ショーエイのアタックまんがーワン -8ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第十七話 己】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は父・信秀の助けも有ってようやく治水工事を着手することが叶った。

それでも那古野村の子供たちと約束をして、ひと月あまりで実現した。

吉法師は沢彦と悪童ら、そして政秀を伴い領主として正装で那古野村に向かった。

この2年前に初めて城下を訪れた時とほぼ同じ行壮だ。

先方の河尻秀隆が先ず村を訪れた。

そして大きな声で、

 

「これより那古野城主吉法師様が御触れを出しに来られる!!村民は全員表に出て触れに従う様に!!」

 

と、伝えると村民はゾロゾロと外に出て街道を固め始めた。

500戸3000人規模が街道に並ぶと、家族で固まったとしてもおおよそ300mには成る。

そうした中、暫くすると吉法師の一団が到着した。

あの時と同じように農民たちは地べたに平伏してこれを迎え入れた。

この時の一団の先頭には吉法師が立っており、その横に沢彦と政秀がが並び、その後ろを悪童たち、そして佐久間盛重、信盛らが続いた。

吉法師は平伏した農民たちに近づくや、

大きな声で、

 

「全員面を挙げて楽にせよ、」

 

と、言い放った。

農民たちは言われるがまま面を上げた。

その列に並んでいた新介、小平太ら子供たちは、

行列の先頭に立っている吉法師を見て、ようやくあの時の悪童が那古野の領主であったことを知る。

知るというより確証した。

そして吉法師の脇にいた政秀が、

 

「こちらにおわす方は那古野城主の吉法師様にあらされる、これより城主直々に御触れを出される故によく聞いて従え!!」

 

と、伝えた。

ハッキリ言えば吉法師が領主である証明はこうすれば成り立つ。

しかし、それは沢彦の方針ではない。

偉い人間が偉そうに自らを証明しても、人はただ威圧されるだけだ。

人を威圧だけで支配すれば、一度力を無くした時に人は簡単に見限る。または反抗する。「飼い犬に噛まれる」という表現に成るだろう。

そして時は戦国の下克上である。

いついかなる時に敵に攻め立てられ窮地に陥るか解らない中で、領民が敵方に寝返る事など当たり前なのだ。

領主が領民を締め付けて従わせていただけなら、尚更領民はここぞとばかりに寝返るだろう。

沢彦は吉法師をそういう人間に育てたくは無かった。

故にああした約束で証明させたのだ。

無論吉法師も領主として出向く方法は思いつくだろう。

そして治水と言う約束を交わすなど本来面倒な事だ。

それでも沢彦の提案に臨んだのは吉法師の才覚ゆえの事と言っても良い。

こうした才覚は論理で考えられる事ではない。

いわばペットに愛情を注いで共に暮らす喜びを求めるか、

それとも厳しく芸でも仕込んで自分に従わせようとするかの違いの様なもので、その人間の感性とも言える部分だ。

 

吉法師は感覚的に前者である。

織田信長という人物を今までの価値観で眺めれば寧ろ後者の様に感じている人も多いだろう。

冷酷で無慈悲な性格と評して。

無論、冷酷で無慈悲な人間であることは否定しない。

しかしそれは自分の敵に対しての感情で有り、

逆に味方に対しては異なるのだ。

こうはいうものの後に佐久間信盛を追放した件などを挙げて、異論を述べるものも居るだろうが、そもそも地位に胡坐をかいてその他の家臣や領民を蔑ろにした人間を情で許す方が慈悲なのか、それとも許さない方が慈悲なのかと考えればその判断の本意は解ってくるのではなかろうか。

 

大人に成ればなるほど、他人を計算づくで見てしまう。

また計算して考えようとする。

芸能人や政治家が好感度を意識する時など、こうした計算を用いるだろう。しかし、捉える方は十人十色で実際は計算してどうにかなる話では無い。

寧ろ計算するより素直に直感で行動する方が良いとも言えるが、この直感というのはその人間の本質で、それは才能とも言える部分だ。

解りやすく言えば「違和感を感じる」という時は誰しも経験を持つだろう。

この「違和感」は自分のポリシーや信念に基づいて感じ取る部分で、それが野心的な部分なのか、人情的な部分なのかで変わってくる。

野心的な違和感は寧ろ計算に近い。

いわば保守的な考えで、自分の事が優先なのだ。

ここの直感部分が「ここでは嘘をつく」といった行動に成る。

人情的な違和感は個人の信念と言える。

ある意味自分の生き様として曲げられない部分だ。

野心的な違和感と違って損をしやすいと言える。

こうして説明するならば三国志で描かれる曹操と劉備の対比と同じになる。

曹操は曹操で成功している訳で、劉備も最終的には曹操に対抗しうるだけの力を得るのだ。

それでも曹操が中華を平定できなかったのは対比の劉備の存在があった故。

先行して力を得ても、損し続けた劉備を捕らえられなかったのは劉備という人間の徳の偉大さで理解すると良いだろう。

野心的な違和感で行動する才能は、威圧によってその勢いは付きやすいが敵を多く作る事にも成る。

いわば多くが怯えて従うだけで心腹する者はごく僅かな側近だけ。

逆に人情的違和感で行動する者は信頼を得られやすく、味方が増えやすい。何故なら多くの人がその存在に安心感を抱くからだ。

損を多くするが、その分助けも多く得られる。

その助けが威圧に対する反感からのものであれば、敵中に於いても得られるのだ。そうして劉備は生き残た。

大人に成ればこうした両者のやり方は計算によって使い分けられる。

そこは違和感では無くむしろ「こうしたらネットで騒がれる」という警戒感によるものと言えるだろう。

そして計算では「これくらいなら問題ないだろう」と魔が差す事も生じるのだ。

こうした計算で誤魔化し誤魔化し立ち回って成功する人間も居るが、そこには力や金、権力と言った威圧で黙らせていると言える。

結果その計算には信念が無く行動原理がブレてしまう為、人は信用しなくなるのは言うまでもない。

 

吉法師は実は人情的な違和感で考えるのだ。

かつて吉法師が感じた「死後の違和感」

「自分が農民に生まれ変わったら…どう生きて行く?」

そこが根底にあるゆえに、自分で自分を眺めて違和感を感じた事に抵抗を持つのだ。

言葉を代えれば、「自分が嫌だと思う事は他人も嫌だ」という事を知っているのだ。

しかし、劉備のそれとはまた異なる。

幼いながらもある矛盾に疑念を抱き、それを解決しようとする。

「では、戦争ではどうなのか?」

そう戦争では自分が攻め込めば敵は嫌がる…

それをためらっては天下を治める力を得られない。

自分が天下を治めなければ農民で生まれた時に農民として理不尽な社会で生きる事を強いられる。

野心的に都合よくそこで妥協すれば、

「情など捨ててしまわねば天下は望めぬ」

という結論で終わるだろう。

誰しもが織田信長という人物がその結論で終わったと誤解しているのだ。

吉法師は妥協で終わらせない。

複雑な疑念が子供ながら何年も頭を過っていたのだ。

これが天命を受けた定めなのだ。

そしてある時に吉法師は答えを見つけた。

これを「魔仙道」とでも言おう。

以前、語った様に、

「敵に対しては魔道を、味方に対しては仙道を」

というものである。

「敵は常に味方を脅かす存在で、その味方を守る為にはその敵を排除せねば味方は逆に苦しむ」

そういう考えのもとで、あの時那古野村の新介は敵として対峙した。

無慈悲なまでに叩きのめしたが…

さすがに殺しては成らないという違和感を感じて手を止めた。

そういう自分に吉法師は「何故だ」と問いかける。

相手を敵と定めて仕留めねば、自分が反撃で殺される。

そういう気構えだったはずで、これが本当の戦場であったら死活問題だと感じた。

しかし、それ以上に手が動かなかった。

心が敵では無いと判断したからなのか…

子供ながらに考えた。

天命を受けた故に、どこかで天からの歯止めが掛かったと理解するべきか…

 

那古野村の村民が面を上げて吉法師を見た。

まだ12歳の幼い子供である。

そんな吉法師を見るや新介、小平太ら村民の子らは吉法師が本当の領主であったと確認し、吉法師に向かって手を振って、

 

「吉法師さまぁ!!」

 

と、大きな声で声援を送った。

本来は無礼とされるモノであるだろう。

しかし、吉法師も彼らの存在を確認すると誇らしげに手を振って返した。

子供たちの突然の行動に、その親は無礼だとばかりに叱りつけた。

その様子を見た吉法師はすぐさま馬に乗って近くへ駆け寄り、

 

「構わぬ!!新介、小平太に他の者はワシの供を致せ!!」

 

と命じて、自分の列に招き入れた。

新介らは少し誇らしげに吉法師の命じる通りに列に加わった。

 

こうした些細な出来事で、吉法師はまた新たなる悟り垣間見るのである。まだ、言葉として確立は出来ていないだろうが、何かが吹っ切れた感覚で理解した。

 

「和に応じる者は味方であり情を以て接す、不和なるものは敵と見なして無情を用いて退ける」

 

深く読み解けば法の根底ともいうべき内容になる。

不和とは社会秩序を乱すもので、社会の敵=罪として裁くべきという意味にも成る。

法の中でこそ無情とは忖度無く公平に裁くという表現で用いれるが、戦国の下克上の世では、無慈悲という意味合いに成ってくるだろう。

勿論、こうした言葉として論理的に理解した訳ではない吉法師は、感覚的に「和に応じるもの味方、応じないものは敵」と区別する意味で理解したに過ぎない。

そしてその結果が、徳川家康と浅井長政の命運を分けたものである事は言うまでもないだろう。

こうした奇妙な天命論で話を考えるなら、

秀吉が天下を取れたのも信長の天命が導いたもので、身分に関係なく出世が出来た故の話であり、家康が天下を取れたのも、家康が信長の和の精神に逆らわなかったからと言える。

そして農民上がりでも天下を取れた歴史と、和を貫き通した恩恵が江戸幕府を起こしたのだと考えれば、信長の天命は日本という国の価値観に大きな変革を与えたと誇れるのかもしれない。

 

吉法師らが村民らが集まった街道の中腹に差し掛かると、そこには那古野村の村長らしき人物が待っており、その面前で平手政秀が御触れを大声で読み上げた。

 

「これより庄内川より那古野に向けて水田用の治水を行う。それに当たって村民から毎日100名の人工を出すことを命ずる。」

 

治水が行われるという話を聞いて、村民は大いに喜んだ。

そして政秀は目録状をその村長に手渡して、

 

「明日までに100名の人工を選別したせ、して明後日、朝より庄内川の清洲橋(現・東海道新幹線鉄橋付近)に集まるよう下知する。」

 

と、言うや村長はそれを平伏して受け取った。

その様子を見て吉法師は自分の側で隊列させた新介らに、

 

「明後日、約束の工事じゃ、お前らも集まって手伝え!!」

 

と言うや、新介らは喜んで、

 

「御意!!」

 

と、既に吉法師の家来に成った風で応じた。

 

翌朝、吉法師らと那古野村の子供たちは予定通り清洲橋の治水現場に足を運んだ。

現場には那古野村からの100名の人工に50名の大工が集結していた。

工事の初日とあって監督役の役人が那古野から派遣された。

この役人には信秀の所に仕官して間もない金森長近が担当した。

金森長近は元は美濃の土岐家の家臣で、斎藤道三に土岐家が追われると、父定近と共に一度は近江に潜んでいた。

1542年18歳に成ると、当時斎藤道三と争っていた信秀に仕官したのだ。

この当時はまだ金森可近と名乗っていた。

政治的な手腕と言うより、勤勉な姿勢を政秀から評価され今回の役目を与えられたのだ。

勤勉というのも、勉学や教養の方で勘違いする人も多いだろうが、勤勉と言うのは仕事に対して忠実に学ぼうとする姿勢である。

簡単に言えば解らない事を解ろうと努力する事であり、自分の仕事がどういうものかを的確に把握する力である。

ある意味こういう人物はどんな場面でも頼れる存在と言ってもいいだろう。

 

工事を始める前に祈願をして人災が起こらないようにする事は、昭和時代にはよく見られた光景だ。

戦国の当時もこうした儀式は執り行われていたと考える。

可近は大工の棟梁らとその儀式の準備を行っていた。

そこに吉法師ら子供たちがやってきたのだ。

無論、沢彦も同行している。

吉法師は作業をするつもりで来ていた為、農民の子らと同じような格好で現れた。

それを見た大工の棟梁は、

 

「何ですか…あのガキどもは…?」

 

と、近くに居た可近に尋ねると、

可近はその子供らの方へ振り向いた。

昨日の御触れ出しの時には同行しおらず、現場で治水工事の下見をしていた可近は、吉法師が来るなどとは聞かされていなかったため、吉法師を見るや驚いて、小走りに近づきながら

 

「若!!いかが為された!!」

 

驚く可近に吉法師は

 

「工事を手伝いに来た。」

 

と、簡単に伝える。

そして可近はその後ろに控えていた沢彦を見つめて、

 

「若自ら、この様な作業を?」

 

そう聞くと、沢彦が、

 

「後学の為、邪魔に成らない程度に頼みまする。」

 

と申し訳なさそうに伝えた。

勿論、沢彦は子供が工事の手伝いなどすれば邪魔にしか成らない事は知っての事だ。

そこへ可近の後ろで話を聞いていた棟梁が、

 

「ワシらは工事が捗らんでも文句言われなきゃ、一向に構わぬが…金森さまはそれでいいだかぁ?」

 

その言葉に可近は困り果てた。

いわば自分の上司に当たる人物は平手政秀で、吉法師はその政秀を介しての存在だからだ。

いわば社長の息子であっても、重役の指示から外れれば会社員の査定として響く意味を持つ。

無論、沢彦はそういう心情も察した上で、

 

「若がここに居る事は政秀殿も承知の事、その若が居る間足手まといに成る事は仕方ないじゃろ。」

 

吉法師は沢彦の「足手まとい」という言葉にムキに成って、

 

「ワシらは足手まといなどには成らん!!」

 

と意気込むや、

棟梁はなら仕方なしという表情で、

 

「じゃあ、若殿、容赦なくコキ使わせてもらいますだが…いいだか?」

 

と、言うと吉法師は、

 

「構わぬ!!」

 

と言い切った。

 

祈願も終わり工事が開始された。

吉法師ら子供らは川べりの石拾いが作業として割り振られた。

大工たちは用意した木材を加工して堰を作る作業。

那古野村から来た人工は吉法師らと同じように石拾いと川底の地ならしである。

無論、若殿である吉法師が作業している以上、可近もこれを手伝わざるを得なかった。ある意味真面目な性格故の事だ。

子供たちは石を拾って桶に集め、大人たちがその桶を担いで仮置きの石場へ持って行く。

仮置きするのはまたその石を工事で使うからだ。

 

最初は遊び半分でやっていた単純な作業も、一時を過ぎると子供たちは飽きてくる。

飽きてくると子供たちは水を掛け合ったり、小石をぶつけ合ったりしながら遊び始めるのだ。

それを見た沢彦は、

 

「それが足手まといじゃ、遊びたいのなら手伝うのを止めてさっさと遊びに行け!!」

 

と叱ると、意外にも子供たちは素直に従い仕事に集中するのだった。

子供なりに手伝うという意識を持ったプライドなのだろう。

軽作業で重労働でなくとも寧ろ精神的に疲れは溜まってくるものだ。

この時代は今の様に10時や3時の休憩など基準に成っていない。

寧ろ昼飯を食べる時くらいしか休ませてもらえなかったとも言える。

その昼飯でさえ、食ったら作業を始めるといった感じでせかされる様な環境だ。

吉法師はこの環境を自らで体験したのだ。

 

今の政治家は勿論、官庁の職員として働いている人間でこうした作業を経験した人間がどれほどいるだろうか?

逆に今の労働基準が確立されたのは、こうした経験を得た官庁職員が労働者の気持ちに成って成立させてくれたものと言えるが、逆にそれを監督する役所に経験者が少なくなると、その労働基準の意味すら履き違えて考えるのだ。

 

沢彦が吉法師にそういう経験を得て、自ら底辺の気持ちを理解できるようにとこうした教育を施したのだ。

 

勿論、子供によってはこんな仕事は底辺のやる事だと投げ出してしまう事も有っただろう。

吉法師も内心ではそう考えた。

しかし、自分が吐いた言葉のプライドを沢彦が上手く刺激してくる故に、上手く乗せられて踏ん張るのだった。

単純といえば単純な子供であり、単純故にうつけに見える。

しかし、その単純さが寧ろ我慢という過程を得て才能を開花させていくのである。

 

作業を始めてから3日目にも成ると、吉法師はチマチマと石を拾う作業に飽き飽きしてきた。

これは作業を投げ出すという事ではない。

天才とこの小説では一括りにして語るが、

天才は天才の境地を既に会得している場合が多い。

吉法師が天才であるゆえに、孫子の兵法、「己を知り、敵を知らば百戦危うからず」という事を自然と意識できるのだ。

いわば「己を知る」こと、そして「敵は何であるか」を見極めて考えようとするのだ。

兵法ゆえに生兵法者は敵を知る=情報と勘違いしやすい。

しかし敵は常に見えている敵だけではなく、見えていない己が持つ敵も含まれるのだ。

吉法師は孫子を知っている訳ではないが、

自らが作業に飽きてしまうことに己を理解する。

そして飽きてしまい作業のペースが徐々に落ちて行くことを、

作業上の「敵」として意識した。

普通の人は「仕方のない現象」と割り切ってしまうかもしれない。

ところが吉法師はこの苦痛を改善しなければ自分が投げ出してしまいそうな感じに成ってしまう。

自らが「足手まといには成らない!!」

そう豪語してしまった事も「己を知った」部分で有り、

敵はそう言わせた沢彦であり、投げ出すことは沢彦に負けた事を意味するのだ。

そういう葛藤の中から、何か自分を保てる方法を考えざるを得ないのだ。

そうして…吉法師は三日間考えたのである。

 

どうも…ショーエイです。

本当に小説を書くのって頭を悩ませます。

どういう形で面白くその場面を表現するべきか、

様々な構成に悩まされ、

時間だけが経ってしまう。

前も話したように、この治水の話は実は端折りたいようですが、何故か端折ってはいけないという不思議なプレッシャー存在するみたいです。

ある意味、吉法師がこの作業を投げ出したいという葛藤と同じなのかも。

 

では、最近の日常の話…

オリンピック開催問題、コロナ問題、ミャンマー問題、米中関係。

色々言いたいことはありますが、

もう失敗するなら失敗させようという事しか考えられない。

馬耳東風なのは解っている分、

ヒントすら与えたくもない。

寧ろ、失敗するなら失敗してくれがヒントに成ってしまうかも知れないが、その失敗を得て各国の国民が気付けば幸いかな。

ただ運よくというケースもあるので何とも言えません。

 

特にコロナに関しては変異種が運よくそれほど脅威に成らなければ、運よくワクチン接種で終息する可能性はあるという事です。

逆に運悪ければワクチン効果が機能せずに、更に脅威を招くという危険性も。

そうなったらリーマンショック以上の不況が待っているという恐ろしい話も出てきます。

その時に成って、経済凍結をやって完全ロックダウンをやっておけば良かったと気づいても時すでに遅しなのです。

まあ、こればかりは人間のサガなので致し方ない事とは言え、判断が出来なかった事を誰のせいにも出来ないとは言えます。

 

ただ中途半端にフラフラ経済とコロナ対策で右往左往している状態は、結局そういう人たちが国の上に居るんだという印象で見ているだけです。

 

米中関係にしても、中国の対応に関しても、中国が過激化していくように世界が無用なプレッシャーを与えている事に気付いてほしい。

単純な人間の心理です。

「お前が悪い」、「お前は悪い奴」だと決めつけられて、素直にその人がそれを認めますか?

自分の権利でやっている事にそういう言い方をしても、結局相手は言った側に腹を立てるだけです。

自分が中国と同じ立場に成ったらどう考えるか?

敵を知るとはそういう心理の意味も含まれるのです。

腹を立てて、会話が噛み合わずに、喧嘩でしか解決できない状態なら相手は喧嘩に負けない様に武装するだけです。

相手がナイフを手にするなら拳銃を、相手が拳銃を手にすれば機関銃を…法律の規制の届かない戦いで、喧嘩に成って負けない様にしていくのは人間として当然の反応なのです。

この現象を知らないで外交で解決しようなんて到底間抜けな話です。

 

そういう状況で戦争に発展させて、局地戦だけで終わると思いますか?

尖閣諸島近辺の局地戦で戦争が終わると思いますか?

沖縄は確実に戦禍に巻き込まれます。

下手すれば本土にもテロやら何やらが発生します。

サイバー攻撃も、台湾も巻き込んでの戦争に成ります。

戦争に成って勝てばいいけど、勝つまでの過程で皆は犠牲になるのです。

それを守らねばと考える前に、何をもって抑止とするべきか、

それを「塾考」しなければ成らないのでは?

そういう「塾考」無しに単純に反応しているだけの状態は、うつけよりも間抜けな思考としか言いようがありません。

 

まあ、そういう意味で呆れてるだけなのです。

 

【第十六話 兵は詭道なり】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

戦の世では所詮は騙し合い、故に兵は常に臨機応変に事を構えよ。

かの武田信玄の家臣山本勘助が愛用したという孫子の名言である。

「兵は詭道なり」という言葉は、騙し合いという意味で理解されがちだが実際は計画性に捉われず、常に臨機応変で柔軟に状況を見極めねばならないという意味。

Covid19のコロナ対策で迷走する国々は、いわばこれが欠けていると言える。

 

古渡に赴いて信秀に謁見した政秀は、早速那古野の治水工事の話を伝えた。

そして、

 

「清州を説得する材料として、吉法師様は年貢の半分を与える事で交渉する案を申されましたが…大殿はどうお考えに成られますすか?」

 

信秀は政秀から吉法師の教育の為という事も伺っていた上で、その提案をしばし熟考した。

 

「清州に見す見す年貢の半分をくれてやるのは腹立たしいな…しかし、清州がそれ以外で庄内川の堰を設ける事に納得はしまい・・・」

 

信秀は迷っていた。

 

「だが…一度堰を設けて治水すれば、後の水田はある意味広げやすいか…」

 

すると政秀が、

 

「確かに…しかしあからさまにそのような事をすれば、清州は勘づき黙ってはいないのではありませぬか?」

 

「そうじゃ…問題は…今は和睦状態に有るゆえに迂闊にこちらが仕掛けるような不手際を起こせば、伊勢守が大和守の方に付きかねぬ。」

 

尾張の三角関係ともいうべき勢力バランスの話である。

いわば出る杭は打たれるとも言う話で、迂闊に他より抜きに出ようとすれば、他は連携してこれを叩こうとする。

すると信秀は何かを閃き、

 

「政秀よ…ならば、那古野に置ける水田の年貢の半分を譲る旨を念書にしてしたためよう。」

 

その言葉に政秀は、

 

「はて…吉法師さまの案をそのまま受けるのですか?」

 

それに信秀は、

 

「形式上はそうなる…が…」

 

と、留め置いて、

 

「しかし水田は増やせばいい。寧ろ倍にする」

 

「水田を1200石に増やして今は半分は清州にくれてやる。しかし一度争いと成れば別じゃ…」

 

「だから年貢を半分くれてやっても、石高が増えるなら問題ないだろう」

 

政秀はようやくここで信秀の意図を掴んだ。

 

いわば治水して水田を開発するには時間が掛かる。

素直に600石のまま開発を止めておくより、早々と可能な限り広げておく方が効率が良いのだ。

そしていざと成った際に、その広げた分を使う。

念書に年貢の半分とした以上、水田を広げても年貢の半分を差し出せば相手も文句は言えないという事。

逆に600石程度増える「見込み」と記したに留めて、相手に年貢の半分という文章にのみ焦点を当てさせれば、「見込み」より大幅に拡張できただけという事は言える。

相手が念書に承諾してしまえば、逆に虚偽した事にはならないのだ。

いわば石高を増やすことは時間が掛かるが、年貢の約束を反故にするのは一瞬である。

一度、戦と成ればそこで大きな差が生じるという事だ。

 

無論、信秀がこうした方法でこっそりと自国の水田を広げる手立てを思いついたのは、吉法師が齎した話が切っ掛けである。

そして信秀はこれを好機とばかりに事を勧める様に、更に画策を巡らせた。

 

「政秀、これから久々に那古野へ遊びに行く…吉法師に直々に話しておくことがあるでな…あと、清州へはワシが出向く、その際はそなたは供をせよ。」

 

「はっ!!御意」

 

と、政秀が言うと、

信秀はさっそく外出の準備に立ち上がり、その後政秀と共に那古野へと向かった。

 

翌日、吉法師と政秀は古渡の信秀の下を訪れた。

吉法師も元服前に成長した事も有って、

且つて信秀が通い詰めた養徳院の子供たちへの語りは披露される事はほぼ無くなった。

そうした中で政秀は普通に宴席を設けて信秀を迎え入れた。

上座に着いた信秀の隣には吉法師が座った。

その席には政秀ら那古野の家臣団の他に、沢彦も招かれていた。

 

信秀は宴が始まるや、沢彦に

 

「沢彦和尚、実に面白い教育を吉法師に施してくれてるようじゃ」

 

すると沢彦は、

 

「真に恐れ入ります」

 

というや、信秀は誤解が無い様に、

 

「真に感謝しておる。下手に紙で教えるより吉法師の為に成る。」

 

と、沢彦に頭を下げて感謝を表した。

そして信秀は吉法師の頭を撫でながら、

吉法師に向かって、

 

「吉法師よ、和尚の師事でよく遊んで、よく学ぶがいい」

 

と、言うと、吉法師は

 

「御意」

 

と返事した。

更に信秀は、

 

「良いか”能ある鷹は爪を隠す”という言葉を覚えておけ、そして治水の話はワシが上手く纏めてやるぞ、安心せい。」

 

「有難き幸せ。」

 

と礼儀正しく、言うと、

信秀は、

 

「お前の話の通り租税の半分を清州にくれてやるわ、その分治水で600石とは言わずに石高を好きなだけ増やして見せよ」

 

まだ少年の吉法師には直ぐにはその意図を理解できなかった。

さらに信秀は、

 

「よいか…目先の利益だけを追うな!!武士(もののふ)とは大局に備えて強かにすることも肝心じゃぞ。」

 

と、伝えると、

吉法師は信秀に、

 

「是非、その話を詳しくお聞かせ願えますか?」

 

と解説を求めたが、

信秀は、

 

「それでは面白くない。寧ろ、そなたの力でこの父を驚かせてみよ。」

 

と、吉法師に自らで考えるように促した。

吉法師はそう言われると、その言葉に寧ろ奮い立った。

実際にこの時期の吉法師は他人が出す答えに興味を持っていない。

寧ろ会話の流れとしてそう聞いただけだ。

ある意味可愛げが無いとも言えるが、

相手が何も言わないのなら、勝手に自分で想像する事を許されたと考える。

 

そして信秀は、父として我が子を愛しむ様に頭を撫でながら、

 

「お前は自由に遊べ、遊びながら学べ…」

 

というと吉法師の顔を見つめながら、

 

「よいかワシはお前を信じる、そなたもワシを信じて、何があっても動じるな。そしてこの父のやり方を学んで見よ」

 

と、言い聞かせるように語った。

父親として信秀は自分と同じように

吉法師が自分で答えを見つけ出そうとすることを期待した。

親子故に解り合える共通の思考と言うのか、

吉法師の成長を陰で見守った父親ゆえに理解していた事なのか、

ただ答えを与えるのでは無く、考えさせることに徹したのだ。

 

その日信秀は那古野で一泊するや、

翌朝政秀と共に清州へ向かった。

 

名目上は守護の斯波義統に治水の許諾を求める形であったが、

そこに大和守家の織田達勝も同席した事は言うまでもない。

勿論のこと達勝はこの話を渋ったが、

信秀が吉法師の後学の為に是非と嘆願した上で、

租税の半分は清州に渡すという事を

守護斯波義統の下で誓約したため、達勝も承知した。

また、治水の為に嵩上げする堰の場所も清州と那古野の間とすることで、清州側もその堰を利用できるという利点も盛り込んでいた。

いわば現代の庄内川に掛かる東海道新幹線鉄橋辺りに堰を設ける形で合意したのだ。

達勝として見れば、信秀が那古野の治水でどれだけ水田を増やそうが、誓約通り租税の半分が保証されるなら言い逃れは出来ないと踏んでいた。

無論、信秀が自らのそのずる賢さを封じる形で誓約したのだから、我が子可愛さに嘆願しに来たのだとも考えた。

達勝は内心

 

(嫡男の後学の為にとは、所詮は信秀も人の子か…)

 

と、寧ろ信秀には特別な戦略性は無いだろうと考えた。

 

常識に捉われる者は、非常識が起こるとは想定しない。

いわば常識では租税は7割取るのが当たり前で、

7割の租税を取らない事業など無意味で利が無いと考える。

また、自らに利の有る話ゆえに

人は希望的観測に陥りやすくなる。

 

達勝も愚か者ではない。

故に信秀に何らかの戦略的算段があるのならと考える。

その意味では、庄内川は弾正忠家の領内に川上がある為、清州に伺いを立てることなく治水するだけならそこから引けたのだ。

現代の名古屋城の堀に繋がる堀川は、清州との間よりもっと北東の位置から繋がっている。

いわば自国の領土の治水で考えるなら寧ろその辺りから引いた方が良いのだ。

無論、清州はそれを認める事は無い。

寧ろそこよりも庄内川の川下に位置する清洲領の水を握られてしまうからだ。

そうした争いの種を避けての交渉だった故に、寧ろ単なる親心として理解した。

領主として治水事業に参加させることで、嫡男吉法師の領国経営を補足する為だろうと考えた。

それに協力する意味で租税の半分を上納する形に成るのなら、達勝としても悪い話では無いのだ。

さらには大和守家と弾正忠家は和睦した状態にあって、守護斯波義統の下で尾張国内は現状纏まっている状態とも考えれた。

そういう意味で主従の礼を尽くして嘆願した信秀の申し出を無碍にすることも出来ないと判断したのだろう。

 

後にこの大和守家は信長に滅ぼされる事に成る為、

その結果だけを知ってしまえば、

達勝の決断は弾正忠家に力を与えた暗愚なものに見えてしまうかもしれない。

事実は小説より奇なりというのは、

結局小説の結果から、敗者=愚者としてしまう為、

敗者側の思考を雑に描いてしまうからだ。

そういう意味で達勝の決断を考えて見れば、

尾張国内を纏めるという名目で思考した場合は、

信秀の嘆願を受け入れた姿勢は寧ろ英断であったとも言える。

 

暴れ馬の様な信秀を寧ろ三河、今川への備えとして支援すると考えるなら、尾張という国で考えた場合、妥当でもあり、

斯波義統の下で主従の関係を維持しているのなら、

大事な家臣団の一人と見なすのも当然である。

 

結果として寧ろ達勝の時代に以後信秀が清州へ攻め入る事態は発生しておらず、三河、今川と対峙する最前線に立って戦っている。

更にはこの時期1546年前後は、尾張が総力を挙げて美濃の斎藤道三と争っていた時期でもあり、遡って2年前の1544年に信秀は大垣城を奪い取っている。

無論こうした戦功も有って弾正忠家は他の尾張織田家から警戒されていたのも事実だが、最有力の家臣として一目置かねば成らない存在だったとも言える。

 

様々な疑念が生じて尾張国内で小競り合いを起こすことはあっても、信秀が斯波家や大和守家を打倒するような謀叛を起こさなかった事から、主家に対しての忠義はそこそこに読み取れる。

そういう意味でも信秀は尾張国内の一家臣団であることを弁えている。

如何に力を持っていようともこうした家臣を使いこなそうと考える事は英断で、寧ろ達勝の後継者織田信友の様にこれを排斥しようと画策する方が暗愚と言えるのだ。

 

こうした流れの中で、吉法師と那古野村の悪ガキとの間で交わされた約束事はようやく実を結ぶことと成った。

そしてそこからひと月も経たないうちに人工も用意されて、庄内川の堰止め工事が開始された。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

更新のペースが遅くなって申し訳ないです。

最低でも月2話のペースで頑張る予定です。

是非、お待ちください。

 

さて…世の中の事ですが…

接待の問題やら、議員同士の大人数での会食を問題視するのは当然ですが、

夜の街に出かけた事は寧ろ問題視する方がおかしいです。

 

知り合いからコロナ問題で経営が大変だから、

何とか遊びに来てくれと頼まれて、

「問題に成るから行けない」

と断れる人を信用しますか?

