どうも…ショーエイです。
先ず最初に、
貴方は合理的な思考で分析するタイプですか?
それとも情報を知識として活用するタイプですか?
日本人の殆どが後者だと思います。
それは教育システムがそういう教育を施しているからです。
これは数学の問題を解く場合で言えることです。
受験勉強などで数学の問題を解く場合、
日本ではほぼ攻略式を反復練習して覚えて行きます。
Sin(サイン)やらcos(コサイン)といった公式だけを用いて、
問題に向き合う人はむしろ稀です。
いわば日本では問題のパターンを暗記させ、
類似したパターンを見つけ出すという作業が
受験勉強の必勝法に成るわけです。
これをゲーム攻略の傾向で見るとその性質は、
より明確に出てきます。
一から全て自分多たちで思考して攻略を目指すか、
それとも誰かが記した攻略法を参照して攻略するか。
日本人の殆どが攻略法を参照するタイプに成ります。
勿論、攻略法を参照する方が楽で速いです。
ある意味、自分で思考してやるのが面倒な場合も、
攻略法を活用しますので
一概には断定するものでは有りません。
しかし・・・誰も到達した事のない
未知の世界を探求するという意味では、
攻略法に頼るだけの頭は何の役にも立ちません。
無論そういう攻略法に頼るタイプでも
受験勉強同様にゲーム制作者の癖の様な
マニアックな攻略法を知っている人はまた少し別ですが…
ある意味そういう人たちは寧ろ情報を分析しているわけで、
難関大学の受験を突破するレベルと言う意味でも
優秀な人達に成るのです。
ただし…学者と呼ばれる人たちは、
情報を分析するレベルまではあるものの、
自ら思考して創造する能力まではあるとは言えない。
自ら思考して創造するレベルは、
一般的には天才の領域とも言えます。
学者という分類の中でも、
ある意味発明家になるレベルです。
では…本題に戻して…
【発明家レベルの思考が出来ない学者が天才の領域を知る事は出来ない!!】
まあ、ここはハッキリと言わせてもらいます。
例え東京大学の教授クラスであっても
思考力の足りない人間では、
情報の無い天才の領域を想像することすら適わないのです。
何故ここまで言い切るのかと言うと、
最近の戦国時代の歴史研究があまりにも非合理的で、
脆弱な発想に陥っているからです。
例えば武田の騎馬隊の話…
武田の騎馬隊は存在しなかったなんて事を安易に言っています。
それは情報として武田の騎馬隊が記されたものが、
明確に発見されていないからです。
しかし所どころにこの騎馬隊を警戒する文言は存在します。
東京大学だったかの学者(バカバカしいので名前すら無視ですが…)は騎馬隊の弱点でもある馬に焦点を当てて、
馬の突進に対して馬に弓でも当てれば
騎馬隊は機能しなくなるという論理を唱えました。
一見、そうだなと思える発想ですが…
そこから先の思考が止まっています。
いわばその弱点を克服して
騎馬の突進を活かすにはどうするかが無いのです。
更には大陸、いわば中国などを参考に考えると、
特にチンギス・ハンは騎馬戦術を駆使していた点でも、
その優位性は考えられます。
先ず騎馬隊の原理で言うと…
馬が体当たりして来たら、
人間としてはとてつもないダメージを受けます。
原付バイクほどの速度ですが時速40kmと言っても
ぶつかれば痛いどころで済みません。
原付バイクの100kg程度の重さと違って、
馬の体重は300kgから400kg有ります。
まあ運動エネルギーとして計算を割り出しても
想像しにくいですが、
原付バイク100kg×1/2×時速の二乗の衝撃に対して、
馬の仮に300kg×1/2だったとしても
3倍近いパワーがあるということです。
人間が全速力で考えると…
因みにウサイン・ボルトのピークスピードは44.2km/hで、
100m平均だと37.6km/hだそうですが・・・
とりあえず人間の平均的な速度だと20km/hで、
この速度でも格闘家やラグビーの選手がタックルしてきたら、
同等のレベルの選手たちでもぶっ飛ぶわけです。
そう考えて馬の突進は
このタックルの威力の更に倍以上と考えると、
とてつもないほど恐ろしい威力と成ります。
この攻撃力は是非とも活用したい。
そう考えるのは当然です。
では、その突進への戦術的な対策から考えます。
前述の通り、馬に弓をあてれば馬は驚いてのけぞる。
大陸では馬の脚を切り落とす武器で戟という物が存在した。
長篠(設楽原)の戦いでは馬防柵を用いた。
戟とは基本的にはこんな形です。
そして次にこれら騎馬対策に対抗する戦術。
弓に対しては前衛に盾歩兵を配置して
馬の突進が効果的に発動できる距離、
恐らく敵手前の30mから40mまで近づく。
30mから40m手前で時速30kmで計算すると、
40mで4.8秒、30mで3.6秒です。
最低でも弓は1発は放てる時間ですが、
戦はチキンレースも同然の心理です。
狙った馬を仕留めても、
別の馬が突っ込んでくる可能性はあります。
馬防柵を備えていない状況下で、
逃げるのを止めて撃つか、
それとも逃げるかの選択です。
勿論、後方に前もって陣取る手も有りますが、
戦の駆け引きではこのタイミングで突撃して、
逃げる弓隊を追撃する判断もあるわけです。
100mもあると馬だと時速40kmには達するので
10秒前後で追いつかれます。
学者には戦場の心理は想像できないらしい。
まあ・・・計算だけの話なら、
10秒もあれば反転して射撃できそうな気がします。
しかし…馬が一匹で突進するならまだしも、
大量に突進してくる場合、
一人の弓兵が仕留められるのはその内の一頭。
こういう心情の中で
撃ち漏らした騎馬が自分に向かってこない安心感が得られるか?
そういう心情の中で真面に正確な射撃が出来るか?
