ショーエイのアタックまんがーワン -6ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第十九話 負け戦】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

勝利に方程式は無い。

方程式で勝利できるのは相手も方程式に頼っているから。

いわばこの戦いを生兵法の戦いと言っておこう。

科学の世界で様々な難題を解き明かすのに、

様々な方程式が用いられるが、

最終的にその難題を解き明かすのは答えの有る方程式では無く、

人間の研究努力と難題を解読していく頭脳でしか無いのだ。

これを「英知」と呼ぶ。

 

ここでも既に取り上げた孫子の兵法にある「兵は詭道なり」。

常時変化を齎す戦局に方程式のみを頼みにするなど愚の骨頂と言えるのだ。

 

沢彦に連れられて吉法師たちは清洲橋の北にある庄内川の河原へと向かった。現代の場所としては庄内緑地公園の付近としておこう。

新介や小平太は既に良く知った場所で、対面する清州側の集団とも既に面識があった。

それ故に、新介と小平太は些か弱気に構えていた。

小平太は吉法師らに、

 

「ここの清州の連中には、 八郎がおるで…わしらじゃ敵わんぞ」

 

と告げると、新介も

 

「八郎は俺らより3つも年長じゃ…ここは俺らが来る場所じゃねぇだ」

 

吉法師らのグループは沢彦の見立てもあって吉法師と同年代で固まっていた。いわば小学6年生か中学1年生に当たる、12、3歳である。

一番の年長に当たる新介も14歳だ。

一方の清州側の子らは15歳から17歳のグループで、

体格差もそれなりにあると言える。

 

無論、武家としてのプライドを持つ吉法師らは新介らの言葉を意に介さなかった。

ある意味まだ怖いもの知らずと言える。

武家として武技に自信があるゆえに、農民相手に負ける気がしないのだろう。

そんな吉法師は自信満々と

 

「俺らが居るから心配するな!!」

 

と、強気に新介たちを勇気づけた。

 

一行が河原に到着すると、対岸には清州側の子らが待機していた。

いつの時代もヤンチャな子供たちはさほど変わらない。

ある意味河原でたむろする不良グループといった様相だ。

そして吉法師らの姿を目撃するや、威勢のいい掛け声とともに、

威圧してきた。

 

「おうら!!那古野モンが何しに来た!!」

 

そう荒々しく叫ぶや、清州側の子らはすぐさま河原の石を手にして、那古野側の方へ投げつけてきた。

石合戦というのは当時の遊びで有名であるが、歴史家の多くはこの仕組みを勘違いしていると思われる。

現代のようにスポーツ化したような形で考えると石の投げ合いだけの勝負に思われがちだか、ルールなどという意識も低い当時にそうした先入観を抱くのは時代錯誤でしかないと言っておこう。

石合戦という言葉から察するに、通常の合戦では弓撃ちで始まるのに対して、石の投げ合いで始まる合戦…いわば喧嘩という表現でこのような表現に成ったと推測した方が適切である。

特に川を境にした場合は、お互いに川を渡らせない為に石をまず投げあったとする方が合理的な様相となる。

 

清州側からの投石が始まるや、吉法師らもすぐさま石を拾い上げて投石し、それに応戦した。

とっさの宣戦布告ゆえに、吉法師らの連携はバラバラで、個々に石を拾って相手に向かって投げるだけとなった。

よく想像される光景は無防備に石を投げあうものであろうが、前述のとおりルールなど存在しない状態で、無防備に石を投げあうだけという状態は寧ろ人間の知能を馬鹿にしすぎといってもいい。

いわば投石に対抗する手段は安易に思い浮かぶはずで、木の板で造った簡易な盾は用意しているのが当然である。

むろん、吉法師らもそれを用意していた。

そのうえで吉法師らはあらかじめの戦略がなかったわけではない。

渡河してくる相手の足元を狙って、集中攻撃するという作戦だ。

特に、警戒する八郎という少年に対しては、一斉に狙うつもりでいた。

ところが咄嗟の戦闘開始で統制がとれず、石合戦が初陣となる吉法師らの作戦は所詮は卓上理論でしかなかった。

 

清州側は石の投げ合いで、盾を持つ吉法師らの頭の方を狙い投げつけてくる。

そうすると自然盾の持ち手は頭を防ぐ構えとなり視界が遮られる。

後方の投石がそういう狙いで石を投げて来る間に、八郎たち数名の渡河部隊が川を渡って那古野側に進んでくるのだ。

 

想定していなかった展開ゆえに、吉法師らは盾を構えているのが精いっぱいで、那古野村の子らの一部は清州側の渡河が半ばまで進むと恐れをなして逃げ出すものも出始めた。

そして清州の八郎たちが渡り切るころ、それを確認した沢彦は大きな声で、

 

「ほらガキ共!!逃げろ!!役人が来るぞ!!」

 

と、あえて水を差した。

すると逃げずにいた那古野村の新介や小平太も戦線を離脱し始めて、やむなく吉法師らもその場から撤退した。

清州の八郎らは役人が来るという言葉に驚いて、逃げる吉法師らを追わずに、清州側へと引き換えしていった。

 

子供の喧嘩に水を差した沢彦だが、沢彦はすでに負け戦とわかる状況ゆえに、万が一吉法師の身に何かあってはと察してそれを止めたのだ。

すると吉法師は沢彦に詰め寄って、

 

「沢彦!!なんで止めた!!」

 

と意気込んだ。

すると沢彦は、

 

「あれが真の戦なら、お主の首は取られておったぞ。」

 

と、笑いながら答えた。

そして吉法師の供回りとして参加している岩室らに対して、

 

「若殿の供回りとして参加していた者らは、若の周りを固めもせずに何をしてたんだ?あれでは敵に見す見す大将首を与えていたようなものだ!!」

 

まだ子供ながらも武家としての教育を施された家柄ゆえに、沢彦の言葉は十分に理解できた。

しかし、吉法師はどうにも納得がいかない様子で

 

「それでも勝てたかもしれん!!」

 

と、意気込むや、沢彦はさらに大笑いして、

 

「なんともうつけた事を…将たるもの死に場所は選ばねばならぬ。首を敵に捧げても誇れる場所か?それとも負けを察して再起を図る場所か?そこの見極めを間違えればお主は単なる恥さらしに終わるぞ。」

 

その言葉に吉法師は、

 

「あそこで負けても首は取られぬ!!」

 

どうやら吉法師は子供らしい意地を張っている。

おそらく沢彦の言葉に腹が立つというよりも、むしろ負け戦になったことがくやしいのであろう。

そう察しながらも沢彦は、

 

「これはそなたの初陣の為のものじゃ。そなたはあの場面で無理に戦いを続け、首を取られて晒し者になる道を選ぶのか?」

 

むろん吉法師もそこは理解しているゆえに、何も言い返せない。

しかし、どうにも悔しさが収まらない。

 

「引き際を素早く察して、お主の首も、味方の命も無駄にせぬ戦いこそ名将の戦じゃ!!」

 

沢彦はさらに続ける、

 

「戦に常に勝てると思っているのは愚者の考え、大局を制する為に小事、いわば小さな負けを捨て、大きな勝利を確実とすることこそ常勝たる将の考えじゃ。」

 

そして沢彦は吉法師の周りに残ったものを振り返り、

 

「ここにどれだけの者が残っておる?さすがは武家の子らじゃが…村の子は2人だけじゃぞ」

 

吉法師の供回りは誰一人として欠けてはいなかったが、村の子は新介と小平太のみであった。

 

「兵の大半は、勝ち目の無い戦からはすぐに逃げる。まずは勝ち目を生み出して兵を留まらせることじゃ。」

 

すると吉法師は

 

「臆病者たちを充てにして戦えというのか?!」

 

と、沢彦の言葉に嚙みついた。

それに対して沢彦は、

 

「臆病者たちが逃げてしまう戦い方は勝ち目の無い戦じゃということじゃ。」

 

さらに続けた

 

「兵の士気というのは、臆病者たちから信頼を得て、その将のために命を捧げる事で成り立つ。」

 

すると吉法師は、

 

「そんなものは軍律で罰すれば何とでも成る!!」

 

と反撃するや、

沢彦は再び大笑いして、

 

「軍律?それこそそなたの首が飛んでしまえば意味がないものじゃ。首に成ってしまった将がどう罰する?」

 

そして吉法師の目をしっかりと見て、

 

「賞罰も勝ってなればこそ意味あるもの…負けてしまえば恩賞得られず、そこで罰すれば兵は逃げ出す。これが人の心ぞ!!」

 

「ゆえに勝ち目あらば人は従い、勝ち目なくさば兵は己の身を案ずるものと思え。」

 

ある意味、ここまで来ると沢彦の言葉は難しい。

そう自認する沢彦は簡単に、

 

「簡単な話、戦に勝ちたくば勝ち目を作れ、勝ち目がなくなれば臆病者たちと一緒にさっさと兵を引いて次の勝ち目に備えよ。」

 

そして沢彦は吉法師を揶揄うように、

 

「それともその勝ち目を考える能力はお主にはないのか?」

 

と、挑発すると吉法師は寧ろその言葉にムキになって、

 

「ならば次は絶対に勝ってやる!!」

 

と、言い放った。

そこで沢彦は、

 

「次は止めぬぞ…引き際を間違えて敵に殴られたら、お主の首は飛んだものと思え、そして負け犬として大笑いしてやるからのう・・・河原の向こうにお主の晒し首が飾られたと想像してのう…」

 

と、言い聞かせるように揶揄った。

沢彦は吉法師がイノシシ武者にならないように言い聞かせるつもりでそういう形で諭したのだった。

 

そして最後に教育者らしく、

 

「大陸(中国)の古の皇帝に劉邦という者がいる。劉邦は宿敵の項羽に幾戦も負け続けたが最後のたった一つの勝利で宿敵の首を取って天下を治めた。」

 

むろん史記には記されない話で、沢彦はつづけた。

 

「負けから勝ち目を拾い続け、最後の一勝で敵の首を取れば全ては勝ちなのじゃ。敵に勝てずとも次の勝ち目を拾えたなら、首を取られる前に陣を立て直せ!!これが大局を制したものの兵法じゃ。」

 

と、あえて教えた。

ある意味、この説明は吉法師には解りやすかった。

何故なら負けた悔しさから次の戦い方を既に見極めていたからだ。

吉法師は頭の回転が速いゆえに、沢彦との会話の中で、

そうした思考も並行して働くのだった。

そして、吉法師が、

 

「次は必ず勝ってやる!!」

 

と、溢すと、

沢彦は、

 

「次の引き際も考えておきなさい・・・首が取られたら戦も天下も無いのだから。」

 

と、さらに念を押した。

無論、若武者の吉法師にはまだその言葉は届かない。

そう察する沢彦は、

 

「お主の戦い方で、村の子らの信頼を得られずに再び逃げ出したら、その時が引き際と思え…それが出来ないのならお主の元服はお預けじゃな。」

 

と、吉法師に条件を付けて言い聞かせた。

子供ゆえに元服して大人の仲間入りを果たすことはある意味待ち遠しいものだ。

その元服が遠のくとあらば、さすがの吉法師も沢彦の言葉を無視できなかった。

解りやすいほど単純な子ゆえに沢彦ほどの人物になると扱いやすかった。それゆえに沢彦にとっては教えやすかったのだろう。

逆に普通の教育者からすれば、勉強嫌いな吉法師は教えにくい子でしかないだろう。

信長が早い段階で才能を開花させれたのは、むしろこうした人に恵まれていたからという点は伝えておきたい。

 

さて次の石合戦に吉法師はどのような方法を用いるのか、そして次こそ勝てるのであろうか…

 

どうも…ショーエイです。

実はこの石合戦を研究する上で、

エルダーズ・スクロール・オンラインというMMORPGで、

ギルド仲間と難所を攻略しながら

様々な要素を参考にさせていただいてるのです。

半分趣味も兼ねてるけど・・・

攻略できそうで、中々攻略できない。

面白いのは一人の力だけで攻略できないゆえに、

ギルドメンバー個々の力を引き出さないとならないというところ。

ある意味、特別に突出したプレイヤーを充てにしない分、

チーム力で試されるところもあり、

いろいろな部分で調整していかなければならない点。

また、なかなか攻略しきれない中、

ギルメンにモチベーションを下げないで参加してもらうように気を遣う点など、戦に挑むための士気などの参考に勉強もさせてもらってます。

戦い方に意見の食い違いが生じることもある中で、

どう纏めていけばいいのかなど苦慮しながら遊ばせてもらってます。

幸いギルメンに恵まれていることもあってか、

いい形で前進していくことが叶い、

今のところ攻略目前まで迫っているのです。

 

ゲーム全体としては既にそこを攻略しちゃっているギルドも多々あるのですが、ヴォイスチャット無しで人を選ばずに希望者のみを募ってやる方法は寧ろ珍しいらしく、それだけ他よりも難易度は高いとも言えますが、それでもチームワークでカバーして戦える形は、むしろこの小説の信長軍団が構成される過程にマッチしたものであるといえます。

 

Twitchの「liberteen」のチャンネルで日曜、月曜以外の日はほぼ毎日21時くらいからライブ配信しているので興味あったら見てみてください。

ちなみにプレイヤーは誰がやっているかは一応秘密にしてます。

 

ゲーム内チャットのやり取りも見られる状態で配信してますので、

ぜひ興味ある方はご覧ください。

 

ある意味リアルな形の戦場の心境を体現できる場で、

ゲームゆえに様々な将が主張する場であったりと、

この小説と照らし合わせて見てみると面白いかもです。

 

現在、趣味でゲームに没頭している分言い訳でしかないのですが、こうしてリアルな人の動きを勉強しつつ、信長軍団の構成を上手く表現する為に研究している状態と思ってください。

そしてそうした中で自己の反省点を見つけながら、信長という人物の葛藤を描いていけたらと思ってますので、何卒今後ともうつけの兵法をよろしくお願いします。

 

【第十八話 神童】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

科学的に様々なものが立証されようとも、例え宇宙の始まりを知れたとしても科学者たちが必ず行きつく疑問があるという。

誰がこの仕組みを生み出しているのか?

いわば神という存在でも認めない限り、自然のメカニズムは正に合理的すぎるからだ。

そういう意味で見えざる大きな力を肯定して考えてみると、

諸葛孔明と織田信長が同一の魂であるという事を伝えておこう。

無論、この話はこの小説でもしている事だが、殆どの人が信じていないだろうとも言える。

2人の大きな違いは、成長過程のトンネルの長さだ。

信長はある意味領主の子として領地を引き継ぎ、それから勢力を得た。

一方の孔明は、里を追われて各地を転々として、劉備に出会うまでは天下の事など妄想でしかないという状態で生活していた。

トンネルとは苦労の長さで、出口が目ない限り暗闇で進み続けるしかないものだ。

信長のトンネルは合ってない様なもの。

治水工事を手伝っているにしても、結局はいつでも投げ出せる。

一方、孔明は投げ出せば生活を追われる時期が長く続いたとも言える。

故に、同じ魂でも信長として経験する底辺の気持ちは、孔明ほど深い場所に行きつけていなかったとも言える。

苦労すればするほどより多くの苦難から経験を得られるが、苦労が少なければ少ないほど浅く理解した気になり、隔たりを生むのだ。

また苦労する故にそこから脱却するために知恵を絞り、向上心の下で多くの事を学ぼうとする。

人はこの苦労が無いと思考が停止して学ぼうとすらしなくなる。

年配の政治家や実業家がパソコンを使いこなそうとしなくなるのも結局はこういう事である。

自分が出来なくても、誰かにやらせればいい…

そこが分かれ目に成るのだ。

 

結果として信長は天才であっても万物の現象いわば森羅万象を知った量は孔明に及ばなかったと言える。

 

逆を言えば、孔明と同じ様に苦労の下で森羅万象を知る意識が有れば、孔明を越える事も十分に有りうる話として伝えておこう。

 

それでも今吉法師が入り込んだ抜けられないトンネルは沢彦のプレッシャーによって生み出された。

故に何とか苦痛から解放される方法を3っ日間考えた。

再び「敵」の話である。

苦痛を感じている最大の「敵」は単純作業で飽きが生じる事だ。

そこで己を垣間見て、飽きないでやっていられる状態を見つめ直した。

まあ、最初の10分程度だろう…

残りの飯の時間までは苦痛でしかない。

苦痛を感じると正直動きも鈍ってくる。

そうした中で「あそこまでは頑張ろう」という目標を定めてやると、そこまでのモチベーションは保てることに気づいてきた。

いわばジョギングをする人なら同じような発想をした経験があるのではと言える。

別段、特別な発想と言う訳でもない。

そうした発想を促す意図があってか、沢彦は子供たちに、

 

「お前らの作業ペースではやっぱり足手まといかのう・・・?」

 

と、皮肉を言ってくる。

故に子供たちグループで何とかペースを維持して作業しようという思考は働くのだったが、苦痛は苦痛でしかない。

目標を定めて、目標に達した際の褒美に値するものも考えた。

ただ「休む」という褒美も考えてみたが、それだけではやる気は回復しない。

投げ出してしまう事も考えた。

勿論、武家の子が態々やる作業ではない。

大人たちが背負う義務という逃げられない環境ではないのだから。

 

それを理解してか、沢彦は更に

 

「この程度の仕事も出来ないという事は、武家の根性は農民には敵わぬという事かもな…」

 

と、あえて煽るのだ。

道徳的に差別は良くない事だが、

プライドを刺激する部分では大事な心理作用を齎す。

ある意味、バスケットボールで黒人に負けたままではいられないという思考を以つ白人が、その自身のプライドを努力の目標として抱くことは悪い事ではない。

その上で最終的に目標にたどり着いた際に、黒人も白人も関係なくチームメイトとして同じフィールドに立てれば、それは差別ではないのだ。いわば対抗心を抱く気持ちと、差別の分別が付いていればいい訳で、劣等感から対等へ、対等から先は優越感では無く特別感…

いわば目標を達して対等に成った時点でそこから先は人種では無く自分自身が特別だったと意識する事だ。

それを白人の方が黒人よりやっぱり上と感じるのは間違いだという事だ。

 

吉法師らは沢彦に根性という言葉で武家のプライド刺激された。

沢彦は那古野の城への帰り道、武家の子たちだけに成った時にこうも言った。

 

「農民に根性で負けるような武家が、その農民の一揆を防げるとおもうか?」

 

沢彦はそう言って吉法師たちの精神的な逃げ道を塞ぐのであった。

吉法師ら武家の子供たちは武家の仕事ではないのだからと割り切ろうとも考え始めたが、沢彦の言う様にあの農民が一揆を起こして向かって来た時に逃げ出してしまうような武士には成りたくないとも感じた。

ましてや初陣を控え武家の子として初陣を認めてもらう様に成りたいと願う吉法師には、沢彦の言葉は大きな意味を持つ。

 

「負ける武将には成りたくない!!」

 

それ故に吉法師の思考は投げ出すという選択を排除して、如何に苦痛に立ち向かうで働き始めた。

もっと大人たちを圧倒するようなペースで驚かせる。

そういう優越感を褒美の代わりのモチベーションで思考し始めた。

 

吉法師の思考は強欲である。

 

「子供でも大人に負けない様に・・・」

 

いわば自身が初陣した際の事を想定し、農民の大人に勝てない状態は子供の自分が戦に勝てないと危惧するのだった。

 

さて…天才の発想はそこから傲慢といえば傲慢になってくる。

 

吉法師は楽しい事をしている…遊んでいるときは日が暮れてしまうのが早い事を思い出した。

これが発想の転換である。

 

「楽しくやれればあんな作業は楽勝なのか…」

 

遊ぶと沢彦に叱られるが、遊びを取り入れて作業効率を上げれば沢彦にも文句を言わせない。

そこでいかに遊びと作業を結びつけるかを考えた。

 

4日目、吉法師は桶、桶と言っても直径1メートルくらいのものだが、それを一人が倒して縦に持ち、それを的に、皆で石を投げ入れて遊ぶようにして見た。

沢彦は最初それを見た時にまた遊びだしたと思って注意したが、

吉法師は、

 

「この方が作業が早い!!」

 

と言い返して皆にそれを続けさせた。

大人たちは石を拾っては桶に持って行って、再び石を拾う動作で作業していた。

子供たちは桶から外れる事は多々あるも、遊び半分で石を投げ入れて行くうちに、桶の周りに十分な量の石が集まる。

それがある程度の量に成ったら皆で拾い集めて桶を満杯にした。

結果、大人たちの作業より早く桶が埋まるのだ。

川の生地は余計な石を取り除き、土壌状態にしてから杭を打ち込み、そこから堰を作っていく。

大きな石より手のひら位の石が多い。

故に子供でも投げれるレベルだ。

ときおり見かける大きな石は、流石に大人たちが処理した。

無論、その大人とは金森可近と沢彦が吉法師たちについていた訳だが…

 

吉法師の言うがままにそれを見ていた沢彦は…

 

(成程…遊びながらも効率を考えての事か…)

 

と、驚いた。

真面目な可近は大きな石を担当する傍ら、吉法師らが埋めた桶の運搬もかってでていた。ある意味吉法師の作業には可近と数名の武家のものが作業を手伝っていた状態である。

こうした光景は戦国の世ではかなり異質な状態といえるが、流石に若殿が作業しているのに何もせずに監督だけしている状態は不忠に感じたのだろう。

吉法師らのペースは徐々に速く成り、農民の大人たちより効率よく作業し始めた。

遊び始めたと感じていたが、吉法師たちのやり方を観察して効率よくまた飽きる状態も無くなって作業が進んでいくことに可近は驚いた。

 

いくつかの石を拾って桶まで歩いて持って行くより、投げてでも桶の近くに貯めた分を拾い集める方が移動距離が短く成る分、効率が上がると見えた。

最初の内は農民の大人たちもペースを維持してやっていた分、差は見られなかったが、時間が経つにつれてそのペースにも差が出る事が見えてきたのだ。

大人たちは徐々にダラダラと歩調も鈍りだしてペースが落ちてくるが、子供たちは遊び半分でやっている分、ペースがほとんど落ちないのだ。

そこで可近は桶を縦にして持っていた吉法師の仲間内の一人にあえて横にして寝かせさせて、

 

「若…どうせならこの状態を的にして、この中に石が上手く入る様に練習してみたら如何ですか?」

 

と、提案したのだ。

吉法師も、

 

「おお、それも面白そうじゃな」

 

と乗り気になり、今度は桶を寝かせて玉入れのような形で作業し始めた。

沢彦はその様子を見て、吉法師らと一緒に玉入れ作業をやってみた。

 

(成程…これは良いかも知れん…何気に楽しいな)

 

と、その効果を実感した。

 

小説や漫画などの物語では、神童が何でも思いつく存在に描かれるモノだが、実際に神童は全てを与えるわけではない。

実際は、大人の発想を導き出す切っ掛けを不思議と齎す子供が神童なのだ。

吉法師の遊びの発想から、可近がアレンジしたやり方を思いつき、そして今度は沢彦に大人たちも同じように楽しめる方法を思いつかせる。

大人の発想を不思議と導き出す子供を神童と呼ぶのだ。

無論それに気付ける優秀な大人があって初めて神童は活きてくる訳で、そこを子供あつかいしているだけの大人では、神童はただ単にかわいい子供でしか無くなるのだ。

吉法師の齎した閃きの切っ掛けは、沢彦にも伝播した。

 

(これを組みに分けて競わせるのも面白いやも知れん…と、成ると…褒美には昼飯のオカズでも出してみるか…)

 

5日目 沢彦は可近に、大人たちを10人一組に分けさる提案をした。そして各組が積み上げる石の山を固定して、子供たちも含めてどの山が昼までに一番早く積み上がるかを競わせるように提案した。

そして褒美には上位5組には100%白米の握り飯を、更に上位2組には鳥の丸焼きのおかずを出すように勧めた。

可近もそれを採用して、5日目の作業が開始された。

無論、どういう風に作業するかは各自のやり方に任せていた。

ところが子供たちのペースに圧倒され始めた大人たちは、その子供たちのやり方を自然と真似し始めて効率を上げて行ったのである。

いわば効率がいい子供たちの遊び的な作業をしてても許される事を察し始めたという感じだろう。

 

生真面目な人間は仕事で遊んではいけないと考えがちだが、それは見た目だけの姿勢であって、効率が上がるのなら本来は遊びながら作業しても良いのだ。

合理的に見た目だけ真面目にやってても、効率悪いなら無意味と考える方が良いのだが、それを監督する人間も、作業する側もお互いが気を使って踏み切れない部分でもある。

Googleの様な会社では寧ろこういう遊びの中からという考えで作業でも様々な形が優遇されているという。

無論、携帯を弄って遊んでいるという非効率なやり方は論外であるが、作業効率を促進する遊びは大いに取り入れる方が良い。

 

吉法師が齎した発想は、大人たちの作業効率も向上させて、工事は予定より速いペースで進んで行った。

また、沢彦はさらに可近に大人たちのバランスを上手くコントロールするように提言して、毎日組み分けを変えて、誰もが上手く褒美にありつけるようにも調整させた。

そうしておくことで褒美に有りつけないモチベーション低下を抑制したのだ…いわば今日はダメでも明日は褒美を貰えるかもという期待で。

 

吉法師も現場で作業をしながら、沢彦のやり方を実際の経験と、実務的な効率を見ながら学んでいった。

沢彦が自慢たらしく、

 

「どうじゃ…こういう風に褒美で競わせると、人間は良く働くじゃろ」

 

と言う言葉に、

 

(確かに楽しく働いて、作業も早くなる…)

 

と、理解をしていくのだ。

 

治水を統括する大工の棟梁は最初は足手まといに成ると思っていた若殿だったが、結果として予定より早く川べりの生地が進んだことに、

 

(こんな現場は始めてだ…こりゃあの若殿はただモノで無いな・・・)

 