 

自分の身の安全しか考えていない人にしか映らないです。

寧ろ、「大変そうだから助ける」

という気持の方を大事にするべきなんじゃないのかな?

 

正直、日本人は人情人情と言うけど、

全く人情を理解していない人が多いのでは?

加藤浩二氏はこの人情を批難したらしいけど、

人情解って無いのかな?

失望したよ!!

口だけのキレイごとか?

 

基本、政治家であっても芸能人であっても、

プライベートは尊重されるべき。

一般人も会社の外に出たら会社の規制に縛られるのは、

ある意味奴隷と同じ。

一歩、就業時間を過ぎたら、そこは一個人である。

 

勿論、政治家だからコロナ対策に従順に従うべきという見解は理解はするけど、政治活動ではないのならそこは自己判断で良いと思う。

無論、それが報道される事は仕方ありません。

公人なのだから…

でも、その行動がプライベートの範疇なら、基本的に社会は問題視するべきではない。罰則なんて以ての外。

ただし、その有権者が次の選挙でどう判断するかは、

その選挙区の人たちの判断に任せるべきです。

 

ただ、日本の政治家にこうした民主制に於ける個人の権利を適切に説明できる人間が居ないのは残念です。

結局、社会の目の流れに合わせて同調するしか能の無い人ばかりという事ですよね。

 

でも、よく考えて見て下さい。

友達を平気で見捨てる奴を信用しますか?

それともどうしても見捨てられなかったという心意気を評価しますか?

苦境に立たされた友達を見捨てられず断れなかったという人の方が、

人情あると思うけど…

逆にそれを理解もせずにルール違反と処分するだけの脳みそ程、ゴミ人間なんじゃないのかな…

ゴミ人間の上司(総理や幹事長クラス)が部下の議員の話に耳を傾けると思いますか?

友人の苦境を打開するには議員としてそれ相応の地位も居るし、発言権だってあるかどうかも解らない現実。

そういう中でその人が出来る限界と言うのもあるのです。

その限界をよく考えれば理解できるはずなのに、

そういう限界を考えてあげもせずに、ただ単にルール違反だからと非難できる社会って・・・日本人として誇れますか!!?

まあ、知らんけど…

【第十五話 誤算】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

吉法師は熱田の加藤家から出資を受けて治水工事の費用は捻出できることに成ったが、まだまだ問題はあった。

前述の通り、清州との境界に流れる庄内川を利用するなら、清州の承諾も得ねばならなかった。

とりあえず熱田を後にした吉法師らは再び那古野の政秀の下に帰った。

そして資金捻出の報告をすると、

政秀は、

 

「若、今回は勉学という名目で致し方ありませんが…」

 

と、前置きして、

 

「治水で今回は600石増えるとして税はその7割で…」

 

税率7割とはとんでもないように思える。

秀吉の時代に太閤検地が行われた際の税率が66%であったというから、当時としては当たり前だ。

現代でこそ白米を炊いて食卓に上げるのは当たり前な話だが、戦国時代は基本麦飯である。

米は武家が食する物で農民は麦飯という感じであった。

麦飯の中に3割でも白米が混ざっているなら贅沢品だったといえよう。

とは言え米はある意味高級品であった為、税の残りの3割でも他の作物に比べれば高く売れたと言える。

 

現代で水田を持つ農家の生産量がおおよそ平均で15石位で、今の様に効率化された技術の無かった時代ではせめて7~10石位であったと推測する。

10石生産出来たとして、7石が租税で、3石分が農家の取り分である。

3石では3人が一年食べる量で、1農家の家族構成は2世帯として考えてもの5~10人で、3石では食うに足りない。

しかし水田の3石分であれば10石分の小麦や大麦を買うのに十分な量であったと考える。

 

では、1反=1石で、10石分の10反がどれ位の広さだったか…

先にも話したようにサッカーフィールドの広さで約6反位。

そう考えると大体陸上競技場のトラックを含めたフィールド内が当時の1農家が生産できる範囲だったといえる。

 

ただし現代の様に農業は個人経営が出来るものでは無い。

いわば村単位で農業生産の企業という形に成っていると考えた方が良いだろう。

その村の社長は村長ではなく領主である。

租税7割という形に成っているが、寧ろ村全体の生産量の3割が村民への給与と考えた方が解りやすい。

五公五民という言葉もあるが、税率50%は理想で有り、寧ろ太閤検地で66%であった点から逆算すれば7~8割の租税が普通であっと考えた方が良さそうだ。

そうした中で後の信長は33%位の租税に減税しているという記録もある。

 

農業は村単位の共同作業であったと考える。

那古野村の様に庄内川から水を引かなければ水田が作れない場所では、寧ろ小麦や大麦の栽培が中心で、大豆や野菜などと合わせて一年中何かが採れる状態で賄っていたと言える。

鮮度や旬が大事な作物はほぼ毎日かまたは最低でも毎週納税されなければ成らない。

納税という良いかたといより生産物を納品すると言った方が解りやすい。

米とは違い、保存が効かないこれらの品物に対しては納税率は収穫物の半分であったとする可能性も考えられる。

 

とは言え半分でも恐らく村全体で分けて食べるにギリギリだったとも考えられ、畑作農家は米農家に比べてかなり貧しかったとも言える。

それ故に那古野村の農民たちは水田が少しでも欲しかったのだろう。

 

政秀は租税の話をつづけた。

 

「年貢として得られるのは420石ですな…」

 

政秀の講釈はまだ続く

 

「1石が大人一人の一年分の食料の値である事はご存知ですね。」

 

吉法師は

 

「ああ、それは習ったから理解している。420石も有れば、420の兵が雇えることに成るのだな…」

 

と、答えると

 

「まあ、420の兵の食料は得られますが、兵が420増えるわけでは有りません。誰でも簡単に武家に成れるという訳では無いので。」

 

と説明し、

 

「ただし戦に成った際に、一年なら420名、半年なら840名の兵は徴兵できます。」

 

更に政秀は、

 

「那古野村にはおおよそ500戸あり、一戸に老若男女が6,7名は住んでおり、3000人が暮らす村です。しかしそれでも兵として徴収できるものは恐らく500か600が限界。いわば石高が420増えたとしても兵の数は増えるわけではないのです。

 

政秀の講釈に吉法師は疑問を感じた。

そして、

 

「では、何が問題なのだ?」

 

と聞くと、

政秀は、

 

「600石の水田を新たに得るという事は、その見た目の石高では弾正忠家の兵が420名増えた様に見えるのです。清州の大和守家とは色々とあってそれをやすやすと認めるとは思えぬという話です。」

 

大人の駆け引きとは、対抗心の有る中では自分が得しても相手が得をすることは許せない。寧ろ自分だけが得をしたいという力が働く。

少年吉法師にはまだそんな面倒な駆け引きは解らない。

寧ろ純粋にお互いが得するなら良いのではという考えだ。

 

「そういう事なら清州も同じ堰(セキ)から…」

 

前に話したのと同じことを言う前に政秀は、

 

「それは考え申したが、420石は大きいのです。」

 

現代人の感覚で420人兵が増えるというのは微々たるものに思えるかもしれない。

しかし、後に尾張を統一して今川と戦う際に5000の兵を集めるのに苦戦した時代である。

まだ、織田家としても伊勢守、大和守、弾正忠家と分かれて睨み合う状態では、420といういう数値は些か侮れない。

無論、兵数が420名増加する訳ではない点は先にも述べたが、見た目の許容量がそれだけ増えるのだ。

 

そこで吉法師は、

 

「成らば年貢の半分を清州に与えてやれば良い。」

 

吉法師からすれば那古野村での約束さえ守れれば良かった。

自分が優秀だと証明するような考えは寧ろないため、面子だけの話なのだ。

政秀は吉法師の言葉に迷った。

いわば沢彦が言う様に、

勉学の為に治水とはどういうものかを知る機会とするなら、それでも良いと思うのだが、弾正忠家の戦略上の都合で考えるなら清州にそれをタダでくれてやるという話は問題にも感じるのであった。

そこで政秀は、

 

「その件に関しては大殿(信秀)に相談してからにします故、しばし我慢なされよ。」

 

と、吉法師に伝え、

 

「自らの面子を保つために利を捨てるというのは愚者の考えですぞ、以後は決して為されない様に。」

 

とも釘を刺した。

吉法師の考え方は実際には子供らしい発想なのだ。

政秀が言う様に、子供の発想で面子を保てれば何でも良いという事を本来は許すわけにはいかないだろう。

普通の大人ならそう考える。

しかし、失敗を踏まえて何かを学べるのならと考えると、寧ろ興味深いと感じた。それは沢彦がそこで何かを教えるのだろうという期待もあったからである。

政秀は吉法師に釘を刺しておいて、その沢彦の顔を見た。

沢彦は「大丈夫」という表情で政秀にうなづいた。

そして政秀はそのまま席を立って、信秀の居る古渡へと向かった。

 

吉法師が信長へと成長していく過程で多くの大人が係わることに成る。

そうした大人たちの知識や知恵、そして悪知恵に至るまでを吸収する事でその才能を開花させていくのである。

特に吉法師であり信長という人物は、自分勝手が許されたことで早い段階で覚醒を迎えるのだが…

常識から逸脱した奇行でも有った事から、その代償に家中を纏めるのに苦戦した事は言うまでもない。

しかしこの治水工事というイベントが後の信長の治世の礎を築く大きな糧と成る事をしばらくを費やして伝えて行くものとする。

無論、これは史実には記載も無い出来事であるが、信長の発想の原点を探る上で必ず無くては成らないものという観点で重要視する者である。

いわば、天才と言っても人間であり、発想に基づく切っ掛けを経験の中で会得せねば、決してその発想には結びつかないのである。

長い人生で苦悩を重ねれば、何れは発想するだろうとは言えるが、早い段階で知恵を得る機会に恵まれたのなら、その発想はそれだけ早く生まれる。

エジソンの言う1%閃きが早ければ早いほど、99%の努力をする時間はそれだけ長く費やせるということである。

その中で成功と失敗を繰り返せる体力、いわば資金力であり研究費に恵まれていれば完成に近づくことはそれだけ早く齎されるのである。

信長はそのいずれにも恵まれていた。

同じように他の人間も恵まれていたなら、その人間が信長の様な才覚を発揮したかもしれない。

それ故にそれを得られた定めは天命なのである。

天命の有無は天寿を経て知りうる所であり、人は決してそれを諦めるべきでは無いという事は伝えておこう。

 

古渡へ向かった政秀は、学問に興味を持たない吉法師が寧ろ実践的な学びに興味を示している事に些か安堵した。

面子の為とは言え、これを期に領主として政治に興味を持ってもらえればと何とか成就させたいと考えていたのであろう。

 

つづく

 

どうも…ショーエイです。

今日は愚痴を言うのも呆れている現状に愚痴を言うだけで終わります。

 

さて、今回の話で出てきた麦飯。

実際に100%麦飯を皆で食べてみたわけですが…

実に不味いです。

モチ麦と品種改良されたものでも100%はキツイ。

でも、戦国時代の農民はこれを食べて飢えをしのいでいたんだと思うばかりです。

確かに3麦:米7なら食べれて、モチ麦の食感はちょっと新鮮と言えます。

でも、ほぼ毎日100%の麦飯で米の飯食べたら、確かに麦飯は食えなくなる。

如何に米が美味しいのかを痛感した感じです。

 

ところが麦飯、米ほどの量を食べなくてもお腹一杯になることには気づきました。

オッサン先生はビールを飲むとお腹が膨れて量を飲めないと言ってますが、麦にはそういう効果があるようです。

実際、炊く前は米粒と同じ大きさなのですが、米より水分多めで炊くので大きさは米の倍に膨れ上がります。

不味いけど飢えをしのぐには最適だという点には気づきました。

 

麦飯以外にどんな食べ方があるかを色々考えた所、

もう一つは小麦粉で作るうどんかな。

うどんと言っても細長いうどんではなく、多分小麦粉を水で練り込んで、塊にしたものを刃物で削って茹で上げる食べ方なのかな…

 

よくいう刀切麺というやつ。

何れにしても米を食べれない粗食という位置づけなので、美味しいとは思えないが今度作ってみます。

 

因みに麦飯…小豆と混ぜて赤飯みたいにすると美味しいかもとは思います。

また麦飯には塩気が欲しいと感じるので、

お漬物などと食べると意外と100%でも食べれる気はします。

 

それでもやっぱり米は美味しんのだな痛感します。

 

日本は米食だと歴史の時間に教わっていますが、

那古野の地形を見ている内に安土の話と同じで

水源は何処?

という疑問が生じたのです。

そもそも現代並みに米が溢れているのなら、

麦飯なんてものは存在していなかったはずなのです。

現代の名古屋城の堀は江戸時代以降のものであると考えたなら

他に川らしい川は存在しない訳です。

そんな状態でどうやって水田を作るのか?

明治に入った状態でも、貧しい人は麦を食べていた位なので、

戦国の世では

ほぼ農民は麦飯といった麦食であったのは

間違いないでしょう。

 

そう考えるなら米は戦に出た際のご褒美としての位置づけは

十分に有りうる話に成ってきます。

 

麦飯を食べて確かに米食べれるなら

戦場に行くのも有かなと感じた次第です。

 

現代は何とも恵まれた時代かな…

そりゃ平和ボケした老害もたくさん出てくるのも仕方ないのかな…

日本に限らず…アメリカのトランプみたいなのも含む話で。

【第十四話 紙一重】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

馬鹿と天才は紙一重と言われるが、

一般的には馬鹿に成るか天才に成るかは

紙一重で解らないという意味で理解されているだろう。

しかしそれは大きな間違いであると言える。

簡単な話、現代風に言えば理系と文系ではものの見方が根本的に違う点である。

1万円札の福沢諭吉の名言

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」

 

これを文系の人は、先ず人類皆平等という意味で理解し感動する。

皮肉屋の意見だと、この言葉が「学問のすすめ」からきている事から、

学問の機会は平等に有るべきで、結果勉強したものが勝つのだという意味で資本主義の基礎を説いたと伝える人も居るわけだ。

文系の人は、こうした解説を読んで「成程一理ある」と言った感じで納得するだろうし、根拠なくそうではないと否定するかもしれない。

 

では理系というか論理的な思考で見ると…

先ずは言葉上の矛盾に気分を害し、何故その言葉を用いたのかを深く追求してしまうのだ。

勉強したモノ勝ちという意味に成るなら、勉強したものが人の上に立つという意味で、根本から「天は人の上に人を造らず」という意味から逸れてしまう。

福沢諭吉を軽視して、こいつの言葉は矛盾だらけとしてしまえば、それはそれで終わりな話になる。

しかし、福沢諭吉を軽視せずに矛盾が生じる言葉の意味をさらに追求すると…

実は資本主義の話では無く、寧ろ民主制における個人の権利を説いた意味なのではと解釈できてくる。

その個人の権利を守るために学びなさい、でなければ貴方の権利は守られず権力に使われるだけの存在にしか成らない。

と、言う意味で理解すれば言葉の意味と「学問のすすめ」の意味は合致する。

恐らく「学問のすすめ」で伝えたかった本意はそこに在るのでは…

ただしこれが否定されるなら合理主義者は、

成らば福沢諭吉の言葉には何の価値も無くなると結論付けるだけなのだ。それ以上の議論も無駄。合理性が無い。で、終わり。

 

天才は合理的な意味で通じるなら受け入れるが、非合理になった時点で「無意味」と捨て去ってしまう。

一般的には福沢諭吉の言葉だから「正しい」のだと、どの様な解釈も受け入れてしまうのだろう。両方の解釈を採用して十人十色でその感性も異なるという形にして綺麗に纏めようとする。

結果、天才からすれば合理性の欠けた矛盾した言葉に成るから意味不明と切り捨てるのに対して、一般的にはそれを無礼な行為と咎めて理解しようとしない事をバカにするだろう。

 

吉法師が勉強に興味を持たなかったのは、こうした「無意味な学問」に成ってしまう話を強要されるからで、それを受け付けない故にうつけとされたのも事実だ。

ただ、勉強をしないのは本当に動物的な本能だけで生きて行くタイプと同じ行動にも成るゆえに一般的な見識でその心を判別するのは難しいとも言える。

 

沢彦の誘導もあって、農民の子らと領主である証明として治水工事を行う約束をした吉法師は、その沢彦と共に守役であり那古野城の実質的な賄い頭である平手政秀の下を訪れた。

吉法師は城主として那古野村の石高を高める為に治水工事を行うとだけ説明した。

ある意味、突拍子もない言い方である。

その後、沢彦から事の経緯を聞かされた政秀は、

 

「その様な話で治水工事を行うとは、それこそ城主としての我がままでしか有りませぬぞ!!」

 

と、吉法師は政秀から叱責を食らった。

 

那古野村に水を引くには、当時の地形でも清州との境界にある庄内川から治水せねばならなかった。

現代のゲームの様に簡単に水を引ける話でも無かったのも事実で、濃尾平野と言われるほど平地であった那古野に水道を造るのに約3キロ、また庄内川の水かさをそれなりに上げなければ、農地まで水が届くことは無いとも言えるだろう。

いわば川の水位は農地が存在する平地より低い所流れていたと想定でき、その水を農地に持って行くにはその水位より低くなるほど掘り下げるか、水路の手前に堰を設けて水位を挙げた上で流す必要性があったと言える。

そんな工事を簡単に出来るはずも無く、ましてや主家筋となる清州が簡単に認めるとも思えなかった。

そうした説明を政秀は吉法師にした。

無論、教育係として沢彦が「水は高いとこから低い所に流れるもの」

だという補足の説明をした上で、吉法師はその話を理解した。

 

そして政秀は、

 

「若は、今の話を理解したのですか?」

 

と、吉法師に聞くや、

吉法師は、

 

「理解した。」

 

と、言い放ち、

 

「成らば清州が納得するようにすれば良いのであろう」

 

と、切り返した。

これに政秀は、

 

「どう清州が納得するのですか?弾正忠家の石高が増える話を快くは思ってくれませぬぞ…」

 

すると吉法師は

 

「ならば清州にも堰(セキ)で止めた水を分けてやれば良いのではないか?」

 

吉法師は続けて、

 

「清州も同じ条件で石高が上がるのなら、その堰を設ける話は双方が利する話になるのだろう。」

 

と、問いかけた。

戦略的な視点で考えていた政秀は吉法師の発想に驚いた。

寧ろ、大人になれば成程、こうした大人の事情が絡んできて、現代風にいう「WinWin」な考えは中々思いつかない。

いわば自分たちが相手より優位に成る事に固執してしまう。

ある意味、自分たちの領地の石高を高めて、相手の石高は現状維持にすることが出来るなら有利に慣れるという話だ。

しかし、あからさまな行動だと相手がそれを警戒する。

ただでさえ津島や熱田を押さえて経済的に優位に立つ弾正忠家が石高でも更なる力を付ける事は警戒されるだろうと政秀は考えていたのだ。

そうした視点より何も知らない子供の方が得策を唱える場合も有るのだ。

無論、清州がその流れに簡単に乗る保証はない。

寧ろ「WInWin」という発想より、弾正忠家がより力を付ける話に感じられないとも言えないのだ。

しかし政秀は吉法師の言葉で、その交渉を進められる可能性は見いだせた。

そこで政秀はあえて更なる課題を吉法師に与えた。

 

「では、その工事の原資はどうされるのじゃ?」

 

原資とはいわば資金のことである。

無論、吉法師は原資という言葉を知らないが、

沢彦が、

 

「原資とはお金の事じゃ」

 

と、また説明した。

どれだけ天才肌であっても何でも発想で乗り切れるわけではない。

寧ろ、

 

「那古野の城の金でやれば良い」

 

と、子供らしく言い放つ。

すると政秀は、

 

「城にはその為の資金は用意ありませぬぞ・・・戦でも起こったら負けてしまいます。」

 

と、吉法師にも解りやすく説明した。

無論、現代人の様に「働く」なんて発想は思いも付かない。

政秀に資金の事で拒まれては、吉法師は打つ手なしであった。

ところが沢彦はこの話の流れを面白いと感じた。

 

「政秀殿。若に少し時を下され…金の作り方を色々教える機会にしてみたいでのう。」

 

その言葉に政秀は

 

「成程…では、若、沢彦殿としばし相談なされよ」

 

と、言って席を立った。

 

如何に天才と言えども、知識の無い所からは発想は生まれない。

知識は学問のみならず経験や観察力によって得る事も出来る。

しかし既に存在する知識ならば教わる方が何倍も速い。

いわば学ぶという事は本来そういう意味で教わるものだ。

吉法師は今、必要に迫られた状態で沢彦から世の中の経済を学ぶことと成る。

ただし吉法師のそれは天運に恵まれ沢彦という、いわば家庭教師を得れたにすぎない。

もしそれが無いのなら、吉法師、後の信長はもっと長い時を費やして、さまざまな事を経験しなければ才能を開花できなかったと言える。

 

沢彦は吉法師に、

 

「さて、どうやって金を作る?」

 

と、あえて漠然とした質問をした。

吉法師は少し考えた。

沢彦はこうして考えて色々な発想をあえて思い浮かばせるのだ。

すると吉法師は、

 

「城にある名品を売って金には出来ないか?」

 

すると、沢彦はその答えに目をつぶって暫くの時を得てから、

 

「うぅむ…成らば熱田にでも行って知恵を拝借してみますか?無論、しろの名品を売るというのは最終手段で、それ以外に何かやり方があるやも知れん。」

 

すると吉法師は、

 

「ならば弥三郎の親父殿(加藤左衛門)に会いに行こう。」

 

弥三郎は熱田の加藤家次男という事は以前紹介していた人物で、武家見習いとして那古野に入って吉法師と共に学び、悪童の仲間として活動してる一人だ。

それに対して沢彦は、

 

「では、悪童全員で熱田に行きまするか」

 

と言い、準備を整えた後日、熱田へと向かった。

以前熱田を訪れた際は、実に物々しい状態であったが、吉法師が愛馬「たま」こと「天翔」に跨って動けるように成ってからはかなり自由に

成った。

それでもその陰で河尻秀隆や佐久間信盛が動いていた事には変わりはないのだが、馬を飛ばして行けば熱田までの5,6キロの距離はさほど遠くない。

現代競馬の天皇賞・春が3200m(3.2キロ)ほどあり、その勝ちタイムは3分20秒位で、そこから逆算しても10分程度で行ける距離と考えてもいい場所に成る。

 

沢彦は前もって左衛門に予定を取り付けた上で、直ぐに会えるとの返事であったため、早速熱田へ行くことが適った。

 

吉法師らは熱田へ到着するや、以前信秀がやったとき同様に、熱田神宮東門に馬を止めて、本殿を参拝した。

本殿を参拝するや悪童の仲間、千秋季忠の父親がここの宮司としてこれを出迎えた。

これに悪童ではなく礼儀正しい作法で対処した吉法師を見て、他の悪童たちもそれにならった。

以前熱田に訪問した際、学んだことがこういう場面で活きてくるのだ。

それは熱田の加藤左衛門が出迎えた際も同じである。

吉法師は大人の儀礼を見事に酌み交わして、初めての経験と成る他の悪童に手本を示したのだ。

そうした手本を示せることで、単なる肩書だけのリーダーでは無く、

リーダーシップを示せるリーダーとして意識させることが適うのだ。

そしてこうした事で他の悪童たちは吉法師に本心から敬意を払えるように成る。

 

現代社会でも同じである。

リーダーとは英語で「LEADER」で、「LEAD」する者を意味する位は知っていると思う。

ただ、「LEAD]するという言葉は、スポーツの先行するという意味では無く、「導く」という意味に成る。

これを理解していても、リーダーであるという「先行」の意識が働いて、「導く」が出来ない人間が多くいるのも事実だ。

 

ここで吉法師はただ単に父・信秀より教わった作法を他のものに示したに過ぎない。

しかし、その作法は堂々としており、流暢に見えれば見える程、他の者たちに感銘と尊敬を与えるのである。

また普段の粗暴な吉法師とのギャップも彼らを驚かせた要因と成った。

他の者たちはそんな吉法師に習ってタジタジながらも作法に従った。

無論、加藤弥三郎や千秋季忠は吉法師同様に慣れた感じで応対できたのだが、それでも吉法師の堂々とした振る舞いに敬意をいだくのだった。

 

