うつけの兵法 第十五話「誤算」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第十五話 誤算】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は熱田の加藤家から出資を受けて治水工事の費用は捻出できることに成ったが、まだまだ問題はあった。

前述の通り、清州との境界に流れる庄内川を利用するなら、清州の承諾も得ねばならなかった。

とりあえず熱田を後にした吉法師らは再び那古野の政秀の下に帰った。

そして資金捻出の報告をすると、

政秀は、

 

「若、今回は勉学という名目で致し方ありませんが…」

 

と、前置きして、

 

「治水で今回は600石増えるとして税はその7割で…」

 

税率7割とはとんでもないように思える。

秀吉の時代に太閤検地が行われた際の税率が66%であったというから、当時としては当たり前だ。

現代でこそ白米を炊いて食卓に上げるのは当たり前な話だが、戦国時代は基本麦飯である。

米は武家が食する物で農民は麦飯という感じであった。

麦飯の中に3割でも白米が混ざっているなら贅沢品だったといえよう。

とは言え米はある意味高級品であった為、税の残りの3割でも他の作物に比べれば高く売れたと言える。

 

現代で水田を持つ農家の生産量がおおよそ平均で15石位で、今の様に効率化された技術の無かった時代ではせめて7~10石位であったと推測する。

10石生産出来たとして、7石が租税で、3石分が農家の取り分である。

3石では3人が一年食べる量で、1農家の家族構成は2世帯として考えてもの5~10人で、3石では食うに足りない。

しかし水田の3石分であれば10石分の小麦や大麦を買うのに十分な量であったと考える。

 

では、1反=1石で、10石分の10反がどれ位の広さだったか…

先にも話したようにサッカーフィールドの広さで約6反位。

そう考えると大体陸上競技場のトラックを含めたフィールド内が当時の1農家が生産できる範囲だったといえる。

 

ただし現代の様に農業は個人経営が出来るものでは無い。

いわば村単位で農業生産の企業という形に成っていると考えた方が良いだろう。

その村の社長は村長ではなく領主である。

租税7割という形に成っているが、寧ろ村全体の生産量の3割が村民への給与と考えた方が解りやすい。

五公五民という言葉もあるが、税率50%は理想で有り、寧ろ太閤検地で66%であった点から逆算すれば7~8割の租税が普通であっと考えた方が良さそうだ。

そうした中で後の信長は33%位の租税に減税しているという記録もある。

 

農業は村単位の共同作業であったと考える。

那古野村の様に庄内川から水を引かなければ水田が作れない場所では、寧ろ小麦や大麦の栽培が中心で、大豆や野菜などと合わせて一年中何かが採れる状態で賄っていたと言える。

鮮度や旬が大事な作物はほぼ毎日かまたは最低でも毎週納税されなければ成らない。

納税という良いかたといより生産物を納品すると言った方が解りやすい。

米とは違い、保存が効かないこれらの品物に対しては納税率は収穫物の半分であったとする可能性も考えられる。

 

とは言え半分でも恐らく村全体で分けて食べるにギリギリだったとも考えられ、畑作農家は米農家に比べてかなり貧しかったとも言える。

それ故に那古野村の農民たちは水田が少しでも欲しかったのだろう。

 

政秀は租税の話をつづけた。

 

「年貢として得られるのは420石ですな…」

 

政秀の講釈はまだ続く

 

「1石が大人一人の一年分の食料の値である事はご存知ですね。」

 

吉法師は

 

「ああ、それは習ったから理解している。420石も有れば、420の兵が雇えることに成るのだな…」

 

と、答えると

 

「まあ、420の兵の食料は得られますが、兵が420増えるわけでは有りません。誰でも簡単に武家に成れるという訳では無いので。」

 

と説明し、

 

「ただし戦に成った際に、一年なら420名、半年なら840名の兵は徴兵できます。」

 

更に政秀は、

 

「那古野村にはおおよそ500戸あり、一戸に老若男女が6,7名は住んでおり、3000人が暮らす村です。しかしそれでも兵として徴収できるものは恐らく500か600が限界。いわば石高が420増えたとしても兵の数は増えるわけではないのです。

 

政秀の講釈に吉法師は疑問を感じた。

そして、

 

「では、何が問題なのだ?」

 

と聞くと、

政秀は、

 

「600石の水田を新たに得るという事は、その見た目の石高では弾正忠家の兵が420名増えた様に見えるのです。清州の大和守家とは色々とあってそれをやすやすと認めるとは思えぬという話です。」

 

大人の駆け引きとは、対抗心の有る中では自分が得しても相手が得をすることは許せない。寧ろ自分だけが得をしたいという力が働く。

少年吉法師にはまだそんな面倒な駆け引きは解らない。

寧ろ純粋にお互いが得するなら良いのではという考えだ。

 

「そういう事なら清州も同じ堰(セキ)から…」

 

前に話したのと同じことを言う前に政秀は、

 

「それは考え申したが、420石は大きいのです。」

 

現代人の感覚で420人兵が増えるというのは微々たるものに思えるかもしれない。

しかし、後に尾張を統一して今川と戦う際に5000の兵を集めるのに苦戦した時代である。

まだ、織田家としても伊勢守、大和守、弾正忠家と分かれて睨み合う状態では、420といういう数値は些か侮れない。

無論、兵数が420名増加する訳ではない点は先にも述べたが、見た目の許容量がそれだけ増えるのだ。

 

そこで吉法師は、

 

「成らば年貢の半分を清州に与えてやれば良い。」

 

吉法師からすれば那古野村での約束さえ守れれば良かった。

自分が優秀だと証明するような考えは寧ろないため、面子だけの話なのだ。

政秀は吉法師の言葉に迷った。

いわば沢彦が言う様に、

勉学の為に治水とはどういうものかを知る機会とするなら、それでも良いと思うのだが、弾正忠家の戦略上の都合で考えるなら清州にそれをタダでくれてやるという話は問題にも感じるのであった。

