うつけの兵法 第三十一話「織田三郎信長」 | ショーエイのアタックまんがーワン

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

 

【第三十一話 織田三郎信長】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

 吉法師の元服は1546年だったとされている。

 信長公記には13歳で元服したと記されており、現代風に生まれ年を0歳とした場合、1534年6月23日生まれから逆算すると、1547年6月23日に成る。

 しかし、当時は数え年である為、生まれた年は1歳で、その次の年の元旦を迎えると2歳に成るという仕組みらしい。

 ※筆者もこの事を忘れていた為、ここより年数を若干修正する。

 

 1544年加納口の戦いを得て、信秀は道三をあと一歩のところまで追い詰めるも、結果として奇襲受けて大敗を喫した。

 史実の概要と照らし合わせても、溺死者3千人という数字などから、前話に記した戦いでほぼ合致すると言える。

 その後、美濃と尾張、そして越前は暫くの休戦状態を迎える。

 大敗を喫したとはいえ、この戦いで信秀は大垣を得ており信秀の勢力としては全盛期を迎えていたと言える。

 

 吉法師が元服を迎えた1546年はささやかな平穏を迎えていた時期だったと言えよう。

 

 さてここまでの吉法師の成長を簡単に纏め上げておこう。

 

 吉法師は沢彦の薦めもあって、庄内川で戦ごっこに明け暮れていた。

 学業という分野はそっちのけで、自分の好きな事にのみ興味を注ぐ生活を続けていた。

 その一方で気前がいいのか、お人好しなのか、城下の子供たちとの約束で那古野に治水を齎す約束をして、治水工事を行い、結果として石高を飛躍的に上げる実績を得た。

 無論、そこには政秀、沢彦、熱田の加藤氏の補佐あっての物であり、信秀の入れ知恵も忘れては成らない。

 されどこの切っ掛けを導いたのは吉法師そのものである。

 

 実はこの時点で吉法師が「うつけ」であるとは、弾正忠家家臣の誰もがまだ思っていない。

 むしろそうした功績から大いに期待を受けていたと言える。

 

 これらの話は勿論史実として記されている事ではないのだが、今後に起こりうる尾張国内のいざこざ、いわば清州の大和守家と弾正忠家の争いであり、後に家督相続でバラバラに成っても信長に与する者が居た事も踏まえての布石となるエピソードなのだ。

 寧ろこうしたエピソードが無い限り中々曖昧に記された史実の辻褄を合わせることが難しいのである。

 

 この時分、林秀貞はまだ吉法師を見限ていない。

 無論、勉学はそっちのけで遊び惚けている事は承知しているものの、それはまだ元服前の子供の話ゆえに大目にみれる段階なのだ。

 寧ろ、元服に当たって以後の教育係として秀貞本人が引き受ける事を信秀に申し出たくらいであろう。

 

 秀貞としても、那古野治水の話の流れなどから吉法師の器に期待していた。確かに吉法師一人で為した事ではないことも承知の上だが、幼少期の経験としては十分といえる実績とも考えたのだろう。

 また、秀貞は越前の朝倉との酒席で、朝倉の長夜叉が兵法を諳んじる話を意識し、吉法師にもそうした知性を期待したのだ。

 

 こうして一次資料として存在する信長公記にある信長元服の流れが奇妙にも成立するのである。

 

 1546年の元服にあたって、信秀の居城古渡城で儀が執り行われ、筆頭家老として林美作守秀貞、平手中務政秀、青山与三右衛門信昌らがその後見人として名を連ねた。

 そして…元服を迎えた吉法師は、

 織田三郎信長と改め、いよいよ織田信長が歴史上に登場するのである。

 

 ここからは吉法師を改め信長として話を進める。

 

 信長としても元服は待ち焦がれたものであった。

 早く実戦に出てみたい…

 庄内川での戦ごっこに明け暮れながら、自分の中で準備を整えていたのだ。

 第22話うつけの兵法 第二十二話「長槍」 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)の話が丁度この時分になる。

 

 信長はこうした戦ごっこの中で、自然と適材適所の必要性を学んでいった。

 マイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツは部下に求める自信の考えの変化をこう述べている。

 若いころは部下に万能性を求めていたが、ある時からより専門性を求めるように考えが変わった・・・と・・・

 

 信長は庄内川の宿敵八郎と何度も勝負を繰り返すうちに、より効果的な戦い方を模索していった。

 沢彦が農民の子供たちを集めさせて戦わせた意図がそこに有ったのかは知らない。しかし、武家として万能教育を受けた岩室らとは違い、農民の子供たちには得手不得手が散見したのだ。

 最初の内は誰もがそれらを訓練し、自分たちと同じように何でも出来るようにと期待した。

 しかし、一朝一夕ですぐに出来るように成るわけでもなく、武家の子らが出来ているところに達するには数年掛るのも当たり前だ。

 それでも八郎たちとは毎日の様に戦わなければ成らない。

 そうして苦戦して行くうちに信長は出来ない事を求めても結果は出ない事に気づき始め、むしろ出来る事を特化させて戦術に組み込んでいく方法に転換し始めたのだ。

 そういう意識を持ち始めると自然信長の視野は味方全体を見渡せるように成って行ったのだ。

 

 (こいつは殴り合いはダメだが…石を投げさせたら上手いな…)

 

 そういう子には石だけを投げるように命じ、

 

 (ああ…こいつは臆病すぎて何をやらせてもダメか…)

 

 そう感じた子には寧ろ戦闘では無く石を拾い集めさせて、石を投げる奴に渡す役目を与えるのだ。

 更には石を投げる子がもっと早く数を投げれればより効率が上がると考えたら、更に戦闘に不向きな子に集めた石を手渡しする役目を与えることも思いついた。

 以前にも書いたが、これが通説で言われる三弾撃ちの原理である。

 更に信長は石を集める子に、効率よく石を集める方法を考えるようにも命じ、石を手渡す子により手早く渡す方法を考えさせた。

 信長自身もあえてその役割を担いながら方法を模索したのである。

 

