うつけの兵法 第八話「戦世」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第八話 戦世】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

吉法師が元服を迎える前に、

この当時の情勢を一度整理しよう。

 

1532年に信秀は那古野城を手中に治めた。

当時21歳であった信秀は清州の織田大和守達勝の怒りを買ったのである。

記録上では信秀がある種独立した存在で記されている様に見えるが、

実際はまだ斯波家を主家とした形式上の体制が維持されていた時代である。

そうした中で織田大和守達勝が実権を握っており、

今川との関係を維持したまま、三河で勢力を強める松平清康に対抗しようと画策していた。

先にも述べた様に、将軍家の義澄派から義材派に切り替えたのも、

その関係性を意識してのものであった。

その矢先に信秀は今川竹王丸から那古野城を奪ったのだ。

そこに如何なる事情が有ったかは清州の達勝は知らない。

寧ろ若気の至りで、尾張を取り巻く情勢も考えずに、

ただ目先の利益に捉われて行動したと思ったのだ。

 

松平清康の勢いは尾張でも大いに危惧されていた。

僅か12歳で家督を継いだ清康は、

隠居していた祖父・松平長親と

実質、家中で実験を握っていた家老・酒井忠尚(将監)の力で、

三河を転戦し、14歳の頃には岡崎城を別の宗家松平昌安から奪い取っている。

この時、宇津忠茂という家臣が岡崎の支城山中城を攻略して後に、

松平昌安に降伏を持ちかけるように進言しており、

その策が功を奏したと言われる。

この宇津忠茂が後の大久保氏の祖となるのだ。

まだ若い時分の清康は

後の家康を支える一族、酒井、大久保、更には本多らの活躍で、

その地盤を築けたとする方が現実的で、

特に酒井忠尚の存在は、

清康の父信忠を隠居に追い込んだ上で清康に家督を譲らせた人物で、

後に今川義元に三河が併合された際、

この忠尚は元康(徳川家康)とは別扱いの勢力として扱われていた実力者となる。

桶狭間以降、元康が三河で独立を果たすと、

忠尚は元康に反旗を翻しその身を追われるのだが、

今川への恩義の為か、織田方に与する元康に嫌気が差したのかは定かでは無い。

ただ、この人物が若い清康を支えた軍師で有った可能性は高いと見る。

若年の清康を支えたもう一人の人物は、清康の祖父に当たる松平長親で、

長親は且つて今川氏親が伊勢盛時(北条早雲)を総大将として三河に攻め込んできた際、

奮戦してこれを退けている。

松平長親は隠居したもののそのまま実権は握っており、

酒井忠尚は清康より寧ろ、三河の英雄として敬愛する長親に忠誠を誓っていたとも言える。

 

そうした長親と酒井忠尚を師として成長した清康は、

1529年18歳位に成るとその才覚を発揮して三河をほぼ手中に治める。

自ら陣頭に立って攻め込む

勇猛果敢な清康の戦ぶりは尾張にも聞き及ぶほどであった。

1526年今川氏親がこの世を去り、

その嫡男氏輝がようやく16歳に成った頃で、

今川の実権も氏輝の実母・寿桂尼から

氏輝に少しづつ移行されて来る時代でもあった。

故に今川にとっては実に危うい時期に清康が登場している。

 

丁度、今川氏親がこの世を去った1526年には、

信秀の父、いわば信長の祖父・織田信定と

松平長親の三男松平信定の間で姻戚関係が結ばれている。

この出来事は清康がまだ15歳の時の出来事で、

裏では松平長親の意向が働いたとも言えるが、

寧ろ松平信定が自ら提言して行った外交と見ても良く、

清康の後見人であるその父・長親はこれを支持する感じであったと考える。

 

この外交によって松平信定は津島の資金が背景にある、

織田信定より支援を受けることに成り、

その見返りとして当時松平家が所領していた守山城を、

織田信定に譲った形である。

三河の松平家としては尾張で実力を持ちつつある

織田弾正忠家を抱え込み、

尾張との国境を安定的に固めた上で、

今川の遠江、駿河を伺う体制へと考えたのであろう。

現実的に長親にとっては今川との因縁を考える方が強く、

積年苦しまされた氏親がこの世をさり、

若い後継者問題で揺れるだろう事を想定とした

外交戦略として捉えたとしても不思議ではない。

実際に長親はこの三男の松平信定を溺愛しているほど、

聡明な人物と考えていたようで、

織田弾正忠家と結ぶことに気づいた点を評価されても可笑しくはない。

 

