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ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

【第十三話 真実なる嘘】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は騙されまいと構えると、人を疑って見るものだ。

また信じがたい話を聞いた時、嘘だと思ってしまう。

 

農民の悪ガキ達と吉法師らは秀隆の用意した餅を囲んで集まった。

餅と言っても水っぽい米を叩いて潰したようなもので、

ある意味質素なモノだったが、

農民の子らにとっては嬉しいおやつの様なものだ。

見ず知らずのもの同士が打ち解けるには良い切っ掛けと成った。

そうした中で沢彦は農民の子らに、

 

「どうじゃ…今回の勝負でわしの連れてきた子らの実力は解ったじゃろ。」

 

すると農民の子の一人、小平太という者が、

 

「確かに剣術はスゲェな。どこであんなの教わったんだ?」

 

「まあワシの寺の萬松寺なら当たり前じゃぞ。」

 

と、吉法師たちに目配せしながらそう語った。

 

「寺であんなの学ぶのかぁ…面白れぇな。」

 

そして沢彦は、

 

「どうじゃ吉法師を頭に、戦遊びの部隊に成るというのは?」

 

と、興味を持った小平太に聞くと、

 

「でも、オラたちの頭は新介だで…」

 

すると吉法師が、

 

「そいつの事か?」

 

と、先ほど自らと勝負した新介を差して聞くと、

 

「ああ、そいつが新介だ。」

 

と、答え、

 

「新介もオラも武家の子じゃで、商人の子の下だとな…」

 

いわば農村に暮らす下級武士の意味である。

所領や城内に常駐する武士以外にも、

農民の中で手柄を立てた者は、武名をその褒美として与えられる。

所領を与えられるわけでは無いが、

農村の中である程度の地位が保証されるという特典のようなものが有ったと考えられる。

戦国時代の各地に存在した下級武士とはそういう位置取りであったと考えられ、後の羽柴秀吉の出自が農民だったか下級武士だったかと両方の見解があるのは恐らくそういう実態ゆえの話で、実際に所領を得ている武家からすれば、何れも農民と考えられていたとも言える。

と、は言え、

上から眺めればそれは同じ農民であるが、農民の立場で下から言えば、全く違う存在と成るのだ。

故に新介や小平太にはその武家としてのプライドがあった。

武家が商人の下に付くなどと言ったものだろう。

 

沢彦は彼らに寺で預かっている商人の子らと吉法師を紹介していたため、農民の子らはそうだと思い込んでいた。

むしろこちらの方が真実味の有る話で、

事実を知らないのなら、

嘘でもその方が納得が行く話に聞こえるのだろう。

 

しかし、小平太の言葉に吉法師は対抗心を抱いた。

 

(武家? 俺は那古野の城主でその上に立つべき者だ!!)

 

まだ子供ゆえに当然と言えば当然であるが、

吉法師にとって沢彦が指示したルールなどどうでも良かった。

寧ろ、戦遊びが出来るなら何でも良いと言った感じだろう。

その上で寧ろ武家だからという理由で、

新介や小平太らが自分より上だという言葉に苛立った。

それは吉法師以外の岩室らも同じだ。

しかし、岩室らは寧ろ大人っぽく成長していて武士としての余裕があった。故にこれは遊びで、沢彦の示した指示を演じ切るつもりだった。

彼らからすれば小平太らの「武士」だという話を寧ろ冗談のように流せたのである。

ところが吉法師はムキに成るのだった。

先にも話したように、人間への差別意識はない分、小平太が答えた理由が寧ろ気にいらなかった。

いわば「武家だから商人の下には付けない」という言葉である。

ならば武家というよりその頂点に位置する那古野城主として、

その下級武士に従う理由もない。

勝負には自分が勝ったという事で、

吉法師からすれば決着が着いた話なのだ。

 

それ故に吉法師は、

 

「俺は那古野城主吉法師ぞ!!武家という理由でモノ申すなら、俺に従え!!」

 

と、言い放った。

新介はまだ少し朦朧とした状態が残っている。

その代わりに小平太が、

 

「何を言い出すだ…おみゃぁら(お前ら)商人の子らだっていってたでよ」

 

吉法師がそう切り出した以上、岩室らも吉法師に従い、

岩室が、

 

「いや…あれは沢彦坊主の嘘じゃ!!」

 

すると農民の子らはその沢彦を見た。

すると吉法師は沢彦に

 

「沢彦!!なんとか言え!!」

 

と、催促する。

しかし、沢彦はとぼけて、

 

「ワシは知らんぞ…今は商人の子として預かっておるからな…」

 

と、あえて言葉上、嘘に成らないとぼけ方をした。

秘かに沢彦は子供らのやり取りを面白半分に眺めていた。

すると農民の子らは、

 

「ほら、商人の子だと言っとるがや!!」

 

農民の子らは、言葉上のニュアンス関係なかった。

寧ろ、沢彦が商人の子と認めたと解釈する。

そして小平太が、

 

「それに殿様がそんな恰好で村に現れるだかぁ?その方がオカシイだで…」

 

と、指摘した。

いつの時代もネット上で繰り広げられる話と同じである。

読み手も吉法師たちと同様に、吉法師の素性は知りうる話であろう。

しかし、農民の子らはその素性を全く知らない。

明確に証明でも出来ない限り、信じさせることは難しいのである。

また吉法師も証明するものは今何も持ち合わせていない。

沢彦が萬松寺満にそれらしいものは置いてきたからだ。

そこで沢彦は吉法師に、

 

「自分で城主と名乗った以上、それを自らで証明せねばならんぞ。」

 

と、吉法師にけし掛けた。

すると吉法師に味方する岩室らが、

 

「成らば俺らがそれを証明する!!」

 

と、吉法師を援護する。

吉法師の家臣として育った岩室からすれば、吉法師がそう名乗った以上、それに従う方に切り替えたのだ。

しかし小平太は、

 

「そんなこと言われたぇて、嘘言って騙そうとしとるだが…信用なりぁで。」

 

更に、

 

「殿様だろが何だろうが、武士なら刀の一本ももっとるだりゃ、だったらそれを見せてみりゃぁでよ。」

 

と、反論した。

そう言われると吉法師は沢彦に、

 

「沢彦!!刀を返せ!!」

 

と、言う。

沢彦は再びとぼけて、

 

「刀かぁ…寺にでも置いてきたかのう…?知らんなぁ…」

 

と、言った。

すると吉法師は、

 

「ならば後で証明してやる!!少し待ってろ!!」

 

と、言い放つと、

沢彦が、

 

「それはダメじゃ!!交渉の場に於いて、証明できぬ話をした以上、その責任はその場で取らねばならないぞ。その場でそれが証明できぬのなら偽りであってもその偽りのまま交渉せねば成らない。」

 

と、少し難しい説法を唱えた。

吉法師には難しい説法などまだ理解しえなかった。

しかし吉法師は反論した。

 

「何故、今証明できなければいけないのだ!!後でも証明すればいいだろう!!」

 

沢彦は更に難しい論法繰り返した。

 

「一期一会、機会は一度と思われよ。仲間にする者がここに居り、時を得てしまえばこの者たちが再びここに居るとは限らんのじゃ。一度得た機会を最大限に活用せねば、大事な交渉は逃げて行くぞ。」

 

という感じで説明はしたものの、

吉法師の表情は理解している様には見えなかった。

そこで沢彦は解りやすく、

 

「そなたはワシとの約束事を無視して、自分自らでこの地を治める領主と名乗ったのだ…城主として領主である以上、その民から疑われたままこの場を去るつもりか?」

 

沢彦は寧ろ吉法師の誇りに訴えかけた。

吉法師もそこを刺激されて何となく理解はしたものの、どうして良いのかが思いつかない。

沢彦はそこまで意地悪するつもりも無く、寧ろここで何か吉法師に教えておくべき事はあるかを考えた。

そこで教育者としての沢彦は小平太に、

 

「ならばそなたらは領主さまに何か望みはあるか?」

 

と、聞いた。

そして吉法師に向かって、

 

「そなたが領主ならばその願いを叶える事で証明出来よう、それならどうじゃ?」

 

と、言うと、

吉法師は、

 

「ああ解った。何でも言うてみろ、叶えてやる!!」

 

そこで小平太は少し考えて、

 

「成らば今すぐ雨を降らせてみろ!!」

 

と、子供らしく難題を吹っかけた。

それには沢彦が、

 

「それは領主の仕事では無い。仏の仕事じゃ。」

 

と、先ずその話の方向性を修整した。更に付け足して、

 

「そなたらも武士であり、真の武士に憧れるなら無理難題は申さぬことじゃ。何でもと言って何でも叶うと思うのは無知な証で武士では無い。」

 

小平太も難しくは解らないが、沢彦の話をそれなりに理解した。

 

「節度を以て武士として申すのなら、相手が領主としての真実を証明しうる所で何かを求めて見よ。それが武士の証ぞ!!」

 

と、少し小平太の心を煽る様に説いた。

これも交渉術のなせる業だ。

 

最近の政治家でも同じだが、「何でも」という言葉の様に、言葉尻を捕まえて議論に持ち込もうとすることが多々に有る。

「何でも」といったから「何でも叶えられるんだろう」という意味で相手と渡り合っても、結果、そこは不毛な言い争いでしか無く、本題としての目的を逸脱したものでしかない。

道理として本題は、「吉法師が領主で有る」という証明な訳で、その証明が適う話であれば双方が本来問題とする事は解決するのだ。

何が主題として議論されているのかを明確にして、その主題を解決する意味で語り合えない議論は、すべて話が逸れて本末転倒になるだけの流れで意味が無い。

日本の政治家は与野党共にここに陥るだけで、結果国民には主題の結論があやふやなまま終始するのだ。

大半の国民がそれで納得しているのなら絶望的だが、実際は大半の国民が呆れている様な状態なので、日本人の本質はまだ正常だと信じたいところだ。

 

小平太は沢彦にそう諭されると、

ある意味他の農民の子らに自身は武士であると言った以上、

それ相応に示す必要性を感じた。

 

「ならば…」

 

と、何か言葉を考えて、

 

「田んぼに水が欲しい」

 

と簡単に答えた。

すると吉法師が、

 

「沢彦坊主が言った通りで、俺は仏では無い。だから雨は降らせられない。」

 

と、言うと

それに沢彦が、

 

「雨を降らせる話ではないのだろう。治水の話じゃな。」

 

と、小平太の話を纏めて伝えた。

その言葉に吉法師は、

 

「治水?」

 

と、聞くや、

沢彦は皮肉たっぷりに、

 

「お主は学問をせぬからな…そういう言葉を知らんのじゃろ」

 

と、少しからかうが、

沢彦の教育方針は実戦的に学ばせるモノゆえに説明した。

 

「治水とは川から田畑のある場所に新しい水路を作る事じゃ。」

 

そして吉法師の顔を眺めて、

 

「まあ、お主が那古野の城主なら出来ない事は無い話じゃが…」

 

と、まで沢彦が言うや、

吉法師は、

 

「ならばそれで証明しよう!!」

 

と言い放った。

しかし、出来そうだからという話で吉法師はせっかちに決断した。

すると沢彦は続けて、

 

「ただし簡単な話ではないぞ…まあ、仕方ないこれも学ぶべき事だろうし…」

 

と、そこで言葉を止めた。

その言葉に小平太は、

 

「ならばそれが出来たら俺らはお前の子分に成る!!出来なければお前が俺らの子分だぞ、いいな!」

 

と、言うと

吉法師は「解った」と答えた。

まあ、本当にうつけに見える感じだが、

多分、そうなのだろう。

治水がどれだけ大変なものかを全く知らずに答えてしまった。

 

それを知る沢彦は治水が一朝一夕で出来る話ではない為、そこにいる子ら全員に向かって、

 

「お前らのう…治水は下手したら1年も2年も掛かる大工事じゃ。完成するまで待ってても意味が無い。」

 

とは言え、子供らには、

それがどれだけ大変なものなのかまでは解らない。

沢彦はそうした中であえて提案した。

 

「治水には人手も居る。どうじゃ治水の工事が始まった時点で吉法師の話は証明として認めた上で、本当に水を村まで引きたいのなら全員でその工事を手伝うというのは?」

 

その言葉に小平太は、

 

「村に水がもっと来れば、おとう(父親)はもっと田んぼ増やせて、米が沢山食えるように成るいうとっただがや。」

 

そして小平太は吉法師を指さして、

 

「本当にこいつがそれを出来るなら何でもいい!!手伝うのもやったる。」

 

と、言うと、

沢彦は小平太に

 

「ならばひと月ばかり待てるか?さすがの殿様でも直ぐには始められんでのう。」

 

すると先ほど吉法師にボコボコにされて倒れたまま黙っていた新介がようやく起き上がり、吉法師の方を見て、

 

「俺はコイツが殿さまだと信じるだで・・・で、なきゃあんなスゲェ剣術出来る訳がにゃあ(ない)。」

 

新介は小平太が新介の為に取って、側に置いておいた餅を頬張りながら、

 

「だから川から水を引いてくれるならやってくれ。」

 

その信頼する意味の言葉に、吉法師は力強く、

 

「解った!!絶対にやってやる!!」

 

と約束を交わした。

流れとはいえ、そうなった事態に沢彦は少し頭を悩ませたが

 

(川から水を引くと言っても…清州から了承を得て、人工も集めねばならぬが…どう転んでも、若殿には良い勉強に成るやもしれんな…

まあ、書物で知るよりこうして体験する方が面白い成長をするやも知れんな・・・)

 

と、事を楽しんだ。

無論、那古野村に水を引くと成れば、清州との境に流れる庄内川の水を使う必要があり、それには清州との利権的な事も関わってくる。

無論、吉法師がやるというより実際は平手政秀が手引する訳だが、その政秀を説得するのは吉法師の仕事であり、今後の領内経営を学ぶ上では大事な経験と成る。

そういう事も含めて沢彦はいい勉強に成るだろうと考えたのだった。

 

どうも・・・ショーエイです。

信長たまの吉法師時代のエピソードを

一応フィクションで描いている訳です。

しかし、ある意味奇想天外な発想が生まれてくる過程では、

様々な経験が前提と成らねば中々思いつくものでは有りません。

恐らく城下で遊びまわる中で

こうした経験は得ていてもいいのではという観点から作っています。

織田信長という人物がどうつくられていくかを

暫くは上手く描いていきたいと思っているそうです。

 

さて、最近危惧する点です。

いよいよマスコミも含めて

日本人は再び権力層に洗脳されていませんか?

軍事の必要性を唱えて、学術会議を批難したり、

国民が政治家に対して決して許しては成らない

不正行為、忖度を批難する方が悪いと言った風潮で

無かった感じにしてしまう事態。

 

学術会議というより、学者の意見を政治的な都合で封じ込めて、

経済優先のGoToキャンペーンを推し進めた。

その結果、新型コロナが全国的に広まった訳ですが…

偶々、アメリカと比較して被害が少なく見えるからと

曖昧に政府の言い訳を許してる感じも気持ち悪い話です。

 

中国は直接的に抑圧して人民をコントロールする国です。

日本は戦時中も同じで、

国民を洗脳してコントロールしようとする国なのです。

自己主張の強い国では民衆が洗脳されるケースは稀と言えますが、

トランプが使う手法を参考に言えば、

大統領の立場として「嘘だ」と言い張る事で、

それを聞いた民衆はどちらが

「本当のことを言っているのか?」

と、錯誤する感じが生じます。

結局、民衆の情報源はマスコミがそう言っていたから

と、言う様に誰かの話に頼るしか無く、

実際に自分の目で確認する術は有りません。

ただし、有能な人は

情報の辻褄を精査して真偽を見極めるわけですが、

大抵の一般人は

そのままその聞いた情報のみで

どちらを信じるかで決めてしまうのです。

 

比較的合理主義のアメリカですら

トランプの発する話に流される人が

かなり多くいる状態だったわけです。

 

合理性より「信頼」

いわば誰を信じるかで判断しようとする日本では、

寧ろ洗脳しやすいのは言うまでも有りません。

 

人を洗脳する場合、大抵の手法がどこかに敵を作って、

その敵に対する恐怖感を煽って自分に味方するように呼び掛ける。

安倍トランプの中ではそれは中国であったわけで、

現状の日本でも変わらずです。

無論、中国もある意味そういう流れに洗脳されて、

安倍トランプが警戒するような行動を起こしつつあります。

いわばアメリカが敵対視するから、

自己防衛の為敵対視して構えざるを得ないという状態です。

 

こうした状態は国際社会全体が協力する事で

回避できる話ですが、

その協調性を崩壊させ、

両極に敵と味方を振り分けるような状態に成れば、

当たり前の様に双方が警戒する話が

現実的に生じざるを得なく成ります。

 

人間の社会はこうした出来事の繰り返しで、

それ故に中々戦争と言う人災を取り除けない訳です。

ただ、現代に至って歴史的な繰り返しで、

国を戦争で支配しても、その国民は必ず独立を望み、

結果、その怨恨で戦争やテロが繰り返されるだけなのです。

いわば戦争しても無駄だという結論なのですが、

武力で脅かす国が存在する以上、

警戒しなければ成らないのも当然です。

 

と、は言え…軍事で出遅れた日本と言う国が、

今更軍事を語っても意味が無いのです。

軍事技術が一朝一夕で追い付くことは無い現代社会で、

刀からようやく火縄銃で対抗できる様にしても、

大国は既にマシンガンを使っている状態と言って良いかも。

 

既に宇宙戦争を視野に入れた状態で、

陸戦、空戦、海戦の話で対抗しようとしているのは

正にこのレベルです。

 

臆病風に吹かれてそんな主張をするのなら、

さっさと世界を平和に導くための運動を起こして、

寧ろ平和憲法を盾に平和社会構築の外交に

焦点を当てるべきなのです。

 

アメリカ政府に媚びるのでは無く、アメリカの世論を利用しなさい!!

 

アメリカの世論は平和が大好きです。

そういう平和を促進する日本であれば、

アメリカ世論は決して日本を見捨てないだろうし、

どんなことがあっても日本を守るべきという風潮に成ります。

この世論を政治家が無視できないのは当然で、

賢いならココと結ぶような外交をするべきなのです。

 

洗脳されてしまった人たちは、

日本の現実を指摘して改善を促す様に語る言葉も、

全てが売国奴の言葉の様に受け止めてしまい、

全く論理を理解しようとしないのも事実です。

実際は寧ろ洗脳された彼らこそ売国奴であり、

本当に国の事を考えれば、

間違った方向性に対して挑むのが当然です。

いわば洗脳された人間たちから批難されようとも、

それに屈せず例え一人になろうとも

立ち向かわねばならないという誠意が有るからです。

多くの味方がいる方に流される人間は、

結局は国より自分が大事なだけと成り、

日本では洗脳された人が増えれば増える程、

洗脳された意見に逆らえなくなっていくのです。

 

そして結果、同じ過ちを繰り返す。

 

これを止める方法は…戦争に再び負けてもらうか、

洗脳者より強い力で屈服させるかの何れしか無く、

日本人の大衆が

これを自主的に食い止める事は適わないだろうと思います。

まあ、それが出来れば日本の未来は救われるのですが…

 

【第十二話 人】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

人は上から下を見ても、決してその苦境を理解できない。

一般人が政治家や金持ちに対して感じる様に、

普通に暮らす人が

更なる貧乏人の苦境を理解できないのも当然である。

何故なら人は自己が基準で、

最後は自分で克服するしかないに行きつくからだ。

政治家にいくら格差是正の話を持ち掛けたところで、

最終的には勉学に励んで優良企業に就職して

安定した生活を目指せば良いだけの話と、

結局は匙を投げるしかないのも事実だ。

いわば頑張った人間が報われる社会なのだからと成ってしまう。

ところがいつの時代も同じで、

これが腐敗政治の根本的な問題なのである。

 

下から上を見上げれば、

恵みの雨が全く降ってこないことが見えてくる。

例えるなら上は一人5万円で発注した人工(にんく)事業が、

途中で削り取られて下には1/5の1万円しか落ちてこないという話などがそれである。

上はこれを国費の無駄遣いと議論するが、

下からすれば根本的に見当違いな話でしかない。

 

5万円出すのなら、下に3万円は落ちるのか?

という議論からするべき話である。

その上で3万円は貰い過ぎなのでは?

という話に成れば多少は納得は行くだろう。

下には2万円位で十分な対価と評価できるなら、

人工(にんく)発注額の6割が必ず

一番下の労働者に行くという計算のもとで、

3.5万円程度にしても良いのではという

調整が出来てはじめて意味を為すのである。

 

上から人を見ると、

現代風で言えば

企業が金を持たねば雇用は生まれないという見方になる。

ところが下から見れば、

下が金を使えなければ企業は儲からないと成る。

立場によって都合が異なり、人は自分の都合に近い論拠を採用するのだ。

しかし、実際は両立させねば内需の安定は齎されないのである。

どれだけバーゲンセールの様な事をやっても、

結局余裕のある人間が少なければその効果はさほど大きくはない。

いわば無駄に税金を使っているだけの話にしかならないのだ。

 

沢彦の教育方針は

いわばその下を見るという事に重点を置いたものだ。

平手政秀より、吉法師が農民にも自由を

という話を聞かされた沢彦は、その農民がどういう者たちなのかを実体験させる意味でこの戦遊びを勧めた。

無論、その上で実戦に備えた訓練も兼ねている。

そういう主旨を聞かされた政秀も前例にない事とは言え、

学問として受け付けない吉法師にはそれも一手と認めていた。

と、は言えその分、

政秀は那古野城主としての吉法師の警備も考えねば成らなかった。

 

沢彦は政秀のその悩みを、

逆に人を育てる意味で活用するようにも提案した。

警備、諜報、索敵などの人材である。

これらは戦国時代では

伊賀や甲賀の忍(しのび)と呼ばれる者たちの分野であるが、

後の信長は寧ろ自身にそうした部隊を持っていた為、

彼らを雇い入れる感じはあまり見られなかったと思われる。

 

吉法師が沢彦を訪れる以前に

政秀は何名かの若手を呼び出した。

河尻秀隆、佐久間信盛、そして簗田政綱に、

尾張津島に潜んでいた甲賀者の滝川一益などである。

秀隆と信盛は、吉法師が城外を視察した際にその供回りとして同行した2人である。

政秀はその秀隆に吉法師の警護を任せた。

秀隆ら十数名をは行商人などに変装させ、

吉法師の周りで目立たない様に警護する任務とした。

現代風に言えばSPといった役割だ。

いわば何か事が有ればすぐさま吉法師を守る役目だ。

 

信盛には20騎の騎兵を与え、

吉法師の周辺で少し離れて常時待機する任務を与えた。

警護の河尻らの動向に応じて直ぐに援護に入れる配置であり、

ある意味緊急時に吉法師が無事に逃げれる様に働く役目と言える。

 

彼ら2人の部隊に与えられた試練は、

常に警戒を怠らない集中力を持つ事と、

何かが生じた際の手際の良い対策を講じる事が課題とされた。

この後、河尻秀隆は黒母衣衆の筆頭と成り、

常時信長の警護を任されるわけで、

佐久間信盛は「退き佐久間」と知られる意味で、

いわば殿軍(しんがり)の名人として成長していく。

こうした才覚は一朝一夕で生まれる訳では無く

若い頃からの経験や知識、それに伴う鍛錬が必要であり、

政秀が育て上げた人材として考える方が妥当である。

 

そして諜報担当に充てられた簗田政綱、滝川一益。

簗田政綱は桶狭間にて今川の動向を信長に知らせた第一の功労者とされた人物である。

滝川一益は言わずと知れた名将で、

信長時代に数々の戦功を立てる人物だ。

一益の出自には諸説あるが、

元は甲賀の国人衆滝川家の出自で、

博打を好んで不行蹟を重ねた為、一族から追放された説を採用する。

そして一益が行きついた先が尾張津島の知人の元という事で、

こうした人材を政秀が紹介を受けて登用した。

彼ら諜報部隊には尾張の国人衆、

いわば野武士たちの監視を担わせた。

内情を把握するための潜入もその役割だ。

甲賀忍の諜報術に精通していたであろう滝川一益が、

桶狭間手前の時代まで織田家の表舞台に登場しなかったのは、

こうした任務を受けていた可能性も考えられる。

 

こうした内容は記録として残されていない話であるが、

何故こうした人材が信長の下に集まったかと考えた上で、

年代や年齢など参考に組み立てると平手政秀の功績と考えるのが妥当である。

寧ろ現実的に考えるならそうして育たねば、優秀な人材は生まれてこないのである。

適材適所という言葉あるが、それは寧ろ育った人材に宛がう言葉で

人を育てる意味では「適正適育」という言葉を用いる。

適正適育とは、人は興味を持てば自然と学ぶという心理を活用したものである。

人間の心理で多くの人は、自分の欲しい人材を求める傾向にある。

しかし、それら適材適所と巡り合うのは運でしかない。

大企業ならばそういう運も考慮して考えられるだろうが、

小さな企業では中々難しいところもある。

適材適所で人材を求めると、人は人の短所を見極めていまう。

いわば自分の欲しい人材か否かを定めようとする心理が働くのだ。

これは大企業でも同じで、結果としてふるいに掛けられそのプレッシャーに耐えれた人材だけが生き残っていくシステムだ。

ある意味、そうした中で生き残った人材故に優秀と考えるのが動物の摂理なのだが…実際には媚び諂い、忖度が横行し、上からの命令に従順に従うだけの機械でしかなくなるのだ。

その上に立つ者が優秀で有ればその機械は使いこなされるだろうが、時代を経て世代が代わっていくとその頭脳が劣化していき、過去の前例を参考に判断していくことしか出来なくなるのだ。

今の日本がこの症状に近いと言え、将来の中国もこれに陥る可能性は高い。唐の科挙制が劣化して滅んだものこれが要因である。

逆に適正適育は寧ろ得た人材の中で育てていくシステムだ。

無論、これも大企業で様々な分野が存在する中では有利になる話で、分野が限られてくる業種では難しいかもしれない。

しかし、適正適育では人の長所を見極め、その長所を伸ばすことで

プロフェッショナルを育成していくのだ。

スポーツを例に挙げるなら、ディフェンスとして志望して入った人材が身長が高くヘディングが上手いがディフェンスは上手くないと感じた場合、ヘディングの能力を活かしてフォワードに抜擢するという決断に結びつくのが「適正」の意味。

その上で、本人が相反するポジションのフォワードとディフェンスどちらに興味が持てるかを見極めてより興味の持てる方で伸ばすのが「適育」となる。

人は興味があれば趣味に没頭するように勝手に学ぼうとする。

学ぶうちに自分の能力に応じて向き不向きが自己判断で解るようになり他へも興味が湧くように成る。

興味のない場所で学ばせても、それは勉強でしか無いわけで学習を怠るのだ。

年齢的な制限のあるスポーツ界でそんな悠長な話を用いるのは得策では無いと言えるかも知れないが、学習によって学んだ経験は実は専門的な指導者として育成する事が出来るのだ。

ヘディングという限定された分野に限られるかもしれないが、ヘディングだけを研究したプロフェッショナルは、どういうポジショニングが良いか、どういう体の使い方が良いかを指導する立場として活きてくる訳で、そういう研究を他の選手に伝えさせることで選手の質が向上していくのだ。

「うつけ」である後の信長の兵法では、

自分が「うつけ」=「面倒くさがり」と自認して、興味のない分野は「無知」であると悟った上で、自分が興味を注げない分野のプロフェッショナルを育てていくのである。

いわばサッカーのドリブルに興味は持てても、ポジショニングやらヘディングには興味が持てない。

そうした中でポジショニングやヘディングに興味がある人間が研究してその研究成果を伝えてくれれば、自分が興味なくて気付かなかった部分が見えてくるのである。

実戦で研究され学習によって学んだ知識故に、それは合理的な説明として理解もしやすく実は議論もしやすい。

いわば説明された話に注文を付け、さらに克服できるように考えてもらえるからだ。

いわばヘディングで相手が自分より背が高くジャンプ力もあった場合どうすれば良いのかという疑問を提示した際、プロフェッショナルとして研究する人のプライドから方法を模索してくれるように成るという形だ。

米国ではこうした人材を効果的に使うケースが多いのである。

自然と考え方の価値もプライドに対する意識も異なってくる。

アジアや特に日本では、指導者に逆らう事は失礼と思われがちだ。

いわば黙ってい言うとおりにしろという事で話が終わってしまう。

それ故に教わる側からの指摘に対して、指導者としてプライドが傷つけられたと考えるのだ。

そしてその指導者の学習は実はそこで止まってしまうのである。

ある意味、知識から得ただけの指導ゆえにそれ以上にどうしたら良いかが考えられず、その新たなる知識を探し求める面倒な作業を押し付けられたと思う心理が働くのである。

ところが学習する方は自分が気付かなかった事を指摘され自分が足りなかったというプライドでそれを克服しようと考える。

ほぼ趣味の事ゆえに、研究する労力を厭わないのだ。

研究する過程の話ゆえに、他の知識を探すことは有る意味カンニングするような意味でその作業も趣味の範疇になる。

カンニングしたからそれで良いという話では無く、プロフェッショナルとしてのプライドから自分なりのアレンジまで考えようとするのだ。

人間の能力を最大限に引き出す意味では、そういう人間の方が遥かに効率よく機能するという事である。

単純に「適材適所」と「適正適育」を分別すると時間軸での長所、短所がそれぞれに見られるが、実際に効果面で考えると全く別物である。

いわば「適正適育」を用いた上で「適材適所」を用いなければ、結局は知識の枯渇によって衰退していくだけという現象であり、向上しない組織になるという話なのだ。

信長が自身の考え方の正当性を合理的に理解するのは、本能寺の変の手前の晩成に入るころだろうが、政秀が齎した環境で有り、信長自身の性格から自然とそういう合理的な組織が形成されたといえる。

信長が「天命」を受けたというのは、それが知らずとして合理的な機能を齎すという効果ゆえの意味でもある。

まあ、言い方を変えれば、「うつけ」=「おおちゃくもの」故に無駄な努力を嫌い、好きな事に没頭したいという性格が齎した他人任せの思考とも言える。

それ故に他力本願で有る事を自認し、他人に感謝する事も忘れず、また他人が働きやすい環境を考える才能に溢れていたのも事実で、実際にそこが信長の魅力と成っていくのである。

実は漢の高祖「劉邦」の魅力も同じであったと言え、それ故に賞罰に対して公正な形に気を使っていたのである。

日本人はこうした他力本願の英雄を嫌う傾向にあるが、実際に働くと考えた場合、自分の能力を最大限に活かせる場に成る訳で、小さくとも必要とされる環境は、最高の労働環境なのではと気付いてほしい。

 

と、は言え信長の興味は、かの諸葛孔明と同じところにあった故に、軍師要らずの人間であったことは、この小説の中で徐々に解説していくものとする。

 

さて、平手政秀という存在が信長にとって偉大であるとする所以は、

彼が信長の為に育てた人材が如何に優秀な形で成長したかを裏付ける話となる。

後の弟信行との間で分裂する織田弾正忠家に於いて、

林秀貞、柴田勝家らといった父・信秀側の人材は、

殆どが弟の信行に付いている。

また奇行の目立つ信長に

真面な家臣なら寧ろ従わなかったとも考えられる。

それでも信長に従ったのは,

寧ろ政秀により信長の為に育てられた家臣であったと考えるべきで

結果としてそれら家臣の方が、

信秀の側近であった家臣より優秀であったから、

弾正忠家の御家騒動で勝てたとも言える。

無論、信長自身の才能も寄与するところだが、信長自身が自身の才覚を最大限に活用できるのはそうした優秀な人材合っての事と自負しているから、寧ろそうなのであった。

 

また、家臣団の勢力図として劣勢に立たされたはずのそんな信長に忠誠を誓う気持ちが生まれたのは、彼らが長年、信長を守るという事に従事した情が有ったと考えられ、その情が忠誠という形で桶狭間でも活きて行くのである。

 

そうした体制で自分が守られている事など知る事も無く、

吉法師は沢彦と共に那古野の城下…

城下と言うより農村集落の那古野村を訪れた。

 

沢彦は那古野村の悪ガキが集まる野原…現在の名古屋駅辺りとしよう・・・そこに連れて行き、吉法師に、

 

「あそこに仲間に出来そうな悪ガキがおるで、兵隊としてまず誘ってみなされ。」

 

と、言って少し離れた場所で腰かけた。

吉法師たちは言われるがまま意気揚々とその悪ガキの群れに向かって行く。

悪ガキの群れには30~40人位集まっていた。

悪ガキ達は木の棒を以て半分に分かれて戦ごっこに乗じていた。

沢彦は吉法師に身分を隠すように言いつけたが、吉法師は恐らく忘れているだろうと思い、興味深々でそれを眺めていた。

 

(さて…若殿がどうするものかな)

 

そこに行商人に化けた河尻秀隆が近づいて、

 

「殿に何か有ったらすぐに助けに入って良いですか?」

 

と、沢彦に秘かに聞いた。

沢彦は、

 

「いや、喧嘩が始まっても動かれるな…ただし集団で動いた場合は喧嘩の仲裁程度に入って下され…ただし吉法師様の身分だけは決して触れない様に。」

 

と、指示をだした。

秀隆は、「御意」と沢彦の側で控えた。

 

農村の悪ガキに近づいた吉法師はいきなり、

 

「おい!お前ら仲間に成れ。」

 

