うつけの兵法 第三十三話「干し柿の美味(盟友)」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三十三話 干し柿の美味】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 1547年9月、信秀は岡崎城を陥落させた。

 史書には様々な説が存在し、三河物語などでは竹千代こと後の徳川家康は今川へ人質に出される際に、田原城で戸田康光の裏切りによって尾張の信秀に送られたともされている。

 近年ではこの時期に信秀が岡崎城を陥落させたという資料も見つかり、その際に松平広忠が信秀に人質として差し出したという見解が些か有力視されているようだ。

 しかし、疑問に感じるのは何故、三河物語(1626年著)の著者である大久保忠教は戸田康光の裏切りとして記したのか。

 忠教の父、大久保忠員は兄の忠俊と共に、この時代の松平広忠を支えた人物である。ゆえに詳しい詳細を知っていても可笑しくはない。

 そこで何が食い違ったのかを先ず分析して見よう。

 恐らく今川と松平との関係上、竹千代こと後の家康が人質として差し出される話は既に存在していたと考える。

 その盟約が成立する中で、信秀の三河侵攻が発生しそれに同調して寝返ったのが戸田康光であった。

 戸田康光の居城は今川の遠江に近く、信秀侵攻の際に今川からの援軍の足止めに成ったと考えられる。

 実際に同時期に戦闘があったようである。

 それ故に忠俊、忠員らはこの戸田康光の裏切りによって岡崎城陥落を招いたと伝えても可笑しくは無いのである。

 では、船の行先が突然変わったという表現は何が原因か。

 それは当時まだ6歳でしか無かった竹千代の曖昧な記憶、いわば家康が後にこの事を思い出した際に、今川の駿府へ行くはずだったのが突如織田の尾張に辿りついた記憶をそう表現したとも考えられる。いわば人質として差し出されると聞いていた場所が違ったという事だけを覚えていた。

 

 これらを踏まえて実態に近づけて話を進めるのなら…

 

 今川と松平の間で竹千代を人質として駿府に送る盟約が成立していた。しかし岡崎が陥落してしまった事で信秀が竹千代を人質として持ち帰ったと考える。

 

 当初竹千代は駿府へ行くと伝えられていた。

 勿論、6歳の身でも岡崎陥落の出来事は理解できる。

 しかし、家康自身にその記憶や実家が落城したという記憶があるのなら、その衝撃は鮮明に覚えており、一次資料として扱われる史書の中に何らかの形で残っていても可笑しくはない。

 ところが史書の記述が混在状態ゆえに、後の家康の記憶の中には鮮明では無く曖昧な記憶として残ったレベルだった可能性が高いのだ。

 そこから読み解くに、竹千代は既に駿府へ向かって出立していた。

 いわば広忠が今川からの援軍を得る約定として、落城前に竹千代を送り出したと考える。

 ここで戸田康光が織田方に寝返ったとする史書の表現は間違えであることを言っておこう。

 と、言うより何故田原城という今川領に近い戸田康光がリスクを覚悟で織田に寝返るのか…かなり不可思議な現象となるからだ。

 田原城は静岡県浜松市から愛知県に入る豊橋市を得て、渥美半島の中腹に位置する場所に成る。

 いわばかなり今川領の方に近い勢力と成るのだ。

 その勢力が今川と織田の戦いで考えた中で、織田方に与する利は殆どないと言える。

 なので実はこの表現は間違いなのだ。

 ところが実は本編25話を参考に見れば流れは説明が付くのだ。

 うつけの兵法 第二十五話「大は小を飲み込む」後編 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

 

 岡崎を巡る三河の支配状況は吉良氏の存在がこの時点では左右する。

 いわば東条と西条吉良の存在である。

 元々松平清康であり松平広忠は東条吉良側の豪族で、広忠の広は元服時に吉良持広から一字を拝領したものである。

 その東条吉良は西条吉良との関係から今川と手を結んで三河の守護としての地位を維持しようとしていた。

 そうした中で松平氏の間でも西条方と東条方で分裂し争っていたのだ。

 ところが今川の調略で政略結婚を得て、西条吉良が完全に今川の傀儡と成ってしまった。この時の当主が吉良義堯である。

 逆に東条吉良は西条の吉良義堯の次男義安を養子に迎えてこの義安が東条吉良を受け継いだのだった。

 当初の今川の目論見では東西の吉良が統一されると見込んでの調略であったが、東条を引き継いだ吉良義安は今川の傀儡として扱われる吉良氏の存在が許せず、尾張いわば斯波氏であり織田信秀と結んで吉良氏の威光復帰を目論むのであった。

