うつけの兵法 第三十四話「吉乃と帰蝶」前編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三十四話 吉乃と帰蝶 前編】

桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕



 信長の正妻という立ち位置を巡っては、2人の女性の名前がよく挙がる。一人は道三の娘で知られている濃姫こと帰蝶である。
 帰蝶に関しては少ない情報であれ、信長公記という史書にも記されているため、ほぼ存在として間違いは無いだろう。
 しかし、映画やドラマ、またはゲームなどで信長の妻として活躍する姿は実はどこにも記されてはいない。
 むしろ斎藤道三の娘としてのイメージから創作されたものが多いと言える。
 ただし帰蝶以外に信長の正妻として登場する人間は居ない。

 一方の吉乃に関しては、信長の嫡男である信忠の母として知られているが、実は信忠の生母は不明という記述も多く、その実態は不明である。
 信忠の後の子、五徳姫や信雄の生母としてはほぼ認められた存在であり、これらを精査して考えると吉乃は帰蝶の後妻として正妻の座に就く存在ではない事は明白なのだ。
 一方で織田家家臣団の妻、ある意味秀吉の妻 ねねや前田利家の妻 松などは良妻として登場する。

 信長が男尊女卑であったかという点で考えるなら、その史書に女性の活躍がない点を考えるとそう見えても可笑しくは無いのだ。
 ただし、既にこの小説の中でも語ったように、信長の軌跡を精神分析すると信長の本性は女性的であると言っていい。

 昨今の信長のモデルはかなり男性的なイメージで作られているため、実は史実の信長イメージとは些か合わないように見えてくる。
 何が合わないのか…多くの人は寧ろ怪しむ点で錯覚するだろうが、根本的に男性的イメージの象徴として作り出された信長像を見て頼りなさを本来感じるか?

 という点を一度見直してみた方が良い。

 いわばうつけと呼ばれた若い頃から男性的なイメージのままで活動していたのなら、戦国の世を生き抜く意味では寧ろ期待される感じで映る。こうした小説やドラマを見る読者や視聴者も、寧ろ期待はずれなイメージは感じないであろう。
 素行の悪さなどを強調して、不良少年ぽいからバカなイメージがあったと感じる点で強調している部分もあるが、父・信秀の戦ざんまいの織田弾正忠家で考えるなら、寧ろその荒々しさは期待を持つ方に感じると言える。



 では…女性的な信長とは…
 言っておくが信長が女性という話では無い。
 イメージとしては宝塚劇団の女性が演じた男性という感じだ。

  大きくこの違いを述べるなら、男性的イメージでは威圧的な雰囲気で周りを従える感じになり、女性的イメージだと自由奔放で気が優しい。言い方を変えるなら男性好みのイメージと女性好みのイメージとも言っておこう。
 まあ、女性も好みは其々で、ヤンキーぽい人が好きという人も多いだろう。

 しかし、仕事をする上司で考えた場合、女性はヤンキーぽい威圧的な男性をあまり好まない。逆に男性同士ならそういう姿は頼りに感じるとも言えるだろう。
 これは逆の場合でも同じである。
 女性同士なら威圧的な女性上司は頼りに感じるが、寧ろ男性はそういう女性上司を嫌うだろう。
 女性の社会進出の話で女性が不満に感じている部分はこうしたイメージの逆転が影響している点とも言ってよいだろう。

 女性が男性を従える場合、男性を威圧するように演じるのは実は逆効果で、これは男性から足元をすくわれる要因、いわば男性が反逆心を抱く要素であることを知っておいた方が良いのである。
 まあ、近年では女性的な男性も増えてきたので、イメージは徐々に変わりつつある点は付け加えておこう。

 では…信長が女性的という点を説明しよう。

 単純に言えば男性が嫉妬するほど女性にモテるという感じだ。
 威圧的で強さを象徴する形の男性的なモテかたなら、むしろ男性は嫉妬するより憧れを抱くだろう。

 もし信長がそうであったら、光秀は寧ろ謀叛に走らなかったかもしれないとも付け加えておこう。

 昨今の役者が演じる信長というのは後者に近いのだ。

 かといってナヨナヨした感じであり、優しいだけのイメージとも実は違うのだ。
 寧ろ芯の強い女性が母性の気配りを以て制する感じで、父性とは違う包み込むオーラを発するという形で表現するしかない。
 父性のオーラは寧ろ厳しさの中に人生の教訓を与え、子供たちにチャレンジ精神を植え込む。
 母性のオーラは優しさの中に支える者が居ることを伝え、子供たちを鼓舞する。

 これが戦いの中で従える者をどう魅了するかというと、
 父性は前線に立って自らが側線して兵を奮い立たせる。
 母性は後方にて兵を鼓舞して、後方の患いを断つ。
 ある意味、父性は関羽の様な将軍で、母性は諸葛孔明の様な軍師と言えば解かりやすいかも知れない。
 信長は寧ろ自ら前に出て戦う事が多いとも考えられ、関羽の様なイメージも先行するだろうが、本質は孔明と同じ軍師型である。

 これは実は史書の中に証明されている。

 一つ付け足しておく事は、信長流は少し異質として見た方が現代人には解りやすいかも知れない。

 まず、関羽の様な将軍だと自らの手柄として敵将を自らが討ち取った記録が存在する。
 一方の信長にはそういう記録は皆無といっていい。
 今川義元の首を取った記録も、結果として義元に組み入ったのが服部小平太で、首を取ったのが毛利新介と成っている。

 ただし信長自身もその場面に居た点は十分に考慮される。
 もしこれが関羽の様な武将なら、恐らくその手柄を他の者に譲る事はしなかったと言える。いわば自らの手で首を取りに行っただろう。

 逆に…曹操ならば、将軍として自らの直属部隊の手柄であった場合、軍全体の士気を考慮して自らが討ち取った形でアピールするのだ。
 その方が曹操自身の神格化が強まり、自身が率いるイメージが軍全体を支配する意味で強固な信頼として構築されるからである。

 この時点で信長の思考が些か父性的な思考と異なる点を理解して欲しい。
 いわば信長の近習は軍としては信長の一部で、それを信長の手柄として伝えても申し分ない。これは多くの戦国武将であり、三国時代に限らず中世ヨーロッパの世界でも同じなのだ。

 そしてその報奨は寧ろ部隊の中の手柄として与えれば良いのだ。
 これは現代の企業でも同じと言えよう。

 ところが信長は一介の将であっても、その手柄は手柄として大いに称賛し自らの手柄とする事はしなかった。
 むしろ信長は自身の神格化や体裁の為、手柄を利用するよりも、どんな身分でもどんな手柄でも公正に評価を与える事を寧ろアピールして個々の兵士たちの活動に鼓舞を与える形を取ったのだ。

 ここで父性的な方法だと、自らに付き従えば勝利は確実に得られるというアピールとなり、目標を達成する為に力を合わせて行こうという団結力に結びつく効果が得られる。

 一方で母性的、あるいみ信長的な方法だと、個々で手柄を求めて奮闘すればそれだけ個々の手柄として賞賛されるという、いわば兵士一人一人に遣り甲斐を与える意味で鼓舞するのだ。

 現代でこそ母性的な方法の方が当たり前の時代に感じるだろうが、これがネット上の評価として騒がれると・・・他力本願の様な弱弱しいイメージで伝わる点でも理解して欲しい。
 いわばその人は何の才能も無く、優秀な人に支えられているだけというイメージにも成りかねないのだ。
 

 人間の葛藤はこういう部分で生じ、これは男性に限らず、女性でも同じで、結果として両方が父性的な強いイメージを求めようとするのも自然心理であると言える。
 弱いイメージに対して、他人は「頼りない」とか、「利用されているだけ」という心理が働く点を危惧してしまうことを痛感するゆえにどうしても強く見せたいと考えるのである。

 ゆえにそうした概念を払拭する意味で、芯の強さが必要と成るのだ。
 芯の強さが母性的または女性的な要素である点は、女性が男性よりも力が弱くなることを理解しているからと言っていい。