と、命じるように言い放つ。

まだ、世間を知らなすぎる少年吉法師に身分を隠すという話は難しすぎる。

そんな突然の不遜な態度に農村の悪ガキたちは

 

「はぁ?!何言ってんだ!!」

 

と反発した。

 

「俺は那古野の吉法師ぞ!!」

 

命令に従わない相手を見て吉法師はカッとなった。

既に沢彦の忠告を忘れてしまっている。

ある意味、本当にうつけに見える話だ。

無論、吉法師の供回りの岩室らも相手を農民と見下している分、吉法師が名乗りを上げて命令した事には不思議に感じていない。

まだ12歳の少年ゆえに、仕方のない事で、

現代の子役として大人社会で芸能活動している同年代とでは、演技力も違うのは当たり前と見るべき話だ。

寧ろ、気づいてか気づかなくてか「那古野城主」と名乗っていないだけ沢彦の忠告を守っていると考えてたかもしれない。

 

すると農村の悪ガキの一人、後に新介と名乗る少年が吉法師の前に出てきて、吉法師の肩を突いて挑発した。

新介は吉法師より2つ位年長であり、

ガタイも少し大きかった。

肩を突かれて吉法師は大きくよろめいて倒れたのだ。

 

「なんだ弱そうじゃないか!!」

 

と新介が言うや、周りの悪ガキ達もそれを見て大笑いした。

吉法師のとっては生まれて初めての屈辱だったかもしれない。

 

それを見た沢彦は秀隆に、

 

「秀隆どの餅をあの人数分調達してここに持ってきてくれまいか?」

 

と頼んだ。

秀隆は、

 

「如何にして?」

 

と、聞くや、

 

「これから若に交渉術を教える為じゃ。」

 

とだけ言うと、秀隆は直ぐに動いてその場を離れた。

すると沢彦は悪ガキたちに向けて大声を上げて、

 

「おーい、悪ガキども!!」

 

と、急ぎ足で近づいて行った。

悪ガキどもは坊さんが説教しに来たと思い一瞬退散するかのように動いたが、

 

「おーい、ちょっと待て面白い話を聞かせてやる!!」

 

と、少し優し気に声を掛けると、退散しようとしたガキどもは足を止めて、沢彦が近づくのを待った。

恐らくその悪ガキの番長格であった新介は、

 

「坊主が何の用だ!!」

 

と、声を掛けると、

吉法師と新介の間に入った沢彦は、

 

「喧嘩ならもっと面白い勝負を教えてやる。」

 

と、言った。

倒れた吉法師は岩室たちに抱きかかえられるように起き上がり、

 

「沢彦!!刀を返せ!!こいつら切り殺してやる!!」

 

と、言い放つ。吉法師はある意味世間知らずのお坊ちゃま状態だ。

沢彦は吉法師のそういう性格を読んで割り込んだのだろう。

無論、こうした心情で農民に負けたまま放置すれば吉法師は暴君に育ったかもしれない。

記録上の話で、吉法師が実際に城下で遊んでいた事は明白であるが、その身分をどうしていたかは定かではない。

無論、身分のまま農村の子供たちを従えて遊んでいたとする方が道理としては話しやすいが、この小説ではその辺は少し脚色して進めるものとする。

 

吉法師の怒りに任せた言葉に沢彦は

 

「刀を使うか!それでは公平な勝負では無いぞ、そんな勝負に勝って嬉しいか?」

 

と、吉法師に聞くや、

悪ガキども番長格の新介に

 

「これらはワシが寺で預かっておる熱田の町民の子らじゃ…どうじゃ少し面白い喧嘩で決着付けて見ぬか?」

 

と、提案した。

沢彦はあえて「喧嘩」と言葉を用いるのだ。

喧嘩という言葉を敢えて用いる事で「仲裁」ではないという意識を相手に与えるのだ。

いわば始まった喧嘩の延長として決着をつける話にしたわけで、喧嘩という言葉を取り消せば相手に「喧嘩を止めるように」と聞こえてしまうからだ。

喧嘩をしている両者は心理上で頭に血が上っており、その行為を否定されても部外者に関係な話として不満を抱くのである。

寧ろそういう心情ゆえに「喧嘩のやり方が面白くない」と諭す方が冷静に話を聞きやすくなる。

これは外交上のテクニックでも活きてくる。

戦争をする両者に戦争を止めさせるため、その戦争を批難しても中々止めないのだ。

いわば両者には既に戦うだけの理由があるから、その理由は他者には関係が無い。

パレスティナとイスラエルの問題など一度戦争が始まれば止める事が難しく成るのはそういう事である。

力で停戦を捻じ込む事は出来るが、結局両者が抱える遺恨は消えないのだ。

吉法師は今農民が逆らったという心理で農民に対する遺恨が芽生えた状態だ。理由は理不尽な事でも吉法師の怒りがこのまま放置されればより根深い話となる。

沢彦が優秀なればこそ、この心理の流れを予め察することが出来るわけで、実際にはまだ些細な状態と放置されがちになる。

そこで沢彦は決着を上手くうけさせる方法を用いた。

 

先にも話したプロフェッショナル。

沢彦は僧侶として仏門に使える身として、和の研究に没頭していた人物と伝えよう。

故に如何に人間の争いが醜いかを知り、それを拭い去る難しさも心得ている。

そういう研究から効果的な方法を見出せるのであった。

 

沢彦は「仲裁」という形を成立させるには、「停戦」が適う方法を適策と考えるのである。

それは「引き分け」を引き出して冷静さを取り戻させる方法である。

決着を付けさせると寧ろ負けた方は不満を抱いで遺恨が残り、その猜疑心が仲裁者に向けられることにも成るのだ。

先ず双方が冷静さを取り戻して一旦引いて考える機会を得る上では、双方が引ける心情を考慮しなければ成らない。

 

そこで沢彦は2番勝負を提案するのだ。

決着をつける3番勝負では無い。

1番目に農民たちが勝ちやすい「相撲」

2番目に吉法師が有利に成るだろう「棒剣勝負」

とした。

 

当の子供たちは相手の器量など知らない為、全て勝てる気でいる。

それ故に案外と簡単に話が纏まった。

そして3人づつ代表を出して、それぞれの勝負で決着をつけさせたのだ。

 

相撲のルールはこの当時土俵は無かったと考える。

いわば倒したら勝ちで、土俵から出すルールは無い。

相撲と言っても柔道に近いとも考えられ、

投げ飛ばす方法は自由だったと言える。

言うまでも無く、相撲勝負は吉法師たちの完敗である。

唯一の勝者は一番の相撲上手で体が大きかった岩室の一本だけ。

吉法師はあえて新介と対戦して、簡単に負けている。

負けた吉法師は大いに悔しがり、その執念を棒剣勝負に向けた。

 

沢彦は棒剣勝負にルールを用いなかった。

剣道の様に一本取れば勝ちでは無く、

寧ろ「降参」が条件だ。

勿論、生死に関わる状態なら止めることも考えていたが、子供同士故にそこまでには至らないとも踏んでの判断である。

 

佐久間盛重の教えで痛みに強く育てられた吉法師らは、棒剣試合では圧倒的に強かった。

寧ろ農民の子らは多少の痛みには耐えれても、

継続して受ける痛みには弱い。

いわば殴られ続けて我慢できることは出来ないのだ。

ある意味ボクサーはボクサー同士KOされるまで戦い続けるが、そんなボクサーに素人が挑めばKOされる前に謝ってしまう。

ある意味、そういう勝負と成った。

結果、2本目で勝負は付いたが、沢彦は大将戦となる新介と吉法師の勝負を敢えて取らせた。

いわば全体の勝負で相撲が1対2、棒剣試合が2対0だったことも有る。

更には吉法師の執念を察してか、負け続けた新介との勝負を決めさせる必要性もあった。

それは沢彦が吉法師に抱く教育上の都合とも言える。

寧ろ吉法師がここで負けても勝ても相手の器量を認めるという教えに結びつける為だ。

負ければ自分の弱さを自覚させ、

勝っても相撲で負けた時の相手の強さを認めさせる。

そういう考えだ。

 

新介のガタイは年の差もあって吉法師より一回りデカい。

普通なら相撲で負けた相手故に怖気づくところだろうが、吉法師は武家としてのプライドが先行して農民相手に苦渋を飲まされた意識があり、剣さえあればという気構えで全く動じていなかった。

と、言うより寧ろ殺伐とした雰囲気で新介に向かっている。

一見、吉法師には農民を差別した意識があるようだが、あえて言うなら当然の話で農民が武家の自分より強い事が許せないのである。

人間のプライドというのは育った環境で育成されるもので、そのプライドは人間に根強く残るのだ。

人種差別などが社会的に根絶しても、人間の意識に芽生えたら中々消えないのはそういう摂理もある。

それは黒人が白人に対して身体的な優位性を意識するプライドも同じで、白人は経済的、頭脳的な部分でそれに対抗しようと感じるのも無理はない。

これは日本人と韓国人、中国人の間でも同じである。

社会的な差別がない状態では、それぞれの遺伝的優位性が認められて勝負するしかない世界なのだという意識を双方に植え付けていくしかない。

吉法師のそれは、身分的な優位性のプライドで、農民を人間として見ない意味とは違う。武家として決して負けては成らないという意識なのだ。

 

そういう意識の中、勝負が始まるや、

吉法師は先ず新介の籠手に突きで一撃を浴びせる。

剣道の籠手の取り方とは違い、最短で突く…

ボクシングのジャブを浴びせるように相手の持ち手目掛けて先手を取るのだ。そしてそのまま相手の顔面に目掛けて突きを更に加える。

殺人形式の剣術である。

吉法師は剣術を習う中で、

最短で相手を行動に不能にする方法を独自で編み出している。

新介は一瞬で不利に立たされた。

しかし、降参しなかった。

吉法師は降参しない相手に容赦なく、突きで殴打する。

棒を振り回して殴るより、

突き刺してピンポイントで痛みを与える方が効果的な事を吉法師は知っていた。

見るに残酷な仕打ちである。

脇腹であり、局部であり、相手が苦痛に感じるところ狙って、残酷なまでに甚振る。

それでも新介は降参しなかった。

吉法師に従う岩室らは、むしろ吉法師を怒らせたその農民を笑った。

 

(若に剣を握らせて怒らせたら最後だ…)

 

その状況を見かねた沢彦は流石に吉法師を止めた。

 

「若!!」

 

余りの鬼神ぶりに動揺した沢彦はそう呼んでしまった。

 

「相手は人ぞ!!もう十分であろう!!」

 

すると吉法師は、

 

「こうれは勝負ぞ!!相手が降参せねば我がやられる!!」

 

と、手を休めることなく沢彦にそう言い放つ。

沢彦は今度は新介に降参するように勧めるが、

新介は、

 

「降参はせぬ!!」

 

と、意地を張った。

沢彦は再び吉法師に、

 

「その者を殺すつもりですか?!!」

 

と、聞くや

吉法師は、

 

「降参せねば、止むをえまい!!」

 

更に殴打を強めて、本気で殺しに掛かった。

野生の殺意を感じたのか、

さすがの新介もそれには恐怖した。

本当に殺される…

そう…既に喧嘩では無く、殺人の域に達し始めた。

周りの農民の子らもその仕打ちに寧ろ助力しようと構え始めた。

しかし、岩室らもそれを察して身構えて、

鬼の形相で彼らを睨め着けると、

先の2本で見せた勢いも有って、農民の子らは足が竦んだ。

新介は既に気を失っている。

沢彦は吉法師を制止してでも止めるべきだったろうが、沢彦の勘がそれを阻止した。

いわばその勘は吉法師がこのままどうするかを見極めねばならないと諭したのだ。

すると農民の子らの一人が吉法師にひれ伏す様に頭を下げて。

 

「新介をもう許してあげて下さい!!」

 

と、吉法師に向かって嘆願した。

それに呼応するように他の子らもひれ伏した。

身分が農民で有る分、屈する事にはプライドが無い。

性格と言うより寧ろ親から受け継がれた処世術というものだ。

その姿を見た吉法師はようやくその手を止めた。

怒りに任せて相手を甚振っていた様に見えた光景が、

あっさりと冷静さを取り戻して手を治めたのだ。

沢彦は殺すまで止められないとも思っていた。

しかし、あっさりとその殺意が消えた事に驚いた。

 

(心の底は見えぬが…若殿は尋常な人間ではないな・・・)

 

すると吉法師は沢彦に

 

「相手は降参したという事か?勝負は終わりだな。」

 

と、聞くや、

農民の子らが先に、

 

「降参します!!」

 

と言ったので沢彦は、

 

「勝負は終わりです。若の勝ちです。」

 

と勝敗を認めた。

吉法師は内心殺したくは無いと考えていた。

しかし、殺さねば次は自分が反撃されると感じて手を止められないのである。

それ故に誰かが明確に終わらせてくれることを願っていた。

ただしそれは相手の明確な敗北でしか許されない。

人間の思考は自分本位である。

自分が決して相手に屈する事が無いと覚悟していた勝負に、相手も自分に屈しないかもしれないと考えるのが吉法師の思考に有ったのだ。それ故に隙を与えれば必ず反撃に転じるという恐怖が過るのだ。

結局、そういう勝負になればどちらかが死ななければ終わらない。

故に降参をしないなら殺すしか方法が無いのだ。

無論、内心では人を殺したくはないのも事実だが、降参しない以上、相手は常に自分を殺しに来ると警戒するわけだ。

戦争や戦いは道徳では計り切れない。

殺らねば殺られる。

屈服しないものは常に寝首を狙ってくる。

結局、吉法師であり後の信長の思考はここに陥るのである。

逆に相手に屈するのなら死を選ぶというのが、自信のプライドで有り、屈せず常に相手を狙う執念も自認していたのだ。

それ故に激情なまでも敵に対しては鬼に成れるのだ。

 

信長の本性は女性である。

体が男で、心は女性なのだ。

かといって男に興味があるわけではない。

寧ろ気丈夫というより気丈婦であり、女好きの女性とでもいった方が良いのか。

たとえ体が女性に生まれようとも、神の子以外は身ごもるつもりがないほど、気高い意識のある女性と言える。

いわば神と認める相手以外に異性として興味を持たない人という感じだで、それ以外の相手に恋愛感情すら抱かないし、いかなる要求にも屈服しない。

故に男として生まれたら男の性は全うされる。

 

難しい説明に成るが、

男性としての寛容さは薄く

女性としての気高さが濃い人間と考えてもらえば良いのかも知れない。

 

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

 

後世にこう評された信長の性格は当たっている。

しかし、人が考える残忍な意味の「殺してしまえ」とは違う。

鳴かぬなら鳴くまで攻めるのが結果として「殺してしまう」の意味なのだ。

 

故に農民の子らは殺す前に「鳴いてくれた」と判断したのだろう。

内心、吉法師は殺さずに済んだことに安堵した。

しかし気絶した新介を見て、

 

「沢彦…こいつは生きてるか?手当してやってくれ」

 

と、不思議な程人が変わった。

二重人格とも思われる感じだ。

まるで人命を何とも思っていない冷酷な少年にも感じられる吉法師だが、寧ろ戦国時代の武家に生まれた子としては当然で頼もしい。しかし一度矛を治めたらその命を無駄に殺傷する事は好まない。

沢彦はそこを見極めたのだ。

 

(戦の世に敵に情を掛けるは自らを危うくするが、一度屈するなら人としての情を持ち直せる…暴君では無く名君の器と言えるか…)

 

現代人で普通に道徳心を持つ人にはこれだけ説明しても解りにくいかもしれない。

沢彦が「勘」で見極めたかったのは、人を殺める事を楽しみとして残酷な仕打ちに出たのか、それとも真剣勝負という命がけの勝敗の中でただ気を許すことなく勝負に没頭した結果なのかという部分で、矛を治めた姿勢を後者と評価したのだ。

 

沢彦が新介の様子を見るや、痛いたしいほど首などに痣が出来ており危うく死にそうでも有ったが同じ場所を何度も入れておらず、寧ろ気絶してから急所を外した形跡も見られ、それらを分析して何気にどこかで殺すことを躊躇していたとも感じられた。

沢彦が新介を揺さぶって起こすと、新介は直ぐに意識を取り戻した。

 

意識を取り戻すや新介は

 

「勝負はまだ…」

 

と、言いかけるや、

沢彦は、

 

「戦なら死んでおる…お主の負けじゃ」

 

と、新介の負けを諭した。

それを見た岩室は、

 

「あいつまだやる気かよ・・・」

 

と、少し驚いた。

吉法師は勝った喜びに暮れることなく、ただその新介を見ていた。

死んでいなかった事に少し安堵したのか・・・

普通なら勝敗が決まった時点で喜ぶものだろう、しかし吉法師は勝負に勝てた喜びなど微塵も感じないのである。

寧ろ負けなかった事への安心感だけといえる。

真剣勝負で負けられない意識だけで戦った結果、相手を殺しそうになったほど、いわば心として苦戦したと感じたのだ。

 

そうした中、秀隆が餅を用意してその場に訪れた。

秀隆は商人を演じた状態で沢彦に声を掛けた。

 

「沢彦殿、ご注文の品をお持ちしましたぞ!!」

 

それを聞くや沢彦は吉法師や農民の子らに向かって、

 

「ほら皆の者、餅を用意した…全員で食っていけ!!」

 

と誘った。

農民の子らは思わぬ出来事故に戸惑ったが、

 

「ほらお前らの分も有るから、喧嘩の手終いに食っていけ」

 

と、声を掛けると喜んでそれに応じた。

そして気絶していた新介に、

 

「おい、一人で立てるか?」

 

と、聞くや新介は大丈夫と言わんばかりに立ち上がった。

立ち上がるや吉法師の側に行き、

 

「おい!死ぬかと思ったぞ!!」

 

と、言うや、

吉法師は新介に

 

「そうか…死ななくてよかった。強いな」

 

と、返した。

二人はまだ打ち解けてはいないが、沢彦に招かれるように秀隆の用意した餅のある方へと向かった。

 

どうも・・・ショーエイです。

とりあえず緊急で書いた文章は

物語を連続で投稿する意味で削除します。

 

とは言え、マスク不要とは言わないけど、

マスクに拘り続けて現実的に対応しやすい方法を考えれないのは、むしろ無駄な話と言えます。

面倒だと感じる方法を幾ら促してもハッキリ言って意味が無いのです。

いわばそんな面倒な事したくないという話に成るのです。

ならば簡単に口を覆うだけでも対処できるやり方を浸透させて、最低限の対応で乗り切る方が賢明なのではという事。

でなければ結果営業時間短縮のみならず、

ロックダウンして外出禁止にするしか方法が無くなる。

 

マスク以外の方法に反論した所で、結果として無意味な状態が継続すればより面倒な状態に成るという計算まで出来ないのかな?

故にアホと言えるのです。

 

人を馬鹿にした言動はどうかと思う人も居るだろうけど…

日本政府が馬鹿の故事を演じた以上、

これを馬鹿とするのは文学上当然の表現で、

その故事を理解できない人は間抜けというしかない話です。

間抜けは間が抜けている=拍子抜けという意味で、

まあ、理解力の無い人間で拍子抜けする人と言えば適正な表現に成るのかな?

腹立てるのは勝手だが、

日本はいわばそんな悠長な拍子抜けした議論をしている状態じゃないのだよ!!

日本がドンドン世界規模で落ちぶれて言っているのを、いつまで意地張って頑張ろうとしているのか?

頑張るところが違うんじゃない?

理研が富岳でスパコン世界一に返り咲いたという話で、理研が頑張てっても、間抜けな議論はそういう人達の足を引っ張るだけ。

間抜けでないならスパコンより次は量子コンピュータの開発でしょ。

量子コンピュータが登場したら、スパコンレベルはゴミなのだよ。

 

これは安倍政権の時も同じ。

アホの語源は、劉備の玄ちゃんの息子、阿斗こと劉禅から来ている訳で、国を亡ぼす2世皇帝=世襲政治家に対しての引用でもある訳です。

言っちゃいけないという表現では無く、

文学上の表現としてこの現象をアホと言うしかないでしょ。

 

口が悪いとか言われも知らないです。

アゲアゲで話してもこの国は世論が盛り上がるだけで、国はドンドン沈むのです。

まあ、悪く言っても無駄なのかも…

 

時代の流れは…

ハイブリット<EV(電気自動車)

電子コンピュータ<量子コンピュータ

軍事開発<宇宙開発

ですね。

日本の議論は全部古い方に傾いている。

脳波でコントロールするドローンに驚いている場合じゃないよ!!

脳波観測技術が進むと、VRなんてゴミになる。

アニメのSAO(ソードアートオンライン)の様な世界に近づいているのだよ。しかも、それMade in Chinaで・・・

アイデアの原案は日本で紹介されたのに、

技術は中国に取られるとか情けなくない?

アイデアは日本人だからと言って誇っても、

日本の経済的には何のメリット有りません。

中国製になればその特許権で

中国企業がその権益を得るだけなのです。

 

そういう開発をするのに日本は金がない。

そういう金がない状態にしているのは誰のせい?

中国が悪いの?

韓国が悪いの?

アメリカが悪いの?

それは日本でしょ!!

ちゃんとよく考えましょう。

 

 

 

 

 

 

【第十一話 沢彦坊主】桶狭間へのカウントダウン 残り14年

〔ドラフト版〕

 

信長の奇行で有名なのはその服装で有った。

当時の農民が主に着ていた

浴衣の様な服装を好んだことでうつけ扱いされていたと言われる。

現代風に言えばスーツ姿が当たり前の会社の中で、

ジャージ姿で働いている感じなのかもしれない。

武家の服装が、いわばブランド物のファッションなのに対して、

ただ服を着ているだけの姿ゆえにそう見られたのだろう。

那古野城の城主であり、そうした贅沢も出来る身分で、

何故あえて貧乏くさい恰好をするのか…

普通の人の感性と異なるから天才なのだが、

時に天才ゆえの合理的な感性は、

普通の人には理解しがたい理屈が生じるのだ。

 

身だしなみはその人の印象を左右する大事な事で、

それによって人を魅了する事でその好感度が得られる。

素敵なスーツを身にまとった人はそれ相応の人物に見え、

その容姿から発する言葉には自然と重みを感じる。

逆であれば言葉の重みは薄れ、戯言に聞こえる。

これが普通の人の感性である。

 

一方、天才は言葉の中身に重点を置き、

合理的でない言葉は全て戯言なのだ。

どれだけ容姿が素晴らしくとも、

いわば中身が伴っていなければ、

所詮は使い物に成らないと判断する。

 

普通の人は

「誰が何を言ったか」

で、その信憑性を判断する。

ところが天才に成ると、

「誰が」という部分は省かれて、

「何を言ったか」が重要で

その上でその意味を分析して、

信憑性があるか無いかを判断する。

いわば、有名大学の教授がこう説明したから、

だから正しいでは無く、

説明した内容の何が正しいかが大事なのだ。

そこで合理性の無い説明なら、

その話は何の意味もない戯言になるのだ。

 

そういう感覚ゆえに、

人の見かけには興味が無く成るのだ。

人の見かけに興味が無くなる分、

自分自身の見かけもいい加減に成てしまう。

 

合理的に考えれば、

寝て、起きて、何かをする。

これが基本的な生活の原則と成る。

信長からすれば

起きた瞬間に何か出来る格好が好ましいのだ。

そして、

「顔を見れば俺が誰か解るだろ」

という感覚で、

どんな格好をしていても、

それが解るなら問題ないとも考えるのだ。

 

とは言え、二日酔い状態で

しかもジャージ姿の上司を見たら、

普通の人はヤル気が無い様に感じてしまうのは当然だ。

それ故に「うつけ」と感じられるのだろう。

 

さて、元服前の教育を受け始めた吉法師は、

佐久間盛重の剣術稽古以外は授業を放り出して、

岩室、長谷川、山口、加藤、千秋らと、

相撲や蹴鞠、そして競馬をして遊んでいた。

特に馬に乗り慣れた時分ゆえに、

競馬であちこち駆け回る事を好んだとも言える。

現代風に言えば原付バイクを乗り回す、

原付暴走族みたいな感じとも言える。

 

そうした中で平手政秀より相談を受けた沢彦宗恩は、

吉法師らに自分の寺に遊びに来るように誘った。

この時分に沢彦がどこに居たかは定かでは無いが、

織田弾正忠家との繋がりで考えるなら、

勝幡の方に寺があったと推測する。

沢彦は1587年まで生存していたとされ、

そこから逆算して年齢を考慮すると、

恐らく30~40代であったと考えられ、

1540年に信秀が弾正忠家の菩提寺として建立した萬松寺に

招かれた僧侶の一人であったとも言える。

 

萬松寺の開山には信秀の叔父に当たる、

大雲永端和尚が招かれたとされ、

この関係から才覚を認められた若手僧侶の沢彦が、

信秀や平手政秀に紹介されたとも推測できる。

 

年齢的に40手前であったと想定するなら、

僧侶としての実績はこれからの人物であったと考えるべきで、

後者の可能性を有力と考える。

その沢彦が吉法師を招いた場所は、

この萬松寺とする。

 

当時の那古野城が

現在の名古屋城の二の丸の規模であったとし、

萬松寺は那古野城の南に位置した。

現代の錦から丸の内2丁目、3丁目を跨ぐ広大な寺院であったとされ、

ほぼ那古野城城郭の中に有ったと考えても良い。

その広大な敷地には本殿とは別のいくつかの建屋があり、

その一つに沢彦に与えられた土地が存在した。

 

あれから更に成長して12歳と成った吉法師。

現代風に考えれば小学6年生で、一般的には子供なのだが、

小学6年生から中学3年生に掛けては、

思春期に突入した頃合いで、

自我が芽生えて反抗期に入る。

いわば夢見がちに勘違いできる時期だ。

 

そういう勘違いする時期の子供は生意気にも成る。

吉法師ら悪童たちは沢彦の場所に到着するや、

小生意気に、

 

「沢彦坊主!!遊びに来たぞ!!」

 

と、声を掛けた。

この時、悪童たちの服装は

まだ武家らしい袴に着物という感じであった。

 

そんな小生意気に成った悪ガキたちを迎えた沢彦は

敷地の門前に出向いて

その若殿にかしこまる様子も無く、

 

「おお!!よう来られた、悪ガキ殿。」

 

と、愛想よく言い放つ。

悪ガキと呼ばれて吉法師は少しムカついたのか、

 

「悪ガキ?!我は那古野の城主ぞ!!」

 

と、言い返す。

その言葉に沢彦は、

 

「それは俗世の身分ゆえに通じる話理屈であって、

仏門に使えるワシには関係ない話じゃ!!」

 

すると吉法師は、

 

「ここは那古野の城の内じゃ!!」

 

と言うや、

沢彦は

 

「そんなもの死んでしまえば何の意味があるか?

ワシら仏に使える者は、皆死人も同然じゃわ。」

 

そう言い放ちながら、袖から干し柿を取り出して、

吉法師に手渡した。

 

「まあ、そう構えずに一緒に楽しい遊びを考えようではないか。」

 

と、何も無かったかのように振舞って中へ誘入れた。

沢彦の言葉に苛立ちを見せていた吉法師は、

干し柿を手渡されて逆に意表を突かれた感じと成り、

ある意味上手く丸め込まれたのだ。

 

沢彦は干し柿を悪童全員に手渡すや、

そのまま門を通って中へ入っていった。

 

悪童たちは、

沢彦の堂々とした雰囲気に安心感を感じたのだろう。

何となくコイツとは話しても面白そうだ…

そういう好奇心も植え付けた。

悪童たちは手にした干し柿をくわえながら、

近くの木々に自分たちの馬を止めて、

沢彦に着いていくようにその門をくぐった。

 

門をくぐると手入れされたとまではいかないが、

簡素な庭が広がり、

沢彦は縁側に腰かけるようにして座っていた。

悪童たちは貰った干し柿を行儀悪く食べながら歩いて、

縁側に座った沢彦の目の前に集結した。

これから遊ぶつもりなので、全員立ったままだ。

 

縁側に腰かけた沢彦はそんな悪童たちを眺めて、

 

「そなたらはもうじき初陣を迎えるであろう…」

 

と、話を切り出した。

すると吉法師は

 

「ああ、戦に出て手柄を立ててやる。」

 

沢彦はその言葉に何か考えるような間を置いてから、

 

「ならば戦遊びでもしてみるか?」

 

と、言うと話を進めた。

吉法師は

 

「何だそれは?」

 

と、聞く。

 

戦遊びとは農民の子らで流行っている遊びでもある。

いわば石合戦や棒喧嘩、竹やり合戦といったものだ。

それは土地によって様々であったと考える。

これらは大人に成ってからも、

農地の場所取りであり、水脈を巡って、

農村同士が喧嘩するときにも用いられる。

とは言え、戦争ほどの統制などなく、

むしろ常時乱戦状態の殴り合いといった感じだ。

 

沢彦が吉法師に言った事は、

戦遊びで領内の農村を全て支配して見ろというモノであった。

すると吉法師は

 

「農民相手に喧嘩をするのか?」

 

と、半分鼻であしらう様に言った。

その様子に気づいた沢彦は

 

「ああ、そうだ。その農民相手に苦戦するようでは

天下どころか尾張も危ういぞ。」

 

そう言われると吉法師は

 

「俺ら6人で、何人を相手にするんだ?」

 

それに対して沢彦は

 

「先ず、味方の兵を揃える。無論、他は農民の子らだが。

兵は多ければ多いほど良いぞ。

少なければそれだけ大人数を相手にすることに成る。」

 

すると吉法師は。

 

「武器は何を使うんだ?」

 

沢彦はそれには言葉を選んで、

 

「鉄を使わなければ良いとしよう。」

 

いわば殺傷力の高い刀、槍、弓がこれに入る。

沢彦のその答えに吉法師は大いに納得し、

 

「それは解りやすいな。」

 

すると吉法師は木刀を取り出して、

 

「じゃあ、この木刀は良いんだな。」

 

ところが沢彦は、

 

「木刀は良いが、もう一つ条件を加えるなら、

武器は全て自作する事じゃ。」

 

さらに付け加えて、

 

「あと那古野城主の吉法師で有る事は内緒にすること。

これも大事な条件じゃな。」

 

その条件に吉法師は、

 

「何故、内緒なのじゃ?」

 

と聞いた。

 

「那古野の殿と知ると、相手が本気を出せなくなる。

皆怯えてしまうじゃろ。それでは意味が無い」

 

加えて沢彦は、

 

「戦遊びは勝ても負けても恨みっこなしじゃ。それ故に本気でぶつかり合う試合と思われよ。」

 

そう説明されると吉法師以外の5人も段々乗り気に成ってきた。

そこで沢彦は、

 

「本当の戦も同じじゃが、あちらは命がけの試合になる。

その訓練としても農民相手の試合に生ぬるい話を望むか?」

 

と、吉法師らに聞くと、

吉法師ら他の5名も含めて何気に目つきが代わり、

 

「いや!!本気でいい。」

 

と、答えた。

初陣を控えていきり立つ少年たちは、

沢彦の言葉から本気で試合う大切さを理解したのだ。

沢彦は気合に満ち溢れた少年たちを見て、

 

「成らばしばし待たれと」

 

と言って、腰かけていた縁側から奥の部屋に入って行った。

 

待つこと2、3分…

 

沢彦は農民たちが着る粗野な衣を持ち出して縁側に置き始め、

 

「その身なりでは城中の者と直ぐにバレる。これを着なされ。

それから那古野の城下に行く。」

 

と、着替えるように促した。

吉法師たちは条件を呑んで試合うつもりに成っていた分、

何の抵抗も無くそれに着替えた。

 

着替え終えると吉法師は、

 

「何とも軽い服じゃな。」

 

と、不思議そうに言い放つ。

武家の着物と違って布一枚の衣ゆえに、

それだけ重さも違うのは当然である。

 

「その粗野な服では不服か?」

 

と沢彦が聞くと、吉法師は、

 

「いや、動きやすくて寧ろ良い。」

 

と、答えた。

他の5人は少し抵抗があった様子だったが、

吉法師の言葉に押される様に、

何となく動きやすさに好感を覚えだした。

 

その後、沢彦は結っていた髷を外させ、

髪を紐結に代えさせてから

吉法師らを連れて那古野の城下へと向かった。

 

このいで立ちがいわば歌舞伎ファッションの始まりで、

この時はまだ沢彦の趣味のせいか地味な柄の衣で有った。

これが徐々に吉法師たちは自前の衣を揃えて行くようになり、

それがいつしか奇抜なモノへと変貌していくのであった。

 

どうも・・・ショーエイです。

いよいよ吉法師こと信長たまが、

大うつけへと成長していく過程に入りました。

元々暴走族の様な感じにする予定は無かったのですが、

色々と流れを推察していくと、

どうやら暴走族の様な感じだったのは

まんざら嘘でもなさそうな感じに成りました。

 

結局、実践的に戦術を学ばせると考えた際に、

戦遊びという手法に結びついたわけです。

 

ヤンチャな子は今でも喧嘩遊びをするわけで、

寧ろ農民の子供らはゲームも携帯も、ましてや漫画なく、

本など高くて手にすら入らなかった時代。

スポーツなど有る訳も無く、

そう考えるとこういう遊びに成るのが当然と言えます。

 

農民の子らは下手したら武士よりたくましいとも言えます。

ある意味、身体的に。

武士の子は寧ろ剣術などの技術的な面では

強くなったのかも知れませんが、

楽して暮らせた分、体は農民の方が強かったと考えても良いと言えます。

 

多分、身分を問わずに武家に登用した信長たまは、

その実態を体験していなくては成らず、

それなくして発想を得る事は、

かなり難しいと言えるのです。

 

まあ、相撲好きという話で、

農民と武家で相撲させたら農民の方が強かった

という実態から発想したとする事も出来ますが、

むしろ戦に結びつけると、

戦遊びかなという感じです。

 

さて愚痴愚痴…

 

今日は道徳に関して…

道徳を語る人間は合理的ではな!!

