松本人志の裁判の件…人権問題で考えると… | ショーエイのアタックまんがーワン

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タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

ネットを開くたびに出てくる話題なので、

正直うんざりでも有りますが…

日本の司法って弱いなという感じで愚痴らせていただきます。

 

日本の司法が弱いというのは、

人権問題に疎いという意味です。

 

年初にこの件に触れましたが、

ゴシップ記事を出すだけなら言論の自由の範疇で処理できます。

ただし!!

悪意を以て相手を辱める意図が成立する場合は、

名誉棄損が成立します。

この悪意を以てという部分で、

文春砲第二弾、三弾という形で報じた場合、

過剰に対象者を辱める意図で報じている点が強調されます。

 

【人権問題で考えると】

先ず、事件性の有無に関わらず、

暴露話を記事にすること自体は

社会への告知として問題視されるべきでは有りません。

ただし基本的には1回の記事で集約されるべきと言っておきます。

人権問題で考える場合、

事件性(基本刑事事件に該当する案件)の無い記事で

過剰に対象者の精神を攻撃した場合、

その記事で対象者を自殺に追い込む問題が発生します。

 

過去のベッキーの記事などは

寧ろ罰せられるべき内容であったと伝えておきます。

不倫問題は民事上の問題で

最終的には当事者同士の間で解決するべき話で、

社会的倫理観を以て必要以上に中傷するべきものではない。

更に、ラインでのやり取りを報じて

個人のプライバシーを侵害した行為などは、

対象者に大きな苦痛を与えるもので、

幸いにもベッキーが強く生き抜いたため問題に成らなかったが、

こうした内容で社会的なイジメが発生した状態では、

自殺を考えても可笑しくはない状況であった。

 

文春の記事を見るに、

時として人を追い込んで殺す(自殺に追い込む)様な

表現がある為、

本来の人権問題を重視して考える場合は、

刑事罰の名誉棄損として

その記者及び編集者を逮捕するべきと言っておきます。

ただし、日本人はこうした人権問題に疎いため、

社会的に全く理解されていない事でもあります。

なので警察も動かない有様です。

 

【裁判所が人権問題を理解できていない点】

一般的に裁判官は優秀だと認識しているのが

当然の見識ですが、

日本の裁判官は知能が低すぎます。

低すぎると言ってもIQは平均以上あるわけですが、

普通一般の人と変わらない程度と言っておきます。

 

例えるなら、

言論の自由と名誉棄損。

今回の文春の報道を例に挙げると、

相反する内容に感じると思います。

暴露などの報道は知る権利

(言論の自由が保証する権利として理解される部分)

として社会に重要な役割を担っている事と、

その暴露で名誉を棄損されるに至った社会現象は、

どちらを優先するべきかで悩むところと思います。

裁判官であっても弁護士であっても、

同じ様に悩んでいる状態です。

 

では、ダブルスタンダード無くこの問題を整理すると…

名誉棄損の法解釈として、

暴露記事であり、噂話の報道に対して、

対象者に名誉を回復する機会が成立するなら、

あとは聞き手の見識に委ねられるものと出来ます。

いわば記者会見などがその機会に当たります。

著名人であればこうした注目を集める場を設けて、

名誉を回復する機会が得られます。

なのでタブロイド紙などの記事に対して

社会的な対応が可能だから

記事にされること自体は名誉棄損に成りません。

また、名誉棄損は

事実であるか事実でないかは関係ありません。

刑事罰の場合、故意、

民事の場合は過失でも成立します。

 

基本一回の報道に対して、一回の記者会見で終わるなら、

報道した側には悪意は成立しません。

単に社会に著名人の実態を報道したものとして、

言論の自由の範疇として扱えます。

しかし、2回、3回と続けて対象者の記事を出した場合、

報道の範疇を越えた対象者の名誉を

著しく低下させる意図が成立します。

ただし、仮に記者会見当での内容に

虚偽があると証明できる場合は、

その反論を記事に記すことは報道として扱われます。

 

【人権問題を考慮するとすでに文春の敗訴が確定】

あくまで人権問題を適正に考えた場合の見解です。

日本の司法がどう考えるかは別として伝えます。

また、あくまでネット上の内容だけでの見識なので、

裁判上で出てくる事実はまた別であり、

実際の記事も見る気ない状態で伝える者です。

 

その後の記事の概要から、

松本人志側の名誉棄損主張部分として、

強制わいせつ罪または性強要したという点を

否定したものにたいして、

文春側は「性の献上システム」の存在を続けて報道した訳です。

この時点で名誉回復機会の

性強要が有ったか無かったかに対する反論は

寧ろ成立していません。

記事の要約を確認するに、

女性側には逃げ口が成立していた内容に成ります。

確かに松本人志のやり口は

セコイとか、ダサいという印象を持ちましたが、

一般的な飲み会という観点で見ると、

学生の飲み会でも同じような問題は出ると言える話です。

それでもその概要を読んだけでも、

筆者の彼へのイメージは失望する印象を持ったのは事実です。

ただし重要な点は

そこに逃げられない威圧や

泥酔状態にするなど暴力的な要素が有ったかどうかです。

これらは裁判上の証言でのみ見受けられますが、

文春がこれら内容を報道することは、

名誉棄損、

いわば相手の信頼を損ねる目的の

故意による行為が成立します。

裁判上の印象操作としても作用します。

 

