【第二十三話 大は小を飲み込む 前編】桶狭間へのカウントダウン 残り13年
〔ドラフト版〕
戦国時代の下剋上を現代社会で考えた場合、自動車産業の変革に照らし合わせると面白いかもしれない。
ガソリン車の時代から、EV(電気自動車)へと変革していく中で、車作りの技術で圧倒していた大手が、新興産業に押し込まれつつある状態がそれを物語っている。
足利幕府という大きな力の下で、各地の守護はその力を堅持していた。いわばその家臣団がその守護に逆らう事は、幕府全体を敵に回す行為と成るなからだ。
所が、応仁の乱を得て、明応の政変にて幕府の権威が弱まると、地方に対する影響力は低下していった点は、ガソリン車が技術として絶対の時代が終焉し、大手各社が電気自動車という新たな技術で新興勢力と戦わなければならない状態に似ている。
ガソリン車という技術は新興勢力では太刀打ちできないほど、大手とでは技術差が生じていた。
それは幕府を中心とした中央集権の力の下では、その権力下でまとまる守護大名の存在は絶対であったと言える。
所が、中央集権の力失われ、力の連携が無くなった時点で、地方は独立した運営を余儀なくされていった。
電気自動車という新しい技術の獲得で、車製造分野で新たな地位を獲得できる機会が生じたと同様に、地方という小さく纏まった地域を得るだけで新たな勢力となれる時代が戦国時代の始まりである。
明応の政変で2つの将軍勢力に分散したことは、守護大名同士の連携にも分散を招いたわけで、隣の守護大名が敵方なら、隣の守護大名と連携して、自国の守護大名を引きずり落とすことも容易と成った。
また、今川義元の様に、そうした反逆を利用して他国を取り込むことも、斎藤道三の様に他国守護大名が連携してこない状態を利用して自らがその地位を奪い取ることも、戦略上やり易くなった時代と言える。
>第10話よりの続き
花倉の乱を経て、承菊こと太原雪斎は森山崩れより混乱した三河の情勢に目を向けていた。
北条家とは河東の乱(第一次河東の乱)で富士川以東を奪われたままだったものの、富士川を挟んで防備を堅め易くなった地の利を活かして東に備えた。
当時三河の情勢はかなり複雑化していた。
守護職は本来、吉良氏で、松平家は本来その下の守護代であるというよりも、小豪族の身から守護代職に当たる地位を獲得した身分と言える。
守護家の吉良氏は三河、遠江を支配する大名であったが、先の応仁の乱で吉良氏は東西に分かれて戦い東条と西条吉良氏に分裂して力を失っていった。明応の政変などで尾張の斯波氏と駿河の今川氏を頼って両吉良氏が復権を試みようとした結果、遠江の地はその二つの勢力が入り乱れ、結果として吉良氏は遠江の支配権を奪われた。
残った三河で復権を試みるも、東西で分裂したまま争い続けた結果、三河の影響力は松平氏に奪われていった。
正し外交上の権威は守護職として上手く残していたとみられ、尾張と駿河を動かす存在という意味で、三河の軍事面で支配していた松平氏を存在的に牽制した。
そうした状況下もあって、支配権を得た松平氏も、清康の死後、松平信定派と清康の嫡子である松平広忠派で分裂した状態が続いた。
酒井忠尚こと将監は信定の下で松平を纏めるべく画策したものの、不本意な形で清康が死んだため、寧ろ家臣団に清康に対する忠義が残存した。
ここで酒井将監(忠尚)という人物を考えてみる。
史実としては家康の祖父清康であり、父広忠、そして最後はその家康にも反逆した叛臣のイメージが高い。
家康側から見れば当然そうなるが、将監の忠義は当時の三河の英雄ともいえる松平道閲(長親)に注いでいた。
筆者は将監を先見の明のあった人物と考えるものとしている。