ここが戦の駆け引きです。
武田信玄が用いた騎馬戦術には
こういう突撃の仕方もあったかも知れません。
次には30m手前から
側面への回り込みも騎馬隊の手法としてあります。
どちらかというとこちらが一般的かも。
実は…歴史家の誰も
この点に気づいた人は居ないらしいですが、
騎馬が横に移動する際には、
大陸の場合だと軍旗、日本の戦国時代だと母衣(ほろ)を用いて、
弓の攻撃に備えて移動したようです。、
軍旗で馬の体を防御するように持って敵を横切るように動けば、
旗が靡いて弓を防ぐ効果が生じます。
日本の母衣(マントみたいなもの)もこうした使い方をすれば、
弓の防御として活用できます。
横へ回り込んできた敵に対しては弓隊の隊列は縦に成る為、
撃ちにくくなる。
更に横から侵入する騎馬隊は向かって縦方向に並ぶため、
前列を狙えても後列は狙いにくい。
騎馬隊の前列に重装の騎兵…
いわば馬にも鎧を付けた騎馬を用いて突進すれば、
弓隊への防御としても機能する。
中国や欧州ではこうした騎兵は存在した。
ある意味、弓兵を突撃で仕留める距離まで
重装騎兵を先頭に進み距離を詰めたら
後方の軽装騎兵が一気に拡散して敵陣をかき回す形になる。
戦ではこうした駆け引きの中で、
双方が其々に備えて戦うのが当然であるわけです。
弓兵が横からの騎兵に備えての布陣を見せれば、
騎兵はそれに伴って退却する。
退却する際は、前衛に重装騎兵を置いていたら、
旗や母衣を活かして隊列を横向きにしながら、
自陣の方へ退却するわけです。
馬防柵は寧ろ正面からの騎兵には効果的だが、
馬防柵が外れる側面からの攻撃には対抗できない。
長篠の戦いでの駆け引きはこういう事に成る。
そして…学者が否定する武田の騎馬隊の存在ですが、
本当に騎馬隊の存在が脅威でない場合、
織田軍は馬防柵をはりめぐらす必要性は無いわけで、
寧ろ高台を利用して歩兵対策用に
崖を利用した戦術だけで十分だったといえる。
まあ、最初に記した戦術のように
盾兵を前衛に持ってきてその後方に騎兵を配置して
ジワジワと距離を詰めたうえで突撃して来たら、
ある意味怖いですよね。
三方ヶ原の状況はこんな感じだったのかも・・・
因みに史書として
こうした旗や母衣に関する仕様のマニュアルは
存在しないようです。
そういう物が存在した絵は見受けられますが…
むしろ当時としては当たり前すぎるものなら
マニュアルなど残らないと考えるべき。
ある意味、漫画制作ではアシスタントさんが背景を作ったり、
トーンを貼ったりという作業をしている訳ですが、
こうした分業は誰もが知っている当たり前なわけで、
あえて「効率よく漫画制作する方法」として、
アシスタントを活用して制作するような書籍は出ないのと同じです。
寧ろ書籍として残るのは一人で書く漫画制作の基礎で、
ペンの使い方やトーンの貼り方などのコツに成ってきます。
更に言うなれば、
靴の履き方、服の着方など当たり前の事過ぎるものは、
寧ろ親が子に直接教えるのが当然で、
文書として残すようなものでもない訳です。
ある意味、包丁の使い方もほぼ文章で残すものでもないもので、
現代だから色々情報が出ているかも知れませんが、
紙が貴重だった時代に
あえてそんな使い方を記しておく事でもないと言えます。
騎兵の旗の使い方や母衣の使い方は
寧ろこうした当然のもの故に文章が存在しない、
仮にあったとしても長い歴史のかなで希少性が無く、
捨て去られたものとして考えるべきです。
学者は戦術家でも実際に戦うという行為から
かけ離れ過ぎた存在故に、
勝負事の駆け引きであり、
命がけの緊張感に対する想像力が
全く欠落しているのです。
それ故に卓上の理論で止まってしまう。
色々な視点で考慮すると、
武田の騎馬隊は存在し、その戦術であり駆け引きは、
信玄が天才的ならそれ相応に用いたという事になる。
もう一方の天才的な信長が信玄亡き後の武田軍に対して、
あれだけ人数とあれだけの陣容を以て備えたほどなら、
戦もろくに知らない凡人学者では、
想像すらできない駆け引きがあったのだと理解した上で
もっと色々な視点や日本だと自衛官、
更には米軍の実戦経験者などの見識を伺いながら、
丁寧に研究するべき話と言っておきます。
今の日本だけの歴史議論を見ていると、
合理性が欠けすぎてて反吐が出るとも言っておきます。
【三段撃ちは寧ろ江戸時代では当たり前】
長篠の戦いでは三段撃ちは無かったのでは…
こうした議論をしているが、
鉄砲の数が3000丁前後では、
確かに三段撃ちの効果は限定的と考えても良いです。
正し1万丁以上なら寧ろ三段撃ちとは言わず、
5段撃ちといった形が理想的に成る点は理解するべき。
ここでも先ず言っておきますが、
信長の天才的な発想ゆえに、
寧ろ3000丁だけで武田軍を粉砕したという結果で考えるべき。
鉄砲による功績は
太田牛一の信長公記にも記載があるほどなので、
鉄砲が大きな役割を果たした点は排除して考えるべきではない。
それを踏まえてその戦術が解らないのなら、
否定する前に
その信長の天才的な戦術眼に及んでない事を自覚してほしい。
寧ろ、三段撃ちを否定した上で
地形を活用した鉄砲戦術がどういう形だったのかも
想像できない状態で、
信長の発想に追いついたとしている事は
寧ろ腹立たしいにもほどがある。
※オッサン先生はこの戦術を既に把握していて、現在動画作成中みたいです。
今までの長篠の戦いで使われた三段撃ちの発想は
寧ろ江戸時代の戦術では当たり前で、
その基礎を信長が長篠で見せたという流れで
考えられたとするべきです。
江戸時代を含む中世に於ける歩兵の突撃では、
隊列を組んで突進してきた。
まあ、中世に限らずの話ですが…
全員が横一列になって突進する発想自体あり得ないです。
仮にその様に全員が横一列で突進してくるなら、
鉄砲も横一列で一斉射撃するほうが効果的とも考えてもいいです。
でも隊列を組んで突進してくる場合は、
最前列を討ち取っても、残りの後列がそのまま近づいてきます。
結果として100m手前の距離から敵軍が到達する20秒間の間に
何発撃てるかという話になるわけです。
100mは意外と短いようで長く、
鉄砲が完全な威力で敵を粉砕できるのは、
そこから40m手前に差し掛かった所に成るそうです。
ここまでの情報を歴史学者たちも理解しているのなら、
何故その上で効果的かつ合理的な戦術が
見えてこないのかという話です。
いわば前列だけを討ち取っても無駄に成るわけです。
敵は勿論裸では向かってきません。
当たり前ですが鉄砲対策に
盾を持つくらいの備えは考えるはずです。
そんな資料は無いのでと言うのなら、
日本の戦国時代の人間は
そんなに何も考えない馬鹿だったのですが
という恥ずかしい歴史の話に成るわけです。
寧ろ鉄砲相手に盾を持つくらい当たり前に考えれる事なのです。
それダメという軍規なら…
かなり間抜けなブラック企業に成ります。
こうした当たり前のように派生する発想から逆算して、
鉄砲の効力を考えると、
最低でも40m以内で射撃するのが合理的に成ります。
しかし前述の通り40mからだと前列を討ち取っても、
その後列の兵隊は時速15kmで走れた計算でも、
10秒以内には到達するわけです。
勿論鉄砲隊の前に歩兵隊を配置しますが、
歩兵同士が乱戦になったら味方にも当たる為、
鉄砲は使えません。弓も同然です。
鉄砲の数が1000丁とかまあ3000丁なら、
前列を討ち取って、乱戦での数的優位性の効果で妥協できます。
しかし…1万丁も用いてそれだけの効果で満足かというと…
