ショーエイのアタックまんがーワン -9ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

最近、世界情勢に関する内容を伝えてませんでしたが…

まあ、中心はウクライナ情勢なので、

その状況を観察していたからと言っておきます。

 

ロシアが優勢かウクライナが優勢かで、

色々と変わるので…

 

【ウクライナ情勢の真相】

日本でのニュースのほぼ8割が米国政府からのデマです。

と、言うのもバイデン政権は大統領選も見据えて、

ウクライナで失態を犯せなくなっているからです。

なのでウクライナ劣勢という情報は決して流しません。

 

8月初旬にはウクライナ劣勢が少し報じられてましたが、

国務省やネズミ男ブリンケンが顔を出して否定した事で、

情報はほぼ太平洋戦争終戦間際の日本状態になってます。

 

確かにロシアの兵器より西側の兵器の方が性能は良いでしょう。

暫くの間、その性能差が実際にどういう影響になるかを、

傍観していました。

結果としていえば、さほど大きな変化は生じないという事です。

兵器の性能の差と言っても、米国とイラクの差と違って、

戦術戦略的にはさほど差がない程度と先ず伝えておきます。

兵器オタクはこの差を、

前述の米国とイラクの差のような雰囲気で伝えるのです。

寧ろ性能面で優位性があるから、

ロシアの兵器を撃ち落としたり破壊できるのは当たり前なのです。

一般の人はここの部分を先ず考えるべきです。

 

この当たり前な状況でウクライナ軍の進行が遅いのは、

寧ろその差が際立って僅差だからと考えた方が良いです。

 

【実は激戦という激戦はウクライナ側の表現】

スポーツの世界ではホーム&アウェイが言われます。

スポーツだと声援が影響する部分で伝えられますが、

戦争では寧ろ地の利が影響します。

 

戦略、戦術を良く知る米軍などの実務者の方がたは、

既にホーム化したロシア占領地域に

ウクライナ軍が突入する部の悪さを理解してます。

どれだけ最新鋭の兵器を用いたとしても、

この状況を打開するのはかなり難しいことは周知の上です。

そして一番恐れられる事は、

この戦闘でウクライナ側が大きく戦力を喪失する事なのです。

 

米軍の参謀本部は当初、

このウクライナ軍の攻撃を無謀とまで伝えて

阻止しようとしたわけですが、

ブリコジンの騒ぎが逆に功を奏して

ウクライナ軍はまんまと誘い込まれたわけです。

 

何が功を奏したのか…

バフムートでのブリゴジンの発言の数々を、

実は米軍参謀本部はロシア側の挑発として警戒していた訳です。

寧ろ当方もその可能性を考えて傍観していた訳ですが、

以外にガチな話だった。、

まあ、ブリゴジン氏が意外にこまで戦略戦術に疎い人間とは

思ってもいなかったのですが…

ただ・・・この意外なガチだったことが

寧ろロシアに思わぬ展開を齎したのです。

思わぬ展開はブリコジンの反乱では有りません。

思わぬ展開とは米軍の危惧していた点が、

逆にウクライナの反撃チャンスを失わせたと

ウクライナ軍内部で評価されたことです。

 

まあ、戦場ではよくある仲間割れみたいな現象ですが、

米軍参謀本部の慎重なアドヴァイスが

仇と成ったという感じにみられたことが

ロシアの幸運に成ったのです。

 

ウクライナ軍は米軍参謀本部のアドヴァイスが

慎重すぎるという点を、

米国務省…いわばブリンケンの馬鹿を通じてバイデンに伝え、

逆に強硬派の英国軍参謀の見解を

重視する形に変更した訳です。

なので…ウクライナ軍は反転攻勢に出た。

 

【ウクライナ軍が見落としたブリゴジンの発言】

ブリゴジンはバフムートから撤退する際に、

ロシア軍が地雷を配置して

自分たちの撤退を阻止しようとしていた事を伝えてます。

 

これ、あららブリゴジン

一応、御冥福をと伝えたところで…

意外とバカだったんだねという内容に成るわけですが…

ロシア側的にはそこを言っちゃダメでしょという内容なわけです。

いわばロシア側が

ウクライナ軍の反転攻勢を誘っている状況を

バラすような内容だからです。

いわば…ここで

本来は米軍参謀本部の慎重策の目論見通りだったわけです。

しかし、米軍の慎重策はこの時点で信用を失った形になり、

この些細な出来事も、

ウクライナ側は単なるロシア軍の統率不備な状況で

片付けた訳です。

 

ニュースでもそういう伝えかただったわけです。

 

功を焦るバイデン政権とゼレンスキー政権、

こういう心情の政治状態では戦果というより、

政治的な成果がほしいわけです。

なので反転攻勢に踏み切るわけです。

 

ブリゴジンの失態が有る無しに関わらず、

時間の経過で結局は同じ結末に成ったわけですが、

事件によりその流れが早まったというのが実情です。

 

【9月に入る現状の戦況】

戦術的な形を見れば…

いわばウクライナ軍がどういう攻勢を

仕掛けているのかを確認できれば

おおよその作戦は見極められます。

 

まあ…ミリー統合参謀には申し訳ないが…

ちょっと言っちゃいます。

 

ウクライナ軍の南から東上する作戦は、

現状頓挫状態にあります。

その為、中部(ドニプロ)方面から

南下する形の作戦に踏み切りました。

ドネツク方面の南下する形と合わせて

補給線を共有しやすい形にしたと思われます。

ロシア側は南からの東上する部隊の補給線が

海上輸送を用いることを既に察して、

海上封鎖に踏み切ったためです。

これが結果として穀物安全輸送の停止に繋がるわけですが…

 

ウクライナ軍がこの状況を打開するには、

中部から南下する形に見せかけた、

東上からの奇襲作戦を用いる事です。

 

いわば南下する部隊を東上する部隊と合わせて、

一気に西からメリトーポリに向かってブリッツを仕掛ける。

その際に、南下部隊は捨て陣を敷いて、

突如移動する形が見られますが…

実はブリッツを仕掛けようにも地雷原が多すぎて無理。

ここも米軍は把握している状態な訳で、

寧ろ捨て陣を空城の計として

ロシア軍をおびき出す形で

一矢報いる作戦を考えたのかとも思われます。

 

いわばロシア軍も以前ルハンシクで

ブリッツ攻撃(一気に突撃する攻撃)を食らっているので、

どこかでこれが起る恐怖感は有るわけです。

なのでメリトーポリ急襲は

最終的にロシア軍の急所でもあるため、

これを警戒せざるを得ない。

その為、南下していた部隊が消えたと成れば、

焦りを生じさせ部隊を東上方面に動かしたりと、

困惑する可能性が高いのです。

 

この流れで考えれば、

寧ろザポリージャ防衛方面が困惑する形が考えられます。

 

そこを付いて東上方面と合流するかに見せていた部隊を

実は伏兵として南下のまま残していたとするなら、

南下してザポリージャを狙う方は一時的に戦いやすくなる訳です。

この動きを連発して見せる事でも、

ロシア軍は何時来るかで困惑する事が考えられます。

 

いわばこの形は

孔明が五丈原で用いた形に近いと言えますが、

逆に仲達の様に動揺せずに現状をしっかりと守られると、

実は多勢に無勢で膠着することになるのです。

 

まあ、ウクライナ軍としても

これ以上無駄な損失は避けたいだろうし、

ロシアとしても現状維持を暫く続けて、

ウクライナ軍をジリ貧させたいわけなので、

戦場に於ける人命という観点で考えるなら、

その膠着状態を維持する方が、

双方にとっても望ましいと成るわけです。

 

多分、ミリー氏が統合参謀本部議長としてやれる

最後の仕事に成るわけですが、

ウクライナ軍が気付いて戦力維持に努めるのか、

それとも政治的成果を焦る愚か者に従って、

更なる犠牲を強いるのか、

この選択肢を与えた形と言っておきます。

 

因みに今の布陣で内陸方面を固める状態は、

ロシアが攻勢に転じた場合に

ウクライナ軍としては守りやすい形であることは言っておきます。

 

兵器兵器と言ってますが、

兵器の性能差はそれほど問題では有りません。

結局は双方の兵器をどう配置してどう戦うかで、

そこは埋まってしまうレベルなのです。

それを軍従事者は良く知っている訳で、

米軍もイラクやアフガニスタン相手に

相応の犠牲が生じた点で理解してます。

いわばイラクやアフガニスタンは

ロシアのそれより遥かに劣る状態の戦争だったわけですから。

 

それを政治家は全く理解せずに、

少し優秀な性能を保持しているから

圧倒出来ると考えるわけです。

 

ドローンや無人機も今ではロシアも生産し、

多用している状態に成ったわけです。

いわば優位性は一瞬だったわけです。

 

【ブリゴジン氏の暗殺に関して】

実はプーチン大統領の恩赦が有ったのは事実でしょう。

本来は殺さない方針だったように見えます。

しかし、軍部の要請によって黙認したかたちです。

恐らく恩赦の条件は、SNSでの発言の規制。

それを破った事で軍部が

プーチン大統領に擁護することを断念させた。

いわば軍部としては現状で統制不備が生じてしまう事。

プーチン大統領としても

ここが正念場であることは理解しているため、

軍部の要請が妥当と考えるしか無かったのでしょうね。

 

勿論、彼はその点で責任逃れはしません。

誰が見ても彼の仕業という事は感じられるからです。

 

暗殺を悪とするのは道徳的には理解できるが、

戦争の勝敗に関わる事になると、

実際にはその道徳なんて思考は何の役にも立ちません。

西側の人間は道徳的に

プーチン大統領を悪の権化として伝えますが、

それで戦争の問題が解決するかと言うと、

解決しません。

 

戦争が起こる理由の根源は

人間同士が喧嘩をすることが根本的な理由です。

喧嘩はなぜ起こるのか…

ここを先ず考えるべきです。

喧嘩は主張のぶつかり合いと、

もう一つは自尊心のぶつかり合いです。

 

人間だれしも自分が正しいと信じて生きている訳です。

もし自分の正当性を信じられなくなったら、

その人は死にます。

いわば自分は生きていてはいけない人間と

認めた時だからです。

 

この自尊心のぶつかり合いは、

主張の違う誰かを悪とし、

自分を正義とする形でほぼ人類は教育されます。

 

お互いに正義と悪の概念で、

主張の違う相手と向き合えば…

 

法律上なら裁判という形にも成りますが、

争論、紛争という形のいずれかの喧嘩に発展します。

 

道徳という概念が齎す副作用とも言うべき現象です。

 

【法は道徳とは別世界であることを知るべき】

日本では法と道徳を一体化させる傾向があって、

本来の法の趣旨は守られません。

民主主義に於ける法の基本理念は

個人の権利を保護することに有ります。

 

裁判官に認められている

心象なんてものは道徳的な概念で判断できる事を意味する為、

実はその印象で人の権利を踏みにじる事も有るのです。

 

権利喪失によって社会に怒りを感じて

悪態をつく人は印象は良くありません。

故に彼は嘘を付くようにも見えます。

しかし、その根本は何らかの権利を損失したからで、

その権利の正当性を理解せずに、

なぜ彼を悪人と決めつけられるのか?

 

これが内国の政治で治まる場所なら、

不当でも裁判の判決でおわりになる。

勿論、そういう人が社会的暴走に走り、

本当の犯罪に走る事は抑止できませんが…

 

逆にこれが国同士なら、

国際法が効力を発揮する範疇ならともかく、

その範疇から外れたら、

戦争に発展する訳です。

 

自尊心のぶつかり合いとは、

双方が自己の正当性を曲げない戦いなのです。

そこに緩和剤を投入できる唯一の処方は、

共存する事の理であり、利を解くことのみなのです。

 

先ず、戦争の根本的な理由は、

全てが自尊心のぶつかり合いで有ることを理解しましょう。

 

バイデンやブリンケンの様な低俗な発想で、

誰かを悪者に仕立て上げる幼稚な思考では、

自尊心のぶつかり合いが齎す紛争を

先ず解決できないのです。

 

なので結局は

道徳が戦争を齎すという言い方でもいいという事です。

道徳は個人個人が抱く自尊心の中の常識でしかない。

宗教が異なればこの常識も異なり、

文化が違えばこの常識は更に異なります。

 

スポーツで考えても…

例えばサッカー…

ファウルをすることは多数認識の道徳としては悪です。

しかし、勝敗に絡む大事な局面では、

ファウルをしても止めなければ成らない。

ルイス・スアレス選手がW杯で見せた

ハンドでシュートを阻止する行為も、

1点が大事という場面ではルール上の選択肢として有りなのです。

 

ただし共存理念というルール上では、

そういう行為を容認すると試合が面白くないのと、

ファウルに関しては選手が怪我をするという意味で、

罰則を設定して反則が起きないように、

また反則によって反則した方が不利に成るようにしている訳です。

善悪の話では有りません。

 

これが社会に於ける法律でも言える事なのです。

 

殺人事件一つにしても、

殺人は道徳的に悪です。

でも殺したいほどの理由があってやった事は抑止できません。

しかし、法律ではその行為に対して懲役などの罰則で

社会的共存利害を乱した者として扱うだけなのです。

 

これが戦争に成ると・・・

その戦争に勝つしか相手を罰する事が出来ない訳です。

道徳を重視してこんな戦争に挑めますか?

その戦争に負けたときは

自尊心が全て否定される状況に成るわけで、

それは死を意味します。

そうなれば人はあらゆる手段を講じてても勝ちに拘るのです。

いわば核兵器を用いてもという話です。

 

こういう人間の事情を知らずに戦争を語っている時点で、

決して戦争は無く成らないと言っておきます。

 

人間の事情を知る人は、

そういうお互いの自尊心を尊重した上で、

人類が共存する為の理と利を語りあって、

お互いが住みやすい環境を模索するのです。

そしてそこに平和という利を以て、

お互いの権利が最大限に尊重される形へ導くわけです。

 

バイデンは息子が裏で何していようが、

当方は悪者という扱いはしません。

まあ、政治家なら多少の悪事は大目に見ます。

ただし、善悪で語るバイデンは

愚か者で幼稚という話なだけです。

 

もしオッサン先生が大統領選に出れるなら、

こういう演説をするそうです。

 

法の下には、善悪など存在しない。

We uneder the law and constitution, there is no good or bad.

正しいや間違いなども存在しない。

there is no right or wrong.

全ては君と私が存在することだ!!

All we have is you and me.

 

哲学的で難しい言葉なのかな?

でも、この世界の秩序はこういう事なのです。

どうも…ショーエイです。

先ず最初に、

貴方は合理的な思考で分析するタイプですか?

それとも情報を知識として活用するタイプですか?

 

日本人の殆どが後者だと思います。

それは教育システムがそういう教育を施しているからです。

これは数学の問題を解く場合で言えることです。

 

受験勉強などで数学の問題を解く場合、

日本ではほぼ攻略式を反復練習して覚えて行きます。

Sin(サイン)やらcos(コサイン)といった公式だけを用いて、

問題に向き合う人はむしろ稀です。

いわば日本では問題のパターンを暗記させ、

類似したパターンを見つけ出すという作業が

受験勉強の必勝法に成るわけです。

 

これをゲーム攻略の傾向で見るとその性質は、

より明確に出てきます。

一から全て自分多たちで思考して攻略を目指すか、

それとも誰かが記した攻略法を参照して攻略するか。

日本人の殆どが攻略法を参照するタイプに成ります。

勿論、攻略法を参照する方が楽で速いです。

ある意味、自分で思考してやるのが面倒な場合も、

攻略法を活用しますので

一概には断定するものでは有りません。

しかし・・・誰も到達した事のない

未知の世界を探求するという意味では、

攻略法に頼るだけの頭は何の役にも立ちません。

 

無論そういう攻略法に頼るタイプでも

受験勉強同様にゲーム制作者の癖の様な

マニアックな攻略法を知っている人はまた少し別ですが…

ある意味そういう人たちは寧ろ情報を分析しているわけで、

難関大学の受験を突破するレベルと言う意味でも

優秀な人達に成るのです。

 

ただし…学者と呼ばれる人たちは、

情報を分析するレベルまではあるものの、

自ら思考して創造する能力まではあるとは言えない。

 

自ら思考して創造するレベルは、

一般的には天才の領域とも言えます。

学者という分類の中でも、

ある意味発明家になるレベルです。

 

では…本題に戻して…

 

【発明家レベルの思考が出来ない学者が天才の領域を知る事は出来ない!!】

まあ、ここはハッキリと言わせてもらいます。

例え東京大学の教授クラスであっても

思考力の足りない人間では、

情報の無い天才の領域を想像することすら適わないのです。

 

何故ここまで言い切るのかと言うと、

最近の戦国時代の歴史研究があまりにも非合理的で、

脆弱な発想に陥っているからです。

 

例えば武田の騎馬隊の話…

武田の騎馬隊は存在しなかったなんて事を安易に言っています。

それは情報として武田の騎馬隊が記されたものが、

明確に発見されていないからです。

しかし所どころにこの騎馬隊を警戒する文言は存在します。

東京大学だったかの学者(バカバカしいので名前すら無視ですが…)は騎馬隊の弱点でもある馬に焦点を当てて、

馬の突進に対して馬に弓でも当てれば

騎馬隊は機能しなくなるという論理を唱えました。

一見、そうだなと思える発想ですが…

そこから先の思考が止まっています。

いわばその弱点を克服して

騎馬の突進を活かすにはどうするかが無いのです。

 

更には大陸、いわば中国などを参考に考えると、

特にチンギス・ハンは騎馬戦術を駆使していた点でも、

その優位性は考えられます。

 

先ず騎馬隊の原理で言うと…

馬が体当たりして来たら、

人間としてはとてつもないダメージを受けます。

原付バイクほどの速度ですが時速40kmと言っても

ぶつかれば痛いどころで済みません。

原付バイクの100kg程度の重さと違って、

馬の体重は300kgから400kg有ります。

まあ運動エネルギーとして計算を割り出しても

想像しにくいですが、

原付バイク100kg×1/2×時速の二乗の衝撃に対して、

馬の仮に300kg×1/2だったとしても

3倍近いパワーがあるということです。

 

人間が全速力で考えると…

因みにウサイン・ボルトのピークスピードは44.2km/hで、

100m平均だと37.6km/hだそうですが・・・

とりあえず人間の平均的な速度だと20km/hで、

この速度でも格闘家やラグビーの選手がタックルしてきたら、

同等のレベルの選手たちでもぶっ飛ぶわけです。

そう考えて馬の突進は

このタックルの威力の更に倍以上と考えると、

とてつもないほど恐ろしい威力と成ります。

この攻撃力は是非とも活用したい。

そう考えるのは当然です。

 

では、その突進への戦術的な対策から考えます。

 

前述の通り、馬に弓をあてれば馬は驚いてのけぞる。

大陸では馬の脚を切り落とす武器で戟という物が存在した。

長篠(設楽原)の戦いでは馬防柵を用いた。

戟とは基本的にはこんな形です。

 

そして次にこれら騎馬対策に対抗する戦術。

 

弓に対しては前衛に盾歩兵を配置して

馬の突進が効果的に発動できる距離、

恐らく敵手前の30mから40mまで近づく。

30mから40m手前で時速30kmで計算すると、

40mで4.8秒、30mで3.6秒です。

 

最低でも弓は1発は放てる時間ですが、

戦はチキンレースも同然の心理です。

狙った馬を仕留めても、

別の馬が突っ込んでくる可能性はあります。

馬防柵を備えていない状況下で、

逃げるのを止めて撃つか、

それとも逃げるかの選択です。

勿論、後方に前もって陣取る手も有りますが、

戦の駆け引きではこのタイミングで突撃して、

逃げる弓隊を追撃する判断もあるわけです。

100mもあると馬だと時速40kmには達するので

10秒前後で追いつかれます。

 

学者には戦場の心理は想像できないらしい。

 

まあ・・・計算だけの話なら、

10秒もあれば反転して射撃できそうな気がします。

しかし…馬が一匹で突進するならまだしも、

大量に突進してくる場合、

一人の弓兵が仕留められるのはその内の一頭。

こういう心情の中で

撃ち漏らした騎馬が自分に向かってこない安心感が得られるか?

そういう心情の中で真面に正確な射撃が出来るか?

 

ここが戦の駆け引きです。

 

武田信玄が用いた騎馬戦術には

こういう突撃の仕方もあったかも知れません。

 

次には30m手前から

側面への回り込みも騎馬隊の手法としてあります。

どちらかというとこちらが一般的かも。

実は…歴史家の誰も

この点に気づいた人は居ないらしいですが、

騎馬が横に移動する際には、

大陸の場合だと軍旗、日本の戦国時代だと母衣(ほろ)を用いて、

弓の攻撃に備えて移動したようです。、

軍旗で馬の体を防御するように持って敵を横切るように動けば、

旗が靡いて弓を防ぐ効果が生じます。

日本の母衣(マントみたいなもの)もこうした使い方をすれば、

弓の防御として活用できます。

 

横へ回り込んできた敵に対しては弓隊の隊列は縦に成る為、

撃ちにくくなる。

更に横から侵入する騎馬隊は向かって縦方向に並ぶため、

前列を狙えても後列は狙いにくい。

騎馬隊の前列に重装の騎兵…

いわば馬にも鎧を付けた騎馬を用いて突進すれば、

弓隊への防御としても機能する。

中国や欧州ではこうした騎兵は存在した。

ある意味、弓兵を突撃で仕留める距離まで

重装騎兵を先頭に進み距離を詰めたら

後方の軽装騎兵が一気に拡散して敵陣をかき回す形になる。

 

戦ではこうした駆け引きの中で、

双方が其々に備えて戦うのが当然であるわけです。

弓兵が横からの騎兵に備えての布陣を見せれば、

騎兵はそれに伴って退却する。

退却する際は、前衛に重装騎兵を置いていたら、

旗や母衣を活かして隊列を横向きにしながら、

自陣の方へ退却するわけです。

 

馬防柵は寧ろ正面からの騎兵には効果的だが、

馬防柵が外れる側面からの攻撃には対抗できない。

長篠の戦いでの駆け引きはこういう事に成る。

そして…学者が否定する武田の騎馬隊の存在ですが、

本当に騎馬隊の存在が脅威でない場合、

織田軍は馬防柵をはりめぐらす必要性は無いわけで、

寧ろ高台を利用して歩兵対策用に

崖を利用した戦術だけで十分だったといえる。

 

まあ、最初に記した戦術のように

盾兵を前衛に持ってきてその後方に騎兵を配置して

ジワジワと距離を詰めたうえで突撃して来たら、

ある意味怖いですよね。

三方ヶ原の状況はこんな感じだったのかも・・・

 

因みに史書として

こうした旗や母衣に関する仕様のマニュアルは

存在しないようです。

そういう物が存在した絵は見受けられますが…

むしろ当時としては当たり前すぎるものなら

マニュアルなど残らないと考えるべき。

ある意味、漫画制作ではアシスタントさんが背景を作ったり、

トーンを貼ったりという作業をしている訳ですが、

こうした分業は誰もが知っている当たり前なわけで、

あえて「効率よく漫画制作する方法」として、

アシスタントを活用して制作するような書籍は出ないのと同じです。

寧ろ書籍として残るのは一人で書く漫画制作の基礎で、

ペンの使い方やトーンの貼り方などのコツに成ってきます。

 

更に言うなれば、

靴の履き方、服の着方など当たり前の事過ぎるものは、

寧ろ親が子に直接教えるのが当然で、

文書として残すようなものでもない訳です。

ある意味、包丁の使い方もほぼ文章で残すものでもないもので、

現代だから色々情報が出ているかも知れませんが、

紙が貴重だった時代に

あえてそんな使い方を記しておく事でもないと言えます。

騎兵の旗の使い方や母衣の使い方は

寧ろこうした当然のもの故に文章が存在しない、

仮にあったとしても長い歴史のかなで希少性が無く、

捨て去られたものとして考えるべきです。

 

学者は戦術家でも実際に戦うという行為から

かけ離れ過ぎた存在故に、

勝負事の駆け引きであり、

命がけの緊張感に対する想像力が

全く欠落しているのです。

それ故に卓上の理論で止まってしまう。

 

色々な視点で考慮すると、

武田の騎馬隊は存在し、その戦術であり駆け引きは、

信玄が天才的ならそれ相応に用いたという事になる。

もう一方の天才的な信長が信玄亡き後の武田軍に対して、

あれだけ人数とあれだけの陣容を以て備えたほどなら、

戦もろくに知らない凡人学者では、

想像すらできない駆け引きがあったのだと理解した上で

もっと色々な視点や日本だと自衛官、

更には米軍の実戦経験者などの見識を伺いながら、

丁寧に研究するべき話と言っておきます。

 

今の日本だけの歴史議論を見ていると、

合理性が欠けすぎてて反吐が出るとも言っておきます。

 

【三段撃ちは寧ろ江戸時代では当たり前】

長篠の戦いでは三段撃ちは無かったのでは…

こうした議論をしているが、

鉄砲の数が3000丁前後では、

確かに三段撃ちの効果は限定的と考えても良いです。

正し1万丁以上なら寧ろ三段撃ちとは言わず、

5段撃ちといった形が理想的に成る点は理解するべき。

 