リーダーとは口先で知識をひけらかすだけの者では務まらない。

行動で示せる者が適正なのだ。

自らを他人への手本として示すことで、他人は感銘を受けてそれに習おうと意識する。

口先で指示するだけの人間は、ただ単に権限に従わせているにすぎず、人は表面でしか受け入れない事を知るべきなのだ。

寧ろ行動で示せるリーダーは他人が自分に従ったり、尊敬を求めるような意識は持たず、部下がミスした場合それをサポートする事に自然務めてくれる。故に自然とリーダー性への敬意が持たれるのである。

 

長いものに巻かれる日本社会では、こうしたリーダーが評価されにくいのも事実で、忖度、媚び諂いの中で権限だけが先行してしまうのは本当に残念な話だ。

結局、外交上の対等な場に成ると相手に太刀打ちできなくなる。

いわば世界をリードできる人材がその立場にないこの国が世界をリードできるはずが無いという事だ。

故に失墜していくのだ。

戦国の世で失意していく国は、結局リーダー性の欠如が齎した結果とも言えるだろう。

 

熱田の加藤左衛門はあれから少し成長した吉法師に、

 

「しばらくお会いせぬうちに、随分とたくましく成られたようですな。」

 

「あれから剣技なども習い、今では馬も乗りこなせるように成り申した。」

 

「なるほど…どうりで武士らしい面構えに成られた訳ですな。」

 

そう談話をしながら左衛門は交渉用の座敷へと案内した。

左衛門は城主であり客人である吉法師を上座に座らせて、自身と他の者は下座で連座するように計らった。

すると同席したした沢彦が、

 

「左衛門殿、こたびは商いを学びに伺った故に、この様な配置は好ましくありませぬ。皆下座にて対面する様にお願いできませぬか?」

 

すると左衛門は上座に案内した吉法師を見た。

吉法師もその目線を察してか、

 

「左衛門殿、構わぬぞそのようにお願い申す。」

 

と、礼儀正しく答えた。

吉法師は案内されるがままに上座に座ろうとしただけで、別段そこに拘りを持っていなかった。

すると下座で縁側よりの入り口側に左衛門が座り、その奥側に吉法師ら客人を座らせて交渉の席を取り繕った。

そして左衛門は、

 

「交渉の席で有るなら、この様な形が望ましく双方が対等であるという形に成りまする。」

 

と、説明した。

すると吉法師は、

 

「入り口側が家主に成るのか?」

 

と質問した。

吉法師は好奇心旺盛でこう質問するのではない。

吉法師は合理的に理解しておかないと忘れるから合理的な意味を知りたいのだ。

いわばこういう配置が当然だから覚えろでは忘れてしまうのだ。

ある意味、右と左がどっちだか解らなくなる。

また場合によっては上座と下座で交渉する場合もあり、日本では馴染みのない英国式の円卓のような形もある。

どういう場面で使い分けるかをハッキリさせる意味で理屈が欲しいのだ。

様々なケース様々な方式を覚えるのに、こういう場面ではこうだからと記憶していくのは面倒くさい。いわばそれを覚えるのに暗記する時間が無駄という話に成るのだ。

天才ゆえの思考と思われがちだが、基本海外の学生はよく質問する。合理的な理解に成れたものはその方が効率良いと理解しているのだ。

単純に理屈で理解すれば、忘れても道理で思い出せるので簡単なのだ。

いわば、「こういう場面だからこういう理由で使えば失礼は無い」という理解で同じことが思い浮かぶように成る訳だ。

 

吉法師の質問に左衛門は、

 

「入り口側が家主である方が理想です。何故なら襲撃が有った際に最初に切り殺されるのは入り口側で、客人はしばし身構える猶予が出来るという配置に成ります。」

 

すると吉法師はその座敷の下座側の引き戸を差して、

 

「そこから襲撃されたら対等…いや寧ろ家主が縁側に逃げやすくとなるという事か?」

 

と、更に質問した。

この質問には左衛門も驚いた。

優秀な商人は柔軟に話を理解できる。いわば合理的だ。

故に自分が気付かなかった事を気付かされた時は、素直に受け入れるのだ。合理的でない者は矛盾してでもそれに対抗してしまう事はよくある話で、そういう矛盾で対抗する人間なら吉法師は信用しない。

左衛門は、

 

「確かにそう成りますな…」

 

と、吉法師の質問に大いに笑いながら、

 

「では、家主の特権という事で縁側に逃げ道を設ける為としましょう。逆に客人に失礼な話に成りますが」

 

吉法師はこういう素直な回答が好きだ。

それと同時にこの天才少年は上座と下座の配置も戦略的に理解するのだった。

上座の側に小姓を置き、下座の両端に家臣を、そして客人を真ん中に座らせるのは、上座の主が守られるための配置であると。

そしてそういう仕来りから通例の常識は自分の身を案じて考えても良いという事でも理解する。

もし左衛門が合理的では無く、通例の常識だからと回答するなら、吉法師はそんな話は受け入れないだろう。そしてその通例の常識を受け入れない故に「うつけ」とされるだろう。

紙一重とはこういう話でもあるのだ。

 

左衛門はいよいよ本題の話へと切り替えた。

 

「して、本日はいかようなお話を?」

 

すると吉法師は、

 

「庄内川より那古野の村に水を引くため資金が欲しい。どうすれば良いのか?」

 

すると沢彦は礼儀に関して口を挟む。

 

「若、教えを乞うのなら、どうすれば良いか教えていただきたく、とする事でより相手の知恵を引き出しやすくなるのですぞ。」

 

と、言うと吉法師は素直に、

 

「どうすれば良いか教えていただきたく思いまする。」

 

と訂正した。

吉法師が政秀と異なり沢彦の話に耳を貸しやすいのは、実は沢彦が

「知恵を引き出しやすくなる」という「利」の話で語るからである。

逆に「相手に失礼だ」という言い方に成ると、「何が失礼なのか?」と人間は反発心を抱くのだ。現代のネット上ではこういう事でぶつかり合う事が多く、結果、「失礼」とは誰に対してに成ってくる。

人間対等なら「礼」は不要である。そう考えて礼を用いなかった者が失礼なら、それを指摘する方も失礼。礼を意識して考える側も失礼に値するのだ。

礼はあくまで相手に敬意を与えてその敬意から生じる「利」を説かねば、礼を払っても礼を受け入れずに交渉を閉ざす側は更に「失礼」に成るのだ。

「礼」に心など求めるものでは無い、「礼」を以て「礼」で返すことで初めて作法として成立するのだ。

そういう意味で左衛門はこう切り返した。

 

「若輩ながら、私でお力に成れる事なら何なりとご協力させて頂きます。」

 

と、丁寧に伝えた。

そうした中で吉法師は那古野の村に治水を行う話を伝え、その資金を何らかの方法で捻出できないかを尋ねた。

すると左衛門は、

 

「成程、それは実に興味深い話ですな。」

 

現代の地図を参考に地形見ると、名古屋駅周辺に江戸時代の堀以外に川と呼べるモノは通って無かったと推察できる。

清州との境に流れる庄内川は現代の名古屋城北部には流れており、この一帯が米作りの中心だったと思われる。

川から2,3キロ以上離れた名古屋駅付近は寧ろ畑中心のエリアであったと言えよう。

 

畑の作物は収穫から長くても一月しか持たないが、米なら1年以上は持つ。畑作の農民はその米をある意味買わねば成らない。

畑にも租税が掛けられるため、大人一人の一年分=1石を得るのは大変な時代であったとも考えられる。

1石という単位は、お酒で有名な升で100升分。

升と言っても解りづらいので、

米を炊く際の目安である1合でいうと1000合分である。

現代の単位で1合=180ml=200グラムで、50合=10Kgと成る。

1000合はいわば200Kgで、10Kgの米袋が20袋積み重なった状態である。

現代の価格では、米10KG=4000円(コシヒカリ)で、

20袋=8万円だろうが…それが一人分。

農業技術の進化した現代でも、4人家族で年24万のコストな訳で、戦国時代の価値ではおおよそ10倍近い価値に成るとも考えられる。

 

ある意味、現代の月収20万円の年収=4石と換算しても良いかもしれない。

 

米の収穫面積は1反(たん)=300坪=991.7㎡でこれで1石分の収穫量とされている。

解りやすく言えば、31m×31m=1反というおおよその計算に成る。

サッカーのフィールドが100m×65mとすると、大体6反分の面積に成ると言える。

ここまで考えると田んぼの面積は想像しやすい。

 

左衛門は庄内川から那古野村に治水した際、そこで広がる田んぼの面積を推測し計算した。

長さは3キロで、新田と成るのは内陸の2キロ分。

治水から水路を伸ばして300m位。

2000m×300m/1000=600反。

ざっくりと600石増える計算に成る。

無論、こうした計算法を当時の尺などに変換して吉法師にも説明した。

治水に掛かるコストをおおよそ100人で1期(3か月)で換算して、1石=1人工/年で換算すると、25石分の必要となる。

この資金を左衛門が用意して、吉法師に貸し出す話をした。

 

返済はおおよそ600石増えるところから、利息を付けて100石分で返済するとし、25石分を4年間でどうかという提案をした。

年利でいえば75%と闇金顔負けの金額だが、生産量の増益分から換算すると17%分で、この増益分は吉法師にとっては何十年と続く話だ。

そういう相場で考えると良心的と考えられる。

沢彦もこの話を聞いて妥当と判断した。

吉法師に相場がどうかの知識は無い。

普通の人間ならそれ故に困惑するだろう。

しかし、吉法師はうつけである故に、

左衛門の話を好意的に捉え、

単純に増える石高にその利を見出した。

この時代でも一般的には交渉の段階で値引きをするのが常である。

左衛門もその辺を踏まえて25石の4年間とした。いわば別段25石の2年間分50石の返済でも構わないと考えていた。

ところが吉法師はそんな値引きをすることはしなかった。

沢彦も値引きをするもの踏んでいたが、

吉法師はほぼ即答で、

 

「ならば、それでいい」

 

と、承諾した。

沢彦は一応、

 

「商人との交渉の席では多少の値引きは構わないのだぞ。」

 

と、吉法師に教えるが、

 

「いや…条件はそのままでいい。俺が損する話ではないなら、左衛門殿も儲ければいい。」

 

と、言い放った。

吉法師は強欲かもしれないがケチではない。

普通なら些細な利益も追求して考えるだろう。

100円でも安く、10円でも安くという考えだろう。

吉法師は寧ろ興味を持たない。

いわば4年間で100石分の米高で自分は600石の領地が増えるのだから、100石の内50石分の米高をケチる必要性は無い。

寧ろそれだけの利益が見込めるなら、言い値で構わないという発想だ。

逆に言えば左衛門のお陰で自分は何の出費もせずに、目的が果たせるのだから寧ろ有難いと考え、その上で儲けが見込めるならそこに執着する事はしたくないという気持なのだろう。

良く言えば度量が広いと言えるが、

一般的にはネギリをしない事で寧ろ「うつけ」と見られても可笑しくは無いだろう。

 

左衛門は前者の度量の広い人物と吉法師を評価した。

吉法師を儲けさせれば自分達もそれだけ大きな利益が見込める。

そういうj人物ゆえに大事にし、そして育て上げたいと考えるのだ。

逆にケチ臭い相手なら、寧ろ儲けの少ない取引相手ゆえにそこまで肩入れしようとは考えないだろう。

 

結果として吉法師の判断は長い目で見た時に正解に成るのかもしれない。

 

勿論、沢彦も吉法師を良い形で評価した。

いわば目先の小さな利益に固執せず、それ以上の利益に満足する意識を評価した。

いわば大局を見据えて小事を捨てられる。

そういう人物と見極めた。

そして後の信長と成る吉法師はそういう人物であったのだ。

 

こうして吉法師は治水の原資を得る事が適い、約束通り那古野村に治水を齎す一歩を得た。しかし…次の問題は清州との関係である。

 

どうも・・・ショーエイです。

多くの人が天才というものを美化して考えている。

漫画などでも天才キャラはクールで冷徹な感じ表現される事が多い。

ところが実際のそれはただお勉強が出来るだけの秀才の事で、

天才では無いのです。

現実の天才を見て下さい。

ディエゴ・マラドーナ、長嶋茂雄など、

どこか爆裂した感じで、生きざまにインパクトがある感じです。

無論、メッシであり、イチローも天才の部類ですが、

基本天才と言うのは他の人とは感性が違う故に理解されにくい人が多いのです。

クレヨンしんちゃんの野原しんのすけも天才キャラと言えばそう成ります。

 

天才と言うのは普通の人が拘るところは捨て去れて、普通の人が気にしないところ気にするのです。

値切るというのは生活を切り詰めて考える人などにとっては大切な生活の知恵です。

ところがそういう値切りなどには興味を感じないのが天才なのです。

値切る時間の無駄。高いと感じたら買わないだけ。

寧ろ拘るのは、買った後の品質です。

価格に見合う品質なら問題視しないが、価格に見合わない品質またはサービスだと激怒する。値切ればそれだけこちらが不利に成る。

 

金銭感覚の違いと言うかも知れないが、安いものを安く買っても安いものは安いものという感覚で、寧ろ良いモノを相応の価値で買う方が価値ある買い物と考えるのである。

天才は野心的な考え方でもあるゆえに、庶民とはその時点で感覚が違うのである。

ところが値切らない値切れないという風にも見られ、そういう姿勢を馬鹿にされるのも天才なのです。

 

他人は他人、自分は自分。それ故に社会性は全くないのが天才です。

他人にどう見られようが気にしないタイプが多く、トラブルを起こすのも天才ゆえなのです。

それ故に馬鹿に見える。

天才ほどコロナ禍でマスクをしないとも言えます。

いわばマスクを付けるという行為に拘りを感じるのです。

信長的に考えれば、

マスクを付けていると命乞いしているようでヤダ。

そんな拘りです。

逆に自分の命大事な人は天才でもマスクをします。

むしろ命大事な人はマスク着けて防護していれば良いだけの話。

自身はコロナに感染しても文句ないし、感染したら死ぬかもしれない。

そこは承知の上で、天才ほどその時に腹を括って死ねたりする。

いわば自分の考えに責任を取ろうとする。

感染したくない人がマスク着けているのだからそういう人には迷惑掛からないだろう…いわば会話しなければ。

 

ここが天才のポイント。

と言うよりマラドーナ的主張とでも言うべきか…

 

マスクせずに会話して文句を言われたら…

君がマスクをしているなら問題ない。嫌なら会話しない。

 

マスクをしていない事を言われたら…

感染したくないなら声かけるな!!そうすれば喋らない。

 

インタビューなどの際に指摘されたらこういう言い方をするだろう。

 

社会に反発心を持つため馬鹿にされがちだが、

法律上で義務化されているわけで無いから問題ないで終わりなのです。

義務化したら?

マスクが再び品薄に成って社会問題に発展するかも…日本だと。

 

いわば天才であればあるほど他人と自分の違いを明確化する。

十人十色で個人個人の考え方の違いがあるゆえに、

その個人の見識をぶつけて争えば喧嘩に成るだけ。

喧嘩に成れば絶対に勝たないと気が済まない。

社会がでは無く、個人の考えを尊重しろが

天才の社会性としての結論なのです。

他人は他人の考え方で生活し、それはそれで尊重する。

マスクを付けるも付けないも個人の考え方次第。

感染に気を使う人はマスクをして、

気を遣う気が無い人は自己責任で…

 

医療崩壊やら感染をまき散らす行為という話も、

医療崩壊?自宅待機者がこれだけ居て何を言っているのか?

感染をまき散らす?その前に安心して自宅待機出来る社会システムでロックダウンしろ。

 

根本的に個人の生活を制御するのは難しい。

その上での自宅待機というロックダウンだが…

個人の生活コストが嵩むだけで、ストレスが生じる。

そこまで計算してロックダウンしろという話です。

 

マスクをしろという話では無く、

寧ろ無症状の感染者をPCR検査ガンガンやって隔離しろ!!

 

根本的にマスクを着用して外出して、無症状感染者がどこに潜んでいるか解らない状態で放置している事が問題でなのです。

マスクするしないの話は関係ないのです。

この合理的な部分を理解している故に、

マスクしても意味無いよ。感染する時はマスクしてても感染する。

と、知っているのです。

 

一般的にはマスクに拘るだろうが…

天才と言うより一般的にクレイジーな人は

無症状の感染者を放置している社会が一番問題なだけという事なのです。

 

紙一重とはこういう話です。

【第十三話 真実なる嘘】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は騙されまいと構えると、人を疑って見るものだ。

また信じがたい話を聞いた時、嘘だと思ってしまう。

 

農民の悪ガキ達と吉法師らは秀隆の用意した餅を囲んで集まった。

餅と言っても水っぽい米を叩いて潰したようなもので、

ある意味質素なモノだったが、

農民の子らにとっては嬉しいおやつの様なものだ。

見ず知らずのもの同士が打ち解けるには良い切っ掛けと成った。

そうした中で沢彦は農民の子らに、

 

「どうじゃ…今回の勝負でわしの連れてきた子らの実力は解ったじゃろ。」

 

すると農民の子の一人、小平太という者が、

 

「確かに剣術はスゲェな。どこであんなの教わったんだ?」

 

「まあワシの寺の萬松寺なら当たり前じゃぞ。」

 

と、吉法師たちに目配せしながらそう語った。

 

「寺であんなの学ぶのかぁ…面白れぇな。」

 

そして沢彦は、

 

「どうじゃ吉法師を頭に、戦遊びの部隊に成るというのは?」

 

と、興味を持った小平太に聞くと、

 

「でも、オラたちの頭は新介だで…」

 

すると吉法師が、

 

「そいつの事か?」

 

と、先ほど自らと勝負した新介を差して聞くと、

 

「ああ、そいつが新介だ。」

 

と、答え、

 

「新介もオラも武家の子じゃで、商人の子の下だとな…」

 

いわば農村に暮らす下級武士の意味である。

所領や城内に常駐する武士以外にも、

農民の中で手柄を立てた者は、武名をその褒美として与えられる。

所領を与えられるわけでは無いが、

農村の中である程度の地位が保証されるという特典のようなものが有ったと考えられる。

戦国時代の各地に存在した下級武士とはそういう位置取りであったと考えられ、後の羽柴秀吉の出自が農民だったか下級武士だったかと両方の見解があるのは恐らくそういう実態ゆえの話で、実際に所領を得ている武家からすれば、何れも農民と考えられていたとも言える。

と、は言え、

上から眺めればそれは同じ農民であるが、農民の立場で下から言えば、全く違う存在と成るのだ。

故に新介や小平太にはその武家としてのプライドがあった。

武家が商人の下に付くなどと言ったものだろう。

 

沢彦は彼らに寺で預かっている商人の子らと吉法師を紹介していたため、農民の子らはそうだと思い込んでいた。

むしろこちらの方が真実味の有る話で、

事実を知らないのなら、

嘘でもその方が納得が行く話に聞こえるのだろう。

 

しかし、小平太の言葉に吉法師は対抗心を抱いた。

 

(武家? 俺は那古野の城主でその上に立つべき者だ!!)

 

まだ子供ゆえに当然と言えば当然であるが、

吉法師にとって沢彦が指示したルールなどどうでも良かった。

寧ろ、戦遊びが出来るなら何でも良いと言った感じだろう。

その上で寧ろ武家だからという理由で、

新介や小平太らが自分より上だという言葉に苛立った。

それは吉法師以外の岩室らも同じだ。

しかし、岩室らは寧ろ大人っぽく成長していて武士としての余裕があった。故にこれは遊びで、沢彦の示した指示を演じ切るつもりだった。

彼らからすれば小平太らの「武士」だという話を寧ろ冗談のように流せたのである。

ところが吉法師はムキに成るのだった。

先にも話したように、人間への差別意識はない分、小平太が答えた理由が寧ろ気にいらなかった。

いわば「武家だから商人の下には付けない」という言葉である。

ならば武家というよりその頂点に位置する那古野城主として、

その下級武士に従う理由もない。

勝負には自分が勝ったという事で、

吉法師からすれば決着が着いた話なのだ。

 

それ故に吉法師は、

 

「俺は那古野城主吉法師ぞ!!武家という理由でモノ申すなら、俺に従え!!」

 

と、言い放った。

新介はまだ少し朦朧とした状態が残っている。

その代わりに小平太が、

 

「何を言い出すだ…おみゃぁら(お前ら)商人の子らだっていってたでよ」

 

吉法師がそう切り出した以上、岩室らも吉法師に従い、

岩室が、

 

「いや…あれは沢彦坊主の嘘じゃ!!」

 

すると農民の子らはその沢彦を見た。

すると吉法師は沢彦に

 

「沢彦!!なんとか言え!!」

 

と、催促する。

しかし、沢彦はとぼけて、

 

「ワシは知らんぞ…今は商人の子として預かっておるからな…」

 

と、あえて言葉上、嘘に成らないとぼけ方をした。

秘かに沢彦は子供らのやり取りを面白半分に眺めていた。

すると農民の子らは、

 

「ほら、商人の子だと言っとるがや!!」

 

農民の子らは、言葉上のニュアンス関係なかった。

寧ろ、沢彦が商人の子と認めたと解釈する。

そして小平太が、

 

「それに殿様がそんな恰好で村に現れるだかぁ?その方がオカシイだで…」

 

と、指摘した。

いつの時代もネット上で繰り広げられる話と同じである。

読み手も吉法師たちと同様に、吉法師の素性は知りうる話であろう。

しかし、農民の子らはその素性を全く知らない。

明確に証明でも出来ない限り、信じさせることは難しいのである。

また吉法師も証明するものは今何も持ち合わせていない。

沢彦が萬松寺満にそれらしいものは置いてきたからだ。

そこで沢彦は吉法師に、

 

「自分で城主と名乗った以上、それを自らで証明せねばならんぞ。」

 

と、吉法師にけし掛けた。

すると吉法師に味方する岩室らが、

 

「成らば俺らがそれを証明する!!」

 

と、吉法師を援護する。

吉法師の家臣として育った岩室からすれば、吉法師がそう名乗った以上、それに従う方に切り替えたのだ。

しかし小平太は、

 

「そんなこと言われたぇて、嘘言って騙そうとしとるだが…信用なりぁで。」

 

更に、

 

「殿様だろが何だろうが、武士なら刀の一本ももっとるだりゃ、だったらそれを見せてみりゃぁでよ。」

 

と、反論した。

そう言われると吉法師は沢彦に、

 

「沢彦!!刀を返せ!!」

 

と、言う。

沢彦は再びとぼけて、

 

「刀かぁ…寺にでも置いてきたかのう…?知らんなぁ…」

 

と、言った。

すると吉法師は、

 

「ならば後で証明してやる!!少し待ってろ!!」

 

と、言い放つと、

沢彦が、

 

「それはダメじゃ!!交渉の場に於いて、証明できぬ話をした以上、その責任はその場で取らねばならないぞ。その場でそれが証明できぬのなら偽りであってもその偽りのまま交渉せねば成らない。」

 

と、少し難しい説法を唱えた。

吉法師には難しい説法などまだ理解しえなかった。

しかし吉法師は反論した。

 

「何故、今証明できなければいけないのだ!!後でも証明すればいいだろう!!」

 

沢彦は更に難しい論法繰り返した。

 

「一期一会、機会は一度と思われよ。仲間にする者がここに居り、時を得てしまえばこの者たちが再びここに居るとは限らんのじゃ。一度得た機会を最大限に活用せねば、大事な交渉は逃げて行くぞ。」

 

という感じで説明はしたものの、

吉法師の表情は理解している様には見えなかった。

そこで沢彦は解りやすく、

 

「そなたはワシとの約束事を無視して、自分自らでこの地を治める領主と名乗ったのだ…城主として領主である以上、その民から疑われたままこの場を去るつもりか?」

 

沢彦は寧ろ吉法師の誇りに訴えかけた。

吉法師もそこを刺激されて何となく理解はしたものの、どうして良いのかが思いつかない。

沢彦はそこまで意地悪するつもりも無く、寧ろここで何か吉法師に教えておくべき事はあるかを考えた。

そこで教育者としての沢彦は小平太に、

 

「ならばそなたらは領主さまに何か望みはあるか?」

 

と、聞いた。

そして吉法師に向かって、

 

「そなたが領主ならばその願いを叶える事で証明出来よう、それならどうじゃ?」

 

と、言うと、

吉法師は、

 

「ああ解った。何でも言うてみろ、叶えてやる!!」

 

そこで小平太は少し考えて、

 

「成らば今すぐ雨を降らせてみろ!!」

 

と、子供らしく難題を吹っかけた。

それには沢彦が、

 

「それは領主の仕事では無い。仏の仕事じゃ。」

 

と、先ずその話の方向性を修整した。更に付け足して、

 

「そなたらも武士であり、真の武士に憧れるなら無理難題は申さぬことじゃ。何でもと言って何でも叶うと思うのは無知な証で武士では無い。」

 

小平太も難しくは解らないが、沢彦の話をそれなりに理解した。

 

「節度を以て武士として申すのなら、相手が領主としての真実を証明しうる所で何かを求めて見よ。それが武士の証ぞ!!」

 

と、少し小平太の心を煽る様に説いた。

これも交渉術のなせる業だ。

 

最近の政治家でも同じだが、「何でも」という言葉の様に、言葉尻を捕まえて議論に持ち込もうとすることが多々に有る。

「何でも」といったから「何でも叶えられるんだろう」という意味で相手と渡り合っても、結果、そこは不毛な言い争いでしか無く、本題としての目的を逸脱したものでしかない。

道理として本題は、「吉法師が領主で有る」という証明な訳で、その証明が適う話であれば双方が本来問題とする事は解決するのだ。

何が主題として議論されているのかを明確にして、その主題を解決する意味で語り合えない議論は、すべて話が逸れて本末転倒になるだけの流れで意味が無い。

日本の政治家は与野党共にここに陥るだけで、結果国民には主題の結論があやふやなまま終始するのだ。

大半の国民がそれで納得しているのなら絶望的だが、実際は大半の国民が呆れている様な状態なので、日本人の本質はまだ正常だと信じたいところだ。

 

小平太は沢彦にそう諭されると、

ある意味他の農民の子らに自身は武士であると言った以上、

それ相応に示す必要性を感じた。

 

「ならば…」

 

と、何か言葉を考えて、

 

「田んぼに水が欲しい」

 

と簡単に答えた。

すると吉法師が、

 

「沢彦坊主が言った通りで、俺は仏では無い。だから雨は降らせられない。」

 

と、言うと

それに沢彦が、

 

「雨を降らせる話ではないのだろう。治水の話じゃな。」

 

と、小平太の話を纏めて伝えた。

その言葉に吉法師は、

 

「治水?」

 

と、聞くや、

沢彦は皮肉たっぷりに、

 

「お主は学問をせぬからな…そういう言葉を知らんのじゃろ」

 

と、少しからかうが、

沢彦の教育方針は実戦的に学ばせるモノゆえに説明した。

 

「治水とは川から田畑のある場所に新しい水路を作る事じゃ。」

 

そして吉法師の顔を眺めて、

 

「まあ、お主が那古野の城主なら出来ない事は無い話じゃが…」

 

と、まで沢彦が言うや、

吉法師は、

 

「ならばそれで証明しよう!!」

 

と言い放った。

しかし、出来そうだからという話で吉法師はせっかちに決断した。

すると沢彦は続けて、

 

「ただし簡単な話ではないぞ…まあ、仕方ないこれも学ぶべき事だろうし…」

 

と、そこで言葉を止めた。

その言葉に小平太は、

 

「ならばそれが出来たら俺らはお前の子分に成る!!出来なければお前が俺らの子分だぞ、いいな!」

 

と、言うと

吉法師は「解った」と答えた。

まあ、本当にうつけに見える感じだが、

多分、そうなのだろう。

治水がどれだけ大変なものかを全く知らずに答えてしまった。

 

それを知る沢彦は治水が一朝一夕で出来る話ではない為、そこにいる子ら全員に向かって、

 

「お前らのう…治水は下手したら1年も2年も掛かる大工事じゃ。完成するまで待ってても意味が無い。」

 

とは言え、子供らには、

それがどれだけ大変なものなのかまでは解らない。

沢彦はそうした中であえて提案した。

 

「治水には人手も居る。どうじゃ治水の工事が始まった時点で吉法師の話は証明として認めた上で、本当に水を村まで引きたいのなら全員でその工事を手伝うというのは?」

 

その言葉に小平太は、

 

「村に水がもっと来れば、おとう(父親)はもっと田んぼ増やせて、米が沢山食えるように成るいうとっただがや。」

 

そして小平太は吉法師を指さして、

 

「本当にこいつがそれを出来るなら何でもいい!!手伝うのもやったる。」

 

と、言うと、

沢彦は小平太に

 

「ならばひと月ばかり待てるか?さすがの殿様でも直ぐには始められんでのう。」

 

すると先ほど吉法師にボコボコにされて倒れたまま黙っていた新介がようやく起き上がり、吉法師の方を見て、

 

「俺はコイツが殿さまだと信じるだで・・・で、なきゃあんなスゲェ剣術出来る訳がにゃあ(ない)。」

 

新介は小平太が新介の為に取って、側に置いておいた餅を頬張りながら、

 

「だから川から水を引いてくれるならやってくれ。」

 

その信頼する意味の言葉に、吉法師は力強く、

 

「解った!!絶対にやってやる!!」

 

と約束を交わした。

流れとはいえ、そうなった事態に沢彦は少し頭を悩ませたが

 

(川から水を引くと言っても…清州から了承を得て、人工も集めねばならぬが…どう転んでも、若殿には良い勉強に成るやもしれんな…

まあ、書物で知るよりこうして体験する方が面白い成長をするやも知れんな・・・)

 

と、事を楽しんだ。

無論、那古野村に水を引くと成れば、清州との境に流れる庄内川の水を使う必要があり、それには清州との利権的な事も関わってくる。

無論、吉法師がやるというより実際は平手政秀が手引する訳だが、その政秀を説得するのは吉法師の仕事であり、今後の領内経営を学ぶ上では大事な経験と成る。

そういう事も含めて沢彦はいい勉強に成るだろうと考えたのだった。

 

どうも・・・ショーエイです。

信長たまの吉法師時代のエピソードを

一応フィクションで描いている訳です。

しかし、ある意味奇想天外な発想が生まれてくる過程では、

様々な経験が前提と成らねば中々思いつくものでは有りません。

恐らく城下で遊びまわる中で

こうした経験は得ていてもいいのではという観点から作っています。

織田信長という人物がどうつくられていくかを

暫くは上手く描いていきたいと思っているそうです。

 

さて、最近危惧する点です。

いよいよマスコミも含めて

日本人は再び権力層に洗脳されていませんか?

