【第四話 絵巻】桶狭間へのカウントダウン 残り16年
〔ドラフト版〕
吉法師が城下へ行くにあたって、
那古野城内は慌ただしい状態であった。
吉法師の警備には200名近い人数が動員され、
その内150名は周囲に配置される斥候、いわば物見である。
実は那古野城に常駐している兵士数は300人程度で、
ほぼ、半数以上が吉法師の警備に当たる。
常駐兵が300人とは少なく感じるかもしれないが、
実際にこの時代はまだ徴兵制で、
武家と呼ばれる人間の数は意外と少ない。
現代風に武家を説明するなら、
市役所、区役所、町役場で働く公務員の様なもので、
ある意味その権限に自衛隊や警察権を含んでいる。
裁判所のようなものは存在せず、
寧ろ所領を持つ上級武家が市議会議員などの地位として、
所領をいわば選挙区の様な形で治め、
その所領の揉め事を聞いて裁く形が取られていた。
裁判所に相当する奉行所なんてものが登場するのは、
江戸時代以降であり、
それ以前の奉行は重臣の役職という感じで考えられていた。
戦国の尾張などと分割された各国を国として考えた場合、
いわば最高裁判所の判事と職員が居るだけという感じで、
将軍の元、いわば京に置かれるモノは
ハーグ国際法廷の様なもので、
外交上の問題しか取り扱わないといった感じである。
逆に不味しい農民は国の最高裁で裁判を受ける事など
出来ない時代と考えるべきであろう。
現代の大河ドラマやら、色々な小説のイメージで、
農民は弱い人たちを想像するだろうが、
徴兵制に動員されることを考えると、
そこそこたくましい感じに成るはずだ。
中には荒くれ者も多かったと考えるべきで、
必ずしも弱いという感じでは無い。
しかし武家が警察の様な存在であるゆえに、
武家に逆らえば処罰されるという常識から、
彼らはそれに服従していたという説明が適切であろう。
こうした環境に加え治安面を見てみると、
野盗的な感じの野武士と呼ばれる組織もあった。
野武士には未所属な自治軍団のものも有れば、
勢力との談合で、他勢力の地域で盗賊をして生業とする組織も有った。
ある意味ヤクザな組織である。
尾張に於いては、清州の織田大和守家と繋がる野武士、
岩倉の織田伊勢守家と繋がる野武士、
無論、織田弾正忠家と繋がる野武士などが、
其々の勢力圏を荒し合っていた状態である。
野武士の手勢は50人~100人位と考えればいいが、
馬足が遅く手勢が少ない状態で吉法師がうろつけば、
彼らはそれに追い付いて襲撃を仕掛けてる事は十分に考えられる。
信秀の嫡男であればその利用価値は十分に有り、
熱田の利権、津島の利権を絡めての
交渉にも役立つといえる。
こうした治安の状態故に政秀は慎重に考えた。
物見役の部隊は、何か起こればすぐさま伏兵と化して、
襲撃部隊を急襲できるようその合図を太鼓などで整えた。
また、物見部隊が散見する状態を以て、
襲撃する側に警戒心を与えるようにも考えた。
いわば襲撃しても返り討ちに合うと認知させるためだ。
こうして用意周到に行われた吉法師の城下視察は、
その当日を迎えた。
後に信長と成った吉法師はこの城下どころか熱田などを
自由にウロウロし始める。
この警備はいったい何の意味があるか疑問に思うだろうが、
それが信長が天才的であった所以で、
また周囲がその行動を「うつけ」と
あざ笑う話の意味に繋がるのである。
吉法師は佐久間盛重に抱えられるようにして馬に騎乗した。
無論、初陣までには単独で馬に乗れなければ成らない。
ある意味13歳位の年齢に成ればそれが適う年ごろで、
現代の競走馬サラブレッドより
一回り小さい木曽馬が主流の時代では、
大きさも13歳が跨ぐのには程よいサイズと言っていい。
寧ろ、馬に乗れなければ初陣は無いとも考えるべきだろう。
盛重は本当に嬉しそうである。
「若、何の心配も有りませぬ。私が命に代えてお守り申し上げまする故に。」
と、意気込んでそう言うが、
当の吉法師は寧ろ初めての城外ゆえにワクワクしており、
何の危険があるのかすら理解していない。
それ故に子供ながらその意気込みを不思議そうに見つめた。
そして盛重、吉法師の横固めに
当時、まだ16歳で後の重臣となる佐久間信盛が控えていた。
この信盛も従弟である盛重から散々とこの重責の意味を語られて、
ある意味少し緊張気味に成っていた。
そしてもう一方の横固めには後に信長の側近黒母衣衆の筆頭となる、
これも齢17歳の河尻秀隆が控えていた。
2人からすればこのイベントは何であろう…
甲子園に出場して、開会式の旗手持ちや
下手したら選手宣誓でもやるかのような
そんな重責に感じていたのかもしれない。
こうした切っ掛けが結果として後の信長への情に結びつき、
