うつけの兵法 第七話「修練」 | ショーエイのアタックまんがーワン

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第七話 修練】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

熱田の遊郭を訪れた吉法師は、

芸子さんたちにのせられるがまま楽しい時を過ごした。

芸子遊びを楽しんだり、

さらには信秀らを前に、

養徳院仕込みの舞踊を披露した。

この時に吉法師は敦盛も舞っていた。

芸子さんたちが小鼓を打ち、歌を奏でる中で、

吉法師は舞(能)を踊って見せたのである。

子供ながらも美しい線を描くその舞は見事なもので

芸子さん達もその愛らしさと能美に賞賛を与え、

吉法師はノリノリで楽しんだ。

 

信秀自身も時折その舞に参加して

吉法師と楽しく戯れ、

供回りとして参加した政秀や盛重も混ざり、

場は大いに盛り上がった。

 

この時、吉法師が感じたものは見せるという快感である。

自分を美しく表現する事で承認欲求が満たされる…

そういう快感を覚えたのである。

その後も、

戦の前に舞いを踊り、自ら茶を煎じるなど、

また行儀作法などに関しても同じくして、

自らを美しく表現するツールとして意識する事と成るのである。

 

織田信長という荒々しい経歴の中で、

真逆とも言える作法の部分が史実として残るのは、

幼少期に受けた感銘と快感が基であると考える方が自然と言える。

史実には残される事の無いエピソードであるが、

おそらくこうしたエピソードが実際には有ったと考えなければ、

信長と言う人間構成を表現することは難しいのである。

 

そして熱田を堪能した吉法師は、

今度は徐々に初陣へ向けた教育を受けて行くのである。

 

10歳までの吉法師は政秀の指南の下で

武術の基本は学んでいた。

政秀が教えた基本は、そもそもが基本で、

いわば「素振り」というものでしかない。

寧ろ政秀は「素振り」を徹底的に仕込んだと言っても良い。

 

吉法師も無論、単純な「素振り」だけと言うのであれば

退屈に感じたであろう。

剣道の様にただひたすら竹刀を振って鍛錬するような光景であれば…

実際の武家の鍛錬はそうであったとする方が適切であろうが、

吉法師、いわば信長自身が実は武技に精通していたと考えるなら、

より特殊な教育があったとする方が面白い。

 

大陸の武術で少林寺拳法であり、また太極拳を参考に

この特殊な鍛錬を説明すると、

型という基礎を体に覚えさせることで、

体が瞬時にその動作に反応できるように鍛錬するモノと成る。

いわば人が前に倒れる際、

条件反射で手が前に出てしまう様に、

ある条件に遭遇した際、条件反射でその動作を発生させる事こそが、

最大の武器、いわば瞬発力として機能する部分に成るのである。

実はスポーツの世界でもここの部分はまだそこまで意識はされていないが、

基礎的な動きの練習と言うのはそこに基づく部分である。

サッカーで言えばリフティングだが、

脚とボールの感覚を基礎的に覚える事で

ドリブルやパスの際に使う微調整の技術として応用されると考えるべきである。

しかし、才能の有る選手はそれでも感覚を覚えるのだが…

 

禅から生み出される静動の流れ…

さて少林寺拳法の始祖とされる達磨大師がそこまで伝えているかは定かでは無いが、

科学的な見地と検証から

実はこれを基礎とすることが一番望ましいと言える。

禅とは精神の集中である。

基本的に考えられる禅は座禅の様に動かず無心となる修行であるが、

禅そのものを言うのなら、「気」という見えない物質を想像力で操る事で、

その動作に脳から集中力を与えると言うのが科学的に説明できる原理なのだ。

座禅は不動という体の体感を無心で維持する為の修行で有り、

様々な「欲」や「苦痛」を親指と親指の間の気を練る事で

意識転嫁するいみの修行である。

※残念な事に、仏教徒でもここまでの意味は理解していないのは事実です。

実際に座禅を行う際に、重ねた手の親指の間が少しだけ空いている状態を意識して、

両方の指で体温を感じる程度の距離を意識して、

それを保つ様に集中してみて下さい。

目で見ながら触れている感覚と、わずかに空いている感覚、

そして離れすぎた感覚を確かめるようにして始めると

徐々に理解できると思います。

そしてその指が触れた感覚と、離れているという感覚を意識しながら集中すると、

科学的な意味でも集中力がそこに高まり、

そこに没頭する事で時間を忘れてしまうという原理が発生します。

座禅の意味をを科学的に分析すると実はこういう話なのです。

因みに長時間その感覚を維持すると、

親指通しが最初より離れた状態に成ります。

その離れた感覚だけ「気」が練られており、

「気」を通じて指先の感覚が維持されていた事を痛感できる現象と成ります。

 

実際に太極拳をこうした意識の下で行うだけでも、

かなりの達人に成れるのです。

ただ意識無く踊りを踊る感覚で有ればあまり意味が無いのである。

 

こうした基礎は日本舞踊や能楽にもあり、

日本舞踊がゆっくりとした流れで披露される事は、

それだけつぶしが効かずに綺麗な形を見せないと成らないわけです。

腕の振り一つにしても、真っすぐと綺麗な弧を描かねば、

その美は表現されません。

その美が崩れない様に腕に神経を集中させるわけで、

腕に神経を集中させてゆっくりとふる事で、

脳から神経を通じて筋肉に正確な形を認識させていきます。

いわばそこで脳が筋肉に正確な動きを伝える訓練が為され、

筋肉はその動きに合わせて形成されていくわけです。

 

そして同じ動作を素早く行った場合でも、

同じ伝達方式が自然と発生する為、

美しい形のままを保った状態に成るわけです。

いわば体に癖をつけるという意味です。

 

