うつけの兵法 第二十四話「大は小を飲み込む」中編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第二十四話 大は小を飲み込む 中編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年

〔ドラフト版〕

 

前話の清康家督相続を経て、若年時の清康の動きには酒井将監や清康の叔父にあたる松平信定らの進言が反映されていたと考える。

逆にこのころ清康の祖父である松平道閲(長親)はほぼ政治の世界から離れて完全に隠居したのだろう。

道閲という人物が英明ならば、信忠が廃された動きは自分の存在が家中の分断を招いたと感じても可笑しくない話で、それを避けるべくして隠棲を決断したと思える。

以後、しばらくは道閲の存在は史書からもあまり見られない点でそう察するものとする。

 

松平、いわば安祥松平の当主となった清康は先ず三河の松平家を統合する意味で、岡崎城の攻略に動く。

無論、崩壊した本家筋にあたる岩津松平家に代わって分家筋にあたる安祥松平が幅を利かせているのに反感を持つ家があっても可笑しくは無いからである。

 

そして岡崎の大草松平家を降伏させると、1529年清康18歳の時に東三河攻略に動いている。

3年前の1526年には今川氏親(義元の父)この世を去っており、今川が盤石でない状態をついて東三河に目を向けた可能性はある。

これが清康の判断であったとするには18歳という微妙な年齢でもあるため、恐らくこの進言は酒井将監や信定のものであったと察する。

 

また、吉良持清も氏親の死を知って今川寄りの姿勢を緩めたことも考えられる。

ある意味東条吉良としては、京の混乱でほぼ消息不明状態になっている西条吉良の義尭の存在を気にする必要もなくなったわけで、松平の勢いを頼り浜松壮を取り返したうえで東条が吉良正当家としての証明を考えても不思議ではない。

無論、政治的、いわば外交的な立場を堅持する意味で表立って東三河攻略を指揮することはしないまでも、信定や将監の意向をただ黙認していた状態にあったと言える。

 

所がその当時の今川は氏親の正妻である寿桂尼によって纏まっており、その1529年に清康が今橋(現在の豊橋)付近を攻略した時点で、遠江との国境に達したことを悟ってか、寿桂尼は三河の外交ルートを維持していた持清にある種の和平を持ち掛けたと考えられる。

 

清康の年齢を18歳という微妙な年齢を表現した意味は、信定や将監らの進言通りという形の指示で動かされていたことに対して、自己の自我が芽生え始める年齢でもあったためである。

 

三河の政情を今川方から推察するのなら、氏親の死を以て生じる隙を狙って吉良の威光を示すべく浜松壮奪還を狙っている点は察しが付く。その背後に吉良持清の存在がある点も警戒して考えたであろう。

今川の北には武田信虎が控えており、東の北条と結んで上手く退けてはいるが西まで危ぶまれれば今川としては窮地に追い込まれかねない。

この時点の状況下で西の最大の脅威は松平道閲の存在である。

無論当時の情報網のレベルでは、道閲が隠棲しているという確証は持てない為、院政状態を疑う方が賢明で、最低でもいわばその息子の信定と酒井将監の存在は意識して考えねば成らない。

東三河攻略を得て、浜松壮奪還、そして遠江制圧まで目指すだろう道閲一派と想定する相手に対抗する手段を模索せねばならなかった。

 

そういう困惑の中で今川に確実な情報として伝わるのは、東条吉良持清と当主と成った若武者松平清康との関係性である。

名前の「清」の文字にその関係性を見出すのは当時の技術として当たり前とも言えるもので、持清を動かせば清康を動かせる可能性を見出したと察する。

また18歳という年齢は現代でも同じで、思春期から青年期への転換時期でもあり、色々と心を動かしやすい年代でもある。

いわば14歳くらいで生じる反抗期の延長線で心理学上自我や自尊心を大きく求める時期でもある。

もし、寿桂尼を中心とした今川家臣団がこれらの情報を元に戦略を練るのなら、西への備えは道閲一派と清康への「離間の計」であると察する。

離間の計とは敵同士の仲たがいを促す策である。

この時点で考えられる「離間の計」の効果としては、最大で道閲一派と清康が同士討ちを始めることにあり、最小でも今川への目線を寧ろ尾張方面に向けさせることにある。

そこで今川は外交ルートを残していた持清を操って、清康を翻弄させる手段を用いたのだ。

 

先にも記したように持清からすれば西条吉良の存在が自身の身分の行方を左右するものと成る。

そして今川は浜松壮を落とした際のその西条吉良との和解で、吉良義尭の正室に寿桂尼と氏親の長女を娶らせた。

この時点で今川は吉良義尭の所在を情報として手中に収めていることになる。

この政略結婚が三河を意図したものであったかは定かではないが、恐らく体裁上の理由で、策略に用いる切り札としては考えてはいなかったと思える。

しかし、ここへ来てその政略結婚が持清を動かす最良の道具として機能するのである。

いわば今川は、持清に

「三河と今川との関係を良好に導いてもらえぬのなら、浜松壮は娘婿の吉良義尭にお返しせねば成らなくなる。」

と送るのであった。

文脈は「脅し」であるが、

体裁上は三河が浜松壮を奪還するのなら、それは吉良義尭殿の所領と成るだろうという文脈にもなるのだ。

いわば東条吉良の持清としては奪還であり返却であり、どういう形であっても避けたい意味を持つ。

そこで御しやすい若武者清康に、今川との関係は自分の顔を立てて崩さない様に頼むのであった。

 