 この時点で三河の命運は尾張と駿府に委ねられる形に成っているのだが、且つて西条方として尾張と結んで戦っていた勢力も反今川、いわば今川の傀儡となる三河を嫌って東条の吉良義安に与するように成るのだ。いわば吉良氏を巡って、三河の独立か駿府の属国かを掛けた戦いに成ると言ってもよい。

 この吉良義安の動きが信秀を岡崎に引き入れ、かつ戸田康光を動かしたのだ。

 いわば戸田康光は織田方に寝返ったのではなく、吉良義安に与した形を取ったのだ。

 言い換えれば現実的な話、戸田康光が信秀に忠義を示す意味で寝返るには利害として成立せず、寧ろそれが東条吉良の当主吉良義安なら三河を守るという意味で忠義が成立するのだ。

 

 そして竹千代ら一行は駿府へ陸路で向かう途中、吉良義安かまたは戸田康光、恐らく史書の通り戸田康光の兵に見つかってそのまま尾張へ移送されたとする感じになる。

 いわば援軍を求める為の一行が早々と吉良義安の勢力に見つかって捕まったという形で考える。

 そしてその数日後に岡崎城は陥落した。

 それを知った今川勢は三河へ侵攻して、戸田康光ら率いる吉良義安、いわば東条吉良の勢力と遠江三河の国境で争った。

 そうした状況もあって岡崎勢が今川、ある意味西条吉良を傀儡にした今川に寝返らないよう、竹千代を安全地帯となる信秀の元へ送ったという流れに成る。

 現状の史実として見られる資料を精査するなら、これが一番辻褄が合う状態である。

 こうした吉良義安を三河の守護とした勢力として、酒井将監らもこれに与した形で考える。

 

 それ故に人質として尾張に連れてこられた竹千代の扱いは、丁重なものだったと考える。

 いわば名目上は信秀が岡崎を支配する為の人質では無く、東条吉良方に岡崎を組み込む為の人質として預かっているからだ。

 また更に言い換えれば、尾張斯波の代理で信秀が竹千代を預かる形にも成るのが実態である。

 ゆえに竹千代を粗末に扱う事は出来ないのだ。

 更にこの年、いわば9月に岡崎を陥落させた2か月後には美濃の斎藤道三が信秀に対して攻勢を仕掛けてくるのだ。

 ゆえに三河の吉良義安の勢力には今川を食い止める盾という意味で耐えてもらわねば成らないという利害も生じてくるのだ。

 

 さて…初陣を終えた信長と人質として尾張に来た竹千代の出会いは実際に有ったのかという点である。

 史実の有力な資料にはそうした記述は一切ないという。

 なので2人は出会っていないとする事の方が、歴史を検証する上では正当なのだ。

 ところが信長と家康の関係はある意味不可思議であると言える。

 信長の義理の弟に成る浅井長政は裏切った。

 家康は三河から遠江にも領地を獲得し、ある意味浅井長政より裏切る条件としては有利であった。

 また、三方ヶ原の戦いなどの敗戦を考えるなら、武田に寝返っても可笑しくはないと言えた。

 それでも家康は信長と共に戦ったのだ。

 信長包囲網という第三者から見て明らかに信長絶対絶命の危機に見える状態に於いて、信長と共に有るのは寧ろ自滅覚悟の決断とも言える状況だった。

 それでも尚、家康は裏切る事は無かったのだ。

 

 こう考えるなら一次資料では無く、その後世に美談として加えられたような物語が寧ろ真実味を帯びてくる感じに成るのだ。

 

 筆者はここで一つの賭けをした。

 当時、資料を細かく調べる前に、竹千代が人質として滞在した場所が熱田の加藤家なら出会っている、そうで無ければ出会っていないとすることにした。

 なぜ熱田の加藤家だったのか・・・

 先ず、その加藤家からは信長の悪友に加藤弥三郎が居る。

 そしてもう一つは…筆者の何らかの勘か、何かの記憶かである。

 