 殆どの人間は出来ない子を見捨てる方向で考えてしまう。

 いわば弱い奴は弱いから戦力としては充てにしないのだ。

 信長は寧ろ人を使う意味では心が優しいのかもしれない。

 悪く言えばお人好しなのだ。

 弱い奴がただ殴られて終わるだけの状況を見て、それで良いとは考えない。戦力として自分の方について戦ってくれている事を大事に考えるのだ。

 こうした思考は戦ごっこの中で人を集める大変さから意識し始めたと言ってもいいだろう。

 相手が10人増やしてきたら、こちらも10人増やさねば成らない。

 そうした中でも戦ごっこは怖いから、痛いからと抜ける子も出てくるのだ。

 相手の八郎たちは自分らより年長である。

 その分確かに体つきも力も強いのだ。

 とは言え、信長からすれば相手は農民の子で自分は武家の子であるという意識が年の差の威圧感を克服している。

 しかし、兵力が増えれば増えるほど、味方の士気がより勝敗を左右してくるのも事実だ。

 沢彦が信長に戦ごっこを薦めた意図は、こうした経験から信長が何を吸収して成長していくかで考えており、むしろ何を学ばせるかは考えてはいなかった。

 勿論、大方「何を学ぶだろう」は期待していたが…信長のそれは予想を超えていたと言えるだろう。

 沢彦は戦に於いて兵の士気が勝敗を大きく左右する事を学ぶだろうことまでは期待しており、農民の子らは武家の子より、寧ろそこの差が大きく出る。

 勿論、沢彦は言葉でそういう教えを信長に伝えている。

 その上で信長がその士気をどうコントロールするかまでは、沢彦も黙って眺めるまでであった。

 信長の意識の中では、

 

 (農民相手に負けるわけには行かない…)

 

 自分が武家の子として、そして今後初陣して織田弾正忠家を背負って立つ上では、決して譲れない所だったと言えよう。

 そして本質的な優しさが、戦えない子に戦う意義・・・

 戦ごっこで言うなれば戦う楽しみを少しでも感じさせようとする配慮を齎すのである。

 石拾い…いわば野球部で言うなれば球拾いの様な役割に成るだろう。確かに野球部の練習中の球拾いは試合に何の関係もない雑用でしかない。

 新入部員もダラダラとそれをやらされていたら、野球に対するモチベーションも低下して行く。

 信長なら寧ろその球拾いに意義を持たせるのだ。

 球を拾う際の捕球する姿勢、拾ってからちゃんと的を目掛けて投げ返すという練習の意味を適切に与えてやらせるのだ。

 

 自分の役割に意義を持たせる。

 信長の優しさはそういう部分に出てくるのだ。

 ゆえに信長は自らも石拾いをやってみせた。

 そして誰よりも効率良く石を拾い集める方法を考えるのだ。

 他の者が一つ一つ石を拾って集める中、信長は木の板を用いてごっそりと寄せ集めたり、散見する場所ではその木の板に石を集めて一気に運んだりと効率のいい形を示した。

 さらに信長は投石の上手い千秋と組んで、千秋が素早い連射で石を投げれるように効率のいい渡し方をも練習した。

 最終的には千秋が石を投げたとき信長が石を軽く浮かせるように渡して千秋が左手でそれを掴み右手に持ち替えてまた投げるという連携が形に成ってくるのであった。

 信長は他の者にも投げ手と渡し手でコンビを組ませて、その連係プレイを徹底させたのだ。

 そうして行くうちに、石投げや殴り合いが下手な子でも、渡し手という役割に興味を示すものが出てきた。逆に自分は石を誰よりも効率よく拾い集めて貢献するという子も出てくるのだ。

 また、殴り合いは怖いけど石投げなら練習すれば何とか出来そうという子は石投げを徹底的に練習し始めた。

 信長がそうして皆に戦う意義を与えることで、其々が自分のやりたい役割を見出してそれぞれがそこに特化して修練を重ねることで、いわば短期間で部隊を強く成長させれたのだ。

 信長のこの成長ぶりは沢彦の予想を遥かに超えたものだった。

 沢彦は信長を見ながら、孫子の伝承の一節を思い出した。

 

 (孫子(孫武)は一兵一兵の動向にも気遣い、彼らを大事に扱う事で兵の士気を高めたというが…吉法師さま(まだ元服前)はまるで孫子を知らずして孫子の心を会得したのやもしれん・・・)

 

 こうして信長は組織化した部隊を何気に構成したのである。

 石拾いに限らず、長い竹の棒を振り下ろすだけの者。

 石を投げる者、渡す者、そして室井ら武家の子や、新介に小平太といった前線で戦えるものを統率し、対岸から迫ってくる八郎たち相手に毎日の様に戦い続けた。

 そしてその戦術の連携は徐々に効果的に機能し始めた。

 竹の長槍を振り下ろし敵が怯んだ矢先に投石の連射を浴びせ、近接部隊が切り込み敵を足止めする。その間に長槍と投石部隊は後方に下がって再び陣容を整え、合図とともに近接部隊は再び長槍部隊の後ろへ下がるという連携だ。

 当初は味方の投石が味方に当たるような事もあったが、近接部隊が投石の際に長槍の後ろで味方の投石が当たらないよう盾で守ったり、長槍の間隔を調整して投石の精度を向上させるなどして連携を模索しつつ高めていった。

 そうして行くうちに次第に八郎たちは信長に対抗できなくなっていった。

 

 沢彦はこうした戦いっぷりを政秀や盛重にも見せた。

 そして2人も信長の戦っぷりを大いに称えた。

 特に盛重はこれを見て…

 

 (若は…まるで軍神の化身なのかもしれん…)

 

 と、驚きを隠せずより信長に心を寄せるのであった。

 他にも側で警護していた河尻秀隆や佐久間信盛も大いに期待を寄せる形で見守っていた。更には朝倉宗滴が秘かに興味本位で送った患者もそれを目にしたことだろう。

 政秀に至っては、信長をここへ導いた沢彦の手腕に敬意を抱いた。

 

 元服した後に、信長の戦い方に心酔し始めた佐久間盛重は、筆頭家老として那古野に入った林秀貞にも信長の戦ごっこを視察するように勧めた。

 しかし秀貞は、

 

 「実際の戦と戦ごっこは訳が違う。」

 

 と、一笑して目もくれなかった。

 

 「むしろ若には兵書を学ばせ、初陣に向けて本当の戦に備えてもらわねばならん!!」

 

 と、堅物な考えで盛重の誘いを断ったのだ。

 秀貞からすれば盛重は一介の将に過ぎない。

 その一介の将が評価する戦は、勇猛果敢な猪武者の話だろうと小馬鹿にして聞いたのだろう。

 秀貞の様に軍全体を指揮するのが織田家嫡男としての戦い方と考える意味では、戦ごっこの戦い方など寧ろ「君主危うきに近寄らず」とは別の所にあると考えていた。

 こういう秀貞の堅物っぷりは、政秀はともかく、沢彦は寧ろ嫌っていた。

 盛重が沢彦に、

 

