うつけの兵法 第三十二話「初陣」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第三十二話 初陣】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 信長の初陣は1547年の吉良大浜の戦いとされている。

 信秀は1544年に越前朝倉と連携して道三の美濃へ侵攻したが、双方が痛み分けという形で和睦した。

 一方の今川は北条と和睦を計り東からの脅威を収めようと試みるも、既に北条氏綱から三代目の氏康に代替わりした北条がその和睦に難色を示したため不調に終わった。

 今川からすれば尾張が美濃と停戦した事で、寧ろ尾張の矛先が三河に向くことを警戒して考えたのだ。

 

 一方で甲斐の武田は、北条と敵対していた信虎が1541年に追放され、それ以後武田晴信(信玄)が当主となっていた。

 信虎は関東との関係に固執して寧ろ甲斐から領土を広げられずにいた訳だが、晴信は寧ろ関東への関与の前に信濃方面へその地盤を広げ、武田家をより強固なものとすることを目指したと考える。

 

 晴信の巧みな所は、信虎の時代に成立していた甲駿同盟をそのまま維持した事にある。

 更には1541年に北条は氏綱が死去し、氏康に代替わりした時期でもあった。

 この期に関東の山内上杉家と扇谷上杉家は連携して北条へと侵攻したのであった。

 武田は信虎の時代ではその山内、扇谷両家と同盟して北条と対立していたが、晴信は寧ろその双方に天秤を掛けるように働きかけて、逆に動かない姿勢を示して氏康に先ず貸を作ったと考えられる。

 歴史の評価では暴君気味で考えられる武田信虎であったが、寧ろ信虎の行動は源氏と足利幕府に対して義を通した存在と認識してもよさそうである。

 しかし、その義を通す姿勢が裏目に出て、信濃佐久郡の攻略の際、敵方が山内上杉家を頼って援軍を求めたことで、信虎は同盟国との対峙を避けてその攻略から速やかに手を引いているのだ。

 その際に晴信も同行していたわけだが、甲斐の地から一向に領土が広がらない状況を察してか、信虎の判断に疑念を抱いたとも考えられる。

 屈強な将を抱えながらも、甲斐一国では軍の規模は限定され、武田家の繁栄を妨げると晴信は考えたのかも知れない。

 こうした晴信の疑念に、板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らが賛同して信虎追放という処置に至ったとと考えられる。

 仮に信虎という人物が暴君の様な存在であったら、追放と言う形では無く寧ろ内乱が生じていたとも考えられ、その際に駿河の今川との関係も崩れていた可能性もある。

 比較的追放というよりも隠居させた感じが強く、信虎もあえて抗う形もなく速やかに身を引いた形に成っている。

 また、信虎の隠居先は今川で、その今川と晴信の間で信虎の隠居量を求めるなどの外交が散見している点からも、事はかなり穏便な形で終始している。

 恐らく信虎は晴信の行く末と甲斐の繁栄を陰ながら見守る決意に転じたと考えられ、

 今川には、

 

 「晴信が暗愚なものであるのなら、今川が甲斐を得ればよい、もし晴信が名君ならばこれと結ぶことは寧ろ今川の利と成る。」

 

 と、いう風に伝えていたのだろう、と考えてしまう。

 どの道、武田信虎という人物の行動を分析すると、義に厚くかなり良い人格者であったと評価する方が適切である。

 甲陽軍艦で彼の治世が悪政であったとする記述は、寧ろ晴信の不義を後世に正当化させるためのものとして考える方がよさそうである。

 

 こうして家督を継いだ晴信は、寧ろ父・信虎の義によって今川との関係は繋がれたと言っても過言ではない。

 また北条氏綱が死んで、氏康に代替わりしたタイミングで晴信は過去の因縁を清算する機運を与えたのだ。

 寧ろこうした算段の中で、1541年は晴信にとって絶好の機会であったとも言える。

 関東の混乱に乗じて、晴信はすぐさま信濃へ侵攻する機会と定めたのだ。

 更には矛先を東から西に向けたことで関東で奮戦する氏康に対して晴信は暗に相互の利害の一致を示したとも言える。 

 

 一部資料には瀬沢の戦いで、諏訪と小笠原の連合軍が甲斐に攻め込んできたとされている。

 これも寧ろ晴信の侵攻を正当化するための方便で、実際に史家の間でもそういう評価で考えられている。

 信虎の時代には信濃の勢力と同盟を結んでおり、その同盟連合で信濃佐久の攻略に出向いている。

 寧ろ晴信は諏訪頼重に対して、先の信濃佐久攻略の件で援軍を差し向けた山内上杉家と諏訪氏が勝手に和睦し、一部所領を分割して受けた事が、同盟の違反に当たるとして、これを理由に関係を断ったとされている。

