うつけの兵法 第三話「煙」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三話 煙】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

 

吉法師の城内での生活は

城外へ自由に出られない以外は何の不自由もなかった。

敷地は狭いわけではなく、400m×200mの8万㎡だと、

おおよそサッカーフィールドが8つは入る規模である。

その中にはサッカーフィールド一つ分の

庭園または広場は有ったと考えられ、

10歳の子供が外で遊ぶ分には十分な規模と言っても良い。

 

吉法師の実母は土田御前で、信秀の正妻である。

しかし信秀は土田御前を古渡に住まわせ、

那古野には置いていない。

織田弾正忠家の方針だったのか、

武家として良くある方針だったのかは解らないが、

実母に嫡男を育てさせない事は当時としてはよくある話で、

吉法師も実母から切り離されて育てられた。

 

無論、土田御前は自らの手で育てたい意向を信秀に示していたが、

当時の武家社会では「雌鶏歌えば国滅ぶ」という故事もあり、

いわば母親がその影響力で院政を敷くと、

国が亡ぶといった考え方も有った。

故に、その関係性を結びつけない為に

母子を切り離して育てることが妥当とされた。

日本の歴史で言えば、

今でこそ女性への評価は変化したものの、

当時としては女性蔑視が当たり前の世の中。

鎌倉幕府の源家が北条政子の専横によって、

北条家に執権を奪われた例も意識された話である。

 

先に述べた明応の政変に於いても、

義政の正妻、富子(日野富子)の影響で、

実子である9代将軍義尚が死ぬと、

一旦は10代将軍に自分の妹の子で敵側だった義視の息子、

足利義材を据える方向で富子は義政を説得するが、

その後、富子の影響力を義視、義材親子が警戒して、

両者の対立が発生すると、

富子は細川政元と結託してクーデターを起こした。

それで11代将軍足利義澄が登場した事で、

天下は再び分裂する事と成ったわけだ。

 

武家社会に於いてこうした話は尾ひれがついて、

各勢力に噂として伝えられるものだ。

その為に女性に影響力を持たせてはいけないという

意識が働くのは当然な話しであったと言える。

 

こうした考えもあって吉法師は実母と切り離されて

那古野で育った。

それゆえに信長の伝承では乳母の存在が登場する。

また信長と言う人物の気性から、

まるで鬼子の様な伝承も伝えられている。

乳母の乳首を噛み切ったとか…

しかし、現実的にこれは有り得ない伝承なのは、

現代人なら理解しうることである。

 

伝承に残る話は、必ずしも想像やイメージで

生まれた話とは限らず、

実際に何らかの記録や言い伝えが絡む場合もある。

 

吉法師(信長)の乳母で有名なのは、

養徳院という女性で、

信長の重臣となる池田恒興の実母である。

記録上、養徳院が乳母と成るのは、

吉法師が3歳の時で、恒興が生まれたころだとされる。

また、乳首を噛み切るという伝承の話では、

養徳院が乳母に成ってから治ったという伝えでる。

しかし、乳児では無くなった3歳の子供の話としては、

いまだ母乳を必要としていたのかと考えると、

ある意味、合点が合わなくなる。

 

これらを精査してこの伝承を一つの情報として

筋書きを組み立てると…

 

初産の実子を遠ざけられる事となった実母の土田御前は、

その弾正忠家のしきたりに心を痛めていた。

母親としては当然の感情である。

そんな土田御前を気遣ってか、

守役の平手正秀は彼女に吉法師の成長報告として謁見した際、

彼女に安心感を与える為、ちょっとした方便を使った。

 

「吉法師さまは母親のもので無いと察してか、

乳母たちの乳房を噛み切るもので困っております。」

 

無論、これが優秀な政秀の方便である。

すると土田御前は、

 

「それはまことに大変な話しじゃな…

わらわが見れれば良いのじゃが…」

 

と、少し気持ちが和らいだ感じで言うと、

 

「確かに、私もそれが適うならと思いますが、

何せ織田弾正忠家の習わしなので…」

 

