救魂録 -5ページ目

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

 

マタイ6:25~34

 

 

「あの空はどうして青い」♪

あのそらはどうして青いのでしょう

あの雲はどうして白いのでしょう

あの鳥はどうして飛べるのでしょう

この花はどうして咲いたのでしょう

それは神様のみことばのわざです

世界のすべては神様によって つくられた

 

この草はどうして緑色で

この犬はどうしてまだらなのでしょう

この猫はどうして目が光るの

この虫はどうして羽ならすの

それは神様のみことばのわざです

世界のすべては神様によって つくられた♪

 

 

子供向けの歌で、内容は幼稚園児でもわかるんですけれども、このシンプルな内容に、信仰の本質というか、限りない安心を覚えて涙があふれます。

この自然を通して神様は、「私はある!」(エヒエー・アシェル・エヒエー)と語りかけてくださっている。

ああ、世界はよくみるとこんなに美しいんだ!神が完全なようにこんなに世界は完全なんだと涙せずにはいられません。

すべてが神様の語りかけ、みことばによって存在している。

存在しているということは、そのまま神様が私たちを呼んでくださっているということ。

絶えず、神様はあらゆる存在に「良し」(トヴ)と呼びかけてくださっている。

 

 

 

動けなくなると、今まで頑張って積み上げてきたものが、結局何の価値もないものにしか思えなくなるし、

「これからどうするんだ」

といっても、先のことが考えられない。

「いつになったら、健康になるのだろう。

いつになったら、〈普通〉になれるのだろう。」

 

 

自分が他人からどう評価されるか、受け入れてもらえるか、認めてもらえるか、

ということに関して過度なほどに過敏になって、自分の本音を吐き出せない。

「正解」というものをつい求めてしまう。

 

心の中で、

「そんなことでどうする」「そんな信仰じゃ駄目だ」「もっと祈って突破しなきゃ」

「明るく明るく考えて前に進まなきゃ」

と思うと、そうできない自分に絶望する。

 

そんな私にイエスは優しく語りかけてきます。

「思い煩ってはならない」

信仰の薄いものよ、もっと神様の完全な摂理に目を向けて信頼しなさい。

「明日のことは思い煩ってはいけない。

明日のことは明日が思い煩う。

その日の苦労はその日だけで充分なのだ。」

と。

 

天の父は、私たちに必要なものを知っている、と言います。

 

聖書のこの箇所を繰り返し読んで、心に平安が訪れたか分かりません。

「人間社会のモノサシ」という偶像に苦しんでいる私の中に、神様ご自身がやってこられて、「恐れることはない」と重荷を軽くしてくださる。

「霊の乞食」(マタイ5:3)である私に「幸いなるかな!」と宣言してくださる。

 

「労苦するもの、重荷を背負うもの

休ませてあげよう。

私の軛を受け入れ、私に学びなさい。

そうしたら魂は平安を得る。」

と。

 

公園で散策をしながら、本当に涙があふれて仕方がないんですよね。

ああ、神様!と。

 

空の青、雲、木々や野の草花

主さまのご臨在を感じます。

 

【創世記1:1】

「初めに、神は天と地を創造された。

地はむなしく何もなかった。

闇が深淵の上にあり、神のが水の上を覆うように舞っていた。

神は仰せになった、「光あれ」。すると光があった。

神はその光をみて善しとされた。」

 

あるということは、「よい」ということ。

神さまが、「よし」といっているから、私たちと世界はあるんだ。

世界は「よい」!

私たちの存在はその根源において「よい」ものとして作られている。

今私たちがここにいきていることはみんな、

片ときも離れず、神が「よし」と言ってくださっている。

どんな自分、どんな世界であっても、その根源には神の「よし」があるのです。

 

うちの紘ちゃんですが、最近「いやいや期」で、自分でも「こうちゃんいやいや期」という(笑)

子どもがどれだけ、「いや」と言っても、親は、「よし、よし」と語りかける。

人生たとえどれだけの苦難があり、悪に思えても、それでも、すべてに善しといって絶対的な、永遠の肯定を宣言している。

この「善し」という語りかけーーすなわちロゴスが、肉(人間)になって私たちのうちに幕屋を張られ、共に居てくださる。

 

【ヨハネ1:1~9、14】

「初めにことば(ロゴス)があった。

ことばは神と共にあった。

ことばは神であった。

ことばは初めに神とともにあった。

すべてのものは、ことばによってできた。

できたもので、ことばによらずにできたものは何一つなかった。

 

ことばは肉(人間)となり、われわれの間に住むようになった(幕屋を張った)。」

 

アブラハム・へシェル『人間を探し求める神』

・「自然神学」

時計をみたら、それが偶然にできたとは誰も思わない。

ちゃんとそれを意図をもってつくりだした職人がいる。

宇宙のつくりや、素粒子の構造は相似形になっている。

凄い速度で回りながら、秩序をもって動いている。

宇宙全体が時計とは比較にならないほどの秩序を持っている。

理性的に考えて、それをつくりだした大きな意志があることは推し量って知ることができる。

つまり、私たちと世界をつくったデザイナーがいるのだと。

 

カトリックの入門講座でや教会学校ではそう教えます。

理性によってもある程度までは不完全に神を知ることができる。

 

