うつけの兵法 第十二話「人」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第十二話 人】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は上から下を見ても、決してその苦境を理解できない。

一般人が政治家や金持ちに対して感じる様に、

普通に暮らす人が

更なる貧乏人の苦境を理解できないのも当然である。

何故なら人は自己が基準で、

最後は自分で克服するしかないに行きつくからだ。

政治家にいくら格差是正の話を持ち掛けたところで、

最終的には勉学に励んで優良企業に就職して

安定した生活を目指せば良いだけの話と、

結局は匙を投げるしかないのも事実だ。

いわば頑張った人間が報われる社会なのだからと成ってしまう。

ところがいつの時代も同じで、

これが腐敗政治の根本的な問題なのである。

 

下から上を見上げれば、

恵みの雨が全く降ってこないことが見えてくる。

例えるなら上は一人5万円で発注した人工(にんく)事業が、

途中で削り取られて下には1/5の1万円しか落ちてこないという話などがそれである。

上はこれを国費の無駄遣いと議論するが、

下からすれば根本的に見当違いな話でしかない。

 

5万円出すのなら、下に3万円は落ちるのか?

という議論からするべき話である。

その上で3万円は貰い過ぎなのでは?

という話に成れば多少は納得は行くだろう。

下には2万円位で十分な対価と評価できるなら、

人工(にんく)発注額の6割が必ず

一番下の労働者に行くという計算のもとで、

3.5万円程度にしても良いのではという

調整が出来てはじめて意味を為すのである。

 

上から人を見ると、

現代風で言えば

企業が金を持たねば雇用は生まれないという見方になる。

ところが下から見れば、

下が金を使えなければ企業は儲からないと成る。

立場によって都合が異なり、人は自分の都合に近い論拠を採用するのだ。

しかし、実際は両立させねば内需の安定は齎されないのである。

どれだけバーゲンセールの様な事をやっても、

結局余裕のある人間が少なければその効果はさほど大きくはない。

いわば無駄に税金を使っているだけの話にしかならないのだ。

 

沢彦の教育方針は

いわばその下を見るという事に重点を置いたものだ。

平手政秀より、吉法師が農民にも自由を

という話を聞かされた沢彦は、その農民がどういう者たちなのかを実体験させる意味でこの戦遊びを勧めた。

無論、その上で実戦に備えた訓練も兼ねている。

そういう主旨を聞かされた政秀も前例にない事とは言え、

学問として受け付けない吉法師にはそれも一手と認めていた。

と、は言えその分、

政秀は那古野城主としての吉法師の警備も考えねば成らなかった。

 

沢彦は政秀のその悩みを、

逆に人を育てる意味で活用するようにも提案した。

警備、諜報、索敵などの人材である。

これらは戦国時代では

伊賀や甲賀の忍(しのび)と呼ばれる者たちの分野であるが、

後の信長は寧ろ自身にそうした部隊を持っていた為、

彼らを雇い入れる感じはあまり見られなかったと思われる。

 

吉法師が沢彦を訪れる以前に

政秀は何名かの若手を呼び出した。

河尻秀隆、佐久間信盛、そして簗田政綱に、

尾張津島に潜んでいた甲賀者の滝川一益などである。

秀隆と信盛は、吉法師が城外を視察した際にその供回りとして同行した2人である。

政秀はその秀隆に吉法師の警護を任せた。

秀隆ら十数名をは行商人などに変装させ、

吉法師の周りで目立たない様に警護する任務とした。

現代風に言えばSPといった役割だ。

いわば何か事が有ればすぐさま吉法師を守る役目だ。

 

信盛には20騎の騎兵を与え、

吉法師の周辺で少し離れて常時待機する任務を与えた。

警護の河尻らの動向に応じて直ぐに援護に入れる配置であり、

ある意味緊急時に吉法師が無事に逃げれる様に働く役目と言える。

 

彼ら2人の部隊に与えられた試練は、

常に警戒を怠らない集中力を持つ事と、

何かが生じた際の手際の良い対策を講じる事が課題とされた。

この後、河尻秀隆は黒母衣衆の筆頭と成り、

常時信長の警護を任されるわけで、

佐久間信盛は「退き佐久間」と知られる意味で、

いわば殿軍(しんがり)の名人として成長していく。

こうした才覚は一朝一夕で生まれる訳では無く

若い頃からの経験や知識、それに伴う鍛錬が必要であり、

政秀が育て上げた人材として考える方が妥当である。

 