 

何故か?

 

道徳と言うのは人の価値観の問題です。

法律で有れば罰則がある事で、

守る義務が生じます。

道徳に関しては守る義務は有りません。

故に価値観の違いで片付いてうのが、

ある意味グローバルスタンダードな考え方です。

 

キリスト教徒がイスラム教徒にキリスト教の教えを説いても、

価値観が違えば理解は得られません。

 

これは民主主義国が共産主義国に価値観を語っても、

価値観が違うゆえに理解は得られないのと同じです。

これに法律という部分で言えば…

国連憲章の内政不干渉が法的な根拠に成る為、

民主制を押し付けても意味が無いのです。

 

価値観の違いを他人に押し付けられて、

押し付けられる方はどういう気持?

腹が立つ話で、

場合によっては喧嘩に成るだけです。

 

そういう事を割り切って考えて、

自由とは何か?

そういう視点で他人の自由は尊重し、

自分の自由の権利は保持する。

それこそが民主制の基本であることを、

知っておいてもらいたいです。

 

信長たまの歌舞伎ファッション。

当時の常識では認められないモノだった訳ですが、

そういう風潮故に皆同じ恰好するのが良いのか?

自由で自己主張が高い社会ゆえに、

色々なファッションが生まれやすく成る訳で、

個人の価値観を尊重し合う自由だから、

そういう社会が成立するのだという事も理解して欲しいです。

 

他人は他人、自分は自分。

権利の尊重というのはそういう話で、

民主制に於いてはこうした権利の保証が

法律、憲法上で守られる故に、

国民主権の民主制なのです。

 

多数決で決めるのが民主制では無いのですよ。

それは寧ろ民意制と言うべき話で、

マイノリティ(少数派)の保護が無視される状態でしか無いのです。

日本人で勘違いしている人多すぎ!!

こうした矛盾を克服した言葉が民主制の意味で、

そこの理解度も無く民主制を語るのなら、

民主制の理解度が12歳以下と言われても文句は言えません。

 

【第十話 花倉の乱】桶狭間へのカウントダウン 残り15+9年

〔ドラフト版〕

 

桶狭間に於いて今川義元は首を取られた大名として有名で、

大軍を以て信長に敗れた敗将のイメージが強い。

桶狭間には様々な候補地がある訳だが、

その中で現在の中京競馬場寄りの北側ルート、

いわば鎌倉街道を通って

そこから鳴海を囲むように行軍していたのなら、

筆者は今川義元を愚将と評価したであろう。

そしてそういう行軍であった事を寧ろ望んでいた。

その方がこの桶狭間を解析するのに簡単だったからだ。

しかし、調査していくうちに今川義元は堅実な行軍をしており、

定石通りの戦いであったなら確実に勝利していたといえる。

 

現代人はゲームの感覚に頼って戦争を見がちで、

歴史家は資料に頼って

そこで見えない駆け引きを見落としがちなのである。

 

圧倒的不利からの大逆転は、

大軍の抱える難題を理解しなければ成らず、

その点に於いては三国志の赤壁の戦いは、

両陣営の状況が記された珍しい記録である。

そこには兵糧の問題であり、

疫病や弓矢の数など、

ただ単に兵力だけの話では済まされない点が伺える。

 

いわば長期化すればするほど兵力の多い側は、

兵士に食わせる兵糧で悩まされることに成る。

 

兵士の体力や精神的な部分も色々と影響する。

無論、劣勢側の精神状態は崩れやすい。

しかし、決死を決めた、いわば背水の陣と化した部隊は、

指揮官への信頼が有れば強く保てる事も有る。

 

坂道を駆け上がった後に戦闘となる状況も

現実的に考えて見る事も大事だ。

体力のある者…いわばスポーツ選手だったとしても、

1日、2日は何とか成るかも知れないが、

それ以上連日して続くと疲労感はかなりのものとなる。

それでも体力を消費して駆け上がった先に、

同じレベルの選手が居たとしたら、

その時点で不利になる点は否めない。

これらが地の利と言われる部分で作用することに成り、

それは坂道に限らず、沼地や川を渡る事でも発生する訳だ。

 

筆者はゲームで遊ぶことが多く、

最近のゲームではこうした要素が

よく反映されている点は理解しているが、

そうした効果がゲームであるがゆえに緩和されており、

さほど実感するレベルとは至っていない。

 

それらの要素を踏まえて、

今川義元が討ち死にした桶狭間の位置を見てみると、

前線への補給拠点を兼ねた

指揮をするに最適な場所であったことが伺える。

いわば補給第一拠点の沓掛城から、

桶狭間を経由してそこから前線を支援する形にするなら、

その輸送経路は守りやすく

また素早く前線に援軍も送れる場所に成るのだ。

 

信長の逆転劇の詳細は後程記すわけだが、

今川義元が決して愚かな武将で有った訳では無い事は

知っておいてもらう方が良い。

 

その今川義元は幼名を芳菊丸、そして梅岳承芳と名乗り、

家督相続によって義元と成る。

父は今川氏親で、母は寿桂尼とされているのが基本で、

氏輝の5男であった。

今川氏親は自身の家督相続、

いわば北条早雲とされる伊勢盛時の支援を受けて成し得た経験から、

嫡男以外は出家させる形を取ったとされる。

次男の彦五郎とされる人物に関しては、

嫡男の氏輝が病弱で有ったため出家をさせていなかったとされているが、

氏輝と彦五郎がほぼ同じ時期に急死しているため

同一人物と考えられてもいる。

 

幼少の義元いわば芳菊丸は4歳で駿河の富士郡にあった善得寺に預けられた。

善得寺の住職承舜が亡くなると、その弟子の九英承菊が後を継ぎ、

芳菊丸の教育係を務めた。

この九英承菊が後の太原雪斎である。

承菊(雪斎)は京の建仁寺という京都五山にあたる名門の寺で修行し、

その才覚を評されて氏親の要請で駿河に招き入れられたとされる。

元々の出自が今川家の譜代の庵原氏であった事もあり、

何かと駿河今川との関りも元から有ったとされる。

それほど義元の父・氏親に期待されていた承菊なら、

本来は嫡男の氏輝の教育係と成っているべきだが、

承菊が選んだのは5男の義元こと芳菊丸であった。

 

おそらく承菊は嫡男氏輝が病弱であった点を察して、

これを補佐するより、健康な芳菊丸を育てて、

氏輝が早世しなければその参謀と成る人物に、

早世した際は、その後継ぎとする意味で、

こちらを選んだと思われる。

こうした経緯から氏輝=彦五郎と考える方が良く、

芳菊丸の序列は、氏親の4男で、

その正室寿桂尼との間では次男であったとする方が、

辻褄は合わせやすくなる。

 

太原雪斎こと承菊の下に弟子入りした芳菊丸は、

承菊に従って2度も上洛して修行している。

1525年の最初の上洛は、芳菊丸まだ6歳の時で、

1530年にはその上洛した地の建仁寺で得度の儀式、

いわば頭を丸めて袈裟を与えられ僧侶と成り、

芳菊丸を改めて承芳と成った。

その後、一度駿河に帰国し、

1533年14歳の時、いわば元服に値する年齢で、

今度は京の妙心寺へ赴いて、道号「梅岳」を名乗り、

梅岳承芳と成るのであった。

この間、承菊こと太原雪斎が師として付き添っており、

かなり厳しく僧侶としての鍛錬を仕込まれたと考える。

 

1526年、義元がまだ7歳の時に、氏親が亡くなっており、

この頃に兄・氏輝が13歳で跡目を継いだ。

寿桂尼の存在によって跡目争いはほぼ無く、

無難に事が進んだ今川家だったが、

結局、今川家中の力は寿桂尼に集中する事と成り、

氏輝はその母の傀儡という存在であったと目される。

無論、息子を立派な後継者とする意味で、

寿桂尼は政務を徐々に氏輝に移すようにはしていたように記されるが、

結局は母親の言いなりに動く息子であった点は否めない。

それ故に寿桂尼は氏輝を溺愛していた。

一方の梅岳承芳と成った義元は、

4歳で既に手元から離れており、

ほぼ京と駿河の離れた場所故に、

お互いが合う事すらなかったと言える。

故に寿桂尼の中ではさほどの愛情は無いといえる。

これは寧ろ信長と土田御前の関係でも言える現象で、

母親の愛情が届かない場所で過ごした梅岳承芳も、

ほぼその存在が麻痺した状態であったと言える。

 

1536年にその氏輝が死ぬと、

順当に見えたかの後継者問題が

思わぬ亀裂から生じてしまうのである。

ここからは歴史家が見えなかった実態を

当時の情勢から分析して話を進めて行くものと成る。

記録上で不可解な点は寿桂尼の行動である。

梅岳承芳(義元)が跡目を継ぐことで一致していた寿桂尼は、

花倉の乱で敵方になる福島家と同調して、

玄広恵探の支持に切り替えたという記録が存在する点である。

それらの記録から義元は寿桂尼の実子では無いとする説も浮上した。

ところが情勢を紐解くと、

義元は武田との同盟を望んでおり、

一方の寿桂尼は、

北条との関係で武田との同盟は不義を起こすと考えていた。

政策論争、いわば家族の方針で親子が喧嘩する事は自然な話で、

旅行の行き先で揉めて家族間が険悪になる事も有る訳だ。

こうした関係性から寿桂尼が義元に失望したとすることも考えられる。

また溺愛した氏輝とは異なり、ほぼその成長過程すら知らない次男に、

親としての絶対の信頼を与える事は寧ろ難しく、

猜疑の心すら生じる話でもある。

いわば、

(自分の話が理解できないその次男坊は、本当に自分の子供の芳菊丸なのか?)

と、疑いどこかで知らない子供にすり替えられたのではとも考えそうな話である。

よって寿桂尼としては自分と意見の合致する北条よりの家臣に寧ろ期待し、

実子では無いが、今川家の為にそちらを支持した方がマシと考えた可能性は高い。

 

何故、寿桂尼はここまで北条に拘ったのか?

 

それは夫を愛する良妻の思考ゆえ、と言える。

夫である氏親は北条早雲こと伊勢盛時に多大な恩があり、

その後も北条家の支えと共に今川家の領国経営が成り立っていた。

良妻であるがゆえに夫が大事にした関係を堅持する気持ちも強く、

それが今川家繁栄の条件であると考えても可笑しくはない。

そういう母親は氏輝にとっては賢母である。

故に成長した後も、母の意見を取り入れてこれに従っていたと思われ、

その結果、氏輝の相続は上手く行っていた。

三河の森山崩れと同じくして甲斐の武田信虎の動きには、

北条家と連携してこれを凌いでいる。

無論、氏輝が急死したのはこの直後であり、

北条家を蔑ろに考える事は許される時期でもない。

 

一方の太原雪斎こと承菊は武田との和睦を狙っていた。

そこには北条との関係を切って武田と結ぶという発想では無かった。

しかし現実には2者択一と成る。

甲斐の武田信虎は関東の覇権を狙う北条が敵対する

武蔵の扇谷上杉家と結んでいたからだ。

無論、そうなる事は雪斎こと承菊も承知の上で、

承菊は武田と結ぶ道を勧める。

 

1536年今川氏輝の葬儀で梅岳承芳は

後継者を意味する喪主として参列しているようで

この時点で当主として認められている。

さらには京に人脈を持っていた承菊(雪斎)の計らいで、

足利義晴からの偏諱も賜っており、

義元と名乗る事で、

家中にその正当性を証明する手はずも整えていた。

 

最愛の氏輝の死で、

寿桂尼はその弟の義元に期待したかに感じるだろうが、

人間の本心と言うのはそこまで優しくはない。

愛情の重さは変化する事はあっても、

常に平等とは行かず偏ってしまうところがある。

そうした中で自分の側で成長し、

同じ価値観で理解し合えた氏輝と、

自分から離れて自分の価値観と異なる考えで成長した義元、

母親としての愛情は全く異なってしまう。

 

また母性の本質として、

夫である氏親への愛の継承が氏輝であり、

その愛を継承する意味として夫の今川家を守るという意識に、

母性は働いていく。

その氏輝が死んだ以上、

その母性は今川家という部分に注がれ、

義元が例え自分の実子であっても、

氏親の残した今川家を崩壊させると感じたのなら、

今川家という意識に偏重するのも当然なのである。

 

承菊の手際の良い義元への家督相続は、

寿桂尼も噂通りの才覚と関心したわけだが、

武田との同盟を示唆した事で、

寿桂尼は猜疑を抱いた。

時を同じくして寿桂尼は北条氏綱(早雲の後継ぎ)の嫡男、

北条氏康に自分の娘瑞渓院を嫁がせている。

武田と北条は上記に記した通り、決して相容れぬ状態にある為、

休戦ならまだしも和睦・同盟という話に成れば、

明らかな北条への裏切りと成る。

 

太原雪斎こと承菊の進めていた話は寧ろ後者の話で、

この時点で信虎の娘の定恵院を義元の正室に迎える話まで

進んでいたと思われる。

 

才覚はあれど新参者である承菊を快く思わない人間も居た状況。

いわば承菊は義元の教育係であったにすぎず、

その地位を利用して今川家を自分勝手に操りだしたという印象を与えたのだ。

そこで重鎮で且つ、元々伊勢盛時(北条早雲)に近かった福島正成は、

寿桂尼に、

 

「還俗したばかりの新参者の義元殿では、今川の伝統も理解せず、

北条との関係を蔑ろにして、いずれは今川を危うくする。」

 

と説いた上で、

 

「今川が誤った方向に進む前に、当家(福島家)の姫が残した氏親公の実子、

玄広恵探殿を寿桂尼の養子として迎え入れた上で、

正当な後継者として迎え入れる形を考えて貰えないだろうか…」

 

と、提案した。

寿桂尼も北条との関係を危うくする承菊と義元では、

今川家の将来を託せないと判断して、

福島正成の提案を受け入れた。

恐らく寿桂尼が玄広恵探支持に回った経緯はこういう流れであったと推測する。

ところが福島正成が玄広恵探を招き入れた時点で、

事は発覚する。

 

恐らく玄広恵探の動きを警戒して監視していた承菊(雪斎)が、

福島正成の招きで久能城に入った知らせを受けて、

騒乱の気配を察したのである。

 

と、言うよりもむしろ承菊ほどの才覚がある人物なら、

敢えて不穏な空気…いわば武田と同盟をちらつかせて、

反目に回る人間をあぶりだし、

その反目が旗頭として祭り上げる玄広恵探を

早めに始末する策を考えたとも言える。

手はずを整えて義元を正当後継者としてアピールしておいたのも、

こうした動きが広がる前に圧倒的な状態で治めるためだったとも言える。

 

さらに承菊ほどの人物なら、

今川の柱とされる寿桂尼の存在にも気を使っている。

寿桂尼が北条との関係を重視して、

武田との同盟に納得していなかった事を察していた承菊は

武田との同盟を見直すとした旨を寿桂尼に伝えて、

寿桂尼の影響力を早めに寝返らせた。

 

策士は腹黒いとも思われる事を平気でやる。

寧ろ承菊の腹は、義元の下で今川を盤石な状態にする事であった。

承菊は寿桂尼に

 

「寿桂尼さまの考えを改めて精査すると、

やはり寿桂尼さまのお考えが正しいかと思い、

何卒、今後とも北条との繋がりにご助力頂ければと思います。」

 

そして承菊は

 

「武田との盟約は一度白紙に戻す様に計らうつもりです。」

 

と、寿桂尼をヨイショする形を取った。

そして福島正成と玄広恵探の動きに言及して、

 

「正成殿に不穏な動きがみられるゆえに、

寿桂尼さまの力で何卒説得頂けないだろうか…

今は義元公の下で今川を団結させることが一番大事と考えておりまするゆえに」

 

と、付け加えた。

すると寿桂尼は、

 

「正成殿と玄広恵探殿には私から説得してみます。」

 

と、言って自ら説得に出向いた。

この間、承菊は予め説得が失敗する可能性を考えて、

早めに駿河府中の今川館で軍備を整えてこれに備えた。

 

寿桂尼の説得は無論手遅れで有った。

愛情の重さが変化して、

価値観の異なった義元を一度は突き放したが、

寧ろ自分の価値観を理解された事で義元を息子として認めたのだ。

ところが福島正成からすればそれは身勝手な話でしかない。

一度は認めたはずの話が、反故にされたという事だ。

ここで寿桂尼は福島正成のその本心に猜疑の目を向けるのだ。

いわば今川の家の為と称した福島正成の気持ちは、

実は口実でしか無く、

本心は自身の血族の玄広恵探を跡目にしたかっただけという点に

陥るのである。

正成の腹の内を実際に批難できる話ではない。

日本人は道徳的な見識を勘違いして、

正成の野心的な心を批難するであろう。

しかし誰しも自分が実権を握る方が上手く行くと考えるのが当然で、

その上で今川家の為になるというのは嘘ではないのだ。

結局は誰が義元であり寿桂尼の権限を利用して

今川をコントロールするかの話な訳で、

それが福島正成で有るのか、承菊こと太原雪斎で有るのかの違いなだけだ。

しかし、正成は運が悪く、

むしろ承菊にその野心をあぶりだされただけと成ったのだ。

 

交渉が決裂し、寿桂尼を返すや、

意を決した福島正成と、名を今川良真と改めた玄広恵探は、

すぐさま今川館を急襲した。

寿桂尼の交渉が決裂し、

今川館に軍を差し向けた時点で、

正成と良真は今川の謀叛人と成る。

こうした印象固めも承菊の狙い通りとなった。

予め準備を整えていた今川館は固く守られ、

逆にあっさりと形勢不利に追い込まれて、

元の久能城(静岡市)にすら戻れず、

方ノ上城(焼津市)へ逃げ込み、

その後、花倉城(藤枝市)へと入って態勢を整えた。

 

承菊は説得に失敗した寿桂尼を

あえて頼る姿勢を示して

北条からの援軍を手配してもらった。

そうした細やかな配慮も忘れないないのが

優秀な軍師たる姿である。

 

無論、北条の援軍の必要も無く、

今川の家臣岡部親綱が方ノ上城を攻め落とし、

すぐさま花倉城は包囲された。

遠江で福島らに同調する者も現れたが、

ほぼ難なきを得て鎮圧されている。

 

包囲されて間もなく、福島正成と良真は花倉城を逃げ出すが、

良真は瀬戸谷の普門寺にて自刃し、

福島正成は甲斐方面へ落ち延びた際に、

武田信虎の手勢に捕まって殺されたとされる。

 

一方、その息子とされる後の北条綱成という部将は、

方ノ上城から逃れた際に、援軍に来ていた北条の手勢に捕まり、

そのまま小田原に送られたと推測する事も出来る。

その後、父・正成の敗北の報を受けて、北条に下り、

その勇ましさを評されて氏綱に気にいられ、

その後その一族に招き入れられたとする方が、

流れとしては理解しやすいと思われる。

 

記録上では花倉の乱は

大きなお家騒動に成らなかったものとして考えられるが、

実際に複雑な関係性を紐解くと、

そこには太原雪斎こと承菊の見事な采配の影が見受けられる。

ここまで手際の良い流れで、

かつ寿桂尼に対しても配慮を以て治めたのは、

仏門に精通し、俗世の心情を察する事に長けた手腕とも言える。

当初寿桂尼も疑心暗鬼であった承菊の才に、

事が治まれば圧倒されたと気づくのである。

 

そうした信頼をも勝ち得た承菊は、

再び寿桂尼に相談を持ち掛ける。

いわば武田との同盟の話である。

 

一介の教育係から名僧という印象に変わった承菊の言葉は、

全く別の話として理解できた。

そこで承菊は寿桂尼に説いた

 

「今川と北条の関係は、今川が北条に頼る形では

今川の為に成らず、北条が今川を頼る形こそ、

今川にとっての北条となります。」

 

と、難しく話した。

そして地の利を話す…

 

「北条は武田、扇谷上杉を二方向に敵が存在し、

これに今川が加われば三方向が危うく成ります。

今川は三河、武田と二方向に敵が居るだけで、

力は分散されます。」

 

更に・・・

 

「今川が今為すべきは京への上洛の道筋で、

それには三河と尾張を手中に治めるべきで、

願わくば武田と北条の双方をこの味方とするべきです。」

 

そして…

 

「武田は今戦に疲弊し、盟約を結ぶには最適な時を得ており、

武田が信濃に集中できるのならこの盟約は相互の利と成り得ます。

北条は一時的にこれに反発するでしょうが、

三方の敵に囲まれたと理解すれば、自ずと今川を頼ってきます。」

 

この話に寿桂尼は気がかりな事を感じた。

それは自分の娘の瑞渓院の事である。

既に北条氏康に嫁がせた彼女の身を案じての事である。

そこで承菊は…

 

「寿桂尼さまには今後も北条との間を取り持っていただく形で、

一芝居打ってもらいたいのです。」

 

承菊の言葉は少し解りづらかった。

承菊は続ける。

 

「寿桂尼さまは武田との盟約には反対しているが、

私と義元公がこれを聞き入れずに困っていると北条にお伝えください。

それで北条に嫁がれた瑞渓院さまの身は守られることと・・・」

 

承菊は寿桂尼に今川の内情を瑞渓院に流して、

北条に密偵としての価値を意識させれば良いと話した。

無論、承菊はその辺の演出も上手くコントロールするつもりでいた。

しかし、寿桂尼は、

 

「それでも武田との盟約は考えなおせぬのか?」

 

と、承菊に聞くと、

承菊は

 

「三河は松平清康が亡くなって、今時を得ております。

伊豆からの敵は守りやすく、甲斐からの敵は守りにくい。

故にこの期を確実に得る上では、武田との盟約が必須なのです。」

 

と、そう説明した。

実際に伊豆からの敵は富士山麓で狭くなった海岸線を守り切れば、

これに備えやすいが、

甲斐からの敵は山上から駆け下りてくる形に成るがゆえに、

守りにくく戦いにくいという地の利の話も合った。

無論、駿河から甲斐へ攻め込むには、

山を登って行く分、兵は疲弊して不利になる。

甲斐の武田が攻められにくかったのも、

こうした地の利を得ての事であったと考えられる。

 

ある意味、寿桂尼がこれを聞き入れない可能性も有った。

しかし、その駒となる今川良真こと玄広恵探は既に居ない。

故に無理に逆らう選択肢は無いと言えた。

無論、承菊はそういう失礼な脅しは用いない。

あえて寿桂尼に協力を持ち掛けるのである。

 

「いずれは北条と再び結ばねば成らない故に、

寿桂尼さまにその繋がりを保っていただく必要が有るのです。

京の混乱を今川が平定する為に、何卒、お力添えを。」

 

と、承菊は頼み込むのであった。

寿桂尼も名僧として敬意を持ちはじめた相手の言葉に

信頼を寄せてみる決断をするのであった。

 

1537年武田信虎の娘、定恵院が義元の正室と成る事で、

今川と武田の間で強固な甲駿同盟が結ばれた。

当時武田と抗争状態にあった北条は、今川の裏切りと見て、

これに憤った。

そして甲駿同盟が成立するやすぐさま今川に軍を差し向けて、

富士川以東を占拠した。

これを第一次河東の乱と言う。

無論、富士川を挟んで北条の侵攻を食い止める事は、

承菊が考えていた防戦でも有ったため、

北条側もそれ以西に向かう事は適わなかった。

 

しかし、武田と扇谷上杉と結んで三方向から仕掛けるも、

承菊の予想とは異なり、北条は見事にこれを退けた。

ある意味、北条も富士川を挟んで守りを固め、

寧ろその間に扇谷上杉の当主が亡くなってしまい、

その家中で騒動が起きた隙に、北条は河越城を落としてしまったのだ。

 

さすがの承菊も人の子である。

苦戦を強いられて北条が同盟参加に興味を示すと考えていた目論見は、

まんまと外れてしまうのであった。

しかし、それでも富士川を挟んで北条を食い止める算段は

上手く機能した為、三河攻略へ目を向けられるので有ったが…

武力行使は難しく別の方法に切り替えなければ成らなくなった点は否めない。

 

そこに…逃亡していた松平広忠の存在が飛び込んできたのだ…

 

どうも・・・ショーエイです。

太原雪斎がこんな凄い軍師であったと、

当初は考えても居なかったみたい。

花倉の乱を調べて行くうちに、

色々意味不明な寿桂尼の動向が見られたため、

それらに辻褄を合わせて行くと、

やっぱりこの太原雪斎=九英承菊の才覚に

頼らざるを得ないという事が見えてきたのです。

 

やっぱりそれ相応に評価された人物だけあって、

やっぱりその才覚が生きる場面だったようだという話に成ったわけです。

 

さてと…グチグチ…

 

【学術会議問題…その後】

何とも…国会答弁見ていても何をやっているのという感想。

自信満々に立憲民主党が質疑でやっているが、

追い込むところ追い込めていない。

 

相手=自民党が、

「説明する必要が無い!!」

と逃げ切るのに対して、

「説明責任を果たしていない!!」

と反論した所で…国民にとっては

進展の無い状態を続けているだけにしか見えないという事を、

そろそろ理解した方が良い。

解るよ…正しい事言っているのは…

でも、殆どインパクトのない事。

寧ろその辺はトランプを見習っても良いかも。

 

寧ろ自民党を追い込緒むのなら、

「説明する必要が無い!!」

という言葉に対して、

「それ違法です!!」

または

「それ違憲です!!」

と言い続ける方が、効果が有る。

 

そしてそこに根拠があれば、

トランプの言葉よりも正しく聞こえる。

トランプはそう言い続ける事で、

錯覚を与える訳だが、

それでも効果はある点は今回の大統領選を見れば

理解できる。

しかしそこに根拠を持たせれば、

それ以上の効果が出る話です。

 

【先ず違法性・・・】

任命とはどういう意味ですか?

任命とは「任じる」という行為以外の言葉は有りません。

任命拒否とはどういう意味ですが?

任命拒否とは「任ずること拒否する」という意味に成ります。

選任とは?

選任となって初めて「選出して任ずる」という意味に成ります。

 

法解釈に於いて、当ブログでは、

多重解釈、最大許容という言葉を用いてますが、

意味が通じない言葉をどう多重に解釈しても、

その意味が該当しないものは許容にも入りません。

 

いわば任命という言葉の中に、任命拒否という意味は含まれない訳で、

法文書に「任命する」とあれば「任命」以外の行為は出来ないと成ります。

これを任命するの中に任命拒否という意味が含まれるという解釈は、

そもそも馬鹿な話なのです。

 

学術会議の文脈には

「内閣総理大臣は任命権者としてその権利を有する」

という表記では無く、

「内閣総理大臣が任命する」

という文脈に成ってます。

上記の表現なら、「任命権者としての権利」という言葉で、

その解釈は変わってきます。

しかし、「任命する」とだけある場合、どう解釈しても任命することしか出来ないのです。

任命の言葉の中に、任命拒否という反対の意味はどの辞書引いても出てこないでしょ。

だから任命という言葉にそれらの権利は無いのです。

選任ならば、選ぶという権利がある訳だが、

どうやらその言葉を勘違いしただけのバカの故事です。

 

さて、こうした馬鹿な故事どおりの法解釈を用いた場合、

憲法15条2項に違反した事にも成ります。

 

15条の2では、公務員は全ての国民に奉仕するのであって、一部に奉仕するものでは無い。

全ての国民に奉仕している証明は、

その行為が憲法または法律に従って、だれにも公平である証明があってこそ言えるわけで、

法律、いわば法律としてその公平性を国民と契約したものに反した行為は、

全ての国民に奉仕したことには成らず、

自分の私的なところ奉仕したことと成るのです。

 

どんだけ言葉で国民の為と言っても、

そんな証言はなんの法的効力も有りません。

法律に基づかない行為は

全て違反行為なのです。

いわば国民の信託を裏切った行為なのです。

 

こういう根拠を示した上で、

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と、相手と同じように繰り返し言えば、

寧ろその言葉の印象は変わってくる。

いわば、

「説明する必要が無い!!」

は、黙秘権に成らず、

寧ろ違法性に対して反論できない言葉に成るのです。

 

こうした大衆に与える印象心理作戦が解らない立憲民主党は、

何を頑張ても評価されないだけの話なので、

少しは勉強してくれ!!

 

相手の言葉にイチイチ突っ込んで反応するのではなく、

説明が足りないのなら寧ろ

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と繰り返すことで、

聞いている人にも、

ただ政府の説明不足という意味では無く、

むしろ違法状態のままなんだという印象が強まり、

より追い込める話に成る訳です。

マスコミもそれを聞かされることで、

何故違法になるのかを説明していく議論が生じる分、

根拠があればそれだけ強くアピールできるのです。

 

繰り返しいいますが…

立憲民主党はこういう効果をちゃんと勉強しましょう。

それ出来なければ、国民の期待すら勝ち取れないだけです!!