持清は齢50代半ばか60代に差し掛かる人物で、老練巧みな言葉を以て清康に語り掛ける。

 

「今川方も清康殿の武名を大いに恐れて和平を申し出てきた」

 

と、いう形を用いて清康の自尊心を刺激した上で、

 

「これを機に今川とは今後、友好な関係を用いて寧ろ西に目を向けるべきではないかのう・・・」

 

とさらに説き、

 

「そなたは吉良…いや三河の宝じゃ、ここは小事は捨て、将軍の混乱を救うべく西に目を向けて天下に名を轟かせるべきではないか。ワシも大事を前に吉良の本願である浜松壮奪還の気持ちは捨て去ろう」

 

と、若武者の気持ちを煽るのだった。

いつの時代も焦る老害はこうして上手く若者を誑かすのだ。

 

この席に信定や将監らの反目の立場にいた信定の弟にあたる松平義春も同席していたのなら清康は大いにその言葉に後押しされたと言える。

実際にその義春は持清家督相続の際の後見人だった記録があるのだが、寧ろ時系列で考えた際、怪しい伝承である事も考慮するとそこは無視しても構わない。ただし吉良持清との関係性を考慮する意味では参考としもよいと考える。

 

無論、清康と持清の関係も「清」の文字の偏諱の関係のみならず、若き清康の良き相談相手として常に接していたとも考えられる。

持清が三河勢力を御するための算段で接していたのか、偏諱という絆を意識して情を以て接していたのか、いずれにしても清康を可愛がっていた事は考えられる。

また酒井将監や松平信定らの傀儡として不満を抱くこともあった清康の愚痴を聞いてやる存在でもあっただろう。

ただ、これまでは将監と信定の浜松壮奪還を目指す動きに持清自身も期待を抱いていたわけで、そういう意味で清康を上手くなだめていた存在として考えられるが、事態が急変した事で寧ろ清康を煽って方向転換を示唆した形と成った。

 

同席した義春が持清の言葉に惑わされたというより、持清の自論である西条は遠江、東条は三河の守護という事に同意しており、領国に留まっていなかった西条より領国に留まっていた東条を守護として立てて三河を纏めるべきという立場に居たと思われる。

これは清康の父信忠もその考えであったと言える。

どちらの忠誠が正しいのか、それは三河を纏めるという目的の中でそれぞれに見識が異なっても可笑しくはなく、寧ろ西条吉良の存在があやふやになった以上、義春らの主張が強くなるのも自然な流れであると言える。

 

一方の酒井将監や信定らは、西条の消息が不明と成った状態では清康が守護代(守護の代わり)という意味で、下剋上の下で力をつけるべきと考えていた。

その忠誠は西条吉良にもあるが、安祥松平家にもあり、当主である清康をそういう存在として育てようとしていた。

その目標は西条吉良の領地復旧で、遠江をはじめとし、駿河もその対象と考えていた。そして古くから協力関係にあった尾張斯波氏と結び今川を敵と見なすものであった。

 

所が清康としては父信忠を侮蔑する形の考えでもあるゆえに、若いながらも将監らのやり方に葛藤を抱いていたことも察せられる。

そういう葛藤を持清であり義春に相談すれば、自然と将監や信定に対して違和感をいだくのも無理が無い。

 

義春や持清は清康に

「尾張も斯波義達殿が今川に捕らえられてから、斯波ではなく織田が仕切っておるゆえに…三河との関係もどうなるか解らぬな…」

 

いわば、清州の織田達勝はその斯波義達と遠江遠征をめぐって対立し反乱して敗れた織田達定の弟に当たる。

この遠江遠征は西条吉良への支援とも、遠江守護としての防衛ともとられる行動である。

無論、西条吉良の姿勢が浜松壮を守るために今川と斯波両方にどっちつかずの態度で居たことは前話でも記した通りで、そういう遠江の情勢に関わることで尾張も対立した点は否めない。

その織田達勝が斯波に代わって尾張を牛耳っているのだから、むしろ尾張と三河の関係は危ぶまれるのも仕方がない。

現代ですら様々なフェイクニュースで情報が錯綜して惑わされる話であるわけで、当時の情報を正確に把握するのはかなり困難な話であったといえる。

それ故に誰かのコメントを鵜呑みにしてしまうように、情報を精査することなくその言葉を信じてしまうのは無理のない話である。

 