そこで政秀は、

 

「その件に関しては大殿(信秀)に相談してからにします故、しばし我慢なされよ。」

 

と、吉法師に伝え、

 

「自らの面子を保つために利を捨てるというのは愚者の考えですぞ、以後は決して為されない様に。」

 

とも釘を刺した。

吉法師の考え方は実際には子供らしい発想なのだ。

政秀が言う様に、子供の発想で面子を保てれば何でも良いという事を本来は許すわけにはいかないだろう。

普通の大人ならそう考える。

しかし、失敗を踏まえて何かを学べるのならと考えると、寧ろ興味深いと感じた。それは沢彦がそこで何かを教えるのだろうという期待もあったからである。

政秀は吉法師に釘を刺しておいて、その沢彦の顔を見た。

沢彦は「大丈夫」という表情で政秀にうなづいた。

そして政秀はそのまま席を立って、信秀の居る古渡へと向かった。

 

吉法師が信長へと成長していく過程で多くの大人が係わることに成る。

そうした大人たちの知識や知恵、そして悪知恵に至るまでを吸収する事でその才能を開花させていくのである。

特に吉法師であり信長という人物は、自分勝手が許されたことで早い段階で覚醒を迎えるのだが…

常識から逸脱した奇行でも有った事から、その代償に家中を纏めるのに苦戦した事は言うまでもない。

しかしこの治水工事というイベントが後の信長の治世の礎を築く大きな糧と成る事をしばらくを費やして伝えて行くものとする。

無論、これは史実には記載も無い出来事であるが、信長の発想の原点を探る上で必ず無くては成らないものという観点で重要視する者である。

いわば、天才と言っても人間であり、発想に基づく切っ掛けを経験の中で会得せねば、決してその発想には結びつかないのである。

長い人生で苦悩を重ねれば、何れは発想するだろうとは言えるが、早い段階で知恵を得る機会に恵まれたのなら、その発想はそれだけ早く生まれる。

エジソンの言う1%閃きが早ければ早いほど、99%の努力をする時間はそれだけ長く費やせるということである。

その中で成功と失敗を繰り返せる体力、いわば資金力であり研究費に恵まれていれば完成に近づくことはそれだけ早く齎されるのである。

信長はそのいずれにも恵まれていた。

同じように他の人間も恵まれていたなら、その人間が信長の様な才覚を発揮したかもしれない。

それ故にそれを得られた定めは天命なのである。

天命の有無は天寿を経て知りうる所であり、人は決してそれを諦めるべきでは無いという事は伝えておこう。

 

古渡へ向かった政秀は、学問に興味を持たない吉法師が寧ろ実践的な学びに興味を示している事に些か安堵した。

面子の為とは言え、これを期に領主として政治に興味を持ってもらえればと何とか成就させたいと考えていたのであろう。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

今日は愚痴を言うのも呆れている現状に愚痴を言うだけで終わります。

 

さて、今回の話で出てきた麦飯。

実際に100%麦飯を皆で食べてみたわけですが…

実に不味いです。

モチ麦と品種改良されたものでも100%はキツイ。

でも、戦国時代の農民はこれを食べて飢えをしのいでいたんだと思うばかりです。

確かに3麦:米7なら食べれて、モチ麦の食感はちょっと新鮮と言えます。

でも、ほぼ毎日100%の麦飯で米の飯食べたら、確かに麦飯は食えなくなる。

如何に米が美味しいのかを痛感した感じです。

 

ところが麦飯、米ほどの量を食べなくてもお腹一杯になることには気づきました。

オッサン先生はビールを飲むとお腹が膨れて量を飲めないと言ってますが、麦にはそういう効果があるようです。

実際、炊く前は米粒と同じ大きさなのですが、米より水分多めで炊くので大きさは米の倍に膨れ上がります。

不味いけど飢えをしのぐには最適だという点には気づきました。

 

麦飯以外にどんな食べ方があるかを色々考えた所、

もう一つは小麦粉で作るうどんかな。

うどんと言っても細長いうどんではなく、多分小麦粉を水で練り込んで、塊にしたものを刃物で削って茹で上げる食べ方なのかな…

 

よくいう刀切麺というやつ。

何れにしても米を食べれない粗食という位置づけなので、美味しいとは思えないが今度作ってみます。

 

因みに麦飯…小豆と混ぜて赤飯みたいにすると美味しいかもとは思います。

また麦飯には塩気が欲しいと感じるので、

お漬物などと食べると意外と100%でも食べれる気はします。

 

それでもやっぱり米は美味しんのだな痛感します。

 

日本は米食だと歴史の時間に教わっていますが、

那古野の地形を見ている内に安土の話と同じで

水源は何処?

という疑問が生じたのです。

そもそも現代並みに米が溢れているのなら、

麦飯なんてものは存在していなかったはずなのです。

現代の名古屋城の堀は江戸時代以降のものであると考えたなら

他に川らしい川は存在しない訳です。

そんな状態でどうやって水田を作るのか?

明治に入った状態でも、貧しい人は麦を食べていた位なので、

戦国の世では

ほぼ農民は麦飯といった麦食であったのは

間違いないでしょう。

 

そう考えるなら米は戦に出た際のご褒美としての位置づけは

十分に有りうる話に成ってきます。

 

麦飯を食べて確かに米食べれるなら

戦場に行くのも有かなと感じた次第です。

 

現代は何とも恵まれた時代かな…

そりゃ平和ボケした老害もたくさん出てくるのも仕方ないのかな…

日本に限らず…アメリカのトランプみたいなのも含む話で。