クリント・イーストウッド監督・主演、エドゥアルド・ミネット、ドワイト・ヨアカム、フェルナンダ・ウレホラ、ナタリア・トラヴェン、オラシオ・ガルシア・ロハス、ポール・リンカーン・アラヨほか出演の『クライ・マッチョ』。2021年作品。

 

原作はN・リチャード・ナッシュの同名小説。

 

1980年、テキサス。元ロデオの名手でカウボーイだったマイク・マイロ(クリント・イーストウッド)に、長年彼の雇い主だった牧場主のハワード(ドワイト・ヨアカム)が、自分の息子ラファエル(エドゥアルド・ミネット)をメキシコから連れてきてほしいと頼む。誘拐のような真似をすることに抵抗を感じるマイクだったが、借りのあるハワードの依頼を引き受けて単身ラファエル=“ラフォ”が母親リタ(フェルナンダ・ウレホラ)と住むメキシコに向かう。

 

2020年日本公開の『リチャード・ジュエル』に続くクリント・イーストウッドの最新作。

 

1971年の『恐怖のメロディ』から監督生活50周年目にして監督作品40本目。

 

僕が初めて映画館でイーストウッドの映画を観たのは1993年日本公開の『許されざる者』。

 

以来、1998年の『真夜中のサバナ』や2012年の『J・エドガー』など何本か観ていない作品はあるものの、それ以外はほとんど劇場で観ています(97年の『目撃』は確かヴィデオで視聴)。

 

僕はイーストウッドの俳優、監督としての熱烈なファンというわけではないですが、それでも30年近く彼が主演や監督した映画を観続けてきたということはやっぱり好きだからだし、毎作観終わって満足感を得てきたからこそ、その次の作品にも劇場に足を運んできたんだといえる。

 

特に2004年の『ミスティック・リバー』あたりから彼が出演せずに監督に専念する作品も増えてきたんだけど、この人が撮る映画は見応えがある、という映画監督としての信頼感というか、とりあえず押さえておくべき監督というポジションになってきたんですよね。

 

1~2年に1本というハイペースでの撮影にもかかわらず、作品の質を保ち続けるその手腕に感服してきた。

 

で、この『クライ・マッチョ』の予告篇ではイーストウッド演じる主人公マイクが「昔の俺は強かった」と語っていて、タイトルの印象からも男泣き必至の映画だと想像していたんですが、アメリカでは酷評も少なくないということだったんで、それはどういうことなんだろう、と思っていました。

 

だって、マッチョが泣くんだよ?w アメリカ人の白人の老人と非白人の少年の交流、といえば『グラン・トリノ』が思い浮かぶし、メキシコを舞台に車での旅といえば『運び屋』と、どちらもイーストウッド主演で好きだったから、かつては“マッチョ・スター”だったイーストウッドとダブる「強さ」が自慢だった男が今は老いて孫のような少年と旅をするうちに互いに心を通わせていく「いい映画」なんじゃないのかなぁ、と期待していたのだけれど。

 

 

 

確かにあの2本の映画に似ているところもありますが、あとはそこに北野武監督の『菊次郎の夏』が合体したような映画だった。

 

まず、タイトルの“マッチョ”って、劇中ではラフォが飼ってる闘鶏用の雄鶏の名前なんですよね。

 

 

 

ニワトリが鳴くのは英語じゃ「crow」と書くんだろうけど、動物が鳴くことも「cry」と表現することがあるようだから、屈強な筋肉男がむせび泣く映画かと思ったら、「鳴け!マッチョ鶏」ってタイトルなんかい^_^;と。

 

もちろん、「マッチョ」という映画タイトルには「男らしさ」という意味も含まれているんだろうけど。

 

実際に映画を観てみたら、鑑賞前に僕が想像していたような筋肉や汗、血や涙のような汁っ気がまったくと言っていいほどない、のどかでもはや枯淡の境地のような内容の作品でした。人間、年を取ると涙もろくなるようだけど、この映画にはそういったメソメソした雰囲気すらない。ピアノの簡素なメロディが時折鳴る程度で、音楽で盛り上げたりもしない。

 

『許されざる者」以来30年ぶりにイーストウッドの乗馬シーンがある、みたいなことも言われてますが、別に御年91の彼本人がロデオをやってみせるわけじゃないし(危険過ぎるわ(;^_^A)、ほんとに馬に乗っかってるだけだからw

 

一応殴り合いみたいな描写はあるし拳銃も出てくるけど、流血シーンもほぼないし誰も死なない。

 

おじいちゃんが少年とドライヴ旅行する、ほぼそれだけの映画(^o^)

 