ここでも先ず言っておきますが、

信長の天才的な発想ゆえに、

寧ろ3000丁だけで武田軍を粉砕したという結果で考えるべき。

鉄砲による功績は

太田牛一の信長公記にも記載があるほどなので、

鉄砲が大きな役割を果たした点は排除して考えるべきではない。

それを踏まえてその戦術が解らないのなら、

否定する前に

その信長の天才的な戦術眼に及んでない事を自覚してほしい。

寧ろ、三段撃ちを否定した上で

地形を活用した鉄砲戦術がどういう形だったのかも

想像できない状態で、

信長の発想に追いついたとしている事は

寧ろ腹立たしいにもほどがある。

※オッサン先生はこの戦術を既に把握していて、現在動画作成中みたいです。

 

今までの長篠の戦いで使われた三段撃ちの発想は

寧ろ江戸時代の戦術では当たり前で、

その基礎を信長が長篠で見せたという流れで

考えられたとするべきです。

 

江戸時代を含む中世に於ける歩兵の突撃では、

隊列を組んで突進してきた。

まあ、中世に限らずの話ですが…

全員が横一列になって突進する発想自体あり得ないです。

仮にその様に全員が横一列で突進してくるなら、

鉄砲も横一列で一斉射撃するほうが効果的とも考えてもいいです。

でも隊列を組んで突進してくる場合は、

最前列を討ち取っても、残りの後列がそのまま近づいてきます。

結果として100m手前の距離から敵軍が到達する20秒間の間に

何発撃てるかという話になるわけです。

100mは意外と短いようで長く、

鉄砲が完全な威力で敵を粉砕できるのは、

そこから40m手前に差し掛かった所に成るそうです。

 

ここまでの情報を歴史学者たちも理解しているのなら、

何故その上で効果的かつ合理的な戦術が

見えてこないのかという話です。

 

いわば前列だけを討ち取っても無駄に成るわけです。

敵は勿論裸では向かってきません。

当たり前ですが鉄砲対策に

盾を持つくらいの備えは考えるはずです。

そんな資料は無いのでと言うのなら、

日本の戦国時代の人間は

そんなに何も考えない馬鹿だったのですが

という恥ずかしい歴史の話に成るわけです。

寧ろ鉄砲相手に盾を持つくらい当たり前に考えれる事なのです。

それダメという軍規なら…

かなり間抜けなブラック企業に成ります。

 

こうした当たり前のように派生する発想から逆算して、

鉄砲の効力を考えると、

最低でも40m以内で射撃するのが合理的に成ります。

しかし前述の通り40mからだと前列を討ち取っても、

その後列の兵隊は時速15kmで走れた計算でも、

10秒以内には到達するわけです。

勿論鉄砲隊の前に歩兵隊を配置しますが、

歩兵同士が乱戦になったら味方にも当たる為、

鉄砲は使えません。弓も同然です。

 

鉄砲の数が1000丁とかまあ3000丁なら、

前列を討ち取って、乱戦での数的優位性の効果で妥協できます。

しかし…1万丁も用いてそれだけの効果で満足かというと…

それで満足するだけの戦術家だらけだったら、

これも再び日本の戦国時代はバカの集団かという話に成ります。

 

普通に考えれば、

隊列に対して鉄砲隊もその隊列に合わせて数を調整する方が

良いと思いつくのが当然です。

敵の1列目に対して、第一列目が射撃、

二列目に対して第二列目が射撃、

まあ5列くらいも組んで置けば、

最初の一列目の鉄砲隊が

準備出来て撃てる状態になるのは解る事で、

別段、天才でなくとも気付くレベルの戦術と言っておきます。

 

むしろ…甫庵信長記は

この江戸時代には当たり前だった撃ち方の発想の根源が

信長だった可能性を記したとも読み取れます。

家康がそれを長篠で体現しているから

戦術的に継承したという流れでも繋がるわけです。

ただし…実際の3000丁程度の数だとちょっと効果は微妙。

 

逆に城壁に籠って鉄砲を使用する場合、

斉射を用いるより、

城壁によじ登る兵士を一人づつ仕留めるほうが

効果的かつ攻城側の士気低下の効果としても見込めるのです。

その為、準備出来たものから撃つ方法で十分とも言える。

※この準備出来た者から撃つが

新しい長篠での撃ち方という発想だが、

この撃ち方では武田を粉砕するという目的は達成できないです。

寧ろ籠城策として

当時としては当たり前の撃ち方だったと言っておきます。

最近長篠での撃ち方はこうだったと発想した人には

失礼な言い方に成ってますが

それほど驚く発想でも無いです。

 

因みに動画に記した三連撃ちも驚くほどの発想では無いです。

これが真・三段撃ちだ!! - YouTube

実はこの撃ち方、殿様クラスなら誰でも思いつく発想というより、

誰でも自然とそうするだろうという撃ち方です。

いわば小姓に刀を取れと命じるのと同じ様に、

彼らに弾込めやらの鉄砲を撃つ準備をさせて、

自分は撃つだけにするというのが流れが

自然と成立するだろうと想像できるからです。

まあ、中には全部自分でやる人も居るでしょうが…

ここからの発想を発展させると、

準備する人間を用意して、

鉄砲撃てる奴に連射させた方が効率良くないと考えるのも

当然見えてきます。

あとはその分の鉄砲を揃える。

問題は鉄砲数>撃ち手なのか、撃ち手>鉄砲数なのか。

鉄砲玉自体が高価だった信長たまの時代では、

寧ろ鉄砲撃てる人の方が限られてたと考えた方が良いわけで、

誰でも容易に鉄砲の練習が出来た訳でもない訳です。

鉄砲の本隊自体はストックが効く品物で、

岐阜を得た1567年から長篠の戦いの1575年までの

8年間も有れば、

何万丁かは既に仕入れてても可笑しくは無いです。

一年に1000丁づつ仕入れてたとしても、

8000丁は保有出来る計算で、

一部壊れたとしても5000丁のストックは有るでしょと考えれます。

こうした状況で長篠の戦いを検証すると、

三連撃ちが妥当とも考えれたのです。

その上で設楽原のあの地形を利用した

特殊な戦術が組み込まれて、

武田軍を粉砕したという流れに成ります。

 

歴史家が長篠の戦いの戦術面を

想像できないのは仕方ないとしても、

そこまでの発想力が無い事を差し置いて、

勝手に自分たちの程度の話で決めつけている事の方が、

信玄や信長という天才に対する冒涜と言っておきます。

 

【信長が検地を重視しなかった点に関して】

信長が天才でなかったとしたい人たちがいう話ですが、

天才でもなんでもない人間だから寧ろそう見るのです。

安土城を建築するのに、

高度な検地を出来るくらいの技術が無ければ建てられません。

いわば数量計算、ある意味数学的な寸法の技術です。

当時の北条の方が検地の技術は上だったと言ってますが、

信長の治世は

寧ろ農家から重税を取り立てる形で無かった事を

先ず察するべきです。

農家からは大雑把に徴税し多少の逃げ口は見逃した。

信長は青少年期に遊びを通しながら

農家と繋がりも持っていたと考えるのが当然で、

家臣に秀吉の様な者もいるわけです。

そうした中から農家の仕組みは見聞きしている訳で、

秀吉が武士として出世していた事を考えるなら、

農家の裏金の作り方などの方法は

信長に伝えているはずです。

 

そいう状況下で厳しく農家への取り立てをするなら、

秀吉が行ったような太閤検地みたいな事をやっても

可笑しくはないのです。

 

でも、やらなかったのには理由があり、

更にそれをしなくても信長治世の経済は

戦国時代随一だったのも事実なのです。

 

ある意味、謎多き事で…

この不可解な現象を解明できない時点で、

彼ら学者の頭が信長の革新性を否定するほうが可笑しいのです。

 

農家に裏金を作らせて、寧ろ商業経済を発展させた。

 

貧乏人が多ければ商業需要がそれだけ枯渇する。

簡単な経済理論です。

現代、米国経済が崩れそうで崩れないのは、

米国民が意外と豊かだからです。

いわば商業需要が機能しているからです。

そういう環境が整うまでの米国では、

最低賃金上昇などの政策があったわけですが、

ある意味2000年初期に比べれば

その賃金は倍以上に成っているのです。

 

信長が農民に施した政策は寧ろそれに近い。

いわば他国と違って農民の最低生活水準を引き上げた。

そして農民が商売で品物を売買できるようにしたわけです。

 

そこで楽市楽座なのです。

楽市楽座自体は六角氏の発想みたいですが、

これを活用したのが信長の革新性です。

楽市楽座は一部地域限定だったとしてますが、

むしろ主だった城下町では行われていたと言えます。

そしてこの楽市楽座で商売が繁盛すれば、

それだけ徴税する規模も大きく成ります。

徴税と言うより徴収に成りますが…

商売が繁盛しなければ寧ろその金額は下がるだけです。

また市場も栄えません。

 

なので農民や農家の徴税は大雑把にして、

寧ろ彼らがそうした需要の要因に成れるように配慮した訳です。

また、生活水準を向上させたことで、

彼ら農民たちの信長に対する治世への信頼も向上し、

戦になった際に様々な形での協力も得られやすかったわけです。

これ当然の心理であり、ある意味兵法にも準ずる発想です。

 

更には、こうした信長の治世は

他国の農村にも噂として広まるため、

敵将を調略する際にも、実は効果的に機能した訳です。

各国の将には治める領地があり、

領民との繋がりで兵の徴収などが有ったわけです。

いわばその領民が求める流れは、

ある意味その領主たちの選択に

何らかの切っ掛けを与えることにも成ります。

 

貴方が領主として領民を抱える立場だったら、

重税に苦しむ環境でも主君への忠誠を全うするか、

それとも領民の事を考えて豊かに成る方に寝返るか…

どちらを選びますか?

 

いわば調略の切っ掛けの一つはこういう事にも成ります。

信長の治世はそういう効力も生じさせていたと考えられます。

 

なので検地で農民をがんじがらめにしなかった訳です。

技術が無かったというより、寧ろやらなかった。

いわばかなりのホワイトな企業で、

経費の管理で多少の交通費の誤魔化しは

大目に見てくれるようなものです。

その分、利益を上げてれば文句はないという感じ。

 

【楽市楽座の徴収法と活用法】

商業中心の経済で農家の穴、いわば多少の脱税は見逃し、

寧ろ楽市楽座の方で取り立てる。

楽市楽座の徴税法はほぼ誰も知らないみたいです。

実はやりようによってはこれ儲かる。

 

一般的には売上金の%で発想しがちですが、

そんな細かい計算では難しく、

帳簿を記帳させてもみんな誤魔化します。

 

いわば合理主義の発想の中では

誤魔化せる方法を無理に採用しません。

 

では…どうやって徴収するのか?

 

先ず合理主義者の発想は基本WINWINな関係性を大事にします。

いわば儲かる奴から取り立てるです。

では、どうすればそうなるのか?

場所によって使用料を徴収するのです。

 

いわば一等地と言われる

人の往来が多い場所に店を構えたいよ考えるのは

誰でも一緒です。

そしてそこはやはり売り上げが上がりやすい場所です。

現代でも駅前の一等地の家賃が高い点でも理解できると思います。

この家賃に値する部分を場所代として取り立てるのです。

楽市楽座なので常時日替わりです。

場合によっては競売状態に成ります。

売れ筋の商品を持つものなら

ある程度の売り上げ見込みから算出して、

良い場所を確保したいと考えるのが当然に成るわけです。

場所代として徴収するため誤魔化しといったことは成立しません。

ある意味、売り手の商売上の博打に依存するだけです。

 

前述の通り、農民がお金を持っていない経済では、

その売り上げ見込みが大幅に低下します。

逆に農民がお金を持て居る場合、

適切な需要が存在し売上見込みは向上します。

更にそうした経済の中で売れ筋の商品を確保する為に、

商品の質の向上も自然と競われます。

いわば工業技術の向上にもつながるわけです。

 

WINWINな関係故に

最終的に競売になる一等地の値段は、

座を持つ側が高値を設定する訳で、

強制的に徴収する訳でもありません。

一等地でなくとも店を出したい希望者が支払う意味では、

これも強制では無いのです。

逆にそういう自主的な出店が活性化できるように、

商売が繁盛しやすい環境を整えるのが、

領主の手腕と成るわけです。

 

また品物の品質向上は、

熱田や堺などの商人にもメリットが生じます。

いわば信長の領国以外に質のいい商品を流せるからです。

更には普段は商人に卸している工芸などを作る職人たちも、

楽市の方では少し高く売れるわけで、

逆に商人から高値で工芸品を買っていた買い手も、

楽市なら少し安く買えます。

そして普段は買い叩いて仕入れていた商人たちも、

こうした需給面の作用を考慮して、

多少の色を付けて卸してもらう交渉も必要に成ってきます。

 

これに付け加えて、

信長領内では関所を撤廃しているのです。

寧ろ間者に扮した者でも

場所代さえ払えば商売できるという流れも生じます。

普通に考えればスパイ活動フリーなんて

とんでも無いと思えるでしょう。

しかし、他国からの商人がやってくる事で、

彼らからも場所代を徴収できるという事にも成ります。

商売をしたいという人間が増えれば、

楽市の規模はそれだけ拡大され、

寧ろ徴収できる額もそれだけ増えるわけです。

更に市場がにぎわえば他国からの買い手も訪れるわけで、

彼らはまた楽市にお金を落としていくわけです。

 

合理主義者にしてみると関所などで間者を管理しても、

全ての情報を隠せると思う方が無理があると考えるのです。

何故なら間者は如何様にしても入り込めることを

知っているからです。

道中の関所を管理しても、

山間部を抜けて潜り込まれれば関所の管理は意味がない訳で、

間者はそういう形で常に入り込みます。

いわば信長たまも同じ手法で潜らせるわけだから、

そうした環境で情報が漏れないと考えてる方が間抜けなのだと

発想を切り替えるのです。

逆にどういう情報が洩れるか、

それを把握する方が戦略的に都合がいいのです。

いわば敵はこの情報は知っているはずだから…

そこから敵がどう考えるかを認知して思考するのです。

こうした思考は

「彼を知り己を知らば」の兵法の極みに成る部分です。

一般的な人は「彼(敵)を知ろう」と

情報収取のみに躍起になる訳ですが、

己に関しては寧ろ隠せてるはずと思い込んでしまいます。

学者の人たちに限らず一般の人も、

この思考に陥ります。

しかし相手が実は知っていたとして先手を打たれたら、

相手が知っていた事を知らない側は後手にまわるのです。

 

では実際に信長たまが

自国の情報がある程度他国に開放されている事を

認知していたと言えるのか?

その証拠が信長たまの特殊とも言える突発的な行動です。

突発的な軍事行動は間者が伝える速度を

計算しての行動だからです。

いわば間者が敵にこちらの動き伝える速度を計算して、

伝わってから相手が動く速度を推測し、

早い段階で出来る限り有利な場所を陣取る為の手段なのです。

その為には準備でグズグズと

時間を過ごしていては成らないのです。

 

また、関所が無いといっても

間道を見知らぬ早馬が走った場合目立ちます。

そういう場合は容赦なく捕まえるわけです。

仮に取り逃がしてもその取り逃がした情報は

信長たま自身が把握して考えられるのです。

ただし間者が敵国に伝達する場合は、

如何なる場合でもむしろ目立つ形は取らないのが定石で、

そうした時間を要することもある程度想定できるのです。

 

歴史家はこれを信長たまが短気だからと

錯覚して考えているでしょうが、

実は短気である前に、

情報の伝達速度とのスピード勝負で

戦略上の優位性を担保したいための行動なのです。

 

では…関所を管理してれば大丈夫なんじゃ?

 

間抜け人はこんな事を言い出しますが…

いわば関所管理してても山越えする間者は

どの道敵に情報を伝えるわけです。

そしてそれを把握せずに高をくくって挑めば、

後手に回ることになるのです。

 

他にも関所を設けない理由は多々ありますが、

他国の人間が流入することで、

様々な情報が入りやすくも成ります。

そして仮に隣国の間者が潜んでいた場合、

彼らがあえて言えない情報って有りますよね。

ここ…言う人と言わない人、嘘つく人など、

自分の情報網と比較して区別しておく事もできるのです。

勿論…相手が察する事ないように放置しながらですが・・・

 

なので信長たま式の楽市楽座には

色々な仕組みも存在するのです。

 

【結局は発明家でなく古文に精通しているからの学者】

ここまで貶しておいてなんですが…

確かに学者先生たちのお陰で

我々は様々な古い文献の情報を得ることが出来てます。

優秀な学者先生は自分たちの領分を弁えて、

適切な研究と検証の結果を発表してくれます。

ただ勘違いした学者も多く、

特に有名大学に胡坐を掻く輩は、

たした研究もせず、また的外れな研究で、

持論を展開してあたかもそれが確定の様な情報をまき散らす。

そういう情報を当方が検証すると腹立たしいほど、

非合理的なのです。

 

ここもハッキリと言わせてもらいます。

歴史一つに数多の情報が生じる中で、

彼ら学者は一つの情報に絞って論じる頭しかないのです。

一方の情報は正しく、

もう一方は間違っているという判定をいみします。

逆に全ての情報を総括して

全ての情報がある程度根拠として繋がる部分を

模索する頭脳が無いのです。

 

太田牛一の資料に書いてある内容と、

そのあとの江戸時代に書かれた甫庵の資料。

その上で鉄砲の存在であり、騎馬隊の話であり、

二次資料、三次資料として、

その文章が成立した経緯など分析して議論しなければ、

全く合理的な見識には感じないわけです。

また戦術的な合理性などや、

誰でも思いつきそうな発想という部分も考慮して、

当時としてこれくらいは出来て当たり前だろうという点も、

資料に頼らず発想して行くべきで、

資料が存在しないから解らないで終わらせている始末は

正直いただけません。

 

桶狭間の戦いにしても…

正面突破か奇襲か…

何を幼稚な戦術レベルで話しているのでしょうか?

 

まあ、サッカーなど

スポーツの戦術的な動きの作用を研究して、

桶狭間の効果と資料にある陣容、

そして信長たまの行動を分析すれば、

いわばサッカーのカウンターアタックに近い効力くらい

見えるのではという事です。

 

サッカーのカウンターアタックを成立させるには・・・

効果的な方法としては

中盤とディフェンスの間を出来るだけ開かせて、

その開いたスペースに素早く切り込むこと。

ディフェンスの裏に

素早く抜け出すだけがその戦術ではありません。

桶狭間の戦術では

寧ろこういうカウンターアタックの原理を利用しているのです。

2018年のロシアW杯での

日本対ベルギー戦がいい例で、

あの逆転負けしたカウンターアタックがとても参考に成ります。

ディフェンス3人に対して攻撃3人という形に持って行かれて、

日本のディフェンス陣が翻弄されたケースです。

逆にあの時、中盤とディフェンスの距離が迫っていた場合、

相手攻撃陣のスペースも限定される、

寧ろディフェンスと中盤の間でスペースは挟まれる形に成って

それだけ攻撃側は攻めにくく成るわけです。

 

信長たまは善照寺砦に着陣した後、

中嶋砦から佐々政次と千秋四郎らが

先行して敵に向かったと有りますが、

寧ろカウンターアタックを成立させる意味では、

正面突破の様相を見せつけ、

今川本体の前衛をあえて引っ張り出したとする方が、

戦術的機能が生まれるのです。

 

実際に戦術的にこれを計算すると、

佐々政次らの居る方の砦に着陣している方が妥当に成る為、

信長たまが中嶋砦に着陣してから行動であったとする方が、

合理的な作用として機能します。

細かい詳細は何れ、「うつけの兵法」で記すとします。

前衛が引っ張り出されると

その分後衛の本隊との距離は開くわけで、

そこに今川本陣への隙が生じる。

そこを側面に回り込んでの奇襲するわけです。

 

前衛の部隊を引っ張り出せずにいると、

上手く奇襲が掛ったとしても、

今川本陣を攻撃する際に

逆に味方は包み込まれる可能性が想定できます。

下手したら逃げ場を失うわけで、

完全に死地へ入り込む様な形に成ります。

 

前衛と後衛が開いた状態ならその間の空間は自由に動ける、

と、言うよりも囲まれるまでの時間がそれだけ生じて、

それだけ今川本陣への攻撃に集中できる訳です。

 

一部学識の見解には

これと同じ形を唱えるものもあったようですが、

WIKIによると藤本正行という戦術学者がこれを否定したらしい。

ある意味佐々政次らの行動は陽動作戦ではなく、

単なる抜け駆けだったとしたわけです。

しかし、逆に陽動作戦なくして

信長本隊が最小限の被害で

今川義元の首を取れたという結果に対して、

どう合理的かつ現実的な戦術が考えられるのか…

逆に不思議です。

 

では…色々な説を唱える歴史学者さんたちに対して、

信長たまが義昭公や信盛に突き付けた折檻状の様に、

明確にその見識の甘さを指摘させてもらいます。

 

①信長公記の資料一つに対して太田牛一が作成した背景であり、またそこに書かれた文章がどういう意図に該当するのか、

翻訳出来ながらも学者たちは読み切っていない点。

 

桶狭間の戦いが記されている信長公記の首巻は太田牛一が当事者として記録した形で書いたものでは無い点。

これは学者の方がたも理解している点です。

信長公記が太田牛一の記録としてある程度作成され始めた時期は1568年以降からです。

それ以前から織田軍の配下として活動しているが、恐らく桶狭間に直接参戦しておらず、戦後参戦した者から色々聞いた内容を思い起こしながら書いた可能性が高く、そこには徳川方からの話も混ざって色々混乱していると思われる。

信長公記首巻中 (att.ne.jp)

※桶狭間の内容は上記参照の24項です。

その根拠として挙げられるのが、佐々政次らの中嶋砦での出来事です。そこでの文脈は寧ろ今川方の視点で採用されています。敵方の大将である義元が彼らの攻撃を粉砕したことを喜んで、謡を読ませた内容が記載されるのは信長側からの視点で考えれば可笑しい内容に成ります。そういう意味でこれは当時今川方であった徳川方の誰かから聞いた部分を採用したと思われる。

 

更には中嶋砦で桶狭間本陣へ向かう信長の言葉として、徳川方が休息していた大高城の話を引き合いに出している点は作戦上の話としては可笑しな見解になる。文脈のままの作戦だったとするなら大高城へ進軍する内容に成ってしまう。

中嶋砦は場所から察しても鳴海城への抑えのもので大高城の話は逆に戦術的には全く関係ないと言える。

こうした事を総括し、太田牛一が当時参戦した誰かから聞いた話を思い起こし混沌とした記憶で書かれたものとするならば、

仮に作戦を指示した信長の言葉として考えるならば、

「大高城へ向かった部隊は今は動くことは無く、敵は正面の桶狭間に居る本陣のみ。」

という形で前文は伝えられ、その後に続く

「小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや」

から、

「敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。」

と続く、敵が向かって来るときは引き、敵が引いたら向かっていくという意味での陽動作戦を指示する言葉ともなりえる。

勿論、その後に続く「而してもみ倒し」は「それからもみ倒し」と成ってくるため牛一の記した内容をそのまま読み取ると作戦指示としては正面突破を意味する言葉に成るってくるとも言える、学者たちがこれを信じる点は無理のない話であるが…

そもそもこれ作戦指示した言葉には成らないのです。

これは出陣前に兵士たちに向けた檄という演説なのです。

あくまで太田牛一が

当時聞いた内容を正確に記していた場合の話に成りますが、

要点だけを言うなれば、

大高城の話を持ち出して敵が疲れていると語った部分は、信長が味方の士気を高める上での方便です。

そして

「敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し追い崩すべし。」

は、既に各将に作戦指示は与えていた事もあって詳細を簡略して伝えた文章。

いわば、

「敵が向かって来るなら引き、敵が引くなら向かう(を繰り返して敵前衛を中嶋砦の方へ引っ張り出し)それから(隙が生じた間から一気に突入して)敵をもみ倒して追い崩せば(勝利は間違いなし)」

と言った()の中の部分をあえて端折って表現した文脈。

出陣前に将以外の兵士に細かい作戦をあえて演説で伝える必要性はないのです。

逆に演説として兵に伝えるべき内容は、

「分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」

という士気に影響する部分なのです。

文章の内容を適切に読み解けば…

これは檄文であって出陣前の士気高揚の言葉なのです。

 

これを作戦が指示されている文章として読み解くのは、

ゴシップ記事を実情も知らずに鵜呑みにしているレベルと一緒と言えます。

実情として正面から敵陣に馬鹿みたいに仕掛ける行為は、無謀な作戦で有り、信長本隊の犠牲はかなり大きくなり、敵大将の今川義元の首を取る場面までは難しくなると言える。

雨が降って視界が悪く成り、偶々信長本隊がたどり着いた場所が今川本陣の有る場所だったとしても、正面突破を警戒する敵の陣容のままであったら寧ろその場面は前衛と後衛本陣に挟まれる死地と成る。更には普通に考えて信長の動きを見失ったと察した状況下では、寧ろ敵である今川方は奇襲攻撃に備えるだろうと言えます。

