マーチン・サントフリート監督、ローラン・モラー、ルイス・ホフマン、エーミール・ベルトン、オスカー・ベルトン、ジョエル・バズマン、ミケル・ボー・フルシゴー出演の『ヒトラーの忘れもの』。2015年作品。デンマークとドイツの合作。

 

1945年5月。ドイツが降伏し解放されたデンマークで、戦時中にドイツ軍が海岸線に無数に埋めた地雷の除去を命じられた捕虜の少年兵たちと、彼らを指揮することになったデンマーク軍のラスムスン軍曹。ドイツ人を憎むラスムスンは、まだ年端もいかない少年たちに容赦なく接する。食料も乏しく未熟な技術と苛酷な状況の中で地雷による犠牲者が相次ぐが、「この任務が終われば祖国に帰れる」と信じて、少年たちは命令に従い作業を続ける。

 

邦題は『ヒトラーの忘れもの』という、なんだかちょっとファンシーな響きさえするタイトルだが、英題はそのまんま「LAND OF MINE(地雷の国)」。

 

デンマークでもドイツでもこれまでほとんど知られることのなかった、捕虜たちによる地雷除去にまつわる史実を題材にした物語。

 

 

 

1945年5月から10月にかけて行なわれたデンマークでの地雷除去には約2600人のドイツ人捕虜が従事し、半数が死亡、または重傷を負った。その多くが少年兵だった。

 

彼らは大人たちが始めた戦争の後始末、尻拭いをさせられたのだ。

 

地雷もその除去のために失われた多くの命も、「忘れもの」などと呑気な表現で済まされるようなものではない。

 

しかもこれは戦時中のことではなく、戦争が終わってからの話。戦争をなんとか生き延びた命が、無残に刈り取られていく。

 

ドイツとの戦争が終わってからの話だから、たとえばスピルバーグの『プライベート・ライアン』のような戦場での阿鼻叫喚の戦闘場面が描かれるわけではない。

 

舞台は静かな浜辺。そこで這いつくばって黙々と地雷除去作業を続ける少年たちの姿が映し出される。

 

 

 

しかし、僕は観ていて本気で息苦しくなってきて、心臓が痛くなってしまった。

 

つらい気持ちになる映画だし、ほんとに心臓によくない。

 

だから、冗談ではなく心臓があまり強くない人にはお薦めしません。

 

でも多くの人が観ておく意味と価値のある作品だと思います。

 

以降はこの映画と『この世界の片隅に』の内容について言及しますので、未見のかたはご注意ください。

 

 

早速、映画の冒頭でエベ大尉の指導による訓練中に、本物の地雷で少年兵の一人が死ぬ。

 

地雷はほんの少し手許が狂ったり扱いを誤ると爆発する。

 

どなたかが「リアル黒ひげ危機一髪」と書いていて、不謹慎ながらもまったくその通りだと思った。

 

この場面の緊張感は、実生活で絶対に経験したくないものだ。しかし戦争では、軍隊では、それを強要される。

 

もし自分がこのような境遇に陥ったら、真っ先にヘタって使い物にならなくなるか頭がおかしくなるんじゃないかと思う。

 

ちょっとリー・ヴァン・クリーフを思わせる猛禽類のような険しい顔つきのローラン・モラー演じるラスムスン軍曹は、まるで本物の軍人のように見える。

 

 

 

ローラン・モラーのあの目つきには、実際に殺し合いを見てきた者の、多くの悲しみを封じ込めた静かな凄みがある。

 

彼は列を作ってドイツへ移送中の捕虜たちに言いがかりをつけ、その中の一人に頭突きを食らわせて蹴りを入れて怪我を負わせ、止めに入ったもう一人も殴る。

 

そして地雷除去を命じられたまだ見た目も子どもの少年兵たちに大声で怒鳴り、時に頬を張り続け、少年兵の一人セバスチャン(ルイス・ホフマン)に「僕たちがドイツ人だから憎むのですか?」と問われて躊躇なく「そうだ」と答える。

 

