと思われる。

 

中央の将軍家が細川家の相続争いに巻き込まれて混乱していることは既に地方にも知れ渡っていたと思われ、将軍の側近として本来権威を振るえる立場の吉良義信は今川氏親に誑かされた形でその本領である浜松壮を奪われた。

記録では1516年に嫡子吉良義元の急死を理由に、義信はその嫡男義尭に家督を譲ったとあるが、恐らく吉良義元の失態により浜松壮が奪われた形となり、その責を取って自害した可能性は考えられ、その失意の下、義信は隠居したと考える方が流れとしては成立する。

 

こうした流れから東条城という本領を堅持している東条吉良氏の三河に於ける権威は、西条吉良氏より評価されたとも考えられる。

勿論、道閲(長親)や将監は西条吉良氏の権威を知る世代で西条の吉良義尭を仰ぎ、今川とは敵対し、寧ろ尾張の斯波氏、織田家と上手く付き合う方針にあったと察する。

しかし依然、西条吉良の当主は足利義稙(前義尹)が将軍職にあるうちは京に滞在していた為、東条吉良氏が名目上三河の守護として見なされていた可能性は十分にある。

松平清康の父、信忠は今川の三河侵攻の際には家督を継いでおり、年も16歳と若く、伊勢宗瑞(北条早雲)との死闘がトラウマとして残った可能性もある。その為、今川との戦いには消極的な立場をとったとも考えられる。

考えてみれば初陣にも近い戦で、松平宗家の岩津城が陥落するほどの激戦だった。

ゆえに普通に考えればPTSDに掛かっても不思議ではない。

寧ろ松平長親であり、酒井将監が如何に優れた武将であったかを

評価されるべき戦いだ。

何せ相手は、のちの北条早雲だったのだから。

結果、今川は後にもこの酒井将監を松平家とは別格の扱いをしたほど敬意を表したことでも察しは着くと言える。

 

トラウマを抱えた事で松平信忠の判断は寧ろ三河の家臣団を分裂させた。

いわば浜松壮の一件である。

 

三河を守る上では、今川の方が斯波よりも遥かに脅威であった。

無論、この時分に信長の父・織田信秀はまだ尾張で台頭していない。

ゆえに将監ら西条吉良派は、大河内、斯波と結んで浜松壮を取り返すべきと睨んでいた。

無論、西条の吉良義信は今川寄りの飯尾氏に奉行職を任せている。

しかし、1508年から陥落する1516年までには8年の月日があり、その中で動く情勢は日に日に変化している。

寧ろ、京に居座る当主の義信が、実際の現場を知る由もなく、当人は幕府再興で忙しかった。

ゆえに守護である上からの命令はないにも等しい。

そうした中で三河は三河で決断せねば成らなかった。

一方の信忠に家督を譲った長親(道閲)は複雑だったともいえる。

ある意味、守護職からの指示が一切ない状態で、勝手に動くのは不忠に値しないかという錯誤もあったと言える。

無論、戦略的な部分では将監らの主張に同意していたわけだが…

 

そうした中で今川と結ぶ東条吉良氏が信忠を上手く懐柔したと言える。

信忠自身が今川との戦にトラウマを抱えていた分、取り込みやすかったとも言える。

そこで浜松壮の三河関与を断念させて静観させる提案をしたのだ。

三河国内の序列で考えるなら、一応は西条吉良氏を最上位と扱い、その下に東条吉良氏、そして松平家で安城松平家がこの中の主家と成る。

西条吉良氏から何の通達もないのだから、三河は動くべきではないと言われれば、それで動けなくなる。

無論、今川氏親が浜松壮をそれで搾取しなければ、信忠の判断に異論をなすものは居なかったかもしれない。

所が結果として浜松壮はまんまと今川に搾取されてしまった。

無論、飯尾氏が今川に被官しただけの話なら、明確に搾取されたとは察しにくいかもしれない。

しかし、すぐさま浜松壮を廃して引馬城の管轄としたことで、寧ろ西条吉良氏から今川に移ったことが明らかと成った。

岩津城の陥落で、松平家の地位が岩津から安城に移ったように、浜松壮の陥落で西条吉良の地位は守護職として陥落した印象を与え、寧ろ本拠を守っている東条吉良氏が正当な三河の守護として残った意味をも為す。

ある意味この流れで西条吉良義信の嫡子義元の動きを想像すれば、今川と交渉の末、飯尾氏と共に浜松壮を維持してほしいと願ったが、今川が聞き入れず、結果その責を取って自害したと考えられる。

その流れで体裁の悪くなった今川は、その後で義信の後を継ぐことと成った義尭に政略結婚を持ち掛けてこれを成立させたとも考えられる。

実際に西条吉良氏は長親や将監らの思いを知ることなく、浜松壮が無くなったことで東海での権威は既に無くなったと認めてしまったのかもしれない。

ある意味、下剋上の最中にあった京での惨状を知る上では、自ら軍を率いて赴けない現実を踏まえて、早々と諦めたとも考えられる。

 

そうした流れが自然と三河の中にも浸透し、次第に東条吉良氏の権威はより強くなっていく。

しかし、浜松壮が奪われたという事は、西条吉良家臣団としての意識を持つ将監であり、長親のもう一人の息子信定からすれば、信忠はさぞかし暗愚に見えたのだろう。

無論、結果として信忠の決断は愚かに感じるが、自らの嫡子で家督を譲った長親(道閲)は些か迷ったのだろう。

1516年の浜松壮陥落から1523年に信忠の嫡子である清康が家督を継ぐまで7年の猶予を与えた形と成る。

その間、結果信忠では三河の分裂を収拾できないと判断した。

しかし、将監らが求める信定ではもう一方の家臣団、おそらくこちらには信忠と信定の弟の義春が存在したとされ、義春は東条吉良持清の家督相続の後見人だったとされる人物で、逆に纏まらなくなると考えた長親(道閲)は、あえて東条吉良持清を交えて清康に家督を与えることで何とか家中を収拾したのであった。

この時、清康こと清孝はまだ12歳であり、その後見人には信定と将監が着くことでまとまったと考える。

以後、後編に続く

 

どうも…ショーエイです。

うつけの兵法 最新話を更新しました。

まあ、世の中色々ありまして、

とりあえず宦官野郎は姿を消してくれるので、

先ずは良しとします。

ただ、自民党では何も変わらないと思うけど、

かといって野党は全く主張に元気がない。

日本は政治的に残念な国です。

 

新型コロナ…収束?