実際に三河という国が尾張(斯波氏、織田家)と駿河の今川と対等な国に成るためには国を団結させることが最優先で、西条と東条で別れた吉良氏の影響力を排除せねば成らなかった、もしくは統一せねばならなかった。
清康が東、いわば今川の方へ目を向けていた時分は清康が20代にも達していなかった頃で、その祖父・道閲(長親)や将監の進言通りに動いていたと思われる。
そうした中で東三河攻略で見せた若き清康の勇姿は多くの家臣団の信頼を勝ち取ることと成ったのかもしれない。
そうした家臣からの信頼に慢心し始めた青年期に達すると、それまで支えてきた長親、、叔父にあたる信定、そして将監らの進言を無視し始めるようになってきたと考えられ、そういう事から両者に隔たりが生じ始めたと考えてもよい。
今川と因縁のある長親と将監は、今川と対峙して結果遠江を追われた西条吉良氏を守護とみなしていたと考えられる。
西条吉良氏は応仁の乱時から、京都で将軍の近習として仕えていた事もあり、足利幕府の中でも別格な地位を得ていた。
その為領国経営はその家臣団に委ねていたと思われる。
駿河の今川氏の本流はこの西条吉良氏であったというほど、歴史的な血筋としては格式もかなり高い。
西条吉良氏は遠江の浜松壮を領していて、足利幕府の威信が有るうちは寧ろ安泰であったと言えるが、その威信が失墜することで、西条吉良氏の威信も陰りはじめ、領国を守るのに尾張の斯波氏を頼ったり駿河の今川氏を政治的に操る形で凌ごうとしたと思われる。
ある意味京に於ける幕府中央の役務で忙しかったと言える。
しかし、西条吉良の当主は京都にて采配を振るった形で、領国を任せていた飯尾氏、大河内氏を斯波氏と今川氏の遠江に於ける勢力的な都合で交代させるなどして乗り切ろうとした結果、最終的にはその本拠の浜松壮すら失ってしまう。
この際、今川氏親(義元の父)は自らの長女を吉良義尭に嫁がせる形で和睦したと記されている。
その後、将軍足利義稙の失脚で京都での居場所も奪われた吉良義尭は、残った三河で領国支配に専念しようと試みるが、実質の支配権限はすでに松平氏にあった。
それでも松平長親(道閲)らは西条吉良氏を主家として尊重する意識があったと思われ、そのもとで今川から浜松壮奪還を目指していたと考えられる。
一方の東条吉良氏は岡崎南の海側にある愛知県西尾市吉良町に東条城を本拠として構えていた。
東西の吉良氏の戦いは、一説には応仁の乱からとあるが、実際の戦闘で争ったというよりも寧ろ、領国経営の中での政争であったと考える方が良い。いわば代理戦争を用いて争う形であった。
いわば西条吉良氏が将軍近習として京へ出仕していた半面、東条吉良氏は三河の東条城の領国経営を担っていた。
吉良氏の正当性を求めての画策があったことは考えられ、特に明応の政変で別れた将軍家への立場を異することで、東条吉良が西条吉良の権威を貶めようと試みた点は否めない。
足利義材(のちの義稙)が1490年に将軍職を義政から継ぎ、1493年の明応の政変で失脚すると、一時的に東条と西条の立場が逆転したと考える。
三河で立場上領国経営を担っていた東条吉良氏は細川政元側の新将軍となる義澄派に与して、今川と手を結んだと察する。
三河の豪族松平氏もこの東西に分裂した吉良氏の間で別れた。
そうした混乱の中1506年から1508年にかけて、松平長親(道閲)は、今川氏親の後見人として参戦した伊勢宗端(北条早雲)率いる今川軍と対峙して見事にこれを退けている。
一方で松平宗家に当たる岩津松平家はこの戦いで岩津城を落とされ以後衰退し、その力は長親(道閲)の安城松平家に吸収された形と成った。
1507年明応の政変の首謀者である細川政元が暗殺れると、三河の情勢も再び流れが変わる。