因みに織田信長が情報に精通していたのは、むしろ信長が情報を発信する立場にあったからで、その立場を寧ろ信長は利用した。

これは「うつけの兵法」の兵法としても記すものだが、正確な情報を得る方式はある意味ネット回線と似ている。

送信して受信するといういう仕組みなのだ。

自分側から発信される情報を把握し、相手がその反応で動く情報を仕入れるのだ。

単純に説明すると「大軍で攻めるぞ」と送信することで、相手が動揺する状態が簡単に想定される。その中で様々な敵方の寝返りなどの情報が受信され、更に条件などを盛り込んで相手に送信してその真意を探っていくのだ。

自分の動きが情報として筒抜けに成る事も利用して、さらにその動きで相手がどう動くかを探るのである。

「大軍で攻められなくなった」という情報を逆に送信すると、寝返りの動きを見せていた敵方は当てが外れて困惑する状態も想定できる。そうした中で本気で寝返る者はむしろ信長にクレームを入れてくるだろう。

こうした心情の変化を更に受信することで誰が本気か誰が偽りかの可能性を精査していくのだ。

そして信長側があてにする相手を選別して役割を考えるのだ。

これは長曾我部元親を計る際にも使われている。

元親に四国は切り取り次第という条件を出したあと、三好との和睦成立で寧ろ一部領地を返せと伝えている。

長曾我部からすれば約束を反故にされた形となるが、信長からすれば天下を統一する意味で長曾我部の野心的な真意を探る意味となる。

相手が野心的な考えを重視すれば、約束を反故されたことで敵対してくる訳で、それは元親が信長の天下に心服していない意味を与えるのだ。

そういう人間であるのなら信長からすれば浅井長政であり荒木村重、更には松永久秀の様な人物を放置した経験と同様の結末を齎すと考えた。

寧ろ松平家康(徳川家康)の様な盟友と呼べる存在なら大事に出来る相手と見なせるのだ。

そういう意味でこうした探りを入れるのだ。

この反応を利用して情報として正確に把握するのが「うつけの兵法」流である。

「うつけの兵法」ゆえに情報をたれ流したり、約束を反故してみたりと相手に馬鹿にされるような事を利用する訳だが、その分「うつけの兵法」ゆえにお人好しなほど信頼できる相手には融通を利かせることも忘れないのだ。結果松平元康は武田が滅んだ後に、遠江に加えて駿河の所領も許されて旧・今川の領地を全て任された形となっている。

何故信長がこうした情報の扱い方を取得できたかは、のちの「うつけの兵法」で書き記すものとするが、しかし情報の扱いは普通に考えればとても難しいのである。

 

そうした時代の情報の流れを古い関係性と新しい流れで若者は感じ取っていく。いつの時代も同じなのだ。

そういう意味でも尾張との古い関係性に固執するような将監や信定より、時代の流れを先取りしたような持清の言い分は理解しやすかったとも言える。

 

これが清康が殺される切っ掛けとなった森山崩れの内情である。

 

結果、清康は尾張勢と戦う道を選んだゆえに、再び三河に内部混乱が生じた。

1532年にはその東条吉良持清は亡くなっており、跡目はその子の持広が継いでおり、清康との関係は維持されていたと思われる。

松平義春が吉良氏の後見と成った伝承の話は、時系列からすると持清ではなく持広の方だった可能性は高い。

 

清康の死を切っ掛けに、信定と義春の間で対立が生じた事は流れから察するもので、さらには信定方がその背後の東条吉良を排除しなかったのは、不忠を恐れたからなのか…

寧ろここで、まだ生存していた松平道閲の存在が双方の争いに楔を齎していたと考えるべきであろう。

その道閲からしてみれば松平の主家としての立場を早雲との激戦で岩津松平の崩壊によって手にしたものであるわけで、それが家督争いによって失われることを寧ろ危惧したと察する。

ゆえに隠棲の身でありながら、再び信定と義春の間の調整を行ったことが考えられ、結果双方に決定的な戦をさせなかった。

そういう流れの中で、吉良持広の存在も体裁上で立てられた形だったのだろう。

そして清康の子、広忠はその持広によって匿われたのだ。

 

所が翌年の1536年に今川氏輝が死亡し、後ろ盾として頼っていた駿河では花倉の乱が勃発。

辛うじて松平義春の存在で何とか事なきを得ていたが、三河でその均衡がいつ崩れるか気が気でなかったとも言え、その為所領のあった伊勢に一時移った形と成る。

1537年には花倉の乱が今川義元の勝利で決定すると、再び後ろ盾として今川を頼った。

その際に恐らく西条吉良義尭の次男義安を養子に迎えてこれを後継者とした。

この時点で、吉良持広は今川の傘下と成ったようなもので、その庇護下に置かれた松平広忠も同様の立場に自然置かれることと成ったのだろう。

 

さて、話を再び戻して、1539年広忠は吉良持広の庇護の下で元服し持広より「広」をもらって広忠と成った。

吉良持広はその広忠の元服ごすぐに死んでしまっている事から、おそらく死期を悟って自分が生きている内に元服させようとしたのかも知れない。

 

