うつけの兵法 第二十六話「親父(おやじ)と義父(おやじ)」前編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第二十六話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+5

〔ドラフト版〕

 

 吉法師の元服前の信秀の動向は、北は美濃、西は今川を相手に立ち回った記録となる。

 1542年には「信長公記」の記載では第一次小豆坂の戦いで信秀が勝利したとあるが、実はその「信長公記」以外の資料ではその実態が記されていない。

 いわば全話の通り松平信定の後継者、松平清定を支援しての戦いで安祥城を支配した訳ではない。

 ただし斯波義統の名を大義とした戦いであったことを全話に伝えたように、後世の信長には尾張斯波が西三河を押さえたという形で伝わっていたのかも知れない。

 歴史の伝わり方というのはある意味このように曖昧な伝承も含まれることを理解しておく話であるのだ。

 時節と照らし合わせてこれをNATOとロシアのウクライナ介入で見てみると何気に類似した勢力支援が伺える話だが、いずれにしても戦乱時代の産物というのが現在の見方としてほしい。

 どちらが正しいかではなく、今川織田の様に完全に相容れぬ時代ではなく、経済的な繋がりを以て解決できる現代では、むしろ双方の意識が平和的に向かう事を望むだけの話である。

 

 そのNATOとロシアの話同様に、双方が直接ぶつかり合う緩衝地帯を三河に求めたというのは戦略心理上大事なことである。

 今川とすれば東の北条との緊張状態が終わらない時期で、信秀としては次に尾張全体の戦として美濃に備えなければならない時期であった。

 この戦略心理という点で、ロシアを信秀側の視点に照らし合わせてみると、三河を東欧全体で捉えた場合、位置的には逆だがウクライナやベラルーシは西三河に該当する。

 NATOがポーランドであり、バルト三国にミサイルを配備するというのは、ある意味今川が軍を岡崎に入れたような話に成る。

 その上で西三河を攻略し始める動きは正に死活問題で、完全に直接対決を意識させる緊張状態と成るのだ。

 仮にお互いが平和的な形で不可侵を誓うのなら、むしろ相手が緊張してしまう状況を緩和しておくほうが望ましい。

 いわば三河が緩衝地帯となって、お互いの敵対心理を増長させないようにするには、双方が軍事的な支配をその地域で放棄する方が望ましいのだ。

 寧ろ軍事的な支配または支援として軍を入れる事は、相手との距離間で突発的な戦争に対応せざるを得なくなるのだ。

 緩衝地帯を設けていれば、いわば今川が遠江から軍を発しても三河を通る間の時間で対応を考えられるわけで、緩衝地帯がその時間の猶予を考えさせる場所となる意味を持つのである。

 ある意味、ミサイルがポーランドから発射された場合、ロシア圏に到達するにはロシアはその数分で迎撃処置が取れるのだ。

 しかしそれがベラルーシやウクライナに成ると、迎撃できる時間はほぼ無くなってしまう。

 この点を理解した上で平和的な緊張感を考えていかねばならないと筆者はお伝えしておきたい。

 国際社会の調和の意味で、欧米の意見だけでは欧米の横暴を許す話になるだけという意識が、当然中国やロシアにあってもおかしくない点を理解した上で、こうした問題を解決しなくてはならないのだ。

 寧ろ民主的な意識の中では、中国やロシアの視点も欧米の視点も対等に議論されたうえで国際的な解決に結びつける方が、一方的な意見による支配から逃れられるという事は理解した方が良い。

 

 さて、話を戻して信秀は三河との緩衝地帯が維持されたことで、暫くの時は東を意識しなくてもいい状態になった。

 このころ尾張全体は大きな局面を迎えていた。

 美濃の斎藤道三が幕府守護職である土岐頼芸とその子の頼次を追放して美濃の完全支配を敢行したのだ。

 下克上の世界では当然の成行と、道三側の視点から見れば理解もされるだろう。

 ある意味、専務によって会社が上手く回っていた中で、無能な社長が欲に任せて勝手に動き出したら、会社の為にその社長を排斥したくなるのは当然の話だ。

 しかし、外部からすればその内部混乱の話は付け入る隙として見なす絶好のタイミングだ。

 その意味として道三の行為をある意味、反幕府行為としたのである。外部の目線で言うならば、ロシアのクリミア併合に対するものも同じだが、革命という意味では軍事革命を引き起こしたミャンマーに対してに近い。