軍事の必要性を唱えて、学術会議を批難したり、

国民が政治家に対して決して許しては成らない

不正行為、忖度を批難する方が悪いと言った風潮で

無かった感じにしてしまう事態。

 

学術会議というより、学者の意見を政治的な都合で封じ込めて、

経済優先のGoToキャンペーンを推し進めた。

その結果、新型コロナが全国的に広まった訳ですが…

偶々、アメリカと比較して被害が少なく見えるからと

曖昧に政府の言い訳を許してる感じも気持ち悪い話です。

 

中国は直接的に抑圧して人民をコントロールする国です。

日本は戦時中も同じで、

国民を洗脳してコントロールしようとする国なのです。

自己主張の強い国では民衆が洗脳されるケースは稀と言えますが、

トランプが使う手法を参考に言えば、

大統領の立場として「嘘だ」と言い張る事で、

それを聞いた民衆はどちらが

「本当のことを言っているのか?」

と、錯誤する感じが生じます。

結局、民衆の情報源はマスコミがそう言っていたから

と、言う様に誰かの話に頼るしか無く、

実際に自分の目で確認する術は有りません。

ただし、有能な人は

情報の辻褄を精査して真偽を見極めるわけですが、

大抵の一般人は

そのままその聞いた情報のみで

どちらを信じるかで決めてしまうのです。

 

比較的合理主義のアメリカですら

トランプの発する話に流される人が

かなり多くいる状態だったわけです。

 

合理性より「信頼」

いわば誰を信じるかで判断しようとする日本では、

寧ろ洗脳しやすいのは言うまでも有りません。

 

人を洗脳する場合、大抵の手法がどこかに敵を作って、

その敵に対する恐怖感を煽って自分に味方するように呼び掛ける。

安倍トランプの中ではそれは中国であったわけで、

現状の日本でも変わらずです。

無論、中国もある意味そういう流れに洗脳されて、

安倍トランプが警戒するような行動を起こしつつあります。

いわばアメリカが敵対視するから、

自己防衛の為敵対視して構えざるを得ないという状態です。

 

こうした状態は国際社会全体が協力する事で

回避できる話ですが、

その協調性を崩壊させ、

両極に敵と味方を振り分けるような状態に成れば、

当たり前の様に双方が警戒する話が

現実的に生じざるを得なく成ります。

 

人間の社会はこうした出来事の繰り返しで、

それ故に中々戦争と言う人災を取り除けない訳です。

ただ、現代に至って歴史的な繰り返しで、

国を戦争で支配しても、その国民は必ず独立を望み、

結果、その怨恨で戦争やテロが繰り返されるだけなのです。

いわば戦争しても無駄だという結論なのですが、

武力で脅かす国が存在する以上、

警戒しなければ成らないのも当然です。

 

と、は言え…軍事で出遅れた日本と言う国が、

今更軍事を語っても意味が無いのです。

軍事技術が一朝一夕で追い付くことは無い現代社会で、

刀からようやく火縄銃で対抗できる様にしても、

大国は既にマシンガンを使っている状態と言って良いかも。

 

既に宇宙戦争を視野に入れた状態で、

陸戦、空戦、海戦の話で対抗しようとしているのは

正にこのレベルです。

 

臆病風に吹かれてそんな主張をするのなら、

さっさと世界を平和に導くための運動を起こして、

寧ろ平和憲法を盾に平和社会構築の外交に

焦点を当てるべきなのです。

 

アメリカ政府に媚びるのでは無く、アメリカの世論を利用しなさい!!

 

アメリカの世論は平和が大好きです。

そういう平和を促進する日本であれば、

アメリカ世論は決して日本を見捨てないだろうし、

どんなことがあっても日本を守るべきという風潮に成ります。

この世論を政治家が無視できないのは当然で、

賢いならココと結ぶような外交をするべきなのです。

 

洗脳されてしまった人たちは、

日本の現実を指摘して改善を促す様に語る言葉も、

全てが売国奴の言葉の様に受け止めてしまい、

全く論理を理解しようとしないのも事実です。

実際は寧ろ洗脳された彼らこそ売国奴であり、

本当に国の事を考えれば、

間違った方向性に対して挑むのが当然です。

いわば洗脳された人間たちから批難されようとも、

それに屈せず例え一人になろうとも

立ち向かわねばならないという誠意が有るからです。

多くの味方がいる方に流される人間は、

結局は国より自分が大事なだけと成り、

日本では洗脳された人が増えれば増える程、

洗脳された意見に逆らえなくなっていくのです。

 

そして結果、同じ過ちを繰り返す。

 

これを止める方法は…戦争に再び負けてもらうか、

洗脳者より強い力で屈服させるかの何れしか無く、

日本人の大衆が

これを自主的に食い止める事は適わないだろうと思います。

まあ、それが出来れば日本の未来は救われるのですが…

 

【第十二話 人】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は上から下を見ても、決してその苦境を理解できない。

一般人が政治家や金持ちに対して感じる様に、

普通に暮らす人が

更なる貧乏人の苦境を理解できないのも当然である。

何故なら人は自己が基準で、

最後は自分で克服するしかないに行きつくからだ。

政治家にいくら格差是正の話を持ち掛けたところで、

最終的には勉学に励んで優良企業に就職して

安定した生活を目指せば良いだけの話と、

結局は匙を投げるしかないのも事実だ。

いわば頑張った人間が報われる社会なのだからと成ってしまう。

ところがいつの時代も同じで、

これが腐敗政治の根本的な問題なのである。

 

下から上を見上げれば、

恵みの雨が全く降ってこないことが見えてくる。

例えるなら上は一人5万円で発注した人工(にんく)事業が、

途中で削り取られて下には1/5の1万円しか落ちてこないという話などがそれである。

上はこれを国費の無駄遣いと議論するが、

下からすれば根本的に見当違いな話でしかない。

 

5万円出すのなら、下に3万円は落ちるのか?

という議論からするべき話である。

その上で3万円は貰い過ぎなのでは?

という話に成れば多少は納得は行くだろう。

下には2万円位で十分な対価と評価できるなら、

人工(にんく)発注額の6割が必ず

一番下の労働者に行くという計算のもとで、

3.5万円程度にしても良いのではという

調整が出来てはじめて意味を為すのである。

 

上から人を見ると、

現代風で言えば

企業が金を持たねば雇用は生まれないという見方になる。

ところが下から見れば、

下が金を使えなければ企業は儲からないと成る。

立場によって都合が異なり、人は自分の都合に近い論拠を採用するのだ。

しかし、実際は両立させねば内需の安定は齎されないのである。

どれだけバーゲンセールの様な事をやっても、

結局余裕のある人間が少なければその効果はさほど大きくはない。

いわば無駄に税金を使っているだけの話にしかならないのだ。

 

沢彦の教育方針は

いわばその下を見るという事に重点を置いたものだ。

平手政秀より、吉法師が農民にも自由を

という話を聞かされた沢彦は、その農民がどういう者たちなのかを実体験させる意味でこの戦遊びを勧めた。

無論、その上で実戦に備えた訓練も兼ねている。

そういう主旨を聞かされた政秀も前例にない事とは言え、

学問として受け付けない吉法師にはそれも一手と認めていた。

と、は言えその分、

政秀は那古野城主としての吉法師の警備も考えねば成らなかった。

 

沢彦は政秀のその悩みを、

逆に人を育てる意味で活用するようにも提案した。

警備、諜報、索敵などの人材である。

これらは戦国時代では

伊賀や甲賀の忍(しのび)と呼ばれる者たちの分野であるが、

後の信長は寧ろ自身にそうした部隊を持っていた為、

彼らを雇い入れる感じはあまり見られなかったと思われる。

 

吉法師が沢彦を訪れる以前に

政秀は何名かの若手を呼び出した。

河尻秀隆、佐久間信盛、そして簗田政綱に、

尾張津島に潜んでいた甲賀者の滝川一益などである。

秀隆と信盛は、吉法師が城外を視察した際にその供回りとして同行した2人である。

政秀はその秀隆に吉法師の警護を任せた。

秀隆ら十数名をは行商人などに変装させ、

吉法師の周りで目立たない様に警護する任務とした。

現代風に言えばSPといった役割だ。

いわば何か事が有ればすぐさま吉法師を守る役目だ。

 

信盛には20騎の騎兵を与え、

吉法師の周辺で少し離れて常時待機する任務を与えた。

警護の河尻らの動向に応じて直ぐに援護に入れる配置であり、

ある意味緊急時に吉法師が無事に逃げれる様に働く役目と言える。

 

彼ら2人の部隊に与えられた試練は、

常に警戒を怠らない集中力を持つ事と、

何かが生じた際の手際の良い対策を講じる事が課題とされた。

この後、河尻秀隆は黒母衣衆の筆頭と成り、

常時信長の警護を任されるわけで、

佐久間信盛は「退き佐久間」と知られる意味で、

いわば殿軍(しんがり)の名人として成長していく。

こうした才覚は一朝一夕で生まれる訳では無く

若い頃からの経験や知識、それに伴う鍛錬が必要であり、

政秀が育て上げた人材として考える方が妥当である。

 

そして諜報担当に充てられた簗田政綱、滝川一益。

簗田政綱は桶狭間にて今川の動向を信長に知らせた第一の功労者とされた人物である。

滝川一益は言わずと知れた名将で、

信長時代に数々の戦功を立てる人物だ。

一益の出自には諸説あるが、

元は甲賀の国人衆滝川家の出自で、

博打を好んで不行蹟を重ねた為、一族から追放された説を採用する。

そして一益が行きついた先が尾張津島の知人の元という事で、

こうした人材を政秀が紹介を受けて登用した。

彼ら諜報部隊には尾張の国人衆、

いわば野武士たちの監視を担わせた。

内情を把握するための潜入もその役割だ。

甲賀忍の諜報術に精通していたであろう滝川一益が、

桶狭間手前の時代まで織田家の表舞台に登場しなかったのは、

こうした任務を受けていた可能性も考えられる。

 

こうした内容は記録として残されていない話であるが、

何故こうした人材が信長の下に集まったかと考えた上で、

年代や年齢など参考に組み立てると平手政秀の功績と考えるのが妥当である。

寧ろ現実的に考えるならそうして育たねば、優秀な人材は生まれてこないのである。

適材適所という言葉あるが、それは寧ろ育った人材に宛がう言葉で

人を育てる意味では「適正適育」という言葉を用いる。

適正適育とは、人は興味を持てば自然と学ぶという心理を活用したものである。

人間の心理で多くの人は、自分の欲しい人材を求める傾向にある。

しかし、それら適材適所と巡り合うのは運でしかない。

大企業ならばそういう運も考慮して考えられるだろうが、

小さな企業では中々難しいところもある。

適材適所で人材を求めると、人は人の短所を見極めていまう。

いわば自分の欲しい人材か否かを定めようとする心理が働くのだ。

これは大企業でも同じで、結果としてふるいに掛けられそのプレッシャーに耐えれた人材だけが生き残っていくシステムだ。

ある意味、そうした中で生き残った人材故に優秀と考えるのが動物の摂理なのだが…実際には媚び諂い、忖度が横行し、上からの命令に従順に従うだけの機械でしかなくなるのだ。

その上に立つ者が優秀で有ればその機械は使いこなされるだろうが、時代を経て世代が代わっていくとその頭脳が劣化していき、過去の前例を参考に判断していくことしか出来なくなるのだ。

今の日本がこの症状に近いと言え、将来の中国もこれに陥る可能性は高い。唐の科挙制が劣化して滅んだものこれが要因である。

逆に適正適育は寧ろ得た人材の中で育てていくシステムだ。

無論、これも大企業で様々な分野が存在する中では有利になる話で、分野が限られてくる業種では難しいかもしれない。

しかし、適正適育では人の長所を見極め、その長所を伸ばすことで

プロフェッショナルを育成していくのだ。

スポーツを例に挙げるなら、ディフェンスとして志望して入った人材が身長が高くヘディングが上手いがディフェンスは上手くないと感じた場合、ヘディングの能力を活かしてフォワードに抜擢するという決断に結びつくのが「適正」の意味。

その上で、本人が相反するポジションのフォワードとディフェンスどちらに興味が持てるかを見極めてより興味の持てる方で伸ばすのが「適育」となる。

人は興味があれば趣味に没頭するように勝手に学ぼうとする。

学ぶうちに自分の能力に応じて向き不向きが自己判断で解るようになり他へも興味が湧くように成る。

興味のない場所で学ばせても、それは勉強でしか無いわけで学習を怠るのだ。

年齢的な制限のあるスポーツ界でそんな悠長な話を用いるのは得策では無いと言えるかも知れないが、学習によって学んだ経験は実は専門的な指導者として育成する事が出来るのだ。

ヘディングという限定された分野に限られるかもしれないが、ヘディングだけを研究したプロフェッショナルは、どういうポジショニングが良いか、どういう体の使い方が良いかを指導する立場として活きてくる訳で、そういう研究を他の選手に伝えさせることで選手の質が向上していくのだ。

「うつけ」である後の信長の兵法では、

自分が「うつけ」=「面倒くさがり」と自認して、興味のない分野は「無知」であると悟った上で、自分が興味を注げない分野のプロフェッショナルを育てていくのである。

いわばサッカーのドリブルに興味は持てても、ポジショニングやらヘディングには興味が持てない。

そうした中でポジショニングやヘディングに興味がある人間が研究してその研究成果を伝えてくれれば、自分が興味なくて気付かなかった部分が見えてくるのである。

実戦で研究され学習によって学んだ知識故に、それは合理的な説明として理解もしやすく実は議論もしやすい。

いわば説明された話に注文を付け、さらに克服できるように考えてもらえるからだ。

いわばヘディングで相手が自分より背が高くジャンプ力もあった場合どうすれば良いのかという疑問を提示した際、プロフェッショナルとして研究する人のプライドから方法を模索してくれるように成るという形だ。

米国ではこうした人材を効果的に使うケースが多いのである。

自然と考え方の価値もプライドに対する意識も異なってくる。

アジアや特に日本では、指導者に逆らう事は失礼と思われがちだ。

いわば黙ってい言うとおりにしろという事で話が終わってしまう。

それ故に教わる側からの指摘に対して、指導者としてプライドが傷つけられたと考えるのだ。

そしてその指導者の学習は実はそこで止まってしまうのである。

ある意味、知識から得ただけの指導ゆえにそれ以上にどうしたら良いかが考えられず、その新たなる知識を探し求める面倒な作業を押し付けられたと思う心理が働くのである。

ところが学習する方は自分が気付かなかった事を指摘され自分が足りなかったというプライドでそれを克服しようと考える。

ほぼ趣味の事ゆえに、研究する労力を厭わないのだ。

研究する過程の話ゆえに、他の知識を探すことは有る意味カンニングするような意味でその作業も趣味の範疇になる。

カンニングしたからそれで良いという話では無く、プロフェッショナルとしてのプライドから自分なりのアレンジまで考えようとするのだ。

人間の能力を最大限に引き出す意味では、そういう人間の方が遥かに効率よく機能するという事である。

単純に「適材適所」と「適正適育」を分別すると時間軸での長所、短所がそれぞれに見られるが、実際に効果面で考えると全く別物である。

いわば「適正適育」を用いた上で「適材適所」を用いなければ、結局は知識の枯渇によって衰退していくだけという現象であり、向上しない組織になるという話なのだ。

信長が自身の考え方の正当性を合理的に理解するのは、本能寺の変の手前の晩成に入るころだろうが、政秀が齎した環境で有り、信長自身の性格から自然とそういう合理的な組織が形成されたといえる。

信長が「天命」を受けたというのは、それが知らずとして合理的な機能を齎すという効果ゆえの意味でもある。

まあ、言い方を変えれば、「うつけ」=「おおちゃくもの」故に無駄な努力を嫌い、好きな事に没頭したいという性格が齎した他人任せの思考とも言える。

それ故に他力本願で有る事を自認し、他人に感謝する事も忘れず、また他人が働きやすい環境を考える才能に溢れていたのも事実で、実際にそこが信長の魅力と成っていくのである。

実は漢の高祖「劉邦」の魅力も同じであったと言え、それ故に賞罰に対して公正な形に気を使っていたのである。

日本人はこうした他力本願の英雄を嫌う傾向にあるが、実際に働くと考えた場合、自分の能力を最大限に活かせる場に成る訳で、小さくとも必要とされる環境は、最高の労働環境なのではと気付いてほしい。

 

と、は言え信長の興味は、かの諸葛孔明と同じところにあった故に、軍師要らずの人間であったことは、この小説の中で徐々に解説していくものとする。

 

さて、平手政秀という存在が信長にとって偉大であるとする所以は、

彼が信長の為に育てた人材が如何に優秀な形で成長したかを裏付ける話となる。

後の弟信行との間で分裂する織田弾正忠家に於いて、

林秀貞、柴田勝家らといった父・信秀側の人材は、

殆どが弟の信行に付いている。

また奇行の目立つ信長に

真面な家臣なら寧ろ従わなかったとも考えられる。

それでも信長に従ったのは,

寧ろ政秀により信長の為に育てられた家臣であったと考えるべきで

結果としてそれら家臣の方が、

信秀の側近であった家臣より優秀であったから、

弾正忠家の御家騒動で勝てたとも言える。

無論、信長自身の才能も寄与するところだが、信長自身が自身の才覚を最大限に活用できるのはそうした優秀な人材合っての事と自負しているから、寧ろそうなのであった。

 

また、家臣団の勢力図として劣勢に立たされたはずのそんな信長に忠誠を誓う気持ちが生まれたのは、彼らが長年、信長を守るという事に従事した情が有ったと考えられ、その情が忠誠という形で桶狭間でも活きて行くのである。

 

そうした体制で自分が守られている事など知る事も無く、

吉法師は沢彦と共に那古野の城下…

城下と言うより農村集落の那古野村を訪れた。

 

沢彦は那古野村の悪ガキが集まる野原…現在の名古屋駅辺りとしよう・・・そこに連れて行き、吉法師に、

 

「あそこに仲間に出来そうな悪ガキがおるで、兵隊としてまず誘ってみなされ。」

 

と、言って少し離れた場所で腰かけた。

吉法師たちは言われるがまま意気揚々とその悪ガキの群れに向かって行く。

悪ガキの群れには30~40人位集まっていた。

悪ガキ達は木の棒を以て半分に分かれて戦ごっこに乗じていた。

沢彦は吉法師に身分を隠すように言いつけたが、吉法師は恐らく忘れているだろうと思い、興味深々でそれを眺めていた。

 

(さて…若殿がどうするものかな)

 

そこに行商人に化けた河尻秀隆が近づいて、

 

「殿に何か有ったらすぐに助けに入って良いですか?」

 

と、沢彦に秘かに聞いた。

沢彦は、

 

「いや、喧嘩が始まっても動かれるな…ただし集団で動いた場合は喧嘩の仲裁程度に入って下され…ただし吉法師様の身分だけは決して触れない様に。」

 

と、指示をだした。

秀隆は、「御意」と沢彦の側で控えた。

 

農村の悪ガキに近づいた吉法師はいきなり、

 

「おい!お前ら仲間に成れ。」

 

と、命じるように言い放つ。

まだ、世間を知らなすぎる少年吉法師に身分を隠すという話は難しすぎる。

そんな突然の不遜な態度に農村の悪ガキたちは

 

「はぁ?!何言ってんだ!!」

 

と反発した。

 

「俺は那古野の吉法師ぞ!!」

 

命令に従わない相手を見て吉法師はカッとなった。

既に沢彦の忠告を忘れてしまっている。

ある意味、本当にうつけに見える話だ。

無論、吉法師の供回りの岩室らも相手を農民と見下している分、吉法師が名乗りを上げて命令した事には不思議に感じていない。

まだ12歳の少年ゆえに、仕方のない事で、

現代の子役として大人社会で芸能活動している同年代とでは、演技力も違うのは当たり前と見るべき話だ。

寧ろ、気づいてか気づかなくてか「那古野城主」と名乗っていないだけ沢彦の忠告を守っていると考えてたかもしれない。

 

すると農村の悪ガキの一人、後に新介と名乗る少年が吉法師の前に出てきて、吉法師の肩を突いて挑発した。

新介は吉法師より2つ位年長であり、

ガタイも少し大きかった。

肩を突かれて吉法師は大きくよろめいて倒れたのだ。

 

「なんだ弱そうじゃないか!!」

 

と新介が言うや、周りの悪ガキ達もそれを見て大笑いした。

吉法師のとっては生まれて初めての屈辱だったかもしれない。

 

それを見た沢彦は秀隆に、

 

「秀隆どの餅をあの人数分調達してここに持ってきてくれまいか?」

 

と頼んだ。

秀隆は、

 

「如何にして?」

 

と、聞くや、

 

「これから若に交渉術を教える為じゃ。」

 

とだけ言うと、秀隆は直ぐに動いてその場を離れた。

すると沢彦は悪ガキたちに向けて大声を上げて、

 

「おーい、悪ガキども!!」

 

と、急ぎ足で近づいて行った。

悪ガキどもは坊さんが説教しに来たと思い一瞬退散するかのように動いたが、

 

「おーい、ちょっと待て面白い話を聞かせてやる!!」

 

と、少し優し気に声を掛けると、退散しようとしたガキどもは足を止めて、沢彦が近づくのを待った。

恐らくその悪ガキの番長格であった新介は、

 

「坊主が何の用だ!!」

 

と、声を掛けると、

吉法師と新介の間に入った沢彦は、

 

「喧嘩ならもっと面白い勝負を教えてやる。」

 

と、言った。

倒れた吉法師は岩室たちに抱きかかえられるように起き上がり、

 

「沢彦!!刀を返せ!!こいつら切り殺してやる!!」

 

と、言い放つ。吉法師はある意味世間知らずのお坊ちゃま状態だ。

沢彦は吉法師のそういう性格を読んで割り込んだのだろう。

無論、こうした心情で農民に負けたまま放置すれば吉法師は暴君に育ったかもしれない。

記録上の話で、吉法師が実際に城下で遊んでいた事は明白であるが、その身分をどうしていたかは定かではない。

無論、身分のまま農村の子供たちを従えて遊んでいたとする方が道理としては話しやすいが、この小説ではその辺は少し脚色して進めるものとする。

 

吉法師の怒りに任せた言葉に沢彦は

 

「刀を使うか!それでは公平な勝負では無いぞ、そんな勝負に勝って嬉しいか?」

 

と、吉法師に聞くや、

悪ガキども番長格の新介に

 

「これらはワシが寺で預かっておる熱田の町民の子らじゃ…どうじゃ少し面白い喧嘩で決着付けて見ぬか?」

 

と、提案した。

沢彦はあえて「喧嘩」と言葉を用いるのだ。

喧嘩という言葉を敢えて用いる事で「仲裁」ではないという意識を相手に与えるのだ。

いわば始まった喧嘩の延長として決着をつける話にしたわけで、喧嘩という言葉を取り消せば相手に「喧嘩を止めるように」と聞こえてしまうからだ。

喧嘩をしている両者は心理上で頭に血が上っており、その行為を否定されても部外者に関係な話として不満を抱くのである。

寧ろそういう心情ゆえに「喧嘩のやり方が面白くない」と諭す方が冷静に話を聞きやすくなる。

これは外交上のテクニックでも活きてくる。

戦争をする両者に戦争を止めさせるため、その戦争を批難しても中々止めないのだ。

いわば両者には既に戦うだけの理由があるから、その理由は他者には関係が無い。

パレスティナとイスラエルの問題など一度戦争が始まれば止める事が難しく成るのはそういう事である。

力で停戦を捻じ込む事は出来るが、結局両者が抱える遺恨は消えないのだ。

吉法師は今農民が逆らったという心理で農民に対する遺恨が芽生えた状態だ。理由は理不尽な事でも吉法師の怒りがこのまま放置されればより根深い話となる。

沢彦が優秀なればこそ、この心理の流れを予め察することが出来るわけで、実際にはまだ些細な状態と放置されがちになる。

そこで沢彦は決着を上手くうけさせる方法を用いた。

 

先にも話したプロフェッショナル。

沢彦は僧侶として仏門に使える身として、和の研究に没頭していた人物と伝えよう。

故に如何に人間の争いが醜いかを知り、それを拭い去る難しさも心得ている。

そういう研究から効果的な方法を見出せるのであった。

 

沢彦は「仲裁」という形を成立させるには、「停戦」が適う方法を適策と考えるのである。

それは「引き分け」を引き出して冷静さを取り戻させる方法である。

決着を付けさせると寧ろ負けた方は不満を抱いで遺恨が残り、その猜疑心が仲裁者に向けられることにも成るのだ。

先ず双方が冷静さを取り戻して一旦引いて考える機会を得る上では、双方が引ける心情を考慮しなければ成らない。

 

そこで沢彦は2番勝負を提案するのだ。

決着をつける3番勝負では無い。

1番目に農民たちが勝ちやすい「相撲」

2番目に吉法師が有利に成るだろう「棒剣勝負」

とした。

 

当の子供たちは相手の器量など知らない為、全て勝てる気でいる。

それ故に案外と簡単に話が纏まった。

そして3人づつ代表を出して、それぞれの勝負で決着をつけさせたのだ。

 

相撲のルールはこの当時土俵は無かったと考える。

いわば倒したら勝ちで、土俵から出すルールは無い。

相撲と言っても柔道に近いとも考えられ、

投げ飛ばす方法は自由だったと言える。

言うまでも無く、相撲勝負は吉法師たちの完敗である。

唯一の勝者は一番の相撲上手で体が大きかった岩室の一本だけ。

吉法師はあえて新介と対戦して、簡単に負けている。

負けた吉法師は大いに悔しがり、その執念を棒剣勝負に向けた。

 

沢彦は棒剣勝負にルールを用いなかった。

剣道の様に一本取れば勝ちでは無く、

寧ろ「降参」が条件だ。

勿論、生死に関わる状態なら止めることも考えていたが、子供同士故にそこまでには至らないとも踏んでの判断である。

 