量子力学。

先日、仏教の花祭りに量子力学のお話。松村大輔さんという東京大学で物理学を専攻し、現在塾講師をされている方。

アインシュタインは現代物理学と仏教の近さについて語っていた。

素粒子はなにもないところからぽっとでてきて、またぽっと消える。

物質の究極の形は、太さのない弦十一次元を使って振動している。

「ゼロポイントフィールド」仮説があって、

宇宙が出来てから、起こったすべての情報がホログラム式に記憶されている。

 

すべては、ゼロポイントから生まれ、世界という形をとり、またゼロポイントに戻っていく。

ゼロポイントフィールドは、時空を超越しながら、いたるところに折りたたまれるように存在している。

 

人間も素粒子レベルで見ると、スッカスカの電子雲。

私たちの想いや感情もバイオフォトン。

バイオフォトンの寿命は無限。

肉体は消えても、生命データはゼロポイントフィールドに移行するだけ。

私たちはみんな素粒子レベルでみると、ゼロポイントでみんな「ひとつ」につながっている。

宇宙に充満している生命と、私たち一人一人を動かしている生命は同じ。

 

最新の科学というものが、ほとんど宗教の世界に近接していることに感動を禁じえません。

松村さんにキリスト者の立場でお手紙を差し上げました。

 

しかし、アブラハム・へシェル博士は、神の前に更に深く問いかけます。

 

この見解の持つ欠点は、時計およびすべての実在(リアリティ)を当然のこととしていることにある。

究極的な問題は、それは如何にして存在するようになったかだけでなく、それがそのように存在するのはどうしてか、ということである。

問題はさらに、質問の実体だけでなくて、その質問を尋ねる行為にまで及ぶのである。」

 

私たちは、時計という確実な出発点として、単純に、誰がこれを存在させたか?と尋ねるわけにはいかない。

時計自体が神秘ではないだろうか。

私が時計を認め、その目的(デザイン)を理解できるという行為が、」何と理解しがたい事実ではなかろうか?

 

世界に対する人間の究極的な驚きへの回答はこの世の中にはない。

「これらをつくったのは誰か」という質問は、原因や力を引き合いに出しても答えることはできない。

世界の中には神の名に値するものは何もない。

世界は神秘であり、疑問であって、答えではない。

 

目的論よりも創造の神秘。

デザイナーや偉大な知能の持ち主よりは神秘を超越する神。

この御方に関係づけられた時、現世が意味を獲得する神―――これらが宗教的問題に対して適合する答えである。

 

哲学者にとって、善の観念は至上究極の観念

ユダヤ教にとっては善の観念はビリから二番目の問題。

聖なる者なくして、善は存在しえない。

善は底辺であり、聖が頂点。

 

「ある」ということ!

「世界が存在する」ということ!

そして、この私がこう問いかけることの神秘!

こうして、ただ存在することの神秘の前に立ち尽くすだけで、「ああ神様」と

彼は言います。

「神は人を尋ね探している、人も神を求めよ。」と。

神と人の出会いは、卒啄同時の出来事なのです。

 

日本における神道においても、

何よりも先行されるのは「神との対面」である。

人間的思考の枠組みの中に自然を位置付けその自然の中に神が現われるのではなく、

自然よりも先なる方が自然の中で私に顕れるのです。

世界、人間から切り離して神だけを体験することはできません。神の直接体験のなかには宇宙も天地も山も海も人間も動物も植物も黄泉もすべてのものが神を源として含まれているものなのです。

キリスト者は自然の中の神体験を神道から大いに学ぶべきだと思います。そうしなければキリストがいのちをかけてもたらした道は日本人の血となり肉とならないでしょう。

 

イエスは言います。一番に、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えてあなた方に与えられる。

迷ったとき、どうしていいか分からない時、まず求めなければいけないことがそれだと思うのです。

 

閉じこもって、「神様自分の問題をどうにかしてください」だけじゃいけないと思うのです。

一教派、一グループのうちに特権的に閉じこもっていることは、イエス様の望むことではないでしょう。

真理から遠いのは、この世には永遠の都はないと思って、地上での勤めをないがしろにして注意を怠る人です。

告白するのと同じ信仰で、神様から呼び出されたことの崇高さを示し、それが透けてみるほどにすべきなのです。

職場や、日々生きる現場、飲み会でもキリストを携えて、

一人一人の存在の奥に神の似姿を見る。特に苦しんでいる人のうちにキリストがいる。

そうするとたまりませんよ。

「You are loved.」と宣言する。

「宗教」を伝えるのではなく、愛を伝える。

イエスが直接天から声を響かせることはできない。これをできるのは、キリストに触れて救われた私たち人間だけ。

あとは、キリストが働く。

 

八紘一宇。すべての人が同じ屋根の中で一つの家族として互いに助け合ってやっていく世界。

 

「ともにあった」「私たちのうちに」

神さまは一緒にいたいんです。

私たちと共に居たい。

十字架の苦しみや死も一緒に分かち合いたい。

 

いつも一緒に居てくださる神様!