 無論、ミャンマーの軍事支配は大きな過ちであるという意識に筆者も変わりは無いのだが、民主派のスー・チー氏が手順を早まったという点は否めない。

 それは彼女らが軍部を敵扱いにして政策改革を望んだからだ。

 土岐頼芸も斎藤道三の支配に反感を持つ家臣の意見を聞き入れて、その専横を排斥しようとした事が事の発端であろう。

 寧ろ現代の国際社会の目線同様に、幕府側の目線で見れば斎藤道三は守護職の指示に従って、支配権を放棄するのが当然と見なされる。

 それに反したことは、幕府の大義を掲げて美濃攻略を考える勢力が出てもおかしくは無いという事になる。

 ただし何度も言っておくが、これは戦乱の時代ゆえに支配欲望による大義の利用が当然であった時代の話で、戦乱の歴史に終止符を打つべく現代、いわば日本国憲法にも記載された意味で「平和を希求する」意味では、こうした情報はもっと丁寧に扱わなければならない。

 ミャンマーのケースは、寧ろスー・チー氏を焦らせた欧米の諜報機関の失態…いわばミャンマーの民主化を急がせた結末と伝えておこう。六韜で有名な太公望ならスー・チー氏に、このような急かせた事はさせなかっただろうという点は伝えておく。

 欧米がそうしたミャンマーの平和的な革命を支援する形で取った事はロシアがウクライナを考えるように、中国としても戦略的に好ましく考えないのは当然で、むしろ軍事政権の維持を許してしまう形に成るのなら、欧米の活動は無策無能で無責任なモノであったと断じるしかなくなる。

 

 こうして様々な視点を解説しているのには実は理由があるのだ。

 基本、読み手は自らの印象的先入観で善悪を考えてしまう。

 土岐頼芸の行動を、斎藤道三の存在と比較すると、頼芸の行為を理解する方は少なく、寧ろ無能者として道三に淘汰されて当然と考えるだろう。

 そこをもっとその時代に入り込んだ視点で、この問題を考えてみてもらいたい。

 尾張などまだ斯波家を守護として立てている勢力からすれば、室町幕府の政策に順応して対応する事が当然の認識となる。その幕府の政策を崩してしまう様な道三の行為が当時如何に秩序を乱す行為として理解されるかをよく考えてみて欲しい。

 それを踏まえたうえで、吉法師が父親の敵方ともなるはずの斎藤道三を認めていた点を逆に不思議に感じてみるべきなのだ。

 本来当時の視点で考えれば、逆賊の斎藤道三はそれを悪とした尾張の視点で見ると認められない存在となる。

 後にその道三と姻戚関係を以て同盟するなどという事は、反逆者と同盟したというレッテルをも貼られる話となる。

 人間の意識の中で悪と決めつけてしまった相手を中々信用できないというのは当然であり、信秀の織田家中の中に於いてもそうした議論に及んでいた状況は想像できる話として先ず理解してほしい。

 日本人でありアメリカ人でも、欧米側の視点で見ればロシアのプーチン大統領を悪と決めつけて信用できないとするのもそれに近いのだ。

 しかし、史実でもあるように吉法師こと信長は、後にその道三を信頼して、その援軍に自陣の防衛を任せるような判断までしている。

 後にこの経緯は解説するが、その上でこの時点の道三の話は、他の尾張の視点とは違った意味で吉法師に伝えられていたと考える方が面白いのだ。

 

 こうした現象を不思議な出来事として精査して見ると、道三の真意を別な形で吉法師には伝えられていたと考えるのも大事なこととなる。

 無論、野心家としての才覚が有った故に、その才覚で道三の行動を肯定していたという事も考えられなくはないが、実際に吉法師がこの出来事に遭遇するのは10歳前後の話で、心理学上まだ自我が確立する前の段階で、親や周りの影響を受けやすい時期であったことを考えれば、誰かが吉法師の視点に影響力を与えたと見る方が現実的となる。

 その影響力を施せる人物は、平手政秀、沢彦または佐久間盛重も含まれるが、一番大きな存在は織田信秀だったと考える。

 