要するにロードムーヴィーなんですが、なんかもう、いろんな劇的要素をどんどん削っていって、俳句のように必要最小限の表現で作り上げた、みたいな。

 

だから、そこで評価が分かれるのはわかるんですよね。面白くない、という人がいるだろうことも、逆に、自分は好きだ、という人がいるのも理解できる。

 

ユーモラスな要素という共通点はあるものの、『グラン・トリノ』には胸が震える展開があったし、『運び屋』も切ない余韻を残す作品だった。

 

だけど、この『クライ・マッチョ』はそれらよりももっともっとあっさりしている。

 

リアル後期高齢者が主演だから激しいアクションもなく、追っ手役の俳優も手加減しているのがまるわかりで、退屈、といえば退屈。でも肩の力の抜けきったイーストウッドの演技にはたまにクスッとさせられるし、なんか動いてる彼を見ているだけで心地よい、ってのはある。カウボーイハットをかぶってデッキチェアに腰掛けてる姿なんて昔の洋酒のCMみたいにいちいち絵になるし、味わいがある。そういうところを楽しめるかどうかでしょうね。

 

 

 

僕はそういうゆったりとした筋運び自体には抵抗はなかったし、むしろ退屈さを楽しむような気持ちで観ていたんですが、ただストーリーにあまり起伏がないということへの不満以上に引っかかるところがいくつかあって。

 

なので、これからそれらを挙げていきますが、必然的に作品に対する批判も含まれてきますので、この映画が好きなかた、それからクリント・イーストウッドという存在に思い入れが強い人は不快な気分になるかもしれません。

 

内容についてのネタバレもありますので、これからご覧になる予定のかたはご鑑賞後にお読みください。

 

 

感想に入る前にちょっと脇道に逸れますが、やはり現在劇場公開中のリーアム・ニーソン主演の映画『マークスマン』の予告篇を去年観た時に、この『クライ・マッチョ』と設定やあらすじが似てるなぁ、と思ったんですよね。

 

『マークスマン』の監督のロバート・ロレンツはイーストウッド主演の『人生の特等席』の監督でもあって、もともとイーストウッド組で製作を担当してきた人。

 

偶然とはいえ、師弟で同じような題材を映画化しているのが面白いですが、『マークスマン』はちまたでの評判がかなり微妙なこともあって(反対に『クライ・マッチョ』よりもよっぽど面白い、と評している人もいるが)、僕は観るのを躊躇してしまいました。

 

ほんとは観比べてみたかったんですけどね。今月や来月は観たい映画が他にいっぱいあるものだから。

 

まぁ、『マークスマン』の方はアクション映画なのだろうし、『クライ・マッチョ』とは全然タイプが違う内容だろうことは想像できますが。

 

『クライ・マッチョ』の予告篇を最初に観た時、ヒュー・ジャックマン主演の『LOGAN/ローガン』を思い出しました。

 

あの映画はヒュー・ジャックマンがアメコミヒーロー物の「X-MEN」のメンバーの一人である“ウルヴァリン”を演じた最後の作品で、テキサスから話が始まるし、物語の根底には西部劇があった。老いた男とヒスパニック系の子どもが旅をする、というところ(こちらは少女だし、もう一人おじいちゃんが一緒ですが)が共通している。

 

劇中でアラン・ラッド主演の往年の西部劇の名作『シェーン』がフィーチャーされていたけれど、イーストウッドが1985年に撮った『ペイルライダー』には『シェーン』へのオマージュが見られる。

 

そういえば、ヒュー・ジャックマンって「X-MEN」に出始めた頃は、顔がイーストウッドの若い頃に似ている、とよく言われていた。

 

…強引に結びつけてますが、『LOGAN/ローガン』がローガン=ウルヴァリンというヒーローとのお別れを描いた本当に泣ける映画だったように、『クライ・マッチョ』という一見やたらと勇ましい、だけど「マッチョ」という言葉の響きやイメージのおかげでちょっと笑えてきさえするタイトルの、これはイーストウッドが「有害な男らしさ」への決別を描いた映画なんじゃないかと思っていたのです。

 

「有害な男らしさ」についての映画といえば、つい最近もベネディクト・カンバーバッチ主演の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』があったけど、マカロニウエスタンでスターになって、その後も古典的な西部劇を破壊するような映画を撮ってきたイーストウッドがいよいよカウボーイの「男らしさ」に自ら疑問を投げかけるような映画を撮ったのか、と。

 

そしたら、確かにここでは「自分はマッチョだ」とイキがる若者をいさめて、強さを誇示することがいかに無意味かを説く老人が描かれるんだけど、なんとなくその言葉に説得力が感じられなかったんです。

 

