うつけの兵法 第九話「森山崩れ」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第九話 森山崩れ】桶狭間へのカウントダウン 残り15+10年

〔ドラフト版〕

 

清康の孫、家康と信長、そして明智光秀の間で生じた

奇妙なエピソード先に話しておこう。

多くの人にも聞き覚えのある話で、

明智光秀が信長に足蹴にされて、

それが本能寺に繋がったと言われるエピソードだ。

現代でも良くある出来事なので知っておくといい。

信長が腹を立てたのは光秀が出した料理ではない。

いわば明智光秀ほどの人物が

そんな粗相な料理を出すとは思えないのである。

寧ろ、料理自体は完ぺきなものであった。

ところが光秀は当時上品とされた京風の味付け出しており、

薄味に慣れない家康は一瞬、顔をしかめて見せたのだ…

信長は寧ろそこは気にしなかった。

ある意味、家康の口に合わなかっただけと察した。

しかし、その表情を光秀も見逃さなかったわけで、

信長の目…いわば信長が

その些細な表情も見逃さないことを知っていた光秀は家康に

 

「京風の味付けにした故に、徳川殿の口に合いませぬか…

こちらの手違い故に誠に失礼いたしました。」

 

と、家康に謝罪したのだ。

普通の人は光秀の謝罪に何の問題も感じないかもしれない。

現代の日本では光秀は誠実に謝罪したのだから、

何に問題が生じているか解らないだろう。

 

ところが信長は

家康は何とも言えぬにがにがしい表情を浮かべたのを見逃さなかった。

信長はここでキレたのだ。

そして信長は光秀を睨め着けて、ため息をついた上で、

家康にこう説明した。

 

「京は内陸で、長年荒廃した状態であった故に、

塩が貴重品らしくてのう…それ故に薄味が当たり前の様だ…」

 

そして同じ出された品を口に入れて、

 

「まあ、慣れればこの生臭い味も悪くないが…

味としては貧相に感じるやもしれぬ…まあ、楽しんで下され。」

 

と、家康に伝えた。

別段、ブチ切れてその場で光秀を足蹴にしたかは別であるが、

信長が光秀を政治の舞台に呼ぶことは

以後無くなったのは言うまでも無い。

そこで光秀は自身の評価が落ちた事へ苛立ちを感じたのかもしれない。

無論、信長からすれば足蹴にして叱責してもいいほどの失態である。

 

普通の人は何でも謝罪すれば許されると思っているが、

サービス業でも同じだが、

客人に恥を掻かせるような行為は、

謝罪では無く侮辱なのだ。

信長からすれば

それなら何の謝罪も要らなかったという考えで、

寧ろ光秀の謝罪は、

「家康殿は田舎者ゆえに都会である京の味は解らない」

と、伝える意味を与えたのである。

故に、信長は京は貧乏くさい故に薄味なのだと、

寧ろ家康の心情を察してフォローを入れたのだ。

 

因みにここでは「慣れれば生臭い味も悪くない」と、

京風の味付けを否定もしていない為、

京をあからさまに侮辱している訳では無く、

寧ろ客人である家康への心遣いが優先で言っているのだ。

 

この事件を新聞の見出しの様に記すと、

「信長激怒!!生臭いといって光秀を足蹴に!!」

と言えてしまい、足蹴りしてなくても

光秀の行為をを一方的に否定した意味の「足蹴り」とも書けるのである。

 

こうした見識の違いから生じる人間関係のズレは、

「森山崩し」の中でも有ったと言える。

 

清康が進軍を開始したのは、1535年の12月であった。

記録上では12月3日(旧暦)に岡崎を出発して、

12月4日には守山城に着陣している。

西暦で言うと、12月29日に森山崩れと成っているため、

12月27日に出立、12月28日に守山に到着である。

 