彼らは信長を支持し続けた所以に成るのかも知れない。
無論、こうした行事は史実の記録には存在しない。
しかし、後に信長が実弟信行との戦いで有利になる所以を考えると、
信長に従った者たちには、
家臣の責務以外の情が有ったと考える方が辻褄が合ってくる。
出発の前に、吉法師がどんな子供であったかを話しておこう。
那古野の城主であり、織田弾正忠家の嫡男として育った吉法師は、
ある意味我がままし放題に育ったと言える。
これは史実の記録でもあるようだが、
食事の時に他人のおかずを横取りするなど、
実際にそういう状態はあったと言える。
吉法師は弟分の小政(後の池田恒興)と食事を共にすることが多く、
好みの品が有ると
「小政、それくれ。」
と、小政が食べる前に、
小政のおかずをよく奪って食べた。
そして小政はよく泣いて母の養徳院にせがむのだった。
その都度、養徳院は自分のおかずを小政に分け与えて慰めた。
そんな小政に養徳院は、
「吉法師様はこの城の主で、小政はその主の為に我慢するのが務めですよ。」
と、教え、
「その我慢する半分を、母がこうして支えてあげるのです。」
と、小政に言い聞かせた。
吉法師は何故か養徳院が分け与えた分までは取らないのだ。
ある意味悪気は無いが、
小政を弄って楽しむ感じだったのだろうか…
小政が養徳院に泣きつく姿を楽しんでたのだろうか…
逆にひもじい感じで考えるなら、
吉法師が満足するだけの量を与えれば良いだけの事。
裕福な織田弾正忠家にあって、
そんな節約は必要ないといえばそうである。
実際に考えられる事は、
吉法師はせっかちで、ある意味合理的ゆえに
好みの食べ物だと、おかわりを頼んでから
それが持ち込まれるまでの時間を待つより、
隣の小政のを先食べた方が早いと考えたのだろう。
そしてそれが許されるから、
ついついそういう効率で行動したのだろう。
それでも、たまに平手に見つかると、
「若!!他人の物を奪うなどは盗賊のやることですぞ!!」
と、怒られ、
「主君としては、逆に家臣に分け与えなされ!!さあ、小政殿に取った魚を返されよ!!」
と、躾けられるのであった。
吉法師は政秀にまだ逆らえず、黙って小政に魚を返す。
更に平手は、
「さあ、謝りなされ!!」
と、謝罪する事を教えると。
吉法師は不貞腐れながらも、
「小政…すまん」
と、ボソッと謝る。
すると今度は養徳院が、
「小政、有難うですよ…」
と、小声で教えるように小政を促すと
小政は
「若…有難うございます」
と、腑に落ちない感じながらも言うのであった。
いわばこの頃の吉法師はクソガキと言えば
クソガキであったと言える。
無論、口うるさい爺である政秀の前では、
行儀のいい子で有ったのも事実だが、
自分の我ままがある程度通る事を知っていたのも事実である。
しかし、吉法師も小政も主従がハッキリ解るように
教育を受けたため、
後の池田恒興は弟分ながらも家臣として弁えた人物として
信長を支えて行くのである。
そんな我がまま放題に育った吉法師に大きな転機が生じる。
それがこの城下の視察である。
政秀が先導役で門を出た吉法師の一行は、
城から1.5キロ西南に下った那古野の集落を目指した。
そこまでの風景は田園地帯であり、
那古野城はその田園地帯に囲まれるように建っていた。
この一行の前に、物見の先発部隊が既に那古野の集落に入っていた。
先発部隊が集落に入るや、
「城主織田吉法師様の御成りじゃ!!皆の者外へ出てお迎えせよ!!」
と叫ぶと、集落の者たちは作業の手を止め、
母屋に居たモノも集落の街道沿いに出てきた。
馬上で命じる先遣隊は更に、
「皆の者!!頭をひれ伏してお迎えせよ!!」
と、命じるや、集落の者たちは言われるがままに
街道沿いの脇に整列して土下座するように頭を下げて到着を待った。
当時としてはこれが当たり前である。
いわば無抵抗な姿勢としてこれを要請するのだった。
逆に従わずに立ったまま居るものは敵意の表しであり、
またいつでも襲える態勢を維持していると見なされる。
主君の安全を確保する意味でも、当然の事として行われていた。
更に安全確保の為、誰か隠れていないか、
集落を一軒一軒くまなく見て回るのであった。
個人の権利やプライバシーなど全く関係の無い時代である。
そうした中で吉法師の一行が到着した。
政秀は集落の民が頭を垂れて迎え入れる状態を確認すると、
そのまま集落の街道を進んで行った。
その光景が吉法師の目に止まった瞬間、
吉法師は先ず、目を丸くして驚き、
そして突然泣き出した。
それに驚いた盛重は、
「わ…若…いかが為された?」
とおどろおどろ聞いた。
最初はショックで急に涙が零れ出すかんじだったのが、
段々と興奮するように泣き始め、