そして諜報担当に充てられた簗田政綱、滝川一益。

簗田政綱は桶狭間にて今川の動向を信長に知らせた第一の功労者とされた人物である。

滝川一益は言わずと知れた名将で、

信長時代に数々の戦功を立てる人物だ。

一益の出自には諸説あるが、

元は甲賀の国人衆滝川家の出自で、

博打を好んで不行蹟を重ねた為、一族から追放された説を採用する。

そして一益が行きついた先が尾張津島の知人の元という事で、

こうした人材を政秀が紹介を受けて登用した。

彼ら諜報部隊には尾張の国人衆、

いわば野武士たちの監視を担わせた。

内情を把握するための潜入もその役割だ。

甲賀忍の諜報術に精通していたであろう滝川一益が、

桶狭間手前の時代まで織田家の表舞台に登場しなかったのは、

こうした任務を受けていた可能性も考えられる。

 

こうした内容は記録として残されていない話であるが、

何故こうした人材が信長の下に集まったかと考えた上で、

年代や年齢など参考に組み立てると平手政秀の功績と考えるのが妥当である。

寧ろ現実的に考えるならそうして育たねば、優秀な人材は生まれてこないのである。

適材適所という言葉あるが、それは寧ろ育った人材に宛がう言葉で

人を育てる意味では「適正適育」という言葉を用いる。

適正適育とは、人は興味を持てば自然と学ぶという心理を活用したものである。

人間の心理で多くの人は、自分の欲しい人材を求める傾向にある。

しかし、それら適材適所と巡り合うのは運でしかない。

大企業ならばそういう運も考慮して考えられるだろうが、

小さな企業では中々難しいところもある。

適材適所で人材を求めると、人は人の短所を見極めていまう。

いわば自分の欲しい人材か否かを定めようとする心理が働くのだ。

これは大企業でも同じで、結果としてふるいに掛けられそのプレッシャーに耐えれた人材だけが生き残っていくシステムだ。

ある意味、そうした中で生き残った人材故に優秀と考えるのが動物の摂理なのだが…実際には媚び諂い、忖度が横行し、上からの命令に従順に従うだけの機械でしかなくなるのだ。

その上に立つ者が優秀で有ればその機械は使いこなされるだろうが、時代を経て世代が代わっていくとその頭脳が劣化していき、過去の前例を参考に判断していくことしか出来なくなるのだ。

今の日本がこの症状に近いと言え、将来の中国もこれに陥る可能性は高い。唐の科挙制が劣化して滅んだものこれが要因である。

逆に適正適育は寧ろ得た人材の中で育てていくシステムだ。

無論、これも大企業で様々な分野が存在する中では有利になる話で、分野が限られてくる業種では難しいかもしれない。

しかし、適正適育では人の長所を見極め、その長所を伸ばすことで

プロフェッショナルを育成していくのだ。

スポーツを例に挙げるなら、ディフェンスとして志望して入った人材が身長が高くヘディングが上手いがディフェンスは上手くないと感じた場合、ヘディングの能力を活かしてフォワードに抜擢するという決断に結びつくのが「適正」の意味。

その上で、本人が相反するポジションのフォワードとディフェンスどちらに興味が持てるかを見極めてより興味の持てる方で伸ばすのが「適育」となる。

人は興味があれば趣味に没頭するように勝手に学ぼうとする。

学ぶうちに自分の能力に応じて向き不向きが自己判断で解るようになり他へも興味が湧くように成る。

興味のない場所で学ばせても、それは勉強でしか無いわけで学習を怠るのだ。

年齢的な制限のあるスポーツ界でそんな悠長な話を用いるのは得策では無いと言えるかも知れないが、学習によって学んだ経験は実は専門的な指導者として育成する事が出来るのだ。

ヘディングという限定された分野に限られるかもしれないが、ヘディングだけを研究したプロフェッショナルは、どういうポジショニングが良いか、どういう体の使い方が良いかを指導する立場として活きてくる訳で、そういう研究を他の選手に伝えさせることで選手の質が向上していくのだ。

「うつけ」である後の信長の兵法では、

自分が「うつけ」=「面倒くさがり」と自認して、興味のない分野は「無知」であると悟った上で、自分が興味を注げない分野のプロフェッショナルを育てていくのである。

いわばサッカーのドリブルに興味は持てても、ポジショニングやらヘディングには興味が持てない。

そうした中でポジショニングやヘディングに興味がある人間が研究してその研究成果を伝えてくれれば、自分が興味なくて気付かなかった部分が見えてくるのである。

実戦で研究され学習によって学んだ知識故に、それは合理的な説明として理解もしやすく実は議論もしやすい。

いわば説明された話に注文を付け、さらに克服できるように考えてもらえるからだ。

いわばヘディングで相手が自分より背が高くジャンプ力もあった場合どうすれば良いのかという疑問を提示した際、プロフェッショナルとして研究する人のプライドから方法を模索してくれるように成るという形だ。