【第九話 森山崩れ】桶狭間へのカウントダウン 残り15+10年

〔ドラフト版〕

 

清康の孫、家康と信長、そして明智光秀の間で生じた

奇妙なエピソード先に話しておこう。

多くの人にも聞き覚えのある話で、

明智光秀が信長に足蹴にされて、

それが本能寺に繋がったと言われるエピソードだ。

現代でも良くある出来事なので知っておくといい。

信長が腹を立てたのは光秀が出した料理ではない。

いわば明智光秀ほどの人物が

そんな粗相な料理を出すとは思えないのである。

寧ろ、料理自体は完ぺきなものであった。

ところが光秀は当時上品とされた京風の味付け出しており、

薄味に慣れない家康は一瞬、顔をしかめて見せたのだ…

信長は寧ろそこは気にしなかった。

ある意味、家康の口に合わなかっただけと察した。

しかし、その表情を光秀も見逃さなかったわけで、

信長の目…いわば信長が

その些細な表情も見逃さないことを知っていた光秀は家康に

 

「京風の味付けにした故に、徳川殿の口に合いませぬか…

こちらの手違い故に誠に失礼いたしました。」

 

と、家康に謝罪したのだ。

普通の人は光秀の謝罪に何の問題も感じないかもしれない。

現代の日本では光秀は誠実に謝罪したのだから、

何に問題が生じているか解らないだろう。

 

ところが信長は

家康は何とも言えぬにがにがしい表情を浮かべたのを見逃さなかった。

信長はここでキレたのだ。

そして信長は光秀を睨め着けて、ため息をついた上で、

家康にこう説明した。

 

「京は内陸で、長年荒廃した状態であった故に、

塩が貴重品らしくてのう…それ故に薄味が当たり前の様だ…」

 

そして同じ出された品を口に入れて、

 

「まあ、慣れればこの生臭い味も悪くないが…

味としては貧相に感じるやもしれぬ…まあ、楽しんで下され。」

 

と、家康に伝えた。

別段、ブチ切れてその場で光秀を足蹴にしたかは別であるが、

信長が光秀を政治の舞台に呼ぶことは

以後無くなったのは言うまでも無い。

そこで光秀は自身の評価が落ちた事へ苛立ちを感じたのかもしれない。

無論、信長からすれば足蹴にして叱責してもいいほどの失態である。

 

普通の人は何でも謝罪すれば許されると思っているが、

サービス業でも同じだが、

客人に恥を掻かせるような行為は、

謝罪では無く侮辱なのだ。

信長からすれば

それなら何の謝罪も要らなかったという考えで、

寧ろ光秀の謝罪は、

「家康殿は田舎者ゆえに都会である京の味は解らない」

と、伝える意味を与えたのである。

故に、信長は京は貧乏くさい故に薄味なのだと、

寧ろ家康の心情を察してフォローを入れたのだ。

 

因みにここでは「慣れれば生臭い味も悪くない」と、

京風の味付けを否定もしていない為、

京をあからさまに侮辱している訳では無く、

寧ろ客人である家康への心遣いが優先で言っているのだ。

 

この事件を新聞の見出しの様に記すと、

「信長激怒!!生臭いといって光秀を足蹴に!!」

と言えてしまい、足蹴りしてなくても

光秀の行為をを一方的に否定した意味の「足蹴り」とも書けるのである。

 

こうした見識の違いから生じる人間関係のズレは、

「森山崩し」の中でも有ったと言える。

 

清康が進軍を開始したのは、1535年の12月であった。

記録上では12月3日(旧暦)に岡崎を出発して、

12月4日には守山城に着陣している。

西暦で言うと、12月29日に森山崩れと成っているため、

12月27日に出立、12月28日に守山に到着である。

 

さて、気になするべきはこの日付。

12月後半と言えば、寒さも厳しく、雪が降っても可笑しくない時期である。

米の収穫期が一段落を得た時期でもある。

岡崎市から守山城のある名古屋市守山区までは、

現代の自動車のルートで計っても大体32キロほどの距離がある。

 

8千人の軍規模でこれを移動するとしても、

武家の人数は多くて2千人、残りは農民から徴兵された足軽である。

 

マラソン選手なら45.195キロを、2時間半位で駆け抜ける距離で、

一般男性で完走できる平均が4時間半と考えると、

さほど遠くは感じないかもしれないが、

実際に歩くと成るとかなり遠い。

しかし、一両日掛けての進行であったのなら、

冬の寒空の中でも、

早いとも遅いとも言えない普通のものと考えられる。

 

清康は前もって攻め落とした、岩崎城(愛知県日進市)と、

品野城(愛知県瀬戸市)から先発隊を出して、

守山城近くに布陣の準備をさせた。

数は、岩崎城からの1千を工兵として布陣に当たらせ、

時間差で遅れてくる品野城からの1千に増援としての伏兵という形で、

その防衛に…

そして本体が到着する頃には8千人規模の布陣が完成している状態で、

守山城に面した。

実際に8千人は大きくサバ呼んでの数値だとしても、

半分の4千人でも大掛かりな人数と言える。

 

一方の守山城はほぼ60m四方の規模の城で、

サッカーフィールドの半分位の大きさと考えればいい。

その規模で考えれば農民兵を入れても

城内に入れるのは500人前後であったと言える。

城を攻める基本的な人数は城兵の倍以上有ればという所なので、

4000人の兵が有れば十分すぎる話に成る。

 

清康が冬場のこの時期を狙ったのは、

寧ろ敵の援軍が来にくい状況を考慮しての事かも知れない。

それでも援軍は二日以内には到着すると考え、

敵の援軍と対峙する部隊に3千、城の攻め手に1千と考えれば十分である。

敵の援軍より先に地の利を得た場所に布陣できれば、

いわば勝算は大きくなると言える。

 

信秀がこの事態で急遽兵を徴収できても2000~3000が限界と見切れた。

また、更なる増援となる場合も、清州の大和守家が関与せねばならない話で、

それ以上は厳しく時間を有するとも踏んでいた。

記録上には、弾正忠家と反目状態にある織田藤左衛門が清康の軍を招いており、

ここで清康、信秀両方が雌雄を決する状態に成れば、

むしろ信秀は弱体化する事と成り、藤左衛門寛故は漁夫の利を狙えるとも言えた。

また更なる増援という部分でも、大和守達勝が絡む話に成っており、

那古野城の件で信秀の父・信定に煮え湯を飲まされた両名にとっては、

信秀を弱体させる好機としても考えられた。

清康と藤左衛門寛故の話はそういう部分で調整されていたと言える。

 

さて、ここで三国志演義並みの計略用いて話を進めるものとする。

まず、離間の計である。

清康の運の悪さは、策士が敵に居たというよりも、

策士が味方に居り、そして自分の反目を支持していた事だ。

 

冬場の行軍に於いては様々な弊害が生じる。

それは物資の運搬である。

先に述べた様に、兵士は身軽に2、3日の食糧を携えて目的地に向かえば、

それで十分な速さで着陣できる。

しかし、その後に軍需品である矢、そして兵糧、

また冬場であったため薪などが追い付いて来なければ、

寒さで兵は凍えてしまう事にも成り、

布陣に影響が出る。

 

記録上では岡崎を出立してから3日目の早朝に

事件が起きたことに成っている記事があるが、

清康の守山着陣から5日ないし7日は有ったと考える。

※史実とされる記録では兵数や日にちの部分は曖昧な所が多いため。

伝承を辿って記録された話は特に怪しい。

 

清康の目算では、着陣して後日には物資が到着する予定であった。

しかし、その物資が一向に到着するどころか、

その手前の岩崎城にも到着していないという知らせを受けた。

この物資運搬に当たっていた人物が阿部定吉である。

これに類似したエピソードは

三国志演義の諸葛孔明と李厳という部将の話でも出てくる。

この時、孔明は李厳が物資の到着を遅らせた事で、

北伐退却の決断を迫られているのだ。

故に、物資運搬の遅延が軍に多大な影響を及ぼすことは、

理解するべき話である。

後に忠義を示して清康の子の広忠に阿部定吉が許されたとするならば、

清康が定吉を疑ったとする話に結びつけて考えると、

自然と辻褄としてこういう経緯が生まれてくる。

 

では…離間の計の話に戻して、誰が糸を引いていたのか…

それは酒井忠尚で有ったと考える。

忠尚は清康の祖父の長親(松平道閲)に忠誠を持っていた。

長親は清康よりむしろ信定の方が思慮深いと感じており、

今回の清康の行軍は三河を危うくするだけのものと危惧していた。

何故か…

清康は戦上手だと認めてはいるが、

織田信秀も中々の戦上手であることは聞き知っていた。

また、那古野城を一兵も損ずることなく、

ある意味、計略によって落としたという話が伝われば、

かなりの智謀の持ち主である点も伝わる。

 

この戦で清康が負けると考えるより、

寧ろ勝っても相当な痛手を受ける事は考えられた。

長親は北条早雲、いわば当時の伊勢盛時率いる今川軍と

死闘を交えて、辛うじて三河を守り抜いた経験がある。

それ故に清康が守山に出した兵力がギリギリでしか残らないとなれば、

春先に今川が攻め込んできた場合防ぎきれないだろうと考えてもいた。

実際に清康の目論見は外れており、

甲斐の武田信虎に今川を当たらせたものの、

今川は北条と結んで寧ろ武田の動きは牽制された。

いわば今川にはそれだけの余力が残ったのだ。

この見識は寧ろ酒井忠尚も同意しており、

長親が可愛がる清康の叔父・松平信定も認識していた。

故に清康では三河は守り切れないと踏んでいた。

 

事実は小説より奇なり…

離間の計を小説として組み入れるなら、

酒井忠尚が実行犯の阿部正豊を洗脳したとすれば、

話は簡単に作れる。

しかし、それは策士が策に溺れただけの物語で、

実際に策を弄するには博打でしかない。

いわば実行犯が必ずそれをこなすとは考えにくく、

寧ろそこから実行犯が清康に寝返って事実を暴露する危険もある。

また祖父である長親があえて孫の清康を誅殺するようなことは好むはずもない。

 

そこで考えられるのが清康がこの行軍で失態を演じたとすることで、

孔明が撤退した様に、軍を引かせるというものだ。

その間に手薄となった岡崎を松平信定が手中に治める事で、

清康の危うさを咎め、清康の父・信忠が廃された様に、

信定に家督を譲るというシナリオである。

いわばこれを信忠の代で一度成功させている酒井忠尚なら、

同じ事に勝算を抱くことは十分に考えられるという流れである。

 

物資の運搬を担っていたのは実行犯となる阿部正豊の父・阿部定吉である。

阿部定吉は三河各地から集められる物資を待って岩崎城でとん挫していた。

岡崎を発した物資が、未だ到着しないのである。

実は、酒井忠尚が野武士らを雇ってワザとその物資を奪わせたのである。

無論、物資の一部は報酬として野武士らに渡し、

残りは岡崎に戻している。

しかし、阿部定吉の下には物資が奪われたという報告だけが到着した。

離間の計は、いわば清康と阿部定吉に発生した不和である。

 

さて…ここからが酒井忠尚も予想だにしなかった出来事である。

弾正忠家には松平信定から関係を維持する意味で、

清康に撤退させる意図の話が通っていた。

無論、その詳細は示されなかった訳だが、

信秀は密偵を守山城に居る信光に送って、

「松平信定殿が清康を撤退させるよう計らう故に、それまで城を堅守せよ・・・」

と、伝えようとした。

この時の信秀の参謀は林秀貞である。

秀貞はこの内容を敢えて清康に掴ませるように進言した。

そして信光の下には、

「清康の大軍に怯えたふりをして、降伏を申し立てる。」

ように伝えたのである。

虚報・足止めの策である。

いわば、仮に清康が撤退しなくとも、これで2~3日の時は稼げると踏んだのだ。

2~3日稼げれば、信秀はある程度の軍を招集して援軍に向かえる。

仮に松平信定の計が功を奏すれば、

無事に事なきを得られる。

 

では…何故清康に堅守する報を掴ませたのか?

清康が事前に「信定が裏切るから堅守するように」という伝令を掴んだならば、

信光にはその事が伝わっていないと判断する。

その上で信光が降伏を申し立ててきたのなら、

寧ろその心情を好意的に察すると踏んだのだ。

そしてその交渉の間戦は止まり、

信光が交渉に様々な条件を盛り込んで、

あえて拗らせることで長引かせるのだ。

清康としても事前に伝令を阻止したという事も有って、

好意的に捉えられる故に迂闊に交渉を無碍にすることは出来ない。

いわば無駄な兵力を使わずに城が手に入るのなら、

それこそ望ましいと考えるのである。

 

それゆえ清康は対陣したまま動きを止めたのだ。

しかし、気がかりなのは叔父の松平信定の事である。

そこで物資が一向に届かない事に猜疑の念を抱いたのである。

いわば阿部定吉が叔父・信定に与して物資を留めているのではと疑った。

 

冬の寒空に凍えるような状態で対陣し続ける事になる軍は、

少ない物資で薪だけでなく兵糧も節約して布陣を続けねばならなかった。

清康は信光が降伏の申し出をしてきた以上、

今、ここで引くことは出来ない。

しかし、そうした陣中では様々な苛立ちが芽生え始める。

それは清康自身も同じだった。

 

心理的な条件、そして環境的な条件が揃った上で、

史実として残る記録に照らし合わせると、

ここからはそのままの内容と合致してくる。

史実の記録に有るのは、

信光が清康に内応を呼びかける。

清康が阿部定吉に謀叛の疑いを掛けて、

その息子の阿部正豊が清康を切り殺すである。

 

清康の苛立ちは猜疑の目を向けた阿部家に向けられる訳で、

陣中に居た阿部正豊へ風当たりは大変なものであった。

いわば清康のみならず、他の家臣らからも白い目で見られる事となるのだ。

そこで清康は岩崎城の阿部定吉を陣中に召喚するが、

物資が野盗に奪われたという言い訳など通じるとは思えぬゆえに、

息子の阿部正豊に手紙を渡すのである。

「もし自分が謀叛の濡れ衣で誅されるのなら、殿にこれを見せて欲しいと」

陣中で猜疑の目を向けられ、肩身が狭くなった正豊の心は病んでいた。

父の手紙から忠義を裏付けるものは無い。

寧ろその手紙を清康に見せたところで

疑いを晴らしてくれる状況に無いと踏んだ正豊は、

旧暦の12月5日(12月29日)の早朝、

朝一の馬稽古で馬に跨った清康の馬を襲った。

その際に忍者が使うクナイの様なもの…

矢の矢じりを用いて、馬の首筋に突き刺した。

馬が突然暴れて清康は振り落とされた。

そして落馬した清康に切り掛かり、

短刀で清康の首筋を描き切った。

突然の出来事で清康の供回りは動きが鈍ったが、

正豊が逃げる前にこれを取り押さえてそのまま誅殺することは出来た。

 

無論、正豊に精神的な苦痛が生じるまでに

たったの1日では少し無理があり、

ある意味、犯罪者としてここまで追い詰められるには、

最低でも5日、もしくは2週間以上の時間が生じたと考える。

故に清康の守山城での着陣は最低でも1週間は有ったと考える。

 

こうして松平清康は享年25歳で、阿部正豊によって切り殺され、

これが森山崩れとして伝えられる。

この死は松平信定方にとっても誤算であった。

無論、それは酒井忠尚にとっても同じである。

いわば清康が死んだことで、守山城から軍を引き上げる事に成ったが、

家臣団はこれを清康の不徳とすることは無く、

寧ろ清康に対して忠義で団結する事となるのだ。

その為、この清康の行動に協力的でなかった信定らは、

目論見とは外れて三河安定に繋がる信頼を得るには至らなかった。

 

それでも松平信定は岡崎城を手中に治めて、

長親らの後押しもあって家督を継ぐ形となった。

そして10歳の清康の嫡男広忠(当時は竹千代)は、

その身を追われる形に成るが、

正豊の父・阿部定吉はその罪滅ぼしの意味か、

広忠に忠義を示してこれを引き取り、

本来松平家の主家筋に当たる吉良持広の下へ届けた。

松平信定も広忠を始末するまでは最初は考えなかった。

 

その後、松平信定は信秀に申し掛けて、

三河に攻め入る様に促した。

これは三河の譜代(家臣団)を纏める為の政略戦争で、

守山攻めの報復として軍を発した信秀の軍に、

松平信定が外交にて上手く治めたという実績を与える意味であった考える。

そしてそれから暫くは松平信定の下で三河は一応纏まるのだが、

家督を巡って広忠にという話も聞こえ始めたため、

吉良持広がこの内情を利用して

三河の支配権を取り戻そうとする動きが警戒された。

その為、広忠の命は狙われる事となったため、

阿部定吉は持広と組んで、広忠を伊勢に逃がしたのである。

 

松平広忠は、吉良持広の庇護の下で1539年に元服し、

持広から「広」の字を頂いて、広忠とした。

しかしそれから間もなくして持広がこの世を去ったため、

吉良一族の間で家督争いが生じたため、

広忠、定吉は吉良氏の庇護から離れる決断をした。

 

森山崩れの翌年、駿河の今川氏輝が享年24歳で急死した。

当初、その弟の彦五郎が跡目を継ぐとされていたが、

その彦五郎も急死してしまう。

そこで後継者として名乗りを上げたのが、

玄広恵探という人物で、

氏輝の父・氏親と今川家家臣であった福島正成の娘の間に生まれた子供である。

この玄広恵探が福島氏の居城花倉城に招かれた事で、

花倉の乱として記録される今川家の御家騒動で有る。

 

今川氏親の正室である寿桂尼は、

それと同じくして実子として三男に当たる梅岳承芳(今川義元)を還俗させて、

これを迎えることで対抗した。

 

尾張は大和守、伊勢守、そして弾正忠家が覇権争いを演じているにもかかわらず、

傀儡ではあるものの斯波氏中心で何とか維持できたのも、

東の脅威、松平清康そして今川が崩れて行った運も有ると言える。

 

さて…しかし桶狭間で信長を窮地に立たせた今川義元が

ようやく登場するのは信長、いわば吉法師がまだ2歳のときであり、

この義元によって今川家は全盛期を得るのである。

 

果たして花倉の乱から、そして松平広忠の行方…

これらの出来事が如何に桶狭間と結びついていくのか・・・

 

どうも・・・ショーエイです。

元服を迎える前の信長たま…

それ以前に発生した近隣の出来事を

纏めて話を進めていく訳ですが、

ようやく今川のヨッシー(義元)が登場しました。

 

はてさて…第10話では花倉の乱から、

広忠の三河奪還と続き、

そして家康(竹千代本命)が登場します。

 

さて…いつもの愚痴ですが・・・

 

冒頭に話した信長、家康、光秀のエピソード。

客を持成すという意味ですが…

そもそも御持て成しの精神を説いて、

東京五輪を招致した日本人が、

こうした精神を全く理解できていないのは残念です。

「お客様は神様…」

客は神様じゃない!!

という「神様」の意味を勘違いした世論も

頭のイカレタ状態と言っておきます。

まあ、客の方が

「神様だから大事にしろ!!」

という間抜けな主張をする事も有るがゆえに、

可笑しな解釈に成っていると言えますが、

これをマスコミまでも俗解釈に沿ってしまっては、

日本の精神はその時点で嘘に成ってしまいます。

 

【ホリエモンの餃子店事件。】

ホリエモンの餃子店とマスク事件。

正直ホリエモンの様な人間は好きでは有りませんし、

ホリエモンを支持するつもりは無いのですが、

悪いのは餃子店の方です!!

 

心無いサービスを提供する店なら、

寧ろこんな店潰した方が良い。

ホリエモンが嫌いという以上に、

その店に腹が立った話です。

 

店がマスクの着用を義務付けて入店のドレスコードにした点は

法律上問題有りません。

問題は寧ろ…それを理由に客を蔑ろにした点。

いわば客を侮辱した事です。

わざわざ客は広島の尾道まで足を運んで、

その店に来店してきた訳で、いわばファンの様な感じです。

ルールはルールなので入店は出来ないとすしても、

折角のファンを蔑ろにして追い返すその精神は、

日本人のサービスを意識する意味で淘汰されるべき話です。

いわば入店はルール上させられないが、

持ち帰りの餃子は用意するので、

どうかそれで事を治めて欲しいい。

そういう姿勢が大事だと言えるのです。

最近の日本の若者にしても、

ルールがルールだからと客への配慮を考えない、

サービスが横行してます。

一部ゆとり世代を悟り世代などと持ち上げているが、

彼らが悟っていると勘違いする程度の低い社会レベルと言っておきます。

彼らは本質を理解していない生兵世代と言っておきます。

ルールを盾に主張すれば法律的には有利に成るが、

ビジネスとしては不利になる。

 

これは客を不快にして逃がしている話で、

経営側からすると死活問題です。

現実、日本企業が弱体化している背景は、

こうした配慮不足の点もあり、

この思考を不要とする意識から、

クレームから派生する

利便性向上のイノベーションも齎されなくなっている。

アップルや海外の企業が新製品に色々な機能を齎すのは、

そういうイノベーションを商品化していく発想で、

かつての日本企業が用いた方法だったはずなのですが…

 

話を戻して、

不快に感じたからという話で、

それを理由に店の営業を妨害する行為、

脅迫やら何やらすれば違法です。

しかし、ネット上で店に行くことをボイコットさせる運動は、

違法ではないのです。

ただし、威力業務妨害という行為に該当する点は否めませんが、

侮辱を受けたという事実の下で、

ネット上にボイコットを呼びかける場合は、

天下両成敗という観点で、相殺して考えてもいい話です。

いわば裁判で侮辱行為に対して認定する事が難しい内容なら、

その反撃で直接的な妨害の無い流布ならば、

侮辱をされたという事実公表で相手の行為を批難するのは

当然表現の自由の範疇で治めていい事と成るのです。

そしてボイコットに賛同するしないは、

その内容を意識した人が個人的に判断する話に成ります。

逆に店側に同情を抱くのも自由なわけですし…

 

日本人が和の精神を唱えて、

それこそ日本であるとするのなら、

マナーやルールに縛られれずに許し合う精神が一番大事です。

他人は他人、自分は自分で、

自分の価値観を他人に押し付けない事こそ、

社会が和む形です。

寧ろ、権力者のマナーやルールには厳しくし、

特に法に関わり国民の権利を脅かす事には、

妥協するべきではない。

 

日本人の考え方は寧ろ逆で、

国の違反を蔑ろに見て、

社会がルールやマナーを厳しく監視する状態は、

寧ろ個人の自由が認められないどこかの国と同じであると考えるべき話です。

 

と、は言え

ホリエモン…あの程度の餃子店を潰すのに

餃子の食べ放題で挑もうとする発想は、

間抜けに等しい話と言える。

潰すのなら同等の味の店を何店舗か作るのが得策で、

東京や大阪で名のある店を斡旋して、

金を使うのなら出店資金と一時的な運営経費を保障した上で、

それらの名店を尾道に3、4店舗ぶち込むかんじにするのが良い。

 

いわば問題の店が特別に旨いという印象を、

他にも旨い店は幾らでもあるという風に市場心理をもっていくべきで、

一番の効果は、似た様な味の店を多く設けて対抗する事となる。

その方がより強い効果を発揮するという物である。

いわば簡単に真似できる味という印象にして

特別感を喪失させる方法です。

その上でサービスに格差を付ければ、

横柄な態度の餃子店は淘汰され、

潰れて行くのは明白です。

 

経営コンサルタントなどをする意味でも、

あの程度の餃子店一つ潰せないのは、

寧ろ経営心理学に精通していない話なので、

そんなコンサルタントではむしろ弱いという話にも成る。

 

【マスクの着用の話に関して】

義務化は不要と言えば、

トランプと同じ意見に成る。

ただ、個人として義務化は不要とは言えるが、

国としては「不要」では無く、

寧ろ国が個人の自由を守る意味としては

そこに踏み込みたくは無いと表現するべきなのです。

その上で「推奨」という形は与えておくべきという事です。

 

オッサン先生はマスクはしません。

ただ、咳やくしゃみをする際には、

手や洋服で口元を隠す癖があるからと言えます。

ある意味上品にそういう仕草で振舞うからという感じで、

寧ろステイatホームで家に居るようにしているのだから、

外では新鮮な空気を吸いたいということらしいのです。

それで感染したらどうするの?

自分がそれで感染してしまうのは自分の責任です。

まあ、他人に感染させない様に配慮して動くので、

感染しても十分にエチケットは守られている。

よって他人がどうこう言うのは大きなお世話です。

 

マスクをしないので白い目で見るのは勝手だが、

それで文句を言ってきたら、

「マスクしてない相手に公衆の面前で怒鳴らせるつもりか?」

と、皮肉を言って怒鳴り散らすことに成るそうです。

 

マスクをしない事には文句は言いませんが、

最低でも手で口を覆ってクシャミや咳などをしない人には

「汚ねぇ!!」

と、文句を言う事には成るそうです。

 

いわば

「人に唾を飛ばすなボケ!!」

と、言っているだけなのです。

合理的にはそれさえ気を付ければ

飛沫感染の話は防げるわけで、

マスクはあくまで自身の防衛の話と言えるのです。

無論、そういう事に気を使う人を批難はしませんし、

むしろそれに適応できる人はマスクをして頂ければいい話で、

マスクをしている分、クシャミや咳はマスクの中で、

好きなようにして下さいという話です。

 

マスクをしないで罰則って…

マスクをしないのが公然わいせつ罪のように

扱われるのって感じです。

まあ、そうだという頭の可笑しい人も居る訳で、

マスクなんて必要ないと唱える頭の可笑しい人と交われば、

その中間の個人の自由で纏まる方が、

不要な口論で有り喧嘩は避けられると言えます。

 

多くの日本人の間でこうした和を重んじる意識は有ると思うのです。

むしろそれが正論として伝わるべきで、

「社会に不要な口論や喧嘩が発生しない為、

個人の自由を尊重するべきじゃ」

と、言う主張が主流となるべきで、

それこそが民主国家である意義で、

それが霞んでいくなら、

それこそ民主国家に反する社会を肯定している事に繋がると言えます。

 

【中国の監視社会に関して…】

民主国家とは逆の意味で中国の社会が取り上げられます。

中国の政策を今までは肯定的に考えていたが、

善良な行為をポイント化している状態は、

寧ろ残念に感じる政策です。

犯罪を取り締まる意味で監視システムを導入する事には、

反対ではなく、寧ろアメリカであり日本でも強化されつつあるものです。

 

善良行為をポイント化する話自体は問題ないが、

善行を拒否したり、軽犯罪でマイナス化される考え方は、

寧ろ善行を強要している事でも有り、

密告社会で人間が人間を信用できない本質を強化していく意味で、

愚策と言っていい。

中国がこれに気づいて政策を見直すならそれはそれで良いが、

見直さないなら逆に黙ってみていればいいという考えで、

元々の方針に変更は有りません。

 

前にも話したように、中国が一線を越えてしまった時に

中国を攻め立てるチャンスが生じるとしたように、

中国は人権問題で自ら勝手に一線を越えようとしているだけなので、

放置していればその内爆死するという感じです。

むしろ中国の爆死を喜んで見ていて、

自らの溺死に歯止めを掛けようとしない日本を危惧する話で、

これも日本人が溺死していくことに気づかないのなら、

もうそのまま放置して溺死させても良いかなと思います。

でも、自身が日本に居る以上、その災厄は自分にも降りかかる訳で、

簡単に見て見ぬふりは出来ないのも事実。

 

とは言え、気遣いという日本人が本来大事にするべき事が、

気遣いを強要している社会に成ってしまい、

力を持った側が気遣いを受ける側になり、

忖度やら天下り、またはパワハラという事が生じている訳です。

本来は力のある方が弱者を気遣う事がその姿で有り、

気遣いを受けるのが当然では無く、

気遣いを持てる事が一流である条件として認識するべきです。

その上で個人の権利主張は

そうした気遣いの中で認められる社会になれば、

日本のサービスはかつてよりも上回るレベルで向上し、

それによってよりよいイノベーションが生まれて、

技術躍進にも繋がると言えます。

日本の司法でも気遣いの部分が欠落している為、

弱者の主張より、強者の言い訳に寄り添う形に成っている訳です。

それ故に強引な論拠しか考えない故に、

外交でも相手にされない状態が続くのです。

賢く交渉するには、相手への気遣いを用いた上で、

両者の落としどころを策定していかねばならない訳です。

気遣いの無い相手だと正直話に成らない訳で、

日本という国は気遣いの無い主張を繰り返して、

交渉を決裂させているだけなのです。

いわば日本と話は纏められないと言われている訳で、

それを逆上して批難する日本の行為は、

寧ろ気遣いという話を通り越して迷惑な行為に成っているのです。

 

最近までのアメリカのカスタマーサービスは

そういう気遣いの意識に変革されて向上し、

製品にも様々な配慮が技術として投入される故に、

魅力的に感じると言えます。

その背景には企業に対する賠償責任が付きまとうわけで、

司法の気遣いの中で、弱者に対する配慮が

寧ろ企業にいい形の意識を芽生えさせた事例と言えます。

マックの熱いコーヒー事件の訴訟にしても、

タバコの発がん性を表記しなかった件に関しても、

日本人には言いがかりに思える話でも、

実は強者になるべく営利を得る側の責任という観点から、

弱者となる消費者への配慮が厳しく正当化される点を考えると、

当たり前にも成るのです。

その結果、損害賠償を恐れてコンプライアンスが意識され、

よし厳格なカスタマーサービスの充実へと繋がり、

米国の技術革新にも寄与したのです。

日本人は改めてその違いを分析して行くべきなのです。

 

信長が気遣った部分…

結果としてミッチーは謀叛を起こした訳だが…

謀叛が起きたから気遣いは無用だったと考えるのか、

気遣いが有った関係故に家康は信長の盾として、

東海地方東側の安全が保障され、

それによって天下躍進が容易になっていたと考えるべきなのか、

何を利として考えられるかで、

この見方も変わる話と言えます。

 

皮肉で言えば…

揚げ足取って言う事しか出来ない無能者ほど…

光秀が裏切った事を挙げて盛り上がるのだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第八話 戦世】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

吉法師が元服を迎える前に、

この当時の情勢を一度整理しよう。

 

1532年に信秀は那古野城を手中に治めた。

当時21歳であった信秀は清州の織田大和守達勝の怒りを買ったのである。

記録上では信秀がある種独立した存在で記されている様に見えるが、

実際はまだ斯波家を主家とした形式上の体制が維持されていた時代である。

そうした中で織田大和守達勝が実権を握っており、

今川との関係を維持したまま、三河で勢力を強める松平清康に対抗しようと画策していた。

先にも述べた様に、将軍家の義澄派から義材派に切り替えたのも、

その関係性を意識してのものであった。

その矢先に信秀は今川竹王丸から那古野城を奪ったのだ。

そこに如何なる事情が有ったかは清州の達勝は知らない。

寧ろ若気の至りで、尾張を取り巻く情勢も考えずに、

ただ目先の利益に捉われて行動したと思ったのだ。

 

松平清康の勢いは尾張でも大いに危惧されていた。

僅か12歳で家督を継いだ清康は、

隠居していた祖父・松平長親と

実質、家中で実験を握っていた家老・酒井忠尚(将監)の力で、

三河を転戦し、14歳の頃には岡崎城を別の宗家松平昌安から奪い取っている。

この時、宇津忠茂という家臣が岡崎の支城山中城を攻略して後に、

松平昌安に降伏を持ちかけるように進言しており、

その策が功を奏したと言われる。

この宇津忠茂が後の大久保氏の祖となるのだ。

まだ若い時分の清康は

後の家康を支える一族、酒井、大久保、更には本多らの活躍で、

その地盤を築けたとする方が現実的で、

特に酒井忠尚の存在は、

清康の父信忠を隠居に追い込んだ上で清康に家督を譲らせた人物で、

後に今川義元に三河が併合された際、

この忠尚は元康(徳川家康)とは別扱いの勢力として扱われていた実力者となる。

桶狭間以降、元康が三河で独立を果たすと、

忠尚は元康に反旗を翻しその身を追われるのだが、

今川への恩義の為か、織田方に与する元康に嫌気が差したのかは定かでは無い。

ただ、この人物が若い清康を支えた軍師で有った可能性は高いと見る。

若年の清康を支えたもう一人の人物は、清康の祖父に当たる松平長親で、

長親は且つて今川氏親が伊勢盛時(北条早雲)を総大将として三河に攻め込んできた際、

奮戦してこれを退けている。

松平長親は隠居したもののそのまま実権は握っており、

酒井忠尚は清康より寧ろ、三河の英雄として敬愛する長親に忠誠を誓っていたとも言える。

 

そうした長親と酒井忠尚を師として成長した清康は、

1529年18歳位に成るとその才覚を発揮して三河をほぼ手中に治める。

自ら陣頭に立って攻め込む

勇猛果敢な清康の戦ぶりは尾張にも聞き及ぶほどであった。

1526年今川氏親がこの世を去り、

その嫡男氏輝がようやく16歳に成った頃で、

今川の実権も氏輝の実母・寿桂尼から

氏輝に少しづつ移行されて来る時代でもあった。

故に今川にとっては実に危うい時期に清康が登場している。

 

丁度、今川氏親がこの世を去った1526年には、

信秀の父、いわば信長の祖父・織田信定と

松平長親の三男松平信定の間で姻戚関係が結ばれている。

この出来事は清康がまだ15歳の時の出来事で、

裏では松平長親の意向が働いたとも言えるが、

寧ろ松平信定が自ら提言して行った外交と見ても良く、

清康の後見人であるその父・長親はこれを支持する感じであったと考える。

 

この外交によって松平信定は津島の資金が背景にある、

織田信定より支援を受けることに成り、

その見返りとして当時松平家が所領していた守山城を、

織田信定に譲った形である。

三河の松平家としては尾張で実力を持ちつつある

織田弾正忠家を抱え込み、

尾張との国境を安定的に固めた上で、

今川の遠江、駿河を伺う体制へと考えたのであろう。

現実的に長親にとっては今川との因縁を考える方が強く、

積年苦しまされた氏親がこの世をさり、

若い後継者問題で揺れるだろう事を想定とした

外交戦略として捉えたとしても不思議ではない。

実際に長親はこの三男の松平信定を溺愛しているほど、

聡明な人物と考えていたようで、

織田弾正忠家と結ぶことに気づいた点を評価されても可笑しくはない。

 

しかし、長親は家督を清康にした責任も感じていた。

故に松平家の行く末を考える上では清康中心である事が望ましい。

18歳に成って勇猛な武将に育った清康は、

長親にとっては頼もしい人物に映ったことであろう。

故に、長親自身、溺愛する三男信定と、期待する孫の清康の間で、

色々心が揺れ動いたと思われる。

 

実際にこの松平長親、名を改め道閲(どうえつ)とするが、

早い時期に隠居し家督を譲って、権力は一応握っているが、

必ずしも自身の考えで推し進める感じでもない不思議な人物に見えてくる。

様々な記録を読み解く上で、家臣らの言葉によく耳を傾ける人格者に見えてくる。

いわば徳川家康が引き継いだ基礎的な部分は、

この松平道閲から来るのではと思えてきた。

 

道閲が隠居を決めた時期は、早雲こと伊勢盛時に攻め込まれそれを退けた後で有るとされ、

その功績に多くの家臣たちの奮闘があり、

必ずしも自分の采配で勝ち取ったものでは無いと意識したのか、

松平家を盛り立てて行くのはそういう家臣たち支え合っての事と察したのか、

家督を譲り、それを支えて行く家臣たちの成り行を見極めようと考えていたようにも思える。

と、は言え、

結果、直後には松平家は今川に吸収されてしまうから評価を受けないのか、

それともその後、松平家は家臣の団結によって躍進していくことに成る点を評価するべきなのか、

そこは読み手の感性に任せるものとする。

 

長親こと道閲や松平信定の尾張と結んで遠江・駿河を狙うという意図は、

清康には理解できていなかった。

連戦連勝に浮足立つ清康は今度は尾張の方へとその意識を向けた。

1530年には岩崎城(名古屋駅から東へ10Km先の現在の日進市)から

北上して品野城(現在の瀬戸市、日進市から北東に10km)へと攻め込んでいる。

 

こうした尾張東部での松平清康の動きを警戒して、

清州織田大和守家の達勝は今川との連携を深めようとしたわけだが、

それを信秀がまんまと台無しにしてくれたのだ。

後継者問題で揺れると思っていた今川は、

以外にも寿桂尼が後見となって上手く纏まっている。

それ故に今は今川との関係を大事にしたかったのだ。

それ故に出しゃばった信秀に腹を立てた達勝は、

織田藤左衛門家寛故(ひろとも)と共謀して信秀に戦を仕掛けた。

これが1532年の出来事故に、

この小説では信秀が那古野城を奪った年を1532年としたのである。

 

無論、達勝の怒りは信秀の出しゃばった行動に有るが、

他にも津島を得て、更に熱田まで得た織田弾正忠家の勢いを

警戒した点も含まれる。

故に、織田寛故には那古野へ出兵させ、

その暁には那古野を渡すことで話を付けていたと思われる。

 

戦国時代の戦い方には明確な記録が無い。

そういう中で部隊編成などを計算すると、

部隊兵1000人当たりに、部将1名、副将2名、部将と副将の供回り27名の30名。

騎兵50名~100名、弓兵100名~150名で、

ここまでが武家とされる人数。

10名単位の小隊長が70名が武家に含まれるかは勢力単位で異なるところし、

残りの700名は農民徴兵のような形だ。

 

