うつけの兵法 第二話「那古野」 | ショーエイのアタックまんがーワン

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第二話 那古野】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

 

吉法師が城の木に登っていつも眺めていた景色は、

那古野の城下であるわけだが、

当時の城下は農村の集落でしかなく、

実際に街と呼べる規模の場所は、

熱田か清洲または西尾張の津島くらいである。

 

御年10歳まで、

城の外へ出してもらえなかった吉法師…

現代社会で考えれば家に閉じ込められた様な状態を

想像してしまうだろう。

ところが現在の名古屋城の二の丸の大きさで見ると、

東西に約400m×南北に200mの広さがある。

この中に常駐武士の屋敷というか家があり、

小さいながらも集落としての形成はあったと思われる。

言うなれば外には出て遊べたが、

城の敷地外には出してもらえなかったという事である。

 

とは言え、何故それでも敷地外へ出られないのか?

 

それは治安の問題といえる。

筆者も実はこのエピソードを

5歳の時か、10歳の時のエピソードかで

悩んだわけだが、

歴史的な背景であり、当時の那古野の環境を考慮すると、

警護上の問題に行きつく。

 

馬に跨って操作もおぼつかない子供だと、

大人が前に抱えて馬に乗るのが現実的な姿となる。

勿論、馬を引いて歩く形は一般的に考えられそうだが、

仮にその状態で襲撃を受けた際、

馬上の子供を馬の背に預けて走らせるという、

ある意味危険な状況に成りうる。

 

無論、大人が子供を前に抱えた状態でも

機敏に馬を操縦できなくては成らず、

寧ろ弓矢などで狙われた場合、

その大人はターゲットにされてしまう。

子供を抱えたまま蛇行して弓矢をかわす芸当は

恐らく相当な芸達者でも、かなり難易度が高い。

大事な若君をと成れば迂闊に落とすわけには行かない。

さらに若君を預けたその大人が、

弓に撃たれて馬から転げ落ちたら、

その若君は無防備に成り、

恐らくその曲者たちの虜となってしまうだろう。

 

この後、実際に信秀は竹千代(後の家康)を、

三河から拉致している訳で、

どこで何者が不意に人質に成る吉法師を狙ってくるか…

寧ろ策士であった信秀なら警戒しそうな話でも有る。

 

そういう状況下の中でも、

信秀は吉法師の願いを聞き届けたわけだが…

はてさて…

 

平手は教育上の考えもさることながら、

城外での警備のことでも頭を悩ませていた。

一番大事なのは、

誰が吉法師を抱えて馬に乗るかである。

信頼が置けて、

いかなる状況でも決して若君を粗雑に扱わない。

ある意味命がけで守り通してくれる者で無くては成らない。

そんな御仁が織田家中に居るのか?

 

そんな中、那古野城の平手屋敷を、

佐久間大学允盛重が訪れてきた。

屋敷に入るやすぐさま政秀の部屋に

盛重は訪れ、

 

「いよいよ若君の外遊ですか。」

 

と親しげに言い放つと、

腰刀を置いて政秀の前に座った。

勿論、盛重は外遊のことで

何か頼まれごとが有るのだろうとは察していた。

 

史実の中ではさほど目立って登場しない盛重だが、

信長の家臣の中でも実は1、2を争う武芸者であったと考える。

伝承としては、柴田勝家や前田利家などが挙げられるだろうが、

彼らは部隊を指揮して武功を挙げた武将であって

武芸者という感じではない。

武芸者の代名詞でいえば、

柳生一門であり宮本武蔵の様な人物を差す。

寧ろ武将としての武功はあまり目立ったものは無い。

こういう括りで見た時に、

信長の配下で真の武芸者であったと考えるのは、

森可成とこの佐久間大学允盛重くらいである。

 

その評価は何処から来るのか…

それは2人の死にざまが、武芸者たる誇り高きものであったからだ。

 