米国ではこうした人材を効果的に使うケースが多いのである。

自然と考え方の価値もプライドに対する意識も異なってくる。

アジアや特に日本では、指導者に逆らう事は失礼と思われがちだ。

いわば黙ってい言うとおりにしろという事で話が終わってしまう。

それ故に教わる側からの指摘に対して、指導者としてプライドが傷つけられたと考えるのだ。

そしてその指導者の学習は実はそこで止まってしまうのである。

ある意味、知識から得ただけの指導ゆえにそれ以上にどうしたら良いかが考えられず、その新たなる知識を探し求める面倒な作業を押し付けられたと思う心理が働くのである。

ところが学習する方は自分が気付かなかった事を指摘され自分が足りなかったというプライドでそれを克服しようと考える。

ほぼ趣味の事ゆえに、研究する労力を厭わないのだ。

研究する過程の話ゆえに、他の知識を探すことは有る意味カンニングするような意味でその作業も趣味の範疇になる。

カンニングしたからそれで良いという話では無く、プロフェッショナルとしてのプライドから自分なりのアレンジまで考えようとするのだ。

人間の能力を最大限に引き出す意味では、そういう人間の方が遥かに効率よく機能するという事である。

単純に「適材適所」と「適正適育」を分別すると時間軸での長所、短所がそれぞれに見られるが、実際に効果面で考えると全く別物である。

いわば「適正適育」を用いた上で「適材適所」を用いなければ、結局は知識の枯渇によって衰退していくだけという現象であり、向上しない組織になるという話なのだ。

信長が自身の考え方の正当性を合理的に理解するのは、本能寺の変の手前の晩成に入るころだろうが、政秀が齎した環境で有り、信長自身の性格から自然とそういう合理的な組織が形成されたといえる。

信長が「天命」を受けたというのは、それが知らずとして合理的な機能を齎すという効果ゆえの意味でもある。

まあ、言い方を変えれば、「うつけ」=「おおちゃくもの」故に無駄な努力を嫌い、好きな事に没頭したいという性格が齎した他人任せの思考とも言える。

それ故に他力本願で有る事を自認し、他人に感謝する事も忘れず、また他人が働きやすい環境を考える才能に溢れていたのも事実で、実際にそこが信長の魅力と成っていくのである。

実は漢の高祖「劉邦」の魅力も同じであったと言え、それ故に賞罰に対して公正な形に気を使っていたのである。

日本人はこうした他力本願の英雄を嫌う傾向にあるが、実際に働くと考えた場合、自分の能力を最大限に活かせる場に成る訳で、小さくとも必要とされる環境は、最高の労働環境なのではと気付いてほしい。

 

と、は言え信長の興味は、かの諸葛孔明と同じところにあった故に、軍師要らずの人間であったことは、この小説の中で徐々に解説していくものとする。

 

さて、平手政秀という存在が信長にとって偉大であるとする所以は、

彼が信長の為に育てた人材が如何に優秀な形で成長したかを裏付ける話となる。

後の弟信行との間で分裂する織田弾正忠家に於いて、

林秀貞、柴田勝家らといった父・信秀側の人材は、

殆どが弟の信行に付いている。

また奇行の目立つ信長に

真面な家臣なら寧ろ従わなかったとも考えられる。

それでも信長に従ったのは,

寧ろ政秀により信長の為に育てられた家臣であったと考えるべきで

結果としてそれら家臣の方が、

信秀の側近であった家臣より優秀であったから、

弾正忠家の御家騒動で勝てたとも言える。

無論、信長自身の才能も寄与するところだが、信長自身が自身の才覚を最大限に活用できるのはそうした優秀な人材合っての事と自負しているから、寧ろそうなのであった。

 

また、家臣団の勢力図として劣勢に立たされたはずのそんな信長に忠誠を誓う気持ちが生まれたのは、彼らが長年、信長を守るという事に従事した情が有ったと考えられ、その情が忠誠という形で桶狭間でも活きて行くのである。

 

そうした体制で自分が守られている事など知る事も無く、

吉法師は沢彦と共に那古野の城下…

城下と言うより農村集落の那古野村を訪れた。

 

沢彦は那古野村の悪ガキが集まる野原…現在の名古屋駅辺りとしよう・・・そこに連れて行き、吉法師に、

 

「あそこに仲間に出来そうな悪ガキがおるで、兵隊としてまず誘ってみなされ。」

 