嘘つけ…検査数減らしてるだけじゃ!!

 

 

 

 

【第二十二話 長槍】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

庄内川の治水工事を得て、河原で八郎らとやりあいながら、吉法師は元服を迎える13歳に達した。

相変わらず沢彦の指導で戦ごっこに明け暮れる毎日であった。

吉法師は成長するにつれて激しい気性の持ち主に成っていった。

癇癪持ちともいえばいいだろうか…

突然切れだすのだ。

普段はそういう事はないが、いざ戦の事で思うように事が進まないと切れ始める。

それは劣勢に立たされる状態で切れるのではなく、むしろ味方が勝手な動きをすると切れだすのだ。

 

一方で城内では平手政秀によく𠮟られることが増えた。

合理的というか横着な性格で自我が芽生え、戦ごっこの汚れた服装のまま城内をウロウロすることが増えた。

それを見かけた政秀は、

 

「城主たるものが農民と同じ格好で居ては困ります!!」

 

と、叱るのであったが、

吉法師も着替えるのが面倒だったゆえにその都度、

 

「後で着替える。」

 

と、あしらう様になった。

帰城するやすぐさま食事を取った。

その食事の席では意外な進展もあった。

今まで弟分の小政(恒興)のおかずを横取りするのが日課で、その都度恒興の膨れっ面を拝んでいたが、ある日から小政は吉法師のおかずが切れるや早々と吉法師におかずを差し出すようになったのだ。

最初は

 

「良いのか?」

 

と、恒興に聞いたうえでそれを受け取っていたが、不思議なものでそういう姿勢に切り替わるや吉法師の態度もまた変化を見せた。

この変化は、人間の心理でよく起こる「何か気持ち悪い」という違和感から発生するもので、日常当たり前の光景が変化したことで感じるものだ。

人によってはそのまま態度を変えないケースが多々ある。

ところが吉法師は不思議と態度を変えたのだ。

しばらくの日がたって小政がおかずを差し出すと、吉法師は食事係に、

 

「すぐに代わりを用意しろ」

 

と、命じて、小政にその代わりで出てきた魚を自らが与えたのだ。

しかし、これでは不合理と思った吉法師は、

 

「今後はおかずを先に用意しろ」

 

と、食事係に命じて、逆に自分のところに余分に来たおかずを逆に小政に分け与えるようにしたのだ。

ある意味吉法師は些細な変化が生じたことで、小政に心を開いたのかもしれない。

今までは寧ろ大好きな養徳院の実子ゆえにその愛情に対するライバル心のような感情がお互いにあったとも言える。

それは小政の中により強くあったと思われ、吉法師は何気にその心情を感じ取ってか、むしろ意地悪な形を出していた。

そこに小政の方から逆に心を開いた形となったため、吉法師は寧ろ大事な弟分として小政を認めたのである。

実際小政の方からすれば吉法師が自分のおかずを取り上げるのはいつもの出来事ゆえに諦めて先手を打っただけのことでしかなかったのだが、それを期に吉法師の態度の急変に心地よさを覚え、吉法師を本当の兄として慕うようになる。

この二人のやり取りを猫にしてみるととても可愛らしく見えるだろう。

2匹の猫が最初は餌の取り合いでけん制しあうも、一方が勝ち目無いと折れだしもう一方に権利を譲りだすと、2匹の猫は逆に仲良くなっていく光景を時折目にする。

そういうイメージでその光景を見た養徳院にとっては、とても微笑ましい形に見えただろう。

後に信長と恒興の関係が良好だったのは、こうした経緯があったからと言え、むしろ平手政秀の子らは父の寵愛を意識してか、信長に対抗心を抱き続けた態度があった為、信長は彼らを受け入れなかったと言える。

いわば繊細に人の感情を読み取れる信長は、小さな対抗心であり自分に心を開かない相手を警戒し敬遠したのである。それでも政秀に対する愛情と敬意があったためそこまで蔑ろにはしてはいなかったとも言える。

 

そしてこの変化で小政の心の変化がより良好になったと感じた吉法師は、人に優しくする大切さも同時に薄々と感じ取っていくのである。

 

この物語では「天才」の定義を挙げている。

天才と言って一般的には身近に感じない人は多いかも知れないが、実は天才に成る気があれば誰でも天才に成れるのだ。

身近に居ないのではなく、殆どの人が他人の長所を見ようとしないゆえに天才を見極められていないと言った方が良いだろう。

天才に成る気があればというのは、自分の才能を信じてその才能を活かす場で自らその研究に没頭することにある。

ネット調べでその知識に満足してしまうのでは、その人は決して天才にはなれない。

天賦の才とは興味と好奇心である。

そもそも誰もが持ち合わせるものだ。

この興味を知識で満足してしまうと、他人の才能を借りて理解しただけのことに成る。そして理解したと勘違いして満足してしまう。

興味を持つなら様々な矛盾であり疑問にも直面しなければならない。

興味を飽くなき追及によって不明な部分の解明にまで注いでこそ天才なのだ。

ある意味科学者としてこうしたプロセスで挑んでいる人はすべて天才であると言っていい。

スポーツの世界でも同じで、教わる技術で満足しているのは天才ではない。

研究者として自分が出来ることを増やし、その効果を見極めて更に効果的に機能する技へと生み出していく。

この追求心を持ち続けることで天才に成れるのだ。

いわば天才に成るには興味と疑問を持ち続けて矛盾を許さない追求に没頭できるか否かという部分にある。

そして更なる大きな違いは結果に興味を持たず、そのプロセスを楽しもうとする遊び心を持てるかにも関わってくる。

いわば天才に成れば成るほど、結果を知った喜びは一瞬でしかないことを知る。結果が出るまでの悪戦苦闘の時間こそが一番楽しい状態だと知るのである。

スポーツで勝負に勝ったという喜びは一瞬だが、勝ち続ける、結果を出し続けるにはその一瞬は単なる通過点でしかない。

人の評価は自らのキャリアを終えたときに真価が出るもので、それまで強欲に結果を求め続けるなら、それを出し続ける長い道のりを如何に楽しんでいくかはモチベーションを維持するという意味でも大事な要素となるのだ。

 