と、その神童ぶりを認めるのであった。

寧ろ堰の木材加工の方が遅れを取り始めた感じである。

 

無論、棟梁以外にも吉法師たち存在に誰もが好意的な印象を抱いた。

ある意味こうした人工(にんく)仕事は労役の様な印象もあった当時に、吉法師のお陰で楽しく働くことが許されたと言えるからだ。

また、そういう吉法師らと昼飯のご馳走を掛けて競争する事で、お互いが親近感を抱く雰囲気も醸し出した。

単に競争する感じの労働でも、半分玉入れ遊びで競技の様な感覚を齎した分、仕事の活気も全く違うものに成った。

こうした環境が許されるのも吉法師が那古野の城主であり、吉法師自らがそういう方法を許しているからだ。

故に共に働いた大人たちは、吉法師を領主として歓迎するのであった。

 

吉法師と領民の結びつきはこうした出来事から生まれたと言える。

資料には無いと言え、何かの切っ掛けでもない限り、領民と領主の対等な関係など築けるわけもなく、そういう絆があってこそ吉法師であり信長は城下を安全かつ自由にウロウロ出来たと言える。

 

数週間後…川の生地が済むと、沢彦は

 

「そろそろお前らは子供としての本業に戻ろうか」

 

と、吉法師たちに言った。

その言葉に吉法師は、

 

「子供としての本業とはなんじゃ?」

 

と聞くや、

沢彦は、

 

「遊びじゃ…戦遊びの事を忘れたわけではあるまい?」

 

と言うと、吉法師は思い出したかのように、

 

「そうじゃ!!その為に村の連中と約束したのだった」

 

最初は面倒な石拾いも、徐々に色々な成果が上がる感じが寧ろ楽しく感じてきた頃合いだった。

それは吉法師のみ成らず、他の子らも同様に感じていた部分でもあった。沢彦が齎した実習教育の効果と評価しても良いだろう。

また単なる労働では無く、前述の通り大人たちとの競技の感覚で挑んでいたこともあり、そうした感じで勝つための試行錯誤も楽しめた要因である。

更なる効率を求めて子供たちは分業制を敷くなども思いついた。

いわばコントロールの良い人間の近くに石を集めて、そのコントロールの良い人間が確実に桶を狙って入れて行く。

外れが少ない分、桶も確実に貯まりやすい。

いわば後で周りの石を入れ直す手間を極力省けたのだ。

バスケットボールのシュートの上手い人間にシュートをガンガン打たせるという作戦の様なものだ。

 

こうした発想はこの後の石合戦でも活きてくる。

投げるのが上手い奴に石を手早く渡して投げさせる。

そうする事で素早くより正確な投石が効率よく生み出されるのだった。

 

石合戦で長篠の戦いの鉄砲三段撃ちが生まれたのではという説はよく見かけるが、そもそもが連射性のみを追求した考えであるゆえに、実は信長の本意には近づけていない。

信長が用いた三段撃ちの原理は、射撃の上手い人間に連射させる効率を考えたものである。

連射だけで考える歴史家は、3千丁の一斉射撃と、1千丁の連射の違いが全く解っていない。近年50~60年三段撃ちの説が様々に唱えられているが、全く的を得ていないのも不思議なくらいだ。

3千丁の射撃で、1500発しか当たらずに、次の充填時間を待つよりも、、正確に射撃できる千人に絞り込んで、900発確実に的を得る方が、効率的に同じ時間差でも2700発近くは命中することに成る。8割の800発だとしても2400発、7割でも2100発と、効率はそれでもいい計算に成る。

いわば、上手い射手が連射できるようにと考えた効率である。

そういう意味で、ここでの話の応用で、バスケットボールの上手いシューターにボールを集めてガンガン打たせるという様な事と一緒なのだ。

閃きや発想は知らず知らずの経験の積み重ねで、徐々にアレンジを加えて変化していく。

筆者があえて川の石採り作業から、石合戦へと結びつけたのは、発想が生まれやすくなる過程を伝える為と考えて貰っても良いが、信長の才能を逆算していくとこうした流れである方が資料に基づく信長像と合致するという事は言っておこう。

 

川の生地が終わった翌日、沢彦は吉法師たちを清洲橋より少し上流の川べりに連れて行った。

そこには那古野側と反対の清州側に住む子供たちが集まっていた。

戦遊びの宣戦布告は簡単だった。

無論、那古野村の新介たちはそれを知っていて反対側の清州側の子供たちに石を投げて挑発すれば開始する。

川を挟んで、最初は石合戦から始まる。

そして活きのいい子供は木の棒を持って川を渡って攻め込んでくる感じだ。

そして最終的に負けを認めた側が退散すれば終わる。

そうすると自然とその川べりはそこの地域の子供たちの縄張りと成っていく感じだ。

清州側の子供たちは以前から那古野村の子供たちと争って、その場所を縄張りとして独占していた。

 

川を挟んで最初は石合戦で相手に向かって石を投げ合う。

そしてしばらくすると木の盾と棒を持って川を渡って切り込んでくるのが出てくる。そこからは棒合戦の殴り合いに成っていく感jじだ。

どうやら清州側にはその棒合戦の強者が居たらしい。

 

無論、小学生の年長組…いわば12歳前後の那古野村の子供たちに対して、清州側の子供たちは中学生、15歳位の集団が混じっている相手と言ってもよい。

沢彦はそれをちゃんと知りつつ吉法師たちをそれに向かわせた。

 

はてさて…石合戦の戦法だけで勝てる相手ではないような勝負なのかもしれない…

 

どうも…ショーエイです。

最近あまりグチグチ言わない感じにしてますが…

本当にグチグチ言いたくなるような世の中である事は、

多分多くの人が感じている事と思います。

 

色々このブログでは予言に近い話で的中させてます。

コロナウィルスの日本変異種登場も言ってるし…

ただ予言では有りません。

寧ろ、危惧して起こりうる可能性を言っているだけなので、

それが的中しちゃうレベルだと、どうなの?って感じです。

 

人の意見を纏まるのはとても難しい作業です。

様々な思惑やら、危惧などが入り乱れて、

情報は複雑な形で入ってきます。

ただ、未知の状態にあるものは全てが仮説でしかないのです。

それを自分の都合で一方の情報を定説として受け止めると、

間違った方向に進むことに成ります。

 

科学的見地でという言葉…吉村大阪知事は勘違いしているけど…

仮説なのか確定した定説なのかを明確に把握しなけば科学とは先ずかけ離れた話でしか無いという事。

変異種の傾向に関しても…まだ仮説段階が殆どです。

コロナウィルスの特性に関しても、

変異がどうこで治まるかは解っていません。

それを希望的観測の仮説に寄り添って考えると、

仮説が間違っていた場合、取り返しのつかない事に成ります。

 

基本的には危惧する仮説を払拭していくように対応するのが賢明と言えます。

その上で指示する事も、科学に要請する事も明確に出せます。

 

以前の作品「炎獄」でギリシア神話のアーテナーをキャラクターに入れ込みましたが…

そのアーテナーの名言「絶対なる勝利を…」

絶対なる勝利とは何であるか…

これを考えて見るべきです。

常に勝ち続けることは有り得ない。

特にスポーツを見てたら

「絶対なる勝利」は不可能と考えてしまいます。

でも…勝敗では無く、優勝という目標が勝利とするならば…

日本ではソフトバンクが4連覇したりという形で達成されたりもします。

 

絶対の勝利というのは

大局を見据えて何を勝ちとするかが大事なのです。

一回の試合の勝敗に拘るのは愚者の発想。

大局は何を守って何を得る為に戦うのか…

一般的に言われる目標を明確に定める事です。

その上で落としてもいい勝負には策を用いて敵を躍らせ、

落としては成らない勝負には万全の体制でそれに挑む。

そういう姿勢が絶対なる勝利を齎すのです。

ただ矛盾の話と同じで、

絶対なる勝利同士が戦ったら?

それは最高の勝負の舞台であり、

どちらが勝っても絶大な賞賛を受ける者であり、

負けても誇りを得られるそういう勝負となり、

それを演じ大衆を奮起させたという勝負が勝利の条件ならば、

歴史的には両者が英雄として名を刻む意味での

勝利を得る事と考えてもいいと思います。

 

アメリカ今何をもってアメリカの勝利とするべきか?

中国に軍事的、技術的に勝つ事なのか?

否!!

アメリカは世界を一つに纏め上げて勝利とするべき事で、

国連加盟国すべてにアメリカをその盟主として称えてもらう事です。

それを為すのは力では無い。

世界にアメリカの自由と平和を守るという意識を持たせることです。

アメリカ大統領を守るのではなく、

自由の女神を守る為に、世界が団結する事こそ、

アメリカの絶対なる勝利なのです。

トランプの様にアメリカ・ファーストでは、各国も自国民ファーストの意識が生まれて結果、アメリカは利益を失うだけです。

アメリカ・ファーストの中では、

日本人ですら、アメリカの大統領やアメリカ国民を守るために行動する意識は生まれません。日本人の優先順位はアメリカ国民より下に感じる心理が生じるからです。

でも、自由と平和を守るという世界共通の意識ならば、

各国の国民の優先度は対等であり、

同じ価値観共有して守るという意識で各国の結束力も強まります。

民主制をまもるという限定されたものでは、制度の異なる国に対しては仲間外れにされた疎外感をその国民の半数以上に植え付けます。

 

中国でも民主制を望む人は半数位いるかも知れません、しかし残りの半数は現状維持で満足していると考えた場合、民主制の為に国を分断するかと言う議論で、内戦でも発生すれば彼ら民主制を望む人たちの生活は脅かされます。

そいう現状心理の中で、民主制を望んでも民主制で無い国の人として生きる人たちは、民主制の国から仲間外れにされる疎外感を感じます。

しかし、自由と平和というものであれば社会制度は関係なく、誰もが抱ける希望です。

民主制を望んでいなくとも、自分の生活を保持するのに自由と平和は絶対条件です。

故に彼らにも疎外感を与えずに共有できる意識に成ります。

 

これはダライラマに向けて言った事ですが…

(実際にチベットの団体に話した事で、それ以降、かれはチベットの政治を他の人に渡しました。)

ブッダは自分が一国の王族である以上、他国に如何なる言葉を用いてもそれは策略にしか成らない事に気づき、その上で国を捨てて出家の道を選んだ。

一人の哲学者の言葉として説くことで、異なる国の人の心も救えるようになった。

これが正教分離の原点で、ブッダはそれを実践していたのです。

 

オッサン先生も僕も、

宗教に属する事はありません。

それ故にキリスト教徒とも、イスラム教徒とも、仏教徒とも、哲学として彼らと話すことが出来るのです。

そして其々から哲学として学び彼らの信仰を尊重できる。

その中で共有できる感性が「自由と平和」なのです。

その「自由と平和」を基軸に、様々な人種と様々な宗教、様々な思想が共存共栄できる国がアメリカ合衆国であり、

この形を尊重し守る事が世界の目指す場所なのです。

アメリカ合衆国を守るのではない!!

アメリカ合衆国がモデル化した「自由と平和」の世界を守り、世界全体でそれを元に団結して行こうという話です。

そしてこれが最終的にアメリカ合衆国が得る絶対の勝利なのです。

 

絶対の勝利とは…歴史的な意義として、

アメリカ合衆国が誕生し国として政治的、経済的に成長した事が、世界人類が一つに成る事を導いたという事です。

この勝利を逃せば…寧ろアメリカ合衆国はローマ同様に衰退していくだけの単なる時代でしか無く成ります。

 

30年後なのか、それとも100年後なのか…

トランプの様な愚か者が危惧する衰退という状態をそのまま引き起こすのか、それとも世界から大事にされる国際社会の象徴として残り続けるのか、何れかの選択肢はアメリカ国民に委ねられますけど…

 

 

 

 

 

 

【第十七話 己】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は父・信秀の助けも有ってようやく治水工事を着手することが叶った。

それでも那古野村の子供たちと約束をして、ひと月あまりで実現した。

吉法師は沢彦と悪童ら、そして政秀を伴い領主として正装で那古野村に向かった。

この2年前に初めて城下を訪れた時とほぼ同じ行壮だ。

先方の河尻秀隆が先ず村を訪れた。

そして大きな声で、

 

「これより那古野城主吉法師様が御触れを出しに来られる!!村民は全員表に出て触れに従う様に!!」

 

と、伝えると村民はゾロゾロと外に出て街道を固め始めた。

500戸3000人規模が街道に並ぶと、家族で固まったとしてもおおよそ300mには成る。

そうした中、暫くすると吉法師の一団が到着した。

あの時と同じように農民たちは地べたに平伏してこれを迎え入れた。

この時の一団の先頭には吉法師が立っており、その横に沢彦と政秀がが並び、その後ろを悪童たち、そして佐久間盛重、信盛らが続いた。

吉法師は平伏した農民たちに近づくや、

大きな声で、

 

「全員面を挙げて楽にせよ、」

 

と、言い放った。

農民たちは言われるがまま面を上げた。

その列に並んでいた新介、小平太ら子供たちは、

行列の先頭に立っている吉法師を見て、ようやくあの時の悪童が那古野の領主であったことを知る。

知るというより確証した。

そして吉法師の脇にいた政秀が、

 

「こちらにおわす方は那古野城主の吉法師様にあらされる、これより城主直々に御触れを出される故によく聞いて従え!!」

 

と、伝えた。

ハッキリ言えば吉法師が領主である証明はこうすれば成り立つ。

しかし、それは沢彦の方針ではない。

偉い人間が偉そうに自らを証明しても、人はただ威圧されるだけだ。

人を威圧だけで支配すれば、一度力を無くした時に人は簡単に見限る。または反抗する。「飼い犬に噛まれる」という表現に成るだろう。

そして時は戦国の下克上である。

いついかなる時に敵に攻め立てられ窮地に陥るか解らない中で、領民が敵方に寝返る事など当たり前なのだ。

領主が領民を締め付けて従わせていただけなら、尚更領民はここぞとばかりに寝返るだろう。

沢彦は吉法師をそういう人間に育てたくは無かった。

故にああした約束で証明させたのだ。

無論吉法師も領主として出向く方法は思いつくだろう。

そして治水と言う約束を交わすなど本来面倒な事だ。

それでも沢彦の提案に臨んだのは吉法師の才覚ゆえの事と言っても良い。

こうした才覚は論理で考えられる事ではない。

いわばペットに愛情を注いで共に暮らす喜びを求めるか、

それとも厳しく芸でも仕込んで自分に従わせようとするかの違いの様なもので、その人間の感性とも言える部分だ。

 

吉法師は感覚的に前者である。

織田信長という人物を今までの価値観で眺めれば寧ろ後者の様に感じている人も多いだろう。

冷酷で無慈悲な性格と評して。

無論、冷酷で無慈悲な人間であることは否定しない。

しかしそれは自分の敵に対しての感情で有り、

逆に味方に対しては異なるのだ。

こうはいうものの後に佐久間信盛を追放した件などを挙げて、異論を述べるものも居るだろうが、そもそも地位に胡坐をかいてその他の家臣や領民を蔑ろにした人間を情で許す方が慈悲なのか、それとも許さない方が慈悲なのかと考えればその判断の本意は解ってくるのではなかろうか。

 

大人に成ればなるほど、他人を計算づくで見てしまう。

また計算して考えようとする。

芸能人や政治家が好感度を意識する時など、こうした計算を用いるだろう。しかし、捉える方は十人十色で実際は計算してどうにかなる話では無い。

寧ろ計算するより素直に直感で行動する方が良いとも言えるが、この直感というのはその人間の本質で、それは才能とも言える部分だ。

解りやすく言えば「違和感を感じる」という時は誰しも経験を持つだろう。

この「違和感」は自分のポリシーや信念に基づいて感じ取る部分で、それが野心的な部分なのか、人情的な部分なのかで変わってくる。

野心的な違和感は寧ろ計算に近い。

いわば保守的な考えで、自分の事が優先なのだ。

ここの直感部分が「ここでは嘘をつく」といった行動に成る。

人情的な違和感は個人の信念と言える。

ある意味自分の生き様として曲げられない部分だ。

野心的な違和感と違って損をしやすいと言える。

こうして説明するならば三国志で描かれる曹操と劉備の対比と同じになる。

曹操は曹操で成功している訳で、劉備も最終的には曹操に対抗しうるだけの力を得るのだ。

それでも曹操が中華を平定できなかったのは対比の劉備の存在があった故。

先行して力を得ても、損し続けた劉備を捕らえられなかったのは劉備という人間の徳の偉大さで理解すると良いだろう。

野心的な違和感で行動する才能は、威圧によってその勢いは付きやすいが敵を多く作る事にも成る。

いわば多くが怯えて従うだけで心腹する者はごく僅かな側近だけ。

逆に人情的違和感で行動する者は信頼を得られやすく、味方が増えやすい。何故なら多くの人がその存在に安心感を抱くからだ。

損を多くするが、その分助けも多く得られる。

その助けが威圧に対する反感からのものであれば、敵中に於いても得られるのだ。そうして劉備は生き残た。

大人に成ればこうした両者のやり方は計算によって使い分けられる。

そこは違和感では無くむしろ「こうしたらネットで騒がれる」という警戒感によるものと言えるだろう。

そして計算では「これくらいなら問題ないだろう」と魔が差す事も生じるのだ。

こうした計算で誤魔化し誤魔化し立ち回って成功する人間も居るが、そこには力や金、権力と言った威圧で黙らせていると言える。

結果その計算には信念が無く行動原理がブレてしまう為、人は信用しなくなるのは言うまでもない。

 

吉法師は実は人情的な違和感で考えるのだ。

かつて吉法師が感じた「死後の違和感」

「自分が農民に生まれ変わったら…どう生きて行く?」

そこが根底にあるゆえに、自分で自分を眺めて違和感を感じた事に抵抗を持つのだ。

言葉を代えれば、「自分が嫌だと思う事は他人も嫌だ」という事を知っているのだ。

しかし、劉備のそれとはまた異なる。

幼いながらもある矛盾に疑念を抱き、それを解決しようとする。

「では、戦争ではどうなのか?」

そう戦争では自分が攻め込めば敵は嫌がる…

それをためらっては天下を治める力を得られない。

自分が天下を治めなければ農民で生まれた時に農民として理不尽な社会で生きる事を強いられる。

野心的に都合よくそこで妥協すれば、

「情など捨ててしまわねば天下は望めぬ」

という結論で終わるだろう。

誰しもが織田信長という人物がその結論で終わったと誤解しているのだ。

吉法師は妥協で終わらせない。

複雑な疑念が子供ながら何年も頭を過っていたのだ。

これが天命を受けた定めなのだ。

そしてある時に吉法師は答えを見つけた。

これを「魔仙道」とでも言おう。

以前、語った様に、

「敵に対しては魔道を、味方に対しては仙道を」

というものである。

「敵は常に味方を脅かす存在で、その味方を守る為にはその敵を排除せねば味方は逆に苦しむ」

そういう考えのもとで、あの時那古野村の新介は敵として対峙した。

無慈悲なまでに叩きのめしたが…

さすがに殺しては成らないという違和感を感じて手を止めた。

そういう自分に吉法師は「何故だ」と問いかける。

相手を敵と定めて仕留めねば、自分が反撃で殺される。

そういう気構えだったはずで、これが本当の戦場であったら死活問題だと感じた。

しかし、それ以上に手が動かなかった。

心が敵では無いと判断したからなのか…

子供ながらに考えた。

天命を受けた故に、どこかで天からの歯止めが掛かったと理解するべきか…

 

那古野村の村民が面を上げて吉法師を見た。

まだ12歳の幼い子供である。

そんな吉法師を見るや新介、小平太ら村民の子らは吉法師が本当の領主であったと確認し、吉法師に向かって手を振って、

 

「吉法師さまぁ!!」

 

と、大きな声で声援を送った。

本来は無礼とされるモノであるだろう。

しかし、吉法師も彼らの存在を確認すると誇らしげに手を振って返した。

子供たちの突然の行動に、その親は無礼だとばかりに叱りつけた。

その様子を見た吉法師はすぐさま馬に乗って近くへ駆け寄り、

 

「構わぬ!!新介、小平太に他の者はワシの供を致せ!!」

 

と命じて、自分の列に招き入れた。

新介らは少し誇らしげに吉法師の命じる通りに列に加わった。

 

こうした些細な出来事で、吉法師はまた新たなる悟り垣間見るのである。まだ、言葉として確立は出来ていないだろうが、何かが吹っ切れた感覚で理解した。

 

「和に応じる者は味方であり情を以て接す、不和なるものは敵と見なして無情を用いて退ける」

 

深く読み解けば法の根底ともいうべき内容になる。

不和とは社会秩序を乱すもので、社会の敵=罪として裁くべきという意味にも成る。

法の中でこそ無情とは忖度無く公平に裁くという表現で用いれるが、戦国の下克上の世では、無慈悲という意味合いに成ってくるだろう。

勿論、こうした言葉として論理的に理解した訳ではない吉法師は、感覚的に「和に応じるもの味方、応じないものは敵」と区別する意味で理解したに過ぎない。

そしてその結果が、徳川家康と浅井長政の命運を分けたものである事は言うまでもないだろう。

こうした奇妙な天命論で話を考えるなら、

秀吉が天下を取れたのも信長の天命が導いたもので、身分に関係なく出世が出来た故の話であり、家康が天下を取れたのも、家康が信長の和の精神に逆らわなかったからと言える。

そして農民上がりでも天下を取れた歴史と、和を貫き通した恩恵が江戸幕府を起こしたのだと考えれば、信長の天命は日本という国の価値観に大きな変革を与えたと誇れるのかもしれない。

 

吉法師らが村民らが集まった街道の中腹に差し掛かると、そこには那古野村の村長らしき人物が待っており、その面前で平手政秀が御触れを大声で読み上げた。

 

「これより庄内川より那古野に向けて水田用の治水を行う。それに当たって村民から毎日100名の人工を出すことを命ずる。」

 

治水が行われるという話を聞いて、村民は大いに喜んだ。

そして政秀は目録状をその村長に手渡して、

 

「明日までに100名の人工を選別したせ、して明後日、朝より庄内川の清洲橋(現・東海道新幹線鉄橋付近)に集まるよう下知する。」

 

と、言うや村長はそれを平伏して受け取った。

その様子を見て吉法師は自分の側で隊列させた新介らに、

 

「明後日、約束の工事じゃ、お前らも集まって手伝え!!」

 

と言うや、新介らは喜んで、

 

「御意!!」

 

と、既に吉法師の家来に成った風で応じた。

 

翌朝、吉法師らと那古野村の子供たちは予定通り清洲橋の治水現場に足を運んだ。

現場には那古野村からの100名の人工に50名の大工が集結していた。

工事の初日とあって監督役の役人が那古野から派遣された。

この役人には信秀の所に仕官して間もない金森長近が担当した。

金森長近は元は美濃の土岐家の家臣で、斎藤道三に土岐家が追われると、父定近と共に一度は近江に潜んでいた。

1542年18歳に成ると、当時斎藤道三と争っていた信秀に仕官したのだ。

この当時はまだ金森可近と名乗っていた。

政治的な手腕と言うより、勤勉な姿勢を政秀から評価され今回の役目を与えられたのだ。

勤勉というのも、勉学や教養の方で勘違いする人も多いだろうが、勤勉と言うのは仕事に対して忠実に学ぼうとする姿勢である。

簡単に言えば解らない事を解ろうと努力する事であり、自分の仕事がどういうものかを的確に把握する力である。

ある意味こういう人物はどんな場面でも頼れる存在と言ってもいいだろう。

 

工事を始める前に祈願をして人災が起こらないようにする事は、昭和時代にはよく見られた光景だ。

戦国の当時もこうした儀式は執り行われていたと考える。

可近は大工の棟梁らとその儀式の準備を行っていた。

そこに吉法師ら子供たちがやってきたのだ。

無論、沢彦も同行している。

吉法師は作業をするつもりで来ていた為、農民の子らと同じような格好で現れた。

それを見た大工の棟梁は、

 

「何ですか…あのガキどもは…?」

 

と、近くに居た可近に尋ねると、

可近はその子供らの方へ振り向いた。

昨日の御触れ出しの時には同行しおらず、現場で治水工事の下見をしていた可近は、吉法師が来るなどとは聞かされていなかったため、吉法師を見るや驚いて、小走りに近づきながら

 

「若!!いかが為された!!」

 

驚く可近に吉法師は

 

「工事を手伝いに来た。」

 

と、簡単に伝える。

そして可近はその後ろに控えていた沢彦を見つめて、

 

「若自ら、この様な作業を?」

 

そう聞くと、沢彦が、

 

「後学の為、邪魔に成らない程度に頼みまする。」

 

と申し訳なさそうに伝えた。

勿論、沢彦は子供が工事の手伝いなどすれば邪魔にしか成らない事は知っての事だ。

そこへ可近の後ろで話を聞いていた棟梁が、

 

「ワシらは工事が捗らんでも文句言われなきゃ、一向に構わぬが…金森さまはそれでいいだかぁ?」

 

その言葉に可近は困り果てた。

いわば自分の上司に当たる人物は平手政秀で、吉法師はその政秀を介しての存在だからだ。

いわば社長の息子であっても、重役の指示から外れれば会社員の査定として響く意味を持つ。

無論、沢彦はそういう心情も察した上で、

 

「若がここに居る事は政秀殿も承知の事、その若が居る間足手まといに成る事は仕方ないじゃろ。」

 

吉法師は沢彦の「足手まとい」という言葉にムキに成って、

 

「ワシらは足手まといなどには成らん!!」

 

と意気込むや、

棟梁はなら仕方なしという表情で、

 

「じゃあ、若殿、容赦なくコキ使わせてもらいますだが…いいだか?」

 

と、言うと吉法師は、

 

「構わぬ!!」

 

と言い切った。

 

祈願も終わり工事が開始された。

吉法師ら子供らは川べりの石拾いが作業として割り振られた。

大工たちは用意した木材を加工して堰を作る作業。

那古野村から来た人工は吉法師らと同じように石拾いと川底の地ならしである。

無論、若殿である吉法師が作業している以上、可近もこれを手伝わざるを得なかった。ある意味真面目な性格故の事だ。

子供たちは石を拾って桶に集め、大人たちがその桶を担いで仮置きの石場へ持って行く。

仮置きするのはまたその石を工事で使うからだ。

 

最初は遊び半分でやっていた単純な作業も、一時を過ぎると子供たちは飽きてくる。

飽きてくると子供たちは水を掛け合ったり、小石をぶつけ合ったりしながら遊び始めるのだ。

それを見た沢彦は、

 

「それが足手まといじゃ、遊びたいのなら手伝うのを止めてさっさと遊びに行け!!」

 

と叱ると、意外にも子供たちは素直に従い仕事に集中するのだった。

子供なりに手伝うという意識を持ったプライドなのだろう。

軽作業で重労働でなくとも寧ろ精神的に疲れは溜まってくるものだ。

この時代は今の様に10時や3時の休憩など基準に成っていない。

寧ろ昼飯を食べる時くらいしか休ませてもらえなかったとも言える。

その昼飯でさえ、食ったら作業を始めるといった感じでせかされる様な環境だ。

吉法師はこの環境を自らで体験したのだ。

 

今の政治家は勿論、官庁の職員として働いている人間でこうした作業を経験した人間がどれほどいるだろうか?

