うつけの兵法 第三十六話「吉乃と帰蝶」後編① | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三十六話 吉乃と帰蝶 後編】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 

 恋は盲目。

 吉乃との恋は信長にとって初恋である。

 特に思春期真っただ中の時期は病にでも侵されたかのように、危い行動にも走りがちなのだ。

 いい意味で恋に純粋であればあるほど、その恋路の邪魔だては許せなくなる。

 時にこうした病は傾城ともいうべき出来事にも発展する。

 

 ここでは先ず吉乃こと九庵桂昌の夫だったとされる土田弥平次に関する話をしておこう。

 生駒家古文書に記された系譜上では、「何某弥平次」という形で姓は伏せてある。これはこの系譜上では異例中の異例で、何か理由があってのものと考えられる。

 様々な推測が立てられているが…ここは間違いなく「土田」であったとする。

 土田が尾張土田「つちだ」なのか美濃「どた」なのかは、事件性によって変わってくる。

 推測の中で登場する「三宅弥平次」が明智秀満という明智光秀の腹心に当たる為、織田家に配慮して消したのでは、というものもあるが、その場合、生駒家系譜は本能寺の変後に書かれたものとして、それ以前の系譜は自称にしかならない。信ぴょう性の意味でかなり怪しくなってしまう。

 土田弥平次という名前で「つちだ」であり「どた」という意味で「土田」が登場するのは、「武功夜話」という書物に由来する。

 武功夜話は「前野家文書」とされる前野長康とその父・宗康が記した日記および談話の記録を編纂したものと言われているが、原本不在という扱いで信ぴょう性が低いとされている。

 特に年表を照らし合わせてみるとデタラメ感が生じるのも事実だ。

 土田弥平次に関しては、1556年に明智城で戦死したと記されていたり、1553年に土田城で死んだとも、1551年に死んだとも記されている。

 代筆と編纂が繰り返されているのも事実らしい。

 基本現存する当時の手紙など外交上の記録以外は歴史を研究する上では一次資料として扱わないとされている。

 太田牛一の「信長公記」に関しても、準一次資料の扱いで、実際に1567年に信長が美濃攻略する以前の話は全てが伝聞及び談話から得た記録として見られる。

 武功夜話の原本に当たる「前野家文書」が日記として記載されていたのなら、一次資料扱いにも成るが、伝聞や談話が混ざっているため全てが正確に記されているとは成らないのも事実だ。

 勿論、原本の存在と科学的分析で執筆時期が明確になればその信ぴょう性はまた変わってくる。

 しかし、伝聞や談話、後日談をベースに記された怪しげな話でも、科学的に心理学と併用して見れば大いに参考にすることはできる。

 

 では、科学的な話とは何であるのか…

 現代でこそニュースなどをネットで調べる技術が存在する訳で、近代までは新聞などがその記録物として残ってきた。

 それ以前の中世では、そうした記録物らしいものは無い。

 日記として事件と同時期に記録したものなら参考に成るが、信長公記の様な伝記ものと成ると、伝聞、談話が混ざっているため、時間軸にズレが生じる可能性は高い。

 

 現代までのニュースで読者の方がたは何も調べずにどこまで覚えているか?

 これを用いて記事に関する記憶の実験をしてみよう。

 9.11として記憶されているアメリカでの同時多発テロ、筆者も流石に調べずとも2001年の出来事だと覚えている。

 では、安倍内閣が安保法制を成立させた時期は?

 日本女子サッカーがW杯を優勝した年は?

 イチロー選手が引退した年は?

 筆者は既に何年の出来事だったかと言われると覚えていないのだ。勿論何年の事か覚えている人も居るだろうが、殆どの人は何時の出来事なのかという点ではかなり曖昧になる。

 しかし、こうしたニュースは衝撃的な出来事としてで記憶している人は多いだろう。

 逆に上記のニュースの発生した順番位は並び替えることは出来るが、ある意味イチロー選手の引退と安保法制成立の時期が曖昧にもなる。

 人の記憶とは実はこうい現象を引き起こすのだ。

 自分にとって衝撃的な出来事だった場合は、その出来事を何気に忘れない。個人の功績などをハッキリと覚えているのもそれに該当する。

 しかし、何時、自分が何歳の時の話と言われると徐々に曖昧さが生じてくる。

 歴史上の記録が伝聞や談話で構成された場合、こうした曖昧さは必ず生じると考えても良い。

 なので他の資料と照らし合わせて年表がデタラメに成っているからその話が嘘と決めつけるのは間違っているとも言える。

 

 武功夜話の様に編纂が繰り返されたもので時間軸の修正などが行われている点は仕方のない事だが、それらは其々の制作者がその話の真実性を持たせるための葛藤であったと理解してもいいだろう。

 寧ろ年表の話より、事件の発生順序から伝聞性や推測性、または憶測による創作が有るのかを紐解いて実態を見極めて行くほうがよい。

 更には他の資料と照らし合わせて矛盾が生じるものか、話の筋立てとして合致するところが有るのか、推理小説で事件を暴くように考えて行かなければ成らない。

 

 先ず記憶に与える衝撃という点で、前野長康が自身の功績としてハッキリと覚えているだろう点で言うなれば、美濃墨俣の一夜城の話などは多少盛っている可能性は有るが、事実として考えても良いと判断する。

 ある意味、原本不在なので事後創作された可能性は否定できないので、歴史的な根拠という意味ではどうしても不足するが、心理的な根拠で言うなれば前野長康を主体にした創作物をあえて強調するかという地味すぎる点が逆に考えられる。

 むしろ前野長康が自己の功績を残しておきたいという一心で記した方の心情を優先して考えるべきだ。

 それゆえ墨俣の一夜城の話は単なる創作と断定するべきではないと言える。

 そういう中で彼の中での衝撃的な発見であり、衝撃を受けた事件として吉乃と土田弥平次の件が存在すると考える。

 実は前野長康および宗康が信長に拝謁出来たのは、1558年頃とされている。

 いわば、それ以前に生じた生駒家の話は全て伝聞になるのだ。

 その中で、吉乃が信長と関係を持っていたのは、濃姫が輿入れする前という情報。

 吉乃の最初の夫と成るべき相手は土田弥平次という人物で、どこかで戦死したとうい情報。ある意味、信長の最愛の女性が後家であったということを知った意味で、その筆者にとっては衝撃が残る話だ。