さて、気になするべきはこの日付。

12月後半と言えば、寒さも厳しく、雪が降っても可笑しくない時期である。

米の収穫期が一段落を得た時期でもある。

岡崎市から守山城のある名古屋市守山区までは、

現代の自動車のルートで計っても大体32キロほどの距離がある。

 

8千人の軍規模でこれを移動するとしても、

武家の人数は多くて2千人、残りは農民から徴兵された足軽である。

 

マラソン選手なら45.195キロを、2時間半位で駆け抜ける距離で、

一般男性で完走できる平均が4時間半と考えると、

さほど遠くは感じないかもしれないが、

実際に歩くと成るとかなり遠い。

しかし、一両日掛けての進行であったのなら、

冬の寒空の中でも、

早いとも遅いとも言えない普通のものと考えられる。

 

清康は前もって攻め落とした、岩崎城(愛知県日進市)と、

品野城(愛知県瀬戸市)から先発隊を出して、

守山城近くに布陣の準備をさせた。

数は、岩崎城からの1千を工兵として布陣に当たらせ、

時間差で遅れてくる品野城からの1千に増援としての伏兵という形で、

その防衛に…

そして本体が到着する頃には8千人規模の布陣が完成している状態で、

守山城に面した。

実際に8千人は大きくサバ呼んでの数値だとしても、

半分の4千人でも大掛かりな人数と言える。

 

一方の守山城はほぼ60m四方の規模の城で、

サッカーフィールドの半分位の大きさと考えればいい。

その規模で考えれば農民兵を入れても

城内に入れるのは500人前後であったと言える。

城を攻める基本的な人数は城兵の倍以上有ればという所なので、

4000人の兵が有れば十分すぎる話に成る。

 

清康が冬場のこの時期を狙ったのは、

寧ろ敵の援軍が来にくい状況を考慮しての事かも知れない。

それでも援軍は二日以内には到着すると考え、

敵の援軍と対峙する部隊に3千、城の攻め手に1千と考えれば十分である。

敵の援軍より先に地の利を得た場所に布陣できれば、

いわば勝算は大きくなると言える。

 

信秀がこの事態で急遽兵を徴収できても2000~3000が限界と見切れた。

また、更なる増援となる場合も、清州の大和守家が関与せねばならない話で、

それ以上は厳しく時間を有するとも踏んでいた。

記録上には、弾正忠家と反目状態にある織田藤左衛門が清康の軍を招いており、

ここで清康、信秀両方が雌雄を決する状態に成れば、

むしろ信秀は弱体化する事と成り、藤左衛門寛故は漁夫の利を狙えるとも言えた。

また更なる増援という部分でも、大和守達勝が絡む話に成っており、

那古野城の件で信秀の父・信定に煮え湯を飲まされた両名にとっては、

信秀を弱体させる好機としても考えられた。

清康と藤左衛門寛故の話はそういう部分で調整されていたと言える。

 

さて、ここで三国志演義並みの計略用いて話を進めるものとする。

まず、離間の計である。

清康の運の悪さは、策士が敵に居たというよりも、

策士が味方に居り、そして自分の反目を支持していた事だ。

 

冬場の行軍に於いては様々な弊害が生じる。

それは物資の運搬である。

先に述べた様に、兵士は身軽に2、3日の食糧を携えて目的地に向かえば、

それで十分な速さで着陣できる。

しかし、その後に軍需品である矢、そして兵糧、

また冬場であったため薪などが追い付いて来なければ、

寒さで兵は凍えてしまう事にも成り、

布陣に影響が出る。

 

記録上では岡崎を出立してから3日目の早朝に

事件が起きたことに成っている記事があるが、

清康の守山着陣から5日ないし7日は有ったと考える。

※史実とされる記録では兵数や日にちの部分は曖昧な所が多いため。

伝承を辿って記録された話は特に怪しい。

 