逆に今の労働基準が確立されたのは、こうした経験を得た官庁職員が労働者の気持ちに成って成立させてくれたものと言えるが、逆にそれを監督する役所に経験者が少なくなると、その労働基準の意味すら履き違えて考えるのだ。

 

沢彦が吉法師にそういう経験を得て、自ら底辺の気持ちを理解できるようにとこうした教育を施したのだ。

 

勿論、子供によってはこんな仕事は底辺のやる事だと投げ出してしまう事も有っただろう。

吉法師も内心ではそう考えた。

しかし、自分が吐いた言葉のプライドを沢彦が上手く刺激してくる故に、上手く乗せられて踏ん張るのだった。

単純といえば単純な子供であり、単純故にうつけに見える。

しかし、その単純さが寧ろ我慢という過程を得て才能を開花させていくのである。

 

作業を始めてから3日目にも成ると、吉法師はチマチマと石を拾う作業に飽き飽きしてきた。

これは作業を投げ出すという事ではない。

天才とこの小説では一括りにして語るが、

天才は天才の境地を既に会得している場合が多い。

吉法師が天才であるゆえに、孫子の兵法、「己を知り、敵を知らば百戦危うからず」という事を自然と意識できるのだ。

いわば「己を知る」こと、そして「敵は何であるか」を見極めて考えようとするのだ。

兵法ゆえに生兵法者は敵を知る=情報と勘違いしやすい。

しかし敵は常に見えている敵だけではなく、見えていない己が持つ敵も含まれるのだ。

吉法師は孫子を知っている訳ではないが、

自らが作業に飽きてしまうことに己を理解する。

そして飽きてしまい作業のペースが徐々に落ちて行くことを、

作業上の「敵」として意識した。

普通の人は「仕方のない現象」と割り切ってしまうかもしれない。

ところが吉法師はこの苦痛を改善しなければ自分が投げ出してしまいそうな感じに成ってしまう。

自らが「足手まといには成らない!!」

そう豪語してしまった事も「己を知った」部分で有り、

敵はそう言わせた沢彦であり、投げ出すことは沢彦に負けた事を意味するのだ。

そういう葛藤の中から、何か自分を保てる方法を考えざるを得ないのだ。

そうして…吉法師は三日間考えたのである。

 

どうも…ショーエイです。

本当に小説を書くのって頭を悩ませます。

どういう形で面白くその場面を表現するべきか、

様々な構成に悩まされ、

時間だけが経ってしまう。

前も話したように、この治水の話は実は端折りたいようですが、何故か端折ってはいけないという不思議なプレッシャー存在するみたいです。

ある意味、吉法師がこの作業を投げ出したいという葛藤と同じなのかも。

 

では、最近の日常の話…

オリンピック開催問題、コロナ問題、ミャンマー問題、米中関係。

色々言いたいことはありますが、

もう失敗するなら失敗させようという事しか考えられない。

馬耳東風なのは解っている分、

ヒントすら与えたくもない。

寧ろ、失敗するなら失敗してくれがヒントに成ってしまうかも知れないが、その失敗を得て各国の国民が気付けば幸いかな。

ただ運よくというケースもあるので何とも言えません。

 

特にコロナに関しては変異種が運よくそれほど脅威に成らなければ、運よくワクチン接種で終息する可能性はあるという事です。

逆に運悪ければワクチン効果が機能せずに、更に脅威を招くという危険性も。

そうなったらリーマンショック以上の不況が待っているという恐ろしい話も出てきます。

その時に成って、経済凍結をやって完全ロックダウンをやっておけば良かったと気づいても時すでに遅しなのです。

まあ、こればかりは人間のサガなので致し方ない事とは言え、判断が出来なかった事を誰のせいにも出来ないとは言えます。

 

ただ中途半端にフラフラ経済とコロナ対策で右往左往している状態は、結局そういう人たちが国の上に居るんだという印象で見ているだけです。

 

米中関係にしても、中国の対応に関しても、中国が過激化していくように世界が無用なプレッシャーを与えている事に気付いてほしい。

単純な人間の心理です。

「お前が悪い」、「お前は悪い奴」だと決めつけられて、素直にその人がそれを認めますか?

自分の権利でやっている事にそういう言い方をしても、結局相手は言った側に腹を立てるだけです。

自分が中国と同じ立場に成ったらどう考えるか?

敵を知るとはそういう心理の意味も含まれるのです。

腹を立てて、会話が噛み合わずに、喧嘩でしか解決できない状態なら相手は喧嘩に負けない様に武装するだけです。

相手がナイフを手にするなら拳銃を、相手が拳銃を手にすれば機関銃を…法律の規制の届かない戦いで、喧嘩に成って負けない様にしていくのは人間として当然の反応なのです。

この現象を知らないで外交で解決しようなんて到底間抜けな話です。

 

そういう状況で戦争に発展させて、局地戦だけで終わると思いますか?

尖閣諸島近辺の局地戦で戦争が終わると思いますか?

沖縄は確実に戦禍に巻き込まれます。

下手すれば本土にもテロやら何やらが発生します。

サイバー攻撃も、台湾も巻き込んでの戦争に成ります。

戦争に成って勝てばいいけど、勝つまでの過程で皆は犠牲になるのです。

それを守らねばと考える前に、何をもって抑止とするべきか、

それを「塾考」しなければ成らないのでは?

そういう「塾考」無しに単純に反応しているだけの状態は、うつけよりも間抜けな思考としか言いようがありません。

 

まあ、そういう意味で呆れてるだけなのです。

 

【第十六話 兵は詭道なり】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

戦の世では所詮は騙し合い、故に兵は常に臨機応変に事を構えよ。

かの武田信玄の家臣山本勘助が愛用したという孫子の名言である。

「兵は詭道なり」という言葉は、騙し合いという意味で理解されがちだが実際は計画性に捉われず、常に臨機応変で柔軟に状況を見極めねばならないという意味。

Covid19のコロナ対策で迷走する国々は、いわばこれが欠けていると言える。

 

古渡に赴いて信秀に謁見した政秀は、早速那古野の治水工事の話を伝えた。

そして、

 

「清州を説得する材料として、吉法師様は年貢の半分を与える事で交渉する案を申されましたが…大殿はどうお考えに成られますすか?」

 

信秀は政秀から吉法師の教育の為という事も伺っていた上で、その提案をしばし熟考した。

 

「清州に見す見す年貢の半分をくれてやるのは腹立たしいな…しかし、清州がそれ以外で庄内川の堰を設ける事に納得はしまい・・・」

 

信秀は迷っていた。

 

「だが…一度堰を設けて治水すれば、後の水田はある意味広げやすいか…」

 

すると政秀が、

 

「確かに…しかしあからさまにそのような事をすれば、清州は勘づき黙ってはいないのではありませぬか?」

 

「そうじゃ…問題は…今は和睦状態に有るゆえに迂闊にこちらが仕掛けるような不手際を起こせば、伊勢守が大和守の方に付きかねぬ。」

 

尾張の三角関係ともいうべき勢力バランスの話である。

いわば出る杭は打たれるとも言う話で、迂闊に他より抜きに出ようとすれば、他は連携してこれを叩こうとする。

すると信秀は何かを閃き、

 

「政秀よ…ならば、那古野に置ける水田の年貢の半分を譲る旨を念書にしてしたためよう。」

 

その言葉に政秀は、

 

「はて…吉法師さまの案をそのまま受けるのですか?」

 

それに信秀は、

 

「形式上はそうなる…が…」

 

と、留め置いて、

 

「しかし水田は増やせばいい。寧ろ倍にする」

 

「水田を1200石に増やして今は半分は清州にくれてやる。しかし一度争いと成れば別じゃ…」

 

「だから年貢を半分くれてやっても、石高が増えるなら問題ないだろう」

 

政秀はようやくここで信秀の意図を掴んだ。

 

いわば治水して水田を開発するには時間が掛かる。

素直に600石のまま開発を止めておくより、早々と可能な限り広げておく方が効率が良いのだ。

そしていざと成った際に、その広げた分を使う。

念書に年貢の半分とした以上、水田を広げても年貢の半分を差し出せば相手も文句は言えないという事。

逆に600石程度増える「見込み」と記したに留めて、相手に年貢の半分という文章にのみ焦点を当てさせれば、「見込み」より大幅に拡張できただけという事は言える。

相手が念書に承諾してしまえば、逆に虚偽した事にはならないのだ。

いわば石高を増やすことは時間が掛かるが、年貢の約束を反故にするのは一瞬である。

一度、戦と成ればそこで大きな差が生じるという事だ。

 

無論、信秀がこうした方法でこっそりと自国の水田を広げる手立てを思いついたのは、吉法師が齎した話が切っ掛けである。

そして信秀はこれを好機とばかりに事を勧める様に、更に画策を巡らせた。

 

「政秀、これから久々に那古野へ遊びに行く…吉法師に直々に話しておくことがあるでな…あと、清州へはワシが出向く、その際はそなたは供をせよ。」

 

「はっ!!御意」

 

と、政秀が言うと、

信秀はさっそく外出の準備に立ち上がり、その後政秀と共に那古野へと向かった。

 

翌日、吉法師と政秀は古渡の信秀の下を訪れた。

吉法師も元服前に成長した事も有って、

且つて信秀が通い詰めた養徳院の子供たちへの語りは披露される事はほぼ無くなった。

そうした中で政秀は普通に宴席を設けて信秀を迎え入れた。

上座に着いた信秀の隣には吉法師が座った。

その席には政秀ら那古野の家臣団の他に、沢彦も招かれていた。

 

信秀は宴が始まるや、沢彦に

 

「沢彦和尚、実に面白い教育を吉法師に施してくれてるようじゃ」

 

すると沢彦は、

 

「真に恐れ入ります」

 

というや、信秀は誤解が無い様に、

 

「真に感謝しておる。下手に紙で教えるより吉法師の為に成る。」

 

と、沢彦に頭を下げて感謝を表した。

そして信秀は吉法師の頭を撫でながら、

吉法師に向かって、

 

「吉法師よ、和尚の師事でよく遊んで、よく学ぶがいい」

 

と、言うと、吉法師は

 

「御意」

 

と返事した。

更に信秀は、

 

「良いか”能ある鷹は爪を隠す”という言葉を覚えておけ、そして治水の話はワシが上手く纏めてやるぞ、安心せい。」

 

「有難き幸せ。」

 

と礼儀正しく、言うと、

信秀は、

 

「お前の話の通り租税の半分を清州にくれてやるわ、その分治水で600石とは言わずに石高を好きなだけ増やして見せよ」

 

まだ少年の吉法師には直ぐにはその意図を理解できなかった。

さらに信秀は、

 

「よいか…目先の利益だけを追うな!!武士(もののふ)とは大局に備えて強かにすることも肝心じゃぞ。」

 

と、伝えると、

吉法師は信秀に、

 

「是非、その話を詳しくお聞かせ願えますか?」

 

と解説を求めたが、

信秀は、

 

「それでは面白くない。寧ろ、そなたの力でこの父を驚かせてみよ。」

 

と、吉法師に自らで考えるように促した。

吉法師はそう言われると、その言葉に寧ろ奮い立った。

実際にこの時期の吉法師は他人が出す答えに興味を持っていない。

寧ろ会話の流れとしてそう聞いただけだ。

ある意味可愛げが無いとも言えるが、

相手が何も言わないのなら、勝手に自分で想像する事を許されたと考える。

 

そして信秀は、父として我が子を愛しむ様に頭を撫でながら、

 

「お前は自由に遊べ、遊びながら学べ…」

 

というと吉法師の顔を見つめながら、

 

「よいかワシはお前を信じる、そなたもワシを信じて、何があっても動じるな。そしてこの父のやり方を学んで見よ」

 

と、言い聞かせるように語った。

父親として信秀は自分と同じように

吉法師が自分で答えを見つけ出そうとすることを期待した。

親子故に解り合える共通の思考と言うのか、

吉法師の成長を陰で見守った父親ゆえに理解していた事なのか、

ただ答えを与えるのでは無く、考えさせることに徹したのだ。

 

その日信秀は那古野で一泊するや、

翌朝政秀と共に清州へ向かった。

 

名目上は守護の斯波義統に治水の許諾を求める形であったが、

そこに大和守家の織田達勝も同席した事は言うまでもない。

勿論のこと達勝はこの話を渋ったが、

信秀が吉法師の後学の為に是非と嘆願した上で、

租税の半分は清州に渡すという事を

守護斯波義統の下で誓約したため、達勝も承知した。

また、治水の為に嵩上げする堰の場所も清州と那古野の間とすることで、清州側もその堰を利用できるという利点も盛り込んでいた。

いわば現代の庄内川に掛かる東海道新幹線鉄橋辺りに堰を設ける形で合意したのだ。

達勝として見れば、信秀が那古野の治水でどれだけ水田を増やそうが、誓約通り租税の半分が保証されるなら言い逃れは出来ないと踏んでいた。

無論、信秀が自らのそのずる賢さを封じる形で誓約したのだから、我が子可愛さに嘆願しに来たのだとも考えた。

達勝は内心

 

(嫡男の後学の為にとは、所詮は信秀も人の子か…)

 

と、寧ろ信秀には特別な戦略性は無いだろうと考えた。

 

常識に捉われる者は、非常識が起こるとは想定しない。

いわば常識では租税は7割取るのが当たり前で、

7割の租税を取らない事業など無意味で利が無いと考える。

また、自らに利の有る話ゆえに

人は希望的観測に陥りやすくなる。

 

達勝も愚か者ではない。

故に信秀に何らかの戦略的算段があるのならと考える。

その意味では、庄内川は弾正忠家の領内に川上がある為、清州に伺いを立てることなく治水するだけならそこから引けたのだ。

現代の名古屋城の堀に繋がる堀川は、清州との間よりもっと北東の位置から繋がっている。

いわば自国の領土の治水で考えるなら寧ろその辺りから引いた方が良いのだ。

無論、清州はそれを認める事は無い。

寧ろそこよりも庄内川の川下に位置する清洲領の水を握られてしまうからだ。

そうした争いの種を避けての交渉だった故に、寧ろ単なる親心として理解した。

領主として治水事業に参加させることで、嫡男吉法師の領国経営を補足する為だろうと考えた。

それに協力する意味で租税の半分を上納する形に成るのなら、達勝としても悪い話では無いのだ。

さらには大和守家と弾正忠家は和睦した状態にあって、守護斯波義統の下で尾張国内は現状纏まっている状態とも考えれた。

そういう意味で主従の礼を尽くして嘆願した信秀の申し出を無碍にすることも出来ないと判断したのだろう。

 

後にこの大和守家は信長に滅ぼされる事に成る為、

その結果だけを知ってしまえば、

達勝の決断は弾正忠家に力を与えた暗愚なものに見えてしまうかもしれない。

事実は小説より奇なりというのは、

結局小説の結果から、敗者=愚者としてしまう為、

敗者側の思考を雑に描いてしまうからだ。

そういう意味で達勝の決断を考えて見れば、

尾張国内を纏めるという名目で思考した場合は、

信秀の嘆願を受け入れた姿勢は寧ろ英断であったとも言える。

 

暴れ馬の様な信秀を寧ろ三河、今川への備えとして支援すると考えるなら、尾張という国で考えた場合、妥当でもあり、

斯波義統の下で主従の関係を維持しているのなら、

大事な家臣団の一人と見なすのも当然である。

 

結果として寧ろ達勝の時代に以後信秀が清州へ攻め入る事態は発生しておらず、三河、今川と対峙する最前線に立って戦っている。

更にはこの時期1546年前後は、尾張が総力を挙げて美濃の斎藤道三と争っていた時期でもあり、遡って2年前の1544年に信秀は大垣城を奪い取っている。

無論こうした戦功も有って弾正忠家は他の尾張織田家から警戒されていたのも事実だが、最有力の家臣として一目置かねば成らない存在だったとも言える。

 

様々な疑念が生じて尾張国内で小競り合いを起こすことはあっても、信秀が斯波家や大和守家を打倒するような謀叛を起こさなかった事から、主家に対しての忠義はそこそこに読み取れる。

そういう意味でも信秀は尾張国内の一家臣団であることを弁えている。

如何に力を持っていようともこうした家臣を使いこなそうと考える事は英断で、寧ろ達勝の後継者織田信友の様にこれを排斥しようと画策する方が暗愚と言えるのだ。

 

こうした流れの中で、吉法師と那古野村の悪ガキとの間で交わされた約束事はようやく実を結ぶことと成った。

そしてそこからひと月も経たないうちに人工も用意されて、庄内川の堰止め工事が開始された。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

更新のペースが遅くなって申し訳ないです。

最低でも月2話のペースで頑張る予定です。

是非、お待ちください。

 

さて…世の中の事ですが…

接待の問題やら、議員同士の大人数での会食を問題視するのは当然ですが、

夜の街に出かけた事は寧ろ問題視する方がおかしいです。

 

知り合いからコロナ問題で経営が大変だから、

何とか遊びに来てくれと頼まれて、

「問題に成るから行けない」

と断れる人を信用しますか?

 

自分の身の安全しか考えていない人にしか映らないです。

寧ろ、「大変そうだから助ける」

という気持の方を大事にするべきなんじゃないのかな?

 

正直、日本人は人情人情と言うけど、

全く人情を理解していない人が多いのでは?

加藤浩二氏はこの人情を批難したらしいけど、

人情解って無いのかな?

失望したよ!!

口だけのキレイごとか?

 

基本、政治家であっても芸能人であっても、

プライベートは尊重されるべき。

一般人も会社の外に出たら会社の規制に縛られるのは、

ある意味奴隷と同じ。

一歩、就業時間を過ぎたら、そこは一個人である。

 

勿論、政治家だからコロナ対策に従順に従うべきという見解は理解はするけど、政治活動ではないのならそこは自己判断で良いと思う。

無論、それが報道される事は仕方ありません。

公人なのだから…

でも、その行動がプライベートの範疇なら、基本的に社会は問題視するべきではない。罰則なんて以ての外。

ただし、その有権者が次の選挙でどう判断するかは、

その選挙区の人たちの判断に任せるべきです。

 

ただ、日本の政治家にこうした民主制に於ける個人の権利を適切に説明できる人間が居ないのは残念です。

結局、社会の目の流れに合わせて同調するしか能の無い人ばかりという事ですよね。

 

でも、よく考えて見て下さい。

友達を平気で見捨てる奴を信用しますか?

それともどうしても見捨てられなかったという心意気を評価しますか?

苦境に立たされた友達を見捨てられず断れなかったという人の方が、

人情あると思うけど…

逆にそれを理解もせずにルール違反と処分するだけの脳みそ程、ゴミ人間なんじゃないのかな…

ゴミ人間の上司(総理や幹事長クラス)が部下の議員の話に耳を傾けると思いますか?

友人の苦境を打開するには議員としてそれ相応の地位も居るし、発言権だってあるかどうかも解らない現実。

そういう中でその人が出来る限界と言うのもあるのです。

その限界をよく考えれば理解できるはずなのに、

そういう限界を考えてあげもせずに、ただ単にルール違反だからと非難できる社会って・・・日本人として誇れますか!!?

まあ、知らんけど…

【第十五話 誤算】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は熱田の加藤家から出資を受けて治水工事の費用は捻出できることに成ったが、まだまだ問題はあった。

前述の通り、清州との境界に流れる庄内川を利用するなら、清州の承諾も得ねばならなかった。

とりあえず熱田を後にした吉法師らは再び那古野の政秀の下に帰った。

そして資金捻出の報告をすると、

政秀は、

 

「若、今回は勉学という名目で致し方ありませんが…」

 

と、前置きして、

 

「治水で今回は600石増えるとして税はその7割で…」

 

税率7割とはとんでもないように思える。

秀吉の時代に太閤検地が行われた際の税率が66%であったというから、当時としては当たり前だ。

現代でこそ白米を炊いて食卓に上げるのは当たり前な話だが、戦国時代は基本麦飯である。

米は武家が食する物で農民は麦飯という感じであった。

麦飯の中に3割でも白米が混ざっているなら贅沢品だったといえよう。

とは言え米はある意味高級品であった為、税の残りの3割でも他の作物に比べれば高く売れたと言える。

 

現代で水田を持つ農家の生産量がおおよそ平均で15石位で、今の様に効率化された技術の無かった時代ではせめて7~10石位であったと推測する。

10石生産出来たとして、7石が租税で、3石分が農家の取り分である。

3石では3人が一年食べる量で、1農家の家族構成は2世帯として考えてもの5~10人で、3石では食うに足りない。

しかし水田の3石分であれば10石分の小麦や大麦を買うのに十分な量であったと考える。

 

では、1反=1石で、10石分の10反がどれ位の広さだったか…

先にも話したようにサッカーフィールドの広さで約6反位。

そう考えると大体陸上競技場のトラックを含めたフィールド内が当時の1農家が生産できる範囲だったといえる。

 

ただし現代の様に農業は個人経営が出来るものでは無い。

いわば村単位で農業生産の企業という形に成っていると考えた方が良いだろう。

その村の社長は村長ではなく領主である。

租税7割という形に成っているが、寧ろ村全体の生産量の3割が村民への給与と考えた方が解りやすい。

五公五民という言葉もあるが、税率50%は理想で有り、寧ろ太閤検地で66%であった点から逆算すれば7~8割の租税が普通であっと考えた方が良さそうだ。

そうした中で後の信長は33%位の租税に減税しているという記録もある。

 

農業は村単位の共同作業であったと考える。

那古野村の様に庄内川から水を引かなければ水田が作れない場所では、寧ろ小麦や大麦の栽培が中心で、大豆や野菜などと合わせて一年中何かが採れる状態で賄っていたと言える。

鮮度や旬が大事な作物はほぼ毎日かまたは最低でも毎週納税されなければ成らない。

納税という良いかたといより生産物を納品すると言った方が解りやすい。

米とは違い、保存が効かないこれらの品物に対しては納税率は収穫物の半分であったとする可能性も考えられる。

 

とは言え半分でも恐らく村全体で分けて食べるにギリギリだったとも考えられ、畑作農家は米農家に比べてかなり貧しかったとも言える。

それ故に那古野村の農民たちは水田が少しでも欲しかったのだろう。

 

政秀は租税の話をつづけた。

 

「年貢として得られるのは420石ですな…」

 

政秀の講釈はまだ続く

 

「1石が大人一人の一年分の食料の値である事はご存知ですね。」

 

吉法師は

 

「ああ、それは習ったから理解している。420石も有れば、420の兵が雇えることに成るのだな…」

 

と、答えると

 

「まあ、420の兵の食料は得られますが、兵が420増えるわけでは有りません。誰でも簡単に武家に成れるという訳では無いので。」

 

と説明し、

 

「ただし戦に成った際に、一年なら420名、半年なら840名の兵は徴兵できます。」

 

更に政秀は、

 

「那古野村にはおおよそ500戸あり、一戸に老若男女が6,7名は住んでおり、3000人が暮らす村です。しかしそれでも兵として徴収できるものは恐らく500か600が限界。いわば石高が420増えたとしても兵の数は増えるわけではないのです。

 

政秀の講釈に吉法師は疑問を感じた。

そして、

 

「では、何が問題なのだ?」

 

と聞くと、

政秀は、

 

「600石の水田を新たに得るという事は、その見た目の石高では弾正忠家の兵が420名増えた様に見えるのです。清州の大和守家とは色々とあってそれをやすやすと認めるとは思えぬという話です。」

 

大人の駆け引きとは、対抗心の有る中では自分が得しても相手が得をすることは許せない。寧ろ自分だけが得をしたいという力が働く。

少年吉法師にはまだそんな面倒な駆け引きは解らない。

寧ろ純粋にお互いが得するなら良いのではという考えだ。

 

「そういう事なら清州も同じ堰(セキ)から…」

 

前に話したのと同じことを言う前に政秀は、

 

「それは考え申したが、420石は大きいのです。」

 

現代人の感覚で420人兵が増えるというのは微々たるものに思えるかもしれない。

しかし、後に尾張を統一して今川と戦う際に5000の兵を集めるのに苦戦した時代である。

まだ、織田家としても伊勢守、大和守、弾正忠家と分かれて睨み合う状態では、420といういう数値は些か侮れない。

無論、兵数が420名増加する訳ではない点は先にも述べたが、見た目の許容量がそれだけ増えるのだ。

 

そこで吉法師は、

 

「成らば年貢の半分を清州に与えてやれば良い。」

 