イーストウッド演じるマイクがメキシコまで行って出会った少年ラフォは、酒浸りで娼婦まがいのことをやっている母親のリタからは「手のつけられないならず者」と言われていたけど、実際の彼は闘鶏に夢中になっていて警察から追われたりもするが、「手がつけられない」わけでも「ならず者」でもなくて、素直で人懐っこい少年だった。時々不安定にはなるし、口では「人を信じられない」と言っているけれど、心の底では人を信じたいのだということがすぐにわかる。

 

リタはマイクにまで色目を使ってベッドに誘うんだけど、断わられると「私のことを売女だと思ってるの?」とブチギレる。いや、今そういうことやってたじゃん。

 

どうも、このリタの描かれ方が僕にはよくわからなくて、別れた夫のハワードからは「イカレた女」と呼ばれているし、僕が字幕を読み落としたのかもしれないけれど、彼女がハワードと別れて互いにそれぞれメキシコとアメリカに住むようになったいきさつも、彼女がどうしてあれほど乱れた生活をしているのかもちゃんと説明されなくて、ただ酒乱で息子を虐待しているらしいことがわかるだけ。

 

この母親からラフォを救い出して無事テキサスのハワードに引き渡すことがマイクに命じられた役目なんだけど、なんかリタがあまりに一方的にダメな女性として描かれ過ぎなんじゃないかと。

 

そりゃ、現実には育児放棄したり子どもを虐待する母親はいますが、ここでなぜあえて母親に問題があるという設定にしたのか、僕にはよく理解できなかったんですよね。

 

リタは心に悲しみを負っているような様子で、取り乱してマイクを追い払ったあとに彼女の警護にあたっているアウレリオ(オラシオ・ガルシア・ロハス)がなだめる。

 

だから、僕はリタにもまた何か事情があって今のような生活をしているのだ、それが明らかになるんだろうと思っていたんだけど、息子がマイクに連れていかれて以降、リタは先ほどの部下のアウレリオを追っ手として差し向けるだけでニ度と姿を現わさない。

 

一方で、ラフォの父親ハワードは、息子が自分のところにやってくると金が入ることをマイクには最初黙っていて、そのことでマイクとラフォが揉めたりするんだけど、僕はてっきりハワードが何か企んでいて、リタから不当に息子を奪おうとしていたことが明らかになり、マイクは再びリタのところに戻って彼女も更生していく、といった展開になるのかと思っていたんですよ。

 

 

 

ハワードを演じるドワイト・ヨアカムが、なんか不穏な雰囲気を醸し出していたのが気になったし、いくらなんでもリタをただ悪者みたいに描いただけでは捻りがなさ過ぎだろう、と。

 

そしたら、そのまんまで、ハワードは息子を愛するイイ父親だった、みたいな結末だった。

 

アウレリオから逃れてハワードにラフォを返して、マイクは旅の途中で知り合った親切な未亡人マルタ(ナタリア・トラヴェン)のところへ戻って彼女と暮らすことにしておしまい。

 

 

 

う~んと…これは死ぬ間際に爺さんが見た夢なんじゃないのか?(;^_^A

 

いや、ほんとにジジイの都合が良過ぎる妄想にしか思えないんですよ。

 

もうイーストウッドは『アメリカン・スナイパー』や『リチャード・ジュエル』みたいな実話モノを撮るのがめんどくさくなったのか。

 

リタの部下のアウレリオが追っ手としてはあまりに間抜けで、2度も雄鶏の“マッチョ”に突かれて撃退されたり、これまでハワードに遣わされて2人の男たちがラフォを連れ戻しにきたのにみつけられなかった、と語られていたのに、マイクがあっさりみつけてラフォも彼にすぐ懐いてしまうとか、そりゃこのシナリオが酷評されたのも無理はないと思う。

 

話に絡んできそうで絡んでこない登場人物たち、何かが起こりそうで何も起きない眠気をもよおす筋運び。

 

こういうゆったりした映画も嫌いじゃないが、イーストウッドが描くメキシコ人はマカロニウエスタンとかサム・ペキンパーが西部劇撮ってた時代から変わってないし、ラフォのちょっと生意気だけど素直で善良なキャラクターは『グラン・トリノ』のモン族の少年とほぼ同じで、ほとんど個別に描き分けがされていない。

 

『運び屋』の時にも感じたんだけど、“グリンゴ(アメ公)”のイーストウッドにはメキシコ人の目線で彼らを描くことはできないのだろうか。『硫黄島からの手紙』では、極力日本兵の目線で描こうとしてたと思うがな。

 

スピルバーグは『ウエスト・サイド・ストーリー』でどのように描いてるかわからないけど、今じゃ『イン・ザ・ハイツ』にしても、『ミラベルと魔法だらけの家』や『リメンバー・ミー』だって、ラテン系の人々の視点で物語を作っている。それが当たり前。