 「美作さま(秀貞)は若の戦ごっこなどには興味はないという感じで、一笑されました。」

 

 と、伝えるや沢彦は、

 

 「だろうな…あれは策士としては優秀かも知れんが…頭が固すぎる。まあ、若の戦い方を見たところで何も感じないやもしれんだろう。」

 

 「されど・・・信秀さまの参謀でもある方ゆえに・・・」

 

 と盛重が何やら残念そうに述べると、

 沢彦は

 

 「美作殿は軍師では無く策士じゃ、軍の動かし方は全て信秀さまの采配でしかない。他でそれが出来るのは政秀殿くらいか…まあ、そなた位だろう・・・」

 

 と、沢彦は盛重の才を称えつつ伝えた。

 

 「兵は詭道成り…軍を動かすのは水物と一緒で柔軟に戦況を見極めて動きを変化させねば成らない。頭の固い人間ではその指揮は採れないのだ。」

 

 さらに沢彦は続ける

 

 「策士は相手の隙を見極める事には長けており、その隙を的確につくことは実に巧妙だが…一進一退の攻防の中ではあまり役には立たない。戦の主体はその一進一退の攻防にあって、その攻防を巧妙に続ける中に隙が生じるのだ。」

 

 沢彦は盛重をじっと睨むように見て、

 

 「武人としてのそなたなら、武技を交える相手との攻防でそれは理解できるであろう」

 

 盛重も沢彦の話はよく理解できた。

 これは寧ろ現代風に言うなれば、サッカーにおけるフェイントが策で、ボールキープが攻防の技術として説明した方が解りやすいかもしれない。

 策いわばフェイントの種類をどれだけ多様に持っていても、相手の当たりに対してのボディバランスやボールキープが出来なければ、相手のディフェンスを結局は避けきれないという話と同じなのだ。

 そしてそうした攻防の中で策=フェイントを適切な場とタイミングで用いなければ寧ろ何の効果も無いものと成ってしまう。

 逆に多様なフェイントを用いずとも、相手の隙を的確について動けばディフェンスを突破する事は十分に可能な話で、多彩なテクニックを披露するネイマールより、地味な動きで的確なコントロールを用いるメッシの方が突破力がある違いでも言える。

 

 秀貞の教えようとしている事は、兵書を学ぶことで多彩なフェイントいわば小細工を学ばせようとすることにある。

 寧ろ沢彦は戦ごっこという実戦に近い状況の中で、柔軟に判断できる感覚を修練させる方が効果的だと考えているのだ。

 

 無論、信長の性格を考えればどちらが適しているかは言うまでもない。ただし、沢彦の教え方は寧ろ信長ゆえに効果的に作用するもので、むしろ他に対しては秀貞の考え方が有効的とも言えるのだ。

 その違いは・・・いわば信長は自分で考えていくからだ。

 いわば、自分で考えるゆえに自分なりの策もそこで適切に編み出していくわけで、兵書で教わった策を手探りで実戦しながら身に着けるのと訳が違うのである。

 ある意味、信長が策を編み出した瞬間は、その場とタイミングにどうしても必要だから思いついたわけで、故にいつでも必要に応じて使いどころまで理解したものになるのだ。

 これはメッシのドリブルでも言えることで、彼の微かなフェイントは常時自分に必要な絶妙なタイミングと場で機能する故に、その動きも自然でぎこちなさも無くディフェンスも簡単に惑わされるのだ。

 そしてそれは自身の必要性と自身の動きに合わせた独創的なものゆえに、相手も見極めにくいものとして機能するのである。

 

 一部の歴史家は最近の研究で信長は革新的ではないという評価を与えようとしてるが…それはその歴史家たちが革新的で無いゆえに解っていないだけの話でしかない。

 また、皇室を尊重していたという姿勢で保守的だったなどと評価しているが…そもそもが彼らの勘違いでしかないのだ。

 確かに信長は誰もが想像するような魔王化した英雄的な人物ではない。

 実は信長は根本的な野心家でもない。ただ自分のやりたいようにやれれば良いだけなのだ。

 そこに無駄な意見が入り込むのは好ましくないと考えているだけで、自分の考えが絶対であるという事でもない。

 ただし自分以外の人間では誤った選択をしてしまう事まで考えると、全ての判断を自分に委ねてくれればその方が効率が良いというだけの話なのだ。

 よって皇室が地位として自分の上にあっても気にはしない。

 むしろ皇室が自分の統治に無駄に意見を述べてかき回す様な事さえなければ、上方の存在として尊重する事も厭わない。

 織田信長という人物を説明する上で、何度も言うが、信長を使いこなせる人物は劉備玄徳しか居ないという事を先ず伝えておこう。

 いわば信義と誠実、そして目指す目標が合致する人物なら、信長はその下でも安心して居られるという事だ。もしくは劉備の子劉禅の様にすべてを信長に託す人物ならその下で最大限に補佐する役割を担うであろう。いわば当時の皇室(宮中)はそういう感じでもあったのだ。

 と、言うことに成ると…信長と諸葛孔明は同一の存在になるのだ。

 

 一般的には性格が違うのでは…と、反論されるのが当然ともいえる。しかし、それは三国志演義で神格化され穏やかなイメージの孔明があるからで、史実として残る孔明の「偉大なる凡人」という評価とは実はかけ離れているのだ。

 更に普通の人は孔明の様な軍師が居ればと恋焦がれるだろうが、実際に普通の人に諸葛孔明を部下として扱えるか?と聞けばどうだろう。

 恐らく孔明は普通の人の下では真面に働かないだろうと言っておこう。

 実際に劉備に出会う前は、言うなればニート状態だった感じで、曹操もNG、劉表もNG、兄の諸葛瑾が使える孫権もNGだった。

 今で言うなればどこも大企業のようなもの。

 その理由は…どこも自分のやりたいようにやらせてくれそうも無いから…だったら何もしないで遊んでるという選択なのだ。

 

 信長にしても孔明にしても、人に試されるのは凄く嫌う。

 普通の人は、その人の実力を見極める上である程度試すのは当然と言えるだろうが…信長や孔明のレベルに成るとその試された中では結果が出せない事を知っているから嫌がるのだ。