吉法師からすれば那古野村での約束さえ守れれば良かった。

自分が優秀だと証明するような考えは寧ろないため、面子だけの話なのだ。

政秀は吉法師の言葉に迷った。

いわば沢彦が言う様に、

勉学の為に治水とはどういうものかを知る機会とするなら、それでも良いと思うのだが、弾正忠家の戦略上の都合で考えるなら清州にそれをタダでくれてやるという話は問題にも感じるのであった。

そこで政秀は、

 

「その件に関しては大殿(信秀)に相談してからにします故、しばし我慢なされよ。」

 

と、吉法師に伝え、

 

「自らの面子を保つために利を捨てるというのは愚者の考えですぞ、以後は決して為されない様に。」

 

とも釘を刺した。

吉法師の考え方は実際には子供らしい発想なのだ。

政秀が言う様に、子供の発想で面子を保てれば何でも良いという事を本来は許すわけにはいかないだろう。

普通の大人ならそう考える。

しかし、失敗を踏まえて何かを学べるのならと考えると、寧ろ興味深いと感じた。それは沢彦がそこで何かを教えるのだろうという期待もあったからである。

政秀は吉法師に釘を刺しておいて、その沢彦の顔を見た。

沢彦は「大丈夫」という表情で政秀にうなづいた。

そして政秀はそのまま席を立って、信秀の居る古渡へと向かった。

 

吉法師が信長へと成長していく過程で多くの大人が係わることに成る。

そうした大人たちの知識や知恵、そして悪知恵に至るまでを吸収する事でその才能を開花させていくのである。

特に吉法師であり信長という人物は、自分勝手が許されたことで早い段階で覚醒を迎えるのだが…

常識から逸脱した奇行でも有った事から、その代償に家中を纏めるのに苦戦した事は言うまでもない。

しかしこの治水工事というイベントが後の信長の治世の礎を築く大きな糧と成る事をしばらくを費やして伝えて行くものとする。

無論、これは史実には記載も無い出来事であるが、信長の発想の原点を探る上で必ず無くては成らないものという観点で重要視する者である。

いわば、天才と言っても人間であり、発想に基づく切っ掛けを経験の中で会得せねば、決してその発想には結びつかないのである。

長い人生で苦悩を重ねれば、何れは発想するだろうとは言えるが、早い段階で知恵を得る機会に恵まれたのなら、その発想はそれだけ早く生まれる。

エジソンの言う1%閃きが早ければ早いほど、99%の努力をする時間はそれだけ長く費やせるということである。

その中で成功と失敗を繰り返せる体力、いわば資金力であり研究費に恵まれていれば完成に近づくことはそれだけ早く齎されるのである。

信長はそのいずれにも恵まれていた。

同じように他の人間も恵まれていたなら、その人間が信長の様な才覚を発揮したかもしれない。

それ故にそれを得られた定めは天命なのである。

天命の有無は天寿を経て知りうる所であり、人は決してそれを諦めるべきでは無いという事は伝えておこう。

 

古渡へ向かった政秀は、学問に興味を持たない吉法師が寧ろ実践的な学びに興味を示している事に些か安堵した。

面子の為とは言え、これを期に領主として政治に興味を持ってもらえればと何とか成就させたいと考えていたのであろう。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

今日は愚痴を言うのも呆れている現状に愚痴を言うだけで終わります。

 

さて、今回の話で出てきた麦飯。

実際に100%麦飯を皆で食べてみたわけですが…

実に不味いです。

モチ麦と品種改良されたものでも100%はキツイ。

でも、戦国時代の農民はこれを食べて飢えをしのいでいたんだと思うばかりです。

確かに3麦:米7なら食べれて、モチ麦の食感はちょっと新鮮と言えます。

でも、ほぼ毎日100%の麦飯で米の飯食べたら、確かに麦飯は食えなくなる。

如何に米が美味しいのかを痛感した感じです。

 

ところが麦飯、米ほどの量を食べなくてもお腹一杯になることには気づきました。

オッサン先生はビールを飲むとお腹が膨れて量を飲めないと言ってますが、麦にはそういう効果があるようです。

実際、炊く前は米粒と同じ大きさなのですが、米より水分多めで炊くので大きさは米の倍に膨れ上がります。

不味いけど飢えをしのぐには最適だという点には気づきました。

 

麦飯以外にどんな食べ方があるかを色々考えた所、

もう一つは小麦粉で作るうどんかな。

うどんと言っても細長いうどんではなく、多分小麦粉を水で練り込んで、塊にしたものを刃物で削って茹で上げる食べ方なのかな…

 

よくいう刀切麺というやつ。

何れにしても米を食べれない粗食という位置づけなので、美味しいとは思えないが今度作ってみます。

 

因みに麦飯…小豆と混ぜて赤飯みたいにすると美味しいかもとは思います。

また麦飯には塩気が欲しいと感じるので、

お漬物などと食べると意外と100%でも食べれる気はします。

 

それでもやっぱり米は美味しんのだな痛感します。

 

日本は米食だと歴史の時間に教わっていますが、

那古野の地形を見ている内に安土の話と同じで

水源は何処?

という疑問が生じたのです。

そもそも現代並みに米が溢れているのなら、

麦飯なんてものは存在していなかったはずなのです。

現代の名古屋城の堀は江戸時代以降のものであると考えたなら

他に川らしい川は存在しない訳です。

そんな状態でどうやって水田を作るのか?

明治に入った状態でも、貧しい人は麦を食べていた位なので、

戦国の世では

ほぼ農民は麦飯といった麦食であったのは

間違いないでしょう。

 

そう考えるなら米は戦に出た際のご褒美としての位置づけは

十分に有りうる話に成ってきます。

 

麦飯を食べて確かに米食べれるなら

戦場に行くのも有かなと感じた次第です。

 

現代は何とも恵まれた時代かな…

そりゃ平和ボケした老害もたくさん出てくるのも仕方ないのかな…

日本に限らず…アメリカのトランプみたいなのも含む話で。

【第十四話 紙一重】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

馬鹿と天才は紙一重と言われるが、

一般的には馬鹿に成るか天才に成るかは

紙一重で解らないという意味で理解されているだろう。

しかしそれは大きな間違いであると言える。

簡単な話、現代風に言えば理系と文系ではものの見方が根本的に違う点である。

1万円札の福沢諭吉の名言

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」

 

これを文系の人は、先ず人類皆平等という意味で理解し感動する。

皮肉屋の意見だと、この言葉が「学問のすすめ」からきている事から、

学問の機会は平等に有るべきで、結果勉強したものが勝つのだという意味で資本主義の基礎を説いたと伝える人も居るわけだ。

文系の人は、こうした解説を読んで「成程一理ある」と言った感じで納得するだろうし、根拠なくそうではないと否定するかもしれない。

 

では理系というか論理的な思考で見ると…

先ずは言葉上の矛盾に気分を害し、何故その言葉を用いたのかを深く追求してしまうのだ。

勉強したモノ勝ちという意味に成るなら、勉強したものが人の上に立つという意味で、根本から「天は人の上に人を造らず」という意味から逸れてしまう。

福沢諭吉を軽視して、こいつの言葉は矛盾だらけとしてしまえば、それはそれで終わりな話になる。

しかし、福沢諭吉を軽視せずに矛盾が生じる言葉の意味をさらに追求すると…

実は資本主義の話では無く、寧ろ民主制における個人の権利を説いた意味なのではと解釈できてくる。

その個人の権利を守るために学びなさい、でなければ貴方の権利は守られず権力に使われるだけの存在にしか成らない。

と、言う意味で理解すれば言葉の意味と「学問のすすめ」の意味は合致する。

恐らく「学問のすすめ」で伝えたかった本意はそこに在るのでは…

ただしこれが否定されるなら合理主義者は、

成らば福沢諭吉の言葉には何の価値も無くなると結論付けるだけなのだ。それ以上の議論も無駄。合理性が無い。で、終わり。

 

天才は合理的な意味で通じるなら受け入れるが、非合理になった時点で「無意味」と捨て去ってしまう。

一般的には福沢諭吉の言葉だから「正しい」のだと、どの様な解釈も受け入れてしまうのだろう。両方の解釈を採用して十人十色でその感性も異なるという形にして綺麗に纏めようとする。

結果、天才からすれば合理性の欠けた矛盾した言葉に成るから意味不明と切り捨てるのに対して、一般的にはそれを無礼な行為と咎めて理解しようとしない事をバカにするだろう。

 

吉法師が勉強に興味を持たなかったのは、こうした「無意味な学問」に成ってしまう話を強要されるからで、それを受け付けない故にうつけとされたのも事実だ。

ただ、勉強をしないのは本当に動物的な本能だけで生きて行くタイプと同じ行動にも成るゆえに一般的な見識でその心を判別するのは難しいとも言える。

 

沢彦の誘導もあって、農民の子らと領主である証明として治水工事を行う約束をした吉法師は、その沢彦と共に守役であり那古野城の実質的な賄い頭である平手政秀の下を訪れた。

吉法師は城主として那古野村の石高を高める為に治水工事を行うとだけ説明した。

ある意味、突拍子もない言い方である。

その後、沢彦から事の経緯を聞かされた政秀は、

 

「その様な話で治水工事を行うとは、それこそ城主としての我がままでしか有りませぬぞ!!」

 

と、吉法師は政秀から叱責を食らった。

 

那古野村に水を引くには、当時の地形でも清州との境界にある庄内川から治水せねばならなかった。

現代のゲームの様に簡単に水を引ける話でも無かったのも事実で、濃尾平野と言われるほど平地であった那古野に水道を造るのに約3キロ、また庄内川の水かさをそれなりに上げなければ、農地まで水が届くことは無いとも言えるだろう。

いわば川の水位は農地が存在する平地より低い所流れていたと想定でき、その水を農地に持って行くにはその水位より低くなるほど掘り下げるか、水路の手前に堰を設けて水位を挙げた上で流す必要性があったと言える。

そんな工事を簡単に出来るはずも無く、ましてや主家筋となる清州が簡単に認めるとも思えなかった。

そうした説明を政秀は吉法師にした。

無論、教育係として沢彦が「水は高いとこから低い所に流れるもの」

だという補足の説明をした上で、吉法師はその話を理解した。

 

そして政秀は、

 

「若は、今の話を理解したのですか?」

 

と、吉法師に聞くや、

吉法師は、

 

「理解した。」

 

と、言い放ち、

 

「成らば清州が納得するようにすれば良いのであろう」

 

と、切り返した。

これに政秀は、

 

「どう清州が納得するのですか?弾正忠家の石高が増える話を快くは思ってくれませぬぞ…」

 

すると吉法師は

 

「ならば清州にも堰(セキ)で止めた水を分けてやれば良いのではないか?」

 

吉法師は続けて、

 

「清州も同じ条件で石高が上がるのなら、その堰を設ける話は双方が利する話になるのだろう。」

 

と、問いかけた。

戦略的な視点で考えていた政秀は吉法師の発想に驚いた。

寧ろ、大人になれば成程、こうした大人の事情が絡んできて、現代風にいう「WinWin」な考えは中々思いつかない。

いわば自分たちが相手より優位に成る事に固執してしまう。

ある意味、自分たちの領地の石高を高めて、相手の石高は現状維持にすることが出来るなら有利に慣れるという話だ。

しかし、あからさまな行動だと相手がそれを警戒する。

ただでさえ津島や熱田を押さえて経済的に優位に立つ弾正忠家が石高でも更なる力を付ける事は警戒されるだろうと政秀は考えていたのだ。

そうした視点より何も知らない子供の方が得策を唱える場合も有るのだ。

無論、清州がその流れに簡単に乗る保証はない。

寧ろ「WInWin」という発想より、弾正忠家がより力を付ける話に感じられないとも言えないのだ。

しかし政秀は吉法師の言葉で、その交渉を進められる可能性は見いだせた。

そこで政秀はあえて更なる課題を吉法師に与えた。

 

「では、その工事の原資はどうされるのじゃ?」

 

原資とはいわば資金のことである。

無論、吉法師は原資という言葉を知らないが、

沢彦が、

 

「原資とはお金の事じゃ」

 

と、また説明した。

どれだけ天才肌であっても何でも発想で乗り切れるわけではない。

寧ろ、

 

「那古野の城の金でやれば良い」

 

と、子供らしく言い放つ。

すると政秀は、

 

「城にはその為の資金は用意ありませぬぞ・・・戦でも起こったら負けてしまいます。」

 

と、吉法師にも解りやすく説明した。

無論、現代人の様に「働く」なんて発想は思いも付かない。

政秀に資金の事で拒まれては、吉法師は打つ手なしであった。

ところが沢彦はこの話の流れを面白いと感じた。

 

「政秀殿。若に少し時を下され…金の作り方を色々教える機会にしてみたいでのう。」

 

その言葉に政秀は

 

「成程…では、若、沢彦殿としばし相談なされよ」

 

と、言って席を立った。

 

如何に天才と言えども、知識の無い所からは発想は生まれない。

知識は学問のみならず経験や観察力によって得る事も出来る。

しかし既に存在する知識ならば教わる方が何倍も速い。

いわば学ぶという事は本来そういう意味で教わるものだ。

吉法師は今、必要に迫られた状態で沢彦から世の中の経済を学ぶことと成る。

ただし吉法師のそれは天運に恵まれ沢彦という、いわば家庭教師を得れたにすぎない。

もしそれが無いのなら、吉法師、後の信長はもっと長い時を費やして、さまざまな事を経験しなければ才能を開花できなかったと言える。

 

沢彦は吉法師に、

 

「さて、どうやって金を作る?」

 

と、あえて漠然とした質問をした。

吉法師は少し考えた。

沢彦はこうして考えて色々な発想をあえて思い浮かばせるのだ。

すると吉法師は、

 

「城にある名品を売って金には出来ないか?」

 

すると、沢彦はその答えに目をつぶって暫くの時を得てから、

 

「うぅむ…成らば熱田にでも行って知恵を拝借してみますか?無論、しろの名品を売るというのは最終手段で、それ以外に何かやり方があるやも知れん。」

 

すると吉法師は、

 

「ならば弥三郎の親父殿(加藤左衛門)に会いに行こう。」

 

弥三郎は熱田の加藤家次男という事は以前紹介していた人物で、武家見習いとして那古野に入って吉法師と共に学び、悪童の仲間として活動してる一人だ。

それに対して沢彦は、

 

「では、悪童全員で熱田に行きまするか」

 

と言い、準備を整えた後日、熱田へと向かった。

以前熱田を訪れた際は、実に物々しい状態であったが、吉法師が愛馬「たま」こと「天翔」に跨って動けるように成ってからはかなり自由に

成った。

それでもその陰で河尻秀隆や佐久間信盛が動いていた事には変わりはないのだが、馬を飛ばして行けば熱田までの5,6キロの距離はさほど遠くない。

現代競馬の天皇賞・春が3200m(3.2キロ)ほどあり、その勝ちタイムは3分20秒位で、そこから逆算しても10分程度で行ける距離と考えてもいい場所に成る。

 

沢彦は前もって左衛門に予定を取り付けた上で、直ぐに会えるとの返事であったため、早速熱田へ行くことが適った。

 

吉法師らは熱田へ到着するや、以前信秀がやったとき同様に、熱田神宮東門に馬を止めて、本殿を参拝した。

本殿を参拝するや悪童の仲間、千秋季忠の父親がここの宮司としてこれを出迎えた。

これに悪童ではなく礼儀正しい作法で対処した吉法師を見て、他の悪童たちもそれにならった。

以前熱田に訪問した際、学んだことがこういう場面で活きてくるのだ。

それは熱田の加藤左衛門が出迎えた際も同じである。

吉法師は大人の儀礼を見事に酌み交わして、初めての経験と成る他の悪童に手本を示したのだ。

そうした手本を示せることで、単なる肩書だけのリーダーでは無く、

リーダーシップを示せるリーダーとして意識させることが適うのだ。

そしてこうした事で他の悪童たちは吉法師に本心から敬意を払えるように成る。

 

現代社会でも同じである。

リーダーとは英語で「LEADER」で、「LEAD」する者を意味する位は知っていると思う。

ただ、「LEAD]するという言葉は、スポーツの先行するという意味では無く、「導く」という意味に成る。

これを理解していても、リーダーであるという「先行」の意識が働いて、「導く」が出来ない人間が多くいるのも事実だ。

 

ここで吉法師はただ単に父・信秀より教わった作法を他のものに示したに過ぎない。

しかし、その作法は堂々としており、流暢に見えれば見える程、他の者たちに感銘と尊敬を与えるのである。

また普段の粗暴な吉法師とのギャップも彼らを驚かせた要因と成った。

他の者たちはそんな吉法師に習ってタジタジながらも作法に従った。

無論、加藤弥三郎や千秋季忠は吉法師同様に慣れた感じで応対できたのだが、それでも吉法師の堂々とした振る舞いに敬意をいだくのだった。

 

リーダーとは口先で知識をひけらかすだけの者では務まらない。

行動で示せる者が適正なのだ。

自らを他人への手本として示すことで、他人は感銘を受けてそれに習おうと意識する。

口先で指示するだけの人間は、ただ単に権限に従わせているにすぎず、人は表面でしか受け入れない事を知るべきなのだ。

寧ろ行動で示せるリーダーは他人が自分に従ったり、尊敬を求めるような意識は持たず、部下がミスした場合それをサポートする事に自然務めてくれる。故に自然とリーダー性への敬意が持たれるのである。

 

長いものに巻かれる日本社会では、こうしたリーダーが評価されにくいのも事実で、忖度、媚び諂いの中で権限だけが先行してしまうのは本当に残念な話だ。

結局、外交上の対等な場に成ると相手に太刀打ちできなくなる。

いわば世界をリードできる人材がその立場にないこの国が世界をリードできるはずが無いという事だ。

故に失墜していくのだ。

戦国の世で失意していく国は、結局リーダー性の欠如が齎した結果とも言えるだろう。

 

熱田の加藤左衛門はあれから少し成長した吉法師に、

 

「しばらくお会いせぬうちに、随分とたくましく成られたようですな。」

 

「あれから剣技なども習い、今では馬も乗りこなせるように成り申した。」

 

「なるほど…どうりで武士らしい面構えに成られた訳ですな。」

 

そう談話をしながら左衛門は交渉用の座敷へと案内した。

左衛門は城主であり客人である吉法師を上座に座らせて、自身と他の者は下座で連座するように計らった。

すると同席したした沢彦が、

 

「左衛門殿、こたびは商いを学びに伺った故に、この様な配置は好ましくありませぬ。皆下座にて対面する様にお願いできませぬか?」

 

すると左衛門は上座に案内した吉法師を見た。

吉法師もその目線を察してか、

 

「左衛門殿、構わぬぞそのようにお願い申す。」

 

と、礼儀正しく答えた。

吉法師は案内されるがままに上座に座ろうとしただけで、別段そこに拘りを持っていなかった。

すると下座で縁側よりの入り口側に左衛門が座り、その奥側に吉法師ら客人を座らせて交渉の席を取り繕った。

そして左衛門は、

 

「交渉の席で有るなら、この様な形が望ましく双方が対等であるという形に成りまする。」

 

と、説明した。

すると吉法師は、

 

「入り口側が家主に成るのか?」

 

と質問した。

吉法師は好奇心旺盛でこう質問するのではない。

吉法師は合理的に理解しておかないと忘れるから合理的な意味を知りたいのだ。

いわばこういう配置が当然だから覚えろでは忘れてしまうのだ。

ある意味、右と左がどっちだか解らなくなる。

また場合によっては上座と下座で交渉する場合もあり、日本では馴染みのない英国式の円卓のような形もある。

どういう場面で使い分けるかをハッキリさせる意味で理屈が欲しいのだ。

様々なケース様々な方式を覚えるのに、こういう場面ではこうだからと記憶していくのは面倒くさい。いわばそれを覚えるのに暗記する時間が無駄という話に成るのだ。

天才ゆえの思考と思われがちだが、基本海外の学生はよく質問する。合理的な理解に成れたものはその方が効率良いと理解しているのだ。

単純に理屈で理解すれば、忘れても道理で思い出せるので簡単なのだ。

いわば、「こういう場面だからこういう理由で使えば失礼は無い」という理解で同じことが思い浮かぶように成る訳だ。

 

吉法師の質問に左衛門は、

 

「入り口側が家主である方が理想です。何故なら襲撃が有った際に最初に切り殺されるのは入り口側で、客人はしばし身構える猶予が出来るという配置に成ります。」

 

すると吉法師はその座敷の下座側の引き戸を差して、

 

「そこから襲撃されたら対等…いや寧ろ家主が縁側に逃げやすくとなるという事か?」

 

と、更に質問した。

この質問には左衛門も驚いた。

優秀な商人は柔軟に話を理解できる。いわば合理的だ。

故に自分が気付かなかった事を気付かされた時は、素直に受け入れるのだ。合理的でない者は矛盾してでもそれに対抗してしまう事はよくある話で、そういう矛盾で対抗する人間なら吉法師は信用しない。

左衛門は、

 

「確かにそう成りますな…」

 

と、吉法師の質問に大いに笑いながら、

 

「では、家主の特権という事で縁側に逃げ道を設ける為としましょう。逆に客人に失礼な話に成りますが」

 

吉法師はこういう素直な回答が好きだ。

それと同時にこの天才少年は上座と下座の配置も戦略的に理解するのだった。

上座の側に小姓を置き、下座の両端に家臣を、そして客人を真ん中に座らせるのは、上座の主が守られるための配置であると。

そしてそういう仕来りから通例の常識は自分の身を案じて考えても良いという事でも理解する。

もし左衛門が合理的では無く、通例の常識だからと回答するなら、吉法師はそんな話は受け入れないだろう。そしてその通例の常識を受け入れない故に「うつけ」とされるだろう。

紙一重とはこういう話でもあるのだ。

 

左衛門はいよいよ本題の話へと切り替えた。

 

「して、本日はいかようなお話を?」

 

すると吉法師は、

 

「庄内川より那古野の村に水を引くため資金が欲しい。どうすれば良いのか?」

 

すると沢彦は礼儀に関して口を挟む。

 

「若、教えを乞うのなら、どうすれば良いか教えていただきたく、とする事でより相手の知恵を引き出しやすくなるのですぞ。」

 

と、言うと吉法師は素直に、

 

「どうすれば良いか教えていただきたく思いまする。」

 

と訂正した。

吉法師が政秀と異なり沢彦の話に耳を貸しやすいのは、実は沢彦が

「知恵を引き出しやすくなる」という「利」の話で語るからである。

逆に「相手に失礼だ」という言い方に成ると、「何が失礼なのか?」と人間は反発心を抱くのだ。現代のネット上ではこういう事でぶつかり合う事が多く、結果、「失礼」とは誰に対してに成ってくる。

人間対等なら「礼」は不要である。そう考えて礼を用いなかった者が失礼なら、それを指摘する方も失礼。礼を意識して考える側も失礼に値するのだ。

礼はあくまで相手に敬意を与えてその敬意から生じる「利」を説かねば、礼を払っても礼を受け入れずに交渉を閉ざす側は更に「失礼」に成るのだ。

「礼」に心など求めるものでは無い、「礼」を以て「礼」で返すことで初めて作法として成立するのだ。

そういう意味で左衛門はこう切り返した。

 

「若輩ながら、私でお力に成れる事なら何なりとご協力させて頂きます。」

 

と、丁寧に伝えた。

そうした中で吉法師は那古野の村に治水を行う話を伝え、その資金を何らかの方法で捻出できないかを尋ねた。

すると左衛門は、

 

「成程、それは実に興味深い話ですな。」

 

現代の地図を参考に地形見ると、名古屋駅周辺に江戸時代の堀以外に川と呼べるモノは通って無かったと推察できる。

清州との境に流れる庄内川は現代の名古屋城北部には流れており、この一帯が米作りの中心だったと思われる。

川から2,3キロ以上離れた名古屋駅付近は寧ろ畑中心のエリアであったと言えよう。

 

畑の作物は収穫から長くても一月しか持たないが、米なら1年以上は持つ。畑作の農民はその米をある意味買わねば成らない。

畑にも租税が掛けられるため、大人一人の一年分=1石を得るのは大変な時代であったとも考えられる。

1石という単位は、お酒で有名な升で100升分。

升と言っても解りづらいので、

米を炊く際の目安である1合でいうと1000合分である。

現代の単位で1合=180ml=200グラムで、50合=10Kgと成る。

1000合はいわば200Kgで、10Kgの米袋が20袋積み重なった状態である。

現代の価格では、米10KG=4000円(コシヒカリ)で、

20袋=8万円だろうが…それが一人分。

農業技術の進化した現代でも、4人家族で年24万のコストな訳で、戦国時代の価値ではおおよそ10倍近い価値に成るとも考えられる。

 

ある意味、現代の月収20万円の年収=4石と換算しても良いかもしれない。

 

米の収穫面積は1反(たん)=300坪=991.7㎡でこれで1石分の収穫量とされている。

解りやすく言えば、31m×31m=1反というおおよその計算に成る。

サッカーのフィールドが100m×65mとすると、大体6反分の面積に成ると言える。

ここまで考えると田んぼの面積は想像しやすい。

 

左衛門は庄内川から那古野村に治水した際、そこで広がる田んぼの面積を推測し計算した。

長さは3キロで、新田と成るのは内陸の2キロ分。

治水から水路を伸ばして300m位。

2000m×300m/1000=600反。

ざっくりと600石増える計算に成る。

無論、こうした計算法を当時の尺などに変換して吉法師にも説明した。

治水に掛かるコストをおおよそ100人で1期(3か月)で換算して、1石=1人工/年で換算すると、25石分の必要となる。

この資金を左衛門が用意して、吉法師に貸し出す話をした。

 