 そしてここで更なる衝撃的な情報として、実はその土田弥平次は信長の母方の出自の家系であったという事。

 これらは1558年以降、生駒屋敷となった小折城とも言われる中で、従者や侍女などからの談話で聞き知ったものと言える。

 勿論、こんな噂を聞きつけたら誰もが真実を知りたくなるのは当然であろう。

 長康または宗康自身も織田家中の人から、この件を聞き出そうとした。ある意味、当時で言うゴシップを探る記者の様な感じだろう。

 ここで、登場するのが生駒家古文書に記された「何某弥平次」という姓を伏せた事実。

 寧ろ生駒家が信長の母方の出自の人間であることを隠したい事情として参照する。

 そうなると生駒家同様に織田家中の者たちも決して口には出さない話に成ってくる。

 閉ざされた情報をこじ開けようとする心理はゴシップを暴きたい心理として作用し、憶測も含めて調べる流れになる。

 生駒家の従者たちの噂話からは、「つちだ」の姓の名前で土田御前と土田弥平次を聞き取っていた。伝聞での話ゆえに、「つちだ」と「どた」を聞き間違える事は無いと言える。

 武功夜話に土田御前の父親は土田政久ではなく、土田秀久だという形で記されている。

 あえて土田政久を否定し、秀久と記したのだ。

 長康であり宗康は寧ろ土田御前の父親は秀久の方では無く土田政久という人物として伝え聞いただろうと推測した上での流れで推理を進めて行くものとする。

 土田政久という名前でほとんどが統一して伝えているわけだが、既に「つちだ」と名乗る尾張土田氏が見当たらなくなっている。清州西部に土田とい地名は現存するが、尾張土田に関する資料はほぼ見かけない。資料を探る中で、尾張土田氏は近江六角氏の庶流で尾張斯波氏の所へ外交官的な意味で出向していた豪族である点は見えたが、それ以外の情報は調べられなかったわけだ。

 そこでここからは前野長康の行動とするが、長康の中で様々な憶測が考えられた。

 現代でもネット上で飛び交うフェイクニュースや陰謀論は憶測によって構成される部分が大きい。勿論、根拠を示しながら推測するのは推理に成るが、根拠もなく怪しむのは憶測でしかない。

 長康の憶測は、土田政久と生駒親重が同一人物であるところから始まった。長康らは自身の書物にもそう記したわけだ。

 確かに生駒親重は土田(どた)甚助とも言い、美濃土田(どた)氏が出自で、吉乃の祖父に当たる生駒豊政の養子に成って生駒姓を名乗る事と成った。

 この美濃土田氏と生駒家の関係を系譜の一部を参考にすると、生駒豊政の妹が美濃の土田秀久に嫁いでいる。

 生駒親重はその間に生まれた甚助であると生駒方は主張している。この同じ「土田」と記される家柄を長康の憶測で混沌して考えたために史書として意味不明な状態を齎したと言っても良い。

 いわば生駒家と織田家が隠蔽しようとした事実は、美濃土田家を含めた近親相姦という話なのだ。

 土田秀久の系図を見ると良く解る。

 この秀久の妹は「いぬゐ」という名で信長の祖父・織田信定に嫁いでいる。父・信秀の母は含笑院という名に成っているが、一部資料では「いぬゐ」という名であったとされている。

 因みにこの含笑院を弔うための含笑寺は清州の土田に建立されたという事で、ある意味尾張土田との関係性が伺える部分として一応は伝えておこう。

 勿論、長康が突き止めた話は、土田秀久が信定に妹を嫁がせたという話のみで、実際は信定の妾、いわば側室であったといえる。それを信定の正妻で信秀の生母が「いぬゐ」という名であったと主張する意味は、長康がこの近親相姦の憶測を成立させる為だったと言える。

 そしてこの長康の話では、土田秀久の子供に土田泰久、土田政久、土田久通、そして土田御前が居たとされ、信長はいわば従妹同士の間で生まれた子という意味で成立させている。

 史書を参考にすると、生駒親重の子、生駒親正は信長より8歳年上で、親重は信秀と同年代か多少年が上程度だったと考えられる。

 そうなると長康の憶測として、生駒親重と土田政久が同一人物に成る場合、土田御前が土田政久の娘となると年齢的に可笑しな存在に成る。

 故に親重の父である土田秀久が土田御前の父として、土田政久の妹として嫁いだのではと考えた。

 更には生駒家を通じて信長と吉乃の間にも親戚関係が成立する形で、信忠、信雄、五徳は近親相姦で生まれた信長に加えて更に近親相姦が重なった子という形で憶測を強めたのだ。

 故に、生駒家と織田家が隠そうとしていた話の裏側と結論付けた。

 武功夜話であり、前野家文書が門外不出なものとして扱われていた事実も、こうしたとんでもないゴシップを記したためとも考えられる。

 ある意味、こんな話が織田家に漏れたら一族断絶では済まされないような話なのだから。

 ただし、これらは長康が勝手に憶測で考えたものでしかない点は断言しよう。

 いわば、ここまでの憶測を成立させておいて、結局のところでは何故、吉乃の前夫である土田弥平次の名前が隠蔽されるのかに成るからだ。

 ある意味、仮に美濃土田の弥平次だったとすると、吉乃の初婚が従妹同士のものという関係が問題なだけで、信長との婚姻に関しては生駒家があえてその弥平次の姓を伏せる必要性はないのだ。

 吉乃が後家であった事実が問題なら寧ろ初婚の話すら抹消するだけのものと成る。前夫との血のつながりを問題視したとしても、後家と成った事が記されているなら、既にその婚姻自体は問題視して考える必要性も無い。