 信秀は道三との戦の前に那古野を訪れて、嫡男吉法師を膝に抱えて不思議と戦前の覚悟を語って聞かせた。

 信秀からすれば大戦で勝てる勝算は無く、自らが命を落としてしまうかもしれないという覚悟の上でのものだった。

 それだけ信秀は道三の才覚を認めていたのだ。

 

「道三はこのご時世で思い切った事をしたものだな…」

 

 信秀はそう吉法師に語り掛けるように話し始めた。

 信秀は寧ろ敵となる道三に同情したようにも聞こえた口調であった。

 それは信秀自身も様々な形で主家である大和守家と再三にわたって反抗してきたからだ。

 それでも主家を亡ぼすという不義までは為しえていなかった。

 その反抗の一つが那古野の一軒であり、那古野を調略して落した信秀に大和守家が引き渡せと迫った事件も思い浮かべられる。

 信秀の元々の支配地は津島付近の尾張西側である。

 それが東側にまで勢力を拡大したのだから無論尾張支配権をめぐって主家と揉めるのは理解できる話である。

 もちろん尾張国内における弾正忠家こと信秀の財力は大きく、それ故に主家大和守家との戦でも優位に立てた。

 しかしそれでも信秀は主家を亡ぼす様な戦い方はせず、大和守家が手を引くまでの防戦という形で抵抗して、尾張に於ける信義、いわば反逆者と成る事は避けたのだ。

 それだけこの下克上の時代でも不忠に値する行為へのリスクを意識せざるを得なかったと言える。

 いわば反逆者として尾張国内に敵を作る事は、いくら財力が有っても孤立し、そして東の三河松平に今川まで相手に生き残らねばならない。

 明瞭な頭脳の信秀ならそのリスクの大きさを十分に理解していただろう。

 ゆえに道三の行動には一目を置いてみていたのだ。

 それは吉法師にもそれとなく伝えられた。

 勿論、10歳の吉法師にはその時点でその真意を理解する事は難しい。しかし、天才たちの記憶の中にはその言葉が後に鮮明に残って、(親父は前にあんなことを言ってたな…)と、何かを判断する情報として残存するのだ。

 逆にこうした言葉をその言葉通りに理解できる子供いるだろうが、残念な事にその子は寧ろ天才には成れないのだ。

 一般的に神童として見なされるのは後者の方だろう。

 しかし、それは忠実に飼い主の言いつけを覚えてくれる犬と一緒で、野性的自分の判断で動く猫…言い換えれば獅子とは成らないのだ。犬で例えるなら忠犬と、野性の狼の違いとでもしておこう。

 

 織田弾正忠家の家中に於いては、この二つの違いは信長である吉法師と後の信勝(信行)こと勘十郎の違いで見れる。

 勘十郎なら、信秀の言葉をそのままの意味で

 (道三はの行動は思い切った事をした行動なのか…)

 と、理解してしまう。しかし、何が「思い切った行動」として考えずに、ある意味他の情報と合わせて、「主家を裏切ったという思い切った行動」としてだけで認識してしまうのだ。

 実は勘十郎の様な認識は一般的で、こうした思考で言葉通りに理解する人間は情報に洗脳されやすい。

 ただ語り手としては、勘十郎の方が勉強熱心に話を聞く姿勢に見える分、一般的には好感度も高くなる。

 逆に吉法師の場合…アホに見えるほどボーっとその言葉を聞いているだけだ…ある意味、猫に「お手」を覚えさせようとして「その躾」事態に全く興味を示さないのと同じだ。

 しかし、人の好みによりけりだが、子供を可愛いものとして見た場合、吉法師の方が愛嬌ある反応に成るのだ。

 いわば、吉法師からすれば「道三が思い切った行動をした」という事に今、興味は無いのだ。

 ただ、親父が「道三が思い切った行動をした」と言っていたことだけは何故か記憶出来てしまう。

 そしてここが天才という意味で後に大きく異なる点に成るなのだが、道三という人物を自分で判断する時=興味に直面した際、親父こと信秀はこういう評価をしていたな…と自分が精査する際の題材の一つとして、その真意まで考慮して用いるのだ。

 ゆえに分析を以て相手を計る意味での「情報」であって、その言葉を真に受けて自分の判断の基準とすることは一切ないのだ。

 