佐久間大学允盛重の生年は不明とされているが、

恐らくこの当時で20歳前後、

1522年生まれとされる柴田勝家より少し若い位であったろう。

武骨ものであるが、ガタイは大きくない

寧ろ俊敏性を活かしたタイプの武芸者である。

史実資料上では信長の弟・信行側の家臣として扱われているが、

信行が末森城の城主と成るのが父・信秀が死んだ後で、

実は、林秀貞、柴田勝家、そしてこの佐久間大学允盛重らは、

信秀直属の武将として働いていたというのが、

恐らく正確なものであろう。

後に、林、柴田は信行側に付くが、

この盛重は信長側に付く

何故か…盛重はあえて信長を選んだのか?

 

それは忠義の士であった故に、

正当性の序列を重んじて嫡男に従った。

そういう人物と認められていた故に、

政秀の信頼も厚かったのだろう。

 

「して…平手殿、折り入ってのお話とは?」

 

盛重は何の前置きも無く本題を促した。

政秀は予め盛重に頼みごとがあると伝えて

屋敷に招いたのである。

政秀は執務中の机から、盛重の方へ向き直して、

 

「こたびの若の外遊に於いて、大学殿(盛重の事)に

若の馬上での守役を頼みたいと思ってのう」

 

その言葉を聞くや、

盛重は突然、感慨深い表情で、

 

「若を抱えて馬に乗れと!!」

 

と、聞き直した。

政秀はそのまま頷いた。

すると、盛重は更に興奮気味に

 

「何と言う光栄!!

是非に、是非にこちらからお願い申し上げます!!」

 

盛重の興奮は只ならぬものであったが、

政秀は冷静に

 

「これは家中に於いて、そなたにしか頼めぬ事ゆえに・・・」

 

すると盛重は政秀の前で平伏して

 

「有難き幸せ!!」

 

と、興奮冷めやまぬ状態で感謝した。

これは決して大役を受けた事に興奮した訳では無い。

 

この小説に於いては史実に存在しない

または史実として曖昧なエピソードは、

全て行動心理の逆分析で考えるものとしており、

当時の時代背景に存在したであろう

書物、絵画、文化などの影響から、

様々な人物像を描いていくこととする。

 

そういう分析から、

佐久間盛重は実は三国志に傾倒していたとしており、

特に彼は趙雲子龍に憧れていたのである。

それ故に若君吉法師を抱えて馬に乗るというのは、

正に願っても無い運命と感じたのだ。

 

実際に1522年ものの三国志演義の版本が

日本国内に現存しており、

1522年以前には、既に明より入って来ていた可能性がある。

しかし、この版本は和訳では無く、漢語としての原文である。

 

この原文の版本を盛重がそのまま読んだと考えるより、

寧ろ、吉法師のもう一人の教育係として登場する、

沢彦宗恩という僧侶から、

原文を和訳した言葉で話聞かされたと考える方が、

より現実的な話に成る。

明・清代には「三国志演技」は兵法書として読まれていたらしく、

沢彦宗恩が弾正忠家の武家教育係としてその家臣団に

読み聞かせた可能性は大いにある話だ。

 

では…何故、趙雲子龍がここに出てくるのか・・・

三国志、特に三国志演義に於いては、

趙雲は阿斗と呼ばれる後の劉禅を抱えて、

長坂で曹操軍の包囲網を潜り抜け、

見事に劉備の下に戻ってきた。

後に、この劉禅は無能な君主として描かれるわけだが、

劉備の死後も、この劉禅を支え、

諸葛孔明と共に趙雲が奮闘する姿が描かれている。

 

信秀の死後、織田弾正忠家が分裂しても、

うつけとされた方の信長に付いたのは、

寧ろ、この趙雲の話と結びつけた方が、

より話の筋が通ると考えた。

 

そしてこの時点で既に、

盛重は自身を趙雲に例え、

政秀を諸葛孔明の様に考えていたのかもしれない。

無論、吉法師を劉禅と決めつけるような無礼は考えは全くない。

だが、信秀を主君として劉備の様にあがめ、

その子息である吉法師は自分が生涯大事にするべき存在として、

意識する切っ掛けとなったやも知れない。

 

