うつけの兵法 第二十五話「大は小を飲み込む」後編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第二十五話 大は小を飲み込む 後編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

松平広忠の三河復権に関しては、前述にも記した様に諸説さまざまである。

1537年説と1540年説だ。

問題は何れの資料も江戸時代に伝聞により記述されたものが多く、ハッキリと決定づけるものが無い点だ。

ただし、松平広忠の元服が1539年、その後、岡崎ではなく牟呂城に入城したとされるのが1540年という記録がある為、1537年から1540年に掛けては松平信定派と松平義春派で争った時期と見なしてもいいと考える。

 

中編からの続き…

1537年、今川家で起きた花倉の乱が終結すると、その期に乗じて遠江進出を考えていた松平信定思惑は大きく外れるものと成った。

ここで少し頭を捻って考えてみるとしよう。

歴史の結果を知ってしまった現代人の頭では、三河が花倉の乱に関わるなら今川義元と反目の今川良真こと玄広恵探に組みするだろうと考えるかもしれない。

いわば後の事を知れば、今川義元こそ三河存続の危機となるからだ。

ところがそれは後の経過を知るゆえにそう考えてしまうだけのことで、むしろ当時として花倉の乱の状況を精査すると、恐らく読みにくい状況であったと言えるだろう。

今川義元こと当時の梅岳承芳が何者であったのか、それを補佐する太原雪斎こと九英承菊がどれほどの人物またはその存在すら認知されていなかった状態と考えるべきであり、むしろ情報源の中心は今川氏輝の母であり、氏親の正妻である寿桂尼の動向にあったと思われる。

現代の資料でも、寿桂尼の動向は両者の間で右往左往していたように感じられるもので、恐らく三河でもその動向は錯綜して伝えられたのかも知れない。

これが寿桂尼の計略であったのなら驚きを隠せない話で、それによって今川のお家騒動に外部が介入して来なかった結果と見なせるであろうが、恐らくは単なる流れが齎した結果であったと断定する。

 

遠江奪還を計る上で三河勢がどちらに組みして進行するか迷った状態であったともいえる。

寿桂尼の背後には北条がある。

遠江を得たとしても、寿桂尼の反目と成れば北条と敵対するやもしれない。ましてその北には武田の存在も有るわけだ。

駿河が寿桂尼の反目に落ちれば、遠江には北条との緩衝地帯が設けられ、むしろそれを支援する形で三河、遠江の地盤を固める事も考えれた。

それには尾張と手を結び強固な同盟を気付いておく必要性も生じた。

清康から一時的ではあったものの三河の主導権を得た松平信定と酒井将監の目論見はここに有ったわけだが、清康寄りの松平義春らの勢力がこの動きを阻んでいたのも事実である。

 

花倉の乱がもうしばらく長引けば、三河の勢力図も大きく変わったのかも知れない。

ところがその花倉の乱が、三河で討議している間に終わってしまったのだ。

無論、その後で今川と北条が争う河東の乱が勃発した事で、信定らの主張は維持できたと言えるが、義春らは三河の主権を吉良持広に依存する事で対抗していた事も有り、その持広自体がある意味今川に取り込まれた形となっていた為、三河の対立はより激しくなったと言える。

現代の企業で言うなれば、松平信定は社長、吉良持広が会長という立ち位置で反目しあい、その会長が会社の大株主である。

今川は経営不振に陥った三河に大株主である会長側を支援する形で取り込んで三河の動きを止めていたわけだ。

 

ここで歴史資料の複雑さを紐解かねば成らない。

岡崎城奪還は1537年とされる説。

松平信定が1538年に死去し、同時期に松平義春も死んだとされる。

岡崎城は松平清康の弟である信孝によって1537年に奪われたとある上で、松平信定は岡崎城から出自の主城であった三河安祥城へ本拠を移動させたと考え、岡崎城は義春派に渡すことで対立を回避した可能性がある。

隠居の松平道閲が1544年まで生存していたと記される以上、三河の対立を調整する意味でこうした処置が講じられた可能性は高い。

更に1537年広忠が岡崎を奪還したとする説が伝聞として残った事を考えると、1537年に松平信定は三河安祥城に本拠を移す事、そしてその後継者は清康の嫡男広忠にすること、そして岡崎は義春側に引き渡すことで三河の混乱を纏めたとする方が辻褄が有ってきそうである。

その上で岡崎城は清康の弟にあたる松平信孝に渡し、義春は年齢または病の為隠居した可能性も考えられる。

記録によれば、1538年に信定と義春が同時期にこの世から消えたとされるなら、その後の経過の流れから双方の対立が過激化しないように抑えていた義春は病死し、岡崎城を得た松平信孝が反目の松平信定に刺客を送り信定を暗殺した可能性は考えられる。