 勿論、信秀は賢者ではない。

 ただ、直感的にどちらの雰囲気がリーダーに向いているかを見極めた際、人の話をある意味真摯に聞いてそのまま取り入れる勘十郎より、自分勝手に動きながら不思議と領内で実績…いわばこの物語で登場したエピソード治水や水田開発といったものが齎されていく…無論そこには政秀ら家臣団の苦慮も有るわけだが…それらを踏まえて考えれば吉法師に不思議な神秘性を感じさせるものがあったという点は否めない。

 寧ろ史実的現実としても、このような不思議が存在するゆえに信秀は吉法師に惹かれていたと言える。

 

 しかし、信秀が死ぬまでどちらを正当後継者にするかで迷っていた点は最終的な結末で見られる部分として残るゆえに、信秀の心情に葛藤があったことは否めないのだ。

 ある意味、吉法師が何の実績も残さずにただ普通に嫡男として勉強にも励まない「うつけ」として過ごしていただけなら、むしろ勘十郎の方が優秀に見えたであろうし、家臣団の評価もあって吉法師は寧ろ廃嫡されたとしても可笑しくはない。

 参謀的存在の林秀貞が勘十郎の才能を後押ししていたのは明らかで、信秀直属の評価は明らかであったと考える。

 その上で、吉法師の家臣団が那古野に何らかの実績を積み上げてその評価に対抗していたと考えるのが妥当な状態となる為、物語で上げたエピソードはフィクションであってフィクションで無いと考えて欲しい。

 この経緯なく信長の才能は現実的に30代前に開花するのは難しく、政秀無くした信長側が、本来信秀直属となる正規軍に対抗できる団結力を得ることは難しい話に成るという点で理解してもらいたい。

 ただし、史実に記録が無いゆえに、現実想定として設けたフィクションである事は変わりない。

 

 信秀は膝に吉法師を抱えたまま、ひたすらに語り掛けた。

 

「さて、その道三がこの状況をどう戦うか見ものだな…」

 

 吉法師は信秀の言葉をボーっと見上げるように聞いていた。

 まるで飼い猫に独り言を語り掛けるような感じだ。

 むしろ勘十郎の様に真剣にかしこまって聞いてくれるより、むしろ吉法師の様な反応の方が親として可愛げがあるのかもしれない。

 そして信秀は、

 

「その道三にワシが勝ったなら、吉法師よこの父を誇りに思ってくれ」

 

 いわば、信秀は一目を置く斎藤道三との戦いにその覚悟を吉法師に伝えたのだ。

 1542年前後の出来事で吉法師はまだ10歳にも満たない8歳ぐらいであった。

 ゆえに深い意味を察する事は無かったにしても、信秀の覚悟の言葉は、むしろ斎藤道三は凄い人物という印象で残ったのだ。

 信秀は道三を相手に負けて死んでも、父を恥と思うなという意味で息子に伝え残しておきたかったのだろう。

 ある意味、この意味は吉法師の興味に触れたのだった。

 それは単純に子供が戦隊ものや、アニメの格闘シーンに興味を示すのと同じである。

(相手は強敵、その強敵に親父殿(信秀)はこれから戦いを挑むのだ…何か凄いことだ!!)

 そういう意味で吉法師は信秀の言葉を理解した。

 

 もし、仮に信秀が斎藤道三を悪者として、馬鹿にして吉法師に伝えていたのなら、吉法師の道三に対する印象は違っていたともいえる。

 歴史を紐解く心理上の流れとは、こうした些細なことで変化する。

 ゆえに子を持つ親は、自分の言葉一つ一つが子供の将来に大きな影響を与える点は意識しておくべきと言える。

 

 そして暫くの時を吉法師ら共に那古野で過ごした後、こうして信秀は斎藤道三との戦いに挑んでいったのだ。

 

 その斎藤道三の形勢は圧倒的不利であった。

 南からは斯波義統の大義の下で土岐頼芸を支援する形で、弾正忠家、大和守家、伊勢守家と織田の勢力が総集結して向かってくる。

 そして西からは頼芸の美濃先代守護である頼純、いわば道三が頼芸を祀り上げて実権を握った際に追放した人物で、その後に越前の朝倉を頼った経緯の持ち主であり、その朝倉がそれを大義に尾張と連携してこの戦いに当たったのだ。

 