 そうではなく「何某弥平次」としなければ成らない、吉乃の初婚相手に別の何かがあると考えるべきなのだ。

 

 そうするともっと大きな事件と成りうる話で、後の信長の弟・信勝との確執に土田御前が関わっていた事実に照らし合わせて考えるべきと見た方が良さそうである。

 更に筆頭家老である林秀貞らはじめ、主だった織田家の人間が信勝側に付いた根拠にも結び付く大事件として見るべきなのだ。

 史実として明確な流れは、この信長の母親を介して織田家中が分裂したという事である。

 この信長と信勝の争いは他のケースとはまた違う。

 まずは生母が同じ兄弟同士。

 そして筆頭家老である林秀貞は信長付であった事。

 いわば通常起こるお家騒動は、生母が異なり女中の実権が元で起こるケース。

 または家中の重臣の権力争いで起こるケースが一般的だが、林秀貞の立場上、信長に反旗を翻す必要性はない。

 これらを踏まえて嫡子として地位が確定した状態でこのお家騒動が発生したことを考えると、信長の資質に問題が有ったと見なされたとすることに成るわけだ。

 史実であり信長公記に記される流れで実際にお家騒動に発展するほど資質を疑う事が書かれているかというと、寧ろ辻褄が合わなくなる。

 唯一は父信秀の葬儀で焼香をぶちまけたくらいの事。

 しかし…誰もが疑問に思わねば成らない事は、なぜ信長がその様な暴挙に出たのかという事。

 いずれの資料にしても信長が大うつけとされていた事は記されてても、なぜ大うつけという形で資質を疑われるほどに見られたかの理由は全くないと言っても良いだろう。

 寧ろそこに記された信長の奇行を見て、戦国の世にあってそれほど酷いかと思うものばかりと言っても良いだろう。

 

 これらを紐解いて考察した上で、長康、宗康親子の情報を推理する話に成るのだ。

 実際の記録として2人が信長に拝謁したのは信勝との争いも含めて全てが終わった1558年というう流れから、その中で先ず前野長康が事実として知り得た点と生駒家が何を隠したかったのかを挙げて考えてみるものとしよう。

 

 吉乃と信長の関係は濃姫こと帰蝶が嫁ぐ前であった。

 生駒家が馬借を生業とした商家であった。

 濃姫が嫁ぐ前に吉乃は身ごもっていた。

 そして、吉乃の前夫または初婚に成るはずの相手は土田弥平次という人物だった。ここでは「どた」か「つちだ」かは伏せておく。

 

 更には生駒家歴代が否定しようとしてきた事実。

 

 生駒家が馬借を生業とした商家ではなく、武家であったという事。

 吉乃の初婚相手は「土田弥平次」という名を伏せて「何某弥平次」とした事。

 

 先ずは生駒家の心情から推察して行く。

 吉乃と信長の関係が濃姫の嫁ぐ前だったとするなら、本来なら吉乃は正室として弾正忠家に嫁いでも可笑しくはない。

 しかし、吉乃は正室として嫁げなかった。

 いわばそこには生駒家と弾正忠家の家柄の格差が有ったからだ。

 その意味で美濃の土田(どた)氏を見ると、美濃土田氏は生駒家の娘を迎えて嫡男を産ませている形に成るわけで、ある意味生駒家の子女を正室として受け入れれた家柄に成る。

 いわば、生駒家と美濃土田氏は同格なのだ。

 ならば美濃土田氏が織田弾正忠家に正室として土田御前を嫁がせられたなら、生駒家も吉乃を正室として嫁がせることは出来たとも考えられる。

 勿論、同じ土豪であっても、美濃土田氏は武家で生駒家は商家という違いが生じる。

 生駒家が商家であったと断定できる事実は、寧ろ生駒豊政が土田甚助を養子として家督を継がせた点にあると言える。

 いわば土田甚助は美濃土田氏の血を引き継ぐ士族で、吉乃の父・家宗は豊政の嫡男であるにも関わらず、商家の血筋にすぎないという点だ。

 そして、その血筋ゆえに娘の吉乃は信長の正室に成れなかったという負い目もあり、それでもそこから信長の嫡男として信忠が成長した経緯を以てあえて商家であったという身分を隠ぺいし武家であることに拘った。全ては信忠の為とも言っておこう。

 無論、そこには信長からの気遣いや生駒家から信忠への気遣いが生じてのものと言っても良く、単なる見栄での話では無い。

 寧ろ見栄での話なら、土田甚助を生駒宗家という嫡男にしたことがそれに成ると言えよう。

 一次資料として残る信長から戦功の報奨として渡された手紙の内容は、寧ろ馬借という配達業で自由に商売してよいという内容に成る為、実際に商家である事を否定は出来ない。

 

 こうして家の格で流れを進めると、信長の母・土田御前の出自として美濃土田氏も危ぶまれる。

 信秀の最初の正室は、織田達勝の娘で尾張守護代の家柄になる。それと離縁して土田御前を継室として迎えたなら、寧ろそれ相応の家柄が保証されなければ成らない。

 美濃土田氏ももとは佐々木六角氏の末裔と称している。

 尾張土田氏も同じだが、問題は当時の家柄として関係性だ。

 美濃土田氏は明智傘下の土豪に過ぎず、当時の婚姻で使われる名目上の養子縁組は明智氏が精一杯だ。六角氏の末裔を名乗った所で宗家の六角氏が美濃の土豪の土田氏を相手にするとは考えにくい。

 現代でこそ明智光秀の威光で明智家は名門の様に扱われるが、当時の美濃での地位は、守護代斎藤氏、その下に長井氏と、明智はその下の存在にしか成らないのだ。

 仮に織田弾正忠家との外交上の政略結婚で家の格式の保証が必要なら、最低でも長井氏と養子縁組できるくらいの家柄が必要と成るのだ。

 寧ろそれ以外の家柄の娘なら正室という待遇ではなく側室で十分という話になる。いわば美濃土田氏と縁組しても美濃との外交上の影響力は全く機能しないのだ。

 逆に、美濃土田氏を織田方に懐柔するとするなら、弾正忠家から娘を差し出す形が考えられ、明智の傘下でしかない美濃土田氏を立てて正室という形で人質を取る流れは殆ど意味がないのだ。そういう意味でなら側室で十分に成る。