と、政秀は土田御前のほのかな期待を断ち切って、

 

「そこで御前様(土田御前)と雰囲気の似た乳母を探し求めて、

ようやく見つかったところで、その御人を吉法師様に当てがったところ…」

 

さすがは政秀の外交術。

政秀の話に土田御前もかなり気が静まった。

政秀は続けて、

 

「何とか悪癖も最近では治まりました。」

 

無論、母親の心境としては複雑だ。

自分以外でも悪癖が治まったという事は・・・

しかし、かといって平手が言う様に

家の習わしで吉法師の側には行けない。

そういう事が噛み合わさって

彼女の表情は少し寂し気なものに変わった。

しかし、それでも武家の正妻として気丈に、

 

「それは何よりであったな…

政秀殿ご気苦労には痛み入る話じゃ。」

 

と、子を案じる母親として毅然とした振る舞いを見せた。

 

いわば、信長のこの伝承の話は、

政秀の土田御前に対する配慮から生じたモノと考えても良い。

そこから土田御前が周囲にこの話を小言の様に漏らすと、

周囲は噂話として更に広げ、次第に養徳院の話と結びついて、

可笑しな噂に変化しながら伝承として残ったというのが、

科学的に考えられる流れだろうと推測する。

 

その当の吉法師は…

ある意味普通の赤子として成長し、

乳母が誰であろうが普通に栄養を得ている。

3歳で物心ついた時には、

元々の世話役であった養徳院が恒興を出産した頃である。

吉法師に母乳を与えた御人かは定かでは無く、

恒興が池田家の嫡男であるなら、

出産前に母乳は出る事は無い。

ただ、それ以前に養徳院が吉法師の面倒を見ていた可能性はあり、

それを考慮してみると、

吉法師を寝かしつける子守歌役の乳母という存在で、

既に招かれていたと考えても良い。

そしてその流れもあり、

幼児が優しい保母さんに懐くのと同じで、

物心ついた吉法師のお気に入りの乳母が養徳院であったのだ。

 

その養徳院が恒興を生んだのちは、

その恒興を実弟の様に可愛がり、

後に恒興は信長の重臣として活躍するのだった。

因みにこの恒興の息子、池田輝政が、

かの姫路城を改修して、今見る形にしている。

 

養徳院の教養は子供の心を掴む部分で傑出していた。

教育者というよりも、寧ろ保母さんとしての才能である。

おとぎばなしや童話の語りが上手く、

美しい美声が放つ歌声は絶品である。

 

無論、信秀も政秀も、

そういう人物を探し求めて吉法師に宛がっている。

 

現実的な心理として

こんな保母さんを実母が意識したらどうであろう?

保育園の様な場所で、大勢の子供相手に

保母さんとして活動している人なら、

そこは保母さんという職業と割り切って、

問題なく受け入れる事が出来るだろう。

それが自分の子供の専属で、

その才脳で実子が自分より懐く相手と感じたら、

母親の本能として嫉妬するのは当然である。

 

こうした心理も考慮して母子が切り離される考えが、

ある意味男社会の都合で重宝されるのはやむを得ず、

戦国の世とはそういう時代であると、

女性には割り切ってもらうしかない。

 

無論、平手政秀の方便は、

その時は土田御前を安堵させるものであったかもしれない。

しかし女性はあえて口には出さずとも、

そういう矛盾を察する事には男性より長けている。

そしてその洞察が吉法師の成長と共に、

単なる政秀の方便(嘘)であったと見抜いていくのである。

それが信長と信行の関係に影響を及ぼすことに成るとは、

この時は誰も想像だにしていなかっただろう…

 

吉法師は養徳院の存在もさることながら、

その想像力、いわば創造力となる感性を磨く上では、

かなり贅沢な教育を与えられていた。

吉法師は3つ年下の弟分恒興、

幼名が伝わっていないので、

小政〔こまさ〕いわば小さな政秀と言う名にして物語を続ける。

その弟分小政と一緒に養徳院の語る物語を聞くのが好きだった。

最初はかぐや姫に金太郎など、

我々にも馴染みのある童話を

美しい声が奏でる語りと、

大女優としての見事なまでの演出。

養徳院が情景豊かに語るその話に、

二人は揃ってワクワクしながら聞き入っていた。

 