キリストは生きておられ、私たちの間で働かれ、私たちみなをいのちで満たそうとしておられます。

キリストは生きておられます。そして、私たちに生きる者であって欲しいと願っています。

先日の、教会での親子講座の感想いただきました☺️✨

子育てでも家族でも、
「安心して想いを受け止めてもらえること」がとても大切になってきます♪

「昨日は貴重なお時間を割いて講座を開いて頂きありがとうございました。
コミニュケーションや聞くことが大事だと普段から認識はしていましたが、なかなか上手く出来ていませんでした。
今回具体的にどう聞くことが大事なのか、どんな姿勢が大切なのか深く納得出来たことで、これからの生活にすぐにでも役立てることができそうです。
聖書を引用してくださったので面白味もあり本当に楽しめました。
また次回があれば参加したいです。
ありがとうございました。」

「講義もとても気付きが多くて、私としてもほんとにありがたい機会をいただきました^ ^
子育て世代だけでなくたくさんの方にこういう機会があるといいですね^ ^

いつもありがとうございます❗️」

とても嬉しいです♪

聞き方、話し方は、
親子関係だけでなく、
会社でも、
サークルでも、
クラスでも、
いろんな現場で、役にたつはずです。

あらゆる共同体や組織が固定化してくると言えることなのですが、

「安心して想いを語ったり、受け止めたりする場所」
「対話」
がなくなっていき、
時代のニーズにあわせた変化を起こしていくことができず、
形だけと固定メンバーだけが残って、
少しづつ衰退していくのです😱

「よくやりがちな間違い」と
「ちょっと小さなコツ」を知るだけで、
場の居心地の良さは劇的に変化していきます❤️

これを全体で一気にやるには時間も労力もかかりますが、
数人規模の小さいところから、成功体験を重ねていくこと。
小さなパン種を入れると全体が膨らむように、
本質的に大切なことを、草の根でやっていくことが、全体に革命を起こしていくのです✨

上からの指示を待つのではなく、
アイデアはちゃんとわずかなところからでも、
自分から自分から実行して、
道をつけていくこと。

もし、こういうこと「いいな」と思ったら、
あなたも是非知恵と工夫をこらして、
小さなところから始めてみてください✨

また九月ごろに開催したいと考えています♪

 

 

●「あなた方を襲った試練は何一つとして人間に耐えられないようなものはありませんでした。

神は信頼に値する方です。

耐えられないような試練にあなた方を遭わせるようなことはなさらず、

むしろ、耐えることができるように、試練と共に抜け出る道をも用意してくださるのです。」

(コリント一10:13)

 

「神さまは乗り越えられない壁は与えない」とよく言われますが、聖書をちゃんと読んでみると、あれは違います(笑)

やっぱり、人生には乗り越えられない壁って厳然としてあると思うのです。

ですけれど、それって「乗り越える必要のない壁」なんじゃないですかね。

大変なことはあるけれども、抜け出る道も用意してくださっているということです。

 

壁は乗り越えなくてもいい。

回ってもいいし、引き返してもいいし、別の乗り越えられそうな壁を見つけてもいい。

 

ウサギに虎のようになれと言ったって無駄です。

発達さんに、定型発達と同じようにならないといけないと思うとそれは一生が地獄です。

発達さんには発達さんにぴったり合ったやり方や場所があるのです。

 

それよりも、環境調整をしたり、工夫をしたり。

そうやっていると、思いもよらなかった道が開けてくるものです。

大切なことは、ちゃんと夢中になること、好きなことをやること、人をよろこばせること。

もっともっと柔軟に考えること。

固定観念を捨てて、現時点で「できる・できない」を捨てて、

「こうしたら面白くなる」というのをたくさん考えてみていく。

何でもゲーム感覚で面白く楽しくやっていく。

 

「平均台の上を落ちないように歩け歩け」というような強迫観念が私たちの中には植え付けられていますし、

もともと四角いのをもっと四角になれ、もともと丸いのをもっと丸になれ、と言われているような気がします。

 

乗り越えられない壁はあるけれども、

そこであきらめない。

希望を失わない。

 

押してダメなら引いてみる。

引いて駄目なら回ってみる。

回ってダメなら叩いてみる。

八方ふさがりになったら、上に行く。

上に行くというのは、ちゃんと心を神様だったらどうやって働くか考えながら愛でやっていくこと。

 

私自身、就職活動でどこにも採用してもらえず、バイトは次々と不適応で辞めて、絶望していましたが、それって要するに、かなり狭い世界の話。

周りの人がどういうとか、SNSの暗い投稿とかそういうものに影響されすぎです。

あと、何回かうまくいかない経験をするだけで、「そういうもんだ」「ダメなんだ」という脳になっちゃってる。

どれだけ挑戦したの?2~3回とかそんなんでしょ?

百回、千回やってみたらどうですか。

神の「現実」は、前頭葉のつくりだした不安の妄想的なリアリティより一億倍以上。

いろんな本を読んだり、自由に生きている人に出会うたび、「ああ、そういう生き方も全然ありじゃん」と思って、そっちに舵を切ったことが成功につながりました。

大変なことは全くないわけじゃないけれども、ちゃんといつも「可能性が開かれている」ということを忘れないでいて欲しいものです。

●「まず、神の国とその義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えてあなた方に与えられるから。

だから、明日の事は悩まないで。

明日のことは明日自らが思い煩う。

その日の苦労はその日だけで充分なんだよ。」

(マタイ6:33~34)

 

先行き不安でこれからどうしたらいいか分からない、

体調を崩して働けない。

貯金もない。

でも、働いても働いても暮らしは良くならず、生きるために働いているのか、金のために生きているのかわからない。

 

そういう時は、空や花や鳥を観察してごらんなさい。

 

 

働いていますか?