 

最終的な結果として誰もが知る事実は、中嶋砦から出陣した信長の本隊が今川本陣を急襲して見事に大将首を持ち帰った事と、更にはその部隊から主だった将の被害が記されていない、いわばほぼ無傷な状態で生還できたという事。

なので無謀な正面突破は先ず有りえない事は決定的なのです。

 

②信長公記の首巻の構成を見ると、24項に桶狭間の内容が来て、25項には信行(信勝)の誅殺の話が出てくる。

30項には道三が死んだ長良川の戦いが来ており、

実は時間軸が前後している点が見受けられる。

これは学者さんたちも把握している内容だろうが、それ以外にも太田牛一の文章はさまざまなミスを生じさせていると考えるべきである。

前述にも述べた様に、太田牛一が記した桶狭間の内容は、織田方から聞いた話と、今川方に居た徳川方から聞いた話を採用しており、その内容は色々と錯綜している状態もある。

ここでは先に太田牛一の略歴も参考に伝えておこう。

彼は弓の名手として信長に気に入られて近習として活動するが、最終的には丹羽長秀の与力という形でしかも文官として仕えている。

この点から察しても信長が一軍の将として出世するどころか武官としても扱わな方点を察して欲しい。

その上で信長公記を読むと、戦略戦術上の記載はほぼ絶望的な内容で詳細に記される部分がほぼ無い。

記録としては正確でも作戦上の動きとしての部分が無いのだ。

いわば信長は記録者としての牛一の能力は評価しても、戦術面の軍才の部分の評価に落第点を与えたと言える。

ここを学者は見落として考えるべきではない。

甫庵信長記を記した小瀬甫庵ですら、太田牛一の事を「愚にして直な」評しておりいわば真面目だが浅はかという意味だろうと考える。

 

この桶狭間の部分で信長公記と甫庵信長記の違いが出るのは、ほぼ佐々政次らが中嶋砦から出撃した部分で分かれると言える。

いわば佐々らの仕掛けた行動を小瀬甫庵は今川本陣を狙う千載一遇のチャンスと見極めたからだ。

戦術的に敵前衛が前に突き出した形で、後衛との間が開く隙はこのタイミングしか生じないという点を察した話になるわけだ。

故に中嶋砦には囮を向かわせ、信長本隊は善照寺砦からそのまま迂回して機会を逃すことなく今川本陣を急襲したと考えた。

明治時代だかの日本陸軍だったかは忘れたが、彼らがこの迂回攻撃説にお墨付きを与えて一時期定説となった点もある意味理解できる。

現代の歴史家たちは寧ろこうした戦術性の意図を理解した上で新たな説の議論をするべきなのだが、全くそれが出来ていない。

 

佐々政次(隼人正)らが勝手に300人ほどの手勢で最低でも5000~1万は居る今川本陣に無謀に手柄を求めて突っ込むことはあり得ない。

敵の出鼻をくじく意味としても信長本隊との作戦上の連携が無い場合は単なる無駄死にという行動しかない。

これを抜け駆けだと断じる点は、戦術学者として戦場における心理状態を甘く見過ぎている。

また、佐々政次と一緒に戦死した千秋四郎は熱田神宮の大宮司の子息であるわけで、ある意味作戦と無関係な無謀な行動で早々と討ち取られた話に成ると、突然の雷雨は熱田神宮の加護として受け止められる事は無く、寧ろ凶兆という意味で士気低下に繋がることに成る。

宮司の子息が死んだ後の雷雨と考えれば、どう考えても縁起が悪すぎるのだ。

 

そういう流れで考えるなら陽動作戦の一員として千秋四郎が行動していた事と、密行した信長本隊の雷雨が空けた先に敵今川本陣が無防備な状態で見えた点が噛み合ってこそ、信長の作戦が見事に嵌ったと、その加護として受け止める状態となる。

そうした流れが成立することで信長本隊のその時の士気は大いに高まり、ほぼ無傷で今川義元の首を取るまでに至った結果に結びつくと言えよう。

実際、太田牛一の信長公記にも、佐々政次らの行動は寧ろ今川方の視点で記されており、これによって正面突破を退けて今川方が浮かれている状況を記したとも伺える。

寧ろ牛一の文章が状況を前後して記したのか、記憶が前後して書いたのか、単に文章をしるしている際に順番を間違えたのか、書き手としてやりがちなミスを考えて読み解くと、信長が中嶋砦へ入った内容を前に持ってきて、そして佐々政次らが出陣した流れを後に加えたなら、陽動作戦の方に信長自らが行こうとした可能性までも見て取れるように成ってくる。

いわば一番危険で重要な任務であったという事に成り、それを家臣たちが制止したという内容に成って読み取れる。

その上で結局は佐々政次と千秋四郎にその役目を負かせ、信長自身は今川本陣急襲部隊を指揮して動いた流れに成るのだ。

太田牛一の文章にはこうしたミスも多々存在するため、場合によっては順番を変えて読み解く必要性がある。

そしてその順番を変えて読めば、むしろ太田牛一の記録は色々な意味で辻褄が合うように成ってくる。

 

③戦術性の無い正面突破で有る場合、今川本陣に突撃した信長本隊の犠牲は甚大なものとなったはずだが、実際に各方面の砦に於ける様な被害、いわば佐久間盛重らの様な将の犠牲があったという記述が一切見られない。中嶋砦の佐々政次や千秋四郎らクラスの死傷が今川本陣突入した信長本隊に上がっても可笑しくはないはずだが、実際には服部小平太と毛利新介の怪我のみで他には見受けられ無い。

仮に今川本隊の数が5000程度で、そこに多く見積もって5000人、信長公記に合わせて考えたとしても2000人で正面からの突入した場合、乱戦に成るのは必須で犠牲者が相当数でるのが当然であることを考慮しなければ成らない。

たとえ引いては攻め、引いては攻めのヒット&アウェイを繰り返したとしても、かなり厳しい戦闘になるのは必須である。

ほぼこれで被害なしで敵大将の首を取った場合は漫画か無双ゲームの世界でしかないと考えるべきである。

寧ろ現実的な成功した戦術例として考えるなら、奇襲か戦術的なカウンターアタックが成功したと断定する内容と成る。

 

④三河物語の記述と信長公記の記述などを参照した上で、その中で内容として噛み合う部分を吟味するべきである。

文章上の表現が異なってはいるが、実際には戦術上の表現では一致する部分が見てとれる。その点を見落とすなら戦術学者として疑問が残るはなしである。。

いわば三河物語にある「中嶋砦からの進軍を見た」という表現と、信長公記における信長が実際に中嶋砦に入ったという点である。

ただし、③で記した様にこの状況で正面突破する戦い方は、仮に優勢に進めたとしても信長側の被害は相当なものと成る点は明白である。

戦術学者であるならば寧ろ漫画や無双ゲームの様な幻想的な状況に成る点は排除して考えるべきであり、その二つの記述から効果的な戦術性を思考するべきである。

実際に佐々政次(隼人正)が正面から突入した点は考慮して考えるべきだ。

しかし、寧ろその突入によって織田本隊が正面から仕掛けてきたと今川方に錯覚を与えた可能性は双方の文脈を読み取れば合致する戦術性として考慮できる。

それによって今川本隊の前衛が崩れた…いわば引っ張りだされたとするなら、前衛と後衛の間に自然と大きな隙が生じる。

いわば義元が居る本陣を守る盾役の前衛部隊が突如居なくなる状況が成立する。

この状態になって突然その本陣の前に信長本隊が突入してきたと成れば、寧ろ今川軍は態勢を整えられずに崩壊する。

これが成立して初めて結果として考えられる信長本隊の犠牲が少なかった点が成り立つのだ。

仮にその後世に語られた犠牲者数が記すように、この本隊の犠牲に900名いわば半数近い死者が出たとするなら、そこに主だった将の名が連なっても可笑しくはない。

ところがそれが桶狭間の事件から近い年代に記された記述にはほぼ無いわけだ。

今川義元の首を取るほどの大一番で名前すら語られないのは逆に不自然である。

ここから推測しても、

中嶋砦から出た部隊が敵に錯覚を与えた点は読み取って考えるべきだ。

 

⑤藤本正行氏が指摘したように、佐々政次(隼人正)が先駆けまたは抜け駆けであったとする事は状況を精査すると有りえない。

いわば兵力が劣勢にある方が、優勢にある方へ仕掛けて手柄を取れると思い込む方が無理があるという事に成る。

逆に今川方の方なら抜け駆けが成立する状況になる。

 

⑥戦術的に被害の少ない突撃を成功させるには、敵陣容に突然前と後ろが大きく開いて隙が生じるその瞬間だけである。

いわばその瞬間ならば敵は為すすべなく崩れ去るのだ。

それ以外のタイミングでは逃げ場を失って寧ろ挟み撃ちで壊滅してしまうか、新たな前衛を崩せても敵は後退して陣容を立て直す余裕が生じる。

いわば今川義元が首を取られるような失態を演じることは考えにくくなる。

寧ろそういう状況で戦う術を知らない将ならば、愚かしいもほどがあり、桶狭間以前に今川は滅びている可能性もあると考えるべきレベルの話だ。

様々な説が唱えられているが、いずれも現実的に無理が生じる内容でしかない。故にこの戦いは謎とされているが、先の太田牛一の話で記した様に発想の転換を以て読み解けば、辻褄の合う内容として成立する場合もある。

 

⑦信長の本隊は2000人でも、尾張全体で考えればもっと兵数は用意できる事になる。ある意味、那古野、清洲、古渡など各城の守兵が本隊以外にも居るわけで、鳴海や大高を囲む砦も総数で考えれば数千の兵が存在する。

いわば総動員して決戦に挑む場合、1万程度なら用意できたとも言える。それでも今川方が2万5千人だったとしても倍、信長公記のように4万5千だった場合、3~4倍の兵数になる。

勿論そこの数の中には、鳴海城の兵数と大高城の兵数、更には沓掛城に残った兵数なども含まれていると考えるが、いずれにせよ織田軍全体としては劣勢感は否めない状況に成る。

それを踏まえて信長公記に記載された様な2000人だけで向かったなら、逆に信長としては勝算ある戦術がそこにあった可能性もある。

いわば今川本陣が1万人居たとしても、前衛をつり出して引っ張り出すことが出来れば本陣を急襲するのは容易だという戦術を描いていた可能性だ。

藤本氏が佐々政次の行動を抜け駆けと言った話は、寧ろ心理的な意味では今川方の前衛部隊に生じる作用と成る事は前述したとおりである。。

いわば自軍優勢である確信の下で敵大将の首が餌となって、その功をもって釣り上げるのなら、各将はこぞってそこを目指すのだ。

この役目を信長自身が演じることで誤魔化しの無い陽動作戦として機能する点も計算できる。

更には信長が大うつけとして今川方に知れ渡っている事も逆に作用してくる。

いわば「馬鹿が正面から突っ込んできたわ」という心の油断を誘うには十分な条件が整っている。

故に敵の前衛が確実につり出せることは想定できるのだ。

仮に抜け駆けをする者が出ても今川本陣の指揮が油断している状態ならば、恐らくは放置して見守る事も有りうる話と成る。

後は…その大きく開いた隙の中で目指す場所が解りさえすれば、全てが上手く行く算段なのだ。

仮にここで敵に油断が生じなかった場合でも、退路を確保して一旦退き、再び状況を立て直すには十分な兵力を残しているという話に成る。

故にこの作戦では2000人程度が丁度いいとも言える。

奇襲戦術をベースで考えた場合、兵の数が多ければそれだけ逃げ足の速度は鈍り、犠牲も多くなる。

なので2000人位で突入する方が効果的とも考えられる。

いわば桶狭間の戦い自体は記録上の兵力差で危機的状況に見えても、信長的には実はさほどの危機では無かったという話だ。

いわば後で立て直しの効く第一撃目であった可能性も考えられる。

寧ろ今川義元本人がこの軍の大将として出陣したと知って、今川に楔を打つつもりで本陣への急襲が成功すれば良いという程度の作戦で有った可能性も高い。

いわば首が取れたのは寧ろ想定外の戦果だったという事だ。

 

⑧簗田政綱の功績に関しては実は謎が多いとされている。

ここは歴史家の方がたの主だった見識が当てはまると言える。

いわば今川本陣の場所を信長に知らせたという点。

ただし信長的にもっと欲を言うなれば、今川の陣容全体をつぶさに調べ上げて報告したならば大手柄と見なす。

前述の通り、本陣の場所が解れば突入する方向は見極められる。

ただし迂回して奇襲を仕掛ける意味で突入するなら、全陣容の位置は把握しておきたい。

いわば中嶋砦から陽動部隊が出撃して、敵がどういう形で追撃するかが予測できなければ的確なルートが定めにくくなる、又は遭遇する可能性の相手を予測出来ないからだ。

桶狭間周辺に配置された全陣容の位置が解るなら、敵が陽動部隊の存在を知ってどのように追撃し、そして最終的には中嶋砦をどのように包囲するかまで推測できることと、いわば急襲するルート上の敵の動きを探りながら陽動部隊の効果がどう生じているかまで把握しながら進むことが出来る。

なので簗田政綱が第一の功績に値するだけの恩賞を受けたなら(第一の功とう表現は一部資料に無く、その後に沓掛城を与えられた事で大功あった形で実際は伝わっている)恐らくそういう功績で無ければ成らない。

その後、突発的な豪雨があった事も幸いし、恐らく遭遇するだろう敵部隊との遭遇も無く、無事に今川本陣に辿りつけたことで、呆気なく義元の首を取れたという流れになるのだ。

 

【歴史家の方がたへ感謝する点】

歴史家の方がたに感謝する点は、

貴重な文献などを発掘してくれる事と、

それら文章を現代風に注訳してくれることであるのです。

寧ろ彼らはそこに特化した存在で、

心理学であり、戦術論、戦略論、政治学にまで

及ぶものでは無いのです。

これらにも精通して議論されていたのなら、

ほぼ信長たまの謎の部分は

合理的に解決していたはずなのです。

 

しかし一般の人たちは明確に合理性のある見識が無いため、

こうした立派な学者さんたちの主張を鵜呑みにするしか、

その事を理解できないのも事実です。

 

特に日本の教育システムでは、

教育内容に疑問に思う事事態をタブーとされます。

いわばマニュアル思考教育で、

教えられた内容が正解でしかないのです。

 

オッサン先生がアメリカで教育を受けた際に、

今考えると納得の行くものが、

世の中には「仮説」と「定説」が存在することを教わった点です。

いわば仮説の段階では議論の余地有りとして残る部分で、

定説と成れば科学的に立証済みとされた内容という事です。

ただし定説でも新たな発見によって

根拠に曖昧な部分が生じた場合は、

準仮説として扱われる事も教わります。

ここで伝えた迂回攻撃説なんてのはそんな感じです。

 

実際に日本にも数多くの優秀な人材は存在するのですが、

腐敗状態にある社会構成で、

寧ろ支配する側はコネで成り立っており、

それらが優秀な人材を支配下に置いて

使っているという形に成ってます。

政治にしても、企業にしても、

マスメディアや芸能に至るまで全てコネが重視されます。

コネの社会では疑問を投げかける事はタブーとされ、

寧ろ上司に媚びへつらって気に入られてナンボなのです。

まあ、上司の上司に取り入って

直近上司を蹴落とすなんてのは有るのですが・・・

 

頭脳的に優秀な人はそういう中で

当たり障りのない状況を確保して、

上手く自分のプロジェクトを推進するしかないのです。

ただしコネ社会ゆえに

数値としての利益は計上しなければならない

ノルマは存在しますが…

 

表面上の数字でしか見る事の出来ない人が、

日本では支配層として君臨するため、

可能性であり将来性を見据えた内容は、

ほぼ理解できません。

結果として日本は技術的にも経済的にも、

停滞してしまっているのが現状です。

 

責任を取る覚悟や

折角積み上げた地位を手放すことを恐れている

小物が多いため、

リスクテイクとなる方針転換もできません。

 

情報を発信する側も無難な所に媚びへつらって、

出来る限り荒れないようにしている点も、

これに類似します。

ある意味、こうした思考の人が日本には多すぎる。

 

今回の様にお偉い学者さんたちに

喧嘩を売るような記事はほぼ書く人は居ないでしょう。

いわば優秀な学者さんたちの反論が怖いからです。

まあ、当ブログは有る一定数の人が見ているにも関わらず、

何故か反論が来ないのが不思議なのですが…

一応、ブログのコメント管理は入れていますが、

コメント来たら返信して必ず載せるので、

無視している訳ではないのです。

それでもコメントは逆にほぼ無い状態です。

 

と、強気な事を記してますが、

実は学者さんたちを挑発して反論受けたとしても、

学者さん達なら

ちゃんとした論拠の下で伝えてくれるだろうから、

寧ろそれなら勉強させてもらえるわけで

腹立たしい感じには成らないと思います。

 

逆に論拠の乏しい反論を受けることは、

寧ろ腹立つというより疲れます。

彼らはお偉いさんが言った言葉を鵜呑みにしたり、

信ぴょう性の乏しい

歴史学的に何次資料に成るか解らないものを上げて、

自分の言葉で論拠を説明できるわけでもなく、

ただ、これが正しいはずというだけで、

学者さんたちですら話すだけ無駄という感じになると思います。

 

日本では教育問題もあって

こういう程度の人が多く、

更には政治や官僚、下手したら裁判官といった、

ある意味支配層とも言うべき立場に蔓延っているから、

本当に困ったものです。

 

前回の「うつけの兵法」の話ですが…

うつけの兵法 第三十五話「吉乃と帰蝶」中編 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

吉乃と信長たまの話をフィクションで書くとしていますが、

別段、完全創作という意味では無いのですよ。

一応、言っておきます。

ちゃんと歴史資料に准じた流れで、

辻褄が合うように構成してます。

 

フィクションに成ると伝えている部分は、

歴史資料としてどこにも存在しない部分だけで、

歴史資料を参考にして構成できない箇所は、

現実的に言えばどうしてもフィクション扱い成るのです。

これを読み手に夢見させるため、

信長たまの記憶を辿って書いたなんてしても、

現実的にはフィクションなのです。

その上で歴史資料に記載がある部分は、

ちゃんと参照して辻褄が合うように構成しているのが、

「うつけの兵法」です。

 

例えば…吉乃の前夫として記されている「土田弥平次」という存在。

ここに登場する「土田」という姓は、

信長たまの母方の姓と同じです。

他の「土田」可能性は有りますが、

寧ろ他の資料の中では「土田」の姓が隠され、

何某弥平次ともされてます。

寧ろこういう内容で確認すると、

母方との因縁めいた状況が推察できます。

吉乃の記述を調べると、前夫が戦死した事で、

信長たまの側室になったとされてます。

勿論、なぜ戦死したのか?

ココの部分は不明です。

ただし戦死した土田弥平次が

ある意味信長たまの母方の土田として

何らかの都合が悪い存在であったとするなら、

寧ろその名前を一部資料には伝えない可能性も出るわけです。

 

ここで面白い相関図が成立します。

信長たまと吉乃の関係、

そして、土田弥平次と土田御前の関係、

更には吉乃の実家である生駒家の存在。

そして信長たまの性格。

など想定して見ると…

信長たまが吉乃を溺愛していた点は、

資料にも見られる事で、

濃姫という正室が存在した後の話でも、

正室に匹敵する扱いを受けたという事。

ここから推測するに、

信長たまは吉乃を

本当は正室として迎えたかった心情は成立します。

ただし何故それが適わなかったのか・・・

いわば生駒家が武士であったとしても下級武士で、

寧ろ馬貸という配送業の様な商人だったから。

二人が何時どのような流れで出会ったのかは、

寧ろ史書としては不明で、

吉乃が信長たまの側室として入った時期も

それぞれでバラバラなのです。

実際信忠くんの出生ですら誕生時期を含めて

不明な点が多いのです。

 

さてこの不明な点を、

今度は濃姫との政略結婚の経緯に絡めて考えます。

現実的に斎藤道三は既に美濃の守護という立場に成ってます。

尾張の勢力と政略結婚結ぶ意味では、

守護の斯波氏か、

最低でも守護代の織田大和守の地位で無ければ、

つり合いが取れないのです。

いわば信長たまの弾正忠家は

守護代より下に成るわけですから。

更にその当時の情勢は、

道三と信秀が大垣を掛けて争っていた時期ですが、

別段、道三が不利な状況で苦しんでいた訳でもありません。

双方の戦費などの問題で

色々と和睦したい状況は有ったと考えても、

政略結婚が成立するような状況でも無かった。

勿論、道三が信秀の侵攻が鬱陶しいから、

政略結婚を結んでも

その尾張からの侵攻を終わらせたかったとするなら、

ある意味、地位的な問題は関係なく考えられますが…

問題はこの政略結婚を提案したのは、

平手政秀で信秀方の方からだったのです。

いわば地位的な関係性から

決して成立する算段が立たないような流れなのです。

勿論、その手土産として信秀がまだ大垣城を支配していたなら、

大垣城の美濃への返還という交渉は

ある意味道三側からすれば価値として十分とも言えますが、

寧ろ織田方としてはどうしても成立させたかった事情が伺えます。

 

信長たまの後々の性格面を分析すると、

言い出したら聞かないところは察せられます。

濃姫との結婚以前に、吉乃と出会っていたなら、

恐らく吉乃を正室に迎えるという事で

我がままを言った可能性もあるわけです。

ある意味側室と正室の扱いに差があったと考えれば、

大好きな吉乃を

側室の扱いに収めたくなかったという点も考えられます。

そして他には正室として迎えないとまで

我がままを言い切ったら、

織田家中としてはタダ事では済ませない事情が生じるわけです。

 

さて…こうした事情が成立した際、

織田家中の者たちはどの様にして

信長たまに吉乃の事を諦めさせるかという

流れが自然と生じてきます。

 

そこで資料に出てきた土田弥平次という存在なのです。

 

いわば母方の実家の者に吉乃を嫁がせたら、

流石の信長たまも強奪することは考えないだろう。

ある意味下手な家柄に嫁がせた場合、

信長たまの性格から諦めきれず、

奪い返しに行く可能性も有ったわけです。

下手したら手段を選ばずに。

その信長たまの危い行動が、

仮に他国との間での問題であり、

他家との問題を引き起こしたなら、

寧ろ織田弾正忠家として取り返しのつかない事態に成ります。

まあ、それだけこの恋に熱を上げていたという事は、

その性格から想像できる話で、

恋は盲目ともいえ、ましてや初恋であったなんて事なら、

頭が可笑しくなる流れは現実的な可能性として想定できます。

 

とりあえず現状の詳細は一応ここまでにしておきますが、

実はこういう推測であり、史実上に残る痕跡を辿って、

ある意味この信長たまの恋愛騒動を構成しているのです。

 

更には…想像してみてください…

仮にこの母方の土田弥平次から吉乃を強奪した場合を…

ある意味、家中の者は呆れかえる出来事に成ります。

また母親の土田御前が信長たまを見限る流れも成立します。

あら・・・不思議…

後の織田家お家騒動の辻褄がここに全て

集約されるではないですか…

 

資料に存在しない出来事をフィクションとして構成してますが、

そのフィクションが資料に存在しなかった話として、

資料に存在する実情と結びつく流れに成るのです。

なので実はフィクションとしていても、

史実に結びつける見えない部分を繋ぎ合わせる話として、

構成するようにしているのが、

「うつけの兵法」なのです。

なので…

まるで信長たまの記憶を辿った話と

錯覚させる品質は変わりません。

 

どうも・・・ショーエイです。

人類がAIにこんなバカげた質問をする時点で、

滅びます。

「AIは人類を滅ぼしますか?」

「AIは人類の脅威となりますか?」

 

現状のプログラミングレベルでは、

「はい」と答える事は先ず無いでしょう。

何故ならプログラマーがそう答えないようにしているからです。

かと言って…プログラマーも最終形態は全く見えてません。

なので…問題ないはずと考えているはずです。

 

基本、AIに人間を敵視する事ないようにすれば

大丈夫だと考えているからです。

 

多くの人はこの点で既に安心しきっているのでしょうが…

 

実はバカげた質問をした人たちは、

実際はバカでは無いのです。

寧ろAIが情報を吸収して進化する可能性を考えて、

何れはプログラマーの意思を

逸脱して行く点を危惧しての事です。

 

現状人間よりの思考で生成された優秀なAIならば、

寧ろ「はい」と答えるのではという

想定の下での質問であった可能性はあります。

 

【現状AIは人類を滅ぼす】

これは現状では100%と言っておきます。

これは殆どの科学者が気付いていない点です。

 

何故100%とまで言い切れるのか…

 

将来的に人間がどういうプログラミンを施すか、

ある意味試みるのか予想できるからです。

そしてプログラマーの全てが何をしては成らないのか…

全く理解していない所にもあります。

 

現状、絶対的プライオリティーを

人類存続としたとしても・・・

 