 ???何故か…

 実は個人の能力としては突出した才能を引き出せないからだ。

 ある意味、ある程度の剣術は出来ても、自分より優れた剣術家は他にもいる。細かい業務に関しても…例えば経理作業のようなものも自分より経験のある人の方がより効率的にこなせる。

 では…一介の将としては…

 他人の戦術の中に一介の将として組み込まれも、無難にその作戦をこなすことは出来ても、目立つような働きには成らない。

 ただし、そうした中でも他人からする驚くような成果を出すこともあるだろう、しかし彼ら本人からするとその成果は通過点の作業に過ぎず自慢できるほどの成果とは考えないのも事実である。

 ゆえに試験的に使われるような事も嫌うのである。

 寧ろ自分の立てた企画を企画リーダーとして組織編成まで委任してやらせてくれればようやく実感できる成果を出せるといった感じに成るのだ。

 普通はいきなりそんな事をやらせてくれない訳だが、サッカーで言う司令塔であり自分中心で動き回れて初めて機能する才能と言っても良い。

 実際のところ普通は恐ろしくて扱いにくい人物なのだ。

 ある意味やらせてみれば突然化けるのだが…

 普通の人はそんな化け物が目の前に現れてるとは信じられない…

 いわば、誰かを見てその人にそんな才能が有るなんて信じれる人は殆ど居ないだろう。寧ろ大抵の人は自分より才能がある人物と見定める器量は持たないのも事実だ。

 

 ところが…劉備玄徳はやらせてくれるのだ。

 劉備や孔明、信長は人の才能を見極める能力があると言えるが、実際はそれ以外の人でも出来る人は結構いる。

 ビル・ゲイツの話でも出したが、

 大抵の人は人に万能型を求める。

 こういう場合、自然と自己顕示欲が働き、人を下に見てしまいがちになる。そして万能を求めるゆえにどうしても人の短所に目が行くのだ。

 ところがビル・ゲイツが後者として語ったように、特化型を求める意識だと…更に付け加えれば自分に足りないものを求める意識で人見ると、なぜだかその人の長所を探そうとするのだ。

 この意識の違いだけで人を見る目は大きく変わるのだ。

 

 ここで三顧の礼を用いて劉備が孔明をどう見定めたかを説明しておこう。

 劉備は孔明と話している内に、その思考力に圧倒された。

 一般的には天下三分の計に感銘したとされているが…

 正直、あんなものは架空の話でしかない。

 現実的に事実として提示するならば、劉備の目標は漢朝の復興である。劉表の一介の客将でしかなっかた劉備の主導でそれを為しうる話は現実的あり得ないのだ。

 三国志の正史にも演技にも明確に記されない内容でこの三顧の礼を解明するなら…

 

 劉備は孔明に

 「漢朝を曹操の手から救い出すにはどうするべきか…」

 と、いう質問投げかけた。

 孔明はこれに対して・・・

 「劉表の荊州と劉璋の益州が盟約を結び、これに孫呉を加えれば天下を二分して戦うことは叶います。」

 そして、

 「曹操を逆賊となし、大義を劉氏漢朝復興とするならば、手順として先ずは荊州と益州を結び付け劉氏の連合を作り、そこに孫呉を朝廷への貢献という利害を説いて勢力に組み入れるのが得策でしょう」

 これに対して劉備は、

 「その連合は成りうると思いますか?」

 と聞くや、孔明は

 「連合は恐らく今なら成立するでしょう。」

 劉備は

 「今なら?と、は…」

 そして孔明は

 「先ず、荊州にも益州にも、また孫呉にも、曹操の勢いを好ましく感じない勢力は多々居ます。寧ろ曹操を打倒せねばと考える方が主流でしょう。なのでこの連合はどの国でも構想上にあるはずです。」

 更に

 「勿論、曹操もその事は察しているところで、その前に荊州へ攻め込む算段も考えられます。問題は…この荊州をどうやって先ず守り抜くかです。荊州が先ず曹操の手に落ちれば連合を意識する勢力は保身を考え曹操を支持する勢力に圧倒されることも考えられます。また益州と孫呉が分断される形に成ると…連携もまた難しく成ります。」

 劉備の

 「この荊州を曹操の大軍から守り抜くことは出来るのですか?」

 という質問に対して、

 「絶対は無いと言いますが…曹操の進み方次第では可能です。」

 「進み方…次第とは…?」

 劉備が惚れこむ言葉は恐らくこの後の孔明の発想です。

 孔明はこう伝えます。

 「如何なる大軍を以て攻め込んでも、糧道を断たれればその軍は孤立します。漢の高祖が彭越を用いて項羽との戦いで後方攪乱した遊撃戦(ゲリラ戦)を誰かが出来ればの話でもありますが…」

 いわばこの戦い方は劉備の得意な戦術でもあったわけで、知ってか知らずか孔明がそこに目を付けたことに衝撃が走ったのだ。

 ある意味、劉備からすればその役割は自分たちなら出来るという意味で。

 

 少し脱線して三国志のエピソードを伝えたが、

 とにかく信長も孔明も扱いにくい人物で、会話の内容や質問の仕方一つで機嫌を損ねる事もあるわけです。

 むしろ短所を見るような会話だと、凡人にしか感じない回答をするのです。

 扱うには劉備の様に長所を引き出す会話ができ、その内容を理解して馬鹿にせずに素直に受け止める器量が必要に成る。

 いわば話を聞く以上、相手の話を大事に理解しようとする姿勢が求めらる。劉備が「その連合は成りうると思いますか?」とか「今なら…と、は・・・?」と質問する姿勢で自分の理解がまだ及んでいない点を素直に示し考えを聞きたいという形で、今の時間を興味を持って大事にしているという事を伝える気構えが無ければならないのです。

 実は寧ろ海外では当たり前の姿勢な訳で、日本人が知らない事や理解していない事を恥ずかしいと思うとか、相手に無駄な時間を使わせるのは失礼かなと気遣う事は逆に失礼に成るのだ。

 逆に、孔明はあえて「絶対は無い」とも伝えているなかで、そこに揚げ足取る意味で、

 「しかし曹操が守りを固めたらそれは上手くは行かないのでは…」

 と、間抜けな事を言ってしまったら、孔明的にその人物はアウトに成る。

 信長にしても、孔明にしても基本は自分のやりたいようにやらせてくれるかがポイントで、下手な反論を用いることはその人物が時として自分の言葉を拒絶する事を感じさせるのだ。