佐久間盛重の教えで痛みに強く育てられた吉法師らは、棒剣試合では圧倒的に強かった。

寧ろ農民の子らは多少の痛みには耐えれても、

継続して受ける痛みには弱い。

いわば殴られ続けて我慢できることは出来ないのだ。

ある意味ボクサーはボクサー同士KOされるまで戦い続けるが、そんなボクサーに素人が挑めばKOされる前に謝ってしまう。

ある意味、そういう勝負と成った。

結果、2本目で勝負は付いたが、沢彦は大将戦となる新介と吉法師の勝負を敢えて取らせた。

いわば全体の勝負で相撲が1対2、棒剣試合が2対0だったことも有る。

更には吉法師の執念を察してか、負け続けた新介との勝負を決めさせる必要性もあった。

それは沢彦が吉法師に抱く教育上の都合とも言える。

寧ろ吉法師がここで負けても勝ても相手の器量を認めるという教えに結びつける為だ。

負ければ自分の弱さを自覚させ、

勝っても相撲で負けた時の相手の強さを認めさせる。

そういう考えだ。

 

新介のガタイは年の差もあって吉法師より一回りデカい。

普通なら相撲で負けた相手故に怖気づくところだろうが、吉法師は武家としてのプライドが先行して農民相手に苦渋を飲まされた意識があり、剣さえあればという気構えで全く動じていなかった。

と、言うより寧ろ殺伐とした雰囲気で新介に向かっている。

一見、吉法師には農民を差別した意識があるようだが、あえて言うなら当然の話で農民が武家の自分より強い事が許せないのである。

人間のプライドというのは育った環境で育成されるもので、そのプライドは人間に根強く残るのだ。

人種差別などが社会的に根絶しても、人間の意識に芽生えたら中々消えないのはそういう摂理もある。

それは黒人が白人に対して身体的な優位性を意識するプライドも同じで、白人は経済的、頭脳的な部分でそれに対抗しようと感じるのも無理はない。

これは日本人と韓国人、中国人の間でも同じである。

社会的な差別がない状態では、それぞれの遺伝的優位性が認められて勝負するしかない世界なのだという意識を双方に植え付けていくしかない。

吉法師のそれは、身分的な優位性のプライドで、農民を人間として見ない意味とは違う。武家として決して負けては成らないという意識なのだ。

 

そういう意識の中、勝負が始まるや、

吉法師は先ず新介の籠手に突きで一撃を浴びせる。

剣道の籠手の取り方とは違い、最短で突く…

ボクシングのジャブを浴びせるように相手の持ち手目掛けて先手を取るのだ。そしてそのまま相手の顔面に目掛けて突きを更に加える。

殺人形式の剣術である。

吉法師は剣術を習う中で、

最短で相手を行動に不能にする方法を独自で編み出している。

新介は一瞬で不利に立たされた。

しかし、降参しなかった。

吉法師は降参しない相手に容赦なく、突きで殴打する。

棒を振り回して殴るより、

突き刺してピンポイントで痛みを与える方が効果的な事を吉法師は知っていた。

見るに残酷な仕打ちである。

脇腹であり、局部であり、相手が苦痛に感じるところ狙って、残酷なまでに甚振る。

それでも新介は降参しなかった。

吉法師に従う岩室らは、むしろ吉法師を怒らせたその農民を笑った。

 

(若に剣を握らせて怒らせたら最後だ…)

 

その状況を見かねた沢彦は流石に吉法師を止めた。

 

「若!!」

 

余りの鬼神ぶりに動揺した沢彦はそう呼んでしまった。

 

「相手は人ぞ!!もう十分であろう!!」

 

すると吉法師は、

 

「こうれは勝負ぞ!!相手が降参せねば我がやられる!!」

 

と、手を休めることなく沢彦にそう言い放つ。

沢彦は今度は新介に降参するように勧めるが、

新介は、

 

「降参はせぬ!!」

 

と、意地を張った。

沢彦は再び吉法師に、

 

「その者を殺すつもりですか?!!」

 

と、聞くや

吉法師は、

 

「降参せねば、止むをえまい!!」

 

更に殴打を強めて、本気で殺しに掛かった。

野生の殺意を感じたのか、

さすがの新介もそれには恐怖した。

本当に殺される…

そう…既に喧嘩では無く、殺人の域に達し始めた。

周りの農民の子らもその仕打ちに寧ろ助力しようと構え始めた。

しかし、岩室らもそれを察して身構えて、

鬼の形相で彼らを睨め着けると、

先の2本で見せた勢いも有って、農民の子らは足が竦んだ。

新介は既に気を失っている。

沢彦は吉法師を制止してでも止めるべきだったろうが、沢彦の勘がそれを阻止した。

いわばその勘は吉法師がこのままどうするかを見極めねばならないと諭したのだ。

すると農民の子らの一人が吉法師にひれ伏す様に頭を下げて。

 

「新介をもう許してあげて下さい!!」

 

と、吉法師に向かって嘆願した。

それに呼応するように他の子らもひれ伏した。

身分が農民で有る分、屈する事にはプライドが無い。

性格と言うより寧ろ親から受け継がれた処世術というものだ。

その姿を見た吉法師はようやくその手を止めた。

怒りに任せて相手を甚振っていた様に見えた光景が、

あっさりと冷静さを取り戻して手を治めたのだ。

沢彦は殺すまで止められないとも思っていた。

しかし、あっさりとその殺意が消えた事に驚いた。

 

(心の底は見えぬが…若殿は尋常な人間ではないな・・・)

 

すると吉法師は沢彦に

 

「相手は降参したという事か?勝負は終わりだな。」

 

と、聞くや、

農民の子らが先に、

 

「降参します!!」

 

と言ったので沢彦は、

 

「勝負は終わりです。若の勝ちです。」

 

と勝敗を認めた。

吉法師は内心殺したくは無いと考えていた。

しかし、殺さねば次は自分が反撃されると感じて手を止められないのである。

それ故に誰かが明確に終わらせてくれることを願っていた。

ただしそれは相手の明確な敗北でしか許されない。

人間の思考は自分本位である。

自分が決して相手に屈する事が無いと覚悟していた勝負に、相手も自分に屈しないかもしれないと考えるのが吉法師の思考に有ったのだ。それ故に隙を与えれば必ず反撃に転じるという恐怖が過るのだ。

結局、そういう勝負になればどちらかが死ななければ終わらない。

故に降参をしないなら殺すしか方法が無いのだ。

無論、内心では人を殺したくはないのも事実だが、降参しない以上、相手は常に自分を殺しに来ると警戒するわけだ。

戦争や戦いは道徳では計り切れない。

殺らねば殺られる。

屈服しないものは常に寝首を狙ってくる。

結局、吉法師であり後の信長の思考はここに陥るのである。

逆に相手に屈するのなら死を選ぶというのが、自信のプライドで有り、屈せず常に相手を狙う執念も自認していたのだ。

それ故に激情なまでも敵に対しては鬼に成れるのだ。

 

信長の本性は女性である。

体が男で、心は女性なのだ。

かといって男に興味があるわけではない。

寧ろ気丈夫というより気丈婦であり、女好きの女性とでもいった方が良いのか。

たとえ体が女性に生まれようとも、神の子以外は身ごもるつもりがないほど、気高い意識のある女性と言える。

いわば神と認める相手以外に異性として興味を持たない人という感じだで、それ以外の相手に恋愛感情すら抱かないし、いかなる要求にも屈服しない。

故に男として生まれたら男の性は全うされる。

 

難しい説明に成るが、

男性としての寛容さは薄く

女性としての気高さが濃い人間と考えてもらえば良いのかも知れない。

 

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

 

後世にこう評された信長の性格は当たっている。

しかし、人が考える残忍な意味の「殺してしまえ」とは違う。

鳴かぬなら鳴くまで攻めるのが結果として「殺してしまう」の意味なのだ。

 

故に農民の子らは殺す前に「鳴いてくれた」と判断したのだろう。

内心、吉法師は殺さずに済んだことに安堵した。

しかし気絶した新介を見て、

 

「沢彦…こいつは生きてるか?手当してやってくれ」

 

と、不思議な程人が変わった。

二重人格とも思われる感じだ。

まるで人命を何とも思っていない冷酷な少年にも感じられる吉法師だが、寧ろ戦国時代の武家に生まれた子としては当然で頼もしい。しかし一度矛を治めたらその命を無駄に殺傷する事は好まない。

沢彦はそこを見極めたのだ。

 

(戦の世に敵に情を掛けるは自らを危うくするが、一度屈するなら人としての情を持ち直せる…暴君では無く名君の器と言えるか…)

 

現代人で普通に道徳心を持つ人にはこれだけ説明しても解りにくいかもしれない。

沢彦が「勘」で見極めたかったのは、人を殺める事を楽しみとして残酷な仕打ちに出たのか、それとも真剣勝負という命がけの勝敗の中でただ気を許すことなく勝負に没頭した結果なのかという部分で、矛を治めた姿勢を後者と評価したのだ。

 

沢彦が新介の様子を見るや、痛いたしいほど首などに痣が出来ており危うく死にそうでも有ったが同じ場所を何度も入れておらず、寧ろ気絶してから急所を外した形跡も見られ、それらを分析して何気にどこかで殺すことを躊躇していたとも感じられた。

沢彦が新介を揺さぶって起こすと、新介は直ぐに意識を取り戻した。

 

意識を取り戻すや新介は

 

「勝負はまだ…」

 

と、言いかけるや、

沢彦は、

 

「戦なら死んでおる…お主の負けじゃ」

 

と、新介の負けを諭した。

それを見た岩室は、

 

「あいつまだやる気かよ・・・」

 

と、少し驚いた。

吉法師は勝った喜びに暮れることなく、ただその新介を見ていた。

死んでいなかった事に少し安堵したのか・・・

普通なら勝敗が決まった時点で喜ぶものだろう、しかし吉法師は勝負に勝てた喜びなど微塵も感じないのである。

寧ろ負けなかった事への安心感だけといえる。

真剣勝負で負けられない意識だけで戦った結果、相手を殺しそうになったほど、いわば心として苦戦したと感じたのだ。

 

そうした中、秀隆が餅を用意してその場に訪れた。

秀隆は商人を演じた状態で沢彦に声を掛けた。

 

「沢彦殿、ご注文の品をお持ちしましたぞ!!」

 

それを聞くや沢彦は吉法師や農民の子らに向かって、

 

「ほら皆の者、餅を用意した…全員で食っていけ!!」

 

と誘った。

農民の子らは思わぬ出来事故に戸惑ったが、

 

「ほらお前らの分も有るから、喧嘩の手終いに食っていけ」

 

と、声を掛けると喜んでそれに応じた。

そして気絶していた新介に、

 

「おい、一人で立てるか?」

 

と、聞くや新介は大丈夫と言わんばかりに立ち上がった。

立ち上がるや吉法師の側に行き、

 

「おい!死ぬかと思ったぞ!!」

 

と、言うや、

吉法師は新介に

 

「そうか…死ななくてよかった。強いな」

 

と、返した。

二人はまだ打ち解けてはいないが、沢彦に招かれるように秀隆の用意した餅のある方へと向かった。

 

どうも・・・ショーエイです。

とりあえず緊急で書いた文章は

物語を連続で投稿する意味で削除します。

 

とは言え、マスク不要とは言わないけど、

マスクに拘り続けて現実的に対応しやすい方法を考えれないのは、むしろ無駄な話と言えます。

面倒だと感じる方法を幾ら促してもハッキリ言って意味が無いのです。

いわばそんな面倒な事したくないという話に成るのです。

ならば簡単に口を覆うだけでも対処できるやり方を浸透させて、最低限の対応で乗り切る方が賢明なのではという事。

でなければ結果営業時間短縮のみならず、

ロックダウンして外出禁止にするしか方法が無くなる。

 

マスク以外の方法に反論した所で、結果として無意味な状態が継続すればより面倒な状態に成るという計算まで出来ないのかな?

故にアホと言えるのです。

 

人を馬鹿にした言動はどうかと思う人も居るだろうけど…

日本政府が馬鹿の故事を演じた以上、

これを馬鹿とするのは文学上当然の表現で、

その故事を理解できない人は間抜けというしかない話です。

間抜けは間が抜けている=拍子抜けという意味で、

まあ、理解力の無い人間で拍子抜けする人と言えば適正な表現に成るのかな?

腹立てるのは勝手だが、

日本はいわばそんな悠長な拍子抜けした議論をしている状態じゃないのだよ!!

日本がドンドン世界規模で落ちぶれて言っているのを、いつまで意地張って頑張ろうとしているのか?

頑張るところが違うんじゃない?

理研が富岳でスパコン世界一に返り咲いたという話で、理研が頑張てっても、間抜けな議論はそういう人達の足を引っ張るだけ。

間抜けでないならスパコンより次は量子コンピュータの開発でしょ。

量子コンピュータが登場したら、スパコンレベルはゴミなのだよ。

 

これは安倍政権の時も同じ。

アホの語源は、劉備の玄ちゃんの息子、阿斗こと劉禅から来ている訳で、国を亡ぼす2世皇帝=世襲政治家に対しての引用でもある訳です。

言っちゃいけないという表現では無く、

文学上の表現としてこの現象をアホと言うしかないでしょ。

 

口が悪いとか言われも知らないです。

アゲアゲで話してもこの国は世論が盛り上がるだけで、国はドンドン沈むのです。

まあ、悪く言っても無駄なのかも…

 

時代の流れは…

ハイブリット<EV(電気自動車)

電子コンピュータ<量子コンピュータ

軍事開発<宇宙開発

ですね。

日本の議論は全部古い方に傾いている。

脳波でコントロールするドローンに驚いている場合じゃないよ!!

脳波観測技術が進むと、VRなんてゴミになる。

アニメのSAO(ソードアートオンライン)の様な世界に近づいているのだよ。しかも、それMade in Chinaで・・・

アイデアの原案は日本で紹介されたのに、

技術は中国に取られるとか情けなくない?

アイデアは日本人だからと言って誇っても、

日本の経済的には何のメリット有りません。

中国製になればその特許権で

中国企業がその権益を得るだけなのです。

 

そういう開発をするのに日本は金がない。

そういう金がない状態にしているのは誰のせい?

中国が悪いの?

韓国が悪いの?

アメリカが悪いの?

それは日本でしょ!!

ちゃんとよく考えましょう。

 

 

 

 

 

 

【第十一話 沢彦坊主】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

信長の奇行で有名なのはその服装で有った。

当時の農民が主に着ていた

浴衣の様な服装を好んだことでうつけ扱いされていたと言われる。

現代風に言えばスーツ姿が当たり前の会社の中で、

ジャージ姿で働いている感じなのかもしれない。

武家の服装が、いわばブランド物のファッションなのに対して、

ただ服を着ているだけの姿ゆえにそう見られたのだろう。

那古野城の城主であり、そうした贅沢も出来る身分で、

何故あえて貧乏くさい恰好をするのか…

普通の人の感性と異なるから天才なのだが、

時に天才ゆえの合理的な感性は、

普通の人には理解しがたい理屈が生じるのだ。

 

身だしなみはその人の印象を左右する大事な事で、

それによって人を魅了する事でその好感度が得られる。

素敵なスーツを身にまとった人はそれ相応の人物に見え、

その容姿から発する言葉には自然と重みを感じる。

逆であれば言葉の重みは薄れ、戯言に聞こえる。

これが普通の人の感性である。

 

一方、天才は言葉の中身に重点を置き、

合理的でない言葉は全て戯言なのだ。

どれだけ容姿が素晴らしくとも、

いわば中身が伴っていなければ、

所詮は使い物に成らないと判断する。

 

普通の人は

「誰が何を言ったか」

で、その信憑性を判断する。

ところが天才に成ると、

「誰が」という部分は省かれて、

「何を言ったか」が重要で

その上でその意味を分析して、

信憑性があるか無いかを判断する。

いわば、有名大学の教授がこう説明したから、

だから正しいでは無く、

説明した内容の何が正しいかが大事なのだ。

そこで合理性の無い説明なら、

その話は何の意味もない戯言になるのだ。

 

そういう感覚ゆえに、

人の見かけには興味が無く成るのだ。

人の見かけに興味が無くなる分、

自分自身の見かけもいい加減に成てしまう。

 

合理的に考えれば、

寝て、起きて、何かをする。

これが基本的な生活の原則と成る。

信長からすれば

起きた瞬間に何か出来る格好が好ましいのだ。

そして、

「顔を見れば俺が誰か解るだろ」

という感覚で、

どんな格好をしていても、

それが解るなら問題ないとも考えるのだ。

 

とは言え、二日酔い状態で

しかもジャージ姿の上司を見たら、

普通の人はヤル気が無い様に感じてしまうのは当然だ。

それ故に「うつけ」と感じられるのだろう。

 

さて、元服前の教育を受け始めた吉法師は、

佐久間盛重の剣術稽古以外は授業を放り出して、

岩室、長谷川、山口、加藤、千秋らと、

相撲や蹴鞠、そして競馬をして遊んでいた。

特に馬に乗り慣れた時分ゆえに、

競馬であちこち駆け回る事を好んだとも言える。

現代風に言えば原付バイクを乗り回す、

原付暴走族みたいな感じとも言える。

 

そうした中で平手政秀より相談を受けた沢彦宗恩は、

吉法師らに自分の寺に遊びに来るように誘った。

この時分に沢彦がどこに居たかは定かでは無いが、

織田弾正忠家との繋がりで考えるなら、

勝幡の方に寺があったと推測する。

沢彦は1587年まで生存していたとされ、

そこから逆算して年齢を考慮すると、

恐らく30~40代であったと考えられ、

1540年に信秀が弾正忠家の菩提寺として建立した萬松寺に

招かれた僧侶の一人であったとも言える。

 

萬松寺の開山には信秀の叔父に当たる、

大雲永端和尚が招かれたとされ、

この関係から才覚を認められた若手僧侶の沢彦が、

信秀や平手政秀に紹介されたとも推測できる。

 

年齢的に40手前であったと想定するなら、

僧侶としての実績はこれからの人物であったと考えるべきで、

後者の可能性を有力と考える。

その沢彦が吉法師を招いた場所は、

この萬松寺とする。

 

当時の那古野城が

現在の名古屋城の二の丸の規模であったとし、

萬松寺は那古野城の南に位置した。

現代の錦から丸の内2丁目、3丁目を跨ぐ広大な寺院であったとされ、

ほぼ那古野城城郭の中に有ったと考えても良い。

その広大な敷地には本殿とは別のいくつかの建屋があり、

その一つに沢彦に与えられた土地が存在した。

 

あれから更に成長して12歳と成った吉法師。

現代風に考えれば小学6年生で、一般的には子供なのだが、

小学6年生から中学3年生に掛けては、

思春期に突入した頃合いで、

自我が芽生えて反抗期に入る。

いわば夢見がちに勘違いできる時期だ。

 

そういう勘違いする時期の子供は生意気にも成る。

吉法師ら悪童たちは沢彦の場所に到着するや、

小生意気に、

 

「沢彦坊主!!遊びに来たぞ!!」

 

と、声を掛けた。

この時、悪童たちの服装は

まだ武家らしい袴に着物という感じであった。

 

そんな小生意気に成った悪ガキたちを迎えた沢彦は

敷地の門前に出向いて

その若殿にかしこまる様子も無く、

 

「おお!!よう来られた、悪ガキ殿。」

 

と、愛想よく言い放つ。

悪ガキと呼ばれて吉法師は少しムカついたのか、

 

「悪ガキ?!我は那古野の城主ぞ!!」

 

と、言い返す。

その言葉に沢彦は、

 

「それは俗世の身分ゆえに通じる話理屈であって、

仏門に使えるワシには関係ない話じゃ!!」

 

すると吉法師は、

 

「ここは那古野の城の内じゃ!!」

 

と言うや、

沢彦は

 

「そんなもの死んでしまえば何の意味があるか?

ワシら仏に使える者は、皆死人も同然じゃわ。」

 

そう言い放ちながら、袖から干し柿を取り出して、

吉法師に手渡した。

 

「まあ、そう構えずに一緒に楽しい遊びを考えようではないか。」

 

と、何も無かったかのように振舞って中へ誘入れた。

沢彦の言葉に苛立ちを見せていた吉法師は、

干し柿を手渡されて逆に意表を突かれた感じと成り、

ある意味上手く丸め込まれたのだ。

 

沢彦は干し柿を悪童全員に手渡すや、

そのまま門を通って中へ入っていった。

 

悪童たちは、

沢彦の堂々とした雰囲気に安心感を感じたのだろう。

何となくコイツとは話しても面白そうだ…

そういう好奇心も植え付けた。

悪童たちは手にした干し柿をくわえながら、

近くの木々に自分たちの馬を止めて、

沢彦に着いていくようにその門をくぐった。

 

門をくぐると手入れされたとまではいかないが、

簡素な庭が広がり、

沢彦は縁側に腰かけるようにして座っていた。

悪童たちは貰った干し柿を行儀悪く食べながら歩いて、

縁側に座った沢彦の目の前に集結した。

これから遊ぶつもりなので、全員立ったままだ。

 

縁側に腰かけた沢彦はそんな悪童たちを眺めて、

 

「そなたらはもうじき初陣を迎えるであろう…」

 

と、話を切り出した。

すると吉法師は

 

「ああ、戦に出て手柄を立ててやる。」

 

沢彦はその言葉に何か考えるような間を置いてから、

 

「ならば戦遊びでもしてみるか?」

 

と、言うと話を進めた。

吉法師は

 

「何だそれは?」

 

と、聞く。

 

戦遊びとは農民の子らで流行っている遊びでもある。

いわば石合戦や棒喧嘩、竹やり合戦といったものだ。

それは土地によって様々であったと考える。

これらは大人に成ってからも、

農地の場所取りであり、水脈を巡って、

農村同士が喧嘩するときにも用いられる。

とは言え、戦争ほどの統制などなく、

むしろ常時乱戦状態の殴り合いといった感じだ。

 

沢彦が吉法師に言った事は、

戦遊びで領内の農村を全て支配して見ろというモノであった。

すると吉法師は

 

「農民相手に喧嘩をするのか?」

 

と、半分鼻であしらう様に言った。

その様子に気づいた沢彦は

 

「ああ、そうだ。その農民相手に苦戦するようでは

天下どころか尾張も危ういぞ。」

 

そう言われると吉法師は

 

「俺ら6人で、何人を相手にするんだ?」

 

それに対して沢彦は

 

「先ず、味方の兵を揃える。無論、他は農民の子らだが。

兵は多ければ多いほど良いぞ。

少なければそれだけ大人数を相手にすることに成る。」

 

すると吉法師は。

 

「武器は何を使うんだ?」

 

沢彦はそれには言葉を選んで、

 

「鉄を使わなければ良いとしよう。」

 

いわば殺傷力の高い刀、槍、弓がこれに入る。

沢彦のその答えに吉法師は大いに納得し、

 

「それは解りやすいな。」

 

すると吉法師は木刀を取り出して、

 

「じゃあ、この木刀は良いんだな。」

 

ところが沢彦は、

 

「木刀は良いが、もう一つ条件を加えるなら、

武器は全て自作する事じゃ。」

 

さらに付け加えて、

 

「あと那古野城主の吉法師で有る事は内緒にすること。

これも大事な条件じゃな。」

 

その条件に吉法師は、

 

「何故、内緒なのじゃ?」

 

と聞いた。

 

「那古野の殿と知ると、相手が本気を出せなくなる。

皆怯えてしまうじゃろ。それでは意味が無い」

 

加えて沢彦は、

 

「戦遊びは勝ても負けても恨みっこなしじゃ。それ故に本気でぶつかり合う試合と思われよ。」

 

そう説明されると吉法師以外の5人も段々乗り気に成ってきた。

そこで沢彦は、

 

「本当の戦も同じじゃが、あちらは命がけの試合になる。

その訓練としても農民相手の試合に生ぬるい話を望むか?」

 

と、吉法師らに聞くと、

吉法師ら他の5名も含めて何気に目つきが代わり、

 

「いや!!本気でいい。」

 

と、答えた。

初陣を控えていきり立つ少年たちは、

沢彦の言葉から本気で試合う大切さを理解したのだ。

沢彦は気合に満ち溢れた少年たちを見て、

 

「成らばしばし待たれと」

 

と言って、腰かけていた縁側から奥の部屋に入って行った。

 

待つこと2、3分…

 

沢彦は農民たちが着る粗野な衣を持ち出して縁側に置き始め、

 

「その身なりでは城中の者と直ぐにバレる。これを着なされ。

それから那古野の城下に行く。」

 

と、着替えるように促した。

吉法師たちは条件を呑んで試合うつもりに成っていた分、

何の抵抗も無くそれに着替えた。

 

着替え終えると吉法師は、

 

「何とも軽い服じゃな。」

 

と、不思議そうに言い放つ。

武家の着物と違って布一枚の衣ゆえに、

それだけ重さも違うのは当然である。

 

「その粗野な服では不服か?」

 

と沢彦が聞くと、吉法師は、

 

「いや、動きやすくて寧ろ良い。」

 

と、答えた。

他の5人は少し抵抗があった様子だったが、

吉法師の言葉に押される様に、

何となく動きやすさに好感を覚えだした。

 

その後、沢彦は結っていた髷を外させ、

髪を紐結に代えさせてから

吉法師らを連れて那古野の城下へと向かった。

 

このいで立ちがいわば歌舞伎ファッションの始まりで、

この時はまだ沢彦の趣味のせいか地味な柄の衣で有った。

これが徐々に吉法師たちは自前の衣を揃えて行くようになり、

それがいつしか奇抜なモノへと変貌していくのであった。

 

どうも・・・ショーエイです。

いよいよ吉法師こと信長たまが、

大うつけへと成長していく過程に入りました。

元々暴走族の様な感じにする予定は無かったのですが、

色々と流れを推察していくと、

どうやら暴走族の様な感じだったのは

まんざら嘘でもなさそうな感じに成りました。

 

結局、実践的に戦術を学ばせると考えた際に、

戦遊びという手法に結びついたわけです。

 

ヤンチャな子は今でも喧嘩遊びをするわけで、

寧ろ農民の子供らはゲームも携帯も、ましてや漫画なく、

本など高くて手にすら入らなかった時代。

スポーツなど有る訳も無く、

そう考えるとこういう遊びに成るのが当然と言えます。

 

農民の子らは下手したら武士よりたくましいとも言えます。

ある意味、身体的に。

武士の子は寧ろ剣術などの技術的な面では

強くなったのかも知れませんが、

楽して暮らせた分、体は農民の方が強かったと考えても良いと言えます。

 

多分、身分を問わずに武家に登用した信長たまは、

その実態を体験していなくては成らず、

それなくして発想を得る事は、

かなり難しいと言えるのです。

 

まあ、相撲好きという話で、

農民と武家で相撲させたら農民の方が強かった

という実態から発想したとする事も出来ますが、

むしろ戦に結びつけると、

戦遊びかなという感じです。

 

さて愚痴愚痴…

 

今日は道徳に関して…

道徳を語る人間は合理的ではな!!

 

何故か?

 

道徳と言うのは人の価値観の問題です。

法律で有れば罰則がある事で、

守る義務が生じます。

道徳に関しては守る義務は有りません。

故に価値観の違いで片付いてうのが、

ある意味グローバルスタンダードな考え方です。

 

キリスト教徒がイスラム教徒にキリスト教の教えを説いても、

価値観が違えば理解は得られません。

 

これは民主主義国が共産主義国に価値観を語っても、

価値観が違うゆえに理解は得られないのと同じです。

これに法律という部分で言えば…

国連憲章の内政不干渉が法的な根拠に成る為、

民主制を押し付けても意味が無いのです。

 

価値観の違いを他人に押し付けられて、

押し付けられる方はどういう気持?

腹が立つ話で、

場合によっては喧嘩に成るだけです。

 

そういう事を割り切って考えて、

自由とは何か?

そういう視点で他人の自由は尊重し、

自分の自由の権利は保持する。

それこそが民主制の基本であることを、

知っておいてもらいたいです。

 

信長たまの歌舞伎ファッション。

当時の常識では認められないモノだった訳ですが、

そういう風潮故に皆同じ恰好するのが良いのか?

自由で自己主張が高い社会ゆえに、

色々なファッションが生まれやすく成る訳で、

個人の価値観を尊重し合う自由だから、

そういう社会が成立するのだという事も理解して欲しいです。

 

他人は他人、自分は自分。

権利の尊重というのはそういう話で、

民主制に於いてはこうした権利の保証が

法律、憲法上で守られる故に、

国民主権の民主制なのです。

 

多数決で決めるのが民主制では無いのですよ。

それは寧ろ民意制と言うべき話で、

マイノリティ(少数派)の保護が無視される状態でしか無いのです。

日本人で勘違いしている人多すぎ!!