しかし、長親は家督を清康にした責任も感じていた。

故に松平家の行く末を考える上では清康中心である事が望ましい。

18歳に成って勇猛な武将に育った清康は、

長親にとっては頼もしい人物に映ったことであろう。

故に、長親自身、溺愛する三男信定と、期待する孫の清康の間で、

色々心が揺れ動いたと思われる。

 

実際にこの松平長親、名を改め道閲(どうえつ)とするが、

早い時期に隠居し家督を譲って、権力は一応握っているが、

必ずしも自身の考えで推し進める感じでもない不思議な人物に見えてくる。

様々な記録を読み解く上で、家臣らの言葉によく耳を傾ける人格者に見えてくる。

いわば徳川家康が引き継いだ基礎的な部分は、

この松平道閲から来るのではと思えてきた。

 

道閲が隠居を決めた時期は、早雲こと伊勢盛時に攻め込まれそれを退けた後で有るとされ、

その功績に多くの家臣たちの奮闘があり、

必ずしも自分の采配で勝ち取ったものでは無いと意識したのか、

松平家を盛り立てて行くのはそういう家臣たち支え合っての事と察したのか、

家督を譲り、それを支えて行く家臣たちの成り行を見極めようと考えていたようにも思える。

と、は言え、

結果、直後には松平家は今川に吸収されてしまうから評価を受けないのか、

それともその後、松平家は家臣の団結によって躍進していくことに成る点を評価するべきなのか、

そこは読み手の感性に任せるものとする。

 

長親こと道閲や松平信定の尾張と結んで遠江・駿河を狙うという意図は、

清康には理解できていなかった。

連戦連勝に浮足立つ清康は今度は尾張の方へとその意識を向けた。

1530年には岩崎城(名古屋駅から東へ10Km先の現在の日進市)から

北上して品野城(現在の瀬戸市、日進市から北東に10km)へと攻め込んでいる。

 

こうした尾張東部での松平清康の動きを警戒して、

清州織田大和守家の達勝は今川との連携を深めようとしたわけだが、

それを信秀がまんまと台無しにしてくれたのだ。

後継者問題で揺れると思っていた今川は、

以外にも寿桂尼が後見となって上手く纏まっている。

それ故に今は今川との関係を大事にしたかったのだ。

それ故に出しゃばった信秀に腹を立てた達勝は、

織田藤左衛門家寛故(ひろとも)と共謀して信秀に戦を仕掛けた。

これが1532年の出来事故に、

この小説では信秀が那古野城を奪った年を1532年としたのである。

 

無論、達勝の怒りは信秀の出しゃばった行動に有るが、

他にも津島を得て、更に熱田まで得た織田弾正忠家の勢いを

警戒した点も含まれる。

故に、織田寛故には那古野へ出兵させ、

その暁には那古野を渡すことで話を付けていたと思われる。

 

戦国時代の戦い方には明確な記録が無い。

そういう中で部隊編成などを計算すると、

部隊兵1000人当たりに、部将1名、副将2名、部将と副将の供回り27名の30名。

騎兵50名~100名、弓兵100名~150名で、

ここまでが武家とされる人数。

10名単位の小隊長が70名が武家に含まれるかは勢力単位で異なるところし、

残りの700名は農民徴兵のような形だ。

 

この計算は1000人単位の部隊が機能的に動く状態を想定したもので、

100人単位に小隊長を置く編成も有ったと思われる。

 

しかし、尾張という小国の内戦で態々農民を徴兵して戦う事は考えられず、

織田寛故が送った部隊はせいぜい多くて500人程度で、

下手したら300人位であったと考える。

300人程度でできる攻撃は、

信秀の居城と成った那古野城下を焼き払う程度で、

城下と言っても密集した街では無く、

寧ろ農村の田畑を焼き討ちして

那古野城に籠る信秀の部隊を挑発した感じであったと言える。

 