勿論、政秀自身には三国志のそういう意識は全くなかった。

寧ろ、盛重がそこまで喜んでこの大役を受けてくれた事に

一層の信頼を感じたのである。

 

「盛重殿がそこまでこの大役を喜んでくれるのなら、

私の肩の荷もすこしは下りたというものじゃ…」

 

大役というより運命を感じて興奮していた盛重は、

すぐさま大役を全うするべく士に変わって、

 

「して…経路は如何に?」

 

と、外遊するコースを確認した。

 

「信秀公は、那古野の城下を見た後で、

古渡に連れてくる様に申せられた。」

 

今でこそ名古屋城の城下として見られる場所は

名古屋駅から錦、栄といった繁華街が広がっているが、

当時の那古野はあくまで尾張の拠点に過ぎない。

拠点といっても敷地は広く、、

木造の藁葺屋根か木造屋根で造られた、

少し豪華なお屋敷を本邸に据え、

周囲に家臣たちの住居がある集落、

もしくは平屋の集合住宅だったと考えるべきだろう。

 

実際に所領を与えられた家臣は、

その所領付近に其々の本邸を持っていたと考え、

平手の様な重臣と成ると、

那古野城内に別宅を与えられていたと思われる。

 

吉法師の那古野城が有ったとされる場所は、

現在の名古屋城二の丸の場所だと推測され、

そこから仮に名古屋駅までの距離を見ると、

直線でおおよそ1キロである。

現在のJR線沿いが、昔の東海道に近いと考えた場合、

名古屋駅の場所に集落があったとも考えられる。

実際に名古屋駅を出て直ぐ北東に那古野という交差点が存在し、

ここに那古野の集落が有ったのではと推測する。

 

この時期の織田弾正忠家の本拠地は古渡城で

現在の名古屋城二の丸から南に3キロ位下った場所に位置する。

ここは今のJR金山駅の北側に当たる。

古渡城から更に南に2キロほど下った場所に

熱田神宮一帯の熱田が有り、

後の江戸時代に整備された東海道53次の宮宿がここに当たる。

その時代には東海道一の宿場町で有ったとされるほどで、

それから遡った戦国時代のこの当時でも、

その規模は大きかったと推測できる。

渡し舟で西にある桑名の渡し場と繋がっていた要衝で、

海運、陸運の拠点としても機能していた場所だ。

それ故に那古野城より古渡城の方が

拠点として重要だったと考えられる。

 

JR熱田駅からJR金山駅までは1駅で約2キロ、

金山駅から名古屋駅は2駅挟んで約5キロ、

更に名古屋駅から清洲駅は10キロ離れている。

外遊のコースは那古野の集落まで1キロ、

集落から下って古渡まで5キロ位の6キロほどの距離に成る。

以後、この小説では読み手が現代の感覚で解るように、

数字の単位を現代の単位で表現していくものとする。

 

この6キロという距離の感覚を

現代人の感覚で考えると

車やバスなどの交通機関を利用して動けば

さほど遠くは感じない。

 

ただ、それを徒歩や馬の常足〔なみあし〕でと考えると、

結構面倒な距離である。

ジョギングで10キロ走るといっても、

一般的に速く走れる人で40分、

普通だと1時間20分は掛かる距離に成る。

時速7キロ~12キロだが、

徒歩だと時速4キロ位。

単純に考えれば休息などを入れて、

2時間位のコースとなる。

遠いと考えるか、近いと考えるかは、

人それぞれだが、

電車で2時間と言う距離で考えると結構遠く感じる。

 

この2時間を更に何事も無くやり過ごすには、

警備にそれ相応の人員が要される事は言うまでもない。

 

さてここからは少し、

織田家というものがどういう家なのかを少し紹介しておこう。

 