 

これは松平信孝という人物を資料で分析すると、その後弟康孝の所領を横領して失脚に追い込まれた上で、織田方の勢力(信定方)に鞍替えした事が記されているため、恐らく信義に欠けた人物であったと推測できる。

岡崎城奪還の功労者として大久保忠俊が上がっている点を考えるなら、信定暗殺を実行したのはその大久保家の手の者か、大久保忠俊、忠員(ただかず・大久保忠世の父)が襲撃したかの何れであった可能性は高い。

三河物語はその忠員の孫で忠世の子の忠教によって記されたものであると考えるなら、こうした家系の暗殺という不忠を敢えて上手く隠蔽した可能性は考えられる。

大久保家は忠俊、忠員の父、大窪藤五郎という武芸者が清康によって取り立てられたのが始まりで、その直後、宇津と名乗っていた。

宇津から大窪に姓を戻し、その後に大久保に改名した事が三河物語でも記されているため、その経緯から不忠の功績で名を馳せた事は十分に考えられる。

一介の武芸者であったことと、これを期に松平家の重臣として出世したことまで裏付けると、忠俊と忠員の兄弟が信定を暗殺した点は否めない。ある意味ひと昔前の任侠の世界の出世話に類似している。

その功績により松平信孝に大きく取り立てられたと考える方がよいと言えよう。

そして、信定の死から2年後、1540年には織田信秀がその安祥城に兵を差し向けている。

そして信定の家督はそのまま嫡男の松平清定が継いでおり、安祥城をそのまま引き継いだと思われる。

 

これらの情報を総括してこの流れを分析すると、

1538年に松平信定が死んだことで、一時的に三河の実権は松平信孝に移ったと考える。

無論、信孝は広忠の後見人という立場を表明しながらも、その一時のおごりから横暴な統治をしたことが考えられ、吉良持広がいち早く広忠を岡崎に入城させたいと考えたともいえる。

また、安祥城の松平清定は信定暗殺の首謀者を信孝と見なすことも想定され、清定が尾張の織田信秀と通じて岡崎奪還を目論んだ可能性も高い。

このころ隠居の松平道閲の影響力は既に無くなっていた。

実子の信定と義春、二人が消えた以上、一族としての統制を訴える術がないとも言える。

清定は父・信定の暗殺は信孝の仕業と言い、信孝は尾張の手の者だと言い張る。この時点で両者の対立は完全に引けない状態に成ったと考えられるのだ。

道閲であり酒井将監が優秀であったとするなら、姑息な形で三河を支配しようと試みる、いわば義春の死後、広忠の後見を名乗って岡崎を専横し、信定を排して自らの地盤を固めようとする信孝をそのままにしておくのは国を危うくするだけと考えるのが普通である。

では、一方の尾張は信用できるのか?

無論、そこは織田信秀という人物に寄るところであるが、恐らく信秀が優秀ならその二人の信用を勝ち取る意味での忠義は示してきたと言える。

信秀はこの時期尾張の支配者では無く、むしろ尾張の中にも敵は存在した。その上で三河と上手く付き合う必要性の方が十分に高かったのだ。

出来るだけ今川との緩衝地帯を設けたい。

戦略面で考えても、松平信定、道閲、酒井将監とは上手く付き合う必要性が生じるのだ。

 

1539年織田信秀は古渡城を築城して、熱田周辺、三河との国境の拠点を確保すると、清定の援軍として安祥城へ兵を向ける準備を整え始まる。

この動向は無論今川方にも伝わるわけで、古渡の築城という情報と三河の情勢を計算すれば推測するに至る。

今川方の分析では、岡崎を支配する松平信孝はその横柄なやり口から信用に値する人物と見なしておらず、むしろ今川方として三河を任せるには危うさを感じていたのだろう。

そういう経緯から1539年に広忠を元服させた点は合点がいく。

これは吉良持広とも共有していた考えであったのだろう。

今川の後ろ盾によって広忠が元服した事は、もちろん三河に伝わった、と、言うよりもあえて三河に伝えたのだ。

その上で松平信孝に圧力を掛けたのだ。

その松平信孝でも松平清定が織田信秀の援軍を得て岡崎を狙う事くらい察しはつくはずで、その上で今川まで敵に回しては太刀打ちできない。

何時の時代にもこうした調子のいい輩は存在する訳で、信孝はすぐさま態度を急変させて広忠を受け入れる準備に取り掛かった。

それが1540年の事だ。

 

この1540年の三河の情勢を精査すると、以下の事が発生している。

 