その信秀も大事な田畑を無駄に消失する事は嫌い、

すぐさま同等の300人程度の手勢でこれに挑む。

 

戦争と言うより抗争…いわばヤクザのそれの様なものである。

寛故の兵が田畑に火を掛けようとするのを、

信秀の兵士が見つけてそれを追い払う。

寛故の兵が逃げ出すのを信秀の兵が追いかけると、

近くに居た伏兵がそれを攻撃する。

こうした流れで信秀は野武士を雇って今度は清州の田畑に焼き討ちを仕掛ける。

また寛故の動向を探り、隙を見て敵の頭を直接狙う機会を探る。

それは寛故の方も同じで信秀の命を狙うのだ。

 

この時まだ存命であった信秀の父・織田信定は、

織田達勝に和解の話を持ち掛けて、

国内の混乱を収拾しようとした。

 

織田信定は達勝に、

 

「三河の清康が勢力を伸ばす中、

尾張国内でこの様な内戦がある事は寧ろ清康にとって好都合では?」

 

と、説きかけると…

 

「それは弾正忠家が熱田を抑えるための良い訳であろう」

 

と、達勝は反発した。

すると信定は…

 

「三河には綻びが生じており、

我が弾正忠家はその綻びを支援する事でこの事態に備えています。」

 

いわば、松平信定の方と縁組した件を言っている。

さらに信定は、

 

「弾正忠家は主家に忠実であり、斯波家再興の方策を考えております。」

 

達勝は黙って聞くしかなかった…

それほど愚かでは無い。

寧ろ、信定の脅しを察した。

いわば力のバランスでは既に弾正忠家が尾張最強であり、

その尾張最強が三河と手を組んで大和守家を

追い出すことも出来るという意味も含んでいた。

下克上とはそういう時代である。

そこで信定は、

 

「尾張の国が一丸となってこの問題に挑むのか、

それとも尾張を分断して滅ぼすのか…今、ご決断ください。」

 

隠居するとはこういう事である。

いわば家督を継いだ信秀の意思では無いが、

隠居者の権限でそのように動かすことはできるという事。

それは隠居者の決断であって、家の裏切りでは無いという意味も生み出せ、

仮に不義理な結末となっても全ては隠居者の責任としてしまえば良いのだ。

 

達勝は若い信秀より、むしろ弾正忠家をここまでにした信定を恐れた。

那古野を得たのは寧ろ信秀の考えによるところが大きいが、

信定はこの時代に力を求める信秀を支持していた。

故にこの問題で清州の大和守家が足を引っ張ることに歯止めを掛けたいのだ。

 

そして達勝は和議の条件を提示しようと口を開いた。

 

「では…」

 

そこまで言うと、信定は、

 

「では…?…はて…大和守殿がこの件を直ぐに治めないのなら…

上様(斯波義統)に奏上してお話を纏めてもらいましょう。」

 

と、立ち上がってよ斯波義統の所へ向かう姿勢を取った。

すると達勝は、

 

「わかった!!和議を結ぶように藤左衛門(寛故)には伝える!!」

 

と言い放った。

無論、信定はそれだけで事を治めない。

 

「では、直ぐに上様にこの件のご報告を致しましょう。」

 

と、言って義統を証人として話をまとめる方向に持って行った。

達勝には何もできない。

仮にここで信定を反逆者に仕立て上げても、

信秀が本気で清州を目指ざす口実を与えるだけで、

三河の清康を目の前に控えて、

逆に尾張を弱地化させる話にしか成らない事は察せられたからだ。

 

和議は主家の斯波義統を交えて結ばれた。

信定は礼儀として大和守達勝を立てて、

信秀と寛故が勝手に始めた戦と説明し、

達勝がこれを上手く治めてくれるという形で報告している。

そして信定は問題の一点は弾正忠家にもある事を詫びた上で、

斯波家再興の為に尽力を尽くす気持ちとして説明した。

義統は、信定の忠義に感謝し、達勝に和議を取りまとめるように指示した。

 

こうして弾正忠家信秀と、藤左衛門家寛故、

そしてその背後の大和守家達勝の間の和議が成立した。

記録上でも1532年に起こった紛争は両者の和議にて直ぐに治まっている。

 

