うつけの兵法 第三十五話「吉乃と帰蝶」中編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三十五話 吉乃と帰蝶 中編】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 

 ここまでの信長の成長を眺める上で、多くの読者は些か疑問に感じる点が生じてくるだろう。

 果たして…この信長は家中が分裂するほどの「うつけ」なのか?

 ある意味、勇猛果敢で戦国時代の将としては申し分ないように見えるだろう。

 先に記した様に教育問題で林秀貞との確執は理解できる内容と成ったが、信秀の死後、家中が二分するほど信長のうつけっぷりは酷いものかといえば、そうでもない。

 古今の歴史家たちが推測するように林秀貞であり、または信長の母親土田御前が野心的に仕掛けた出来事として考える事は可能であるが、その動向は寧ろ小説的で現実的な思考から成立するとは考えにくいのだ。

 いわば林秀貞がかなりの暗愚な将だった場合は、周囲の状況を精査せずに自身の権力基盤を構成する為、この反乱を起こすことになる。

 暗愚とは北に斎藤道三、東に今川、内には織田大和守家という状況下で、安易に家中が二分する流れを産めば周囲から瞬く間に滅ぼされる事は明白だからだ。

 もう一つは虚偽によって信長が「うつけ」とされた流れなら、寧ろ勝てば官軍の信長側がその様な話を歴史上に残すわけがない。

 しかし、家中全般に説得力を持つ意味で信長排斥が成立するのなら別な話となる。

 いわば信長が「うつけ」であった事は、成人した信長本人も認める事だった故に歴史として残ったという事に成る。

 では…その「大うつけ」となる話とは…

 

 恋は盲目、吉乃との大恋愛に信長が無茶をしたことが要因と推察するのだ。

 先ず、歴史的な資料上に、特に吉乃の存在を記した「前野家文書」には、吉乃の前夫は土田弥平次という人物であったとされている。

 他の資料には何某弥平次と記されている事もあり、実際の姓は不明という扱いにもされている。

 この土田弥平次は1556年に没したとしているが、 「前野家文書」にはこの頃の年代が曖昧に記されている事に成る為、年数に関しては無視できる。なぜなら濃姫の輿入れが同じ1556年と記されているからだ。実際は1549年が有力な訳でかなり微妙過ぎる。

 ただし…これらが薄い記憶を辿って後年に記されたとする事もできるわけで、時系列を考えずにその内容だけを汲み取る事は十分参考にできる。

 

 そして問題は…他では「何某」と不明なものとして表記されていたのが「前野家文書」では土田姓で記されていたという点である。

 いわばこの「土田」は、信長の母方の姓と同一…

故に土田御前な訳だが…最終的には他の文書では記されないほどの意味を持つ姓と推測できる。

 いわば信長としても隠蔽したい内容であった可能性が有るのだ。

 

 特に恋は盲目という流れで発生した出来事、または失態なら、ある意味誰も隠したい事実として残る事は予想できる。

 そしてこの土田弥平次の死が、濃姫輿入れ前後の出来事であったと「前野家文書」の作成者が記憶していた場合、恐らく1548年ぐらいと考える。

 

 信長が犬山を訪問し吉乃に一目ぼれした話は、仲間内でも話題に成った。心知れた仲間故に信長も堂々と打ち明けた。

 しかし、何の口実も無く自領から離れた場所に赴くことは容易ではない。

 ましてや生駒家との繋がりを持つのも不自然である。

 こうした話を沢彦に相談すると、その店が馬借であり生駒家が運営するものであると、いうことは解った。

 馬借(ばしゃく)とは現代で言う宅急便の様な馬を使った輸送業のことに成る。

 沢彦としても、

 

  「まあ、思春期の出来事ゆえに頼もしい事かな…」

 

 と、別段大事には成らないだろうと考えていた。

 そして信長は、

 

  「何とか生駒家と繋がりを持つ事は出来ぬか…」

 

 と、沢彦に知恵を拝借するのであった。

 沢彦としても小生意気な信長が恋事になるとどうもそわそわしている雰囲気がたまらなく愉快でもあった。

 

  (まあ、将たるもの妾の一人や二人当たり前じゃからの…)

 

 沢彦はそういう意味で信長の恋事を支援することにしたのだ。

 また初陣を迎えた後で石合戦の戦ごっこでは鍛錬として不十分であることも感じていた事もあって、何かいい方法は無いかと思案していた流れでもあった。

 そこに馬借の警護という話は面白いと考えたのだ。

 