さてここからは話を戻して、

元服を迎えた広忠を使って、今川義元と太原雪斎(承菊ここからは雪斎とする)は三河攻略に動き出した。

1540年に広忠を牟呂城に入城させたとある。

この牟呂城に関しては愛知県西尾市(岡崎南の吉良氏の東条城の北側)と豊橋市の牟呂と二つ考えられるが、松平義春が東条吉良氏の所領を守り抜いていたと考え前者に入城したと考える。

一説では出来事は1537年という記録があるが、時系列を考えてみると1540年が妥当な計算となる。

 

歴史の史書は気を付けてみる必要がある。

例えば太田牛一の「信長公記」などは、何時から書き始めたかが問題で、その書き始めから遡った年号は曖昧と考えてもいい。

現代であるなら日々記されるニュースなどで、詳細に記される時系列であるが、中世は日記などの記録でもない限り年号や日時に関してはかなりズレが生じる。

直に現役だった丹羽長秀などから話を聞いていたしても、人間の記憶を辿ったモノでしかないのだ。

 

「さて…あれはいつの話だったかな…?」

 

ある程度年齢を重ねていくと当人ですらうる覚えに成ってくるのが当然で、これが全体資料としてズレが生じた場合は絶対的なモノとしてとらえる必要性はないのだ。

恐らく史家たちもそのように比較して議論しているものと考えるが、科学でいう仮定同士の議論故に定説に至らない部分である事は伝えておこう。

 

資料を精査した上で辻褄を合わせて見ると、

1536年の今川で起きた花倉の乱を期に、松平信定と松平義春の間で均衡が崩れる状態が生じたと考える。

信定からすれば今川が崩れた状況に応じて、尾張と手を結んでいる事がやはり最良の選択であったと主張でき、この混乱に乗じて遠江を攻略するべきと考えたのだろう。

実際に信定そして酒井将監らの考え方の方がこの時点では戦略的に妥当であったとも考えられる。

この時点で三河が団結していれば遠江攻略は適ったかもしれない。

無論それには尾張の斯波というより織田信秀の援軍も宛てにした上での話となるが…

一方の義春からすればその尾張の軍勢と手を結んで遠江を得たとしても、遠江の主権は斯波家に戻されるだけという予測もある。

義春からすれば敵視している信秀を信用できないわけで、逆に信秀に三河は利用されるだけだと感じるのも当然といえば当然になる。

 

こうした議論を現代の企業の危機として考えると実に面白い。

一方は企業の事業拡大を目指して、大きな他社との業務提携を模索する話に対して、もう一方は他社に自社の特許を不用意に利用させず企業として安定した独立を維持する事を目指すという主張になる。

前者は信定で、後者が義春の主張となるだろう・・・

しかしその未来を知る現代の人からすると結果義春の主張は今川に飲み込まれてしまうわけで、信定の考えならばという「もしかして」の話で期待されるだろうが果たしてどうなったかは不明である。

 

未来の行方を知らない両者はどちらも正しいと考えるわけだ。

無論両者とも三河という国を案じての議論に成るのだが、いずれにしても対立したままで動けないという状況を生み出した事が愚作であったと言えよう。

そういう意味では隠居している松平道閲の気がかりが的中した考えと言えたかもしれない。

 

「内なる紛争に外敵あり」

 

何時の時代も内に紛争を抱えるところに外敵は介入してその利をむさぼるのである。

 

結果として松平義春は今川の花倉の乱を期に吉良持広の元に保護されている清康の嫡男当時の竹千代(広忠)を擁立した事が推測され、それ故にある記述では1537年に広忠入城というものが記されたのだろう。

この義春の行動で三河が大きく分裂した。

むしろ道閲は信定と将監に今は放置するように働きかけたためとも考えられる。

いわばこれを期に花倉の乱同様に三河も崩れてしまえば、それこそ尾張に付け入る隙を与える機会にしかならない。

確かに尾張と手を結ぶ考えにある信定と将監らだが、手を結ぶから信用するという甘い考え方はしておらず、むしろ国として対等であるから交渉上の信用が成立する点は熟知していた。

その対等が内部分裂によって崩れたならそこは相手の思う壺で、むしろ策士であるゆえにそこは割り切れて考えれたのだろう。

 

案の定、義春の動きは吉良持広を通じて今川方に筒抜けであった。

1537年は今川にとっては三河攻略の好機となるはずだったが、寿桂尼と北条の関係を充てにして武田とまで同盟を結んだ算段が外れた為、北条の怒りを買って河東の乱が発生したのは説明したとおりである。

寧ろこの時の太原雪斎は武田と紛争中の北条が今川まで敵に回すような行動を取らないだろうと高を括っていたのかも知れない。

ある意味、武田と結んだことで考えようによっては北条は和睦する際の仲介に今川を使えた訳で、必ずしも裏切りの意味が先行する状態では無い。寧ろ北条の目が寧ろ武蔵の上杉であり関東制圧を目指す意味では、のちに今川、武田、北条の三国同盟が成立した意図としても効果的であったはずなのだが、北条側は雪斎の意図をまだ考えきれず、単に裏切りと見なしたのである。