一方、三河の清康は、叔父である松平信定の考えとは逆に尾張を目指した。

実は清康の見識の方が信定より優れていたとも考えられる。

いわば今川は今、家督問題で揺れており、寧ろ三河への進行は無いと踏んだのだ。

また自身が幼い時分、家臣団に支えられて三河平定にこぎつけた様に、

駿河は寧ろ家臣団が団結している状態と考えた。

その点、尾張は大和守家と伊勢守家が一枚岩でない事と、

その大和守家も弾正忠家の台頭に揺れ動いている。

そういう意味では駿河、遠江の今川より、尾張の方が狙いやすいのだ。

更には尾張は美濃の斎藤利政(道三)とも争っており、

美濃と呼応する事で狙いやすいという点もあった。

寧ろ今川の背後には伊勢盛時の立てた伊豆の北条家が有り、

そういう意味では今川はあえて刺激せずに、

尾張を先に得た上で後に今川に対抗する事を考えたと言える。

その際に美濃との同盟が確立すれば、

寧ろ尾張と今結ぶよりも有利に成ると言えた。

 

人の見方は様々である。

いわば「十人十色」と簡単に言いそうであるが、

自身の存在を他人がどう見るかは、中々気づかない。

また世の中には正解という答えが無い故に、

人は自身の考えに固執する。

 

清康は強すぎた。

強すぎる事は味方にとっては頼もしくも感じるが、

敵にとっては脅威である。

 

松平信定はやはり三河との同盟に興味を示す

尾張の弾正忠家と結ぶことが得策と考えていた。

現状、今川は家督が代わって揺れ動いているだろうが、

北条との同盟を考えれば寧ろ、

京を目指す西に興味があり、

三河はどうしても外せないルートと成る。

 

勿論、清康と信定の間には確執もあった。

1530年の尾張侵攻の後、東三河に

清康が、福釜松平家親盛と共に、宇利城を攻めを行った際に、

窮地に陥った親盛親子を松平信定が救わずに見捨てたとして、

清康は信定を大叱責した。

実はこれらは「三河物語」に記されており、

大久保忠教が1626年以降に変遷した内容である。

太田牛一の「信長公記」同様に、

年号と事件の関係性を見る上では参考に出来るが、

清康、広忠、家康の系図を好意的に描く意味で、

一方的な見識が有ると思われ、

一部では情勢、状況に辻褄が合わなくなる。

特に「森山崩れ」という清康の死を描いた部分には、

不明な点が多い。

 

宇利城の話は否定するものでは無いが、

実際に信定と清康の確執は、

清康が尾張を目指した時点で発生しており、

お互いが険悪な状態であったことは察せられる。

 

尾張東部の攻略から、

一転して三河東部の攻略に切り返した背景を察すると、

尾張攻略に対して今川に和平の使者を送っていたが、

結局、何の返答も無く態度が曖昧であったため、

宇利城を攻めて牽制した。

信定(松平)は今川が清康の申し出を受ける事は無いと踏んで、

尾張侵攻を寧ろ咎め、尾張弾正忠家と結んで今川に備えるべきと

主張していた背景は見える。

 

結果、その後も今川からの返答は無く、

寧ろその抑えとして今川を牽制する為に、甲斐の武田信虎(信玄の父)と結んで、

信虎に今川を攻撃するように働きかけた。

 

さて…読み手の人々もお気づきだろうか…

こうした状況に清康は陥った訳で、

駿河・遠江の今川と尾張を敵に回し、

まんまと挟まれた形に成って膠着したのである。

寧ろ、信定(松平)の見識の方が無難であると見えてくる。

 

松平信定と結ぶ話は、織田弾正忠家が進めていた。

寧ろ織田達勝の見識は、清康が孤立する事に有ったといえ、

ここで今川と結んで三河を挟撃すれば成果はあったかも知れない。

いわばその目論見は弾正忠家信秀が今川方の那古野城を落とした事で、

大いに崩れていますのだ。

 

今川方からすれば、1530年の時点では

尾張斯波家との和睦はまだ継続していた状態で、

織田達勝が将軍家の支持方を今川に合わせて足利義維派に転じた事で、

寧ろ今川は尾張との関係を意識した。

※足利義維派は、12代将軍足利義晴の反対勢力で、

細川晴元の支援を受けて堺公方となる側。

 