それで満足するだけの戦術家だらけだったら、
これも再び日本の戦国時代はバカの集団かという話に成ります。
普通に考えれば、
隊列に対して鉄砲隊もその隊列に合わせて数を調整する方が
良いと思いつくのが当然です。
敵の1列目に対して、第一列目が射撃、
二列目に対して第二列目が射撃、
まあ5列くらいも組んで置けば、
最初の一列目の鉄砲隊が
準備出来て撃てる状態になるのは解る事で、
別段、天才でなくとも気付くレベルの戦術と言っておきます。
むしろ…甫庵信長記は
この江戸時代には当たり前だった撃ち方の発想の根源が
信長だった可能性を記したとも読み取れます。
家康がそれを長篠で体現しているから
戦術的に継承したという流れでも繋がるわけです。
ただし…実際の3000丁程度の数だとちょっと効果は微妙。
逆に城壁に籠って鉄砲を使用する場合、
斉射を用いるより、
城壁によじ登る兵士を一人づつ仕留めるほうが
効果的かつ攻城側の士気低下の効果としても見込めるのです。
その為、準備出来たものから撃つ方法で十分とも言える。
※この準備出来た者から撃つが
新しい長篠での撃ち方という発想だが、
この撃ち方では武田を粉砕するという目的は達成できないです。
寧ろ籠城策として
当時としては当たり前の撃ち方だったと言っておきます。
最近長篠での撃ち方はこうだったと発想した人には
失礼な言い方に成ってますが
それほど驚く発想でも無いです。
因みに動画に記した三連撃ちも驚くほどの発想では無いです。
実はこの撃ち方、殿様クラスなら誰でも思いつく発想というより、
誰でも自然とそうするだろうという撃ち方です。
いわば小姓に刀を取れと命じるのと同じ様に、
彼らに弾込めやらの鉄砲を撃つ準備をさせて、
自分は撃つだけにするというのが流れが
自然と成立するだろうと想像できるからです。
まあ、中には全部自分でやる人も居るでしょうが…
ここからの発想を発展させると、
準備する人間を用意して、
鉄砲撃てる奴に連射させた方が効率良くないと考えるのも
当然見えてきます。
あとはその分の鉄砲を揃える。
問題は鉄砲数>撃ち手なのか、撃ち手>鉄砲数なのか。
鉄砲玉自体が高価だった信長たまの時代では、
寧ろ鉄砲撃てる人の方が限られてたと考えた方が良いわけで、
誰でも容易に鉄砲の練習が出来た訳でもない訳です。
鉄砲の本隊自体はストックが効く品物で、
岐阜を得た1567年から長篠の戦いの1575年までの
8年間も有れば、
何万丁かは既に仕入れてても可笑しくは無いです。
一年に1000丁づつ仕入れてたとしても、
8000丁は保有出来る計算で、
一部壊れたとしても5000丁のストックは有るでしょと考えれます。
こうした状況で長篠の戦いを検証すると、
三連撃ちが妥当とも考えれたのです。
その上で設楽原のあの地形を利用した
特殊な戦術が組み込まれて、
武田軍を粉砕したという流れに成ります。
歴史家が長篠の戦いの戦術面を
想像できないのは仕方ないとしても、
そこまでの発想力が無い事を差し置いて、
勝手に自分たちの程度の話で決めつけている事の方が、
信玄や信長という天才に対する冒涜と言っておきます。
【信長が検地を重視しなかった点に関して】
信長が天才でなかったとしたい人たちがいう話ですが、
天才でもなんでもない人間だから寧ろそう見るのです。
安土城を建築するのに、
高度な検地を出来るくらいの技術が無ければ建てられません。
いわば数量計算、ある意味数学的な寸法の技術です。
当時の北条の方が検地の技術は上だったと言ってますが、
信長の治世は
寧ろ農家から重税を取り立てる形で無かった事を
先ず察するべきです。
農家からは大雑把に徴税し多少の逃げ口は見逃した。
信長は青少年期に遊びを通しながら
農家と繋がりも持っていたと考えるのが当然で、
家臣に秀吉の様な者もいるわけです。
そうした中から農家の仕組みは見聞きしている訳で、
秀吉が武士として出世していた事を考えるなら、
農家の裏金の作り方などの方法は
信長に伝えているはずです。
そいう状況下で厳しく農家への取り立てをするなら、
秀吉が行ったような太閤検地みたいな事をやっても
可笑しくはないのです。
でも、やらなかったのには理由があり、
更にそれをしなくても信長治世の経済は
戦国時代随一だったのも事実なのです。
ある意味、謎多き事で…
この不可解な現象を解明できない時点で、
彼ら学者の頭が信長の革新性を否定するほうが可笑しいのです。
農家に裏金を作らせて、寧ろ商業経済を発展させた。
貧乏人が多ければ商業需要がそれだけ枯渇する。
簡単な経済理論です。
現代、米国経済が崩れそうで崩れないのは、
米国民が意外と豊かだからです。
いわば商業需要が機能しているからです。
そういう環境が整うまでの米国では、
最低賃金上昇などの政策があったわけですが、
ある意味2000年初期に比べれば
その賃金は倍以上に成っているのです。
信長が農民に施した政策は寧ろそれに近い。
いわば他国と違って農民の最低生活水準を引き上げた。
そして農民が商売で品物を売買できるようにしたわけです。
そこで楽市楽座なのです。
楽市楽座自体は六角氏の発想みたいですが、
これを活用したのが信長の革新性です。
楽市楽座は一部地域限定だったとしてますが、
むしろ主だった城下町では行われていたと言えます。
そしてこの楽市楽座で商売が繁盛すれば、
それだけ徴税する規模も大きく成ります。
徴税と言うより徴収に成りますが…
商売が繁盛しなければ寧ろその金額は下がるだけです。
また市場も栄えません。
なので農民や農家の徴税は大雑把にして、
寧ろ彼らがそうした需要の要因に成れるように配慮した訳です。
また、生活水準を向上させたことで、
彼ら農民たちの信長に対する治世への信頼も向上し、
戦になった際に様々な形での協力も得られやすかったわけです。
これ当然の心理であり、ある意味兵法にも準ずる発想です。
更には、こうした信長の治世は
他国の農村にも噂として広まるため、
敵将を調略する際にも、実は効果的に機能した訳です。
各国の将には治める領地があり、
領民との繋がりで兵の徴収などが有ったわけです。
いわばその領民が求める流れは、
ある意味その領主たちの選択に
何らかの切っ掛けを与えることにも成ります。
貴方が領主として領民を抱える立場だったら、
重税に苦しむ環境でも主君への忠誠を全うするか、
それとも領民の事を考えて豊かに成る方に寝返るか…
どちらを選びますか?
いわば調略の切っ掛けの一つはこういう事にも成ります。
信長の治世はそういう効力も生じさせていたと考えられます。
なので検地で農民をがんじがらめにしなかった訳です。
技術が無かったというより、寧ろやらなかった。
いわばかなりのホワイトな企業で、
経費の管理で多少の交通費の誤魔化しは
大目に見てくれるようなものです。
その分、利益を上げてれば文句はないという感じ。
【楽市楽座の徴収法と活用法】
商業中心の経済で農家の穴、いわば多少の脱税は見逃し、
寧ろ楽市楽座の方で取り立てる。
楽市楽座の徴税法はほぼ誰も知らないみたいです。
実はやりようによってはこれ儲かる。
一般的には売上金の%で発想しがちですが、
そんな細かい計算では難しく、
帳簿を記帳させてもみんな誤魔化します。
いわば合理主義の発想の中では
誤魔化せる方法を無理に採用しません。
では…どうやって徴収するのか?
先ず合理主義者の発想は基本WINWINな関係性を大事にします。
いわば儲かる奴から取り立てるです。
では、どうすればそうなるのか?
