うつけの兵法 第三十七話「吉乃と帰蝶」後編② | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三十七話 吉乃と帰蝶 後編②】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕

 信長の女性関係は謎に満ちていると言われる。

 一つには織田家公式の書物の殆どが、本能寺の変で消失した為、様々な詳細は謎と成っている点にある。

 これは実は断定してそう言っても良い話で、信長が公文書をどこに保管したかを推測し逆算して考えれば明確にできるところに成る。

 信長が文官として信頼を置いていたのは村井貞勝である事は、歴史家の方がたも承知の話で、主だった公文書はその村井貞勝に管理させていたと考える方が当然と言えるのだ。

 貞勝の屋敷は京の本能寺の側であったと伝えられ、本能寺の変同様にそれらは消失している。

 また、その流れから貞勝が文書を京の二条城に保管していた可能性も高い。

 その二条城も1579年に誠仁親王に献上した流れから、信長は別の城または御所を立てる予定だったと思われ、その際に二条城の公文書は貞勝の屋敷に保管されていた可能性も高い。

 いずれにしても貞勝の屋敷であり二条城も本能寺の変で焼失した事も有り、主だった公文書はそこで灰と化したと思われる。

 信長の実態に謎が多いのはこれが理由で、明智光秀が意図して全てを消し去ったのか、それとも単なる戦闘での事故だったのかは定かとする部分ではない。

 

 織田家の正式な家系図も帰蝶こと濃姫に関する記録もそうした焼失した記録の中にあったと思われ、それ以外の現存する書物に記されていないのは、信長の女性たちが公の場に登場しなかった事実としては察せられても良いと言えよう。

 秀吉の妻・ねねが信長に文を充てた点でもそれは察しが付く。

 本来、信長の妻に当たる人物が公または女中同士の宴などの場に出る状態だったならば、女性同士の相談事は信長の正妻に宛てる流れが妥当に思える。

 しかし ねね が直接信長に相談したという事は、信長自身で家臣ら女中の話にも耳を貸したという事が伺えるのだ。

 なぜそんなことを信長本人がやっていたのか?

 

 殆どの人間には理解できないかもしれないが、悪い意味でこう語れば納得するだろう…

 女中からの会話から家臣の動向を探る為。

 

 信長は女中たちの他愛もない会話から、家臣たちがどういう心情にあるかまで推察できた。そしてその推察を現状の行動やその他の情報と照らし合わせて把握する術を知っていたと言っても良い。

 それ故に信長にとって女中の陳情を聞くことは重要な公務でもあるのだ。

 勿論、その女中の心労や悩みを真摯に受け止めるゆえに、女中たちんも信長を信頼する訳で、いい形の意味で伝えるなら、女房衆も含めて家族ぐるみの絆で家臣団を纏めていたと言える。

 信長の側室を含めた妻側にこの役割を担えるものが居たのなら、信長の歴史上にその存在が記されていた事は言うまでもないが、実際には存在せず信長がその役割を兼任したという形で考える方が良さそうである。

 これは信長が自分の妻たちを蔑視していたおいう訳では無い。

 寧ろ…ここに記る吉乃と帰蝶が、その役割を担える状態になかったからだと伝えておこう。

 吉乃に限っては信長のそういう期待に応えられる存在であった事は何話かを通じて伝えてきたところだが、その吉乃は1566年の岐阜攻略前に他界している。

 そして濃姫こと帰蝶に関しては、以前にも伝えた様に子宝に恵まれず父・道三は兄・義龍に打たれ、その義龍は夫・信長と敵対した事で、精神的に辛い局面に遭遇した。

 気狂いを起こしたような事は無いが、それが下でうつ病状態が目立ち、信長にとっては女中を纏めるには厳しいという判断は有ったと言える。もしその様な状態でなければ、吉乃同様に帰蝶にもそれらを纏める器は有ったと言っておこう。

 信長の性格上、その帰蝶を通り越して公の場に他の女性を引き上げてしまう事は、寧ろ帰蝶のうつを悪化させることにも成りかねないため、寧ろ彼女を気遣って他の女性を公の場に出さなかったと考えてもいいだろう。