清康の目論見が外れるのはこの状況故の事で、

織田弾正忠と繋がっていた松平信定は、

恐らく察していた話となる。

 

清康がこの時点で現実を踏まえて、

信定の意見に耳を傾けていれば、

時代は清康を迎え入れたかもしれないが、

清康は同族の信定も弾正忠家も信頼する事は無かった。

 

1530年頃は京の方で異変が起こった時期で、

堺公方の三好元長と細川晴元が対立し始めた時期である。

ある意味、16歳と思春期の若い晴元の後ろ盾として存在した、

三好元長(長慶の父)は家中の実権を巡って、

柳本賢治と、三好家嫡流の政長と対立する。

先にも述べた様に、三好長慶は堺と繋がり、その支援を受けていたとしたように、

その父・三好元長も実際に堺との繋がりで力を得ていた。

その元長の活躍で足利義晴の後ろ盾である細川高国を追い込んだ訳だが、

元長の主導で、潮時と見て有利な条件で足利義晴との和議を目論む。

ところが若い晴元(当時六郎とされる)は他の家臣団の主張に押され、

寧ろ自らの立てた足利義維を将軍にすることに拘った。

そうした中で、元長は晴元の側近としての地位を追われ、

阿波に下向した。

元長の下向によって、晴元らの軍は大いに弱体化したようで、

結果、追い詰めたはずの細川高国らに挽回を許してしまい、

寧ろ自身らが窮地に立たされる。

それを救ったのがまたしても三好元長で、

元長の復帰で、晴元側は息を吹き返し、

再び細川高国らはそれに押され始めて、

1531年には結果、再び追い込まれた高国は自害する事となった。

 

結果として三好元長ありきで勝利した細川晴元の陣営は、

細川京兆家としての元凶である高国が居なくなったことで、

今度は勢力としての元凶に三好元長を見据えた。

無論それは細川晴元が勝手に抱いた猜疑心から来るもので、

また元長の功績に嫉妬した無能な家臣団の嫉妬が齎したモノと言える。

寧ろ元長に晴元に対する忠義が無いのなら、

自分が阿波に下向して窮地に立たされた晴元を救う事などせずに、

晴元らが滅んだ後に高国と和睦するか、もしくは高国を追い詰めるかの

何方かを選択すればよかった。

そうはせずに晴元を救ったのは、元長に忠義の心が有ったからといえ、

結果、晴元の謀略にはまって命を落としているのだ。

その謀略とは晴元が一向宗の本願寺証如(顕如の父)と結んで、

堺付近で一向一揆を勃発させ、

いわば堺を救済する為に動く元長をそこで始末した。

記録では一向一揆に押されて死んだ形に成っているが、

恐らく一向一揆に紛れて暗殺されたとみる方が可能性が高い。

いわば戦略・戦術に優れていた元長が、

一向一揆との戦いで苦戦の末命を落とすとは考えにくいからである。

 

元長を始末した晴元にとっては、高国が死んだことで、

今度は足利義維も不要に成ってくる。

寧ろ京の混乱を収拾する意味では、現将軍義晴と和睦する方が賢明で、

その為に自分の傀儡であった義維を阿波に流すことで決着をつけた。

 

ここまでが1532年の出来事である。

信秀が那古野城を1532年に手に入れたとする場合は、

中央の実情とは関係なく、寧ろ若気の野心によるところが大きいと見る。

しかし、その父・信定が達勝と和睦を計る際は、

中央の動向は引き合いに出したと考えられ、

三好元長の死が1532年7月後半とされるなら、

その年の10月くらいには足利義維の動向は堺から商人伝えに、

織田信定の耳にも入っており、

達勝に方針転換を迫る口実とする事も出来たと言える。

 

無論、1532年の達勝と信秀の争いは、

指示する将軍家の方針転換が起因で有ったとも考えられ、

その後に三河の清康の脅威が消えた事で、

信秀が1538年に那古野を落としたという説も否定は出来ない。

しかし、この場合、清州の大和守家が黙って弾正忠家の領土拡大を

認めるとは考えにくい点もあり、

当小説では1532年那古野陥落説をそのまま採用して、

流れを検証するものとする。

 