 いわば二方向からの敵を迎え入れる所業ゆえに、見方によっては道三の美濃簒奪は失策と成ったともいえる事態だ。

 普通に考えれば馬鹿にされても可笑しくはないが、信秀は道三には恐らく勝算あるという点を見抜いていた。

 それは美濃の地形で、東美濃に行くほど山々に挟まれ渓谷上となっていく為、その影響から西と南は自然と合流して向かわねば成らなくなるからだ。

 いわば稲葉山城を起点に美濃は双方からの攻撃に対して守りやすくなる。

 将棋で言うなれば「穴熊」という戦略だ。

 

 南の尾張斯波軍は、今の尾張一宮あたりに集結して作戦会議を開いた。弾正忠家のほかに大和守家、伊勢守家も総集結したものである。

 ある意味、この戦いは織田大和守家が威信を掛けて挑んだ戦いとでも言うべきものであった。

 一次資料として残る「信長公記」「美濃国諸旧記」にも尾張の主力は織田信秀と成っているが、いずれも信長の系譜を主体に見なされた記述故に無視して考える話とする。

 現実的に朝倉をその同盟として動かすには、まだ斯波氏の名目を必要とするため、尾張方総大将かつ、戦の発起人は織田大和守信友であるとしなければ説得力がない。不明瞭な資料の関係上、先代の織田達勝であった可能性もあるが、むしろ尾張の実権と忠誠を計る意味でこの戦いに挑む意図も加え、更にその後信秀の古渡を急襲するという出来事に繋げて考えるなら、信友の方であったと考えて妥当となる。

 ここには複雑な尾張の事情も反映して考えるとより面白い。

 上記の通り達勝からその養子として大和守家を引き継いだ信友は、大和守家の重臣、坂井大膳、河尻与一(左馬丞)、織田三位らの三頭政治の傀儡として擁立されたと考えてもいい。

 いわばその三頭が尾張の実権を握る意味で、守護代大和守家の影響力を試した形として考える。無論、戦の名目は斯波義統の名を借りての話となる。

 政治的な意図があったとはいえ、その時分に逆賊として美濃の斎藤道三が台頭してきた事は好都合な題材であった。

 またその逆賊討伐を名目に、越後の朝倉と連携する形まで結び付けた点は、この三頭政治が無策であったという感じではない。

 それ故に尾張の諸侯はこの戦に集結せねば成らなかったと言える。

 織田信友を総大将として担ぎ、その指揮権は恐らく坂井大膳にあったと誰もが感じたであろう。

 坂井大膳は尾張諸侯の参加状況を

 

「織田弾正忠信秀、兵5000…」

 

 と読み上げながら、その作戦会議の議長として自分が主導する存在であることを諸侯に知らしめた。

 作戦は漠然とした形で、古今の定石を用いて、尾張一宮の現在の拠点から北上して美濃との境界に当たる笠松(名鉄名古屋本線笠松駅と木曽川堤駅の間)で木曽川を挟んで対峙するというものであった。

 無論、坂井大膳の構想では稲葉山城攻略までは視野に入れていない。寧ろこの戦いで尾張の主導権を自分が握っているという証明が出来れば良いと考えていたのだ。

 ゆえに戦は古今の定石で、川を挟んで一進一退を繰り返し、朝倉の方の援軍の状況次第で稲葉山攻略までを判断すると考えていた。

 そういう全ての状況を見越して、尾張国内でも今川とやり合うほどの戦上手で知られる信秀はこう提案したのだ。

 

「主力はここから稲葉山へ北上する形ならば、朝倉の援軍と合流する役目を我々が引き受けましょう。」

 

 ある意味、朝倉の援軍の手引きという大膳の作戦からすれば脇役を買って出た形で信秀の提案は聞こえたのだろう。しかし、戦上手の信秀故に何か裏があるのではと疑わざるを得なかった。

 

「いや、弾正忠殿には主力として笠松で奮闘してもらいたい…」

 

大膳は一応、そう切り返した。

しかし信秀は、

 

「むしろ我々が勝幡より北上して朝倉と合流することを考えられたら、敵がどう判断するかを描いてみてください…」

 

 信秀は恐らく道三なら「穴熊」でこの難局を切り抜けるだろうと見越していた。寧ろそうでなければ美濃は遅るるに足らない存在なのだ。

 その遅るるに足らない形で坂井大膳が考えるであろう、むしろ自分と同じ考えを気付いているのなら、一目を置く存在として見なすという意味で鎌をかけた…

 