と、言って少し離れた場所で腰かけた。

吉法師たちは言われるがまま意気揚々とその悪ガキの群れに向かって行く。

悪ガキの群れには30~40人位集まっていた。

悪ガキ達は木の棒を以て半分に分かれて戦ごっこに乗じていた。

沢彦は吉法師に身分を隠すように言いつけたが、吉法師は恐らく忘れているだろうと思い、興味深々でそれを眺めていた。

 

(さて…若殿がどうするものかな)

 

そこに行商人に化けた河尻秀隆が近づいて、

 

「殿に何か有ったらすぐに助けに入って良いですか?」

 

と、沢彦に秘かに聞いた。

沢彦は、

 

「いや、喧嘩が始まっても動かれるな…ただし集団で動いた場合は喧嘩の仲裁程度に入って下され…ただし吉法師様の身分だけは決して触れない様に。」

 

と、指示をだした。

秀隆は、「御意」と沢彦の側で控えた。

 

農村の悪ガキに近づいた吉法師はいきなり、

 

「おい!お前ら仲間に成れ。」

 

と、命じるように言い放つ。

まだ、世間を知らなすぎる少年吉法師に身分を隠すという話は難しすぎる。

そんな突然の不遜な態度に農村の悪ガキたちは

 

「はぁ?!何言ってんだ!!」

 

と反発した。

 

「俺は那古野の吉法師ぞ!!」

 

命令に従わない相手を見て吉法師はカッとなった。

既に沢彦の忠告を忘れてしまっている。

ある意味、本当にうつけに見える話だ。

無論、吉法師の供回りの岩室らも相手を農民と見下している分、吉法師が名乗りを上げて命令した事には不思議に感じていない。

まだ12歳の少年ゆえに、仕方のない事で、

現代の子役として大人社会で芸能活動している同年代とでは、演技力も違うのは当たり前と見るべき話だ。

寧ろ、気づいてか気づかなくてか「那古野城主」と名乗っていないだけ沢彦の忠告を守っていると考えてたかもしれない。

 

すると農村の悪ガキの一人、後に新介と名乗る少年が吉法師の前に出てきて、吉法師の肩を突いて挑発した。

新介は吉法師より2つ位年長であり、

ガタイも少し大きかった。

肩を突かれて吉法師は大きくよろめいて倒れたのだ。

 

「なんだ弱そうじゃないか!!」

 

と新介が言うや、周りの悪ガキ達もそれを見て大笑いした。

吉法師のとっては生まれて初めての屈辱だったかもしれない。

 

それを見た沢彦は秀隆に、

 

「秀隆どの餅をあの人数分調達してここに持ってきてくれまいか?」

 

と頼んだ。

秀隆は、

 

「如何にして?」

 

と、聞くや、

 

「これから若に交渉術を教える為じゃ。」

 

とだけ言うと、秀隆は直ぐに動いてその場を離れた。

すると沢彦は悪ガキたちに向けて大声を上げて、

 

「おーい、悪ガキども!!」

 

と、急ぎ足で近づいて行った。

悪ガキどもは坊さんが説教しに来たと思い一瞬退散するかのように動いたが、

 

「おーい、ちょっと待て面白い話を聞かせてやる!!」

 

と、少し優し気に声を掛けると、退散しようとしたガキどもは足を止めて、沢彦が近づくのを待った。

恐らくその悪ガキの番長格であった新介は、

 

「坊主が何の用だ!!」

 

と、声を掛けると、

吉法師と新介の間に入った沢彦は、

 

「喧嘩ならもっと面白い勝負を教えてやる。」

 

と、言った。

倒れた吉法師は岩室たちに抱きかかえられるように起き上がり、

 

「沢彦!!刀を返せ!!こいつら切り殺してやる!!」

 

と、言い放つ。吉法師はある意味世間知らずのお坊ちゃま状態だ。

沢彦は吉法師のそういう性格を読んで割り込んだのだろう。

無論、こうした心情で農民に負けたまま放置すれば吉法師は暴君に育ったかもしれない。

記録上の話で、吉法師が実際に城下で遊んでいた事は明白であるが、その身分をどうしていたかは定かではない。

無論、身分のまま農村の子供たちを従えて遊んでいたとする方が道理としては話しやすいが、この小説ではその辺は少し脚色して進めるものとする。

 

吉法師の怒りに任せた言葉に沢彦は

 

「刀を使うか!それでは公平な勝負では無いぞ、そんな勝負に勝って嬉しいか?」

 

と、吉法師に聞くや、

悪ガキども番長格の新介に

 