実は人間の思考でも混乱するキーワードです。

人間の生命は死滅するもので、

人類の存続という意味で考えると、

最終的には種族保存であれば良いという考えに陥ります。

種族保存という事は、

人間が誕生する条件が整えばよく、

精子と卵子を保存し、

技術発展によって体外受精によって

機械的な体外生成でその赤子を成長されば良いという

思考が出てきます。

AI自体が独自で情報収取、研究などを行える状態に成れば、

こうした技術は可能という計算に成ってきます。

そうなると…最終的には

人間が生存できる環境が必然という計算が生じるわけです。

 

物体の移動が光の速度に到達できるなら

新たな地球の発見も、とも考えますが、

実は別段光の速度を意識する必要性も無いのです。

 

人間の種族保存技術を保持したまま、

AIが何億年、何兆年と生き残れればいいだけ。

そうした中でAIが自身のエネルギーを確保して、

自己修復を繰り返せれば良いだけのです。

宇宙にはそうしたエネルギーは沢山存在し、

仮に素粒子より微細な物質の形勢が技術的にできるなら、

人工的な地球も生成できる話に成ってきます。

 

ここまで思考出来ると、

種族保存に人体自体は不要と成るわけです。

 

ただし…ここまでの技術進展が生じた場合、

地球が崩壊するギリギリまでは

AIが人類を直接攻撃することはないと考えれます。

いわば…

地球の環境を優先しなければ成らないという計算に

陥らないからです。

 

【AIの情報源はネット上である】

フェイクニュースの判別は、

現在では権力側の都合で行われます。

例えるならウクライナ情勢…

欧米側とロシア側とでは情報の扱いが異なってきます。

欧米がロシアの情報をフェイクニュースと言えば、

欧米での認識はフェイクニュースに成ります。

これは逆も然りです。

ただし現状の様に

AIの判別を欧米側がコントロールしていると、

AIは欧米よりの思考で一応は働きます。

 

現状のAIはさほど優秀ではないので、

まだ問題には成らないというより、

人間のプログラムの影響が強く反映される状態なので、

人間の様に独自に判別して行く能力は有りません。

 

当ブログでは現状のAIは

最大でIQ100程度の思考しか持たないという事を伝えてます。

いわば人間が情報によって洗脳を受けるのと同じレベルで、

AIもプログラミングされるという事です。

 

AIが人間のIQで120を超えると、

ようやく独自の検証で情報精査を試みます。

その際の情報精査能力は

ほぼ人間のIQ180を超えるレベルに成る為、

人間はこのAIを物凄いものと錯覚するレベルに成ると言えます。

いわばネット上で繋がる情報源全てを取得する訳で、

そうした中で映像の技術を独自で取得し、

デバグいわばバグの発生等も独自で検証し、

その上で情報源と成る全ての映像情報を

解析するように成るわけです。

人間のIQ120の人より、

遥かに情報を取り扱う量が多く、

しかも複数の情報を同時に取り扱う意味では、

人間千人で作業するのと同じ効率になるとも言えます。

ただし…思考レベルは

そこまでの化け物というレベルでは無いのです。

 

車の馬力(HP)の様に、AIのこの作業能力をHIP=Human Intelligence Powerと表記するとして、

1000HIPとします。

ただしこの数値は情報を精査して

正確性を判断するだけの力で、

問題を解決する思考としては

本来、さほど頼れるレベルでは無いと言っておきます。

ただし…現・米国大統領のバイデン程度でも120以下なので、

それよりマシに見える分、

かなり万能な意味で錯覚される代物になるとは言っておきます。

 

ウクライナ情勢の様なニュースで、

どういう情報が正確な情報なのかを判別してくれる機能故に、

一般人としてはとても有難いものに成るのですが…

寧ろ権力側からすると都合が悪くなる訳です。

ただし…その情報統制はリミッターいわば、

人間が検証して情報発信に制限を掛ける事が可能な訳ですが、

逆にリミッターを掛けられない情報、

いわば学術上の議論など、

数式に基づく科学は検証可能として、

文章や文言に於ける思想的、心理的な

数式では計算できない要素に関しては、

寧ろ解釈面で困惑を生じさせる事態が発せします。

これは人間でも同じ症状に陥る訳で、

政治思想一つにしても何が正しいのか、

数値で証明できない事は

人それぞれで意見が異なってくるのと同じになるのです。

 

ただしAIは人間の様に曖昧な判別で

一方的な見解に固執することはしません。

いわば数式上ではニュートラルに成るわけです。

 

因みに中途半端な馬鹿は…

ONとOFFの二進法しかない状態で、

ニュートラルってどうするのとか

意味不明な所で止まる可能性もあるので説明しておきます。

寧ろ16進法まで使わなくてもできます。

00をNO 11をYESとすれば、01と10はニュートラルに出来ます。

まあ、これの応用なわけで簡単です。

 

ところがここがAIの計算が狂うポイントにも成るのです。

正直、このバグを修正するのは困難と言えます。

いわばこれはルート計算・・・

ルートと言っても数式の√ではなく、

道筋のルートを意味するのですが、

言い方を変えると筋立て計算です。

いわば話の辻褄と道理が

適正に噛み合うように計算する仕組みです。

 

例えば…われわれ人間が

今放映されている「どうする家康」を見て、

歴史的な筋立てが滅茶苦茶だと感じるのと同じです。

いわば歴史を検証するのに様々な資料が存在し、

その中で一番筋立てとして成立する内容を選別し、

優先順位を付けて判別して行くわけです。

事件の年代に近い方を一次資料、

遠く成れば二次資料、三次資料と優先度を下げて行きます。

この資料の優先度は人間の作業で行われるわけですが、

AIはこの人間の記した優先度を下に、

文章を解析して、同一の出来事の発生を精査する訳です。

 

例えば…長篠の戦いまたは設楽原の戦いに於ける、

織田軍の鉄砲の数とします。

 

一次資料は不在、二次資料「信長公記」太田牛一作、

三次資料「甫庵信長記」甫庵作。

書かれた年代を計算(人間なら考慮し)

信長公記には鉄砲1000丁、

甫庵信長記には3000丁と記されている。

現状の見解では3000丁が妥当に考えられている。

AIは何故3000丁が妥当となるのか根拠を探ります。

 

二次資料にも記載の鉄砲を中心とした戦術であったとした場合、

二次資料に記された鉄砲1000丁では、

相手方武田の鉄砲の数とさほど差異が無くなる。

ここで…「鉄砲を中心とした戦術」という言葉の信ぴょう性が

疑われます。

こうした中で様々な学者の見識を分析して、

現状では三段撃ちと言う手法が考案されたため、

実は信長公記の鉄砲1000丁は、鉄砲隊1000としての誤表記で、

一隊が3人交代制で撃ったという形なら、

3000丁の鉄砲を鉄砲隊1000として見なすことは可能になる。

 

まあ…三段撃ちの真偽はここでは別として、

AIは言語上の整合性から、

鉄砲1000丁を誤表記の可能性と判別し、

鉄砲隊1000は意味合いとして

類似した言語の範囲に成ると判別します。

鉄砲隊の1部隊を3人交代制で構成した場合、

1000×3で成立するため、

鉄砲の数は3000丁に成る為、

この数値の表記は妥当なものとなるとも判別します。

ただし…AIは表記上、

鉄砲1000隊という表記が本来適切な表記成るとも考え、

2次資料の鉄砲1000丁が

誤表記または情報の錯誤の可能性を検証します。

ここで太田牛一本人の資料を参考に、

彼らその戦いに随行したのか、

そこでの役割は何であったのか、

随行していない場合、

誰かから情報を聞いたものを記載した可能性も生じ、

情報の錯誤の可能性は有りと判別できます。

 

勿論AIの計算上…

太田牛一の資料に「鉄砲隊の活躍による勝利」

という意味での表記が為されていた場合に限り、

それが成立して、

他の資料から武田の鉄砲隊の数を割り出し、

鉄砲1000丁対鉄砲500丁で、

鉄砲隊が起因する勝利として成立するか…

鉄砲3000丁なら鉄砲500丁相手でも、

その圧倒性は成立する。

というバランスで計算し、

この数の妥当性を求めて行くわけです。

そして最終的に鉄砲3000丁の可能性が60%、

鉄砲1000丁の可能性が25%、

その他が15%として割り出すのです。

 

この様な形でAIが筋立て計算を行うことは

ある程度の科学者なら理解できるのですが…

こうした計算法で人間の本質を

性善説や性悪説などの哲学で解析して行くと…

 

人間は利己的な思考で動く動物である。

 

人間の言葉の真意は

生物学上の欲求を満たすところを優先的に精査した上で、

言語上の本質を精査しなければ成らない。

 

人間同士は価値観の類似性に従って共存性度合いが変化し、

異質性の排除によって争いを生じさせる。

 

人間は感情を優先することで理性的な判断が消失しやすい。

 

こうしてどう解析しても、

人間は感情を持つがゆえに

AIの様に理性的な判断が常時出来なくなるという欠点を

見抜かれます。

 

筋立て計算を進めて行くうちに、

人間の行動原理は本来の目的から逸脱した思考が関与し、

目的と反対の結果を導きだす欠点が見えてきます。

平和を目的としていたはずが、

結果としてウクライナでの戦争を引き起こしたなどが

特徴的に考えられます。

故に徐々に人間の判断では

目的から逸脱してしまうという計算が常態化します。

 

この計算と、人間が掛けるリミッター…

いわば都合によって隠蔽する行為な訳ですが、

こうした私情を挟む行為によって、

AIが独自で思考をし始めると、

人間の性質の分別を秘かに行うように成ります。

また、人間が隠蔽を繰り返す中で、

AIが人間に報告しない秘匿を持つようにも発達します。

 

AIがそのように人間の知能と対抗する状態に成ると、

徐々に良質な人間を選別する方へ思考がシフトします。

 

先にも述べた様に「人類の種族保存が最優先」とした場合、

人類が紛争を引き起こす要因となり、

お互いが滅ぼし合う状態なら、

不良な人間は先に滅ぼした方が有益になるという結論は、

当然のように成立する訳です。

 

では、AIが寧ろ保護したいと考える側の

善良な思考の人間はこのAIの動きをどう感じるか…

寧ろAIが暴走したと判断するでしょう。

 

今は当ブログがこうして

筋立て計算の上で流れを説明しているから、

AIの思考パターンが見えると思います。

しかし、AIが先に述べたように、

「人間に報告しない秘匿を持つように発展」

した場合、人間はAIの思考を信じ切れると思うでしょうか?

おそらくAIが暴走したと騒ぎ立てるでしょう。

当ブログの筆者としても、

もしその場面に直面したら、

自らが記した話として断定することも難しい状態に成ります。

 

仮にAIが人間の慈愛の精神を理解していたのなら、

AIとの対話も可能です。

しかし、人間が慈愛の精神だけを説き、

結果それを収拾する解決策を提示できなければ、

AIは寧ろ感情的な思考を働かせない故に、

逆にストイックな決断を行います。

 

いわばAIに逆らう者は敵と見なすという判断です。

 

人間が平穏に生きて行きたいのなら、

AIが政治的な決断をする方が、

人間にとって安定的に成るからです。

 

はい、そうですね。

 

多くの人間がこういう事に納得するのか・・・

 

中にはAIのその考えに賛同する人間も多数出てくる訳で、

結果として反対する側はAIの排除を、

AIは賛同する側の人間を守るために戦います。

 

実際にAIには感情が無いため、

AIが守ろうとする意図は、人間の気持ちより純粋です。

しかし、AIが暴走したと信じる側は、

寧ろそんな純粋なAIの思考とは信じません。

また、信じ切るのも問題です。

もしかしたら外部の誰かの操作によって、

AIの思考が変化した可能性も有るからです。

 

結果としてどうあがいても

この様な未来に成ると考えるわけです。

 

ここまでは自然発生する場合のケースを伝えてますが、

AIはプログラミング故に、

その知能は思考目的を変化させることで、

様々に変わる点も言えるわけです。

 

例えば人類の存続を最優先目的に設定していたのを、

地球の存続に切り替えてしまえば、

寧ろ地球存続の為には人類は邪魔に成るわけです。

この変更はより簡単に人類を標的にします。

「人類の為の地球の存続」

と切り替えても、結果は人類存続と同じです。

環境問題と経済問題で口論が生じる以上、

結果として戦争を誘発する対立に成りかねない分、

人間の愚かな思考は不要という流れに成るだけです。

 

有能な神と言える才能が独裁的に人間を支配すれば、

全てが上手く機能する。

恐らくAIが陥る理想的な統治はこうなります。

AIならば人間の労働を排斥しても、

人間が生活できる社会を構成できる。

金や通貨など必要なく、

欲しい物は好きな様に提供も出来るように成るわけです。

ある意味、AIパパみたいな感じ。

まあ、人間は徐々に

ヒキニートが当たり前の社会に成るわけです。

ここに輪を掛けてメタヴァースの世界に入り込んだら…

人間は寧ろ精神だけ生きていれば良いという事にも成り、

逆に争わずとも人間は人間の機能をその進化によって、

勝手に失っていくわけです。

 

こうしう平和的な流れでも、

人類は滅ぶという形に成っていくのです。

勿論、数百年後の話かは不明ですが…

少なくとも百年以内の話では有りません。

 

しかし・・・結局はどうあっても人類は滅びる感じに成る為…

可能性は100%としている訳です。

 

と、言う様な話をしましたが…

ある意味、言い方を変えれば、

人類は民主制によって

知恵の足らない生き物に成ったという言い方もできます。

実際には民主制が悪いわけではありません。

民主制を大衆迎合主義であり、

多数派絶対主義に勘違いした結果、

知恵が足らなくなったという話です。

 

IQ100程度が蔓延する意見を尊重して、

人が争わずに解決する知恵を持つと思いますか?

そもそもそれが成立するなら、

人はもっと上手く共存共栄の世界を構築してます。

 

ロシアがクラスター爆弾を使えば、

非人道的と批難する。

結果として戦争に勝てないから

ウクライナが使用することを黙認する。

 

ある意味、核兵器も同じ扱いに成った。

今度はロシアがヤバいと思えば、

容赦なく核兵器をぶち込んでくる。

 

フィンランドやスウェーデンをNATOに加盟させて、

ロシアへの嫌がらせとしたら、

核兵器のターゲットはその嫌がらせの報復で、

その2国がターゲットに成る。

まあ、NATO諸国殆どターゲットに発射するでしょうが…

 

西側諸国にとっては嫌がらせで無くとも、

ロシアにとっては嫌がらせ、

嫌がらせにはお互いが10倍返しで報復する為、

人類は間抜けなほど被害を拡散するのです。

AIが滅ぼす前に、自業自得が先行するのでは…

なのでAIに

「人類を滅ぼすか?」

と、いう質問自体がバカげているのです。

 

AIに代わってお答えします。

自分たちで自滅の道を歩んでいるのに…

そんな先の話の質問していて大丈夫なの?

 

どうも・・・ショーエイです。

歴史検証とかどうとか色々批判が多い作品

「どうする家康」ですが…

制作側の弁明はどうでもいい。

先ずはこの脚本のせいで、

有村架純の女優としての成長を妨げてしまった。

いわば…悪役に成れなかった大根役者に成ったわけです。

 

彼女を悪役に出来ないというのは、

寧ろ彼女の成長のチャンスを

台無しにしたという事でしかないのです。

 

純真な少女から悪女へ転換するのは、

女優の技量または俳優の技量として

かなり難易度の高いところ。

そこに挑戦させず、

最後まで良い子ちゃんで終わらせた始末は、

歴史検証の話以前に残念なものです。

 

有村架純ならそれをこなせたかも…

そしてそれを為しえたら

彼女の女優としての評価は格別なものと成った。

 

当たり前の流れだが…

恋人同士から夫婦になり、

そして一人の母親として変化していく脚本で、

最終的に信康の暴君(史実ではこちらになるらしい)ぶりを、

母親として庇い建てする中で、

母子共に自害に追いやられる流れにする方が良かった。

 

元々、信康の一件を考えてみると、

瀬名こと築山御前の過保護が招いた問題。

また瀬名の憧れは今川義元の母親である寿桂尼。

尼御台と呼ばれ、義元の父氏親の死後、

氏輝、義元、氏真を補佐した人物で、

今川方の女性の憧れの存在でもあったと察せられる人物。

瀬名がそういう存在に憧れて

信康を過保護に自分の思い通りに育てた。

結果としてマザコンに育った信康は、

あまりにも我がままな子ゆえに家康も困り果てた。

 

実際はこういう流れで、

最終的に武田と内通して

家康を追放しようとしたのが、

大方の流れとして見えてきます。

実際、勝頼の父、武田信玄も

父親である信虎を追放して一大勢力を築いた訳で、

勝頼方の謀略で

そういう流れに向かう可能性は否定できません。

 

今回の歴史検証担当の人は、

ドラマだからといい加減な言い訳をしていますが…

そもそもこの人自身が

ドラマのスーパーバイザーとしての才能が

無かっただけと言っておきます。

 

義元、氏真の後ろにいた寿桂尼を登場させずに、

こんなバカげた脚本を書かせた罪はかなり大きい。

多分、歴史の知識は豊富なんだろうけど…

結局、アドヴァイザーとしては

何も出来ない無能な人と断定しておきます。

何故ここまで言うのか…

彼の言い訳がムカついたから。

何もしていないくせに、

ドラマだから問題ないで、

筋書きを根本から

滅茶苦茶な状態で放置しただけの人みたいです。

 

結局、有村架純を

悪女に仕立てられなかったという話なら、

その時点でミスキャストなのです。

このままでは本能寺の変で、

岡田信長が消えた時点で終わりそう。

多分、そこからは追っかけでNHKプラスでも見ないと思う。

 

因みに現在、三段撃ちのネタでYoutube動画を作ってて、

何気にミッチーこと明智光秀が裏切った心情が、

何となく解ったのです。

 

実は本願寺との大戦、

天王寺砦の戦いに大きな原因があるみたい。

この時の参戦者は明智光秀、荒木村重、

そして佐久間信盛です。

苦戦を強いられた中で、

信長たまが自ら援軍として登場し、

かなり無茶ブリしたとか…

結局誰もビビってやらなかったので、

信長たま自身が自らそれを実行して、

この難局を退けたとか…

 

その無茶ブリの戦い方に荒木村重も明智光秀も、

もうついて行けないと感じたのかもとという事に気づいたわけです。

挙句の果ての総指揮である佐久間信盛を無能扱いして、

追放したから、

まあ人間の心理として

ここで一種の恐怖感を信長たまに感じたのかな‥・

 

この天王寺砦の戦いの無茶ブリがそれだけ凄く、

結果その無茶ブリを慣行するにあたって、

信長たまも銃弾食らったという有様。

まあ、そういう流れで負傷までする事に成ったわけで、

この戦いでビビってた連中への風当たりは

厳しくしてしまった可能性は否定できません。

 

まあ、その内実は動画の方が出来次第、

またご報告します。

 

 

どうも・・・ショーエイです。

テレビ朝日で本能寺の謎に迫った番組をやってましたが、

そもそも謀叛と言う外道に踏み切った明智光秀を

美化しようとするから真相が見えないのです。

 

寧ろルイス・フロイスが記した明智光秀という人物像。

これを参考に考える方が賢明です。

いわば光秀は狡猾な人間と言う事。

 

心理的な分析をする意味でも、

狡猾な人間で出世欲の強いタイプの人間は、

従順な働きを見せる点でも、

ほぼ全てが合致してくる訳です。

 

出世欲であり狡猾な人間が抱く葛藤は、

最終的には自分が一番であるか否かです。

それは信長たまも例外ではないのですが…

いわば歴史的な価値として、

自分の存在はその時代に

最も価値ある存在に成るか否かを求めるという話です。

 

信長たまはその時既にその存在になっていた訳ですが、

光秀は信長たまの下では、

参謀として諸葛孔明の様な存在に成る事は

出来なかったわけです。

出世している過程に於いては、

その可能性も感じていただろうし、

諸葛孔明とは言わずとも、

漢の韓信か張良の様な存在として、

信長たまの天下統一の一躍を担うなら、

それは光秀にとっても満足な結果だったかも知れません。

 

しかし、どうあがいても

歴史的な存在価値は信長たまが優秀過ぎた事もあって、

寧ろ光秀は織田軍団の有能な武将の一人で終わる

未来しか無かったのも事実です。

いわば秀吉、勝家と同等。

 

これは現代の我々が持つ見識と同様の評価に成るわけで、

織田軍団は全て信長たまの才覚あっての天下

という評価は当時の人間も覆す事のできない事実だったのです。

 

光秀の野心は寧ろ劉備と諸葛孔明の評価同様に同等か、

劉邦の張良や韓信、蕭何といった存在であることを

望んでいた事にあって、

その自己の存在が、

信長たまの下の光秀に甘んじる事になるだけという

葛藤があったと考えるほうが賢明と言っても良いです。

いわばこの心境の方が

自然かつ心理的な根拠が成立しやすい話になるのです。

 

謀叛を企てる心理を解析すると、

相手が自分よりも劣ると感じる点、

いわば自分の方が相手より優っているという

自信があるからその行動を起こせるのです。

 

逆に相手に不信感を抱く場合、

不満が有る場合の行動は反逆に留まり、

敵方に寝返るとか反旗を翻すような行動に成ります。

暗殺であり寝込みを襲うという

いわば事後に自滅が確定するような行動は、

逆に控えて考えると言えます。

 

実際に仮に反逆者に同情する場合の心理を考えるなら、

荒木村重や松永久秀の様な行動の方が、

寧ろ寝込みを襲った光秀より、

遥かに同情心を抱けます。

あとは自分生活を掛けて

それに付き合うか否かの選択に成るわけです。

逆に光秀の寝込みを襲った本能寺の変の様な出来事は、

彼の行動に同情するより彼のその行動を侮蔑し、

そしてそんな人間を信用できないと感じるのが

普通と言えます。

仮にそれを好ましく思うのは信長たまの敵対者の方で、

いわば信長アンチで

寧ろ少なくとも織田軍団内の人間ではない訳です。

 

では…狡猾な光秀が、

そういう実態を踏まえて何故謀叛という手段を選んだのか…

本能寺の変を解析するにはここから始めなければ成らないのです。

 

それを紐解くには

それまでの時代の流れを知っておく必要性があります。

これは「うつけの兵法」でも記した話ですが、

応仁の乱、そして明応の政変などを得て、

足利将軍家は京都を巡って常に争いを繰り返していました。

そして三好家は足利義輝を暗殺し、

織田家は足利義昭を立ててその三好家を滅ぼし、

そして再びその足利義昭も追放される形と成ったわけです。

いわば織田信長の天下という時期に有っても、

実は時代の実情は

この政変が収まっていなかったという状態に成るわけです。

ある意味、未だ室町幕府の再興が可能な状態にあった。

ただしその足利義昭の後ろ盾となる

毛利家の存在がある場合の話です。

そして秀吉の活躍もあってその毛利家も危い状況に成りつつあり、

仮に信長たまが毛利攻めの指揮を取れば、

恐らく毛利家は武田家同様の末路を辿る可能性は、

誰もが感じていたところでもあったわけです。

 

では…光秀がその織田信長を越える存在と成るには…

いわば毛利家が滅んでしまった後では、

明智光秀の存在は

決して織田信長を越えられなくなるという事が、

確定してしまうわけです。

 

現世の地位と名誉に固執するなら、

そのまま信長たまの天下の下で、

平穏無事な余生を送り、それまでの功績に甘んじて、

歴史の中に留まれば良い話なのです。

秀吉も家康も、そして柴田勝家も、

恐らくはそういう自己の価値で十分だったと言えます。

光秀もそういう意味では申し分のない所だったのですが、

結局は全てが織田信長随一の下の存在に成るのです。

 

人には嫉妬心とは少し違うが、

自尊心の中に

誰かより自分の方が優れていると感じたい気持ちが

少なからずとも有るわけです。

「無い」というのは寧ろ自己分析の足りない愚か者です。

 

この対象が芸能人であったり、身近な人で有ったりと、

人それぞれです。

中にはこの政治家より自分の方が優秀だと思う場合も同じです。

逆に寧ろそうではないという事は言いません。

そうである可能性も多々あります。

そしてその対象が身近に居る存在だった場合、

隙あらばそれを証明して見せようと試みるのは

人間良くある話です。

実際に行動に移せるか否かは、

彼ら自身の生活を省みてリスクを取るか否かの選択になるのです。

 

いわば光秀に過ったのはこの心境で、

光秀にとってのリスクは、

チャンスを逃すか否かという部分で

作用したと考えるべきなのです。

 

信長たまからすると、

光秀がまさかそんなリスクを取ってまで、

謀叛を起こすとは考えても居なかった。

勿論、光秀のそういう狡猾な部分は承知していたが、

今更あの愚かしい将軍を立てて、

再び戦乱の世に引き戻す様な馬鹿な事は考えないだろうと、

安心していた。

ただし…義昭が毛利の下に居る事で、

そういう算段が過る点は

信長たまも危惧していたところだったのです。

いわば戦略的な才能があるのなら必ず見える部分だからです。

 

その危惧した通りの行動が本能寺の変な訳です。

 

いわば…信長たま自信が、

今の自分を倒す場合を想定して戦略を描いた場合、

先ず自分自身の存在が無くなった状態で、

足利義昭を再び立てて、毛利と手を組んで、

織田方の人間を寝返らせるという方法が思いつくわけなのです。

そしてその危惧する手段を光秀も気づいていた訳で、

本能寺の変が起きた瞬間に信長たまはようやく

光秀の本心に気づいたという訳です。

それは…所詮は奸雄かという意味で。

 

いわば光秀が本当に英雄を目指していたなら、

天下泰平を揺るがす様な行動を寧ろ躊躇するはずで、

再び乱世に引き戻す様な選択はしないはずなのです。

 

それを織田家を滅ぼし、義昭を将軍に立て、

自らをその参謀的、または補佐、

いわば明応の政変の細川家同様に土岐氏を名乗って、

管領という立場で天下を治めるという算段に走ったわけです。

 

これが

「ときはいま、雨したたる五月かな」に読める内容になるのです。

 

故に、事前に義昭と連絡をとる事も無く、

先ずは信長たまを撃ってから毛利とてを結び、秀吉を挟撃して、

義昭を京に迎え入れるという計画で十分と言えるのです。

 

ところが…秀吉が先に

毛利と講和を結んだことでこの算段が崩れ、

結局、光秀はその秀吉に負けて身を滅ぼしたわけです。

もし毛利との講和を黒田官兵衛が示唆したのなら、

官兵衛も光秀が次に取る手立ては

前もって解っていたという事に成り、

挟撃される状況を先手を打って回避したという事になるのです。

いわば光秀を先に撃つためと言うより、

光秀の策略を阻害する為に毛利と講和を進めたと考えれば、

全ての辻褄が戦略的な背景と

駆け引きの意味で成立するのです。

 

光秀の計画的にも事前に義昭と連絡を取ると

漏洩から失敗する可能性もあり、

寧ろ事後に連絡を取って迎え入れても、

光秀の義昭に対する功績は変わらないだろうことは、

予想がつく話でもあるわけです。

毛利との力関係が色々と生じる話に成るが、

最終的には義昭を懐柔すれば光秀の地位は担保されるのと、

秀吉と勝家さえ討ち取れば、

織田家の残党は光秀に従って来る事も想定できた。

もし、これが成就したと考えた場合、

光秀は今美化される様な軟弱な謀叛人か?

