うつけの兵法 第十八話「神童」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第十八話 神童】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

科学的に様々なものが立証されようとも、例え宇宙の始まりを知れたとしても科学者たちが必ず行きつく疑問があるという。

誰がこの仕組みを生み出しているのか?

いわば神という存在でも認めない限り、自然のメカニズムは正に合理的すぎるからだ。

そういう意味で見えざる大きな力を肯定して考えてみると、

諸葛孔明と織田信長が同一の魂であるという事を伝えておこう。

無論、この話はこの小説でもしている事だが、殆どの人が信じていないだろうとも言える。

2人の大きな違いは、成長過程のトンネルの長さだ。

信長はある意味領主の子として領地を引き継ぎ、それから勢力を得た。

一方の孔明は、里を追われて各地を転々として、劉備に出会うまでは天下の事など妄想でしかないという状態で生活していた。

トンネルとは苦労の長さで、出口が目ない限り暗闇で進み続けるしかないものだ。

信長のトンネルは合ってない様なもの。

治水工事を手伝っているにしても、結局はいつでも投げ出せる。

一方、孔明は投げ出せば生活を追われる時期が長く続いたとも言える。

故に、同じ魂でも信長として経験する底辺の気持ちは、孔明ほど深い場所に行きつけていなかったとも言える。

苦労すればするほどより多くの苦難から経験を得られるが、苦労が少なければ少ないほど浅く理解した気になり、隔たりを生むのだ。

また苦労する故にそこから脱却するために知恵を絞り、向上心の下で多くの事を学ぼうとする。

人はこの苦労が無いと思考が停止して学ぼうとすらしなくなる。

年配の政治家や実業家がパソコンを使いこなそうとしなくなるのも結局はこういう事である。

自分が出来なくても、誰かにやらせればいい…

そこが分かれ目に成るのだ。

 

結果として信長は天才であっても万物の現象いわば森羅万象を知った量は孔明に及ばなかったと言える。

 

逆を言えば、孔明と同じ様に苦労の下で森羅万象を知る意識が有れば、孔明を越える事も十分に有りうる話として伝えておこう。

 

それでも今吉法師が入り込んだ抜けられないトンネルは沢彦のプレッシャーによって生み出された。

故に何とか苦痛から解放される方法を3っ日間考えた。

再び「敵」の話である。

苦痛を感じている最大の「敵」は単純作業で飽きが生じる事だ。

そこで己を垣間見て、飽きないでやっていられる状態を見つめ直した。

まあ、最初の10分程度だろう…

残りの飯の時間までは苦痛でしかない。

苦痛を感じると正直動きも鈍ってくる。

そうした中で「あそこまでは頑張ろう」という目標を定めてやると、そこまでのモチベーションは保てることに気づいてきた。

いわばジョギングをする人なら同じような発想をした経験があるのではと言える。

別段、特別な発想と言う訳でもない。

そうした発想を促す意図があってか、沢彦は子供たちに、

 

「お前らの作業ペースではやっぱり足手まといかのう・・・?」

 

と、皮肉を言ってくる。

故に子供たちグループで何とかペースを維持して作業しようという思考は働くのだったが、苦痛は苦痛でしかない。

目標を定めて、目標に達した際の褒美に値するものも考えた。

ただ「休む」という褒美も考えてみたが、それだけではやる気は回復しない。

投げ出してしまう事も考えた。

勿論、武家の子が態々やる作業ではない。

大人たちが背負う義務という逃げられない環境ではないのだから。

 

それを理解してか、沢彦は更に

 

「この程度の仕事も出来ないという事は、武家の根性は農民には敵わぬという事かもな…」

 

と、あえて煽るのだ。

道徳的に差別は良くない事だが、

プライドを刺激する部分では大事な心理作用を齎す。

ある意味、バスケットボールで黒人に負けたままではいられないという思考を以つ白人が、その自身のプライドを努力の目標として抱くことは悪い事ではない。

その上で最終的に目標にたどり着いた際に、黒人も白人も関係なくチームメイトとして同じフィールドに立てれば、それは差別ではないのだ。いわば対抗心を抱く気持ちと、差別の分別が付いていればいい訳で、劣等感から対等へ、対等から先は優越感では無く特別感…