とは言え、万物に興味を注ぐ吉法師は、些細な変化をも感じ取ることによって違和感を感じ、そしてその要因を追求しようとするのだ。

「人心」に於いては小政との一件があったこの時点で何かの結論を得たという事ではない。寧ろ、今後起こりうる政秀の子らとの出来事であり、前田利家の起こす事件などを得て、様々な違和感であり、「何故」を考えていくことで学んでいくと言え、そして信長としてそれらをどう統治するのが「公平」なのかを探求していくのである。

 

その吉法師の探求心は今まさに戦の事に向いている。

食事を終えるや自室で戦のことを試行錯誤したり、武芸の研究をするのが日課となっていて、吉法師にとって着替える時間が無駄に感じるほどだった。

 

次回は、あれを試してみよう・・・

今日は岩室のあの動きは面白かったな…

千秋は剣技はいまいちだが、石を投げさせたら凄かったな・・・

 

こうして吉法師はその日起こったことを思い起こして、次に備えて考えるのだ。

今までは勝ちに拘った気質もあって自分しか見えていなかった。

いわば自分が戦場で目立つ事に注視していたといえる。

スポーツで言うなれば選手として結果を出すために、自らの武技にすべてを集約して考えていたのだ。

ところが自分が一歩引いて指揮官という立場で考えだすと、また別なものが見えてくる。

無論、選手であることを止めたわけではない。

ただ、他の人間の動きが見え始めてそれらを観察して分析する事への興味が付随してきたという感じだ。

故に考える時間が足りないほど楽しくなってきたのだ。

そして、大方「次に試す事」が決まって来ると、

 

(どうせ明日も同じ服で出るのだから。)

 

そう考えて寝てしまうのだ。

 

先の庄内川の戦ごっこで八郎が降参しなかったのは、吉法師の成長にとっては都合が良かった。

結果、一度は庄内川から身を引いたものの、何度も何度も再戦を繰り返す日々となり、相手も成長し、自らも成長する切っ掛けとなった。

八郎が近隣の兵隊を集めて再戦してくれば、吉法師も近隣を制圧して兵隊を吸収し、八郎にまた挑む。

庄内川の戦ごっこは当初の50人程度の規模から、200人規模の戦闘へと変化していった。

庄内川の治水工事が完工した時分で、上流の水位が上昇したため、決戦の場所はそこから下流の方へと移っていった。

治水の堰を現代の東海道新幹線陸橋付近と定めた場合、以前の戦地は庄内緑地公園周辺と設定し、新しい場所はその陸橋のすぐ川下の現在の清須市と名古屋市中村区を挟んだ河原の辺りで考えると丁度いいと思える。

※史書にない出来事で、信長の成長過程で必須の出来事と想定したものゆえに地形からの凡その予測でしか判断できない。

 

初陣前の吉法師の軍団には、まだ小学生の年長に達したころ合いの佐々成政や前田利家も加わっており、農民上がりのメンバーとしては中村を制した際に加わった藤吉郎(のちの秀吉)の姿もそこにあった。

無論、成政や利家と違い、農民として混ざって参加していた藤吉郎はまだその頭角を現していない。

しかし後に成長を遂げて信長に仕えるときに、この参戦した時の思い出は信長と藤吉郎を結びつける大きな切っ掛けとなったのではと筆者は考えている。

 

依然として八郎の槍捌きには苦戦を強いられた。

勿論、吉法師たちも太刀のタイプから、槍のタイプへ武器を変更したが、年齢も体格も勝る八郎たちの方が戦闘面では有利であったと言える。

それでも一進一退を繰り広げながら、度々決戦を執り行った。

 

そうした中、堰の工事は終了し、コメの生産も600石分は増加したわけだが、以前信秀が吉法師に伝えたように、更なる石高を増やす為の工事は継続していた。

無論、清州側もその増築には勘づいていたが・・・

工事が始まった1544年は信秀が美濃の斎藤道三こと斎藤利政と戦を始めた頃合いであり、この戦は美濃の守護である土岐頼芸が1542年に斎藤利政により追放され尾張へ逃げ込んだことが切っ掛けとなったと史実では伝えられる。

その意味では信秀単独の戦いではなく、尾張の守護斯波義統主導で行われた戦となり、清州の大和守家、犬山の伊勢守家もこれに参戦した形となっていた。

尾張随一の戦上手であった信秀が主流となってこの戦いに挑んだことは史書の通りであると思われ、斎藤利政の居城稲葉山城まで迫って大激戦を行った。

後ほどこの情勢は記すものとするが、こうした時分でもあって那古野の治水拡張は曖昧な形で清州も黙認したと言える。

 

その治水工事の現場を久々の手伝いで吉法師らは訪れた。

相変わらず遊び半分での手伝いであったが、イベント的に大人たちも楽しむ形と成るため寧ろ歓迎されたと言える。

そうした中、たまたま納屋に立てかかった長い竹の束が突然崩れる事件が起きた。

その竹は治水の溝の側面を補強するためのもので、かなり重く長いものだった。

幸い通りかかった吉法師たちにケガはなかったが、何名かの人夫がその下敷きになってケガしたのを目撃した。

その時は咄嗟に下敷きになった者を救出しに動いたが、その事件が切っ掛けで吉法師は面白いことに気づいた。

 

吉法師が類い稀な天才である所以は、事故で運良く助かったで終わらない点だ。

いわばあの事故は自分に襲ってきたかも知れないと考えるのだ。

その時に自分はどう対処するかを想像する。

竹が崩れるのをすぐさま反応して避けれたか・・・

崩れる竹に反応して持ち手の道具でそれを防げたか…

そこから発想の閃きを生じさせるのだ。

そして吉法師は気づく・・・

 

竹を避けるにしても、防御するにしてもその時に自分に隙が出来る!!