清康の目算では、着陣して後日には物資が到着する予定であった。

しかし、その物資が一向に到着するどころか、

その手前の岩崎城にも到着していないという知らせを受けた。

この物資運搬に当たっていた人物が阿部定吉である。

これに類似したエピソードは

三国志演義の諸葛孔明と李厳という部将の話でも出てくる。

この時、孔明は李厳が物資の到着を遅らせた事で、

北伐退却の決断を迫られているのだ。

故に、物資運搬の遅延が軍に多大な影響を及ぼすことは、

理解するべき話である。

後に忠義を示して清康の子の広忠に阿部定吉が許されたとするならば、

清康が定吉を疑ったとする話に結びつけて考えると、

自然と辻褄としてこういう経緯が生まれてくる。

 

では…離間の計の話に戻して、誰が糸を引いていたのか…

それは酒井忠尚で有ったと考える。

忠尚は清康の祖父の長親(松平道閲)に忠誠を持っていた。

長親は清康よりむしろ信定の方が思慮深いと感じており、

今回の清康の行軍は三河を危うくするだけのものと危惧していた。

何故か…

清康は戦上手だと認めてはいるが、

織田信秀も中々の戦上手であることは聞き知っていた。

また、那古野城を一兵も損ずることなく、

ある意味、計略によって落としたという話が伝われば、

かなりの智謀の持ち主である点も伝わる。

 

この戦で清康が負けると考えるより、

寧ろ勝っても相当な痛手を受ける事は考えられた。

長親は北条早雲、いわば当時の伊勢盛時率いる今川軍と

死闘を交えて、辛うじて三河を守り抜いた経験がある。

それ故に清康が守山に出した兵力がギリギリでしか残らないとなれば、

春先に今川が攻め込んできた場合防ぎきれないだろうと考えてもいた。

実際に清康の目論見は外れており、

甲斐の武田信虎に今川を当たらせたものの、

今川は北条と結んで寧ろ武田の動きは牽制された。

いわば今川にはそれだけの余力が残ったのだ。

この見識は寧ろ酒井忠尚も同意しており、

長親が可愛がる清康の叔父・松平信定も認識していた。

故に清康では三河は守り切れないと踏んでいた。

 

事実は小説より奇なり…

離間の計を小説として組み入れるなら、

酒井忠尚が実行犯の阿部正豊を洗脳したとすれば、

話は簡単に作れる。

しかし、それは策士が策に溺れただけの物語で、

実際に策を弄するには博打でしかない。

いわば実行犯が必ずそれをこなすとは考えにくく、

寧ろそこから実行犯が清康に寝返って事実を暴露する危険もある。

また祖父である長親があえて孫の清康を誅殺するようなことは好むはずもない。

 

そこで考えられるのが清康がこの行軍で失態を演じたとすることで、

孔明が撤退した様に、軍を引かせるというものだ。

その間に手薄となった岡崎を松平信定が手中に治める事で、

清康の危うさを咎め、清康の父・信忠が廃された様に、

信定に家督を譲るというシナリオである。

いわばこれを信忠の代で一度成功させている酒井忠尚なら、

同じ事に勝算を抱くことは十分に考えられるという流れである。

 

物資の運搬を担っていたのは実行犯となる阿部正豊の父・阿部定吉である。

阿部定吉は三河各地から集められる物資を待って岩崎城でとん挫していた。

岡崎を発した物資が、未だ到着しないのである。

実は、酒井忠尚が野武士らを雇ってワザとその物資を奪わせたのである。

無論、物資の一部は報酬として野武士らに渡し、

残りは岡崎に戻している。

しかし、阿部定吉の下には物資が奪われたという報告だけが到着した。

離間の計は、いわば清康と阿部定吉に発生した不和である。

 