 義に厚かった信虎の時代から、不義に働く晴信の時代へと甲斐が変わった事もあって、一方的な関係断絶を表明した晴信の挑発に諏訪頼重が乗ってしまった事は十分に考えられる。

 瀬沢の戦いはそうした形で事実として発生した事は否定できない。

 晴信はそれを見越して準備を整え、それを理由として信濃攻略に乗り出したのだ。

 

 晴信の家臣団は苦しい領内運営のまま、義に奉仕させられていた信虎の時代よりも、所領を増やして繁栄へと導こうとする晴信の考えに傾くのは当然の成行だったとも言える。

 いくら経営者が人格者であっても、給与が低いままで働かされるのは苦しいだけで、寧ろ野心的に業務を広げ、その給与が功績によって上がっていくほうが有難いと思う心理は誰でも同じなのである。

 信虎は義に厚い人格者であったかも知れないが、晴信は寧ろ家臣思いの人格者であったという対比で考えてもいいかもしれない。

 

 対外的な信用は信虎の方が高かったといえるが、家中の信用は晴信の方が高く、それ故に屈強な武田軍団を組織できたとも言えよう。

 

 こうして今まで甲斐一国で頓挫していた武田家を信濃まで拡大させた晴信の地盤は2年足らずで安定した。

 

 一方の北条氏康は西に駿河の脅威を抱えながら、関東の地盤を固めるために奔走していた。

 更には天文の飢饉なども起り、かなり厳しい中でのものともなった。

 寧ろ今までならそこに加えて甲斐武田の脅威が加わる中、晴信は逆に目を西に向けて脅威となる態度に出なかった事もあって、唯一利害を共有できる存在として氏康は意識し始めたのだ。

 こうした心理作戦は恐らく晴信が想定していた流れとも考えられる。

 晴信からすれば、信虎は寧ろ関東に目を向け過ぎたゆえに甲斐から広げられなかった。逆に信濃に目を向ければ領土拡大は比較的容易であると考えたのだろう。

 その上で誰と結んで誰と敵対するのが理に適うのかを見極め、寧ろ勢いのある今川と北条と争うのは下策と分析していた。

 そういう流れで今川との関係をいじしたまま、北条とは利害の一致を説いて1544年には甲相同盟を成立させたのであった。

 

 一方で氏康は今川との関係がこじれたまま、関東の問題にも対処せざるを得なかった。

 今川は氏綱の時代に起こった第一次河東の乱で失った富士川以東の河東地域の奪還を求めていた。

 晴信の仲介で、今川と氏康の和睦が提案されるも、今川がその河東地域の返還を求めるゆえに不調に終わった。

 先の話でも記した様に、川を挟んで境界とする方が、実は双方にとっても守りやすい。今川はそれを最終的な備えとして北条に対応し、西の三河の動静に些か力を注げたが、北条としても富士川を挟んだ守備で今川を食い止めて東の関東に力を注ぐ算段で考えていたのは同じである。

 逆に同盟が成立すればその双方の脅威は払拭されるのだが、とは言え早雲の時代から三代目の氏康としては義元の父、氏親の時代の様な信頼関係は想像できないといった状態である。

 こうして和睦が不調に終わるや、今川が今度は河東地域奪還に向けて兵を差し向けてきたのだ。

 

 北条が関東の攻略にやきもきしている事は、今川の参謀太原雪斎も承知の事であった。

 また、今川としても美濃と尾張が停戦した状態では、次に三河の動向が気に成る状態でもあった。

 ゆえに北条とは出来るだけ早く和睦しておく必要性は熟知していたが、北条にその必要性と河東地域の返還を意識させるためにあえて関東の支配権で北条と敵対する山内上杉と同盟を結んだのである。

 

 30歳に成ったばかりの氏康はまだ血の気が多かったのか、今川の脅威と関東のいざこざを同時に処理する難しさを理解していなかった。

 そうした中で1545年に第二次河東の乱と呼ばれる、今川方の河東地方奪還作戦が発生した。

 そしてそれに呼応するように山内上杉家と扇谷上杉家が大軍で武蔵の河越城を包囲した。

 無論、北条の主力は河越の防衛に注がざるを得なかった。

 その為、河東地域は今川軍の攻勢に押され伊豆の手前の三島まで侵攻される状態に成った。

 本来なら富士川でこの侵攻を食い止めれるはずだったが、戦力をどうしても河越を含む武蔵防衛に注がざるを得なかった氏康は、半ば河東地域が奪われる覚悟で対応したと考えられる。

 資料の中には今川と武田の連合軍と成っているが、武田がこの時点で北条と対峙する状態は考えられないため、今川軍の単独行動であったと考える。

 