いずれにしてもそれをしなければ下敷きになってしまう・・・

 

そして以前に千秋が八郎の足元に石を当ててケガさせた事を思い出して…自ら竹が降り落ちる際の避ける動作を試してみた。

 

(上から降り注ぐ竹を防ぐため腕は上段に構えて、体は避けるか…)

 

そう見極めてから、

 

(避けた体の足はその際に止まる…)

 

吉法師はそこに生じる絶対の隙の存在を見極めたのだ。

史書などを参考に語る際、日本の戦で盾を用いることはあまり意識されることがない。ところが実際に盾は用いられていた。

西洋の鉄の丸い盾ではなく、寧ろ木製の板状にした盾が使われていた。いわば弓矢を防ぐための盾だ。

絵は船上のものだが、実際の陸でも用いられたと考える。

寧ろ盾もなく弓矢が狙う敵陣に突撃する元来の発想は、ある意味無謀ともいえる。

これは石合戦をする際にも、盾を用いるのは当然と考えるのが普通で、盾を用意する発想すら無かったという話なら、当時の日本人は本当に頭の悪い人たちという事にしかならない。

 

いわば盾が邪魔して弓や石が上手く相手に当たらないのは当然の成り行きで、それゆえに少しでも上から降り注ぐ矢を浴びせるために、上に弧を描く斉射が用いられた訳で、それを防ぐのに盾を上に構えれば下が開くなどという状況が考えられた。

これらは平安時代より用いられた発想ゆえに、それらが進化して戦国のころには前衛が下段に盾を構えて、その後衛が上段の矢を塞ぐといった陣立てくらいまでは発想が進んだと考えるべきだ。

無論、この陣容は鉄砲が主流になって来ると無意味と化して行ったと考えられ、独自の兵書の乏しい日本では自然と伝わらなかったとも考えられる。

火矢を用いて盾を焼き落とすなどの発想もあったと思われるが、基本的には弓矢は殺傷力の低い兵器であったと考えられ、戦ではより近づいて乱戦によって敵を殲滅することがより得策と考えられたともいえる。

そういう意味では騎兵に長けた武田信玄や上杉謙信が恐れられた点も理解できる話で、それ以前の中華ではモンゴルのチンギス・ハンが最強であった点は理解できる。

 

正直なところ、信長が長槍を好んで用いたことを知った際に、筆者は理解に苦しんだ。

長槍を扱うのは相当に腕の長けた人間でないと使いこなせないという事もあって、それでも達人同士なら長槍より短い槍の方が立ち回りがしやすく有利になる点は否めなかった。

いわば物理的な優劣でも、長いリーチの懐に入れば入るほど、短い方が有利になるからだ。

また長い分、重さも重なって逆に動きが鈍って不利にもなる。

そういう意味で長槍が何故重宝された?

ただし、筆者はその分、他の研究者と違い、長槍を用いるなら寧ろ戦闘の素人向けである点は確信していた。

そうした中、石合戦で盾を用いるだろう状況が見え、本来の戦でも弓合戦に対して盾を用いる状況が当然と見極めた際、近づいてきた強兵を有利に駆逐する方法として長槍の使い道を思いついたのである。

 

納屋に立てかけた竹が崩れたように、長い槍を真上に立ててそのまま敵の方に倒すだけならある意味技術は必要ない。

寧ろ戦闘が上手くないものを使いこなす意味ではこの長槍作戦は十分な補足として機能するのだ。

上から倒れて来るその槍に対して、人は必ず避けようとする。または咄嗟に盾を上に向けて防ごうとする。

盾を前面に置いて後ろに後退する動きを見せたとしても、実は長槍の重さとその威力で盾は崩れるか、手を離したっ時点で倒れるのいずれかが生じて、避けた人間に大きな隙が生じる事は否めない。

無論、盾を上に向けた時点で、その正面には隙が出来る。

その隙に弓矢や石合戦なら石を放てば、確実に隙が生じた部分を狙い定めることができる。

または太刀でも短槍でも、そのタイミングで突っ込めば相手の懐を取りやすくなる。

そうした近接での優位性を高めるための長槍なのだ。

おそらく多くの研究者がこの発想に気づかなかったと同様に、信長の長槍戦法はかなり当時としても奇抜な発想だったと言えよう。

それゆえに鉄砲が主流になるまでの期間であっても、織田軍団が強かったのは近接戦闘に於ける優位性が功を奏していたと言える。

 

吉法師は長槍の有効性をこの時点で発想し、八郎たちとの勝負でこれを試すうちに、乱戦優位の状態を担保していったのである。

また三段撃ちの原点ともなる、上手い奴に投げさせろも発想にあったと言え、鉄砲に限らず、弓の射ち手は射ち手として活用していく形が生み出された。

更には本来、戦力にならないとされる雑兵も様々な形でうまく活用することで、ある意味戦力に無駄の生じない機能で構成した。

その意味では一人ひとりの様々な長所を伸ばしてプロフェッショナル化させることでより効果的な機能に成る点を実感していくことにもなった。

先に、誰にでも天才に成りうる…と、いう話を用いたが、吉法師は「天が人に不公平であることは認めない」という発想で、誰もに才を活かす機会があるべきだと信じて、それを実践した分、以後、多くの長所を見極めてその長所を活用していくことの大切さを「天命」として理解していくのである。

 

三国志の曹操と信長の違いは…

曹操も才ある者を活用したが、曹操の才ある者はその才を自ら示したものである。

信長は寧ろ、現代の経営者、寧ろ中小企業やベンチャーで野心的に大きくなろうとする人に求められるもので、才ある者を見出して育てる意味と成る。

信長は尾張という僅かな人の資源の中で、それらを上手く活用して大きくなった人間活用法が注目され、寧ろ大きくなった際は求めずとも才ある者は集まってきたという感じである。

曹操も魏を建国するにあたって似ているような形でのし上がっているが、筆者は信長のそれとは異なるものとして見ている。

寧ろ曹操は才を自負するものを好み、信長は寧ろ才を自負するものは嫌う点で大きく異なると言える。

曹操ならば、竹中半兵衛や黒田官兵衛を自らの側に置こうとしただろうが、信長は寧ろ側に置かなかった。

曹操は才を自負するものを上手く扱えたゆえに天寿を全うしたともいえるが、信長はそれを嫌ったゆえに謀反によって夢が崩れたともいえる。

しかし民主制が主流となる現代社会においては、曹操のような人物は腐敗を招くわけで、寧ろ人に潔癖な信長の方が万民を幸福に導ける人物である点は強調しておくものとする。

 

さて…元服をまじかに控えた吉法師は愈々信長として新たな一歩を踏み出すわけだが、その時分の尾張周辺の状況はいかなるものか…

 

先ずはそこを解説するものとしよう。

 

どうも・・ショーエイです。

オリンピックがとうとう始まってしまいます。

ああ、因みにここまでのグダグダ状態に+最後の演出家まで更迭した件はこれ炎上商法です。

小山田氏の件まではどうしようもなくグダグダだったわけですが、演出家をさっくり切った目算は、炎上して結果、開会式がどんだけグダグダになるのかという興味を引き付けるための最後の演出と言っていいかも。

多分、そういう意味で視聴率はかなり上がるでしょうね。

間違いなく。

その上で、何の変更も加えずに、キャストリストだけ変更して無事に開会式をこなすだけのツマラナイ展開だと思います。

まあ、そういう意味では排除された人達のものがそのまま使われるという状態になってしまうわkですが…

 

日本のフェイク主義ってこういう事を平気でできてしまうところ。

何がフェイクかって?