さて…ここからが酒井忠尚も予想だにしなかった出来事である。

弾正忠家には松平信定から関係を維持する意味で、

清康に撤退させる意図の話が通っていた。

無論、その詳細は示されなかった訳だが、

信秀は密偵を守山城に居る信光に送って、

「松平信定殿が清康を撤退させるよう計らう故に、それまで城を堅守せよ・・・」

と、伝えようとした。

この時の信秀の参謀は林秀貞である。

秀貞はこの内容を敢えて清康に掴ませるように進言した。

そして信光の下には、

「清康の大軍に怯えたふりをして、降伏を申し立てる。」

ように伝えたのである。

虚報・足止めの策である。

いわば、仮に清康が撤退しなくとも、これで2~3日の時は稼げると踏んだのだ。

2~3日稼げれば、信秀はある程度の軍を招集して援軍に向かえる。

仮に松平信定の計が功を奏すれば、

無事に事なきを得られる。

 

では…何故清康に堅守する報を掴ませたのか?

清康が事前に「信定が裏切るから堅守するように」という伝令を掴んだならば、

信光にはその事が伝わっていないと判断する。

その上で信光が降伏を申し立ててきたのなら、

寧ろその心情を好意的に察すると踏んだのだ。

そしてその交渉の間戦は止まり、

信光が交渉に様々な条件を盛り込んで、

あえて拗らせることで長引かせるのだ。

清康としても事前に伝令を阻止したという事も有って、

好意的に捉えられる故に迂闊に交渉を無碍にすることは出来ない。

いわば無駄な兵力を使わずに城が手に入るのなら、

それこそ望ましいと考えるのである。

 

それゆえ清康は対陣したまま動きを止めたのだ。

しかし、気がかりなのは叔父の松平信定の事である。

そこで物資が一向に届かない事に猜疑の念を抱いたのである。

いわば阿部定吉が叔父・信定に与して物資を留めているのではと疑った。

 

冬の寒空に凍えるような状態で対陣し続ける事になる軍は、

少ない物資で薪だけでなく兵糧も節約して布陣を続けねばならなかった。

清康は信光が降伏の申し出をしてきた以上、

今、ここで引くことは出来ない。

しかし、そうした陣中では様々な苛立ちが芽生え始める。

それは清康自身も同じだった。

 

心理的な条件、そして環境的な条件が揃った上で、

史実として残る記録に照らし合わせると、

ここからはそのままの内容と合致してくる。

史実の記録に有るのは、

信光が清康に内応を呼びかける。

清康が阿部定吉に謀叛の疑いを掛けて、

その息子の阿部正豊が清康を切り殺すである。

 

清康の苛立ちは猜疑の目を向けた阿部家に向けられる訳で、

陣中に居た阿部正豊へ風当たりは大変なものであった。

いわば清康のみならず、他の家臣らからも白い目で見られる事となるのだ。

そこで清康は岩崎城の阿部定吉を陣中に召喚するが、

物資が野盗に奪われたという言い訳など通じるとは思えぬゆえに、

息子の阿部正豊に手紙を渡すのである。

「もし自分が謀叛の濡れ衣で誅されるのなら、殿にこれを見せて欲しいと」

陣中で猜疑の目を向けられ、肩身が狭くなった正豊の心は病んでいた。

父の手紙から忠義を裏付けるものは無い。

寧ろその手紙を清康に見せたところで

疑いを晴らしてくれる状況に無いと踏んだ正豊は、

旧暦の12月5日(12月29日)の早朝、

朝一の馬稽古で馬に跨った清康の馬を襲った。

その際に忍者が使うクナイの様なもの…

矢の矢じりを用いて、馬の首筋に突き刺した。

馬が突然暴れて清康は振り落とされた。

そして落馬した清康に切り掛かり、

短刀で清康の首筋を描き切った。

突然の出来事で清康の供回りは動きが鈍ったが、

正豊が逃げる前にこれを取り押さえてそのまま誅殺することは出来た。

 

無論、正豊に精神的な苦痛が生じるまでに

たったの1日では少し無理があり、

ある意味、犯罪者としてここまで追い詰められるには、

最低でも5日、もしくは2週間以上の時間が生じたと考える。

故に清康の守山城での着陣は最低でも1週間は有ったと考える。

 