 一方の尾張土田氏なら同じ六角の末裔でも六角氏との繋がりは深い。いわば尾張斯波氏との外交上の仲介役で出向した家系だというからだ。

 美濃国諸旧記という史書の中には、信秀の正室は六角高頼の娘だと記されている。美濃国諸旧記も原本不在で記録形式も判明しておらず、一部後世に記されたものも存在する為、作成時期も不明で怪しいが、寧ろそこに伝聞としてそう残される意味で考えるなら、土田御前の出自は六角氏に近いと言える。

 ただし、六角高頼は1520年に死んでいる為、信秀は9歳の時に土田御前と婚姻を結んだ話になるため真に受けて考えると信ぴょう性は薄くなるが、高頼ではなく定頼の聞き違いならある意味話は成立する。

 伝聞による間違いは当然のものとして考える必要性は有る。

 もう一つは信長の生母が小嶋信房の娘だったする説。

 これも小嶋信房がどれほどの人物だったのか殆ど知られていないほどの家柄で、正室という扱いではなく単なる側室の一人であった可能性が高い。

 寧ろここで小嶋信房の娘が信長の生母として考えられたのは、土田御前との関係が親子とは思えないほどに確執が有ったため、織田家内縁の事情として憶測で記したと考えることでもある。

 仮に、土田御前が信長の生母で無い場合、先ずは信勝と共に土田御前は排除されていただろうし、後に信長の次男である信雄が彼女の面倒を見るような配慮までしなかったと考えられる。

 仮に小鳩信房の出自で尾張土田家を通して養子縁組のもと嫁がせた可能性もあるが、そこまで考える必要性も無く、どの道現状では単なる憶測でしかなくなってしまう。

 当時も今も、フェイクニュースは横行する訳で歴史の場合分別するのはかなり難しいと言える。

 そうした中で情報を統計上で結び付けて考えるなら、土田御前と近江六角氏の結びつきで考える方が資料上濃厚となり、その上で一番有力な家柄は自然と尾張土田(つちだ)氏に成る。

 たまたま土田御前の父親が土田政久という人物で、美濃土田氏も秀久という形で「久」を名前の継承に使っていた可能性もある。

 実際に、土田政久は土田御前の父としてしか登場せず、武功夜話が主張する生駒親重とは全く関係ないと考えてもよいだろう。

 

 そして、最後にようやく土田弥平次の話に戻るが…

 土田「つちだ」なのか「どた」なのか…

 本来は彼の出自はどうでもいいと考える。

 しかし…「何某」と記された人物である以上、そこに大きな事件性を感じるのだ。

 本来信長と土田御前の関係性において、生母が同じ兄弟なら、その母親としては兄弟が手を取り合って進むことを望む。

 多少の愛情に差はあるといえど、兄弟がいがみ合う形を望むことは考えにくいのだ。

 しかし、土田御前は弟の信勝を支持し、家老である林秀貞や柴田勝家まで取り込んで信長に対抗した訳だ。

 土田御前が野心家で、自分の傀儡にしやすい信勝を利用した可能性もあるが、それでは現実問題として多くの家老を取り込むことは難しい。ある意味実直な性格で知られる柴田勝家がそれに与する事も些か疑問が残る。

 これを土田弥平次の出自が信長の母方の実家「つちだ」だとし、信長が吉乃を取られた腹いせでその弥平次を謀略に嵌めて殺したなら…

 これは大問題に発展する。

 そこから土田御前と信長の間で確執が生じる流れも繋がり、信長の行為は「大うつけ」として織田家中にも映る話に成る。

 いわば…この事件があってこそ信長のその後の流れと合致するのだ。

 

 では、信長はどやって弥平次を嵌めたのか・・・

 

 信長と吉乃は仲睦まじい間柄なのは、近習に使える者誰もが目にしていた。かと言って吉乃は周りにも気配りを忘れず、面倒見も良かった。そういう意味で誰もが認める存在だったのだ。

 吉乃と土田弥平次の婚姻の話は、信長にこうして仕えていた者たちの耳にも届いていた。

 河尻秀隆にも佐久間信盛にも、また森可成にもである。

 思春期を既に過ぎた彼らからは寧ろ信長の恋路を一過性のものと見ていたのだろうか。

 傍から見ればそう見えても可笑しくは無いだろう。

 仮に信長の恋路の相手がただ美しいだけの女性であったのなら、近習の者たちも諫めるべき話として受け取った言える。

 しかし信長の側で吉乃の器量を目にした彼らは、この婚姻が政略的な意図をはらむことを理解し、逆に信長に同情したと言っても良い。

 

 前話で「前に出る者」と「一歩引ける者」の話をしたが、傾城はいわば「前に出る者」が要因と成る場合が多い。

 この「前に出る者」の特徴は自らの存在感をアピールするものである。

 こうした傾向はごく一般的でありふれた存在でもあるのだ。

 反対に「一歩引ける者」は寧ろ稀な存在であり、そういう姿勢は逆に人の目を引くと居ても良い。

 現代でも「神対応」と言われる行動が称賛を浴びるわけだが、こうした行動には周囲に気を配って円満な解決を模索できる能力が必要となる。

 誰もが理想とする解決力で有る故に目立つわけだが、中々誰もが思いつく方法とは成らないのも事実だ。

 前に出る者はむしろ自分の格好良さをアピールすることに務め、対象者を無駄に傷つけてしまう。

 勿論質の悪いのも居る為、一概に評価するのは難しいが、相手の意図を汲み取らずに一方的に自分の正義や論理で押し通すのだ。

 傍から見るとむしろ逆に勘違いしている様にも見えるケースである。

 一歩引ける者は相手の意図も汲み取った上でお互いが妥協できる所に落としどころ見出す。簡単に言えば、一方の主張も立てた上で、もう一方の権利を守るという形に成る。

 それ故にそれを目にした人々はその器量に惚れこむ意味で称賛を与えるのだ。

 