「これらはワシが寺で預かっておる熱田の町民の子らじゃ…どうじゃ少し面白い喧嘩で決着付けて見ぬか?」

 

と、提案した。

沢彦はあえて「喧嘩」と言葉を用いるのだ。

喧嘩という言葉を敢えて用いる事で「仲裁」ではないという意識を相手に与えるのだ。

いわば始まった喧嘩の延長として決着をつける話にしたわけで、喧嘩という言葉を取り消せば相手に「喧嘩を止めるように」と聞こえてしまうからだ。

喧嘩をしている両者は心理上で頭に血が上っており、その行為を否定されても部外者に関係な話として不満を抱くのである。

寧ろそういう心情ゆえに「喧嘩のやり方が面白くない」と諭す方が冷静に話を聞きやすくなる。

これは外交上のテクニックでも活きてくる。

戦争をする両者に戦争を止めさせるため、その戦争を批難しても中々止めないのだ。

いわば両者には既に戦うだけの理由があるから、その理由は他者には関係が無い。

パレスティナとイスラエルの問題など一度戦争が始まれば止める事が難しく成るのはそういう事である。

力で停戦を捻じ込む事は出来るが、結局両者が抱える遺恨は消えないのだ。

吉法師は今農民が逆らったという心理で農民に対する遺恨が芽生えた状態だ。理由は理不尽な事でも吉法師の怒りがこのまま放置されればより根深い話となる。

沢彦が優秀なればこそ、この心理の流れを予め察することが出来るわけで、実際にはまだ些細な状態と放置されがちになる。

そこで沢彦は決着を上手くうけさせる方法を用いた。

 

先にも話したプロフェッショナル。

沢彦は僧侶として仏門に使える身として、和の研究に没頭していた人物と伝えよう。

故に如何に人間の争いが醜いかを知り、それを拭い去る難しさも心得ている。

そういう研究から効果的な方法を見出せるのであった。

 

沢彦は「仲裁」という形を成立させるには、「停戦」が適う方法を適策と考えるのである。

それは「引き分け」を引き出して冷静さを取り戻させる方法である。

決着を付けさせると寧ろ負けた方は不満を抱いで遺恨が残り、その猜疑心が仲裁者に向けられることにも成るのだ。

先ず双方が冷静さを取り戻して一旦引いて考える機会を得る上では、双方が引ける心情を考慮しなければ成らない。

 

そこで沢彦は2番勝負を提案するのだ。

決着をつける3番勝負では無い。

1番目に農民たちが勝ちやすい「相撲」

2番目に吉法師が有利に成るだろう「棒剣勝負」

とした。

 

当の子供たちは相手の器量など知らない為、全て勝てる気でいる。

それ故に案外と簡単に話が纏まった。

そして3人づつ代表を出して、それぞれの勝負で決着をつけさせたのだ。

 

相撲のルールはこの当時土俵は無かったと考える。

いわば倒したら勝ちで、土俵から出すルールは無い。

相撲と言っても柔道に近いとも考えられ、

投げ飛ばす方法は自由だったと言える。

言うまでも無く、相撲勝負は吉法師たちの完敗である。

唯一の勝者は一番の相撲上手で体が大きかった岩室の一本だけ。

吉法師はあえて新介と対戦して、簡単に負けている。

負けた吉法師は大いに悔しがり、その執念を棒剣勝負に向けた。

 

沢彦は棒剣勝負にルールを用いなかった。

剣道の様に一本取れば勝ちでは無く、

寧ろ「降参」が条件だ。

勿論、生死に関わる状態なら止めることも考えていたが、子供同士故にそこまでには至らないとも踏んでの判断である。

 

佐久間盛重の教えで痛みに強く育てられた吉法師らは、棒剣試合では圧倒的に強かった。

寧ろ農民の子らは多少の痛みには耐えれても、

継続して受ける痛みには弱い。

いわば殴られ続けて我慢できることは出来ないのだ。

ある意味ボクサーはボクサー同士KOされるまで戦い続けるが、そんなボクサーに素人が挑めばKOされる前に謝ってしまう。

ある意味、そういう勝負と成った。

結果、2本目で勝負は付いたが、沢彦は大将戦となる新介と吉法師の勝負を敢えて取らせた。

いわば全体の勝負で相撲が1対2、棒剣試合が2対0だったことも有る。

更には吉法師の執念を察してか、負け続けた新介との勝負を決めさせる必要性もあった。

それは沢彦が吉法師に抱く教育上の都合とも言える。

寧ろ吉法師がここで負けても勝ても相手の器量を認めるという教えに結びつける為だ。

負ければ自分の弱さを自覚させ、

勝っても相撲で負けた時の相手の強さを認めさせる。

そういう考えだ。

 