 こうしてあっという間に窮地に立たされた状態で、武田晴信は北条に今川との和平仲介を再び申し出た。

 戦略上、こういう流れが一番適切であり、この和平には今川義元も太原雪斎もあらかじめ算段していたと言える。

 無論、条件は先の和平仲介と同じもので、河東地域の今川への返還であった。

 氏康もまんまと嵌められたと察するも、既に失った形ゆえにこれを諦める形と成った。寧ろ氏康は今川とは最悪和平が成立すると考えていた為、主力を武蔵方面に向けたと言える。

 と、は言えこの和平で、氏康にもようやく晴信や義元が北条を潰す意図がないことが伝わったのだろう。寧ろ北条には関東に専念してもらいたいという利害を察せられる形と成った。

 後の甲相駿の正式な三国同盟成立はこの7年後の1552年と成るが、この時点の三国間和睦はその前哨として成立したものと考えられる。

 こうして三国間の利害の一致が成立した後、氏康は河越を包囲した両上杉家を通説では8万対1万の圧倒的な不利を覆して、見事にこれらを打ち破り、関東の地盤を徐々に固めていくのであった。

 

 信長が元服した1546年は今川の情勢が東から西へ向き始める頃合いでもあった。

 

 1543年三河では、織田方の勢力として安祥城周辺を支配していた松平信定の子、清定が死去してまう。

 これに伴って松平広忠は今川の支援を受けて安祥城奪還に動いた。

 この時期の三河情勢は資料が様々な見解に分かれており、実はかなり混沌とした状態である。

 松平清定の子で、その後を受け継いだ松平家次は1545年に広畔畷の戦いで父・清定、酒井将監、榊原長政らと一緒に戦って敗れたとされているが、清定の死が1543年ともされている中では、寧ろ清定の死を切っ掛けに発生した戦いと考える方が妥当である。

 1544年から1545年に掛けては、信秀は美濃の斎藤利政(道三)との戦で動けない状態であり、松平広忠として見れば三河を纏める絶好の機会であった。

 更には1542年に信秀と今川が小豆坂の戦いで衝突したとあるが、これらは実質、松平広忠と松平清定の三河領有を巡っての戦であったと考え、織田、今川双方が援軍を差し向けた中での話として考える。

 そうした中、結果決着がつかずに終わったとするのが妥当で、寧ろその後清定が死んで、1545年の広畔畷の戦いで一応の決着がついたとする方が流れとして辻褄が有ってくる。

 恐らくこの戦いで安祥城は広忠方に奪われたであろう。

 ゆえに安祥城を失った家次らは北三河の現在の豊田市から瀬戸市あたりを拠点に暫く広忠に抵抗していたと考える。

 因みに榊原長政は後の徳川四天王にも准える榊原康政の父である。

 

 一方で、愛知県刈谷市及び知多半島北部を支配していた水野忠政が清定と同じくして1543年に死去している。

 水野忠政の娘で於大の方と言われる女性は、家康の実母であり、いわば広忠の正妻に当たる人物であった。

 また、忠政の後を継ぐ、信元の正妻は松平信定の娘で、外交上この水野氏は半独立した豪族として双方に中立した存在として所領を維持したと考える。

 いわば勢力としては信秀と三河の松平に挟まれた場所と成る為、迂闊に戦に巻き込まれれば最初に狙われる事になる。

 その上で中立であること守って、むしろ双方の戦に巻き込まれないように堅持していたと考える。

 ところが忠政が死んで、信元の代に代わると中立の立場から信秀に与するようになった。

 

 信元の目的は知多半島の征服であったと考えられ、信秀は三河の安祥城の松平清定らに加え、水野氏の勢力を組み入れる事で今川との緩衝を設けようと考えていた。

 そのため信元に知多半島制圧を許す形で引き込んだと言える。

 知多半島は中部国際空港セントレアのある半島で、尾張にも三河にも与しない豪族が点在していた場所と考えるのが良さそうである。

 水野信元はこれら豪族を制圧して尾張と三河の間に一大勢力を興そうと画策したとしてもおかしくは無い。

 故に信秀との間で利害が一致したのだろう

 しかし、その連合の一角であった安祥城の松平家次らは、広忠に敗北してしまった。

 そうした中で信元は1546年に酒井将監を味方に引き入れたとする。しかし、1545年の広畔畷の戦いで敗北し、安祥城を失っても尚、現在の豊田市にある三河上野城で抵抗を続けていたと考える場合、継続して連携していたと考える方が妥当で、寧ろ1547年に信秀が岡崎城に攻め込む流れで、それに呼応するように酒井将監らに働きかけたという意味で解釈する方が正しいと考える。

 