 ましてや…吉乃が生きていた際に、信忠の母と言う事で信長が正妻同様の扱いを考えた事実が有るのなら、信長もその浅はかな吉乃に対する情で帰蝶を最終的に追い詰めた事は、後に察した事であると言えるのだ。

 

 傾城の美女…ある意味ここでの吉乃の運命はそういう危うさを秘めているのかもしれない。

 しかし彼女自身が惑わして傾けた話では無く、全ては信長が望んだことで傾く話なのだ。

 

 土田弥平次を招集して野盗討伐を行う事となった信長らは、土田(つちだ)氏の居城(尾張)土田城へと向かった。

 予め滝川一益にはその土田城から盗賊団の拠点に襲撃を行う旨を伝え、盗賊団に対して一益の手柄と成る形とした。

 

 信長の部隊は那古野から清須を通ってそのまま西進するわけには行かず、前日に生駒屋敷のある小折に入ってそこから西へ清須を迂回して土田に向かった。

 その土田は現在の名古屋第三環状自動車道の清洲西インターチェンジがある場所周辺と成っている。

 そこから更に西に向かって7、8km行った場所に勝幡が有り、その勝幡から西南2キロ先に津島がある。

 

 小説的にこの事件を構成するなら、予期せぬ出来事とは信長の祖父にあたる土田政久がしゃしゃり出てくることだろう。

 政久からするとこの作戦は孫同士の共演になる。

 そしてまだ若い弥平次を補佐する意味で先陣を切って野盗団に突入するのだ。

 野党団はそれに備えて構えていた為、政久と弥平次はあえなく討ち死にする流れになる。

 更には作戦前に合流した信長は寧ろ弥平次の協力的な姿勢にほだされ好感を抱いた流れで、結果として祖父とその弥平次を謀計に嵌めて殺してしまった事を後悔する流れとなる。

 作者が小説的に構成を考えると以上の様な流れをまず思い浮かべた。

 しかし…真実は小説より奇なり。

 この言葉を踏まえて改めて状況を整理して考えると…

 

 前もって一益より信長と土田連合隊が襲撃を行う旨を知った野盗団はその拠点を見す見す手放すか、それとも交戦するかの選択肢を迫られる。

 彼らの拠点には盗品が積載されている状況も有り、拠点を捨て去ることはそれらを同時に放棄することにも成る。

 当時の野党団の状況を考えるなら金品と言うより、兵糧を保管している事が一番大きな問題として考えられる。

 いわばこの兵糧は彼ら賊徒を食わせる為の大事な生活源になるからだ。

 生活源でありその生活源を確保するための収入源となる盗品を放棄してしまう事は、ある意味彼ら組織の存続に係わる事態となるのだ。

 故に野党団は徹底抗戦を選択する事となるだろう。

 信長らの兵力は100程度、土田氏の拠点で集められたとしても300人か多くて500人。

 寧ろ300人の兵力を集めるのも大変だと考えた方が良い。

 その人数での戦いに成るゆえに、野党団は周辺賊徒の協力を仰いでそれに対抗できる兵力を揃えこれに備える形を取る。

 信長らはそういう流れに成る事はある程度想定できた訳で、それ故に先陣を切ることは寧ろ死地に突入する意味を知っていた。

 ところが…一益が報告した時期が作戦の前日と言うより、情報伝達に時間のかかる当時としては数日または1週間前に成ると考えると、野党団がそれなりに準備する時間もあったと言える。

 勿論土田側も信長から要請を受けた上で、自領の領民から兵を募らねば成らない。

 土田政久からすると小説論同様に孫の共演という喜ばしい事態ゆえに、寧ろ弥平次よりも政久が進んで募兵に努めたであろう。

 逆に弥平次と吉乃の婚姻で信長が嫉妬を抱いているなどとは考えもしなかったと言える。

 いわば時は戦国、仮に吉乃が信長の寵愛を受けていた女性だと知っていても、現代の様に恋愛感情の存在を理解する事は無く、むしろ妾の一人として扱いに留まるものとして考えたであろう。