場所によって使用料を徴収するのです。
いわば一等地と言われる
人の往来が多い場所に店を構えたいよ考えるのは
誰でも一緒です。
そしてそこはやはり売り上げが上がりやすい場所です。
現代でも駅前の一等地の家賃が高い点でも理解できると思います。
この家賃に値する部分を場所代として取り立てるのです。
楽市楽座なので常時日替わりです。
場合によっては競売状態に成ります。
売れ筋の商品を持つものなら
ある程度の売り上げ見込みから算出して、
良い場所を確保したいと考えるのが当然に成るわけです。
場所代として徴収するため誤魔化しといったことは成立しません。
ある意味、売り手の商売上の博打に依存するだけです。
前述の通り、農民がお金を持っていない経済では、
その売り上げ見込みが大幅に低下します。
逆に農民がお金を持て居る場合、
適切な需要が存在し売上見込みは向上します。
更にそうした経済の中で売れ筋の商品を確保する為に、
商品の質の向上も自然と競われます。
いわば工業技術の向上にもつながるわけです。
WINWINな関係故に
最終的に競売になる一等地の値段は、
座を持つ側が高値を設定する訳で、
強制的に徴収する訳でもありません。
一等地でなくとも店を出したい希望者が支払う意味では、
これも強制では無いのです。
逆にそういう自主的な出店が活性化できるように、
商売が繁盛しやすい環境を整えるのが、
領主の手腕と成るわけです。
また品物の品質向上は、
熱田や堺などの商人にもメリットが生じます。
いわば信長の領国以外に質のいい商品を流せるからです。
更には普段は商人に卸している工芸などを作る職人たちも、
楽市の方では少し高く売れるわけで、
逆に商人から高値で工芸品を買っていた買い手も、
楽市なら少し安く買えます。
そして普段は買い叩いて仕入れていた商人たちも、
こうした需給面の作用を考慮して、
多少の色を付けて卸してもらう交渉も必要に成ってきます。
これに付け加えて、
信長領内では関所を撤廃しているのです。
寧ろ間者に扮した者でも
場所代さえ払えば商売できるという流れも生じます。
普通に考えればスパイ活動フリーなんて
とんでも無いと思えるでしょう。
しかし、他国からの商人がやってくる事で、
彼らからも場所代を徴収できるという事にも成ります。
商売をしたいという人間が増えれば、
楽市の規模はそれだけ拡大され、
寧ろ徴収できる額もそれだけ増えるわけです。
更に市場がにぎわえば他国からの買い手も訪れるわけで、
彼らはまた楽市にお金を落としていくわけです。
合理主義者にしてみると関所などで間者を管理しても、
全ての情報を隠せると思う方が無理があると考えるのです。
何故なら間者は如何様にしても入り込めることを
知っているからです。
道中の関所を管理しても、
山間部を抜けて潜り込まれれば関所の管理は意味がない訳で、
間者はそういう形で常に入り込みます。
いわば信長たまも同じ手法で潜らせるわけだから、
そうした環境で情報が漏れないと考えてる方が間抜けなのだと
発想を切り替えるのです。
逆にどういう情報が洩れるか、
それを把握する方が戦略的に都合がいいのです。
いわば敵はこの情報は知っているはずだから…
そこから敵がどう考えるかを認知して思考するのです。
こうした思考は
「彼を知り己を知らば」の兵法の極みに成る部分です。
一般的な人は「彼(敵)を知ろう」と
情報収取のみに躍起になる訳ですが、
己に関しては寧ろ隠せてるはずと思い込んでしまいます。
学者の人たちに限らず一般の人も、
この思考に陥ります。
しかし相手が実は知っていたとして先手を打たれたら、
相手が知っていた事を知らない側は後手にまわるのです。
では実際に信長たまが
自国の情報がある程度他国に開放されている事を
認知していたと言えるのか?
その証拠が信長たまの特殊とも言える突発的な行動です。
突発的な軍事行動は間者が伝える速度を
計算しての行動だからです。
いわば間者が敵にこちらの動き伝える速度を計算して、
伝わってから相手が動く速度を推測し、
早い段階で出来る限り有利な場所を陣取る為の手段なのです。
その為には準備でグズグズと
時間を過ごしていては成らないのです。
また、関所が無いといっても
間道を見知らぬ早馬が走った場合目立ちます。
そういう場合は容赦なく捕まえるわけです。
仮に取り逃がしてもその取り逃がした情報は
信長たま自身が把握して考えられるのです。
ただし間者が敵国に伝達する場合は、
如何なる場合でもむしろ目立つ形は取らないのが定石で、
そうした時間を要することもある程度想定できるのです。
歴史家はこれを信長たまが短気だからと
錯覚して考えているでしょうが、
実は短気である前に、
情報の伝達速度とのスピード勝負で
戦略上の優位性を担保したいための行動なのです。
では…関所を管理してれば大丈夫なんじゃ?
間抜け人はこんな事を言い出しますが…
いわば関所管理してても山越えする間者は
どの道敵に情報を伝えるわけです。
そしてそれを把握せずに高をくくって挑めば、
後手に回ることになるのです。
他にも関所を設けない理由は多々ありますが、
他国の人間が流入することで、
様々な情報が入りやすくも成ります。
そして仮に隣国の間者が潜んでいた場合、
彼らがあえて言えない情報って有りますよね。
ここ…言う人と言わない人、嘘つく人など、
自分の情報網と比較して区別しておく事もできるのです。
勿論…相手が察する事ないように放置しながらですが・・・
なので信長たま式の楽市楽座には
色々な仕組みも存在するのです。
【結局は発明家でなく古文に精通しているからの学者】
ここまで貶しておいてなんですが…
確かに学者先生たちのお陰で
我々は様々な古い文献の情報を得ることが出来てます。
優秀な学者先生は自分たちの領分を弁えて、
適切な研究と検証の結果を発表してくれます。
ただ勘違いした学者も多く、
特に有名大学に胡坐を掻く輩は、
たした研究もせず、また的外れな研究で、
持論を展開してあたかもそれが確定の様な情報をまき散らす。
そういう情報を当方が検証すると腹立たしいほど、
非合理的なのです。
ここもハッキリと言わせてもらいます。
歴史一つに数多の情報が生じる中で、
彼ら学者は一つの情報に絞って論じる頭しかないのです。
一方の情報は正しく、
もう一方は間違っているという判定をいみします。
逆に全ての情報を総括して
全ての情報がある程度根拠として繋がる部分を
模索する頭脳が無いのです。
太田牛一の資料に書いてある内容と、
そのあとの江戸時代に書かれた甫庵の資料。
その上で鉄砲の存在であり、騎馬隊の話であり、
二次資料、三次資料として、
その文章が成立した経緯など分析して議論しなければ、
全く合理的な見識には感じないわけです。
また戦術的な合理性などや、
誰でも思いつきそうな発想という部分も考慮して、
当時としてこれくらいは出来て当たり前だろうという点も、
資料に頼らず発想して行くべきで、
資料が存在しないから解らないで終わらせている始末は
正直いただけません。
桶狭間の戦いにしても…
正面突破か奇襲か…
何を幼稚な戦術レベルで話しているのでしょうか?