織田信秀が安祥城を攻略する。

松平広忠が牟呂城に入城し、そして岡崎城に入城する。

西条吉良の当主義郷が死ぬ。

東条吉良持広の後を継いだ西条吉良から養子いりした吉良義安は義郷の西条の当主となるはずだったが、叶わず尾張方と結ぶ動きをする。

 

とてもややこしい情勢が見受けられる。

 

複雑な情勢を齎す中では、様々な利害とそして策略が成立するのだ。

 

先ず織田信秀という人物が如何に有能であり、その参謀として林秀貞が如何に策略に長けていた人物であるかを伝えよう。

信長が化け物であった故に、今川義元も林秀貞の様な人物も、そして朝倉義景も暗愚な人物として評価された。

しかし信長の存在が無ければ、むしろ彼らは有能な人物として名を馳せたであろう事は理解してほしい。

 

参謀とは君主の要望と算段に一体となって実現に導くものを言う。

君主が奇策を採用した際に優秀な参謀はその奇策が確実に成立するように細かい手順を整えるのが役目なのである。

必ずしも策を提案する者が優秀な参謀では無いのだ。

大きな所帯の軍事会議の中で、様々な意見が往来するのは理解できるだろう。

これは今の企業に於いても同じだ。

ザックリとした策を唱える者はその中に沢山いる。

優秀な君主はそうした沢山出るアイデアを奨励して、どんどん出させる訳で、暗愚になればなるほど明確な企画を求めて発言を絞り込んでしまうのだ。

日本では後者が横行して会議に活気がない点で理解できるかもしれない。

ザックリと提案されるアイデアから可能性を引き出し、そして採用するのが本来優秀な君主なのだ。

そしてそのザックリとした提案を確実に成功するようにまとめ上げるのが優秀な参謀となる。

三国志でいう劉備は優秀な君主なのだ。

しかし、ザックリしたアイデアを出す人材が居ても、最終的にそれを取りまとめて確実に実行できる状態に以て行けないと、どこかで失敗するのだ。

いわば諸葛孔明が優秀な参謀とされた点はそこにある。

アイデアとしてこの地帯で火計を用いる。

ここで挟撃して殲滅する。

そういうアイデアは寧ろ経験豊富な関羽や張飛も思いつく。

無論、

「ここで敵が混乱状態で居れば、俺なら殲滅できる。」

というアイデアも張飛なら出しそうだ。

一つ一つはバラバラな提案に成ってしまうわけだが、

これが上手く構成されない状態だと、

関羽の様な人物が、

「拙者が敵陣に突入して敵を混乱させてみようか…」

などと行き当たりばったりな作戦に成ってしまうのだ。

無論、関羽なら出来るかもしれないが、それは敵に何の備えも無ければの話で確実性は無い。

相手がこちらの戦力を把握したうえで対処してきたのならという、詳細が欠けるのだ。

優秀な参謀とは、そういう詳細を考慮した上で、その場所で敵が混乱するという状態を導き出すのだ。

吉川英治の三国志の新野の攻防戦で見受けられるように、敵を誘引してその地点より奥深くまで誘い込むという形で考えた場合、

兵力差で敵が油断するように誘い込む演出をも構成する。

そこを計算した上で、その奥の地形を見て敵が火計に気づくだろうタイミングを予測し、その判断より早く火計を仕掛けることで敵は混乱した状態で後方へ下がる動きとなるのだ。

その地点に敵が斥候を放っても、味方の伏兵が察知されない状態で、伏兵が上手く動けるルートも調整する。

優秀な参謀がこれらを全て一人で計算するという妄想は小説の世界だけにして欲しい部分で、現実的には優秀な参謀は会議の中で色々な人に意見を求めながら現実的に出来る事を導き出すのだ。

伏兵を動かすルートにしても、その地形に詳しいものが居れば、知らなかったルートも見えるわけで、そうして確実に近づけることで高い精度の計略と成るのだ。

これを筆者は

「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げ実行すること、これ奇策なり」

と、表現している。

また六韜にも、殷を亡ぼす際に太公望が慎重に確実に実行できるまで計を待ったという話も似たような意味として成立するだろう。

 

織田信秀が優秀であったのは、尾張の一勢力、いわば企業で言うなれば営業部長という役職ほどな立ち位置で、大企業である今川と対峙しなければ成らない状態で十分に渡り合えた点だろう。