こうした矛盾を克服した言葉が民主制の意味で、

そこの理解度も無く民主制を語るのなら、

民主制の理解度が12歳以下と言われても文句は言えません。

 

【第十話 花倉の乱】桶狭間へのカウントダウン 残り15+9年

〔ドラフト版〕

 

桶狭間に於いて今川義元は首を取られた大名として有名で、

大軍を以て信長に敗れた敗将のイメージが強い。

桶狭間には様々な候補地がある訳だが、

その中で現在の中京競馬場寄りの北側ルート、

いわば鎌倉街道を通って

そこから鳴海を囲むように行軍していたのなら、

筆者は今川義元を愚将と評価したであろう。

そしてそういう行軍であった事を寧ろ望んでいた。

その方がこの桶狭間を解析するのに簡単だったからだ。

しかし、調査していくうちに今川義元は堅実な行軍をしており、

定石通りの戦いであったなら確実に勝利していたといえる。

 

現代人はゲームの感覚に頼って戦争を見がちで、

歴史家は資料に頼って

そこで見えない駆け引きを見落としがちなのである。

 

圧倒的不利からの大逆転は、

大軍の抱える難題を理解しなければ成らず、

その点に於いては三国志の赤壁の戦いは、

両陣営の状況が記された珍しい記録である。

そこには兵糧の問題であり、

疫病や弓矢の数など、

ただ単に兵力だけの話では済まされない点が伺える。

 

いわば長期化すればするほど兵力の多い側は、

兵士に食わせる兵糧で悩まされることに成る。

 

兵士の体力や精神的な部分も色々と影響する。

無論、劣勢側の精神状態は崩れやすい。

しかし、決死を決めた、いわば背水の陣と化した部隊は、

指揮官への信頼が有れば強く保てる事も有る。

 

坂道を駆け上がった後に戦闘となる状況も

現実的に考えて見る事も大事だ。

体力のある者…いわばスポーツ選手だったとしても、

1日、2日は何とか成るかも知れないが、

それ以上連日して続くと疲労感はかなりのものとなる。

それでも体力を消費して駆け上がった先に、

同じレベルの選手が居たとしたら、

その時点で不利になる点は否めない。

これらが地の利と言われる部分で作用することに成り、

それは坂道に限らず、沼地や川を渡る事でも発生する訳だ。

 

筆者はゲームで遊ぶことが多く、

最近のゲームではこうした要素が

よく反映されている点は理解しているが、

そうした効果がゲームであるがゆえに緩和されており、

さほど実感するレベルとは至っていない。

 

それらの要素を踏まえて、

今川義元が討ち死にした桶狭間の位置を見てみると、

前線への補給拠点を兼ねた

指揮をするに最適な場所であったことが伺える。

いわば補給第一拠点の沓掛城から、

桶狭間を経由してそこから前線を支援する形にするなら、

その輸送経路は守りやすく

また素早く前線に援軍も送れる場所に成るのだ。

 

信長の逆転劇の詳細は後程記すわけだが、

今川義元が決して愚かな武将で有った訳では無い事は

知っておいてもらう方が良い。

 

その今川義元は幼名を芳菊丸、そして梅岳承芳と名乗り、

家督相続によって義元と成る。

父は今川氏親で、母は寿桂尼とされているのが基本で、

氏輝の5男であった。

今川氏親は自身の家督相続、

いわば北条早雲とされる伊勢盛時の支援を受けて成し得た経験から、

嫡男以外は出家させる形を取ったとされる。

次男の彦五郎とされる人物に関しては、

嫡男の氏輝が病弱で有ったため出家をさせていなかったとされているが、

氏輝と彦五郎がほぼ同じ時期に急死しているため

同一人物と考えられてもいる。

 

幼少の義元いわば芳菊丸は4歳で駿河の富士郡にあった善得寺に預けられた。

善得寺の住職承舜が亡くなると、その弟子の九英承菊が後を継ぎ、

芳菊丸の教育係を務めた。

この九英承菊が後の太原雪斎である。

承菊(雪斎)は京の建仁寺という京都五山にあたる名門の寺で修行し、

その才覚を評されて氏親の要請で駿河に招き入れられたとされる。

元々の出自が今川家の譜代の庵原氏であった事もあり、

何かと駿河今川との関りも元から有ったとされる。

それほど義元の父・氏親に期待されていた承菊なら、

本来は嫡男の氏輝の教育係と成っているべきだが、

承菊が選んだのは5男の義元こと芳菊丸であった。

 

おそらく承菊は嫡男氏輝が病弱であった点を察して、

これを補佐するより、健康な芳菊丸を育てて、

氏輝が早世しなければその参謀と成る人物に、

早世した際は、その後継ぎとする意味で、

こちらを選んだと思われる。

こうした経緯から氏輝=彦五郎と考える方が良く、

芳菊丸の序列は、氏親の4男で、

その正室寿桂尼との間では次男であったとする方が、

辻褄は合わせやすくなる。

 

太原雪斎こと承菊の下に弟子入りした芳菊丸は、

承菊に従って2度も上洛して修行している。

1525年の最初の上洛は、芳菊丸まだ6歳の時で、

1530年にはその上洛した地の建仁寺で得度の儀式、

いわば頭を丸めて袈裟を与えられ僧侶と成り、

芳菊丸を改めて承芳と成った。

その後、一度駿河に帰国し、

1533年14歳の時、いわば元服に値する年齢で、

今度は京の妙心寺へ赴いて、道号「梅岳」を名乗り、

梅岳承芳と成るのであった。

この間、承菊こと太原雪斎が師として付き添っており、

かなり厳しく僧侶としての鍛錬を仕込まれたと考える。

 

1526年、義元がまだ7歳の時に、氏親が亡くなっており、

この頃に兄・氏輝が13歳で跡目を継いだ。

寿桂尼の存在によって跡目争いはほぼ無く、

無難に事が進んだ今川家だったが、

結局、今川家中の力は寿桂尼に集中する事と成り、

氏輝はその母の傀儡という存在であったと目される。

無論、息子を立派な後継者とする意味で、

寿桂尼は政務を徐々に氏輝に移すようにはしていたように記されるが、

結局は母親の言いなりに動く息子であった点は否めない。

それ故に寿桂尼は氏輝を溺愛していた。

一方の梅岳承芳と成った義元は、

4歳で既に手元から離れており、

ほぼ京と駿河の離れた場所故に、

お互いが合う事すらなかったと言える。

故に寿桂尼の中ではさほどの愛情は無いといえる。

これは寧ろ信長と土田御前の関係でも言える現象で、

母親の愛情が届かない場所で過ごした梅岳承芳も、

ほぼその存在が麻痺した状態であったと言える。

 

1536年にその氏輝が死ぬと、

順当に見えたかの後継者問題が

思わぬ亀裂から生じてしまうのである。

ここからは歴史家が見えなかった実態を

当時の情勢から分析して話を進めて行くものと成る。

記録上で不可解な点は寿桂尼の行動である。

梅岳承芳(義元)が跡目を継ぐことで一致していた寿桂尼は、

花倉の乱で敵方になる福島家と同調して、

玄広恵探の支持に切り替えたという記録が存在する点である。

それらの記録から義元は寿桂尼の実子では無いとする説も浮上した。

ところが情勢を紐解くと、

義元は武田との同盟を望んでおり、

一方の寿桂尼は、

北条との関係で武田との同盟は不義を起こすと考えていた。

政策論争、いわば家族の方針で親子が喧嘩する事は自然な話で、

旅行の行き先で揉めて家族間が険悪になる事も有る訳だ。

こうした関係性から寿桂尼が義元に失望したとすることも考えられる。

また溺愛した氏輝とは異なり、ほぼその成長過程すら知らない次男に、

親としての絶対の信頼を与える事は寧ろ難しく、

猜疑の心すら生じる話でもある。

いわば、

(自分の話が理解できないその次男坊は、本当に自分の子供の芳菊丸なのか?)

と、疑いどこかで知らない子供にすり替えられたのではとも考えそうな話である。

よって寿桂尼としては自分と意見の合致する北条よりの家臣に寧ろ期待し、

実子では無いが、今川家の為にそちらを支持した方がマシと考えた可能性は高い。

 

何故、寿桂尼はここまで北条に拘ったのか?

 

それは夫を愛する良妻の思考ゆえ、と言える。

夫である氏親は北条早雲こと伊勢盛時に多大な恩があり、

その後も北条家の支えと共に今川家の領国経営が成り立っていた。

良妻であるがゆえに夫が大事にした関係を堅持する気持ちも強く、

それが今川家繁栄の条件であると考えても可笑しくはない。

そういう母親は氏輝にとっては賢母である。

故に成長した後も、母の意見を取り入れてこれに従っていたと思われ、

その結果、氏輝の相続は上手く行っていた。

三河の森山崩れと同じくして甲斐の武田信虎の動きには、

北条家と連携してこれを凌いでいる。

無論、氏輝が急死したのはこの直後であり、

北条家を蔑ろに考える事は許される時期でもない。

 

一方の太原雪斎こと承菊は武田との和睦を狙っていた。

そこには北条との関係を切って武田と結ぶという発想では無かった。

しかし現実には2者択一と成る。

甲斐の武田信虎は関東の覇権を狙う北条が敵対する

武蔵の扇谷上杉家と結んでいたからだ。

無論、そうなる事は雪斎こと承菊も承知の上で、

承菊は武田と結ぶ道を勧める。

 

1536年今川氏輝の葬儀で梅岳承芳は

後継者を意味する喪主として参列しているようで

この時点で当主として認められている。

さらには京に人脈を持っていた承菊(雪斎)の計らいで、

足利義晴からの偏諱も賜っており、

義元と名乗る事で、

家中にその正当性を証明する手はずも整えていた。

 

最愛の氏輝の死で、

寿桂尼はその弟の義元に期待したかに感じるだろうが、

人間の本心と言うのはそこまで優しくはない。

愛情の重さは変化する事はあっても、

常に平等とは行かず偏ってしまうところがある。

そうした中で自分の側で成長し、

同じ価値観で理解し合えた氏輝と、

自分から離れて自分の価値観と異なる考えで成長した義元、

母親としての愛情は全く異なってしまう。

 

また母性の本質として、

夫である氏親への愛の継承が氏輝であり、

その愛を継承する意味として夫の今川家を守るという意識に、

母性は働いていく。

その氏輝が死んだ以上、

その母性は今川家という部分に注がれ、

義元が例え自分の実子であっても、

氏親の残した今川家を崩壊させると感じたのなら、

今川家という意識に偏重するのも当然なのである。

 

承菊の手際の良い義元への家督相続は、

寿桂尼も噂通りの才覚と関心したわけだが、

武田との同盟を示唆した事で、

寿桂尼は猜疑を抱いた。

時を同じくして寿桂尼は北条氏綱(早雲の後継ぎ)の嫡男、

北条氏康に自分の娘瑞渓院を嫁がせている。

武田と北条は上記に記した通り、決して相容れぬ状態にある為、

休戦ならまだしも和睦・同盟という話に成れば、

明らかな北条への裏切りと成る。

 

太原雪斎こと承菊の進めていた話は寧ろ後者の話で、

この時点で信虎の娘の定恵院を義元の正室に迎える話まで

進んでいたと思われる。

 

才覚はあれど新参者である承菊を快く思わない人間も居た状況。

いわば承菊は義元の教育係であったにすぎず、

その地位を利用して今川家を自分勝手に操りだしたという印象を与えたのだ。

そこで重鎮で且つ、元々伊勢盛時(北条早雲)に近かった福島正成は、

寿桂尼に、

 

「還俗したばかりの新参者の義元殿では、今川の伝統も理解せず、

北条との関係を蔑ろにして、いずれは今川を危うくする。」

 

と説いた上で、

 

「今川が誤った方向に進む前に、当家(福島家)の姫が残した氏親公の実子、

玄広恵探殿を寿桂尼の養子として迎え入れた上で、

正当な後継者として迎え入れる形を考えて貰えないだろうか…」

 

と、提案した。

寿桂尼も北条との関係を危うくする承菊と義元では、

今川家の将来を託せないと判断して、

福島正成の提案を受け入れた。

恐らく寿桂尼が玄広恵探支持に回った経緯はこういう流れであったと推測する。

ところが福島正成が玄広恵探を招き入れた時点で、

事は発覚する。

 

恐らく玄広恵探の動きを警戒して監視していた承菊(雪斎)が、

福島正成の招きで久能城に入った知らせを受けて、

騒乱の気配を察したのである。

 

と、言うよりもむしろ承菊ほどの才覚がある人物なら、

敢えて不穏な空気…いわば武田と同盟をちらつかせて、

反目に回る人間をあぶりだし、

その反目が旗頭として祭り上げる玄広恵探を

早めに始末する策を考えたとも言える。

手はずを整えて義元を正当後継者としてアピールしておいたのも、

こうした動きが広がる前に圧倒的な状態で治めるためだったとも言える。

 

さらに承菊ほどの人物なら、

今川の柱とされる寿桂尼の存在にも気を使っている。

寿桂尼が北条との関係を重視して、

武田との同盟に納得していなかった事を察していた承菊は

武田との同盟を見直すとした旨を寿桂尼に伝えて、

寿桂尼の影響力を早めに寝返らせた。

 

策士は腹黒いとも思われる事を平気でやる。

寧ろ承菊の腹は、義元の下で今川を盤石な状態にする事であった。

承菊は寿桂尼に

 

「寿桂尼さまの考えを改めて精査すると、

やはり寿桂尼さまのお考えが正しいかと思い、

何卒、今後とも北条との繋がりにご助力頂ければと思います。」

 

そして承菊は

 

「武田との盟約は一度白紙に戻す様に計らうつもりです。」

 

と、寿桂尼をヨイショする形を取った。

そして福島正成と玄広恵探の動きに言及して、

 

「正成殿に不穏な動きがみられるゆえに、

寿桂尼さまの力で何卒説得頂けないだろうか…

今は義元公の下で今川を団結させることが一番大事と考えておりまするゆえに」

 

と、付け加えた。

すると寿桂尼は、

 

「正成殿と玄広恵探殿には私から説得してみます。」

 

と、言って自ら説得に出向いた。

この間、承菊は予め説得が失敗する可能性を考えて、

早めに駿河府中の今川館で軍備を整えてこれに備えた。

 

寿桂尼の説得は無論手遅れで有った。

愛情の重さが変化して、

価値観の異なった義元を一度は突き放したが、

寧ろ自分の価値観を理解された事で義元を息子として認めたのだ。

ところが福島正成からすればそれは身勝手な話でしかない。

一度は認めたはずの話が、反故にされたという事だ。

ここで寿桂尼は福島正成のその本心に猜疑の目を向けるのだ。

いわば今川の家の為と称した福島正成の気持ちは、

実は口実でしか無く、

本心は自身の血族の玄広恵探を跡目にしたかっただけという点に

陥るのである。

正成の腹の内を実際に批難できる話ではない。

日本人は道徳的な見識を勘違いして、

正成の野心的な心を批難するであろう。

しかし誰しも自分が実権を握る方が上手く行くと考えるのが当然で、

その上で今川家の為になるというのは嘘ではないのだ。

結局は誰が義元であり寿桂尼の権限を利用して

今川をコントロールするかの話な訳で、

それが福島正成で有るのか、承菊こと太原雪斎で有るのかの違いなだけだ。

しかし、正成は運が悪く、

むしろ承菊にその野心をあぶりだされただけと成ったのだ。

 

交渉が決裂し、寿桂尼を返すや、

意を決した福島正成と、名を今川良真と改めた玄広恵探は、

すぐさま今川館を急襲した。

寿桂尼の交渉が決裂し、

今川館に軍を差し向けた時点で、

正成と良真は今川の謀叛人と成る。

こうした印象固めも承菊の狙い通りとなった。

予め準備を整えていた今川館は固く守られ、

逆にあっさりと形勢不利に追い込まれて、

元の久能城(静岡市)にすら戻れず、

方ノ上城(焼津市)へ逃げ込み、

その後、花倉城(藤枝市)へと入って態勢を整えた。

 

承菊は説得に失敗した寿桂尼を

あえて頼る姿勢を示して

北条からの援軍を手配してもらった。

そうした細やかな配慮も忘れないないのが

優秀な軍師たる姿である。

 

無論、北条の援軍の必要も無く、

今川の家臣岡部親綱が方ノ上城を攻め落とし、

すぐさま花倉城は包囲された。

遠江で福島らに同調する者も現れたが、

ほぼ難なきを得て鎮圧されている。

 

包囲されて間もなく、福島正成と良真は花倉城を逃げ出すが、

良真は瀬戸谷の普門寺にて自刃し、

福島正成は甲斐方面へ落ち延びた際に、

武田信虎の手勢に捕まって殺されたとされる。

 

一方、その息子とされる後の北条綱成という部将は、

方ノ上城から逃れた際に、援軍に来ていた北条の手勢に捕まり、

そのまま小田原に送られたと推測する事も出来る。

その後、父・正成の敗北の報を受けて、北条に下り、

その勇ましさを評されて氏綱に気にいられ、

その後その一族に招き入れられたとする方が、

流れとしては理解しやすいと思われる。

 

記録上では花倉の乱は

大きなお家騒動に成らなかったものとして考えられるが、

実際に複雑な関係性を紐解くと、

そこには太原雪斎こと承菊の見事な采配の影が見受けられる。

ここまで手際の良い流れで、

かつ寿桂尼に対しても配慮を以て治めたのは、

仏門に精通し、俗世の心情を察する事に長けた手腕とも言える。

当初寿桂尼も疑心暗鬼であった承菊の才に、

事が治まれば圧倒されたと気づくのである。

 

そうした信頼をも勝ち得た承菊は、

再び寿桂尼に相談を持ち掛ける。

いわば武田との同盟の話である。

 

一介の教育係から名僧という印象に変わった承菊の言葉は、

全く別の話として理解できた。

そこで承菊は寿桂尼に説いた

 

「今川と北条の関係は、今川が北条に頼る形では

今川の為に成らず、北条が今川を頼る形こそ、

今川にとっての北条となります。」

 

と、難しく話した。

そして地の利を話す…

 

「北条は武田、扇谷上杉を二方向に敵が存在し、

これに今川が加われば三方向が危うく成ります。

今川は三河、武田と二方向に敵が居るだけで、

力は分散されます。」

 

更に・・・

 

「今川が今為すべきは京への上洛の道筋で、

それには三河と尾張を手中に治めるべきで、

願わくば武田と北条の双方をこの味方とするべきです。」

 

そして…

 

「武田は今戦に疲弊し、盟約を結ぶには最適な時を得ており、

武田が信濃に集中できるのならこの盟約は相互の利と成り得ます。

北条は一時的にこれに反発するでしょうが、

三方の敵に囲まれたと理解すれば、自ずと今川を頼ってきます。」

 

この話に寿桂尼は気がかりな事を感じた。

それは自分の娘の瑞渓院の事である。

既に北条氏康に嫁がせた彼女の身を案じての事である。

そこで承菊は…

 

「寿桂尼さまには今後も北条との間を取り持っていただく形で、

一芝居打ってもらいたいのです。」

 

承菊の言葉は少し解りづらかった。

承菊は続ける。

 

「寿桂尼さまは武田との盟約には反対しているが、

私と義元公がこれを聞き入れずに困っていると北条にお伝えください。

それで北条に嫁がれた瑞渓院さまの身は守られることと・・・」

 

承菊は寿桂尼に今川の内情を瑞渓院に流して、

北条に密偵としての価値を意識させれば良いと話した。

無論、承菊はその辺の演出も上手くコントロールするつもりでいた。

しかし、寿桂尼は、

 

「それでも武田との盟約は考えなおせぬのか?」

 

と、承菊に聞くと、

承菊は

 

「三河は松平清康が亡くなって、今時を得ております。

伊豆からの敵は守りやすく、甲斐からの敵は守りにくい。

故にこの期を確実に得る上では、武田との盟約が必須なのです。」

 

と、そう説明した。

実際に伊豆からの敵は富士山麓で狭くなった海岸線を守り切れば、

これに備えやすいが、

甲斐からの敵は山上から駆け下りてくる形に成るがゆえに、

守りにくく戦いにくいという地の利の話も合った。

無論、駿河から甲斐へ攻め込むには、

山を登って行く分、兵は疲弊して不利になる。

甲斐の武田が攻められにくかったのも、

こうした地の利を得ての事であったと考えられる。

 

ある意味、寿桂尼がこれを聞き入れない可能性も有った。

しかし、その駒となる今川良真こと玄広恵探は既に居ない。

故に無理に逆らう選択肢は無いと言えた。

無論、承菊はそういう失礼な脅しは用いない。

あえて寿桂尼に協力を持ち掛けるのである。

 

「いずれは北条と再び結ばねば成らない故に、

寿桂尼さまにその繋がりを保っていただく必要が有るのです。

京の混乱を今川が平定する為に、何卒、お力添えを。」

 

と、承菊は頼み込むのであった。

寿桂尼も名僧として敬意を持ちはじめた相手の言葉に

信頼を寄せてみる決断をするのであった。

 

1537年武田信虎の娘、定恵院が義元の正室と成る事で、

今川と武田の間で強固な甲駿同盟が結ばれた。

当時武田と抗争状態にあった北条は、今川の裏切りと見て、

これに憤った。

そして甲駿同盟が成立するやすぐさま今川に軍を差し向けて、

富士川以東を占拠した。

これを第一次河東の乱と言う。

無論、富士川を挟んで北条の侵攻を食い止める事は、

承菊が考えていた防戦でも有ったため、

北条側もそれ以西に向かう事は適わなかった。

 

しかし、武田と扇谷上杉と結んで三方向から仕掛けるも、

承菊の予想とは異なり、北条は見事にこれを退けた。

ある意味、北条も富士川を挟んで守りを固め、

寧ろその間に扇谷上杉の当主が亡くなってしまい、

その家中で騒動が起きた隙に、北条は河越城を落としてしまったのだ。

 

さすがの承菊も人の子である。

苦戦を強いられて北条が同盟参加に興味を示すと考えていた目論見は、

まんまと外れてしまうのであった。

しかし、それでも富士川を挟んで北条を食い止める算段は

上手く機能した為、三河攻略へ目を向けられるので有ったが…

武力行使は難しく別の方法に切り替えなければ成らなくなった点は否めない。

 

そこに…逃亡していた松平広忠の存在が飛び込んできたのだ…

 

どうも・・・ショーエイです。

太原雪斎がこんな凄い軍師であったと、

当初は考えても居なかったみたい。

花倉の乱を調べて行くうちに、

色々意味不明な寿桂尼の動向が見られたため、

それらに辻褄を合わせて行くと、

やっぱりこの太原雪斎=九英承菊の才覚に

頼らざるを得ないという事が見えてきたのです。

 

やっぱりそれ相応に評価された人物だけあって、

やっぱりその才覚が生きる場面だったようだという話に成ったわけです。

 

さてと…グチグチ…

 

【学術会議問題…その後】

何とも…国会答弁見ていても何をやっているのという感想。

自信満々に立憲民主党が質疑でやっているが、

追い込むところ追い込めていない。

 

相手=自民党が、

「説明する必要が無い!!」

と逃げ切るのに対して、

「説明責任を果たしていない!!」

と反論した所で…国民にとっては

進展の無い状態を続けているだけにしか見えないという事を、

そろそろ理解した方が良い。

解るよ…正しい事言っているのは…

でも、殆どインパクトのない事。

寧ろその辺はトランプを見習っても良いかも。

 

寧ろ自民党を追い込緒むのなら、

「説明する必要が無い!!」

という言葉に対して、

「それ違法です!!」

または

「それ違憲です!!」

と言い続ける方が、効果が有る。

 

そしてそこに根拠があれば、

トランプの言葉よりも正しく聞こえる。

トランプはそう言い続ける事で、

錯覚を与える訳だが、

それでも効果はある点は今回の大統領選を見れば

理解できる。

しかしそこに根拠を持たせれば、

それ以上の効果が出る話です。

 

【先ず違法性・・・】

任命とはどういう意味ですか?

任命とは「任じる」という行為以外の言葉は有りません。

任命拒否とはどういう意味ですが?

任命拒否とは「任ずること拒否する」という意味に成ります。

選任とは?

選任となって初めて「選出して任ずる」という意味に成ります。

 

法解釈に於いて、当ブログでは、

多重解釈、最大許容という言葉を用いてますが、

意味が通じない言葉をどう多重に解釈しても、

その意味が該当しないものは許容にも入りません。

 

いわば任命という言葉の中に、任命拒否という意味は含まれない訳で、

法文書に「任命する」とあれば「任命」以外の行為は出来ないと成ります。

これを任命するの中に任命拒否という意味が含まれるという解釈は、

そもそも馬鹿な話なのです。

 

学術会議の文脈には

「内閣総理大臣は任命権者としてその権利を有する」

という表記では無く、

「内閣総理大臣が任命する」

という文脈に成ってます。

上記の表現なら、「任命権者としての権利」という言葉で、

その解釈は変わってきます。

しかし、「任命する」とだけある場合、どう解釈しても任命することしか出来ないのです。

任命の言葉の中に、任命拒否という反対の意味はどの辞書引いても出てこないでしょ。

だから任命という言葉にそれらの権利は無いのです。

選任ならば、選ぶという権利がある訳だが、

どうやらその言葉を勘違いしただけのバカの故事です。

 

さて、こうした馬鹿な故事どおりの法解釈を用いた場合、

憲法15条2項に違反した事にも成ります。

 

15条の2では、公務員は全ての国民に奉仕するのであって、一部に奉仕するものでは無い。

全ての国民に奉仕している証明は、

その行為が憲法または法律に従って、だれにも公平である証明があってこそ言えるわけで、

法律、いわば法律としてその公平性を国民と契約したものに反した行為は、

全ての国民に奉仕したことには成らず、

自分の私的なところ奉仕したことと成るのです。

 

どんだけ言葉で国民の為と言っても、

そんな証言はなんの法的効力も有りません。

法律に基づかない行為は

全て違反行為なのです。

いわば国民の信託を裏切った行為なのです。

 

こういう根拠を示した上で、

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と、相手と同じように繰り返し言えば、

寧ろその言葉の印象は変わってくる。

いわば、

「説明する必要が無い!!」

は、黙秘権に成らず、

寧ろ違法性に対して反論できない言葉に成るのです。

 

こうした大衆に与える印象心理作戦が解らない立憲民主党は、

何を頑張ても評価されないだけの話なので、

少しは勉強してくれ!!

 

相手の言葉にイチイチ突っ込んで反応するのではなく、

説明が足りないのなら寧ろ

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と繰り返すことで、

聞いている人にも、

ただ政府の説明不足という意味では無く、

むしろ違法状態のままなんだという印象が強まり、

より追い込める話に成る訳です。

マスコミもそれを聞かされることで、

何故違法になるのかを説明していく議論が生じる分、

根拠があればそれだけ強くアピールできるのです。

 

繰り返しいいますが…

立憲民主党はこういう効果をちゃんと勉強しましょう。

それ出来なければ、国民の期待すら勝ち取れないだけです!!