 この流れは史実としても少し面白い意味で辻褄が有ってくる。

 信長の治世に於いて、領内は安全であったという点で考えると、軍事演習として織田軍では野盗狩りを推奨していた可能性が有るからだ。

 どれだけ治安を整えたとして、野に潜む野盗が蔓延る状態では、この治世は成立しない。しかし、織田軍がこぞって野盗を狩っていたとするなら、野盗は織田領内では活動しなくなる。

 他の領主も野盗をしばしば退治した可能性もあるが、同じ頃の治世の比較を考えると織田軍ほど頻繁に行ったとは考えにくく成るのだ。

 では、織田軍が野盗狩りを頻繁に行ったとして、その革新的な発想がどう生じたのかを逆算すると、こうした馬貸の護衛が起点と成る可能性も出てくるのだ。

 そして、史実上、生駒家が馬借であったという点、そして吉乃の存在、更にはこの時期信長が戦に参戦した形跡がない点が根拠として挙げられる。

 

 勿論、沢彦は初陣を迎えたばかりの信長の近習だけでこの警護を構成するには危なすぎる事も理解していた。

 そしてこの旨を政秀に信長の演習の意味で相談するや、

 

  「ならば、河尻秀隆と佐久間信盛ら若手を100名程度を従えさせましょう。」

 

 と、了承した。

 この隊に信長の武術師範役となった森可行に代わって、その息子で20代前半の森可成が指導役として参軍することにも成る。

 森可成は、後の信長最愛の小姓と言われる森乱(森蘭丸)の父親である。

 

 後の織田軍の編成で考えれば、この部隊はそうそうたるメンバーに成るのだ。

 この馬貸の警護を名目とした野盗狩り部隊は数年後まで続くと考え、後に2歳年下に成る池田恒興、佐々成政、5つ年下になる前田利家などが加わるのである。

 実はむしろこうした信長との繋がりがあったがゆえに、家中が分裂した際、彼らは「大うつけ」とされる信長側に付いたとも考えられるのだ。

 

 信長からすれば単に恋を成就させるための手段であったのだが、政秀からすれば野盗退治は尾張の治安を担うものとして考えていた。

 いわば治水の話同様に信長のワガママから再び信長の評判を向上させる流れになったという事である。

 

 勿論、これは清州の了承も得ての活動故に、無事信長は生駒家への出入りが自由に出来るように成ったわけだ。

 ある意味、生駒家が所属する犬山城は信秀の弟信康の息子の領地ではあるが織田伊勢守家の所領と成るため、信長の織田弾正忠家が不用意に近づくことは色々と問題が発生するのだ。

 

 那古野城主である信長と吉乃が恋仲になるのにさほど時間は掛からなかった。

 寧ろ吉乃も信長に一目ぼれしたようなものだ。

 無論、信長は恋事に長けていた訳では無い。

 そういう意味では不器用な感じに成るのだが、吉乃にとっては寧ろその不器用さに好感を持てたのかもしれない。

 それゆえに信長は率直に吉乃に告げるのであった。

 

  「お主をいずれわしの正室として迎えるから、待っておれ。」

 

 こんな感じで言うのである。

 これに対して吉乃は、

 

  「はいはい 楽しみにしてお待ち申し上げます。」

 

 と、笑顔で答えるのだ。

 勿論、吉乃の父である生駒家宗は、2人の仲を察した上で吉乃に、

 

  「当家の様な身分では信長殿の正室に成る事は叶わん、そなたは妾として扱われる事を覚悟せねばならん。」

 

 とも、伝えていた。

 吉乃もその事を十分に承知した上で、信長の言葉を有難く受け止めていたのである。

 一般的に恋愛上手な男なら、特にこの時代ではそういう方便で物を言える方が良かったとも言える。いわば最終的には側室扱いには成るが、正室とする気持ちは変わらないという感じで…

 しかし、信長のその言葉は本気そのものだった。

 むしろ恋の病に掛って盲目になったとも言えるだろうが、信長にとって正室は吉乃でなければ成らないという確信を得ての話だったのだ。

 それは恋愛が齎す錯覚とも言えるかも知れないが、信長は自分の世継ぎは吉乃との子で有る事が絶対とまで考えていた。

 ある意味これは錯覚ではない。

 寧ろ恋愛の摂理そのものなのだ。

 最愛の女性との子であるからよりその子を愛せると考えるのは当然で、寧ろ両親から愛されて育つ方が子供にとっても有難い話なのだ。恋愛と子孫を残す自然界の摂理は本来こういうものであると考えても良い。