織田信秀の元々の拠点は勝幡城で、

今の名古屋市の西側に位置する地域であった。

その地は長良川と木曽川が合流する場所で

尾張側では津島として知られ、

長島、桑名がその一帯に存在する商業の要衝だ。

 

吉法師の祖父、織田信定が生きていた頃までは、

この勝幡城には信定が居たと考え、

元々はこの信定の代に津島支配を目的で建てられた城である。

尾張の物流の拠点の一つ西の津島を押さえる事で、

織田弾正忠家の財力は尾張国内で群を抜いていた。

経済力という点では、

守護である斯波氏も、守護代の織田大和守家も

凌ぐほどの力を有していた。

 

この尾張の支配図式を現代の企業で置き換えて説明すると、

以下の様な形に成る。

 

代表取締役社長 斯波氏=斯波義統(よしむね) 守護代の傀儡

取締役副社長 織田大和守家(清州 尾張下〔南)四郡守護代)=織田達勝、後に織田信友が引き継ぐ

専務取締役 織田伊勢守家(岩倉 元守護代か尾張上〔北〕四郡守護代)=織田信安

 

取締役 (清州三奉行)副社長派

織田因幡守家 織田信友(後に守護代に昇進)

織田藤左衛門家 織田寛維(とおふさ)

織田弾正忠家 織田信秀

 

いわば、織田弾正忠家は、織田大和守家派の取締役に過ぎないが、

ある意味、経営母体の中枢を担う存在だったとすると、

企業での立場はものすごく強く、

独立されたらっその会社は潰れてしまう様な存在だったと理解してもいい。

 

その弾正忠家が信秀の代に成ると、

尾張の東の要衝、熱田を更に加えるわけで、

経済面のでの実質的な力は、

既に弾正忠家が支配していたことに成る。

 

とは言え、統治支配には

農村の人口=兵力とも成り、

また兵糧という部分でもそこは寄与するため、

ある意味生産性の部分では、

他が大きな地位を占めてバランスがとられていた。

金だけ持っていてもどうしようもないという図式になる。

 

これを企業として考えた場合、

弾正忠家がいくら営業先を有していても、

製品製造面で他の家が影響力を担っていたら、

弾正忠家が単独でどうこう出来る話では無く成る。

いわば製造がストップを掛けたら、

営業は結局営業先に商品を提供できないのだから、

そういう意味でのバランスが存在したと考える方が、

この支配構図を理解しやすくなると思う。

 

次にこの時代の歴史的背景を説明しておこう。

西暦1532年(以後も西暦で年号を記します)

那古野から熱田一帯は、今川家に支配されていた。

当時の領主は今川氏豊で、

今川氏親の末っ子、、後の義元の弟に当たる。

 

そこから遡る事22年前、西暦1510年

当時の尾張守護・斯波家は遠江も支配に治めていた大大名で、

その当主・斯波義達はその遠江支配を巡って

駿河の今川氏親と激戦を繰り広げた。

今川氏親は、今川義元の父親である。

 

約20年前という歳月を今現在で考えると、

同時多発テロの9・11と同じころ合いの話に成る。

物語の時点、吉法師10歳の頃1544年からでは、

34年前で、恐らく米ソ冷戦終結の象徴

ベルリンの壁崩壊の時期に重ねて考えると、

さほど遠い時代の話では無いと理解できるかもしれない。

 

それから5年、斯波家と今川は幾度も戦いを繰り広げ、

結局、斯波義達は1515年の大敗で自らも今川の捕虜となってしまう。

捕虜として氏親の情けを受けた義達は、

遠江を失い、更には尾張の熱田一帯を今川に割譲し、

自信は尾張の守護としての威信を失っていく。

遠江遠征は尾張の織田一族が反対していた事も有り、

以後、織田家が台頭する事となった。

 