 信長の側仕えであり近習の者たちにとって吉乃の存在は寧ろそれに近いかそれそのものに映ったと言える。

 いわば信長の恋路の相手として信長にべったり付きそうだけの存在ではなく、分け隔てなく皆と接して気を配る女性であったと言える。

 これは信ぴょう性は些か欠けると言われるが前野家文書の内容を読み解くと見えてくるものでもある。

 秀吉の様な人物を適正に評価して信長に紹介したというエピソードなどがその代表例と言っても良い。

 いわば伝説の様な存在にも成りかねない話であるが、歴史上の記録の一部としてその存在を残しておきたいと思わせるほどの人物であったという評価は、寧ろ史実として認識する方が話の筋立てが見えやすくなると言っても良い。

 例えるなら「三国志演技」の中の諸葛孔明の神掛ったエピソードの数々、全てが伝説的な話であるが、いわばそのエピソードに信ぴょう性を置くのではなく、寧ろ諸葛孔明という存在が神掛った人物であるという点のみを史実として読み解くという事を意味するのだ。

 いわばその神掛りな手法は史実としては「謎」であっていい。

 しかし諸葛孔明がやった事の多くは普通では理解を通り越したものであった点は理解されるべきで、最終的に伝説として表現するには魔法にでも掛けたかのようにするしか術がない様な話だったという事に成る。

 普通の人がマジックのトリックを知らずにマジックを見せられたときに、まるで魔法に掛ったように見えてしまうのと同じで、伝説の中ではその魔法に掛った話のみが言い伝えまたは文書の中で独り歩きした状態で記されている感じなのだ。

 こうした流れは史書を読み解くうえで参考にされるべき点と言っても良い。

 現代の歴史家たちは信ぴょう性の欠ける話として無視しがちなのだが、伝説がなぜ伝説として存在したのか、又は後世に伝説として残った経緯を探求し、正式な史書と照らし合わせて研究することで新たな発見に結びつけるべきだと言っておこう。

 

 吉乃の存在はいわば伝説に成りうるほどの存在であった。

 いわば吉乃を知る信長の近習たち誰もが、彼女を信長の正妻になるに相応しい存在と認めていたほどだったと言っても良い。

 故に信長の恋路は一過性の病という認識ではなく、寧ろ天命または運命とも考えるほどのものとして彼らも感じていたという事に成る。

 それゆえに土田弥平次との政略結婚は、天命への障害であり、運命に反するものにも感じても可笑しくはないのだ。

 

 反対に吉乃の存在を知らない者、いわば織田弾正忠家家中の平手政秀であり林秀貞らは、一過性の恋としてこの問題を考えていたと言える。

 故にこの問題は信長の母方の家との政略結婚という方法で、容易に解決できると思っていたのだ。

 

 「まさかこの婚姻をあえて妨害するなんて事は無いだろう…」

 

 秀貞に至ってはそう考えていたのだろう。

 

 時は戦国、人の命は時として軽く見えてしまう。

 家中の意向での話ゆえに、信長の威圧であり脅しは相手に通じるとは考えにくい。

 かといってこの恋が信長のみならず信長の近習にも運命として絶対に成就させるべきものと意識されたのなら、2人の恋路の障害は七夕などのおとぎ話の悲運のようにも映ったであろう。

 ゆえに手段を選ばず成就させたいと考えても可笑しくはない。

 かといって暗殺というあからさまな手段を用いる話には成らないのも事実である。

 勿論、信長としては暗殺でも構わないと思うほど憤りを感じていた訳だが、ここに佐久間信盛が一案を講じた。

 年長者である信盛も河尻秀隆もそれだけ吉乃の存在を認めていた訳である。

 

 「家中の意向であるゆえに、あからさまに彼のものを排除する訳には行きませぬ。かと言って彼のものにこの婚儀を諦めさせるのも難しいでしょう。」

 

 いわば信長が弥平次に婚儀の破棄を要請しても、結局は家中からの圧力でその要請に応じない事は想定できるのだ。

 勿論、暗殺という手段で下手に排除すれば、信長の罪となり嫡男としての資質が問われる話にもなりかねない。

 多くの者たちはこの点を危惧していた。

 寧ろ諦めるしかないという状況でもあったわけだが…

 信長は全てを捨ててでも構わないという程、病に掛っていた。

 

 「では…その土田弥平次なるものを戦の先陣として使ってみるのは如何でしょう。先陣は些か危険が多いものでその器量を計る意味では打ってつけと言っても良いでしょう。」

 

 佐久間信盛は後に「逃げの佐久間」と言われる殿の名人の異名を取るが、それとは別に謀略によって私欲を肥やすことにも長けていた。

 信長は後にこの信盛の姿勢を糾弾し追放する話に成るわけだが、ここではその信盛の知恵に頼る話と成るのだ。

 

 「清須の西、土田領内付近には野盗どもの巣窟が有ります。その野盗掃討に土田弥平次を招き先陣を申し付ければ如何かと…」

 

 実直な河尻秀隆はここまで聞くと全てが理解できた。無論、彼はこういう謀に共感は出来ないが…あえてまだ黙っていた。

 

 「今、その野盗には滝川(滝川一益)なるものが潜伏しておりますゆえ、こちらの意向通りの手はずも可能です。一益には野盗の中枢でもっと探りを入れてもらわねば成らないため、その手土産程度に弥平次殿に働いてもらえればと・・・」

 

 かつて滝川一益が既に織田家に仕官した話は記しており、その際に野盗らに潜伏する任を受けていた点は伝えてある通りだ。

 いわば信盛は皆まで言わず、あえて土田弥平次の器量を計る意味で先陣を切らせる話をしたとするところで止めたのだ。

 信長からすればここまで聞くと、土田弥平次を戦死に追い込む算段として理解できるが、信盛は手はずが整っているゆえに先陣を切っても安全という意味を含めて提言したのだ。

 