ここが雪斎の算段が狂った部分であった。

所が存在を危惧していた三河の清康が死に、三河が分裂し始めた状態になったことで軍事的な侵攻よりむしろ三河を取り込む算段が良策として生じたのだ。

 

意外とここの部分は長くなりそうなので、

前、中、後の三部に分けて書くようにします。

まあ、3か月くらい怠けてた感じですが、また再開します。

 

一応、信長たまの成長を書いてい行きたいのですが、

結局今川義元が桶狭間で死んだ

単なるアホな武将で終わらせたくないので、

こうした部分は大事に成ってくるのです。

 

ただ結構ややこしくて中々上手く纏めにくいのもご理解ください。

 

基本歴史小説では今現在では事が全て終わって

記録された状態を未来目線で想像して書かれるものですが、

「うつけの兵法」ではその当時の目線を重視して、

本編でも書いた情報がどういうレベルで流れたか、

そういう流れから当事者がどういう算段を考えたか、

そしてそこで生じる双方の誤解などを見極めて、

歴史の記録に辻褄合わせて作成する作業をしているので、

物凄く疲れるのです。

 

ある意味かなり科学的に記そうと頑張っているのです。

ほぼ小説では無く論文に近いかも…

そういう意味では時間は掛かるかも知れないですが、

是非今後ともよろしくお願いします。

 

【情報の難しさ】

ネット上の情報に限らず、

本に記された話でも

正確性には欠けるものが多いと疑った方が良いです。

科学の定義を元に情報も精査する事は大切です。

科学の定義とは…

仮説に成るのか、定説に出来るのかをちゃんと考える。

裁判のでも一緒で、証拠不十分な話は冤罪を生みます。

それでも裁判は判決をしなければならないので、

提示された情報で最終的には

答弁書の主張に根拠があるか、

そして本来は社会的影響力として

不法性や犯罪抑止等の効力で判断していくものです。

 

科学でも同じで根拠を元に基本は仮説を立てていきます。

宇宙の神秘である「ビッグ・バーン」という宇宙誕生説。

多くの人はこの情報を

「定説」として認識しているのではないでしょうか?

実はこれ「仮説」の一つで、

言い換えれば科学者が一番有力視している「仮説」なのです。

 

日本に限らず、ネット上の一般議論では

これを「定説」の様な形で語り、

他の想像性を無意味に否定します。

 

単純に仮説には疑問を抱いてください。

ビッグバーンという宇宙誕生の大爆発、

どうやって何もない世界にそんな現象が生じるの?

ほぼ意味不明です。

 

宇宙の銀河間であり星の間が広がって行くことが

立証されつつあるのは「定説」に近いです。

近いというのもイレギュラーに近づいているものもある。

でも大爆発でしかその現象が想像できないのは、

人類の想像力の限界なのでは?

 

ただしブラックホールの研究が進み、

高密度の限界が解明されれば

別な爆発要因として考えれると言えます。

いわば宇宙誕生では無く、

銀河が誕生する仕組みがビッグバーンという。

 

ブラックホール同士が接近して

ブラックホール同士が衝突する事は観測で見受けられるようです。

ただ、現状では大きなブラックホールが

小さい方を取り込む形だと言われてます。

そうなるとまだ高密度の限界は見えてこない。

高密度の限界とは、

圧縮されたものがどこまで圧縮された状態で保てるのかという疑問。

無論圧縮状態を拡大して

無限に大きく成長する可能性も想定できます。

ただ、圧縮状態に限界がある場合、かなり大きな爆発を生じさせ、

ある意味「ビッグバーン」という威力を齎す事は想像できそうです。

ただし現時点の観測上これは銀河規模の

莫大な大きさのブラックホールに成長する必要がありそうで、

銀河規模で吸収し合う状態とまで考えると、

ほぼ数字で表せる年数を超えた時間を要するとも言えます。

 

様々な仮説を精査して考えると…

宇宙に無限を想定した方が賢明。

無限という宇宙では無=0物質がその基盤となって、

本来その空間に素粒子すら存在してはならないのです。

ビッグバーンを引き起こすほどの

ブラックホールは究極の有限体と考えて、

無の空間に究極の有限体が多数存在する。

(おそらく地球からは観測できないレベル)

いわば小さな物質はその究極の有限体に引き寄せられるわけで、

究極のブラックホールとブラックホールの間は

0物質空間に成る。

我々地球で観測できる範囲は

この究極のブラックホールが

爆発して広がった世界を想像するべきで

この範囲のみを宇宙と呼ぶのなら、

ホーキンス博士のビッグバーン説は否定しません。

 

現状ブラックホールの存在は観測できているが、

ブラックホールが爆発するものは観測できていない。

仮にブラックホールが密度の限界を迎えて、

爆発したという観測が生じるのなら、

逆に宇宙誕生のビッグバーン説は否定され、

銀河誕生のためビッグバーンでしかない事になる。

そうなると宇宙空間全体は

小さな物質(素粒子より更に小さい物質)が

無限に存在する空間で有るのかもしれないが、

人間の想像力の限界は、物質0(光存在できない)ならば

無限は成立し、有限には限界が生じると考える。

 