那古野という地名は、更に昔、今川氏の一族である

今川那古野氏が由来であると記されており、

今川家からすれば先祖の地を奪還したことに成る。

記録上の話では、

今川が奪還して間もなく今川竹王丸(氏豊)が、

この那古野家の養子となり城主となったとある。

ただ同じ記録上の情報を見ると、

実は竹王丸の生年が一応1522年とされているため、

1515年前後から、1522年前後までは、

空白が生じてしまう。

それ故に竹王丸が養子に入る以前は、

那古野氏の誰かが城主か、

若しくは今川家臣の誰かが入城していたと推測する方がいい。

 

今川と斯波、寧ろ駿府と尾張の関係を見る上で、

現代の人が世界情勢を見るように、

当時の日本国内全体の情勢も知っておく必要がある。

 

ある意味、今の国連という枠の中で世界が繋がっているのと同様に、

当時の日本も足利幕府という存在が各国大名を繋げていた。

様相もよく似ていて、

絶対的な権限として機能していない国連、

そして将軍職としての権威を失った足利幕府である。

国連は国連憲章とそこにある条約を大義として利用され、

足利家もその地位をのみを大義として利用される。

 

それを利用して名目上の大義を抱える大勢力が、

大名の派閥を構成していく形で対立したのである。

 

有名な「応仁の乱」を現代の感覚で同じように見ると、

1467年に勃発し、1478年に東西で和睦が成立している。

1544年から見て、約77年~66年前の出来事として考えると、

丁度、現代人の感覚の第二次世界大戦の時期に相当する。

いわばその当時を体験談として語れる世代が、

まだギリギリ残っている感じの昔なのである。

 

その応仁の乱終息から15年後の西暦1493年、

明応の政変が起こる…

これはある意味、東西冷戦米ソの対立が始まった時期として

認識しても良いかもしれない。

 

明応の政変が実は戦国時代の始まりと見ても良い。

政変の勃発は、第九代将軍足利義尚〔よしひさ〕の死である。

※将軍の名前は同一人物でも色々変わる為、一般的な名前で統一します。

義尚は応仁の乱終息時、八代将軍足利義政から12歳で将軍職を引き継ぐ。

応仁の乱で西軍として、義政に反抗した義政の弟、義視〔よしみ〕は、

このとき美濃に身を引いていた。

 

九代将軍義尚は1489年に僅か23歳で亡くなっており、後継者が居なかった。

1490年までは先代の足利義政が生きており、その義政の死後、

その弟の義視が息子の義材〔よしき〕を第10代将軍として擁立した。

義尚の死後、様々な裏工作の末、勝ち取った話では有るが、

その後、10代将軍義材は1491年にその父義視が死ぬと、

独裁的な思考を強めたため、

義政の正妻である富子と管領・細川政元の反感を買う。

ある意味、細川政元の存在を恐れ、

その力に対抗するべくその前管領である畠山政長と結んで、

彼に細川政元に匹敵する勢力に押し上げようとした事が、

事の始まりである。

元々応仁の乱の怨恨もまだ燻っていた中での話ゆえに、

西軍側として存在した方が、東軍側の将軍職に付いている時点で、

東軍側であった政元らから好感を持たれていなかったわけで、

結局、富子と細川政元は足利義澄を擁立して、

その10代将軍義材を追放した上で

第11代将軍に足利義澄を立てる政変(クーデター)を起こした。

 

追放された足利義材は、自身が肩入れしていた畠山政長を頼って、

抵抗をつづけた。

畠山政長は東軍側の人間であり、

応仁の乱時は管領も務めた実力者だが、

河内の領土で同族の畠山基家と対立していた、

その助力として義材に親征を求め、

それに応じた義材の力によって、

一時は河内再統一目前まで迫っていた。

この親征には細川政元が反対している。

 

畠山政長の河内再統一での台頭を阻止する意味でも、

細川政元は義材を追放したと考えられ

その後の結果として、畠山政長は

細川政元の支援を受けた畠山基家に

形成を逆転され、政長は自害、

そして義材は投降する事となった。

しかし義材は瀬戸内海の小豆島に幽閉される直前、

京であっさりと脱出して越中へと逃げている。

越中では、畠山政長の家臣で

越中守護代の神保長誠〔じんぼう ながのぶ〕

を頼ってそこで再決起する準備を行った。

 