 秀隆はこの謀略に不快感を覚えたものの、いわば戦場にて運命(さだめ)に委ねるという形で妥協した。

 ある意味、土田弥平次なるものの武運が有るのなら、その先陣の任を上手くこなすだろうという意味での妥協だ。

 

 恋の病に陥った信長からすれば戦場なら如何なる事故も有りうる話で、下手したら背後から暗殺という事まで考えた。

 勿論、信長の正義に反する話ではあるが、恋の病とはそれをも覆すほどに恐ろしいものだ。

 冷静な信長ならその様な謀計は決して許すことはなかったと言っておこう。

 思春期の子供を抱える親たちはそういう事を理解しておくのも大事だと伝えておこう。

 

 野盗狩りとは実戦の演習を兼ねたものである。

 敵対勢力となる国人衆を含めて野盗とすると、それは寧ろ政治的な意味での「野党」とした方が良いだろう。

 ここで言う野党とは政治の中での政党関係の話とは違い、領内に於ける権力外勢力を差す。

 かといって野党の拠点を簡単に潰していくという話でもない。

 寧ろ簡単に潰していける話なら、戦国時代の治安はもっと安全に統治できた話に成る。

 野党とは反勢力組織であり野武士とも、一部は国人とも言われる組織で、現代風に言うなれば反社会勢力、暴力団的な組織である。

 その組織が点在し仮に連携を組んで反乱を起こせば、いわば一揆が発生する事態に相当する。

 または一揆などを扇動して領内を脅かす存在でもあったと考えられる。

 国人と別に地下組織的なものに成るとゲリラ的に拠点を転々とする形であった為、発見も難しいと言える。

 史書などには詳しくこうした手法は記されていないと思われるが、現代の反社会勢力の手法がその当時にもあったと考えるなら、そこを参考にその部分は研究されるべきと言っておこう。

 いわば商人の移送を襲撃してその都度ショバ代を取ったり、農村を襲撃してみかじめ料を取ったりという形で生き延びた勢力である。

 逆にドラマや映画の様に、農村を襲撃して略奪するのは彼らにみかじめ料を納めない所への見せしめであり、寧ろ殆どの農村がこうした組織にみかじめ料を払う形で難を治めていたとも言える。

 その大きな勢力が国人衆という形で記されており、こうした農村との関係から一揆の扇動などを用いて領主を脅かす存在として位置したと考えられる。

 ある意味国人衆となれば領主から独立した形で知行を得ていた場合も多い。

 故に領主たちも野党勢力と上手く付き合って、揉め事の解決を任せる形で黙認していたとも言えるだろう。

 現代でこそ反社勢力撲滅の動きが当たり前の状態に成っているが、近代までは政治と反社勢力と持ちつ持たれつの関係があった為、寧ろ戦国時代の様な社会ではそれが当たり前だったと考えても良い。

 故に野党狩りはある意味異例中の異例であると言える。

 寧ろこの野党狩りを軍事演習として用いたのは信長の発想なのか、それとも信秀の方針だったのかは不明であるが、後の信長の秩序を参考に考えるなら合理的な手法として実践していたと考えた方が賢明であると言えよう。

 勿論、合理的な手法であっても簡単に彼らを壊滅出来るのなら、どこの領主も実践している訳だが、そういう訳にも行かない故に誰もが放置していたと考えたほうが妥当でもあるのだ。

 寧ろ戦が頻繁に発生する時代ゆえに、味方勢力として懐柔しておきたい事情もそこには有ったと言えよう。

 

 信長らは家中の名目上は治安維持で、生駒家が生業とする馬借の警護を通じて野党勢力との接触を試みた。

 いわば馬借という配送業が一番狙われやすい所で、偶々生駒家がそれを生業としていたから、それを活用したという形に成るのだ。

 傭兵を装って警護をしつつ、襲撃してきた野党を追い払い、密偵を放って逃げていく連中の後を付けさせて彼らの拠点を暴くところから始める。そして、後日その拠点を襲撃する。

 この際の襲撃は壊滅というものではなく、寧ろ敵を削る意味で行うのだ。

 いわば信長の部隊は100人程度で、相手も相応に拠点を守っている。軍事演習である以上、信長の部隊に死傷者を出すのでは意味がない。

 掃討作戦としてはリスクが高すぎるわけで、寧ろその様な作戦の場合は家中の協力を仰ぎ、下手すれば国人衆との戦になることを覚悟したものと成る。

 故に攻城戦を想定しつつ、犠牲が出ない程度に襲撃し、戦闘慣れさせるところで留めるのだ。

 無理に敵の殲滅を考えるなら、演習目的で訓練した兵士を無駄に死なせる事にも成るわけだ。

 勿論、こうした指導は河尻秀隆ら大人衆を通じて、政秀や沢彦から与えられていた。

 そしてこの演習を通じて、信長は犠牲の少ない攻め手の方法であり、引き際、更には殿(しんがり)の方法、そして殿を以て伏兵を配置するなどの兵法というべきか兵術の基礎を学ぶ程度のものだった。

 また、度々襲撃を加える事で敵は兵力を徐々に損耗し、自軍は消耗せず維持できれば少しづつ確実に攻略して行ける道筋も学べた。

 こうした演習で培った戦い方は後に実は美濃攻略に時間を掛けたところでも生きてくるのだ。

 

 実は信長の戦い方を研究するに、その強さは引き際の上手さと防御しながら戦う手法にあると見受けられる。

 長篠および設楽原の戦いで顕著に見られる点だが、浅井長政の突然の裏切りなどでの切り返して引いた判断、美濃攻略までの過程などでもこうした戦術・戦略眼は活きてくる。

 美濃攻略に於いてはある意味桶狭間から7年の時を要するものと成るが、信長が無理な形で一気に攻略に挑めば、良くて父信秀と同じ所で頓挫した可能性もあり、最悪尾張の弱体化が進んで破滅した可能性もあったのだ。