 その反面、信長が野盗狩りをしている雄姿は耳にしていた事も有ってそれに協力する方が祖父の存在として当然と感じていた。

 それ故に土田政久自ら進んで徴兵に励んでいた。

 この動きは一益が野党団に伝えた報告と、土田氏の動きが別の密偵により合致する状況で確認できたと言える。

 

 土田政久の集める兵力がどれほどに成るかは測りかねないが、野党団は400名位の部隊を揃えた上で逆に土田城を急襲する作戦を考えた。

 いわば土田側は野党団がその計画を察していることを知らない訳で、野党狩りに慣れた信長の部隊と合流する前に叩いておくべきと考えるのが定石となるわけだ。

 

 これは信長側としても敵が先に動くことは想定外であった。

 

 さて…こちらが真実という形で伝えるのは、いわばこの土田政久であり信長の母方の土田の家系が歴史上から消えてしまうことにある。

 美濃土田(どた)氏と違い尾張土田(つちだ)氏はその地名こそ残存するも政久の名前以後の記録は一切存在していない状態なのだ。

 そこから逆算し、前野家文書の憶測部分など検証すると、尾張土田氏がどこかで断絶した事件が生じても不思議ではない。

 ある意味、天下統一目前までの大功を得た織田信長の母方の家系の記録が残っていないこと自体不思議と考えるべきである。

 本来ならば吉乃の家系となる生駒家同様に何らかの形で残っているべき家柄に成るのだ。

 そういう意味で弥平次と政久が野党団討伐の先陣を切って討ち死にしたとしても、政久の息子で弥平次の父親と成る存在は残ってしまう事になる場合、この流れとして辻褄が合わなくなるのだ。

 

 土田政久は野党団拠点襲撃の為、300名程度の人員を集めることに成功した。とは言っても300名を前もって土田城に招集しておく必要性はない。いわばこれは籠城戦では無いのだから。

 信長の部隊と合流する前に招集した兵が準備を整えていれば良いだけの話なのだ。

 故に政久はその合流当日の早朝に、土田城外の広い場所に集結させる発令を出したのみである。

 これは当時の形としては当然と考えるべきで、本来平時に城に常駐する兵力は殆ど居ないに等しい。

 本能寺の変で信長の近習であり信忠の近習の人数を参考に考えると、平時その周りの警護や雑務として招集された人数は50名から100名程度になる。

 そこから土田城の常駐兵を考えると30名から50名と考えてもいいだろう。

 そこに翌日の作戦に備えた兵糧用の炊き出しは寧ろ兵員とは別の女性たちの仕事に成ると考えても良いだろう。

 現実的な計算で戦国初期の城であり領主の屋敷の面積は100メートル四方もあれば十分で、そこにどれだけの世帯数が住み込みで居住を構えられるかで考えると自然と合点のいく人数となる。

 

 野党団はそういう状況を狙っての奇襲という事に成る。

 勿論、野党団がこうした襲撃を行えば、大名家は総力を挙げて彼らの討伐に動くことは十分に考えられる。

 なので本来は相手がどれだけ手薄でもこうした襲撃は考えないとも言える。

 しかし今回は信長が討伐の部隊を差し向けている状況なのだ。

 故に野党団は拠点を見す見す失うよりも兵糧や品物を他へ移す時間稼ぎを考えるのだ。

 土田氏を奇襲することで出鼻をくじく流れは成立する。

 いわば領民から兵を招集した者が突如居なく成れば、招集された兵は何も出来ない形で解散するしか無くなる。

 その上で信長の部隊が合流しても兵力差で野党団は守り切る事は適うという算段だ。

 その後に再度討伐隊を編成するにしても暫くの時は稼げる話で、その間に別の場所へ逃げて雲隠れすれば問題ないという事に成るのだ。

 ここまで考慮して野党団が寧ろ容赦の無い犯罪集団である事を考えると、彼らの土田城奇襲は皆殺しが作戦目標になるだろう。

 こうして土田城は奇襲を受け、その一族はあえなく皆殺しと成った。

 信長は一応の責任を感じるところもあって、土田城が奇襲を受けた知らせを聞くや、すぐさま土田城へ向かった。

 しかし時既に遅しで土田城は陥落し野党団は自分らの拠点に逃げ去った状態であった。

 信長の行動故に迅速な対応であった事は考えられ、政久が招集した兵を信長は吸収して自軍に加えた。

 そして襲撃を受けた土田城付近に陣を構え、そのまま予定通り野党団の拠点を襲撃する形を取った。

 