でもちゃんとその日暮らしで、悩むこともなく、神様が生かしてくださっている。

人間の方がはるかに優れた者なんですから、

一旦「人間モノサシ」捨てて、「神様視点」で生きてみませんか。

「まあ、なんとかなる。どうにかなる。」

こっちの方が、本当です。

「大丈夫」

こっちの方が真理です。

「もうダメだ。」

これは人間の脳のつくりだした錯覚です。

不安や心配事の9割は起こらないといいます。

恐れや不安は神様がつくってくださった自分を守るための防衛機制なのですが、

行き過ぎちゃうと、それが「本当の私」に変わって主導権を握り始める。

 

でね、生きていく上で、一番大切にしたいものは何なのか、ということです。

 

神の国、神の義って何なのかそれぞれ考えて欲しいんですけれど、

神さまの望む世界ってどんなんですか?

って。

 

そっちの方向に舵を切って、生きるようになれば、必要なものってちゃんとやってくるし、そうじゃないとおかしい。

 

ていうか、神の国って、それこそ人類みんなが求めているものだから、

それに対しては、必ず協力者が現われざるを得ない。

自分一人が生きていくことしか考えていないから、生きるのがしんどい。

だから、本気で「神の国」を目指してみませんかということ。神主体のアクションに人間の側で自由に協力していく。

 

一部の人だけが幸せで誰かが一人で泣いていたら、それは神の国じゃない。

自分だけ偉い思いや特別な思いをして、人を従えるようになったり、搾取するようなこともそれは違う。(いつも誘惑というものはあるけれども。)

信じる人間や特定の集団の人間だけ特権的に救われて、他の人たちは「かわいそうな人たち」でいいのかな。

 

一人一人の人が、神様の子としての尊厳と自由を認められて、

お互いに認め合って、分かち合っている世界。

 

私が私であれていい。

あなたはあなたでいていい。

目の前の一人一人に神の子としての尊厳を見て、その人がその人であることを互いに喜び合えること。

愛し、愛されている現場。

 

特定の誰かだけが行ける天国とかじゃなくて、

過去のことに支配されることもなく、まだ来ていない明日のことで思い煩うこともない。

安心して、いま・ここを夢中で生きている。

何教とか何人とかそういうこと関係なく、

必要なものは、みんなすべて分かち合っていて、「俺の物」と言って、比較し合って苦しむこともない。

すべての人はみな、同じ屋根の下の一つの家族。

 

そういう一見夢物語みたいなビジョンって、私たち人類のイメージの中に組み込まれていて、

たぶんそれは、神様が人間の心の奥底に「本当の望み」として植え付けているんじゃないかなあ。

神さまは何かと言ったら愛。

なんでこの世界をつくったのかというと、

溢れる愛を分かち合うため。

 

すべてをつくられたまことの親と、その親の地球上に伸ばした手である独り子と、親と子を結ぶ愛の心の「交わり」こそが神の正体。

私たちは、その交わりと愛に似せて作られている。

 

でね、不思議なことに、そういうことを本気で目指してやっていくと、

それに必要なものって向こうからやってくる。

 

というか、そもそも、人類って二百万年もの間、そういう生活をしていたのが当たり前だったのであって。

毎日がキャンプとバーベキューと、遊びまわり、それがそのまま学ぶことにつながり、火を囲んで語り合い、物も心も分かち合い、子育ても共同保育で、いっしょにご飯。

今でもそういう暮らしをしている部族にはストレスがほとんどないそうです。

 

どっちかというとここ数千年の都市文明で、人が所有や貧富の格差に縛られて生きている方がかなり不自然なのです。

研究でちゃんとわかってることなんだけれども、もともと、人は戦争をするようにはできておりません。

奪い合うようにはできておりません。

分かち合い助け合うようになっている。

 

だけど、もう都市文明の圧力とか、自分たちの中にある欲望によって、自力で戻ることがすごく難しくなっている。

心が痛みで叫んでいる。

「こんなのおかしいよ!」って。

 

イエスさまやお釈迦様が出てきた時代も、不思議と人類の都市文明が成熟して貧富の格差や差別が際立ってきた時代でした。

どっちかというと、支配機構と結びついた宗教に対して異議を唱えた側面は大きかったんじゃないかな。

 

でもじゃあ、縄文時代や有史以前に戻れとなると、そんなことをしたら恐ろしいことになる。実際にそういうパラダイスを国家レベルでつくろうとしてこの世の地獄が出現したけれど。

 

目指すところは、「楽園の高次の回復」。

文明を滅ぼす必要はないけれども、文明の先にそういうお互いの自由や尊厳を認め合い分かち合っていくような世界の方向にベクトルを向けていくこと。

 

 

●わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、日々自分の十字架を担って、私に従いなさい。

(ルカ9:23~24)

 

自分の十字架を担って、だって。

ううっ、やだなあと思う。

そんなのなければいいと思う。

自分自身から逃げない。

 

これは実は「一番楽な道」「幸せになれる道」だと思うのです。

 

だって、イエス様も言ってるじゃん。

「私の(くびき)は負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11:30)っつって。

人生の重荷を軽くする方法ですよね。

頑張って「自分の十字架を乗り越えよう」

だったらどうですか?

 

発達障害、がんばって努力して、症状をなくして健常者と同じようになったらハッピーになれる。おめでとう。

精神障害、うつは、前向きな考え方を心掛けて、辛さに意識を向けず、根性で前に進んでいく。

どうすか?