この計算は1000人単位の部隊が機能的に動く状態を想定したもので、

100人単位に小隊長を置く編成も有ったと思われる。

 

しかし、尾張という小国の内戦で態々農民を徴兵して戦う事は考えられず、

織田寛故が送った部隊はせいぜい多くて500人程度で、

下手したら300人位であったと考える。

300人程度でできる攻撃は、

信秀の居城と成った那古野城下を焼き払う程度で、

城下と言っても密集した街では無く、

寧ろ農村の田畑を焼き討ちして

那古野城に籠る信秀の部隊を挑発した感じであったと言える。

 

その信秀も大事な田畑を無駄に消失する事は嫌い、

すぐさま同等の300人程度の手勢でこれに挑む。

 

戦争と言うより抗争…いわばヤクザのそれの様なものである。

寛故の兵が田畑に火を掛けようとするのを、

信秀の兵士が見つけてそれを追い払う。

寛故の兵が逃げ出すのを信秀の兵が追いかけると、

近くに居た伏兵がそれを攻撃する。

こうした流れで信秀は野武士を雇って今度は清州の田畑に焼き討ちを仕掛ける。

また寛故の動向を探り、隙を見て敵の頭を直接狙う機会を探る。

それは寛故の方も同じで信秀の命を狙うのだ。

 

この時まだ存命であった信秀の父・織田信定は、

織田達勝に和解の話を持ち掛けて、

国内の混乱を収拾しようとした。

 

織田信定は達勝に、

 

「三河の清康が勢力を伸ばす中、

尾張国内でこの様な内戦がある事は寧ろ清康にとって好都合では?」

 

と、説きかけると…

 

「それは弾正忠家が熱田を抑えるための良い訳であろう」

 

と、達勝は反発した。

すると信定は…

 

「三河には綻びが生じており、

我が弾正忠家はその綻びを支援する事でこの事態に備えています。」

 

いわば、松平信定の方と縁組した件を言っている。

さらに信定は、

 

「弾正忠家は主家に忠実であり、斯波家再興の方策を考えております。」

 

達勝は黙って聞くしかなかった…

それほど愚かでは無い。

寧ろ、信定の脅しを察した。

いわば力のバランスでは既に弾正忠家が尾張最強であり、

その尾張最強が三河と手を組んで大和守家を

追い出すことも出来るという意味も含んでいた。

下克上とはそういう時代である。

そこで信定は、

 

「尾張の国が一丸となってこの問題に挑むのか、

それとも尾張を分断して滅ぼすのか…今、ご決断ください。」

 

隠居するとはこういう事である。

いわば家督を継いだ信秀の意思では無いが、

隠居者の権限でそのように動かすことはできるという事。

それは隠居者の決断であって、家の裏切りでは無いという意味も生み出せ、

仮に不義理な結末となっても全ては隠居者の責任としてしまえば良いのだ。

 

達勝は若い信秀より、むしろ弾正忠家をここまでにした信定を恐れた。

那古野を得たのは寧ろ信秀の考えによるところが大きいが、

信定はこの時代に力を求める信秀を支持していた。

故にこの問題で清州の大和守家が足を引っ張ることに歯止めを掛けたいのだ。

 

そして達勝は和議の条件を提示しようと口を開いた。

 

「では…」

 

そこまで言うと、信定は、

 

「では…?…はて…大和守殿がこの件を直ぐに治めないのなら…

上様(斯波義統)に奏上してお話を纏めてもらいましょう。」

 

と、立ち上がってよ斯波義統の所へ向かう姿勢を取った。

すると達勝は、

 

「わかった!!和議を結ぶように藤左衛門(寛故)には伝える!!」

 

と言い放った。

無論、信定はそれだけで事を治めない。

 

「では、直ぐに上様にこの件のご報告を致しましょう。」

 

と、言って義統を証人として話をまとめる方向に持って行った。

達勝には何もできない。

仮にここで信定を反逆者に仕立て上げても、

信秀が本気で清州を目指ざす口実を与えるだけで、

三河の清康を目の前に控えて、

逆に尾張を弱地化させる話にしか成らない事は察せられたからだ。

 

和議は主家の斯波義統を交えて結ばれた。

信定は礼儀として大和守達勝を立てて、

信秀と寛故が勝手に始めた戦と説明し、

達勝がこれを上手く治めてくれるという形で報告している。

そして信定は問題の一点は弾正忠家にもある事を詫びた上で、

斯波家再興の為に尽力を尽くす気持ちとして説明した。

義統は、信定の忠義に感謝し、達勝に和議を取りまとめるように指示した。

 

こうして弾正忠家信秀と、藤左衛門家寛故、

そしてその背後の大和守家達勝の間の和議が成立した。

記録上でも1532年に起こった紛争は両者の和議にて直ぐに治まっている。

 

一方、三河の清康は、叔父である松平信定の考えとは逆に尾張を目指した。

実は清康の見識の方が信定より優れていたとも考えられる。

いわば今川は今、家督問題で揺れており、寧ろ三河への進行は無いと踏んだのだ。

また自身が幼い時分、家臣団に支えられて三河平定にこぎつけた様に、

駿河は寧ろ家臣団が団結している状態と考えた。

その点、尾張は大和守家と伊勢守家が一枚岩でない事と、

その大和守家も弾正忠家の台頭に揺れ動いている。

そういう意味では駿河、遠江の今川より、尾張の方が狙いやすいのだ。

更には尾張は美濃の斎藤利政(道三)とも争っており、

美濃と呼応する事で狙いやすいという点もあった。

寧ろ今川の背後には伊勢盛時の立てた伊豆の北条家が有り、

そういう意味では今川はあえて刺激せずに、

尾張を先に得た上で後に今川に対抗する事を考えたと言える。

その際に美濃との同盟が確立すれば、

寧ろ尾張と今結ぶよりも有利に成ると言えた。

 

人の見方は様々である。

いわば「十人十色」と簡単に言いそうであるが、

自身の存在を他人がどう見るかは、中々気づかない。

また世の中には正解という答えが無い故に、

人は自身の考えに固執する。

 

清康は強すぎた。

強すぎる事は味方にとっては頼もしくも感じるが、

敵にとっては脅威である。

 

松平信定はやはり三河との同盟に興味を示す

尾張の弾正忠家と結ぶことが得策と考えていた。

現状、今川は家督が代わって揺れ動いているだろうが、

北条との同盟を考えれば寧ろ、

京を目指す西に興味があり、

三河はどうしても外せないルートと成る。

 

勿論、清康と信定の間には確執もあった。

1530年の尾張侵攻の後、東三河に

清康が、福釜松平家親盛と共に、宇利城を攻めを行った際に、

窮地に陥った親盛親子を松平信定が救わずに見捨てたとして、

清康は信定を大叱責した。

実はこれらは「三河物語」に記されており、

大久保忠教が1626年以降に変遷した内容である。

太田牛一の「信長公記」同様に、

年号と事件の関係性を見る上では参考に出来るが、

清康、広忠、家康の系図を好意的に描く意味で、

一方的な見識が有ると思われ、

一部では情勢、状況に辻褄が合わなくなる。

特に「森山崩れ」という清康の死を描いた部分には、

不明な点が多い。

 

宇利城の話は否定するものでは無いが、

実際に信定と清康の確執は、

清康が尾張を目指した時点で発生しており、

お互いが険悪な状態であったことは察せられる。

 

尾張東部の攻略から、

一転して三河東部の攻略に切り返した背景を察すると、

尾張攻略に対して今川に和平の使者を送っていたが、

結局、何の返答も無く態度が曖昧であったため、

宇利城を攻めて牽制した。

信定(松平)は今川が清康の申し出を受ける事は無いと踏んで、

尾張侵攻を寧ろ咎め、尾張弾正忠家と結んで今川に備えるべきと

主張していた背景は見える。

 

結果、その後も今川からの返答は無く、

寧ろその抑えとして今川を牽制する為に、甲斐の武田信虎(信玄の父)と結んで、

信虎に今川を攻撃するように働きかけた。

 

さて…読み手の人々もお気づきだろうか…

こうした状況に清康は陥った訳で、

駿河・遠江の今川と尾張を敵に回し、

まんまと挟まれた形に成って膠着したのである。

寧ろ、信定(松平)の見識の方が無難であると見えてくる。

 

松平信定と結ぶ話は、織田弾正忠家が進めていた。

寧ろ織田達勝の見識は、清康が孤立する事に有ったといえ、

ここで今川と結んで三河を挟撃すれば成果はあったかも知れない。

いわばその目論見は弾正忠家信秀が今川方の那古野城を落とした事で、

大いに崩れていますのだ。

 

今川方からすれば、1530年の時点では

尾張斯波家との和睦はまだ継続していた状態で、

織田達勝が将軍家の支持方を今川に合わせて足利義維派に転じた事で、

寧ろ今川は尾張との関係を意識した。

※足利義維派は、12代将軍足利義晴の反対勢力で、

細川晴元の支援を受けて堺公方となる側。

 

清康の目論見が外れるのはこの状況故の事で、

織田弾正忠と繋がっていた松平信定は、

恐らく察していた話となる。

 

清康がこの時点で現実を踏まえて、

信定の意見に耳を傾けていれば、

時代は清康を迎え入れたかもしれないが、

清康は同族の信定も弾正忠家も信頼する事は無かった。

 

1530年頃は京の方で異変が起こった時期で、

堺公方の三好元長と細川晴元が対立し始めた時期である。

ある意味、16歳と思春期の若い晴元の後ろ盾として存在した、

三好元長(長慶の父)は家中の実権を巡って、

柳本賢治と、三好家嫡流の政長と対立する。

先にも述べた様に、三好長慶は堺と繋がり、その支援を受けていたとしたように、

その父・三好元長も実際に堺との繋がりで力を得ていた。

その元長の活躍で足利義晴の後ろ盾である細川高国を追い込んだ訳だが、

元長の主導で、潮時と見て有利な条件で足利義晴との和議を目論む。

ところが若い晴元(当時六郎とされる)は他の家臣団の主張に押され、

寧ろ自らの立てた足利義維を将軍にすることに拘った。

そうした中で、元長は晴元の側近としての地位を追われ、

阿波に下向した。

元長の下向によって、晴元らの軍は大いに弱体化したようで、

結果、追い詰めたはずの細川高国らに挽回を許してしまい、

寧ろ自身らが窮地に立たされる。

それを救ったのがまたしても三好元長で、

元長の復帰で、晴元側は息を吹き返し、

再び細川高国らはそれに押され始めて、

1531年には結果、再び追い込まれた高国は自害する事となった。

 

結果として三好元長ありきで勝利した細川晴元の陣営は、

細川京兆家としての元凶である高国が居なくなったことで、

今度は勢力としての元凶に三好元長を見据えた。

無論それは細川晴元が勝手に抱いた猜疑心から来るもので、

また元長の功績に嫉妬した無能な家臣団の嫉妬が齎したモノと言える。

寧ろ元長に晴元に対する忠義が無いのなら、

自分が阿波に下向して窮地に立たされた晴元を救う事などせずに、

晴元らが滅んだ後に高国と和睦するか、もしくは高国を追い詰めるかの

何方かを選択すればよかった。

そうはせずに晴元を救ったのは、元長に忠義の心が有ったからといえ、

結果、晴元の謀略にはまって命を落としているのだ。

その謀略とは晴元が一向宗の本願寺証如(顕如の父)と結んで、

堺付近で一向一揆を勃発させ、

いわば堺を救済する為に動く元長をそこで始末した。

記録では一向一揆に押されて死んだ形に成っているが、

恐らく一向一揆に紛れて暗殺されたとみる方が可能性が高い。

いわば戦略・戦術に優れていた元長が、

一向一揆との戦いで苦戦の末命を落とすとは考えにくいからである。

 

元長を始末した晴元にとっては、高国が死んだことで、

今度は足利義維も不要に成ってくる。

寧ろ京の混乱を収拾する意味では、現将軍義晴と和睦する方が賢明で、

その為に自分の傀儡であった義維を阿波に流すことで決着をつけた。

 

ここまでが1532年の出来事である。

信秀が那古野城を1532年に手に入れたとする場合は、

中央の実情とは関係なく、寧ろ若気の野心によるところが大きいと見る。

しかし、その父・信定が達勝と和睦を計る際は、

中央の動向は引き合いに出したと考えられ、

三好元長の死が1532年7月後半とされるなら、

その年の10月くらいには足利義維の動向は堺から商人伝えに、

織田信定の耳にも入っており、

達勝に方針転換を迫る口実とする事も出来たと言える。

 

無論、1532年の達勝と信秀の争いは、

指示する将軍家の方針転換が起因で有ったとも考えられ、

その後に三河の清康の脅威が消えた事で、

信秀が1538年に那古野を落としたという説も否定は出来ない。

しかし、この場合、清州の大和守家が黙って弾正忠家の領土拡大を

認めるとは考えにくい点もあり、

当小説では1532年那古野陥落説をそのまま採用して、

流れを検証するものとする。

 

1535年今川が甲斐の武田信虎と争い始めたのを機に、

清康は尾張の守山を目指して軍を動かした。

その数は8千名とかなり大掛かりな部隊であったとされる。

しかし、今川の武田との戦には相模まで支配した伊勢盛時の子、

北条氏綱が共に動いており、

松平信定だけでは無く、後見人で清康の祖父・松平長親に

長親を慕う酒井忠尚も、

清康が喜ぶほどの成果は無いと踏んでいた。

寧ろ、尾張と駿河・遠江の板挟みとなる点を危惧した。

 

さて…この後、森山崩れという出来事によって、

清康はその命を落とすことに成るが…

果たしてその謀略の実態は…

織田信秀の実弟、織田信光の内応によってという話も、

それに清康が易々と乗っかるとも思えない。

如何にして清康は計に嵌められたのであるか・・・

 

キーマンはその清康を切ったとされる、

阿部定吉の子、阿部正豊であり、

彼が何をもって主君を謀殺したのか…

謎めいた実態を紐解いていかねばならない…

 

どうも・・・ショーエイです。

さて…日本では日本学術会議の問題に、

ちょっと気に成るのが伊藤詩織さんの事件。

アメリカではいよいよ大統領選が始まります。

 

【日本学術会議任命の件】

日本学術会議任命の件の良い訳として、

宦官・菅が言い出した言い分は、

「憲法15条第一項があるから、選任や罷免の権利がある」

というものです。

では、憲法15条を見てみます。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm#3sho

原文の参照は↑のサイトをご覧ください。

憲法15条 

1項(本文) 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人はその選択にも責任を問われない。

 

確かに1項だけを見ると、日本国民なら誰でも公務員を選定したり罷免する権利を持ってます。

と成ると・・・誰でも好きに内閣総理大臣を首に出来るという話?

1項だけの話を独り歩きさせると、とんでもない意味に聞こえますが、

権利を有する故に、その権限のある人の責任は問われないというのが基本文です。

ところが2項の内容が付与されると、

公務員は全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者であっては成らないとあり、

内閣総理大臣も公務員として、個人的な恣意または見識で

公務を行っては成らないと歯止めがかけられています。

いわば国民として選定したり罷免する権利は有りますが、

公務員として理由なき行為は禁止される。

いわば全体の奉仕者として国民全体に公平に成る様にしなくては成らず、

その公平性は法的な規約に基づいた行為故に、

公平性を証明できる話に成ります。

それが無い場合は、一部=自民党の都合に奉仕した行為と成り、

違憲に成るのです。

 

実際に任命に関しては拒否権は付与されておらず、

日本学術会議の選定、任命に関しては法で記された通りであります。

これを国民の権利と称して、任命拒否を行った宦官(菅)は、

公務員として義務を放棄し、

更にはそこへの言及を避けてその行為を憲法15条1項のみの理由で

正当化しようとした行為は、

憲法12条違反 「憲法を乱用した行為」に該当する為、

弾劾に値する行為であると認定します。

 

さすがは宦官・菅、

再び「馬鹿」の故事を用いた訳ですが、

こんな「バカ」の故事に成る様な首相を放置する国民は、

バカによって衰退する運命と諦めるしかないのでしょうか…

バカな政治家は淘汰する方が国の為なので、

馬鹿を用いたバカというレッテルを貼って、

信用しない様にすることをお勧めします。

いわば馬鹿の故事に成った宦官・菅を

「馬鹿」だと誰もが堂々言える状況に成ったのは言うまでも有りません。

名誉棄損でも何でもなく、馬鹿の故事を宦官・菅がしたから

菅は馬鹿だといっても良いのです。

 

因みに憲法第15条の1項は国民全体としては、

不正等の立証により

裁判によって罷免する事が認められた意味で有り、

選任という部分は、3項に記された様に

普通選挙によって議員と言う公務員を選ぶ意味での権利です。

内閣総理大臣が1項の権利のみで好き勝手に人事をする事は、

自分の恣意的判断で全てを行うことに成り、

公務員として全体の奉仕には成らず、

一部どころか自分個人へ奉仕する行為に成るという事です。

こうした独裁色が生まれる意味を阻止するモノとして、

2項が存在する訳で、

内閣総理大臣は国民で有る前に、

公務員である事を自覚せねば成らない話とも言えます。

 

まあ、こういう事を理解していない政治家である意味でも、

宦官・菅は馬鹿と言い切っても良いと思います。

 

 

 

【伊藤詩織さんのセクハラ事件】

さて…多くの人が

「まくら営業」という言葉に疑念を抱くと思いますが、

「まくら営業」が成立する過程を考えて見て下さい。

まくら営業は、権利であり権力を持った相手が、

その行為によって人選の判断を行う事で成立するモノで、

営業を掛けた側の意図は、

その心情を計る意味としては真意を見極めるには難しく、

むしろ力による圧力の過程が成立する事実のみを参考に考えるべきです。

 

いわば力を持っているからそういう環境を利用できるのであって、

力に従う側はそこに忖度する必要性が必ず生じるという事です。

 

とは言え、力を持つ側が、

相手に愛情ないし何らかの配慮を持っていたのなら、

その行為は憂慮されるべき話で、

それが明確に示されないのなら、

いわば約束の代償=相応のプレゼント等が

発生していないのなら、

力による強要で相手の権利を侵害した

だけの行為と見なされるべきなのです。

 

いわば俗語で言う「やらせた」場合でも、

やった側は快楽という利を得た訳で、

そこに行為に対する「対等性」が成立しなければ、

「やらせた側」は不快を得た上、快楽に利用されただけの心情が残り、

「やった側」にいい様に扱われたという侮辱だけが残る訳です。

寧ろ、「やった側」は快楽を得たこととその優越感を得るわけで、

行為自体の中に「心の対等性」は無いと言えます。

 

やった側に恋愛感情がある場合は、

それ相応にその事を感謝する気持ちが出るものと思われ、

その気持ちを受けるか受けないかは相手側の裁量と成る為、

この場合の「心の対等性」は成立するものと考える。

 

現状、裁判の証言で、心の対等性を示す部分は感じられず、

相手が被害者に一方的な言い分で、

寧ろ被害者を誹謗中傷した感じに成っているため、

被疑者に同情する話ではない。

ハッキリ言って男として恥じる存在である。

と、オッサン先生ですら言ってます。

 

男性であり女性で有っても、

力に寄り添ってくる可能性の有る状態で、

それに乗っかったとしても、

その相手を配慮する気持ちが無いのなら、

そういう事をするリスクは考えるべき話である。

寧ろ人として、異性として大事に考えるのなら、

それ相応に「心の対等性」を示すのが、

リスクを回避する意味での証拠になる。

そういうケアが出来て、男としては紳士となる。

 

寧ろこういう紳士的な考えのない男性は

逆に恥ずかしいので淘汰されて欲しいとも言える。

これは現代社会では女性側も気を付けるべき話で、

淑女では無いにしても才女として考えるべき事とは言える。

 

紳士的な姿勢が示されないのなら、

そこに「心の対等性」は意識されていないと判断するのが賢明で、

それが心的外傷を与える要因となる事は、

「相手を思いやる気持ち」を考える日本の常識として、

理解するべき事と言え、「和」を語るのなら、

寧ろそういう考えは浸透させるべき意味を持つ。

 

また被疑者に同調して、ツイッターで「いいね」した行為は、

法律上で裁くほどの意味は難しいが、

法律上で問題視された時点で、

そういう考えを世の中に示した行為は、

寧ろ、社会が人間性を疑う部分として問題視するべきである。

政治家であるなら寧ろ政治生命を絶ってしまう方が良い。

 

【アメリカの大統領選】

2016年のトランプvsヒラリーは、

嫌われ者同士の選挙で、

何方がベター(マシ)かで争われた。

2020年のトランプvsバイデンは、

嘘つき同士の選挙であるが、

何方に成った方が

敗者側の心情をより絶望感に浸らせるかで考えた方が良い。

 

恐らくトランプの再選は、バイデン支持者を絶望感に浸らせる

完全に米国を分断する結果と成るだろう。

そういう意味ではバイデンが勝つ方が、

トランプ支持者はまだ絶望的に感じない。

そういう選挙と言える。

 

 

 

 

 

 

 

【第七話 修練】桶狭間へのカウントダウン 残り15年

〔ドラフト版〕

 

熱田の遊郭を訪れた吉法師は、

芸子さんたちにのせられるがまま楽しい時を過ごした。

芸子遊びを楽しんだり、

さらには信秀らを前に、

養徳院仕込みの舞踊を披露した。

この時に吉法師は敦盛も舞っていた。

芸子さんたちが小鼓を打ち、歌を奏でる中で、

吉法師は舞(能)を踊って見せたのである。

子供ながらも美しい線を描くその舞は見事なもので

芸子さん達もその愛らしさと能美に賞賛を与え、

吉法師はノリノリで楽しんだ。

 

信秀自身も時折その舞に参加して

吉法師と楽しく戯れ、

供回りとして参加した政秀や盛重も混ざり、

場は大いに盛り上がった。

 

この時、吉法師が感じたものは見せるという快感である。

自分を美しく表現する事で承認欲求が満たされる…

そういう快感を覚えたのである。

その後も、

戦の前に舞いを踊り、自ら茶を煎じるなど、

また行儀作法などに関しても同じくして、

自らを美しく表現するツールとして意識する事と成るのである。

 

織田信長という荒々しい経歴の中で、

真逆とも言える作法の部分が史実として残るのは、

幼少期に受けた感銘と快感が基であると考える方が自然と言える。

史実には残される事の無いエピソードであるが、

おそらくこうしたエピソードが実際には有ったと考えなければ、

信長と言う人間構成を表現することは難しいのである。

 

そして熱田を堪能した吉法師は、

今度は徐々に初陣へ向けた教育を受けて行くのである。

 

10歳までの吉法師は政秀の指南の下で

武術の基本は学んでいた。

政秀が教えた基本は、そもそもが基本で、

いわば「素振り」というものでしかない。

寧ろ政秀は「素振り」を徹底的に仕込んだと言っても良い。

 

吉法師も無論、単純な「素振り」だけと言うのであれば

退屈に感じたであろう。

剣道の様にただひたすら竹刀を振って鍛錬するような光景であれば…

実際の武家の鍛錬はそうであったとする方が適切であろうが、

吉法師、いわば信長自身が実は武技に精通していたと考えるなら、

より特殊な教育があったとする方が面白い。

 

大陸の武術で少林寺拳法であり、また太極拳を参考に

この特殊な鍛錬を説明すると、

型という基礎を体に覚えさせることで、

体が瞬時にその動作に反応できるように鍛錬するモノと成る。

いわば人が前に倒れる際、

条件反射で手が前に出てしまう様に、

ある条件に遭遇した際、条件反射でその動作を発生させる事こそが、

最大の武器、いわば瞬発力として機能する部分に成るのである。

実はスポーツの世界でもここの部分はまだそこまで意識はされていないが、

基礎的な動きの練習と言うのはそこに基づく部分である。

サッカーで言えばリフティングだが、

脚とボールの感覚を基礎的に覚える事で

ドリブルやパスの際に使う微調整の技術として応用されると考えるべきである。

しかし、才能の有る選手はそれでも感覚を覚えるのだが…

 

禅から生み出される静動の流れ…

さて少林寺拳法の始祖とされる達磨大師がそこまで伝えているかは定かでは無いが、

科学的な見地と検証から

実はこれを基礎とすることが一番望ましいと言える。

禅とは精神の集中である。

基本的に考えられる禅は座禅の様に動かず無心となる修行であるが、

禅そのものを言うのなら、「気」という見えない物質を想像力で操る事で、

その動作に脳から集中力を与えると言うのが科学的に説明できる原理なのだ。

座禅は不動という体の体感を無心で維持する為の修行で有り、

様々な「欲」や「苦痛」を親指と親指の間の気を練る事で

意識転嫁するいみの修行である。

※残念な事に、仏教徒でもここまでの意味は理解していないのは事実です。

実際に座禅を行う際に、重ねた手の親指の間が少しだけ空いている状態を意識して、

両方の指で体温を感じる程度の距離を意識して、

それを保つ様に集中してみて下さい。

目で見ながら触れている感覚と、わずかに空いている感覚、

そして離れすぎた感覚を確かめるようにして始めると

徐々に理解できると思います。

そしてその指が触れた感覚と、離れているという感覚を意識しながら集中すると、

科学的な意味でも集中力がそこに高まり、

そこに没頭する事で時間を忘れてしまうという原理が発生します。

座禅の意味をを科学的に分析すると実はこういう話なのです。

因みに長時間その感覚を維持すると、

親指通しが最初より離れた状態に成ります。

その離れた感覚だけ「気」が練られており、

「気」を通じて指先の感覚が維持されていた事を痛感できる現象と成ります。

 

実際に太極拳をこうした意識の下で行うだけでも、

かなりの達人に成れるのです。

ただ意識無く踊りを踊る感覚で有ればあまり意味が無いのである。

 

こうした基礎は日本舞踊や能楽にもあり、

日本舞踊がゆっくりとした流れで披露される事は、

それだけつぶしが効かずに綺麗な形を見せないと成らないわけです。

腕の振り一つにしても、真っすぐと綺麗な弧を描かねば、

その美は表現されません。

その美が崩れない様に腕に神経を集中させるわけで、

腕に神経を集中させてゆっくりとふる事で、

脳から神経を通じて筋肉に正確な形を認識させていきます。

いわばそこで脳が筋肉に正確な動きを伝える訓練が為され、

筋肉はその動きに合わせて形成されていくわけです。

 

そして同じ動作を素早く行った場合でも、

同じ伝達方式が自然と発生する為、

美しい形のままを保った状態に成るわけです。

いわば体に癖をつけるという意味です。

 

日本刀を用いて綺麗に物を切るという事を意識した場合、

現代人は包丁の使い方を参考に考えると良いでしょう。

いわば魚をさばく包丁の入れ方…

手前から引くように切るという意識が大事に成る訳ですが、

刀を用いた場合も実際は同じなのです。

そしてその接地面がブレたりよれたりすると、

それだけ切れ味は落ちる…

いわば切れが最大限に作用する真っすぐな直線から逸れてしまうのです。

 

こうした意味を簡単に理解したい、子供に理解させたいのなら、

ノコギリで板を切ってみれば解ると思います。

ノコギリの刃が板を切る線から少しでもよれたら、

それだけ切りづらい感覚は体感できますので…

 

更になぜゆっくりとしたモーションが効果的なのかを意識する上では、

サッカーのシュートモーションをスローモーションのようにやってみれば解ります。

早いモーションでは重心で軸が動くため全く感じられない

軸足の軸の基礎部分が、遅いモーションではハッキリと意識されます。

いわば軸足で立っている時間が長くなる分、

その状態を維持する難しさを痛感できるのです。

この軸足のブレない状態を維持する事が体感と呼ばれる部分になり、

シュートの制度であり、誰かと接触した際の強さの部分として鍛えられるのです。

 

スポーツの練習ではゆっくりとした基礎的な動きを素振りで、

シュート練習の様な実戦的な練習では早いモーションで鍛える事で、

効果的な練習に成ると言えるのです。

 

さて…吉法師が受けた、いわば科学的な特殊トレーニング。

史実を元に可能性を探ると…

信長が好んで敦盛を舞ったという部分で察せられる話に成ります。

また、信長自身前線で戦う事がしばしあったという記述が多くあり、

桶狭間でも今川義元の目の前に信長居た事は、

その供回りの者が首を取った事でも理解できます。

また筆者が気付くレベルは天才信長なら気付くはずという点でも、

あえて根拠とします。

いわば禅の精神にしても、動作の基礎を痛感する過程においても、

気付けるレベルと言う意味で考える話です。

 

ただし、信長自身が剣豪で有ったという事は無く、

また平手政秀も剣術に精通していた訳でもない為、

あくまで盛り過ぎなエピソードでは有るが、

武術を極に持って行く話として意識してもらえればと思います。

 

吉法師が受けた「素振り」は、いわば剣舞である。

剣舞と言っても大陸のものでは無く、

日本刀を切る意味でその型を能楽の動きとして採用したものである。

ゆっくりと正確な動きを、舞を教わる中で仕込んだ。

吉法師自身も舞を覚える事は好きであり、

芸達者な養徳院が見せる舞の美しさに

吉法師が憧れを抱くのも当然の流れとして意識される。

 

政秀が優秀な教育者であったと仮定をするのなら、

寧ろ教え子が興味を持つ部分を察して、

そこに組み込んで教える事は考えるだろう。

そいう過程も想像すると、

能楽式の剣舞という素振りは可能性があるとも言える。

 

10歳までに基本的な動作を身に着け、

更に信長自身蹴鞠も好んだという話から、

蹴鞠なども嗜んで、

体の体感部分は十分に備わっていたと考える。

 

そこから今度は初陣に向けた教育が行われるのだ。

 

初陣に於いては

先ず馬を自分で乗りこなせなければ成らないという条件が

合ったことは史家も察するべき話である。

馬を乗りこなせない事は退却の際に致命的に成る訳で、

そんな子供に戦場に出向かせることは先ず有り得ない。

基本戦国武将の初陣が13歳位であった点も踏まえると、

現代の競走馬として主流のサラブレッド無く

木曽馬という一回り小さい品種なら、

その年齢が乗りこなせる意味としても理解できる。

 

10歳を過ぎた吉法師には生まれて間もない仔馬が宛がわれた。

いわば12歳から13歳での初陣を想定した際に、

仔馬は2歳から3歳位に成っており、

競走馬の世界で言えば丁度乗り頃の状態に成る。

仔馬を宛がう事で馬と心身一体に成る事を期待されると考えたのである。

吉法師はペットとして仔馬を可愛がり、

その仔馬の成長と共に乗馬も覚えて行った。

気の知れた相手故に双方に安心感も生まれ、

仔馬の調教過程を通じて吉法師自身もそういう調教面を学んでいった。

実際に合理的すぎる程、合理的な教育を受けたことに成るが、

方便でモノ言うならば、

合理的な教育を吸収する事で真の天才は生まれるのである。

 

戦国の教育方針の細かい部分がどこまで残っているかは不明だが、

初陣で有り武将として馬を操る意味で考えた場合、

こうした方法は当然して考えられたとも言える。

いわば織田弾正忠家が特別では無く、

戦国の世では当たり前だったする方が正しい。

これが江戸時代に成ると戦争が無くなり、

初陣と言う儀式も廃れたため、

知らず知らずの内に仔馬を宛がう教育も消えて行ったのではと言える。

 

吉法師は仔馬に天翔と名付けた。

天翔ける馬という意味で、政秀が教えたものだが、

吉法師もその名前を気に入った。

しかし、「てんしょう」呼ぶのが何気に堅苦しいと感じたのか、

次第に「たま」と短くして呼ぶのである。

 

吉法師はたまを本当に可愛がった。

たまもそんな吉法師に良く懐いたのである。

吉法師は犬の散歩の様にタマと城内のアチコチを歩き回り、

タマに色んなことを語り掛けた。

タマはそれを理解しているかのように聞いた。

無論馬が人間の言葉を理解することは無い。

しかし馬も人間の表情を読み取ることは可能で、

賢い動物なら、その表情や言葉のトーンで

様々な気持ちを読み取ることくらいは出来るのである。

 

吉法師が喜ぶ時は、

タマも同じように首を上下に振ってブルブルと鼻息を荒くして喜び、

吉法師が悲しんでいるときは優しく舌でなだめるのであった。

 

タマの成長と共に、吉法師も徐々にタマの背中に跨る様に成る。

政秀が自分の馬で調教の仕方を教え、

吉法師がその通りに調教していくと、

タマは素直にそれを覚えて行った。

 

信頼し合う関係で、

タマは自分の背中に跨る吉法師が落馬しない様に気遣う心も生まれたのだろう。

または吉法師が英才的に培った体感の良さもあってか、

吉法師の乗馬術は見る見る内に上達していくのである。

 

こうして初陣に向けて馬を乗りこなす訓練を受けていた一方で、

本格的な戦術の訓練も始まった。

 

武術の指南として政秀が招いたのは、

やはり佐久間盛重である。

 

盛重が指南役と成る上で一点だけ吉法師の父信秀頼んだことがある。

それは…吉法師を殴っても良いか…という事だ。

いわば戦での恐怖心んを克服する上で、痛みを克服せねば、

立派な武将に成れないという意味である。

その言葉に無論信秀は、

「構わぬ…厳しく鍛えよ!!」

と、許したのである。

 

吉法師が盛重の指南を受ける際に、

後に信長の近習となる子供たちも一緒に宛がわれた。

無論弟分の小政(池田恒興)は勿論のこと、

桶狭間の時に、信長に真っ先に従った、

岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守らがほぼ同年代として招集され、

そして熱田加藤家の次男、加藤弥三郎と

熱田神宮宮司の息子千秋季忠に

佐々成政などが居た。

結局、彼らが信長の悪童の仲間であり、

それ故に桶狭間でも信長と共に行動したと考える方が良い話に成る。

 

盛重の教え方は厳しいというより寧ろ優しかった。

とは言え、先ず盛重が行った稽古は、

痛みに耐えるという物であった。

何故この稽古が必要であったとされるかと言えば、

戦での恐怖心は痛みを恐れるところから来ると言えるからで、

これを克服できていない武将は、

先ず自ら前線に立つようなことは出来ないと言える。

 

かといってスパルタ教育の様にすれば

子供はトラウマを抱える危険性が有るのだ…

 

盛重は先ず子供たちに木刀を持たせて軽く叩くように命じた。

盛重自らは吉法師を木刀で軽く叩いて先ず手本を見せた。

 

「この様に軽く頭を叩く感じじゃ!!」

 

盛重は緩やかにコツンと吉法師の頭を叩いた。

そして、

 

「若?!痛かったですか?」

 

と、恐る恐る聞くと、

吉法師は平然とした様子で、

 

「全然、痛くないぞ。」

 

と、言う。

盛重は他の子どもたちにも同じ感じで叩きあうように指示した。

すると子供たちは笑いながら軽く叩き合った。

そして今度、盛重は吉法師に木刀を渡して、

 

「今度は若が叩く番です。さあ、盛重の頭を叩かれよ。」

 

と、言って吉法師に叩かせた。

無論、吉法師は遠慮気味に同じ程度で盛重を叩くと、

 

「若、それではハエが止まったくらいにしか感じませぬ…もっと強う叩いて下され」

 

と催促した。

吉法師はその言葉に遠慮なく今度は振りかぶって盛重の頭を殴った。

 

ゴツン!!