 元を正せば信長の謀計による事件である。

 無論、吉乃を手放したくない一心で弥平次を邪魔者として見ていたのも事実だが、信長自身その感情的な思考で謀計に嵌めて弥平次を死なせることに抵抗も感じていた。

 人間の心情にこうした状況下で心の天秤を掛ける時がある。

 ただ弥平次を騙して見殺しにするより、弥平次の器量を計ってその武運を見極めようとも考えていた。

 信長は暫くの時を得て、一益を使って謀計に嵌めている自分を恥じる部分もあって、弥平次に敵が備えを構えて挑む事は伝えるべきと思っていた矢先の話なのだ。

 勿論、その旨を信盛ではなく河尻秀隆に伝えたであろう。

 秀隆はそういう信長の心の変化に好感し、自分が上手く弥平次を補佐する形をも考えていたのだ。

 信長という人物は感情的な人間で、その感情が表に出ている時はかなり残忍な思考が先行してしまう。

 信長にとっては秀貞らが吉乃との関係を謀略によって妨害してきた事がそもそも許せず、故に謀略によってその妨害に対抗しようとしたのだ。

 しかし、よく考えてみれば弥平次は単に巻き込まれただけの存在でしかない。

 それゆえに弥平次を殺す理由が見つからない事に気づいたのだ。

 信長は弥平次という人物を見極めてから考えるという意味で自身の心に天秤を掛けるのだった。

 弥平次が仮に兵の招集をろくにせず、信長の作戦に支障を来たす状態を齎すのなら、そこで見殺しにしても構わないと考えていただろうし、臆病風に吹かれた将であるならそれはそれで吉乃を託すに値しないとして殺してしまう方向で考えた。

 寧ろ弥平次と言う人物がそういう程度である事を期待したという形にもなる。

 反対に信長に協力的で勇猛果敢な人物で有るのなら吉乃を諦めても彼を配下として大事にするべきと自分に言い聞かせていたのも事実だ。

 どの道弥平次を殺す理由としては明確には成らないが、信長としては最愛の吉乃を諦める理由を弥平次に求めていたと言ってもよいだろう。

 そういう覚悟もあってか、むしろそれを見極めることなく弥平次が死んでしまったこの事態は逆に自分自身を恥じるままの状態で結末したことになったわけになるのだ。

 確かに傍から見れば信長が土田城に赴いた時点で、信長が弥平次を謀計に嵌めた上、母方の実家を断絶させた形に映る。

 そういう世間体を意識して信長が土田城の弔い合戦に挑んだとも考えてもいいだろう。

 しかし、信長の性格とその後の本能寺の変までの行動を考えると、寧ろ世間体を気にして行動を考える人物ではない事は伝えられるだろう。

 いわば信長がこの弔い合戦に挑む理由は、自分自身の恥ずべき結末へのけじめでしか無かったのだ。

 

 この弔い合戦にあたって兵力的には土田の兵を合わせて互角であるが、本来敵の拠点を攻めるには少ないとも言える。

 寧ろ無駄な犠牲を生じさせること嫌う信長にとっては危い戦いとなる。

 作戦を練るにあたって佐久間信盛は那古野から援軍を募るべきと進言した。

 これに対して河尻秀隆は寧ろ現存の兵力で戦うべきと唱えた。

 その理由の一つは信長の今回の作戦がそもそも無謀なものであったと評価されることは、見す見す土田弥平次を謀計に嵌めるだけの行動に映るという点を危惧してのものである。

 その上でこの兵力で敵を殲滅できることを証明するべきという考えだ。

 そしてもう一つの理由は今まで積み重ねてきた実戦から、作戦次第では野盗団程度なら楽勝できるという算段である。

 いわばこれまでの集大成をここで実践すれば勝てると言う自信だ。

 