いわば目標を達して対等に成った時点でそこから先は人種では無く自分自身が特別だったと意識する事だ。

それを白人の方が黒人よりやっぱり上と感じるのは間違いだという事だ。

 

吉法師らは沢彦に根性という言葉で武家のプライド刺激された。

沢彦は那古野の城への帰り道、武家の子たちだけに成った時にこうも言った。

 

「農民に根性で負けるような武家が、その農民の一揆を防げるとおもうか?」

 

沢彦はそう言って吉法師たちの精神的な逃げ道を塞ぐのであった。

吉法師ら武家の子供たちは武家の仕事ではないのだからと割り切ろうとも考え始めたが、沢彦の言う様にあの農民が一揆を起こして向かって来た時に逃げ出してしまうような武士には成りたくないとも感じた。

ましてや初陣を控え武家の子として初陣を認めてもらう様に成りたいと願う吉法師には、沢彦の言葉は大きな意味を持つ。

 

「負ける武将には成りたくない!!」

 

それ故に吉法師の思考は投げ出すという選択を排除して、如何に苦痛に立ち向かうで働き始めた。

もっと大人たちを圧倒するようなペースで驚かせる。

そういう優越感を褒美の代わりのモチベーションで思考し始めた。

 

吉法師の思考は強欲である。

 

「子供でも大人に負けない様に・・・」

 

いわば自身が初陣した際の事を想定し、農民の大人に勝てない状態は子供の自分が戦に勝てないと危惧するのだった。

 

さて…天才の発想はそこから傲慢といえば傲慢になってくる。

 

吉法師は楽しい事をしている…遊んでいるときは日が暮れてしまうのが早い事を思い出した。

これが発想の転換である。

 

「楽しくやれればあんな作業は楽勝なのか…」

 

遊ぶと沢彦に叱られるが、遊びを取り入れて作業効率を上げれば沢彦にも文句を言わせない。

そこでいかに遊びと作業を結びつけるかを考えた。

 

4日目、吉法師は桶、桶と言っても直径1メートルくらいのものだが、それを一人が倒して縦に持ち、それを的に、皆で石を投げ入れて遊ぶようにして見た。

沢彦は最初それを見た時にまた遊びだしたと思って注意したが、

吉法師は、

 

「この方が作業が早い!!」

 

と言い返して皆にそれを続けさせた。

大人たちは石を拾っては桶に持って行って、再び石を拾う動作で作業していた。

子供たちは桶から外れる事は多々あるも、遊び半分で石を投げ入れて行くうちに、桶の周りに十分な量の石が集まる。

それがある程度の量に成ったら皆で拾い集めて桶を満杯にした。

結果、大人たちの作業より早く桶が埋まるのだ。

川の生地は余計な石を取り除き、土壌状態にしてから杭を打ち込み、そこから堰を作っていく。

大きな石より手のひら位の石が多い。

故に子供でも投げれるレベルだ。

ときおり見かける大きな石は、流石に大人たちが処理した。

無論、その大人とは金森可近と沢彦が吉法師たちについていた訳だが…

 

吉法師の言うがままにそれを見ていた沢彦は…

 

(成程…遊びながらも効率を考えての事か…)

 

と、驚いた。

真面目な可近は大きな石を担当する傍ら、吉法師らが埋めた桶の運搬もかってでていた。ある意味吉法師の作業には可近と数名の武家のものが作業を手伝っていた状態である。

こうした光景は戦国の世ではかなり異質な状態といえるが、流石に若殿が作業しているのに何もせずに監督だけしている状態は不忠に感じたのだろう。

吉法師らのペースは徐々に速く成り、農民の大人たちより効率よく作業し始めた。

遊び始めたと感じていたが、吉法師たちのやり方を観察して効率よくまた飽きる状態も無くなって作業が進んでいくことに可近は驚いた。

 