尾張自体でも意見がバラバラな状態で、尾張という企業を一体にまとめ上げて動かすのは難しい状態でもあった。

そうした中で自分の勢力圏を確保するのに、三河と結んで今川との緩衝地帯を設けて、今川が支配していた尾張南部を自分の管轄圏として手に入れたのだ。

尾張としては今川方の領地のため諦めていた場所ゆえに、信秀が自分の力で手に入れたところに干渉する余地はない。

無論、そのことで信秀は清州織田の大和守家と揉める事も有ったが、ある意味単なる役員同士の喧嘩で会社全体から締め出されるような不義を働いたことでは無いのだ。

とは言えその功績を妬む輩も存在する中での話ゆえに、信秀としては松平信定らの三河勢力は大事な存在であった。

そうして尾張の主要勢力が手出ししなかった地域を得ることで、信秀は大きく成長することが出来た。

無論信秀が無策無謀な人間ならその目を三河侵攻に向けたであろう。しかし、目先の欲に溺れて不用意に敵を作るような発想はせず、尾張での地盤を固めることに寧ろ専念することを選んだのだろう。

その為、大きな敵となる今川との境界線に緩衝勢力を設けておきたかったとするのは賢明な考えだと言える。

清康から信定に権限が移った際は、信秀の東への脅威は一旦薄れた。ところがその信定から信孝に移ると、今川への緩衝地帯の機能は薄れるのだ。

ましてや彼らが担ぎ上げた広忠と吉良持広は今川の手にある。

また、西条吉良も今川と縁者になり、その当主吉良義郷は今川の傀儡というより従属した存在となり果てたのだ。

そういう意味では今川が三河の主権を得たのも同然である。

 

ここでこの1540年に吉良義郷が急死するという話を挟んでおこう。そしてこれを期に再び吉良氏の跡目争いでいざこざが発生するのだ。

 

吉良義郷の死因には諸説あるようだが、1537年に今川との戦いで戦死した説はこの状況からは実際には考えにくい。

寧ろ1540年に信秀との戦いで戦死したという方が信ぴょう性がある。

 

それらを踏まえて今川の立場でこの情勢を考えるなら、三河で今川の反目に当たる安祥城の勢力を三河勢だけで殲滅させるには、松平信孝では心もとなく、広忠では逆に纏まりすぎる。いわば広忠では三河は松平の勢力として勢いづきすぎる。そこで吉良の威光の下でこれを殲滅するのが得策と考えた。

無論今川義元と太原雪斎の会話の中では、

義元が

「広忠が岡崎に入っては清康同様に三河勢が勢いづくのでは…」

 

と懸念を述べると、

雪斎が

「ならば吉良義郷を安祥攻略の総大将として送りなさっては」

 

と提案する。

義元はすぐさまその意図を汲み取ってその通りに採用した流れが見えてくる。

 

現状、西条の当主義郷と東条の当主となった義安は兄弟である。

いわば長男の義郷が西条吉良の当主となっている時点で、その弟が引き継いだ東条は完全に分家化した形となる。

故に吉良の威光を以て三河を支配するに、東条の義安よりも姻戚関係にある義郷の方が使い勝手が良かった。

その為、松平清定らを主家の吉良に対する反逆者として始末する形で安祥城攻略に送り込んだのだ。

更にこの時期に松平広忠を牟呂城に入れて参戦させる形を取ったことで、今川よりの松平勢力を吉良の名の下で団結させる効果も得たのである。

これに援軍を差し向けたのが織田信秀と成るのだ。

まるで信秀が義侠で援軍に向かったかの内容になるが、前述のとおり信秀にとっては死活問題で、むしろ三河が吉良の威光で今川に完全に奪われる方が厄介になる、その為の援軍なのだ。

しかし、今川が吉良義郷を総大将として送り込んだ点に信秀は形勢の不利を感じた。そこで林秀貞に相談するや、

秀貞は

「吉良は今川の傀儡のような形であからさまに送り込まれたのは誰が見ても感じる事…ならばその不信感を逆手にとって討幕の徒として今川に当たりましょう。」

 

信秀は、

「それでは三河の団結を如何ほどにも崩せまい…」

と疑問を投げかけるや、

 

秀貞は、

「まずは岡崎の団結を崩す前に、安祥の闘志を維持することが先決です。その上で形成によっては心変わりする勢力に期待するのです。」

 

そこまで秀貞が述べるや、信秀は

「なるほど・・・ならばその役目を義統公に頼んでみよう。」

と、秀貞の話で動き始めた形で進んでいく。

 

そしてその援軍の大義として信秀は寧ろ斯波義統の名を借りて、今川を幕府への反逆者いわば守護の吉良氏を傀儡として討幕を狙う者という形で対抗したと考えられる。

この大義がどういう意味を為すのか?