 更には今川が北条と和睦した事も信秀の耳に入っていた。

 ゆえに信秀にとって今は再び三河方面の事が最優先事項となったのだ。

 

 信長が初陣を迎える1547年はそうした流れからの出来事であった。

 この初陣は1547年9月に織田信秀が岡崎城を陥落させる流れに合わせて組み込まれたものと考える。

 

 刈谷城の南方、知多半島の半田から衣浦港を挟んだ対岸に、碧南という場所がある。ここが信長の初陣の吉良大浜だとされている。

 この大浜という場所は、現在でこそ東の西尾市と陸続きに成っているが、当時は油ケ淵と矢作川が合流して湾を形成していた。

 そのため大浜は知多半島の東に並行して突出した半島の南端に位置する事と成る。

 この地を治めていたのは長田氏で、恐らく長田重元であったと考える。そしてその重元は広忠の時代に信秀の侵攻に備えるためこの大浜の砦の守将を命じられたとされるが、元々平安時代より長田氏の所領であったため広忠方に与した三河の豪族として存在していたとする方が正しと思われる。

 刈谷城の南方に位置する勢力で、寧ろ水野信元の背後を脅かす存在にあった。

 場所も知多半島から湾を挟んで場所ゆえに、海側から侵攻が無い限りある意味刈谷方面へ動きやすい場所でもあった。

 水野信元もこの長田氏の勢力が敵方にある上では、迂闊に動きが取れなかった。

 信長の初陣の記録では、大浜に2000の兵が居たとされている。

 更には油ケ淵から安祥に向けて現在長田川というのが流れている。それから察するに、その長田川の東から現在の安城市南辺りまで長田氏の所領であった可能性も考えられる。

 一方の水野氏は知多半島北部の東浦から刈谷に掛けての領地を持つ豪族で、信元が織田方に寄り添った後は長田氏とは隣接する形で争っていたと思われる。

 そうした状況の下で、信元は信秀に相談を持ち掛けたのだ。

 

 信秀も長田の勢力を攻略しようと思えば出来なくもなかった。

 しかし、そこで兵力を割くのは岡崎攻略を目指すうえでは得策では無かったのだ。

 長田氏の勢力は大浜で2000人で、それ以外の兵力も合わせると5000人規模の豪族と考えても良い。

 仮にその砦を正攻法で攻略すると成れば、兵力はその倍から4倍は必要に成る。いわば10000人以上必要なのだ。

 そうした中で攻略出来たとしても全ての兵力が残るわけではない。

 寧ろ怪我なども含めれば砦を落とすまでに半数は使えなくなる。

 

 松平広忠を中心に岡崎の三河勢力が地盤を固める前に、岡崎を攻略しておきたい。それが適わねば三河は今川に飲み込まれてしまう事に成る。

 それ故に信秀としても無駄に兵力を割くより、岡崎攻略に集中させたかった。

 信元を交えてそうした会話が流れる中で、大浜の長田の勢力を足止めさせるいい妙案がないものか模索しているところに、林秀貞が懸案を出した。

 

 「では、大浜の兵力が迂闊に動けないよう、対岸の亀崎(半田市北東部沿岸)から奇襲を掛けてそれを警戒するようにさせては如何でしょうか?」

 

 すると、信秀は

 

 「対岸からの兵を警戒させて、動けないようにさせるという事か?」

 

 と聞くや、秀貞は

 

 「その通りです。寧ろ、大浜の隙を我々が狙っていると悟らせるのです。」

 

 すると信秀は成程な…と少し考えた。

 そこで秀貞は、

 

 「先ず、水野殿の刈谷城の部隊を安祥方面へ侵攻させます。更に我々の主力部隊も安祥へ進めるのです。これに対して大浜の部隊がどこへ動くか…これも見極めます。」

 

 そこで信秀は、

 

 「もし、大浜の部隊が動かずにその場にとどまった場合は?」

 

 すると秀貞は、

 

 「我々が岡崎へ向かって進軍する中で、大浜の部隊が動けないようにするのが目的です。その為、一応の奇襲は行った上で、大浜の港に火をかけて速やかに撤退するだけでも効果は有ります。」

 

 秀貞は続けた

 

 「大浜の港が焼失すれば、長田の動きは止まるでしょう。大浜の主体は水兵で、船の消失大きな痛手と成りますゆえ。」

 

 当時の大浜は海運の要衝で、江戸時代には江戸廻船の基地であったとされる。

 記録上に長田氏の詳しい事は残されてい居ないが、地勢的な事を考慮するなら大浜は長田氏の水軍基地であったとする方が良さそうである。

 そこで、信秀は、

 

 「その奇襲部隊は誰がやるのだ?」

 