また、2次、3次と続けざまに

対象者を社会悪として扱う記事に対しては、

過剰に社会的な地位低下を狙った行為として成立するもので、

故意によって名誉を棄損したことにも成ります。

 

人権問題として整理して考えてみましょう。

一回だけの暴露記事であり、

それに対して記者会見で反論機会が成立したのなら、

社会的な名誉はフェア=公平な意味で、

社会判断に委ねられます。

文春が報じたかった「性の献上システム」という

芸能界の闇という表現と、

松本人志が主張する

「性強要はなっかた一般的な普通の飲み会」という点で

どう考えるかは社会が勝手に議論する所で終われば、

名誉回復機会を得た松本人志側の表現次第という点で、

この人権問題は終始します。

仮に性強要の実態に対して、

性強要は実際にはあったという報道ならば、

松本人志が得た名誉回復機会は

寧ろ本人の虚偽によって失われたという形で成立します。

無論、裁判によって

事実確認が為されなければ成らない事態ですが、

ここで仮に文春側の

「性強要があった」という証明が不成立な場合、

これはこれで名誉棄損が成立するべき話と成ります。

 

【現状、日本で議論されている話は焦点ボケ】

恐らく裁判では、

松本人志側の「性強要は無かった」という点での

名誉棄損に対して、

文春側は「性強要の有無の報道では無く、性の献上システムに対する報道」で虚偽による報道ではないとし

名誉棄損に成らないと主張するでしょう。

普通の頭脳しかない裁判官や弁護士では、

この論点で混乱します。

恐らく普通一般の人もこの争点で論じられると、

名誉棄損は成立しないのではという感じに陥るでしょう。

 

ところが人権問題としてこの裁判に焦点を当てると、

不要な2次、3次と記事にして、

著しく故意に松本人志を社会悪に貶めようとした行為が、

名誉棄損に成るのです。

正直裁判自体は瞬殺で終わります。

 

【松本人志が社会的に淘汰されるかはまた別】

一次記事のみで社会判断が成立する要件としては

十分であった。

島田紳助氏の時同様に、

記事の内容から最終的にはその周囲が判断するところに成る。

松本人志がどのように周囲と接して来たかで

大きくここの部分が変わるという事で、

スタッフであり彼に関わった人たちが、

もうこの人と仕事をしたくない、

この人の仕事は終わらせたい、

そういう印象を与える態度だったら、

自然と芸能界から淘汰されます。

逆に、彼に支えられてきた、恩があるという部分が大きければ、

今後も松本人志は芸能界で生き残れるという事です。

 

王様気分で実際にやってきたのか、

そうではなく周囲を大切にやってきたのか、

そういう部分が判断の分かれ目になるのも事実です。

 

文春が報じるように

本当に社会悪な姿勢で活動してきたのなら、

周りはこの件で生じた人気の陰りを活かして、

芸能界から締め出すのは考えられる流れで、

寧ろ本当に違うのなら、

彼を良く知る周囲が彼を支えて生き残らせるという事です。

 

これは裁判に関係なく、

寧ろ裁判の期間2年位かな…

そこで生じてくる流れと成る話です。

 

日本人は人が死なないと理解しない。

文春砲なんてものを喜んで読んでいる人が

多々居ると思います。

木村花さんの件のように、

自殺者が出てからネット上の問題を考える前に、

そうした行為が精神的暴力として

人を追い込む事である点を理解するべきなのです。

 

今回の松本人志さんの件で、

松本人志さんが自殺を考えるまで

追い込まれるとは思いませんが、

ベッキーの時はある意味際どい話だったと思います。

 

悪い事を暴露してくれるのは大事な社会行為ですが、

その度を越えた形になると寧ろ社会的なイジメです。

悪い事をしたという認識で

罰を与える意味で考えるのか、

本当に悪い事なのかと疑問を以て理解できるのか、

それは読み手の良識次第では有ります。

 

読み手の良識に多様性が生じる社会では、

ある程度の節度が必要で、

本来の法律ではそうした節度に対する線引きが、

実は明確に記されているのです。

 

ところがそれを判断する人間の質が悪く、

合理的な解釈がされない状態で、

雑に文脈を知っているだけのも事実です。

 

全ての法律には保護法益というものが有ります。

いわばその法律が

どういう問題を解決するために制定されたものなのか

があるわけです。

ある意味、保護するべき法律の益=

その法律が何を保護するためにあるのか、

という真理です。

法学者の研究の対象の様な物ですが、

この保護法益を理解していない

司法関係者が多すぎるのも事実です。

法学者が研究するものだからという認識なのか、

頭の悪い人が法の混線状態を勝手に感じて、

単純に優先順位で判断しているのか…

 

いわば言論の自由=報道の自由と

名誉棄損の相反する権利の話と同じなのです。

政治のダブルスタンダードも一緒で、

最終的には敵か味方でルールが変わるわけです。

 

保護するべき要点を整理して考えれば

その境界線は見えるわけですが、

知識がカバーしきれない難題に直面して

思考が停止してしまうのが一般的な社会では、

真面な判断を仰ぐ方が愚かしいという事です。

 

なので…本来瞬殺の案件も、泥沼化して、

最終的には

報道の自由を優先する判決に成るのではと予想できます。