 歴史的な意味として仮にこの作戦で那古野から援軍を求めたとしたら寧ろ織田弾正忠家の正規軍の弔い合戦として史実に記録が残ってしまうだろう。

 逆に史実の記録として残らない話で、後に隠蔽されるような事実として考えるなら信長の悪ふざけの範疇でなければ成らない。

 ある意味、ここで寧ろ野盗団に臆して弔い合戦をせずに逃げかえることも可能だ。それならそれでより信長のうくけっぷりが証明される。

 しかしそれでは信長のその後は暗愚のまま終わってしまう事にも成りかねない。

 考えなければ成らないのが、この後に発生するお家騒動で、誰が信長を信用するかという話にもなる。

 いわば恋路にのぼせて恋敵を謀計に嵌めただけの人間に終わり感情任せの無能な人物でしかなくなってしまうのだ。

 

 もう一つ考えるべきは、信長初期時代の戦い方が少数精鋭であった点である。

 少数精鋭で戦う場合、その兵力でも勝てると言う自信がかなり備わっていないと軍の統率すら危うくなるのだ。

 勿論、一朝一夕でこの少数精鋭の自信を齎せるとは考えにくく、かなりの実績が伴ってものだという事を知っておかねば成らない。

 いわば指揮官にいくら自信があってもそれに従う精鋭が同じ様に自信を持てない場合、彼らは臆して戦えなくなってしまうのだ。 

 

 そして秀隆同様に信長にもその自信が備わりつつあった。

 ある意味、兵力差の互角状態ならその集大成を試してみる機会ととしては申し分のないことという自信である。

 先にも述べた様に信長は寧ろ世間体は気にしない。

 むしろ信長にとっての興味は戦国の世で絶対なる勝利の法則を見出す事だった。

 

 ここまでの野盗団、いわば野伏とも野武士ともいう敵を相手に経験を積んできた。

 勿論、それらの構成人数は30名から50名、多くて100名程度なので100名前後の部隊を編成する信長からすれば十分に勝算がある中での経験である。

 そこには基本的には沢彦の指導もあって、徹底した現代風にいうフォーメーションであり陣容編成を用いた戦い方で味方に被害を出さない形の演習でもあった。

 いわば無暗な乱戦になる形が被害を大きくする要因でそれを避け、前衛の盾持ち隊が敵の攻撃を受け流しつつ、前衛の隙間に割り込む敵を後衛が長槍を振り下ろしたり、弓で射止めたりする形を徹底する編成で守りながら戦う練習でもあった。

 仮に陣容が崩れてしまった場合は、河尻、佐久間、森らの大人衆が割り込んで補佐する形を取りその分数的有利な状況で部隊に被害が出ないように配慮してのものでもあった。

 演習の当初はこうした流れで進んでいった。

 そしてこうした実戦形式の演習を繰り返す中で、信長の戦術眼とも言うべき洞察力は敵の反応を様々な形で見極めて行ったのだ。

 敵が弓を撃ってくる距離感であり、おおよそその弓が届く範囲。

 更には乱戦を仕掛ける、いわば敵が突撃してくるタイミングなど。

 この様に色々な反応が見え始めると、信長はもっと別の反応を探りたくなり、敵が突撃してきたタイミングで全力で逃げてみたり、時には四散するように逃げてみたりしてその都度敵の反応を観察した。