 いわば決して勝てない部分を認知することで、その勝てない領域で勝負せず勝てる所を見極めて挑む事が求められる点に特化した意味で考える所と成る。

 男性の思考では全てに於いて自らが最強と成れる可能性を感じられる。いわば一番を目指して努力する要素がそこに有るのだ。
 ところが女性は男性を意識して最強を目指そうにも生物学的な壁がどうしても立ちはだからる為、徐々に最良で我慢するしか無くなる。我慢するという表現はある意味その女性が女性であることに悔しさを感じるという意味で表現しておこう。

 ただし、一つ付け足して言っておくことは・・・これは一般的な心理で、単純に強さを求める意識が先行する場合のケースだ。

 寧ろ本当に優秀な人間は…
 ここでも再度、孫子の言葉を用いるなら、

 「己を知り、敵を知らば、百戦危うからず」

 である。
 いわば女性的な概念の「最良」で有る事を目指すのだ。
 先ず少し悪い表現の仕方でこれを説明しよう。
 男性的な概念で「最強」を目指すうえでは、自然勝てない相手に屈するという従属心理が働く。
 なので最強であるものが弱い者を従える構図も人間社会で意外と成立する。ただし…これは猿を含め動物的な心理とも言っておこう。
 因みに日本ではこうした心理が強く働きやすい。

 ただし格闘技という意味で最強を決めた場合で、どれだけその人物が強くても、銃弾一発食らわせれば殺せる。
 むしろ海外の世界ではこういう思考が先行するといえる。

 日本人ならば、

 「素手の相手に銃を使うのは卑怯だ!!」

 そういう思考で軽蔑を与えるだろう。
 なので日本ではボスザル崇拝の思考が生じやすいのだ。

 それでも動物的な意味で崇められるボスザル的な状態が人間社会を統べる意味では邪魔であり不要だと考えるなら、そんな評価を気にもしなでこのボスザルを屈服させる。
 それが金という手段なのか、組織的な暴力なのかは人間社会として手段は色々とある。
 この論理と思考が「芯の強さ」という部分に成って来る。
 いわば他人がどう考え、どのように評価しようが気にもせず、自分の選択が最良に成ると信じる姿勢だ。

 前述の様に悪い表現の仕方だが、こういう事である。

 実際にその最良に成る意味で、現代では学歴であり権力を握る方面で人間は努力をしているのだ。
 ただし、自ら身体的な最強では無く、権力的な最強を目指す意味で考えるならこれも寧ろ「男性的」要素として言えることに成る。

 では、最良=芯の強さとは…
 軍師の意味で最良という部分を言うなれば、それは指揮官としての能力だろう。
 スポーツの世界、サッカーを概念にするなら、フィールドでプレイする人間は身体的な努力を究極までに鍛錬した人たちである。
 それらを統べて最大限に活用し勝利へ導く者が指揮官である。

 いわばプレイヤーとしては身体的に最強のレベルに成れずとも、指揮官としてなら最良に組織を動かせるという意識がここに成る。

 ところが…身体的な最強を極めた人間たちが、身体的な最強を放棄した指揮官を馬鹿にして見ることは多々ある事で、その上で指揮官として最良に組織を動かすことの重要性を説き、その上で従わせるには「自身の負い目」を省みずに、寧ろ身体的な労力とは別の世界であるという信念で、「芯の強さ」を示さねば上手く機能しない部分でも有るのだ。

 勿論の事、いわばフィールドでプレイする現場の心理や駆け引きを経験すらした事ない人間に、その部分が理解できないだろう。
 そういう事も含めて「自身の負い目」として圧し掛かるのだ。
 言葉で伝えるより遥かにこのプレッシャーは重いのも事実である。
 ゆえに普通の人には中々耐えられるものでは無いし、それを払拭するには指揮官としての実力を証明するしかないのも事実だ。
 有名な話で言うなれば、モウリーニョという有名な監督がその成功の一例と言っていいだろう。

 女性の中からこうした人物が登場しないのは、女性には更に男性と女性の違いが双方の意識の衝突面として付け足される分、それを上手く緩和させる表現であり説得術が中々見つけられない点にあると言っても良い。

 寧ろその女性に男性指揮官を凌駕するほどの才能があっても、組織がその才能を信頼して従順に従ってくれなければ、その才能通りのイメージで機能せず、結果に中々結びつかない状態で終わるという事だ。
 これは男性同士の間でも「負い目」の中で発生する点は前述の通りで、男性で有っても難しい部分であるのだ。
 まあ、女性が苦戦しているのはこの部分になるだろうし、女性が主張する壁はここがネックとも言っておこう。
 ただ、身体的な努力面でどうして勝てないという意識の中で、そこを敢えて努力して克服するのか、それとも早々と勝てるフィールドを見出すのかのは人それぞれであるが、自己のベストを目指して強さを求めるか、強さを放棄して最強を統べる道を選ぶのかの違いと言っておこう。

 その選択肢の意味で見ても、諦めずに努力を積み重ねる方が「男性的」に好意を持たれるイメージで、寧ろ無理な勝負を避けて勝てる所で勝つ道を選ぶのは好意的にとは言わずとも、賞賛される選択として「女性的」イメージになると言えよう。

 長い説明に成ったが、信長が女性的であるというのはこういう部分である。
 軍師という存在は極めて女性的と言っても良いが、いわばそれは体裁を気にせずに手段を選ばないという事にも成るだろう。
 ところが信長のそれは、宝塚劇団の男役としての女性を魅了する男性的な部分が付与されるため、人間として恰好つけの部分を残す違いが有るのだ。勿論、信長に限らず良才として名の通った軍師という人たちにも言える事ではあるが、これが公正明大な采配という部分で寄与するのだ。
 ある意味この部分が信長と近しい所で接する男性を魅了した部分に成ったのかも知れず、逆に遠目で見る男性を嫉妬させた部分であるとも言える。

 そして曹操の様な人物であり、明智光秀の様に男性的な魅力を追求する人間にとっては許せなかったのかも知れないと言っておこう。
 男同士の世界では、万能としての強さを強調したがる。
 ある意味、槍に特化した試合では勝てなくとも、異種格闘の意味で自分がその人物に勝てれば自分が強いとアピールできる。
 ボクシングという上半身だけの試合では勝てなくても、蹴りも含め、寝技を含めた勝負なら、ボクシングの世界チャンピオンを倒せるという主張もその一環である。
 ところが信長からすればそこで競い合って強さを求める事にすら価値を感じないのだ。

 寧ろ・・・槍裁きでは勝てない、剣裁きでは勝てない、石投げでは勝てないで、言い方を悪くすれば諦めてしまう、というより勝負しない人に感じられるかも知れない。

 いわばプロのサッカー選手の様に巧みにボールさばきをする人間以上に巧みにボールを操ろうと努力はしないのだ。
 むしろそういう才能に対しては、その人物が他の相手に負けることが無いように鼓舞して応援するのだ。
 こうして自分の部隊全体がそれらを結集させて総合的に強く成る事を求めていくという感じに成る。

 その中で総合的に部隊全体として足りないと感じる部分で自身を特化させるのだ。

 この時の信長の悪童メンバーで新介と吉法師の頃の信長がやりあったエピソードを盛り込んでいるが、剣術では信長の方がまだ上手である。しかし、いざ相撲となると信長は新介に勝てないのだ。
 史実にはない事だが、そういう事にしておくとする。

 普通の男の子なら、臣下である新介に相撲で勝てないとういう状態はナメられる気がして許せないと感じるだろう。
 ゆえに何度も挑み、下手したら主従の威圧を以て相手が負けるまで挑み続けても可笑しくはない。

 ところが信長はそういう評価に対しては公正で、寧ろ相手が本気を出さずに自分が勝たせてもらう事の方が気に入らないのだ。

 それは剣術に関しても、槍術に関しても一緒と言っていい。
 ゆえに信長との勝負では手を抜いてはダメなのだ。

 逆に本気でやりあって仮に信長が勝てたとしても、相手が自分より弱かっただけか…と寧ろ喜びを感じないのだ。
 これが信長が持つ女性的本質である。
 いわば信長は全ての勝負に於いて自分が最強に成れるとはおもっておらず、世界全体を見つめた場合、自分より優れた人間は山ほど居るだろうことを認めてしまっているのだ。