吉法師を子供として見て本当に可愛らしい時分である。

 

政秀はこうした吉法師の興味を上手く察して、

吉法師が6歳位に成ってくると、

養徳院に語るべき物語を学ばせた。

この時に明文学や日本文学に詳しかった、

沢彦宗恩を招き入れている。

もう少し吉法師と小政が成長すると、

この沢彦宗恩が家庭教師として

直接、指導に当たるが、

それ以前は沢彦が養徳院に

今日語るべき話を教え、

養徳院がそれを上手く演出して、

2人に聞かせるという形で幼少教育とした。

そこには日本書記は勿論、西遊記(唐代)や水滸伝(元代)

など物語に近いものを聞かせ始めて、

吉法師が10歳に成った時からは、

三国志演技(明代)か三国志(裴松之のなら中国南北朝時代)であり、

平家物語などより歴史に近い話を聞かせた。

 

その養徳院の語りは正に芸術そのものでり、

ある意味、天下一の大女優が、

芝居で名演技を披露している様なものだ。

故に、政秀も、そして信秀も次第に惹かれていき、

那古野ではしばし養徳院の舞台として楽しまれた。

主賓は勿論、吉法師と小政である。

那古野城の大広間で

二人は養徳院の前に着席して大人しく話を聞くのだった。

それを眺めるように信秀や政秀が座り、

酒の肴に子供が興奮したり怯えたりする様子を見ながら、

養徳院の講演を聞くという宴の様な形が連日繰り広げられた。

 

時に養徳院が怪談話をして、

その演技力のあまりに吉法師と小政が飛び跳ねて驚くと、

その大人たちはそれがが面白おかしく、

大いにその光景を楽しんだ。

 

記録上では養徳院は夫・池田恒利が早くに死去したとされ、

その後信秀の側室に成ったとある。

 

しかし、ここではそこは読者の想像力に任せるものとして、

信秀が養徳院の講演と吉法師のその様子を楽しむために

連日那古野に通い詰めたという事のみにする。

 

こうした環境を可能にしたのは、

織田弾正忠家の財力と、

この時押さえていた津島と熱田の交易の賜物である。

いわばほぼ国内の流通で手に入る物が

流れてきやすかったと言える。

書物は勿論、水墨画であり屏風など、

様々な品物がその2つの拠点にたどり着いたのである。

 

信秀は那古野に足を運ぶ毎に、

様々なお土産をおいていった。

子供のおもちゃ、木馬などは勿論のこと、

美しい水墨画や屏風など、

ほぼ那古野は弾正忠家の

宝物庫としての機能も備えていた。

 

幼い頃より、美しい掛け軸や屏風、

そして水墨画などに触れる事が出来た吉法師は、

その美的感性を英才教育で育まれたと言っても

過言ではない。

そして吉法師が10歳に成ると、

明などから入る風景画を好み始め、

現実では未だ見る事が叶わぬその光景を、

想像力で膨らませて、

頭の中で壮大な光景を思い浮かべるのだった。

それは養徳院の語りと合わさる事で、

より大きく華やかな世界に成ったと言える。

後の安土城はその頃思い描いた夢の世界だったのかも知れない。

 

時をもどして・・・

信秀が吉法師に城下を見に行くことを許した日のことである。

信秀が土産物を手に吉法師の部屋を訪れると、

吉法師は紙に筆で水墨画の真似事の絵を描いていた。

子供の落書き故に芸術性の部分は差し引いても、

何やら壮大な都を描いていた事は解る。

それを目撃した信秀は、

吉法師が見たいのは那古野の小さな村落では無く、

寧ろ、熱田や津島の様な大きく華やかな街であると悟った。

 

信秀はそう悟ると、一緒に付き従ってきた政秀に、

 

「政秀よ…那古野の城下を見た後は、古渡に連れて来い。」

 