いくつかの石を拾って桶まで歩いて持って行くより、投げてでも桶の近くに貯めた分を拾い集める方が移動距離が短く成る分、効率が上がると見えた。

最初の内は農民の大人たちもペースを維持してやっていた分、差は見られなかったが、時間が経つにつれてそのペースにも差が出る事が見えてきたのだ。

大人たちは徐々にダラダラと歩調も鈍りだしてペースが落ちてくるが、子供たちは遊び半分でやっている分、ペースがほとんど落ちないのだ。

そこで可近は桶を縦にして持っていた吉法師の仲間内の一人にあえて横にして寝かせさせて、

 

「若…どうせならこの状態を的にして、この中に石が上手く入る様に練習してみたら如何ですか?」

 

と、提案したのだ。

吉法師も、

 

「おお、それも面白そうじゃな」

 

と乗り気になり、今度は桶を寝かせて玉入れのような形で作業し始めた。

沢彦はその様子を見て、吉法師らと一緒に玉入れ作業をやってみた。

 

(成程…これは良いかも知れん…何気に楽しいな)

 

と、その効果を実感した。

 

小説や漫画などの物語では、神童が何でも思いつく存在に描かれるモノだが、実際に神童は全てを与えるわけではない。

実際は、大人の発想を導き出す切っ掛けを不思議と齎す子供が神童なのだ。

吉法師の遊びの発想から、可近がアレンジしたやり方を思いつき、そして今度は沢彦に大人たちも同じように楽しめる方法を思いつかせる。

大人の発想を不思議と導き出す子供を神童と呼ぶのだ。

無論それに気付ける優秀な大人があって初めて神童は活きてくる訳で、そこを子供あつかいしているだけの大人では、神童はただ単にかわいい子供でしか無くなるのだ。

吉法師の齎した閃きの切っ掛けは、沢彦にも伝播した。

 

(これを組みに分けて競わせるのも面白いやも知れん…と、成ると…褒美には昼飯のオカズでも出してみるか…)

 

5日目 沢彦は可近に、大人たちを10人一組に分けさる提案をした。そして各組が積み上げる石の山を固定して、子供たちも含めてどの山が昼までに一番早く積み上がるかを競わせるように提案した。

そして褒美には上位5組には100%白米の握り飯を、更に上位2組には鳥の丸焼きのおかずを出すように勧めた。

可近もそれを採用して、5日目の作業が開始された。

無論、どういう風に作業するかは各自のやり方に任せていた。

ところが子供たちのペースに圧倒され始めた大人たちは、その子供たちのやり方を自然と真似し始めて効率を上げて行ったのである。

いわば効率がいい子供たちの遊び的な作業をしてても許される事を察し始めたという感じだろう。

 

生真面目な人間は仕事で遊んではいけないと考えがちだが、それは見た目だけの姿勢であって、効率が上がるのなら本来は遊びながら作業しても良いのだ。

合理的に見た目だけ真面目にやってても、効率悪いなら無意味と考える方が良いのだが、それを監督する人間も、作業する側もお互いが気を使って踏み切れない部分でもある。

Googleの様な会社では寧ろこういう遊びの中からという考えで作業でも様々な形が優遇されているという。

無論、携帯を弄って遊んでいるという非効率なやり方は論外であるが、作業効率を促進する遊びは大いに取り入れる方が良い。

 

吉法師が齎した発想は、大人たちの作業効率も向上させて、工事は予定より速いペースで進んで行った。

また、沢彦はさらに可近に大人たちのバランスを上手くコントロールするように提言して、毎日組み分けを変えて、誰もが上手く褒美にありつけるようにも調整させた。

そうしておくことで褒美に有りつけないモチベーション低下を抑制したのだ…いわば今日はダメでも明日は褒美を貰えるかもという期待で。

 

吉法師も現場で作業をしながら、沢彦のやり方を実際の経験と、実務的な効率を見ながら学んでいった。

沢彦が自慢たらしく、

 

「どうじゃ…こういう風に褒美で競わせると、人間は良く働くじゃろ」

 

と言う言葉に、

 

(確かに楽しく働いて、作業も早くなる…)

 

と、理解をしていくのだ。

 