まあ、サッカーなど
スポーツの戦術的な動きの作用を研究して、
桶狭間の効果と資料にある陣容、
そして信長たまの行動を分析すれば、
いわばサッカーのカウンターアタックに近い効力くらい
見えるのではという事です。
サッカーのカウンターアタックを成立させるには・・・
効果的な方法としては
中盤とディフェンスの間を出来るだけ開かせて、
その開いたスペースに素早く切り込むこと。
ディフェンスの裏に
素早く抜け出すだけがその戦術ではありません。
桶狭間の戦術では
寧ろこういうカウンターアタックの原理を利用しているのです。
2018年のロシアW杯での
日本対ベルギー戦がいい例で、
あの逆転負けしたカウンターアタックがとても参考に成ります。
ディフェンス3人に対して攻撃3人という形に持って行かれて、
日本のディフェンス陣が翻弄されたケースです。
逆にあの時、中盤とディフェンスの距離が迫っていた場合、
相手攻撃陣のスペースも限定される、
寧ろディフェンスと中盤の間でスペースは挟まれる形に成って
それだけ攻撃側は攻めにくく成るわけです。
信長たまは善照寺砦に着陣した後、
中嶋砦から佐々政次と千秋四郎らが
先行して敵に向かったと有りますが、
寧ろカウンターアタックを成立させる意味では、
正面突破の様相を見せつけ、
今川本体の前衛をあえて引っ張り出したとする方が、
戦術的機能が生まれるのです。
実際に戦術的にこれを計算すると、
佐々政次らの居る方の砦に着陣している方が妥当に成る為、
信長たまが中嶋砦に着陣してから行動であったとする方が、
合理的な作用として機能します。
細かい詳細は何れ、「うつけの兵法」で記すとします。
前衛が引っ張り出されると
その分後衛の本隊との距離は開くわけで、
そこに今川本陣への隙が生じる。
そこを側面に回り込んでの奇襲するわけです。
前衛の部隊を引っ張り出せずにいると、
上手く奇襲が掛ったとしても、
今川本陣を攻撃する際に
逆に味方は包み込まれる可能性が想定できます。
下手したら逃げ場を失うわけで、
完全に死地へ入り込む様な形に成ります。
前衛と後衛が開いた状態ならその間の空間は自由に動ける、
と、言うよりも囲まれるまでの時間がそれだけ生じて、
それだけ今川本陣への攻撃に集中できる訳です。
一部学識の見解には
これと同じ形を唱えるものもあったようですが、
WIKIによると藤本正行という戦術学者がこれを否定したらしい。
ある意味佐々政次らの行動は陽動作戦ではなく、
単なる抜け駆けだったとしたわけです。
しかし、逆に陽動作戦なくして
信長本隊が最小限の被害で
今川義元の首を取れたという結果に対して、
どう合理的かつ現実的な戦術が考えられるのか…
逆に不思議です。
では…色々な説を唱える歴史学者さんたちに対して、
信長たまが義昭公や信盛に突き付けた折檻状の様に、
明確にその見識の甘さを指摘させてもらいます。
①信長公記の資料一つに対して太田牛一が作成した背景であり、またそこに書かれた文章がどういう意図に該当するのか、
翻訳出来ながらも学者たちは読み切っていない点。
桶狭間の戦いが記されている信長公記の首巻は太田牛一が当事者として記録した形で書いたものでは無い点。
これは学者の方がたも理解している点です。
信長公記が太田牛一の記録としてある程度作成され始めた時期は1568年以降からです。
それ以前から織田軍の配下として活動しているが、恐らく桶狭間に直接参戦しておらず、戦後参戦した者から色々聞いた内容を思い起こしながら書いた可能性が高く、そこには徳川方からの話も混ざって色々混乱していると思われる。
※桶狭間の内容は上記参照の24項です。
その根拠として挙げられるのが、佐々政次らの中嶋砦での出来事です。そこでの文脈は寧ろ今川方の視点で採用されています。敵方の大将である義元が彼らの攻撃を粉砕したことを喜んで、謡を読ませた内容が記載されるのは信長側からの視点で考えれば可笑しい内容に成ります。そういう意味でこれは当時今川方であった徳川方の誰かから聞いた部分を採用したと思われる。
更には中嶋砦で桶狭間本陣へ向かう信長の言葉として、徳川方が休息していた大高城の話を引き合いに出している点は作戦上の話としては可笑しな見解になる。文脈のままの作戦だったとするなら大高城へ進軍する内容に成ってしまう。
中嶋砦は場所から察しても鳴海城への抑えのもので大高城の話は逆に戦術的には全く関係ないと言える。
こうした事を総括し、太田牛一が当時参戦した誰かから聞いた話を思い起こし混沌とした記憶で書かれたものとするならば、
仮に作戦を指示した信長の言葉として考えるならば、
「大高城へ向かった部隊は今は動くことは無く、敵は正面の桶狭間に居る本陣のみ。」
という形で前文は伝えられ、その後に続く
「小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや」
から、
「敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。」
と続く、敵が向かって来るときは引き、敵が引いたら向かっていくという意味での陽動作戦を指示する言葉ともなりえる。
勿論、その後に続く「而してもみ倒し」は「それからもみ倒し」と成ってくるため牛一の記した内容をそのまま読み取ると作戦指示としては正面突破を意味する言葉に成るってくるとも言える、学者たちがこれを信じる点は無理のない話であるが…
そもそもこれ作戦指示した言葉には成らないのです。
これは出陣前に兵士たちに向けた檄という演説なのです。
あくまで太田牛一が
当時聞いた内容を正確に記していた場合の話に成りますが、
要点だけを言うなれば、
大高城の話を持ち出して敵が疲れていると語った部分は、信長が味方の士気を高める上での方便です。
そして
「敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し追い崩すべし。」
は、既に各将に作戦指示は与えていた事もあって詳細を簡略して伝えた文章。
いわば、
「敵が向かって来るなら引き、敵が引くなら向かう(を繰り返して敵前衛を中嶋砦の方へ引っ張り出し)それから(隙が生じた間から一気に突入して)敵をもみ倒して追い崩せば(勝利は間違いなし)」
と言った()の中の部分をあえて端折って表現した文脈。
出陣前に将以外の兵士に細かい作戦をあえて演説で伝える必要性はないのです。
逆に演説として兵に伝えるべき内容は、
「分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」
という士気に影響する部分なのです。
文章の内容を適切に読み解けば…
これは檄文であって出陣前の士気高揚の言葉なのです。
これを作戦が指示されている文章として読み解くのは、
ゴシップ記事を実情も知らずに鵜呑みにしているレベルと一緒と言えます。
実情として正面から敵陣に馬鹿みたいに仕掛ける行為は、無謀な作戦で有り、信長本隊の犠牲はかなり大きくなり、敵大将の今川義元の首を取る場面までは難しくなると言える。
雨が降って視界が悪く成り、偶々信長本隊がたどり着いた場所が今川本陣の有る場所だったとしても、正面突破を警戒する敵の陣容のままであったら寧ろその場面は前衛と後衛本陣に挟まれる死地と成る。更には普通に考えて信長の動きを見失ったと察した状況下では、寧ろ敵である今川方は奇襲攻撃に備えるだろうと言えます。
最終的な結果として誰もが知る事実は、中嶋砦から出陣した信長の本隊が今川本陣を急襲して見事に大将首を持ち帰った事と、更にはその部隊から主だった将の被害が記されていない、いわばほぼ無傷な状態で生還できたという事。