 

明らかに痛そうな音が聞こえたが、

盛重は何気に気持ちよさそうな素振りを見せて、

歌舞伎役者が台詞を奏でるように、

 

「いや!!いとうない(痛うない)!!あ!!いとうないぞ!!」

 

と言い放ち、歌舞いた振りを付けて見せた。

盛重の茶目っ気溢れる演出に子供たちは喜び、

その様子を楽しそうに笑った。

 

そして盛重は子供たちにまた軽く叩きあう様に指示をして、

叩かれた方は自分と同じセリフで歌舞くように教えた。

無論、吉法師もその流れに乗っかり、

盛重が吉法師の頭を小突くと、

吉法師は喜んで、

 

「「いや!!いとうない!!あ!!いとうないぞ!!」

 

と真似るのであった。

こうして盛重は暫くの時間を掛けて徐々に叩く力を強くして、

痛みを笑いで吹き飛ばす訓練をしたのである。

すると吉法師を中心とした子供たちは

痛みに耐えて歌舞く強さを競い合うのであった。

しかし実際に痛いもの痛いのであり、

まだ我慢しているレベルなのである。

 

そうして半月が過ぎると、

今度は盛重は痛みを感じない方法を子供たちに教えたのである。

先ず盛重が手本を見せた。

子供たちの目の前で体全身の筋肉を硬直させて、

気合を入れるポーズを取った。

そして吉法師に思いっきり自分を叩いて見せるように言うと、

その吉法師の振りかぶった木刀が盛重の体に当たるや、

バキッ!!

と音を立てて割れたのだ。

子供たちはそれを見て仰天した様に驚いた。

痛みを感じていないというより、

寧ろ盛重の超人的な肉体で木刀を逆に割った事に驚いた。

無論、盛重はそこに興味を持たせるために、

木刀に割れやすい細工を用いた事は秘密である。

寧ろそうでもしなければ子供の力では無理があるからだ。

 

盛重が子供たちに意識させたかったのは、

鍛錬を積むことで痛みどころか

それを超越した力を得られるという事であった。

 

そこを意識させて子供たちに鍛錬の大切さを感じさせ、

心身共に鍛える事の目標とさせる意味であった。

無論、盛重もそういう鍛錬のやり方を教わった故に

強い武将と成った訳である。

 

無論、まだ子供たちに、

そこまで思いっきり叩き合うように指導はしていないが、

痛いと感じるレベルで我慢する程度には進んでいた。

そして子供たちに気合の入れ方のポーズを教えて、

叩かれる瞬間に大きな声で、

「シャぁぁ!!」

と、気迫の声を上げるように指導した上で、

お互いに叩き合わせたのである。

 

こうした興味をそそって楽しく教える授業は、

現代の学習塾でも考えられているモノで、

それがあるか無いかで子供の吸収力も変わってくる事は、

現代人でも理解できる話だと言える。

 

そして吉法師に対しては

盛重自らが調整しながらそれを行い指導した。

 

「若!!行きますぞ!!」

 

と、言うと

吉法師は

 

「シャァァァ!!」

 

と気合を入れてその一撃を受け止めるのであった。

すると吉法師は全く痛みを感じないことに気づいて、

驚いたように盛重を見上げた。

 

「おお!!本当にいとうないぞ!!」

 

すると盛重は吉法師に、

 

「痛いと怖がるから痛いのです。痛くないと思えば痛くないものなのです。」

 

と、伝え吉法師に今度は木刀を渡して

 

「では若…その木刀でまた思いっきり私に切り付けてきなされ。」

 

と言った。

そして吉法師の目の前で跪いて、頭の位置を下げた上で、

 

「さあ、私の頭に目掛けて振りかざしてみて下され」

 

と、促した。

吉法師は言われるがままに盛重の頭に木刀の一撃を浴びせると、

盛重はその動作を凝視するようににらみつけたまま、

両手で見事な白羽取りを披露した。

それを見た吉法師も子供たちも大いに驚いて、

驚嘆の喝さいで声を上げた。

 

おお!!

 

そして盛重は、

 

「相手の攻撃が当たると痛いから、その攻撃が怖く見えるのであって、

痛くないと思えば、その攻撃は怖くは無いので逆に良く見えるのです。」

 

そして、

 

「今度はお互いに木刀を以て、攻撃をかわす練習です!!」

 

そして盛重は別の木刀を取り出して、

 

「では・・・若、私の攻撃をその木刀でかわしてみて下され」

 

と言って軽く攻撃して見せた。

縦に上段から振り下ろす攻撃を吉法師は木刀を横に構えて防いだ。

その動きを他の子らにも見せつけてお互いに同じように防御するように指南した。

 

こうして盛重の始めた基礎訓練は、

痛みを恐れぬ気合の鍛錬、そして防御の型を仕込んだ打ち込みを覚えさせ、

更には相手の隙を伺う切り付けを仕込んで、

より実践的な剣術を教えて行ったのである。

それ故に吉法師は元服する前に怖いもの知らずの少年へと成長していくのであった。

 

一方の弟信行の方は、柴田勝家より指南を受け、

基礎的な素振り、そして組手などで普通に剣術を仕込まれるのである。

いわば恐怖心を克服するモノでは無く、

技と技術のみを教わったという感じである。

 

剣術の鍛錬に加えて吉法師ら子供たちは

書道であり、兵法などの教育を学校の様な形で受けるように成る。

しかし、それらの指導は寧ろ実践的でなく、

ただ兵書を読んだり、字を覚えたりするだけで、

実に退屈なものであった。

 

思春期を迎えて

さらに剣術の鍛錬によって恐怖心という部分が克服され、

怖いもの知らずな状態で成長すると、

徐々に悪童化し始めるのである。

喧嘩の強い子の素行が悪くなるのは、

ある意味こういう心理要素が生まれからとも言える。

いわば師として招かれた者たちの顔色どころか、

政秀の叱責すら怖くなく成り、

むしろ我がままな性格を前面に出して

なりふり構わない生活を送るように成るのである。

 

ただ、実践的な事を教えてくれる佐久間盛重だけに対しては別で、

吉法師を含めて子供たちは彼の授業だけは一生懸命に受けたのであった。

 

そんな吉法師が12歳にも成ると、

愛馬タマも立派に成長し、吉法師を乗せて自由に走り回れるように成った。

吉法師は無駄な授業は全て放り出して、

岩室、長谷川、山口と熱田の加藤や千秋らと城を抜け出して、

那古野の城下は勿論、熱田などに繰り出して

遊び始めるのであった。

 

逆に佐々成政と小政(池田恒興)は吉法師より2歳若く、

馬を乗りこなす前でも有って、

素直に授業を受けていたと考えられる。

 

こうした中に、7歳と6歳に達した前田兄弟…

いわば利家と佐脇良之が入ってきた時期でもあり、

後の信長との関係であり、成政と利家の関係を考えれば、

そういうグループであったという事も想定できる話である。

これが悪童の絆とも言うべきか、桶狭間の戦いの絆を生むのであった。

 

無論、政秀は吉法師が授業を放り出して城外に遊びに出る事を叱りはするが、

寧ろそれも社会勉強と割り切って見ていた。

吉法師の好き嫌いの激しさは理解もしており、

退屈な授業を強いるものより、

盛重の様な合理的な授業を好んでいる時点で心配はしていなかった。

寧ろ信長の父・信秀の若い頃を知る政秀は、

(大殿もあんな時期があった…)

と、感じるのであった。

 

そうした中で政秀は沢彦宗恩に相談したのである。

それでも武家の者としてそして一軍の将として

兵法などは大切な事である。

いわば政秀は如何に吉法師にそういう部分の興味を持たせられるか?

それを沢彦に相談したのである。

 

そして沢彦は吉法師の成長ぶりを聞いて大いに興味を持ったのか、

自ら吉法師に会って自分の住まいの寺に遊びに来るように誘ったのである。

吉法師も堅苦しい話では無く、寧ろ遊べという沢彦に好感を抱き、

喜んで沢彦の下を訪れるのであった。

 

さて…この小説が太田牛一の「信長公記」が

公式の書物で無いと言った点を改めて説明しておこう。

太田牛一の経歴を見ると、

元々は織田家の主筋に当たる斯波家の家臣で、

信長に仕えるのは1554年頃からだとされる。

最初は柴田勝家の足軽衆として使え、

弓の腕を見込まれて信長の近習と成ったと記録がある。

とは言え実際は信長の側近と言うよりも、

丹羽長秀の下で働いていたようである。

 

では、信長公記は何時書かれたか?

1581年までは太田信定という署名で文書が残っており、

牛一の署名で確実に残るものは1589年からであるそうで、

信長公記が執筆されたのは1582年の本能寺の変以降とも考えられる。

いわばこの小説でも話したように、

信長の記録が明智光秀に消された為、

太田牛一が変わってそれを残そうとしたとも言える。

 

その分、太田牛一の信長公記は

年代の事変だけを参考に見る上ではほぼ正確なものに近いと見なされるが、

内容に関しては全く正確性が無いとも言える。

 

例えるなら、吉法師が城主となった那古野城の家老衆の序列を見ると、

第一家老 林秀貞、第二家老 平手政秀、 

第三家老 青山信昌、第四家老 内藤勝介と成っているが、

 

何れも信秀の家老序列で有ったと考える方が適切である。

いわば林秀貞も平手政秀もそういう立ち位置であり、

信秀の死後、それ以外に有力な家老が居ない時点で、

信長付き家老とするのは腑に落ちない話に成る。

 

そしてこれは信秀の葬儀の際にも同じ序列が見られる。

信行方の重臣は柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛とされており、

実は1552年の信秀の死んだ頃の年齢的な部分で見ても、

林秀貞40歳、平手正秀61歳、内藤勝介不明、青山信昌不明

柴田勝家31歳、佐久間盛重不明、佐久間信盛25歳

と成っており、

林、柴田は信行に付き、平手、佐久間両名は信長に付いている事でも、

意味不明な話になってしまう。

 

寧ろ嫡男側の序列に家老を、次男側にその下の重臣を参列側として記録したとする方が、

適切になる。

また、太田牛一自身はこの当時斯波氏の家臣であったとする事も有り、

実際に当時の斯波家側の話を記憶して記述したのか、

それとも誰か織田家家臣に聞いて記述したのかは定かではない。

青山信昌に至っては、1542年の時点、信長が生まれる前に死んでいるという記録もある。

ただ、こうした太田牛一の記録から見れる事は、

林秀貞が信秀の参謀的な存在として重宝されていた事と、

信秀が41歳で死んだときに、40歳と年齢も近かったため、

信秀幼少時からの供であったという点も察せられる。

寧ろ平手政秀は信長の祖父に当たる織田信定から引き継いだ家老であったとも言える。

 

こうした記述以外に太田牛一の記録は合戦の記録でも曖昧に表現されており、

信長と信行の戦、稲生の合戦を見ても、

信長が一喝して劣勢で追い込まれた状態を打開したななんて、

漫画の覇気でも使ったかのような記述で終始している。

この辺はうつけの兵法で

詳しい戦い方は説明していくものとします。

 

こうした意味で信長公記の話は曖昧過ぎるという意味で伝えており、

信長公記の話では辻褄が合わなくなる事が多すぎるのです。

いわば科学的な分析の上で参考にする点はあるが、

その記述通りの内容で記すつもりは無いという事です。

 

さていよいよ悪童に成りつつある吉法師が、

沢彦の下で何を学ぶのか…

 

実戦教育と卓上教育。

信長と信行の差が大きく出る分かれ道と成るのです。

 

どうも・・・ショーエイです。

歴史の記述と言うのは実に曖昧なものが多く、

日本では文化的であり流行などの記録は

西洋と比べるとあまり残っていない様に思えます。

 

無論、残された芸術作品を参考に

色々な分析を行っていく訳ですが、

それでも城や寺社同様に、

戦禍で焼失したものも多く見えにくい事も多々あるのは

学者さん達を悩ませる部分なのでしょう。

 

伝承や祭りとして残される部分などを伝っても

実際には限られた部分しか解らず、

決定的な事は何も言えないというのが現実で、

どれだけ議論を重ねようとも

基本的には全てが仮説に成るのです。

 

と、ここまでは学者さんを立てて話ですが…

日本の学者さんたちは何処まで精通しているのですか?

 

過去の小説にしても、

色々な解説を見ていても、

信長たまの話に関しては全く雑なのです。

 

司馬遼太郎先生の国盗り物語の信長では、

司馬遼太郎先生の真意だという部分で理解し、

そういう表現故に小説として楽しめた訳ですが、

「信長が何を考えていたか解らない」とする記述が

多々あります。

 

桶狭間の戦いを想像で色々研究している資料を見ても、

何故勝てたのか?

それすら解っていません。

雨が降って運が良かった…とか、

今川が油断した…とか…

いわばハッキリ言って兵法に精通していない歴史家が

資料だけを充てにして色々言っているだけの話にしか感じないのです。

無論、歴史に精通しても兵法に精通しても無い

一般の人にはそんな細かい事は興味すら無いのでしょうが…

桶狭間の話に関して言えば、

実はこれ呉子の兵法を読めば理解できる話なのですが…

信長たまがうつけであったとする意味で、

呉子を理解できているはずが無いと決めつけている時点で、

実は無知と言える話で、

日本人が如何に天才の領域を知らないかが伺えるのです。

 

天才の領域は、

孫子を知らずして孫子を語る。

いわば孫子が見つけた兵法は天才であれば知らずとも見いだせる。

孫子はその洞察力で自らの兵法としてそれを記した訳で、

同じ洞察力を以て人間を観察し、様々な現象を察すれば、

自ずと同じ景色にたどり着くという事です。

 

実は「うつけの兵法」という意味はこういう意味なのです。

 

何故、オッサン先生がこれを知るのか・・・

孫子を知らずして孫子を語れない自分は、

孫子の領域に達せない事を知っていたから。

だから孫子を若い頃あえて読まなかったみたいです。

 

インターネットが復旧して色々簡単に調べられるように成ると…

逆に孫子の内容を逆引用する感じに成ったそうです。

孫子ならコレ言ってるはずだ…

それが偶に呉子だったり、六韜に書いてあったりする内容だったりするわけです。

 

オッサン先生は自分が天才かどうかなんて事より、

天才の領域に挑戦してみた人な訳で、

まあ、勘違いからのチャレンジャーという方が良いのかな。

もし、若い人で同じチャレンジをする人が居れば、

多分出来る領域とも言える話です。

 

これは寧ろ法律も同じ。

人の社会を統治する上で、何が大切かを理解すれば、

自ずとそれが法律に成っている。

あとはその法律の文章を見つけるだけなのです。

だから日本の法律やら憲法を読んだとき凄く驚いたみたい。

実に素晴らしいく、殆ど申し分のない状態で構成されている。

寧ろ司法の人間がこれらの保護法益を理解していない事が悩ましい。

 

前話で解説した信長たまの治世。

そこは盛り過ぎだろうと感じたのならそれは大きな間違いだそうです。

寧ろそこまでやらないと成立しない話なのです。

いわばファクターX=信長の軍隊が徴兵で無く自衛隊の様な専門兵であった

とするならばその原資をどうしてたかが方程式の様に発生する訳で、

税の徴収だけの話なら、三好長慶ら他の戦国大名も同じ事が出来た。

いわば堺の商人を後ろ盾にしていた三好長慶、松永久秀の方が

本来財政上有利に成るはずなのに、

信長は尾張、美濃を支配するだけで、

遥かにそれを凌ぐほどの力があった。

関所を設けて人の出入りに気を使っていた時代に、

信長は関所を撤廃している。

このファクターYを考えると何故それが可能だったのか?

いわば情報が簡単に他国に漏れてしまう危険性も有ったわけだが、

それを差し引いても織田軍団は強かった。

その理由は簡単で、

信長の治世が住み心地が良く、

他国から寧ろ入る人間の方が多く、出る方が少なかった。

さらに出る情報と出ない情報をコントロールする術を有していた。

 

多分、こう説明しても

その合理的なシステムは理解できていないと思います。

 

さて…ここからは天才の領域の話です。

魔仙妃という話でこれを記そうとした内容でもあります。

 

普通の人は全ての情報を隠そうとして、

その秘匿性を武器に戦おうとする。

ところが天才は相手が知りうる情報を把握して、

その条件の中で戦う方法を考えるのです。

 

いわばどういう情報がどのタイミングで他国に流れるかを知った上で、

その情報を利用して相手をかく乱するのです。

これサッカーで言うならフェイントみたいな効果に成ります。

 

また情報が漏れていないと信じるより、

情報が洩れていることを想定する方が

相手の奇襲にも備えられる訳で、

寧ろ天才にとっては逆にその方が戦いやすいのです。

 

いわば米国の様な国を相手に戦う事を想定した場合、

衛星やらスパイが潜入している事を想定して

それらによって情報が筒抜けに成っていると割り切った上で戦うのです。

情報が漏れていないことの方が勿論、戦いやすいが、

情報が漏れていないと思い込んで戦う方がむしろ間抜けな結果を生むのです。

 

その上で孫子の言葉

己を知り、敵を知れという応用です。

自分の指示や言動がいつ為されたかを常に把握し、

その言葉が一番早いどのタイミングで洩れるだろうかまで把握する。

これ「天命を受けたもの」の思考でも有りますが、

「天知る、地知る、己知る」

を常に意識して、

自分が知りうることは相手も知りうることと

常に隠し事はバレると覚悟しなければ成らないという事です。

更に戦いに於いて証拠が無いからバレないは関係なく、

怪しいと疑われた時点で嘘も真も関係なく、

それに備えてくるのが当然なのです。

 

そこまで冷静に察した上で、

戦っても多くの犠牲が出る。

戦っても勝利を得る事は無いと判断するなら、

寧ろそのフィールドで戦う事は避けて外交によって他のフィールドを模索するのです。

 

合従連衡などはそういう発想の転換を齎したもので、

外交によって大きな敵より大きな連合で挑めるのなら、

それによって敵を退ける方法を用いるのです。

そしてその大きな敵が野心的な動きを封じるように成るなら

外交によって平和を構築する形で模索するのです。

 

いわば合従連衡によって戦う事を考えるより、

むしろ相手をそこに組み込む形で懐柔する。

古の合従連衡の失敗は、そこまで考えなかった点にあると言えます。

 

これも孫子が外交を以て敵を制する事が上策で有り、

戦争は最終手段とするべきだと言った言葉もその通りなのです。

現代社会で見るなら国連はその合従連衡の成り立ちで、

加盟国がお互いの戦争と言う部分を意識すると崩れ去る。

むしろ経済的な繋がりを以て、

全てがその繋がりに依存する形で

戦争という手段が大きな損失しか招かない最低最悪な愚策と成るまで、

軍事に於いては均等を保ちつつ、

対話によってまた対等な関係を重視して、

一つの連合国というものを目指すことを上策とするべきなのです。

 

天才は常に勝負に勝つ事に執着せず、

如何に有利な形を自分で作るかを模索するのです。

そして敵よりも結果として圧倒的に成ろうとするのです。

今までの米国は寧ろそういう国で、

どういう技術を有しているかをほぼ公開しています。

その上で圧倒的な経済力と圧倒的な軍事力を構成する事で、

他国よりも常に有利な条件で行動できるのです。

圧倒的故に戦争で勝てなくとも、

敵が自国内に攻め込んでくることは避けられる。

いわばそれだけの戦力がまだ後ろに控えているという状態なわけです。

 

敵が米国の動向を監視しても、

米軍が動けばどうしようも無くなる。

空母を派遣したというだけで相手を威嚇もできる。

 

信長の考え方はそういう圧倒的を構成する事ゆえに、

関所などは必要なく、情報が出る事すら気にしない。

寧ろ情報が出る事で、人が自国の魅力に興味を持てば、

それは宣伝効果を齎すわけで、

そこで集まった人が自国内に留まれば、

それだけ人口が増え、農業や産業が活発化し、

商業にもそれだけ需要が生まれる。

農民にも金を握ぎらせる事で、

それだけ買い手も増えるわけで、

それによって経済が潤えば、

税率は少なくとも多くの税収が齎される。

誰もが自由に商売でき、誰もが自由に買い物が出来る。

故に需要が生まれやすく、供給する側もその労力を厭わない。

働いても働いても苦しい生活が続く人たちからすれば、

働けば働くほど潤うという世界は魅力的です。

 

これは資本経済の基本的な原理で有って、

結果アメリカに人が流れようとするように、

そういう魅力的な社会に人が流れる訳で、

優秀な人材もそこに感化されて集まりやすくなる。

 

天才は如何にこういう有利な形を構築するかを考えるのです。

実はこういう事も「呉子」に書いてあるみたいです。

 

【天才の発想は意外に単純な所から来る】

大きな都、大きな街を構成する上では、

人がそこに集まれば良いというだけの事です。

そこからどうしたら人が集まる場所に成るかを考えて、

人が暮らしやすい社会を作れば良いという簡単な発想を思い浮かべる。

 

頭の悪い人はこれを一気に改革しようとする。

日本の政治家の典型ですが…

 

天才はそこを目指して何から手始めに手を付けるかを考え、

微調整しながらゆっくりと改革するのです。

 

先ず信長が考えつくのは、農民の租税を低くした場合の、

兵力動員数です。

租税を低くしたい気持ちを目標にした際、

兵力動員数が減ってしまう事を危惧します。

しかし、信長は兵力動員数を少なく抑えて、

強兵を用いれば、それだけ必要な兵糧数は減る。

という事まで気付くのです。

凡人には何を言っているの?

という話に聞こえるでしょうが、

戦力に成らない弱兵=農民から徴収された兵は、

寧ろ騎馬でひき殺せば良いだけ。

戦いに不慣れで直ぐに怯えてしまう相手なら、

鍛錬を積んだ兵一人で2~3人は倒せる。

いわば無名でもボクサーを相手に

素人が3人で挑んでも勝ち目が無いという事に繋がる発想です。

そこで先ず信長は少数精鋭部隊を構成して、

その戦力状態や被害を分析して、

兵力動員数を押さえる事で、どれだけの兵糧消費が抑えられるかを

村井貞勝に計算させている。

(面倒だから絶対に自分でやらないのも知ってますby森蘭丸)

その計算の上でようやく農民への減税が成り立つのです。

 

〈米の売買〉

米は領主が租税で徴収して、余った分が商人に流れる仕組みに成っており、

そのやり取りで相場が決まる。

信長も同じようにやれば兵力削減で余剰米がそれだけ出る分、

利益が出るのではと成る。

しかし、信長からすればそこに興味はない。

寧ろ、街を大きくすればそれだけ収益が上がる事を目指すのである。

天才は自分の理想世界に頑固で有る。

普通の人は他がやっている事をそのままやれば良いと考えるが、

天才は他との差別化で更に上の段階を目指すのだ。

いわば熱田が今の熱田のままでは面白くなく、

その熱田を堺並みの商業拠点にするつもりで考えるのだ。

 

大阪都構想で大阪が大阪のままの発想なら興味はない

と、このブログで述べている様に、

大阪がシンガポールや香港を目指すためで無ければ

何の意味もないという考えである。

いわば大阪都構想にはそういう部分が存在していないから、

無意味なパフォーマンスであると断定するわけです。

 

熱田をより大きな市場にする為には、

熱田での商売が繁盛する事が現実路線で、

堺の様に外国との貿易を目指すには、

尾張という小国だけでは力が無い。

 

さて…どうするか?

 

ここで一つの方程式zが発見されねば成らない。

方程式zとは、商売として売れる産業である。

いわば熱田が扱う特産品である。

熱田は瀬戸焼という特産品を扱う事で

有利な環境にある事は説明した通りだが、

方程式zに結びつく上で、

信長がそれを知っていた事が大事となる。

その上で草鞋一つにしても、

品質の良い品物を扱えばそれは特産品となり、

商売で有利に働くことを理解する。

では、品質の良い品物を生み出すには?

 

楽市楽座は近江の六角定頼が既に行っていたともされ、

信長の独自の発想ではないと言われている。

しかし、楽市楽座を導入する事で、

農民は農業以外の産業を副業とすることが出来る訳だ。

 

そうした楽座に商人である加藤家の者を連れて行き、

品定めをして商品とすることで、

いわば良質の産業を見出すことに努める。

良いモノを安く買い取って高く売るのは商売の基本だが、

良いモノは多少高く買い取っても、

より高く売れるようにマネージメントするのが投資家の基本である。

 

信長は良質の品物を高く買い取り、

商人に良質である事を保証させたうえで高く売る形で、

産業の品質向上につなげる。

売り手も、良いモノを作れば他よりも高く売れるという

競争原理が浸透して、

より高品質な品物を目指してくる。

そうした中で技術のある人間はドンドンと育ち、

より芸術性の高い商品などに進化していく。

 

方程式zが発見されると今度はそこにX〈かける〉αが必要になる。

それがより技術の高い人材が

尾張を目指したくなる環境

それを全国に宣伝する事で、

より高品質な産業への競争力と成る点に気づくのである。

そのαの中には有能/人口という確率も見えるわけで、

人口が増えれば増える程、

より有能な人材、将来性のある人材も多く集まるという計算になる。

 

そこでようやく信長は租税を低くする政策を用いるのだ。

更に租税を低く抑えた中で、

今度は投資という部分も含めて、米を買い取る事も行う。

いわば農民の副業として産業を発展させるには、

原資が必要になる。

欧米の様に出資と言う形の貸付までには至らずとも、

農民に金を持たせて副業やら趣味に使えるように成った。

 

発想そのものは「租税の安い国尾張」という

人を呼び込むためのもので、

租税を下げた分、何らかの方法で利益を上げようと考えて、

農民から米を安く買う事を思いついたに過ぎない。

結果として農民は米を売る事で原資を得て、

品質の高い副産物を生み出せるようになった。

副産物を生み出す原資としなくとも、

楽市楽座の中で商品の売買が活性化される事で、

より資本的な社会が構成されていくのである。

いわば米だけが農民の産業だったのが、

漬物を作れば売れる、

魚を釣れば誰かが買う、

牧畜にしてもそれなりの商売が出来る。

いわば買い手が金持ちに限られていた部分が、

農民にも売れる状態となり、

需要が増えるという事に繋がったのだ。

 

こうして発展した座の中に、

場所代という名目で徴収する事で、

立地の良い場所はより儲けがあり、

立地の悪い場所では儲けが下がる意味から、

不要な税率計算を用いずに調整する事も出来るように成るわけである。

 

またこうして発展した座の中から

商人は交易によって売れる商品を見定めて、

その産業から独占的に仕入れを行う事も出来た訳であるが、

信長は自身の権限を利用して寧ろ卸問屋的な状態で、

そういう品物を商人に渡して自身の利益とした。

 

これって実は江戸時代の経済状態の基礎にも成っている部分です。

信長のやっていた事は家康が何気に引き継いで、

信長の功績として消えてしまっている分、

江戸文化として認知された話です。

ただし大きな違いは対外貿易までを信長は活性化させようとしたのに対して、

江戸時代は鎖国政策を取ったという違いが生じます。

 

信長の治世は善政であったという意味は、

信長が意識して善政を敷いたという事ではないのです。

結果として善政を齎した才能は「天命」が齎したもので、

天命を意識しつつも、自己の利益を最大限に追究し、

そして自身の治世を魅力的な国とすることで、

結果善政という状態に結びついたという事です。

 

いわば究極の利益追求=万民の自由が齎す恩恵。

これが「天命」が教えることに成るのです。

また、究極の利益追求=万民の需要

という法則もあるのです。

「パン屋が200円でパンを20個売れる状態より、

パン屋が100円でパンを100個売れる状態の方が、

パン屋は儲かる。」

という言葉で表現する訳ですが…

 

これは、200円のパンが20個売れる格差の経済よりも、

100円に落としても100個売れる平均化した経済の方が、

パン屋としては利益率が高くなるという意味です。

 

想像力の無い人は言葉上の計算式に捉われて

100円のパンが100個売れる時は、

200円のパンが0に成ると想像してしまう。

ところが100円のパンが100個売れる経済状態なら、

200円のパンは20個よりもっと売れるのである。

仮に200円で売る品質を100円に値下げしても、

4000円の利益が倍以上の10000円の利益に成るわけで、

原価率40%で計算しても…4000-1600=2400円

10000-4000=6000円

20個しか売れないものが半額で100個売れるか?

半額のバーゲンセールの殺到率を見れば、

5倍どころか下手した10倍以上のおばさん達が

奮闘するでしょ。

 

とは言え100円にすれば買ってもらえる経済状態が望ましく

ガメツク200円に拘って100円なら買える人が買えない経済では

その収益は少なくなる。

いわば需要が増えるように物価は調整し、

需要に伴う形で雇用が齎せなければ、

最大の利益率を上げる事は難しいという話です。

 

現代社会でインフレ率の上昇なんてことを言っていますが、

結局はそのインフレ率に見合った需要が無ければ、

収益は上がらない訳で、

需要に直結する国民の収入を向上させなければ、

何の意味も無いという事です。

また収益向上に伴い物価も下がれば、

余剰金がそれだけ発生し、その他の需要にも結び付く。

卓上や知識だけの計算ではこうしたバランスは見えないわけで、

税収が下がるからといって、税収を上げるための政策や誤魔化しを用いれば、

経済は弱体化して更に税収は下がるだけのです。

そういう中で収益が落ち込む可能性が有るかも知れないが

一度価格(税収に基づく税率)を落として

思い切って価格を下げてみる決断は大事だという事で、

200円のパンを100円に値下げして見なさいという意味でもあるわけです。

 

高速道路の無償化一つでも大きな違いは出ます。

トラック一台に100円のキャベツ1000個輸送すると考えて、

高速料金で2万円、ガソリン代で1万円。

国内の輸送費だけで10万円分のキャベツから3万円近いコストが発生するわけです。

高速代だけでも減額されれば100円のキャベツが80円に下げられる。

更に高速代無償化で地方へ遊びに行くコストも下がる訳で、

国内旅行がより安価になる分、

GoToキャンペーンより効果的に成るのでは?

麻生太郎が前にやった週末高速無償化も良い意味で良かったのに、

今はそういう発想すら踏み込めないアホータローさんに成っちゃった?