こうして松平清康は享年25歳で、阿部正豊によって切り殺され、

これが森山崩れとして伝えられる。

この死は松平信定方にとっても誤算であった。

無論、それは酒井忠尚にとっても同じである。

いわば清康が死んだことで、守山城から軍を引き上げる事に成ったが、

家臣団はこれを清康の不徳とすることは無く、

寧ろ清康に対して忠義で団結する事となるのだ。

その為、この清康の行動に協力的でなかった信定らは、

目論見とは外れて三河安定に繋がる信頼を得るには至らなかった。

 

それでも松平信定は岡崎城を手中に治めて、

長親らの後押しもあって家督を継ぐ形となった。

そして10歳の清康の嫡男広忠(当時は竹千代)は、

その身を追われる形に成るが、

正豊の父・阿部定吉はその罪滅ぼしの意味か、

広忠に忠義を示してこれを引き取り、

本来松平家の主家筋に当たる吉良持広の下へ届けた。

松平信定も広忠を始末するまでは最初は考えなかった。

 

その後、松平信定は信秀に申し掛けて、

三河に攻め入る様に促した。

これは三河の譜代(家臣団)を纏める為の政略戦争で、

守山攻めの報復として軍を発した信秀の軍に、

松平信定が外交にて上手く治めたという実績を与える意味であった考える。

そしてそれから暫くは松平信定の下で三河は一応纏まるのだが、

家督を巡って広忠にという話も聞こえ始めたため、

吉良持広がこの内情を利用して

三河の支配権を取り戻そうとする動きが警戒された。

その為、広忠の命は狙われる事となったため、

阿部定吉は持広と組んで、広忠を伊勢に逃がしたのである。

 

松平広忠は、吉良持広の庇護の下で1539年に元服し、

持広から「広」の字を頂いて、広忠とした。

しかしそれから間もなくして持広がこの世を去ったため、

吉良一族の間で家督争いが生じたため、

広忠、定吉は吉良氏の庇護から離れる決断をした。

 

森山崩れの翌年、駿河の今川氏輝が享年24歳で急死した。

当初、その弟の彦五郎が跡目を継ぐとされていたが、

その彦五郎も急死してしまう。

そこで後継者として名乗りを上げたのが、

玄広恵探という人物で、

氏輝の父・氏親と今川家家臣であった福島正成の娘の間に生まれた子供である。

この玄広恵探が福島氏の居城花倉城に招かれた事で、

花倉の乱として記録される今川家の御家騒動で有る。

 

今川氏親の正室である寿桂尼は、

それと同じくして実子として三男に当たる梅岳承芳(今川義元)を還俗させて、

これを迎えることで対抗した。

 

尾張は大和守、伊勢守、そして弾正忠家が覇権争いを演じているにもかかわらず、

傀儡ではあるものの斯波氏中心で何とか維持できたのも、

東の脅威、松平清康そして今川が崩れて行った運も有ると言える。

 

さて…しかし桶狭間で信長を窮地に立たせた今川義元が

ようやく登場するのは信長、いわば吉法師がまだ2歳のときであり、

この義元によって今川家は全盛期を得るのである。

 

果たして花倉の乱から、そして松平広忠の行方…

これらの出来事が如何に桶狭間と結びついていくのか・・・

 

どうも・・・ショーエイです。

元服を迎える前の信長たま…

それ以前に発生した近隣の出来事を

纏めて話を進めていく訳ですが、

ようやく今川のヨッシー(義元)が登場しました。

 

はてさて…第10話では花倉の乱から、

広忠の三河奪還と続き、

そして家康(竹千代本命)が登場します。

 

さて…いつもの愚痴ですが・・・

 

冒頭に話した信長、家康、光秀のエピソード。

客を持成すという意味ですが…

そもそも御持て成しの精神を説いて、

東京五輪を招致した日本人が、

こうした精神を全く理解できていないのは残念です。

「お客様は神様…」

客は神様じゃない!!