治水を統括する大工の棟梁は最初は足手まといに成ると思っていた若殿だったが、結果として予定より早く川べりの生地が進んだことに、

 

(こんな現場は始めてだ…こりゃあの若殿はただモノで無いな・・・)

 

と、その神童ぶりを認めるのであった。

寧ろ堰の木材加工の方が遅れを取り始めた感じである。

 

無論、棟梁以外にも吉法師たち存在に誰もが好意的な印象を抱いた。

ある意味こうした人工(にんく)仕事は労役の様な印象もあった当時に、吉法師のお陰で楽しく働くことが許されたと言えるからだ。

また、そういう吉法師らと昼飯のご馳走を掛けて競争する事で、お互いが親近感を抱く雰囲気も醸し出した。

単に競争する感じの労働でも、半分玉入れ遊びで競技の様な感覚を齎した分、仕事の活気も全く違うものに成った。

こうした環境が許されるのも吉法師が那古野の城主であり、吉法師自らがそういう方法を許しているからだ。

故に共に働いた大人たちは、吉法師を領主として歓迎するのであった。

 

吉法師と領民の結びつきはこうした出来事から生まれたと言える。

資料には無いと言え、何かの切っ掛けでもない限り、領民と領主の対等な関係など築けるわけもなく、そういう絆があってこそ吉法師であり信長は城下を安全かつ自由にウロウロ出来たと言える。

 

数週間後…川の生地が済むと、沢彦は

 

「そろそろお前らは子供としての本業に戻ろうか」

 

と、吉法師たちに言った。

その言葉に吉法師は、

 

「子供としての本業とはなんじゃ?」

 

と聞くや、

沢彦は、

 

「遊びじゃ…戦遊びの事を忘れたわけではあるまい?」

 

と言うと、吉法師は思い出したかのように、

 

「そうじゃ!!その為に村の連中と約束したのだった」

 

最初は面倒な石拾いも、徐々に色々な成果が上がる感じが寧ろ楽しく感じてきた頃合いだった。

それは吉法師のみ成らず、他の子らも同様に感じていた部分でもあった。沢彦が齎した実習教育の効果と評価しても良いだろう。

また単なる労働では無く、前述の通り大人たちとの競技の感覚で挑んでいたこともあり、そうした感じで勝つための試行錯誤も楽しめた要因である。

更なる効率を求めて子供たちは分業制を敷くなども思いついた。

いわばコントロールの良い人間の近くに石を集めて、そのコントロールの良い人間が確実に桶を狙って入れて行く。

外れが少ない分、桶も確実に貯まりやすい。

いわば後で周りの石を入れ直す手間を極力省けたのだ。

バスケットボールのシュートの上手い人間にシュートをガンガン打たせるという作戦の様なものだ。

 

こうした発想はこの後の石合戦でも活きてくる。

投げるのが上手い奴に石を手早く渡して投げさせる。

そうする事で素早くより正確な投石が効率よく生み出されるのだった。

 

石合戦で長篠の戦いの鉄砲三段撃ちが生まれたのではという説はよく見かけるが、そもそもが連射性のみを追求した考えであるゆえに、実は信長の本意には近づけていない。

信長が用いた三段撃ちの原理は、射撃の上手い人間に連射させる効率を考えたものである。

連射だけで考える歴史家は、3千丁の一斉射撃と、1千丁の連射の違いが全く解っていない。近年50~60年三段撃ちの説が様々に唱えられているが、全く的を得ていないのも不思議なくらいだ。

3千丁の射撃で、1500発しか当たらずに、次の充填時間を待つよりも、、正確に射撃できる千人に絞り込んで、900発確実に的を得る方が、効率的に同じ時間差でも2700発近くは命中することに成る。8割の800発だとしても2400発、7割でも2100発と、効率はそれでもいい計算に成る。

いわば、上手い射手が連射できるようにと考えた効率である。

そういう意味で、ここでの話の応用で、バスケットボールの上手いシューターにボールを集めてガンガン打たせるという様な事と一緒なのだ。

閃きや発想は知らず知らずの経験の積み重ねで、徐々にアレンジを加えて変化していく。

筆者があえて川の石採り作業から、石合戦へと結びつけたのは、発想が生まれやすくなる過程を伝える為と考えて貰っても良いが、信長の才能を逆算していくとこうした流れである方が資料に基づく信長像と合致するという事は言っておこう。