日本刀を用いて綺麗に物を切るという事を意識した場合、

現代人は包丁の使い方を参考に考えると良いでしょう。

いわば魚をさばく包丁の入れ方…

手前から引くように切るという意識が大事に成る訳ですが、

刀を用いた場合も実際は同じなのです。

そしてその接地面がブレたりよれたりすると、

それだけ切れ味は落ちる…

いわば切れが最大限に作用する真っすぐな直線から逸れてしまうのです。

 

こうした意味を簡単に理解したい、子供に理解させたいのなら、

ノコギリで板を切ってみれば解ると思います。

ノコギリの刃が板を切る線から少しでもよれたら、

それだけ切りづらい感覚は体感できますので…

 

更になぜゆっくりとしたモーションが効果的なのかを意識する上では、

サッカーのシュートモーションをスローモーションのようにやってみれば解ります。

早いモーションでは重心で軸が動くため全く感じられない

軸足の軸の基礎部分が、遅いモーションではハッキリと意識されます。

いわば軸足で立っている時間が長くなる分、

その状態を維持する難しさを痛感できるのです。

この軸足のブレない状態を維持する事が体感と呼ばれる部分になり、

シュートの制度であり、誰かと接触した際の強さの部分として鍛えられるのです。

 

スポーツの練習ではゆっくりとした基礎的な動きを素振りで、

シュート練習の様な実戦的な練習では早いモーションで鍛える事で、

効果的な練習に成ると言えるのです。

 

さて…吉法師が受けた、いわば科学的な特殊トレーニング。

史実を元に可能性を探ると…

信長が好んで敦盛を舞ったという部分で察せられる話に成ります。

また、信長自身前線で戦う事がしばしあったという記述が多くあり、

桶狭間でも今川義元の目の前に信長居た事は、

その供回りの者が首を取った事でも理解できます。

また筆者が気付くレベルは天才信長なら気付くはずという点でも、

あえて根拠とします。

いわば禅の精神にしても、動作の基礎を痛感する過程においても、

気付けるレベルと言う意味で考える話です。

 

ただし、信長自身が剣豪で有ったという事は無く、

また平手政秀も剣術に精通していた訳でもない為、

あくまで盛り過ぎなエピソードでは有るが、

武術を極に持って行く話として意識してもらえればと思います。

 

吉法師が受けた「素振り」は、いわば剣舞である。

剣舞と言っても大陸のものでは無く、

日本刀を切る意味でその型を能楽の動きとして採用したものである。

ゆっくりと正確な動きを、舞を教わる中で仕込んだ。

吉法師自身も舞を覚える事は好きであり、

芸達者な養徳院が見せる舞の美しさに

吉法師が憧れを抱くのも当然の流れとして意識される。

 

政秀が優秀な教育者であったと仮定をするのなら、

寧ろ教え子が興味を持つ部分を察して、

そこに組み込んで教える事は考えるだろう。

そいう過程も想像すると、

能楽式の剣舞という素振りは可能性があるとも言える。

 

10歳までに基本的な動作を身に着け、

更に信長自身蹴鞠も好んだという話から、

蹴鞠なども嗜んで、

体の体感部分は十分に備わっていたと考える。

 

そこから今度は初陣に向けた教育が行われるのだ。

 

初陣に於いては

先ず馬を自分で乗りこなせなければ成らないという条件が

合ったことは史家も察するべき話である。

馬を乗りこなせない事は退却の際に致命的に成る訳で、

そんな子供に戦場に出向かせることは先ず有り得ない。

基本戦国武将の初陣が13歳位であった点も踏まえると、

現代の競走馬として主流のサラブレッド無く

木曽馬という一回り小さい品種なら、

その年齢が乗りこなせる意味としても理解できる。

 

10歳を過ぎた吉法師には生まれて間もない仔馬が宛がわれた。

いわば12歳から13歳での初陣を想定した際に、

仔馬は2歳から3歳位に成っており、

競走馬の世界で言えば丁度乗り頃の状態に成る。

仔馬を宛がう事で馬と心身一体に成る事を期待されると考えたのである。

吉法師はペットとして仔馬を可愛がり、

その仔馬の成長と共に乗馬も覚えて行った。

気の知れた相手故に双方に安心感も生まれ、

仔馬の調教過程を通じて吉法師自身もそういう調教面を学んでいった。

実際に合理的すぎる程、合理的な教育を受けたことに成るが、

方便でモノ言うならば、

合理的な教育を吸収する事で真の天才は生まれるのである。

 

戦国の教育方針の細かい部分がどこまで残っているかは不明だが、

初陣で有り武将として馬を操る意味で考えた場合、

こうした方法は当然して考えられたとも言える。

いわば織田弾正忠家が特別では無く、

戦国の世では当たり前だったする方が正しい。

これが江戸時代に成ると戦争が無くなり、

初陣と言う儀式も廃れたため、

知らず知らずの内に仔馬を宛がう教育も消えて行ったのではと言える。

 

吉法師は仔馬に天翔と名付けた。

天翔ける馬という意味で、政秀が教えたものだが、

吉法師もその名前を気に入った。

しかし、「てんしょう」呼ぶのが何気に堅苦しいと感じたのか、

次第に「たま」と短くして呼ぶのである。

 

吉法師はたまを本当に可愛がった。

たまもそんな吉法師に良く懐いたのである。

吉法師は犬の散歩の様にタマと城内のアチコチを歩き回り、

タマに色んなことを語り掛けた。

タマはそれを理解しているかのように聞いた。

無論馬が人間の言葉を理解することは無い。

しかし馬も人間の表情を読み取ることは可能で、

賢い動物なら、その表情や言葉のトーンで

様々な気持ちを読み取ることくらいは出来るのである。

 

吉法師が喜ぶ時は、

タマも同じように首を上下に振ってブルブルと鼻息を荒くして喜び、

吉法師が悲しんでいるときは優しく舌でなだめるのであった。

 