それで仮に乗り越えられたら・・・どうすか?

どうしてもできない人は、

「あいつだってできたんだから、お前の努力が足りない」っつって、しんどくなっちゃう。

「やり方が間違っている」と永遠にいろんな人からああだこうだと言われて、疲れ果ててしまう。

そして、自分を余計に責めてしまう。

 

あるいは、「そんな自分の重い十字架なんかもういいかげん捨ててしまおう」だったら?

過去の辛い出来事にとらわれず、前を向いて生きる。

とても素敵なことです。

ですが、捨てよう捨てようと思っても、捨てたと決意しても、また再び十字架は戻ってくる。

必死に抵抗する、

見て見ないふりをする。

 

頑張って頑張って、幸せになろうとして、何かが満たされないまま、ふと心が空しくなり、頭が真っ白になり、倒れそうになる。

誰にも自分の十字架の事なんて打ち明けられない。

それでも前に進んで行かなくちゃいけないから、押し込めて目の前のことを進めていく。

わけも分からず疲れ果てて、涙があふれて止まらなくなる。そのうち、感情すらも枯渇してきて、凍り付いたようになる。

これがずっとずっと続く。

 

これが要するに、「自分の命を救おうとする」

ということで、しんどい。

結局、乗り越えられなくて、絶望しちゃう。

結局自分のことしか考えていない。

自分に対してもあれはダメだ、こうだからダメなんだと、厳しくなるし、人のことに対してもいちいちそれは違うあれは違うとジャッジし始める。

 

大切なことは、「一人で抱え込まないこと」なのです。

そして、誰かと共感して、一人じゃないよと、言われ、伝えることなのです。

そのためには、「ありのままの私」を受け入れること。

障害や生きづらさを武器にしちゃう。

愛にしていくこと。

これは自分自身しかできない。

 

起こる出来事のすべては、導かれており、自分を成長させるために起こっています。

このことを覚悟をもって受け入れることで起こる出来事ががらりと変わってきます。

自分の人生を自分で引き受けること。正面から受容すること。

 

自分の十字架をしっかり担うことで

イエス様がそれを軽くしてくださる。

同時に、みんなで一緒に担ぐ、ということでもあるし、

誰かどこかで苦しんでいる人の人生の重荷を一緒に担いであげているということでもあるのです。

自分の十字架を担う、ということは同時に、それがどっしりと担われているということ。

 

十字架はもし、それが愛によって担われるのであれば、軽くなるばかりでなく、素晴らしい恵みが生み出されていくものなのです。

 

私自身も、じぶんの生きづらさや障害を無視して、頑張って頑張って、前向きな思考さえあれば成功できる、とやっていたわけですが、

「もう、ダメ」となり、

現実を突きつけられて、それを受容することにしました。

そこからです。

障害年金をいただいたり、

自分に合った職場と出会ったり、

同じ想いをした人の助けになったりつながれたりし始めたのは。

 

恥ずかしいと思っていたところが、

実は愛すべきところなのだと気が付く。

 

自分の痛みや苦しみを通して、同じように苦しむ人と連帯していく。

「いろいろしんどいことあったけれど、よかったなあ」となっていく。

 

自分一人の十字架でなく、

そこから歓びが始まっていくというような、愛につながっている十字架。

●「では、行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)

 

カール・ヒルティは『幸福論』でこう言います。

「初めに真理として認識したわずかなものをすぐさま実行に移すこと。

これがより大きな認識に到達する唯一の道である。

まず最初に、一切を理解してその後にそれに従って初めて実行しようという人は、結局始めないことになる」

 

いいことを聞いたら、小さなことでも即実行することが大事なのです。

やってみて初めて分かること、肌感覚として見えてくることは何よりも学びになります。

 

「永遠の生命を得るためにはどうすればいいですか」という律法学者(宗教家)の質問に対して、

イエスは「律法にはどう書いてありますか?」と質問に質問で返します。

「全身全霊であなたの神を愛すること。隣人を自分のように愛すること。」

テストでこう答えたら、「正解」となるでしょう。

 

「困っている人がいたら親切にしよう」ということは、

じゃあ、今から小さな親切を誰かにできるか、そういう想いをもっていざという時にぱっと動けるように日々を備えておくことでもあると思うのです。

 

家に帰る途中、

小学生の女の子たちが、川にボールを落として取れなくなっていたので、

足を水につけて取ってあげる。

「ありがとうございまーす」を背中に受けつつそのままササっと手を振りながら帰る。

ものすごく気持ちがいい。

 

基本的に自己陶冶(とうや)というのは、人助けをするためにないと、近寄りがたいよね、と思います。

「自分に厳しく、人に優しく」という言葉がありますが、

自分に厳しい人はたいがい人にも厳しい(笑)

自分に優しく、人にも優しく。

 

結局、近くの人としっかりつながること。ちゃんと「友達」「家族」になること。

 

でもね、「隣人になる」ということは、リスクも伴います。

絆は「きず」も含みます。

 