 結果、竹千代が居たのは熱田の加藤順盛の所だったそうだ。

 ここで熱田の加藤の事も調べが付き、前述として加藤家当主は「左衛門」とする形にしていたが、どうやらそれは「図書助」と名乗っていたらしいので、そこは改めておくものとする。

 ただ筆者はそれだけ漠然とした形でしか熱田の加藤家を記していなかった中でのこの流れであることは強調したい。

 

 ゆえに信長と竹千代は実は会っていたとする事と成った。

 

 熱田の加藤家なら、弥三郎から話は伝わり、信長がふらりと立ち寄ることも有りうる場所と成る。

 また初陣の関係上、信秀の最終的な目標が岡崎であった訳で、信長にとってその「岡崎から来た人質」という興味の対象となるのだ。

 

 初陣を終えてから間もなくの事、信長は弥三郎から実家に岡崎の人質が来たことを聞いた。

 そして、悪童らを引き連れてどんな奴か見てみることにした。

 竹千代は熱田の加藤家の羽城に幽閉されていたと記されているが、恐らく幽閉では無く最低でも軟禁状態で殆ど不自由のない状態であったと言える。

 その根拠には竹千代の心を織田方というより吉良義安方として洗脳する意味で扱う必要性もあったからだ。

 また信秀は生き別れとなった竹千代の実母、於大の方を面会させるなどして竹千代の心を調略しようともしていた。

 この於大の方は水野忠政の娘で、1544年いわば竹千代が3歳にも満たない時にその忠政が死に、於大の兄信元が継いで、ここでは織田方に成るが方針転換をしたことで今川方の松平広忠と絶縁する。

 その際にこの於大の方は実家の水野家へ戻され、丁度竹千代が那古野に連れて来られる1547年に水野家の政略結婚の相手として久松俊勝の元へ嫁がされた。

 

 竹千代自身の記憶に母、於大の事は何も残っていなかったのは実態であろう。

 また、多くの歴史家は竹千代が那古野に来た時点で、まだ数え年で6歳という事は実質5歳の子供で、小学生にも満たないいわば現代で言うなれば「5歳の幼稚園児」でしかない事を忘れがちである。

 

 色々とドラマや小説などでは凛々しい感じで描かれる事が多いが、現実的に考えるなら知らない土地に連れて来られて脅える毎日であったと考える方が無難である。

 そこに実母と名乗る於大を面会させるなどして、竹千代に安心感を与えるのだ。

 実際に洗脳という形の調略として用いるなら、於大の方は偽物でも良い。しかし、流れからして偽物を使う必要も無さそうなので、竹千代に面会した於大は実母であったと考えてもいいであろう。

 

 勿論、この時竹千代は於大の顔など覚えても居ない。

 いわば母を名乗る知らない女性が突然面会で現れたというのが最初の印象であろう。

 ところが母親が我が子を慈しむ想いは、不安に駆られて過ごす竹千代を直ぐに包み込むのであった。

 生き別れになった我が子との再会に嘘の涙を流すことは無い。

 子供心・・・寧ろ純粋な子供ゆえにその真偽は敏感に感じ取れるのかも知れない。

 偽物の演技では無く、実母故の愛情表現で寧ろ何も知らない5歳児には直感的に違いを感じるとも言える。

 そこには心臓の鼓動であり、包み込んでくる優しさなど不自然でない何かを感じ取り、竹千代はその人物が本当の実母於大で有る事を認識した。

 