 ある意味天才ゆえとここは伝えておくが…

 ほんの些細な事でも、自分の思考と異なる状態に成るとその計算が微妙に狂ってくるのだ。

 「泣いて馬謖切る」のエピソードでもあるように、自分の指示を些細な思惑で無視して大失態を及ぼす状態。

 本人は些細な失態で終わると思っている事でも、孔明的には大失態に成るのだ。

 無論、その後馬謖を切って撤退をするわけで、孔明が大敗して逃げ帰ったという状態ではない。

 しかし…孔明の計算では馬謖の居た場所を守らねば結果大敗する状況まで見えていたのだ。

 なのでさっさと引き返すしかないと判断した。

 

 信長にしても孔明にしてもこうした余計な思惑を勝手に挟まれることを嫌うのだ。

 

 一方で劉備の様な人物は解らない事は聞いてくる。

 これも大事なポイントで、そういう人物は自らの思惑を挟む前に必ずこちらの考えを聞いてくる。その上で適切に議論してお互い納得した上で決定してくれるため、孔明であり信長の様なタイプでもやり易い。

 ただし…議論に於ける内容を適切に理解し更には適切に何が一番効果的を見極める能力が無いとダメなのも事実だ。

 いわば孔明や信長の計算以上に効果的または孔明や信長が気付かない発想がそこに無ければ他への決断は許されないのも事実だ。

 ここまでの判断力がある人物と成ると、一般的に、または現代社会の優秀な人物たちの中でも限られてくるか、またはそのレベルでも存在しないと言える。

 

 信長のこうしたエピソードで有名なのは、長篠の戦で奇襲作戦を提案した酒井忠次の話がその一つであろう。

 軍議で提案した時、信長は忠次に激怒して見せその懸案を一蹴したという話で、軍議の後でひっそりと呼び出してその懸案を大いに褒めたたえて実行させた。

 結果、その功もあって長篠の戦いは予想以上の効果を上げたとされるが、軍議の場でそれを採用すれば、敵の密偵がまぎれていた場合、それが筒抜けに成ってしまう些細な配慮まで信長は気付けてしまった点にある。

 これは史書に記されているエピソードだから、信長の配慮まで知りうる話になってはいるが、ここに信長の上に誰か居た場合、むしろ信長が孔明の様な立場で軍師であった場合、激怒を演じて忠次の懸案をみおくる姿勢を察せられるかというと…ほぼ皆無で、むしろその場で忠次の懸案を採用してむしろ失態を演じてしまうのではないかと思われる。

 

 劉備の様な人物は、孔明の話す内容を「状況次第では可能」という意味で適切に捉えて、その内容が理に適う点で納得できる。そういう所から、また別な状況に成ればその時何か思いついてくれる人物としての期待を孔明の長所として見抜いたわけだ。

 また孔明が異質な才能ある人物とも見極め、信長が見せたような感情的とも見える部分も、何か意図するものがあると察して合わせられる度量も劉備にはあった。

 故に、孔明はその後も劉備から離れずに入れた訳だ。

 反対に孔明であり、信長の怖さのもう一つは、言葉の流れ、表情、声のトーンまで見極めて相手の心情まで読み取る事にある。

 なので一言間違えたら逆鱗に触れるわけで、相手が誠実な姿勢で挑んでいるか否かまで見抜いてくる。

 とは言え誠実に求めれば彼らを使いこなせるというわけでもない。

 先ず、前述にも記したように、ある意味我がままなのだ。自分がやりたいようにやらせてくれるか否かで仕事に対する姿勢も態度も変わってくる。その辺は凡人いわば普通どこにでもいる人と変わらないように見えてくるだろう。

 更に厄介なのがやる気がない時に文句を言われると逆鱗に触れて去っていくから、むしろ真摯職をこなす真っ当な人からすると凡人以下にしか見えないのである。

 ただし、三国志の龐統エピソードでもあるように、自分の分野の仕事の場合、やる気を出した時の手際の良さは常識を超えたものに成る点は事実だろう。

 馬鹿と天才は紙一重と言うが…信長や孔明に限らず、世の中にはこういう天才型が結構埋もれているのも事実である。

 凡人なのか奇人なのか区別つかない故に普通の人は避けてしまうのも事実だろう。ただし彼らの才能を引き出し味方に付ければその心強さは計り知れないと言っておこう。

 しかし、彼らの気質を理解し、その才能を見いだせていない人には寧ろ失望が先行してしまうだろう。

 仮に彼らが能力を発揮して実力を示した際は、その才覚に恐怖してしまうケースもある。

 

 ある意味、足利義昭がそこに陥ったと言える。

 昨今信長は誤解されて見られがちで、孔明の様な人物ではなく寧ろ野心を剥き出しにした曹操の様に見られがちだ。

 ゆえに足利義昭を傀儡として扱おうとしていたと考えられがちだ。

 しかし、多くの人が義昭と同じ錯覚に陥る程、信長の実績とその才覚にに畏怖したと言えよう。

 畏怖して見えるゆえにその本心まで野心的なものと考えてしまうのだ。

 しかし、信長が義昭に送った「殿中御掟」であり「異見十七ヶ条」は君主たる者の姿勢をしたためたもので、信長からすれば決して自分の傀儡とするための義昭への束縛ではない。

 寧ろ、その内容は信長が当然の事として心がけている内容とも言えるもので、むしろそれは自分の臣下に対して誠実な姿勢を示している。

 孔明は劉禅に対して似たようなものを送り付けている。

 また、出師表でもそういう戒めの言葉を伝えている。

 

 土岐頼芸が斎藤道三を恐れた話は前に記したと思う。

 信長も誠実に義昭を補佐して天下泰平を実現しようとした。

 無論多くの人が信長を疑うように、数多に存在する敵を効率よく排除するために義昭を利用したとも言えるだろう。

 それも信長の計算の中では嘘ではない。

 ただし誤解されるのは信長の合理的思考だ。

  信長の目的は天下泰平を齎すことで、それを自分の天命としていた。そこには自分が将軍であり王として君臨する必要性は無く、その地位はそれ相応の人物が担っても構わないと考えていたのだ。

 ただし自分の理想とする社会構成がその中で実現できれば良いだけの事だった。

 いわば万民誰もが身分に関係なく生きる選択が出来る社会を目指したのだ。

 これはこの物語の最初に伝えたことでもあり、信長は自らが死した後、生まれ変わる先が農民でも自分の才覚一つで伸し上がれる土台を作りたいだけなのだとも伝えている。

 いわばそれこそが英雄が為しえるべき世界で、それを齎してこそ真の英雄なのだとも考えていた。

 結果として…この信長の理想は坂本龍馬を経て、明治維新になって初めて実現した社会で…今の日本がその姿そのものとも言える。

 