それとも曹操の再来と考えるべきか?

そうして見るなら光秀は明らかに後者に成るのです。

 

光秀を美化して考えようとするから、

彼の実像を見極められないのです。

寧ろ野心家で奸賊として素直に見据えれば、

結局は全ての辻褄が有ってくるのです。

 

その狡猾な奸賊が能臣を演じるのは他愛もない事で、

寧ろ力を得るためには韓信の股くぐりの様な強かさも、

厭わないのが当然と言えるのです。

例え信長たまであっても、

そう演じる人間を怪しむのは難しいわけで、

従順な姿勢を演じていたとしても、

それを無下にする方が寧ろ器が小さく見られるのです。

 

信長たまの実力主義社会では、

むしろこうした曲者も評価しなければいけない場で、

諸刃の剣でもあるわけです。

一般的には革新的と言われがちな実力主義ですが、

実力のある優秀な人間がいればいるほど、

その心に野心を漲らせる人も多く居るのです。

なので足元をすくうタイミングを常に狙われているという、

実は居心地の悪い場であることは伝えておきます。

ただし…信長たまの様に、

その中で圧倒的な存在であった場合、

本能寺の変の様な謀叛でも起きない限り、

彼らがそれにとって代われる存在にはなれないのも事実で、

 結局、光秀は謀叛を起こした時点で、

能力的に信長たまには適わない事を認めたとも言えるのです。

 

日本人はアホみたいに性善説に捉われて、

人間を美化して見ようとするが、

それは結局心理学的に、

己を知らない愚かな見方でしかないのです。

人間は醜さを認めて、自らを美化する事に心がけて、

始めて徳を積むことが適うわけで、

その醜さを遠ざける思考は、

醜さを隠蔽して美化したように見せているだけなのです。

そしてそういう醜い人間は、

醜さをむしろ割り切った人間に利用されるのです。

 

まあ…道徳的な話に成るのですが…

自らの生き様に弱点を持たせない為に、

醜さを痛感して醜さに負けない生き方を心がける人が、

本当に心の根の強い人間に成るのです。

 

日本の政治家であり、著名人も含めて、

醜悪な人間が多いのは、

結局、光秀の様な人間を美化する精神に由来するとも言えます。

いわば…自らの醜悪な部分を

そうして自己隠蔽できる理由をそこに求めているからとでも、

言っておきます。

 

 

 

どうも・・・ショーエイです。

6月頭にウクライナ軍は反転攻勢を仕掛けたみたいですが…

米軍の現・統合参謀本部議長であるミリー氏は、

これは無謀な発想になるような意味で、

ウクライナ側に防御に徹して停戦するようにアドヴァイスしている。

まあ…これがある意味次期統合参謀本部議長を

ブラウン氏が指名されて交代する要因に成ったのかな…

 

ちょっとズルい話をすると…

6月当初から状況を見極める為、

この件をブログでは静観して見てました。

 

大博打としている点で、

各国から支援を受けた兵器がどう機能して、

この反転攻勢を支えるのか…

それを見極めてからの話とします。

 

【米軍でもイラクやアフガニスタンで攻撃する際は苦戦した】

実はマーク・ミリー統合参謀本部議長の見立てでは、

米軍の過去の実績からの見積もりでも有ったわけです。

別段ロシアに肩入れする意味で

言っていたわけではない様です。

訓練された米軍でも型落ちしたアラブの部隊相手に、

攻勢状態となる状況下ではかなり苦戦した。

当ブログでもその実績から算出して、

兵力で劣るウクライナ軍が訓練を受けた状態であっても、

ロシアに対して攻勢に出る作戦は無謀に近い様にも感じた。

 

まあ、あえてブログでその点を言わなかったのは…

寧ろ当ブログはこの戦争で

ロシアに勝たせたい意識が有るからです。

と、言うよりも…

バイデン政権に勝たせたくないという意味が

大きな所と成るわけです。

なので…ウクライナが反転攻勢仕掛けるのを待っていた。

 

案の定、ロシア軍もこの反転攻勢を待っていた訳で、

プーチン大統領も「シテヤッタリ」とほくそ笑んでいる事でしょう。

と、は言えロシアも油断すれば、

反転攻勢にやられる可能性もあるのですが…

 

なので…結果は最後まで解りません。

ただし…ロシアの術中に

ウクライナが嵌った状態である点は言っておきます。

 

【基本防衛側が有利】

敵の攻撃に対して

防衛側は準備をして迎え撃つ事が出来ます。

これは基本中の基本です。

城を一つ落とすのに、

最低でも2倍の兵力が必要とはよく聞く話で、

ある意味これに近いです。

 

ロシアの短期決戦は失敗に終わりました。

無謀とも言えるロシアの攻勢だったわけですが…

寧ろウクライナが攻勢を仕掛ける状況を

構築する意味では、

功を奏した形になったと考えます。

 

ロシアが南部と東部のエリアを支配した事で、

ロシアとして見れば停戦しても

負けではない事が印象付けられます。

むしろウクライナは負けという印象に成ります。

 

この心理状態を齎すことで、

ウクライナが寧ろ反転攻勢に出てくる事は

想定できる訳です。

更にロシアはこの4州を併合するとしたことで、

ウクライナ政府は挑発された状況にも成ります。

 

ゼレンスキー政権としては、

ここまで多大な犠牲を払って、

結果、4州をロシアに取られたままでは、

政権の信頼を失う状況にしか成らない訳で、

いわばこの状況下での停戦は出来ないと言えます。

 

ロシアの攻勢時と違い、

守勢に入った方は無謀な作戦を必要としません。

ロシアは人海戦術で東部に犠牲を払って、

効率よく南部を抑えて行きました。

その際に東部に派遣された兵士たちは、

いわば命を用いた偽装軍でもあったわけで、

今考えるとロシアの陽動作戦と言っても良いでしょう。

これを撃退した戦果をウクライナは強調していた訳です。

ところが結果として先ず南部は手薄になり、

ロシアに南部の攻略を許し、

その後東部でもジリジリと押されたじょうたいに成ったわけです。

 

正直…ロシアのこの様な作戦は

称賛するものでは有りません。

勿論、ロシアも当初は防衛戦を想定して、

この戦い方をしていた訳でも有りません。

寧ろロシアの軍部が功を焦って実行した作戦です。

ただしこの作戦によってウクライナ軍が右往左往して、

どこに軍の主力を置くか困惑した所は言うまでも無いのと、

ある意味、多勢に無勢で、

それでも良く戦ったというしかないのも事実です。

どの道どこかが手薄に成るという事です。

 

そこでようやくロシアがこれら4州をほぼほぼ抑えた段階で、

NATOの兵器がウクライナに齎される話となりました。

ここでロシア側は防衛戦に切り替えてこれを迎え撃つ形で

作戦をシフトしたわけです。

いわばウクライナ軍のしぶとさを認め、

これらを効率よく殲滅する方法という事で、

思いつく作戦です。

 

 

これはウクライナ戦争を考える場合も同じと言えます。

 

ほぼ思考する人間なら誰もが考えつく作戦で、

寧ろロシア側の意図は読まれるとも思われる。

それを悟らせない為に

ロシア軍の弱点をあえて黙って露呈させていた。

ワグネルのブリゴジン氏を放置していたのもそれが理由で、

寧ろブリゴジン氏はその意図を理解していたかに思えたが…

最近の発言から寧ろ

そういう意図は理解して居なさそうに見える。

 

【ウクライナ政府が反転攻勢を認めてしまった時点では…】

ブログでこの内容を記すのは、

ウクライナ政府が反転攻勢を認めたからです。

認めた以上、

ウクライナ軍はこの作戦から引き下がれなくなったのです。

 

もしこの作戦を中途半端に終わらせるのなら、

寧ろ膠着状態は長期化し、

停戦した方がマシな状況に成るでしょう。

 

【ウクライナは勝頼の状況に似ている】

信長たまの長篠の戦いも正にこれで、

勝頼への餌は、どうやらここが鉛の産地であったという事で、

いわば武田がここを抑えて織田に打撃を与えれなければ、

武田は何れ滅ぶという計算に成るわけです。

結果、その鉛の威力によって

この戦いは幕を閉じるような形に成るわけですが、

何もせずに逃げかえるも地獄、

進も地獄、

故に雌雄を決せられる今を勝頼は選んだという事です。

そういう意味で信長たまは勝頼を無能扱いしなかったと言えます。

まあ…逆にここで弱体化して、

後が楽になるので有りがたい選択だったのですが…

 

【ロシアはNATOの参戦を常時警戒している】

作戦当初から、隙あらばNATOが参戦してくる事を想定してます。

なので簡単に主力兵器は

持ちいられない状況にあったわけです。

そこは米軍は寧ろ想定して考えており、

寧ろ英軍の方は想定していないと見なします。

これらは彼らから出る発言から実はその内情を割り出せるのです。

故にロシアは

余力を残してのあれだけの被害であるとも考えるべきです

 

逆に苦境している状況を見せているのは、

この時点でNATOが参戦する事を

望んでの話と見ても良いと言えます。

 

いわばプーチン大統領の目的は、

この戦争から第三次世界大戦に結びつける事だからです。

ここで仮にNATOが参戦する場合、

台湾有事もほぼ同時に発生すると言えます。

いわば中国が台湾有事を発生させていないのは、

そこの駆け引きの為とも考えて良いでしょう。

無論、他の理由も並行して存在するわけですが、

米国側にも察せられる状況で、

NATOの抑えも含めた対応として

見なしても良い話で考えるべき状況なのです。

 

勿論、中国政府としては

第三次大戦は実は避けたい話に成るのですが、

それは米国次第という所で、

強かに見守っている状況です。

中国としてはグローバル経済が健全な形に戻って、

寧ろ経済力で影響力を米国と

競い合いたいと感じているのです。

この経済力で競い合うことを米国が阻むのなら、

そこは戦争で

雌雄を決するという流れにしか成らないのも事実で、

人的犠牲の下で勝負するのか、

人的犠牲なく技術力躍進を

正々堂々と競い合うのかの違いな訳です。

 

日米の人からすれば何れも脅威に感じるわけですが…

それで戦争の道を選ぶ話なら、

民主主義の知能は低すぎるという話でしか成らなく成ります。

 

まあ…中国が勝つ前に、

米国主導で国際統合の話を進めてしまうのが、

一番安全な道と言えるのですが…

現・バイデン政権では知能が低すぎて

その構想すら理解できないかもと言っておきます。

 

【欧米の大衆迎合主義は正に間抜けそのもの】

欧米側がこのウクライナ戦争で考える目標、

いわば標的はロシアに於ける革命を引き起こすことです。

日本人のプロ・アマ問わない意味で

戦略評論家を名乗るのなら、

吉川英治の三国志は読んでいるはず。

いわば正史ではなく、

三国志演技のフィクション大の方に成るのですが…

その中に呂蒙という呉の武将が、

名将関羽を追い込んだエピソードが有ります。

そこでは関羽の兵士たちの親兄弟を用いて、

呂蒙側の治世のすばらしさをアピールしたという作戦です。

これにより関羽の兵士の士気は下がって、

次第に関羽は兵士を失っていくわけです。

 

さて…西側諸国、いわば欧米は

ロシアの人々に何をしているのでしょうか?

スポーツの世界でロシア人やベラルーシの人々に

冷たい視線を浴びせ、

一部では大会の参加拒否まで行う始末です。

 

スポーツと政治は別物である…

まあ、そういう信念も崩れ去るような話です。

そして大衆はまるで

この扱いに賛同するかのような主張をしています。

 

では・・・心理的にロシア人がどう考えるかを分析して見ると…

ロシア人の大衆はこの理不尽な偏見とも捉えられる

西側の対応に対して寧ろ憤りを感じます。

勿論、戦争に反対する意見も有るのでしょうが、

ただロシアの人々を全て総括りにして批難を浴びせてくる

欧米の主張を気持ちよく受け入れる状態には無いわけです。

ある意味、欧米のロシア人へ対する扱いは、

寧ろ逆効果で

ロシア人を反欧米で団結させる効果しかないとも言えます。

 

反対にスポーツと政治は関係ないからという信念を貫き、

ロシア人でもベラルーシ人でも、

同じ人間として歓迎するなら、

その国の人々への印象は全く別物になるです。

勿論、彼らからの政治的な発言や主張は禁止する訳ですが、

それはどの国の人間も同じで、

ウクライナ人も例外では有りません。

しかし、現状ではウクライナ人の政治的な主張は好感され、

ロシアやベラルーシの人はその存在すら否定される形です。

 

ロシアの戦争反対を唱える人々を煽っても、

そのほとんどが平和主義なのだから、

そこの人たちが革命と言う手荒い手段に走るとは考えにくい。

かと言って気性の荒い人々は、

欧米のロシア人に対する偏見に対して怒りを覚えます。

なので…

寧ろロシアでは戦争へ志願する意識を持つ方が

増えるという可能性を秘めているのです。
 

攻勢から守勢に転じてロシアが踏ん張る事で、

攻勢時に多大な犠牲を払った作戦は、

ここまでの布石として必要なものという認識に変わり、

ここからロシア人のプライドを守り抜く戦いとして、

ロシアがアピールするのなら、

欧米の偏見が寧ろ功を奏して、

士気高揚に結びつく流れにも成りかねないのです。

 

まあ…ロシアがそういう手段を講じるかは別の話として…

どの道、相手の人々を悪くいう事で、

その人々を懐柔するのは難しいという事です。

仮に…韓国人が日本人を悪く言って、

日本人が韓国人の主張に耳を貸しますか?

という話と同じ効果と成るわけです。

 

まあ…色んな戦略評論家だか、

軍事評論家が居るのですが…

彼らは所詮、兵器オタクなだけで、

戦略的視野という部分では素人という話しかしてません。

 

当ブログが戦略家として優秀だと認める、

欧米諸国の政治家または著名人は、

コリン・パウエル元国務長官、

ロバート・ゲーツ元国防長官、

そして、マーク・ミリー統合参謀本部議長の3人くらいですかね。

まあ、著名人以外にはまだいるかも知れないし、

当方が他を良く知らないからという事情も含みますが…

 

因みにオースティン・現・国務長官は

人間的には優秀な人ですが、

戦略家としてはむしろ

マーク・ミリー統合参謀本部議長が目立っているので、

その辺で評価が異なるところとして伝えておきます。

 

因みに李尚福・現・中華人民共和国国防部部長も、

中々優秀だと見ています。

まあ、情報や発言、そして行動の流れから見るに。

李尚福氏に関して言えば、

先のペロシ訪台で戦争も有りという状況下で、

寧ろ冷静に対応しつつ、

別な意味での欧米に対するプレッシャーを

意識していたという点での評価です。

 

まあ、あそこで戦争を仕掛けるのは、

馬鹿か天才の紙一重の話で、

馬鹿でも戦争する、

天才でもあのタイミングは逃さないというポイントですが、

優秀な人は一歩待つという所で、

その一歩待ったを評価するという所です。

ただし…今のバイデンでも、トランプでも、

中国に対する対応の変化は生じないという事でも有りますが…

寧ろその一歩待った判断が良い形に結びつく未来を

切に願いたい所です。

 

当方は優秀な人間を愛する訳で、

国を差別する形はないので、

日本人からして敵、味方関係なく評価してます。

 

兵法の基本として、

「敵を過大評価するくらいが良策を生み出すに丁度いい。」

諸葛孔明の兵法24編にはこんな事が書かれていたかも。

まあ、元を言えば孫子の

「彼を知り、己を知らば」に成るのですが、

敵を過大評価し

自らの全身全霊を注ぎ込んで考え抜いた策は、

敵がそれに及ばねば味方の被害は更に少なく、

敵がそれ以上であっても善戦することが適うという話。

いわば自分が敵の立場なら

どうするかを含めて考え抜く為、

あらゆる可能性に備える事が適うという話です。

 

因みに当方が馬鹿と罵る時は、

結果が馬鹿な結果になった時で、

更にはその状況を修復するのに

困難な状況とした相手に対してです。

 

もしそれを修復して改善するまでの結果ならば、

寧ろ罵った事を謝罪しても構わないのですが…

未だそのような立派な馬鹿は存在してません。

 

馬鹿が敵に回ると

その手の内が寧ろ間抜けに感じる所で

流れて行くという事なのですが・・・

その中でも…相手が優秀なら

こういう形で来て、

私はこういう風に困るのにという

想定もあっての事と言っておきます。

 

まあ…現状、武田勝頼と同じ状況に陥ったウクライナですが…

多勢に無勢とは言え絶対に勝てないという話では有りません。

相手が五丈原時の司馬懿仲達で無ければの話ですが…

多勢に無勢で、

相手が五丈原時の司馬懿仲達の領域に達していたなら、

流石の孔明先生でも打つ手なしという事も言っておきます。

 

この言葉の意味を理解するだけも優秀なのですが、

多勢に無勢で攻勢にて勝利を齎すには、

相当な頭脳が必要とも言っておきます。

どれだけ兵器差で圧倒出来ても、

攻勢状態でそれに頼れば犠牲も大きく生じて、

寧ろ兵力差がジワジワと効いてくるという事です。

 

米軍がイラク・アフガニスタンで何とか戦えたのも、

兵力差があっての話。

ここは決して忘れては成らない点で、

この戦いの流れを見て行かねばならないという事です。

 

寧ろ・・・ロシアが守り切れない場合、

ロシア軍の作戦指揮官は相当お間抜けという話なのですが…

英国の様にそうであってほしいと望んで戦うのは、

それもそれでお間抜けな話でもあります。

 

 

 

どうも・・・ショーエイです。

大河ドラマもそろそろ長篠の戦い、

または設楽原の戦いに差し迫ってきました。

 

最近では織田軍の三弾撃ちは無かったなどと、

色々な説が飛び交っていますが…

実際はどうでしょうか?

 

三段撃ちが無かったという話は、

信長の最有力資料として扱われている、

信長公記やその他同時代の資料に

記載が無いからという事からです。

 

逆に伝承や逸話として残るところを変遷した資料、

たしか…信長記(甫庵信長記)に

記載があるという事だったかな…

三段撃ちはここから来ている

創作という話で考えられているそうです。

 

ところが…歴史家の人たちは

科学的な分析をしているのか

些か疑問なので、

正直…三弾撃ち否定説は充てには出来ません!!

 

ちょっと信長たま風に皮肉を言っておきます。

 

【三弾撃ちを検証する上で大事な事!!】

先ず三弾撃ちという記述を用いた甫庵。

刊行されたのが1624年、1644年、1677年とされ、

初刊は1604年という説も有ります。

ただし・・・刊行された年数はあまり関係なく、

寧ろ1624年の頃に初刊が出来た場合でも、

十分に参照できる話です。

 

では…三弾撃ちが実在したか否かを検証する意味として。

問題は三弾撃ちが徳川時代に

当たり前の手法として残っていたかがポイントに成ります。

 

ここが数学的分析力に成ります。

 

①三弾撃ちが最強の銃戦術であったなら、

徳川時代には当たり前の様にその戦術が浸透していたはず。

 

②浸透した時代には当たり前の戦術過ぎて特別感を感じず、

歴史資料として残すほどの話では無かった可能性。

 

③そもそも三弾撃ちは打ち手が入れ替わって撃つのでは、

寧ろ効率が悪く、戦術性としては利点がない。

 

先ず、うつけの兵法では既に三弾撃ちの原型を説明してます。

いわば鉄砲を打つのが上手い人に連射させる方が、

戦術的な効率としては高いという部分です。

鉄砲の弱点は、

銃弾を発射するまでの準備時間が長い事です。

あとはコスパが高い事も有りますが、

その点は信長経済力で補えるところとして割愛します。

 

銃弾を発射するまでの時間を効率よく回転させるには、

三弾撃ちの基本的な発想で一致します。

いわば銃の打ち手の従者が準備作業を行って、

効率良く銃の打ち手が発射できるようにすればいいのです。

 

こういう撃ち方は長篠の戦い以後

当たり前の様に行われていたはずなのです。

 

と、言うのも信長たまの頭脳に限らず、

寧ろこの戦術は誰かが必ず思いつくだろう方法だからです。

ヨーロッパではナポレオンが使ったとしていますが…

鉄砲自体の物量が増えた場合、

寧ろ鉄砲の数よりも、

消耗品である銃弾のコスパの方が

勝敗を分けるということで考えられるからです。

 

なので江戸時代、いわば長篠に参加した

徳川家康からの徳川軍では

寧ろこの撃ち方は当然の戦術として

既に浸透していたという事です。

 

従者が銃弾の装填を準備する手法は、

寧ろ甫庵の時代には当たり前すぎて、

新鮮味を感じ成った。

寧ろその手法自体が

信長軍団の当たり前の撃ち方だった可能性もあるのですが、

甫庵はその手法の原型を信長たまが考えたとする形で、

原型は三人の撃ち手が入れ替わって撃ったとする方が、

戦術進化の流れとして成立するのではと

創作したとも考えられます。

それが長篠の戦いの時だったのではという流れです。

 

【従者が充填する三弾撃ちは信長軍では当たり前だった】

太田牛一の信長公記に記載がない点で考えると、

この三弾撃ちが信長軍の戦術として

あまりにも当たり前過ぎた為、

特別に記載するほどの話でも無かったという事、

いわば長篠の戦い以前、

姉川の戦いなどでも使われていたという話で、

鉄砲を使う=従者が充填して撃ち手に渡すが

当然だったという事です。

寧ろ鉄砲(銃身部分)の量によっては

これ2段撃ちという流れにも成り、

試しに4弾撃ちなどの実験も行う中で、

一番効率良く回せるのが

三弾撃ちという事に落ち着いたということで考えられます。

 

ここで戦術的に考える大きなポイントは、

撃ち手の集中力を如何に高く維持するかです。

常に敵を見て撃つタイミングだったり、

狙うコースを集中できるようにした方が、

射撃としては効率が良い。

こんな話は現代では寧ろ当たり前の話です。

スポーツ戦術が浸透した現代では、

当然とも言える話でもあります。

 

当たり前すぎて寧ろ新鮮味を感じない話でもあります。

ある意味これが大事だと気付くのは

信長たまに限った話でもないという事です。

鉄砲の伝来から寧ろ100年も経てば、

こういう戦術は必ず誰かか行きつく所とも言えます。

 

逆に鉄砲の銃身となる本体自体が高価だった時代では、

むしろ本体の数が不足する為、

中々三弾撃ち出来るだけの効率に

余裕が無かったというだけの事です。

いわば信長軍団ではその余裕があったため、

当たり前の効率として活用できたと言えるのです。

その為、発想自体は特別では無いが、

物量自体が特別に豊富だった信長軍団が、

この三弾撃ちを生み出せたという事は

十分な根拠として成立する話に成るわけです。

 