【第九話 森山崩れ】桶狭間へのカウントダウン 残り15+10年

〔ドラフト版〕

 

清康の孫、家康と信長、そして明智光秀の間で生じた

奇妙なエピソード先に話しておこう。

多くの人にも聞き覚えのある話で、

明智光秀が信長に足蹴にされて、

それが本能寺に繋がったと言われるエピソードだ。

現代でも良くある出来事なので知っておくといい。

信長が腹を立てたのは光秀が出した料理ではない。

いわば明智光秀ほどの人物が

そんな粗相な料理を出すとは思えないのである。

寧ろ、料理自体は完ぺきなものであった。

ところが光秀は当時上品とされた京風の味付け出しており、

薄味に慣れない家康は一瞬、顔をしかめて見せたのだ…

信長は寧ろそこは気にしなかった。

ある意味、家康の口に合わなかっただけと察した。

しかし、その表情を光秀も見逃さなかったわけで、

信長の目…いわば信長が

その些細な表情も見逃さないことを知っていた光秀は家康に

 

「京風の味付けにした故に、徳川殿の口に合いませぬか…

こちらの手違い故に誠に失礼いたしました。」

 

と、家康に謝罪したのだ。

普通の人は光秀の謝罪に何の問題も感じないかもしれない。

現代の日本では光秀は誠実に謝罪したのだから、

何に問題が生じているか解らないだろう。

 

ところが信長は

家康は何とも言えぬにがにがしい表情を浮かべたのを見逃さなかった。

信長はここでキレたのだ。

そして信長は光秀を睨め着けて、ため息をついた上で、

家康にこう説明した。

 

「京は内陸で、長年荒廃した状態であった故に、

塩が貴重品らしくてのう…それ故に薄味が当たり前の様だ…」

 

そして同じ出された品を口に入れて、

 

「まあ、慣れればこの生臭い味も悪くないが…

味としては貧相に感じるやもしれぬ…まあ、楽しんで下され。」

 

と、家康に伝えた。

別段、ブチ切れてその場で光秀を足蹴にしたかは別であるが、

信長が光秀を政治の舞台に呼ぶことは

以後無くなったのは言うまでも無い。

そこで光秀は自身の評価が落ちた事へ苛立ちを感じたのかもしれない。

無論、信長からすれば足蹴にして叱責してもいいほどの失態である。

 

普通の人は何でも謝罪すれば許されると思っているが、

サービス業でも同じだが、

客人に恥を掻かせるような行為は、

謝罪では無く侮辱なのだ。

信長からすれば

それなら何の謝罪も要らなかったという考えで、

寧ろ光秀の謝罪は、

「家康殿は田舎者ゆえに都会である京の味は解らない」

と、伝える意味を与えたのである。

故に、信長は京は貧乏くさい故に薄味なのだと、

寧ろ家康の心情を察してフォローを入れたのだ。

 

因みにここでは「慣れれば生臭い味も悪くない」と、

京風の味付けを否定もしていない為、

京をあからさまに侮辱している訳では無く、

寧ろ客人である家康への心遣いが優先で言っているのだ。

 

この事件を新聞の見出しの様に記すと、

「信長激怒!!生臭いといって光秀を足蹴に!!」

と言えてしまい、足蹴りしてなくても

光秀の行為をを一方的に否定した意味の「足蹴り」とも書けるのである。

 

こうした見識の違いから生じる人間関係のズレは、

「森山崩し」の中でも有ったと言える。

 

清康が進軍を開始したのは、1535年の12月であった。

記録上では12月3日(旧暦)に岡崎を出発して、

12月4日には守山城に着陣している。

西暦で言うと、12月29日に森山崩れと成っているため、

12月27日に出立、12月28日に守山に到着である。

 

さて、気になするべきはこの日付。

12月後半と言えば、寒さも厳しく、雪が降っても可笑しくない時期である。

米の収穫期が一段落を得た時期でもある。

岡崎市から守山城のある名古屋市守山区までは、

現代の自動車のルートで計っても大体32キロほどの距離がある。

 

8千人の軍規模でこれを移動するとしても、

武家の人数は多くて2千人、残りは農民から徴兵された足軽である。

 

マラソン選手なら45.195キロを、2時間半位で駆け抜ける距離で、

一般男性で完走できる平均が4時間半と考えると、

さほど遠くは感じないかもしれないが、

実際に歩くと成るとかなり遠い。

しかし、一両日掛けての進行であったのなら、

冬の寒空の中でも、

早いとも遅いとも言えない普通のものと考えられる。

 

清康は前もって攻め落とした、岩崎城(愛知県日進市)と、

品野城(愛知県瀬戸市)から先発隊を出して、

守山城近くに布陣の準備をさせた。

数は、岩崎城からの1千を工兵として布陣に当たらせ、

時間差で遅れてくる品野城からの1千に増援としての伏兵という形で、

その防衛に…

そして本体が到着する頃には8千人規模の布陣が完成している状態で、

守山城に面した。

実際に8千人は大きくサバ呼んでの数値だとしても、

半分の4千人でも大掛かりな人数と言える。

 

一方の守山城はほぼ60m四方の規模の城で、

サッカーフィールドの半分位の大きさと考えればいい。

その規模で考えれば農民兵を入れても

城内に入れるのは500人前後であったと言える。

城を攻める基本的な人数は城兵の倍以上有ればという所なので、

4000人の兵が有れば十分すぎる話に成る。

 

清康が冬場のこの時期を狙ったのは、

寧ろ敵の援軍が来にくい状況を考慮しての事かも知れない。

それでも援軍は二日以内には到着すると考え、

敵の援軍と対峙する部隊に3千、城の攻め手に1千と考えれば十分である。

敵の援軍より先に地の利を得た場所に布陣できれば、

いわば勝算は大きくなると言える。

 

信秀がこの事態で急遽兵を徴収できても2000~3000が限界と見切れた。

また、更なる増援となる場合も、清州の大和守家が関与せねばならない話で、

それ以上は厳しく時間を有するとも踏んでいた。

記録上には、弾正忠家と反目状態にある織田藤左衛門が清康の軍を招いており、

ここで清康、信秀両方が雌雄を決する状態に成れば、

むしろ信秀は弱体化する事と成り、藤左衛門寛故は漁夫の利を狙えるとも言えた。

また更なる増援という部分でも、大和守達勝が絡む話に成っており、

那古野城の件で信秀の父・信定に煮え湯を飲まされた両名にとっては、

信秀を弱体させる好機としても考えられた。

清康と藤左衛門寛故の話はそういう部分で調整されていたと言える。

 

さて、ここで三国志演義並みの計略用いて話を進めるものとする。

まず、離間の計である。

清康の運の悪さは、策士が敵に居たというよりも、

策士が味方に居り、そして自分の反目を支持していた事だ。

 

冬場の行軍に於いては様々な弊害が生じる。

それは物資の運搬である。

先に述べた様に、兵士は身軽に2、3日の食糧を携えて目的地に向かえば、

それで十分な速さで着陣できる。

しかし、その後に軍需品である矢、そして兵糧、

また冬場であったため薪などが追い付いて来なければ、

寒さで兵は凍えてしまう事にも成り、

布陣に影響が出る。

 

記録上では岡崎を出立してから3日目の早朝に

事件が起きたことに成っている記事があるが、

清康の守山着陣から5日ないし7日は有ったと考える。

※史実とされる記録では兵数や日にちの部分は曖昧な所が多いため。

伝承を辿って記録された話は特に怪しい。

 

清康の目算では、着陣して後日には物資が到着する予定であった。

しかし、その物資が一向に到着するどころか、

その手前の岩崎城にも到着していないという知らせを受けた。

この物資運搬に当たっていた人物が阿部定吉である。

これに類似したエピソードは

三国志演義の諸葛孔明と李厳という部将の話でも出てくる。

この時、孔明は李厳が物資の到着を遅らせた事で、

北伐退却の決断を迫られているのだ。

故に、物資運搬の遅延が軍に多大な影響を及ぼすことは、

理解するべき話である。

後に忠義を示して清康の子の広忠に阿部定吉が許されたとするならば、

清康が定吉を疑ったとする話に結びつけて考えると、

自然と辻褄としてこういう経緯が生まれてくる。

 

では…離間の計の話に戻して、誰が糸を引いていたのか…

それは酒井忠尚で有ったと考える。

忠尚は清康の祖父の長親(松平道閲)に忠誠を持っていた。

長親は清康よりむしろ信定の方が思慮深いと感じており、

今回の清康の行軍は三河を危うくするだけのものと危惧していた。

何故か…

清康は戦上手だと認めてはいるが、

織田信秀も中々の戦上手であることは聞き知っていた。

また、那古野城を一兵も損ずることなく、

ある意味、計略によって落としたという話が伝われば、

かなりの智謀の持ち主である点も伝わる。

 

この戦で清康が負けると考えるより、

寧ろ勝っても相当な痛手を受ける事は考えられた。

長親は北条早雲、いわば当時の伊勢盛時率いる今川軍と

死闘を交えて、辛うじて三河を守り抜いた経験がある。

それ故に清康が守山に出した兵力がギリギリでしか残らないとなれば、

春先に今川が攻め込んできた場合防ぎきれないだろうと考えてもいた。

実際に清康の目論見は外れており、

甲斐の武田信虎に今川を当たらせたものの、

今川は北条と結んで寧ろ武田の動きは牽制された。

いわば今川にはそれだけの余力が残ったのだ。

この見識は寧ろ酒井忠尚も同意しており、

長親が可愛がる清康の叔父・松平信定も認識していた。

故に清康では三河は守り切れないと踏んでいた。

 

事実は小説より奇なり…

離間の計を小説として組み入れるなら、

酒井忠尚が実行犯の阿部正豊を洗脳したとすれば、

話は簡単に作れる。

しかし、それは策士が策に溺れただけの物語で、

実際に策を弄するには博打でしかない。

いわば実行犯が必ずそれをこなすとは考えにくく、

寧ろそこから実行犯が清康に寝返って事実を暴露する危険もある。

また祖父である長親があえて孫の清康を誅殺するようなことは好むはずもない。

 

そこで考えられるのが清康がこの行軍で失態を演じたとすることで、

孔明が撤退した様に、軍を引かせるというものだ。

その間に手薄となった岡崎を松平信定が手中に治める事で、

清康の危うさを咎め、清康の父・信忠が廃された様に、

信定に家督を譲るというシナリオである。

いわばこれを信忠の代で一度成功させている酒井忠尚なら、

同じ事に勝算を抱くことは十分に考えられるという流れである。

 

物資の運搬を担っていたのは実行犯となる阿部正豊の父・阿部定吉である。

阿部定吉は三河各地から集められる物資を待って岩崎城でとん挫していた。

岡崎を発した物資が、未だ到着しないのである。

実は、酒井忠尚が野武士らを雇ってワザとその物資を奪わせたのである。

無論、物資の一部は報酬として野武士らに渡し、

残りは岡崎に戻している。

しかし、阿部定吉の下には物資が奪われたという報告だけが到着した。

離間の計は、いわば清康と阿部定吉に発生した不和である。

 

さて…ここからが酒井忠尚も予想だにしなかった出来事である。

弾正忠家には松平信定から関係を維持する意味で、

清康に撤退させる意図の話が通っていた。

無論、その詳細は示されなかった訳だが、

信秀は密偵を守山城に居る信光に送って、

「松平信定殿が清康を撤退させるよう計らう故に、それまで城を堅守せよ・・・」

と、伝えようとした。

この時の信秀の参謀は林秀貞である。

秀貞はこの内容を敢えて清康に掴ませるように進言した。

そして信光の下には、

「清康の大軍に怯えたふりをして、降伏を申し立てる。」

ように伝えたのである。

虚報・足止めの策である。

いわば、仮に清康が撤退しなくとも、これで2~3日の時は稼げると踏んだのだ。

2~3日稼げれば、信秀はある程度の軍を招集して援軍に向かえる。

仮に松平信定の計が功を奏すれば、

無事に事なきを得られる。

 

では…何故清康に堅守する報を掴ませたのか?

清康が事前に「信定が裏切るから堅守するように」という伝令を掴んだならば、

信光にはその事が伝わっていないと判断する。

その上で信光が降伏を申し立ててきたのなら、

寧ろその心情を好意的に察すると踏んだのだ。

そしてその交渉の間戦は止まり、

信光が交渉に様々な条件を盛り込んで、

あえて拗らせることで長引かせるのだ。

清康としても事前に伝令を阻止したという事も有って、

好意的に捉えられる故に迂闊に交渉を無碍にすることは出来ない。

いわば無駄な兵力を使わずに城が手に入るのなら、

それこそ望ましいと考えるのである。

 

それゆえ清康は対陣したまま動きを止めたのだ。

しかし、気がかりなのは叔父の松平信定の事である。

そこで物資が一向に届かない事に猜疑の念を抱いたのである。

いわば阿部定吉が叔父・信定に与して物資を留めているのではと疑った。

 

冬の寒空に凍えるような状態で対陣し続ける事になる軍は、

少ない物資で薪だけでなく兵糧も節約して布陣を続けねばならなかった。

清康は信光が降伏の申し出をしてきた以上、

今、ここで引くことは出来ない。

しかし、そうした陣中では様々な苛立ちが芽生え始める。

それは清康自身も同じだった。

 

心理的な条件、そして環境的な条件が揃った上で、

史実として残る記録に照らし合わせると、

ここからはそのままの内容と合致してくる。

史実の記録に有るのは、

信光が清康に内応を呼びかける。

清康が阿部定吉に謀叛の疑いを掛けて、

その息子の阿部正豊が清康を切り殺すである。

 

清康の苛立ちは猜疑の目を向けた阿部家に向けられる訳で、

陣中に居た阿部正豊へ風当たりは大変なものであった。

いわば清康のみならず、他の家臣らからも白い目で見られる事となるのだ。

そこで清康は岩崎城の阿部定吉を陣中に召喚するが、

物資が野盗に奪われたという言い訳など通じるとは思えぬゆえに、

息子の阿部正豊に手紙を渡すのである。

「もし自分が謀叛の濡れ衣で誅されるのなら、殿にこれを見せて欲しいと」

陣中で猜疑の目を向けられ、肩身が狭くなった正豊の心は病んでいた。

父の手紙から忠義を裏付けるものは無い。

寧ろその手紙を清康に見せたところで

疑いを晴らしてくれる状況に無いと踏んだ正豊は、

旧暦の12月5日(12月29日)の早朝、

朝一の馬稽古で馬に跨った清康の馬を襲った。

その際に忍者が使うクナイの様なもの…

矢の矢じりを用いて、馬の首筋に突き刺した。

馬が突然暴れて清康は振り落とされた。

そして落馬した清康に切り掛かり、

短刀で清康の首筋を描き切った。

突然の出来事で清康の供回りは動きが鈍ったが、

正豊が逃げる前にこれを取り押さえてそのまま誅殺することは出来た。

 

無論、正豊に精神的な苦痛が生じるまでに

たったの1日では少し無理があり、

ある意味、犯罪者としてここまで追い詰められるには、

最低でも5日、もしくは2週間以上の時間が生じたと考える。

故に清康の守山城での着陣は最低でも1週間は有ったと考える。

 

こうして松平清康は享年25歳で、阿部正豊によって切り殺され、

これが森山崩れとして伝えられる。

この死は松平信定方にとっても誤算であった。

無論、それは酒井忠尚にとっても同じである。

いわば清康が死んだことで、守山城から軍を引き上げる事に成ったが、

家臣団はこれを清康の不徳とすることは無く、

寧ろ清康に対して忠義で団結する事となるのだ。

その為、この清康の行動に協力的でなかった信定らは、

目論見とは外れて三河安定に繋がる信頼を得るには至らなかった。

 

それでも松平信定は岡崎城を手中に治めて、

長親らの後押しもあって家督を継ぐ形となった。

そして10歳の清康の嫡男広忠(当時は竹千代)は、

その身を追われる形に成るが、

正豊の父・阿部定吉はその罪滅ぼしの意味か、

広忠に忠義を示してこれを引き取り、

本来松平家の主家筋に当たる吉良持広の下へ届けた。

松平信定も広忠を始末するまでは最初は考えなかった。

 

その後、松平信定は信秀に申し掛けて、

三河に攻め入る様に促した。

これは三河の譜代(家臣団)を纏める為の政略戦争で、

守山攻めの報復として軍を発した信秀の軍に、

松平信定が外交にて上手く治めたという実績を与える意味であった考える。

そしてそれから暫くは松平信定の下で三河は一応纏まるのだが、

家督を巡って広忠にという話も聞こえ始めたため、

吉良持広がこの内情を利用して

三河の支配権を取り戻そうとする動きが警戒された。

その為、広忠の命は狙われる事となったため、

阿部定吉は持広と組んで、広忠を伊勢に逃がしたのである。

 

松平広忠は、吉良持広の庇護の下で1539年に元服し、

持広から「広」の字を頂いて、広忠とした。

しかしそれから間もなくして持広がこの世を去ったため、

吉良一族の間で家督争いが生じたため、

広忠、定吉は吉良氏の庇護から離れる決断をした。

 

森山崩れの翌年、駿河の今川氏輝が享年24歳で急死した。

当初、その弟の彦五郎が跡目を継ぐとされていたが、

その彦五郎も急死してしまう。

そこで後継者として名乗りを上げたのが、

玄広恵探という人物で、

氏輝の父・氏親と今川家家臣であった福島正成の娘の間に生まれた子供である。

この玄広恵探が福島氏の居城花倉城に招かれた事で、

花倉の乱として記録される今川家の御家騒動で有る。

 

今川氏親の正室である寿桂尼は、

それと同じくして実子として三男に当たる梅岳承芳(今川義元)を還俗させて、

これを迎えることで対抗した。

 

尾張は大和守、伊勢守、そして弾正忠家が覇権争いを演じているにもかかわらず、

傀儡ではあるものの斯波氏中心で何とか維持できたのも、

東の脅威、松平清康そして今川が崩れて行った運も有ると言える。

 

さて…しかし桶狭間で信長を窮地に立たせた今川義元が

ようやく登場するのは信長、いわば吉法師がまだ2歳のときであり、

この義元によって今川家は全盛期を得るのである。

 

果たして花倉の乱から、そして松平広忠の行方…

これらの出来事が如何に桶狭間と結びついていくのか・・・

 

どうも・・・ショーエイです。

元服を迎える前の信長たま…

それ以前に発生した近隣の出来事を

纏めて話を進めていく訳ですが、

ようやく今川のヨッシー(義元)が登場しました。

 

はてさて…第10話では花倉の乱から、

広忠の三河奪還と続き、

そして家康(竹千代本命)が登場します。

 

さて…いつもの愚痴ですが・・・

 

冒頭に話した信長、家康、光秀のエピソード。

客を持成すという意味ですが…

そもそも御持て成しの精神を説いて、

東京五輪を招致した日本人が、

こうした精神を全く理解できていないのは残念です。

「お客様は神様…」

客は神様じゃない!!

という「神様」の意味を勘違いした世論も

頭のイカレタ状態と言っておきます。

まあ、客の方が

「神様だから大事にしろ!!」

という間抜けな主張をする事も有るがゆえに、

可笑しな解釈に成っていると言えますが、

これをマスコミまでも俗解釈に沿ってしまっては、

日本の精神はその時点で嘘に成ってしまいます。

 

【ホリエモンの餃子店事件。】

ホリエモンの餃子店とマスク事件。

正直ホリエモンの様な人間は好きでは有りませんし、

ホリエモンを支持するつもりは無いのですが、

悪いのは餃子店の方です!!

 

心無いサービスを提供する店なら、

寧ろこんな店潰した方が良い。

ホリエモンが嫌いという以上に、

その店に腹が立った話です。

 

店がマスクの着用を義務付けて入店のドレスコードにした点は

法律上問題有りません。

問題は寧ろ…それを理由に客を蔑ろにした点。

いわば客を侮辱した事です。

わざわざ客は広島の尾道まで足を運んで、

その店に来店してきた訳で、いわばファンの様な感じです。

ルールはルールなので入店は出来ないとすしても、

折角のファンを蔑ろにして追い返すその精神は、

日本人のサービスを意識する意味で淘汰されるべき話です。

いわば入店はルール上させられないが、

持ち帰りの餃子は用意するので、

どうかそれで事を治めて欲しいい。

そういう姿勢が大事だと言えるのです。

最近の日本の若者にしても、

ルールがルールだからと客への配慮を考えない、

サービスが横行してます。

一部ゆとり世代を悟り世代などと持ち上げているが、

彼らが悟っていると勘違いする程度の低い社会レベルと言っておきます。

彼らは本質を理解していない生兵世代と言っておきます。

ルールを盾に主張すれば法律的には有利に成るが、

ビジネスとしては不利になる。

 

これは客を不快にして逃がしている話で、

経営側からすると死活問題です。

現実、日本企業が弱体化している背景は、

こうした配慮不足の点もあり、

この思考を不要とする意識から、

クレームから派生する

利便性向上のイノベーションも齎されなくなっている。

アップルや海外の企業が新製品に色々な機能を齎すのは、

そういうイノベーションを商品化していく発想で、

かつての日本企業が用いた方法だったはずなのですが…

 

話を戻して、

不快に感じたからという話で、

それを理由に店の営業を妨害する行為、

脅迫やら何やらすれば違法です。

しかし、ネット上で店に行くことをボイコットさせる運動は、

違法ではないのです。

ただし、威力業務妨害という行為に該当する点は否めませんが、

侮辱を受けたという事実の下で、

ネット上にボイコットを呼びかける場合は、

天下両成敗という観点で、相殺して考えてもいい話です。

いわば裁判で侮辱行為に対して認定する事が難しい内容なら、

その反撃で直接的な妨害の無い流布ならば、

侮辱をされたという事実公表で相手の行為を批難するのは

当然表現の自由の範疇で治めていい事と成るのです。

そしてボイコットに賛同するしないは、

その内容を意識した人が個人的に判断する話に成ります。

逆に店側に同情を抱くのも自由なわけですし…

 

日本人が和の精神を唱えて、

それこそ日本であるとするのなら、

マナーやルールに縛られれずに許し合う精神が一番大事です。

他人は他人、自分は自分で、

自分の価値観を他人に押し付けない事こそ、

社会が和む形です。

寧ろ、権力者のマナーやルールには厳しくし、

特に法に関わり国民の権利を脅かす事には、

妥協するべきではない。

 

日本人の考え方は寧ろ逆で、

国の違反を蔑ろに見て、

社会がルールやマナーを厳しく監視する状態は、

寧ろ個人の自由が認められないどこかの国と同じであると考えるべき話です。

 

と、は言え

ホリエモン…あの程度の餃子店を潰すのに

餃子の食べ放題で挑もうとする発想は、

間抜けに等しい話と言える。

潰すのなら同等の味の店を何店舗か作るのが得策で、

東京や大阪で名のある店を斡旋して、

金を使うのなら出店資金と一時的な運営経費を保障した上で、

それらの名店を尾道に3、4店舗ぶち込むかんじにするのが良い。

 

いわば問題の店が特別に旨いという印象を、

他にも旨い店は幾らでもあるという風に市場心理をもっていくべきで、

一番の効果は、似た様な味の店を多く設けて対抗する事となる。

その方がより強い効果を発揮するという物である。

いわば簡単に真似できる味という印象にして

特別感を喪失させる方法です。

その上でサービスに格差を付ければ、

横柄な態度の餃子店は淘汰され、

潰れて行くのは明白です。

 

経営コンサルタントなどをする意味でも、

あの程度の餃子店一つ潰せないのは、

寧ろ経営心理学に精通していない話なので、

そんなコンサルタントではむしろ弱いという話にも成る。

 

【マスクの着用の話に関して】

義務化は不要と言えば、

トランプと同じ意見に成る。

ただ、個人として義務化は不要とは言えるが、

国としては「不要」では無く、

寧ろ国が個人の自由を守る意味としては

そこに踏み込みたくは無いと表現するべきなのです。

その上で「推奨」という形は与えておくべきという事です。

 

オッサン先生はマスクはしません。

ただ、咳やくしゃみをする際には、

手や洋服で口元を隠す癖があるからと言えます。

ある意味上品にそういう仕草で振舞うからという感じで、

寧ろステイatホームで家に居るようにしているのだから、

外では新鮮な空気を吸いたいということらしいのです。

それで感染したらどうするの?

自分がそれで感染してしまうのは自分の責任です。

まあ、他人に感染させない様に配慮して動くので、

感染しても十分にエチケットは守られている。

よって他人がどうこう言うのは大きなお世話です。

 

マスクをしないので白い目で見るのは勝手だが、

それで文句を言ってきたら、

「マスクしてない相手に公衆の面前で怒鳴らせるつもりか?」

と、皮肉を言って怒鳴り散らすことに成るそうです。

 

マスクをしない事には文句は言いませんが、

最低でも手で口を覆ってクシャミや咳などをしない人には

「汚ねぇ!!」

と、文句を言う事には成るそうです。

 

いわば

「人に唾を飛ばすなボケ!!」

と、言っているだけなのです。

合理的にはそれさえ気を付ければ

飛沫感染の話は防げるわけで、

マスクはあくまで自身の防衛の話と言えるのです。

無論、そういう事に気を使う人を批難はしませんし、

むしろそれに適応できる人はマスクをして頂ければいい話で、

マスクをしている分、クシャミや咳はマスクの中で、

好きなようにして下さいという話です。

 

マスクをしないで罰則って…

マスクをしないのが公然わいせつ罪のように

扱われるのって感じです。

まあ、そうだという頭の可笑しい人も居る訳で、

マスクなんて必要ないと唱える頭の可笑しい人と交われば、

その中間の個人の自由で纏まる方が、

不要な口論で有り喧嘩は避けられると言えます。

 

多くの日本人の間でこうした和を重んじる意識は有ると思うのです。

むしろそれが正論として伝わるべきで、

「社会に不要な口論や喧嘩が発生しない為、

個人の自由を尊重するべきじゃ」

と、言う主張が主流となるべきで、

それこそが民主国家である意義で、

それが霞んでいくなら、

それこそ民主国家に反する社会を肯定している事に繋がると言えます。

 

【中国の監視社会に関して…】

民主国家とは逆の意味で中国の社会が取り上げられます。

中国の政策を今までは肯定的に考えていたが、

善良な行為をポイント化している状態は、

寧ろ残念に感じる政策です。

犯罪を取り締まる意味で監視システムを導入する事には、

反対ではなく、寧ろアメリカであり日本でも強化されつつあるものです。

 

善良行為をポイント化する話自体は問題ないが、

善行を拒否したり、軽犯罪でマイナス化される考え方は、

寧ろ善行を強要している事でも有り、

密告社会で人間が人間を信用できない本質を強化していく意味で、

愚策と言っていい。

中国がこれに気づいて政策を見直すならそれはそれで良いが、

見直さないなら逆に黙ってみていればいいという考えで、

元々の方針に変更は有りません。

 

前にも話したように、中国が一線を越えてしまった時に

中国を攻め立てるチャンスが生じるとしたように、

中国は人権問題で自ら勝手に一線を越えようとしているだけなので、

放置していればその内爆死するという感じです。

むしろ中国の爆死を喜んで見ていて、

自らの溺死に歯止めを掛けようとしない日本を危惧する話で、

これも日本人が溺死していくことに気づかないのなら、

もうそのまま放置して溺死させても良いかなと思います。

でも、自身が日本に居る以上、その災厄は自分にも降りかかる訳で、

簡単に見て見ぬふりは出来ないのも事実。

 

とは言え、気遣いという日本人が本来大事にするべき事が、

気遣いを強要している社会に成ってしまい、

力を持った側が気遣いを受ける側になり、

忖度やら天下り、またはパワハラという事が生じている訳です。

本来は力のある方が弱者を気遣う事がその姿で有り、

気遣いを受けるのが当然では無く、

気遣いを持てる事が一流である条件として認識するべきです。

その上で個人の権利主張は

そうした気遣いの中で認められる社会になれば、

日本のサービスはかつてよりも上回るレベルで向上し、

それによってよりよいイノベーションが生まれて、

技術躍進にも繋がると言えます。

日本の司法でも気遣いの部分が欠落している為、

弱者の主張より、強者の言い訳に寄り添う形に成っている訳です。

それ故に強引な論拠しか考えない故に、

外交でも相手にされない状態が続くのです。

賢く交渉するには、相手への気遣いを用いた上で、

両者の落としどころを策定していかねばならない訳です。

気遣いの無い相手だと正直話に成らない訳で、

日本という国は気遣いの無い主張を繰り返して、

交渉を決裂させているだけなのです。

いわば日本と話は纏められないと言われている訳で、

それを逆上して批難する日本の行為は、

寧ろ気遣いという話を通り越して迷惑な行為に成っているのです。

 

最近までのアメリカのカスタマーサービスは

そういう気遣いの意識に変革されて向上し、

製品にも様々な配慮が技術として投入される故に、

魅力的に感じると言えます。

その背景には企業に対する賠償責任が付きまとうわけで、

司法の気遣いの中で、弱者に対する配慮が

寧ろ企業にいい形の意識を芽生えさせた事例と言えます。

マックの熱いコーヒー事件の訴訟にしても、

タバコの発がん性を表記しなかった件に関しても、

日本人には言いがかりに思える話でも、

実は強者になるべく営利を得る側の責任という観点から、

弱者となる消費者への配慮が厳しく正当化される点を考えると、

当たり前にも成るのです。

その結果、損害賠償を恐れてコンプライアンスが意識され、

よし厳格なカスタマーサービスの充実へと繋がり、

米国の技術革新にも寄与したのです。

日本人は改めてその違いを分析して行くべきなのです。

 

信長が気遣った部分…

結果としてミッチーは謀叛を起こした訳だが…

謀叛が起きたから気遣いは無用だったと考えるのか、

気遣いが有った関係故に家康は信長の盾として、

東海地方東側の安全が保障され、

それによって天下躍進が容易になっていたと考えるべきなのか、

何を利として考えられるかで、

この見方も変わる話と言えます。

 