戦に於いて各勢力を味方につけて戦う方が有利になる点は理解できるだろう。

本来守護職にあたる吉良の名を以て三河を制圧しようとすれば、三河の諸勢力はそれこそ正当な側と見なして従いやすくなる。

しかし、その吉良が駿河の今川の傀儡として扱われているというネガティヴな情報を盛り込むと、三河が今川に乗っ取られてしまうというイメージが生まれるわけだ。

民主的な見識でもこれで世論が分断されてしまうように、三河の勢力もこうした大義の主張で分断されるのだ。

それによって団結した力は削がれ、むしろ戦いやすくなる。

相手が100%団結して向かってくるより、70%でも60%でも力が集結しない方が不利な側としては戦い易いのだ。

故に信秀のこの戦いでの安祥城攻略は、占領では無く寧ろ松平清定と酒井将監らの勢力を三河に維持する事にあったと言えるのだ。

信秀が占領した方に成れば、今川に疑念を抱く徒を誑かしたことに成り、その後の緩衝地帯という目的で維持するには色々と厄介な状態に成る。

無論、歴史的な結果として、この戦いで担ぎ出された吉良義郷は戦死し、安祥城の勢力は斯波家の大義の下で生き残ったことに成る為、信秀に攻略されたという風に映ったのだろう。

 

吉良義郷の戦死は、ある意味今川にとっては誤算となった。

そこで弟で東条を引き継いだ吉良義安が西条の家督も次ぐ形で調整していたが、今川としては本来主家に当たる吉良両家が統合されることを良しとせず、義郷、義安兄弟の三男にあたる弟義昭に西条を継がせる形にした。

今川義元にとっても、太原雪斎にとっても今となっては吉良を恐れるゆえんは無いようにも感じる。

しかし、吉良義安に何らかの野心的な思惑でも感じたのか、義安に大きな権威を与えたくは無かったためとも推測できる。

ある意味、その義安に両吉良当主の立場を与えたなら、三河の松平を抱き込んで三河で独立を果たしたのかもしれない。

また、安祥攻めで西条吉良の名目で松平広忠を担ぐ三河勢を動かしたこともあって、今川の影響下で当主にした義昭の方が西条吉良を傀儡にして三河勢力を支配する意味としては取り込みやすくなると判断したのだろう。

結果として東条吉良を相続した義安は西尾城に、そして西条吉良を相続した義昭が東条城に入ったと思われる。

その義昭はその後に家康と戦いその東条城を追われたとされている結果からこうした流れとする裏付けになる。

 

こうして今川の仕打ちに苦汁を舐めさせられた吉良義安は、吉良の復権を願って松平清定らと通じた事も理に適う話となる。

清定らを頼って三河を今川支配から取り返そうとするにあたって、自然尾張の勢力とも通じたという記録に成ってもおかしくはない。

無論、義安のこうした狙いは彼の素養や姿勢から今川も警戒していた通りだったのかも知れない。

後の結果としてこの吉良義安が信長と家康の間で上手く立ち回り、江戸幕府まで続く家柄として存続をはたすのである。

そして年末定番の赤穂浪士で有名な吉良上野介義央に続くのであった。

 

さて、一方の松平広忠はというと、今川の圧力に脅えた信孝が素直に岡崎城を広忠に引き渡して、安祥攻略に向かったため、大きな抵抗も無く松平当主となった。

その為、信孝と康孝の協力の下で岡崎入城を果たしたとされるが、その後安祥城攻略に失敗し、更には吉良義郷を死なせた責を信孝は取らされることと成り後見人から失脚する。

松平の名目上、弟康孝の所領を横領した罪に問われているが、実際は今川の権威を三河に浸透させる意味で、今川により理由を突き付けられて失脚させられたとする形が現実的である。

実際にこの時代の罪状は全てを信用するべき話では無い。

寧ろ後見役として信孝の素養が今川に危ぶまれたとも考えられ、信孝が広忠を上手く傀儡にしてしまう前に、弟の康孝を今川が取り込んで罪状を突き付けさせたうえで兄の命を救う代わりに失脚させたと考えても良いといえる。

寧ろそうした情状の様な形での調整が無ければ、安祥攻略の失敗および守護の吉良義郷を死地に追いやった罪で、良くて流刑、悪くて死罪で処理されたかもしれないのだ。

無論、その名目は新たな当主吉良義昭を通じて…

 

また、西条吉良の義昭が東条城に入ったことで、三河の守護はその吉良義昭であることも念を押された。

いわば今川は三河という企業の会長から大株主という権限を奪い取って名目上の会長職に傀儡の人間を送り込んだようなものである。

そしてそれは役員を送り込む話以上に大きな存在となり、社長となった広忠は社長として独立した采配を許されているが親会社である今川の意向には決して逆らえないという状態であることを意味した。

 