タマの成長と共に、吉法師も徐々にタマの背中に跨る様に成る。

政秀が自分の馬で調教の仕方を教え、

吉法師がその通りに調教していくと、

タマは素直にそれを覚えて行った。

 

信頼し合う関係で、

タマは自分の背中に跨る吉法師が落馬しない様に気遣う心も生まれたのだろう。

または吉法師が英才的に培った体感の良さもあってか、

吉法師の乗馬術は見る見る内に上達していくのである。

 

こうして初陣に向けて馬を乗りこなす訓練を受けていた一方で、

本格的な戦術の訓練も始まった。

 

武術の指南として政秀が招いたのは、

やはり佐久間盛重である。

 

盛重が指南役と成る上で一点だけ吉法師の父信秀頼んだことがある。

それは…吉法師を殴っても良いか…という事だ。

いわば戦での恐怖心んを克服する上で、痛みを克服せねば、

立派な武将に成れないという意味である。

その言葉に無論信秀は、

「構わぬ…厳しく鍛えよ!!」

と、許したのである。

 

吉法師が盛重の指南を受ける際に、

後に信長の近習となる子供たちも一緒に宛がわれた。

無論弟分の小政(池田恒興)は勿論のこと、

桶狭間の時に、信長に真っ先に従った、

岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守らがほぼ同年代として招集され、

そして熱田加藤家の次男、加藤弥三郎と

熱田神宮宮司の息子千秋季忠に

佐々成政などが居た。

結局、彼らが信長の悪童の仲間であり、

それ故に桶狭間でも信長と共に行動したと考える方が良い話に成る。

 

盛重の教え方は厳しいというより寧ろ優しかった。

とは言え、先ず盛重が行った稽古は、

痛みに耐えるという物であった。

何故この稽古が必要であったとされるかと言えば、

戦での恐怖心は痛みを恐れるところから来ると言えるからで、

これを克服できていない武将は、

先ず自ら前線に立つようなことは出来ないと言える。

 

かといってスパルタ教育の様にすれば

子供はトラウマを抱える危険性が有るのだ…

 

盛重は先ず子供たちに木刀を持たせて軽く叩くように命じた。

盛重自らは吉法師を木刀で軽く叩いて先ず手本を見せた。

 

「この様に軽く頭を叩く感じじゃ!!」

 

盛重は緩やかにコツンと吉法師の頭を叩いた。

そして、

 

「若?!痛かったですか?」

 

と、恐る恐る聞くと、

吉法師は平然とした様子で、

 

「全然、痛くないぞ。」

 

と、言う。

盛重は他の子どもたちにも同じ感じで叩きあうように指示した。

すると子供たちは笑いながら軽く叩き合った。

そして今度、盛重は吉法師に木刀を渡して、

 

「今度は若が叩く番です。さあ、盛重の頭を叩かれよ。」

 

と、言って吉法師に叩かせた。

無論、吉法師は遠慮気味に同じ程度で盛重を叩くと、

 

「若、それではハエが止まったくらいにしか感じませぬ…もっと強う叩いて下され」

 

と催促した。

吉法師はその言葉に遠慮なく今度は振りかぶって盛重の頭を殴った。

 

ゴツン!!

 

明らかに痛そうな音が聞こえたが、

盛重は何気に気持ちよさそうな素振りを見せて、

歌舞伎役者が台詞を奏でるように、

 

「いや!!いとうない(痛うない)!!あ!!いとうないぞ!!」

 

と言い放ち、歌舞いた振りを付けて見せた。

盛重の茶目っ気溢れる演出に子供たちは喜び、

その様子を楽しそうに笑った。

 

そして盛重は子供たちにまた軽く叩きあう様に指示をして、

叩かれた方は自分と同じセリフで歌舞くように教えた。

無論、吉法師もその流れに乗っかり、

盛重が吉法師の頭を小突くと、

吉法師は喜んで、

 

「「いや!!いとうない!!あ!!いとうないぞ!!」

 

と真似るのであった。

こうして盛重は暫くの時間を掛けて徐々に叩く力を強くして、

痛みを笑いで吹き飛ばす訓練をしたのである。

すると吉法師を中心とした子供たちは

痛みに耐えて歌舞く強さを競い合うのであった。

しかし実際に痛いもの痛いのであり、

まだ我慢しているレベルなのである。

 

そうして半月が過ぎると、

今度は盛重は痛みを感じない方法を子供たちに教えたのである。

先ず盛重が手本を見せた。

子供たちの目の前で体全身の筋肉を硬直させて、

気合を入れるポーズを取った。

そして吉法師に思いっきり自分を叩いて見せるように言うと、

その吉法師の振りかぶった木刀が盛重の体に当たるや、

バキッ!!

と音を立てて割れたのだ。

子供たちはそれを見て仰天した様に驚いた。

痛みを感じていないというより、

寧ろ盛重の超人的な肉体で木刀を逆に割った事に驚いた。

無論、盛重はそこに興味を持たせるために、

木刀に割れやすい細工を用いた事は秘密である。

寧ろそうでもしなければ子供の力では無理があるからだ。

 

盛重が子供たちに意識させたかったのは、

鍛錬を積むことで痛みどころか

それを超越した力を得られるという事であった。

 

そこを意識させて子供たちに鍛錬の大切さを感じさせ、

心身共に鍛える事の目標とさせる意味であった。

無論、盛重もそういう鍛錬のやり方を教わった故に

強い武将と成った訳である。

 

無論、まだ子供たちに、

そこまで思いっきり叩き合うように指導はしていないが、

痛いと感じるレベルで我慢する程度には進んでいた。

そして子供たちに気合の入れ方のポーズを教えて、

叩かれる瞬間に大きな声で、

「シャぁぁ!!」

と、気迫の声を上げるように指導した上で、

お互いに叩き合わせたのである。

 