1535年今川が甲斐の武田信虎と争い始めたのを機に、

清康は尾張の守山を目指して軍を動かした。

その数は8千名とかなり大掛かりな部隊であったとされる。

しかし、今川の武田との戦には相模まで支配した伊勢盛時の子、

北条氏綱が共に動いており、

松平信定だけでは無く、後見人で清康の祖父・松平長親に

長親を慕う酒井忠尚も、

清康が喜ぶほどの成果は無いと踏んでいた。

寧ろ、尾張と駿河・遠江の板挟みとなる点を危惧した。

 

さて…この後、森山崩れという出来事によって、

清康はその命を落とすことに成るが…

果たしてその謀略の実態は…

織田信秀の実弟、織田信光の内応によってという話も、

それに清康が易々と乗っかるとも思えない。

如何にして清康は計に嵌められたのであるか・・・

 

キーマンはその清康を切ったとされる、

阿部定吉の子、阿部正豊であり、

彼が何をもって主君を謀殺したのか…

謎めいた実態を紐解いていかねばならない…

 

どうも・・・ショーエイです。

さて…日本では日本学術会議の問題に、

ちょっと気に成るのが伊藤詩織さんの事件。

アメリカではいよいよ大統領選が始まります。

 

【日本学術会議任命の件】

日本学術会議任命の件の良い訳として、

宦官・菅が言い出した言い分は、

「憲法15条第一項があるから、選任や罷免の権利がある」

というものです。

では、憲法15条を見てみます。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm#3sho

原文の参照は↑のサイトをご覧ください。

憲法15条 

1項(本文) 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人はその選択にも責任を問われない。

 

確かに1項だけを見ると、日本国民なら誰でも公務員を選定したり罷免する権利を持ってます。

と成ると・・・誰でも好きに内閣総理大臣を首に出来るという話?

1項だけの話を独り歩きさせると、とんでもない意味に聞こえますが、

権利を有する故に、その権限のある人の責任は問われないというのが基本文です。

ところが2項の内容が付与されると、

公務員は全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者であっては成らないとあり、

内閣総理大臣も公務員として、個人的な恣意または見識で

公務を行っては成らないと歯止めがかけられています。

いわば国民として選定したり罷免する権利は有りますが、

公務員として理由なき行為は禁止される。

いわば全体の奉仕者として国民全体に公平に成る様にしなくては成らず、

その公平性は法的な規約に基づいた行為故に、

公平性を証明できる話に成ります。

それが無い場合は、一部=自民党の都合に奉仕した行為と成り、

違憲に成るのです。

 

実際に任命に関しては拒否権は付与されておらず、

日本学術会議の選定、任命に関しては法で記された通りであります。

これを国民の権利と称して、任命拒否を行った宦官(菅)は、

公務員として義務を放棄し、

更にはそこへの言及を避けてその行為を憲法15条1項のみの理由で

正当化しようとした行為は、

憲法12条違反 「憲法を乱用した行為」に該当する為、

弾劾に値する行為であると認定します。

 

さすがは宦官・菅、

再び「馬鹿」の故事を用いた訳ですが、

こんな「バカ」の故事に成る様な首相を放置する国民は、

バカによって衰退する運命と諦めるしかないのでしょうか…

バカな政治家は淘汰する方が国の為なので、

馬鹿を用いたバカというレッテルを貼って、

信用しない様にすることをお勧めします。

いわば馬鹿の故事に成った宦官・菅を

「馬鹿」だと誰もが堂々言える状況に成ったのは言うまでも有りません。

名誉棄損でも何でもなく、馬鹿の故事を宦官・菅がしたから

菅は馬鹿だといっても良いのです。

 

因みに憲法第15条の1項は国民全体としては、

不正等の立証により

裁判によって罷免する事が認められた意味で有り、

選任という部分は、3項に記された様に

普通選挙によって議員と言う公務員を選ぶ意味での権利です。

内閣総理大臣が1項の権利のみで好き勝手に人事をする事は、

自分の恣意的判断で全てを行うことに成り、

公務員として全体の奉仕には成らず、

一部どころか自分個人へ奉仕する行為に成るという事です。

こうした独裁色が生まれる意味を阻止するモノとして、

2項が存在する訳で、

内閣総理大臣は国民で有る前に、

公務員である事を自覚せねば成らない話とも言えます。

 