 勿論、多くの人は巡り合わせによって色々な恋愛を経験して行く中で直感的な判断ではなく、寧ろ伴侶を見極めて決めて行くだろう。

 中にはこの時代の様に決められた定めを受け入れる者もいるだろう。

 結果として生まれてきた子供は子供として愛せるのが当然だ。

 言うまでもなく信長もそうであるのだが…

 信長が吉乃に拘ったのはそれだけではない。

 先にも述べた様に吉乃の気遣い、器量、全てが信長にとって最良だったのだ。

 いわば吉乃の女性としての品性は軍師がもつ王佐の才に匹敵する意味で、女性の立場で王を補佐する最良の才覚が見えたとでも言っておこう。単なる内助の功とは些か異なってくる。

 いわば信長の決断に助言や口を挟むものでは無く、典型的な内助の功であり男尊女卑の様なイメージになるが、夫の生活面をささえたり、夫の部下を労うなどの気遣いが出来る女房を意味する部分は一般的だろう。

 しかし、その中で「一歩引いて」が理解されているかいないかで違ってくるのだ。

 現代の女性観では、前に出ることを躊躇しない。

 前に出て力を発揮できるのならそれでも良いのだが、女性に限らず男性でも一歩引いての補佐が出来れば、それは諸葛孔明に匹敵する価値を生み出すのだ。

 「一歩引いて」とは自分の考えよりも主君の思惑を尊重して、その思惑の補佐をするという意味なのだ。

 男尊女卑の中では女性に求められた姿勢ゆえに、本来の意味が適切に伝わっていなかったのだろう。

 また、「一歩引いて」の中には客観視できる能力も大事に成る。

 逆に「一歩引いて見ろ」という言葉に成れば、こういう意味でも伝わるかもしれない。

 そういう客観視できる能力の下で、仮に主君が誤った決断に走るのなら、客観的な方法でその感情をなだめる、または事を収める様に働くのだ。

 多くの場合、直接的にものを言ってしまう。

 または主君の行動を辱めるような言動を用いる。

 例えるなら…信長が誰かに激怒し、罵声を浴びせるように怒鳴り散らした場合…

 その折檻を受けた相手に対して、

 

 「殿が感情的になって申し訳ない…」

 

 なんて労い方をしたら、信長はその時点でその言葉を発した者を処分するかもしれないのだ。

 一見、折檻された相手を労う様に見えるが、相手に何故信長が起ったのかが伝わらず、ある意味信長が怒った事が悪いという表現に成ってしまう。

 いわばその言葉は信長よりも前に出てモノをいう事に成るのだ。

 一歩引いてとは信長が怒った理由を当然と理解して、その上で折檻を受けた相手を労うのだ。

 ここで大事な事は誰にも恥を掻かせない言葉を選ぶことにある。

 この辺が気遣いの精神がものをいう部分と成る。

 

 まず最初に、

 

 「私には殿がお怒りに成った理由は良く存じ上げませんが…」

 

 と、客観的に中立であることを伝えるのだ。

 その上で、

 

 「貴殿のご活躍は殿より時折耳にしております。今後も是非変わらずご健闘を楽しみにしております。」

 

 と、伝え相手の恨みを緩和する。

 その上で、

 

 「もしよろしければ事の経緯お話しいただけますか?」

 

 と言う形で相手がそれを受け入れれば、うっぷんを聞くことで吐き出してもらう機会と出来る。

 そうして話を聞いたうえで、相手には相手の意図があっての事だった…大体はこうした意図が存在するため、

 

 「なるほど…そういう心意気もあの場面では殿に上手く伝わっていないかも知れません。もし、宜しければ私からそういうお話を殿にしておきます故、今後ともよろしく頼みます。」

 

 と、伝える。

 その上で言葉通りに信長にも伝えるのだ。

 そうする中で信長としても相手に対する怒りと、更には裏切りを疑う疑念も些か晴れるため、双方の関係も完全とは言わずとも、ある程度中和されるのだ。

 