こうした興味をそそって楽しく教える授業は、

現代の学習塾でも考えられているモノで、

それがあるか無いかで子供の吸収力も変わってくる事は、

現代人でも理解できる話だと言える。

 

そして吉法師に対しては

盛重自らが調整しながらそれを行い指導した。

 

「若!!行きますぞ!!」

 

と、言うと

吉法師は

 

「シャァァァ!!」

 

と気合を入れてその一撃を受け止めるのであった。

すると吉法師は全く痛みを感じないことに気づいて、

驚いたように盛重を見上げた。

 

「おお!!本当にいとうないぞ!!」

 

すると盛重は吉法師に、

 

「痛いと怖がるから痛いのです。痛くないと思えば痛くないものなのです。」

 

と、伝え吉法師に今度は木刀を渡して

 

「では若…その木刀でまた思いっきり私に切り付けてきなされ。」

 

と言った。

そして吉法師の目の前で跪いて、頭の位置を下げた上で、

 

「さあ、私の頭に目掛けて振りかざしてみて下され」

 

と、促した。

吉法師は言われるがままに盛重の頭に木刀の一撃を浴びせると、

盛重はその動作を凝視するようににらみつけたまま、

両手で見事な白羽取りを披露した。

それを見た吉法師も子供たちも大いに驚いて、

驚嘆の喝さいで声を上げた。

 

おお!!

 

そして盛重は、

 

「相手の攻撃が当たると痛いから、その攻撃が怖く見えるのであって、

痛くないと思えば、その攻撃は怖くは無いので逆に良く見えるのです。」

 

そして、

 

「今度はお互いに木刀を以て、攻撃をかわす練習です!!」

 

そして盛重は別の木刀を取り出して、

 

「では・・・若、私の攻撃をその木刀でかわしてみて下され」

 

と言って軽く攻撃して見せた。

縦に上段から振り下ろす攻撃を吉法師は木刀を横に構えて防いだ。

その動きを他の子らにも見せつけてお互いに同じように防御するように指南した。

 

こうして盛重の始めた基礎訓練は、

痛みを恐れぬ気合の鍛錬、そして防御の型を仕込んだ打ち込みを覚えさせ、

更には相手の隙を伺う切り付けを仕込んで、

より実践的な剣術を教えて行ったのである。

それ故に吉法師は元服する前に怖いもの知らずの少年へと成長していくのであった。

 

一方の弟信行の方は、柴田勝家より指南を受け、

基礎的な素振り、そして組手などで普通に剣術を仕込まれるのである。

いわば恐怖心を克服するモノでは無く、

技と技術のみを教わったという感じである。

 

剣術の鍛錬に加えて吉法師ら子供たちは

書道であり、兵法などの教育を学校の様な形で受けるように成る。

しかし、それらの指導は寧ろ実践的でなく、

ただ兵書を読んだり、字を覚えたりするだけで、

実に退屈なものであった。

 

思春期を迎えて

さらに剣術の鍛錬によって恐怖心という部分が克服され、

怖いもの知らずな状態で成長すると、

徐々に悪童化し始めるのである。

喧嘩の強い子の素行が悪くなるのは、

ある意味こういう心理要素が生まれからとも言える。

いわば師として招かれた者たちの顔色どころか、

政秀の叱責すら怖くなく成り、

むしろ我がままな性格を前面に出して

なりふり構わない生活を送るように成るのである。

 

ただ、実践的な事を教えてくれる佐久間盛重だけに対しては別で、

吉法師を含めて子供たちは彼の授業だけは一生懸命に受けたのであった。

 

そんな吉法師が12歳にも成ると、

愛馬タマも立派に成長し、吉法師を乗せて自由に走り回れるように成った。

吉法師は無駄な授業は全て放り出して、

岩室、長谷川、山口と熱田の加藤や千秋らと城を抜け出して、

那古野の城下は勿論、熱田などに繰り出して

遊び始めるのであった。

 

逆に佐々成政と小政(池田恒興)は吉法師より2歳若く、

馬を乗りこなす前でも有って、

素直に授業を受けていたと考えられる。

 

こうした中に、7歳と6歳に達した前田兄弟…

いわば利家と佐脇良之が入ってきた時期でもあり、

後の信長との関係であり、成政と利家の関係を考えれば、

そういうグループであったという事も想定できる話である。

これが悪童の絆とも言うべきか、桶狭間の戦いの絆を生むのであった。

 

無論、政秀は吉法師が授業を放り出して城外に遊びに出る事を叱りはするが、

寧ろそれも社会勉強と割り切って見ていた。

吉法師の好き嫌いの激しさは理解もしており、

退屈な授業を強いるものより、

盛重の様な合理的な授業を好んでいる時点で心配はしていなかった。

寧ろ信長の父・信秀の若い頃を知る政秀は、

(大殿もあんな時期があった…)

と、感じるのであった。

 

そうした中で政秀は沢彦宗恩に相談したのである。

それでも武家の者としてそして一軍の将として

兵法などは大切な事である。

いわば政秀は如何に吉法師にそういう部分の興味を持たせられるか?

それを沢彦に相談したのである。

 

そして沢彦は吉法師の成長ぶりを聞いて大いに興味を持ったのか、

自ら吉法師に会って自分の住まいの寺に遊びに来るように誘ったのである。

吉法師も堅苦しい話では無く、寧ろ遊べという沢彦に好感を抱き、

喜んで沢彦の下を訪れるのであった。

 

さて…この小説が太田牛一の「信長公記」が

公式の書物で無いと言った点を改めて説明しておこう。

太田牛一の経歴を見ると、

元々は織田家の主筋に当たる斯波家の家臣で、

信長に仕えるのは1554年頃からだとされる。

最初は柴田勝家の足軽衆として使え、

弓の腕を見込まれて信長の近習と成ったと記録がある。

とは言え実際は信長の側近と言うよりも、

丹羽長秀の下で働いていたようである。

 

では、信長公記は何時書かれたか?