政秀はその真意を伺う事無く、

 

「御意」

 

と返事をした。

信秀はそう命じたあとも暫くは黙って吉法師の様子を伺った。

 

この時信秀の脳裏には、そこから12年前、

吉法師が誕生する2年前の1532年の話。

いわばこの那古野城の城主が今川竹王丸の時代であった時の事を

思い出していた。

 

既に前述で那古野の歴史は簡単に述べているが、

当時の竹王丸は10歳であった。

丁度、今の吉法師と同い年である。

 

複雑な日の下の情勢から話すと、

今川家は10代将軍側の足利義材派で、

斯波家は細川京兆家との関係から11代将軍の足利義澄派であった。

しかし、1515年に遠江で斯波義達が捕虜に成ったのを機に、

斯波、今川両家では和睦が成立していた。

ところが今川家当主である氏親が1526年に死ぬと、

両家の関係は少しづつ微妙な空気を漂わせ始める。

 

そこで斯波家筆頭、いわば尾張守護代の織田大和守達勝は、

その関係が不穏なモノと成らない様に、

義澄派から義材派に切り替える方針を斯波義統に伝えた。

無論、この時の斯波家は権威を失っており、

その意向に逆らう事は無かった。

織田達勝の考え方は、今でいう保守である。

丁度、氏親がこの世から亡くなった頃、

隣国の三河では、徳川家康の祖父に当たる、

松平清康が勢力を伸ばしていた。

清康は斯波家と同じ11代義澄派の家系のはずだが、

戦国に入ったという時代で、

将軍家の権威を意識してなかったのか、

その勢いを尾張にも向けようとしていた。

織田達勝はこれを察して、

外交で清康を押さえ込もうと考えた。

 

先にも述べた今川家は、氏親が家督を継ぐ上で、

ある意味将軍家の意向を携えた北条早雲こと伊勢盛時に

助けられている。

その時分は、丁度、9代将軍義尚から10代将軍義材に変わる頃で、

その流れから義材派に与していたとされる。

その後、足利義材は、名を足利義稙と改め

1508年には将軍に帰り咲いている。

1513年には10代将軍と11代将軍の間で和睦が成立。

そして11代義澄の子、12代将軍となる義晴を

10代将軍義材の養子としその後継とすることで、

正式に将軍復帰が認められたはずだった。

 

ところがこの政争を寧ろ管領家細川京兆家が複雑にしており、

義澄の次男で、斯波家の息女を母親に持つ、

足利義維を立てて細川晴元らが堺を中心とした

政権(堺公方)を樹立している。

12代将軍となった義晴には細川高国が付いていたが、

1527年に高国は細川晴元らによって京及び山城、摂津を

奪われておりこの政争はより混迷を極めていた。

 

義澄派の継承が、この堺公方義維の側で、

斯波家は当初出生上の関係からそちら側に与していたとされる。

 

無論、こうした情勢に読者が混乱するように、

松平清康も、正当な将軍家を巡って混乱するのは当然で、

それが戦国時代化する背景とも言えよう。

 

とはいえ、そのような賊徒状態にある松平家より、

未だ将軍家の権威を重んじる今川家との和睦を維持した方が

安全と考えるのは当然で、

織田達勝は、松平清康率いる三河を挟んでの

今川との同盟関係を重視したと考える。

 

そうした尾張と駿河(斯波家と今川家)の関係を利用して、

織田信秀は幼い那古野城主今川竹王丸に近づいた。

吉法師に与えた様に、津島から得られる珍品を与え、

信秀は連歌の会を主催して竹王丸を招いたというより、

寧ろ竹王丸の守役を接待した。

竹王丸には逆に蹴鞠〔ケマリ〕を主催して楽しませるなどして、

まだ20代の信秀は優しいお兄さん役を演じた。

 

先の大和守家いわば清洲の方針で、

和睦関係は維持され、

寧ろ共通の敵を三河の松平清康としたことで、

今川那古野家も尾張勢に対して気を許しやすい状態であった。

 