外交問題も上手くこなせば防衛費もそこまで積まなくていい話に成るのに…

酒税を低下させてお酒が安く売れる方が、

飲食店としては食事商品がそれだけ売れるようになる。

生中一杯100円なら、250円以上余るから焼き鳥2本追加で頼める感じ。

 

不要な経費を全て削減して、経済活性に基づく税率に下げられないのは

信長の功績すら発見できなかったこの国の頭脳故に

到底、理解すら出来ない天才の理論なのでしょうか・・・

【第六話 熱田】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

〔改訂版〕

 

信秀は吉法師を抱えて熱田へ到着した。

一行は先ず熱田神宮を訪れて、

そこに馬を置き神宮を参拝した。

 

江戸時代の宮宿の図を参考にすると、

現在の熱田神宮の西側から南に掛けて

熱田(宮宿)の街は広がっており、

現在の地図で堀川から先の南側は、

海が広がっていた状態である。

※ブログ版なのでネット引用の地図を載せます。

 

神宮の西側の通りは既に街を形成していたため、

信秀ら一行は神宮東側より入って、

東門に馬を置いた。

そして、本殿を参拝した後に、

徒歩で南門へ向かい熱田の街に入った。

神宮境内を出るとそこには大きな港町が広がっていた。

多くの船が行きかう波止場があり、

街路は網目の様に形成され、

いくつもの建屋で埋まっていた。

 

吉法師は信秀に連れられて、

そこから東海道の本道に該当する、

大通りへと出た。

 

真新しい光景に吉法師は興奮して、

 

「まるで明〔みん〕の様ですな」

 

と、明の絵巻で見た光景を例えて信秀に伝えると、

 

「堺はもっと大きいぞ」

 

「堺?」

 

この時吉法師は日ノ本に

堺という場所が有る事をまだ知らない。

すると信秀は真西の方角を差して、

 

「あの山を越えて先に行った場所に堺という街がある…

堺は今では京より大きいかも知れんな。」

 

と、伝えると

吉法師は更に興奮して、

 

「京より大きいのですか!!」

 

と、興味津々に答えた。

無論、吉法師の中では明の都と京の区別すらついてないが、

京が日ノ本の都である事くらいは知っている。

吉法師一行が大通りに出ると、

そこには多くの人が行きかう賑わいがあった。

供回り入れて総勢50名位の団体であり、

明らかにどこかの領主の一団で有る事は察せられる状態だが、

街に居る人達は何のお構いなしにいつも通りに暮らしていた。

吉法師は那古野とまるで雰囲気の異なる事に疑問を感じて、

 

「父上、何故ここの者たちは普通に暮らせるのです?」

 

その質問だけでは信秀は意味を解せなく、

 

「どういう事だ?」

 

と、聞き直すと、

吉法師は街の人々を見ながら、

 

「那古野の城下で民は私たちを恐れていました。

でも、ここの者たちは父上を怖がっておりません。」

 

ようやく意味を理解した信秀は大きな声で笑いながら、

 

「おお!!なるほどな、そういう事か!!」

 

そして、

 

「ここの者たちは商人だからじゃ!!」

 

と答える。

その答えに吉法師は、

 

「商人?」

 

恐らく現代人でも信秀の答えを理解するには苦しむかもしれない。

すると信秀は少し言葉を考えて、

 

「商人は何も言わずとも大人しく働いて税を納める、

農民は何も言わねば働かず税を隠してしまうからじゃ…」

 

10歳の吉法師にはまだ税の事などよく理解できていなかったが、

商人は何も言わずとも働き、農民は働かないという事は理解できた。

そして信秀は、

 

「農民は服従させて働かせるもので、

商人は儲けさせてさえやれば勝手に働く。

だから領主を恐れなくても構わないのだ。」

 

信秀は君主として当然理解するべき事を伝えたつもりだった。

現代の言葉として聞いても、

労働者と経営者に対して言っている様な話にも聞こえる。

ただし、現代では経営者はよく税を隠す。

 

しかし、天命を得た吉法師には納得できない話である。

いわば農民は領主を恐れて暮らし、

商人は自由に暮らせる。

天命を理解する者には、

次の定めで

「農民に生まれ変わったら地獄だ」

と考えてしまい、

「次、農民に生まれ変わって地獄の様な暮らしに成るのは御免だ」

と想像してしまうのだ。

故に吉法師の中では万民が公平である事が望ましいのだ。

天命を知るものは常に自分が恵まれた状態で生まれるとは限らない事を理解し、

天命は全てに平等であるだろうと思い込んでしまう。

そう理解する故に、初めて特別な使命を帯びるのであって、

それを理解しないものは一時の隆盛を得ることが有っても、

時代に埋もれて行く存在にしか成れないのである。

いわば時代に淘汰されるのである。

無論、世の中が天命を理解できずに淘汰する事も有る。

しかし時代として天命は生き続け、そして新たな時代へ受け継がれる。

エイブラハム・リンカーンもそうであった様に、

天寿を全うする事が天命では無い。

何を残せたかが天命なのである。

 

ただし…信長の天命は何も残らなかった…

全てが夢幻の如く消え去ってしまった。

安土城が消え去ったように、

信長の治世の功績は何も残されていない。

ただ魔王として天下に布武を示した事以外は…

 

この物語では、その実像を解き明かすべく、

細かい情勢を記したうえで史書に残されなかった部分を

解析していくものである。

信長に関連する史書は太田牛一の信長公記などがあるが、

実際は軍書または兵書に近く、公式性はない。

宣教師の残した部分も、細かい領国経営は記されていない。

寧ろ公式な記録を記していた人物は

村井貞勝であったと推測できるからだ。

 

明智光秀は信長に仕える中でキリスト教の知識もあった。

光秀が本能寺へ向かう際に、

信長がキリストの様に成る事を恐れたのである。

いわば信長がキリストの様に神として崇められると、

自らはユダの存在として歴史に残る事を理解していたからだろう。

実際に稀薄では有るが史書の記録などから、

信長の治世は高い評価を得ている。

魔王と称しながらも万民に自由を齎した存在であった。

これを筆者は敵にとっては魔道、味方にとっては仙道をという意味から、

「魔仙」という言葉を生み出した。

ただし魔仙は権力者の象徴であって聖者では無い。

いわば仏教の開祖ブッダが悟りを開いた部分でも有り、

権力者では本来民衆の心に寄り添う事は適わないのだ。

ただ、大陸の諸葛孔明や関羽、そして菅原道真などの様なケースも有り、

光秀は信長がその領域に達する事を嫌ったとも思える。

無論、その領域に達する功績も光秀は認めていたわけで、

ある意味信長の功績を消し去った後に、

すべて自分の功績として書き換えるつもりだったのかもしれない。

 

光秀が実際に狙ったものは信長に関するあらゆる記録でもある。

それらは京の二条城や村井貞勝の屋敷、

そして安土城に有ったと推測でき、

村井貞勝の屋敷は本能寺の目の前に有ったとされているから、

光秀はこれらを側線して攻撃している。

安土城本丸に関しては本能寺の変後、光秀の腹心の明智秀満が入っている。

彼が安土城本丸を焼き払っていないとしても、

それらを占拠した際に必要な物は全て焼失させていると考えられ、

もし仮に何らかの物が残されていた場合、

明智秀満が坂本城に敗走し自害する際、

全ての遺品を掘直政に引き渡しているはずである。

いわばそこに紛れていたはずなのだ。

しかし、その遺品は全て明智光秀の収集物であったとされている。

 

光秀を擁護する側からすれば納得の行かない話に聞こえるだろう。

これこそ正に光秀が日本に残したもので、

「隠蔽すれば全ては謎に伏し、隠れたものは美化される」

という話である。

光秀が韓信に相当する人物で有ると同時に、

曹操という「乱世の姦雄」たる人物であったとする意味で、

自らを美化する策に長けていた点は、

寧ろ現代に至って全てを総括して見れば理解できる話だ。

もし美化される様な誠実な人間ならば、

謀叛では無く、寧ろ出奔していたか、

最低でも正々堂々と反旗を翻したであろう。

謀叛以外に信長を倒す方法が無いとしても、

美化するならその汚名を被る事を句にしたためた訳で、

「時は今雨がしたしる五月かな」

なんて句を残すことは無かったと言える。

これを美化している事事態、

陰湿な定めを受け継いだこの国の実態と言えるのかも知れない。

 

では、実際に信長の治世とはどのようなモノだったのか。

この話はとりあえず桶狭間までの物語としているので、

この辺の話は今の段階で簡単に説明しておこう。

 

信長の治世では楽市楽座などの話が有名で有るが、

寧ろ貨幣経済を農民まで浸透させた事が大きい。

詳しい記録は残ていないので様々な研究者が

勝手な妄想で色々と言っている部分でもあるだろうが…

 

先ず、信長は明の永楽銭を輸入し、自国通貨を作らなかった。

その理由は海外貿易を既に念頭に置いていたため、

独自の通貨では対外的な価値の保証が得られない事を知っていた。

歴史研究家でこの部分を考慮していないのはある意味想像力が足りない話だ。

今でこそ為替が国際基準で成立しているが、

どこぞの国が勝手に通貨を作っていきなり為替の基準に入ろうとしても、

その価値は評価を受けない。

これは明でありポルトガル、スペインとの貿易でも同じで、

それならば信用のある永楽銭を輸入する方が対外貿易で得策と考えた。

また永楽銭の価値は日本国内でも統一の価値で認識されており、

国内流通に関しても信用が得られた点でも便利であった。

 

農民への租税は寧ろ軽かった。

家臣の所領運営に差しつかい無い程度の税徴収を許していた感じで、

検知なども領主単位に任せる方針としていた。

では、信長はどうしたのか?

米の納税を軽くし、信長は米を農民から安く買い取って、

商人にある程度の高値で捌いた。

商人はそれを流通で捌くことで利益を上げる仕組みで、

信長は米の専売やその他に塩、油、酒などの扱い、

大きな利益を上げていた。

これらの専売権は寺社にあったともされ、

そういう意味で本願寺一向宗と揉めたことも考えられる。

 

こうした貨幣経済ベースの治世であったため、

農民は食う為の米では無く、売る為の米を作る感覚になり、

多くの米を買ってもらえれば多くの金が入るという意識改革も生まれた。

例えそれが実際は買いたたかれた値段でも、

税として義務付けられるよりは全然やりがいのあることに成る。

それ故に信長治世の農民は良く働き、

収穫量も著しく高かったとも言える。

いわば米を沢山作れば儲かる仕組み故に、

作業範囲を広げて田畑を耕せば自然収穫量も上がる。

食うだけの為の田畑ならば、

無理せずにそれだけの作業で終わらせてしまうが、

金に成るならそれ以上の作業にも精が出る話に成る。

そういう意味でも収穫量が1.2~1.5倍には上がったと考えられ、

場合によっては2倍にも成ったかもしれない。

 

逆に秀吉は寧ろ農民が金を以て武器を買い、

再び一向宗の様な反乱に発展する事を恐れたのかもしれない。

自身が農民出身であり、野心的な出世を成し得た分、

農民から信長が登場する事を恐れたと言える。

晩年の秀吉は大陸の話を耳に出来た環境でもあり、

黒田官兵衛などから「史記」などの話を聞いたであろう。

史記には秦の始皇帝が没した後、

農民上がりの「劉邦」が漢を興している。

秀吉は権力を握った自らを始皇帝と見定め、

死して生まれ変わる「劉邦」の存在に信長を見たのだろう。

勿論、生前の信長は秀吉に、

「おれは来世で農民に生まれても天下を狙える世にする」

という理想は農民出身の秀吉には聞かせていた話だろうし、

その実践の代表が秀吉自身であったことでも察せる。

故に秀吉は信長を恐れ、そのシステムを破壊した。

 

政治的な見識からも破壊した理由は説明が着く。

いわば信長が農民から買い取っていた米の分は

徴税で徴収すれば良い話で、

税で得た米は寧ろタダ同然で手に入り、

それを商人に流せば利益は更に増える。

これは塩、油、酒なども同じである。

それを権力で服従させれば、信長以前の時代の通り、

世の中は治まるわけで、

天下人としてはそれだけ大きな利益も得られる。

故に刀狩りと太閤検地が実施されているのだ。

寧ろ家臣に対しては徴税による収益も向上し、

領国経営もやり易くなる。

しかし、これでは農民の働く意識は薄れて行くことに成る。

 

信長と秀吉、どちらが賢いかは読み手の判断であろうが、

あえて言うならば、今の日本の経営者が陥りやすいのが

秀吉の考え方である。

いわば日本は秀吉の定めも受け継がれているのだ。

 

他国は旧ソビエト連邦の様な社会主義政策を取っていたのに対し、

信長は既に資本主義経済のベースを築いていた。

今でこそ当たり前の様に理解されているシステムが、

当時ではまだ理解すら及んでいなかった時代で、

信長がそこまでのシステム化していたのかと疑問に感じる人も多いと思う。

しかし兵士ですら金で雇うシステムであった点を考慮すれば、

これが実態であり、その原資をどうやって生み出したかを逆算すると、

ここまでのシステム化された社会で無ければ寧ろ成立しない。

それに対して秀吉は逆行した政治を敷いたことに成る。

 

無論、資本経済の問題点は脱税である。

故に貧相な家臣に対しては軽い税をキッチリ取り立てるようにも指示している。

その際に検地を行っても構わないという大雑把な経営指導で有ったとも言えるが、

結局信長自身はある意味日の本一の豪商で財を成したビリオネアーという存在で、

徴税に関してはほぼ無関心であったと言える。

何故なら租税に頼らずとも、金は幾らでも入って来るのだから。

いわば上納というものを廃止した上で、

織田商事として米の買取などさせて働かせていたと思われる。

所領を持たない下級武士に対しても戦争以外でこうしたビジネスで働かせ、

給金を支払ったと考えれば合理的に成立する。

様々な記録に残っている部分を精査して考えると、

信長治世の実態の辻褄はこうした考えで合ってくる。

更に信長が永楽銭を旗に掲げた意味も、

「I Love 金儲け」という意味の看板なのだろう。

 

同じ時期にしてヨーロッパのルネッサンス期には

農業資本主義や商業主義という資本主義のベースが誕生している。

寧ろ信長が同じ時期にこれらのシステムを考えていないとする方が、

日本人の能力として悔しい話で、

日本でも既にそういうシステムが構成されていたとする方が良い。

ただ、それがキリスト教宣教師によって齎されたアイデアで有る可能性も否定できないが、

恐らく信長なら信秀のこの時の言葉

「商人は儲けさせれば勝手に働く、農民は服従させて働かせる」

からヒントを得て、「農民も儲けさせれば勝手に働くように成る」

という部分は気づくはずで、

実際に熱田などの商人から「専売」という方法の膨大な利潤を教われば

徴税なくして国を潤わせる方法も考えれたと言える。

いわば「専売」とは現代では「独占禁止法」に該当する行為で、

その利益は巨万の富を生み出すのである。

 

光秀や秀吉も定めを受けた存在であり、

それは家康も同じなのだ。

しかし、それは万民を導く意味での「天命」では無く、

寧ろ「運命」という定めである。

もし彼らの定めを「天命」として理解したのなら、

この国だけの話で言えば、家康に天下を取らせる定めだったのだろうと言える。

しかし結果、現代社会の規範となるはずの信長の功績を

この国から消し去ったのならば、

いわば西洋中心のグローバル化を進める為に、

日本はその中心的な役割から遅れを取らせる意味での「天命」となり、

明治維新からの追い上げも、

ただ軍事的な躍進を遂げたのみで、

グローバルなビジネスで日本がようやく活動するのは

第二次世界大戦での敗戦を迎えた後である。

しかし、信長が天命で広げようとした「働く意義」

いわば「人は儲けさせれば自然と働く」

という社会原理は全く理解されず、

寧ろ秀吉の「服従させて労働を強要する」という考えが浸透し、

結果今の沈没寸前の日本が有ると思えば奇妙な「天命」である。

 

いわば信長の天命が世の中によって淘汰されたのは、

日本を世界の中枢として活動させない為の呪縛と言える。

自分の事、日本だけの国益で、

世界全体のバランスを考えられない国が、

世界の中枢に成っても誰も喜ばない。

それは今、2020年現在のアメリカを見ても同じで、

寧ろ禍をまき散らす存在でしか無い訳である。

日本という国が、

平和という武器を前面に掲げて世界に貢献する姿勢が無いのなら、

黙って世界の平和を待っていれば良いという話で、

これが日本の「天命」と成ってしまう。

故に何れも運が齎した「運命」であり、

日本人全体が日本に課せられた「天命」を理解できない内は、

このある意味悪しき「運命」の呪縛によって淘汰される国と成るのである。

 

恐らく信長の様な「天命」を得た者は、

心としての優しさは感じられないのかもしれない。

しかし、これが結果としての優しさに成るわけだ。

むしろ情けや憐みの優しさは

個人の優越感が齎す場合、

いわば己を美化する為のものも有れば、

本当に情という気持から来るものもある。

他人がそれをどう感じ、どう評価しようが、

実は当の本人ですら内心自分を疑う事でも有るのだ。

 

吉法師は我がままである。

寧ろ信長に成ってからは利己主義に近い考えである。

ただ全ての人間を利己主義という考えで割り切る分、

合理的に考えられるのである。

そして自身への裏切りは全て非合理な考えで、

合理的な世の中を阻害するモノに成るのだ。

 

天才の考える事は難しいとされるが、

合理的な世=天下泰平であり、

信長にとって如何なる生を受けようとも、

自分が自分で有り続けられる事を望んでいるだけだ。

その結果は利己主義では無くなり、

共存共栄の社会を齎すのである。

 

自分が利己的である様に他人も利己的であるから、

道徳など不要である。

寧ろ、他人も利する話で自分も利すれば、

お互いが共存共栄する利害を見極められる。

現代風に言えば「WINWINな関係だ」

いわばこれは商道の基本と言える。

 

この時、吉法師が想像したのは

単純に万民が笑って暮らせる世の中である。

ある意味少年らしく青臭い話である。

父親信秀が現実を説いても、

吉法師には関係が無かった。

ある意味、この世に極楽を齎せなければ、

恐ろしくて死ぬに死ねない位は考えたかもしれない。

そして吉法師は信秀に、

 

「私は農民もここの様に暮らせる世にしたいです。」

 

と、ハッキリと言った。

信秀は寧ろ吉法師の優しさから来る戯れと

和やかな笑みを浮かべながら、

 

「もしそれが適うなら天下を取れるぞ!!吉法師よ!!」

 

と、吉法師の頭を撫でながらそう言った。

内心、信秀もそう考えた時期があったのだろう。

誰しもそう青臭い事が過る時期はある。

しかし現実に直面する中で、

不可能に近いと考え大人になるにつれて割り切るのである。

そういう意味を込めて信秀は吉法師に語り掛けたが、

吉法師は

 

「成らば天下を取って、この世を極楽にして見せます!!」

 

と、言い放った。

信秀は「極楽」の話はどうでも良かった。

寧ろ吉法師が天下を目指すと意気込んだ事に

頼もしさを感じ大きな笑いとと共に

 

「おお!!成らば天下を取ってみせろ!!」

 

と、大喜びで吉法師を抱き上げ自分の肩の上にのせて

肩車をした。

二人の会話は単なる親子の話である。

相手の本心などはどうでも良い。

お互いに親子としてコミュニケーションが取れていれば良いのだ。

そして目線が高くなった吉法師に信秀は、

 

「どうじゃ世の中がよう見えるだろ!!」

 

と言うと、

目線が上がって熱田をより見やすく成った吉法師は、

寧ろさっきまでの会話など忘れて

熱田の賑わいに見とれた。

 

「父上!!熱田は素晴らしい所です!!」

 

吉法師のその言葉に信秀は、

 

「ならばもっと楽しい所へ行くか!!」

 

と、吉法師を肩に乗せたまま、遊郭街へと足を進めた。

吉法師はもっと楽しい所という期待を込めて

 

「そんな場所〔ところ〕がまだあるのですか?」

 

と高い目線で見渡しながら聞くと、

 

「宴じゃ宴、熱田はいつでも宴が楽しめるぞ!!」

 

とだけ信秀は伝えた。

信秀が向かったのは東加藤という商人が運営する

芸子の居る遊郭であった。

遊郭とは現代風に言えば風俗である。

ただ風俗と言っても様々だが

信秀が向かった先はいわば名古屋の栄にあるキャバクラ、

寧ろそれより品格のある高級クラブといった所だろう。

現代人からすれば子供をそんな場所に連れて行くなんて、

非常識にも程がある話だろう。

しかし当時はそんな常識などなく、

むしろ現代でも自分の顔の利く店なら常識を考えずに

子供の社会勉強と言う観点で連れて行く人も居るかもしれない。

 

この後、吉法師は素行がどんどん悪くなっていく訳だが…

それを見てどう考えるか、

むしろ天下統一に向けて躍進する信長を見てどう考えるか・・・

それは人それぞれであると思う。

実際はその子供の素養次第でしか無いのが現実で、

常識の中に押し込んでも奇才は生まれないとも言えるのだが…

 

信秀一行が熱田に居る噂は熱田の商人たちの中で直ぐに広がった。

 

熱田商人の権益は加藤家が牛耳っていた。

この熱田の加藤家は

鎌倉時代の加藤景正という瀬戸焼の開祖が本流と考えられ、

その末裔が美濃に移り住み岩村城に居城していたとされる。

岩村城が落城しその身を追われたのちに熱田に移り住んだらしい。

熱田で商業拠点を開設し、その後津島などに分家を派遣することで

加藤家の繋がりを活用した流通網が構築されて行った。

 

瀬戸焼という陶器を武器に豪商で名を馳せた一族と考えられ、

鎌倉時代より続くその家系は

いわば現代風でいう華僑やユダヤ商人の様な繋がりを基礎に、

各地に点在していたと考えられる。

当時の記録上明確な記述は見当たらず西と東加藤の存在は、

どういう形で有ったか時代時代で異なっても来る。

寧ろ信長と信行の御家騒動の話を参考にするならば、

津島でも加藤家が牛耳っていたと考えるべきで、

津島を西加藤とし、熱田を東加藤とする方が話の辻褄が合う。

 

瀬戸焼という高品質な工芸品を取り扱えたことで、

加藤家の商人としての優位性は十分に有ったと考えられる。

現在の愛知県瀬戸市は尾張東部に位置しており、

美濃と三河を跨ぐ場所に該当する。

尾張東部を瀬戸焼の本流と意識すると、

自然、熱田が加藤家の本家であったと推測できる。

この物語ではそのように考えるものとする。

 

所領が分断されていた戦国の時代に於いて

加藤家の様な商人は大事にされていた。

いわばそれらを蔑ろにしてしまうと、

領内に入って来る流通が止まる事も懸念された時代である。

商人側としても流通の拠点を不本意に失う事は、

寧ろ大きな損失と考えるべきで、

両者が共存共栄する上で権益保証という判物を

領主側が発給する事で、

いわば護衛契約という形が取られていたと思われる。

その上で権益保証という契約の中で租税に値する利益の一部が納付され、

契約締結の際にその金額が定められていたのだろう。

 

加藤家の当主左衛門〔加藤景正が四郎左衛門としていた記録から〕は、

江戸時代の記録で西浜御殿とされる場所に

大きな遊郭を構えていた。

熱田の加藤家が後に東西に分かれるが、

記録上の話では桶狭間以後の話である。

江戸時代の参考資料では西浜御殿と東浜御殿があり、

熱田の加藤家が分家した際に分かれたものと考える。

よってこの当時は東浜御殿に加藤家の屋敷があり、

船着き場に近い西浜御殿とされる場所に、

大きな遊郭施設があったとした。

 

西浜とする場所に構えられた大きな建物は、

芸子を抱えたいわば接待用の施設である。

そこに信秀ら一行が訪れる事を想定して、

加藤家当主自ら玄関口で待ち構えていた。

 

信秀の一行が加藤家の遊郭に到着するや、

左衛門は自ら外に出向いて信秀を迎え入れた。

 

「弾正忠さま…当家に足をお運びくださいまして誠にありがとうございます。」

 

と、丁寧に左衛門があいさつをすると、

信秀は肩に乗せていた吉法師を下ろして、

礼を正したうえで、

 

「加藤左衛門殿、自らの丁寧なご挨拶痛み入る。」

 

と、信秀も丁寧に返礼した。

こうした武家と商人の関係性は

大陸より伝わる常識であったとも考えられる。

革命の歴史が強いいわば中国では、

行商人の支援を得て天下躍進に繋がったケースも多く残り、

そうした行商人の離反はある意味脅威とするべきものと考えられていた。

行商人側も力を持たせる相手を選んで繋がりを築く。

いわばどの勢力に投資する方が

自己の権益を有利に運べるかを考えていた存在とも言える。

これは堺公方とされる足利義維〔よしつな〕を抱えた

細川晴元の家臣三好家(元長、長慶)が堺商人より出資を受けて、

勢力基盤を拡大した事でも想定される話である。

特に三好長慶は堺との繋がりは深かったと考えられる。

記録上では1539年に信秀はまだ細川晴元の供をしていた三好長慶に

献上した鷹を与えている。

行商人の情報から早々と有力な人物を信秀は把握していたとも考えられ、

彼がそうした関係を大事にしていた事も伺える。

 

肩車から降ろされた吉法師は

信秀と左衛門の礼儀に準じたやり取りを眺めて、

自らも政秀より散々に行儀を教わっていた事もあってか、

その様子に感銘を受けた。

 

(父上の様な人でも、こういう事をするんだ…)

 

ある意味、信秀が見せたのは上下の関係でなく

寧ろ対等な形の礼儀であった。

故に子供ながら格好悪いとは思わなかったのだ。

すると挨拶を交わした信秀は吉法師に、

 

「吉法師よ、加藤殿にちゃんとご挨拶を」

 

と、促した。

吉法師は勿論、行儀よく、

 

「織田弾正忠家嫡男、那古野城城主の吉法師と申します」

 

と挨拶すると、

左衛門は吉法師に頭を下げて

 

「加藤瀬戸家当主の左衛門と申します。以後、お見知りおきを…」

 

と、大人としての礼儀を示した。

吉法師はこうした大人としての作法に更なる感銘を受けた。

いわば自分が大人として扱われた事より、

寧ろ自分が大人として対応出来ている事に喜びを得たと言えよう。

 

こうした感動や感銘は世の中では些細な事かも知れない。

現代の教育ですら意識はされていないが、

幼少期のこうした経験であり感動は、

青年期を得て大人に成った際に、

深層心理に対する社会的修正力を養うのである。

 

単純に言えば、幼少期に虐めを受けた経験のある子は、

人に対する優しさを感知しやすく成り、

自分が仮に人を害する事をしてしまったら、

すぐさま過ちを認めて関係修復に努める事が出来るように成る。

ただし幼少期のそういう経験を覚えていればの話で、

当人が忘れてしまうと、そういう深層心理は芽生えないケースもある。

 

吉法師にとって礼儀を大事にすることは、

自分も気持ちが良いし、恐らく相手も気持ちがいい事だという、

単純な意味で理解した。

こうした意識は後の信長が

家臣に礼や感謝を伝える部分で生きてくるのである。

無論、逆の意味の癇癪〔かんしゃく〕持ちに成る部分は、

この後の吉法師に降りかかる不運が齎すもので有る事は

言うまでも無い。

そういう意味で信長は2重人格者の様な感じに成る。

 

そうして信秀ら一行は一部の護衛を門前に残して、

加藤左衛門に案内されるまま遊郭の中へと入って行った。

 

どうも…ショーエイです。

さて今日は「傾城の美女」の話をします。

 

「傾城の美女」と聞いて

美人に気を付けろという単純な意味で

理解している人も多いと思います。

でも、実際この話は女性に限った話では無いです。

 

あくまで男が美女の気を引くために、

ついついその言葉を鵜呑みに聞いてしまう心理を語った話で、

美女に限らず友人でも社員でも同じなのです。

 

では、傾城するのは何が原因か?

人間には嫉妬や妬み、恨みという業が存在します。

傾城の助言を用いる人は、

和を搔き乱して自分の立場を高めようとする人です。

 

「あの人は信用してはダメです。」

と、権力者に直接助言する人は全て傾城です。

明らかな結果を以て助言する場合は、また別です。

 

日本という国は実際に「傾城の美女」化した状態で、

 

北朝鮮は信用できない。

中国は信用できない。

ロシアは信用できない。

 

と、自分の好みで言っている人なのです。

信用できないから必ず禍を齎す。

まあ、当たり前の様に聞こえる話を

正論の様に主張してますが…

 

信用してもらっていないなら裏切るというのは

人間として当然の行動なのです。

貴方がその言動で人から信用されなく成ったら、

どうしますか?

 

まあ、見限って裏切るのは常識かな…

 

国際社会が上手く機能していく上では、

裏切らせる様な姿勢はNGなのです。

 

中国に対して脅威としたところで、

今のまま技術躍進が進む状態は継続していき、

信用されない状態で孤立させれば

自己防衛の為に軍事力を拡大するのは当然の流れです。

だって中からしてみれば信用されていない事を理解しているので、

いつ悪者にされて攻撃されるか不安で仕方のない話に成るからです。

 

それで結果戦争と言う状態に成った際、

中国に不信感を抱いていた人たちは、

「ほれ見ろ」

と、言う話に成るのでしょうね。

 

その「ほれ見ろ」を結果として齎したのは、

その人たちの不信感が齎した結果でしか無いのです。

それで戦争に成って勝てれ良いけど…

負けたらもっと最悪。

勝ちも負けも無く、ただ被害だけ発生する戦争が、

現代の状態です。

そういう事も考えずに言って、

結果、国を亡ぼすのです。

 

名君はそういう言葉を鵜呑みにしません。

信用できるか信用できないかは、

お互いの信頼関係の下で、

相手がその信頼を裏切らなければ良いのです。

 

ヤクザな言い方で言えば、

ある境界線を敷いてその境界線を越える真似をしたら

その時は容赦しない。

その境界線は合理的な意味のもので、

国連に於いては国連憲章に基づく話の中で、

内政不干渉という協定上、国の権利行使として

理解できる範疇か、

それとも人権保護の観点から譲歩させる話か、

この辺を「合理的に議論」して妥協する交渉をしなければ成りません。

 

ウイグル問題を例に挙げるなら、

ウイグル人の強制避妊などは人権問題に該当します。

しかしウイグル人が国=中国に順応して暮らす様に教育する事は、

ウイグル人によるテロ発生の事実などから、

中国の国家安全保障上の内国問題と考えるべきなのです。

現状、この境界線が入り組んだ議論に成ってしまう為、

中国政府に妥協させる議論は難しいのも事実です。

 

中国政府の権利としての部分は認めつつ、

人権保護の観点から修正させるべき点は修整するように交渉できなければ、

ただ一方的に西側の価値観を押し付けているだけの話に成ります。

仮に現状のまま中国に圧力を用いても、

中国が何れも妥協する事ない状態に成れば、

ウイグルの人たちの人権は何も改善しないのも事実です。

香港のケースのように寧ろ状況を悪化させかねない。

 

そういう状態で

結果として戦争する事で決着付ける話にしかならなければ、

双方が軍備を拡大して構えた状態を齎すだけなのは

目に見えて解る話です。

その上で南シナ海の話も絡んでくると、

まあ、そういう話も解決しないですねとしか言いようが有りません。

寧ろ、沖ノ鳥島埋め立ての事実が生じる意味では、

日本と中国に対する2重基準をどう策定するかも議題と成る話でも有ります。

 

2重基準が生じる上では、話し合いで中国が南シナ海のケースを

妥協することは無いのも理解できるからです。

 

日本人の言っている話は戦争で決着付けること前提の話でしか無く、

橋下徹くんの持論などは正直幼稚な話として一蹴させてもらいます。

 

自分達の都合の悪い事は隠す。

日本人特有のダメな発想で、相手にバレバレでも

証拠が云々で隠し通す。

基本、証拠はバレてる時点で既に発生しており、

国際基準では疑義を持たれた側が

逆に不正がない事を証明できなければ有罪とする事も出来ます。

「桜を見る会」「森友・加計」の様に、

政府が証拠を隠蔽できる状態で、

証拠を見せろと開き直る状態を良しとするのは間抜けな判決で、

寧ろ刑事裁判では

隠蔽した事実が明らかな状態なら、

不正が無かった証拠を明確に提示できなければ有罪に成ります。

いわばアリバイ証明。

まあ、あれだけの証拠が出てきているのに、

証明するべき証拠を隠蔽した自民政府を擁護するレベルも

民意が低いから仕方のない話として笑うしかないのがこの国なのかも。

 

ある意味、日本を滅ぼそうと思えば、

現状黙ってて勝手に滅んでくれというのがベストな話で、

中国人ですら日本をあえてバッシングせず、

おだてて調子に乗せたまま葬り去ろうと思っているのかも知れません。

 

ほっとけばドンドンダメになるだけなので、

それで良いならどうしようも無いよね。

だって国民の大半がダメに成っている事実から現実逃避したいのだから…

傾城の美女として、日本人は「一番最悪な女化」している事に気づけよ!!

 

上に書いた証拠証拠と言ってバレバレの事実を隠蔽する奴、

他人を悪く言って問題を複雑化する奴、

自分の主張を肯定させる為に

さらに他人同士の関係を悪化させる工作までして、

他人を巻き込んで大きな問題に発展させようとする奴。

 

これって最低最悪な奴だと思わないですか?