1581年までは太田信定という署名で文書が残っており、

牛一の署名で確実に残るものは1589年からであるそうで、

信長公記が執筆されたのは1582年の本能寺の変以降とも考えられる。

いわばこの小説でも話したように、

信長の記録が明智光秀に消された為、

太田牛一が変わってそれを残そうとしたとも言える。

 

その分、太田牛一の信長公記は

年代の事変だけを参考に見る上ではほぼ正確なものに近いと見なされるが、

内容に関しては全く正確性が無いとも言える。

 

例えるなら、吉法師が城主となった那古野城の家老衆の序列を見ると、

第一家老 林秀貞、第二家老 平手政秀、 

第三家老 青山信昌、第四家老 内藤勝介と成っているが、

 

何れも信秀の家老序列で有ったと考える方が適切である。

いわば林秀貞も平手政秀もそういう立ち位置であり、

信秀の死後、それ以外に有力な家老が居ない時点で、

信長付き家老とするのは腑に落ちない話に成る。

 

そしてこれは信秀の葬儀の際にも同じ序列が見られる。

信行方の重臣は柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛とされており、

実は1552年の信秀の死んだ頃の年齢的な部分で見ても、

林秀貞40歳、平手正秀61歳、内藤勝介不明、青山信昌不明

柴田勝家31歳、佐久間盛重不明、佐久間信盛25歳

と成っており、

林、柴田は信行に付き、平手、佐久間両名は信長に付いている事でも、

意味不明な話になってしまう。

 

寧ろ嫡男側の序列に家老を、次男側にその下の重臣を参列側として記録したとする方が、

適切になる。

また、太田牛一自身はこの当時斯波氏の家臣であったとする事も有り、

実際に当時の斯波家側の話を記憶して記述したのか、

それとも誰か織田家家臣に聞いて記述したのかは定かではない。

青山信昌に至っては、1542年の時点、信長が生まれる前に死んでいるという記録もある。

ただ、こうした太田牛一の記録から見れる事は、

林秀貞が信秀の参謀的な存在として重宝されていた事と、

信秀が41歳で死んだときに、40歳と年齢も近かったため、

信秀幼少時からの供であったという点も察せられる。

寧ろ平手政秀は信長の祖父に当たる織田信定から引き継いだ家老であったとも言える。

 

こうした記述以外に太田牛一の記録は合戦の記録でも曖昧に表現されており、

信長と信行の戦、稲生の合戦を見ても、

信長が一喝して劣勢で追い込まれた状態を打開したななんて、

漫画の覇気でも使ったかのような記述で終始している。

この辺はうつけの兵法で

詳しい戦い方は説明していくものとします。

 

こうした意味で信長公記の話は曖昧過ぎるという意味で伝えており、

信長公記の話では辻褄が合わなくなる事が多すぎるのです。

いわば科学的な分析の上で参考にする点はあるが、

その記述通りの内容で記すつもりは無いという事です。

 

さていよいよ悪童に成りつつある吉法師が、

沢彦の下で何を学ぶのか…

 

実戦教育と卓上教育。

信長と信行の差が大きく出る分かれ道と成るのです。

 

どうも・・・ショーエイです。

歴史の記述と言うのは実に曖昧なものが多く、

日本では文化的であり流行などの記録は

西洋と比べるとあまり残っていない様に思えます。

 

無論、残された芸術作品を参考に

色々な分析を行っていく訳ですが、

それでも城や寺社同様に、

戦禍で焼失したものも多く見えにくい事も多々あるのは

学者さん達を悩ませる部分なのでしょう。

 

伝承や祭りとして残される部分などを伝っても

実際には限られた部分しか解らず、

決定的な事は何も言えないというのが現実で、

どれだけ議論を重ねようとも

基本的には全てが仮説に成るのです。

 

と、ここまでは学者さんを立てて話ですが…

日本の学者さんたちは何処まで精通しているのですか?

 

過去の小説にしても、

色々な解説を見ていても、

信長たまの話に関しては全く雑なのです。

 

司馬遼太郎先生の国盗り物語の信長では、

司馬遼太郎先生の真意だという部分で理解し、

そういう表現故に小説として楽しめた訳ですが、

「信長が何を考えていたか解らない」とする記述が

多々あります。

 

桶狭間の戦いを想像で色々研究している資料を見ても、

何故勝てたのか?

それすら解っていません。

雨が降って運が良かった…とか、

今川が油断した…とか…

いわばハッキリ言って兵法に精通していない歴史家が

資料だけを充てにして色々言っているだけの話にしか感じないのです。

無論、歴史に精通しても兵法に精通しても無い

一般の人にはそんな細かい事は興味すら無いのでしょうが…

桶狭間の話に関して言えば、

実はこれ呉子の兵法を読めば理解できる話なのですが…

信長たまがうつけであったとする意味で、

呉子を理解できているはずが無いと決めつけている時点で、

実は無知と言える話で、

日本人が如何に天才の領域を知らないかが伺えるのです。

 

天才の領域は、

孫子を知らずして孫子を語る。

いわば孫子が見つけた兵法は天才であれば知らずとも見いだせる。

孫子はその洞察力で自らの兵法としてそれを記した訳で、

同じ洞察力を以て人間を観察し、様々な現象を察すれば、

自ずと同じ景色にたどり着くという事です。

 

実は「うつけの兵法」という意味はこういう意味なのです。

 

何故、オッサン先生がこれを知るのか・・・

孫子を知らずして孫子を語れない自分は、

孫子の領域に達せない事を知っていたから。

だから孫子を若い頃あえて読まなかったみたいです。

 