 

川の生地が終わった翌日、沢彦は吉法師たちを清洲橋より少し上流の川べりに連れて行った。

そこには那古野側と反対の清州側に住む子供たちが集まっていた。

戦遊びの宣戦布告は簡単だった。

無論、那古野村の新介たちはそれを知っていて反対側の清州側の子供たちに石を投げて挑発すれば開始する。

川を挟んで、最初は石合戦から始まる。

そして活きのいい子供は木の棒を持って川を渡って攻め込んでくる感じだ。

そして最終的に負けを認めた側が退散すれば終わる。

そうすると自然とその川べりはそこの地域の子供たちの縄張りと成っていく感じだ。

清州側の子供たちは以前から那古野村の子供たちと争って、その場所を縄張りとして独占していた。

 

川を挟んで最初は石合戦で相手に向かって石を投げ合う。

そしてしばらくすると木の盾と棒を持って川を渡って切り込んでくるのが出てくる。そこからは棒合戦の殴り合いに成っていく感jじだ。

どうやら清州側にはその棒合戦の強者が居たらしい。

 

無論、小学生の年長組…いわば12歳前後の那古野村の子供たちに対して、清州側の子供たちは中学生、15歳位の集団が混じっている相手と言ってもよい。

沢彦はそれをちゃんと知りつつ吉法師たちをそれに向かわせた。

 

はてさて…石合戦の戦法だけで勝てる相手ではないような勝負なのかもしれない…

 

どうも…ショーエイです。

最近あまりグチグチ言わない感じにしてますが…

本当にグチグチ言いたくなるような世の中である事は、

多分多くの人が感じている事と思います。

 

色々このブログでは予言に近い話で的中させてます。

コロナウィルスの日本変異種登場も言ってるし…

ただ予言では有りません。

寧ろ、危惧して起こりうる可能性を言っているだけなので、

それが的中しちゃうレベルだと、どうなの?って感じです。

 

人の意見を纏まるのはとても難しい作業です。

様々な思惑やら、危惧などが入り乱れて、

情報は複雑な形で入ってきます。

ただ、未知の状態にあるものは全てが仮説でしかないのです。

それを自分の都合で一方の情報を定説として受け止めると、

間違った方向に進むことに成ります。

 

科学的見地でという言葉…吉村大阪知事は勘違いしているけど…

仮説なのか確定した定説なのかを明確に把握しなけば科学とは先ずかけ離れた話でしか無いという事。

変異種の傾向に関しても…まだ仮説段階が殆どです。

コロナウィルスの特性に関しても、

変異がどうこで治まるかは解っていません。

それを希望的観測の仮説に寄り添って考えると、

仮説が間違っていた場合、取り返しのつかない事に成ります。

 

基本的には危惧する仮説を払拭していくように対応するのが賢明と言えます。

その上で指示する事も、科学に要請する事も明確に出せます。

 

以前の作品「炎獄」でギリシア神話のアーテナーをキャラクターに入れ込みましたが…

そのアーテナーの名言「絶対なる勝利を…」

絶対なる勝利とは何であるか…

これを考えて見るべきです。

常に勝ち続けることは有り得ない。

特にスポーツを見てたら

「絶対なる勝利」は不可能と考えてしまいます。

でも…勝敗では無く、優勝という目標が勝利とするならば…

日本ではソフトバンクが4連覇したりという形で達成されたりもします。

 

絶対の勝利というのは

大局を見据えて何を勝ちとするかが大事なのです。

一回の試合の勝敗に拘るのは愚者の発想。

大局は何を守って何を得る為に戦うのか…

一般的に言われる目標を明確に定める事です。

その上で落としてもいい勝負には策を用いて敵を躍らせ、

落としては成らない勝負には万全の体制でそれに挑む。

そういう姿勢が絶対なる勝利を齎すのです。

ただ矛盾の話と同じで、

絶対なる勝利同士が戦ったら?