 いわば新介との相撲で、新介を倒す為に試行錯誤してみたが、中々敵わないし寧ろ新介以上にパワーを着ける意味では追いつかない。しかし、いざ木刀を手にして戦えば新介より自分の方が強い。

 ならばその相撲という土壌で頑張っても意味がないと感じるのだ。

 しかし、自分を負かすほど、ある意味自分が認めた人間が最強として居てくれれば、自分の兵力としては満足と考えるのだ。
 見ようによっては負け犬の様にも見える発想で、一歩間違えば負け犬に成ってしまう。

 これは剣術に於いても、岩室の方が上手いと感じる部分でも同じなのだ。
 逆に言えば、信長の悪童の中で最強となったものは決して他で負けては成らないというプレッシャーを与えるのだった。
 これも女性が寧ろ男性に求める所に似ているのだ。
 いわば自分を守る意味で強い男性を求める部分と言っても良い。

 ただし信長は全てに於いて勝てないと諦めている訳では無い。逆に邪道、いわば剣道の流儀から離れた自由な発想の世界でなら勝つ方法は見いだせるし、相撲に於いてもいざ首を取るという勝負なら勝てる自信はあった。

 これは戦の世界でも同じで、古来からの戦の流儀で勝負するなら信長は勝てないかも知れないが、その流儀から外れて新しい発想を盛り込んで確実に勝つ為の勝負なら絶対的になれたのと同じだ。その極みが長篠の戦いだったのかも知れない。

 そして…これが「うつけの兵法」の神髄なのである。

  ある意味、こうした発想の根源は庄内川で年長の八郎たちを相手に戦ごっこしていた事でも培われた。
 身体的に上の相手に挑んで試行錯誤して行くうち、強いだけが武器では無い事を学んだ結果としても伝えられると言えよう。

 現代の男性であり女性からすると、こうした思考で柔軟に生きていく事は当然と考えるだろう。

 しかし、信長の違いは負けを受け入れても決して屈服しないことにある。ある意味他の手段で相手を凌駕するつもりで常に居るのだ。

 部分的に突出した才ある人間からすると、寧ろ信長のその強気とも言える姿勢は腹立たしくも感じるだろうが、信長はそれを証明できるゆえにそうした相手に嫉妬を与える。そしてまるでその部分的な才であり努力を馬鹿にしているかのように見えるのだ。

 才ある女性が男性から妬まれる思考的要素として信長の考え方は寧ろ多くの裏切りを招く要因であったのかも知れない。

 さて・・・話を戻して・・・

 信長の本質が女性的であったがゆえに、寧ろ女性が活躍する場がなかったのだ。
 秀吉の浮気話でその妻のねねが信長に相談に行った逸話がある。
 普通に考えるならこの相談は信長の正妻が受けるべき話で、逸話として残す場合でも同じで、寧ろ信長が正妻の濃姫辺りから睨みつけられた様な雰囲気の方が話としては面白く映る。
 しかし、逸話として残る意味でも、ねねが相談した相手が信長であったという事だ。ある意味、逸話で考えるより実話として考えても良い内容に成る。
 それだけ女房衆であり女性からしても、信長の見識は信頼されていたと思われる。

 また文官として村井貞勝といった優秀な人物が居るが、実は信長には軍師らしい軍師が全くいない。
 信秀来からの林秀貞にしても、秀吉の竹中半兵衛にしても、黒田官兵衛にしても信長の軍師という立ち位置には居ない。
 または明智光秀もそういう立ち位置になれた人物だろうが、普通の将として活躍しているに過ぎないのだ。

 いわば信長は軍師要らずの君主なのだ。
 そういう意味では賢妻女房の存在があっても良いように見える。
 そこで濃姫の存在を思い描いてしまうのも有りだろう。

 しかし、本当にそうであるならば確実に史書のどこかに記されているはずで、信長があえてそこを隠すことは性格的に考えられないのだ。
 そういう事も踏まえて帰蝶こと濃姫の存在があまり記されていない点を考えなければ成らない。

 先ず、濃姫以外に信長の正妻の記録がない点で考えると、信長は濃姫を正妻という立場維持していた。
 様々な説があるが、濃姫が仮にどこかで早世した場合でも、信長は正妻を変えることはしなかったと言える。
 見方によっては美濃衆を従える意味で、濃姫の存在を利用したとも言える話成るが、寧ろ斎藤道三の遺言を元に美濃攻略を進めて稲葉一鉄らを調略したのなら、天下布武はその道三と信長の共作であること徹底する方が良いのだ。
 その意味では濃姫が正妻で有り続けることが大事であり、信忠が濃姫の子として嫡男になった点も大事に成るのだ。

 仮にこうした心情を利用するなら、信忠に家督を譲った時点で濃姫を避けても良い話にもなる。
 これは足利義昭との関係でも同じで、信長は家臣団の心を利用するという意味でこうした政略的な公約を利用したのではなく、寧ろ公約した事を忠実に守らねば彼らの公約に対する忠義に背くことに成る点を常に意識していたと言っても良い。
 ある意味、キレイごとに見えるかもしれないが、これをキレイごとと考えているのは逆に愚かと言っても良いほどの話に成る。
 信長は心の嘘は、その行動で暴かれる事を知っており、信長が人を見る上では公約と行動または行為、別な言い方をすれば姿勢が合致しないものは信用しないのだ。
 自分がそうであるように他人に対してもそこは常に誠実なのだ。
 計算で誠実を装っているか、本当に誠実なのか、本心は解らないが結果として見え方は同じなのだ。
 それ故に計算であっても本心でなければ成立しない話と言えよう。

 では、計算でこの誠実さを利用する場合、誠実に守っていく事でどういう不利益が生じるかだけが焦点と成っていく。
 いわば正妻の地位を濃姫から他に移す場合、気持ちが他の女性に移っていたとしても喜ぶのはその女性とその一族位。
 軍全体を統べる上では逆に不誠実さで家臣団の忠義が離れるより、その女性や家族が離れる方がマシと考える。

 計算で無く誠実な意味で考えた場合、むしろその地位をあえて求めるような女性では自分の側に置いておく価値は無いと考えてしまうのだ。
 また本心から道三を立てる意味においても、道三は既に死んでしまっているゆえに敵対する不利益は無い。ちゃんと立てた上で美濃衆の心をつなぎ留めておくほうが、自分だけの手柄にするよりも効果的。無論、尾張衆は新参者を良く感じないだろうが、彼らの関係を繋ぐ意味では道三あっての信長であり尾張の躍進と定めておくほうが寧ろ家臣団の団結としては効果的なのだ。

 結果…信長は本気で道三を立てている。
 本気で立てているから、どこにもボロが出ないのだ。

 秀吉の場合、本気で信長を立てていなかったから色々とボロを出す。彼の言葉の節々でも見れるように、行動でもハッキリと解る。

 それと比較して見れば、信長のそれには嘘が見えないのだ。
 嘘が見えないほど本気でやるゆえに、全てが計算であったのなら正に化け物に見えてくる。
 嘘を用いて人を欺く人間には正にそう映るわけで、秀吉は寧ろ信長のそういう所に恐怖を抱いていたと言えよう。光秀もそう感じたのかも知れない。

 いわば濃姫こと帰蝶を正妻として維持していたのは、濃姫に如何なる問題が発生していたとしても、信長が道三からの遺言を誠実に受け継ぐ意味としては決して外せない事だったと言っておこう。

 言い方を変えるなら、妻としての濃姫への愛よりも、道三への敬愛の方が強く、本気でその美濃衆が加わったことを感謝していたという事なのだ。

 また、この誠実に感謝を示す気持ちに勿論何の不利益が生じる事も無い。ゆえに本気で感謝するのだ。

 ある意味計算とういう部分で疑うのなら、自らを本気でそう演じるために本気に成るように自らに暗示を掛けたという話に成る。

 かの司馬遼太郎先生の国盗り物語の中でも、度々「本気」という表現で信長の行為が記されていたわけだが、様々な史書を研究して考えた人でも「本気」としか表現できないほどであった事は理解しても良いと言えよう。 
 

 斉の管仲であり、諸葛孔明の様に軍師であり王の補佐として存在する人間はこうした誠実さを王道の規範として助言するのだが、信長はその助言なく王道を示せたゆえに、政治的な意味では誰の助言も必要なかったと言ってもよい。