 それに対して秀貞は、

 

 「望みとあらば、那古野の部隊を私が指揮してやりましょう。」

 

 と、言うや…

 信秀は少し考えてから、

 

 「いや…そなたには主力の方に居てもらう必要がある…と、するならば信長の初陣に丁度いいかもしれんな…」

 

 その言葉に流石の秀貞も驚き、

 

 「殿、簡単な役目とは言え、この奇襲はかなり危険なものと成ります…若の初陣として扱うには些か賛同しかねます。」

 

 と、諫めるも信秀は

 

 「むしろこの程度で死んでしまうならそれまでよ。ある意味、将としての見極めが出来るなら、速やかに引き返せば危険はない。」

 

  更に目の前に置いてあった地図を差しながら、

 

 「大浜からの退却には、すぐ北の高浜を伝って刈谷に抜ければいい。幸いその北側の勢力は水野殿の支配地域だ・・・この程度の作戦も理解できないうつけならば嫡男として失格とも言える。」

 

 そうまで聞くと秀貞は何も言いかえさなかった。

 そうは言うものの信秀は、

 

 「まあ、信長には歴戦の雄の勝介(名古屋城の家老の一人内藤勝介)を付けておくゆえに、心配はあるまい」

 

 と、大浜攻めを信長の初陣としたのであった。

 

 こうして初陣が決まるや信長は大いに喜んだ。

 

 (やっと本当の戦が出来る!!)

 

 この時、供回りとして岩室らも初陣としてあてがわれた。

 そして河尻秀隆と佐久間信盛が信長の護衛として付き添った。

 総指揮として初陣の守役を任された内藤勝介は、その大役に大いに意気込んだ。

 寧ろ、この勝介の意気込みが、信秀の安心を逆に覆すことに成る。

 勝介は確かに歴戦の雄で、小豆坂の戦いで功績を挙げたとされている。実際に小豆坂の戦い事態は不明瞭だが、以前の安祥城攻略など三河での戦で大功を上げた人物として考えればよいであろう。

 それ故に信長の初陣を前にして大いにその腕っぷしを披露しようと意気込んだのだ。

 

 1547年8月頃と推定(吉良大浜の戦いの日時は不明)

 信秀は部隊を編成して古渡から水野信元と合流するため、刈谷城へ出発した。

 そして、刈谷城で水野信元と合流するや、三河上野の酒井将監らと呼応して先ずは安祥城奪還を目指した。

 安祥城にはかつての松平信定、清定らに使えていた者も多く、それらと呼応する形で包囲を展開し速やかに攻略したものと考える。

 大浜にはもう一つの勢力があったとされ、恐らく大浜の半島北部で高浜との境目辺りに領地を持つ河合氏が居たとされ、その河合氏は信秀と結託しており、長田重元の動向を監視していた。

 安祥城攻略までの過程では重元に動きは無く、いわば刈谷と安祥の距離感からも長田が奇襲を用いるには近すぎた為と考えれた。

 そこから信秀らは岡崎に入る手前の矢作川に差し掛かると、いよいよ長田が動くなら絶好の距離と察して、那古野に早馬を走らせた。

 

 信長の初陣は予め準備されていたこともあり、政秀は紅の横筋を織入れた頭巾に、陣羽織、鎧を着せられた軍馬を用意してそれに備えて信長を着飾った。

 そして那古野城の兵800名を従えて、知多半島を南下し、

 現在の半田市亀崎という場所に布陣し、船で対岸の大浜を狙う作戦に出た。

 既に河合氏からの報告では、大浜の砦ではあわただしく水煙が立ち上り、更には船舶の準備も行われているという事だった。

 ゆえに長田氏が戦支度を整えている事は予想された。

 

 そして半日も経つと大浜から船が出航し始めた。

 船団、関船20隻、小早船50隻という規模だと思われる。

 当時の船には安宅船という巨大なもので、水夫50名と兵50名の100名が乗り込めたという規模で、その下に関船(せきふね)が30名、小早船が10名という定員。

 よって関船20隻で兵数600、小早船50隻で兵数500の総勢1100人の部隊が大浜から出航したことに成る。

 そしてその船団は大浜の半島を南に迂回してから、東に進路を進め、吉良(西尾市)に上陸、または矢作川を上って岡崎へ向かう形で確認された。

 

 対岸の亀崎から大浜は5~6キロ程度の距離ゆえに、そこからもそれは確認できた。

 それから日暮れの時を待って、信長らは大浜の港の北方1キロの場所(碧南市天王町)に向かって出航した。

 恐らく関船は用いずに小早船約80隻で渡ったと考える。

 この天王町とする場所に河合氏の部隊300程度が先行して待機しており、信長の部隊が合流するのを待った。

 この際に河合氏側から軍馬をいくらか運ばせる手はずも整えている。

 