返済はおおよそ600石増えるところから、利息を付けて100石分で返済するとし、25石分を4年間でどうかという提案をした。

年利でいえば75%と闇金顔負けの金額だが、生産量の増益分から換算すると17%分で、この増益分は吉法師にとっては何十年と続く話だ。

そういう相場で考えると良心的と考えられる。

沢彦もこの話を聞いて妥当と判断した。

吉法師に相場がどうかの知識は無い。

普通の人間ならそれ故に困惑するだろう。

しかし、吉法師はうつけである故に、

左衛門の話を好意的に捉え、

単純に増える石高にその利を見出した。

この時代でも一般的には交渉の段階で値引きをするのが常である。

左衛門もその辺を踏まえて25石の4年間とした。いわば別段25石の2年間分50石の返済でも構わないと考えていた。

ところが吉法師はそんな値引きをすることはしなかった。

沢彦も値引きをするもの踏んでいたが、

吉法師はほぼ即答で、

 

「ならば、それでいい」

 

と、承諾した。

沢彦は一応、

 

「商人との交渉の席では多少の値引きは構わないのだぞ。」

 

と、吉法師に教えるが、

 

「いや…条件はそのままでいい。俺が損する話ではないなら、左衛門殿も儲ければいい。」

 

と、言い放った。

吉法師は強欲かもしれないがケチではない。

普通なら些細な利益も追求して考えるだろう。

100円でも安く、10円でも安くという考えだろう。

吉法師は寧ろ興味を持たない。

いわば4年間で100石分の米高で自分は600石の領地が増えるのだから、100石の内50石分の米高をケチる必要性は無い。

寧ろそれだけの利益が見込めるなら、言い値で構わないという発想だ。

逆に言えば左衛門のお陰で自分は何の出費もせずに、目的が果たせるのだから寧ろ有難いと考え、その上で儲けが見込めるならそこに執着する事はしたくないという気持なのだろう。

良く言えば度量が広いと言えるが、

一般的にはネギリをしない事で寧ろ「うつけ」と見られても可笑しくは無いだろう。

 

左衛門は前者の度量の広い人物と吉法師を評価した。

吉法師を儲けさせれば自分達もそれだけ大きな利益が見込める。

そういうj人物ゆえに大事にし、そして育て上げたいと考えるのだ。

逆にケチ臭い相手なら、寧ろ儲けの少ない取引相手ゆえにそこまで肩入れしようとは考えないだろう。

 

結果として吉法師の判断は長い目で見た時に正解に成るのかもしれない。

 

勿論、沢彦も吉法師を良い形で評価した。

いわば目先の小さな利益に固執せず、それ以上の利益に満足する意識を評価した。

いわば大局を見据えて小事を捨てられる。

そういう人物と見極めた。

そして後の信長と成る吉法師はそういう人物であったのだ。

 

こうして吉法師は治水の原資を得る事が適い、約束通り那古野村に治水を齎す一歩を得た。しかし…次の問題は清州との関係である。

 

どうも・・・ショーエイです。

多くの人が天才というものを美化して考えている。

漫画などでも天才キャラはクールで冷徹な感じ表現される事が多い。

ところが実際のそれはただお勉強が出来るだけの秀才の事で、

天才では無いのです。

現実の天才を見て下さい。

ディエゴ・マラドーナ、長嶋茂雄など、

どこか爆裂した感じで、生きざまにインパクトがある感じです。

無論、メッシであり、イチローも天才の部類ですが、

基本天才と言うのは他の人とは感性が違う故に理解されにくい人が多いのです。

クレヨンしんちゃんの野原しんのすけも天才キャラと言えばそう成ります。

 

天才と言うのは普通の人が拘るところは捨て去れて、普通の人が気にしないところ気にするのです。

値切るというのは生活を切り詰めて考える人などにとっては大切な生活の知恵です。

ところがそういう値切りなどには興味を感じないのが天才なのです。

値切る時間の無駄。高いと感じたら買わないだけ。

寧ろ拘るのは、買った後の品質です。

価格に見合う品質なら問題視しないが、価格に見合わない品質またはサービスだと激怒する。値切ればそれだけこちらが不利に成る。

 

金銭感覚の違いと言うかも知れないが、安いものを安く買っても安いものは安いものという感覚で、寧ろ良いモノを相応の価値で買う方が価値ある買い物と考えるのである。

天才は野心的な考え方でもあるゆえに、庶民とはその時点で感覚が違うのである。

ところが値切らない値切れないという風にも見られ、そういう姿勢を馬鹿にされるのも天才なのです。

 

他人は他人、自分は自分。それ故に社会性は全くないのが天才です。

他人にどう見られようが気にしないタイプが多く、トラブルを起こすのも天才ゆえなのです。

それ故に馬鹿に見える。

天才ほどコロナ禍でマスクをしないとも言えます。

いわばマスクを付けるという行為に拘りを感じるのです。

信長的に考えれば、

マスクを付けていると命乞いしているようでヤダ。

そんな拘りです。

逆に自分の命大事な人は天才でもマスクをします。

むしろ命大事な人はマスク着けて防護していれば良いだけの話。

自身はコロナに感染しても文句ないし、感染したら死ぬかもしれない。

そこは承知の上で、天才ほどその時に腹を括って死ねたりする。

いわば自分の考えに責任を取ろうとする。

感染したくない人がマスク着けているのだからそういう人には迷惑掛からないだろう…いわば会話しなければ。

 

ここが天才のポイント。

と言うよりマラドーナ的主張とでも言うべきか…

 

マスクせずに会話して文句を言われたら…

君がマスクをしているなら問題ない。嫌なら会話しない。

 

マスクをしていない事を言われたら…

感染したくないなら声かけるな!!そうすれば喋らない。

 

インタビューなどの際に指摘されたらこういう言い方をするだろう。

 

社会に反発心を持つため馬鹿にされがちだが、

法律上で義務化されているわけで無いから問題ないで終わりなのです。

義務化したら?

マスクが再び品薄に成って社会問題に発展するかも…日本だと。

 

いわば天才であればあるほど他人と自分の違いを明確化する。

十人十色で個人個人の考え方の違いがあるゆえに、

その個人の見識をぶつけて争えば喧嘩に成るだけ。

喧嘩に成れば絶対に勝たないと気が済まない。

社会がでは無く、個人の考えを尊重しろが

天才の社会性としての結論なのです。

他人は他人の考え方で生活し、それはそれで尊重する。

マスクを付けるも付けないも個人の考え方次第。

感染に気を使う人はマスクをして、

気を遣う気が無い人は自己責任で…

 

医療崩壊やら感染をまき散らす行為という話も、

医療崩壊?自宅待機者がこれだけ居て何を言っているのか?

感染をまき散らす?その前に安心して自宅待機出来る社会システムでロックダウンしろ。

 

根本的に個人の生活を制御するのは難しい。

その上での自宅待機というロックダウンだが…

個人の生活コストが嵩むだけで、ストレスが生じる。

そこまで計算してロックダウンしろという話です。

 

マスクをしろという話では無く、

寧ろ無症状の感染者をPCR検査ガンガンやって隔離しろ!!

 

根本的にマスクを着用して外出して、無症状感染者がどこに潜んでいるか解らない状態で放置している事が問題でなのです。

マスクするしないの話は関係ないのです。

この合理的な部分を理解している故に、

マスクしても意味無いよ。感染する時はマスクしてても感染する。

と、知っているのです。

 

一般的にはマスクに拘るだろうが…

天才と言うより一般的にクレイジーな人は

無症状の感染者を放置している社会が一番問題なだけという事なのです。

 

紙一重とはこういう話です。

【第十三話 真実なる嘘】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は騙されまいと構えると、人を疑って見るものだ。

また信じがたい話を聞いた時、嘘だと思ってしまう。

 

農民の悪ガキ達と吉法師らは秀隆の用意した餅を囲んで集まった。

餅と言っても水っぽい米を叩いて潰したようなもので、

ある意味質素なモノだったが、

農民の子らにとっては嬉しいおやつの様なものだ。

見ず知らずのもの同士が打ち解けるには良い切っ掛けと成った。

そうした中で沢彦は農民の子らに、

 

「どうじゃ…今回の勝負でわしの連れてきた子らの実力は解ったじゃろ。」

 

すると農民の子の一人、小平太という者が、

 

「確かに剣術はスゲェな。どこであんなの教わったんだ?」

 

「まあワシの寺の萬松寺なら当たり前じゃぞ。」

 

と、吉法師たちに目配せしながらそう語った。

 

「寺であんなの学ぶのかぁ…面白れぇな。」

 

そして沢彦は、

 

「どうじゃ吉法師を頭に、戦遊びの部隊に成るというのは?」

 

と、興味を持った小平太に聞くと、

 

「でも、オラたちの頭は新介だで…」

 

すると吉法師が、

 

「そいつの事か?」

 

と、先ほど自らと勝負した新介を差して聞くと、

 

「ああ、そいつが新介だ。」

 

と、答え、

 

「新介もオラも武家の子じゃで、商人の子の下だとな…」

 

いわば農村に暮らす下級武士の意味である。

所領や城内に常駐する武士以外にも、

農民の中で手柄を立てた者は、武名をその褒美として与えられる。

所領を与えられるわけでは無いが、

農村の中である程度の地位が保証されるという特典のようなものが有ったと考えられる。

戦国時代の各地に存在した下級武士とはそういう位置取りであったと考えられ、後の羽柴秀吉の出自が農民だったか下級武士だったかと両方の見解があるのは恐らくそういう実態ゆえの話で、実際に所領を得ている武家からすれば、何れも農民と考えられていたとも言える。

と、は言え、

上から眺めればそれは同じ農民であるが、農民の立場で下から言えば、全く違う存在と成るのだ。

故に新介や小平太にはその武家としてのプライドがあった。

武家が商人の下に付くなどと言ったものだろう。

 

沢彦は彼らに寺で預かっている商人の子らと吉法師を紹介していたため、農民の子らはそうだと思い込んでいた。

むしろこちらの方が真実味の有る話で、

事実を知らないのなら、

嘘でもその方が納得が行く話に聞こえるのだろう。

 

しかし、小平太の言葉に吉法師は対抗心を抱いた。

 

(武家? 俺は那古野の城主でその上に立つべき者だ!!)

 

まだ子供ゆえに当然と言えば当然であるが、

吉法師にとって沢彦が指示したルールなどどうでも良かった。

寧ろ、戦遊びが出来るなら何でも良いと言った感じだろう。

その上で寧ろ武家だからという理由で、

新介や小平太らが自分より上だという言葉に苛立った。

それは吉法師以外の岩室らも同じだ。

しかし、岩室らは寧ろ大人っぽく成長していて武士としての余裕があった。故にこれは遊びで、沢彦の示した指示を演じ切るつもりだった。

彼らからすれば小平太らの「武士」だという話を寧ろ冗談のように流せたのである。

ところが吉法師はムキに成るのだった。

先にも話したように、人間への差別意識はない分、小平太が答えた理由が寧ろ気にいらなかった。

いわば「武家だから商人の下には付けない」という言葉である。

ならば武家というよりその頂点に位置する那古野城主として、

その下級武士に従う理由もない。

勝負には自分が勝ったという事で、

吉法師からすれば決着が着いた話なのだ。

 

それ故に吉法師は、

 

「俺は那古野城主吉法師ぞ!!武家という理由でモノ申すなら、俺に従え!!」

 

と、言い放った。

新介はまだ少し朦朧とした状態が残っている。

その代わりに小平太が、

 

「何を言い出すだ…おみゃぁら(お前ら)商人の子らだっていってたでよ」

 

吉法師がそう切り出した以上、岩室らも吉法師に従い、

岩室が、

 

「いや…あれは沢彦坊主の嘘じゃ!!」

 

すると農民の子らはその沢彦を見た。

すると吉法師は沢彦に

 

「沢彦!!なんとか言え!!」

 

と、催促する。

しかし、沢彦はとぼけて、

 

「ワシは知らんぞ…今は商人の子として預かっておるからな…」

 

と、あえて言葉上、嘘に成らないとぼけ方をした。

秘かに沢彦は子供らのやり取りを面白半分に眺めていた。

すると農民の子らは、

 

「ほら、商人の子だと言っとるがや!!」

 

農民の子らは、言葉上のニュアンス関係なかった。

寧ろ、沢彦が商人の子と認めたと解釈する。

そして小平太が、

 

「それに殿様がそんな恰好で村に現れるだかぁ?その方がオカシイだで…」

 

と、指摘した。

いつの時代もネット上で繰り広げられる話と同じである。

読み手も吉法師たちと同様に、吉法師の素性は知りうる話であろう。

しかし、農民の子らはその素性を全く知らない。

明確に証明でも出来ない限り、信じさせることは難しいのである。

また吉法師も証明するものは今何も持ち合わせていない。

沢彦が萬松寺満にそれらしいものは置いてきたからだ。

そこで沢彦は吉法師に、

 

「自分で城主と名乗った以上、それを自らで証明せねばならんぞ。」

 

と、吉法師にけし掛けた。

すると吉法師に味方する岩室らが、

 

「成らば俺らがそれを証明する!!」

 

と、吉法師を援護する。

吉法師の家臣として育った岩室からすれば、吉法師がそう名乗った以上、それに従う方に切り替えたのだ。

しかし小平太は、

 

「そんなこと言われたぇて、嘘言って騙そうとしとるだが…信用なりぁで。」

 

更に、

 

「殿様だろが何だろうが、武士なら刀の一本ももっとるだりゃ、だったらそれを見せてみりゃぁでよ。」

 

と、反論した。

そう言われると吉法師は沢彦に、

 

「沢彦!!刀を返せ!!」

 

と、言う。

沢彦は再びとぼけて、

 

「刀かぁ…寺にでも置いてきたかのう…?知らんなぁ…」

 

と、言った。

すると吉法師は、

 

「ならば後で証明してやる!!少し待ってろ!!」

 

と、言い放つと、

沢彦が、

 

「それはダメじゃ!!交渉の場に於いて、証明できぬ話をした以上、その責任はその場で取らねばならないぞ。その場でそれが証明できぬのなら偽りであってもその偽りのまま交渉せねば成らない。」

 

と、少し難しい説法を唱えた。

吉法師には難しい説法などまだ理解しえなかった。

しかし吉法師は反論した。

 

「何故、今証明できなければいけないのだ!!後でも証明すればいいだろう!!」

 

沢彦は更に難しい論法繰り返した。

 

「一期一会、機会は一度と思われよ。仲間にする者がここに居り、時を得てしまえばこの者たちが再びここに居るとは限らんのじゃ。一度得た機会を最大限に活用せねば、大事な交渉は逃げて行くぞ。」

 

という感じで説明はしたものの、

吉法師の表情は理解している様には見えなかった。

そこで沢彦は解りやすく、

 

「そなたはワシとの約束事を無視して、自分自らでこの地を治める領主と名乗ったのだ…城主として領主である以上、その民から疑われたままこの場を去るつもりか?」

 

沢彦は寧ろ吉法師の誇りに訴えかけた。

吉法師もそこを刺激されて何となく理解はしたものの、どうして良いのかが思いつかない。

沢彦はそこまで意地悪するつもりも無く、寧ろここで何か吉法師に教えておくべき事はあるかを考えた。

そこで教育者としての沢彦は小平太に、

 

「ならばそなたらは領主さまに何か望みはあるか?」

 

と、聞いた。

そして吉法師に向かって、

 

「そなたが領主ならばその願いを叶える事で証明出来よう、それならどうじゃ?」

 

と、言うと、

吉法師は、

 

「ああ解った。何でも言うてみろ、叶えてやる!!」

 

そこで小平太は少し考えて、

 

「成らば今すぐ雨を降らせてみろ!!」

 

と、子供らしく難題を吹っかけた。

それには沢彦が、

 

「それは領主の仕事では無い。仏の仕事じゃ。」

 

と、先ずその話の方向性を修整した。更に付け足して、

 

「そなたらも武士であり、真の武士に憧れるなら無理難題は申さぬことじゃ。何でもと言って何でも叶うと思うのは無知な証で武士では無い。」

 

小平太も難しくは解らないが、沢彦の話をそれなりに理解した。

 

「節度を以て武士として申すのなら、相手が領主としての真実を証明しうる所で何かを求めて見よ。それが武士の証ぞ!!」

 

と、少し小平太の心を煽る様に説いた。

これも交渉術のなせる業だ。

 

最近の政治家でも同じだが、「何でも」という言葉の様に、言葉尻を捕まえて議論に持ち込もうとすることが多々に有る。

「何でも」といったから「何でも叶えられるんだろう」という意味で相手と渡り合っても、結果、そこは不毛な言い争いでしか無く、本題としての目的を逸脱したものでしかない。

道理として本題は、「吉法師が領主で有る」という証明な訳で、その証明が適う話であれば双方が本来問題とする事は解決するのだ。

何が主題として議論されているのかを明確にして、その主題を解決する意味で語り合えない議論は、すべて話が逸れて本末転倒になるだけの流れで意味が無い。

日本の政治家は与野党共にここに陥るだけで、結果国民には主題の結論があやふやなまま終始するのだ。

大半の国民がそれで納得しているのなら絶望的だが、実際は大半の国民が呆れている様な状態なので、日本人の本質はまだ正常だと信じたいところだ。

 

小平太は沢彦にそう諭されると、

ある意味他の農民の子らに自身は武士であると言った以上、

それ相応に示す必要性を感じた。

 

「ならば…」

 

と、何か言葉を考えて、

 

「田んぼに水が欲しい」

 

と簡単に答えた。

すると吉法師が、

 

「沢彦坊主が言った通りで、俺は仏では無い。だから雨は降らせられない。」

 

と、言うと

それに沢彦が、

 

「雨を降らせる話ではないのだろう。治水の話じゃな。」

 

と、小平太の話を纏めて伝えた。

その言葉に吉法師は、

 

「治水?」

 

と、聞くや、

沢彦は皮肉たっぷりに、

 

「お主は学問をせぬからな…そういう言葉を知らんのじゃろ」

 

と、少しからかうが、

沢彦の教育方針は実戦的に学ばせるモノゆえに説明した。

 

「治水とは川から田畑のある場所に新しい水路を作る事じゃ。」

 

そして吉法師の顔を眺めて、

 

「まあ、お主が那古野の城主なら出来ない事は無い話じゃが…」

 

と、まで沢彦が言うや、

吉法師は、

 

「ならばそれで証明しよう!!」

 

と言い放った。

しかし、出来そうだからという話で吉法師はせっかちに決断した。

すると沢彦は続けて、

 

「ただし簡単な話ではないぞ…まあ、仕方ないこれも学ぶべき事だろうし…」

 

と、そこで言葉を止めた。

その言葉に小平太は、

 

「ならばそれが出来たら俺らはお前の子分に成る!!出来なければお前が俺らの子分だぞ、いいな!」

 

と、言うと

吉法師は「解った」と答えた。

まあ、本当にうつけに見える感じだが、

多分、そうなのだろう。

治水がどれだけ大変なものかを全く知らずに答えてしまった。

 

それを知る沢彦は治水が一朝一夕で出来る話ではない為、そこにいる子ら全員に向かって、

 

「お前らのう…治水は下手したら1年も2年も掛かる大工事じゃ。完成するまで待ってても意味が無い。」

 

とは言え、子供らには、

それがどれだけ大変なものなのかまでは解らない。

沢彦はそうした中であえて提案した。

 

「治水には人手も居る。どうじゃ治水の工事が始まった時点で吉法師の話は証明として認めた上で、本当に水を村まで引きたいのなら全員でその工事を手伝うというのは?」

 

その言葉に小平太は、

 

「村に水がもっと来れば、おとう(父親)はもっと田んぼ増やせて、米が沢山食えるように成るいうとっただがや。」

 

そして小平太は吉法師を指さして、

 

「本当にこいつがそれを出来るなら何でもいい!!手伝うのもやったる。」

 

と、言うと、

沢彦は小平太に

 

「ならばひと月ばかり待てるか?さすがの殿様でも直ぐには始められんでのう。」

 

すると先ほど吉法師にボコボコにされて倒れたまま黙っていた新介がようやく起き上がり、吉法師の方を見て、

 

「俺はコイツが殿さまだと信じるだで・・・で、なきゃあんなスゲェ剣術出来る訳がにゃあ(ない)。」

 

新介は小平太が新介の為に取って、側に置いておいた餅を頬張りながら、

 

「だから川から水を引いてくれるならやってくれ。」

 

その信頼する意味の言葉に、吉法師は力強く、

 

「解った!!絶対にやってやる!!」

 

と約束を交わした。

流れとはいえ、そうなった事態に沢彦は少し頭を悩ませたが

 

(川から水を引くと言っても…清州から了承を得て、人工も集めねばならぬが…どう転んでも、若殿には良い勉強に成るやもしれんな…

まあ、書物で知るよりこうして体験する方が面白い成長をするやも知れんな・・・)

 

と、事を楽しんだ。

無論、那古野村に水を引くと成れば、清州との境に流れる庄内川の水を使う必要があり、それには清州との利権的な事も関わってくる。

無論、吉法師がやるというより実際は平手政秀が手引する訳だが、その政秀を説得するのは吉法師の仕事であり、今後の領内経営を学ぶ上では大事な経験と成る。

そういう事も含めて沢彦はいい勉強に成るだろうと考えたのだった。

 

どうも・・・ショーエイです。

信長たまの吉法師時代のエピソードを

一応フィクションで描いている訳です。

しかし、ある意味奇想天外な発想が生まれてくる過程では、

様々な経験が前提と成らねば中々思いつくものでは有りません。

恐らく城下で遊びまわる中で

こうした経験は得ていてもいいのではという観点から作っています。

織田信長という人物がどうつくられていくかを

暫くは上手く描いていきたいと思っているそうです。

 

さて、最近危惧する点です。

いよいよマスコミも含めて

日本人は再び権力層に洗脳されていませんか?

軍事の必要性を唱えて、学術会議を批難したり、

国民が政治家に対して決して許しては成らない

不正行為、忖度を批難する方が悪いと言った風潮で

無かった感じにしてしまう事態。

 

学術会議というより、学者の意見を政治的な都合で封じ込めて、

経済優先のGoToキャンペーンを推し進めた。

その結果、新型コロナが全国的に広まった訳ですが…

偶々、アメリカと比較して被害が少なく見えるからと

曖昧に政府の言い訳を許してる感じも気持ち悪い話です。

 

中国は直接的に抑圧して人民をコントロールする国です。

日本は戦時中も同じで、

国民を洗脳してコントロールしようとする国なのです。

自己主張の強い国では民衆が洗脳されるケースは稀と言えますが、

トランプが使う手法を参考に言えば、

大統領の立場として「嘘だ」と言い張る事で、

それを聞いた民衆はどちらが

「本当のことを言っているのか?」

と、錯誤する感じが生じます。

結局、民衆の情報源はマスコミがそう言っていたから

と、言う様に誰かの話に頼るしか無く、

実際に自分の目で確認する術は有りません。

ただし、有能な人は

情報の辻褄を精査して真偽を見極めるわけですが、

大抵の一般人は

そのままその聞いた情報のみで

どちらを信じるかで決めてしまうのです。

 

比較的合理主義のアメリカですら

トランプの発する話に流される人が

かなり多くいる状態だったわけです。

 

合理性より「信頼」

いわば誰を信じるかで判断しようとする日本では、

寧ろ洗脳しやすいのは言うまでも有りません。

 

人を洗脳する場合、大抵の手法がどこかに敵を作って、

その敵に対する恐怖感を煽って自分に味方するように呼び掛ける。

安倍トランプの中ではそれは中国であったわけで、

現状の日本でも変わらずです。

無論、中国もある意味そういう流れに洗脳されて、

安倍トランプが警戒するような行動を起こしつつあります。

いわばアメリカが敵対視するから、

自己防衛の為敵対視して構えざるを得ないという状態です。

 

こうした状態は国際社会全体が協力する事で

回避できる話ですが、

その協調性を崩壊させ、

両極に敵と味方を振り分けるような状態に成れば、

当たり前の様に双方が警戒する話が

現実的に生じざるを得なく成ります。

 

人間の社会はこうした出来事の繰り返しで、

それ故に中々戦争と言う人災を取り除けない訳です。

ただ、現代に至って歴史的な繰り返しで、

国を戦争で支配しても、その国民は必ず独立を望み、

結果、その怨恨で戦争やテロが繰り返されるだけなのです。

いわば戦争しても無駄だという結論なのですが、

武力で脅かす国が存在する以上、

警戒しなければ成らないのも当然です。

 

と、は言え…軍事で出遅れた日本と言う国が、

今更軍事を語っても意味が無いのです。

軍事技術が一朝一夕で追い付くことは無い現代社会で、

刀からようやく火縄銃で対抗できる様にしても、

大国は既にマシンガンを使っている状態と言って良いかも。

 

既に宇宙戦争を視野に入れた状態で、

陸戦、空戦、海戦の話で対抗しようとしているのは

正にこのレベルです。

 

臆病風に吹かれてそんな主張をするのなら、

さっさと世界を平和に導くための運動を起こして、

寧ろ平和憲法を盾に平和社会構築の外交に

焦点を当てるべきなのです。

 

アメリカ政府に媚びるのでは無く、アメリカの世論を利用しなさい!!