 前に出ようとする人間は、相手と主君の間に入って相手を自分の方へ引き込もうとする。いわば主君との間の仲裁を働くのではなく、自分はその人の考えを理解できる人物としてアピールするのだ。

 いわば派閥を産む働きをするのである。

 一歩引く人間と比較すると、どう考えても一歩引く人間の方が信頼できるのだが、その一歩引く人間が存在しない場合、比較の対象も無いため賢く強かに前に出る人間をある意味信頼してしまう事にも成る。

 

 信長はそういう「一歩引いて考えれる」人間を良く知っている。

 平手政秀もそうであり、沢彦もそういう人物だ。

 彼らが信長の我がままを信長の手柄に変える様に働きかける事が正にそれそのものと言っても良い。

 勿論、自分の役割として手柄にしたとも考えられるが、主の気持ちを上手く形にしようとと言う気遣いが無ければ、発想に結びつくことすら無かったと言える。

 師に恵まれていたからか、信長自身もそういう才を持っている。

 故に吉乃を見て吉乃という人物を知る事で、その才を見極めたのだ。

 そういう意味で信長にとって吉乃が正妻に成る事は絶対なのだ。

 

 無論、吉乃に諸葛孔明の様な軍師の才を見た訳では無い。

 ただ自分のみならず、周りへの気遣いが王の妻としての片鱗を見せるのだ。

 誰もが夢見る王妃の姿…民からも将兵からも慕われる存在。

 そういう資質が吉乃にはあったと言える。

 

 そして信長は吉乃を正妻に迎えるべく、沢彦にも政秀にも伝えたのだ。

 勿論、二人は正妻ではなく妾という扱いでならと伝えるのだが、信長はそれを受け入れない。

 女性に対する考え方が違っていたと言えよう。

 沢彦も政秀も恋愛は理解するが、それでも女は子供を産む存在と言う認識が先行したのだろう。

 信長にとっては…寧ろ真剣に恋愛をしている当人にとっては、遊びの様な感覚では済まされないのだ。

 信長からすれば自分の嫡子と成るのは正妻の子ゆえに、吉乃との子を嫡子にする意味では吉乃が正妻でなければ成らないのだ。

 ある意味、自分が弾正忠家の正妻の長子で嫡子である意味と、異母兄の信弘が嫡子で無い事も踏まえての我がままでもある。

 また最愛の相手にこそその地位が与えられるべきで、生まれた子供に対する思い入れもそこで異なると信長は感じていた。

 大人二人からすると、嫡子は血筋や才能を含めて優秀な子を選別するのが戦国の世の常識と考えている訳だが、まだ若い信長にとっては愛情こそが重要と考えてしまう。

 さすがの2人もこればかりはどう知恵を絞っても上手くは行かない。

 他の家臣団の手前もある。

 故に吉乃が正妻として迎え入れられるのは無理だとしか言えないのだ。

 

 吉乃の方も、

 

 「私は別段信長さまの側に居れれば十分です。」

 

 と、妾でも良いという旨を伝えている。

 ある意味、それが恋を上手く成就するならばという形なのかもしれない。

 

 この信長の恋話は信秀の耳にも、林秀貞の耳にも遠からず伝わった。

 信長が既に元服を終えたこともあって、一層の事何処からか信長の正妻を迎える話が出てきても可笑しくは無かった。

 勿論、史実の資料にはその様な動きは濃姫以外に見当たらない。

 この濃姫との政略結婚は当時の情勢を考えると異例中の異例で、寧ろ守護職に匹敵する斎藤道三が、尾張の守護職の斯波氏でもなく、守護代の織田大和守家でもない、その下に位置する弾正忠家に姫を嫁がせる決断をするわけだ。 道三の方が姫を迎え入れる話では無く、自分より下位の家に人質を渡すような話に成る。

 そういう意味で現実的に考えると、道三が信長によほどの興味を持たなければ成立しない話に成る。

 信秀も秀貞もこの時点では美濃との政略結婚という事は発想だにしなかったと言えよう。

 

 その上で、信長に吉乃の正妻の件を諦めさせるために林秀貞らが色々と働きかけるのであった。

 最初の内は、正妻として迎える候補を公家などから募り信長に薦めるものだった。

 勿論、信長の我がままっぷりはそれらを全て拒否した。

 信長は秀貞に、

 

 「吉乃以外の女とでは子供も作らん!!」

 