 こうした慎重な戦い方の基礎は寧ろこうした野党狩りの経験によって培われる必要性があり、経験なくして天性で習得するにはもっと時間を要したとも言える。

 いわば信長は若くして時間を要して敵を削る事が完全な攻略法であること実感していた故に、戦国の世で大成できたという事である。

 ある意味、この野党狩りまたは野盗狩りは治安維持が目的では無く、あくまでそれらを相手にした模擬戦なのだ。

 その上で敵の兵力を徐々に削って勢力を弱める作用と成るに過ぎなかった。

 後に、こうして野党狩りを進める中で、度重なる信長の襲撃に屈して投降する勢力も出てきた。

 蜂須賀小六(正勝)であり、前野長康らは当時20歳か18歳くらいであり、出自の国人衆の勢力としてではなく、近隣を荒らす今でいう愚連隊や暴走族の様な形で賊徒を率いて暴れまわっていた。

 いわば野武士集団の川並衆がこれに当たる。

 武功夜話などには川並衆と長康の出自の国人衆勢力は別物として記されていることから読み取れる流れである。

 いわば国人衆の方は父・宗康が率いており、長康は小六とともに別の川並衆として活動していた様だ。

 実際に信長に投降した時期は不明だが、史書としての記録では1558年に長康・宗康親子は信長に拝謁できたとされている。

 後の秀吉との関係性を考えると、1554年以降の話として、密偵として入り込んだ秀吉が彼らに投降を促して織田家に使えさせ、その際に秀吉の余力となった流れなら、武功夜話に記されたものとかなり合致する内容になるとも考えられる。

 特に1556年頃の話だと、丁度信長の後ろ盾であった斎藤道三が撃たれた時期で、更に弟・信勝との稲生の戦いがあった。

 この時期信長は自軍に味方する勢力を求めていたとも思われ、こうしたタイミングで秀吉が川並衆を引き連れてきたのならそれは大手柄になるとも考える。

 勿論、詳細は後程この時期のエピソードに合わせて書くものとする。

 

 勿論、こうした野党と一括りに言っても、様々である。

 小六らの様な若者の愚連隊として悪さを仕掛ける組織、更には彼らの出自とされる国人衆、また盗賊と呼ばれる窃盗団であり、一般的に忍びの様に扱われる暗殺団などもある。

 国人衆は寧ろ知行の様な場所も有り、現代で言う指定暴力団組織に近いとも言える。寧ろ下手に領主であり他勢力と揉めるような行動はせず、秩序だった独自のルールで生業を守ることに専念する。

 若者の愚連隊は、今でもヤンチャをする形で存在感をアピールする訳で、戦国の世ではよりむしろ秩序に反する行動をしたと思われる。

 現代の彼らとは違い、殺傷といった行為は当然の時代ゆえに単なるヤンチャでは済ませれないレベルであった事は理解しても良いと言えよう。

 盗賊であり忍びの様な集団は、今でも地下組織であり、表には見えにくい。その分、質が悪いが国人衆の一部が関わる場合も想定できる。これは現代でも同じかそれ以上に巧妙に出来た時代と言っても良い。

 史書としてこうした組織の話は「謎」に成ってくるのは当然で、仮に盗品目や暗殺リストのような文書記していたとしても、摘発される前に証拠隠滅で燃やすといった形に成る為、史書として残るケースは稀と言っても良いい。

 勿論、摘発する側も裁判所から逮捕状を取るような手続きは無いため、証拠も関係なく疑わしきだけでも襲撃する。

 それ故にそうした出来事が歴史上の出来事として残るのは稀である。

 寧ろ倭寇という海賊の話であり、石川五右衛門の様に伝説として残るくらいが関の山である。

 

 信長らが相手にした組織は寧ろ若者で構成される愚連隊の様な連中か盗賊の様な地下組織である、寧ろ領国経営に影響する国人衆は対象としていない。

 逆にそこを対象にした場合、領国問題に発展しかねないと言える。

 寧ろ国人衆の場合、荷馬を襲撃するような事はしないだろう。

 そういう襲撃をするのは盗賊の方で、国人衆が直接手を下す様なことはしない。

 勿論、犯罪組織の構図で言うなれば、盗賊が徴収した商品は国人衆を介して商人に売りさばかれる形が想像できるが、この時代では罪は実行犯の盗賊でそれをほう助した者までは裁けなったと言えるし、その証拠を掴むのはまた難しい時代であったとも言える。

 言い方によっては、「知り合いから商品を譲り受けただけ」で済まされると言っても良い。

 一部の国人衆は愚連隊や盗賊を実行犯として利用していた事も想定されて考えても良いと言える。

 

 と、は言え、証拠があっても中々国人衆という大きな組織に手出しをすることは出来なかったと言えよう。

 

 信盛が進言した野党勢力は、尾張一体を組織する盗賊団である。

 場所も尾張西の津島と清須の間に位置するとすれば、現実的に存在した可能性は十分にある。

 寧ろ盗賊団とするのも、津島の商港から清須に運ばれるルートに成るゆえにそうした組織が一番存在しやすいのだ。

 また丁度、土田が「とだ」ではなく「つちだ」だとするなら、その所領はこの辺りに位置する。

 

 更に大和守家が管轄の清須付近ではなく、弾正忠家の勝幡城に近い場所であれば、弾正忠家の管轄内にも成る。

 土田が信長の生母の出自であれば、この賊徒討伐に助力するのは当然という形も成立する。

 先にも話した様に、信長たち本来の作戦はあくまで模擬戦であり、掃討する作戦としては部隊の規模が少ないと言っても良い。

 また掃討作戦という相手を壊滅させる目的の場合は、それだけ人的損失も覚悟せねば成らないのだ。

 勿論土田側が信長の要請に応じて、300から400の兵を出してくれればそれ相応に戦えるという話にはなる。

 こうして…先ず信盛が土田弥平次に盗賊団討伐要請の文を記した。

 信盛は文の中で、

 

 「津島と清須を結ぶ街道沿いに度々出没する野党団の拠点が、御領内の西南に存在し、これを討伐する為の軍を差し向ける。

 よって土田方に道案内および先陣としての援軍を要請したい。敵数は数百程度と推定。

 当家は弾正忠家嫡男 織田信長公を含め100余名にて討伐に向かうものである。」

 