 もし、この於大に偽者を使っていたのなら、成人した家康はこの人物を疑うだけの根拠を見つけたであろうし、もしそうなら信長との信頼関係も無かったとも言える。

 結果、そうでは無く後の家康はこの於大を実母として丁重に扱っている。

 またこの時竹千代の側目として同行していたのは酒井正親(後に酒井忠世という人物がこの系譜から出る)と、23歳の酒井忠次であっと考えられる。

 ※記録上では駿府へ同行した2名として記されているが、恐らく那古野にも同行していたと考えられる。

 この両名の酒井家はあの酒井将監(忠尚)の親戚筋にあたり、一説には将監は忠次の叔父にあたる。

 その為、織田方と連携していた酒井将監意向でこの両名が竹千代の側目として選ばれた可能性も否定できない。

 寧ろこれが酒井家が徳川の時代に残り続けた切っ掛けとも考えられ、将監一代の話では一族は断絶していたとも言えるのだ。

 と、は言えこの両名は広忠の妻の時代の於大を知る世代で、面識はあった可能性もある。

 なのである意味誤魔化しは効かないと言えるが、両名が将監の指示を受けて任についていたのならそこは定かではないとも言える。

 ただし流れとして偽者を必要とする情勢下ではなかった事は明らかなわけで、余計な勘繰りを捨てて話を進めるものとする。

 

 こうして母との面会を経てようやく尾張での生活に安心感を抱き始めた頃、竹千代の下に信長がやってきた。

 

 弥三郎の実家で、熱田の加藤家とは馴染みもある信長は自分の庭の様に羽城を歩き回って竹千代の所にやってきた。

 勿論、その姿は戦ごっこの帰りであり、小汚い農民の服装のままであった。

 竹千代は宿所の庭で側目の両酒井と遊んでいた。

 鬼ごっこでもしていた感じか…

 

 そこへ突然農民の様な出で立ちの信長が現れたのだ。

 側目の二人は狼藉者として身を構えた。

 

 信長は何も気にしない風で、

 

 「おお!!そなたが岡崎の」

 

 と、言って庭に面した軒床に胡坐をかいて座った。

 すると弥三郎、岩室、長谷川といった悪童の面々が信長に追いついてくるように現れ、

 

 「信長さま岡崎の子は見つかりましたか?」

 

 と、聞き

 

 「居ったぞ、ここに」

 

 と、信長は返事した。

 酒井両名は「信長」という名前に気づき、すぐさまそれが尾張の若殿であること察した。

 ドラマや小説の様に、その出で立ちなど気にすることは無い。

 若殿と気付くやすぐさま無礼を詫びなければ、自身どころか竹千代の立場まで危うくしてしまう。

 ましてや加藤家の羽城に得体の知れないものがズカズカと入り込めることなどないのだ。

 2人は片膝を信長の前でついて、頭を垂らしてすぐさま、

 

 「これは失礼つかまつった。」

 

 と、詫びた。

 

 「若!!すぐこちらへ!!」

 

 そして2人はすぐさま竹千代を呼びよせ脇に寄せ付けた。

 竹千代は二人の間に入り込んで立ったまま信長の方を見ているだけだった。

 両酒井は焦って、すぐさま竹千代に

 

 「若!!私らと同じような姿勢で!!」

 

 と、耳打ちするように伝えた。

 それに対して信長も察して、

 

 「気にするな。そのままで良い。」

 

 と、優しく声を掛けた。

 2人は再度平服するような形で、

 

 「はっ!!」

 

 と述べるだけであった。

 すると信長は自分の懐から袋を取り出して、そこから干し柿を取り出して食べ始めた。

 相変わらず行儀の悪い悪ガキである。

 そして一口食うや、竹千代に、

 

 「そなたも食うか?」

 

 と、聞いた。

 目の前の信長が美味しそうに食べてるのを見て、竹千代はすぐさま頷いた。

 信長は袋からもう一つ取り出して、竹千代を手招きで呼び寄せた。

 既に於大に出会ってから尾張に安心感を覚え始めたのか、何の警戒心も無く竹千代は信長の手招きに近づいて行った。

 信長はまるで猫でもあやすかのような感覚で竹千代を見ていたのだろうか…

 干し柿につられて近づいて来た竹千代を両手で抱きかかえて、

 

 「ほら捕まえたぞ!!」

 

 と、言って鬼ごっこをしていた続きの様にしてあやしたのだ。

 こうした茶目っ気のある演出は信長の上手さと言っていい。

 と、いうより信長も神童で実は人懐っこいところが有る故に、こういう接し方を自然と出来るのだ。

 竹千代にはその雰囲気が心地よく感じたのか、ツボに嵌ったように大笑いした。

 それを見た信長もすっかり竹千代の可愛らしさを気に入った。

 どの年齢でも人懐っこい生き物には愛着を覚える。

 信長が竹千代に感じたのは正にそんな感覚であろう。

 そして竹千代に干し柿を手渡してやり、次に自分の膝の上に乗るように誘った。

 5歳児の子供でもそこは躾のためか、少し遠慮して酒井たちの方を見て確認した。

 信長はその遠慮を察してか、こんどは竹千代の脇腹をくすぐって、

強引に膝の上に寝かせるように押し倒したのだ。

 キャッキャキャッキャと笑う反応を示す子供は可愛い。

 まるで猫が喉を鳴らして懐くようなかんじだ。

 