学生時代、

ホームレスの方を家にあげて寝床と食事を提供したら、

大家さんから、「それはやめてください」と言われたり、

教職やってたとき、

問題を抱えた生徒を支えよう支えようとして、相互依存的な関係になってしまい、自分のキャパシティがなくなってしまい、ブチ切れて退職してしまったことも。

教室で独りぼっちな生徒二人組に褒めて声を掛けたら、ずっと職員室の前にいて、そのまま夜の街を終電をなくすまでついていき、四六時中電話がかかってきて、

ブロックしたら、最終的にお巡りさんから連絡が来たり。

晴佐久神父の講演会で入場料の五百円を返金され、

「これで誰かに純粋贈与をしてください」と言われ、

学校の外で、帰りながら、発達障害の兄弟の話や将来の夢をじっくり聞いて、

その五百円でコンビニでちょっとおごってあげたら、「セクハラ」ということでクビになったり。

真夜中に電話がかかってきて、ブチ切れられながら、自分の悲惨な身の上の不幸話を語られることもあるわけです。

 

そうした現場を前に無力感、深く傷つくこと、見捨てたり裏切らざるを得なかったこと、罪の意識にさいなまれること、誰にも話せない、打ち明けられない、

自分など生きている価値がなくて、誰にも必要とされておらず、死んでしまいたいということもありました。

それでも、関わらずに通り過ぎるよりはマシでした。

 

隣人に「なってあげた」と思うことが、実は上から目線で、実のところ全く自分のかけた欲望を満たすためだけにやっていたことであると知ります。

「私が」やろうとしていたのです。

 

実は自分こそが、強盗に置き去りにされて自分では動けなくなって、助けを求めざるを得なかった旅人だったと気が付きます。

 

実行してみて、挫折して、初めてわかる自分の姿があります。

イエスは私にとってはまだ異邦人、つまり「どっか遠くの別のあいつ」でした。

自分が倒れて動けなくなっていたところに、彼は、隣人、すなわち友達となって、私の姿に胸を痛め、駆け寄り、抱き起し、

そのかけがえのない生命まで捨て与えてくださったのでした。

このことを書きながら、あふれる涙を抑えきれずにおります。

 

「永遠の生命」って、自分一人だけとか特定の選ばれし集団で修行して、一生懸命祈って、宇宙の神秘を垣間見て、「あなただけは他の人とは違って偉かったね」と神様に認められてほめられることとは違うような気がするのです。

 

ちゃんと、深いところで、愛とつながること。それは同時に、人と人とがちゃんとつながるということ。

お互いに、地上での人生はあっという間に過ぎ去り肉体は灰になっていきます。

ですが、もし死んでも死なない永遠の生命があるとしたら、それはきっと愛のうちにある。

 

無限の物理空間の中に捨て置かれたような人間存在を考えると寒気がします。

でも、愛の中でのみーー実際に愛するということ、愛を受けるという現場の中でのみ、人間は永遠を垣間見、そこに神の天地創造の秘密を見るのです。

 

●天の父が完全であるように、あなた方も完全なものとなりなさい(マタイ5:48)

 

イエスは私たちに「完全になれ」といいますが、

どこかはるか高い基準があって、努力して、外面的にも内面的にも百点満点で、どこから見ても非の打ちどころのない道徳的人間になろう、ということではないような気がします。

「私が」がんばって、がんばって「パーフェクト・ヒューマン」になろうとするのであれば・・・そういう風にして「神近き人」となることを目指してしまえば、人はきっと永遠に到達しえない息苦しい人間完成の道のりを、欺瞞のうちに歩まなければならないでしょう。

 

神さまが神様で完全なように、神さまは一人一人の存在を、完全なものとしておつくりになっています。

「自分が完全なもの」としてつくられていることに気がついて、戻っていこう。

 

私が命令しなくても勝手に伸びていく髪の毛に、

何も思わなくても勝手にものを食べ消化してくれる内臓さん、

ずっと血液を動かし続けてくれる心臓さん・・・

数え上げたらきりがありません。

 

「ただ、自分自身でありなさい」

何ものにも左右されず、外側のモノサシや基準で自分をはかることなく百パーセントあなた自身でありなさい。

 

同時に、それは自由であること。

であること。

自分自身を完全に発揮して生きていくこと。

 

私は私であっていい

あなたはあなたであっていい。

それが「完全である」ということなのではないでしょうか。

●隣人をあなた自身のように愛せよ(ルカによる福音書10:27)

 

これを読んでいらっしゃる人で、「自分のために人を利用する事ばかり考えている」という方は少なめだと信じたい(笑)

どちらかというと、人の役に立ちたいと思っていると思います。

他人の気持ちをつい考えてしまって、いっぱいサービスして、優しくして・・・でも、自分のことが愛せず、認められず、いいところが周りから見てたくさんあるのに、「自分は本当は価値がないんじゃないか」と思っていらっしゃるのではないでしょうか。

人の期待に応えなきゃ応えなきゃと思って、疲れ果てる。

ぼんやりして集中できずうっかりミスをしてしまい怒られたりクレームを受ける。

そして激しく落ち込んで、もう、自分の存在価値がないように感じる。

 

何か新しいことに挑戦して一歩を踏み出そうとすると、

頭の中では、ずっと過去の失敗や傷ついたり見捨てられた記憶がリピートし、フリーズして動けなくなる。

誰も分かってくれない、受け止めてくれない、と思う。

そんな自分が嫌でさらに抑えつけ、前に進めなくなる。

 

神は、自分を愛するように言います。

無条件にすべての人を愛すること。自分自身も含めて。

 

優しいあなたは人のことにたくさん気を遣って優しくしていると思います。

人にたくさんありがとうを言っていると思います。

でも、ちゃんと自分にありがとうを伝えていますか?