なので無謀な正面突破は先ず有りえない事は決定的なのです。
②信長公記の首巻の構成を見ると、24項に桶狭間の内容が来て、25項には信行(信勝)の誅殺の話が出てくる。
30項には道三が死んだ長良川の戦いが来ており、
実は時間軸が前後している点が見受けられる。
これは学者さんたちも把握している内容だろうが、それ以外にも太田牛一の文章はさまざまなミスを生じさせていると考えるべきである。
前述にも述べた様に、太田牛一が記した桶狭間の内容は、織田方から聞いた話と、今川方に居た徳川方から聞いた話を採用しており、その内容は色々と錯綜している状態もある。
ここでは先に太田牛一の略歴も参考に伝えておこう。
彼は弓の名手として信長に気に入られて近習として活動するが、最終的には丹羽長秀の与力という形でしかも文官として仕えている。
この点から察しても信長が一軍の将として出世するどころか武官としても扱わな方点を察して欲しい。
その上で信長公記を読むと、戦略戦術上の記載はほぼ絶望的な内容で詳細に記される部分がほぼ無い。
記録としては正確でも作戦上の動きとしての部分が無いのだ。
いわば信長は記録者としての牛一の能力は評価しても、戦術面の軍才の部分の評価に落第点を与えたと言える。
ここを学者は見落として考えるべきではない。
甫庵信長記を記した小瀬甫庵ですら、太田牛一の事を「愚にして直な」評しておりいわば真面目だが浅はかという意味だろうと考える。
この桶狭間の部分で信長公記と甫庵信長記の違いが出るのは、ほぼ佐々政次らが中嶋砦から出撃した部分で分かれると言える。
いわば佐々らの仕掛けた行動を小瀬甫庵は今川本陣を狙う千載一遇のチャンスと見極めたからだ。
戦術的に敵前衛が前に突き出した形で、後衛との間が開く隙はこのタイミングしか生じないという点を察した話になるわけだ。
故に中嶋砦には囮を向かわせ、信長本隊は善照寺砦からそのまま迂回して機会を逃すことなく今川本陣を急襲したと考えた。
明治時代だかの日本陸軍だったかは忘れたが、彼らがこの迂回攻撃説にお墨付きを与えて一時期定説となった点もある意味理解できる。
現代の歴史家たちは寧ろこうした戦術性の意図を理解した上で新たな説の議論をするべきなのだが、全くそれが出来ていない。
佐々政次(隼人正)らが勝手に300人ほどの手勢で最低でも5000~1万は居る今川本陣に無謀に手柄を求めて突っ込むことはあり得ない。
敵の出鼻をくじく意味としても信長本隊との作戦上の連携が無い場合は単なる無駄死にという行動しかない。
これを抜け駆けだと断じる点は、戦術学者として戦場における心理状態を甘く見過ぎている。
また、佐々政次と一緒に戦死した千秋四郎は熱田神宮の大宮司の子息であるわけで、ある意味作戦と無関係な無謀な行動で早々と討ち取られた話に成ると、突然の雷雨は熱田神宮の加護として受け止められる事は無く、寧ろ凶兆という意味で士気低下に繋がることに成る。
宮司の子息が死んだ後の雷雨と考えれば、どう考えても縁起が悪すぎるのだ。
そういう流れで考えるなら陽動作戦の一員として千秋四郎が行動していた事と、密行した信長本隊の雷雨が空けた先に敵今川本陣が無防備な状態で見えた点が噛み合ってこそ、信長の作戦が見事に嵌ったと、その加護として受け止める状態となる。
そうした流れが成立することで信長本隊のその時の士気は大いに高まり、ほぼ無傷で今川義元の首を取るまでに至った結果に結びつくと言えよう。
実際、太田牛一の信長公記にも、佐々政次らの行動は寧ろ今川方の視点で記されており、これによって正面突破を退けて今川方が浮かれている状況を記したとも伺える。
寧ろ牛一の文章が状況を前後して記したのか、記憶が前後して書いたのか、単に文章をしるしている際に順番を間違えたのか、書き手としてやりがちなミスを考えて読み解くと、信長が中嶋砦へ入った内容を前に持ってきて、そして佐々政次らが出陣した流れを後に加えたなら、陽動作戦の方に信長自らが行こうとした可能性までも見て取れるように成ってくる。
いわば一番危険で重要な任務であったという事に成り、それを家臣たちが制止したという内容に成って読み取れる。
その上で結局は佐々政次と千秋四郎にその役目を負かせ、信長自身は今川本陣急襲部隊を指揮して動いた流れに成るのだ。
太田牛一の文章にはこうしたミスも多々存在するため、場合によっては順番を変えて読み解く必要性がある。
そしてその順番を変えて読めば、むしろ太田牛一の記録は色々な意味で辻褄が合うように成ってくる。
③戦術性の無い正面突破で有る場合、今川本陣に突撃した信長本隊の犠牲は甚大なものとなったはずだが、実際に各方面の砦に於ける様な被害、いわば佐久間盛重らの様な将の犠牲があったという記述が一切見られない。中嶋砦の佐々政次や千秋四郎らクラスの死傷が今川本陣突入した信長本隊に上がっても可笑しくはないはずだが、実際には服部小平太と毛利新介の怪我のみで他には見受けられ無い。
仮に今川本隊の数が5000程度で、そこに多く見積もって5000人、信長公記に合わせて考えたとしても2000人で正面からの突入した場合、乱戦に成るのは必須で犠牲者が相当数でるのが当然であることを考慮しなければ成らない。
たとえ引いては攻め、引いては攻めのヒット&アウェイを繰り返したとしても、かなり厳しい戦闘になるのは必須である。
ほぼこれで被害なしで敵大将の首を取った場合は漫画か無双ゲームの世界でしかないと考えるべきである。
寧ろ現実的な成功した戦術例として考えるなら、奇襲か戦術的なカウンターアタックが成功したと断定する内容と成る。
④三河物語の記述と信長公記の記述などを参照した上で、その中で内容として噛み合う部分を吟味するべきである。
文章上の表現が異なってはいるが、実際には戦術上の表現では一致する部分が見てとれる。その点を見落とすなら戦術学者として疑問が残るはなしである。。
いわば三河物語にある「中嶋砦からの進軍を見た」という表現と、信長公記における信長が実際に中嶋砦に入ったという点である。
ただし、③で記した様にこの状況で正面突破する戦い方は、仮に優勢に進めたとしても信長側の被害は相当なものと成る点は明白である。
戦術学者であるならば寧ろ漫画や無双ゲームの様な幻想的な状況に成る点は排除して考えるべきであり、その二つの記述から効果的な戦術性を思考するべきである。
実際に佐々政次(隼人正)が正面から突入した点は考慮して考えるべきだ。
しかし、寧ろその突入によって織田本隊が正面から仕掛けてきたと今川方に錯覚を与えた可能性は双方の文脈を読み取れば合致する戦術性として考慮できる。
それによって今川本隊の前衛が崩れた…いわば引っ張りだされたとするなら、前衛と後衛の間に自然と大きな隙が生じる。
いわば義元が居る本陣を守る盾役の前衛部隊が突如居なくなる状況が成立する。
この状態になって突然その本陣の前に信長本隊が突入してきたと成れば、寧ろ今川軍は態勢を整えられずに崩壊する。
これが成立して初めて結果として考えられる信長本隊の犠牲が少なかった点が成り立つのだ。
仮にその後世に語られた犠牲者数が記すように、この本隊の犠牲に900名いわば半数近い死者が出たとするなら、そこに主だった将の名が連なっても可笑しくはない。
ところがそれが桶狭間の事件から近い年代に記された記述にはほぼ無いわけだ。
今川義元の首を取るほどの大一番で名前すら語られないのは逆に不自然である。
ここから推測しても、
中嶋砦から出た部隊が敵に錯覚を与えた点は読み取って考えるべきだ。
⑤藤本正行氏が指摘したように、佐々政次(隼人正)が先駆けまたは抜け駆けであったとする事は状況を精査すると有りえない。