 信長は人心掌握術に長けていたのは事実だが、多くの人はこれを策士の様に計算で為されたものだと考えてしまう。

 しかし、人心掌握術の基本は、相手が喜ぶことが何かを知る事にあり、それは今でいうエンターテインメントの基本とも言えるのだ。

 人を楽しませる事を楽しみとして考える場合、逆に陰湿な策士の計算ではなく寧ろ気持ちを伝えねば楽しさを共有できないのだ。

 いわば一緒に楽しむ事を目指すゆえに一方的では無くなり、相手も自然と心地よさを感じるのだ。それ故に相手はその存在を大事に考えてくれる。

 この関係性を生み出す意味で、信長は生来エンターテインナーとして人心掌握術を身に着けていたと言えよう。

 

 そして信長は竹千代を膝の上に座らせて、

 

 「どうだ?美味しいか?」

 

 と、干し柿を食べる竹千代に聞くと、

 竹千代は笑顔で、

 

 「うん!!」

 

 と頷いた。

 こんな反応を示されたら誰でもこの竹千代を可愛いと思ってしまう。

 それは例え魔王の心を持っていたとしても、癒されてしまう様な光景である。

 信長の側に居た岩室にしても、長谷川、弥三郎も同じ様に感じただろう。

 

 筆者はこれを記す前に、13歳の若者と5歳の子供が一緒に遊ぶという接点に疑問を持っていた。

 それ故に、信長と竹千代は一度だけしか会っていない関係だったと考えていた。

 様々な流れを精査しながら、ごく自然な流れでストーリーを展開して行くうちにこうしたエピソードが生じることと成った。

 ある意味これが自然な形であり、恐らく二人の間にこうした出会いがあったのは間違いないと言えよう。

 

 信長にとって竹千代との将来をこの時点では全く考えていない。

 後に岡崎と同盟を結ぶという戦略的な視野も全くないのだ。

 ただ、自分に懐いてくれた竹千代が凄く可愛く感じた、ただそれだけの関係でしかないのだ。

 ある意味、竹千代にはそういう愛される雰囲気を醸し出す神童としての素質があったと言ってもいいだろう。

 

 一方の成人した竹千代こと家康は、こんな出来事を全く覚えても居ないだろう。ただ記憶として残る大きな刺激は、この時に食べた干し柿の味。

 その味は別段格別なものでは無いにしても、信長という得体の知れない存在に何となく心を許し、初めて食べた甘味として残るなら、格別に美味しかったものとだけ印象に残ると考える。

 

 その後、信長らは可愛い三河の坊主に会いに度々熱田の羽城に足を運んだのは間違いない。

 鬼ごっこや隠れん坊をして遊んであげる流れは十分に考えられる。

 ある意味、信長の優しさで竹千代と遊んだのではなく、寧ろ幼少期の家康こと竹千代の愛らしさに信長たちは癒されに行ったと表現する方が適切と言えよう。

 家康が天下人と成る上では信長の存在は絶大である。

 その関係性が上手く生じるには、この出会いは天命であり、神童としての竹千代が信長を魅了したと言えよう。

 

 そして、もう一つは後に家康の重臣となる両酒井、特に酒井忠次の目にこの光景が焼き付いていたことだ。

 寧ろこちらでは人質として尾張に滞在する竹千代の心を、この時の信長は気遣ってくれたように映るのだ。

 勿論、筆者は正直に記している。信長は可愛い竹千代に癒されに遊びに行っていただけ。別段、竹千代を気遣っての行動ではない。

 信長はまるで猫でも愛でるかのように竹千代を可愛がっていた。

 それでも酒井忠次らからはその二人の関係性がとても有難く映るのは事実であろう。また、傍から見ればまるで兄弟の様な関係で見れたとも言える。

 