結局は松平広忠が無能であったという事では無く、その生涯は最も不運な人生で、死して初めて幸運を得たという感じではなかろうか。

松平道閲、信定そして酒井将監らが守ろうとした三河の独立性は、むしろ様々な形で崩れ去り、結果として今川に上手く取り込まれてしまった。

ある意味、今川氏親や北条早雲を以てしても切り取れなかった三河の地は、今川義元であり太原雪斎の調略でこうした抵抗勢力を上手く切り崩して手に入れたようなものである。

寧ろ織田信秀が今川との緩衝地帯として三河を意識していた点も利用され、今川は逆にその信秀ら尾張との緩衝地帯として調略で三河を懐柔することで河東の乱で敵対した北条との戦いに備えたと思われる。

甲斐の武田、相模伊豆の北条という戦上手との間で立ち回った今川の手腕は評価するべきと言えよう。

 

無論、織田と今川は結果として三河でお互いの緩衝地帯を残すことに成功した。そしてこの後に2つの勢力は一旦は別の方向へ意識を向けるのであった。

 

次回、信秀の美濃攻略へと続く…

 

どうも…ショーエイです。

ホントに戦国時代の情勢は解りにくいです。

小説では色んな所が端折られて、

色々適当に盛りこんで、

主人公の都合で作られているのですが…

端折らずにちゃんと辻褄合わせようとすると頭痛いです。

これ書く前は、正直オッサン先生逃亡していたようで、

それ故に中々筆が進められなかったみたい。

でも、書き始めると色々集中して見えるように成って、

スラスラと書けたらしい。

 

ただ、もう一点は時間を置いてしまって、

どの年の説を採用していたのか解らなくなるそうです。

「それは貴方の怠惰な生活のせいだろ!!」

と、一言で言えてしまうのですが…

 

さて日本の歴史を見るにあたって、日本の史書には私観が多すぎる。

あと、主観側の正義を主張し過ぎて、敵を馬鹿にしすぎる。

まあ、中華の歴史にもそういう部分は存在しますが、

その点は司馬遷を例に挙げても様々な観点から考慮されます。

しかし、日本人が物語として記す場合には、

正に時代劇そのものパターンに成りすぎる。

悪者が居て、その悪者を成敗!!

まあ、ウルトラマンにしても仮面ライダーにしても一緒です。

因みにハリウッドのヒーローものも一緒です。

そして間抜けなほど悪者はあっさりと倒されます。

 

まあ、今の時代を見ても、

どこかのアホな元首相の様に、

「越後屋…お主も悪よのう…」

みたいな事は行われている様に見えるので、

正直何とも言いようが無いと言えば言いようが無いのですが…

こうした間抜けな悪は、江戸時代の象徴でもあるように、

平和ボケした社会の成りの果てなのです。

 

寧ろ緊張感のある戦国時代では、

着服や横領などは反逆行為で始末されます。

それだけ神経とがらせてピリピリした状態な訳です。

 

情報の扱いも神経とがらせて処理しないと、

計略によって大切な味方を誤って失ってしまう。

今の時代も昔もフェイクニュースが飛び交う中で、

フェイクニュースに踊らされる状態は

間抜けな結末を齎すのです。

 

そうした中で大きな勢力として残った存在は

決して間抜けでは無いと考えるべきなのです。

 

さて、織田信長と武田信玄どちらが

戦上手かという話をしてみます。

誰もが武田信玄と疑わないと思います。

織田信長は武田信玄にビビってた。

確かに信長たまは信玄にビビってた、出来れば戦いたくない。

そう考えてたのは事実ですが、

仮に信玄が三方ヶ原の戦いで家康を粉砕して尾張の境界線に踏み込んでいたらと成れば別物です。

寧ろこの時信玄は一歩も動かずに撤退した訳ですが…

信玄が信長にビビったという事を

避けるために病気に成ったとしているだけなのです。

無論すぐにそのあと死んじゃいますが、

何故その前に信玄が立ち止まってしまったのか?

フェイクニュースの憶測で言うなれば上記の通りです。

 

しかし、ちゃんと戦況を分析してみれば、

信玄が賢かったゆえに動かなかったと言えるのです。

それだけ信長にビビったともいえる。

何故か…

資料によると信長は浅井朝倉との戦の真っ最中で、更には足利義昭とも対立した時期、その後で、すぐに岐阜で軍備を整えてます。

誰もが岐阜で軍備を整えて

南下して信玄を迎え撃つ発想をするでしょう。

そもそもが違います。

そんな程度なら信玄は立ち止まらなかった。

ある意味、戦術で決戦する構えで進行してきた。

ところが信長の狙いは岐阜から

木曽の方へ向かう動きでけん制したのです。

東美濃の岩村城が陥落したのは武田方の奇襲の為でした。

畿内、越前、北近江の戦で手が回らなかった事も有り、

ある意味武田方に降伏させた形にした。

 