 

自分を愛そうとすると、

「そんなの絶対無理ーー!」と心にブロックがありませんか?

 

そのブロックを「罪」というのでしょう。

罪とは、心の「的外れ」状態のこと。

完全で愛である神と心がつながれないで、なにか邪魔している、覆われているものがある。

 

神はどんなあなたでも無条件で愛してくださっているのに、どうも私たちの心の奥底にはその愛を信じられない、拒絶したい、許せないと思い、その愛が迫ってくるのを恐れる習性があるみたいです。

だから、「罪」というと「裁き」「責められる」こととセットで考えてしまう。怖い。どうしようもない。だから認めたくない。ごまかそうとする。

本当の意味で自分自身を愛せないから、自分に対して不都合な人をジャッジすることをやめられず、悪口を言ってしまったり、人に言われたことでいつまでも傷ついたりする。

傷ついた心は、それを満たしてくれるロマンを求める。自分を本当に受け入れて求めてくれる相手を現実に探し求め、その理想像に合致する人が現われたら好きで好きでたまらなくなる。だけど、それは一時的な関係で幻想でしかないと知る。次第に、依存的な関係になる。とっかえひっかえ新しい相手を見つけて期待してがっかりして、と繰り返してしまう。

でも心には一抹の空しさや満たされなさばかりが残る。

 

清く正しく美しい神は、そんな自分にとって都合が悪い。

真面目に、真面目に、ハッピーに満ち溢れた自分で居なきゃいけないのに、どうもそうあらねばいけないのがきつい。

解っていても、どうしても無理。

 

神さまがいるのは、そういう自分自身を愛せないし、本当の意味で人も愛せない私たちのためなんじゃないでしょうか。

人間が自分で清く正しくなれるんだったら、清く正しい神様はいらない。

 

そういう「愛を受け入れられない・愛せないメンタルブロック」から解放するためにイエス様は来ました。

自分で自分を受け入れられない時でも神様は「大丈夫」「安心しなさい」「もう自分を責めなくてもいいよ」と無条件に語りかけてくださっているとしたらどうでしょう。

ともかく、毎日一ミリずつでもいいので、

十字を切って、

「神はこんな私を無条件に愛している」

「神は私のすべてを許している」

と受け入れる。

そして、ちゃんと自分自身を愛して、感謝を伝える。

自分を愛することは、それは、自分のためでもあるし、神様のためでもあります。

 

毎日、自分にありがとう。

細かいこと、なんでもいいです。

トイレに行った時、ありがとう。

つめさんありがとう。

心臓さんありがとう。

これを読んでくれている目さんありがとう。

歩けたら足さんありがとう。

 

はじめはそれが難しいかもしれません。

「罪」が全力で抵抗してきて、「そんなの無理!」とザワザワして諦めさせようとするかもしれません。

でも大丈夫。

一ミリ一ミリでもいいので、自分を愛していく、愛を受け入れる習慣をつくっていく。

 

自分を受容し、ねぎらい、愛することができるようになると、

必ず、あなたの周りで起こる現象が変わってきます。

●神はご自分にかたどって人を創造された(創世記1:27)

 

みんなみんなちゃんと必要だからうみだされて存在している。

あなたは、神の最高傑作です!

 

そう思えない?

でも、すべての存在をうみだした大いなる意志は、あなたをちゃんと望んで、自分の子として大切に、この上なく尊いもの、かけがえないものとして手のひらの上に刻み付けるようにして片時も離れずたえず語りかけてくださっています。

 

障害があったとしても、

親から愛されなくて、もう自分に価値がないとか生きていても仕方がないとか思うかもしれない。

ほんとうにここまでよく生きてきただけで嬉しいです。よく頑張ってきたね。

ありがとう。

 

その辛いこと、しんどいことは、ちゃんと寄り添い、いっしょにその荷を背負って、

「本当の幸せ」に向かっていくはず。

もし、あなたが、自分のことだけでずっと悩んでいたら、その苦しみ同じような誰かのために祈る、人の役に立つ。

 

みんなみんな、神の子。

自分を大切にしたい、幸せになりたい、そう思って生きている。

そして、それぞれがその人だけのかけがえのない人生の物語を生きている。

 

私は神に似せて作られた大切な存在。

出会う人すべてが、その奥底に私と同じ尊さを持っている。

 

そういう目で、出逢う人出逢う人を観たい。

この人はこれまでどんな人生を歩んできたのか。

どんなことが好きで、どんな辛いことがあり、本当は心の奥底で何を望んでいるんだろう。

静かだけれども、胸にあふれてこみあげるあたたかいものがあるはずです。

これから書いていく記事は、発達障害や親子関係で辛い思いをしてきた人、

自分に生きている価値なんかないと思ってしまう方、

「聖書?」「キリスト教?」何それ、詳しく知らないけれど触れるのがはじめてという方、

別に特定の宗教を信じているわけじゃないけれど、

色々しんどいことがある、心の中になにか埋められない穴があって、ちょっと楽になりたいなあ、みたいな人にむけて書いているつもりです。

「説明」「知識」というよりも、想いを込めた「お手紙」を、

神父でも牧師でもない一信徒が、自分の人生の実感を通して、「あなた」に伝えたい。

 