 大浜の砦には900の兵が残っており、対岸から敵が向かって来ることは警戒していたと思われ、その為すべての行軍は夜に行った。

 仮に敵がそれに気づく可能性を察して、予め河合氏の部隊を先行して待機させ、いざという時の伏兵にしておいた形である。

 

 実はこの初陣に於いては信長は指揮権という指揮権は無かったと言える。

 部隊の指揮はほぼ内藤勝介に委ねられ、信長はただ、参戦して経験を積むだけのものでしかなかったのだ。

 河合氏との連絡も勝介が取りあっており、こうした手はずもその勝介によるものであった。

 勝介はその夜の内に簡素な陣容を作って、そこで一晩過ごし、明け方を狙って大浜の港を焼き払う作戦に出た。

 実は寧ろ手早く敵の港を焼き払って夜の内に撤退する方が結果としては賢明であった。

 しかし、長田の本隊は夕刻頃出航し岡崎へ向かったと察した勝介は、砦に残った兵を挑発しておびき寄せ、あわよくば砦を落として信長の初陣の手柄にしようと考えた。

 その為、ここは休息を取って明日に備える事としたのだった。

 勝介の家老としての親心とでもいう所だったのだろう。

 

 そして日が昇る頃には準備を整え、信長を引き連れ300程の部隊で南下し、一気に大浜の港と城下町を焼き払った。

 その後速やかに元の天王町に引き返して、城兵が打って出るのを待った。

 案の定、大軍でないと悟った城兵は、僅か100名ほどを残して追撃してきた。

 焼き討ちに出た信長らが天王町に差し掛かると、城兵の追撃隊も数百メートル付近まで迫ってきた。そこへ居残りの300と河合氏の援軍300で、一気に弓矢での斉射が行われた。

 これで追撃してきた城兵は大きな痛手を被る事と成った。

 そしてこれに信長らの部隊と入れ替わるようにして居残り部隊が追撃してきた城兵に突撃を仕掛け、一気に殲滅を掛けた。

 ところがその後、北から予期していなかった長田の伏兵が現れたのだ。

 伏兵というよりもほぼ岡崎へ向かったはずの兵が北から引き返してきたのだ。

 大浜の半島北の方角は河合氏の拠点があり、退却路として想定していたもので、寧ろ備えは薄かった。

 岡崎へ向かう体で、東に進んだはずの部隊が何故、想定した退却ルートの北側から現れたのか…

 

 奇襲を察して伏せていたのか・・・

 さすがの勝介も混乱した。

 

 勿論、長田重元も奇襲を察していたわけではない。

 寧ろ重元は刈谷へ奇襲を掛ける上で、河合氏がその動向を探るだろうことを想定して、一旦は東に進路を向けただけなのだ。

 その後、油ケ淵に入り込んで進路を西へ切り返し、先ずはその河合氏の居城(恐らく大浜の北、現在の高浜川南方と新川に囲まれた場所)を急襲しようと考えていた矢先の出来ごとだったと考える。

 下手に河合氏に察せられると、むしろ河合氏が刈谷方面から援軍を呼び寄せて刈谷への攻略が頓挫すると考えての策略だったのだろう。寧ろその河合氏に岡崎への援軍に出たと装って、油断した隙にこれを攻略すればという動きであったと考える方が良い。

 長田重元も奇襲を狙って、夜の内に進路を変更し明け方を狙って攻撃を仕掛ける予定であった。

 ところが大浜の港から煙が立ち上るのが見えた為、そのまま南下して引き返したところだったという具合である。

 いわば双方の奇襲がこの天王町で遭遇してしまったという奇妙な形と成ったわけだ。

 

 実際に碧南市の記録では、信長の初陣である吉良大浜の戦いは信長の大敗だったという記録もある。

 その中で、信長は城下を放火したが、長田方の伏兵に遭遇して大敗して逃げ延びたとあり、死者も多数出て現在の碧南市天王町には織田方の使者の為に13の塚が立ったとされている。

 半島の形状から北に退路を確保した状態でこの作戦が実行された場合、それほど大きな損失を受ける前に撤退していたであろう。

 ましてや城内に長田の兵が2000人そのまま残っていた場合、800の兵でこれを迎え撃つことは恐らく考えないであろう。

 仮に伏兵を配置するとしても、織田方の奇襲を予期できた事は難しく、この場所は比較的平地で部隊が影を潜めて動くには難しいのも事実である。

 兵数の観点から見ても、信長の方が半数以下で少なく、寧ろ奇襲による焼き討ちが狙いであった事は明白で、敵地に潜入する場合でも信長の方が夜間に移動した事が想定される。

 そうした中で長田方が伏兵を忍ばせるにしても織田方とその夜間に遭遇する可能性もある。

 