新介のガタイは年の差もあって吉法師より一回りデカい。

普通なら相撲で負けた相手故に怖気づくところだろうが、吉法師は武家としてのプライドが先行して農民相手に苦渋を飲まされた意識があり、剣さえあればという気構えで全く動じていなかった。

と、言うより寧ろ殺伐とした雰囲気で新介に向かっている。

一見、吉法師には農民を差別した意識があるようだが、あえて言うなら当然の話で農民が武家の自分より強い事が許せないのである。

人間のプライドというのは育った環境で育成されるもので、そのプライドは人間に根強く残るのだ。

人種差別などが社会的に根絶しても、人間の意識に芽生えたら中々消えないのはそういう摂理もある。

それは黒人が白人に対して身体的な優位性を意識するプライドも同じで、白人は経済的、頭脳的な部分でそれに対抗しようと感じるのも無理はない。

これは日本人と韓国人、中国人の間でも同じである。

社会的な差別がない状態では、それぞれの遺伝的優位性が認められて勝負するしかない世界なのだという意識を双方に植え付けていくしかない。

吉法師のそれは、身分的な優位性のプライドで、農民を人間として見ない意味とは違う。武家として決して負けては成らないという意識なのだ。

 

そういう意識の中、勝負が始まるや、

吉法師は先ず新介の籠手に突きで一撃を浴びせる。

剣道の籠手の取り方とは違い、最短で突く…

ボクシングのジャブを浴びせるように相手の持ち手目掛けて先手を取るのだ。そしてそのまま相手の顔面に目掛けて突きを更に加える。

殺人形式の剣術である。

吉法師は剣術を習う中で、

最短で相手を行動に不能にする方法を独自で編み出している。

新介は一瞬で不利に立たされた。

しかし、降参しなかった。

吉法師は降参しない相手に容赦なく、突きで殴打する。

棒を振り回して殴るより、

突き刺してピンポイントで痛みを与える方が効果的な事を吉法師は知っていた。

見るに残酷な仕打ちである。

脇腹であり、局部であり、相手が苦痛に感じるところ狙って、残酷なまでに甚振る。

それでも新介は降参しなかった。

吉法師に従う岩室らは、むしろ吉法師を怒らせたその農民を笑った。

 

(若に剣を握らせて怒らせたら最後だ…)

 

その状況を見かねた沢彦は流石に吉法師を止めた。

 

「若!!」

 

余りの鬼神ぶりに動揺した沢彦はそう呼んでしまった。

 

「相手は人ぞ!!もう十分であろう!!」

 

すると吉法師は、

 

「こうれは勝負ぞ!!相手が降参せねば我がやられる!!」

 

と、手を休めることなく沢彦にそう言い放つ。

沢彦は今度は新介に降参するように勧めるが、

新介は、

 

「降参はせぬ!!」

 

と、意地を張った。

沢彦は再び吉法師に、

 

「その者を殺すつもりですか?!!」

 

と、聞くや

吉法師は、

 

「降参せねば、止むをえまい!!」

 

更に殴打を強めて、本気で殺しに掛かった。

野生の殺意を感じたのか、

さすがの新介もそれには恐怖した。

本当に殺される…

そう…既に喧嘩では無く、殺人の域に達し始めた。

周りの農民の子らもその仕打ちに寧ろ助力しようと構え始めた。

しかし、岩室らもそれを察して身構えて、

鬼の形相で彼らを睨め着けると、

先の2本で見せた勢いも有って、農民の子らは足が竦んだ。

新介は既に気を失っている。

沢彦は吉法師を制止してでも止めるべきだったろうが、沢彦の勘がそれを阻止した。

いわばその勘は吉法師がこのままどうするかを見極めねばならないと諭したのだ。

すると農民の子らの一人が吉法師にひれ伏す様に頭を下げて。

 

「新介をもう許してあげて下さい!!」

 

と、吉法師に向かって嘆願した。

それに呼応するように他の子らもひれ伏した。

身分が農民で有る分、屈する事にはプライドが無い。

性格と言うより寧ろ親から受け継がれた処世術というものだ。

その姿を見た吉法師はようやくその手を止めた。

怒りに任せて相手を甚振っていた様に見えた光景が、

あっさりと冷静さを取り戻して手を治めたのだ。

沢彦は殺すまで止められないとも思っていた。

しかし、あっさりとその殺意が消えた事に驚いた。

 

(心の底は見えぬが…若殿は尋常な人間ではないな・・・)