別に、「キリスト教」という特定の宗教を信じなきゃいけない、というつもりはありませんし、

 

もし神様がいて、すべての存在をお創りになったのだったら

そもそも、「宗教」の枠組みにはまるんだろうか、

普遍的な、何教何宗関係なくすべての人に、

とりわけ、すごくしんどい思いをしている人、ひとりぼっちだと思っている人、居場所がない人、「もう自分なんか救われない」「神なんかいない、信じられない」と思っている人のところにこそ、優先して一緒に居て、「あなたの気持ちわかるよ」「大丈夫」と共に重荷を担っているのが神様なはずです。

そして、本当にあなたをいろんなとらわれや恐れから自由にして、本当に自分らしく生きる喜び。

 

いわゆる「宗教」「一神教」をこえた、透明な、存在している限りすべての人を無条件に包み込む、そういう特定の宗教に収まりきらない普遍的な誰もがそうだよねといいあえる

その意味で、「ゼロ神教」に近い「大いなる何か」を想定していただけたらと思います。

その方は無から有を愛の呼びかけによって生み出し、今も生きておられ、私たち一人一人を一人残らず自分の子どもとして大切に見て、支えています。

 

二千年と少し前にイスラエルのナザレに生まれたイエスは、その大いなる存在である方に対して、「天のパパ」「ママ」と親しく呼びかけていいのだ、と示しました。

イエスは、その見えないけれども慈しみ深い天の父である神が、具体的な形で地上に伸ばした手であり、「完全な神の子」です。

もし、神がいて地球や人類を愛で生み出したのなら、作りっぱなしにしてほおっておかないはずです。

ちゃんと生み出した者の責任として、「必ず救う」とアクションを起こすはずです。

 

一緒に居るだけで、安心できて、自分らしくいられる、自分が自分であることを喜ぶと同時に、相手が相手であることを喜び合え、「かけがえのない人」とその人の存在の奥に深い尊さや愛おしさを感じられる、そういう現場。

あるいは、もう誰も自分のことなんか分かってくれない、独りぼっちだ、誰も愛してくれない、何をしても心の空しさや寂しさを埋めることができない、そしてそれを誰も満たしてくれず、自分自身いかなる努力をしても焼け石に水という絶望的な状況の中に、突如として、無条件の大きな愛が大波のように流れ込んでくる状況。

電気のスイッチをパチンと押したら一瞬にして部屋全体が明るくなるように、

心の奥底、存在の全体に、神様がタッチしたら、自分にも誰にも動かすことのできない閉じていた心の重い重い扉のようなものが開いて、がーっと「自分の全存在がここまでして愛されている」という感覚が流れ込み、あふれてあふれて仕方がなくなり、涙が止まらなくなる。

そして、心の奥底の中に新しいいのちが流れ込んでくると、「え?あなた本当に同じ人なの」と思うくらい、根底から打って変わって、別人に・・・というよりも「本当の自分」になる、といった方が正しいかもしれません。

 

そこに「ああ、ここに今神さまが一緒に居てくれて実際に働いていてくれている」という実感が生まれるわけです。

「マジで神様生きてるな~!」「ああ!今も一緒に居てくれるんだ」と嬉しくて仕方がない。

好きな人と両思いになって告白して付き合えることになった時は、まさに「トップ・オブ・ザ・ワールド!」という感じで「私って世界一幸せな人間」と思いますよね(笑)

神様と出会うということは、神様から「ずっとあなたが大好きでした」「あなたの存在はあふれる愛ゆえに私が望んだ」と目を見つめながら告白されるということです。沢山いるうちのワンオブゼムのあなたではなく、かけがえのないあなた、世界にたった一人しかいないあなたとして。

その喜びが、存在の根底レベルで起こる。

そういうことを思うだけで、いや、ただ存在があるだけで、その存在の神秘に打たれて涙がボロボロあふれ出てくきて、「あー!神様」と叫びたくなるようなちょっと異常な事態になる(笑)

そうすると、この喜びを伝えたくて仕方がなくなる。

どーーーーーうしても、福音・・・つまり、あなたは愛されて望まれて存在しているんだよ、ということを伝えずにはおれない。

人を愛せずにはいられない。

あの人もこの人もみんなみんな尊いなあ、望まれて愛されて生まれてきたんだ、ああ、出逢えてよかったなあというそういう気持ちになる。

 

いや、本当にそういう現象はあるわけです。

そういうことが、いつもじゃないけれど、そういう「出会い」が一回あったら終わり、じゃなくて、小さく気が付かないレベルのものから、人生をひっくり返してしまうレベルのものまで何回も何回もある。

いいことばかりが続くわけじゃない。凹むこともある。

「なぜ?神様」「いるんだったら返事しろ!」と叫びたくなることもある。

落ち込むこともあるし、疲れ果てることもあるし、絶望して動けなくなってしまう時もある。

それでも、人は、神様に出会い続ける。

というよりも、そういうときにこそ、思いがけない形で向こうからやってくる。

 

「信じる」ということは、本当に生きているといろんなことがあるけれども、それでもなお、目には見えないけれどもこの世界をつくった「大いなる意志」は確かに働いていて、それは必ずいいものなんだ、というところに自分を投げ出していくこと。

恐れが出てきたら、勇気をもって愛の方向に舵を切るという決断なのだろうと思います。