インターネットが復旧して色々簡単に調べられるように成ると…

逆に孫子の内容を逆引用する感じに成ったそうです。

孫子ならコレ言ってるはずだ…

それが偶に呉子だったり、六韜に書いてあったりする内容だったりするわけです。

 

オッサン先生は自分が天才かどうかなんて事より、

天才の領域に挑戦してみた人な訳で、

まあ、勘違いからのチャレンジャーという方が良いのかな。

もし、若い人で同じチャレンジをする人が居れば、

多分出来る領域とも言える話です。

 

これは寧ろ法律も同じ。

人の社会を統治する上で、何が大切かを理解すれば、

自ずとそれが法律に成っている。

あとはその法律の文章を見つけるだけなのです。

だから日本の法律やら憲法を読んだとき凄く驚いたみたい。

実に素晴らしいく、殆ど申し分のない状態で構成されている。

寧ろ司法の人間がこれらの保護法益を理解していない事が悩ましい。

 

前話で解説した信長たまの治世。

そこは盛り過ぎだろうと感じたのならそれは大きな間違いだそうです。

寧ろそこまでやらないと成立しない話なのです。

いわばファクターX=信長の軍隊が徴兵で無く自衛隊の様な専門兵であった

とするならばその原資をどうしてたかが方程式の様に発生する訳で、

税の徴収だけの話なら、三好長慶ら他の戦国大名も同じ事が出来た。

いわば堺の商人を後ろ盾にしていた三好長慶、松永久秀の方が

本来財政上有利に成るはずなのに、

信長は尾張、美濃を支配するだけで、

遥かにそれを凌ぐほどの力があった。

関所を設けて人の出入りに気を使っていた時代に、

信長は関所を撤廃している。

このファクターYを考えると何故それが可能だったのか?

いわば情報が簡単に他国に漏れてしまう危険性も有ったわけだが、

それを差し引いても織田軍団は強かった。

その理由は簡単で、

信長の治世が住み心地が良く、

他国から寧ろ入る人間の方が多く、出る方が少なかった。

さらに出る情報と出ない情報をコントロールする術を有していた。

 

多分、こう説明しても

その合理的なシステムは理解できていないと思います。

 

さて…ここからは天才の領域の話です。

魔仙妃という話でこれを記そうとした内容でもあります。

 

普通の人は全ての情報を隠そうとして、

その秘匿性を武器に戦おうとする。

ところが天才は相手が知りうる情報を把握して、

その条件の中で戦う方法を考えるのです。

 

いわばどういう情報がどのタイミングで他国に流れるかを知った上で、

その情報を利用して相手をかく乱するのです。

これサッカーで言うならフェイントみたいな効果に成ります。

 

また情報が漏れていないと信じるより、

情報が洩れていることを想定する方が

相手の奇襲にも備えられる訳で、

寧ろ天才にとっては逆にその方が戦いやすいのです。

 

いわば米国の様な国を相手に戦う事を想定した場合、

衛星やらスパイが潜入している事を想定して

それらによって情報が筒抜けに成っていると割り切った上で戦うのです。

情報が漏れていないことの方が勿論、戦いやすいが、

情報が漏れていないと思い込んで戦う方がむしろ間抜けな結果を生むのです。

 

その上で孫子の言葉

己を知り、敵を知れという応用です。

自分の指示や言動がいつ為されたかを常に把握し、

その言葉が一番早いどのタイミングで洩れるだろうかまで把握する。

これ「天命を受けたもの」の思考でも有りますが、

「天知る、地知る、己知る」

を常に意識して、

自分が知りうることは相手も知りうることと

常に隠し事はバレると覚悟しなければ成らないという事です。

更に戦いに於いて証拠が無いからバレないは関係なく、

怪しいと疑われた時点で嘘も真も関係なく、

それに備えてくるのが当然なのです。

 

そこまで冷静に察した上で、

戦っても多くの犠牲が出る。

戦っても勝利を得る事は無いと判断するなら、

寧ろそのフィールドで戦う事は避けて外交によって他のフィールドを模索するのです。

 

合従連衡などはそういう発想の転換を齎したもので、

外交によって大きな敵より大きな連合で挑めるのなら、

それによって敵を退ける方法を用いるのです。

そしてその大きな敵が野心的な動きを封じるように成るなら

外交によって平和を構築する形で模索するのです。

 

いわば合従連衡によって戦う事を考えるより、

むしろ相手をそこに組み込む形で懐柔する。

古の合従連衡の失敗は、そこまで考えなかった点にあると言えます。

 

これも孫子が外交を以て敵を制する事が上策で有り、

戦争は最終手段とするべきだと言った言葉もその通りなのです。

現代社会で見るなら国連はその合従連衡の成り立ちで、

加盟国がお互いの戦争と言う部分を意識すると崩れ去る。

むしろ経済的な繋がりを以て、

全てがその繋がりに依存する形で

戦争という手段が大きな損失しか招かない最低最悪な愚策と成るまで、

軍事に於いては均等を保ちつつ、

対話によってまた対等な関係を重視して、

一つの連合国というものを目指すことを上策とするべきなのです。

 

天才は常に勝負に勝つ事に執着せず、

如何に有利な形を自分で作るかを模索するのです。

そして敵よりも結果として圧倒的に成ろうとするのです。

今までの米国は寧ろそういう国で、

どういう技術を有しているかをほぼ公開しています。

その上で圧倒的な経済力と圧倒的な軍事力を構成する事で、

他国よりも常に有利な条件で行動できるのです。

圧倒的故に戦争で勝てなくとも、

敵が自国内に攻め込んでくることは避けられる。

いわばそれだけの戦力がまだ後ろに控えているという状態なわけです。

 