ここでは少年たちの命が本当に軽い。映画の後半でラスムスンと話す時のエベ大尉の、彼らの死に何一つ同情を見せない、むしろそれを鼻で笑っているような態度には寒気がするほど。

 

エベ大尉は映画の最初に少年たちを訓練するが、人の命がかかっているにもかかわらずその指導の仕方はなんとも事務的で、恐怖で作業が進まない少年に「もういい」と言うところなど、「あぁ、こういう教師や会社の上司いる」って感じで、そういうところも観ていてさらに心臓が痛んだのだった。

 

僕にとってこの映画がしんどかったのは、それが何十年も昔の自分とは無縁な話に思えなかったからだ。

 

怖気づいたりヤケを起こす者は切り捨てられるか矯正される。順応できる者、そして運のいい者だけが生き残れる。

 

ドイツ人への憎しみは、たとえそれが子どもであろうと変わらない。地雷原の近くに幼い娘と暮らすデンマーク人の母親は、ドイツ人の少年兵たちの死に対してラスムスンに「いい気味よ」と呟く。

 

映画の中では、ドイツ軍が大戦中にデンマークでどのような残虐な行為をしたのかは描かれないし詳しく語られもしないが、デンマーク人たちの冷淡な態度からドイツ兵たちがいかに憎まれているかうかがえる。

 

ドイツ軍によって大量に埋められた地雷の存在そのものが、その非人道性を示している。

 

極限的な環境で地獄の責め苦のような作業を強いられる少年たち。どんなに注意していても、ふとしたはずみにいとも簡単に彼らの命は奪われる。

 

少年たちは空腹に堪えかねてネズミの糞だらけの家畜の餌を盗んで食べたために体調を崩し、そのせいで嘔吐したヴィルヘルムが地雷で両腕を吹き飛ばされる。

 

 

 

アニメーション映画『この世界の片隅に』でヒロインの“すず”は米軍の落とした時限爆弾で右手首を失い、手を繋いでいた義理の姪が死亡するが、あの映画で直接的に描かれなかった瞬間が映し出される。

 

両腕を失い無残に裂けたその傷口を真っ赤に染めながら「もういやだ、うちに帰りたい。ママ!!」と泣き叫ぶヴィルヘルムの姿に、観ていて涙するよりも絶句するしかなかった。

 

『この世界~』のすずさんはあの時、ヴィルヘルムと同じ目に遭ったのだ、ということ。

 

すずは一命を取り留めたが、ヴィルヘルムは収容された病院で亡くなる。

 

また、双子のレスナー兄弟の兄ヴェルナーは、地雷が繋がっていることに気づかず夢中で作業を続けたために爆発に巻き込まれ、その身体は跡形もなくなる。

 

 

 

 

兄の死を間近で見たエルンストは一時的に錯乱し、小屋に戻されてもラスムスンに「兄が行方不明なんです。探しにいかないと」と言い続ける。以前ラスムスンに怒鳴りつけられたヴェルナーのことを心配して「兄を嫌わないで」というエルンストの健気な言葉が本当にツラい。

 

いたいけな少年たちをこんな目に遭わせる、これほど無慈悲なことができてしまうのが戦争なのだ。

 

アメリカ兵たちがドイツ人少年兵たちに狼藉を働く場面も、相手が憎きドイツ人なら無抵抗な子どもだろうと何をやってもいいんだ、というその歪んだ性根に慄然とする。

 

あのアメリカ兵たちだって、故郷に帰れば妻や子を愛する普通の人々なのだろうに。

 

英語が堪能なラスムスンは、アメリカ兵たちをなだめて少年たちを守る。

 

厳しかったラスムスンがドイツ人の少年たちと接するうちに、次第にまるで父親と息子たちの関係のようになってくる。

 

休みの日にボール遊びに興じる彼らは、戦争や地雷などとは無縁な存在に思える。

 

しかし、安全なはずの砂浜でボールを追っていた愛犬が地雷で死ぬと、ラスムスンは「甘い顔をしすぎた」と言って少年たちを一列に並ばせて、そのまま砂浜を歩かせる。

 