 

メキシコには何喋ってるのかわからないが善良な人々とギャングと娼婦以外いないような描き方をなんで今する必要があるんだろう。

 

『運び屋』では、いくつになっても人は新しい出会いから学んで進歩していけるんだ、ってことを描いていたから、この『クライ・マッチョ』でもただ老人が若者に「強がる必要なんかない」と教えるだけじゃなくて、反対に老人が若者や今の時代から学ぶ姿を描くことだってできたはずでしょう。

 

劇中でマイクが彼らの言語であるスペイン語を学ぶ場面はあるけど、それ以前にイーストウッドが学ぶべきなのは彼らをアメリカ人同様にちゃんと個性があってものを考える、そしてステレオタイプではない生きた生身の人間として見て、そう描くことなんじゃないか。

 

なのに、異郷の地でいつでも待っててくれて尽くしてくれる“マリア様”のような女性と懇意になって…みたいな安易極まりない話にしちゃったのはガッカリだった。そこは甘えちゃうんだと。

 

「イカレた女」か「聖母みたいな女」か、そのどちらかしか出てこない。そんで最後にグリンゴの爺さんはその聖母と一緒になる。夢のような光景。

 

僕は、そんなジジイに都合のいいだけの妄想こそが「有害な男らしさ」をのさばらしてきたんだと思う。

 

少年のメキシコ人の母親はぶっ壊れた女として描いて、別れたアメリカ人のカウボーイの父親のことはまともで問題ない男として描く。その真意がわからない。何か寓意が込められているんだろうか、と考えてしまったほど。時代をあえて1980年にした意味もよくわからない。40年前の話なんだから、時代錯誤な描き方でもいいだろ、ってことだろうか。

 

イーストウッドの映画でこんなに「…ん??」となった作品ってここ何年もなかったから大いに戸惑っている。

 

さっき僕が述べたように、息子を奪おうとする父親から彼を守って母親に返す話にだってできただろうに、その方が今の時代にも合ってると思うのに、なぜあの父を息子を愛する「正しい男」、母親の方は息子を虐待する「悪い女」というふうに単純に色分けしてしまったのか。

 

前作『リチャード・ジュエル』で女性記者が「枕営業」をする展開を僕は批判したんですが、どうもそれと同様の偏見を感じる。

 

原作小説は読んでないので、映画と原作の違いは僕にはわからないですが、Amazonの書評などを読むとどうも原作ではマイクは38歳という設定らしいんですよね。

 

元雇い主がメキシコから自分の息子を連れ帰る役目を91歳の年寄りに任せるなんてどう考えてもおかしいと思ってたら、なんと38歳だったとは。

 

以前はシュワルツェネッガー主演で映画化される計画もあったそうだから、そもそも爺さんが主人公じゃなかったんだな。ちょっと疲れた中年の男ってところか。何年か前に観た『ガルヴェストン』が思い浮かびますが。

 

1988年にこの企画の話を持ち込まれた時にイーストウッドは「この役をするには私はまだ若過ぎる」と言って断わったそうだけど、当時の彼はすでに60歳手前だったから「若過ぎる」なんてことはない。だから、その時点で彼の中にあった「クライ・マッチョ」の主人公のイメージは原作とは異なっていたってことですね。

 

その後、自ら『許されざる者』を監督したり、2000年代に入っても老いた主人公を演じることで『クライ・マッチョ』で演じた主人公に自分を近づけていったんだな。

 

だけど、残念ながら、ここには僕が期待した、自らのアイデンティティである「カウボーイ」という存在を否定して「有害な男らしさ」から自由になる老人ではなくて、そのあたりはうやむやにしたまま自分は幻想の中のメキシコで勝手に好意を持ってくれて受け入れてくれる理想の相手とダンスしているボケ老人がいただけだった。

 

あのマイクとマルタの姿は、かつてのハワードとリタの姿ではないのか。

 

だとすれば、マイクもまたハワード同様にいずれ妻や彼女の孫娘たちを捨ててアメリカに帰るのだろう。その前にくたばるかもしれないが。

 

イーストウッドは実生活で何人もの女性たちとの間にいっぱい子種を作りモテまくってきた人かもしれないけど、でもこの映画で描かれた聖母マリアのような女性などただの幻想だ。

 

見方を変えれば、ここで描かれているのは老人と少年の心温まるロードムーヴィーなどではなくて、アメリカがメキシコにし続けてきた仕打ちについての残酷譚となる。

 

もしも、イーストウッドがそういう解釈の余地もあり得ると考えたうえでこのような物語を作ったのなら、なかなかユニークな映画だったと思いますが。

 

 

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