今更変更加えられないから、そのままやってそれを演出した人は関係ありませんという態度で通す感じです。

実際にその演出は様々な問題視を受けた人が生み出したもので、その人たちの作品を人間性とか関係なく見せられてしまうという現象です。

結局、社会が指摘した人たちの感性がフェイクで表現されるわけで、結果、彼らの人間性を批難した事の意味すらあやふやになるという話で終始するのです。

 

キャストのフェイクを外して考えるなら、本来そこで外された人の感性をそのまま表現してしまう行為は、どんな作品でも受け入れがたいと考えるのが当然です。

実際はそういうふざけた意味の開会式であることはご理解ください。

まあ、政府やJOCなどに質問しても、彼らは関係はないと言い張れるわけだし、前もってどの部分が関与したかも演者以外知らないから、口止めしておけば一般人には解らないでしょうね。

ただし、現実的な話、リハーサルなども込めて今更新規で作り出す時間はないわけで、結局は追い出された演出家の演出がそのまま名前だけ変えて演じられるという事でしか対処が出来ないというわけです。

既にそうした人は現場に出没しないのだから、開会式の演出そのものは関係ありませんと言い張るだけの話です。

 

そいう状況の開会式を、グダグダに成るかもという冷やかし根性煽って視聴率につなげようと政府やJOCは試みているのです。

 

正直言います!!

多分、期待するようなグダグダは起こらない、平凡でツマラナイ開会式になると思いますよ。

そしてその開会式は、辞任や更迭された人たちが手掛けた作品そのものであるのです。

 

それを理解した上で、見る人は見てくださいねというしかありません。

 

因みにIOCのトンデモ・バッカ?…トーマス?トンマッすだっけ…

あいつは空気を読めないのは日本人の方だとか言ったらしいけど…

馬鹿ですか?

その発言自体が空気を読めてないでしょ!!

 

空気は!!

キサマ程度の無責任かつ傲慢な人間が主催するオリンピックをわが国で開催させるのは腹立たしいという意味なのだよ!!

コロナの話は、その一端で、

全ての元凶は、トンマです・バッカ!!Thomas Bschお前のその間抜けさが原因なのです。

そういう反省すら理解できてないから、空気が読めないという話です。

 

アスリートたちの長となるIOC会長がこんな程度であるという事は、すべてのアスリートの頭がこの程度のレベルに見えてしまう責任も感じなさいよ!!

最低でもメダルなど栄誉を手にしたアスリートは全て

傲慢になり下がって、体育会系特有のパワハラ、上から目線でしかモノが見れなくなり、論理的な解釈が脳みそまで筋肉質で柔軟性がなくなっている分、理解すら出来ないレベルに落ち込む。

社会は、そういう偏見を持つしかないという事なのですかね?

アスリートの脳みそは信用できない!!

トンマです・バッカとは、そういう印象を浸透させる存在なのです。

 

ドイツ人への偏見も重なって…こいつはヒトラーの心酔者なんだろうねとも言っておきます。

人間のクズがこういう立場に立つと本当にロクな事は起こらないです!!

まあ、日本のクズとドイツのクズが意気投合すると、すべての国民をだましてでも厄災広げてでも自分たちの利益追求に走り出すのでしょうね。

しかも、そういう事に共感しあってしまう…

 

【日本人言います!!】

オリンピックをテレビで見るな!!なんてことは言いません!!

見たい人は見ていいのです!!

応援するなら応援してもいいのです!!

でも、豊田社長には申し訳ないが…

オリンピックのスポンサー企業への不買運動を浸透させましょう!!

報復の為に世界中でこの不買運動を広げましょう!!

 

そしてIOCのやった事に、明確にNOと社会的制裁与えるのです。

そのためにオリンピックを見ながら、

見つけたスポンサー企業をチェックしてください。

 

例えば、コカ・コーラの製品は買わないようにしましょう。

アクエリアス飲むならポカリスウェット!!

スーパードライなら一番搾り!!

コーラはペプシ!!

 

そんな感じでオリンピックを見れば…

ハッキリ言って視聴率稼がれても、スポンサーにはデメリットしか生じなくなるわけです。

 

IOCにNOを突き付けて、暇つぶしに見るものちゃんと見て、応援するものはちゃんと応援しましょうね!!

その上で代替え商品が効くスポンサー企業には、犠牲を払ってもらいましょう!!

【第二十一話 方程式崩壊】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

この物語では山本勘助が愛用したとされる「兵は詭道なり」という孫子の兵法の一句を用いる。

一般的な解釈では、「戦は騙しあいであり常に臨機応変に対応するべし」というのが定着しているが、もっとこの言葉を深く読み解くと、戦では常に予期せぬ想定外の出来事が生じるものと捉えて、現代のビジネスにおいても応用できる言葉とする方が良い。

 

再び庄内川の河原で清州の八郎ら率いる集団に挑むこととなった吉法師らは、川に面して一列に隊列を組んで、対岸の敵を挑発した。

ただ相手は那古野村の子らが現れただけで挑発することもなくいきり立っているんだが挑発されて更に血が上ったようである。

こうした挑発も沢彦は戦で大事なことと吉法師らに教えた。

いわば相手を自分たちの罠に嵌めるには、相手がムキに成って力押しを仕掛けてくることだ。

卓上の教育では逆に挑発に掛かってはならないと教えるだろう。

そしてそう学んだ誰もが挑発などに掛からない冷静さを心掛ける。

ところが人間の心理は複雑で、解ってはいても引っかかるのだ。

 

挑発の基本は相手を煽ることではない。

相手を焦らせることがポイントである。

煽られて血が上ってムキになる人間も多くいるだろうが、

実際に現実的な思考で考えると軍を任されている人間が

簡単に冷静さを失うと考える方が不思議なのである。

マンガであり小説の世界、もしくは歴史学者ですらこの辺を勘違いしている人が多い。

 

相手の性格をついてもほぼ効果はない。

悪口を用いて相手がムキになる事は現代社会のネット上でよく見かけるだろが、ステータスを持つ人はそういう言動にも比較的冷静に対応しようとしている。

いわば好感度を大事にする芸能人は悪口などはあえて無視するような姿勢で対処できるわけだ。

それが出来ない芸能人も居るには居るだろうが、

そちらの方が稀で、大半は上手く冷静に対応できている。

これは軍の指揮官に於いても同じで、

馬鹿にされてムキに成って出撃するようなのを指揮官に使っているのは寧ろその人選に問題があると言える。

 

では何を以て挑発するのか?