まあ、情報を精査してみるというのは

この位繊細に色々疑ってみないといけない話で、

色々と考えた上で自分にとって有益と考えるものを

判断する方がいいです。

その上で自分にとって有益でない仮説は

他人にとっては有益かもしれない。

そういう事を踏まえた上でお互いの考えを尊重し合う、

議論のパラレルラインを理解することも大事なので。

 

【人を理解するための議論】

平行線辿るところでネット民は喧嘩別れるすけど…

そこがアホなのです。

お互いに平行線のポイントまで議論出来たのなら、

お互いを知り得たという意味で尊重し合うべきポイントなのです。

無論、論破するつもりガンガン理詰めで突き進むのは大事です。

ただしアホな人との大きな違いは、

相手が言葉に詰まって

自分の本意を表現できない事がある部分も

理解しようとすることです。

いわば自分の理屈を納得しきれてない相手に

どれだけ言葉を浴びせても解り合うポイントに達しないという事。

無論、相手も言葉巧みに表現できれば

お互いになる程という所に達せますが、

言いたいことが言えないで詰まる相手には、

その真意をこちらから汲み取って上げないと

こちらの真意も理解しようとすらしません。

 

よく論破を目指す人は自分に不利な情報を隠そうとします。

その大半が相手の真意に該当する部分で、

そこを省くと心情的に対立しか生まないのです。

 

もう一つ議論で大事なのは、その論理の目的です。

ビジネスでは双方の利益、政治的な議論では社会の為、

科学では問題の解明と成るわけですが、

そういう目的が合致している場合は議論として成立します。

寧ろネット民代表の誰かように、

自分が勝つことだけ、自分だけが利するだけという

利己的な話の場合、目的がWINWINでないため、

議論としては成立しません。

そういう相手はさっさと処分した方が良いと

信長たまの様な過剰な人は考えるレベルです。

欧米の議論ではここの焦点は大事にされます。

日本ではこの焦点を教育上習っていないという問題があって、

政治家や官僚のレベルが低いのはそのせいでもあります。

 

大きな違いは

「お互いが何を目指すかで共有した上で、その方向性の違いを理解し合えるか」

 

「ただ単に相手を言いくるめて、自分が勝ち誇りたいだけなのか」

 

前者のそれは新たな発見で歩み寄る余地が生じるわけで、

これが出来ないと

地球上の問題を平和的に解決することは出来ない。

 

後者の方は勝っても負けても相手に嫌悪を覚えるだけなので、

結果日本の政治の様に

「揚げ足取り」など嫌がらせをしあうだけの関係にしかならない。

最終的には

頃合いを計ってどちらかを排斥しようと考えるしかなくなるのです。

「やらねばやられる」という心理しか働かない関係で、

国家間同士なら戦争になるだけです。

 

喧嘩別れしてお互い否定し合って

行きつく先は力でねじ伏せるのですから。

 

まあ、そういう原理を理解しようとしていても

一方が戦争するバカなら、

戦争するしかないという結論にも達する訳なので、

信長たまの場合、そういう理解をしてても

相手がアホなら殺した方が早くない?

と、さっさと処分する思考に向かう感じです。

まあ、当時の比叡山がそういう例で言えます。

 

※比叡山の天台宗の偉い方がお亡くなりになったようで

お悔み申し上げておきますが…

今の比叡山とはまた異なる話なので言わせていただきます。

比叡山の焼き討ちに関しては

当時の信長たまが謝る話では無く、

むしろ腐敗した比叡山が謝罪しろ

と言っておきます。

信長たまの子孫がイベントで謝罪したとかニュースで言っていたが、

そもそもがフザケルな!!というレベルです。

何故謝る必要性がある?

その人らの祖先の所業を否定するのか!!

それを比叡山が「許す」なんてフザケタ態度を取るなら、

再び信長たまは焼き討ちするでしょう。

これも社会秩序を目的とした議論で、

仏教の教えに反して腐敗した形の比叡山で、

宗教として社会の規範として成立するのか?

という事。

そもそもがそれに反した行為をしていたのだから、

また戦という殺生に伴う事に関わった事実も用いて、

仏門の教えに反した状態であった事は証明できます。

 

それを仏門に逆らうのかという「脅し」で

信長たまに返したのなら、

社会害虫と化したものを殺処分するのは当たり前。

全く話に成らない!!

仏門として社会の規範となる弁明をするべきだろ!!

その上でその腐敗した状態に根拠が有るのなら、

そこは認める部分が生じるかもしれないが…

そもそも弁明できる話では無いという結論。

ゆえに比叡山は被害者面したまま何も弁明していない!!