 では…帰蝶、ここからは濃姫をそう戻して話を進めるが、史実にも殆ど出てこない彼女は一体どうしたのか・・・

 帰蝶のこの部分は筆者にとっても長年の謎だった。
 と、いうよりも・・・帰蝶の事を本気で考えていなかった。
 イメージとして先行するのは、道三の娘として活発な性格の女性である。
 しかし、実態は…どうやら慎ましく静かな女性…と、言うよりもそうなってしまったという形が適切に伝わりやすいかも知れない。

 実は帰蝶の織田家での環境を分析すると、精神的な病を発症する条件がいくつか重なる点が見受けられる。
 これは精神科医の先生が見ればすぐに納得する内容だ。
 とは、言うものの狂人化した訳では無い。

 一つ目は帰蝶に子供が出来なかった点。
 史書には女子を産んだ可能性は有るのではという憶測は多々存在する。寧ろ女子でも産んでいたのなら、ここで生じる精神的打撃はいくらか緩和されていたと言えるだろう。
 逆に子宝に一向に恵まれないと成ると…正妻であっても嫡男どころか子供すら産めない存在と成り、一般的には正室としての存在価値すら危ぶまれる事態と成る。
 現代の女性でもこうしたプレッシャーを感じる人は多々いると言え、現代なら夫の愛情を意識した形で悩む話と成る。

 ただし、愛情の話とは別に、自分の正室としての立場を考えるなら父・道三の存在が美濃に有る限り安泰とも言え、仮に道三亡き後でも兄・義龍が尾張との関係を維持してくれれば問題無いとも言えた。
 こうした状況や噂話などは、この当時、帰蝶に仕えていた侍女が耳打ちするケースが一般的だった。
 女性のこうした耳打ち話は、現代でも悪い状況を想定したものが多い。
 耳打ちする方は相手を気遣って悪い状況になった時、聞き手があまりダメージを受けないようにと考えてのこととも理解できる。
 しかし耳打ちされる当人からすれば…憶測で様々な不安を駆り立てられるのだ。
 帰蝶が信長に嫁いでから4年も経って、子宝に恵まれないと、侍女も正室付きという立場から不安に駆られる。
 そういう流れで

 「他の大名家では子宝に恵まれない女はその地位を追われてしまうみたいですが…織田家は大丈夫なのでしょうか…」

 そう聞いてもこの時はまだ気丈に、

 「その点は心配は無いです。父(道三)と信長さまは同盟者としていい関係に有るのですから。」

 そう言い放つ。
 ここで実は
 道三と信長が顔合わせをする正徳寺の会見が丁度いい時期で発生するのだ。
 1549年に嫁いでから、4年目に当たる1553年。
 恐らく帰蝶が子宝に恵まれない点を危惧した事と、直前に平手政秀が自害した件で、同盟者としての信長を見極めたいと感じたことで道三が鎌をかける意味で提示している。
 後に詳しく書くが・・・道三はこの時会見の実現は寧ろ期待すらしておらず、何らかの代案が提示される事を期待し、その内容で相手の器量を見極めようとした。
 現実的に考えるならこういう事で、寧ろ信長が会見を受けた段階で道三は既に度肝を抜かれたというのが事実であろう。
 無論、こうした経緯も帰蝶の侍女からの報告などが絡んでの事だが、帰蝶の不安は正徳寺の会見後、道三からの文で和らぐ形と成ったと言える。

 その流れで次の不安事は…
 一向に子宝に恵まれないプレッシャーに加えて道三が兄・義龍に殺されたという事件だ。
 この時点で…美濃と尾張の関係は途絶えた。
 考えられる事は侍女の不安である。
 いわば戦国の習わしで同盟が切れた際に、正妻であっても人質の意味も含めて殺される可能性があるという事。その際にお付の侍女は言うまでもない。
 特に帰蝶は子宝にも恵まれなかったゆえに、こうした不安が過るのは仕方のない事である。
 侍女にこうした精神状態の人間が出ると、自然発生的に主である帰蝶にも伝播していくのだ。
 勿論、子を産めないという引け目まで感じる帰蝶は、徐々に明るさも失い、不安を感じる様子が表情や仕草そして何気ない態度にも表れてくる。
 そういう人の心を敏感に感じてしまう信長にとっては、些か気持ち悪いのだ。気持ち悪いというのは生理的ないみでは無く、寧ろ帰蝶の気持ちを汲み取って何とか心配ないように計らっても、全く改善せず依然とでは別人に見えてしまう点だ。

 前述の通り、ここでより慎ましく静かな女性に成ってしまったのだ。
 それ以前の帰蝶は躾の行き届いた意味での慎ましさがあり、道三が「帰蝶」と名付けたのか、後世に「帰蝶」とされたのか、その名の通りどこか華やかさを持ち、気丈なまでも明るさを醸し出す素敵な女性だったと言えよう。寧ろそういう女性であったと考える。
 その帰蝶が不安を募らせ、むしろ妻としての責任感から子宝を授かれない事で、徐々に明るさを失っていく事は信長としても辛い事なのだ。
 それを払拭するために不安から解放する努力を試みるも、帰蝶の何かを媚びる感じの姿勢に、むしろ本来の愛らしさが色あせて見えてくるのだ。
 むしろその時の帰蝶を愛するゆえに、自分がその心を取り戻せて上げれない辛さを信長は感じていた。

 勿論、帰蝶も信長のその心は伝わるが・・・不安がどうしても付きまとい、やはり子宝に恵まれない事への自負も合わさり、気丈に振舞おうとする労力も不自然で何事も上手く行かない点で気を病んでいくのだ。
 これは夫婦生活で些細なことで生じる亀裂の原因でもあるが、信長と帰蝶の関係では理由が寧ろ解っている分、余計に辛いのだ。

 勿論、信長は帰蝶を正妻から外すことが無かった意味でも解るように、子宝に恵まれない帰蝶を攻める事は無かった。
 しかし、その優しさに寧ろどう答えて良いのか…それが帰蝶を苦しめた要因だったのかも知れない。
 現代なら夫の愛情を感じて夫婦間は良好に改善する様な流れだろうが、逆に戦国時代の常識の中では、体裁上の優しさに映ったとも言え、美濃衆を利用する為に大事にされているだけなどと、精神的に病んでくると素直に愛情として受け入れられなくなるのも当然なのだ。そして結局は自分が信長から何を欲しているのか…

 それが愛情なのか、地位の保証なのか、それすら混沌として心が満たされなくなるのだ。

 逆に精神的な病で無ければ、寧ろ地位の保証という部分で妥協して考える心の強さは保てたのかも知れない。

 後世になって物語として登場する帰蝶が信長の正室として輝きを放つ姿は、史実とは異なるものの、本来信長が帰蝶に求めていた姿、または本来そうあるべきだった姿と言っても良い。
 もし、帰蝶が子宝に恵まれ正室として毅然とした態度で振舞えたのなら、後世に描き出される濃姫であり帰蝶こそ、それそのもであったことは間違いないだろう。

 帰蝶の話があまり史実の中で大きく出てこないのは、彼女が寧ろ政治の表舞台に顔を出さない、慎ましく家庭を守ろうとした女性であったと考えてもらう方が良いのやもしれない。

 今は、帰蝶の話はここまでで留め置いておくとしよう。

 次に吉乃の話である。
 実は彼女も記録が殆ど皆無なのだ。
 本当に信忠の母なのかという点も危惧される。
 ただし…吉乃自身にこの事実を聞けたなら、
 彼女は

 「信忠は私が生んだ子供で、濃姫が育てた子」

 と言うだろう。
 信長が最愛とする女性はこういう女性だという事だ。
 ゆえに嫡男は信忠しか居ないのだとも伝えておこう。

 因みに蘭丸がここまでの文章を読んでいたら、
 こういう事を言うだろう…

 「折角、帰蝶さまを美しい形で〆たのに…結局は、二股ですか?」

 ある意味、蘭丸とはこういう事を信長に言える存在なのだと紹介した上で、現代人の視点からするとそう映っても可笑しくはない。
 ただしここは二股というより、二人の女性を愛さねば成らなかったという表現で弁護しておこう。