河内(大阪南)と越中(富山)では領土的に離れすぎていて、

どういう関係性か混乱する時代であります。

いわば畠山政長という会社の本社が大阪に有り、

支社が富山に有った状態と考える方が良いかも知れません。

富山支社の支社長が神保長誠で、

大阪本社が乗っ取られて、富山支社が前社長派を引き継いで、

独立した様な感じで考えれば理解しやすいかと思う。

 

そしてこの時期、もう一人のキーマンが、

応仁の乱で西軍の雄として、いわば義材の父、義視に与した

周防長門(山口県)の大内家であります。

西軍の雄としては山名宗全が有名だが

後半活躍するのは大内政弘の方であった。

 

実は、足利義材の河内での戦いの際、

政弘の子、大内義興が兵庫近辺に在陣していた。

しかし、応仁の乱後、義興の父、政弘と細川政元の間で、

政略結婚が結ばれており、

細川政元が政弘の娘を人質としていたため、

その息子の大内義興は足利義材に与する事が適わず、

兵庫で静観する事となった。

 

その後、1494年に大内義興は政弘から家督を譲られ、

1495年にはその父・政弘が死亡した。

元々義材に与するつもりでいた義興は、

これを期に態度を明確化し、細川政元と対立する道を選ぶ。

しかし、細川政元の勢力は更に勢いを増し、

丹波、山城(京)、摂津、河内、大和、讃岐、阿波、土佐と、

広範にその支配を広げていた。

 

大内義興は、足利義材を自領に招き入れるも、

細川政元が生きている間の上洛は避けた。

寧ろ、義興は九州への領土拡大を進めて、

自らの地盤を固め、義材を招き入れる事で、

より強固な大義を得る算段であったが、

寧ろ細川政元がそれを朝敵として大内討伐を命じた事で、

一時は窮地に立たされた。

 

1507年、細川政元が暗殺された。

これにより複雑な養子縁組が火種となって、

細川家(細川京兆家)が分裂する事となる

政元の養子には、澄之〔すみゆき〕、澄元〔すみもと〕、高国〔たかくに〕

の3人が居た。

後継者としては細川澄元で決まっていたが、

政元暗殺の首謀者、香西元長と薬師寺長忠らが

澄之を後継者として擁立したため、

お家騒動に発展したのである。

政元暗殺の同機は

澄之が細川家の血筋でない養子で有った事から、

嫡男として廃嫡された為、

その後見人と成っていた香西元長は家中での地位を落とした。

逆に、澄元の後見人で新参者の三好之長が台頭してきて、

寧ろその腹癒せが要因と言っても良い。

 

勿論、彼らは澄元の暗殺も企んだが、

これは三好之長〔みよし よしなが〕(長慶の曽祖父)に阻まれ、

澄元と之長は近江へ一時逃れてこれを避わした。

簒奪者澄之派に対抗する為、一時澄元と高国は連携した。

そして三好之長と澄元は近江から上洛を果たし、

戦の末、澄之を自害に追い込んだ。そののち香西らも敗死する。

 

ところが大内義興はこの動乱で、

もう一人の細川政元の養子、

高国を抱え込む工作に成功しており、

いわば足利義材(義稙に改名)の御内書で、

細川高国を政元の正当後継者・・・

いわば細川京兆家当主であるとしたのである。

 

これにより再び足利将軍家は、

細川澄元が京兆家当主とする第11代将軍足利義澄派と、

大内義興が後見と成って京兆家当主とする細川高国の

第10代将軍足利義材(義稙)派で分裂することとなった。

 

この時分に、

斯波義達と今川氏親の遠江争奪戦が勃発した。

 