三方ヶ原の戦いまでの経緯で、浜松城の北側の二俣城を攻略した武田信玄は浜松城を狙わずにそのまま浜松城北西の野田城方面へ兵を向けた。これは長篠の戦いで敗れた勝頼も同じルートを通ている。

このルートは山間部が多く、決戦として迎えるには武田方が有利に働く計算だったと思われる。

三方ヶ原は二俣城から野田城への間の場所で、武田軍が山間部に入ってしまうとその消息を追跡することが困難で、三河方面の防衛に支障を来たす状況にあった。

家康は武田方と決戦するにはこの視界が見通せるこの地でしか無いと悟った。

武田方の戦略は巧妙。しかし歴史評論家では分析しきれない。

家康は武田の大軍を前に二俣城と浜松城どちらで迎え撃つかで奔走した。その結果浜松城に主力を留めた。

大軍を以てしても兵を城攻めで削られていく状態は、その侵攻に支障を来たす。寧ろ家康は二俣城は陥落しないだろうと見越して、浜松城で待ち構えた。

ところが水を断つという計略によって、二俣城は陥落してしまう。

更には武田の兵力は殆ど減っていない。

そこでより一層浜松城への警戒を強めたのだ。

ところが武田軍はそれを逆手に取って、援軍や兵力が集中できない場所を攻略していった。

無論、三河の岡崎にも警戒のための兵力を用意していたが、武田方が動けない徳川方を尻目に、好い様に城を攻略されていく状態ではジリ貧していく感じになってしまう。

寧ろ信玄の挑発の狙いはここにあったのだ。

そして地の利を活かせる状態で敵の主力を殲滅できるのなら、浜松城はその後落しても十分と考える。

三方ヶ原に誘い込まれたのはそういう事である。

ところが恐らく徳川軍は総兵力で三方ヶ原に向かわなかった。

寧ろ浜松城に仕掛けを残してそこに誘因する作戦で挑んだと思われる。

そして武田軍に敗北した振りで浜松城に逃げ帰った。

無論、山県昌景が追撃してくるが、

あえて空城の計を用いた為、警戒されたのだ。

???

孫子などを良く知る武田軍が空城の計を見て、策なしと判断することは無い。

家康は裏の裏を相手が読んでくると考え、あえて空城の計を用いた可能性の方が高い。

また三方ヶ原から浜松城までガチで逃げ帰った事も間違えないだろう。

適当に戦って上手く逃げるつもりだったが、武田の騎馬隊の足の速さに逃げ切れるのかすら危うく成るほど焦ったのも事実だろう。

その為に多くの戦死者を出してしまった。

ガチで逃げ帰ったのだから武田も騙されてくれる…そう感じて用意していた伏兵も、結局は山県の速やかな退散で無駄に終わったのが結末だ。

確かに武田信玄は凄い。

ところが…三方ヶ原に来ていた兵数を見るや、意外に少ないのだ。

ここも家康の誤算であった。

山間部に持ち込まれたら、武田の伏兵やゲリラ戦術に太刀打ちできない。

そのため出来るだけ平野部で戦いを挑もうとしたわけだが、平野部では逆に味方の兵数もおおよその規模でバレてしまう。

無論、浜松城に8000の兵を入れていたとして、1000を城内、2000を伏兵、そして残り5000で三方ヶ原に挑んだとしても、逆にそれ以上の軍で行軍している相手に対しては少なすぎる。

また、織田方の援軍を合わせても1万ちょっと…

寧ろこれに信玄は警戒心を抱いたのだ。

 