 ただその前に吉乃に関する史実と照らし合わせた話をしよう。

 吉乃の記述は、前野家文書の中の「武功夜話」に登場する。
 吉乃というのは本来の名では無いとされ、一説には類という名であったとされるが・・・帰蝶同様に名前の美しさとイメージから類でも吉野でも無く吉乃を採用するとした。

 前野家文書は色々と史実参照の有力資料としては疑問視されているもので、些か怪しい。
 しかし、吉乃の存在を探る意味では、吉乃が実在しないと寧ろ逸話として登場することすら無かったと考え、詳細は別として吉乃の存在を確定する意味で考えるものとする。
 そして吉乃の出自である生駒家を精査するいみでも参考にするものとする。

 父は生駒家宗とされ、小折城主だったらしい。

 小折城は犬山城主・織田信清に属していたとされ、この織田信清はこの小説で記した先の加納口の戦いで奮戦して死んだとした信秀の弟・織田信康の子である。
 ゆえにこの地は意外と信長が自由に立ち入れた場所とも考えられる。
 生駒家は商人として考えられるが、前野家文書では商人で無いと強調されている。その反面から読み解くと、生駒家は商人であり寧ろ出世した後にこの事実を否定したい何かが有ると推測する。
 大方の資料から総括して書かれているものは、灰や油の商いと馬借(ばしゃく)で財をなしたとされている。

 因みに馬借とは現在の宅急便の様なもので、馬を使って輸送を行っていた商売である。

 そして今度は信長が生駒家に気軽に出入りできる時期を探るとしよう。
 出入りが気軽に出来る時分は、先ず織田信康の時代と、信清と弾正忠家の関係が有効的だった時分に成る。
 そうなると信秀の死後、信清は犬山で独自勢力として活動し、信長とは距離を置くことと成る為、この間、信長は生駒屋敷への出入りはむしろ制限される。
 いわば吉乃との出会いは、1552年以前か、信清との間で和解が成立した後と成るが、その年数は現在不明。

 信清が浮野の戦いと岩倉城攻略で信長を支援したのは1558年の事でそれ以前に一度信長の姉を嫁がせて和解してる。
 因みに信忠の誕生は1557年が最有力で、1555年説もある。

  さて・・・吉乃に関してはフィクションになる部分が多くなるとした上で、帰蝶こと濃姫との政略結婚に結びつく過程までを分析し、史実として辻褄が有って来るより現実的な流れで話をすすめていくものとしよう。

 吉乃は生駒家宗の長女として生まれた。
 生年は信長より早く、1528年だったとされているが、享年39か29歳だったという説で分かれている事を考えると…何か年齢をサバよんで言ってそうな雰囲気の女性にも感じる。
 ただ何となく、その間を取って信長より一つ年上という感じが一番しっくりくると考える。

 いわば女性としてのイメージはそういう茶目っ気のある感じだ。

 実際生駒家は商人では無いと主張しているが、実は商人であるがゆえに二人の関係の問題と成ったと考えられる。
 そしてこの吉乃が原因で平手政秀はある意味無謀とも言える斎藤道三の娘、濃姫(ここでは濃姫とする)との政略結婚を結び付けるのだ。

 ここからは少しこの年代の出来事の流れを記しておく。


 1547年9月に信長は初陣を終えた。
 この時に信長の父・信秀は岡崎城を落としている。
 その年の11月には美濃で大きな動きが出た。
 その前年の1546年、加納口の戦いでの停戦から、道三と朝倉孝景らが囲う土岐頼芸、頼純の間で正式な和議が成立した。

 この時、頼芸は隠退、頼純は道三の娘を娶りその上で美濃守護職就任が約束されたという。この時、濃姫こと帰蝶は頼純に嫁ぐ予定だった。予定だったしておくのは、実際に嫁いだかまでは不明になるからである。
 ここには室町幕府の仲裁と、寧ろ近江の六角定頼を含めての和議であったため、道三としては強気に出られない内容と成った。
 いわば加納口の戦いの越前・尾張連合に加えて、南近江の六角まで加わる算段となるからだ。
 勿論、その六角定頼もこのころ将軍・足利義晴から管領代に任ぜられ京の覇権を巡っての戦いに備えなければ成らず、美濃の患いを断っておきたい腹であった。そういう探り合いの中で一応の和議が成立した形と成った。
 そこで信秀は安心して三河岡崎攻略へ準備を進める事が適ったのだったが…

  1547年11月、西暦で考えるなら信秀が岡崎城を落とした時期と一致するが、実はもう一つの加納口の戦いが勃発している記録がある。
 この時に道三は大桑城で土岐頼芸と頼純を蜂起させて、頼純は打って出て討ち死にしたとある。
 一方では頼純は同時期に急死したともあり、これは有名な道三の毒殺事件として語られている。
 いずれにしても道三にとっては悪名を轟かせる謀略による行為に成るのだが…濃姫を娶るはずだった土岐頼純が1547年11月か12月に死んだ形と成っている。
 戦略的な観点から察するに、大桑城急襲の話が妥当と考える。
 いわば信秀が岡崎攻略に向かった時期であり、六角定頼は畿内の情勢から目が離せない状況が続いていた。
 残るは越前の朝倉ぐらいだが、その当主孝景も翌年の1548年4月には急死しているが、この時期恐らく何らかの病に掛っていた可能性もあり、道三はその情報も掴んでいたかもしれない。
 いずれにしても近江の六角も、尾張の織田も動けない事を察し、敵は山岳地帯を越えて進まなければ成らない越前の朝倉のみ、そういう状況下を利用して一気に道三は美濃掌握に乗り出したと考えた方が良さそうである。

 第二次とする加納口の戦いの流れから逆算して、道三は帰蝶(改めて帰蝶に戻す)の嫁入りを反故する旨を土岐頼純に伝えた。
 ただし、和議の件には一切触れていない。
 いわば帰蝶はまだ13歳(実年12歳)ゆえにまだ若すぎるからという理由で嫁入りの期日を変更した形を取ったのだ。

 無論、何時という時期は記さずに。

 それに腹を立てた土岐頼純は、六角や朝倉、そして信秀に密書を送り、道三が和議を反故した事を記したのだ。
 道三はこれら密偵を予め配置した斥候に掴ませさせ、それを証拠に携えて大桑城を包囲した。
 包囲した上で頼純方の言い分とで舌戦を広げたのだ。

 無論、道三は、

 「当方は帰蝶が若すぎるので時期をずらすと提案しただけだ。」

 と、不義の意味では無かった事を強調した。
 すると頼純方は、

 「約束の期日を勝手に反故したうえで、次の期日も示さぬとはそれは和議事態を反故にする意味であろう。」

 と反論する。

 それに対して、

 「期日を記さなかった事はこちらの落ち度だが…和議を守る気持ちが有るのならその辺は改めて話し合うべきでは無かったのか?」

 道三はそう大声で伝えるや、

  「いずれにしても当方を勝手に不義理もの扱いにして、再び近江、越後、尾張の軍勢を招き入れ、安易な見識でこの美濃に戦乱を起こそうとしたことは許しがたい!!」

 そういって大桑城を囲んだのだった。
 そしてこの直前に隠居扱いと成っていた土岐頼芸の方は越前に逃れたのだ。
 頼純はまんまと嵌められたと憤るだけだったのだ。
 これは美濃国諸旧記に書かれた部分を参考にした内容と成る。

 この美濃国諸旧記は一次資料と一致しない部分が多いとされているが、加納口の戦いと戦略的に考える時系列がむしろ一致するため、これを採用した。
 いわば道三が美濃掌握と大垣城奪還などを目指すうえでは、ここに記された時期と内容が一番辻褄があうという事である。

 そし大桑城側を蜂起させたという意味から、道三がこの様なタヌキ芝居を演じて相手の出方を見極めた点は、十分にあり得る流れで、道三を信用していないだろう土岐頼純の行動は恐らく期待はずれの意味で想定されたと言える。
 ある意味、頼純が道三と上手く付き合う意思があったなら、恐らくは別の選択肢が存在し頼純は守護職の地位を守れたのかも知れない。勿論、道三は鼻っから頼純にそんな英断が出来る事を期待すらしていなかったわけだが・・・