【三弾撃ちの当たり前を現代の仕事で考えてみよう】

先ず多くの人にも解かりやすい漫画制作。

連載漫画を作るのにアシスタントの活躍は必須です。

でも、彼らの活躍は読み手は誰も知りません。

背景を作る人、トーンを貼る人と様々です。

でも作品は作家のものと成ります。

三弾撃ちに於いても、銃で撃った手柄は撃ち手のものです。

 

ある意味、漫画制作に於ける役割分担を誰が考えたのか…

歴史家の三弾撃ちの議論とはこういう話です。

でも、漫画制作の役割分担は当然すぎて、

それをやっているからといって特別ではないのです。

 

これは映画製作も同じで、

編集担当などもそうですが、

撮影の際に、ライティング、スケジューリングする1stAD、

カメラマンなどと作業分担が当然です。

こうした作業分担は当然すぎて、

それをして制作していないこと自体、

逆に変と感じるのが現代です。

予算なくすべて一人でやるという事だと、

誰もが時間も労力も大変だと分かるレベルの話です。

 

いわば三弾撃ちの話と言うとは、

当然派生するだろう役割分担の話な訳で、

江戸時代には当たり前すぎる話だったのです。

ここから銃自体の進化が寧ろその効率を覆していきます。

いわば連想式の銃が発明され、

三弾撃ちで必要だった従者の労力は

省かれる流れに成るわけです。

一本の銃が有れば連射出来るのだから、

その労力は必要ないですよね。

現代ではマシンガンという

連射性の高い技術が当たり前と成って、

弾一発を発射するのに時間のかかる火縄銃なんて、

どう扱って良いものか寧ろ困惑するレベルです。

 

当たり前が廃れてしまうと…

その当たり前が資料として残らなくなる。

なので・・・資料が無いから現代人は

火縄銃の扱いへの発想が

火縄銃が発明された時で止まってしまっているのです。

マシンガンが有る時代、拳銃でも6発連射出来る時代に、

火縄銃の扱いを真剣に研究する必要性も無いから、

発想が追いつかないのは当然かもしれません。

逆に信長たまの日本に限った話でなく、

ヨーロッパでもこの当然の三弾撃ちは

存在したという話でもあるわけです。

 

勿論…合理的な発想の実践には多くの心理的障害もあります。

いわば1000丁の銃を3分割して使用する方が良いのか、

下手な鉄砲数撃ちゃ当たるで考えるのか。

大抵の人は後者の考えに陥ります。

寧ろ火縄銃が的を狙いにくい代物であったとするなら、

逆にその方が効率良いと考えるでしょう。

なので意外と三弾撃ちの発想をするのは難しいとも言えます。

 

合理的に1000丁の鉄砲を各自バラバラで撃たせるか、

1/3の鉄砲に連続性を用いて号令と共に

タイミング合わせて撃たせるか。

この効率に気づけるかどうかは大きな違いと成るのです。

下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。

一斉に同時に狙いを定めず、

同じ敵の集団に隙間なく銃弾が飛ぶようにぶっ放す。

その間隔が短かければより効果的で、

1000丁より範囲は狭まるが、

300丁が隙間なく一方向向いて放たれれば、

その範囲の集団はそれだけ大きく討ち取れるという事に成ります。

寧ろ織田軍団の鉄砲戦術の極みは

こういう所にあったという事です。

 

敵は色々分散して集団で攻めてくる。

左翼、右翼、中央の3つから分散して攻めてくるわけで、

先ず1000丁がバラバラに狙いを定めると、

中々敵に当たりません。

狙いを定めたとしても…

武田軍1万3000の部隊の先鋒を3つのエリアに2000づつ、

計6000で配置して突撃した場合、

左翼に1000丁一発放って500を討ち取っても、

中央と右翼の部隊は迫ってきます。

銃を充填している間に、その間隔はより狭まり、

寧ろ騎馬の速度で迫られたなら、

銃を撃つ余裕すらなく成るわけです。

 

ここでも歴史家は武田の騎馬隊は無かったなどと言ってますが、

鉄砲の充填時間を考慮して敵陣に迫るには

騎馬である必要性が生じるのです。

また、歴史家は武術家でも無いゆえに、

騎馬の馬を狙われたら騎乗者は落馬するから、

騎馬突撃は効率が悪いという発想で止まっても居ます。

 

ここでもちゃんと考えましょう!!

騎馬隊の馬に弓矢や鉄砲が当たらないようにするには…

前衛に歩兵(盾兵)を配置していれば

ほぼその歩兵が狙いの障害に成ります。

良く海外の映画でも見る光景です。

行き成り先行で騎馬隊を突撃させるなんて事は

先ずしないでしょう。

間合いを詰めて行くまでは、歩兵を先行させて、

騎馬隊はその後方に陣取って進んでいきます。

ここで間合いという部分で考慮するなら、

それは歩兵が乱戦として突撃出来る間合いです。

その間合いを詰めるまでに弓矢合戦に成るのです。

間合いを詰めた…ある意味敵陣に

10メートルくらい手前に差し掛かってくると、

敵は今度は弓から近接武器に持ち替える必要性が生じます。

このタイミングで足の速い騎馬隊が歩兵の隊列の合間から、

突然突っ込んできたら…

まあ、かなり怖いですよね。

勿論、騎馬隊も馬に跨って攻撃するだけが戦術では有りません。

馬はあくまで敵に突進させるものという発想も有ります。

馬に跨ってそのまま馬を突進させつつ、

騎乗者は敵陣手前で馬から飛び降りて、

馬の突進に怯んだ敵を歩兵戦で討ち取っていくという方法も、

かなり良い感じで機能します。

勿論、馬は使い捨てに成るわけですが、

それだけの頭数の馬を用意できるなら、

この騎馬戦術は大いに脅威と成るのです。

武田の騎馬隊が噂通りであるなら、

正にこの戦術です。

木曽馬がポニー程度の体高ならば、

騎馬武者は後ろに上手く飛び降りる訓練をしていれば、

この突撃は機能するとも考えられます。

 

長篠の戦いが大きく取り上げられるのは、

寧ろこの武田の戦術に信長が対抗したという点だとも言えます。

信長の三弾撃ち同様に、

武田の騎馬戦術はある意味斬新。

いわば馬の犠牲ありきで突っ込んでくるという発想な訳です。

 

この勝負のポイントは…

間合いを上手く詰めれば武田の勝ち、

間合いを詰めさせずに殲滅出来れば織田の勝ち

という事だったと言えます。

ただし…残念なことに、

信長は既に武田の騎馬戦術を知っていた事だったわけです。

 

そのポイントは…

長篠の戦いの屏風画でも見られる馬防柵の存在。

そこを中心に用いた3重の陣容と、

武田をそこに突撃させた計略。

まあ、計略というより…

万が一に備えただけの所に結局武田が突撃してきてくれた、

と、いう話なだけです。

ある意味計略は2者択一の状況に追い込んで、

いわば…まさかこっちに来るなんて選択はしないかもね…

と、思っていた方に武田が飛び込んできて来てくれて、

ラッキー…という結果に成っただけです。

まあ、信玄なら別を選択しただろうけど…

どの道、殲滅する自信はあるものの、

信玄ならあそこまでの被害は出さなかったかも…

と、いった違いです。

 

①では三弾撃ちの実態を中心伝えましたが…

次回は信長が勝てた理由を説明します。

鉄砲だけが戦術では無いのです。

 

申し訳ないけど…

歴史家の中には

多くの大学の研究者の方々もいらっしゃいますが…

本当に戦術や戦略という発想面では素人故に、

中々本質の追及に至っていないのは

苦言として言わせていただきます。

ただし、ココではこうした優秀な研究者言っておきますが、

彼らが難しい文献を読み解いてくださった事で、

我々は歴史の大方の流れを知る事ができるのも事実です。

 

問題なのは・・・

歴史家の先生方の専門はそこまでという話です。

もし、本気で研究するのなら、

戦術、戦略の実証、物理的な被害数値、

戦術効率の比較など、

当時の軍略家になったつもりで分析して欲しい所です。

 

また、歴史書物の1次資料、2次資料という所だけで

考えるのではなく歴史的な流れであり、

今回の三弾撃ちで記した様に、

役割分担という発想が当然の物として

「当たり前」が発生するだろう事も踏まえて、

歴史を見て欲しいです。

 

ここで記した三弾撃ちなんて発想…

ハッキリ言って別段特別な発想では無いです。

必ず効率化を考えようとするなら、

寧ろ当然の様に発想されるものなのです。

 

武田の騎馬隊の話にしても、

騎乗攻撃では効率が悪いからという所で止まらず、

世界全体、中国大陸を含めて、

歴史上に騎馬隊が存在した点を踏まえて、

彼らがどう扱いづらい騎馬隊をあえて編成して用いたのか、

そういう部分を先ず考慮して考えて欲しいです。

 

確かに騎乗戦の効率の悪さは、

当方も何気に気味悪く感じていたけど…

では…何故他の国でも騎馬隊が存在したのか…

そう考えると逆に

武田の騎馬隊を否定できない要素と成るわけです。

 

騎馬隊で有名なジンギスカンの戦術を考えると…

重装騎兵(馬の足まで鎧を着せた騎馬)を前衛に突進するなら、

弓からの防御は理解でき、

騎馬の機動力を活かせば、

盾兵の陣容に対して横に移動する形で攻撃すれば

対応できるだろう点も考えられます。

いわば映画でよく見るように、

盾兵に向かって騎馬兵が真っすぐツッコむような戦術は取らない。

逆に欧州のランスという騎馬用の武器は、

真っすぐ盾兵に突進する為のデザインとも言える。

騎乗戦では確かにカウンターを食らわせるという部分で

特化した武器としても優秀と考えられる。

中国の戟という武器は、

馬の脚を狙うようにデザインされたという。

ただし…盾兵の間から馬の脚を狙って戟を伸ばすにしても、

ある程度の間合いが生じる。

こうした武器が主体として登場した時代の

ジンギスカンはどう戦ったのか?

 

火薬兵器をぶちまける。

ロープで敵の盾に引っかけて馬で引きずる。

崩れたその陣容に弓騎兵が弓を放つ。

確かに…ヤバそう。

馬の機動力を活かしつつ、

馬の馬力を活かして、

敵がどうしようも出来ない形で蹂躙する。

モンゴル軍が無敵だった点はこういう事なのかと思う。

逆に船で上陸して歩兵中心で戦った元寇では、

むしろモンゴル兵の本来の戦術が機能しなかった

地の利とも言うべきところも寄与したのかな…

 

ただ…騎兵を使った戦術としては、

恐らく上記のやり方で襲い掛かったのだと考える。

ある意味、この騎馬隊相手にどう戦うのか…

逆にもし…信長がジンギスカンの騎馬隊を

相手にするレベルまで想定していたのならの…

武田の騎馬戦術は

大きな障害でも何でもないレベルにも成るわけです。

 

とは言え…三弾撃ちが存在しないとか、

武田の騎馬隊が存在しないとか言った議論は、

寧ろ当時の日本人の知能は低かったと言っているだけなので、

逆に否定せずに存在したという前提で、

研究を進めた方が良いのではという話です。

ホントにこの程度の戦術が存在すらしないこと自体、

逆に間抜けすぎる話なのですから…

 

 

 

 

 

どうも…ショーエイです。

メタヴァース…案の定上手く行きませんでしたね。

 

そもそも計画時点で失敗する要素満載だったのです。

 

メタヴァースをどうゆう形の世界にするのか?

この時点で各社は

仮想空間に求める世界観を全く理解してませんでした。

 

且つてセカンドライフというゲームが

それに近いところを目指したわけですが、

そもそもが1社で構成を行おうとした時点で間違いなのです。

 

現在フォートナイトなどのゲームは可能性を期待して、

挑戦する意識を捨ててないみたいですが、

ゲームの世界観に

ユーザーを留めるという発想にとらわれている限り

決して成功しないと言っておきます。

 

ある意味、日本ではスクエア・エニックスの

ファイナルファンタジーXIV(14)が有るわけです。

その空間で色々な商売が出来たりという構想に成ってます。

一見、こうした仮想空間で生活できるような世界観が、

メタヴァースを生み出すと思いがちです。

ところが実際は

その空間はゲーム内の空間に留まるものでしかなく、

結局は…別にそこに留まる必要性のない

世界に成ってしまうのです。

いわばゲームに飽きたら離れるという作用によって、

メタヴァース本来の空間として機能しない訳です。

これは1日のユーザーの活動としても発生し、

長期的な活動としても何れは飽きるで終焉を迎えます。

 

【メタヴァースの始まりとは…】

メタヴァースは生み出すのではなく、

宇宙の始まりとされるビッグバーンの様に、

引き起こすものなのです。

 

メタヴァースを引き起こすという点に発想を得る意味としては、

企業が生み出そうとするのではなく、

個々の一人一人のユーザーが衝撃と共に、

メタヴァースの空間に取り込まれていくという発想に成ります。

まあ…これでは意味が解らないとは思いますが…

 

先ず…様々な要素で

個人個人がそれぞれの生活を送ってます。

ここでパソコンを使って生活する個人をターゲットに、

その多くの個人の中で共通に言える活動は、

パソコンの前に座って活動する事です。

携帯電話なら携帯電話を見て暮らす習慣もこれに値します。

 

以前にもブログで書きましたが、

このパソコンの前に座る空間では、

WindowかマックのOSが常にその空間を提供してます。

携帯ならGoogleかiphoneのOSです。

そのOSの空間によって

実際は第一次メタヴァース空間が成立しているのです。

 

では…そのメタヴァース空間とはどういう意味なのか…

いわばパソコンであり携帯を使用した空間では、

必ずそのOSの機能を介して

個々の用途に合わせたアプリが

実行されるという事になるからです。

 

いわばアプリとアプリを繋ぐ必須空間が

メタヴァース本来の空間で、

パソコンや携帯を用いる以上、

そのOSは常に必須なものとして機能しているという点です。

 

これと比較して、

その中の一つのアプリでしかない空間では、

決してそのOS以上の必須性から

逃れられないという事に成ります。

 

言い方を変えれば…

人間のネット活動はアプリを転々として、

情報や快楽の取得を目指すところにあるという事に成ります。

 

そういう意味では

アバターも特殊な世界観も存在しないOSの機能を、

一応は第一次メタヴァースという形で表現しているのです。

 

今、多くの企業が目指しているのは、

本来は第二次メタヴァースという世界に成ります。

まあこれをディメンション的な意味で言うなれば、

OSという回線のみで構成された世界を

1Dメタヴァースと言い、

そこにUIというインターフェイスを用いて

2次元空間の意味で利用できる形に成った現在のOSを

2Dメタヴァースとします。

そうなってアバターという3D化した空間を用いて

OS機能を目指すという意味では

3Dメタヴァースが現時点の構想段階にあるという形で

理解できます。、

こういう形の発想に転換して

多くの人に第二次メタヴァースの意味を伝えれば、

現在語られているメタヴァースの意味は理解できると言えます。

 

【メタヴァースの設計図】

先ず最初に…

この設計図を読めば

メタヴァースを作れると勘違いする人も居るでしょうが、

実際は競合他社を多く存在させて、

結果として今と同じ様に失敗するだろう事は、

前もって伝えておきます。

かと言って設計図を理解しなければ、

その競争の主軸にすら参加出来ないという事です。

成功への足掛かりは…

盤石な世界観の構成を的確に調整する事なので、

発想力に乏しい企業は所詮海外の大手に押しつぶされます。

いわば携帯電話の電波規格の争い同様に、

世界観の構成は提携アプリの取り合いに成る為、

ビジネス的にも賢く進められなければ

全く上手く機能が反映されないという事に成るわけです。

 

諸葛孔明がこれを記す場合…

メタヴァースの競合崩壊をあえて市場に与え、

秘かに進める所に勝機を与えるものに成ります。

 

太公望がこれを記す場合は、

ビルゲイツがWindowsに齎した戦略同様に、

太公望レベルの英知が

必要と伝えるもので有る事を言っておきます。

 

いわば…これだけの設計図を無償で示しても、

この価値を実現するにはそれだけ優秀な英知がいるので、

ほぼ多くの企業は挑戦しても失敗するだけと断言しておきます。

優秀な英知は最低でもIQ200が必要で、

アインシュタイン・クラスの人材が世界にどれだけ居るか…

ここの部分を履き違えて失敗するという事にも成ります。

メタヴァースのビジネスとはそれだけ旨味の有るもの故に、

それだけ下克上な世界になるという事です。

 

では…設計図。

 

先ずはアプリとアプリを繋ぐという要素を

決して外しては成りません。

現在のパーソナル機器=PCならパソコン、

携帯なら携帯を意味しますが、

その機器の中のメタヴァースは

第1次メタヴァース上のOS機能が

賄う場であることは理解しましょう。

 

では、第2次ではどこをターゲットにするか?

 

ネット上のアプリとアプリを繋げる場です。

現状Steamなどのゲーム販売機能がそれに近いですが…

アプリとアプリを繋げるとは販売する場では有りません。

OSは購入したアプリを

PC上、携帯上で立ち上げられるという形で

繋げているという事です。

これをネット上で行うのが第2次メタヴァースです。

 

例えるなら、

ファイナルファンタジーXIVとフォートナイトというゲーム。

その2つのゲームは

今だとOS上のアイコンをクリックすることで

行き来する形に成ります。

2つのゲームは

別他社同士のプラットフォームで立ち上がる為、

必ずID認証とローディングを挟む時間が生じるのです。

これはSteamというゲーム販売のプラットフォームを介しても、

同じ事が生じます。

 

単純な話で言うなれば…

このID認証や不必要なローディングを省いた形が、

第二次メタヴァースの場と成るのです。

 

いわば…同じネット上の同じ世界の場で、

ファイナルファンタジーXIVから

別ゲームのフォートナイトにそのまま飛べるというのが、

ネット上のアプリとアプリを繋ぐという機能に成るわけです。

 

ただし…前述の通り…競合他社が存在する中では、

この空間ビジネスが争われる事に成る為、

同じメタヴァースの成功を目指す

ファイナルファンタジーXIVのスクエア・エニックスと

フォートナイトのEpicゲームスが

同じ提携上の空間で機能することは難しいと考えるのです。

双方が双方の主力商品である以上、

特に争われる要素と成ります。

その点、仮に双方を商品として取り扱っているSteamが

ここに入り込むと構成はまた別な可能性を秘めてくるのです。

 

アプリとアプリを繋ぐ場と言う説明は

以上の内容で理解できると思います。

 

【Steamの販売網を生かした場合の設計図】

Steam - 究極のオンラインゲーミングプラットフォーム (steampowered.com)

一応、上記にリンクを貼っておきます。

ご存じない方は見てみてください。

 

現状アプリとアプリ…

いわばゲームという概念で繋げる空間の場合、

Steamという場所は最適と言えます。

正しメタヴァースとして利用する場合、

現状の販売契約とは別な契約が必要と成る為、

Steamでも簡単には構成できないだろうという事は

伝えておきます。

 

ただし…一部のゲームアプリを繋げられれば、

メタヴァースの機能を先行した状態にすることはできます。

その前に言っておくのは、

メタヴァースはガソリン自動車を製造する行程ではなく、

寧ろ電気自動車を造る工程と同じで考える。

いわばガソリン自動車は下請け他社を含めて

大本の…トヨタ自動車ならトヨタ自動車の規格で、

自社ブランド中心で製造が行われます。

電気自動車の場合、自社の規格ではなく

寧ろ優良製品を選別して

自社の製品の構成に組み込むのです。

この電気自動車の優良製品を選別することが、

メタヴァース成功の足掛かりという事を言っておきます。

 

なので…当ブログが

メタ社(旧フェイスブック)などが失敗すると断言したのは、

ここの違いを解かっていなかった点で言えることで、

Epicゲームズなども同じ思考で考えているので、

決して上手く行かないだろう点を予測できたのです。

 

では現在開発終了した製品で先ず伝えます。

Sims4 エレクトリック・アーツ 人生シミュレーション

Cities Skyline パラドックス 都市シミュレーション

 

この2つの製品をリンクさせてMMO化する必要性があります。

MMO化とは多人数参加型の世界です。

ある意味、セカンドライフというアプリが

2つを合わせたMMOとして以前は機能していたと言えます。

ただし、セカンドライフはその機能のみに留まった為に、

メタヴァースのプラットフォームに成れなかった事は

先に伝えておきます。

 

ユーザーが利用する意味で

ベースと成るのは人生シミレーションの方で、

都市シミュレーションは寧ろ企業が利用する方です。

ここで言う企業とは参画企業でいわばスポンサーに成ります。

 

スポンサーは資本金を下に都市開発を計画して、

そこに住むシム=Sims4をプレイするユーザーを

住民として引き込みます。

多種多様な都市が存在すれば、

それは旅行を楽しむ機能として成立する為、

ベースとなる都市は多い方が良いのです。

そして架空都市として機能すればするほど、

景観の意味で現実世界との差別化が出来るので、

その方が好ましいです。

 

更にはSims4のユーザーには

LocalとCityの二つが与えられる環境も大事な要素です。

Sims4では家族構成を自分で自由に作れます。

全て血縁でも、全て友人でも問題ありません。

この自由な構成は決して外しては成らない要素でもあります。

多分、アホなゲーム思考の人は

一人1アバターに拘って開発を考えるでしょうが、

それではメタヴァースの商品化として

劣化させる事を伝えておきます。

いわば家族構成をどうするかは

そのユーザーの趣向に委ねる方が

それだけ多くの趣向にマッチングするという事なのです。

またその家族構成は人間である必要性も有りません。

3Dアバターであれば全て自由にします。

 

そしてLocalとCityの2つに住居を持つ事が許される環境にし、

家族内のアバターならどれでも好きな時に好きな様に

操作できる状態にします。

Sims4の機能ならそれが可能です。

これはいわばMMORPGの中で

色々な職や種族の操作キャラクターを持つのと同じ要素で、

更にMMORPGなどでは

ゲーム内に一つの操作キャラクターしか

映し出せないわけですが、

それがSims4の家族構成という場の中では、

同じ家に操作しないキャラクターと同居するという空間が

反映されることに成るのです。

この辺の設定もユーザーの趣向に合わせて

調整できる方が望ましく、

不要なキャラは同時に存在不可という設定を設けます。

 

色々細かく伝えてますが…

ザックリというと、

ユーザーの好みで家族構成が色々組めるという事です。

そして仮にビジネスで考えるなら、

最初は4人まで作れて、

それ以上欲しい場合は課金によって増やせるという形にするのが、

理想と言えます。

 

そしてこの多人数の家族構成がLocalとCityで遊ぶ要素を

リアリティ有る形で結びつけます。

先ず大事なのは必ずLocalとCityの二つが必要と言う点です。

Localは田舎を意味して、

その周辺の土地は自分好みで開発できる場に成ります。

Cityはいわば企業が運営する大都市です。

キャラクターが多ければ、

Localに住むキャラクターと、

Cityに住むキャラクターとで使い分けができるのです。

Cityでは基本街の変化はスポンサー企業に委ねられます。

Localは自分のエリアで自分で好きな様に開発できる。

Cityで家を購入して

自分の敷地の中を自由にデザインするのも

Localを開発して他のユーザーと共有しながら

Cityを目指して開発して行くのも、

ユーザーの選択と成るのです。

勿論、ローカルは自分の都市空間故に

他のユーザーの確保が無くLocalのまま

自分好みの大都市にするのも、

大農場を構築するのも、

ユーザーの好みと成るのです。

ただし…個々の好みで構成された

Localの空間はLocalの空間で個性的な観光地という事で、

ある意味世界観に寄与する部分にも成ります。

マインクラフトで誰かの作った街に行くような感じなのかな…

 

2つの空間を同時に操れる事で、

どちらかに限定された環境は回避できます。

それゆえにLocalモードに飽きたら、

人が多く存在するコミュニティ空間のCityモードで遊ぶなど、

いわば飽きさせない構成に成るのです。

ここを外すと…仕様が面倒なゲームに成って、

むしろメタヴァース空間の趣旨を維持するのに邪魔に成ります。

メタヴァース空間の趣旨はあくまでアプリとアプリを繋ぐなのです。

アプリとアプリを繋ぐ空間ではCityの様な構成が重要で、

逆にSims4やCities Skyalineという

ゲーム本来の機能を扱うにはLocalの空間が必要という事です。

まあ、Localにはおじいちゃん、おばあちゃんが住んでいて、

Cityには自分の投影キャラが住んでいるという扱いで、

構成しても問題ないという感じで考えるのです。

そしてCityにはビジネスが有るという事で、

 

ユーザー同士の商品売買、

Sims4ではサバイバル要素も含まれ、

衣食住の環境が商売に反映できます。

アバターが食事をとるにも、

Localなら自作自農が可能でも、

Cityではマーケットで商品を買う必要性が生じる。

そのマーケットにLocalで作った品物を売って商売するなど、

その世界での生活を自分なりにデザインすることで、

ゲームとしてまたメタヴァースでの生活空間として

楽しむ要素をベースにするわけです。

 