まあ、こういう事を理解していない政治家である意味でも、

宦官・菅は馬鹿と言い切っても良いと思います。

 

 

 

【伊藤詩織さんのセクハラ事件】

さて…多くの人が

「まくら営業」という言葉に疑念を抱くと思いますが、

「まくら営業」が成立する過程を考えて見て下さい。

まくら営業は、権利であり権力を持った相手が、

その行為によって人選の判断を行う事で成立するモノで、

営業を掛けた側の意図は、

その心情を計る意味としては真意を見極めるには難しく、

むしろ力による圧力の過程が成立する事実のみを参考に考えるべきです。

 

いわば力を持っているからそういう環境を利用できるのであって、

力に従う側はそこに忖度する必要性が必ず生じるという事です。

 

とは言え、力を持つ側が、

相手に愛情ないし何らかの配慮を持っていたのなら、

その行為は憂慮されるべき話で、

それが明確に示されないのなら、

いわば約束の代償=相応のプレゼント等が

発生していないのなら、

力による強要で相手の権利を侵害した

だけの行為と見なされるべきなのです。

 

いわば俗語で言う「やらせた」場合でも、

やった側は快楽という利を得た訳で、

そこに行為に対する「対等性」が成立しなければ、

「やらせた側」は不快を得た上、快楽に利用されただけの心情が残り、

「やった側」にいい様に扱われたという侮辱だけが残る訳です。

寧ろ、「やった側」は快楽を得たこととその優越感を得るわけで、

行為自体の中に「心の対等性」は無いと言えます。

 

やった側に恋愛感情がある場合は、

それ相応にその事を感謝する気持ちが出るものと思われ、

その気持ちを受けるか受けないかは相手側の裁量と成る為、

この場合の「心の対等性」は成立するものと考える。

 

現状、裁判の証言で、心の対等性を示す部分は感じられず、

相手が被害者に一方的な言い分で、

寧ろ被害者を誹謗中傷した感じに成っているため、

被疑者に同情する話ではない。

ハッキリ言って男として恥じる存在である。

と、オッサン先生ですら言ってます。

 

男性であり女性で有っても、

力に寄り添ってくる可能性の有る状態で、

それに乗っかったとしても、

その相手を配慮する気持ちが無いのなら、

そういう事をするリスクは考えるべき話である。

寧ろ人として、異性として大事に考えるのなら、

それ相応に「心の対等性」を示すのが、

リスクを回避する意味での証拠になる。

そういうケアが出来て、男としては紳士となる。

 

寧ろこういう紳士的な考えのない男性は

逆に恥ずかしいので淘汰されて欲しいとも言える。

これは現代社会では女性側も気を付けるべき話で、

淑女では無いにしても才女として考えるべき事とは言える。

 

紳士的な姿勢が示されないのなら、

そこに「心の対等性」は意識されていないと判断するのが賢明で、

それが心的外傷を与える要因となる事は、

「相手を思いやる気持ち」を考える日本の常識として、

理解するべき事と言え、「和」を語るのなら、

寧ろそういう考えは浸透させるべき意味を持つ。

 

また被疑者に同調して、ツイッターで「いいね」した行為は、

法律上で裁くほどの意味は難しいが、

法律上で問題視された時点で、

そういう考えを世の中に示した行為は、

寧ろ、社会が人間性を疑う部分として問題視するべきである。

政治家であるなら寧ろ政治生命を絶ってしまう方が良い。

 

【アメリカの大統領選】

2016年のトランプvsヒラリーは、

嫌われ者同士の選挙で、

何方がベター(マシ)かで争われた。

2020年のトランプvsバイデンは、

嘘つき同士の選挙であるが、

何方に成った方が

敗者側の心情をより絶望感に浸らせるかで考えた方が良い。

 

恐らくトランプの再選は、バイデン支持者を絶望感に浸らせる

完全に米国を分断する結果と成るだろう。

そういう意味ではバイデンが勝つ方が、

トランプ支持者はまだ絶望的に感じない。

そういう選挙と言える。