この斯波と今川の因縁を見るのに、

再び遡る事、応仁の乱発生以前の状況を説明せねば成らない。

実は斯波家は一時的に分断されていた。

全ては足利義政の愚行によるもので、

血族として本流の斯波義敏とその子義寛は、

その所領の越前、遠江での内乱勃発を理由に、

義政の関東政策による関東救援要請に動けなかったため、

その守護の座を幕府の指示で追われた。

この裏では、斯波家家臣の甲斐常治や

義政より関東政策で派遣された渋川義鏡といった人物の陰謀が絡んでおり、

特に渋川義鏡は実子を斯波義廉として斯波本流筋の後釜に据えている。

この時分に、

尾張の織田伊勢守(岩倉)敏広が義廉方の守護代と成っており、

後に義敏が復権すると、織田大和守(清州)敏定が守護代となる。

 

この経緯を大まかな話で言えば、

実子が義政の計らいで斯波家当主と成った後、

渋川義鏡が関東で失態を犯して失脚し、

将軍義政の命によって斯波義敏、義寛親子が赦免(罪を許される)され、

その権限を復権する。

父・渋川義鏡の後ろ盾を失った斯波義廉は、

本流の義敏、義寛にその地位が奪われること察して、

西軍側に与する事になる山名宗全との関係を深めてその力を頼る。

義廉は山名宗全を義父とする婚姻を取り付け、

応仁の乱が勃発した際、西軍での地位を確立した。

 

西軍に付いた義廉側に従い織田伊勢守敏広も西軍に属する事と成り、

義政によって復権した義敏、義寛側には自然と織田大和守敏定が属した。

山名宗全の西軍側の勢いを借りて

当時の管領・畠山政長(例の明応の政変に出てくる人物)を追い落とすと、

武功を上げた斯波義廉は後任として管領に就任する。

ところが、東軍の細川勝元(政元の父)らが巻き返すと、

義廉の家臣であった朝倉(7代目当主)孝景が

将軍義政との取引で東軍に寝返り、

そのまま越前を手中に治める。

※当時の斯波家の本拠は越前であり、尾張ではなかった。

※孝景は7代目と10代目(義景の父)に同名が存在する。

 

越前を失った義廉は、尾張の守護代織田伊勢守敏広を頼って、

斯波義敏、義寛父子とそれに付いた織田大和守敏定らの勢力を

尾張で一時は押さえ込むも、

東軍幕府、いわば足利義政の政治工作で、

織田大和守敏定が尾張守護代に任命され、

凶徒退治と言う名目を携えて義廉と伊勢守敏広への反撃が行われた。

尾張国内で凶徒として扱われた義廉と伊勢守勢力は、

支持基盤を失い、義廉は失踪。

伊勢守は奮闘して大和守の本拠清州を囲むも、

再三の幕府の介入も有り、最終的には両家で和睦する事となった。

それ以後、織田伊勢守家は岩倉に居城を構えて尾張上四郡を支配、

大和守家は下四郡を支配する取り決めが定められた。

 

結果、斯波家は義廉を追放した形になったが、

越前の支配は朝倉家が牛耳っており、

越前に残った父・義敏は同じ東軍に寝返った朝倉(7代目)孝景の

傀儡守護として扱われていたという。

尾張で大和守に合流し、義廉を追いやった子の義寛(当時義良)は、

尾張で守護の地位に着くこととなる。

これが尾張斯波家の始まりである。

応仁の乱終息後、1479年斯波義寛は越前に出兵し、父義敏と合流して、

越前奪還を計るも失敗し、

以後、越前は朝倉家のものと決定づけた。

しかし、辛うじて斯波家は尾張と遠江は守り抜くことが出来た。

 