いわば兵力が劣勢にある方が、優勢にある方へ仕掛けて手柄を取れると思い込む方が無理があるという事に成る。
逆に今川方の方なら抜け駆けが成立する状況になる。
⑥戦術的に被害の少ない突撃を成功させるには、敵陣容に突然前と後ろが大きく開いて隙が生じるその瞬間だけである。
いわばその瞬間ならば敵は為すすべなく崩れ去るのだ。
それ以外のタイミングでは逃げ場を失って寧ろ挟み撃ちで壊滅してしまうか、新たな前衛を崩せても敵は後退して陣容を立て直す余裕が生じる。
いわば今川義元が首を取られるような失態を演じることは考えにくくなる。
寧ろそういう状況で戦う術を知らない将ならば、愚かしいもほどがあり、桶狭間以前に今川は滅びている可能性もあると考えるべきレベルの話だ。
様々な説が唱えられているが、いずれも現実的に無理が生じる内容でしかない。故にこの戦いは謎とされているが、先の太田牛一の話で記した様に発想の転換を以て読み解けば、辻褄の合う内容として成立する場合もある。
⑦信長の本隊は2000人でも、尾張全体で考えればもっと兵数は用意できる事になる。ある意味、那古野、清洲、古渡など各城の守兵が本隊以外にも居るわけで、鳴海や大高を囲む砦も総数で考えれば数千の兵が存在する。
いわば総動員して決戦に挑む場合、1万程度なら用意できたとも言える。それでも今川方が2万5千人だったとしても倍、信長公記のように4万5千だった場合、3~4倍の兵数になる。
勿論そこの数の中には、鳴海城の兵数と大高城の兵数、更には沓掛城に残った兵数なども含まれていると考えるが、いずれにせよ織田軍全体としては劣勢感は否めない状況に成る。
それを踏まえて信長公記に記載された様な2000人だけで向かったなら、逆に信長としては勝算ある戦術がそこにあった可能性もある。
いわば今川本陣が1万人居たとしても、前衛をつり出して引っ張り出すことが出来れば本陣を急襲するのは容易だという戦術を描いていた可能性だ。
藤本氏が佐々政次の行動を抜け駆けと言った話は、寧ろ心理的な意味では今川方の前衛部隊に生じる作用と成る事は前述したとおりである。。
いわば自軍優勢である確信の下で敵大将の首が餌となって、その功をもって釣り上げるのなら、各将はこぞってそこを目指すのだ。
この役目を信長自身が演じることで誤魔化しの無い陽動作戦として機能する点も計算できる。
更には信長が大うつけとして今川方に知れ渡っている事も逆に作用してくる。
いわば「馬鹿が正面から突っ込んできたわ」という心の油断を誘うには十分な条件が整っている。
故に敵の前衛が確実につり出せることは想定できるのだ。
仮に抜け駆けをする者が出ても今川本陣の指揮が油断している状態ならば、恐らくは放置して見守る事も有りうる話と成る。
後は…その大きく開いた隙の中で目指す場所が解りさえすれば、全てが上手く行く算段なのだ。
仮にここで敵に油断が生じなかった場合でも、退路を確保して一旦退き、再び状況を立て直すには十分な兵力を残しているという話に成る。
故にこの作戦では2000人程度が丁度いいとも言える。
奇襲戦術をベースで考えた場合、兵の数が多ければそれだけ逃げ足の速度は鈍り、犠牲も多くなる。
なので2000人位で突入する方が効果的とも考えられる。
いわば桶狭間の戦い自体は記録上の兵力差で危機的状況に見えても、信長的には実はさほどの危機では無かったという話だ。
いわば後で立て直しの効く第一撃目であった可能性も考えられる。
寧ろ今川義元本人がこの軍の大将として出陣したと知って、今川に楔を打つつもりで本陣への急襲が成功すれば良いという程度の作戦で有った可能性も高い。
いわば首が取れたのは寧ろ想定外の戦果だったという事だ。
⑧簗田政綱の功績に関しては実は謎が多いとされている。
ここは歴史家の方がたの主だった見識が当てはまると言える。
いわば今川本陣の場所を信長に知らせたという点。
ただし信長的にもっと欲を言うなれば、今川の陣容全体をつぶさに調べ上げて報告したならば大手柄と見なす。
前述の通り、本陣の場所が解れば突入する方向は見極められる。
ただし迂回して奇襲を仕掛ける意味で突入するなら、全陣容の位置は把握しておきたい。
いわば中嶋砦から陽動部隊が出撃して、敵がどういう形で追撃するかが予測できなければ的確なルートが定めにくくなる、又は遭遇する可能性の相手を予測出来ないからだ。
桶狭間周辺に配置された全陣容の位置が解るなら、敵が陽動部隊の存在を知ってどのように追撃し、そして最終的には中嶋砦をどのように包囲するかまで推測できることと、いわば急襲するルート上の敵の動きを探りながら陽動部隊の効果がどう生じているかまで把握しながら進むことが出来る。
なので簗田政綱が第一の功績に値するだけの恩賞を受けたなら(第一の功とう表現は一部資料に無く、その後に沓掛城を与えられた事で大功あった形で実際は伝わっている)恐らくそういう功績で無ければ成らない。
その後、突発的な豪雨があった事も幸いし、恐らく遭遇するだろう敵部隊との遭遇も無く、無事に今川本陣に辿りつけたことで、呆気なく義元の首を取れたという流れになるのだ。
【歴史家の方がたへ感謝する点】
歴史家の方がたに感謝する点は、
貴重な文献などを発掘してくれる事と、
それら文章を現代風に注訳してくれることであるのです。
寧ろ彼らはそこに特化した存在で、
心理学であり、戦術論、戦略論、政治学にまで
及ぶものでは無いのです。
これらにも精通して議論されていたのなら、
ほぼ信長たまの謎の部分は
合理的に解決していたはずなのです。
しかし一般の人たちは明確に合理性のある見識が無いため、
こうした立派な学者さんたちの主張を鵜呑みにするしか、
その事を理解できないのも事実です。
特に日本の教育システムでは、
教育内容に疑問に思う事事態をタブーとされます。
いわばマニュアル思考教育で、
教えられた内容が正解でしかないのです。
オッサン先生がアメリカで教育を受けた際に、
今考えると納得の行くものが、
世の中には「仮説」と「定説」が存在することを教わった点です。
いわば仮説の段階では議論の余地有りとして残る部分で、
定説と成れば科学的に立証済みとされた内容という事です。
ただし定説でも新たな発見によって
根拠に曖昧な部分が生じた場合は、
準仮説として扱われる事も教わります。
ここで伝えた迂回攻撃説なんてのはそんな感じです。
実際に日本にも数多くの優秀な人材は存在するのですが、
腐敗状態にある社会構成で、
寧ろ支配する側はコネで成り立っており、
それらが優秀な人材を支配下に置いて
使っているという形に成ってます。
政治にしても、企業にしても、
マスメディアや芸能に至るまで全てコネが重視されます。
コネの社会では疑問を投げかける事はタブーとされ、
寧ろ上司に媚びへつらって気に入られてナンボなのです。
まあ、上司の上司に取り入って
直近上司を蹴落とすなんてのは有るのですが・・・
頭脳的に優秀な人はそういう中で
当たり障りのない状況を確保して、
上手く自分のプロジェクトを推進するしかないのです。
ただしコネ社会ゆえに
数値としての利益は計上しなければならない
ノルマは存在しますが…
表面上の数字でしか見る事の出来ない人が、
日本では支配層として君臨するため、
可能性であり将来性を見据えた内容は、
ほぼ理解できません。
結果として日本は技術的にも経済的にも、
停滞してしまっているのが現状です。
責任を取る覚悟や
折角積み上げた地位を手放すことを恐れている
小物が多いため、
リスクテイクとなる方針転換もできません。
情報を発信する側も無難な所に媚びへつらって、