「焦り(アセリ)」を誘発するのが挑発の基本である。

ここでも孫子の基本をおさらいしよう。

「彼を知り、己を知らば百戦危うからず。」

この言葉を応用して

自分が困る事は、相手も同じように困るという事に着目してみる。

自分が軍の指揮権を任されている立場からすると、戦における功績を求められる立場になるわけだ。

これは現代社会でも同じことで、営業成績であり実績が出てこないと自分の評価が下がってしまうという部分に直結する。

そうした中で戦では持久戦に持ち込めば持ち込むほどこうした焦りが生じるのだ。

ここが心理的なポイントで、焦ってはいけないと理解していても、どうしても焦らざるを得ない状況に陥るのだ。

そうした心情を逆手にとって、兵士に敵兵の前でダラダラとのんびり過ごす様子を見せつけることでいわば「挑発」の効果が得られるのだ。

これらは逆に兵糧攻めであったりするとより効果的になって、むしろ敵は戦意喪失、いわば打つ手なしの状態になる。

ある意味秀吉の中国攻めの手口はこういう感じとも言っていいかもしれない。

 

勿論沢彦はそこまでの高度な方法をここで教えるつもりはない。

寧ろ単純に引っかかる相手が徐々に引っかからなくなる様子を学ばせながら。「では、どうする?」と考えさせる機会を望んでいた。

 

吉法師らは

 

「清州の馬鹿連中!!河童が怖くて川を渡れないのか?!」

 

と、かなり子供らしい文言で挑発した。

清州側の連中は、その言葉に腹立てて石を投げあう石合戦なくして渡河しはじめた。

前回吉法師らが簡単に逃げて行った分、それで十分と思ったのだろう。

挑発は真ん中に陣取る吉法師らが主に浴びせたことで、憤り立った八郎の標的は吉法師らの狙い通り自分たちに向けられていた。

見事に計に嵌った…

渡河してくる八郎らに、吉法師らは石を投げつけた。

八郎は木の盾でそれを防ぎながら突進してくる。

八郎が渡河を終えるくらいの間合いに成ると、吉法師らは徐々に後方へと距離を取って動いた。

 

「また逃げるのか!!」

 

八郎は後退する吉法師にそう浴びせかけた。

すると吉法師は…

 

「逃げているのではない!!今からお前に戦の何たるかを見せてやる!!」

 

と、逆に挑発に乗せられた。

さすがは…おバカ…

岩室たちも内心…

 

(若が挑発に乗ってどうする?)

 

と、密かに感じたであろう。

しかし、八郎はっそんな吉法師の言葉を気にかけることなく追っていった。

計はそのまま為された。

 

この状況を土手で見ていた沢彦は、

 

(なんとも子供らしい光景かな…)

 

と、笑いを浮かべた。

そして、

 

(どうやらあのうつけた言葉は寧ろ逃げる言い訳に聞こえたのかもしれんのう・・・)

 

と、意外な事に気づいた。

 

(実戦でもこれは作用するやもしれん…前回無残に逃げた分、逆に強がって見せた方が相手は警戒せぬか…なるほどのう…)

 

まさに沢彦が感じたとおりである。

無論、八郎が兵法を理解した将であることはないが、それを理解した者でも人間の心理の驕りや怠慢を引き出すことは多々にある。

かの諸葛孔明が用いる「挑発」という計は、こうした心理を巧みに利用したものであったと言えるだろう。

 

吉法師たちの布陣は面白いほどに形を整えていった。

逃げる吉法師に合わせて八郎は鶴翼の奥深くまで入り込んでいった。

するとその周りを囲むように他の者たちが取り囲むように動き、そこで一斉に投石を開始した。

相手が年少者とはいえ、石に当たればかなり痛い。

清州側の子らは一斉に崩れ落ち、痛みをこらえながら川の方へと退散していった。

ところが数百単位の大きな戦と違い、数十単位の少数戦では時折想定外の戦局が発生する。

吉法師らに近づいた八郎ら5名ほどは、むしろ投石の的に成らなかったのだ。

いわば投石すれば吉法師らに当たってしまい可能性があったためだ。

またその5名は猛者ともいうべき存在で、多少の痛みは平気だった。

更には槍の様な丈の棒を振り回して暴れまわっている分、吉法師らも意表を突かれた感じになってしまった。

吉法師らは使い慣れた刀の長さの棒を用いていた分、槍よりもリーチが短い。

迫ってきた八郎にまず山口と長谷川が仕掛けていったが、八郎の槍捌きともいうべきか、長いリーチをぶん回して近づく隙を与えず、防戦一方となる2人に時折突きの一撃を加えて撃退した。

吉法師もその光景を目の当たりにしてどう対処していいか困惑した。

そして八郎以外の残った者たちは、投石してくる左右に突進していきこれらを粉砕し始めた。

新介や小平太が勇みよく対峙したが、やはり長物相手に打つ手がなくあっさりとやられてしまう。

少数戦ゆえに個の勢いで一気に形勢が変わってしまう。

吉法師は岩室、加藤、千秋らで八郎を囲むも、迂闊に近づけないまま、防戦の一方であった。

振り回す得物に対しては、その軌道を木刀で抑えることで対処はできたが、八郎はそれを防がれるやすぐさま突きに切り替え、そして今度は逆回転に振り回すなど実に巧みな動きを見せている。

そういう状況下で吉法師も何発か八郎の攻撃を食らうありさまだ。

 

(こんな攻撃をどうやって倒すんだ…)

 