 

アメリカの世論は平和が大好きです。

そういう平和を促進する日本であれば、

アメリカ世論は決して日本を見捨てないだろうし、

どんなことがあっても日本を守るべきという風潮に成ります。

この世論を政治家が無視できないのは当然で、

賢いならココと結ぶような外交をするべきなのです。

 

洗脳されてしまった人たちは、

日本の現実を指摘して改善を促す様に語る言葉も、

全てが売国奴の言葉の様に受け止めてしまい、

全く論理を理解しようとしないのも事実です。

実際は寧ろ洗脳された彼らこそ売国奴であり、

本当に国の事を考えれば、

間違った方向性に対して挑むのが当然です。

いわば洗脳された人間たちから批難されようとも、

それに屈せず例え一人になろうとも

立ち向かわねばならないという誠意が有るからです。

多くの味方がいる方に流される人間は、

結局は国より自分が大事なだけと成り、

日本では洗脳された人が増えれば増える程、

洗脳された意見に逆らえなくなっていくのです。

 

そして結果、同じ過ちを繰り返す。

 

これを止める方法は…戦争に再び負けてもらうか、

洗脳者より強い力で屈服させるかの何れしか無く、

日本人の大衆が

これを自主的に食い止める事は適わないだろうと思います。

まあ、それが出来れば日本の未来は救われるのですが…

 

【第十二話 人】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は上から下を見ても、決してその苦境を理解できない。

一般人が政治家や金持ちに対して感じる様に、

普通に暮らす人が

更なる貧乏人の苦境を理解できないのも当然である。

何故なら人は自己が基準で、

最後は自分で克服するしかないに行きつくからだ。

政治家にいくら格差是正の話を持ち掛けたところで、

最終的には勉学に励んで優良企業に就職して

安定した生活を目指せば良いだけの話と、

結局は匙を投げるしかないのも事実だ。

いわば頑張った人間が報われる社会なのだからと成ってしまう。

ところがいつの時代も同じで、

これが腐敗政治の根本的な問題なのである。

 

下から上を見上げれば、

恵みの雨が全く降ってこないことが見えてくる。

例えるなら上は一人5万円で発注した人工(にんく)事業が、

途中で削り取られて下には1/5の1万円しか落ちてこないという話などがそれである。

上はこれを国費の無駄遣いと議論するが、

下からすれば根本的に見当違いな話でしかない。

 

5万円出すのなら、下に3万円は落ちるのか?

という議論からするべき話である。

その上で3万円は貰い過ぎなのでは?

という話に成れば多少は納得は行くだろう。

下には2万円位で十分な対価と評価できるなら、

人工(にんく)発注額の6割が必ず

一番下の労働者に行くという計算のもとで、

3.5万円程度にしても良いのではという

調整が出来てはじめて意味を為すのである。

 

上から人を見ると、

現代風で言えば

企業が金を持たねば雇用は生まれないという見方になる。

ところが下から見れば、

下が金を使えなければ企業は儲からないと成る。

立場によって都合が異なり、人は自分の都合に近い論拠を採用するのだ。

しかし、実際は両立させねば内需の安定は齎されないのである。

どれだけバーゲンセールの様な事をやっても、

結局余裕のある人間が少なければその効果はさほど大きくはない。

いわば無駄に税金を使っているだけの話にしかならないのだ。

 

沢彦の教育方針は

いわばその下を見るという事に重点を置いたものだ。

平手政秀より、吉法師が農民にも自由を

という話を聞かされた沢彦は、その農民がどういう者たちなのかを実体験させる意味でこの戦遊びを勧めた。

無論、その上で実戦に備えた訓練も兼ねている。

そういう主旨を聞かされた政秀も前例にない事とは言え、

学問として受け付けない吉法師にはそれも一手と認めていた。

と、は言えその分、

政秀は那古野城主としての吉法師の警備も考えねば成らなかった。

 

沢彦は政秀のその悩みを、

逆に人を育てる意味で活用するようにも提案した。

警備、諜報、索敵などの人材である。

これらは戦国時代では

伊賀や甲賀の忍(しのび)と呼ばれる者たちの分野であるが、

後の信長は寧ろ自身にそうした部隊を持っていた為、

彼らを雇い入れる感じはあまり見られなかったと思われる。

 

吉法師が沢彦を訪れる以前に

政秀は何名かの若手を呼び出した。

河尻秀隆、佐久間信盛、そして簗田政綱に、

尾張津島に潜んでいた甲賀者の滝川一益などである。

秀隆と信盛は、吉法師が城外を視察した際にその供回りとして同行した2人である。

政秀はその秀隆に吉法師の警護を任せた。

秀隆ら十数名をは行商人などに変装させ、

吉法師の周りで目立たない様に警護する任務とした。

現代風に言えばSPといった役割だ。

いわば何か事が有ればすぐさま吉法師を守る役目だ。

 

信盛には20騎の騎兵を与え、

吉法師の周辺で少し離れて常時待機する任務を与えた。

警護の河尻らの動向に応じて直ぐに援護に入れる配置であり、

ある意味緊急時に吉法師が無事に逃げれる様に働く役目と言える。

 

彼ら2人の部隊に与えられた試練は、

常に警戒を怠らない集中力を持つ事と、

何かが生じた際の手際の良い対策を講じる事が課題とされた。

この後、河尻秀隆は黒母衣衆の筆頭と成り、

常時信長の警護を任されるわけで、

佐久間信盛は「退き佐久間」と知られる意味で、

いわば殿軍(しんがり)の名人として成長していく。

こうした才覚は一朝一夕で生まれる訳では無く

若い頃からの経験や知識、それに伴う鍛錬が必要であり、

政秀が育て上げた人材として考える方が妥当である。

 

そして諜報担当に充てられた簗田政綱、滝川一益。

簗田政綱は桶狭間にて今川の動向を信長に知らせた第一の功労者とされた人物である。

滝川一益は言わずと知れた名将で、

信長時代に数々の戦功を立てる人物だ。

一益の出自には諸説あるが、

元は甲賀の国人衆滝川家の出自で、

博打を好んで不行蹟を重ねた為、一族から追放された説を採用する。

そして一益が行きついた先が尾張津島の知人の元という事で、

こうした人材を政秀が紹介を受けて登用した。

彼ら諜報部隊には尾張の国人衆、

いわば野武士たちの監視を担わせた。

内情を把握するための潜入もその役割だ。

甲賀忍の諜報術に精通していたであろう滝川一益が、

桶狭間手前の時代まで織田家の表舞台に登場しなかったのは、

こうした任務を受けていた可能性も考えられる。

 

こうした内容は記録として残されていない話であるが、

何故こうした人材が信長の下に集まったかと考えた上で、

年代や年齢など参考に組み立てると平手政秀の功績と考えるのが妥当である。

寧ろ現実的に考えるならそうして育たねば、優秀な人材は生まれてこないのである。

適材適所という言葉あるが、それは寧ろ育った人材に宛がう言葉で

人を育てる意味では「適正適育」という言葉を用いる。

適正適育とは、人は興味を持てば自然と学ぶという心理を活用したものである。

人間の心理で多くの人は、自分の欲しい人材を求める傾向にある。

しかし、それら適材適所と巡り合うのは運でしかない。

大企業ならばそういう運も考慮して考えられるだろうが、

小さな企業では中々難しいところもある。

適材適所で人材を求めると、人は人の短所を見極めていまう。

いわば自分の欲しい人材か否かを定めようとする心理が働くのだ。

これは大企業でも同じで、結果としてふるいに掛けられそのプレッシャーに耐えれた人材だけが生き残っていくシステムだ。

ある意味、そうした中で生き残った人材故に優秀と考えるのが動物の摂理なのだが…実際には媚び諂い、忖度が横行し、上からの命令に従順に従うだけの機械でしかなくなるのだ。

その上に立つ者が優秀で有ればその機械は使いこなされるだろうが、時代を経て世代が代わっていくとその頭脳が劣化していき、過去の前例を参考に判断していくことしか出来なくなるのだ。

今の日本がこの症状に近いと言え、将来の中国もこれに陥る可能性は高い。唐の科挙制が劣化して滅んだものこれが要因である。

逆に適正適育は寧ろ得た人材の中で育てていくシステムだ。

無論、これも大企業で様々な分野が存在する中では有利になる話で、分野が限られてくる業種では難しいかもしれない。

しかし、適正適育では人の長所を見極め、その長所を伸ばすことで

プロフェッショナルを育成していくのだ。

スポーツを例に挙げるなら、ディフェンスとして志望して入った人材が身長が高くヘディングが上手いがディフェンスは上手くないと感じた場合、ヘディングの能力を活かしてフォワードに抜擢するという決断に結びつくのが「適正」の意味。

その上で、本人が相反するポジションのフォワードとディフェンスどちらに興味が持てるかを見極めてより興味の持てる方で伸ばすのが「適育」となる。

人は興味があれば趣味に没頭するように勝手に学ぼうとする。

学ぶうちに自分の能力に応じて向き不向きが自己判断で解るようになり他へも興味が湧くように成る。

興味のない場所で学ばせても、それは勉強でしか無いわけで学習を怠るのだ。

年齢的な制限のあるスポーツ界でそんな悠長な話を用いるのは得策では無いと言えるかも知れないが、学習によって学んだ経験は実は専門的な指導者として育成する事が出来るのだ。

ヘディングという限定された分野に限られるかもしれないが、ヘディングだけを研究したプロフェッショナルは、どういうポジショニングが良いか、どういう体の使い方が良いかを指導する立場として活きてくる訳で、そういう研究を他の選手に伝えさせることで選手の質が向上していくのだ。

「うつけ」である後の信長の兵法では、

自分が「うつけ」=「面倒くさがり」と自認して、興味のない分野は「無知」であると悟った上で、自分が興味を注げない分野のプロフェッショナルを育てていくのである。

いわばサッカーのドリブルに興味は持てても、ポジショニングやらヘディングには興味が持てない。

そうした中でポジショニングやヘディングに興味がある人間が研究してその研究成果を伝えてくれれば、自分が興味なくて気付かなかった部分が見えてくるのである。

実戦で研究され学習によって学んだ知識故に、それは合理的な説明として理解もしやすく実は議論もしやすい。

いわば説明された話に注文を付け、さらに克服できるように考えてもらえるからだ。

いわばヘディングで相手が自分より背が高くジャンプ力もあった場合どうすれば良いのかという疑問を提示した際、プロフェッショナルとして研究する人のプライドから方法を模索してくれるように成るという形だ。

米国ではこうした人材を効果的に使うケースが多いのである。

自然と考え方の価値もプライドに対する意識も異なってくる。

アジアや特に日本では、指導者に逆らう事は失礼と思われがちだ。

いわば黙ってい言うとおりにしろという事で話が終わってしまう。

それ故に教わる側からの指摘に対して、指導者としてプライドが傷つけられたと考えるのだ。

そしてその指導者の学習は実はそこで止まってしまうのである。

ある意味、知識から得ただけの指導ゆえにそれ以上にどうしたら良いかが考えられず、その新たなる知識を探し求める面倒な作業を押し付けられたと思う心理が働くのである。

ところが学習する方は自分が気付かなかった事を指摘され自分が足りなかったというプライドでそれを克服しようと考える。

ほぼ趣味の事ゆえに、研究する労力を厭わないのだ。

研究する過程の話ゆえに、他の知識を探すことは有る意味カンニングするような意味でその作業も趣味の範疇になる。

カンニングしたからそれで良いという話では無く、プロフェッショナルとしてのプライドから自分なりのアレンジまで考えようとするのだ。

人間の能力を最大限に引き出す意味では、そういう人間の方が遥かに効率よく機能するという事である。

単純に「適材適所」と「適正適育」を分別すると時間軸での長所、短所がそれぞれに見られるが、実際に効果面で考えると全く別物である。

いわば「適正適育」を用いた上で「適材適所」を用いなければ、結局は知識の枯渇によって衰退していくだけという現象であり、向上しない組織になるという話なのだ。

信長が自身の考え方の正当性を合理的に理解するのは、本能寺の変の手前の晩成に入るころだろうが、政秀が齎した環境で有り、信長自身の性格から自然とそういう合理的な組織が形成されたといえる。

信長が「天命」を受けたというのは、それが知らずとして合理的な機能を齎すという効果ゆえの意味でもある。

まあ、言い方を変えれば、「うつけ」=「おおちゃくもの」故に無駄な努力を嫌い、好きな事に没頭したいという性格が齎した他人任せの思考とも言える。

それ故に他力本願で有る事を自認し、他人に感謝する事も忘れず、また他人が働きやすい環境を考える才能に溢れていたのも事実で、実際にそこが信長の魅力と成っていくのである。

実は漢の高祖「劉邦」の魅力も同じであったと言え、それ故に賞罰に対して公正な形に気を使っていたのである。

日本人はこうした他力本願の英雄を嫌う傾向にあるが、実際に働くと考えた場合、自分の能力を最大限に活かせる場に成る訳で、小さくとも必要とされる環境は、最高の労働環境なのではと気付いてほしい。

 

と、は言え信長の興味は、かの諸葛孔明と同じところにあった故に、軍師要らずの人間であったことは、この小説の中で徐々に解説していくものとする。

 

さて、平手政秀という存在が信長にとって偉大であるとする所以は、

彼が信長の為に育てた人材が如何に優秀な形で成長したかを裏付ける話となる。

後の弟信行との間で分裂する織田弾正忠家に於いて、

林秀貞、柴田勝家らといった父・信秀側の人材は、

殆どが弟の信行に付いている。

また奇行の目立つ信長に

真面な家臣なら寧ろ従わなかったとも考えられる。

それでも信長に従ったのは,

寧ろ政秀により信長の為に育てられた家臣であったと考えるべきで

結果としてそれら家臣の方が、

信秀の側近であった家臣より優秀であったから、

弾正忠家の御家騒動で勝てたとも言える。

無論、信長自身の才能も寄与するところだが、信長自身が自身の才覚を最大限に活用できるのはそうした優秀な人材合っての事と自負しているから、寧ろそうなのであった。

 

また、家臣団の勢力図として劣勢に立たされたはずのそんな信長に忠誠を誓う気持ちが生まれたのは、彼らが長年、信長を守るという事に従事した情が有ったと考えられ、その情が忠誠という形で桶狭間でも活きて行くのである。

 

そうした体制で自分が守られている事など知る事も無く、

吉法師は沢彦と共に那古野の城下…

城下と言うより農村集落の那古野村を訪れた。

 

沢彦は那古野村の悪ガキが集まる野原…現在の名古屋駅辺りとしよう・・・そこに連れて行き、吉法師に、

 

「あそこに仲間に出来そうな悪ガキがおるで、兵隊としてまず誘ってみなされ。」

 

と、言って少し離れた場所で腰かけた。

吉法師たちは言われるがまま意気揚々とその悪ガキの群れに向かって行く。

悪ガキの群れには30~40人位集まっていた。

悪ガキ達は木の棒を以て半分に分かれて戦ごっこに乗じていた。

沢彦は吉法師に身分を隠すように言いつけたが、吉法師は恐らく忘れているだろうと思い、興味深々でそれを眺めていた。

 

(さて…若殿がどうするものかな)

 

そこに行商人に化けた河尻秀隆が近づいて、

 

「殿に何か有ったらすぐに助けに入って良いですか?」

 

と、沢彦に秘かに聞いた。

沢彦は、

 

「いや、喧嘩が始まっても動かれるな…ただし集団で動いた場合は喧嘩の仲裁程度に入って下され…ただし吉法師様の身分だけは決して触れない様に。」

 

と、指示をだした。

秀隆は、「御意」と沢彦の側で控えた。

 

農村の悪ガキに近づいた吉法師はいきなり、

 

「おい!お前ら仲間に成れ。」

 

と、命じるように言い放つ。

まだ、世間を知らなすぎる少年吉法師に身分を隠すという話は難しすぎる。

そんな突然の不遜な態度に農村の悪ガキたちは

 

「はぁ?!何言ってんだ!!」

 

と反発した。

 

「俺は那古野の吉法師ぞ!!」

 

命令に従わない相手を見て吉法師はカッとなった。

既に沢彦の忠告を忘れてしまっている。

ある意味、本当にうつけに見える話だ。

無論、吉法師の供回りの岩室らも相手を農民と見下している分、吉法師が名乗りを上げて命令した事には不思議に感じていない。

まだ12歳の少年ゆえに、仕方のない事で、

現代の子役として大人社会で芸能活動している同年代とでは、演技力も違うのは当たり前と見るべき話だ。

寧ろ、気づいてか気づかなくてか「那古野城主」と名乗っていないだけ沢彦の忠告を守っていると考えてたかもしれない。

 

すると農村の悪ガキの一人、後に新介と名乗る少年が吉法師の前に出てきて、吉法師の肩を突いて挑発した。

新介は吉法師より2つ位年長であり、

ガタイも少し大きかった。

肩を突かれて吉法師は大きくよろめいて倒れたのだ。

 

「なんだ弱そうじゃないか!!」

 

と新介が言うや、周りの悪ガキ達もそれを見て大笑いした。

吉法師のとっては生まれて初めての屈辱だったかもしれない。

 

それを見た沢彦は秀隆に、

 

「秀隆どの餅をあの人数分調達してここに持ってきてくれまいか?」

 

と頼んだ。

秀隆は、

 

「如何にして?」

 

と、聞くや、

 

「これから若に交渉術を教える為じゃ。」

 

とだけ言うと、秀隆は直ぐに動いてその場を離れた。

すると沢彦は悪ガキたちに向けて大声を上げて、

 

「おーい、悪ガキども!!」

 

と、急ぎ足で近づいて行った。

悪ガキどもは坊さんが説教しに来たと思い一瞬退散するかのように動いたが、

 

「おーい、ちょっと待て面白い話を聞かせてやる!!」

 

と、少し優し気に声を掛けると、退散しようとしたガキどもは足を止めて、沢彦が近づくのを待った。

恐らくその悪ガキの番長格であった新介は、

 

「坊主が何の用だ!!」

 

と、声を掛けると、

吉法師と新介の間に入った沢彦は、

 

「喧嘩ならもっと面白い勝負を教えてやる。」

 

と、言った。

倒れた吉法師は岩室たちに抱きかかえられるように起き上がり、

 

「沢彦!!刀を返せ!!こいつら切り殺してやる!!」

 

と、言い放つ。吉法師はある意味世間知らずのお坊ちゃま状態だ。

沢彦は吉法師のそういう性格を読んで割り込んだのだろう。

無論、こうした心情で農民に負けたまま放置すれば吉法師は暴君に育ったかもしれない。

記録上の話で、吉法師が実際に城下で遊んでいた事は明白であるが、その身分をどうしていたかは定かではない。

無論、身分のまま農村の子供たちを従えて遊んでいたとする方が道理としては話しやすいが、この小説ではその辺は少し脚色して進めるものとする。

 

吉法師の怒りに任せた言葉に沢彦は

 

「刀を使うか!それでは公平な勝負では無いぞ、そんな勝負に勝って嬉しいか?」

 

と、吉法師に聞くや、

悪ガキども番長格の新介に

 

「これらはワシが寺で預かっておる熱田の町民の子らじゃ…どうじゃ少し面白い喧嘩で決着付けて見ぬか?」

 

と、提案した。

沢彦はあえて「喧嘩」と言葉を用いるのだ。

喧嘩という言葉を敢えて用いる事で「仲裁」ではないという意識を相手に与えるのだ。

いわば始まった喧嘩の延長として決着をつける話にしたわけで、喧嘩という言葉を取り消せば相手に「喧嘩を止めるように」と聞こえてしまうからだ。

喧嘩をしている両者は心理上で頭に血が上っており、その行為を否定されても部外者に関係な話として不満を抱くのである。

寧ろそういう心情ゆえに「喧嘩のやり方が面白くない」と諭す方が冷静に話を聞きやすくなる。

これは外交上のテクニックでも活きてくる。

戦争をする両者に戦争を止めさせるため、その戦争を批難しても中々止めないのだ。

いわば両者には既に戦うだけの理由があるから、その理由は他者には関係が無い。

パレスティナとイスラエルの問題など一度戦争が始まれば止める事が難しく成るのはそういう事である。

力で停戦を捻じ込む事は出来るが、結局両者が抱える遺恨は消えないのだ。

吉法師は今農民が逆らったという心理で農民に対する遺恨が芽生えた状態だ。理由は理不尽な事でも吉法師の怒りがこのまま放置されればより根深い話となる。

沢彦が優秀なればこそ、この心理の流れを予め察することが出来るわけで、実際にはまだ些細な状態と放置されがちになる。

そこで沢彦は決着を上手くうけさせる方法を用いた。

 

先にも話したプロフェッショナル。

沢彦は僧侶として仏門に使える身として、和の研究に没頭していた人物と伝えよう。

故に如何に人間の争いが醜いかを知り、それを拭い去る難しさも心得ている。

そういう研究から効果的な方法を見出せるのであった。

 

沢彦は「仲裁」という形を成立させるには、「停戦」が適う方法を適策と考えるのである。

それは「引き分け」を引き出して冷静さを取り戻させる方法である。

決着を付けさせると寧ろ負けた方は不満を抱いで遺恨が残り、その猜疑心が仲裁者に向けられることにも成るのだ。

先ず双方が冷静さを取り戻して一旦引いて考える機会を得る上では、双方が引ける心情を考慮しなければ成らない。

 

そこで沢彦は2番勝負を提案するのだ。

決着をつける3番勝負では無い。

1番目に農民たちが勝ちやすい「相撲」

2番目に吉法師が有利に成るだろう「棒剣勝負」

とした。

 

当の子供たちは相手の器量など知らない為、全て勝てる気でいる。

それ故に案外と簡単に話が纏まった。

そして3人づつ代表を出して、それぞれの勝負で決着をつけさせたのだ。

 

相撲のルールはこの当時土俵は無かったと考える。

いわば倒したら勝ちで、土俵から出すルールは無い。

相撲と言っても柔道に近いとも考えられ、

投げ飛ばす方法は自由だったと言える。

言うまでも無く、相撲勝負は吉法師たちの完敗である。

唯一の勝者は一番の相撲上手で体が大きかった岩室の一本だけ。

吉法師はあえて新介と対戦して、簡単に負けている。

負けた吉法師は大いに悔しがり、その執念を棒剣勝負に向けた。

 

沢彦は棒剣勝負にルールを用いなかった。

剣道の様に一本取れば勝ちでは無く、

寧ろ「降参」が条件だ。

勿論、生死に関わる状態なら止めることも考えていたが、子供同士故にそこまでには至らないとも踏んでの判断である。

 

佐久間盛重の教えで痛みに強く育てられた吉法師らは、棒剣試合では圧倒的に強かった。

寧ろ農民の子らは多少の痛みには耐えれても、

継続して受ける痛みには弱い。

いわば殴られ続けて我慢できることは出来ないのだ。

ある意味ボクサーはボクサー同士KOされるまで戦い続けるが、そんなボクサーに素人が挑めばKOされる前に謝ってしまう。

ある意味、そういう勝負と成った。

結果、2本目で勝負は付いたが、沢彦は大将戦となる新介と吉法師の勝負を敢えて取らせた。

いわば全体の勝負で相撲が1対2、棒剣試合が2対0だったことも有る。

更には吉法師の執念を察してか、負け続けた新介との勝負を決めさせる必要性もあった。

それは沢彦が吉法師に抱く教育上の都合とも言える。

寧ろ吉法師がここで負けても勝ても相手の器量を認めるという教えに結びつける為だ。

負ければ自分の弱さを自覚させ、

勝っても相撲で負けた時の相手の強さを認めさせる。

そういう考えだ。

 

新介のガタイは年の差もあって吉法師より一回りデカい。

普通なら相撲で負けた相手故に怖気づくところだろうが、吉法師は武家としてのプライドが先行して農民相手に苦渋を飲まされた意識があり、剣さえあればという気構えで全く動じていなかった。

と、言うより寧ろ殺伐とした雰囲気で新介に向かっている。

一見、吉法師には農民を差別した意識があるようだが、あえて言うなら当然の話で農民が武家の自分より強い事が許せないのである。

人間のプライドというのは育った環境で育成されるもので、そのプライドは人間に根強く残るのだ。

人種差別などが社会的に根絶しても、人間の意識に芽生えたら中々消えないのはそういう摂理もある。

それは黒人が白人に対して身体的な優位性を意識するプライドも同じで、白人は経済的、頭脳的な部分でそれに対抗しようと感じるのも無理はない。

これは日本人と韓国人、中国人の間でも同じである。

社会的な差別がない状態では、それぞれの遺伝的優位性が認められて勝負するしかない世界なのだという意識を双方に植え付けていくしかない。

吉法師のそれは、身分的な優位性のプライドで、農民を人間として見ない意味とは違う。武家として決して負けては成らないという意識なのだ。

 

そういう意識の中、勝負が始まるや、

吉法師は先ず新介の籠手に突きで一撃を浴びせる。

剣道の籠手の取り方とは違い、最短で突く…

ボクシングのジャブを浴びせるように相手の持ち手目掛けて先手を取るのだ。そしてそのまま相手の顔面に目掛けて突きを更に加える。

殺人形式の剣術である。

吉法師は剣術を習う中で、

最短で相手を行動に不能にする方法を独自で編み出している。

新介は一瞬で不利に立たされた。

しかし、降参しなかった。

吉法師は降参しない相手に容赦なく、突きで殴打する。

棒を振り回して殴るより、

突き刺してピンポイントで痛みを与える方が効果的な事を吉法師は知っていた。

見るに残酷な仕打ちである。

脇腹であり、局部であり、相手が苦痛に感じるところ狙って、残酷なまでに甚振る。

それでも新介は降参しなかった。

吉法師に従う岩室らは、むしろ吉法師を怒らせたその農民を笑った。

 

(若に剣を握らせて怒らせたら最後だ…)

 

その状況を見かねた沢彦は流石に吉法師を止めた。

 

「若!!」

 

余りの鬼神ぶりに動揺した沢彦はそう呼んでしまった。

 

「相手は人ぞ!!もう十分であろう!!」

 

すると吉法師は、

 

「こうれは勝負ぞ!!相手が降参せねば我がやられる!!」

 

と、手を休めることなく沢彦にそう言い放つ。

沢彦は今度は新介に降参するように勧めるが、

新介は、

 

「降参はせぬ!!」

 

と、意地を張った。

沢彦は再び吉法師に、

 

「その者を殺すつもりですか?!!」

 

と、聞くや

吉法師は、

 

「降参せねば、止むをえまい!!」

 