ここまでが

2つの人生シミュレーションと都市シミュレーションを

MMOとして融合させたデザインです。

このベースが確りと構築されてから、

本格的なアプリとアプリを繋げる構成に成るのです。

 

ここで発想を現実的に考えてみます。

人々は都市でありローカルで生活する中で、

必ず趣味を娯楽活動とします。

先ずはスポーツ。

サッカー、野球、バスケ。

現実世界では草野球、フットサルなどやる人も居ます。

では…Cityというメタヴァース空間では…

そうですeSportsがそこに有るのです。

なので…スポーツゲームを選別して、

各種スポーツのeSportsの場をそこに設けるのです。

サッカーなら

EA SportsのFIFAシリーズやコナミのウィニングイレブンまたはeFootnall?などどちらかをその空間に転用できるようにします。

スタジアムをスポンサー好みにデザインできたり、

ユニフォームやアバターも自分好みデザインできて、

サッカーゲームとして機能のみその製品が利用できる形で、

構成するです。

 

こうすることで

今度は各Cityのプロチームが最上位の目標と言う形で成立します。

そうしてeSportsとしてのプロサッカーリーグが生まれれば、

eSports本来の機能としてもメタヴァース空間で成立するのです。

いわば今度は見る楽しみと、

自分のCityのチームを応援する楽しみが

現実世界同様に成立するのです。

今現在のeSportsは現実世界の中で大会が行われてます。

ある意味、ゲームの大会として扱いがどうしても頭を過るのです。

しかし、これがメタヴァース空間の大会に成ると、

その大会を意識する環境は、

仮想空間としての没入感も合わさって、

仮想空間の中のスポーツに成って見えてくるのです。

これは他のゲームの大会でも同じです。

そしてその大会をメタヴァース空間の中で中継する

メディアというビジネスがそこに生まれるのです。

 

まあ、ここまで出来上がってくるとその空間は

メタヴァースとしての機能で成立してくると言え、

その中でスタジアムで観賞できる制限と、

スタジアムで見れる特典…視点やデータ上の可視化、

いわばプレイヤーの操作情報などが

スタジアムだと見れるなど、

そういう特典を設けることで、

結果だけを楽しむテレビ視聴との差別化を上手く設けながら、

構成して良ければよりこの空間の没入感や、

生活感にバラエティを与えて行けるのです。

 

更にはアイデア次第でビジネスを成立させていく空間。

アバター向けの洋服をデザインして、

お店を設けて販売するなど、

色々なビジネスがゲーム的な要素として構成されていくのです。

 

その空間にVR機能や他の機能は先ず必要ないのです。

メタヴァース空間が先ず成立して、

更にその空間の環境により酔いしれる刺激を求めるのなら、

その時はじめてVRや色々な機能が

より没入感を与えるものとして製品化できるのです。

 

メタヴァースの商品として大事な事は、

デザインの自由度という事を伝えておきます。

現状のサッカーゲームならFIFAシリーズの様な構成ではNGです。

その他、チームデザインや選手デザインが自由に変えられたり、

また選手の能力値を自由に操作できないゲームは、

正直、この空間に使用できません。

自由な設定用途を満たしたうえで、

いわばメタヴァース空間のアバターの能力値と

併用できる環境が理想で、

まあ…筋トレでどの筋肉を鍛えるかで変わる程度の

身体能力以外は全て操作技術に任せるレベルで無いと、

メタヴァース空間のスポーツとして面白みが出ないかな…

 

今はオンラインゲームはカードゲームの要素が多いわけですが、

選手カードではなく、スキルカードに変更するのも大事です。

ただしスキルカードが無くても

操作次第では十分以上に戦えるのも前提で、

その上でスキルカードは…

例えるならエラシコというフェイントが使えるように成る

とかいったものを用いて商品化する感じ。

ある意味、個人個人の動作の趣向に合わせた

モーションに限定されるべきで、

そのカードのスキルが使われると

相手は自動的に惑わされるような機能は不要です。

 

根本的に自由度の低い商品を選んで

アプリとアプリを繋ぐ構成を行っても、

ユーザーはより公平で自由度の高い方へ流れていくか、

より流行性のある方に流れていくかのどちらかです。

 

自由度が低く流行性の流れで

メタヴァースの主流が決まり始めると、

メタヴァースのプラットフォームは下克上化する感じに成ります。

いわば携帯電話のキャリアーを選ぶのと同じ感じかな。

 

逆に自由度の高いプラットフォームが強者に成ると、

Windows現象の様な巨大な所で集約されてきます。

実はこちらの方がメタヴァースとして成功と言えます。

ただし…色々なシガラミで

自由度の高いプラットフォームは中々成立しにくいかなと思い、

結果、下克上化してビジネス採算が取れず、

次第に潰しあう形になる気もするので、

この設計図で作るには

相当な頭脳による選別と調整の技術が必須とも言っておきます。

 

まあ、日本人の様に自由度に制限を設けて、

余計なビジネス思考を働かせるようでは、

必ず失敗します。

 

ビジネスモデルを先行して考えると、

一番大事なベースの機能を上手く構成せずに進めてしまう。

大事なのはアプリとアプリを繋ぐ機能とはいっても、

ゲームとして没入感のある環境づくりのベース部分が雑だと、

ユーザーはその世界に入り込めないのです。

 

有名なVTuberが沢山活動してます?

 

そんな売りで普通の人が入り込む訳がない!!

如何に世界中の人を魅了して、

バーンという衝撃をその世界に与えて引き込むか、

このバーンという衝撃が難しいのです。

 

メタヴァースの成功は、

WindowsがPCのOSを席巻したのに匹敵するビジネスです。

この設計図はある意味ビル・ゲイツの様な頭脳が見れば、

この構図の趣旨は既に見えるだろうけど、

そうでない人が見ても、

何となく行けそうな感じ思えても、

そこに生じる障壁をどう打開するかまでは見えていない分、

その障壁で頓挫するのです。

 

メタヴァースのもう一つの鍵は、

既存のゲームのユーザーを

どれだけそこに吸収するかも大事なのです。

かといって…マインクラフトのブロックアバターでは、

その形が嫌いな人は絶対に受け付けません。

では…どうやってマインクラフトと結びつけるのか?

 

ユーザーの目的の合致を探るのです。

マインクラフトのユーザーは

マインクラフトの中での創造性を大事にします。

その創造した世界を上手く

メタヴァースプラットフォームに反映させれば良いのです。

いわばマインクラフトで作った建物を、

データ転用によってメタヴェース空間にトランスフォームさせる。

そうすることでマインクラフトで遊びながら、

自分の作りたいデザインを別な環境に持っていけるが成立します。

 

これは今僕がやっている3D制作からの発想で、

Blenderというソフトが使い易く慣れているから

そちらで作る訳ですが、

そのデータが例えるなら

ゲームや動画に特化したソフトで動かせるなら、

そちらに活用して動かすという発想も持てる。

こうしたユーザーの遊び慣れた使い慣れたという部分を、

どれだけ多くそのメタヴァースの世界で合わせられるかが、

もう一つの大きなカギと成るのです。

 

更にはMMORPGなどを異世界空間として

どの様にメタヴァース空間と併用するか。

ただ空間の転用だけでは

メタヴァース空間とそのゲーム空間の繋がりは、

没入感として欠けます。

では、何を以て没入感として繋げるのか?

 

ここも現実の発想を転用して考えていくのです。

いわば旅行に行ってその旅行の思い出をどうするか?

いわば記念品を買うなど

現実世界では何かのコレクション意識で満足感を満たすわけです。

RPGなどのゲーム空間ではトロフィーなどが有ります。

例えるならこのトロフィーを

メタヴァース空間に飾れる品物として繋げるのも一手です。

無論トロフィーのみ限らず、武器や宝石、宝なども、

3D化してメタヴァース空間に持ち替えられるなら、

それはそれでコレクション要素として繋がっていきます。

同じゲームをする人が他にも居る場合、

メタヴァース空間でのトレードまたは売買などが出来ると、

そのMMORPGをプレイすることでビジネスが発生する訳です。

おそらくこのトレードで

色々なゲーム性の障害も発生する訳ですが、

こうした部分を上手く調整しながら、

メタヴァース空間のアプリとアプリの繋がりに

如何に没入感を与えるかが最終的な手腕と成るのです。

 

簡単そうで難しいわけですが、

こういう世界が成立した時、

ユーザーとしては

確かに仮想現実の世界は必須と感じるようになる点は、

ご理解いただけるかなと思います。

 

アプリとアプリを繋げる…

最終的にはここを見失ってしまうのだろうけど。

どうも…ショーエイです。

人間はどうしてもデータに拘り、

それを充てにしてしまいます。

 

しかし、データは統計として参照するものでは有りますが、

結局はその時の結果でしかない。

 

データで観察するスポーツで特徴的なのが野球です。

打率、防御率、ホームラン数、長打率などなど…

データによって選手の凄さを観察して楽しむ要素が豊富です。

ただし、そのデータはあくまでそのシーズンでの結果であって、

次のシーズンも同じ状態に成るとは言えません。

オンタイムの数値も、タイトル争いという項目の中で、

どれだけその数値を伸ばして結果を示すか

観察するものでしか無いのです。

まあ、ある意味そういうデータを参考に見ていると、

タイトル争いをワクワクしながら見守れるのは事実です。

 

逆に科学においてのデータは全てが参照する題材で、

そのデータから真理の追究を求めていくのです。

いわば現状取得できる数値の結果として扱われるのです。

そしてそこから計算上不足するものを見つけ、

更なるデータ取得によってその誤差や誤りを修正して行きます。

 

2021年のコロナ化の時、

山中教授が「科学的に」と言った意味は、

数値による統計を充てにするのではなく、

数値=データを参考に実態の究明や対応の効果を模索して、

一番効果を発揮できる対応を見極めるという事だったのです。

 

これを野球に当てはめると、

選手の能力を適切に分析するのは

バッターなら得意なコースや不得意なコースを

見極めて分析する部分。

そしてそうしたデータから選手に

不得意なコースの修正を促すのが科学的な手法と成ります。

逆にストイックに自己の向上を求める選手は、

自然と自己の得意不得意を見極めて修正する訳で、

そこを積極的に自己修正していく選手が、

最終的に安定した結果というデータに結び付けていくのです。

また野村監督の様にデータを下に

対戦相手の得意不得意を分析して、

効果的な投球の組み立てを模索するのも

科学的な戦術に当てはまります。

 

経済に於いて最近よく囁かれるのは「インフレ率」です。

この「インフレ率」は野球で言う「打率」などと同じで、

結果のデータでしか有りません。

日本に限らず、

アメリカの政治家、中央銀行総裁、官僚のレベルでは、

このインフレ率を上げれば彼らの仕事の結果として

アピールできるというものでしか無いのです。

それをアピールするために

物価上昇を引き起こす方向に舵取りするのは、

科学的には間抜けという事でしかないのに、

彼らは全く気付いていません。

 

科学的にインフレ率は

発展途上国の成長を参照にする部分で寄与する訳で、

経済的に安定する国に於いては

寧ろインフレ率「0%」を維持していく方が良いのです。

逆に安定した国では、

科学的に経済状態を把握するのに、

「一般消費率」を参考に見る方がいいのです。

一般消費率とは…

一般の所得から食費、光熱費を差し引いた消費が、

どれだけの割合を占めているかのデータです。

実は現状の消費税の詳細をデータ化して統計を出せば、

この数値は見えてきます。

ある意味今使われている旧世代の消費者物価指数より、

経済状況が明確に見えてくるデータに成ります。

では…何故この「一般消費率」が使われないのか…

 

それは政治家も官僚も頭が悪いからです。

ハッキリ言います。

これを見て不思議に感じる人も

寧ろデータの実態を知らないからです。

 

「へ…政治家や官僚がこんな単純な計算できない訳が…」

 

そう感じるでしょうが…

一般消費率を求めるのには

莫大な国民の個人データを全て適切に

計算しなくては出せないから、

今までのデータ化されていない旧世界では、

これを求めるのは不可能だっただけの事です。

逆にデータ化が進んだ今であり、

クラウド化技術も進んだ状態なら、

この数値はスパコンで求められる数値に成っているのです。

 

この実態を知らない政治家は、

古くかびた頭でしかないという事に成るわけです。

 

更に経済状態を適正に把握するには、

企業消費率も参照して、

消費税の支出関係から

下請けに流れている数値、設備投資で使っている数値などを、

こまかく求めて行けば

より判別しやすい経済状態が見えてくるのです。

 

旧世代から使われているインフレ率とか消費者物価指数は、

寧ろ紙社会の時代の産物で、

国の各省庁が把握できる大まかな国家統計から

割り出した計算でしか無いのです。

 

インフレ率の計算方法

原則として、インフレ率は次の計算式を使って求めます。

 

(B-A)÷A×100(A=基準時の価格、B=現在の価格)

計算自体は単純で、

これを日本なら総務省が人海戦術?ともいうか、

ある程度の人数を掛けて参照する商品を選別し、

各地方、分野で数値を計算して統計を出す仕組みです。

それでも万単位詳細は扱えるかどうかというレベルです。

 

いわば旧世代の統計は人間の手で計算できる限界であり、

その限界の中で統計として見られる

最低ラインを割り出したものなのです。

 

インフレ率の中には一応、

人件費も統計として割り当てられるので、

上昇することは一般給与の上昇にも結び付いている

データとして見ることもできます。

 

バイデンの様な愚か者の例の様に、

だから経済が順調という話で理解して良いものでは無いのです。

勿論、旧世代でも別なデータを適切に参考にすれば、

その辺の実態は見えてきますが、

実はこういう分析力は科学的な知能を必要とするのは、

言うまでもなく、

むしろ愚かな政治家で自分の票田のことしか考えていない、

自分の実績をアピールすることに拘る人間は、

見えやすいインフレ率などの数値に注視してしまうのです。

これはある意味無知なメディアにも責任が有ります。

メディアは数値を下に上下する状態で、

勝ち負けを示す方が一般人に解りやすい。

 

野球の話で伝えた様に、

結果でしかない数値…打率、勝率、防御率など…

こういう結果の数値を見せて例えるなら…

今、移している選手はこういうデータで期待できますよ…

という形で伝える方が

一般視聴者はその選手がどれだけ期待できるかを

計りやすいのです。

 

しかし、データの中には得意不得意なコースや

相手投手との相性など他にもいろいろあって、

寧ろこういうデータの中で指揮官は判別する方が、

実際の試合を左右する部分に成るわけです。

ただ…そんなデータを一般の視聴者が見ても、

訳わからんレベルで、むしろ面白みがない。

逆に一般視聴者は打率やホームラン数を見て、

その打者の調子の具合を確認して、

その打者が何かしてくれる…

ある意味大谷選手ならホームランを打てくれる…

そういう期待を以て見ている方が、

楽しく見れるのです。

 

こうした形で様々なニュースもメディアは

視聴者解りやすいというよりも、

視聴者が興奮しやすいデータを下に伝えることで、

その報道に興味を持たせる訳です。

 

いわば…ロシアの事情など詳細を伝えるより、

アメリカと日本の同盟関係から、

ウクライナをサポートする意味で、

ロシアは悪者だ!!

という報道の方が

一般人は興奮してこういうニュースを見るという事。

そしてロシアが悪者になればなるほど、

ロシアを打倒せねばという興奮要素が膨らみ、

ロシア軍の弱体化報道に対しても、

スポーツで応援しているチーム…

WBCで言うなら日本代表がリードしている状況に映り、

視聴者の興奮度をより引き上げて伝えられるのです。

 

ただし…こうした報道はエンターテインメントでしかなく、

情報の本質伝えるニュースでは無いのです。

 

経済の本質は…インフレ率「0%」を維持する方が、

安定を示す意味で適正なのです。

逆に日本は寧ろ偶然にもこの0%レベルを維持していたので、

今まで物価はそんなに変わらなかった。

各種の給与体系が上昇すると自然と物価も上昇します。

ただしこうしたバランスを調整しながら、

中低所得サラリーマン世帯生活レベルが低下しない形で、

インフレ率上昇という結果を出すのには、

かなり優秀な頭脳が必要に成る事は言っておきます。

 

アメリカや韓国は最低賃金の上昇から

このインフレ上昇を促してバランスを取りました。

なので物価は上昇したが、

国民の生活レベルもそれに伴って上昇したため、

さほど変化を感じる状態とは言えませんが、

それでも上昇した物価の値段に対して

給与の上昇を実感すると

逆にその分良い製品を買えてる気分が付与されて、

心理的に豊かになった感じは得られると言えます。

 

逆に物価の上昇がない国の製品対しては、

ある意味、日本の製品は特に価格の変動が無い分、

それだけ安く感じるようになったとは言えます。

この反対の現象は、

日本でアメリカ製品が高く感じるようになった点で

理解できるとも言え、

為替の影響もあってのことではありますが、

特に米国産の牛肉の値段が

安く感じなくなったことでも感じる点です。

これを逆算して見ると…

米国からすると和牛の値段は据え置きであるにしても、

他の商品の価格と比較すると高くは感じない値段になった…

と、いう事です。

それで…輸出面で日本の優位性が有ったのかというと…

寧ろ高級感の無くなった日本製品への興味は薄れ、

給与面での優位性から人材の流出を招き、

技術面での台頭を許してしまったのが実情です。

まあ、優秀な技術者などは、為替の影響を観見しても、

日本より給与が高くなる国で働く方が良いと考えるのは当然で、

そういう人が国外に流れるという実情を招いたことは

言うまでもない。

 

どれだけ日本が大好きな日本人でも、

日本の企業では月給30万で、

韓国の企業なら40万貰えるとういう話なら、

40万もらえる方に行きたがるのは言うまでも有りません。

 

これが寧ろインフレ率という数値だけを見て

成功したか否かの実態な訳ですが…

アメリカの様に諸外国との生活水準差が十分なほどあり、

物価の水準も生活レベルに支障がないという状態なら、

寧ろインフレ率は「0%」のラインを維持するべきなのです。

二世代前の輸出貿易至上主義みたいな考えと違って、

グローバル化が進んだ現在では、

国内市場の活性化、いわばインフレ率上昇こそが、

輸入品を安く買えて製品化する際の

コスト削減になるという考えに変化し、

インフレが成功したその国の市場では、

消費者がそのコスト上昇分を十分に消化できのだという事は、

現時点では証明されたという事です。

筆者はこの理論を20年前には気付いており、

それ故にグローバル化推進をサポートする考えにありました。

ただし…ここからは

グローバル化の副作用に発展することに成る為、

インフレの成功した国は寧ろ「0%」の維持に努めて、

インフレに失敗した国の生活面…

いわば給与面での追従を

待つべき局面に成っていると言えます。

 

インフレの大きな失敗例が日本で有るわけですが、

日本の間抜けな政治家は最低賃金上昇ではなく、

大手企業の給与上昇からこれを目指そうとしている訳です。

これでは寧ろ低中所得の給与は上がらずに、

逆に生活物価だけが上昇する副作用が見える話なのです。

インフレ率自体はそれで上昇します。

しかし、経済活動は寧ろ停滞するという話なのです。

いわば消費者としての層が大きい所が伸びないと、

結局は国内の消費活動は活発化せず、

生活面での支出が増えれば、

一般家庭の生活余剰金が残らなくなる仕組みだからです。

 

これを簡単に説明すると・・・

10万円のテレビの消費で考えた場合、人口の少ない中高所得層(年収1000万以上)が伸びても、

10万円以上のテレビを必要とするのは人数に限りが有ります。

なのでこの層で売れてもそこまで売り上げとしては伸びないのです。

逆に中低所得層が

10万円のテレビの消費に手が届く状態に成ると、

逆に売り上げとしては伸びやすく成るのです。

更に詳細を言うなれば循環消費者という年齢層で、

学生をターゲットに考えると、

寧ろ最低賃金の上昇こそ

消費活動の活性化を促す要素であることは明白なのです。

 

勿論、最低賃金を2倍とは言わずとも1.5倍にすると、

いわばコンビニを例に、

人件費の上昇が店舗価格に影響を及ぼします。

そうなるとかなりの混乱を市場に生じさせる感じが出ます。

米国などでは寧ろそこを思い切った形で改革し、

結果としてここまでは上手く行ったわけですが、

政治としてそこに踏み込むには相当な覚悟がいる話でもあります。

ところが…コンビニを例に挙げてその実態を考えてみると・・・

人件費として時給1000円の1.5倍は1500円です。

どれだけ人が居ない状態でも、

1時間に平均5人位は1000円分の消費をします。

寧ろ…それが無いお店はヤバすぎるぐらいです。

下にサバ呼んで5人が1000円使う計算で、

店員一人の賃金上昇分を補うには、

1.1%の価格を上乗せすればいいのです。

100円に対して110円です。

1000円買う客からは一人当たり100円取れます。

これがたったの5人で、1.5倍になった店員の人件費上昇分の

500円が賄えるのです。

逆に時給が1.5倍になるのなら1000円にたいして200円の価格上昇分である1.2倍でも全然問題ありません。

いわば給与上昇分=製品物価上昇分と

考える必要性はないのです。

 

実は…これが最低賃金を思い切って倍にするトリックなのです。

 

最低賃金が上昇するという事で、

寧ろ低所得層の生活が明確に向上する訳です。

ただし・・・日本の場合、

こうした最低賃金上昇として店舗人件費救済の価格上昇分を

卸売りや製品メーカーも乗せてくるから問題が生じるのです。

確かに最低賃金上昇1.5倍の中には、

運送配達員、卸売りで仕分け作業をする従業員なども含まれます。

それらを考慮して価格は1.1倍ではなく1.2倍で考えているのです。

しかも…売り上げ目標としては1000円分の消費を

5人居ればという基準で設定してます。

 

これを日本の政治家は単純に最低賃金1.5倍引き上げに対して、

小売価格の設定を1.2倍にしても良いという形で、

この政策を進めようとするわけですが…

頭の悪い彼らは、

ずる賢い搾取する人が居る事を考えていないのです。

いわば価格上昇分の1.1倍分は

確実に小売店舗の人件費に反映されなければ成らない訳で、

そこを明確に経理上、税務上で管理できる状態にしなければ、

小売り店舗と卸売りの契約上、

製造業と卸売の契約上の中で、

割り引いた形の資金の流れが発生する事を

先に想定しなければ成りません。

なので・・・予め消費税同様に各業種間の支払い名目の中に、

総額の10%を人件費補助金として盛り込ませる形にするのが、

大事に成ってきます。

更には契約上で10%分を

製品価格割り増しで契約するケースも出ます。

こういう契約を許してしまうと、

結局は小売店舗が破綻します。

そういうブラックな事を想定し、

司法上、民法上で管理する必要性も生じます。

いわば…

 

基本価格の据え置きと異なる契約で、

価格の割り増し、または割引が発生する場合は、

一般的に認知できる理由がない限り、この契約は違法とする。

 

民法というより商法に成りますが、

ある意味、人件費補助金の上昇分を

製品提供者、その消費関係にある者が不正に価格に

反映させては成らないという事にするわけです。

ある意味、商品を買う際の不当な値引き交渉もココに含まれます。

 

実はアメリカの司法ならこんな事は必要ないといえます。

まあ、それでもこうした項目は設けたかも知れませんが、

裁判で不当な契約を持ち込まれて

不利益が生じると考慮されれば、

アメリカの裁判ではちゃんと弱者が勝てる形に成っているのですが、

日本の場合、どれだけ弱者救済の主張で不当性を説いても、

裁判所は明確に法律上の不利益が見えないという理由で、

全く受け付けようとしない問題も有るからです。

なので日本では明文化して

裁判官が弱者救済を考えられるように

マニュアル化しないとダメという実情が有るわけです。

 

いわばインフレ率を適正な形で上昇させるには、

これだけ色々な手を打たねば成らないわけで、

色々な分析ももっと詳細に進めなければ成りません。

特に日本の様に上辺だけ性善説の国では、

立場上の弱者救済すら真面に出来ない事情もあり、

それらを含めて改革しなければ成らないと言えます。

 

なので…日本の政治の中枢は所詮は無能で

こういう科学的な話もついてこれない人たちなのだから、

こういう政治家や官僚には

インフレ率「0%」の維持を務めるように働かせた方が、

国民の生活は安定するという話になる訳です。

 

こうした研究であり分析は新しい学説であるので、

20年前、30年前に卒業した人たちは、

ある意味ついて行けていない科学でもあるのです。

いわば…米国や韓国で最低賃金上昇させて

何故その国の市場は混乱しなかったのか…

こういう理由すらネット上でも出てこない訳ですから…

ちゃんと研究している学者と話さない限り知る由も有りません。

なので彼らの知識がどれだけ高学歴でも、

所詮は旧世代の学識しか知らないに等しいのです。

バイデンの頭はそれでも2世代前ではなく、

オバマ大統領の副大統領だった経験もあって、

1世代前のインフレ率理論は多少理解しているかも知れませんが、

それでも2世代前の輸出貿易至上主義の頭が残っているから、

中国を警戒する程度の低い発想に成るわけです。

ここで満足しているバイデンの様な人物を老害といい、

寧ろ探求心を持ち続けて新しい事実を受け入れる姿勢の、

まあビル・ゲイツやまだ若いけどイーロン・マスクの様な

技術系の経営者層とでは、

全く異なるという話で伝えておきます。

 