敵が米国の動向を監視しても、

米軍が動けばどうしようも無くなる。

空母を派遣したというだけで相手を威嚇もできる。

 

信長の考え方はそういう圧倒的を構成する事ゆえに、

関所などは必要なく、情報が出る事すら気にしない。

寧ろ情報が出る事で、人が自国の魅力に興味を持てば、

それは宣伝効果を齎すわけで、

そこで集まった人が自国内に留まれば、

それだけ人口が増え、農業や産業が活発化し、

商業にもそれだけ需要が生まれる。

農民にも金を握ぎらせる事で、

それだけ買い手も増えるわけで、

それによって経済が潤えば、

税率は少なくとも多くの税収が齎される。

誰もが自由に商売でき、誰もが自由に買い物が出来る。

故に需要が生まれやすく、供給する側もその労力を厭わない。

働いても働いても苦しい生活が続く人たちからすれば、

働けば働くほど潤うという世界は魅力的です。

 

これは資本経済の基本的な原理で有って、

結果アメリカに人が流れようとするように、

そういう魅力的な社会に人が流れる訳で、

優秀な人材もそこに感化されて集まりやすくなる。

 

天才は如何にこういう有利な形を構築するかを考えるのです。

実はこういう事も「呉子」に書いてあるみたいです。

 

【天才の発想は意外に単純な所から来る】

大きな都、大きな街を構成する上では、

人がそこに集まれば良いというだけの事です。

そこからどうしたら人が集まる場所に成るかを考えて、

人が暮らしやすい社会を作れば良いという簡単な発想を思い浮かべる。

 

頭の悪い人はこれを一気に改革しようとする。

日本の政治家の典型ですが…

 

天才はそこを目指して何から手始めに手を付けるかを考え、

微調整しながらゆっくりと改革するのです。

 

先ず信長が考えつくのは、農民の租税を低くした場合の、

兵力動員数です。

租税を低くしたい気持ちを目標にした際、

兵力動員数が減ってしまう事を危惧します。

しかし、信長は兵力動員数を少なく抑えて、

強兵を用いれば、それだけ必要な兵糧数は減る。

という事まで気付くのです。

凡人には何を言っているの?

という話に聞こえるでしょうが、

戦力に成らない弱兵=農民から徴収された兵は、

寧ろ騎馬でひき殺せば良いだけ。

戦いに不慣れで直ぐに怯えてしまう相手なら、

鍛錬を積んだ兵一人で2~3人は倒せる。

いわば無名でもボクサーを相手に

素人が3人で挑んでも勝ち目が無いという事に繋がる発想です。

そこで先ず信長は少数精鋭部隊を構成して、

その戦力状態や被害を分析して、

兵力動員数を押さえる事で、どれだけの兵糧消費が抑えられるかを

村井貞勝に計算させている。

(面倒だから絶対に自分でやらないのも知ってますby森蘭丸)

その計算の上でようやく農民への減税が成り立つのです。

 

〈米の売買〉

米は領主が租税で徴収して、余った分が商人に流れる仕組みに成っており、

そのやり取りで相場が決まる。

信長も同じようにやれば兵力削減で余剰米がそれだけ出る分、

利益が出るのではと成る。

しかし、信長からすればそこに興味はない。

寧ろ、街を大きくすればそれだけ収益が上がる事を目指すのである。

天才は自分の理想世界に頑固で有る。

普通の人は他がやっている事をそのままやれば良いと考えるが、

天才は他との差別化で更に上の段階を目指すのだ。

いわば熱田が今の熱田のままでは面白くなく、

その熱田を堺並みの商業拠点にするつもりで考えるのだ。

 

大阪都構想で大阪が大阪のままの発想なら興味はない

と、このブログで述べている様に、

大阪がシンガポールや香港を目指すためで無ければ

何の意味もないという考えである。

いわば大阪都構想にはそういう部分が存在していないから、

無意味なパフォーマンスであると断定するわけです。

 

熱田をより大きな市場にする為には、

熱田での商売が繁盛する事が現実路線で、

堺の様に外国との貿易を目指すには、

尾張という小国だけでは力が無い。

 

さて…どうするか?

 

ここで一つの方程式zが発見されねば成らない。

方程式zとは、商売として売れる産業である。

いわば熱田が扱う特産品である。

熱田は瀬戸焼という特産品を扱う事で

有利な環境にある事は説明した通りだが、

方程式zに結びつく上で、

信長がそれを知っていた事が大事となる。

その上で草鞋一つにしても、

品質の良い品物を扱えばそれは特産品となり、

商売で有利に働くことを理解する。

では、品質の良い品物を生み出すには?

 

楽市楽座は近江の六角定頼が既に行っていたともされ、

信長の独自の発想ではないと言われている。

しかし、楽市楽座を導入する事で、

農民は農業以外の産業を副業とすることが出来る訳だ。

 

そうした楽座に商人である加藤家の者を連れて行き、

品定めをして商品とすることで、

いわば良質の産業を見出すことに努める。

良いモノを安く買い取って高く売るのは商売の基本だが、

良いモノは多少高く買い取っても、

より高く売れるようにマネージメントするのが投資家の基本である。

 

信長は良質の品物を高く買い取り、

商人に良質である事を保証させたうえで高く売る形で、

産業の品質向上につなげる。

売り手も、良いモノを作れば他よりも高く売れるという

競争原理が浸透して、

より高品質な品物を目指してくる。

そうした中で技術のある人間はドンドンと育ち、

より芸術性の高い商品などに進化していく。

 

方程式zが発見されると今度はそこにX〈かける〉αが必要になる。

それがより技術の高い人材が

尾張を目指したくなる環境

それを全国に宣伝する事で、

より高品質な産業への競争力と成る点に気づくのである。

そのαの中には有能/人口という確率も見えるわけで、

人口が増えれば増える程、

より有能な人材、将来性のある人材も多く集まるという計算になる。

 