 と、まで言い放つ。

 ある意味、秀貞が無理に婚姻を進めても意味がないという言葉にも成る。

 いわば子作りを強要する事は出来ない為、子が生まれないなら正妻の意味すらなくなる。 また、子宝に恵まれずそうして正妻の座を追われる流れに成れば、相手方に申し訳が立たなくもなる。

 秀貞も信長の強情っぷりは重々承知しているところで、無理に事を推し進めても上手く行かない事は予測できた。

 そこで逆に吉乃の方へ嫁ぎ先を見つける方へ転換したのだ。

 生駒家にとっても良縁となる相手で、しかも信長が迂闊に手出しできない相手…いわば母方の土田氏である。

 

 信長の生母である土田御前は「どた」とも「つちだ」とも呼び名に様々な説があり、その父とされる土田政久という人物の出自も定かではない。

 先に記した加納口の戦いに於いて、美濃可児郡の豪族に土田「どた」というものが居たことは記している。

 土田政久がこの豪族であったという説もあるわけだが、織田弾正忠の正室として迎える意味としては、寧ろ生駒家と大差ない存在になってしまう。

 他の有力説は、尾張海東郡…いわば津島であり、弾正忠家発祥の地とも言われる勝幡城の地域に成るが、そこの豪族土田「つちだ」氏が出自であるというものだ。

 この土田氏は近江の六角氏の支族庶流にあたる家柄で、「美濃国諸旧記」には土田御前は六角高頼の娘という記述もある為、六角氏との政略結婚の意味合いを考えると、その土田「つちだ」氏で有る可能性の方が現実的である。

 近江の守護職の六角家と弾正忠家では当時としてつり合いが取れない為、六角氏の支族庶流であれば六角高頼の娘という体裁で十分とも言えることと、いわば尾張海東郡は山を隔てれば当時は六角氏の領土と成ったため政略結婚として十分な根拠ともなる。

 その後、尾張で力を持った弾正忠家がこの土田氏をどう取り込んだかは不明であるが、愛知県清須市土田という地名が名古屋環状2号線の清洲西インターチェンジの場所に有り、その場所がこの土田氏の所領であったとするなら寧ろ斯波氏に所属する豪族と考えても良い。

 六角氏いわば六角高頼の時代、応仁の乱の関係で斯波氏と連携していた事もあり、その流れで土田氏が斯波氏との連絡役で尾張に派遣され、その流れで土着した可能性も十分に考えられる。

 そういう家柄の土田氏であれば弾正忠家信秀の正妻が土田(つちだ)御前と呼ばれるのも納得がいく話に成る。

 

 ここではこの六角氏支族庶流の土田(つちだ)氏として採用するものとする。

 いわば吉乃の嫁ぎ先は、この土田氏の弥平次という人物になるのだ。

 この土田氏は元の主君である六角氏とは1548年時点で見ると、高頼の死から20年、六角と斯波氏が連携した応仁の乱のころからは70年以上も経っているため、既に疎遠と成っている事もありうる状態で、土田御前が嫁いだことで寧ろ弾正忠家との繋がりの方が強く成っていた事も考えられる。

 その為、吉乃の縁談を秀貞がまとめるのはさほど難しい事でもなく、寧ろ信秀の奥方土田御前の了承が有れば事は上手く進む手はずに成る。

 信長の母親の息が掛った政略結婚故に、これを妨害する事は母親に歯向かうことを意味する為、秀貞もこれで吉乃の件は終息したものと考えた。

 こうして記すと…様々な史書に記された内容の辻褄が少しづつ合わさってくるだろう。

 

 ところが恋路を邪魔された信長の怒りは、恐ろしい方の思考を働かせるのだった。

 

 (土田弥平次をどうやって殺そうか…)

 

 これが織田家を2分するほどの信長の「大うつけ」な出来事であり、ある意味、450年経った今でこそ伝えられる信長の恥部という出来事なのだ。

 信長の恥部であるが故にあらゆる史書の中に伝えられなかったと言っても良い。

 

 因みに前野家文書の前野長康であり蜂須賀小六などが生駒家に出入りするのは1558年頃からに成るとの事で、それ以前の生駒家に関する記述は生駒の人間からまた聞きとして伺ったものでしかないとも言える。

 故に土田弥平次の名は出ても、戦死したとしか知らされていないとする事も推測できる。

 