焼き討ちして腐敗を取り除かなければ、

比叡山は仏教の権威を傘に

腐敗した教えで世の中に存在し続けたわけで、

説法という議論も通じない状態で、

対話による解決は不可という事に成るわけです。

 

これに第三者が焼き討ちまではやり過ぎなのでは…

と、いう事を述べるのは良いです。

信長が天下を治めた後に、

比叡山の権威を政治的にはく奪する方法もあったのでは…

という議論も成立するでしょうが、

まあ、天下を取るまでの過程でそんな余裕はなかった、

浅井、朝倉を支援した比叡山を放置している方が、

寧ろ戦略的に難しくなったとも言える。

ただ、信長の統治者として社会的イメージが

悪く成らなかったのではといえばそれも一理ある。

ただし信長が天下を取れてからの話ゆえに、

実際に直前で本能寺の辺で死んでしまったのなら、

生きている内に腐敗を強制排除した事は、

寧ろ比叡山が仏門として適切な形に戻る意味としては、

妥当だったとも言える。

まあ、善道非道の議論で平行線を辿る話ですが、

社会秩序という政治的な議論とした場合、

では、

どうしたら対話によって比叡山を説得できたか?

という事では比叡山を説得して腐敗を止めさせる方法が

見つからない以上、

天下を取って権威をはく奪しても本願寺同様に

逆らって反乱することも想定できる話で、

遅かれ早かれ焼き討ちに成ったともいえる。

 

ここで「それでも焼き討ちは良くない」

と、道徳的に反論する人は話に成らない人です。

ここでは焼き討ちの善道非道の話は

既に議論の目的とは別になっているのですから。

 

議論の目的は

「社会的規範のため比叡山の腐敗を取り除く」

であって、比叡山の腐敗を焼き討ち以外で

「現実的に」取り除く方法が無かったのなら、

焼き討ち以外の方法は無かったと成るだけです。

まあ、当時の住職だけをを暗殺という方法なら有りですが…

 

道徳的に問題視する場合、

では、道徳的に問題の有りすぎた

比叡山を放置したままで良いの?

という対立を生じさせ、

更には社会秩序という目的の行動に否定を用いた事になります。

優秀な議論では焼き討ちや暗殺以外の方法で

他の選択肢を発想出来ないなら、

「ならば仕方がないかな…」

と、一旦議論を治めます。

その上で他に何かいい方法が見つかったならば、

「この方法はどうだったかな?」

と、再び議論に持って行くことも出来ます。

しかし、相手の行為を一方的に否定するだけの主張は、

寧ろ相手の真意を理解していないという所で対立するのです。

いわば道徳を用いて自分の善良な心を示しただけで、

相手には善意が無いという形締めくくったようなものです。

信長たまは社会的な善意を考えて、業を背負ったわけです。

一方は自分だけの善意を示して、

「いい人間」である事をアピールしただけで、

結果、社会的善意になる事は何も提示できない。

 

筆者がウイグル問題で中国をあまり非難しないのは、

ウイグル人が独立を主張してテロを起こす危険性が有るからです。

ウイグル人の人権だけを道徳的に考えれば、

独立させてあげた方が良いと簡単に言えます。

しかし、国家支配であり、社会的秩序の話を考えると、

ではスコットランド、北アイルランドの独立を考える人たちも、

そうさせれば良いじゃないかという議論になる。

バルセロナを含むスペインのカタール地域だって、

独立投票で成立したのだからという事にもなる。

 

しかし、秩序の問題は事は単純ではないのです。

 

ウクライナはソビエト連邦またはロシアから独立したが、

クリミア半島などで国境問題が生じた。

クリミアの人は結果選挙でロシアに帰属する道を選んだわけです。

その他ロシア語圏の人たちも一部でそういう動きを見せている。

元々ソビエト連邦時代に境界の線引きが微妙であった事もあって、

独立後に国境問題でお互いが対立するケースが考えられる。

ウイグルやチベットを中国から独立させても、

その後国境問題でより強力な敵対関係が成立するだろう。

そこに欧米が香港問題同様に中国との対立を生じさせるなら、

中国はそれを許すとは考えられない。

中国側の見解を理解すると第三次大戦が起こっても

中国はウイグルやチベットの独立を認めないと言える。

 

ウイグル人が過去に独立を目指して

中国にテロを行った事も考えると

中国化させるために矯正教育を施す考えもある部分理解できる。

ここが道徳的な話と、現実的な秩序の話の分かれ目である。

道徳的には矯正教育または強制教育は良くないと主張して

中国政府を非難する訳だが、

中国の統治に対する敬意が無い。

寧ろ中国の懸念を察して、

ウイグルの独立は支援しないという保証の下で、

中国のやり過ぎている部分を緩和する方向で話し合うべきなのだ。

こうした教育方法にやり過ぎが生じる部分は当然理解できている。

ただし、現実問題として道徳的な批難だけでは、

対話による解決は不可能ともいえる。

中国の懸念とは、ウイグルの人たちを自由にさせて、

欧米諸国と結託して独立運動を広める事にある。

中国からすれば

それは欧米諸国の戦略的策略とも考えるポイントで、

そこに疑義があるのなら

そんな話はアヘン戦争と同じ道を辿るから

絶対に受け入れないだろう。

中国にとって将来的に不利益しか生まない議論で、

例え冬季北京オリンピックが失敗に終わったとしても、

そこで生じるリスクよりもウイグルを独立させてしまう方が、

中国国内の秩序を考えたら大きな問題と考えるのも当然である。

 

これで中国を道徳的に非難するだけで何が解決するの?