という「神様」の意味を勘違いした世論も

頭のイカレタ状態と言っておきます。

まあ、客の方が

「神様だから大事にしろ!!」

という間抜けな主張をする事も有るがゆえに、

可笑しな解釈に成っていると言えますが、

これをマスコミまでも俗解釈に沿ってしまっては、

日本の精神はその時点で嘘に成ってしまいます。

 

【ホリエモンの餃子店事件。】

ホリエモンの餃子店とマスク事件。

正直ホリエモンの様な人間は好きでは有りませんし、

ホリエモンを支持するつもりは無いのですが、

悪いのは餃子店の方です!!

 

心無いサービスを提供する店なら、

寧ろこんな店潰した方が良い。

ホリエモンが嫌いという以上に、

その店に腹が立った話です。

 

店がマスクの着用を義務付けて入店のドレスコードにした点は

法律上問題有りません。

問題は寧ろ…それを理由に客を蔑ろにした点。

いわば客を侮辱した事です。

わざわざ客は広島の尾道まで足を運んで、

その店に来店してきた訳で、いわばファンの様な感じです。

ルールはルールなので入店は出来ないとすしても、

折角のファンを蔑ろにして追い返すその精神は、

日本人のサービスを意識する意味で淘汰されるべき話です。

いわば入店はルール上させられないが、

持ち帰りの餃子は用意するので、

どうかそれで事を治めて欲しいい。

そういう姿勢が大事だと言えるのです。

最近の日本の若者にしても、

ルールがルールだからと客への配慮を考えない、

サービスが横行してます。

一部ゆとり世代を悟り世代などと持ち上げているが、

彼らが悟っていると勘違いする程度の低い社会レベルと言っておきます。

彼らは本質を理解していない生兵世代と言っておきます。

ルールを盾に主張すれば法律的には有利に成るが、

ビジネスとしては不利になる。

 

これは客を不快にして逃がしている話で、

経営側からすると死活問題です。

現実、日本企業が弱体化している背景は、

こうした配慮不足の点もあり、

この思考を不要とする意識から、

クレームから派生する

利便性向上のイノベーションも齎されなくなっている。

アップルや海外の企業が新製品に色々な機能を齎すのは、

そういうイノベーションを商品化していく発想で、

かつての日本企業が用いた方法だったはずなのですが…

 

話を戻して、

不快に感じたからという話で、

それを理由に店の営業を妨害する行為、

脅迫やら何やらすれば違法です。

しかし、ネット上で店に行くことをボイコットさせる運動は、

違法ではないのです。

ただし、威力業務妨害という行為に該当する点は否めませんが、

侮辱を受けたという事実の下で、

ネット上にボイコットを呼びかける場合は、

天下両成敗という観点で、相殺して考えてもいい話です。

いわば裁判で侮辱行為に対して認定する事が難しい内容なら、

その反撃で直接的な妨害の無い流布ならば、

侮辱をされたという事実公表で相手の行為を批難するのは

当然表現の自由の範疇で治めていい事と成るのです。

そしてボイコットに賛同するしないは、

その内容を意識した人が個人的に判断する話に成ります。

逆に店側に同情を抱くのも自由なわけですし…

 

日本人が和の精神を唱えて、

それこそ日本であるとするのなら、

マナーやルールに縛られれずに許し合う精神が一番大事です。

他人は他人、自分は自分で、

自分の価値観を他人に押し付けない事こそ、

社会が和む形です。

寧ろ、権力者のマナーやルールには厳しくし、

特に法に関わり国民の権利を脅かす事には、

妥協するべきではない。

 

日本人の考え方は寧ろ逆で、

国の違反を蔑ろに見て、

社会がルールやマナーを厳しく監視する状態は、

寧ろ個人の自由が認められないどこかの国と同じであると考えるべき話です。

 