吉法師の頭の中は混乱していた。

そんな中、八郎の攻撃で一時的にもだえていた長谷川が起き上がり、背後から八郎に不意の一撃を浴びせるが、八郎は全く怯むことなく、

 

「痛てぇな!!この野郎!!」

 

と、すぐさま振り向いて長谷川を蹴りの一発で吹き飛ばした。

その直後に切りかかった岩室は怒りに乗じた八郎の上段から振り下ろしてくる連打に押し負けて頭上に一発を食らってしまう。

 

吉法師は今まで同年代の子らに武術で負けたことがなかった。

ここまでで唯一本気でやりあったと言えるのは新介との勝負位である。いわば自分よりも強い相手を見たことがなかったのだ。

しかし、今回の相手である八郎は全く異質な存在であった。

吉法師も上手く打撃を与えるも全くダメージを感じないのだ。

そして岩室に浴びせた上段からの怒りの連打が今度は吉法師に向けられた。

無論、剣技に長けた吉法師はすぐさま頭上に木刀を構えてこれを防ぐも、長いリーチと八郎の馬鹿力で振り下ろされるその攻撃に持ち手はどんどんと下がってしまう。

また布陣した那古野村の子供たちはあっさりと他の4人に粉砕されて既に散り散りに逃げ出してしまうありさまだ。

 

この光景を眺めていた沢彦は

 

(これは若にとって意外な収穫があったやもしれん…)

 

沢彦のいう意外な収穫とは、八郎という人物を差すのではない。

むしろ本気で負けたという経験のことである。

 

(しかし…このままボコボコされて万が一があっても不味いな…)

 

沢彦は子供の喧嘩という認識で口出しはしたくはない。

しかし、この時代、現代の様に法律が浸透して完全に管理された社会とは違い、こども喧嘩でも打ちどころ悪ければ死人が出る時代である。

程ほどという状態で引き際を考える者なら安心だが、子供ゆえに寧ろその見極めは逆に怪しい。

そういう意味もあって沢彦は傍で付き添っていた河尻に、

 

「秀隆殿…不本意ではあるが止めに行ってもらえぬか?」

 

すると、河尻は

 

「御意!!」

 

と、すぐさま動いた。

何とも過保護な状態…そう感じるだろうが…

寧ろこれがリアリティーである。

とは言え、八郎に押された吉法師は既に耐えきれない状態まで追い込まれていた。

万が一八郎の一撃が吉法師の頭上に致命的な形で入れば吉法師は歴史に名をとどろかせる事なく「うつけ」のままこの世から消え去ったであろう。

その矢先である…

吉法師と一緒に八郎を囲んでいた千秋が八郎の膝に向けて石を投げつけ見事にぶち当てた。

木刀ではビクともしなかった八郎だが、足に食らった一撃はさすがに効いたようである。

そこでようやく八郎の連撃は止まった。

そして吉法師から怒りの矛先を千秋に向けたその瞬間、八郎に隙が出来た。

窮地に立たされた吉法師は、

 

(今だ!!)

 

と、仕留めるタイミングが見えたその矢先、背後から河尻が割って入り、

 

「今日の喧嘩はこれまでだ!!」

 

と、声をかけて来た。

すると怒り心頭な状態の八郎は、

 

「大人が喧嘩に割り込むな!!」

 

と、河尻に意気込む感じで食ってかかった。

何気に千秋から浴びせられた投石で足の痛みを相当に抱えたのか、八郎は少しビッコをひいていた。

そして河尻は意気込む八郎に近づいて、

 

「今日の喧嘩はおしまいだ…その足では…」

 

というや八郎は河尻に向かって得物を振り回した。

それに対して河尻はすぐさま八郎の方へ間合いを詰めた状態でその攻撃を防ぎ蹴りで軽く八郎の引きずった足を蹴り飛ばした。

すると八郎はもだえるように転がり込んで、足を抱えながら悶絶した。

 

吉法師は河尻のその動きを何気に見逃さなかった。

 

(凄い!!ああするのか!!)

 

吉法師が驚いたのは、河尻の蹴りではない。

寧ろ間合いを詰めてから防いだ動作に感激したのだ。

武術的な物理計算で考えると、

振り回す力は起点の内側に成れば成るほど力は弱まり、外へ行くほど力は大きくなる。

これは野球のバットで考えるといい。

バットの手元にボールが入るとどうして打球は弱まる。

また時折バットが折れたりもする。

逆に芯と呼ばれる外側のちょうどいいところで捉えると、力は最大限に引き出される。

ところが今度は外すぎると内側ほどではないが実は球の球威に持ち手の支える力が徐々に押し負ける状態になる分、軸が折れやすくなる。ある意味自身のパワーと球威の衝突が手に思いっきり伝わってくるという形だ。

とはいえ内側へ行けば行くほど力の伝達は弱まるのである。

 

物理学がまだ無い時代でも、そういう事は感覚的に知識として伝わっている。

吉法師の場合は、むしろ才能として微かな感覚の違いを感じ取っている分、河尻の動きを見ただけで何となくその原理が理解できるのだ。

 

足を抱えて悶絶した八郎に、

 

「そんな足ではもう戦えないだろう…とりあえず喧嘩は終わりだ。」

 

と、言い放ち、

通りがかりの行商人を装ったふりのまま、

 

「ほらガキども、今日はさっさと帰れ!!」

 

と、追い払うように言い放った。

吉法師は河尻の立場と役割は沢彦から聞かされている。

そして河尻が乱入したことで周りを見渡せば、

確かに那古野村の子供たちは散り散りになって逃げまわっていた。

そして吉法師は喧嘩の勝敗よりもむしろ河尻の見せた動きに興味が移っていた分、

 

「皆、今日は引き上げるぞ!!」

 

と、潔く引き上げた。

 

後日、吉法師は盛重の剣術の指南の際に、河尻が見せた動きを師範である盛重に問いた。

盛重は、

 

「若、剣を構えて私と距離を取ったまま立って居て下され」

 

と、言い長柄の棒が芯で当たるように振りかざした。

吉法師の受けた衝撃はかなり大きなものであった。

そして次に

 

「では私の側に立って同じ攻撃を受けてください。」

 

すると今度は衝撃はさほど大きくはなかった。

 

吉法師は体でその違いを体感することでようやくその原理を納得した。

そこで盛重は、

 