そこでようやく信長は租税を低くする政策を用いるのだ。

更に租税を低く抑えた中で、

今度は投資という部分も含めて、米を買い取る事も行う。

いわば農民の副業として産業を発展させるには、

原資が必要になる。

欧米の様に出資と言う形の貸付までには至らずとも、

農民に金を持たせて副業やら趣味に使えるように成った。

 

発想そのものは「租税の安い国尾張」という

人を呼び込むためのもので、

租税を下げた分、何らかの方法で利益を上げようと考えて、

農民から米を安く買う事を思いついたに過ぎない。

結果として農民は米を売る事で原資を得て、

品質の高い副産物を生み出せるようになった。

副産物を生み出す原資としなくとも、

楽市楽座の中で商品の売買が活性化される事で、

より資本的な社会が構成されていくのである。

いわば米だけが農民の産業だったのが、

漬物を作れば売れる、

魚を釣れば誰かが買う、

牧畜にしてもそれなりの商売が出来る。

いわば買い手が金持ちに限られていた部分が、

農民にも売れる状態となり、

需要が増えるという事に繋がったのだ。

 

こうして発展した座の中に、

場所代という名目で徴収する事で、

立地の良い場所はより儲けがあり、

立地の悪い場所では儲けが下がる意味から、

不要な税率計算を用いずに調整する事も出来るように成るわけである。

 

またこうして発展した座の中から

商人は交易によって売れる商品を見定めて、

その産業から独占的に仕入れを行う事も出来た訳であるが、

信長は自身の権限を利用して寧ろ卸問屋的な状態で、

そういう品物を商人に渡して自身の利益とした。

 

これって実は江戸時代の経済状態の基礎にも成っている部分です。

信長のやっていた事は家康が何気に引き継いで、

信長の功績として消えてしまっている分、

江戸文化として認知された話です。

ただし大きな違いは対外貿易までを信長は活性化させようとしたのに対して、

江戸時代は鎖国政策を取ったという違いが生じます。

 

信長の治世は善政であったという意味は、

信長が意識して善政を敷いたという事ではないのです。

結果として善政を齎した才能は「天命」が齎したもので、

天命を意識しつつも、自己の利益を最大限に追究し、

そして自身の治世を魅力的な国とすることで、

結果善政という状態に結びついたという事です。

 

いわば究極の利益追求=万民の自由が齎す恩恵。

これが「天命」が教えることに成るのです。

また、究極の利益追求=万民の需要

という法則もあるのです。

「パン屋が200円でパンを20個売れる状態より、

パン屋が100円でパンを100個売れる状態の方が、

パン屋は儲かる。」

という言葉で表現する訳ですが…

 

これは、200円のパンが20個売れる格差の経済よりも、

100円に落としても100個売れる平均化した経済の方が、

パン屋としては利益率が高くなるという意味です。

 

想像力の無い人は言葉上の計算式に捉われて

100円のパンが100個売れる時は、

200円のパンが0に成ると想像してしまう。

ところが100円のパンが100個売れる経済状態なら、

200円のパンは20個よりもっと売れるのである。

仮に200円で売る品質を100円に値下げしても、

4000円の利益が倍以上の10000円の利益に成るわけで、

原価率40%で計算しても…4000-1600=2400円

10000-4000=6000円

20個しか売れないものが半額で100個売れるか?

半額のバーゲンセールの殺到率を見れば、

5倍どころか下手した10倍以上のおばさん達が

奮闘するでしょ。

 

とは言え100円にすれば買ってもらえる経済状態が望ましく

ガメツク200円に拘って100円なら買える人が買えない経済では

その収益は少なくなる。

いわば需要が増えるように物価は調整し、

需要に伴う形で雇用が齎せなければ、

最大の利益率を上げる事は難しいという話です。

 

現代社会でインフレ率の上昇なんてことを言っていますが、

結局はそのインフレ率に見合った需要が無ければ、

収益は上がらない訳で、

需要に直結する国民の収入を向上させなければ、

何の意味も無いという事です。

また収益向上に伴い物価も下がれば、

余剰金がそれだけ発生し、その他の需要にも結び付く。

卓上や知識だけの計算ではこうしたバランスは見えないわけで、

税収が下がるからといって、税収を上げるための政策や誤魔化しを用いれば、

経済は弱体化して更に税収は下がるだけのです。

そういう中で収益が落ち込む可能性が有るかも知れないが

一度価格(税収に基づく税率)を落として

思い切って価格を下げてみる決断は大事だという事で、

200円のパンを100円に値下げして見なさいという意味でもあるわけです。

 

高速道路の無償化一つでも大きな違いは出ます。

トラック一台に100円のキャベツ1000個輸送すると考えて、

高速料金で2万円、ガソリン代で1万円。

国内の輸送費だけで10万円分のキャベツから3万円近いコストが発生するわけです。

高速代だけでも減額されれば100円のキャベツが80円に下げられる。

更に高速代無償化で地方へ遊びに行くコストも下がる訳で、

国内旅行がより安価になる分、

GoToキャンペーンより効果的に成るのでは?

麻生太郎が前にやった週末高速無償化も良い意味で良かったのに、

今はそういう発想すら踏み込めないアホータローさんに成っちゃった?

外交問題も上手くこなせば防衛費もそこまで積まなくていい話に成るのに…

酒税を低下させてお酒が安く売れる方が、

飲食店としては食事商品がそれだけ売れるようになる。

生中一杯100円なら、250円以上余るから焼き鳥2本追加で頼める感じ。

 

不要な経費を全て削減して、経済活性に基づく税率に下げられないのは

信長の功績すら発見できなかったこの国の頭脳故に

到底、理解すら出来ない天才の理論なのでしょうか・・・