 

ネット上というよりアメリカ連邦政府下院議長の

ペロシもこの程度の間抜けな議論しか出来ないのだから、

正直、仮にウイグルの弾圧が本当に酷く行われていた場合、

むしろウイグルの人たちが救われる状態は程遠い。

 

中国側の見識も理解する。

無知な情報の元では、

道徳的に中国の弾圧行為を許している様に見えるだろう。

しかし、現実的にウイグルの人たちが本当に困っているのなら、

道徳で自分を美化して何の解決にも成らない話を

延々と述べている方が寧ろバカバカしい。

 

オッサン先生に言わせれば、

「戦争するのか?それとも中国に対話の門戸を開かせるか?」

と、言う2択だそうで、

道徳だけで語るのなら価値観の違いで戦争にしか成らないのです。

 

比叡山と違って中国との戦争は大きな損失が出過ぎる。

それは経済的な戦争でも比較に成らない。

頭の悪い人は先ずはこの現実的な分析で考えて欲しい。

 

また、中国は比叡山の様に理屈無く

強引に抵抗している状態ではない。

中国は経済的に国際社会との繋がりは重視しているため、

そういう意味では対話は十分に成立する。

寧ろ、道徳的な話しかしてない

ペロシ(下院議長)程度のレベルでアメリカが纏まっているのなら、

そちらの方が対話が成立しない。

ある意味、焼き討ちする対象は、米国の軍事力を背景に、

対話の余地を消し去るペロシの方であると言える。

ペロシを信長の価値観で殺せば、

ウイグル問題は対話で解決する。

と、オッサン先生は言ってます。

 

ただし、バイデン大統領がちゃんと掌握してれば

焼き討ちといった非道な話は大丈夫な話で、

ペロシに流されず無視した方が、

民主党の支持率も上がるというものです。

 

戦争を無くすことって本当に大変な話で、

人類はそろそろそういう尊重し合う事の大切さ、

そして対話が成立する認識を

ちゃんと学べよって話です。

 

風と太陽の話を前にもしましたが、

オッサン先生の様にコロナ化でマスクをしない人に

「マスク付けてください」

と、言っても喧嘩に成るだけです。

「(法律上認められた状態で)何故お前の価値観押し付けられなきゃいけないのか?人が裸で歩いているかのように侮辱するな!!」

と、逆鱗に触れてしまいます。

こういう部分では戦争する気満々で、対話に応じる事はないです。

ある意味中国政府の姿勢にも類似して見える。

元々マスクしない人は

社会的な強制状態に反発心を持っているので、

個人選択の自由というデモンストレーションの意味も有って、

「マスクを付けてください」

という言葉は絶対に受け入れないものなのだそうです。

所が…

マスクを手渡されて、

「これ上げます」とか、「もしよかったら使ってみてください」

というやり方だと相手の言葉に「強制」が無いため、

じゃあ、ここは着けてみるかな…

って心を開きやすくなるそうです。

 

あるお店では

「店のルールでマスクの着用お願いできますか?」

と言われて、

「マスク売ってるの?」

と、聞いたらその店員は

「売れないので、差し上げます。」

と言った。

そういう場合、オッサン先生は快く従い、

お会計の際に、マスク代の代わりに

チップとして50円余分に渡して帰るのです。

価値観を共有する意味では、

こうしたGive&Takeも大事な事です。

 

実際に人それぞれが価値観を尊重し合う事で

対話の門戸は開かれるわけで、

自己主張をハッキリさせる独自の価値観ある人には、

特に大事なのです。

※自分の価値観を相手に押し付けるのはモラハラです。

 

キリスト教の教えを理解しているはずの欧米人が、

「自分を愛するように隣人を愛せ」

という言葉の本意を理解しきれてないのも不思議なんだけど…

 

因みに信長たまはキリスト教に入らなかったけど、

この言葉の真意を多分理解して、

キリスト教OKと判断していたと思います。

 

何故?改宗しなかったか?

 

だって尊重社会を理解できないアホは

処分しなければいけないから、

そんな綺麗事の枷に自分が嵌る事は出来ないと理解してたから。

だから法華経などの仏教も信仰しておらず、

寧ろ自分の所業を「大魔王」と称したほうが適切と思ったのでしょう。

 

魔王だから悪魔なのでは無いのです。

社会の為に魔王となるべきだから「天下布武」なのです。

そして社会が理解できるように布武することで、

尊重社会によって人々は安寧を得られれば良いという考え。

これを筆者は「魔仙」という意味で記しており、

まあ、ブログでも登場する「魔仙妃」の由来としているのです。

中国語読みだとモシャン・フェイって

かわいい名前に成るんだけどね。