 

すると吉法師は沢彦に

 

「相手は降参したという事か?勝負は終わりだな。」

 

と、聞くや、

農民の子らが先に、

 

「降参します!!」

 

と言ったので沢彦は、

 

「勝負は終わりです。若の勝ちです。」

 

と勝敗を認めた。

吉法師は内心殺したくは無いと考えていた。

しかし、殺さねば次は自分が反撃されると感じて手を止められないのである。

それ故に誰かが明確に終わらせてくれることを願っていた。

ただしそれは相手の明確な敗北でしか許されない。

人間の思考は自分本位である。

自分が決して相手に屈する事が無いと覚悟していた勝負に、相手も自分に屈しないかもしれないと考えるのが吉法師の思考に有ったのだ。それ故に隙を与えれば必ず反撃に転じるという恐怖が過るのだ。

結局、そういう勝負になればどちらかが死ななければ終わらない。

故に降参をしないなら殺すしか方法が無いのだ。

無論、内心では人を殺したくはないのも事実だが、降参しない以上、相手は常に自分を殺しに来ると警戒するわけだ。

戦争や戦いは道徳では計り切れない。

殺らねば殺られる。

屈服しないものは常に寝首を狙ってくる。

結局、吉法師であり後の信長の思考はここに陥るのである。

逆に相手に屈するのなら死を選ぶというのが、自信のプライドで有り、屈せず常に相手を狙う執念も自認していたのだ。

それ故に激情なまでも敵に対しては鬼に成れるのだ。

 

信長の本性は女性である。

体が男で、心は女性なのだ。

かといって男に興味があるわけではない。

寧ろ気丈夫というより気丈婦であり、女好きの女性とでもいった方が良いのか。

たとえ体が女性に生まれようとも、神の子以外は身ごもるつもりがないほど、気高い意識のある女性と言える。

いわば神と認める相手以外に異性として興味を持たない人という感じだで、それ以外の相手に恋愛感情すら抱かないし、いかなる要求にも屈服しない。

故に男として生まれたら男の性は全うされる。

 

難しい説明に成るが、

男性としての寛容さは薄く

女性としての気高さが濃い人間と考えてもらえば良いのかも知れない。

 

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

 

後世にこう評された信長の性格は当たっている。

しかし、人が考える残忍な意味の「殺してしまえ」とは違う。

鳴かぬなら鳴くまで攻めるのが結果として「殺してしまう」の意味なのだ。

 

故に農民の子らは殺す前に「鳴いてくれた」と判断したのだろう。

内心、吉法師は殺さずに済んだことに安堵した。

しかし気絶した新介を見て、

 

「沢彦…こいつは生きてるか?手当してやってくれ」

 

と、不思議な程人が変わった。

二重人格とも思われる感じだ。

まるで人命を何とも思っていない冷酷な少年にも感じられる吉法師だが、寧ろ戦国時代の武家に生まれた子としては当然で頼もしい。しかし一度矛を治めたらその命を無駄に殺傷する事は好まない。

沢彦はそこを見極めたのだ。

 

(戦の世に敵に情を掛けるは自らを危うくするが、一度屈するなら人としての情を持ち直せる…暴君では無く名君の器と言えるか…)

 

現代人で普通に道徳心を持つ人にはこれだけ説明しても解りにくいかもしれない。

沢彦が「勘」で見極めたかったのは、人を殺める事を楽しみとして残酷な仕打ちに出たのか、それとも真剣勝負という命がけの勝敗の中でただ気を許すことなく勝負に没頭した結果なのかという部分で、矛を治めた姿勢を後者と評価したのだ。

 

沢彦が新介の様子を見るや、痛いたしいほど首などに痣が出来ており危うく死にそうでも有ったが同じ場所を何度も入れておらず、寧ろ気絶してから急所を外した形跡も見られ、それらを分析して何気にどこかで殺すことを躊躇していたとも感じられた。

沢彦が新介を揺さぶって起こすと、新介は直ぐに意識を取り戻した。

 

意識を取り戻すや新介は

 

「勝負はまだ…」

 

と、言いかけるや、

沢彦は、

 

「戦なら死んでおる…お主の負けじゃ」

 

と、新介の負けを諭した。

それを見た岩室は、

 

「あいつまだやる気かよ・・・」

 

と、少し驚いた。

吉法師は勝った喜びに暮れることなく、ただその新介を見ていた。

死んでいなかった事に少し安堵したのか・・・

普通なら勝敗が決まった時点で喜ぶものだろう、しかし吉法師は勝負に勝てた喜びなど微塵も感じないのである。

寧ろ負けなかった事への安心感だけといえる。

真剣勝負で負けられない意識だけで戦った結果、相手を殺しそうになったほど、いわば心として苦戦したと感じたのだ。

 