 こうして後の信長と家康の関係性は、この時分の出来事が大きく影響したという従来の見識は間違いでは無いといえる。

 家康の記憶の中に、あの甘くて美味しかった干し柿の味が染みついているのに対して、忠次が幼少期の二人の関係性を耳打ちする中で、家康の心の中に信長へ対する信頼が構築されたことは自然な流れとして成立するのである。

 見方によれば、家康は幼少期に信長に対する信頼を洗脳されたとも見えるが…全ては天命の為しえたもので、人間の思惑が及ぼすものでは無いとは言っておこう。

 

 次回は…信長の恋話、「吉乃と帰蝶」です。

 

どうも・・・ショーエイです。

Youtube向けの動画制作。

まだまだ勉強する部分が多くて大変なのですが、

とうとう「どうする家康」も始まってしまい、

しかも昨年の9月から

「うつけの兵法」の更新がない事も気づき、

急遽書くことにしたわけです。

 

まあ、普通の小説として想像力を張り巡らせて、

良い感じのストーリーにしようと思えば、

そこまで労力は掛からないのですが、

この「うつけの兵法」は出来るだけ史実というより、

事実に近づけて話を構成したいので、

調べものを解析するのに労力をものすごく使います。

 

前の記事にも記した様に、

小説や物語として歴史を見るのは

それはそれで素敵な事です。

「どうする家康」での信長と家康の関係性も、

あれはあれで十分にありです。

物語として見るなら、

寧ろあちらの方がファンタジックな雰囲気もあって、

ストーリー性としては面白いと言えます。

 

ただ、その上で実際はどうなの?

と、いう意味で今回の「干し柿の美味」というタイトルで、

書き記したわけです。

 

ここでは歴史家も見落としている事実。

三河の覇権は、表面上は今川と織田の戦いでは無く、

依然として東条吉良と西条吉良の覇権争いであった事。

その裏で今川と織田の調略合戦があったという点で考えなければ、

戦略的な心理的な流れで

本当にグジャグジャに成ってしまうという事。

 

ある意味、ここでも記した様に

今川領に近い戸田康光の田原城が

何故織田方に着くのか?

殆ど地政学的に考えると自殺行為であり、

織田に寝返る利点すらない訳です。

 

歴史家たちはそんな不可思議な点を考慮せずに、

史書の記述のみで決めつけてる有様なのかな?

 

まあ、こうした意味不明で曖昧な情報が多い中で、

色々な観点から辻褄が合うように整理していく作業は、

本当に時間が掛かるのです。

ある意味、一次資料だけの話でなく、

伝承ベースの二次、三次資料であっても

何故その様な伝承が発生するのかまで考慮して、

一次資料に書き落としがあった点を踏まえて精査するので、

動画を作る作業より頭が爆発しそうになります。

 

今回の竹千代と信長の出会いは有ったのか?

という点では、一次資料には全く存在しません。

かと言って出会っていないと決めつけるのも違う。

伝承ベースでは様々な美談の様に描かれている訳ですが、

出会う可能性など信長の性格であり、

当時の竹千代の環境から探って考えなければならないという事。

 

本編でも記したよう、13歳の少年と5歳児が一緒に遊ぶか?

と、いう疑問も先行して生じた訳ですが…

とりあえず流れで…

多分会っては居るけど一緒には遊ばないだろう…

と、いう想定で書き始めたら…

なんと…いや…これ一緒に遊んじゃう流れだね…

と、思わぬ展開が見えてきたのです。

 

頭で色々と悩んで書かないより、

適当に書いて柔軟に考える方が良いのかな

と、気付かされた感じです。

 

さて・・・次回の恋話…

とにかく信長が吉乃が好きで好きで

仕方なかったのは間違いないです。

ここでも史実はグジャグジャなので…

色々と悩ましいです。

さて…まだ書き始めても居ないのですが…

色々な疑問点を前もって記しておきます。

 

何故、斎藤道三と織田弾正忠家の間で

政略結婚が成立したのか?