 果たして・・・信長の大うつけな出来事とは・・・

 

どうも…ショーエイです。

「どうする家康」

結局、ひどい作品に成っちゃいましたね。

 

うつけの兵法でもフィクションに成る部分は多々あります。

ただし…そこは資料が無くて

解明できない部分に限る訳ですが、

歴史的な背景は崩さないように作ってます。

 

信長たま周辺の情報に限らず、

日本全体を取り巻く情勢も参考にして、

戦略性などを分析した上で、

資料が存在するもの、逸話として残るもの、

これらの内容を吟味した上で、

どういう結果を最終的に引き起こしたのかに

目標を定める形で構成する感じにしてます。

 

うつけの兵法が他の作品と明らかに違う点は、

織田信長という人物の記憶を

そのまま呼び起こしているかのように

錯覚できるようにしている点です。

 

いわば信長たま本人が日記を記したかのように、

構成しているわです。

 

まあ、神秘的な話にも感じるでしょうが、

実は科学的な流れで構成してます。

 

例えば…人間の心理。

大事な人間や

友人関係にある人間を側に置きたい、

そういう気持ちは誰でもあるもの。

そうした人物たちと、

部隊を統率して活躍する勝家、秀吉そして光秀らと、

ある種分別して考えるのも、

人の上に立つ人間の心理なのです。

そうした中で、

リーダーシップのある人間には、

積極的に任せるというのが信長流なのです。

 

資料に残る生き様、そして功績、

治世面も戦略面も、さらには戦術面も解析して、

織田信長という思考の根幹を、

解明していくわけです。

細かく説明するとトンデモなく長い文章になるので、

簡単に例だけを言うと、

人には負けず嫌いな要素が多々あります。

其々の人物のこの負けず嫌いな気質を

パラメーターの様に解析して行くわけです。

歴史上では、

アレクサンダーがMAXとして見て行く感じです。

曹操もナポレオンもかなり高いです。

実は寧ろ諸葛孔明や織田信長、またチンギスハンは、

逆に中間値より低く成ります。

この負けず嫌いというパラメーターで

戦術の特徴が変わってくるとも言えます。

 

これをサッカーの戦術で説明すると、

負けず嫌いの度合いが高いほど、

失点する事に神経質になります。

いわば防御も固めて慎重にゲームの流れを組み、

相手の隙を確実に捉えて勝利へ結びつける。

ある意味、普通に考えれば

かなり頼りがいのある方に見えます。

 

逆に負けず嫌いの度合いが低いと、

失点することには寛容です。

ここはアレクサンダーと比較する意味で、

チンギスハンを例に言うと、

チンギスハンは負けず嫌いのパラメーターは低いが、

勝負事を意識するパラメーターは寧ろアレクサンダーより高い。

勝負事を意識するパラメーターとは

相手との駆け引きを楽しむ要素に成ります。

 

いわば相手が自分よりも上手だった場合、

失点するのは当然と考えるのです。

負けず嫌いは失点することに神経質に成る為、

防御に絶対を求めます。

しかし、相手が上手ならと寛容に考える人は、

実は勝負の駆け引きで決まる部分を見極めて、

その上で効率よく守る方法を模索するのです。

逆に攻める場合も、

いかに駆け引きを用いて相手を崩すかを考えるのです。

 

なので負けず嫌いからすると…

実はこちらの方が奇想天外な相手と成るわけです。

一見、負けず嫌いの方が堅実に見えますが、

勝負師と表現しますが、勝負師からすると、

負けず嫌いは崩れやすいのです。

勿論、ここで勝負師とまで言うレベルは、

その他のパラメーターも高く成るわけですが、

洞察力などパラメーターがより高いと、

勝負事に対する修正力などが備わるわけです。

 

堅実に守る側は、特殊な駆け引きが生じると、

それに対応する修正力を求められます。

サッカーで言うなればドリブルが一つの要素です。

メッシ選手の様なドリブラーが突撃してきたら、

本来堅実な守備として構成していた部分も、

そのドリブル突破一つで崩れます。

ここで負けず嫌いのパラメーターだけで考えると…

最悪、メッシを潰せ!!

良くてもメッシにボールを持たせるな!!