更に殴打を強めて、本気で殺しに掛かった。

野生の殺意を感じたのか、

さすがの新介もそれには恐怖した。

本当に殺される…

そう…既に喧嘩では無く、殺人の域に達し始めた。

周りの農民の子らもその仕打ちに寧ろ助力しようと構え始めた。

しかし、岩室らもそれを察して身構えて、

鬼の形相で彼らを睨め着けると、

先の2本で見せた勢いも有って、農民の子らは足が竦んだ。

新介は既に気を失っている。

沢彦は吉法師を制止してでも止めるべきだったろうが、沢彦の勘がそれを阻止した。

いわばその勘は吉法師がこのままどうするかを見極めねばならないと諭したのだ。

すると農民の子らの一人が吉法師にひれ伏す様に頭を下げて。

 

「新介をもう許してあげて下さい!!」

 

と、吉法師に向かって嘆願した。

それに呼応するように他の子らもひれ伏した。

身分が農民で有る分、屈する事にはプライドが無い。

性格と言うより寧ろ親から受け継がれた処世術というものだ。

その姿を見た吉法師はようやくその手を止めた。

怒りに任せて相手を甚振っていた様に見えた光景が、

あっさりと冷静さを取り戻して手を治めたのだ。

沢彦は殺すまで止められないとも思っていた。

しかし、あっさりとその殺意が消えた事に驚いた。

 

(心の底は見えぬが…若殿は尋常な人間ではないな・・・)

 

すると吉法師は沢彦に

 

「相手は降参したという事か?勝負は終わりだな。」

 

と、聞くや、

農民の子らが先に、

 

「降参します!!」

 

と言ったので沢彦は、

 

「勝負は終わりです。若の勝ちです。」

 

と勝敗を認めた。

吉法師は内心殺したくは無いと考えていた。

しかし、殺さねば次は自分が反撃されると感じて手を止められないのである。

それ故に誰かが明確に終わらせてくれることを願っていた。

ただしそれは相手の明確な敗北でしか許されない。

人間の思考は自分本位である。

自分が決して相手に屈する事が無いと覚悟していた勝負に、相手も自分に屈しないかもしれないと考えるのが吉法師の思考に有ったのだ。それ故に隙を与えれば必ず反撃に転じるという恐怖が過るのだ。

結局、そういう勝負になればどちらかが死ななければ終わらない。

故に降参をしないなら殺すしか方法が無いのだ。

無論、内心では人を殺したくはないのも事実だが、降参しない以上、相手は常に自分を殺しに来ると警戒するわけだ。

戦争や戦いは道徳では計り切れない。

殺らねば殺られる。

屈服しないものは常に寝首を狙ってくる。

結局、吉法師であり後の信長の思考はここに陥るのである。

逆に相手に屈するのなら死を選ぶというのが、自信のプライドで有り、屈せず常に相手を狙う執念も自認していたのだ。

それ故に激情なまでも敵に対しては鬼に成れるのだ。

 

信長の本性は女性である。

体が男で、心は女性なのだ。

かといって男に興味があるわけではない。

寧ろ気丈夫というより気丈婦であり、女好きの女性とでもいった方が良いのか。

たとえ体が女性に生まれようとも、神の子以外は身ごもるつもりがないほど、気高い意識のある女性と言える。

いわば神と認める相手以外に異性として興味を持たない人という感じだで、それ以外の相手に恋愛感情すら抱かないし、いかなる要求にも屈服しない。

故に男として生まれたら男の性は全うされる。

 

難しい説明に成るが、

男性としての寛容さは薄く

女性としての気高さが濃い人間と考えてもらえば良いのかも知れない。

 

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

 

後世にこう評された信長の性格は当たっている。

しかし、人が考える残忍な意味の「殺してしまえ」とは違う。

鳴かぬなら鳴くまで攻めるのが結果として「殺してしまう」の意味なのだ。

 

故に農民の子らは殺す前に「鳴いてくれた」と判断したのだろう。

内心、吉法師は殺さずに済んだことに安堵した。

しかし気絶した新介を見て、

 

「沢彦…こいつは生きてるか?手当してやってくれ」

 

と、不思議な程人が変わった。

二重人格とも思われる感じだ。

まるで人命を何とも思っていない冷酷な少年にも感じられる吉法師だが、寧ろ戦国時代の武家に生まれた子としては当然で頼もしい。しかし一度矛を治めたらその命を無駄に殺傷する事は好まない。

沢彦はそこを見極めたのだ。

 

(戦の世に敵に情を掛けるは自らを危うくするが、一度屈するなら人としての情を持ち直せる…暴君では無く名君の器と言えるか…)

 

現代人で普通に道徳心を持つ人にはこれだけ説明しても解りにくいかもしれない。

沢彦が「勘」で見極めたかったのは、人を殺める事を楽しみとして残酷な仕打ちに出たのか、それとも真剣勝負という命がけの勝敗の中でただ気を許すことなく勝負に没頭した結果なのかという部分で、矛を治めた姿勢を後者と評価したのだ。

 

沢彦が新介の様子を見るや、痛いたしいほど首などに痣が出来ており危うく死にそうでも有ったが同じ場所を何度も入れておらず、寧ろ気絶してから急所を外した形跡も見られ、それらを分析して何気にどこかで殺すことを躊躇していたとも感じられた。

沢彦が新介を揺さぶって起こすと、新介は直ぐに意識を取り戻した。

 

意識を取り戻すや新介は

 

「勝負はまだ…」

 

と、言いかけるや、

沢彦は、

 

「戦なら死んでおる…お主の負けじゃ」

 

と、新介の負けを諭した。

それを見た岩室は、

 

「あいつまだやる気かよ・・・」

 

と、少し驚いた。

吉法師は勝った喜びに暮れることなく、ただその新介を見ていた。

死んでいなかった事に少し安堵したのか・・・

普通なら勝敗が決まった時点で喜ぶものだろう、しかし吉法師は勝負に勝てた喜びなど微塵も感じないのである。

寧ろ負けなかった事への安心感だけといえる。

真剣勝負で負けられない意識だけで戦った結果、相手を殺しそうになったほど、いわば心として苦戦したと感じたのだ。

 

そうした中、秀隆が餅を用意してその場に訪れた。

秀隆は商人を演じた状態で沢彦に声を掛けた。

 

「沢彦殿、ご注文の品をお持ちしましたぞ!!」

 

それを聞くや沢彦は吉法師や農民の子らに向かって、

 

「ほら皆の者、餅を用意した…全員で食っていけ!!」

 

と誘った。

農民の子らは思わぬ出来事故に戸惑ったが、

 

「ほらお前らの分も有るから、喧嘩の手終いに食っていけ」

 

と、声を掛けると喜んでそれに応じた。

そして気絶していた新介に、

 

「おい、一人で立てるか?」

 

と、聞くや新介は大丈夫と言わんばかりに立ち上がった。

立ち上がるや吉法師の側に行き、

 

「おい!死ぬかと思ったぞ!!」

 

と、言うや、

吉法師は新介に

 

「そうか…死ななくてよかった。強いな」

 

と、返した。

二人はまだ打ち解けてはいないが、沢彦に招かれるように秀隆の用意した餅のある方へと向かった。

 

どうも・・・ショーエイです。

とりあえず緊急で書いた文章は

物語を連続で投稿する意味で削除します。

 

とは言え、マスク不要とは言わないけど、

マスクに拘り続けて現実的に対応しやすい方法を考えれないのは、むしろ無駄な話と言えます。

面倒だと感じる方法を幾ら促してもハッキリ言って意味が無いのです。

いわばそんな面倒な事したくないという話に成るのです。

ならば簡単に口を覆うだけでも対処できるやり方を浸透させて、最低限の対応で乗り切る方が賢明なのではという事。

でなければ結果営業時間短縮のみならず、

ロックダウンして外出禁止にするしか方法が無くなる。

 

マスク以外の方法に反論した所で、結果として無意味な状態が継続すればより面倒な状態に成るという計算まで出来ないのかな?

故にアホと言えるのです。

 

人を馬鹿にした言動はどうかと思う人も居るだろうけど…

日本政府が馬鹿の故事を演じた以上、

これを馬鹿とするのは文学上当然の表現で、

その故事を理解できない人は間抜けというしかない話です。

間抜けは間が抜けている=拍子抜けという意味で、

まあ、理解力の無い人間で拍子抜けする人と言えば適正な表現に成るのかな?

腹立てるのは勝手だが、

日本はいわばそんな悠長な拍子抜けした議論をしている状態じゃないのだよ!!

日本がドンドン世界規模で落ちぶれて言っているのを、いつまで意地張って頑張ろうとしているのか?

頑張るところが違うんじゃない?

理研が富岳でスパコン世界一に返り咲いたという話で、理研が頑張てっても、間抜けな議論はそういう人達の足を引っ張るだけ。

間抜けでないならスパコンより次は量子コンピュータの開発でしょ。

量子コンピュータが登場したら、スパコンレベルはゴミなのだよ。

 

これは安倍政権の時も同じ。

アホの語源は、劉備の玄ちゃんの息子、阿斗こと劉禅から来ている訳で、国を亡ぼす2世皇帝=世襲政治家に対しての引用でもある訳です。

言っちゃいけないという表現では無く、

文学上の表現としてこの現象をアホと言うしかないでしょ。

 

口が悪いとか言われも知らないです。

アゲアゲで話してもこの国は世論が盛り上がるだけで、国はドンドン沈むのです。

まあ、悪く言っても無駄なのかも…

 

時代の流れは…

ハイブリット<EV(電気自動車)

電子コンピュータ<量子コンピュータ

軍事開発<宇宙開発

ですね。

日本の議論は全部古い方に傾いている。

脳波でコントロールするドローンに驚いている場合じゃないよ!!

脳波観測技術が進むと、VRなんてゴミになる。

アニメのSAO(ソードアートオンライン)の様な世界に近づいているのだよ。しかも、それMade in Chinaで・・・

アイデアの原案は日本で紹介されたのに、

技術は中国に取られるとか情けなくない?

アイデアは日本人だからと言って誇っても、

日本の経済的には何のメリット有りません。

中国製になればその特許権で

中国企業がその権益を得るだけなのです。

 

そういう開発をするのに日本は金がない。

そういう金がない状態にしているのは誰のせい?

中国が悪いの?

韓国が悪いの?

アメリカが悪いの?

それは日本でしょ!!

ちゃんとよく考えましょう。

 

 

 

 

 

 

【第十一話 沢彦坊主】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

信長の奇行で有名なのはその服装で有った。

当時の農民が主に着ていた

浴衣の様な服装を好んだことでうつけ扱いされていたと言われる。

現代風に言えばスーツ姿が当たり前の会社の中で、

ジャージ姿で働いている感じなのかもしれない。

武家の服装が、いわばブランド物のファッションなのに対して、

ただ服を着ているだけの姿ゆえにそう見られたのだろう。

那古野城の城主であり、そうした贅沢も出来る身分で、

何故あえて貧乏くさい恰好をするのか…

普通の人の感性と異なるから天才なのだが、

時に天才ゆえの合理的な感性は、

普通の人には理解しがたい理屈が生じるのだ。

 

身だしなみはその人の印象を左右する大事な事で、

それによって人を魅了する事でその好感度が得られる。

素敵なスーツを身にまとった人はそれ相応の人物に見え、

その容姿から発する言葉には自然と重みを感じる。

逆であれば言葉の重みは薄れ、戯言に聞こえる。

これが普通の人の感性である。

 

一方、天才は言葉の中身に重点を置き、

合理的でない言葉は全て戯言なのだ。

どれだけ容姿が素晴らしくとも、

いわば中身が伴っていなければ、

所詮は使い物に成らないと判断する。

 

普通の人は

「誰が何を言ったか」

で、その信憑性を判断する。

ところが天才に成ると、

「誰が」という部分は省かれて、

「何を言ったか」が重要で

その上でその意味を分析して、

信憑性があるか無いかを判断する。

いわば、有名大学の教授がこう説明したから、

だから正しいでは無く、

説明した内容の何が正しいかが大事なのだ。

そこで合理性の無い説明なら、

その話は何の意味もない戯言になるのだ。

 

そういう感覚ゆえに、

人の見かけには興味が無く成るのだ。

人の見かけに興味が無くなる分、

自分自身の見かけもいい加減に成てしまう。

 

合理的に考えれば、

寝て、起きて、何かをする。

これが基本的な生活の原則と成る。

信長からすれば

起きた瞬間に何か出来る格好が好ましいのだ。

そして、

「顔を見れば俺が誰か解るだろ」

という感覚で、

どんな格好をしていても、

それが解るなら問題ないとも考えるのだ。

 

とは言え、二日酔い状態で

しかもジャージ姿の上司を見たら、

普通の人はヤル気が無い様に感じてしまうのは当然だ。

それ故に「うつけ」と感じられるのだろう。

 

さて、元服前の教育を受け始めた吉法師は、

佐久間盛重の剣術稽古以外は授業を放り出して、

岩室、長谷川、山口、加藤、千秋らと、

相撲や蹴鞠、そして競馬をして遊んでいた。

特に馬に乗り慣れた時分ゆえに、

競馬であちこち駆け回る事を好んだとも言える。

現代風に言えば原付バイクを乗り回す、

原付暴走族みたいな感じとも言える。

 

そうした中で平手政秀より相談を受けた沢彦宗恩は、

吉法師らに自分の寺に遊びに来るように誘った。

この時分に沢彦がどこに居たかは定かでは無いが、

織田弾正忠家との繋がりで考えるなら、

勝幡の方に寺があったと推測する。

沢彦は1587年まで生存していたとされ、

そこから逆算して年齢を考慮すると、

恐らく30~40代であったと考えられ、

1540年に信秀が弾正忠家の菩提寺として建立した萬松寺に

招かれた僧侶の一人であったとも言える。

 

萬松寺の開山には信秀の叔父に当たる、

大雲永端和尚が招かれたとされ、

この関係から才覚を認められた若手僧侶の沢彦が、

信秀や平手政秀に紹介されたとも推測できる。

 

年齢的に40手前であったと想定するなら、

僧侶としての実績はこれからの人物であったと考えるべきで、

後者の可能性を有力と考える。

その沢彦が吉法師を招いた場所は、

この萬松寺とする。

 

当時の那古野城が

現在の名古屋城の二の丸の規模であったとし、

萬松寺は那古野城の南に位置した。

現代の錦から丸の内2丁目、3丁目を跨ぐ広大な寺院であったとされ、

ほぼ那古野城城郭の中に有ったと考えても良い。

その広大な敷地には本殿とは別のいくつかの建屋があり、

その一つに沢彦に与えられた土地が存在した。

 

あれから更に成長して12歳と成った吉法師。

現代風に考えれば小学6年生で、一般的には子供なのだが、

小学6年生から中学3年生に掛けては、

思春期に突入した頃合いで、

自我が芽生えて反抗期に入る。

いわば夢見がちに勘違いできる時期だ。

 

そういう勘違いする時期の子供は生意気にも成る。

吉法師ら悪童たちは沢彦の場所に到着するや、

小生意気に、

 

「沢彦坊主!!遊びに来たぞ!!」

 

と、声を掛けた。

この時、悪童たちの服装は

まだ武家らしい袴に着物という感じであった。

 

そんな小生意気に成った悪ガキたちを迎えた沢彦は

敷地の門前に出向いて

その若殿にかしこまる様子も無く、

 

「おお!!よう来られた、悪ガキ殿。」

 

と、愛想よく言い放つ。

悪ガキと呼ばれて吉法師は少しムカついたのか、

 

「悪ガキ?!我は那古野の城主ぞ!!」

 

と、言い返す。

その言葉に沢彦は、

 

「それは俗世の身分ゆえに通じる話理屈であって、

仏門に使えるワシには関係ない話じゃ!!」

 

すると吉法師は、

 

「ここは那古野の城の内じゃ!!」

 

と言うや、

沢彦は

 

「そんなもの死んでしまえば何の意味があるか?

ワシら仏に使える者は、皆死人も同然じゃわ。」

 

そう言い放ちながら、袖から干し柿を取り出して、

吉法師に手渡した。

 

「まあ、そう構えずに一緒に楽しい遊びを考えようではないか。」

 

と、何も無かったかのように振舞って中へ誘入れた。

沢彦の言葉に苛立ちを見せていた吉法師は、

干し柿を手渡されて逆に意表を突かれた感じと成り、

ある意味上手く丸め込まれたのだ。

 

沢彦は干し柿を悪童全員に手渡すや、

そのまま門を通って中へ入っていった。

 

悪童たちは、

沢彦の堂々とした雰囲気に安心感を感じたのだろう。

何となくコイツとは話しても面白そうだ…

そういう好奇心も植え付けた。

悪童たちは手にした干し柿をくわえながら、

近くの木々に自分たちの馬を止めて、

沢彦に着いていくようにその門をくぐった。

 

門をくぐると手入れされたとまではいかないが、

簡素な庭が広がり、

沢彦は縁側に腰かけるようにして座っていた。

悪童たちは貰った干し柿を行儀悪く食べながら歩いて、

縁側に座った沢彦の目の前に集結した。

これから遊ぶつもりなので、全員立ったままだ。

 

縁側に腰かけた沢彦はそんな悪童たちを眺めて、

 

「そなたらはもうじき初陣を迎えるであろう…」

 

と、話を切り出した。

すると吉法師は

 

「ああ、戦に出て手柄を立ててやる。」

 

沢彦はその言葉に何か考えるような間を置いてから、

 

「ならば戦遊びでもしてみるか?」

 

と、言うと話を進めた。

吉法師は

 

「何だそれは?」

 

と、聞く。

 

戦遊びとは農民の子らで流行っている遊びでもある。

いわば石合戦や棒喧嘩、竹やり合戦といったものだ。

それは土地によって様々であったと考える。

これらは大人に成ってからも、

農地の場所取りであり、水脈を巡って、

農村同士が喧嘩するときにも用いられる。

とは言え、戦争ほどの統制などなく、

むしろ常時乱戦状態の殴り合いといった感じだ。

 

沢彦が吉法師に言った事は、

戦遊びで領内の農村を全て支配して見ろというモノであった。

すると吉法師は

 

「農民相手に喧嘩をするのか?」

 

と、半分鼻であしらう様に言った。

その様子に気づいた沢彦は

 

「ああ、そうだ。その農民相手に苦戦するようでは

天下どころか尾張も危ういぞ。」

 

そう言われると吉法師は

 

「俺ら6人で、何人を相手にするんだ?」

 

それに対して沢彦は

 

「先ず、味方の兵を揃える。無論、他は農民の子らだが。

兵は多ければ多いほど良いぞ。

少なければそれだけ大人数を相手にすることに成る。」

 

すると吉法師は。

 

「武器は何を使うんだ?」

 

沢彦はそれには言葉を選んで、

 

「鉄を使わなければ良いとしよう。」

 

いわば殺傷力の高い刀、槍、弓がこれに入る。

沢彦のその答えに吉法師は大いに納得し、

 

「それは解りやすいな。」

 

すると吉法師は木刀を取り出して、

 

「じゃあ、この木刀は良いんだな。」

 

ところが沢彦は、

 

「木刀は良いが、もう一つ条件を加えるなら、

武器は全て自作する事じゃ。」

 

さらに付け加えて、

 

「あと那古野城主の吉法師で有る事は内緒にすること。

これも大事な条件じゃな。」

 

その条件に吉法師は、

 

「何故、内緒なのじゃ?」

 

と聞いた。

 

「那古野の殿と知ると、相手が本気を出せなくなる。

皆怯えてしまうじゃろ。それでは意味が無い」

 

加えて沢彦は、

 

「戦遊びは勝ても負けても恨みっこなしじゃ。それ故に本気でぶつかり合う試合と思われよ。」

 

そう説明されると吉法師以外の5人も段々乗り気に成ってきた。

そこで沢彦は、

 

「本当の戦も同じじゃが、あちらは命がけの試合になる。

その訓練としても農民相手の試合に生ぬるい話を望むか?」

 

と、吉法師らに聞くと、

吉法師ら他の5名も含めて何気に目つきが代わり、

 

「いや!!本気でいい。」

 

と、答えた。

初陣を控えていきり立つ少年たちは、

沢彦の言葉から本気で試合う大切さを理解したのだ。

沢彦は気合に満ち溢れた少年たちを見て、

 

「成らばしばし待たれと」

 

と言って、腰かけていた縁側から奥の部屋に入って行った。

 

待つこと2、3分…

 

沢彦は農民たちが着る粗野な衣を持ち出して縁側に置き始め、

 

「その身なりでは城中の者と直ぐにバレる。これを着なされ。

それから那古野の城下に行く。」

 

と、着替えるように促した。

吉法師たちは条件を呑んで試合うつもりに成っていた分、

何の抵抗も無くそれに着替えた。

 

着替え終えると吉法師は、

 

「何とも軽い服じゃな。」

 

と、不思議そうに言い放つ。

武家の着物と違って布一枚の衣ゆえに、

それだけ重さも違うのは当然である。

 

「その粗野な服では不服か?」

 

と沢彦が聞くと、吉法師は、

 

「いや、動きやすくて寧ろ良い。」

 

と、答えた。

他の5人は少し抵抗があった様子だったが、

吉法師の言葉に押される様に、

何となく動きやすさに好感を覚えだした。

 

その後、沢彦は結っていた髷を外させ、

髪を紐結に代えさせてから

吉法師らを連れて那古野の城下へと向かった。

 

このいで立ちがいわば歌舞伎ファッションの始まりで、

この時はまだ沢彦の趣味のせいか地味な柄の衣で有った。

これが徐々に吉法師たちは自前の衣を揃えて行くようになり、

それがいつしか奇抜なモノへと変貌していくのであった。

 

どうも・・・ショーエイです。

いよいよ吉法師こと信長たまが、

大うつけへと成長していく過程に入りました。

元々暴走族の様な感じにする予定は無かったのですが、

色々と流れを推察していくと、

どうやら暴走族の様な感じだったのは

まんざら嘘でもなさそうな感じに成りました。

 

結局、実践的に戦術を学ばせると考えた際に、

戦遊びという手法に結びついたわけです。

 

ヤンチャな子は今でも喧嘩遊びをするわけで、

寧ろ農民の子供らはゲームも携帯も、ましてや漫画なく、

本など高くて手にすら入らなかった時代。

スポーツなど有る訳も無く、

そう考えるとこういう遊びに成るのが当然と言えます。

 

農民の子らは下手したら武士よりたくましいとも言えます。

ある意味、身体的に。

武士の子は寧ろ剣術などの技術的な面では

強くなったのかも知れませんが、

楽して暮らせた分、体は農民の方が強かったと考えても良いと言えます。

 

多分、身分を問わずに武家に登用した信長たまは、

その実態を体験していなくては成らず、

それなくして発想を得る事は、

かなり難しいと言えるのです。

 

まあ、相撲好きという話で、

農民と武家で相撲させたら農民の方が強かった

という実態から発想したとする事も出来ますが、

むしろ戦に結びつけると、

戦遊びかなという感じです。

 

さて愚痴愚痴…

 

今日は道徳に関して…

道徳を語る人間は合理的ではな!!

 

何故か?

 

道徳と言うのは人の価値観の問題です。

法律で有れば罰則がある事で、

守る義務が生じます。

道徳に関しては守る義務は有りません。

故に価値観の違いで片付いてうのが、

ある意味グローバルスタンダードな考え方です。

 

キリスト教徒がイスラム教徒にキリスト教の教えを説いても、

価値観が違えば理解は得られません。

 

これは民主主義国が共産主義国に価値観を語っても、

価値観が違うゆえに理解は得られないのと同じです。

これに法律という部分で言えば…

国連憲章の内政不干渉が法的な根拠に成る為、

民主制を押し付けても意味が無いのです。

 

価値観の違いを他人に押し付けられて、

押し付けられる方はどういう気持?

腹が立つ話で、

場合によっては喧嘩に成るだけです。

 

そういう事を割り切って考えて、

自由とは何か?

そういう視点で他人の自由は尊重し、

自分の自由の権利は保持する。

それこそが民主制の基本であることを、

知っておいてもらいたいです。

 

信長たまの歌舞伎ファッション。

当時の常識では認められないモノだった訳ですが、

そういう風潮故に皆同じ恰好するのが良いのか?

自由で自己主張が高い社会ゆえに、

色々なファッションが生まれやすく成る訳で、

個人の価値観を尊重し合う自由だから、

そういう社会が成立するのだという事も理解して欲しいです。

 

他人は他人、自分は自分。

権利の尊重というのはそういう話で、

民主制に於いてはこうした権利の保証が

法律、憲法上で守られる故に、

国民主権の民主制なのです。

 

多数決で決めるのが民主制では無いのですよ。

それは寧ろ民意制と言うべき話で、

マイノリティ(少数派)の保護が無視される状態でしか無いのです。

日本人で勘違いしている人多すぎ!!