吉法師は
「これは地獄の絵と同じじゃ!!我はこんなの見たくて来たのではない!!」
と、我がままを言う様感じで言葉にした。
盛重には吉法師のいう意味が良く解らなかった…
吉法師の泣きじゃくる様子に、佐久間信盛も河尻秀隆も困惑した。
無論、武家の仕来りとして当たり前の光景なのだから。
彼らは何が間違っているのか、全く解らなかった。
するとその様子に気づいた政秀は直ぐに吉法師の下に駆け寄って、
「若!? どうされたのじゃ?城下がどうかしたのですか?」
すると吉法師は、
「これでは地獄絵巻と同じじゃ!!ここは極楽ではない!!」
最初は政秀も良く解らなかったが、
吉法師の趣味や好き嫌いを把握していた彼は、
何となくその意味に合点がいった。
吉法師は信秀が土産物として授けた絵巻や水墨画を色々見て育った。
更には養徳院が話す怖い話、お伽話など聞いて、
地獄や極楽の想像力を養っていた。
いわば那古野の集落で目撃した光景は、
鬼に怯えた人々の光景に見えたのだ。
そして吉法師は、
「城下とは楽しそうな場所じゃ無いのか!!」
と、更に言った。
そうである。
吉法師が想像していた城下とは、
町民たちが楽しそうに暮らす街の風景であり、
お祭りで騒いでいる様な光景である。
いわば、絵巻でも、養徳院の話の中でも、
「楽しそう」な世界が吉法師の興味をそそったのだ。
このギャップが吉法師にトラウマの様に押し寄せたわけである。
おそらく自分の見た世界は…「地獄」と映ったのだろう。
想像力だけで実際見るのは初めて故に、
それだけの衝撃を受け、
そしてその後の人生でこれがトラウマと成り、
織田信長の治世の理想を築き上げるのであった。
政秀は何となく吉法師の感性を理解し始めて、
すぐさま集落の者たちに、
「皆の者、ご苦労であった。面を上げて普通にしてよい」
と命じた。
集落の者たちは勿論戸惑った。
地面に座ったままお互いに顔を見合わせて、
中々立ち上がれずにいた。
すると政秀は、
「気にせずに立ちあがってよい。そしていつも通りにしていてよい。」
と命じるとようやく集落の者たちは立ち上がった。
しかし、戸惑いがあって普通に戻れず、
街道に立ったままであった。
政秀は吉法師を抱える盛重の下へ行って、
「これより古渡へ向かおう。」
と、言った。
吉法師はまだ泣きじゃくっている。
政秀はそんな吉法師の頭を撫でて、
「若はきっと素晴らしい名君に成られる!!」
と、吉法師のその感性を寧ろ喜んだ。
盛重も、そして信盛、秀隆も、
政秀が集落の者を立たせた事で、
ようやく吉法師の言っていた意味を理解し、
政秀が吉法師に掛けた言葉に感銘を受けて、
(若の見たかったのは、民が楽しむ極楽の世界か…)
と、ようやく吉法師の世界観を理解した。
そして立ち往生の状態で固まった集落の民を後に、
一行は古渡へと駒を進めた。
どうも…ショーエイです。
ようやく物語部分が進み始めました。
まあ、2話、3話で色々な戦国の情勢を説明しましたが、
実はああいうバックグラウンドを理解していないと、
この物語の心理的な部分が見えにくく成るのです。
簡単そうで複雑な心理の駆け引き。
これらが現実的な流れとして
人の行動に影響を及ぼし、
そして不可思議な結末を与える。
今、現代の世界情勢であり国内情勢で、
其々の人がそれぞれの理想で複雑に絡み合って、
時代を構成していくのです。
それは何時の時代でも同じで、
そういう事を理解する上でのバックグラウンドなのです。
人の世界を単純に性善説や性悪説で割り切ることは出来ません。
其々にそうなる理由が有るのです。
とはいえ、それで割り切って理解しているだけでは、
社会は滅茶苦茶に成る。
権力に奢る者は、時として弱者に犠牲を強いる。
犠牲として強いられた弱者を相手に戦うものは、
時として味方を守る上で残酷な結末を彼らに与える。
織田信長と本願寺の一向宗の戦いは、
そんな戦いだったのかも知れません。
また、広島や長崎の原爆投下。
日本人として複雑に見方は変わりますが、
その犠牲者は何れも弱者の市民です。
人には其々そうなる理由が有るとは言いますが、
他人事であれば、理解力と優しさで許せてしまうだろうが、
被害者に成ればそうはいきません。
そういうものの見え方の違いでも考え方は異なり、
時として優しさに走った他人事とした人を
許せなく感じてしまう事もあるのです。
優しいだけで悟りが開けると勘違いしないで欲しい。
性善説の様な理由があると割り切っても、
性悪説の様な利己的な考えも人間そのものなのです。
何を許容し、何を許さないとするか、
人それぞれでこれも異なる部分でありますが、
この小説を読んで信長たまの感性を感じ取ってみて下さい。