 

誰も疑問にすら感じない部分ですが…

織田弾正忠家は尾張の支配図で言うなれば、

斯波氏>織田大和守家>織田弾正忠家という序列です。

 

美濃の守護を追い出した形で、

その座を得た形の斎藤道三は、

いわば斯波氏と同格と言えます。

 

ここで大垣城の存在がキーポイントに成るのでが…

大垣城を調べると…

1544年に織田信秀に落とされて、

1549年に斎藤道三に攻め落として奪い返された。

 

うつけの兵法では1544年に

加納口の戦いが有った形で記したのもこの流れを汲んでからです。

しかし、1548年に織田と斎藤で

政略結婚が取りまとめられていることに成り、

1549年には帰蝶こと濃姫が輿入れしてます。

なので…1549年に斎藤道三が攻め落したというのは、

ちょっと辻褄が合わなくなる。

ただし、政略結婚の条件が、大垣城の返還であったとするならば、

政略結婚が成立する条件としては実は申し分が無いのです。

 

また、時系列での話をすると…

1547年に加納口の戦いがあったとするなら、

織田信秀は岡崎にも行って、美濃にも行っていたことに成ります。

無理では無いにしても、こんな戦い方では身を滅ぼします。

しかし、事実はこれに近い事は想定できます。

 

1547年9月に岡崎城陥落で、1547年11月に加納口の戦いが有った。しかし、この加納口の戦いとされるのは1544年に結んだ休戦からの延長と考えます。

すると岡崎攻めに労力を費やした信秀の隙をついて道三が仕掛けた形は戦略的に有りうる話の流れに成るのです。

 

史実ではこの2つの状況が混在して存在するため、グジャグジャに成って見えますが、精査するとここは上手く整理できる流れの様です。

しかし…1549年に大垣城が攻め落されたという記述を信用するなら、織田と斎藤で結んだ政略結婚の話とどう辻褄を合わせるのか?

それとも単に攻め落とされたという表現は

何らかの過剰な形で残る記録で、

実は斎藤方から竹越尚光という人物が

城主として普通に入って取り戻しただけなのか?

 

実は帰蝶こと濃姫が輿入れする話を作るまでに

色々グジャグジャ情勢を整理して考えなければ成らないのです。

結構…辛い作業でもありますが…

最終的には…辻褄が合うようにすればそれで見えてくるのです。

 

ただし…次話の問題は…

信忠君の生年が何時かで異なる。

記録上では1557年が有力とされているが…

一応、吉乃という人物であろうと考えられるも、

生母不明という形も有力視されています。

 

信忠君は、

信長たまの嫡男ですよ!! 

 

何故そんな子の母親が生母不明な扱いなの?

吉乃姉さんではダメなのですか?

 

という意味で、ちょっと何気に怪しくない?

 

ただし、その生年を前倒しで考えてみたが…

元服が1572年となると…1557年で丁度15歳。

元服の記録は前後しても前倒しは無さそうなので、

生年も前倒しは難しいと考えます。

 

ここから逆算すると、

吉乃と信長たまのラブラブな時期は、

濃姫が輿入れした後で…

濃姫に失礼な言い方で、

現代風に言うなれば…不倫な関係?に成てしまう。

 

また、資料によると、

信正君と言う子がその前に生まれているようですが…

これらの関係性を盛り込みつつ、

信長たまの女性関係を探っていかねば成らない訳で…

色々と大変な作業でもあります。

果たして…どのような展開に…

まあ、史実に記録がない部分なので…

史実から外れない所で纏めるのが妥当なのかな?

 

因みに色々な史書に残る内容を参照して

濃姫と吉乃姉さんに当時の印象を聞いてみると…

 

濃姫

「何か…結構放置されてた気がする。別に仲が悪かった訳ではないけど…あまり表舞台に出る感じもなかったし…」

 

吉乃

「信長さまとの記憶は色々とあって、充実していた感じ。でも、濃姫様の手前もあってあまり表舞台に出る事はありませんでした。」

 

歴史上の記録や伝承を元に精査するとこんな感じで、

実は秀吉や蜂須賀小六、そして前野長康らといった立身出世組からは吉乃の方が慕われた存在として残る。

ただし、武功夜話であり前野家文書という記録は盛った話が多く信ぴょう性は疑われるものである。

しかし、それでもその存在が残されることはそれだけの人物であったと考えても良さそうである。

 

こうした流れから次話の構成を考えていきます。

果てさて・・・どんな話になるのやら・・・