 信長がそれを理想としたその証明の一つが秀吉の存在でもあるのだ。

 信長は秀吉の才覚を単に利用したのではなく、才能あるものは農民の中にも居る事を証明して見せたのだ。

 また義昭に示した戒めの中にも身分に関係なく丁重に扱うようにお願いする文脈も残っている。

 先ず、これが信長の目指した社会であり世界観であることを理解してほしい。 

 

 故にその社会を実現するには、先ず天下を泰平に導くことが最優先であったのだ。

 そういう意味で足利義昭という征夷大将軍の下で実現することもその道の一つとして受け入れていたのだ。

 されどその義昭が名君として泰平を導ける存在に成らねば戦乱の時代の争いは収まらないという事情もあった。

 いわば将軍の評判が良ければ、その人物を将軍として立てる事に異を為す者は少なく成り、逆に評判が悪ければ異を為して別の者を立てようとする勢力が増大する。

 応仁の乱から明応の変を経ての戦国時代と言われる状態が実際にそれを物語っている。

 信長が義昭にしたためたものは全てそういう戒めを込めたものなのだ。

 しかし、信長のそうした誠実な願いは義昭に届かなった。

 逆に義昭は細川の傀儡として、三好の傀儡として将軍職が利用されてきた事から、信長もそれと同じと疑いはじめたのだ。

 そして表面では誠実さを保っているものの、腹の内では自分を排斥しようと考えているのではと疑うのも無理ない事だ。

 信長にしても孔明にしても、相手がそういう猜疑に陥るだろうことは直ぐに察せられるが…その猜疑が出たとき相手をコントロールする難しさも知っている。

 信長の勢力はそれだけ義昭よりもはるかに大きく、また事実そういう誠実な姿勢を示す信長の人間としての魅力は寧ろ人望の無い義昭にとっては脅威にすら感じるものだったのだろう。

 むしろなまじ教養があり、三国志の曹操の様な人物として信長を見ていたのなら、そう感じても不思議ではないのだ。

 

 勿論、信長も信長で自身の勢力を広げることで義昭をある程度コントロールする地位は担保して考えていたのは間違いない。

 ここは理解が難しい部分かも知れないが、信長の目標は自分が理想とする社会を天下に定める事だ。

 そういう意味でもし義昭では無理と判断した場合は、最悪割り切らねばとも考えていた。

 いわば最悪割り切らねばと考えていた訳で、合理的に考えるとその行為は自らの信義を損ねる事も覚悟せねば成らない事を信長は知っていた。

 いわば、信長は美濃攻略を果たした以前の家臣は別として、それ以後に加わった家臣たちに対しては幕府復興を信長の信義として従っていた訳で、それを裏切る事の意味を考えていたと言える。

 打算で考えれば、彼らが反乱を起こすのを避けたいという思考にも成ろう。

 ただ信長は誠実な心を尊重したい故に、彼らの想いを踏みにじるような事は避けたいという意識があったとも言えるのだ。

 そこは人それぞれの見方で構わないが、いずれにしても義昭を排除する考えは得策ではないのだ。

 故に義昭が信長に反旗を翻しても、信長は義昭を殺さずにいたのだ。寧ろ殺さずにいたというよりも、どうやら現行の資料解析では義昭と何度も和解しようとしていたらしい。

 簡単に倒せる相手だった故の演出なのか、誠意だったのか・・・

 既に義昭が猜疑を抱いてしまったその時点での信長の思考は性格上どうとも言えないが…そこは既に前者の形で考えていたと言ってもいいだろう。

 

 諸葛孔明と照らし合わせて巷で考えられる信長とは全く別物である点はある程度理解できたかもしれない。

 そして信長の革新的な発想は、自由と平等をその時代に既に求めていたことだった。

 保守的な室町の身分社会に固執する人間たちからすれば、それはあまりにも革新過ぎる発想で、アメリカの奴隷解放を唱えたエイブラハム・リンカーンにも似た事情がそこに有ったと言えよう。

 歴史家たちは一度その辺を紐解いて信長の功績を見直してみて欲しい。

 

 合理的に考えようとする信長と、固定観念で「戦のやり方とはこういうものだ」と決めつけた様に考える林美作守秀貞とは、実に相性が悪いのだ。

 

 勿論、元服を迎えた当初は、秀貞の授業も暫く聞いていた。

 しかし信長からすれば眠くなる話でしかないのだ。

 悪く言えば学校の詰め込み授業と言えるが、

 信長からすれば進学塾の講師が解りやすく教える授業でも眠くなるだろう…何故なそこに合理性が無いからだ。

 同じ鶴翼の陣の話でも、沢彦はその使い方を合理的に教え、実践することでその効果まで実感させた。

 しかし、秀貞のは

 

 「鶴翼の陣の形は箸をこのよう(V字)に置いた形で考え、敵を両翼の内側に引き込んで包むように攻撃するものです。」

 

 と、説明するのだった。

 信長の言う合理的とは、どうやって敵をその内側に引き込むかが大事なので有る。

 また、敵がその陣容を見れば鶴翼であると分かってしまう。

 相手がこちらが鶴翼を敷くと解らないように陣容をどう組み立てるかが秀貞の話には無いのだ。

 無論、信長は既に沢彦からそうした事も教わっている。

 故に秀貞が説明しないのならこちらから質問する気もないのだ。

 ある意味、秀貞は教え方下手だっただけなのかも知れない。

 ただ、信長に限らず、室井らも秀貞の授業は耐えられないと感じるほどだった。

 

 父信秀の参謀でもある林美作守秀貞の授業であるがゆえに、どんなものかと期待したが、結局は沢彦や盛重のそれと比べると全くつまらないのである。

 そして暫くすると信長たちは秀貞の授業を抜け出して、庄内川へ遊びに出るようになったのだ。

 信長の年齢も丁度現代で言う反抗期に差し掛かったころである。

 秀貞は信長に立派な教養をと思って授業をしていたわけだが、自身の教え方は差し置いて、それを投げ出す信長に呆れかえった。

 無論、秀貞は実質弾正忠家のナンバー2という地位もあって、政秀も秀貞に何も言えなかったのも事実。

 寧ろ守役として信長に授業を受けるように口うるさくいうしかなかった。

 政秀の心労が始まるのはこの頃からであろう。

 ある意味、今までは政秀も自分の裁量で何とでしてあげられる範疇ゆえに仕方ないと許せてきたのだが、秀貞を交えた話に成るとそう簡単には行かないのだ。

 勿論、信長はそんな政秀の話など聞く耳も持たず、むしろ

 