1508年に義尹と改めた義材(義稙)の側近として将軍復帰に貢献した吉良義信(義尭の祖父)は三河の守護に任じられる。今川が三河侵攻を撤退したのにはこの経緯が何らかの影響を与えているともいえる。一説には松平の主流岩津松平家が落ちた為の撤退と言われるが、安城松平家の存在をないがしろにして考えられる状態とも言い難い。
ただ、伊勢宗端(北条早雲)を以てしても苦戦し軍の疲弊が著しかったと考えるなら、それを以て和睦とした事は十分に考えられることと、その戦いで遠江に於ける斯波方への尾張からの援軍が防がれた点で、今川が遠江での支配権を大きく獲得したことが考えられる。
西条吉良当主の義信は、将軍義尹(義稙)の近習として京に滞在したままであった為、本拠の浜松壮を守る意味で、今川に遠江の守護職渡して和睦とした。これらは資料を総括すると正当な流れとして十分に考えられる。
その際に、西条吉良氏は斯波氏と結んで浜松壮を守っていた大河内定綱から今川側を支持していた飯尾賢達にその奉行職を交代させ上手く難を逃れようと試みたが、1510年遠江の支配権をめぐって斯波義達が攻めてくると大河内定綱はこれに呼応して共に争った。
結果、1516年この戦いで斯波義達は捕らえられ、大河内定綱が滅ぼされると今川方に遠江の支配権が完全に移り、恐らくその和睦条件として飯尾賢達の今川への被官を承諾させたと思われる。
中央の将軍家が細川家の相続争いに巻き込まれて混乱していることは既に地方にも知れ渡っていたと思われ、将軍の側近として本来権威を振るえる立場の吉良義信は今川氏親に誑かされた形でその本領である浜松壮を奪われた。
記録では1516年に嫡子吉良義元の急死を理由に、義信はその嫡男義尭に家督を譲ったとあるが、恐らく吉良義元の失態により浜松壮が奪われた形となり、その責を取って自害した可能性は考えられ、その失意の下、義信は隠居したと考える方が流れとしては成立する。
こうした流れから東条城という本領を堅持している東条吉良氏の三河に於ける権威は、西条吉良氏より評価されたとも考えられる。
勿論、道閲(長親)や将監は西条吉良氏の権威を知る世代で西条の吉良義尭を仰ぎ、今川とは敵対し、寧ろ尾張の斯波氏、織田家と上手く付き合う方針にあったと察する。
しかし依然、西条吉良の当主は足利義稙(前義尹)が将軍職にあるうちは京に滞在していた為、東条吉良氏が名目上三河の守護として見なされていた可能性は十分にある。
松平清康の父、信忠は今川の三河侵攻の際には家督を継いでおり、年も16歳と若く、伊勢宗瑞(北条早雲)との死闘がトラウマとして残った可能性もある。その為、今川との戦いには消極的な立場をとったとも考えられる。
考えてみれば初陣にも近い戦で、松平宗家の岩津城が陥落するほどの激戦だった。
ゆえに普通に考えればPTSDに掛かっても不思議ではない。
寧ろ松平長親であり、酒井将監が如何に優れた武将であったかを
評価されるべき戦いだ。
何せ相手は、のちの北条早雲だったのだから。
結果、今川は後にもこの酒井将監を松平家とは別格の扱いをしたほど敬意を表したことでも察しは着くと言える。
トラウマを抱えた事で松平信忠の判断は寧ろ三河の家臣団を分裂させた。
いわば浜松壮の一件である。
三河を守る上では、今川の方が斯波よりも遥かに脅威であった。
無論、この時分に信長の父・織田信秀はまだ尾張で台頭していない。
ゆえに将監ら西条吉良派は、大河内、斯波と結んで浜松壮を取り返すべきと睨んでいた。
無論、西条の吉良義信は今川寄りの飯尾氏に奉行職を任せている。
しかし、1508年から陥落する1516年までには8年の月日があり、その中で動く情勢は日に日に変化している。
寧ろ、京に居座る当主の義信が、実際の現場を知る由もなく、当人は幕府再興で忙しかった。