記録上では那古野城主の今川氏豊(竹王丸)は

今川氏親の次男、今川彦五郎と同一であったとされる内容も有る。

その彦五郎は氏親と同年に死亡しているという内容もあり、

これらを採用して流れを精査すると、

1526年までは今川彦五郎が那古野家の当主として入っていたが、

死亡したため、1522年生まれの末っ子の竹王丸(氏豊)が

那古野家当主と成ったとするほうが辻褄はあってくる。

 

その彦五郎の死を、

信秀の手勢が暗殺したと安易に考えそうだが、

実際その彦五郎を暗殺した所で、

何かを得られる状態は考えにくく、

那古野に兵を出した形跡も無いので、

論理的には想定しにくい。

寧ろ彦五郎の後に誰が入るかは今川が考えるところで、

運よく竹王丸のような子供がは入るという

予測を立てるのも難しい話である。

この小説では未来視点のたらればの想像で構成する事は

極力避けたいと思っている。

とは言え、後継として入った竹王丸の守役で、

いわば今川那古野家の後見人に値する重臣を

誰かに定めねばならないが、

それらしき人物が見当たらない為、

架空で、飛騨守氏時という50代の人物を設けた。

氏時は連歌などの文化交流を好み、

戦よりむしろ教養に興味を示した人物であった。

 

信秀は情報を駆使して、飛騨守氏時が連歌に夢中である事を知り、

竹王丸の名代として信秀主宰の連歌会に参加させた。

現代で言うM&Aの様な工作である。

 

信秀はその財力を活用して、

当時の連歌界の著名な人物を誘い、

飛騨守氏時の連歌を絶賛するように工作した。

そして竹王丸自身には、蹴鞠の名人をその指導に宛がうなどして

竹王丸の機嫌も取っていた。

 

信秀自身も竹王丸のよき遊び相手となり、

さらに土産物を持参する事で、

竹王丸もすっかり信秀に懐いた。

無論、最初の計画では那古野の乗っ取りが目的だが、

竹王丸の懐きぶりは信秀にも情を感じさせるほどだった。

まるで今の吉法師を見ている様な感情が有ったのだろう。

 

そこで1532年のある日、

信秀は連歌ですっかり意気投合した

重臣の飛騨守氏時に話を持ち掛けた。

無論、嘘も交えて

 

「本来は、秘匿とすべきことなのですが、

竹王丸さまと氏時どのとのこれまでの関係を思うと、

心苦して…」

 

氏時は突然のことで少し不安がよぎった様子で、

 

「はて…いかがされ申した?」

 

「実は…主家の斯波義統様より、那古野を秘かに攻略せよと催促がありまして…」

 

氏時はそれを聞くや驚き、

 

「な…なんと!!」

 

そして信秀は

 

「実は既に兵を那古野の周りに置いております。

清州の手勢故に、私の生死に関係なく直ぐにもここに押しかけるでしょう」

 

無論、こういう交渉は命がけである。

ただ、飛騨守氏時を良く知る信秀は、

彼が迂闊に武力を頼らない事を知っていた。

寧ろ、連歌会での評判に気を良くした氏時は、

隠居してその道に進みたいとも漏らしていた程だ。

 

「私も竹王丸様や、友人である氏時どのを救いたいと思ってます。」

 

信秀はあえて情を用いて氏時の恐怖心を和らげ、

 

「どうでしょう…我が勝幡にひっそりと身を隠され、

余生を氏時どのは連歌で、竹王丸様は蹴鞠などを楽しんで

ゆるりとお過ごし為されるというのは・・・」

 

氏時の心配事は、主家今川家からの報復である。

しかし、今すぐという状況では援軍に頼る事は適わず、

頼ったとしてもその間に三河の松平清康がいる為、

どの道間に合う算段は整わない。

 

「今、私を殺して援軍を今川に乞うても、間には松平三河があるゆえに、

恐らくは持ちこたえることは無いでしょう…」

 

信秀はあえて現状を伝えた。

無論、氏時も理解している状況で、

ただ自身の身と竹王丸の身を

どう案じるかで困惑した。

 