「なるほど…そうなれば美濃の笠松への対峙は手薄になるという事か…」

 

 大膳は戦を定石から判断する典型的なタイプだ。

 故に、定石から相手の綻びが見られるなら得策と考える。

 更に信秀は調子よくこうも加えた。

 

「道三の所業は断じて許すまじきもの、ここは斯波の旗の元で美濃を攻略して天下にその力を知らしめるべきと存じます。」

 

 無論、信秀の腹の底はそんな事微塵も感じてない。

 しかし、この言葉は大膳ら尾張の支配を考えるものからすれば、捨て置けない言葉に成る。

 いわば自らの器量を示さねば成らない言葉なのだ。

 そして信秀が伝えた様に稲葉山を見事に攻略出来たなら、ここで指揮を執った大膳の権威は尾張国内で示されることに成る。

 実際に、敵である斎藤道三が失態を犯して稲葉山城を失っていれば坂井大膳という存在は歴史的に別物として評価されたと言える。

 ただし、信長が桶狭間で今川を打ち破ったような器量までは無く、どの道運よく歴史が変わっても、今川に駆逐され斯波の名と共に消えゆく存在となる事は否めない。

 寧ろこの戦で斎藤道三という存在が有能であった事は、歴史的な事象から運が悪かったのは今川義元と成ってくる。

 

 坂井大膳はそこまでという言葉として信秀の提案に器量示し、

 

「ならば是非もなし、その忠義の心見事に示されよ」

 

と、信秀の作戦を受け入れた。

 信秀は更に付け足し、

 

「恐縮ながら死地を選ぶわが軍に、奮闘する士気を頂きたく考え攻略は切り取り次第でご了承いただきたいが…」

 

信秀はしたたかにこう述べた。

 無論、大膳は自らの器量を示して当然と考えた。

 

「勿論、好きに為されよ…おおいに奮闘して頂こう!!」

 

 更に信秀の脇で参謀として同席した林秀貞が、その言葉に、

 

「これで朝倉方の援軍に対しても斯波の義が伝わる事に成りますな。」

 

 と、付け加えたのだった。

 秀貞の言葉は、その真意をより鮮明に「斯波への忠義」という意味で印象付けたのだ。

 寧ろ余計な勘繰りが入って、この作戦を他の者に任されても困るわけだし、むしろ作戦が認められなくなる事態では、元々の狙いが無に帰するからだ。

 そういう抜け目のない才覚をこの林秀貞は持っているのだ。

 

 大膳はこの軍議で気分が良かったことだろう。

 尾張をこれから自分の権威で支配する上では、その器量が大いに評価されるだろう状況は好ましい。

 無論、それでも三頭の一角、河尻与一は大膳に今しばらくの吟味を促した。与一の再考する話は勿論大事なことだが、むしろ三頭政治であることがそれを邪魔したのだ。

 大膳は与一の耳打ち、

 

(この場で優柔不断な回答は、むしろ今までの大和守家と変わらなくなるのでは…)

 

 いわば、優柔不断にダラダラとした形で、尾張斯波家は過去に遠江を失い、大和守家に至っては権威を失墜させてきた。

 三国志演技などでも記されるように、史書としても優柔不断は反董卓連合に見るような袁紹を想像させる。

 そういう様々な知識からも、ここは自らの器量によって明瞭な決断が下される改革が行われた点を示すべきと判断したのだろう。

 無論、そういう論理で三頭の一角である河尻与一の思慮を封じるという腹も加わってのことだ。

 

 信秀らは本体の了承を得た形で、自陣の有る勝幡へ向かい、ここから北上して大垣を目指す準備に取り掛かった。

 信秀は秀貞に、

 

「はてさて…大膳が道三を甘く見ているのか…それとも我々が道三を買被っているのか…ここが見極め時だな…」

 

 と、軍議の事をそう語りかけた。

 

「もし、我々が道三を買被っている状況ならば、朝倉方の主力に大垣を攻略させれば良いのです。」

 

 と、秀貞は答えた。

 そして、

 

「その時は私が語った意味で、朝倉に対する義理を示せば問題有りますまい…」

 

 すると信秀は、

 

「後は、大膳の器量次第で尾張の行く末を図ることになるか…」

 