ゆえに守護である上からの命令はないにも等しい。
そうした中で三河は三河で決断せねば成らなかった。
一方の信忠に家督を譲った長親(道閲)は複雑だったともいえる。
ある意味、守護職からの指示が一切ない状態で、勝手に動くのは不忠に値しないかという錯誤もあったと言える。
無論、戦略的な部分では将監らの主張に同意していたわけだが…
そうした中で今川と結ぶ東条吉良氏が信忠を上手く懐柔したと言える。
信忠自身が今川との戦にトラウマを抱えていた分、取り込みやすかったとも言える。
そこで浜松壮の三河関与を断念させて静観させる提案をしたのだ。
三河国内の序列で考えるなら、一応は西条吉良氏を最上位と扱い、その下に東条吉良氏、そして松平家で安城松平家がこの中の主家と成る。
西条吉良氏から何の通達もないのだから、三河は動くべきではないと言われれば、それで動けなくなる。
無論、今川氏親が浜松壮をそれで搾取しなければ、信忠の判断に異論をなすものは居なかったかもしれない。
所が結果として浜松壮はまんまと今川に搾取されてしまった。
無論、飯尾氏が今川に被官しただけの話なら、明確に搾取されたとは察しにくいかもしれない。
しかし、すぐさま浜松壮を廃して引馬城の管轄としたことで、寧ろ西条吉良氏から今川に移ったことが明らかと成った。
岩津城の陥落で、松平家の地位が岩津から安城に移ったように、浜松壮の陥落で西条吉良の地位は守護職として陥落した印象を与え、寧ろ本拠を守っている東条吉良氏が正当な三河の守護として残った意味をも為す。
ある意味この流れで西条吉良義信の嫡子義元の動きを想像すれば、今川と交渉の末、飯尾氏と共に浜松壮を維持してほしいと願ったが、今川が聞き入れず、結果その責を取って自害したと考えられる。
その流れで体裁の悪くなった今川は、その後で義信の後を継ぐことと成った義尭に政略結婚を持ち掛けてこれを成立させたとも考えられる。
実際に西条吉良氏は長親や将監らの思いを知ることなく、浜松壮が無くなったことで東海での権威は既に無くなったと認めてしまったのかもしれない。
ある意味、下剋上の最中にあった京での惨状を知る上では、自ら軍を率いて赴けない現実を踏まえて、早々と諦めたとも考えられる。
そうした流れが自然と三河の中にも浸透し、次第に東条吉良氏の権威はより強くなっていく。
しかし、浜松壮が奪われたという事は、西条吉良家臣団としての意識を持つ将監であり、長親のもう一人の息子信定からすれば、信忠はさぞかし暗愚に見えたのだろう。
無論、結果として信忠の決断は愚かに感じるが、自らの嫡子で家督を譲った長親(道閲)は些か迷ったのだろう。
1516年の浜松壮陥落から1523年に信忠の嫡子である清康が家督を継ぐまで7年の猶予を与えた形と成る。
その間、結果信忠では三河の分裂を収拾できないと判断した。
しかし、将監らが求める信定ではもう一方の家臣団、おそらくこちらには信忠と信定の弟の義春が存在したとされ、義春は東条吉良持清の家督相続の後見人だったとされる人物で、逆に纏まらなくなると考えた長親(道閲)は、あえて東条吉良持清を交えて清康に家督を与えることで何とか家中を収拾したのであった。
この時、清康こと清孝はまだ12歳であり、その後見人には信定と将監が着くことでまとまったと考える。
以後、後編に続く
どうも…ショーエイです。
うつけの兵法 最新話を更新しました。
まあ、世の中色々ありまして、
とりあえず宦官野郎は姿を消してくれるので、
先ずは良しとします。
ただ、自民党では何も変わらないと思うけど、
かといって野党は全く主張に元気がない。
日本は政治的に残念な国です。
新型コロナ…収束?
嘘つけ…検査数減らしてるだけじゃ!!