 こうして大桑城を攻略した道三は、次に大垣城へと向かった。
 勿論、岡崎を攻略した信秀を出し抜く形で…
 更には織田大和守家と織田伊勢守家を信秀にけし掛ける策を以て。
 ある意味、道三にも見て取れるように、尾張の内情は危かった。
 先の第一次(1544年)加納口の戦いで、坂井大膳を主軸とした大和守家と伊勢守家は木曽川で大敗を喫したのみで、大垣城を得た信秀こと弾正忠家のみが一人勝ち状態となっていた。
 更にはここで信秀は岡崎攻略まで為したのだ。
 勢力的にも弾正忠家は大和守家を既に凌駕している。
 その中で一応の斯波氏を守護とした意味では、完全に力関係が逆転した状態に成っていると言っていい。
 弾正忠家の主家に当たる大和守家としては、台頭した信秀をそろそろ抑え込まねばという焦りが生じる。

 道三はこの心理を利用したのだった。
 尾張の守護代(守護職の下の地位)である大和守家としては、本来美濃に属する大垣などどうでも良かった。
 考えようによっては美濃にある弾正忠家の領地なのだから、尾張全体の問題として考える場所では無いのだ。
 そこで道三は坂井大膳の主人である織田信友に

 「尾張との和議は守るが大垣は美濃ゆえに返してもらう」

 という旨を斯波義統宛として送ったのだ。
 いわば信秀の大垣城を攻めるという意味で。
 勿論道三は素早く大垣攻略に動き出した。
 その状況で、岡崎攻略を終えた信秀はすぐさま大垣へと向かったのだ。この時、岡崎城には松平広忠が残り、安祥城には信長の兄にあたる織田信広が残って今川に備えた。
 この三河は吉良義安を守護とする勢力での布陣に成り、信秀は形式上その援軍でしかない。
 そういう意味で松平広忠も信秀の家臣としてはではなく、信秀方の勢力として三河吉良家に使えたという形に成る。

 坂井大膳は慌てる信秀をあえて見送るように大垣までの道のりを開き、信秀が大垣に到達する頃合いを見計らって、その信秀に要望書を出したのだった。

 「貴公の守護に対する功績は考慮するも、自領を広げるだけの振る舞いは主家に対する反逆を狙ってのものと疑わざるを得ない。もし貴公に叛意無しとするならば、熱田及び古渡を主家に献上するように」

 と、いう内容で、主家とは斯波家を意味するが、本当の所は大和守家が貰いうるという算段で、信秀もその事は承知の上だ。
 実際の所は大垣城は第一次加納口の戦いで、坂井大膳との約定を以て攻略したもので、知多半島に至っては水野信元を調略して尾張方に引き入れ、岡崎に至っては今川の勢いを食い止める意味で吉良義安を守護とした勢力で緩衝地帯をつくったに過ぎない。
 その援軍の拠点として安祥城に信広を置いているに過ぎないのだ。

 そういう意味では信秀の領地は大垣と安祥城を得たに過ぎない。
 水野信元ら知多半島の勢力に至っては、自らの配下に組み込んだ訳では無く、寧ろ斯波尾張の勢力として組み込んだというのが実態で有ろう。

 信秀はこうした弁明を以て、平手政秀を清州に遣わしたのだ。
 それまでの間に坂井大膳は古渡城を包囲した。
 そして大膳は信秀に向けた要望と同じ文言で城内に告げた。
 現状、明確な資料は見つからなかった為、この時古渡城に誰が残っていたのかは不明であるが、道三から大垣城を守る為の部隊が主力で小豆坂七本槍とされる織田信光、織田信房、岡田重能、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清と言った面々は信秀と共にその前線に行ったと思われる。
 因みに後に七本槍は戦の手柄を賞した勇士七名に与えられる栄誉として受け継がれるようであるが、この小豆坂の七本槍が後世の創作で無ければ信秀による発想と言ってもよい。
 ただし、これを第一次小豆坂の戦いの功労者としているが、1542年に起きたとされるこの戦いはこの小説では不採用としている。

 寧ろこの時期の戦いで信秀と今川が大規模な衝突を起こす状況に無かった為、安祥側の松平と、岡崎側の松平の勢力争いとして扱う形とした。
 されど、第一次小豆坂の戦いと類似した規模の合戦として、岡崎城攻略が当てはまると考える。
 織田信光以外はあまり名の知られていない面々であるが、武勇面では柴田勝家らに引けを取らなかったとされる下方貞清の生年は1527だろうとされている。この人物は寧ろ享年が1606年で80歳と考えるなら、推定した生年は妥当と見なす流れで、結果その逆算によって1542年とした場合、若干15歳でしか無くなる。
 

 今の中学生に当たる少年が大人相手にどれだけ戦えるものなのか…
 確かにサッカーの王様ペレは若干17歳でワールドカップで結果を出しているのだから、その年齢で実力ある者が結果を残す可能性は否定できない。しかし、どう考えても稀で些か危ぶまれる。
 更には、佐々成政の兄二人、長兄の政次は推定生年は1522年で次兄の孫介の推定生年は1527年とされ、これも下方貞清と同じなのだ。更には岡田重能も同年齢とされ、15歳の少年3人がスーパールーキーとして手柄を立てた形で見ると、他の大人たちは何をやっているのかと疑問にも感じる。
 勿論、織田信光は1542年で26歳なのだから、その信光が引っ張って少年たちも手柄に貢献したとも考えても良いが、まだ成長期の15歳の少年3名という話と、この1542年の小豆坂の戦い事態が懐疑的に考えられる点を踏まえると年数としては怪しく感じるのだ。

 ところが信長の初陣と重なる1547年の岡崎城攻めならば、15歳の少年たちの年齢はほぼ20歳という所に成る。
 よってこの小豆坂の七本槍は丁度この岡崎攻めでの功績で賞された面々で、その勇み足で大垣へ向かった為、そのまま信秀に従ったと考えてもよい。

 こうした流れから…この時古渡城に残った人間を探ると、那古野に家老として残る林秀貞。ただし参謀として信秀と同行している可能性もある。
 平手政秀は交渉役として清州へ赴く為、外れるとして、更には信長の初陣に同行した内藤勝介や青山信昌が信長付の家老として残っている。
 25歳の柴田勝家、30代前後の佐久間盛重らは小豆坂の戦い等で名前が出てこないため、守備側の与力として残っている可能性が高い。
 

 史実の話の中で、この坂井大膳が古渡を急襲したという出来事はあまり大きな意味で記されてはいない。
 しかし、実際に状況を精査するならここで生じている緊張感は後の信長包囲網に匹敵する信秀包囲網だと言ってもいいだろう。
 岡崎を陥落させたものの、その岡崎には今川が報復を狙っている。
 そして大垣は斎藤道三、更に内側からは大和守家から反逆の疑義を掛けられているのだ。
 先の道三が土岐頼純を陥れた様に、迂闊な行動は命取りと成る。今、信秀の古渡城にはそういう緊張感が漂っているのだ。

 坂井大膳が古渡の速やかな開城を再び迫ると、城門越しに佐久間盛重が登場した。

 そして、

 「おお!!坂井殿、しばし待たれよ。今しがた平手殿がその辺の手はずを確認しに清州へ向かわれた故に、当方としても迂闊に従うわけには成らないので。」

 と、戦う意思は無いという体裁を盛り込んでそう答えた。
 とは言え、大膳はいつでも武力行使に移る構えを崩さない。
 さて坂井大膳は何かと言いがかりを付けて古渡を落とす算段であるが、弾正忠家が本気で大和守家に反旗を翻すことは望んではいない。いくら大膳でも弾正忠家との間で大きな戦に発展すれば、それは尾張を弱体化させ危うくすることは理解している。
 逆に、弾正忠家としてもその戦に成ればいわば信秀包囲網という状況下で苦戦を強いられ滅亡する危機すらある状況なのだ。
 ゆえに尾張国としての状況打開としては、大膳の要望に従わざるを得ないと考えてのものだ。