 基本的にはこちらが構えてる状態に突進してくる場合は横一列に歩調を合わせて近づいてくる。

 ところが全力で逃げるとその追撃は自然と縦長に成ってしまう。

 いわば人それぞれで走る速度が変わり、足の速い者は前に、そして遅い者は後ろに成ってしまうのだ。

 また四散して逃げる場合、敵は同じ様に四散して追って来る。

 普通に考えれば当然の反応である。

 勿論、逃げる相手をあえて追わないケースもある。

 その場合は陰湿なほど何度も同じことを繰り返して敵を挑発してみたりもするのだ。ここでも色々な反応を探りつつ、また色々な手立てで相手を挑発して行く。

 こうした実験と検証を繰り返す話を信長は河尻秀隆や森可成と語り合った。勿論そこには信長の悪友たちも混じってのものだ。

 逆に佐久間信盛はさほど興味を抱かなかったが結果が出れば納得した感じだ。

 後に信長が秀隆や可成を大事にしたのはこうした科学的な話が通じる相手だったとも言える。

 いわば信長がこの演習を通じてやっていた事は戦術という科学の実験だったのである。

 そしてこの科学実験の集大成が少数精鋭で戦う術を可能にするのだ。

 殆どの人は上記の反応で何が出来るか…

 恐らくまだ解らないと思う。

 佐久間信盛からすれば、全力で逃げる敵を追えば自然と隊列が長くなるのはある意味当たり前な事で終わるのだ。

 ところがここで数的有利を生み出す作用が生まれるのだ。

 いわば縦長となって追ってきた先頭に居る人数は、密集した状態の数より自然と少なくなる。

 そこへ追われる側が一斉に切り返してその先頭を数的有利な状態で叩くと、敵の先頭集団は容易く崩れる。

 そこへ後ろから追加で敵が追いついてきたとしても、先頭集団が崩れた状態では同じ形勢のままに成るのだ。

 解かりやすい形にすると、極端に20人対100人の戦いで乱戦に成ればそこは1対5の戦場になるが、100人が縦長になってしまいその先頭集団が5人程度の状態で追って来るなら、20対5の状態で敵を叩ける。勿論、追撃の距離にもよるがその時間は一瞬と言っても良い。ただその一瞬でも20人でその5人を叩ければ十分なのだ。

 この20人は少数でも精鋭故にそれだけ選りすぐりの人間な訳で、20対5の状態なら楽勝と言っても良い。仮に20対10の状態でも十分だろう。いわば敵は縦長に追って来るため、同じ乱戦でも数的有利な状態を維持しながら次々と仕留めて行けば最終的には100名全員を圧倒できるという事だ。

 単純にはこういう事だが、この状況を引いては戦い引いては戦いを繰り返して上手く敵を削っていく形で用いるのだ。

 また四散して逃げる場合は、寧ろ視界の悪い森林地帯が効果的でもある。

 いわば四散して逃げた状態で敵を四散させるのだ。

 ただし四散しても3人から5人組で行動していれば、視界の悪い状態で分散した敵を少しづつ叩く場合は数的有利を得られる。

 ある意味精鋭であれば一人づつがゲリラ戦術で戦う事も可能といえる。

 これは宮本武蔵が吉岡道場相手に用いた方法とほぼ同じだ。

 こうした形勢を条件で有利に持ち込む研究の成果が信長と秀隆が抱く自信でもあるのだ。

 

 信長らが弔い合戦に備えるころ、この時期既に古渡から末森城に移った信秀の居城では大事件として扱われていた。

 そもそも弥平次と吉乃の話は、林秀貞の懸案である。

 故に実家を失った土田御前は先ずはその秀貞を責め立てた。

 普通に考えれば悲しみと怒りをどこへぶつけたら良いかで困惑するような事件で感情的に成ってしまう事は理解できる。

 しかしこの土田御前は織田信長の母親である事を忘れては成らない。いわば遺伝子的な意味で信長同様に精神的な強かさを持ち合わせているのだ。

 更にこうした強かさを持つ女性は悲しみを憎しみに変化させて考え始めるのだ。

 いわば人間故に実家を失ったことを一時的に悲しむが、現実主義的な思考で考えると結局は元には戻らないことを理解する。

 その上で悲しみを怒りに変えてその矛先を誰に向けるかを考え始めるのだ。

 

 次回は強かな母子(おやこ)に続く…

 

どうも…ショーエイです。

吉乃と帰蝶の話…前・中・後①②

と4回に分けて進めてきましたが、

まだまだこの流れは続きます。

と、言うのも帰蝶こと濃姫が嫁ぐ話までを想定しながら、

その話にまだ到達できなかったという感じです。

ですが、とりあえず吉乃の前夫がどう死んだのか、

そしてその事が織田家のお家騒動に発展する所で〆ておきます。

 

さて、今回はここで生兵法の話をします。

現代社会に於いて古の兵法書の知識は

十分なほどに浸透している言っても良いです。

それらに書かれた文言に関しては

僕より遥かに知っている人が多いのも事実です。。

しかし、それらの9割は初歩の理解しか得ていないと言っても良いです。

残りの1割の大半は、中級レベルで留まっている感じなのかな?