 と、あくまで臣下の立場であることを伝えている。

 信長への遺伝的な先入観で信秀を見ると、野心家のように感じる人も多いかもしれない。

 しかし、信秀は斯波家の臣下としての立場を考える事はしておらず、むしろ領土拡大を目指す野心は、尾張斯波家を盛り立てて行ける者が居ないのなら、その補佐する地位を自らが勝ち取る必要性があるという意味で担保していたと考える方が信秀の真意としては現実的になる。

 いわば信秀は歴史にその名を斯波家再興の名臣として残せればよいと考えていた訳で、自らが名君となる事は考えても居なかった。

 ゆえに過去の大和守家との戦いでも相手を亡ぼすまではしなかったのだ。

 もし、坂井大膳が名臣としての器が有るのなら、大膳と共に斯波家の再興と繁栄を目指しても構わないと考えていたとも考えられる。

 その上で自分の地位向上を図るなら、織田の血脈を利用して、吉法師か勘十郎の何れかを大和守家の養子として継がせる形をも思い描いていた事は否めない。

 

 しかし、それもこれも全てはこの戦いの行く末に寄るところであり、現状その分かれ目は大膳にはなく、むしろ斎藤道三の戦い方によるとこである。

 次に続く…

 

この話では信秀の野心の部分が語られたわけですが、 

実際は信長たまも含めて

自分が頂点であるという意味での

野心はなかった事を知っておいてほしい。

 

誰もがそうであるように、

平穏に自分が正しい形で何かに貢献できれば

それで良いという考え方なのです。

 

その考えを汲み取ってくれる、

理解してくれる人間が上に立ってくれていれば、

その中で遣り甲斐をまたは生き甲斐を

見出すには十分なのです。

 

ただし、諸葛孔明がそうであったように、

孔明の才能を理解し、

孔明の才能を有意義に使いこなせるのは、

劉備玄徳しか居なかった。

曹操でも孫権でも、孔明は使いこなせなかった。

孔明の奇想天外な発想の行く末に、

絶対的な世界観が存在する事を想像するには

先ずもって相当難しいと言っておきます。

 

「現世界において国連の下でアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合しなければ、世界は上手く纏まらない。」

 

この言葉にあらゆる要素や現実的な意味が含まれることを、

普通の人が理解できるか?

 

ここで、何でアメリカ合衆国憲法?

日本人なら日本国憲法の方が理想的なんじゃ?

とか

国連なんて力が無いし、何の効力も無いのでは?

 

と、こう考えてしまう人は、絶対に孔明を扱えません。

なぜという意味で説明しておくと、

上記の一文には下に列挙した意味が含まれているから…

 

 ①現実的にアメリカの影響力は無視できないし、排除できない。

 ②アメリカの社会は多人種、他宗教、多国籍の人が集結した場所であり、その状況で社会整備されたアメリカ合衆国憲法は国際社会を纏める意味でも理想的である。

 ③合衆国とは州の自治の統合を意味するもので、国の統合という意味で参考にするには、やはり合衆国憲法は理想的である。

 ④現実的にアメリカ合衆国の国政に取り込まれる形は、ロシア、中国に限らず、日本や欧米も含めて国としての自立性が無くなる為、納得することはまずない。いわばアメリカに吸収される状態は他の国の人はほぼ望まない。

 ⑤国連という枠組みでの統合なら、各国の自立性は対等とする事が出来る為、現状そこが理想的な場所となる。しかし、その上でアメリカ合衆国はその他国々と同列であり、その一国である立場を理解し、盟主としての存在は許されない状態が望まれる。

 ⑥アメリカ合衆国のここまでの貢献を蔑ろにして、盟主から外す事にアメリカ国民は納得しない。ゆえにアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合するという形を以て、アメリカで統合したという部分が生きる形で各国はそこを敬意として妥協しなければ成らない。

 ⑦現状には冷戦時代を知る世代が各国に残っている事実もあり、今直ぐに受け入れるという形で進めることは難しい。ただしグローバル社会に於いて経済的な繋がりが必須となった現状から、時代と新たな世代に「一つの地球」という意識が浸透していくことで、徐々に議論はスムーズなものと成っていくことを、旧世代の人達は寧ろ理解していく話に成る。

 ⑧よって時間的には、2050年までは最低でもゆっくりと世代意識の変革に努めていかねばならない。

 