「主家(今川)からの咎めが下れば、どの道わが身は滅びます。

ここは折角だが…」

 

そこまで言うと信秀は氏時の言葉を遮って、

 

「私に一計がございます。」

 

氏時はみなまで言わずに黙って信秀の言葉に耳を貸した。

 

「いわば…那古野を失う罪を私に着せるのです。」

 

命の掛かった緊迫した状態で混乱していた氏時には、

この言葉はある意味一縷の光に感じたのかもしれない。

 

「罪をそなたに?…とは…」

 

氏時は信秀の言葉に再び耳を傾けた。

 

「私に騙し討ちされた様に演じるのです。」

 

信秀はその一計の詳細を説明した。

いわば、自らが突然の病に掛かったとし、

家臣を城中に招き入れ、

その後に2人は裏口から逃げて、

信秀の手勢が城内に火を放つというものであった。

 

そして

「私が病を装いますので、我が家中の者を及び下さい。

城門の前に30名ほど待機させております。」

 

さらに、

「城門を開けたら、門番に直ぐに退出ができるよう、

門を開いたままにするようお伝え下さい。

さすれば城内の者をだれ一人殺さずに無事成し遂げっれます。」

 

と、あえて城兵への気遣いも与えた。

 

そして氏時は信秀の指示通りに事を進めて、

城中に信秀の家来を招き入れた。

城門前の30名とは別で、

実際に城外に伏せていた手勢は、

平手政秀ら擁する信秀の手勢で有り、

城内に30名が潜入する様子を確認するや…

 

「さすがは信秀さま…首尾よく行ったようですな…」

 

と、政秀は兵に継続して待機するよう命じた。

 

城内に潜入した家臣の一人は林秀貞である。

秀貞は予めの計画通りに上手く演じて…

 

「殿!!ご無事ですか!!」

 

と騒ぎながら信秀のいる場所へ駈け込んで見せた。

相手が不信に感じないよう、

抜かりの無い演出である。

秀貞が信秀の下に訪れるや、

信秀はケロッとした状態で

氏時そしてその場に呼び寄せた竹王丸と並んで座っていた。

秀貞はそこでも演じ続け、

 

「と…殿…これはいったい?」

 

すると信秀は、

 

「清州の手勢に気づかれぬよう、お二人を勝幡にお連れしろ!!」

 

そして秀貞は、手勢3、4人で竹王丸と氏時を誘導して、

裏門へと向かった。

信秀は氏時に城内の配置を予め変えさせたうえで

残りの手勢に城内に火をかけるように命じた。

城内に火が掛かると城内の兵士たちは混乱し、

開いたまま城門から次々と逃げ出し始めた。

そのタイミングで平手政秀の伏兵が現れたため、

那古野城はあっさりと陥落した。

 

信秀を完全に信じ込んでいた竹王丸と氏時は、

そのまま勝幡へと連れて行かれた。

信秀は勿論、約束通り2人を勝幡で優遇し、

大切な客人として迎えている。

それだけの財力が有った事と、

この計略で更に熱田も抑えた事の余裕でもある。

 

記録上では、この話の通り、

那古野陥落が1532年の出来事と成っており、

1533年に山科言継と飛鳥井雅綱が

信秀主宰の蹴鞠指導で招かれた際に、

今川竹王丸が参加したとして残されている。

それ故に、一部の史家の間では、

この那古野攻略の出来事は、

実は1538年だったのではという仮説にも繋がっている。

 

この蹴鞠大会の記述が残る意味として、

今川竹王丸の存在を隠さなかったのは信秀の落ち度なのか

それとも今川方に人質を押さえているというアピールで、

ワザと公に竹王丸を出していたのか、

この小説では寧ろ後者の策略として考えるものとする。

現に記録は山科言継の「言継卿記」に記されており、

各地を巡った人物故に、

秘かにその話は今川方にも伝わったと考えるのが普通である。

 