信玄は織田方の援軍は大軍で迎え撃ってくると想定していた。

その上で織田軍が得意としない山間部に誘い込んで、これを殲滅する算段であった。

そうすれば徳川も織田も厳しい状況に追い込まれる。

ところが織田軍は援軍を抑えてきたわけだ。

更には尾張にも美濃にも相当な兵力を残していると警戒する状態だ。

そして織田軍の美濃衆の存在で、彼らは山間部のゲリラ戦に慣れている。

そいう警戒心から野田城攻略に慎重に成ったと言え、信玄は信長の動向をイチイチ気にし始める。

さて前にも話した様に、動向を探ってくる相手を逆に翻弄させるには、オープンな自分の動きが予測できない状態で動けばいいのだ。

寧ろ信玄の興味が自分の動向に移ったのだから、信玄を惑わすのは簡単と言える。

そして信長はいつ岐阜に入るタイミングとするかで勝負が決まると察していた。

因みに、そのタイミングを計算してはいません。

だから一層相手が読めないのです。

無論、野田城攻略に時間を掛けているという情報は信長にも筒抜けです。

勿論信玄も遠江攻略に別動隊を動かしているが、家康もあえて動かない。

そこで信玄ほどの人物が最悪な事態を想定しないわけが無いのです。

信玄にとって最悪な事態は…

木曽から信長が大軍で攻めてくることです。

または飯田のあたりに。

実際、後の武田攻めではここから進出している。

無論、木曽との境にある恵那地方を抑えているため、簡単には木曽へ抜けられないと考えるが…

信長の戦略は読みにくいと感じるでしょう。

病に侵されて死期を悟った信玄は、死ぬ前に信長と決戦しておきたかった。しかし、死期を前に信長が正面衝突を避けて、あえて糧道を遮断してくる作戦に出られると、三河の奥地に入り込んだ武田軍は逆に苦境に落とされる。

そして案の定、野田城が開城降伏するや…信長は岐阜に現れるのです。

さて、武田方の軍記物では、この時信長が1万の兵を以て岩村城に現れ、馬場信春ら有志が決死隊でこれを撃退したと有ります。

その際に27将の首を取ったとか書いてあるが、信長はあえて岩村城に侵攻せずに撤退しただけとみます。

いわば武田軍が三河から撤退したわけで、無理に戦争を続けることは避けたという形。

 

無論信長たまからしてみれば、浅井・朝倉に本願寺と忙しい中で武田まで相手にしてられないわよ!!

 

と、言う状況な訳で引いてくれたの有難いというのが実情でもあった話です。

 

因みに武田信玄が名将である事には変わりないが、上杉謙信であり、北条氏康などとは一進一退を繰り返していた。

信玄びいきの話だと、信玄が信長を攻め滅ぼせたように幻想を抱いているが、上杉謙信であり北条氏康でも、強敵相手に決着を着ける事は出来ていないのです。

 

寧ろ信長たまは誰とでも喧嘩するクレイジーな人で、ある意味よくあの信長包囲網の状態で滅びなかったねという感じだと思います。

 

因みに三方ヶ原の状態で本当に信玄と信長たまで決戦に挑んでいたら?

恐らく信長たまは素直に

「勝てる自信は無いが…負けるつもりで勝負はしない。」

という感じになる。

それは上杉謙信との戦いを柴田勝家に任せた点から察する話で、

 

「カッチーよろしく!!」

 

で任せちゃう。

 

「まあカッチーでダメなら行くけどね。勝てるか知らんけど。」

 

みたいな感じになる。

 

ただ、実戦に入るとまた違う話で、

先ずヤバいと思ったら直ぐ撤収。

そして守りやすい場所を用意してそこで迎え撃つ。

相手がアホならそこで殲滅。

アホじゃ無ければ引くだろう。

これが信長流であり多分諸葛孔明流です。

故にアホな敵は計略に引っかかったように成ってしまう。

別に狙ってそこに誘ったわけじゃ無く、

ただヤバい時用に用意してただけ。

 

多分、浅井の裏切りで逃亡した金ヶ崎の戦いでは、

こういうのを用意していた。

そこで殿入れて防いだので無事逃げ切れたのと、

殿組も生き残れたという感じだと思う。

いわば朝倉方の敵をそこで防げば、挟撃してくる浅井側は逃げるついでに突撃して撃退していけば良い。

背後から来る予定の相手を撃退していくことで退路が開くわけですよね。

四散して逃げるほど間抜けな事は無いです。

朝倉側には用意した陣立てで

殿(しんがり)組みが防衛しているから、

敵は背後を狙う浅井の兵力だけ。

なら逆に油断している浅井兵に本来の主力騎兵が突撃したら?

相手は多分ビビるでしょ。

しかも、逆に大軍ですよ。四散していなければ。

こうして血路を開いて逃げた。

浅井兵がそれで退散しちゃったら、殿組は孤立することなく何とか逃げ切れるわけです。

ただし何処で敵に遭遇するか解らないのと、休む暇が無く逃げ続けるので敵が退散しても陣容と立て直すのは無理があるのと、

逃げる上で兵糧やら余計なものは捨ててきてるので、

逃げたら目的地までまっしぐらに逃げるしか無いです。

殿組は少数で要衝を守り続ける分、守り易くても疲れる。

その上で退路が開いたとしてもお腹もすくし疲れてるしで、命からがら逃げかえる感じになるのです。

 

勝てる自信が無いから用意周到に色々やっておくわけで、負けるつもりが無いから退路も確保してヤバいと思ったら直ぐに引いちゃう。

 

これが実はうつけの兵法の基本なのです。

因みに劉邦が項羽相手に死ななかったのもこんな感じ。

項羽は賢く深追いして来ないから、劉邦はいつも逃げて負けた状態に成ったという感じです。

 

なんかダラダラと書きすぎたかな…