 実際に大浜のもう一つの勢力である河合氏がどの辺を拠点としていたかは定かではない。しかし、半島の形状と、刈谷方面に水野氏が居たとするならば、自然とその後ろ盾を持って長田氏と大浜で対立できたとすれば、大浜の北側にあったと推測する方が無難と言える。

 

 信長の進行ルートに関しては、刈谷から陸路で高浜を通ってそのまま大浜に南下したルートは想定できる。

 しかし、経験も無く初陣である信長が敵よりも少数で無理やり戦う様な作戦は現実的に行わないだろうと考えるのと、仮に多数の死者が出るほどの乱戦と成った場合、そこから無事に逃げれる状況にあったとは考えにくい。

 ただし馬術に優れた信長ならという事も考えられなくも無いが、敵に弓矢が有った場合、中々ドラマの様に上手くは行かないとも言える話だ。

 実は陸路を通って敵の拠点を焼き討ちし速やかに引き返す状態であったら、信長の損失は殆どなく事を終えることに成功したと言える。

 火矢を用いて軍馬を走らせれば300騎も有れば要は足りると言え、追手が追いつく前に撤退することも十分である。

 寧ろ、信長公記などの資料に基づき、無事に役目を終えたとするならば信長の初陣はこうした成行で成立するだろう。

 

 しかし、そうではなく天王町という場で多数の死者が出たという事に成ると、作戦遂行の足は遅く、撤退も速やかに行かなかった事が想定される。

 

 この時代、数百の軍を動かせば何らかの動向は必ず何者か…いわば斥候または間者や忍の目に留まる事は考えねば成らない。

 仮に長田重元が多くの間者を抱えるほどでないとしても、刈谷方面であり、知多半島方面に情報網を持つことは十分に考えられる。

 筆者はその状況を踏まえて、刈谷方面に信長が動き、そこから高浜方面へ向かう動きは寧ろ奇襲としては失敗する可能性を考えた。

 それ故に知多半島の半田方面へ南下して、寧ろ知多半島の攻略に動いたように見せかける方が策としては面白く感じたのだ。

 

 結果として天王町に長田重元の本隊が慌てて引き返してきた時点で、重元が不用意に動く危険性を感じる点では成功している。

 いわばこれが足止めという策略の効果でも有るのだ。

 

 長田重元に対する心理的な効果は上手く機能したとは言え、信長は南北からの挟み撃ちに遭遇し、寧ろ陸路による退路は絶望的な状況と成った。

 されど幸いなことに天王町の海岸には渡ったて来た船がまだ残っていた。

 勝介は敵の存在に気付くやすぐさま秀隆と信盛に、信長と室井ら初陣の子らを船に向かわせ逃がすように命じたのだ。

 幸いな事に敵、長田方の船舶は油ケ淵に停泊した状態に成っており、信長らの船を追跡する部隊は無く無事に亀崎へと渡れたのだった。

 無論、挟撃を受けた状態で、兵力差も倍近くある長田の部隊に対して勝介は奮戦した。勿論信長を無事に逃がす為に殿として立ちふさがったのだ。

 勿論、この状況を察した河合氏もすぐさまその長田の伏兵に対して挟撃するように援軍を差し向けた事は言うまでもない。

 そして河合氏の援軍が届くや、双方が挟撃状態となり長田方にも混乱が生じて乱戦状態に成ったと考えられる。そうした中で殿として立ちふさがった内藤勝介ら殿(しんがり)部隊は多数の戦死者を出しながらも、全滅には至らず、その内藤勝介も何とか無事に生還できたのである。

 

 確かに局地戦としては信長の初陣は負け戦である。

 しかし、大局としては長田重元の河合氏への奇襲は未然に防げたわけで、刈谷方面への脅威もこれによって暫くは封じられたと言える。

 長田重元も信長の奇襲は退けたものの、恐らくはこの乱戦で大打撃を受けて暫くは大人しく静観せざるを得なかった。

 

 無事に那古野に生還した信長は、その後で生還した勝介からその後の経緯を聞いて、その経験を新しい指南役となった森可行に話した。

 そこには沢彦の姿もあった。

 可行は沢彦からも詳細を聞いて、信長の初陣に対して、

 

 「まさにそれこそ孫子で言う、兵は詭道なりですな。」

 

 と、信長に伝えた。

 信長は、

 

 「兵は詭道なり?と、は?」

 

 と、可行に聞くや、

 