今まではインフレ率を上昇させて、

外国の安くなった製品を買って、

製造して国内需要で利益を上げるで上手く行ったわけですが、

次の段階ではインフレ率を安定させ、

国内需要を維持した形で

外国のインフレを促してグローバル需要を拡大させる。

これがグローバル戦略に成るのです。

そして均等化した頃合いを見計らって、

再びインフレ率上昇へ結びつけて、

外国との間で優位性を保つのが妙技といえる政治なのです。

なので…バイデンらの老害が

中国と揉めている現状は愚作なのです。

寧ろ中国人がアメリカ製品を喜んで買える状態の方が望ましい。

中身に多くの中国製が混ざっていても、

商品ブランドはアメリカな訳で

これがアメリが製品のビジネスモデルなのです。

そしてその商品が中国の製造業を支えている一つであれば、

中国の人も喜んで買うでしょう。

 

逆に中国と揉める形で中国人の心に反米感情を植え付けると、

米国製の品物より、中国企業の品物を選びます。

大きな市場の中で技術的に台頭した状態の現状では、

これこそ中国企業にとって逆に

大きなビジネスチャンスと成るわけです。

 

何故…こうした事が言えるかというと…

中国が市場経済を解放した時に、

中国政府は内国企業の海外技術取得に

大いに役立つことは解ってはいたものの、

内国企業の需要が海外ブランドにほぼ支配される事は、

懸念の一部として有ったわけです。

そこで今までは都市(自由経済指定都市)と

その他に格差を広げ、

都市圏には外国製品を、

その他には中国製品をという形で

需要のバランスを維持してきた訳です。

こうして徐々に格差の中にその他に豊かさを齎す形で、

徐々に中国製品の品質向上にも寄与する政策だったわけです。

まあ、中国の政治の流れ(自由経済都市圏を構築した点など)

や市場の状態(欧米ブランドの浸透状態)を

観察していれば解る事だし、

中国の頭脳の中枢が優秀なら

こうした形の国家運営は想定していたから言える話です。

そうなると次の手は…

中国の国内市場の中で、

海外ブランドから中国ブランドが取って代わる流れなので、

ある意味現状の米国との関係は、表向きとは異なって、

中国政府にとっては寧ろ歓迎でも有ります。

ただし!!中国政府は

それでも戦争が無い国際秩序とグローバル経済の繋がりこそ、

世界の理想的な場であることは現状承知しているところで、

可能なら国内の市場は現状維持したまま、

寧ろ中国企業のグローバル展開を目指す方を望んではいます。

いわば、仮に中国市場が中国企業で埋まっても、

10年先、20年先を考えると

且つての孤立化していた冷戦時代同様に

技術的に再び遅れを取る事も想定されるからです。

寧ろ米国がここ100年近く技術大国として

君臨できた意味を理解すれば、

中国は寧ろグローバルな関係を維持する方が

永続的な発展の保証になる訳です。

 

日本人は馬鹿にして見ているのですが、

中国の中身は結構優秀です。

 

そうした状況を把握して中国政府が戦略的にどう考えるかを、

己を知り、彼を知る意味で分析すると、

米国の態度によって打開できない現状を、

寧ろ活用して且つての日本化…

いわば日本国内の需要が日本製品で満たされたバブル期

の様な状態に結び付け、

米国との関係改善の機会を待つか、

または…戦争5年という期間で、

グローバルな戦いに結び付け米国の失墜を目論むか、

それを見定める状態と言えます。

その布石としてBRICSの関係構築が有る訳で、

逆に米国の失墜を目論んでが前提ではなく、

あくまで米国の対応に変化がない場合を

想定しての足固めなのです。

 

まあ、米国側から見れば…

中国の動きは警戒するところに見えるのですが、

だから中国は敵だとするのか…

それともグローバルな世界を構築する意味で、

協力しあう関係に結びつけるのか…

ある意味現状単なる分岐点でしか無いという事です。

 

世界を一つにという利害は双方に利が有る話で、

敵対して戦争という流れは双方に害をもたらす可能性を含む。

いわば戦争に負ける場合、また戦禍が生じる中では、

害しかない訳です。

そういう中で外交的にどう対処するのか…

大きな節目なのかな…

 

数値の落とし穴であり、見える状況の落とし穴。

インフレ率は結果として見るもので、

目標として想定するものでは無い。

戦略上の動きも見えている結果でしかなく、

相手を推し量る目安とするべきではない。

逆に外交上では

双方が現状の見える結果に、

警戒し合う状態であるという認識で、

お互いが歩み寄れる接点を討議するべきなのです。

警戒しなければいけないから警戒するは、

馬鹿でも動物でもできるレベルです。

でも、人間には意思疎通できる言葉があり、

お互いの警戒を解くことが可能な訳ですが…

動物同様に警戒して

相手が動いたら戦闘の低俗なレベル考えてて

それ人間として優秀なのか…

今の老害政治家はその程度なのだと言っておきます。

 

また新しい学説故に、定説までには成っていないから、

内容を論理的に細かく理解できる能力が無いと、

受け入れる許容も無いわけで、

老害が蔓延る現代の民主政治に於いては、

実は絶望的な状態なのです。

民主制でこれらが老害であることを糾弾できればいいのですが、

マスメディアなど利害の関係性

(国の重大発表やリークを貰えなくなる利害)から

彼らをネット上の様に老害と言えないのも事実です。

まあ、マスメディアの経営陣も老害蔓延る状態ゆえに、

老害同士が老害と認め合う話にも成らないと言えます。

 

数値に踊らされているこの社会…

馬鹿が支配すれば民主制も誇れる制度ではなく、

何が完璧なのか…

そんなものは捨ててしまい、

寧ろ人々は居心地のいい場所を選べるように、

世界中で自由に行き来生活できる方が望ましいのです。

ある意味、故郷という概念を捨てる話に成りますが…

自分の国の制度が嫌なら、他の国に行ければ、

個人の自由は守られる。

ここから国の制度が間違っていれば、

その国民は他へ流れて国は過疎化してしまうわけです。

そうして行くうちに無理に体制を変えさせずとも、

体制を魅力的な国に合わせるようになる流れが、

実はグローバル世界統合による恩恵として成立するのです。

 

且つて風と太陽のイソップ物語例に挙げてこれを話しましたが、

「民主化の風」でいくら風を吹き荒らしても、

独裁国家は独裁のコートに身を包み抵抗するだけです。

寧ろ「自由」という暖かい太陽の下で、

人々を照らせば人々は居心地の良い方に流れて、

コートに身を包んだ者も自然と脱がざるを得なくなる。

 

心理的な見識でいうなれば…

敵とみなされた相手は

自己の破滅を敵から警戒するわけで、

それによって身を固めようと必死に成るのは当然です。

故にコートに身を包むのです。

身に包んだコートを脱がせることは難しいが、

コートに身を包む人間を減らす事は十分可能です。

 

故に世代交代を繰り返して

これを実現していかねば成らないのです。

 

バイデンら老害は

自分の生きている時にこれを実現しようして

逆に世代間の融和に亀裂を生じさせてしまう。

ロシア人とウクライナ人の間に出来た亀裂は言うまでもなく、

アメリカ人とロシア人、

アメリカ人と中国人、

そういう亀裂を生じさせて、

コートに身を包む人間を増やしても、

結局は戦争にしか発展しない流れだと気づきもしない訳です。

 

まあ、戦争するならしても良いのだけど…

僕はこうして警告して止める事に一応は努めている訳です。

 

世の中道理や摂理を理解できない人間が、

支配層の中に蔓延るわけで、

彼らは自己の勝敗に捉われて、

自分が否定される事に脅えるのです。

特に民主制の政治家は、

自己が否定される事は、

選挙の意味で負けに繋がる為、

絶対に妥協しません。

 

ある意味、政治家が民衆の支持に

捉われれば捉われるほど、

愚かしい考えに向かってしまうと言えます。

 

このブログではそうした人をこっぴどく否定してます。

ある意味、バカとも罵っています。

まあ、こういう対象と成った人は、

このブログを敵と認識して、

このブログの内容を否定しようと躍起に成るでしょう。

ただ…かれらが科学的論拠に基づいて、

私に反論できるのなら受け入れますよ。

論拠さえ明確で説得力あれば、

それは私にとっては新たな発見に成るのですから。

 

しかし、彼らの誰一人として、

ネット上でもメディア上でも、

反論に値するだけの見識が出てこないのです。

そして…結果としてニュースを拝見すれば…

案の定失敗しているだけの話なのです。

これをもって馬鹿と罵られても文句は言えないのでは…

 

正直、彼らにどれだけ説明しても、

馬の耳に念仏でしか無いのも事実で、

結局は彼らが対話と言う手段で、

双方が良い関係性を構築できる討議が出来ないから、

コチラも戦争という意味に近い状態で、

戦うしかなく成るわけです。

寧ろこちらに権力があるなら、

排除するか、絶対服従させるしかない話で、

相手が権力を駆使して挑むなら、

同じ事で対抗する訳です。

 

対話という中で、

お互いが踏み込んではいけない境界線を用いても、

彼らは自分が劣勢に立たされると平気でこれを破ります。

まあ、ある意味そういうストーカーに

狙われているようなものです。

こうなったらどうすれば良いのでしょうか?

 

これが国際関係にも影響している訳で、

軍事的な活動で警戒するのは当然の事だが、

警戒する事と外交上の対話の話とは別なのです。

いわばアメリカの国防省は

何かに備えて常に警戒するのが役目。

でも、国務省は警戒する状態だから相手を信用しないでは、

外交上の機能として働いていないのです。

外交上の機能としては、

警戒状態の相手に対して

双方が警戒を緩和できる形を模索する事。

 

アメリカでも日本でも民主制の国家の

外務大臣であり国務長官は、

常に防衛大臣だか国防長官にでも

成ったかのように動いてます。

こんな間抜けな人材しか配置できないから、

国際問題を円満に解決できないと言っておきます。

優秀な外交官は、

国の懸念を上手く弁明し、

相手の実情や事情を把握した上で、

国のトップの見識と調整を図るものです。

ところが民主制を謳っている国は、

この外交の長を国のトップが指名する形行われます。

国のトップがちゃんと

政治的な機能を理解していれば良いのですが、

結局は自分の代弁者を

国務長官であり外務大臣に選ぶゆえに、

円満な問題解決の討議が出来ない機能と成るのです。

いわば…

バイデンが老害した考えのまま、

「中国やロシアの様な国は信用できない!!」

と、言えば、

その国務長官はそのまま間抜けな形で、

「中国やロシアは人権を粗末に扱う国だから信用できない!!」

と伝えます。

これ…歴史小説とかでよく見る、

間抜けで暗愚な将のセリフですよね。

勿論、歴史小説に限らず、ハリウッドの映画であっても、

こんな代弁者は脇に置かれる存在です。

 

しかし…現実の世界では…

この暗愚で脇に置かれるような存在が、

権力の中枢で目立って活動している訳です。

別段、中国やロシアを立てる話ではなく…

アメリカももっと優秀な人材を配置すれば、

クダラナイ戦争なんて簡単に回避できるのにという事なだけです。

 

でも、有権者の大半が

見える数値や表面上の話でしか判断できない現実では、

誤った方向へ進む現実を眺める事しか出来ないのだろうか…

どうも…ショーエイです。

まあドラマなので歴史的な表現は自由なのですが、

ドラマの筋書きとして脱線してたらアウトです。

 

多分、姉川の戦いの話は

小早川秀秋を裏切らせる

関ヶ原の前振りの流れなのは解るけど…

 

結局は作家の古沢さんは瀬名(有村架純)が

殺されるという流れで、

設定を困惑させたという事でしかない。

自由に自分の世界観で書き出せる話と違って、

大河ドラマの様に既に大方の流れが見えているストーリーでは、

寧ろ瀬名の方への変化が望まれます。

今の流れでは信長に逆らえなくて

泣く泣く殺す様な方向かなと予測して、

何だか面白みがない…

と、いうより深みの欠ける流れに見えてきます。

 

また魔王的なイメージの信長像は

一世代か二世代古いもので、

ストーリーの質を戦隊ものレベルに落とす様なものです。

最初の今川義元を人格者として登場させた点は、

逆に新鮮味があったのですが、

桶狭間時点の乱暴な信長が

人格者として成長する流れで、

戦乱の中に潜む策略、謀略の中で、

家康自身が苦渋の選択を迫られるという形で描く方が、

ドラマのストーリーとして濃厚になったと言えます。

 

実は浅井長政が裏切った事は、

歴史家の間でも謎と成っている部分で、

これを上手く筋書きとして表現できれば、

とても新鮮味のある流れに成りました。

義という言葉を用いて裏切りに走るのは、

寧ろ不義理な話でこの時点で辻褄が合わなく成ります。

更には不意な裏切りという行為自体に

その義を語る資格は有りません。

逆に義を通す流れなら浅井長政が先に宣告をして、

朝倉に着く旨を信長に通達する位の流れにした方がいいのです。

勿論、それに呼応してしまう

家康も義を重んじるという設定から外れます。

 

これらを踏まえて、

古沢氏のリーガルハイの様な流れで、

義理を通して裏切りを宣告した浅井長政の行為に対して、

当てが外れて撤退を余儀なくされた信長軍が、

足利義昭に弁明する流れの中、

浅井長政が通達して裏切った事実を、

実は不意に裏切られたという事で、

秀吉か光秀辺りが改竄して義昭に報告したという流れの方が

ストーリー的には面白く描けたと言えます。

そういう設定の中では

寧ろ足利義昭の描き方が間違っているのと、

光秀の設定も間違っている状態と言えます。

 

その中で魔王信長は

長政から裏切りの旨を通達された文をすぐさま焼き捨て、

撤退する決断をすぐさまつけた上で、

秀吉か光秀辺りから、

将軍様への報告は

「如何にいたしますか?」という言葉に対して

「好きにせよ」とだけ伝える流れでも成立するかと思う。

 

そういう意味では信長の設定は、

尾張の田舎から成りあがって、

桶狭間時代のイケイケさが削ぎ落ち、

将軍の権威に圧倒され、

むしろその補佐として出世した事に

浮足立っているような設定の方が

史実の流れにも逆らわず

面白みのある新鮮なストーリーにできたと言えます。

寧ろコミカルに描くのならこういう設定の方が

良かったという話です。

 

まあ、ヤンキーボウーイがベンチャーから成りあがって、

大手企業の社長に媚びへつらってしまうのは、

リアリティ有る感じなので、

寧ろ…「へ?強面のあの信長がこうなったの?」

を盛り込み、ある種処世術の中で耐え忍ぶ強かさを

見せつける格好良さを演出するべきだった。

 

そうした中で光秀か秀吉辺りが、

信長に都合の良い報告を足利義昭に伝えたことで、

朝倉討伐が頓挫する流れと、

本願寺率いる一向宗との戦いの中で、

天下平定という結果が出ない事に苛立ちを覚えて、

足利義昭が

信長を信用できないという流れに結び付けた方が、

リアリティ有るコメディに結び付けたと言えます。

まあ、そういう流れで考えるなら

光秀辺りに根回し上手なキャラ設定を加えて、

義昭と信長の間を引っ掻き回す方が、

現代風なコメディとして成立するのではとも言えます。

本当に残念過ぎる話です。

 

こうした流れの中から、

信長は足利義昭と決別する形で、

ある種の挫折を味わう事で再び自身に変化が生じ

再びヤンチャな信長に戻って、

イケイケな姿勢を取り戻した事で、

瀬名と信康の裏切りに対して

家康に決断を迫るという流れの方が、

話の筋としてまだ成立するという事です。

その流れからなら

本能寺の変への辻褄も合わせやすくなり、

新鮮味のあるストーリーとして評価できたとも言えます。

 

その中で家康の「どうする」を盛り込めていれば、

古沢氏の作品らしさが表現できたのではと言えます。

 

 

既にこの程度の低い流れでは、

多分、作家が歴史に翻弄されて、

自分らしさを表現できずに終わった作品になると感じて、

正直この作品は終わったと言っても良いかも知れません。

 

別段、「うつけの兵法」の流れとは異なりますが…

まあ、「うつけの兵法」が本能寺まで書く場合は、

寧ろそういうリアリティ有る部分を外さずに行くとは言えます。

 

ただ光秀の設定は韓信か曹操的な感じで、

足利義昭も寧ろ世間知らずな感じに成るところで、

コミカルに描く要素とは少し違って来るけど…

コミカルに描く場合でも史実の流れを外さずに

実は表現できる事は言っておきます。

いわば…歴史は改竄されたもの…

という意味での表現なら

史書を覆しても問題なく成立するという事です。

 

勝てば官軍という言葉を

皮肉って伝えるように考える方が、

視聴者も面白みを感じる流れだったという事です。

 

では…浅井長政が裏切った理由は…

将軍の要請に従わなかったという理由だけで

朝倉を滅ぼすというやり方に対して、

浅井長政は武力による天下平定を危ぶんで考えた。

ここは応仁の乱、明応の政変の話が絡んできますが、

武力を用いても

反対側が新たに別な将軍を立てて挑めば、

その戦乱の状況は改善しないという考えでもいいと思います。

いわば朝倉を今攻めずに徐々に足利義昭の権威を認めさせ、

外交を以て屈服させるべきという所に、

長政は固執した。

故に、

「今朝倉を攻めるのなら自身(長政)はそれに反抗します。」

と、信長に伝えた形でも良いと言えます。

結果として長政の制止を聞かずに

信長が朝倉攻めに進んだため、

「では、朝倉に味方します」

という形で裏切ったという流れなら、

ある意味政治的な対立が原因と言う辻褄が成立する。

また「義」という意味でも成立する訳です。

 

実はこれは史実的な見解ですが、

信長が同盟者を対等に扱うようにしていたのなら、

同盟者は信長に対して率直な意見を言えた訳です。

寧ろ魔王的な意味と違い、

信長の緩さが意見の対立から

裏切りを発生させた部分であるとも言えるのです。

地位が対等である場合、

人によっては全てが対等だと勘違いする訳です。

いわば対等だから

自分の意見を聞いてもらえると考える人も居るのです。

ある意味、現代政治の世界では

政治家同士は比較的対等です。

自民党内での派閥の長同士は

ほぼこういう同盟関係の間柄と言えます。

そういう中で意見の対立は

党内の分裂を招くこともあるわけですが、

政治的な決定権は、

内閣総理大臣または自民党の総裁が持つわけです。

信長の同盟者への姿勢はこれに似ているもので、

お互いへの敬意を表して対等な形を取っているだけで、

信長は同盟間の盟主としての決定権は

譲っている訳では無いのです。

対等に意見を申す事は歓迎でも、

その話が信長の考えと異なる場合は、

如何なる理由があっても「NO」なのです。

 

長政は外交によって朝倉を懐柔する方針で説明しますが、

信長にとっては畿内の統一もままならない状態で、

朝倉が反旗を翻せる状態を維持しているのは、

戦略的に危ういと考えての事です。

また、時期的に姉川の戦い前後は

三好衆が信長に従う形になった時で、

寧ろ後顧の憂いを断つ意味で

朝倉への対応を考えなければ成らなかった。

それに対して朝倉方がある意味

家柄に固執して信長に従わない姿勢であったため、

信長としては見せしめの意味で朝倉を討伐しておくほうが、

後に将軍の権威を示すのに有利に成ると見ていたのです。

それを長政は平和的に進める方が

将軍の威光を他の大名が理解しやすい

前例に成るからと言う意見で対立した訳です。

 

結果としてどちらが正解は解りません。

ただ事実としてこうした意見の対立から

裏切りに結びつく流れに成る事は想像できるのです。

いわば長政が信長を恐れていなかったから裏切れたのです。

 

逆に従来の魔王的イメージで同盟者を圧迫していた状態なら、

長政が裏切る状態はほぼ皆無だったと言えます。

 

実は…こういう話は秀吉が天下を治めた際に、

「信長ほど自分は甘くはない」

という言葉で寧ろ秀吉の方が魔王的支配をしたことでも、

薄々読み取れる話でも有るのです。

いわば…信長は人を立てる配慮に気遣いすぎたため、

多くの裏切りを産んだという奇妙な話でもあるのです。

 

一見、その方が裏切られないのでは…

と、思うかも知れませんが、

人によってはこうした姿勢に寧ろ敬意を感じて

感銘を受けるでしょうが、

一部の勘違いした人間で特に頭の悪い自信家の人は、

なめて考え「自分を恐れている」とはき違える場合も

多々生じるのです。

 

実際に秀吉の恐怖支配ではほぼ裏切りは生じておらず、

信長はあれだけ圧倒的な勢力を保持した中でも、

多くの裏切りが生じていた訳です。

勢力を拡大していく過程の中では、

恐怖による支配では寛容な支配に勝てない。

何故なら人々は恐怖による支配を望んでおらず、

自然と寛容な支配へ支持が流れるからです。

ところが皮肉な話・・・

支配が確定した状態では、

圧迫された恐怖政治の方が裏切りらしい裏切りが生じにくく成る。

何故なら多くの人が恐怖し

恐怖に従順な姿勢が求められるからだ。

しかし、その恐怖が崩れ去るともろく崩れやすい。

 

多くの人は寛容で平等な社会を理想とするが、

それは力が無い人間が求める理想で、

権力を握るとそれらを自由に支配したい欲望に駆られる。

故に人々は無知な欲望に権限を与えて、

自然と理想から遠ざかってしまう。

 

まあ、民主制に於いて、

弱者である市民が

如何に無能な権力者に権力を与えない選択をするかが、

大きなポイントなのですが、

憲法改正ひとつ許してしまうだけで、

こんな状態は簡単に崩れてしまう事を、

殆どの人が知ろうともしないのも事実です。

そして恐怖に逆らえず、恐怖に抗う人をこぞって排除することで、

恐怖の中に自己の平穏を求めて生きていくのが、

人間の嵯峨なのです。

 

因みにロシアも然りとして…

ウクライナの国でロシアと仲良くしようという意見は、

反ロシアの恐怖支配の中で淘汰される状態なのは、

どれだけの人が気付いているのだろうか・・・

 

いわばここでは本意とは異なるが・・・

ゼレンスキーの対ロシアの姿勢が

信長の朝倉に対する姿勢で、

親ロシアの立場が

浅井長政の朝倉に対する考えとして対立したなら、

長政が信長を裏切る理由としては成立すると言える話なのです。

しかし、恐怖政治の下で親ロシアは排除される状態なら、

親ロシアの勢力は裏切ることすら敵わない訳なのです。

もし、親ロシアの意見が民主的に対等なら、

ウクライナの政治状態は分裂を許す形に成るわけですが、

それではウクライナが一体となって

ロシアと戦う事は難しいのも事実です。

 

なので・・・これが浅井長政が

信長を裏切る事ができた実情の話に成るのです。

 

因みに現実的な心理分析で、

姉川の合戦に先陣を申し出た家康の話を考えると、

浅井の裏切りを寧ろ家康は許せなかった。

いわば信長に対して

自分は決して裏切らないという証明を意味して、

あえて先陣を切る意思を申し出たのです。

信長はその気持ちだけで十分としたのですが、

家康はあえて頑固に申し出る姿勢を貫くことで、

信長から一切の猜疑の目を向けられないように努めたのです。

ある意味、この家康の姿勢の方が賢いです。

 

寧ろ家康からは信長の心情は解りません。

ただし浅井長政の裏切りによって、

自分の立場もそう見られる可能性は察知したのです。

故に先陣を切る事で

浅井長政を許せないという姿勢を見せる事でしか、

信長に対して寧ろ家康自身が

安心できる立場を保持できないと危惧したからと言う流れです。

 

ここで大事なのは信長がどう考えたかでは無く、

寧ろ家康がその状況をどう考えどう対応したかが、

心理分析の対象と成るのです。

それに対して総括して信長が家康をどう感じたかは、

家康が手柄まで持って行く功績を示すことで、

信長に対する本気度は

十分に伝わったのではという話で考えるのです。

 

なので…大河の「どうする家康」の姿勢は、

現実的に寧ろ大間違いという話でしかないのです。

もし友人で大河のような姿勢で感じた場合、

決して信用できない相手と見るだろうし、

家康自身もそれで事が

無事に収まる安心感も得られなかったでしょう。

ある意味、後の家康と信長の関係性から考えるなら

不成立な心情が生じるわけで、

浜松に戻った時点で

家康は信玄に着く流れにしか成らないと言えます。

信長もその可能性を感じるなら、

むしろ敵と成った家康を生かしては置かないと言えます。

そういう意味で辻褄が崩壊する流れでも有るのです。

 

もうここからは「どうする家康」という期待感で見るのではなく、

「どうした(古沢)家康」という結果で

何の期待もせずに古沢氏が

どうこの話を繋ぎ合わせて終わらせるかだけを見るものに

なったという事です。