出来る限り荒れないようにしている点も、
これに類似します。
ある意味、こうした思考の人が日本には多すぎる。
今回の様にお偉い学者さんたちに
喧嘩を売るような記事はほぼ書く人は居ないでしょう。
いわば優秀な学者さんたちの反論が怖いからです。
まあ、当ブログは有る一定数の人が見ているにも関わらず、
何故か反論が来ないのが不思議なのですが…
一応、ブログのコメント管理は入れていますが、
コメント来たら返信して必ず載せるので、
無視している訳ではないのです。
それでもコメントは逆にほぼ無い状態です。
と、強気な事を記してますが、
実は学者さんたちを挑発して反論受けたとしても、
学者さん達なら
ちゃんとした論拠の下で伝えてくれるだろうから、
寧ろそれなら勉強させてもらえるわけで
腹立たしい感じには成らないと思います。
逆に論拠の乏しい反論を受けることは、
寧ろ腹立つというより疲れます。
彼らはお偉いさんが言った言葉を鵜呑みにしたり、
信ぴょう性の乏しい
歴史学的に何次資料に成るか解らないものを上げて、
自分の言葉で論拠を説明できるわけでもなく、
ただ、これが正しいはずというだけで、
学者さんたちですら話すだけ無駄という感じになると思います。
日本では教育問題もあって
こういう程度の人が多く、
更には政治や官僚、下手したら裁判官といった、
ある意味支配層とも言うべき立場に蔓延っているから、
本当に困ったものです。
前回の「うつけの兵法」の話ですが…
うつけの兵法 第三十五話「吉乃と帰蝶」中編 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)
吉乃と信長たまの話をフィクションで書くとしていますが、
別段、完全創作という意味では無いのですよ。
一応、言っておきます。
ちゃんと歴史資料に准じた流れで、
辻褄が合うように構成してます。
フィクションに成ると伝えている部分は、
歴史資料としてどこにも存在しない部分だけで、
歴史資料を参考にして構成できない箇所は、
現実的に言えばどうしてもフィクション扱い成るのです。
これを読み手に夢見させるため、
信長たまの記憶を辿って書いたなんてしても、
現実的にはフィクションなのです。
その上で歴史資料に記載がある部分は、
ちゃんと参照して辻褄が合うように構成しているのが、
「うつけの兵法」です。
例えば…吉乃の前夫として記されている「土田弥平次」という存在。
ここに登場する「土田」という姓は、
信長たまの母方の姓と同じです。
他の「土田」可能性は有りますが、
寧ろ他の資料の中では「土田」の姓が隠され、
何某弥平次ともされてます。
寧ろこういう内容で確認すると、
母方との因縁めいた状況が推察できます。
吉乃の記述を調べると、前夫が戦死した事で、
信長たまの側室になったとされてます。
勿論、なぜ戦死したのか?
ココの部分は不明です。
ただし戦死した土田弥平次が
ある意味信長たまの母方の土田として
何らかの都合が悪い存在であったとするなら、
寧ろその名前を一部資料には伝えない可能性も出るわけです。
ここで面白い相関図が成立します。
信長たまと吉乃の関係、
そして、土田弥平次と土田御前の関係、
更には吉乃の実家である生駒家の存在。
そして信長たまの性格。
など想定して見ると…
信長たまが吉乃を溺愛していた点は、
資料にも見られる事で、
濃姫という正室が存在した後の話でも、
正室に匹敵する扱いを受けたという事。
ここから推測するに、
信長たまは吉乃を
本当は正室として迎えたかった心情は成立します。
ただし何故それが適わなかったのか・・・
いわば生駒家が武士であったとしても下級武士で、
寧ろ馬貸という配送業の様な商人だったから。
二人が何時どのような流れで出会ったのかは、
寧ろ史書としては不明で、
吉乃が信長たまの側室として入った時期も
それぞれでバラバラなのです。
実際信忠くんの出生ですら誕生時期を含めて
不明な点が多いのです。
さてこの不明な点を、
今度は濃姫との政略結婚の経緯に絡めて考えます。
現実的に斎藤道三は既に美濃の守護という立場に成ってます。
尾張の勢力と政略結婚結ぶ意味では、
守護の斯波氏か、
最低でも守護代の織田大和守の地位で無ければ、
つり合いが取れないのです。
いわば信長たまの弾正忠家は
守護代より下に成るわけですから。
更にその当時の情勢は、
道三と信秀が大垣を掛けて争っていた時期ですが、
別段、道三が不利な状況で苦しんでいた訳でもありません。
双方の戦費などの問題で
色々と和睦したい状況は有ったと考えても、
政略結婚が成立するような状況でも無かった。
勿論、道三が信秀の侵攻が鬱陶しいから、
政略結婚を結んでも
その尾張からの侵攻を終わらせたかったとするなら、
ある意味、地位的な問題は関係なく考えられますが…
問題はこの政略結婚を提案したのは、
平手政秀で信秀方の方からだったのです。
いわば地位的な関係性から
決して成立する算段が立たないような流れなのです。
勿論、その手土産として信秀がまだ大垣城を支配していたなら、
大垣城の美濃への返還という交渉は
ある意味道三側からすれば価値として十分とも言えますが、
寧ろ織田方としてはどうしても成立させたかった事情が伺えます。
信長たまの後々の性格面を分析すると、
言い出したら聞かないところは察せられます。
濃姫との結婚以前に、吉乃と出会っていたなら、
恐らく吉乃を正室に迎えるという事で
我がままを言った可能性もあるわけです。
ある意味側室と正室の扱いに差があったと考えれば、
大好きな吉乃を
側室の扱いに収めたくなかったという点も考えられます。
そして他には正室として迎えないとまで
我がままを言い切ったら、
織田家中としてはタダ事では済ませない事情が生じるわけです。
さて…こうした事情が成立した際、
織田家中の者たちはどの様にして
信長たまに吉乃の事を諦めさせるかという
流れが自然と生じてきます。
そこで資料に出てきた土田弥平次という存在なのです。
いわば母方の実家の者に吉乃を嫁がせたら、
流石の信長たまも強奪することは考えないだろう。
ある意味下手な家柄に嫁がせた場合、
信長たまの性格から諦めきれず、
奪い返しに行く可能性も有ったわけです。
下手したら手段を選ばずに。
その信長たまの危い行動が、
仮に他国との間での問題であり、
他家との問題を引き起こしたなら、
寧ろ織田弾正忠家として取り返しのつかない事態に成ります。
まあ、それだけこの恋に熱を上げていたという事は、
その性格から想像できる話で、
恋は盲目ともいえ、ましてや初恋であったなんて事なら、
頭が可笑しくなる流れは現実的な可能性として想定できます。
とりあえず現状の詳細は一応ここまでにしておきますが、
実はこういう推測であり、史実上に残る痕跡を辿って、
ある意味この信長たまの恋愛騒動を構成しているのです。
更には…想像してみてください…
仮にこの母方の土田弥平次から吉乃を強奪した場合を…
ある意味、家中の者は呆れかえる出来事に成ります。
また母親の土田御前が信長たまを見限る流れも成立します。
あら・・・不思議…
後の織田家お家騒動の辻褄がここに全て
集約されるではないですか…
資料に存在しない出来事をフィクションとして構成してますが、
そのフィクションが資料に存在しなかった話として、
資料に存在する実情と結びつく流れに成るのです。
なので実はフィクションとしていても、
史実に結びつける見えない部分を繋ぎ合わせる話として、
構成するようにしているのが、
「うつけの兵法」なのです。
なので…
まるで信長たまの記憶を辿った話と
錯覚させる品質は変わりません。