傍からみると日本てこんな状態ですよ。

【第五話 無情】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

〔ドラフト版〕

 

那古野城下の視察を途中で切り上げてた吉法師の一行は、

その足を古渡へと向けた。

那古野から南へ約3キロの行程である。

那古野城下の視察時とは異なり、

古渡までの道のりは、道中の人払いはするものの、

平伏させることはしなかった。

寧ろ政秀は先遣隊に命じて、

道中の人に吉法師様を拝むように命じて、

起立した状態で道を開けさせた。

 

この吉法師の一団を那古野から少し下った道中で

目撃した一人の少年が居た。

少年の名は、日吉丸、後の豊臣秀吉である。

少年は父親に連れられて熱田に買い出しに出かけた際に、

その行列に遭遇したのだった。

日吉丸は麻の粗野な服に身を包み、

鼻をたらし指をくわえてそれを眺めた。

立場が異なれば感じ方もまた違う。

日吉丸は馬上で大事に抱えられている

年も同じくらいの吉法師を見て、

少年ながらに羨ましいと感じた。

多くの配下に守られつつ、

我が物顔で道中の真ん中を

悠々自適に通り抜けていく様に、

自分もあんな身分に肖りたいと羨むのであった。

 

無論、日吉丸がこの時期に吉法師と遭遇したという記録は特に無いが、

恐らく尾張中村で幼少期を過ごす上で、

清州であり、尾張のいずれかの領主の行軍に遭遇し、

それに羨む気持ちを抱いたのは間違いないであろう。

その気持ちが晩年夢を達成した秀吉に

憧れていた人を統べるという喜びを与え、

強欲なまでに権力に固執した事を考えれば、

話としては結びつく。

 

勿論、この行列の主が吉法師で有る事を

日吉丸は全く意識してなどいない。

誰であれ自分と年が近い一人の少年が、

羨むくらいに輝いて見えたのだ。

 

(いいなぁ…あんなの…)

 

一方、その吉法師は多くの家来に守られたまま、

難無き道のりを進んで古渡へと入って行った。

齢10に成るまで、ほぼ那古野城から外に出る事の無かった吉法師…

 

ほぼ、とここでしておくのは冠婚葬祭に於いて、

外に出た可能性は否定できない為としておこう。

それは祖父である織田信定が吉法師4歳の時にこの世を去っており、

その葬儀は勝幡城で行われたとも考えられるからだ。

ただ、4歳の時の出来事故に吉法師もハッキリとは覚えておらず、

移動したとしても輿の様なものに入れられて移動した可能性もある。

ただし、これらは現代人の感覚で冠婚葬祭を考えた形で有り、

親族はそれに出席するのが当たり前だという

現代の常識での先入観であるともいえる。

 

戦国時代の葬儀は、喪主である相続者と、

それを認知する重臣が参列するだけという形で十分であったとも考えられ、

親族が必ずしも参列するという事は無かったとも言える。

いわば、吉法師の名代として平手政秀が参列したのみで、

吉法師は那古野に居た事も想定できるのである。

実際に仏式の葬儀が日本で定着するのは、

江戸時代に入った1635年頃とあり、

それまでは火葬や納骨などは行われていたが、

葬儀自体の規模や方式はまちまちで有ったと考えられる。

 

また、冠婚葬祭の度に、物々しい人員を宛がって移動させるなら、

その人員をそのまま城の守りに配置して、

常時緊急事態、いわば紛争に備えさせておく考えの方が

寧ろ合理的な状態であったとも言える。

尾張内外に敵の多かった織田弾正忠家なら、

寧ろそうした警戒状態で考える方が当然で、

自分の意思での移動手段が持てない、いわば馬を操れない子供は、

姫君同様に城の中に閉じ込めておく方が無難と考えても良い。

 

そう考えると実母である土田御前と吉法師が面会できた可能性も薄く、

面会出来たとしても土田御前が那古野へ行く形が取られた可能性が高い。

いわば嫡男の安全を最優先で考えた場合、

嫡男である吉法師は常に安全な場所から動かさず、

寧ろ正妻でも代わりの利く土田御前をある程度の警護の下で

移動させた方がお家のリスクとしては幾分下がる。

戦国の女性が乗馬に長けていたかは育ちの其々で有るが、

供回りを従えて引き馬でゆっくりと移動する方法は一般的であったと思われる。

 

しかし、後の信長と土田御前の関係、そして弟、信行との争い。

それらを踏まえると、実は信長と土田御前の間には母子の情が無いとも言える。

度々、土田御前が吉法師いわば後の信長と面会出来ていたのなら、

会えるまでの「待ち遠しさ」が寧ろ強い情を持たせたと考える。

息子の居ない日常、母のいない日常に意識が芽生えれば芽生える程、

会えた時の絆はより深まるとも言える。

しかし、10年もお互いにその存在を意識しないと、

寧ろ母子でも情は無く、

いわば吉法師にとっては日常に存在しない他人に成ってしまう。

特に吉法師の様に那古野城主として、

織田弾正忠家の若君として育った環境で、

政秀であり養徳院や小政など寂しさを感じさせない存在に囲まれていた分、

実母の存在を意識することは無かったとも言える。

 

そう…

古渡に到着した吉法師が先ず面会したのが、

実母である土田御前であった。

 

一方の土田御前は嫡男の吉法師は那古野に置かれ、

暫くは吉法師を案ずる日々に悩まされたが、

次男の信行、いわば勘十郎が誕生すると、

信秀は勘十郎を正妻の側に置くことを許し、

自身と共に古渡に住まわせた。

故に土田御前の気持ちの中では吉法師よりも、

むしろ自分の手で育てた勘十郎への情が強まったと言える。

 

故に吉法師と実母の土田御前は、

10年以上面識が無かったと考える方が、

辻褄が合ってくる話に成る。

 

巷に存在する小説などでは、

土田御前が吉法師を毛嫌いしていたと書かれる。

おそらくそれはある意味正解であったと言える。

 

吉法師が土田(御前)に面会した際、

上座には土田が座り、その横に勘十郎が居た。

吉法師は父と面会する時と同じように、

臣下の礼を取り、礼儀正しく挨拶を述べた。

 

「母君、土田御前さま…お初にお目に掛かります。

那古野城城主、吉法師にござります。」

 

頭を下げてそう述べる吉法師に、

土田の隣に座っていた勘十郎が、

 

「苦しゅうない、面を上げよ。」

 

と、子供ながらの悪ふざけでそう述べた。

土田は子供戯れと笑いつつ、

 

「勘十郎、吉法師はそなたの兄上じゃぞ。」

 

と、軽く注意する程度に言った。

実は吉法師は全くそれを気にもしていなかった。

寧ろそのまま礼儀正しく面を上げて見せた位である。

この時、吉法師にしてみれば初めて実母に会う事で、

粗相の無いようにと逆に子供ながらに気を使っていた程で、

ある意味少し緊張気味で、些細な事など気にも留めていなかった。

寧ろ同行した政秀は、黙ってはいたものの、

その不義、無礼には少し懸念を感じていた。

 

(何やら…不安がよぎる…)

 

面を上げた吉法師に土田は、

 

「さあ、吉法師や母の側に来られよ。」

 

と、自分の左にいた勘十郎と反対の右側に手を招いて、

吉法師を呼び寄せた。

吉法師は

 

「はっ!!」

 

と返事をして、

少し遠慮がちながらも、土田の隣へ向かった。

 

多くの読者はこの吉法師の礼儀正しさに疑問を感じるやもしれない。

寧ろ勘十郎の方が礼儀を知らない設定は、

通念の見識からすると逆である。

ところがこの信長の礼儀作法

後の斎藤道三と正徳寺で会見したとされる、

道中とは一変して礼節を弁えて対面したというエピソードを参考に考えると、

こうしたメリハリをつける姿勢は、

幼少期より礼儀作法を会得しているから

ごく自然に為せる技と考えれば、

実はこの方が現実味が高くなるのである。

 

無論、実母と初めて接触する吉法師は、

緊張気味で土田の隣にちょこんと座ったまま、

ただ黙っていた。

ある意味、実母に対して人見知りしている感じである。

一方の勘十郎はまだ齢6つの子供で、

母親土田にべったり寄り添って甘えていた。

無言でただ座っていた吉法師に、

勘十郎はそばに有った菓子を手に取り、

吉法師に差し出した。

吉法師は

 

「有難き事」

 

と、礼儀作法から離れられない状態で

両手でそれを頂戴し、口に含んだ。

土田は勘十郎の頭を手でなでながら、

 

「勘十郎は優しい子じゃな…」

 

と、褒めた。

吉法師は菓子を口に頬張りながら、

勘十郎に優しい笑みを返している。

 

そんな光景を見て政秀は少し後悔した。

 

(これは母子のあるべき姿ではなかったか…)

 

政秀は、吉法師に母君と対面する際、

粗相の無いよう礼儀正しく振舞えと念を押した。

無論、吉法師もその土田と会う事は初めてな分、

寧ろ特別な意識を抱いていた。

故に、母子の対面としては何処となくぎこちない。

 

土田は礼儀正しい吉法師の頭をなでて、

母親らしく、

 

「そなたは随分立派に育ったのじゃな…なんと利発で賢い子じゃ。」

 

と、そんな吉法師を褒めたたえ、

 

「政秀殿、誠に感謝するぞ。」

 

と、政秀に対しても労いの言葉を与えた。

この時点では、吉法師と土田の間には

何のわだかまりも生じていなかった。

むしろ礼儀正しく育った吉法師に

土田は我が子として好感を抱いていただろう。

逆に吉法師は堅苦しい行儀を維持しなければ成らない状態に、

徐々に疲れ始めるのである。

いわば実母に初めて会ったという感動が

少しづつその場にいる疎外感を感じさせていくのであった。

 

暫くの時を我慢した後、吉法師は政秀に

 

(もう十分じゃ!!)

 

と、言わんばかりの目線を送って、

その場を終わらせようとした。

それを悟った政秀は、

 

「御前様!!そろそろ大殿の所へ参る時ゆえに…」

 

すると土田は

 

「もう少しゆるりとされよ…まだ会うたばかりじゃ」

 

恐らくその時間は10分ほどであったのだろう、

それでも土田とどう接して良いのか解らない吉法師には

長い時間に感じた。

そして、吉法師は再び土田と対面する場に戻って、

 

「母上、大変貴重な時を有難く思います。」

 

と、挨拶を述べた。

そこに政秀が

 

「日暮れまでには那古野に戻らねばならぬゆえに、

真に失礼ながら…」

 

と頭を下げると、

 

「何ともせわしい話よの…」

 

土田は甘える勘十郎の頭を撫でながらも

残念そうに述べた。

土田は結局、吉法師に好感を抱きながらも、

心の中でどことなく距離感を感じていたのであろう。

故に「去る」という事にあえて無理に引き留める気持ちも無く、

直ぐにその関心は勘十郎へと移ったと言える。

 

土田との面会を終えた吉法師に政秀は、

 

「母君と会われて如何でした?」

 

と、聞くと

吉法師は困惑した表情で、

 

「あれが母君なのじゃな…」

 

と、言っただけであった。

会う前は、まだ見ぬ相手故に色々と思いを巡らしていたのだろう。

しかし、実際、会ってみればくつろげる余裕などなく、

むしろ会ったというだけの満足感でお腹いっぱいに成ったような感じだ。

恐らく普通に憧れる有名人に、実際に会った瞬間、

その人が距離感を抱いて感じてしまうと、

何気に熱気が冷めていくようなものだったのかもしれない。

それは吉法師に限らず、

土田の心にも気づかない程度に抱かせた感情でも有ったのだ。

 

吉法師と政秀は、土田の御所から大広間へ移動して、

そこで信秀に会った。

二人が到着するや、挨拶もままならぬ間に、

 

「吉法師よ!!熱田へ行くぞ!!」

 

と、立ち上がって我が子吉法師を抱きかかえて

颯爽と馬に跨った。

佐久間盛重が吉法師を抱えて馬に乗った様に、

今度は父、信秀が吉法師を前に抱えた。

初めて父親にそうしてもらった吉法師だが、

そこには父子の心地よさを感じた。

母との対面の後のギャップなのか、

吉法師にとっては何だか嬉しい形だったのだ。

そして信秀は予め那古野での話を聞いており、

吉法師の頭を撫でながら、

 

「吉法師よ・・・そなたは面白い感性を持っておるの。」

 

吉法師は何のことか解らないが、

優しく声を掛けてくれる父親の顔を振り向いて見上げた。

 

「よいか…熱田は極楽じゃ!!」

 

と、信秀が言うと、

吉法師は何気にその意味を理解して、

嬉しさと大きな期待を込めて、

 

「熱田は極楽なのですか?!」

 

信秀は頭を撫でたまま

 

「ああ、そなたが見たかったものを見せてやる!!ちゃんと馬に捕まっておれ!!」

 

と言って馬を走らせた。

先頭を駆け抜ける信秀に従う様に、

供回りの者たちも急ぎその後を追った。

 

信秀に抱えられながら馬の手綱を握りしめ

後ろを振り返ってみた吉法師は、

熱田へ向かうその行軍の姿に

ある種の憧れを持つ形で奮い立ったのであった…

 

 

どうも…ショーエイです。

先ず、竹内結子さんのご冥福をお祈りします。

大好きな女優さんの一人だった故に、

本当に何故?という感じです。

 

さて菅政権に代わって感じた事は、

携帯電話の利用料金値下げ…

やるなら直ぐに行動してという話です。

選挙の目玉公約として

一般の人の興味を向けさせるための

方便とも言えそうな話です。

いわば本気なら既に何らかの行動を行っているべきで、

国民にどういう交渉状態に有るのかを

オープンな形で示すべきです。

それが見えない状態は、

ハッキリ言って本気度が無いと考えるべきです。

 

次に、河野大臣の脱ハンコ、脱紙文書。

いわばデジタル化を促進する改革に感じる内容ですが、

隠蔽しやすいシステムにしているだけで、

これも中途半端です。

紙文書よりデジタルの方が消去が簡単だから。

本当に国民の為にこれをやるならば、

隠蔽対策も含めてどうするかを議論するべきです。

ある種民間の第三者機関、

いわば弁護士会でも良いですが、

彼らが文書の不正削除を監視できる様な形で

クラウドサーバーを利用して

デジタル文書を保存化出来るように考えた上で、

脱ハンコの政策を推進するべきです。

 

今のままでは、河野大臣にその意識は無くとも、

間抜けなまでに利用されて、

隠蔽しやすいシステムを促進しているだけの話に成ります。

これに賛同している小泉進次郎もいわば間抜け。

誠実な姿勢を前面に押し出し、

改革を一生懸命アピールしているが、

本人たちは根本的な隠蔽システムの構築に携わっている事に

気付いてもいない。

ただ周りから言われるがままに、

時代にマッチングした改革という点だけで、

一生懸命に成っているだけです。

 

まあ、半沢直樹の様な作品を国民は見ているのだから、

少しはこういう闇の部分を気を付けて見るべきじゃ?

 

日本国民は解らない事は

人任せにして信用するという悪い癖が横行してます。

人を疑う事は悪い事だ、

解らない事に口を挟むべきではない。

という感じが多いにも関わらず、

ゴシップ記事には飛びついて、

噂話レベルで誹謗中傷を平気で楽しむ。

 

ある意味、国民の資質としては最低です。

信念と行動が全く伴わない国民性。

その上、長いものには巻かれろ気質。

 

半沢直樹を見て半沢直樹の様な人物に好感しながら

その実は半沢直樹の足を引っ張る方へ、

知らず知らず踏み込んでいる。

そして現実に彼の様な存在を目の当たりにすると、

青臭いと小馬鹿にする。

 

こういう社会ゆえに、

寧ろ織田信長の様な強硬な姿勢の人物の方が

望ましいのかも知れません。

 

所で…NHKの「麒麟が来る」の信長像…

正直、普通の人にしか見えず残念です。

あんなものは天才の域ではないです。

明智光秀を良く見せる為に、

寧ろ普通の人にしてしまった分、

信長の魅力は全く感じない。

まだ、真田丸の時の市川海老蔵の信長の方が、

奇妙な雰囲気と誤解されやすい雰囲気が出ていて、

好感が持てたと言えます。

 

信長たまを勘違いしているのは

「戦が好き」なのではなく、「勝負事の駆け引き」が好きなのです。

実際に「戦」自体は嫌いなのです。

相手を称えられる戦いなら好きだが、

相手をたたえられない戦は大嫌い。

 

平凡にこの言葉を見れば一緒ですが、

実は全く異なる意味の話で、

スポーツ観戦で応戦するチームがただ勝てば良いという見方と、

勝敗は別としてどういう試合が見られるかを楽しむ

と言う違いほどの差が有ります。

 

また相手が戦う理由も大事で、

明確な大義を以て挑んでくる戦いには大いに敬意を払うが、

大義の見えない戦いを挑んでくる相手は嫌い。

まあ、信長たまが自分本位である点は魔王気質なのですが、

基本的には外交で上手く纏めたい人だったみたい。

そして外交で纏まらない相手は全て敵。

いつ相手が隙をついて攻めてくるか気がかりで仕方ないから、

とりあえず先に潰しておこう。

という考え方。

足利義昭がどうしようも無かった為、上手くやりようが無くなったから、

いわば「俺が天下を取る」という方針に強引に変えちゃったのも

「魔王」気質故の話だけど…

滅茶苦茶な人だねと思わせる位、

「クレイジー」な感じゆえに天才なのです。

実際は戦が嫌いだけど、敵は潰しておかないと安心して暮らせない。

自分の領民たちの平穏を考える上でも、

自分の領地に攻め込ませるわけには行かない。

あるいみ「クレイジー」な気遣いも実は有るのです。

 

また命がけで勝負を楽しむ故に、

相手の動きを良く観察しているわけです、

そして「負ける」時の判断も早く、

損失の少ない撤退を決断できる。

いわば戦で100%勝つ事は無い訳で、

勝ちに拘ればその損失は大きく成り、

そしてその敗北を挽回する事が叶わなくなって、

いずれは滅びる。

素早く負けを認めて撤退することは、

寧ろ損失を少なく抑え、

次の勝負で不利になることは避けられる。

 

第二次大戦の日本軍の戦い方は、

とにかく勝ちに拘って、

撤退を許さず、

結果損失を大きくしていた愚策な訳です。

寧ろ犠牲を少なくしていく考え方の

米軍の戦い方の方が賢明だったのです。

 

打算的に損失少なくすると考える事は、

それに参加する兵士としては、

犠牲が少なく済む話ですが、

打算的に損失の事を考えているから、

その指揮官に心は無いと感じる人も多い。

 

でもね。

心無く判断する人間に、

こういう打算的な考えは生まれないのです。

 

味方の力あっての勝負という事を

常に意識する故に、

味方を大事にする気持ちが優先され、

それ故にそれが最良の選択で有る事を知る訳です。

ある意味「負ける」という恥を背負っても、

何が最優先であるかを冷静に考えられる。

 

寧ろ自分の力を誇示しようと戦う人間は、

負けるという恥を背負う事すら無く、

撤退より決死を覚悟してしまうのです。

 

ただ「戦が好き」という人間は、

勝つことの優越感に浸ることに酔いしれているだけの話で、

普通なのです。

 

戦をするという責任感の下で、

「勝負を大事にする」人は

常に損失の無い、犠牲が出ない方法で挑もうとするのです。

 

まあ、現代風に言えば…

金儲けの為に顧客を顧みずに、

ただ利益だけを追求している企業より、

顧客の事を最優先に考えて、

顧客の満足感から利益を得る企業の方が、

より末永く大きく成長するという感じと同じとも言えます。

 

後者を心無い戦略と考えるのは、

それは無知な普通の人だからで、

そこを理解できないがゆえに利己主義に走るのです。

今の日本はどちらが主流に成っているのか…

そう考えると本当に残念な国ですよね。

【第四話 絵巻】桶狭間へのカウントダウン 残り16年

〔ドラフト版〕

吉法師が城下へ行くにあたって、

那古野城内は慌ただしい状態であった。

吉法師の警備には200名近い人数が動員され、

その内150名は周囲に配置される斥候、いわば物見である。

 

実は那古野城に常駐している兵士数は300人程度で、

ほぼ、半数以上が吉法師の警備に当たる。

常駐兵が300人とは少なく感じるかもしれないが、

実際にこの時代はまだ徴兵制で、

武家と呼ばれる人間の数は意外と少ない。

 

現代風に武家を説明するなら、

市役所、区役所、町役場で働く公務員の様なもので、

ある意味その権限に自衛隊や警察権を含んでいる。

裁判所のようなものは存在せず、

寧ろ所領を持つ上級武家が市議会議員などの地位として、

所領をいわば選挙区の様な形で治め、

その所領の揉め事を聞いて裁く形が取られていた。

裁判所に相当する奉行所なんてものが登場するのは、

江戸時代以降であり、

それ以前の奉行は重臣の役職という感じで考えられていた。

戦国の尾張などと分割された各国を国として考えた場合、

いわば最高裁判所の判事と職員が居るだけという感じで、

将軍の元、いわば京に置かれるモノは

ハーグ国際法廷の様なもので、

外交上の問題しか取り扱わないといった感じである。

逆に不味しい農民は国の最高裁で裁判を受ける事など

出来ない時代と考えるべきであろう。

 

現代の大河ドラマやら、色々な小説のイメージで、

農民は弱い人たちを想像するだろうが、

徴兵制に動員されることを考えると、

そこそこたくましい感じに成るはずだ。

中には荒くれ者も多かったと考えるべきで、

必ずしも弱いという感じでは無い。

しかし武家が警察の様な存在であるゆえに、

武家に逆らえば処罰されるという常識から、

彼らはそれに服従していたという説明が適切であろう。

 

こうした環境に加え治安面を見てみると、

野盗的な感じの野武士と呼ばれる組織もあった。

野武士には未所属な自治軍団のものも有れば、

勢力との談合で、他勢力の地域で盗賊をして生業とする組織も有った。

ある意味ヤクザな組織である。

尾張に於いては、清州の織田大和守家と繋がる野武士、

岩倉の織田伊勢守家と繋がる野武士、

無論、織田弾正忠家と繋がる野武士などが、

其々の勢力圏を荒し合っていた状態である。

野武士の手勢は50人~100人位と考えればいいが、

馬足が遅く手勢が少ない状態で吉法師がうろつけば、

彼らはそれに追い付いて襲撃を仕掛けてる事は十分に考えられる。

信秀の嫡男であればその利用価値は十分に有り、

熱田の利権、津島の利権を絡めての

交渉にも役立つといえる。

こうした治安の状態故に政秀は慎重に考えた。

物見役の部隊は、何か起こればすぐさま伏兵と化して、

襲撃部隊を急襲できるようその合図を太鼓などで整えた。

また、物見部隊が散見する状態を以て、

襲撃する側に警戒心を与えるようにも考えた。

いわば襲撃しても返り討ちに合うと認知させるためだ。

 

こうして用意周到に行われた吉法師の城下視察は、

その当日を迎えた。

後に信長と成った吉法師はこの城下どころか熱田などを

自由にウロウロし始める。

この警備はいったい何の意味があるか疑問に思うだろうが、

それが信長が天才的であった所以で、

また周囲がその行動を「うつけ」と

あざ笑う話の意味に繋がるのである。

 

吉法師は佐久間盛重に抱えられるようにして馬に騎乗した。

無論、初陣までには単独で馬に乗れなければ成らない。

ある意味13歳位の年齢に成ればそれが適う年ごろで、

現代の競走馬サラブレッドより

一回り小さい木曽馬が主流の時代では、

大きさも13歳が跨ぐのには程よいサイズと言っていい。

寧ろ、馬に乗れなければ初陣は無いとも考えるべきだろう。

 

盛重は本当に嬉しそうである。

 

「若、何の心配も有りませぬ。私が命に代えてお守り申し上げまする故に。」

 

と、意気込んでそう言うが、

当の吉法師は寧ろ初めての城外ゆえにワクワクしており、

何の危険があるのかすら理解していない。

それ故に子供ながらその意気込みを不思議そうに見つめた。

 

そして盛重、吉法師の横固めに

当時、まだ16歳で後の重臣となる佐久間信盛が控えていた。

この信盛も従弟である盛重から散々とこの重責の意味を語られて、

ある意味少し緊張気味に成っていた。

そしてもう一方の横固めには後に信長の側近黒母衣衆の筆頭となる、

これも齢17歳の河尻秀隆が控えていた。

2人からすればこのイベントは何であろう…

甲子園に出場して、開会式の旗手持ちや

下手したら選手宣誓でもやるかのような

そんな重責に感じていたのかもしれない。

こうした切っ掛けが結果として後の信長への情に結びつき、

彼らは信長を支持し続けた所以に成るのかも知れない。

 

無論、こうした行事は史実の記録には存在しない。

しかし、後に信長が実弟信行との戦いで有利になる所以を考えると、

信長に従った者たちには、

家臣の責務以外の情が有ったと考える方が辻褄が合ってくる。

 

出発の前に、吉法師がどんな子供であったかを話しておこう。

那古野の城主であり、織田弾正忠家の嫡男として育った吉法師は、

ある意味我がままし放題に育ったと言える。

これは史実の記録でもあるようだが、

食事の時に他人のおかずを横取りするなど、

実際にそういう状態はあったと言える。

吉法師は弟分の小政(後の池田恒興)と食事を共にすることが多く、

好みの品が有ると

 

「小政、それくれ。」

 

と、小政が食べる前に、

小政のおかずをよく奪って食べた。

そして小政はよく泣いて母の養徳院にせがむのだった。

その都度、養徳院は自分のおかずを小政に分け与えて慰めた。

そんな小政に養徳院は、

 

「吉法師様はこの城の主で、小政はその主の為に我慢するのが務めですよ。」

 

と、教え、

 

「その我慢する半分を、母がこうして支えてあげるのです。」

 

と、小政に言い聞かせた。

吉法師は何故か養徳院が分け与えた分までは取らないのだ。

ある意味悪気は無いが、

小政を弄って楽しむ感じだったのだろうか…

小政が養徳院に泣きつく姿を楽しんでたのだろうか…

逆にひもじい感じで考えるなら、

吉法師が満足するだけの量を与えれば良いだけの事。

裕福な織田弾正忠家にあって、

そんな節約は必要ないといえばそうである。

実際に考えられる事は、

吉法師はせっかちで、ある意味合理的ゆえに

好みの食べ物だと、おかわりを頼んでから

それが持ち込まれるまでの時間を待つより、

隣の小政のを先食べた方が早いと考えたのだろう。

そしてそれが許されるから、

ついついそういう効率で行動したのだろう。

 

それでも、たまに平手に見つかると、

 

「若!!他人の物を奪うなどは盗賊のやることですぞ!!」

 

と、怒られ、

 

「主君としては、逆に家臣に分け与えなされ!!さあ、小政殿に取った魚を返されよ!!」

 

と、躾けられるのであった。

吉法師は政秀にまだ逆らえず、黙って小政に魚を返す。

更に平手は、

 

「さあ、謝りなされ!!」

 

と、謝罪する事を教えると。

吉法師は不貞腐れながらも、

 

「小政…すまん」

 

と、ボソッと謝る。

すると今度は養徳院が、

 

「小政、有難うですよ…」

 

と、小声で教えるように小政を促すと

小政は

 

「若…有難うございます」

 

と、腑に落ちない感じながらも言うのであった。

いわばこの頃の吉法師はクソガキと言えば

クソガキであったと言える。

無論、口うるさい爺である政秀の前では、

行儀のいい子で有ったのも事実だが、

自分の我ままがある程度通る事を知っていたのも事実である。

しかし、吉法師も小政も主従がハッキリ解るように

教育を受けたため、

後の池田恒興は弟分ながらも家臣として弁えた人物として

信長を支えて行くのである。

 

そんな我がまま放題に育った吉法師に大きな転機が生じる。

それがこの城下の視察である。

 

政秀が先導役で門を出た吉法師の一行は、

城から1.5キロ西南に下った那古野の集落を目指した。

そこまでの風景は田園地帯であり、

那古野城はその田園地帯に囲まれるように建っていた。

この一行の前に、物見の先発部隊が既に那古野の集落に入っていた。

先発部隊が集落に入るや、

 

「城主織田吉法師様の御成りじゃ!!皆の者外へ出てお迎えせよ!!」

 

と叫ぶと、集落の者たちは作業の手を止め、

母屋に居たモノも集落の街道沿いに出てきた。

馬上で命じる先遣隊は更に、

 

「皆の者!!頭をひれ伏してお迎えせよ!!」

 

と、命じるや、集落の者たちは言われるがままに

街道沿いの脇に整列して土下座するように頭を下げて到着を待った。

当時としてはこれが当たり前である。

いわば無抵抗な姿勢としてこれを要請するのだった。

逆に従わずに立ったまま居るものは敵意の表しであり、

またいつでも襲える態勢を維持していると見なされる。

主君の安全を確保する意味でも、当然の事として行われていた。

更に安全確保の為、誰か隠れていないか、

集落を一軒一軒くまなく見て回るのであった。

個人の権利やプライバシーなど全く関係の無い時代である。

 

そうした中で吉法師の一行が到着した。

政秀は集落の民が頭を垂れて迎え入れる状態を確認すると、

そのまま集落の街道を進んで行った。

その光景が吉法師の目に止まった瞬間、

吉法師は先ず、目を丸くして驚き、

そして突然泣き出した。

それに驚いた盛重は、

 

「わ…若…いかが為された?」

 

とおどろおどろ聞いた。

最初はショックで急に涙が零れ出すかんじだったのが、

段々と興奮するように泣き始め、

吉法師は

 

「これは地獄の絵と同じじゃ!!我はこんなの見たくて来たのではない!!」

 

と、我がままを言う様感じで言葉にした。

盛重には吉法師のいう意味が良く解らなかった…

吉法師の泣きじゃくる様子に、佐久間信盛も河尻秀隆も困惑した。

無論、武家の仕来りとして当たり前の光景なのだから。

彼らは何が間違っているのか、全く解らなかった。

するとその様子に気づいた政秀は直ぐに吉法師の下に駆け寄って、

 

「若!? どうされたのじゃ?城下がどうかしたのですか?」

 

すると吉法師は、

 

「これでは地獄絵巻と同じじゃ!!ここは極楽ではない!!」

 

最初は政秀も良く解らなかったが、

吉法師の趣味や好き嫌いを把握していた彼は、

何となくその意味に合点がいった。

 

吉法師は信秀が土産物として授けた絵巻や水墨画を色々見て育った。

更には養徳院が話す怖い話、お伽話など聞いて、

地獄や極楽の想像力を養っていた。

いわば那古野の集落で目撃した光景は、

鬼に怯えた人々の光景に見えたのだ。

 

そして吉法師は、

 

「城下とは楽しそうな場所じゃ無いのか!!」

 

と、更に言った。

そうである。

吉法師が想像していた城下とは、

町民たちが楽しそうに暮らす街の風景であり、

お祭りで騒いでいる様な光景である。

いわば、絵巻でも、養徳院の話の中でも、

「楽しそう」な世界が吉法師の興味をそそったのだ。

このギャップが吉法師にトラウマの様に押し寄せたわけである。

 

おそらく自分の見た世界は…「地獄」と映ったのだろう。

想像力だけで実際見るのは初めて故に、

それだけの衝撃を受け、

そしてその後の人生でこれがトラウマと成り、

織田信長の治世の理想を築き上げるのであった。

 

政秀は何となく吉法師の感性を理解し始めて、

すぐさま集落の者たちに、

 

「皆の者、ご苦労であった。面を上げて普通にしてよい」

 

と命じた。

集落の者たちは勿論戸惑った。

地面に座ったままお互いに顔を見合わせて、

中々立ち上がれずにいた。

すると政秀は、

 

「気にせずに立ちあがってよい。そしていつも通りにしていてよい。」

 

と命じるとようやく集落の者たちは立ち上がった。

しかし、戸惑いがあって普通に戻れず、

街道に立ったままであった。

政秀は吉法師を抱える盛重の下へ行って、

 

「これより古渡へ向かおう。」

 

と、言った。

吉法師はまだ泣きじゃくっている。

政秀はそんな吉法師の頭を撫でて、

 

「若はきっと素晴らしい名君に成られる!!」

 

と、吉法師のその感性を寧ろ喜んだ。

盛重も、そして信盛、秀隆も、

政秀が集落の者を立たせた事で、

ようやく吉法師の言っていた意味を理解し、

政秀が吉法師に掛けた言葉に感銘を受けて、

 

(若の見たかったのは、民が楽しむ極楽の世界か…)

 

と、ようやく吉法師の世界観を理解した。

 

そして立ち往生の状態で固まった集落の民を後に、

一行は古渡へと駒を進めた。

 

どうも…ショーエイです。

ようやく物語部分が進み始めました。

まあ、2話、3話で色々な戦国の情勢を説明しましたが、

実はああいうバックグラウンドを理解していないと、

この物語の心理的な部分が見えにくく成るのです。

 

簡単そうで複雑な心理の駆け引き。

これらが現実的な流れとして

人の行動に影響を及ぼし、

そして不可思議な結末を与える。

 

今、現代の世界情勢であり国内情勢で、

其々の人がそれぞれの理想で複雑に絡み合って、

時代を構成していくのです。

それは何時の時代でも同じで、

そういう事を理解する上でのバックグラウンドなのです。

 

人の世界を単純に性善説や性悪説で割り切ることは出来ません。

其々にそうなる理由が有るのです。

とはいえ、それで割り切って理解しているだけでは、

社会は滅茶苦茶に成る。

権力に奢る者は、時として弱者に犠牲を強いる。

犠牲として強いられた弱者を相手に戦うものは、

時として味方を守る上で残酷な結末を彼らに与える。

織田信長と本願寺の一向宗の戦いは、

そんな戦いだったのかも知れません。

 

また、広島や長崎の原爆投下。

日本人として複雑に見方は変わりますが、

その犠牲者は何れも弱者の市民です。

 

人には其々そうなる理由が有るとは言いますが、

他人事であれば、理解力と優しさで許せてしまうだろうが、

被害者に成ればそうはいきません。

そういうものの見え方の違いでも考え方は異なり、

時として優しさに走った他人事とした人を

許せなく感じてしまう事もあるのです。

 

優しいだけで悟りが開けると勘違いしないで欲しい。

性善説の様な理由があると割り切っても、

性悪説の様な利己的な考えも人間そのものなのです。

 

何を許容し、何を許さないとするか、

人それぞれでこれも異なる部分でありますが、

この小説を読んで信長たまの感性を感じ取ってみて下さい。