こうした矛盾を克服した言葉が民主制の意味で、

そこの理解度も無く民主制を語るのなら、

民主制の理解度が12歳以下と言われても文句は言えません。

 

【第十話 花倉の乱】桶狭間へのカウントダウン 残り15+9年

〔ドラフト版〕

 

桶狭間に於いて今川義元は首を取られた大名として有名で、

大軍を以て信長に敗れた敗将のイメージが強い。

桶狭間には様々な候補地がある訳だが、

その中で現在の中京競馬場寄りの北側ルート、

いわば鎌倉街道を通って

そこから鳴海を囲むように行軍していたのなら、

筆者は今川義元を愚将と評価したであろう。

そしてそういう行軍であった事を寧ろ望んでいた。

その方がこの桶狭間を解析するのに簡単だったからだ。

しかし、調査していくうちに今川義元は堅実な行軍をしており、

定石通りの戦いであったなら確実に勝利していたといえる。

 

現代人はゲームの感覚に頼って戦争を見がちで、

歴史家は資料に頼って

そこで見えない駆け引きを見落としがちなのである。

 

圧倒的不利からの大逆転は、

大軍の抱える難題を理解しなければ成らず、

その点に於いては三国志の赤壁の戦いは、

両陣営の状況が記された珍しい記録である。

そこには兵糧の問題であり、

疫病や弓矢の数など、

ただ単に兵力だけの話では済まされない点が伺える。

 

いわば長期化すればするほど兵力の多い側は、

兵士に食わせる兵糧で悩まされることに成る。

 

兵士の体力や精神的な部分も色々と影響する。

無論、劣勢側の精神状態は崩れやすい。

しかし、決死を決めた、いわば背水の陣と化した部隊は、

指揮官への信頼が有れば強く保てる事も有る。

 

坂道を駆け上がった後に戦闘となる状況も

現実的に考えて見る事も大事だ。

体力のある者…いわばスポーツ選手だったとしても、

1日、2日は何とか成るかも知れないが、

それ以上連日して続くと疲労感はかなりのものとなる。

それでも体力を消費して駆け上がった先に、

同じレベルの選手が居たとしたら、

その時点で不利になる点は否めない。

これらが地の利と言われる部分で作用することに成り、

それは坂道に限らず、沼地や川を渡る事でも発生する訳だ。

 

筆者はゲームで遊ぶことが多く、

最近のゲームではこうした要素が

よく反映されている点は理解しているが、

そうした効果がゲームであるがゆえに緩和されており、

さほど実感するレベルとは至っていない。

 

それらの要素を踏まえて、

今川義元が討ち死にした桶狭間の位置を見てみると、

前線への補給拠点を兼ねた

指揮をするに最適な場所であったことが伺える。

いわば補給第一拠点の沓掛城から、

桶狭間を経由してそこから前線を支援する形にするなら、

その輸送経路は守りやすく

また素早く前線に援軍も送れる場所に成るのだ。

 

信長の逆転劇の詳細は後程記すわけだが、

今川義元が決して愚かな武将で有った訳では無い事は

知っておいてもらう方が良い。

 

その今川義元は幼名を芳菊丸、そして梅岳承芳と名乗り、

家督相続によって義元と成る。

父は今川氏親で、母は寿桂尼とされているのが基本で、

氏輝の5男であった。

今川氏親は自身の家督相続、

いわば北条早雲とされる伊勢盛時の支援を受けて成し得た経験から、

嫡男以外は出家させる形を取ったとされる。

次男の彦五郎とされる人物に関しては、

嫡男の氏輝が病弱で有ったため出家をさせていなかったとされているが、

氏輝と彦五郎がほぼ同じ時期に急死しているため

同一人物と考えられてもいる。

 

幼少の義元いわば芳菊丸は4歳で駿河の富士郡にあった善得寺に預けられた。

善得寺の住職承舜が亡くなると、その弟子の九英承菊が後を継ぎ、

芳菊丸の教育係を務めた。

この九英承菊が後の太原雪斎である。

承菊(雪斎)は京の建仁寺という京都五山にあたる名門の寺で修行し、

その才覚を評されて氏親の要請で駿河に招き入れられたとされる。

元々の出自が今川家の譜代の庵原氏であった事もあり、

何かと駿河今川との関りも元から有ったとされる。

それほど義元の父・氏親に期待されていた承菊なら、

本来は嫡男の氏輝の教育係と成っているべきだが、

承菊が選んだのは5男の義元こと芳菊丸であった。

 

おそらく承菊は嫡男氏輝が病弱であった点を察して、

これを補佐するより、健康な芳菊丸を育てて、

氏輝が早世しなければその参謀と成る人物に、

早世した際は、その後継ぎとする意味で、

こちらを選んだと思われる。

こうした経緯から氏輝=彦五郎と考える方が良く、

芳菊丸の序列は、氏親の4男で、

その正室寿桂尼との間では次男であったとする方が、

辻褄は合わせやすくなる。

 

太原雪斎こと承菊の下に弟子入りした芳菊丸は、

承菊に従って2度も上洛して修行している。

1525年の最初の上洛は、芳菊丸まだ6歳の時で、

1530年にはその上洛した地の建仁寺で得度の儀式、

いわば頭を丸めて袈裟を与えられ僧侶と成り、

芳菊丸を改めて承芳と成った。

その後、一度駿河に帰国し、

1533年14歳の時、いわば元服に値する年齢で、

今度は京の妙心寺へ赴いて、道号「梅岳」を名乗り、

梅岳承芳と成るのであった。

この間、承菊こと太原雪斎が師として付き添っており、

かなり厳しく僧侶としての鍛錬を仕込まれたと考える。

 

1526年、義元がまだ7歳の時に、氏親が亡くなっており、

この頃に兄・氏輝が13歳で跡目を継いだ。

寿桂尼の存在によって跡目争いはほぼ無く、

無難に事が進んだ今川家だったが、

結局、今川家中の力は寿桂尼に集中する事と成り、

氏輝はその母の傀儡という存在であったと目される。

無論、息子を立派な後継者とする意味で、

寿桂尼は政務を徐々に氏輝に移すようにはしていたように記されるが、

結局は母親の言いなりに動く息子であった点は否めない。

それ故に寿桂尼は氏輝を溺愛していた。

一方の梅岳承芳と成った義元は、

4歳で既に手元から離れており、

ほぼ京と駿河の離れた場所故に、

お互いが合う事すらなかったと言える。

故に寿桂尼の中ではさほどの愛情は無いといえる。

これは寧ろ信長と土田御前の関係でも言える現象で、

母親の愛情が届かない場所で過ごした梅岳承芳も、

ほぼその存在が麻痺した状態であったと言える。

 

1536年にその氏輝が死ぬと、

順当に見えたかの後継者問題が

思わぬ亀裂から生じてしまうのである。

ここからは歴史家が見えなかった実態を

当時の情勢から分析して話を進めて行くものと成る。

記録上で不可解な点は寿桂尼の行動である。

梅岳承芳(義元)が跡目を継ぐことで一致していた寿桂尼は、

花倉の乱で敵方になる福島家と同調して、

玄広恵探の支持に切り替えたという記録が存在する点である。

それらの記録から義元は寿桂尼の実子では無いとする説も浮上した。

ところが情勢を紐解くと、

義元は武田との同盟を望んでおり、

一方の寿桂尼は、

北条との関係で武田との同盟は不義を起こすと考えていた。

政策論争、いわば家族の方針で親子が喧嘩する事は自然な話で、

旅行の行き先で揉めて家族間が険悪になる事も有る訳だ。

こうした関係性から寿桂尼が義元に失望したとすることも考えられる。

また溺愛した氏輝とは異なり、ほぼその成長過程すら知らない次男に、

親としての絶対の信頼を与える事は寧ろ難しく、

猜疑の心すら生じる話でもある。

いわば、

(自分の話が理解できないその次男坊は、本当に自分の子供の芳菊丸なのか?)

と、疑いどこかで知らない子供にすり替えられたのではとも考えそうな話である。

よって寿桂尼としては自分と意見の合致する北条よりの家臣に寧ろ期待し、

実子では無いが、今川家の為にそちらを支持した方がマシと考えた可能性は高い。

 

何故、寿桂尼はここまで北条に拘ったのか?

 

それは夫を愛する良妻の思考ゆえ、と言える。

夫である氏親は北条早雲こと伊勢盛時に多大な恩があり、

その後も北条家の支えと共に今川家の領国経営が成り立っていた。

良妻であるがゆえに夫が大事にした関係を堅持する気持ちも強く、

それが今川家繁栄の条件であると考えても可笑しくはない。

そういう母親は氏輝にとっては賢母である。

故に成長した後も、母の意見を取り入れてこれに従っていたと思われ、

その結果、氏輝の相続は上手く行っていた。

三河の森山崩れと同じくして甲斐の武田信虎の動きには、

北条家と連携してこれを凌いでいる。

無論、氏輝が急死したのはこの直後であり、

北条家を蔑ろに考える事は許される時期でもない。

 

一方の太原雪斎こと承菊は武田との和睦を狙っていた。

そこには北条との関係を切って武田と結ぶという発想では無かった。

しかし現実には2者択一と成る。

甲斐の武田信虎は関東の覇権を狙う北条が敵対する

武蔵の扇谷上杉家と結んでいたからだ。

無論、そうなる事は雪斎こと承菊も承知の上で、

承菊は武田と結ぶ道を勧める。

 

1536年今川氏輝の葬儀で梅岳承芳は

後継者を意味する喪主として参列しているようで

この時点で当主として認められている。

さらには京に人脈を持っていた承菊(雪斎)の計らいで、

足利義晴からの偏諱も賜っており、

義元と名乗る事で、

家中にその正当性を証明する手はずも整えていた。

 

最愛の氏輝の死で、

寿桂尼はその弟の義元に期待したかに感じるだろうが、

人間の本心と言うのはそこまで優しくはない。

愛情の重さは変化する事はあっても、

常に平等とは行かず偏ってしまうところがある。

そうした中で自分の側で成長し、

同じ価値観で理解し合えた氏輝と、

自分から離れて自分の価値観と異なる考えで成長した義元、

母親としての愛情は全く異なってしまう。

 

また母性の本質として、

夫である氏親への愛の継承が氏輝であり、

その愛を継承する意味として夫の今川家を守るという意識に、

母性は働いていく。

その氏輝が死んだ以上、

その母性は今川家という部分に注がれ、

義元が例え自分の実子であっても、

氏親の残した今川家を崩壊させると感じたのなら、

今川家という意識に偏重するのも当然なのである。

 

承菊の手際の良い義元への家督相続は、

寿桂尼も噂通りの才覚と関心したわけだが、

武田との同盟を示唆した事で、

寿桂尼は猜疑を抱いた。

時を同じくして寿桂尼は北条氏綱(早雲の後継ぎ)の嫡男、

北条氏康に自分の娘瑞渓院を嫁がせている。

武田と北条は上記に記した通り、決して相容れぬ状態にある為、

休戦ならまだしも和睦・同盟という話に成れば、

明らかな北条への裏切りと成る。

 

太原雪斎こと承菊の進めていた話は寧ろ後者の話で、

この時点で信虎の娘の定恵院を義元の正室に迎える話まで

進んでいたと思われる。

 

才覚はあれど新参者である承菊を快く思わない人間も居た状況。

いわば承菊は義元の教育係であったにすぎず、

その地位を利用して今川家を自分勝手に操りだしたという印象を与えたのだ。

そこで重鎮で且つ、元々伊勢盛時(北条早雲)に近かった福島正成は、

寿桂尼に、

 

「還俗したばかりの新参者の義元殿では、今川の伝統も理解せず、

北条との関係を蔑ろにして、いずれは今川を危うくする。」

 

と説いた上で、

 

「今川が誤った方向に進む前に、当家(福島家)の姫が残した氏親公の実子、

玄広恵探殿を寿桂尼の養子として迎え入れた上で、

正当な後継者として迎え入れる形を考えて貰えないだろうか…」

 

と、提案した。

寿桂尼も北条との関係を危うくする承菊と義元では、

今川家の将来を託せないと判断して、

福島正成の提案を受け入れた。

恐らく寿桂尼が玄広恵探支持に回った経緯はこういう流れであったと推測する。

ところが福島正成が玄広恵探を招き入れた時点で、

事は発覚する。

 

恐らく玄広恵探の動きを警戒して監視していた承菊(雪斎)が、

福島正成の招きで久能城に入った知らせを受けて、

騒乱の気配を察したのである。

 

と、言うよりもむしろ承菊ほどの才覚がある人物なら、

敢えて不穏な空気…いわば武田と同盟をちらつかせて、

反目に回る人間をあぶりだし、

その反目が旗頭として祭り上げる玄広恵探を

早めに始末する策を考えたとも言える。

手はずを整えて義元を正当後継者としてアピールしておいたのも、

こうした動きが広がる前に圧倒的な状態で治めるためだったとも言える。

 

さらに承菊ほどの人物なら、

今川の柱とされる寿桂尼の存在にも気を使っている。

寿桂尼が北条との関係を重視して、

武田との同盟に納得していなかった事を察していた承菊は

武田との同盟を見直すとした旨を寿桂尼に伝えて、

寿桂尼の影響力を早めに寝返らせた。

 

策士は腹黒いとも思われる事を平気でやる。

寧ろ承菊の腹は、義元の下で今川を盤石な状態にする事であった。

承菊は寿桂尼に

 

「寿桂尼さまの考えを改めて精査すると、

やはり寿桂尼さまのお考えが正しいかと思い、

何卒、今後とも北条との繋がりにご助力頂ければと思います。」

 

そして承菊は

 

「武田との盟約は一度白紙に戻す様に計らうつもりです。」

 

と、寿桂尼をヨイショする形を取った。

そして福島正成と玄広恵探の動きに言及して、

 

「正成殿に不穏な動きがみられるゆえに、

寿桂尼さまの力で何卒説得頂けないだろうか…

今は義元公の下で今川を団結させることが一番大事と考えておりまするゆえに」

 

と、付け加えた。

すると寿桂尼は、

 

「正成殿と玄広恵探殿には私から説得してみます。」

 

と、言って自ら説得に出向いた。

この間、承菊は予め説得が失敗する可能性を考えて、

早めに駿河府中の今川館で軍備を整えてこれに備えた。

 

寿桂尼の説得は無論手遅れで有った。

愛情の重さが変化して、

価値観の異なった義元を一度は突き放したが、

寧ろ自分の価値観を理解された事で義元を息子として認めたのだ。

ところが福島正成からすればそれは身勝手な話でしかない。

一度は認めたはずの話が、反故にされたという事だ。

ここで寿桂尼は福島正成のその本心に猜疑の目を向けるのだ。

いわば今川の家の為と称した福島正成の気持ちは、

実は口実でしか無く、

本心は自身の血族の玄広恵探を跡目にしたかっただけという点に

陥るのである。

正成の腹の内を実際に批難できる話ではない。

日本人は道徳的な見識を勘違いして、

正成の野心的な心を批難するであろう。

しかし誰しも自分が実権を握る方が上手く行くと考えるのが当然で、

その上で今川家の為になるというのは嘘ではないのだ。

結局は誰が義元であり寿桂尼の権限を利用して

今川をコントロールするかの話な訳で、

それが福島正成で有るのか、承菊こと太原雪斎で有るのかの違いなだけだ。

しかし、正成は運が悪く、

むしろ承菊にその野心をあぶりだされただけと成ったのだ。

 

交渉が決裂し、寿桂尼を返すや、

意を決した福島正成と、名を今川良真と改めた玄広恵探は、

すぐさま今川館を急襲した。

寿桂尼の交渉が決裂し、

今川館に軍を差し向けた時点で、

正成と良真は今川の謀叛人と成る。

こうした印象固めも承菊の狙い通りとなった。

予め準備を整えていた今川館は固く守られ、

逆にあっさりと形勢不利に追い込まれて、

元の久能城(静岡市)にすら戻れず、

方ノ上城(焼津市)へ逃げ込み、

その後、花倉城(藤枝市)へと入って態勢を整えた。

 

承菊は説得に失敗した寿桂尼を

あえて頼る姿勢を示して

北条からの援軍を手配してもらった。

そうした細やかな配慮も忘れないないのが

優秀な軍師たる姿である。

 

無論、北条の援軍の必要も無く、

今川の家臣岡部親綱が方ノ上城を攻め落とし、

すぐさま花倉城は包囲された。

遠江で福島らに同調する者も現れたが、

ほぼ難なきを得て鎮圧されている。

 

包囲されて間もなく、福島正成と良真は花倉城を逃げ出すが、

良真は瀬戸谷の普門寺にて自刃し、

福島正成は甲斐方面へ落ち延びた際に、

武田信虎の手勢に捕まって殺されたとされる。

 

一方、その息子とされる後の北条綱成という部将は、

方ノ上城から逃れた際に、援軍に来ていた北条の手勢に捕まり、

そのまま小田原に送られたと推測する事も出来る。

その後、父・正成の敗北の報を受けて、北条に下り、

その勇ましさを評されて氏綱に気にいられ、

その後その一族に招き入れられたとする方が、

流れとしては理解しやすいと思われる。

 

記録上では花倉の乱は

大きなお家騒動に成らなかったものとして考えられるが、

実際に複雑な関係性を紐解くと、

そこには太原雪斎こと承菊の見事な采配の影が見受けられる。

ここまで手際の良い流れで、

かつ寿桂尼に対しても配慮を以て治めたのは、

仏門に精通し、俗世の心情を察する事に長けた手腕とも言える。

当初寿桂尼も疑心暗鬼であった承菊の才に、

事が治まれば圧倒されたと気づくのである。

 

そうした信頼をも勝ち得た承菊は、

再び寿桂尼に相談を持ち掛ける。

いわば武田との同盟の話である。

 

一介の教育係から名僧という印象に変わった承菊の言葉は、

全く別の話として理解できた。

そこで承菊は寿桂尼に説いた

 

「今川と北条の関係は、今川が北条に頼る形では

今川の為に成らず、北条が今川を頼る形こそ、

今川にとっての北条となります。」

 

と、難しく話した。

そして地の利を話す…

 

「北条は武田、扇谷上杉を二方向に敵が存在し、

これに今川が加われば三方向が危うく成ります。

今川は三河、武田と二方向に敵が居るだけで、

力は分散されます。」

 

更に・・・

 

「今川が今為すべきは京への上洛の道筋で、

それには三河と尾張を手中に治めるべきで、

願わくば武田と北条の双方をこの味方とするべきです。」

 

そして…

 

「武田は今戦に疲弊し、盟約を結ぶには最適な時を得ており、

武田が信濃に集中できるのならこの盟約は相互の利と成り得ます。

北条は一時的にこれに反発するでしょうが、

三方の敵に囲まれたと理解すれば、自ずと今川を頼ってきます。」

 

この話に寿桂尼は気がかりな事を感じた。

それは自分の娘の瑞渓院の事である。

既に北条氏康に嫁がせた彼女の身を案じての事である。

そこで承菊は…

 

「寿桂尼さまには今後も北条との間を取り持っていただく形で、

一芝居打ってもらいたいのです。」

 

承菊の言葉は少し解りづらかった。

承菊は続ける。

 

「寿桂尼さまは武田との盟約には反対しているが、

私と義元公がこれを聞き入れずに困っていると北条にお伝えください。

それで北条に嫁がれた瑞渓院さまの身は守られることと・・・」

 

承菊は寿桂尼に今川の内情を瑞渓院に流して、

北条に密偵としての価値を意識させれば良いと話した。

無論、承菊はその辺の演出も上手くコントロールするつもりでいた。

しかし、寿桂尼は、

 

「それでも武田との盟約は考えなおせぬのか?」

 

と、承菊に聞くと、

承菊は

 

「三河は松平清康が亡くなって、今時を得ております。

伊豆からの敵は守りやすく、甲斐からの敵は守りにくい。

故にこの期を確実に得る上では、武田との盟約が必須なのです。」

 

と、そう説明した。

実際に伊豆からの敵は富士山麓で狭くなった海岸線を守り切れば、

これに備えやすいが、

甲斐からの敵は山上から駆け下りてくる形に成るがゆえに、

守りにくく戦いにくいという地の利の話も合った。

無論、駿河から甲斐へ攻め込むには、

山を登って行く分、兵は疲弊して不利になる。

甲斐の武田が攻められにくかったのも、

こうした地の利を得ての事であったと考えられる。

 

ある意味、寿桂尼がこれを聞き入れない可能性も有った。

しかし、その駒となる今川良真こと玄広恵探は既に居ない。

故に無理に逆らう選択肢は無いと言えた。

無論、承菊はそういう失礼な脅しは用いない。

あえて寿桂尼に協力を持ち掛けるのである。

 

「いずれは北条と再び結ばねば成らない故に、

寿桂尼さまにその繋がりを保っていただく必要が有るのです。

京の混乱を今川が平定する為に、何卒、お力添えを。」

 

と、承菊は頼み込むのであった。

寿桂尼も名僧として敬意を持ちはじめた相手の言葉に

信頼を寄せてみる決断をするのであった。

 

1537年武田信虎の娘、定恵院が義元の正室と成る事で、

今川と武田の間で強固な甲駿同盟が結ばれた。

当時武田と抗争状態にあった北条は、今川の裏切りと見て、

これに憤った。

そして甲駿同盟が成立するやすぐさま今川に軍を差し向けて、

富士川以東を占拠した。

これを第一次河東の乱と言う。

無論、富士川を挟んで北条の侵攻を食い止める事は、

承菊が考えていた防戦でも有ったため、

北条側もそれ以西に向かう事は適わなかった。

 

しかし、武田と扇谷上杉と結んで三方向から仕掛けるも、

承菊の予想とは異なり、北条は見事にこれを退けた。

ある意味、北条も富士川を挟んで守りを固め、

寧ろその間に扇谷上杉の当主が亡くなってしまい、

その家中で騒動が起きた隙に、北条は河越城を落としてしまったのだ。

 

さすがの承菊も人の子である。

苦戦を強いられて北条が同盟参加に興味を示すと考えていた目論見は、

まんまと外れてしまうのであった。

しかし、それでも富士川を挟んで北条を食い止める算段は

上手く機能した為、三河攻略へ目を向けられるので有ったが…

武力行使は難しく別の方法に切り替えなければ成らなくなった点は否めない。

 

そこに…逃亡していた松平広忠の存在が飛び込んできたのだ…

 

どうも・・・ショーエイです。

太原雪斎がこんな凄い軍師であったと、

当初は考えても居なかったみたい。

花倉の乱を調べて行くうちに、

色々意味不明な寿桂尼の動向が見られたため、

それらに辻褄を合わせて行くと、

やっぱりこの太原雪斎=九英承菊の才覚に

頼らざるを得ないという事が見えてきたのです。

 

やっぱりそれ相応に評価された人物だけあって、

やっぱりその才覚が生きる場面だったようだという話に成ったわけです。

 

さてと…グチグチ…

 

【学術会議問題…その後】

何とも…国会答弁見ていても何をやっているのという感想。

自信満々に立憲民主党が質疑でやっているが、

追い込むところ追い込めていない。

 

相手=自民党が、

「説明する必要が無い!!」

と逃げ切るのに対して、

「説明責任を果たしていない!!」

と反論した所で…国民にとっては

進展の無い状態を続けているだけにしか見えないという事を、

そろそろ理解した方が良い。

解るよ…正しい事言っているのは…

でも、殆どインパクトのない事。

寧ろその辺はトランプを見習っても良いかも。

 

寧ろ自民党を追い込緒むのなら、

「説明する必要が無い!!」

という言葉に対して、

「それ違法です!!」

または

「それ違憲です!!」

と言い続ける方が、効果が有る。

 

そしてそこに根拠があれば、

トランプの言葉よりも正しく聞こえる。

トランプはそう言い続ける事で、

錯覚を与える訳だが、

それでも効果はある点は今回の大統領選を見れば

理解できる。

しかしそこに根拠を持たせれば、

それ以上の効果が出る話です。

 

【先ず違法性・・・】

任命とはどういう意味ですか?

任命とは「任じる」という行為以外の言葉は有りません。

任命拒否とはどういう意味ですが?

任命拒否とは「任ずること拒否する」という意味に成ります。

選任とは?

選任となって初めて「選出して任ずる」という意味に成ります。

 

法解釈に於いて、当ブログでは、

多重解釈、最大許容という言葉を用いてますが、

意味が通じない言葉をどう多重に解釈しても、

その意味が該当しないものは許容にも入りません。

 

いわば任命という言葉の中に、任命拒否という意味は含まれない訳で、

法文書に「任命する」とあれば「任命」以外の行為は出来ないと成ります。

これを任命するの中に任命拒否という意味が含まれるという解釈は、

そもそも馬鹿な話なのです。

 

学術会議の文脈には

「内閣総理大臣は任命権者としてその権利を有する」

という表記では無く、

「内閣総理大臣が任命する」

という文脈に成ってます。

上記の表現なら、「任命権者としての権利」という言葉で、

その解釈は変わってきます。

しかし、「任命する」とだけある場合、どう解釈しても任命することしか出来ないのです。

任命の言葉の中に、任命拒否という反対の意味はどの辞書引いても出てこないでしょ。

だから任命という言葉にそれらの権利は無いのです。

選任ならば、選ぶという権利がある訳だが、

どうやらその言葉を勘違いしただけのバカの故事です。

 

さて、こうした馬鹿な故事どおりの法解釈を用いた場合、

憲法15条2項に違反した事にも成ります。

 

15条の2では、公務員は全ての国民に奉仕するのであって、一部に奉仕するものでは無い。

全ての国民に奉仕している証明は、

その行為が憲法または法律に従って、だれにも公平である証明があってこそ言えるわけで、

法律、いわば法律としてその公平性を国民と契約したものに反した行為は、

全ての国民に奉仕したことには成らず、

自分の私的なところ奉仕したことと成るのです。

 

どんだけ言葉で国民の為と言っても、

そんな証言はなんの法的効力も有りません。

法律に基づかない行為は

全て違反行為なのです。

いわば国民の信託を裏切った行為なのです。

 

こういう根拠を示した上で、

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と、相手と同じように繰り返し言えば、

寧ろその言葉の印象は変わってくる。

いわば、

「説明する必要が無い!!」

は、黙秘権に成らず、

寧ろ違法性に対して反論できない言葉に成るのです。

 

こうした大衆に与える印象心理作戦が解らない立憲民主党は、

何を頑張ても評価されないだけの話なので、

少しは勉強してくれ!!

 

相手の言葉にイチイチ突っ込んで反応するのではなく、

説明が足りないのなら寧ろ

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と繰り返すことで、

聞いている人にも、

ただ政府の説明不足という意味では無く、

むしろ違法状態のままなんだという印象が強まり、

より追い込める話に成る訳です。

マスコミもそれを聞かされることで、

何故違法になるのかを説明していく議論が生じる分、

根拠があればそれだけ強くアピールできるのです。

 

繰り返しいいますが…

立憲民主党はこういう効果をちゃんと勉強しましょう。

それ出来なければ、国民の期待すら勝ち取れないだけです!!