「若、我々が何故腰に太刀と小太刀を二本付けているかご存じですか?」

 

と、語る。

無論、吉法師はよく知らない。

 

「解らん!!」

 

吉法師は躊躇なく答えた。

 

「では、ご覧あれ…」

 

というや、まず太刀を構えて吉法師に対面した。

次の瞬間、盛重は太刀を投げ捨てて、小太刀を取り出して吉法師に一気に間合いを詰めて、いわばドス突きの構えでその懐に飛び込んだ。

あまりの早業に吉法師は驚いたほどだった。

そこで盛重は、

 

「敵と間合いを詰めた際に、太刀では距離が長すぎるのです。小太刀に切り替えれば詰めた間合いではそれだけ有利に動けるのです。」

 

吉法師はその言葉に可愛らしく、

 

「おお!!」

 

と、感激する言葉しか発せなかった。

沢彦から話を聞いていた盛重は吉法師に、

 

「どうやら今回は八郎とかいう御仁に苦戦されたようですな。」

 

と、言葉を柔らかくして聞いた。

寧ろ負けたと言われるより素直に吉法師は受け入れた。

 

「あいつを倒せる気がしなかった…」

 

吉法師はそう答えた。

そこで盛重はようやく、

 

「負けたと感じましたか?」

 

と問いた。

吉法師はそこも素直に

 

「負けたと思った。」

 

と答えると、

 

「負けたことで今、次の戦い方を見極めたわけですな…」

 

と、言うと、

 

「ああ、そうだ!!次は勝つ」

 

そう吉法師が答えるや、

 

「では負け戦も悪くは無いでしょう」

 

と優しく諭すと、

吉法師はそこも素直に、

 

「ああ、悪くはない」

 

と認めた。

そして今度は厳格な表情で、

 

「しかし、首を取られては負け戦に成りませぬ…もっと引き際を見極めて大敗を避けるよう心掛けて下され。大敗こそ恥ずべき負け戦で、撤退は次への布石の負け戦と思ってください。」

 

吉法師は盛重に諭される形でようやく沢彦が言っていた言葉を理解した。

勝ちに拘るのは人間の嵯峨である。

吉法師は寧ろ負けず嫌いの性格もあって今までは勝ちに拘っていた。

ところがこれを機に「負け方の必要性」を意識するようになってくる。

発明や科学の世界では、ある意味「失敗」はつきものである。

その「失敗」を積み重ねることで「新たな発見」を生み出して、ようやく発明や解明という所に到達する。

これは戦やスポーツの世界でも同じなのだ。

ところが戦やスポーツでは負けを許されないケースが多々存在し、冷静に負けを拾うという事も難しいかもしれない。

故に凡将は常に大敗にして散っていくのだ。

 

吉法師が天才的に戦神となるのは、負け方を知り尽くすことにある。

いわば程よく戦って引き上げるのだ。

これは後に信長として美濃攻略で見せる技となるのだが、

勝ちを焦らず犠牲を少なくして大局へ備える。

それにより絶対なる勝利を引き寄せるのである。

そしてこれがさらに後の姉川の戦いでも生きるわけで、

朝倉、浅井の奇襲に大敗せず立て直せた所以でもある。

 

この後、庄内川の八郎との戦いは、投石の三段撃ち。

いわばコントロールの良い投げ手に石を集中して投げさせるため、石拾い、渡し手と逆に投げるのが上手くない者に役割を与えることで、効果的な攻撃を繰り出す方法を用いたのだ。

それにより渡河する八郎らに程よく打撃を与え、

渡河終える頃には、速やかに退散する状態を繰り返した。

そして連日の戦いの末、ケガや疲労で疲れた八郎たちを最後は渡河したところで一気に畳みかけて勝負を決めた。

子供の喧嘩としては、かなり狡猾なやり口であるが、

吉法師はこういう勝ち方こそ将たる者の勝ち方と割り切るようになる。

ただ、負けた八郎は吉法師の戦い方に納得がいかず、結局は心服することはなかった。

 

そして…吉法師はようやく元服の時を迎えて、初陣を飾ることとなる。

 

どうも・・・ショーエイです。

ブログを始めて、何気に6年くらいたった感じです。

なんだか気づけばそんな時間が…

僕なんて当時10歳くらいの設定だったのが…もう16歳。

まあ、サザエさん方式なので年取らない設定ですが。

 

ところで東京オリンピックを強行開催するの?

まあ、知らないけど…

開催中にデルタ株+新たな変異種発見でパンデミックが拡大したら、本当に笑いものに成るからもうどうでもいいといえばどうでもいい話です。

ある意味日本人というより日本の政治家であり、無知なサポーターに科学的な懸念を伝えても馬と鹿に念仏と同じなんでしょうね。

ワクチン打っても重症化しないだけで感染しなという話は出てきましたよね。

更には9月くらいに3回目の接種が必要という話も。

そして疑問なのがワクチンの効果は本当に変異種に対処できるか?

新たな変異種がワクチンをすり抜ける可能性は?

色々未知が重なる状況下にあるという事です。

 

運よくの博打に出られてもという感じです。

 

ある意味ギャンブル依存症体質の国家なのでしょうね。

このうつけの兵法でも語っている話ですが、

勝てばなんでもいいというのが本質で、

どういう相手に勝ったか、どういう勝ち方をしたかは関係ないみたい。

とにかく日本人がどんなレベルでもメダルを取ればいいという…

 

オリンピックなんだから最高レベルの勝負がみたいという考えはないに等しい。

最高レベルの参加者で、最高レベルの勝負ができない状態で、何が面白いの?

NBAのレブロンやカーショーが来ない。

MLBの大物は来ない。

エムバペやネイマールも来ない。

 

はっきり言ってどうでもいい大会だね。

これでメダル取りました。

薄っぺらい栄誉だよね。

 

相手の最強と雌雄を決して初めて本当の勝利なのです。

レベルの下がった大会なんて見るに値しない。

本当に勝負の世界を大事に考えるなら、

そういう気持ちが当然で、そういう人の方が明らかに勝負強いのです。

国全体が衰退状態のこの国では負け犬根性が浸透しすぎてるのかな?

まあ、パワハラ気質のこの国の状態は、強いものには逆らえない根性が勝負事でも出てくるんでしょうね。

はっきり言って東京五輪のメダルの価値は3流の大会程度の価値でしかないと言っておきます。