それは最高の勝負の舞台であり、

どちらが勝っても絶大な賞賛を受ける者であり、

負けても誇りを得られるそういう勝負となり、

それを演じ大衆を奮起させたという勝負が勝利の条件ならば、

歴史的には両者が英雄として名を刻む意味での

勝利を得る事と考えてもいいと思います。

 

アメリカ今何をもってアメリカの勝利とするべきか?

中国に軍事的、技術的に勝つ事なのか?

否!!

アメリカは世界を一つに纏め上げて勝利とするべき事で、

国連加盟国すべてにアメリカをその盟主として称えてもらう事です。

それを為すのは力では無い。

世界にアメリカの自由と平和を守るという意識を持たせることです。

アメリカ大統領を守るのではなく、

自由の女神を守る為に、世界が団結する事こそ、

アメリカの絶対なる勝利なのです。

トランプの様にアメリカ・ファーストでは、各国も自国民ファーストの意識が生まれて結果、アメリカは利益を失うだけです。

アメリカ・ファーストの中では、

日本人ですら、アメリカの大統領やアメリカ国民を守るために行動する意識は生まれません。日本人の優先順位はアメリカ国民より下に感じる心理が生じるからです。

でも、自由と平和を守るという世界共通の意識ならば、

各国の国民の優先度は対等であり、

同じ価値観共有して守るという意識で各国の結束力も強まります。

民主制をまもるという限定されたものでは、制度の異なる国に対しては仲間外れにされた疎外感をその国民の半数以上に植え付けます。

 

中国でも民主制を望む人は半数位いるかも知れません、しかし残りの半数は現状維持で満足していると考えた場合、民主制の為に国を分断するかと言う議論で、内戦でも発生すれば彼ら民主制を望む人たちの生活は脅かされます。

そいう現状心理の中で、民主制を望んでも民主制で無い国の人として生きる人たちは、民主制の国から仲間外れにされる疎外感を感じます。

しかし、自由と平和というものであれば社会制度は関係なく、誰もが抱ける希望です。

民主制を望んでいなくとも、自分の生活を保持するのに自由と平和は絶対条件です。

故に彼らにも疎外感を与えずに共有できる意識に成ります。

 

これはダライラマに向けて言った事ですが…

(実際にチベットの団体に話した事で、それ以降、かれはチベットの政治を他の人に渡しました。)

ブッダは自分が一国の王族である以上、他国に如何なる言葉を用いてもそれは策略にしか成らない事に気づき、その上で国を捨てて出家の道を選んだ。

一人の哲学者の言葉として説くことで、異なる国の人の心も救えるようになった。

これが正教分離の原点で、ブッダはそれを実践していたのです。

 

オッサン先生も僕も、

宗教に属する事はありません。

それ故にキリスト教徒とも、イスラム教徒とも、仏教徒とも、哲学として彼らと話すことが出来るのです。

そして其々から哲学として学び彼らの信仰を尊重できる。

その中で共有できる感性が「自由と平和」なのです。

その「自由と平和」を基軸に、様々な人種と様々な宗教、様々な思想が共存共栄できる国がアメリカ合衆国であり、

この形を尊重し守る事が世界の目指す場所なのです。

アメリカ合衆国を守るのではない!!

アメリカ合衆国がモデル化した「自由と平和」の世界を守り、世界全体でそれを元に団結して行こうという話です。

そしてこれが最終的にアメリカ合衆国が得る絶対の勝利なのです。

 

絶対の勝利とは…歴史的な意義として、

アメリカ合衆国が誕生し国として政治的、経済的に成長した事が、世界人類が一つに成る事を導いたという事です。

この勝利を逃せば…寧ろアメリカ合衆国はローマ同様に衰退していくだけの単なる時代でしか無く成ります。

 

30年後なのか、それとも100年後なのか…

トランプの様な愚か者が危惧する衰退という状態をそのまま引き起こすのか、それとも世界から大事にされる国際社会の象徴として残り続けるのか、何れかの選択肢はアメリカ国民に委ねられますけど…