初歩レベルで留まっているかは、

実際にその内容をどれだけの実体験の中で理解できたかで変わってきます。

 

これは曹操の中訳の内容とした上での話にしますが、

風林火山という言葉を知りながら

使いどころすら解からないでいる人が多いという事です。

 

疾きこと風の如し、侵略すること火の如し、静かなること林の如し、動かざること山の如し。

 

大抵の人が生兵法で終わっているのは、

この言葉を自分の行動を裏付ける為だけに使っている点です。

特に、今は動かずにじっとして居ようと決断した事に対して、

周囲に「動かざること山の如し」と言うだろうと

自分の決断を力説するために用いる場合がこれに値します。

政治家にもこんなの多いですよね。

もし「動かざるごと山の如し」を適切に理解しているなら、

その自分の行動に対して、

「今、自分が先に動けば相手はこちらの意図を察する可能性があるため、ここは相手が動くまで待つ」

という明確な説明が出来るはずなのです。

寧ろ後者のように明確な説明をしてもらう方が、

聞き手も解かりやすいだろうと思います。

似たような意味で「静かなること林の如く」が有りますが、

こちらは寧ろ「沈黙」の心理効果を意味する。

これらを交渉術に応用して考えると、

相手が沈黙してしまうと色々と

こちらは動揺して色々な方向で考えてしまうケースは

多くの方がたは経験されていると思います。

 

交渉術のなかでこうした心理効果を用いて

沈黙の林の如くの効果と、

山の如しの効果を併用すると、

相手はこちらの考えを探りたくなって

ついつい口を開いてしまうという状態には導けます。

ただし、相手が口を開いても

その時点で相手の意図を読み取れなければ

所詮は単なる自身のパフォーマンスでしかない訳です。。

ここで場数を踏んだ経験者は

ある程度相手の意図を察して

次の対応を考えるところまで繋げられるわけです。

ここで中級レベルとして「風林火山」使い方を

体現していることに成るわけです。

いわば林に当たる「沈黙」と

山に当たる「不動」を用いることで

どういう反応を引き出せるかを理解していることになるのです。

 

ただし、これがまだ中級レベルとしているのは

相手が素人…いわば動揺しやすい相手であったり、

交渉弱者という立場で

寧ろ自分に逆らえない人を相手にした場合の話だからで、

元請けが下請けに注文を付けるような場合の話で

通用するレベルと言っておきます。

 

では上級者はというと…

同等の交渉、または交渉強者相手に

風林火山をどう用いるかを心得ていると言っても良いでしょう。

 

説明する時は烈火の如く話し、

聞くときは林の如く静かに耳を貸す。

動かしてはいけないポイントを山の如く定め、

引き際は速やかに行う。

 

そもそもの解釈を風林火山のイメージで考えるのではなく、

寧ろネゴシエーションの基本を

風林火山に当てはめて理解する感じです。

 

そもそもが曹操の中訳だとして説明している点で、

この表現には「穴」が有るわけで、

むしろ当たり前の事を言っているに過ぎないのも事実です。

ある意味、風林火山を知らない泥棒でも、

侵入する際は林の如く息をひそめて活動をする。

彼らは寧ろどうやって

息をひそめて侵入するかの術を知っているわけです。

そして難しいのは山の如く動かない形を作る事で、

これは敵に翻弄される事のない布陣を

築いた上で成立する話に成るわけです。

いわば山の如く動かなければ良いのではなく、

敵が迂闊に踏み込めない布陣ゆえに

それが動かぬ山の様に見えて

初めて山の効果を得られるのです。

 

殆どの人間は風林火山の言葉上の意味で

実践する所で留まるわけですが、

実は風林火山を実践する前段階で

どう機能させるかを考えねば

全く意味がないという事を知らないわけです。

 

兵法に限らず万の書物を読むことは大事ですが、

ただ単にその文字を記憶するのではなく、

またその内容通りに記憶するのではなく、

自分なりに内容を検証して考えながら読まなければ、

何も吸収していないのと同じなのです。