 大膳からすればこの包囲によって弾正忠家から最低でも何らかの譲歩を引き出せると見込んでの行動だろう。

 勿論、速やかに従わないのなら強硬策も有りうるという算段でも有るのだが、その際は後に信秀と和睦する意味で主家としての正当な理由が欲しいのだ。
 その正当な理由の為、明らかに古渡が攻撃を仕掛けてきたから応戦したという形を求めていたのだ。

 古渡に残った城兵に対して清州の部隊は2倍から3倍多い状態で包囲している。恐らく城兵500名程度に対して、坂井大膳は1500から2500位は従えている。

 無論、籠城戦という形にはなるが、緊迫した状況であり坂井大膳の腹立たしくも感じるこの行動に、城内は憤りを隠せないのも事実だ。
 更にそうした中で坂井大膳は城兵を腰抜けと罵る挑発を兵士たちに煽らせ相手が仕掛けてくる様にも仕向けている。

 そういう状況下で盛重らは城を上手く守らねば成らなかったのだ。
 そこで盛重はもう一人の勇将・柴田勝家と示し合わせて共に数名の兵士を従え城門から大膳の前に現れたのだ。

 盛重は古渡を囲む城兵と大膳に向って、

 「主家からのご下知といえ、暫くの時をお待たせしている事は申し訳ない。」

 と先ず口上を述べ、

 「その退屈な時を暫しの余興に於いて御持て成しとさせていただこうと存じ上げまする。」

 と伝えた。
 そして先ずは、盛重と勝家による剣舞とも言うべき組み手を披露した。
 二人は気迫に満ちた声を上げ、一刀一刀激しく打ち合って見る者を圧倒させた。

 鋼と鋼がぶつかり合う大きな音を響かせ、二人の気迫に満ちた声を周囲に響かせた。
 それまで城兵に「腰抜け」と煽っていた兵士たちも静まり返って、二人の剣舞を傍観し始めた。

 そして城内から剣舞のリズムに合わせて太鼓が鳴り響くや、盛重が一緒に連れてきた兵士たちも組み手をはじめ、その兵士たちの掛け声に合わせて門の内側に控えた城兵たちも掛け声を響かせた。

 規律に満ちた城兵の掛け声と気迫に満ちた剣舞を披露することで、大膳側の兵は完全に怖気づいた。
 勿論、大膳自身もその空気に飲み込まれるように静まり返った。
 先の土岐頼純の対応とは違い、盛重のその策は正に妙技であった。恐らく相手が斎藤道三であっても手出しは出来ないどころか、道三なら寧ろ盛重の対応を大いに称えただろう。
 
 一方の政秀は斯波義統と織田信友を前にして、弾正忠家に叛意が無い事を告げた、。
 政秀は寧ろ…

 「当家は尾張斯波家の為に注力を尽くしている次第で、他家に代わり義統公の剣と成り盾と成って転戦しております。」

 そしてここからが政秀の手腕の凄み意であり、政秀は一呼吸おいてからこう述べるのであった。

 「もしそれを叛意として扱われるのなら我々もお家断絶を覚悟の上で抵抗せざるを得なく成ります。勿論、その時、残念ながら尾張は斯波家の物でも、ましてや弾正忠家の物と成る事も無く、美濃と駿河の良いように切り取られてしまう事に成るでしょうが…」

 政秀は弾正忠家が自決覚悟で抵抗しても謀叛に成らず、寧ろ外敵を招くだけの流れでしかない事を伝え、弾正忠家がそれに対抗する盾で有る事を改めて意識させたのだ。
 大和守家の信友に対しては脅しである。
 脅しではあるが政秀の言葉は一考させるだけの力があった。
 坂井大膳にそそのかされて愚かしい決断をした信友でも窮地にあるとはいえ信秀と争う事の大事は理解できた。更にはその信秀と争った後に美濃や駿河が尾張を目指してきたなら、寧ろ防ぎきれる状態では無くなる事くらいは察しがつく。

 逆に斯波義統にとっては信秀の叛意は信友らからの耳打ちでしか聞いておらず、政秀の言葉は逆にその疑いを払拭するに充分であった。
 ある意味、尾張の為には織田弾正忠家信秀の存在は不可欠であることを改めて意識する内容となったのだ。
 こうして古渡を包囲した状況は何事も起らず、政秀の弁明も功を奏して信友は斯波義統の命をもって大膳に兵を引かせたのだ。
 尾張守護斯波義統の命は、岩倉の伊勢守家や犬山の織田信清の下へも告げられた。

 元々、尾張国内の問題として信秀に叛意ありとして伝えられ、守護の命に従って信秀包囲網に加わった岩倉の伊勢守家は何事も無く速やかに兵を引いた。
 犬山の織田信清も信秀の弟であり父の信康から受け継いで日も浅く、寧ろ主家の命に従って行動したに過ぎず、叔父である信秀を恨む根拠も無かったのも事実である。

 因みに岩倉城の伊勢守家当主の織田信安はその父とされる織田敏信から後を継いで当主と成っている。
 その敏信の死は1517年で有ったとされ、信安が幼少であったとしても当主に成ったのはその年であると考えられる。
 史書の中には信秀の弟、信康がその後見人と成ったとされているが、信秀の生年は1511年でその弟となると1517年時点では子供に過ぎない。
 寧ろ弾正忠家が信安の後見人としての地位を得ていたのなら、信秀の父であり信長の祖父である織田信定がその地位にあったと考えるのが妥当で、信秀とは違ってまだ従順な大和守家の家臣に過ぎなかった信定を伊勢守家の監視役として派遣したと考える流れでも不思議ではない。

 また、信定が弾正忠家を称したのも1516年に署名した記録が残っている事からも時期的な意味でも成立すると考える。
 そして信秀に家督を継がせたあと、信定は犬山城に入って隠居し信秀の弟に当たる信康にその城主の地位を譲ったとすれば、些か辻褄は有ってくる。
 その流れから1547年時点で織田信安は30歳を越えた成人で、寧ろ犬山城主の織田信清は信長と歳が近かったと考えられ、伊勢守家と犬山城の関係は寧ろ完全に主従という形に成っていたと言えよう。

 さて…吉乃の話に戻ろう。
 ここからはフィクション性が強く成ると言っておこう。
 ただし信長が吉乃っと出会うには、犬山城との関係が上手く機能せねば成らない。
 幼少期に出会う可能性も考慮できるが、寧ろ二人が恋愛感情を抱くほどと成るならば、初陣を終えてからの出会いが一番妥当であろう。
 尾張国内での騒動が無事に決着が着くと、信秀は大垣で道三との戦いに専念する事と成った。
 今川への備えである三河の情勢に関しては、寧ろ吉良義安の勢力に頼らざるを得なかったと言っても良い。

 信秀が美濃との争いに専念するに於いては、岩倉の伊勢守家であり犬山城の協力は必要不可欠と成る。
 初陣を終えてからの信長は暫く戦場に出る事は無かったようである。
 しかし、元服を終えた信長が何の活動もせずにいたのは寧ろ不自然とも言えるだろう。
 そこで信秀は嫡男である信長を名代として岩倉と犬山に遣わしたと考えるのだ。
 岩倉の織田信安は幼少の信長と猿楽(能)を楽しんんだという記録も存在しているらしい。
 そうした流れを踏まえるのならこの時期の信長の訪問は最適であると言えよう。

 信長は政秀ら家老と共に、先ずは岩倉城を訪れた。
 そこで家同士の外交上の辞令を済ませて、犬山城へと赴いた。
 その犬山城の城下を通った際に、一人の商人娘に目を引かれたのだ。 それが生駒家の娘、吉乃である。

 勿論、ただ単に美しい娘に目を奪われた訳では無い。
 寧ろ美しいだけの女性なら熱田で何人も目にしている。

 生駒家が馬貸し、いわば配達業務を行っていた商人として考えるなら、その商家は人の出入りが激しい活気のある場所だったと言えよう。
 その活気に満ちた場所に、世話焼きの良い活気に溢れた少女に目を奪われたのだ。
 そこに出入りする人々から慕われるように声を掛けられ、少女は愛想良く対応する。そして商家の主人の娘として上手く場を切り盛りする姿に信長は目を惹かれたのだ。