 「兵は詭道なりとは、戦は騙し合いの世界でこちらが相手を騙しているようで、相手もこちらを騙そうとするものだという事です。ゆえにこちらが相手を騙せたと思い込んでいるだけでは、逆に相手の企みに嵌って痛手を食らうということです。それ故に戦では常に臨機応変に備えて挑む事が肝心という意味です。」

 

 信長からすれば初陣で痛い経験をしたことから可行の言葉は解りやすかった。

 そして信長はもしかしたらあそこで死んでいたかも知れないという経験を得て、戦をより慎重に考える事の大切さを学んだのである。

 更に可行は、

 

 「先ずは命あっての無事が何よりです。その上で局地的には負け戦だったやも知れませんが、大局として見るならば勝ち戦だったのですぞ…その功もあって信秀殿は無事岡崎を落とされたようですので。」

 

 と、信長を労った。

 

 実際最近の資料では、1547年に信秀は一度岡崎城を落としている。その際に後の家康である竹千代は織田の人質として連れ去られたという説が現在では有力と成っているのだ。

 

 こうして信秀は自身の版図を最大に広げたのであったが…

 寧ろこれが彼の全盛期であり、斎藤利政と今川義元を同時に敵に回したことで、この信長の初陣から翌年には大きな苦境が待ち受けるのであった。

 

 次回は信長と竹千代がいよいよ対面する話へと続くのである。

 

やっと信長たまの初陣にまでこぎつけた訳ですが…

本当に資料を参考にしながら

この流れを見ると頭が痛くなるのです。

 

実際に周辺の情勢を考慮しながら考えないと、

本当にどの資料が正しいのかすらはっきりとしないのも事実です。

 

信長公記には初陣は勝ち戦で終わったと記されているものの、碧南市の資料では負け戦だったとある。

資料の優先度で、信長公記を優先して考えても良いのですが、伝承でその真逆の結果が残っているのはやっぱり無視できない。

そういう流れで精査して、更にはその辺の情勢をも調べてみると、意外と局地的には負け戦でも、大局的には勝ち戦になる状態が見えてきたわけです。

 

まあ、元々800人対2000人の戦いな訳で、

流石に初陣でこれに勝ったのなら、

信長公記で

もっと勇ましく記されててもいいと思う感じでもあったのですが、

意外と内容はさっぱりした感じだったので…

何か…都合悪い事隠したのかなと怪しむ感も否めなかった訳です。

 

そうした中で状況であり地形…

実際に河合氏が大浜のどの辺を領有していたかまでは

定かではありませんが、

半田という知多半島の対岸から船で渡って、陸路を経由して刈谷方面から退却するルートは見えたので、

恐らく想定外の混乱が生じたとするならば、

河合氏の情報に誤りがあった、

また想定していた退却ルートが突如使えなくなったという事情が

思い浮かんだわけです。

 

また、碧南市の資料には信長方の兵が多数死んだと有りますが、

全滅するほどの規模では無かった感じもあり、

織田方に呼応していたもう一つの大浜の勢力である河合氏が、

何の行動も起こさなかったという状態も想定できません。

 

また、この河合氏は長田氏に比べて勢力としては弱かった感があり、水野氏や織田家の後ろ盾で長田氏と対抗していたよ思われます。

そう考えると長田氏がこの河合氏の勢力を狙うタイミングは、寧ろ後ろ盾の双璧が岡崎攻略に動き出す時とも考えられ、今回のこうした流れが想像できたわけです。

 

更には初陣である信長たまがそうした乱戦の中、

無事でいられる保証もなくなるので、

恐らく渡航した際の船でさっさと逃がされたであろう状態も、

当然の事として考えられます。

 

こうした状況を総括してこの初陣を描いてみた訳ですが、

意外とこんな感じだったとして成立すると思います。

その後、信秀が岡崎を攻略したという

最近の資料と照らし合わせると、

戦略的にも辻褄が有ってきて、

寧ろ信長たまの初陣はその奇襲と足止めの意味では

無事目的を果たしたと言えます。

 

まあ、結構大変な作業で…

実はもう一つのPCのブラウザーは検索したページが分けわかんないくらい並んでいて、そうした人物であり出来事に記された内容が

全て繋がるように考えるのは本当に疲れる作業なのです。

一か月に一回しか更新できていない「うつけの兵法」ですが、

どうか末永く読んでいただければと思います。

 

そういえば…日本の元総理の国葬…9月27日って…

実はオッサン先生の誕生日なんですよね。

て…ことは…なんだかそういうプレゼントに成っちゃう感じで…

不思議な感じなんだそうです。

という事で…国を挙げてそういう事に成るのなら、

今回は何も言わないそうです。

 

因みに…悲しいかな…竹内裕子さんの命日でもあるんですよね。

あ・・・それとアヴリル・ラヴィーンも同じ誕生日なんだって…