この応仁の乱の騒乱時分に、

今川家は東軍方として最初は遠江奪還を目指して

西軍に属した義廉の勢力と戦っていたが、

斯波家の複雑な事情から、

いつしか遠江は義敏、義寛側に与した方も出てきて、

次第に西軍なのか東軍なのか解らない状態で、

遠江での戦を行っていた。

結局、当主の今川義忠はその戦いで遠江を奪還する夢叶わずに、

戦死してしまう。

残された義忠の嫡男、龍王丸(後の氏親)はまだ幼く、

その隙を狙って関東の勢力が駿河を脅かす。

幕府の東軍側として協力していた扇谷上杉家が背後で

今川義忠の従弟小鹿範満に家督を継がせようと動いていたとされる。

この時に扇谷上杉から出てくる人物が、

江戸城を築いたとされる太田道灌である。

そして幕府の思惑だったのか…

それとも個人的な策を以て龍王丸保護を幕府から取り付けて

駿河の地にやってきたのか…

その人物が伊勢盛時こと、後の北条早雲だった。

実際に龍王丸の母とされる義忠の正室北川殿は

盛時の妹に当たり、盛時は龍王丸の叔父に成る。

 

結果、幕府の命という名目で、

龍王丸が跡目を継ぐことに成った今川家は、

扇谷上杉との話で、小鹿範満を元服までの後見人とした。

しかし、龍王丸が元服を迎えても

小鹿範満が家督を譲らないと伝え聞き、

盛時は再び駿河に訪れ、龍王丸を補佐する名目で兵を集めるや、

範満が占拠する駿河館を襲撃して、その親子を殺害した。

そして龍王丸はようやく元服する事が叶い、

今川氏親を名乗り今川家の正当な当主となった。

 

応仁の乱の因縁を得て、

1510年に勃発した遠江での斯波家と今川家の戦い。

今川家の当主はこの氏親であり、

斯波家の当主は義寛の子の義達である。

義達は細川家との関係から、

そのまま11代将軍足利義澄の側に立っており、

今川氏親は寧ろ10代将軍足利義種こと義材の側に与して、

戦いを繰り広げている。

 

そして、斯波氏は遠江を失い…

那古野まで今川に押さえられた。

 

更に信秀が今度は奪い取る事で、

斯波氏に代わって、那古野は

織田と今川の因縁の地と成った。

 

吉法師が居る場所はその那古野である。

 

無論、敵は今川だけにあらず、

同族の織田家同士にも因縁は存在し、

政秀が警戒してやまない苦悩とは、

こういう事情が絡み合った中でのモノだった。

 

いやー今回は長い文章に成ってしまってます。

今のご時世、WIKIを中心にネットで

色々調べものが出来る訳ですが…

冗談抜きで、この戦国時代の時代背景の情報を

精査するだけで大変です。

 

年代も資料によって全然違うし、

名前も似た様な名前出てくるしで、

頭が混乱しそうだったって。

 

それら情報を出来るだけ解りやすく纏めて見たけど…

どうだろう解りやすいのかな?

 

本来は応仁の乱の部分ななんて

要らないだろうと思ってたらしいけど、

調べていくうちに複雑化した因果関係を説明するのに

そこも大事と判断したみたい。

 

特に、尾張にある織田家という関係性を知る上であり、

尾張と駿河の関係性も含めて。

まさか太田道灌とか北条早雲が少し絡んでくるなんてね。

 

戦国時代の始まりは

足利将軍がアホでした。

で終われる話じゃ無く、

大人の事情がいろいろ絡んで、

ドス黒い思惑が張り巡らされた結果なんですね。

今現代の外交問題もこれに近いのかな?

 

歴史小説は先の見えない展開を予想しながら楽しむものでは無く、

ネタバレした状態で、

どれだけ詳細に辻褄を合わせて、

話の展開を楽しませるか…

だと考えているそうです。

 

織田家のお家騒動…

既にネタバレする展開な訳ですが、

要は何故このお家騒動が発展したのか?

 

単純に、信長たまがうつけだったからとは行かないのです。

寧ろ、何故うつけとされたのか?

 

本編の小説部分はまだ殆ど進んでいないけど、

これから徐々にその謎が解明されていくそうです。

 

出来れば多くの人に楽しんでもらいたい。

大人の思惑で誰かバズらせてぇー