そうした中、秀隆が餅を用意してその場に訪れた。

秀隆は商人を演じた状態で沢彦に声を掛けた。

 

「沢彦殿、ご注文の品をお持ちしましたぞ!!」

 

それを聞くや沢彦は吉法師や農民の子らに向かって、

 

「ほら皆の者、餅を用意した…全員で食っていけ!!」

 

と誘った。

農民の子らは思わぬ出来事故に戸惑ったが、

 

「ほらお前らの分も有るから、喧嘩の手終いに食っていけ」

 

と、声を掛けると喜んでそれに応じた。

そして気絶していた新介に、

 

「おい、一人で立てるか?」

 

と、聞くや新介は大丈夫と言わんばかりに立ち上がった。

立ち上がるや吉法師の側に行き、

 

「おい!死ぬかと思ったぞ!!」

 

と、言うや、

吉法師は新介に

 

「そうか…死ななくてよかった。強いな」

 

と、返した。

二人はまだ打ち解けてはいないが、沢彦に招かれるように秀隆の用意した餅のある方へと向かった。

 

どうも・・・ショーエイです。

とりあえず緊急で書いた文章は

物語を連続で投稿する意味で削除します。

 

とは言え、マスク不要とは言わないけど、

マスクに拘り続けて現実的に対応しやすい方法を考えれないのは、むしろ無駄な話と言えます。

面倒だと感じる方法を幾ら促してもハッキリ言って意味が無いのです。

いわばそんな面倒な事したくないという話に成るのです。

ならば簡単に口を覆うだけでも対処できるやり方を浸透させて、最低限の対応で乗り切る方が賢明なのではという事。

でなければ結果営業時間短縮のみならず、

ロックダウンして外出禁止にするしか方法が無くなる。

 

マスク以外の方法に反論した所で、結果として無意味な状態が継続すればより面倒な状態に成るという計算まで出来ないのかな?

故にアホと言えるのです。

 

人を馬鹿にした言動はどうかと思う人も居るだろうけど…

日本政府が馬鹿の故事を演じた以上、

これを馬鹿とするのは文学上当然の表現で、

その故事を理解できない人は間抜けというしかない話です。

間抜けは間が抜けている=拍子抜けという意味で、

まあ、理解力の無い人間で拍子抜けする人と言えば適正な表現に成るのかな?

腹立てるのは勝手だが、

日本はいわばそんな悠長な拍子抜けした議論をしている状態じゃないのだよ!!

日本がドンドン世界規模で落ちぶれて言っているのを、いつまで意地張って頑張ろうとしているのか?

頑張るところが違うんじゃない?

理研が富岳でスパコン世界一に返り咲いたという話で、理研が頑張てっても、間抜けな議論はそういう人達の足を引っ張るだけ。

間抜けでないならスパコンより次は量子コンピュータの開発でしょ。

量子コンピュータが登場したら、スパコンレベルはゴミなのだよ。

 

これは安倍政権の時も同じ。

アホの語源は、劉備の玄ちゃんの息子、阿斗こと劉禅から来ている訳で、国を亡ぼす2世皇帝=世襲政治家に対しての引用でもある訳です。

言っちゃいけないという表現では無く、

文学上の表現としてこの現象をアホと言うしかないでしょ。

 

口が悪いとか言われも知らないです。

アゲアゲで話してもこの国は世論が盛り上がるだけで、国はドンドン沈むのです。

まあ、悪く言っても無駄なのかも…

 

時代の流れは…

ハイブリット<EV(電気自動車)

電子コンピュータ<量子コンピュータ

軍事開発<宇宙開発

ですね。

日本の議論は全部古い方に傾いている。

脳波でコントロールするドローンに驚いている場合じゃないよ!!

脳波観測技術が進むと、VRなんてゴミになる。

アニメのSAO(ソードアートオンライン)の様な世界に近づいているのだよ。しかも、それMade in Chinaで・・・

アイデアの原案は日本で紹介されたのに、

技術は中国に取られるとか情けなくない?

アイデアは日本人だからと言って誇っても、

日本の経済的には何のメリット有りません。

中国製になればその特許権で

中国企業がその権益を得るだけなのです。

 

そういう開発をするのに日本は金がない。

そういう金がない状態にしているのは誰のせい?

中国が悪いの?

韓国が悪いの?

アメリカが悪いの?

それは日本でしょ!!

ちゃんとよく考えましょう。