もしもまだ地雷が残っていれば、誰かがそれを踏むと彼らは爆発に巻き込まれる。

 

14人いた少年兵たちは最終的に4人になっていた。

 

しかも、これで故郷に帰れると思っていた彼らは、地雷除去の経験者としてさらに危険なスカリンゲンに送られることになる。

 

戦争が残したツケを、その命で払わせられた少年たち。

 

最初の方ではショックを受けていた僕も、映画を観ているうちに少年たちの死の描写に次第に“慣れて”きていた。よくよく考えればそれは実に恐ろしいことだ。

 

映画が終わる直前に、トラックに積まれた地雷の山に最後の一つを載せた瞬間に少年兵たちもろとも大爆発を起こす場面は、もはやブラックなギャグのようにすら感じてしまった。

 

少年たちが故郷に帰ったあとの生き方について互いに語りあうのも、戦争映画の「フラグ」のお約束のようで…。

 

その「希望」の多くは摘み取られてしまった。

 

兄ヴェルナーを失ったエルンストは、地雷原に入り込んでしまった少女を助けるが、仲間たちやラスムスンが止めるのも聞かず、皆と反対の海の方にむかって一人歩きだす。

 

 

 

砂浜を歩くエルンストはそのまま地雷を踏み、兄のように木っ端微塵になって消えた。

 

エルンストのすべてに絶望したような眼差しが忘れられない。

 

「ずっと兄と一緒でした。兄がいないと生きられない」と言っていたエルンスト。

 

その大切な半身を失った彼は、自ら生きる気力を失い死を選んだ。

 

彼のあの眼差しには、戦争への、人が人にする残虐な行為への強い抗議が宿っていたように思う。

 

 

物語自体はフィクションだが、ラスムスンにはモデルになった人物がいるという。

 

映画の最後にラスムスンが下す決断、自らを犠牲にして少年たちを救う行為は、もしかしたらデンマークからのあのドイツ兵たちへの贖罪を表現していたのかもしれない。

 

この映画はデンマークとドイツの合作で、監督とラスムスン役のローラン・モラー、エベ大尉役のミケル・ボー・フルシゴーはデンマーク人、ブラッド・レンフロを思わせる顔立ちのセバスチャン役のルイス・ホフマンをはじめドイツ人少年兵たちを演じた若手俳優のほとんどは役柄と同じくドイツ出身。

 

監督はドキュメンタリー出身だそうで、劇中では感動的な音楽をひかえて少年たちの息遣いだけが聴こえるような静寂の中での地雷除去作業の様子が描かれる。この映画が初主演というローラン・モラーも怒鳴ることは多いがけっして過剰な演技をしない。

 

だからこそ息が詰まりそうになる場面もあるし、死の描写のあっけなさに呆然とする。

 

この映画は、戦争の負の遺産、知られざる史実について教えてくれるとともに、それがいかに多くの犠牲を強いて長きに渡って人々を苦しめ続けるかを観客に衝撃と説得力をもって見せつける。

 

今も世界中には約1億1000万個の不発の地雷があり、それらで1日10人が死亡している。

 

この映画で描かれた恐怖と悲しみはけっして消えていない。

 

映画の最後に映し出される「この映画では人も動物も一切傷つけていません」という字幕が強烈な皮肉にすら感じられる。

 

僕の心臓は映画を観終わったあともしばらく痛み続けたのでした。

 

 

エルンストが捕まえて檻に入れていた野ネズミは、その後自由の身になれたのだろうか。

 

少年や少女たちが無残に傷つけられたり殺されない世界、憎しみのために人の死が正当化されたり無頓着や無関心によってそれらが忘れ去られてしまわない世界。

 

多くの“エルンスト”が無事に海にたどりつける世界。

 

「うちに帰りたい」と言いながらそれが叶えられなかった人々のことを想いながら、僕たちは真の平和を目指して一歩ずつ歩いていくしかないのだ。

 

 

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