このたった一言、

  「現世界において国連の下でアメリカ合衆国憲法をベースに世界を統合しなければ、世界は上手く纏まらない。」

これで全ての意味を直感的にでも理解できなければ、

孔明の話は難しすぎて面白くないで終わってしまう。

 

まあ、なぜ僕が孔明先生を出してこう語るかというと、

諸葛孔明が現実的に現代の世界を統合すると考えるなら、

恐らくこの辺で分析して結論付けるだろうという推測からです。

 

そうした現実的な分析の中で、

ましてや、日本人として

日本の社会ベースで世界を統合しなければ…

何て非現実的な野心で語るなら、

むしろ孔明先生から邪魔とあしらわれます。

いわば信長たまもそいう事です。

 

バラバラに成った日本を統合するには、

足利義昭の様に、

「室町時代の権威を復活させねば成らない」

とした考え方では、

そんなもの必要ない!!と、断じます。

 

日本を統合する意味では、先ずは民。

民となる者が統合日本の社会を享受できなければ、

先ずは一揆は治まらない。

そしてその意識の浸透こそが、

反逆者の兵力をこちら側に引き寄せる大きな大義となる。

ある意味、大名たちが兵力として充てにする民衆の心を、

先ずは政治面でこちら側に引き付けて

味方とすることが大事と考えたのです。

いわば、室町幕府の権威だけでは、

先ず結果として民百姓を生活面で苦しめる状態は変わらず、

本願寺の一向宗が権威打倒を唱えて蜂起する大義を

止められないわけだす。

また武田や上杉、毛利や北条と言った大大名の治世とも

差異を生じさせなければ、

敵方を調略する意味でも難しくな訳で、

論理的な説得力を持たせる意味でも大事と考えたわけです。

 

また、そこに信長たまは

「誰でも自由に自分の生き方を選べる社会」の構築を

目指したのです。

無論、そこに秀吉の様な存在が身分として台頭する中で、

「昨日まで粟を食っていた農民が、なぜ俺らと同列に?」

と、妬む者も出てきます。

そういう妬みは、偶々生まれた家が違うだけで、

なぜ人として、また才能を見極める意味で、

差別されなければいけない?

と信長たまは天地人の平等を視野に

無駄な権威として排除して考えたのです。

 

勿論、あからさまにその考えを否定する事も

現実的でない点は理解していた上で、

ある意味、古き権威が最低限尊重される部分を残しつつ、

新しい社会システムが徐々に浸透して行くように、

調整しながら政策を進めていたのです。

室町幕府を排除しても、天皇制を残そうとした部分は

寧ろそういうバランスの意味でも大事な事だったのです。

 

ある意味、鎌倉幕府からそうであったように、

天皇が政治に口出しせず、

幕府に政策を任せていた状態は、

劉備の子、劉禅が諸葛孔明に任せっきりで居たのと同じ状態で、

孔明がその劉禅を君主として尊重したように、

信長も天皇を君主として尊重する事に何の問題も感じなかった。

と、理解すれば解りやすいかも。

 

これを一部の学者は革新的でなかったと評価してるが、

言っちゃ悪いけど、それ違います!!

 

蘭奢待の話や、楽市楽座が信長独自の発想で無かった点など

指摘する点はあるが、

蘭奢待の話はまた次の機会にするとして、

楽市楽座の話は、

日本人が自動車を発明した訳でもなく、

自動車の産業で一時代を気付いた事を否定する話と同じです。

 

ベースとなる元ネタは他から仕入れる形であっても、

日本の自動車産業が技術面でアレンジして、

素晴らしい品質で世界を席巻した意味と同様に、

信長たまも、他から楽市楽座の発想を取り入れて

自分の政策としてアレンジして

社会繁栄に努めた点では、

良いものを確実に吸収する先見の目が合ったという事を

理解するべきです。

 

エジソンだけが天才では無いのです。

良いもの使えるものとして評価するのも才能なのですよ。

 

優秀な経営者であり、名君というのは、

他人が出すアイデアも適正に評価して、

上手に採用し、そして最大限の効果が出るように、

更に他から出るアイデアを求めて調整するのです。

こうした部分も才能であることを先ずは知っておいてほしい。

 

自分で全てを為せると思い込んでる人の方が、

寧ろ他の才能を無駄にする人に成るのです。