という思考に流れます。

ある意味メッシが居なければ勝てるという思考です。

日本の中継を見ていると

良くいい選手が居ないと喜ぶ内容を耳にする部分です。

 

一方勝負師からすると

メッシ選手の居ない相手は面白くないと考えるのです。

いわばメッシ選手を止められなくて負けるのは、

勝負として相手が上手だったからと割り切れるのです。

その上でメッシ選手をどう封じるか…

この勝負に執念を燃やすのです。

 

さて…ここで大きな違いも生じます。

いわば勝負師は駆け引きを優先する思考な訳で、

メッシ選手のドリブルと同じような戦術を自らにも用います。

なのでその特徴であり弱点も知るわけです。

現代サッカーは一応はこのレベルにあります。

まあ、多くの分析官とも言うべきスコアラーなどが、

そういう弱点を試行錯誤した結果といえるのですが、

対応戦術としては

如何にシュートを撃ちにくい場所に誘導するか、

そしてパスコースも上手く塞ぐかなのです。

その為にはワザとコースに隙を作って誘導して行くのです。

ドリブラーは相手ディフェンスが基本ボールを取りに来なければ、

突破するのは難しく成ります。

ディフェンス陣はとにかくボールを奪う思考より、

味方と連携して如何に相手をそこへ誘い込むか、

そういう思考が求められます。

 

こう説明すると…諸葛孔明の伏兵術にも見えてくると思います。

 

なのでそういう場合は味方へのパスで、

そのディフェンスラインを崩していく判断に成るのですが、

現代サッカーの駆け引きはここで成立すると言っておきます。

 

まあ、ワールドカップで

メッシ選手が圧倒的なドリブルで崩すシーンが

見られなかったのはこうした戦術の影響もあると言っておきます。

しかし…今度はエムバペ選手の様な

スピードのある相手への対応という時代もあって、

勝負の駆け引きの中では

新たな手段が常に生み出されるわけです。

 

他にも発想力という部分。

ナポレオンなどはここが高いです。

勿論、諸葛孔明でり信長たまも高い部分です。

発想力とは新たな手段を生み出す能力です。

敵が対応を講じるまでは

ある意味奇襲戦術的な効果を与えます。

ナポレオンは勝負師としては能力が低い分、

洞察力が足りないと言え、

自身の発想力が相手に見切られる瞬間の対応が

遅れるわけです。

なので結果戦争に負けて捕まったわけですが、

諸葛孔明と信長たまは勝負師としての能力が高いゆえに、

自身の発想力に依存せず、

相手が見極めて対応する瞬間まで見逃しません。

また負けず嫌いでは無いので、引き際も早いわけです。

 

まあ、何気に長くなってしまいましたが…

人物の心理解析というのは

こうした細かい要素を含み、

ほぼCIAやFBIといった特殊機関が

用いるようなレベルと言っておきます。

 

最初に歴史学者さんたちの功績を称えておきます。

彼らの功績で現存する歴史的な資料の発掘や、

現代にも伝わるように解説して下さった事で、

我々はどういう歴史の流れかを知る事が出来たわけです。

正直、これなくして当時の情勢などを知る事は出来ません。

しかし…その中で

資料と資料の合間という表現にしますが、

見えない部分の分析は正直素人です。

いわばCIAやFBIという特殊機関が用いるような分析で、

その人物の戦術性や政治的な思考を

読み取らねばならないのですが、

ハッキリ言って普通の人では難し過ぎます。

 

歴史学者がどれだけ頑張って議論したところで、

所詮見えているのは現代での常識の範囲でしかない。

天才と呼ばれる人たちがその歴史を生み出している訳で、

その天才の発想に追いついていないというのが実情です。

 

その典型的なのが、桶狭間の戦いの奇襲攻撃説、迂回攻撃説、正面攻撃説という議論です。

 

ハッキリ言っておきます。

うつけの兵法ではこの桶狭間の戦いの流れは既に完成してます。

そしてその構成は

上記の何れにも当てはまる方法に成ると言っておきます。

 

また三段撃ちに関しても…

450年間、誰もこの撃ち方に気づかなかったのかという内容で、

 

 

動画を作りました。

ブログで内容は以前に語った通りです。

解かりやすく動画にしました。

 

ついでにチャンネル登録とイイねくれると嬉しいです。

 

まあ、とりあえず…

フィクションであってもフィクションに見えないようにするには、

大変な作業であるという事で…

資料で見えないからフィクションに出来るが、

資料との辻褄を上手く合わせないと、

それは単なる想像の物語でしかなくなるという事です。