 この様に記して土田弥平次に宛てた。

 当時、土田弥平次は土田家当主では無いものの、恐らくその嫡男という立場であったと考えても良い。

 弥平次の父が誰であるか不明だが、その祖父は土田政久で信長の祖父に当たる。

 寧ろ信長の我がままを制止する意味での政略結婚で、それ相応の相手で無ければ、逆に効果は薄く、むしろ信長の威圧に屈する可能性も有る。

 また、信盛が書状を送る意味で、土田家当主に宛てるのは身分不相応なものと成る。当主に宛てる場合、少なくとも家老の平手政秀くらいの身分に頼らねば無視される可能性も有るのだ。

 逆にその嫡男に宛てるのなら話は別で、当時の信盛程度の身分でも問題はないと言えよう。

 勿論、ここで弥平次が兵を率いて援軍を出してくれるかは不明であるが、弾正忠家嫡男の信長が向かうという話に成れば、その弥平次自ら率いて援軍するのが寧ろ当然であろうという流れにも成る。

 

 そして信盛からの要請を受けた弥平次はその話を当時の当主である父に伝え、自ら部隊を率いて援軍することにした。

 ところが…ここで想定外の出来事が起こったのだ。

 

最近あまり長く書きすぎると、

ブログとしてアップできない現象が発生するので、

今回は分割して記すようにします。

 

まあ、この吉乃姉さんの話は本当に複雑でややこしいです。

色々な史書にある内容と照らし合わせると、

凄い滅茶苦茶に成ってくる。

信長たまの母・土田御前の出自に関しても、

かなり意味不明だし、

「つちだ」なの「どた」なの

と言ったところも

史書を参考に読み解くと全く確定しない。
 

でも最終的に母と子の確執があった事実に

照らし合わせて構成して行くと、

大きな事件がここに潜んでいることが、

プンプン匂ってくる。

 

今まで書かれてきた信長たまの若い頃の話では、

正直家中が割れるほどのうつけっぷりは有りませんでした。

唯一の決定打は

父親の葬儀で焼香をぶちまけた異常な行動くらいです。 

母性で見るならある意味この行動だけで

息子を見限るとは考えにくい。

 

故に、母親との確執は

それ以前に生じていたと考えるのが妥当なわけです。

 

これが歴史的な真実と断言するいみでは、

この推理を裏付ける文章が

一次資料として発見されなければ成らない訳ですが、

先ずもってそういう発見は無いだろうと思われます。

 

そうした実情も踏まえて

現存する史書の中で推理を構成し、

これ以上ないほどに

前後の事件、

ある意味、織田家の確執に結びつける形は

他に無いと断言します。

 

野党狩りの話にしても、

実は根拠があるのです。

先ず、江戸時代に

武功夜話の作者の一人が生駒家の人に、

「もし商売をしていた場合、どんなことをしていたか?」

と、聞いた際に、

生駒家の人は、

「馬借の傭兵」

という事を言っていたという記事がありました。

ここから察するに馬借は盗賊に狙われやすい流れで

用心棒を必要とした事が伺えます。

 

初陣した後の信長たまは暫く戦に参加した形跡が有りません。

もし信長たまがその後も戦下手だったのなら、

単にその間遊んでいたという事も考えられます。

しかし、実際には父・信秀が無くなった後、

ほぼ連戦連勝で勝ち進む訳です。

しかも数的不利をも覆す戦い方で。

 

では…どうしたらそんな屈強な部隊を構成できるのか?

 

いわば現実的な話、

信長たまの才覚だけで連戦連勝できるほど

戦は簡単ではない。

そこには他を圧倒するだけの

戦慣れした屈強な兵士たちが揃っていなければ

これだけの戦歴を築けない。

 

これは単なる鍛錬だけで到達できるものでもない。

 

実戦慣れさせるために

その都度、戦を起こすわけにもいかない中で、

生駒家との出会いで、

こうした野党狩りを思いついたのです。

 

実際に信長たまは頻繁に生駒屋敷を訪れているわけで、

更には小折城ともいわれる形で、

この生駒屋敷を築かせているのです。

生駒家に残る資料では、

その規模は清須城より大きかったとされているのです。

 

最終的にこうした野党狩りを頻繁に実施する中で、

兵の鍛錬と治安向上の両面での効果が

生まれたと考えられます。

 

これらは信長たまの治世にまつわる部分で、

紐づけできる話ともなるわけです。

そういう意味では単なる推測ではなく、

むしろ史実に存在する話を成立させる意味では、

これらが政策として機能していなければ

成らないという科学的な根拠になるのです。

 

更にはこうした治安と演習を用い、

生駒家の様な商人から傭兵という名目で徴収することで、

兵農分離とも言われる

職業軍人化を構成することも出来たのです。

最近の歴史家は発想力が無く、

織田軍団は職業軍人化は出来ていなかったとしているが、

それは信長直属とその他配下が用いる領民兵とで、

明らかに分別されいたと考える方が良いです。

 

信長たま直属いわば馬周り衆を含めた部隊は、

完全に職業軍人となっており、

元々は傭兵代という形で受け取っていた制度を

こうした治安維持活動を実施することで、

商人からの徴税という形に変化したと考えれば、

史書に残る流れと合致するのです。

堺の商人たちに求めた部分も、

こうした活動で領内安全に運搬できる保証を担保に、

要請したから

関係を拗らせることなく纏まったとも考えられます。

 

うつけの兵法はただ単に

創作や推測で構成しているのではなく、

史書の中で詳細に書かれない部分を、

科学的に解析して

合理的に成立する部分を研究して

記しているものだとご理解いただければ幸いです。

 

これは信長たまの成長部分に関しても同じで、

その戦術性、戦略性を取得する過程、

政治的な発想の根幹など、

史実上に残る話を

逆算によってエピソード化しているものです。

そうした経験を得ることで、

奇想天外な発想に結びつくという、

これも科学的な話で構成されています。