と、は言え

ホリエモン…あの程度の餃子店を潰すのに

餃子の食べ放題で挑もうとする発想は、

間抜けに等しい話と言える。

潰すのなら同等の味の店を何店舗か作るのが得策で、

東京や大阪で名のある店を斡旋して、

金を使うのなら出店資金と一時的な運営経費を保障した上で、

それらの名店を尾道に3、4店舗ぶち込むかんじにするのが良い。

 

いわば問題の店が特別に旨いという印象を、

他にも旨い店は幾らでもあるという風に市場心理をもっていくべきで、

一番の効果は、似た様な味の店を多く設けて対抗する事となる。

その方がより強い効果を発揮するという物である。

いわば簡単に真似できる味という印象にして

特別感を喪失させる方法です。

その上でサービスに格差を付ければ、

横柄な態度の餃子店は淘汰され、

潰れて行くのは明白です。

 

経営コンサルタントなどをする意味でも、

あの程度の餃子店一つ潰せないのは、

寧ろ経営心理学に精通していない話なので、

そんなコンサルタントではむしろ弱いという話にも成る。

 

【マスクの着用の話に関して】

義務化は不要と言えば、

トランプと同じ意見に成る。

ただ、個人として義務化は不要とは言えるが、

国としては「不要」では無く、

寧ろ国が個人の自由を守る意味としては

そこに踏み込みたくは無いと表現するべきなのです。

その上で「推奨」という形は与えておくべきという事です。

 

オッサン先生はマスクはしません。

ただ、咳やくしゃみをする際には、

手や洋服で口元を隠す癖があるからと言えます。

ある意味上品にそういう仕草で振舞うからという感じで、

寧ろステイatホームで家に居るようにしているのだから、

外では新鮮な空気を吸いたいということらしいのです。

それで感染したらどうするの?

自分がそれで感染してしまうのは自分の責任です。

まあ、他人に感染させない様に配慮して動くので、

感染しても十分にエチケットは守られている。

よって他人がどうこう言うのは大きなお世話です。

 

マスクをしないので白い目で見るのは勝手だが、

それで文句を言ってきたら、

「マスクしてない相手に公衆の面前で怒鳴らせるつもりか?」

と、皮肉を言って怒鳴り散らすことに成るそうです。

 

マスクをしない事には文句は言いませんが、

最低でも手で口を覆ってクシャミや咳などをしない人には

「汚ねぇ!!」

と、文句を言う事には成るそうです。

 

いわば

「人に唾を飛ばすなボケ!!」

と、言っているだけなのです。

合理的にはそれさえ気を付ければ

飛沫感染の話は防げるわけで、

マスクはあくまで自身の防衛の話と言えるのです。

無論、そういう事に気を使う人を批難はしませんし、

むしろそれに適応できる人はマスクをして頂ければいい話で、

マスクをしている分、クシャミや咳はマスクの中で、

好きなようにして下さいという話です。

 

マスクをしないで罰則って…

マスクをしないのが公然わいせつ罪のように

扱われるのって感じです。

まあ、そうだという頭の可笑しい人も居る訳で、

マスクなんて必要ないと唱える頭の可笑しい人と交われば、

その中間の個人の自由で纏まる方が、

不要な口論で有り喧嘩は避けられると言えます。

 

多くの日本人の間でこうした和を重んじる意識は有ると思うのです。

むしろそれが正論として伝わるべきで、

「社会に不要な口論や喧嘩が発生しない為、

個人の自由を尊重するべきじゃ」

と、言う主張が主流となるべきで、

それこそが民主国家である意義で、

それが霞んでいくなら、

それこそ民主国家に反する社会を肯定している事に繋がると言えます。

 

【中国の監視社会に関して…】

民主国家とは逆の意味で中国の社会が取り上げられます。

中国の政策を今までは肯定的に考えていたが、

善良な行為をポイント化している状態は、

寧ろ残念に感じる政策です。

犯罪を取り締まる意味で監視システムを導入する事には、

反対ではなく、寧ろアメリカであり日本でも強化されつつあるものです。

 