1532年に信秀は大和守家達勝と争いを始めており、

その切っ掛けが那古野騙し討ちの責が端を発したとも考えられる。

しかしこの争いは双方が和睦する形で治まっており、

信秀が主家の斯波義統の仲裁を取り付ける事で

治まったとも考えられる。

 

信秀は幼い吉法師を眺めながら、

ふと、その事を思い出した。

そして吉法師に新たな土産物「鉄砲」一丁を置いて、

政秀に

 

「吉法師をよろしく頼むぞ…政秀」

 

と言って、その場を去った…

 

どうも…ショーエイです。

最後の鉄砲を置いて行った話は、

作者の演出だそうです。

1543年に伝来した鉄砲が、

1544年の時点で、津島か熱田に入ってきた可能性はあるものの、

まだ入って来るほど普及してなかったのも事実です。

 

ただ、戦国の歴史を年代で追っていく上で、

「1543年鉄砲伝来」という歴史と繋げる意味で、

ここに鉄砲を土産に置くという演出にした感じです。

 

色々と調べながら辻褄合わせる作業は大変で、

何か洩れていそうなことも危惧されますが、

極力、記録=歴史上史実として扱われている内容を

分析してこの小説を組み立てて行くつもりです。

 

現状、織田家家中の騒動は、

既に見えているそうで、

今後の展開をお楽しみください。

 

大まかな流れはネタバレしていても、

今まで存在する話とは全く違う内容で、

誰も気付かなかった戦国に生きる人達の

心の変化を上手く構成していくという事です。

 

さて…本日の愚痴…

何の変化も感じない新政権、

そして野党。

本当にこの国は成長しないです。

本人たちは何かの想いが政治に有るのだろうが、

国民はそんな妄想どうでも良いという感じです。

 

PCやテレビのゲーマーである僕が言うのも何ですが、

寧ろゲームと現実のギャップを感じすぎて、

ゲームの構成に不足感を抱くほど故に、

逆に現実をゲームの様に考えません。

 

寧ろ政治家たちは権力ゲームであり、

忖度ゲームは勿論、

戦略ゲームで遊んでいる様な思考が感じられ、

逆に幼稚な感じに見えます。

 

政治は議論が大事で、

議論の無い多数決は、

常に「法の劣後性」を回避できません。

ハッキリ言って、「法の劣後性」は、

国政の仕組みを科学的に分析、理解していないから

発生するもので、

劣後として発生する「悪だくみ」

いわば法の抜け道なんてのは、

適正に議論する中で見えてくる話です。

 

これを見ようとしない政治は、

所詮腐敗政治で、

政治家個人の趣向を数のごり押しでやっている出kなのです。

 

まあ、いつの時代もこういう状態に成る訳ですが、

権力や力を意識するあまりにそれに溺れると、

お互いの力関係を意識して法案を商談のようにしてしまう為、

議論はやぶさかとなって、

政治理想だけの薄っぺらいものが施行されるという

愚かな状態です。

そういう思考に走っている故に、

反対意見を汲み取って何を修整するべきかを

素直に見れなく成り、

「法の劣後性」は当然と割り切って

施行後に修正すれば良いとしていまう。

 

結果、大失態を起こして修正する事無く政権を追われるか、

安部ちゃんの様に、やりたいこと多すぎて、

中途半端にそっちに追われて

一つも完成された法案に成らないどころか、

修正を考える話は後回しに成っていきます。

故に、一応やりましただけのパフォーマンス法案になる。

 

北方領土問題にしても、

現実的にロシアが手放す事は考えにくい状態で、

交渉だけしましたの結果で、

日本が何かその状態で得るものは何も無かった話です。

最低でも共同開発とビザなし観光で、

日ロ共同で自治政府の法案を交渉する位の進展は出来たはずです。

 

腐敗政治状態で、枝野君に期待はしたものの、

結局彼も権力闘争のゲームに没頭しだした。

自民との差別化で、

議論中心の野党という形をどうして生み出せないのかな?

既に現状立憲民主党はゴミに成ったと言っておきます。

 

と言う事で、日本に期待しない方がいいという話です。