 信長は才女を愛する。女性に限らず才有るものを愛するのだ。
 寧ろ人の才を見抜こうとするゆえに、そこに才を見出した時、大事に考える。
 信長がそこを通りすがったのはほんの一瞬であるが、寧ろ吉乃の才を見逃さなかったのだ。

 吉乃にこうした世話焼きとしての才が有る事は「前野家文書」に書かれる中で見て取れるもので、それが逸話であるとしてもここに吉乃の存在が記されているだけで、彼女がそうした者たちから如何に慕われていた存在であるか想像はつく話だ。
 いわば信長が自身の妻に求める才能に家臣から愛される才を求めていたのは不思議では無いのだ。

 ある意味、誰もが望む王妃としての素質そのものが吉乃にはあったといえよう。
 勿論、濃姫にその才が足りなかったとは言わない。
 彼女には彼女らしき素質があったのだが、吉乃の場合、商家の娘で有るがゆえに親しみやすさと気遣いが別なものとして備わっていたと言える。
 言い方を変えれば、信長が最愛とした女性が商家の出身であった事は一番腑に落ちる話という事だ。
 

 とは言え、信秀の代理として犬山に訪れた信長は吉乃の事を気に止めながらもその場は素通りした。
 そして公用が終わった後に、信長は悪童たちを引き連れて再び犬山へ足を運ぶことと成る。 勿論、その目的は吉乃に会うためだ。


どうも…ショーエイです。
動画制作もやっと一作目が出来て、
これからショートを含めて更に更新していく中で、
中々、うつけの兵法の更新が出来なくて、
申し訳ありません。

ワガネコ タマタイム・ショー - YouTube

↑にリンク貼っておきます。
中々動画が見て貰える環境に無くて登録者数もまだ全然ですが、
笑えるコンテンツで
世界中の人に

世界の平和を考えてもらうことを目指しているので、
是非、このブログ見て下さる方々のご協力をお願いしたいです。

Youtubeの検索機能を考えると、
少しでも登録者数や視聴回数が増えてくれれば、
それだけ多くの人が見る切っ掛けになりますので、
是非お願いします。

さて… うつけの兵法の話に戻って。

ここでは吉乃という女性を実に
誰もから愛される王妃の様にしています。
勿論、後世の作品上で

魔王信長の理想の妻として描かれる濃姫も
王妃としての才は十分とも言えます。

では、信長たま自身が女性だったとして、
吉乃の様な女性に成れるかというと否です。
寧ろ魔王信長の理想の妻としての濃姫なら成れます。
ただし、夫が劉備玄徳の様な人物であるなら、
諸葛孔明を女性にしたような存在になれるが、
夫がダメ、または独身を通す女性ならば、
信長たまそのものが女性化しただけに成ります。

自由気ままでハチャメチャな性格という意味では、
ストーリーの主人公としては魅力的ですが、
誰もこんな女を妻にしようとは考えないような女性に成ります。

吉乃とはいわばその真逆であり、
願わくば誰もが妻にしたい理想の女性と言うことに成ります。
ただ人間そんな完璧な人は居ません。
吉乃は寧ろ信長たまの女性像に憧れ、
願わくば諸葛孔明が劉備玄徳に尽くすような存在を求めますが、
実はそういう部分では寧ろお節介になる感じです。

ただ、そういう吉乃の憧れ部分も理解できるゆえに、
信長たまは寧ろ彼女の愛嬌として受け入れられる訳です。



ところで最近の信長たまの評価では、
このブログで良く説明するように、
信長=諸葛孔明でも成立する雰囲気に成ってきました。
逆にこの関係性を、
漢の高祖 劉邦と=にすると、
不思議に感じるかも知れません。
いわば劉邦は無能に近い扱いで、
寧ろ韓信、張良、蕭何の三人に支えられたイメージです。
もし孔明先生や信長たまの様に才能あふれた人物なら、
そんな評価には成らないのでは…
寧ろ項羽の方がそれっぽいと思うと思います。

これを面白い形で解析すると…
実はどれだけ劉邦に才能が有ったとしても、
その才能に信用が無かった為、
寧ろその才能を周りが使わせなかったという感じで考えられます。

信用が無いというのは実績が無いという点です。
そして実績を作る上でも使わせてもらえないから、
実績が作れない訳です。

いわば農村の荒くれ者でしか無く、
軍も指揮した実績も無い人に、
軍の指揮を任せられるか?
という部分です。


勿論、劉邦が集めた軍であっても、
軍を指揮した経験のある人物が居る場合、
周りは寧ろそちらを頼ります。
指揮官として命を預けるなら、
そういう人物の方が安心と考えるのが当然だからです。
劉邦は寧ろ賢明な人物ゆえに、
そういう流れならそうした方が良いと判断します。

これはオッサン先生がMMORPGのゲームで
エルダーズ・スクロール・オンラインを
やっていて感じたことらしいのです。

ギルド運営して多くの人が集まったわけですが、
それまでは様々な難関ダンジョン(12人制の試練)を、
試行錯誤を駆使して独自のやり方を編み出しながら、
攻略していったわけです。
ある意味、この時点では信長たまの
美濃攻略までの様な雰囲気でした。

それから多くの人が更に加入して大所帯に成ると、
徐々に試行錯誤して攻略していく遊び方から、
誰かの攻略法を模倣する流れに成って行ったわけです。
オッサン先生の実績なら攻略法を
独自で見極める事は可能な訳ですが、
寧ろ先に攻略した人のやり方を知っている人たちは、
それを模倣してやるほうが早いという流れに成るわけです。
そうなると独自の方法を指示しても、
むしろ不満を抱く人が出てくる有様です。

まあ、そのギルドを解散した理由は、
そういう遊び方ならゲーム自体に面白みを感じない事と、
そういう事に毎日21時から0時まで時間を割くなら、
Youtubeの動画の方に時間を掛けた方が
良いと判断したからですが…

もし、その遊び方に天下や生活が掛っていたなら、
寧ろギルドに集まった人たちのやりたい方向で、
そのまま進めるのも問題なかった訳です。

劉邦は寧ろ、そういう状態にあったのではと推測します。
そして張良の様に軍師としての実力を認められた人物であり、
蕭何の様に政務の実績がある人に任せ、
自分はそれらの提案を適正に裁可するだけに努める。
韓信に対しては寧ろ才能を見抜き、
大所帯の長となって自分が出来なくなった実績作りを、
寧ろ後押しして活躍させた。

ただし…ここからが劉邦が優秀であった所で、

項羽との戦いに於いては、
諸将が提案したやり方では勝てない事を知っていた。
かと言って、自ら作戦を提示しても素直に従ってくれないので、
あえて負けると知りながらもそのまま戦い続けたのです。

ここで誰もが勘違いしているのは、
劉邦がその都度速やかに撤退できなければ、
劉邦自体が討ち取られてるか、
項羽に何度も挑まるだけの軍を維持できなかったであろうこと。

直感では無く、
ここが崩れたら勝てないという事を熟知してたから、
損失少なく軍を引かせられたという事です。

ある意味、自分が撤退するという命令だけは
誰もが従わざるを得なかった部分で、
そこだけを上手く活用して戦ったという感じです。

そして…これは推測ですが…

項羽を最後に追い詰めた指揮は
劉邦が自ら採った可能性があるという事です。
ある意味、それまでの敗戦は
自分のやり方に従わせる為の布石で、
最終的に誰がやっても同じなら、
俺の言うとおりにしてみろと見せつけた結果とも言えるのです。

勿論、孔明先生も信長たまも、
自分の功績をあえてアピールしない訳で、
天下を取った劉邦親分も、
項羽を追い詰めた最後の指揮を自分の手柄とすることなく、
韓信、張良、蕭何の存在を称えて、
彼らによって天下統一という偉業を
成し遂げたこととしたわけです。

才能を証明するというのは実に難しい事で、
後世ではその才能が評価された後ゆえに、

誰もがその才に惹き込まれるが、
現世では寧ろ結果が出ない内は、
その才能は中々信用されないものなのです。
寧ろ、才能よりも実績の方が見えやすく、
それ故に人々は何処か学歴や資格といったものを
充てにしてしまうのです。



そういう意味では、古今東西いずれも、
才能よりも努力が報われる世の中と言っても良いかも知れません。