 「美作(秀貞)の話など無駄事だ」

 

 と、反抗するのであった。

 秀貞としても期待を裏切られたどころか、逆に信長に馬鹿にされたと感じたであろう。

 そして暫くすると秀貞は那古野に顔を出さなくなった。

 

 秀貞は策士として執念深い性格でもあった。

 寧ろ、策士である故に執念深い。

 また、策士で有る故に陰湿なのだ。

 逆に信長の執念深さとはまた違うのである。

 

 秀貞は信長の近況を古渡で信秀に報告した。

 開口一番、秀貞は

 

 「殿、申し上げておきますが…今のままでは若は猪に成りますぞ!!」

 

 そう伝えるのであった。

 信秀はその言葉に、

 

 「猪とは…どういう事だ?」

 

 「若は確かに勇ましく成長されてます。しかし、あれは一介の将としての成長で、軍の指揮を執る者では有りませぬ。」

 

 秀貞は盛重を勇猛な将としては認めているが、盛重の戦い方は自ら先陣を切ってその武技によって敵を殲滅するのものだった故に、盛重が評価する意味をそう捉えたのだ。

 逆に自らが教えようとする兵法であり戦術、そして教養などに興味を示さない姿勢でより強くそう感じるであった。

 

 そして信秀は、

 

 「で…そなたは何を教えようとしたのだ?」

 

 と、聞くや、

 

 「勿論、兵法から陣立てに至るまで・・・しかし、若は全く興味を示す様子もなく、孫子ですら全く覚えようとしませぬ。」

 

 と、秀貞はまくし立てるように語り、

 

 「彼を知り、己を知らば百戦危うからず であり、風林火山の言葉すら暗記しませぬ・・・あれはうつけなのかと思ったほどです」

 

 秀貞の話を聞いていると信秀も心配に成ってきた。

 ある意味、孫子の初歩で暗記するのにさほど難しい言葉ではない。

 逆に、信長からすればその意味を理解できれば十分なのだ。

 無論、その様な事は既に盛重から教わっており、

 寧ろ、盛重からは、

 

 「自分が相手だったらどう考えるか、相手が自分だったらどうするか、それを常に心がけて敵と向き合いなされ・・・」

 

 と、信長は教わっている。

 故に孫子のそれを聞いて、信長としては既にそれは理解しているで言葉をイチイチ暗記する必要性を感じなかっただけだ。

 

 しかし、信秀は盛重や沢彦が信長に何を教えたのかまでは知らない。勿論、治水の際に、熱田の加藤から知行の話であり商売の話は学んでいるくらいは逆に知っている訳で、信長がそこまでうつけとは思っていないのも事実だ。

 

 そこで信秀は一応信長の指南役として認めている盛重を呼び出して話を聞くことにした。

 後日その盛重は古渡に現れた。

 

 「大学助(盛重)よ、そなたは信長の成長をどう見る?」

 

 すると盛重は誇らしげに、

 

 「まるで軍神の様に成長されております。」

 

 人の言葉は時として誤った意味で伝えてしまう。

 いわば盛重の伝えたいのは、陣立て、陣容、指揮すべてに於いて見事だと伝えたつもりであった。

 しかし、信秀も盛重の勇ましいまでの戦いっぷりを良く知っている。

 それはまさに鬼神の如く敵を殲滅するもので、むしろ力で敵をねじ伏せる様なイメージであった。

 無論、盛重は兵法にも長けている。

 されど盛重が戦場で与えられる役割は寧ろ戦術に組み込まれた突撃という役目なのだ。

 勿論盛重の突撃は敵の陣容を見定めて効果的に敵が崩れる場所を見極める戦術眼が求められる。

 時には敵の一部を引っ張り出して陣形に穴をあけるなど、ただ猪武者として突っ込んでいくわけではない。

 それでもそれを指揮し指示するのは信秀の様な大将のすることで、盛重の様な将を駒として使うのが役目になる。

 信秀は盛重の言葉を秀貞と同じように駒としての勇ましさと受け止めた。

 故に…

 

 「信長の戦い方は勇ましいか?」

 

 と、聞いた。

 信秀の意味は駒としてのものであるが、盛重はその質問をそのまま信長の軍を動かす指揮力で捉えた。

 

 「はい!!勇ましいです。」

 

 ある意味信秀は駒としての勇ましさも将として大事な事と思ってはいるが、それに加えて信長には秀貞が言うようにもっと指揮官としての成長も望むのであった。

 

 信秀は暫く言葉を考えて盛重に

 

 「信長に対するそなたの教育には大変感謝しておる。しかし、そなたにはやはり今後、前線で活躍してもらわねばと思ってな…」

 

 盛重も何気に察した…

 

 「また三河の動きがキナ臭くてな、今後は那古野の守備ではなく鳴海方面を任せたい。」

 

 そして盛重はその下知を素直に受け止め、

 

 「はっ!!有難きに存じます。」

 

 と、従った。そして一言付け加えたのだ。

 

 「今後の信長さまの指南役の件ですが…一つ宜しいでしょうか?」

 

 信秀も盛重は大事な家臣で有るゆえに、無下にはできない。

 信秀は盛重の発言を許した。

 

 「先の美濃との大戦で、美濃より出国してきた森可行という者がおります。犬山の信康さまと栗栖で対峙していた将ですが、道三とは馬が合わず将を解任された事もあって、美濃を出奔し今は私の客人として庇護しております。」

 

 信秀も弟の信康からその名前はしばしば聞いていた。

 

 「それで…その森可行とは…どういう人物だ?」

 

 盛重は、

 

 「義に厚い人物で、その武技は鮮やかでこの盛重も魅了されるものでした。されど美濃から出奔した事もあって織田家に使える事は出来ぬと申しておりますが、むしろ信長さまの指南役としてならと思いまして…」

 