善良行為をポイント化する話自体は問題ないが、

善行を拒否したり、軽犯罪でマイナス化される考え方は、

寧ろ善行を強要している事でも有り、

密告社会で人間が人間を信用できない本質を強化していく意味で、

愚策と言っていい。

中国がこれに気づいて政策を見直すならそれはそれで良いが、

見直さないなら逆に黙ってみていればいいという考えで、

元々の方針に変更は有りません。

 

前にも話したように、中国が一線を越えてしまった時に

中国を攻め立てるチャンスが生じるとしたように、

中国は人権問題で自ら勝手に一線を越えようとしているだけなので、

放置していればその内爆死するという感じです。

むしろ中国の爆死を喜んで見ていて、

自らの溺死に歯止めを掛けようとしない日本を危惧する話で、

これも日本人が溺死していくことに気づかないのなら、

もうそのまま放置して溺死させても良いかなと思います。

でも、自身が日本に居る以上、その災厄は自分にも降りかかる訳で、

簡単に見て見ぬふりは出来ないのも事実。

 

とは言え、気遣いという日本人が本来大事にするべき事が、

気遣いを強要している社会に成ってしまい、

力を持った側が気遣いを受ける側になり、

忖度やら天下り、またはパワハラという事が生じている訳です。

本来は力のある方が弱者を気遣う事がその姿で有り、

気遣いを受けるのが当然では無く、

気遣いを持てる事が一流である条件として認識するべきです。

その上で個人の権利主張は

そうした気遣いの中で認められる社会になれば、

日本のサービスはかつてよりも上回るレベルで向上し、

それによってよりよいイノベーションが生まれて、

技術躍進にも繋がると言えます。

日本の司法でも気遣いの部分が欠落している為、

弱者の主張より、強者の言い訳に寄り添う形に成っている訳です。

それ故に強引な論拠しか考えない故に、

外交でも相手にされない状態が続くのです。

賢く交渉するには、相手への気遣いを用いた上で、

両者の落としどころを策定していかねばならない訳です。

気遣いの無い相手だと正直話に成らない訳で、

日本という国は気遣いの無い主張を繰り返して、

交渉を決裂させているだけなのです。

いわば日本と話は纏められないと言われている訳で、

それを逆上して批難する日本の行為は、

寧ろ気遣いという話を通り越して迷惑な行為に成っているのです。

 

最近までのアメリカのカスタマーサービスは

そういう気遣いの意識に変革されて向上し、

製品にも様々な配慮が技術として投入される故に、

魅力的に感じると言えます。

その背景には企業に対する賠償責任が付きまとうわけで、

司法の気遣いの中で、弱者に対する配慮が

寧ろ企業にいい形の意識を芽生えさせた事例と言えます。

マックの熱いコーヒー事件の訴訟にしても、

タバコの発がん性を表記しなかった件に関しても、

日本人には言いがかりに思える話でも、

実は強者になるべく営利を得る側の責任という観点から、

弱者となる消費者への配慮が厳しく正当化される点を考えると、

当たり前にも成るのです。

その結果、損害賠償を恐れてコンプライアンスが意識され、

よし厳格なカスタマーサービスの充実へと繋がり、

米国の技術革新にも寄与したのです。

日本人は改めてその違いを分析して行くべきなのです。

 

信長が気遣った部分…

結果としてミッチーは謀叛を起こした訳だが…

謀叛が起きたから気遣いは無用だったと考えるのか、

気遣いが有った関係故に家康は信長の盾として、

東海地方東側の安全が保障され、

それによって天下躍進が容易になっていたと考えるべきなのか、

何を利として考えられるかで、

この見方も変わる話と言えます。

 

皮肉で言えば…

揚げ足取って言う事しか出来ない無能者ほど…

光秀が裏切った事を挙げて盛り上がるのだろうね。