皮肉で言えば…

揚げ足取って言う事しか出来ない無能者ほど…

光秀が裏切った事を挙げて盛り上がるのだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第八話 戦世】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

吉法師が元服を迎える前に、

この当時の情勢を一度整理しよう。

 

1532年に信秀は那古野城を手中に治めた。

当時21歳であった信秀は清州の織田大和守達勝の怒りを買ったのである。

記録上では信秀がある種独立した存在で記されている様に見えるが、

実際はまだ斯波家を主家とした形式上の体制が維持されていた時代である。

そうした中で織田大和守達勝が実権を握っており、

今川との関係を維持したまま、三河で勢力を強める松平清康に対抗しようと画策していた。

先にも述べた様に、将軍家の義澄派から義材派に切り替えたのも、

その関係性を意識してのものであった。

その矢先に信秀は今川竹王丸から那古野城を奪ったのだ。

そこに如何なる事情が有ったかは清州の達勝は知らない。

寧ろ若気の至りで、尾張を取り巻く情勢も考えずに、

ただ目先の利益に捉われて行動したと思ったのだ。

 

松平清康の勢いは尾張でも大いに危惧されていた。

僅か12歳で家督を継いだ清康は、

隠居していた祖父・松平長親と

実質、家中で実験を握っていた家老・酒井忠尚(将監)の力で、

三河を転戦し、14歳の頃には岡崎城を別の宗家松平昌安から奪い取っている。

この時、宇津忠茂という家臣が岡崎の支城山中城を攻略して後に、

松平昌安に降伏を持ちかけるように進言しており、

その策が功を奏したと言われる。

この宇津忠茂が後の大久保氏の祖となるのだ。

まだ若い時分の清康は

後の家康を支える一族、酒井、大久保、更には本多らの活躍で、

その地盤を築けたとする方が現実的で、

特に酒井忠尚の存在は、

清康の父信忠を隠居に追い込んだ上で清康に家督を譲らせた人物で、

後に今川義元に三河が併合された際、

この忠尚は元康(徳川家康)とは別扱いの勢力として扱われていた実力者となる。

桶狭間以降、元康が三河で独立を果たすと、

忠尚は元康に反旗を翻しその身を追われるのだが、

今川への恩義の為か、織田方に与する元康に嫌気が差したのかは定かでは無い。

ただ、この人物が若い清康を支えた軍師で有った可能性は高いと見る。

若年の清康を支えたもう一人の人物は、清康の祖父に当たる松平長親で、

長親は且つて今川氏親が伊勢盛時(北条早雲)を総大将として三河に攻め込んできた際、

奮戦してこれを退けている。

松平長親は隠居したもののそのまま実権は握っており、

酒井忠尚は清康より寧ろ、三河の英雄として敬愛する長親に忠誠を誓っていたとも言える。

 

そうした長親と酒井忠尚を師として成長した清康は、

1529年18歳位に成るとその才覚を発揮して三河をほぼ手中に治める。

自ら陣頭に立って攻め込む

勇猛果敢な清康の戦ぶりは尾張にも聞き及ぶほどであった。

1526年今川氏親がこの世を去り、

その嫡男氏輝がようやく16歳に成った頃で、

今川の実権も氏輝の実母・寿桂尼から

氏輝に少しづつ移行されて来る時代でもあった。

故に今川にとっては実に危うい時期に清康が登場している。

 

丁度、今川氏親がこの世を去った1526年には、

信秀の父、いわば信長の祖父・織田信定と

松平長親の三男松平信定の間で姻戚関係が結ばれている。

この出来事は清康がまだ15歳の時の出来事で、

裏では松平長親の意向が働いたとも言えるが、

寧ろ松平信定が自ら提言して行った外交と見ても良く、

清康の後見人であるその父・長親はこれを支持する感じであったと考える。

 

この外交によって松平信定は津島の資金が背景にある、

織田信定より支援を受けることに成り、

その見返りとして当時松平家が所領していた守山城を、

織田信定に譲った形である。

三河の松平家としては尾張で実力を持ちつつある

織田弾正忠家を抱え込み、

尾張との国境を安定的に固めた上で、

今川の遠江、駿河を伺う体制へと考えたのであろう。

現実的に長親にとっては今川との因縁を考える方が強く、

積年苦しまされた氏親がこの世をさり、

若い後継者問題で揺れるだろう事を想定とした

外交戦略として捉えたとしても不思議ではない。

実際に長親はこの三男の松平信定を溺愛しているほど、

聡明な人物と考えていたようで、

織田弾正忠家と結ぶことに気づいた点を評価されても可笑しくはない。

 

しかし、長親は家督を清康にした責任も感じていた。

故に松平家の行く末を考える上では清康中心である事が望ましい。

18歳に成って勇猛な武将に育った清康は、

長親にとっては頼もしい人物に映ったことであろう。

故に、長親自身、溺愛する三男信定と、期待する孫の清康の間で、

色々心が揺れ動いたと思われる。

 

実際にこの松平長親、名を改め道閲(どうえつ)とするが、

早い時期に隠居し家督を譲って、権力は一応握っているが、

必ずしも自身の考えで推し進める感じでもない不思議な人物に見えてくる。

様々な記録を読み解く上で、家臣らの言葉によく耳を傾ける人格者に見えてくる。

いわば徳川家康が引き継いだ基礎的な部分は、

この松平道閲から来るのではと思えてきた。

 

道閲が隠居を決めた時期は、早雲こと伊勢盛時に攻め込まれそれを退けた後で有るとされ、

その功績に多くの家臣たちの奮闘があり、

必ずしも自分の采配で勝ち取ったものでは無いと意識したのか、

松平家を盛り立てて行くのはそういう家臣たち支え合っての事と察したのか、

家督を譲り、それを支えて行く家臣たちの成り行を見極めようと考えていたようにも思える。

と、は言え、

結果、直後には松平家は今川に吸収されてしまうから評価を受けないのか、

それともその後、松平家は家臣の団結によって躍進していくことに成る点を評価するべきなのか、

そこは読み手の感性に任せるものとする。

 

長親こと道閲や松平信定の尾張と結んで遠江・駿河を狙うという意図は、

清康には理解できていなかった。

連戦連勝に浮足立つ清康は今度は尾張の方へとその意識を向けた。

1530年には岩崎城(名古屋駅から東へ10Km先の現在の日進市)から

北上して品野城(現在の瀬戸市、日進市から北東に10km)へと攻め込んでいる。

 

こうした尾張東部での松平清康の動きを警戒して、

清州織田大和守家の達勝は今川との連携を深めようとしたわけだが、

それを信秀がまんまと台無しにしてくれたのだ。

後継者問題で揺れると思っていた今川は、

以外にも寿桂尼が後見となって上手く纏まっている。

それ故に今は今川との関係を大事にしたかったのだ。

それ故に出しゃばった信秀に腹を立てた達勝は、

織田藤左衛門家寛故(ひろとも)と共謀して信秀に戦を仕掛けた。

これが1532年の出来事故に、

この小説では信秀が那古野城を奪った年を1532年としたのである。

 

無論、達勝の怒りは信秀の出しゃばった行動に有るが、

他にも津島を得て、更に熱田まで得た織田弾正忠家の勢いを

警戒した点も含まれる。

故に、織田寛故には那古野へ出兵させ、

その暁には那古野を渡すことで話を付けていたと思われる。

 

戦国時代の戦い方には明確な記録が無い。

そういう中で部隊編成などを計算すると、

部隊兵1000人当たりに、部将1名、副将2名、部将と副将の供回り27名の30名。

騎兵50名~100名、弓兵100名~150名で、

ここまでが武家とされる人数。

10名単位の小隊長が70名が武家に含まれるかは勢力単位で異なるところし、

残りの700名は農民徴兵のような形だ。

 

この計算は1000人単位の部隊が機能的に動く状態を想定したもので、

100人単位に小隊長を置く編成も有ったと思われる。

 

しかし、尾張という小国の内戦で態々農民を徴兵して戦う事は考えられず、

織田寛故が送った部隊はせいぜい多くて500人程度で、

下手したら300人位であったと考える。

300人程度でできる攻撃は、

信秀の居城と成った那古野城下を焼き払う程度で、

城下と言っても密集した街では無く、

寧ろ農村の田畑を焼き討ちして

那古野城に籠る信秀の部隊を挑発した感じであったと言える。

 

その信秀も大事な田畑を無駄に消失する事は嫌い、

すぐさま同等の300人程度の手勢でこれに挑む。

 

戦争と言うより抗争…いわばヤクザのそれの様なものである。

寛故の兵が田畑に火を掛けようとするのを、

信秀の兵士が見つけてそれを追い払う。

寛故の兵が逃げ出すのを信秀の兵が追いかけると、

近くに居た伏兵がそれを攻撃する。

こうした流れで信秀は野武士を雇って今度は清州の田畑に焼き討ちを仕掛ける。

また寛故の動向を探り、隙を見て敵の頭を直接狙う機会を探る。

それは寛故の方も同じで信秀の命を狙うのだ。

 

この時まだ存命であった信秀の父・織田信定は、

織田達勝に和解の話を持ち掛けて、

国内の混乱を収拾しようとした。

 

織田信定は達勝に、

 

「三河の清康が勢力を伸ばす中、

尾張国内でこの様な内戦がある事は寧ろ清康にとって好都合では?」

 

と、説きかけると…

 

「それは弾正忠家が熱田を抑えるための良い訳であろう」

 

と、達勝は反発した。

すると信定は…

 

「三河には綻びが生じており、

我が弾正忠家はその綻びを支援する事でこの事態に備えています。」

 

いわば、松平信定の方と縁組した件を言っている。

さらに信定は、

 

「弾正忠家は主家に忠実であり、斯波家再興の方策を考えております。」

 

達勝は黙って聞くしかなかった…

それほど愚かでは無い。

寧ろ、信定の脅しを察した。

いわば力のバランスでは既に弾正忠家が尾張最強であり、

その尾張最強が三河と手を組んで大和守家を

追い出すことも出来るという意味も含んでいた。

下克上とはそういう時代である。

そこで信定は、

 

「尾張の国が一丸となってこの問題に挑むのか、

それとも尾張を分断して滅ぼすのか…今、ご決断ください。」

 

隠居するとはこういう事である。

いわば家督を継いだ信秀の意思では無いが、

隠居者の権限でそのように動かすことはできるという事。

それは隠居者の決断であって、家の裏切りでは無いという意味も生み出せ、

仮に不義理な結末となっても全ては隠居者の責任としてしまえば良いのだ。

 

達勝は若い信秀より、むしろ弾正忠家をここまでにした信定を恐れた。

那古野を得たのは寧ろ信秀の考えによるところが大きいが、

信定はこの時代に力を求める信秀を支持していた。

故にこの問題で清州の大和守家が足を引っ張ることに歯止めを掛けたいのだ。

 

そして達勝は和議の条件を提示しようと口を開いた。

 

「では…」

 

そこまで言うと、信定は、

 

「では…?…はて…大和守殿がこの件を直ぐに治めないのなら…

上様(斯波義統)に奏上してお話を纏めてもらいましょう。」

 

と、立ち上がってよ斯波義統の所へ向かう姿勢を取った。

すると達勝は、

 

「わかった!!和議を結ぶように藤左衛門(寛故)には伝える!!」

 

と言い放った。

無論、信定はそれだけで事を治めない。

 

「では、直ぐに上様にこの件のご報告を致しましょう。」

 

と、言って義統を証人として話をまとめる方向に持って行った。

達勝には何もできない。

仮にここで信定を反逆者に仕立て上げても、

信秀が本気で清州を目指ざす口実を与えるだけで、

三河の清康を目の前に控えて、

逆に尾張を弱地化させる話にしか成らない事は察せられたからだ。

 

和議は主家の斯波義統を交えて結ばれた。

信定は礼儀として大和守達勝を立てて、

信秀と寛故が勝手に始めた戦と説明し、

達勝がこれを上手く治めてくれるという形で報告している。

そして信定は問題の一点は弾正忠家にもある事を詫びた上で、

斯波家再興の為に尽力を尽くす気持ちとして説明した。

義統は、信定の忠義に感謝し、達勝に和議を取りまとめるように指示した。

 

こうして弾正忠家信秀と、藤左衛門家寛故、

そしてその背後の大和守家達勝の間の和議が成立した。

記録上でも1532年に起こった紛争は両者の和議にて直ぐに治まっている。

 

一方、三河の清康は、叔父である松平信定の考えとは逆に尾張を目指した。

実は清康の見識の方が信定より優れていたとも考えられる。

いわば今川は今、家督問題で揺れており、寧ろ三河への進行は無いと踏んだのだ。

また自身が幼い時分、家臣団に支えられて三河平定にこぎつけた様に、

駿河は寧ろ家臣団が団結している状態と考えた。

その点、尾張は大和守家と伊勢守家が一枚岩でない事と、

その大和守家も弾正忠家の台頭に揺れ動いている。

そういう意味では駿河、遠江の今川より、尾張の方が狙いやすいのだ。

更には尾張は美濃の斎藤利政(道三)とも争っており、

美濃と呼応する事で狙いやすいという点もあった。

寧ろ今川の背後には伊勢盛時の立てた伊豆の北条家が有り、

そういう意味では今川はあえて刺激せずに、

尾張を先に得た上で後に今川に対抗する事を考えたと言える。

その際に美濃との同盟が確立すれば、

寧ろ尾張と今結ぶよりも有利に成ると言えた。

 

人の見方は様々である。

いわば「十人十色」と簡単に言いそうであるが、

自身の存在を他人がどう見るかは、中々気づかない。

また世の中には正解という答えが無い故に、

人は自身の考えに固執する。

 

清康は強すぎた。

強すぎる事は味方にとっては頼もしくも感じるが、

敵にとっては脅威である。

 

松平信定はやはり三河との同盟に興味を示す

尾張の弾正忠家と結ぶことが得策と考えていた。

現状、今川は家督が代わって揺れ動いているだろうが、

北条との同盟を考えれば寧ろ、

京を目指す西に興味があり、

三河はどうしても外せないルートと成る。

 

勿論、清康と信定の間には確執もあった。

1530年の尾張侵攻の後、東三河に

清康が、福釜松平家親盛と共に、宇利城を攻めを行った際に、

窮地に陥った親盛親子を松平信定が救わずに見捨てたとして、

清康は信定を大叱責した。

実はこれらは「三河物語」に記されており、

大久保忠教が1626年以降に変遷した内容である。

太田牛一の「信長公記」同様に、

年号と事件の関係性を見る上では参考に出来るが、

清康、広忠、家康の系図を好意的に描く意味で、

一方的な見識が有ると思われ、

一部では情勢、状況に辻褄が合わなくなる。

特に「森山崩れ」という清康の死を描いた部分には、

不明な点が多い。

 

宇利城の話は否定するものでは無いが、

実際に信定と清康の確執は、

清康が尾張を目指した時点で発生しており、

お互いが険悪な状態であったことは察せられる。

 

尾張東部の攻略から、

一転して三河東部の攻略に切り返した背景を察すると、

尾張攻略に対して今川に和平の使者を送っていたが、

結局、何の返答も無く態度が曖昧であったため、

宇利城を攻めて牽制した。

信定(松平)は今川が清康の申し出を受ける事は無いと踏んで、

尾張侵攻を寧ろ咎め、尾張弾正忠家と結んで今川に備えるべきと

主張していた背景は見える。

 

結果、その後も今川からの返答は無く、

寧ろその抑えとして今川を牽制する為に、甲斐の武田信虎(信玄の父)と結んで、

信虎に今川を攻撃するように働きかけた。

 

さて…読み手の人々もお気づきだろうか…

こうした状況に清康は陥った訳で、

駿河・遠江の今川と尾張を敵に回し、

まんまと挟まれた形に成って膠着したのである。

寧ろ、信定(松平)の見識の方が無難であると見えてくる。

 

松平信定と結ぶ話は、織田弾正忠家が進めていた。

寧ろ織田達勝の見識は、清康が孤立する事に有ったといえ、

ここで今川と結んで三河を挟撃すれば成果はあったかも知れない。

いわばその目論見は弾正忠家信秀が今川方の那古野城を落とした事で、

大いに崩れていますのだ。

 

今川方からすれば、1530年の時点では

尾張斯波家との和睦はまだ継続していた状態で、

織田達勝が将軍家の支持方を今川に合わせて足利義維派に転じた事で、

寧ろ今川は尾張との関係を意識した。

※足利義維派は、12代将軍足利義晴の反対勢力で、

細川晴元の支援を受けて堺公方となる側。

 

清康の目論見が外れるのはこの状況故の事で、

織田弾正忠と繋がっていた松平信定は、

恐らく察していた話となる。

 

清康がこの時点で現実を踏まえて、

信定の意見に耳を傾けていれば、

時代は清康を迎え入れたかもしれないが、

清康は同族の信定も弾正忠家も信頼する事は無かった。

 

1530年頃は京の方で異変が起こった時期で、

堺公方の三好元長と細川晴元が対立し始めた時期である。

ある意味、16歳と思春期の若い晴元の後ろ盾として存在した、

三好元長(長慶の父)は家中の実権を巡って、

柳本賢治と、三好家嫡流の政長と対立する。

先にも述べた様に、三好長慶は堺と繋がり、その支援を受けていたとしたように、

その父・三好元長も実際に堺との繋がりで力を得ていた。

その元長の活躍で足利義晴の後ろ盾である細川高国を追い込んだ訳だが、

元長の主導で、潮時と見て有利な条件で足利義晴との和議を目論む。

ところが若い晴元(当時六郎とされる)は他の家臣団の主張に押され、

寧ろ自らの立てた足利義維を将軍にすることに拘った。

そうした中で、元長は晴元の側近としての地位を追われ、

阿波に下向した。

元長の下向によって、晴元らの軍は大いに弱体化したようで、

結果、追い詰めたはずの細川高国らに挽回を許してしまい、

寧ろ自身らが窮地に立たされる。

それを救ったのがまたしても三好元長で、

元長の復帰で、晴元側は息を吹き返し、

再び細川高国らはそれに押され始めて、

1531年には結果、再び追い込まれた高国は自害する事となった。

 

結果として三好元長ありきで勝利した細川晴元の陣営は、

細川京兆家としての元凶である高国が居なくなったことで、

今度は勢力としての元凶に三好元長を見据えた。

無論それは細川晴元が勝手に抱いた猜疑心から来るもので、

また元長の功績に嫉妬した無能な家臣団の嫉妬が齎したモノと言える。

寧ろ元長に晴元に対する忠義が無いのなら、

自分が阿波に下向して窮地に立たされた晴元を救う事などせずに、

晴元らが滅んだ後に高国と和睦するか、もしくは高国を追い詰めるかの

何方かを選択すればよかった。

そうはせずに晴元を救ったのは、元長に忠義の心が有ったからといえ、

結果、晴元の謀略にはまって命を落としているのだ。

その謀略とは晴元が一向宗の本願寺証如(顕如の父)と結んで、

堺付近で一向一揆を勃発させ、

いわば堺を救済する為に動く元長をそこで始末した。

記録では一向一揆に押されて死んだ形に成っているが、

恐らく一向一揆に紛れて暗殺されたとみる方が可能性が高い。

いわば戦略・戦術に優れていた元長が、

一向一揆との戦いで苦戦の末命を落とすとは考えにくいからである。

 

元長を始末した晴元にとっては、高国が死んだことで、

今度は足利義維も不要に成ってくる。

寧ろ京の混乱を収拾する意味では、現将軍義晴と和睦する方が賢明で、

その為に自分の傀儡であった義維を阿波に流すことで決着をつけた。

 

ここまでが1532年の出来事である。

信秀が那古野城を1532年に手に入れたとする場合は、

中央の実情とは関係なく、寧ろ若気の野心によるところが大きいと見る。

しかし、その父・信定が達勝と和睦を計る際は、

中央の動向は引き合いに出したと考えられ、

三好元長の死が1532年7月後半とされるなら、

その年の10月くらいには足利義維の動向は堺から商人伝えに、

織田信定の耳にも入っており、

達勝に方針転換を迫る口実とする事も出来たと言える。

 

無論、1532年の達勝と信秀の争いは、

指示する将軍家の方針転換が起因で有ったとも考えられ、

その後に三河の清康の脅威が消えた事で、

信秀が1538年に那古野を落としたという説も否定は出来ない。

しかし、この場合、清州の大和守家が黙って弾正忠家の領土拡大を

認めるとは考えにくい点もあり、

当小説では1532年那古野陥落説をそのまま採用して、

流れを検証するものとする。

 

1535年今川が甲斐の武田信虎と争い始めたのを機に、

清康は尾張の守山を目指して軍を動かした。

その数は8千名とかなり大掛かりな部隊であったとされる。

しかし、今川の武田との戦には相模まで支配した伊勢盛時の子、

北条氏綱が共に動いており、

松平信定だけでは無く、後見人で清康の祖父・松平長親に

長親を慕う酒井忠尚も、

清康が喜ぶほどの成果は無いと踏んでいた。

寧ろ、尾張と駿河・遠江の板挟みとなる点を危惧した。

 

さて…この後、森山崩れという出来事によって、

清康はその命を落とすことに成るが…

果たしてその謀略の実態は…

織田信秀の実弟、織田信光の内応によってという話も、

それに清康が易々と乗っかるとも思えない。

如何にして清康は計に嵌められたのであるか・・・

 

キーマンはその清康を切ったとされる、

阿部定吉の子、阿部正豊であり、

彼が何をもって主君を謀殺したのか…

謎めいた実態を紐解いていかねばならない…

 

どうも・・・ショーエイです。

さて…日本では日本学術会議の問題に、

ちょっと気に成るのが伊藤詩織さんの事件。

アメリカではいよいよ大統領選が始まります。

 

【日本学術会議任命の件】

日本学術会議任命の件の良い訳として、

宦官・菅が言い出した言い分は、

「憲法15条第一項があるから、選任や罷免の権利がある」

というものです。

では、憲法15条を見てみます。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm#3sho

原文の参照は↑のサイトをご覧ください。

憲法15条 

1項(本文) 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人はその選択にも責任を問われない。

 

確かに1項だけを見ると、日本国民なら誰でも公務員を選定したり罷免する権利を持ってます。

と成ると・・・誰でも好きに内閣総理大臣を首に出来るという話?

1項だけの話を独り歩きさせると、とんでもない意味に聞こえますが、

権利を有する故に、その権限のある人の責任は問われないというのが基本文です。

ところが2項の内容が付与されると、

公務員は全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者であっては成らないとあり、

内閣総理大臣も公務員として、個人的な恣意または見識で

公務を行っては成らないと歯止めがかけられています。

いわば国民として選定したり罷免する権利は有りますが、

公務員として理由なき行為は禁止される。

いわば全体の奉仕者として国民全体に公平に成る様にしなくては成らず、

その公平性は法的な規約に基づいた行為故に、

公平性を証明できる話に成ります。

それが無い場合は、一部=自民党の都合に奉仕した行為と成り、

違憲に成るのです。

 

実際に任命に関しては拒否権は付与されておらず、

日本学術会議の選定、任命に関しては法で記された通りであります。

これを国民の権利と称して、任命拒否を行った宦官(菅)は、

公務員として義務を放棄し、

更にはそこへの言及を避けてその行為を憲法15条1項のみの理由で

正当化しようとした行為は、

憲法12条違反 「憲法を乱用した行為」に該当する為、

弾劾に値する行為であると認定します。

 

さすがは宦官・菅、

再び「馬鹿」の故事を用いた訳ですが、

こんな「バカ」の故事に成る様な首相を放置する国民は、

バカによって衰退する運命と諦めるしかないのでしょうか…

バカな政治家は淘汰する方が国の為なので、

馬鹿を用いたバカというレッテルを貼って、

信用しない様にすることをお勧めします。

いわば馬鹿の故事に成った宦官・菅を

「馬鹿」だと誰もが堂々言える状況に成ったのは言うまでも有りません。

名誉棄損でも何でもなく、馬鹿の故事を宦官・菅がしたから

菅は馬鹿だといっても良いのです。

 

因みに憲法第15条の1項は国民全体としては、

不正等の立証により

裁判によって罷免する事が認められた意味で有り、

選任という部分は、3項に記された様に

普通選挙によって議員と言う公務員を選ぶ意味での権利です。

内閣総理大臣が1項の権利のみで好き勝手に人事をする事は、

自分の恣意的判断で全てを行うことに成り、

公務員として全体の奉仕には成らず、

一部どころか自分個人へ奉仕する行為に成るという事です。

こうした独裁色が生まれる意味を阻止するモノとして、

2項が存在する訳で、

内閣総理大臣は国民で有る前に、

公務員である事を自覚せねば成らない話とも言えます。

 

まあ、こういう事を理解していない政治家である意味でも、

宦官・菅は馬鹿と言い切っても良いと思います。

 

 

 

【伊藤詩織さんのセクハラ事件】

さて…多くの人が

「まくら営業」という言葉に疑念を抱くと思いますが、

「まくら営業」が成立する過程を考えて見て下さい。

まくら営業は、権利であり権力を持った相手が、

その行為によって人選の判断を行う事で成立するモノで、

営業を掛けた側の意図は、

その心情を計る意味としては真意を見極めるには難しく、

むしろ力による圧力の過程が成立する事実のみを参考に考えるべきです。

 

いわば力を持っているからそういう環境を利用できるのであって、

力に従う側はそこに忖度する必要性が必ず生じるという事です。

 

とは言え、力を持つ側が、

相手に愛情ないし何らかの配慮を持っていたのなら、

その行為は憂慮されるべき話で、

それが明確に示されないのなら、

いわば約束の代償=相応のプレゼント等が

発生していないのなら、

力による強要で相手の権利を侵害した

だけの行為と見なされるべきなのです。

 

いわば俗語で言う「やらせた」場合でも、

やった側は快楽という利を得た訳で、

そこに行為に対する「対等性」が成立しなければ、

「やらせた側」は不快を得た上、快楽に利用されただけの心情が残り、

「やった側」にいい様に扱われたという侮辱だけが残る訳です。

寧ろ、「やった側」は快楽を得たこととその優越感を得るわけで、

行為自体の中に「心の対等性」は無いと言えます。

 

やった側に恋愛感情がある場合は、

それ相応にその事を感謝する気持ちが出るものと思われ、

その気持ちを受けるか受けないかは相手側の裁量と成る為、

この場合の「心の対等性」は成立するものと考える。

 

現状、裁判の証言で、心の対等性を示す部分は感じられず、

相手が被害者に一方的な言い分で、

寧ろ被害者を誹謗中傷した感じに成っているため、

被疑者に同情する話ではない。

ハッキリ言って男として恥じる存在である。

と、オッサン先生ですら言ってます。

 

男性であり女性で有っても、

力に寄り添ってくる可能性の有る状態で、

それに乗っかったとしても、

その相手を配慮する気持ちが無いのなら、

そういう事をするリスクは考えるべき話である。

寧ろ人として、異性として大事に考えるのなら、

それ相応に「心の対等性」を示すのが、

リスクを回避する意味での証拠になる。

そういうケアが出来て、男としては紳士となる。

 

寧ろこういう紳士的な考えのない男性は

逆に恥ずかしいので淘汰されて欲しいとも言える。

これは現代社会では女性側も気を付けるべき話で、

淑女では無いにしても才女として考えるべき事とは言える。

 

紳士的な姿勢が示されないのなら、

そこに「心の対等性」は意識されていないと判断するのが賢明で、

それが心的外傷を与える要因となる事は、

「相手を思いやる気持ち」を考える日本の常識として、

理解するべき事と言え、「和」を語るのなら、

寧ろそういう考えは浸透させるべき意味を持つ。

 

また被疑者に同調して、ツイッターで「いいね」した行為は、

法律上で裁くほどの意味は難しいが、

法律上で問題視された時点で、

そういう考えを世の中に示した行為は、

寧ろ、社会が人間性を疑う部分として問題視するべきである。

政治家であるなら寧ろ政治生命を絶ってしまう方が良い。

 

【アメリカの大統領選】

2016年のトランプvsヒラリーは、

嫌われ者同士の選挙で、

何方がベター(マシ)かで争われた。

2020年のトランプvsバイデンは、

嘘つき同士の選挙であるが、

何方に成った方が

敗者側の心情をより絶望感に浸らせるかで考えた方が良い。

 

恐らくトランプの再選は、バイデン支持者を絶望感に浸らせる

完全に米国を分断する結果と成るだろう。

そういう意味ではバイデンが勝つ方が、

トランプ支持者はまだ絶望的に感じない。

そういう選挙と言える。