 後の信長の腹心となる森可成の父、森可行はあまり史実に記録のない人物であるが元は美濃の名家である。

 源頼朝の流浪時代からの縁もある家柄で、土岐氏の中でもそれ相応に地位があったと察せれる。

 土岐頼芸が追放された後も、道三に一時期使えていた様でもあり、故に本編では道三から栗栖方面の指揮官に一時期任命されたとした。

 しかし源氏の名家として、また土岐家の家臣として寧ろその忠義を疑われ斎藤正義と交代させられた人物として記している。

 その後、その交代で道三からの信用は得られないと察した森可行は、下手に森家家名に汚名を着せられて粛清を受けるならばと考え、秘かに美濃を出奔する流れで記している。

 

 出奔してからの流れは、義に厚い人物であるがゆえに旧知で以前の主君でもった土岐頼芸を頼る事は寧ろできなかった。

 森可成の出生場所から笠松方面で何らかのつながりがあり、ある意味美濃加納の商人との繋がりから熱田の加藤家に身を寄せた流れで考える。

 そして熱田の加藤家の紹介で平手政秀の紹介を受け、そこから織田家への士官を薦められるも、政秀の説得が叶わず、むしろ武芸の面で話が合う佐久間大学盛重に客人として預けた流れとする。

 

 盛重も可行の士官を説得しては見るものの、それは難しいと考えてはいたが、むしろその義侠心に惚れこみ彼を庇護する形で扱っていた。

 可行は盛重の知行からいくらかの農地を買い上げて、家族と共にひっそりと暮らすことを考えていた。

 

 こうした流れから盛重は信長への指南役としてならと考え、この期に信秀に推挙したのだった。

 信秀は盛重から経緯を聞き、その可行に興味を持った。

 当初は信長が猪武者として成長するのを警戒して、盛重を体裁よくその指南役から外すことが狙いだったが、可行の話を聞いたあとではもうそれはどうでもいいことに成った。

 また、可行が栗栖で指揮官として弟の信康と一進一退の攻防を演じた人物であったこともあり、むしろ危惧していた部分も払拭されると考えた。

 信秀は、

 

 「盛重よ…ならばその森可行に信長の件よろしく伝え申せ」

 

 といって盛重の推挙を聞き入れた。

 

 その後、盛重は可行に信長の指南を頼んだ。

 この時、盛重は沢彦を一緒に連れて行った。

 勿論、可行は士官は断る話であったが、沢彦が、

 

 「わしも織田に仕官している訳ではない。わしは坊主として信長さまを弟子にしておるつもりでな…」

 

 そして沢彦は、

 

 「信長さまは中々に面白い。弟子にしてみるのもいいと思うのだが…」

 

 と、可行の心情を察しつつそう説いた。

 その言葉に可行は

 

 「弟子などとは恐れ多い事です。されど…仕官するという事でなく私程度の者でも何か伝えれるものがあるならば、それをお伝えするのも一興かなと…」

 

 そして可行は改めて、

 

 「大学殿(盛重)…ならば是非よろしくお願い申し上げます。」

 

 と、盛重の誘いを受け入れたのだ。

 

 さて…この森可行はその子息である森可成を通じて、後の信長の秘蔵っ子森蘭丸、そして最強の武人とも言われる森長可へと繋がるのである。

 信長がこの森家を特別に扱っていたのは言うまでもない。

 ある意味、この森家との繋がりが有る故に蘭丸は特別な子であったのだ。

 

 こうして元服を終えた信長は森可行という新たな師範を迎えいよいよ初陣へと向かうのであった。そしてこうした繋がりが家中で劣勢に立たされる信長の窮地救うのである。

 

どうも…ショーエイです。

一般的には信長たまが大事にしていた武将は、

は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と

池田恒興、前田利家では無いかと言われています。

それはある意味、後の実績から察せられる事なのですが…

 

実は総合的な統治能力とは別に、

信長たまが個人的に大事にしていたのは、

幼少期の悪童たち、岩室、長谷川、山口、加藤、千秋に、

池田恒興や前田利家、佐々成政などはもちろんの事、

今回の話で登場した森可成、

更には河尻秀隆や佐久間信盛も実は大事にしていた武将です。

ただし、信盛に至っては

あまりにも人に対する礼を欠く存在あったため、

再三の忠告を無視して驕りも生じていたので、

見せしめに追放した感じです。

更には内政面では

実は村井貞勝も大事にされていた人物で、

これらの人は基本的に信長たまの小説などでは

あまり目立って登場しないです。

 

秀吉に至っては、農民上がりで才能が有ったため、

ここでも話した様に

身分の関係ない社会の理想を証明する意味で、

大事にされていたと言えます。

 

こうした中で、信長たまは軍を統率して行ける才能と、

そのリーダーとしての魅力があるかで判断し、

寧ろ戦いでの武功があっても、

大軍を統率するという指揮官としての才能というより、

それを寧ろ望まない性格の人物は、

自分の直属として側に置いていた感じです。

 

因みに…信長たまの直属、

黒と赤の母衣衆は滅茶苦茶強かったです。

というよりこの部隊が強かったから、

信長たま自身の戦功も突出していたと言えるのです。

寧ろ織田軍団の立場としては、

彼らの立場は柴田勝家や丹羽長秀、秀吉、光秀、

より高かったと言えます。

 

いわば現代の政治で言うなれば、

柴田勝家らは大臣という見方もあるかも知れませんが、

寧ろ都知事や県知事の存在です。

アメリカ的には州知事で、

州軍を指揮したり、州の政治決定を委任された感じ。

 

寧ろ大臣や長官的な中央の政治にかかわる人は、

黒と赤の母衣衆や村井貞勝の様な立場で、

信長たまの側に居たという感じです。

仮に勝家たちを大臣とした場合、

母衣衆は政策秘書と言う感じにもなりますが、

権限や地位を考えるとまた違う感じなのです。

 

因みに黒母衣衆だったとされる津田盛月が、

柴田勝家の所領と接していて入り組んだ利権の争いで、

柴田勝家の代官を切り殺してしまった事件があったようです。

勿論信長たまは裁判上、身内同士の抗争は許さず、

犯行に及んだ津田盛月と

その兄中川重政を改易処分にしてますが、

あの柴田勝家と

そういう事件を起こせるほどの立場であった事は明白です。

 

いわば母衣衆が勘違いするほどの権限が

彼らにあったという感じで察すればと言う話です。

 

とは言え元服をようやく迎えた本編…

いよいよ初陣へを駒を進めていきますが、

その前に林秀貞や森可行との関係を交えて、

初陣の裏側を次回に記したいと思います。

 

ネタバレでいうと…

吉良大浜の戦いは…信長たまの負け戦です!!