だいたいの悩みの原因というものは、
「自分の中の理想像」と現実のギャップにあるわけですが、
こと私を悩ませている大きなストレスーーーかつ、誰にも相談できないでいるもの、が
「神を前にした絶望」
なのです。
信仰の模範や、こうありたい、こうなってほしい、こうあるべきだ、
「私の生涯かく生きて、かく死にたい」というような
というような、そういう憧れや、情熱・・・
そうですね、
たとえば
友のために命を捨てるような愛、
地上の一切のことをちりあくたとみなし、振り捨てて、ただ神との愛のみにすべてをささげたり、
あらゆる人をまるでこの世でたった一つの尊いものとして愛さずにはおれぬような者とか、
彼が祈り、神の愛をシンプルに語るだけで、罪に苦しむ人々が救われ、病も癒されていくとか、
いや、そういうわかりやすい聖なる者や預言者のような者でなくとも、
情けないありのままの自分、悩み苦しんでいる自分を偽ることなくそのまんま出し、
いや、少なくとも、
「神様大好き」な私がいる、
神を愛していたいという欲求にかられる一方で、
「もう、信仰するのに疲れた。
すべてを捨ててしまいたい。」
という私がいる。
「ちょっともう、神とかどうでもいい。」
とりわけ、
「宗教」〈について〉語る時だとか、
宗教世界周辺の世間話で盛り上がっている時だとか。
全然、信仰の話が出てこない時は、イラっとする。残念だと思う。
わたくし、
カトリックの所属・・・これは、洗礼・堅信を受け、まあ、「神から置かれた」、母というか、一族、といえるものなので、
生涯そこから地上的に行かなくなるとか信仰を捨てるとかはできるにせよ、
本当の意味で離れることはできない、のですが、
熱く激しい無教会派Bの集会はかれこれ出会って十年で、すっかり「所属」になってしまっている。
私は、ある時そこで、本当に迫ってくるような愛の聖霊の体験をして、
それ以来、なにか押し出されるようにしてなんかさせられてる気がします。
酔っぱらうと本音が出るといいますが、
ある時酔いつぶれて、起きてみたら、
「あなた、昨晩、キリストのことばっかり語ってましたよ」
と(笑)
ひとつの私の罪の傾向性と言えるものが、
「比較」である。
教派Bの群れに集う人の、神の生命の身を純粋に慕う美しさ、
住んだ瞳、
あれを見ているだけで、勝手に涙が出てくる。
自分の信仰なんて恥ずかしいと思う。
でも、彼らがふと「教会」や「カトリック」のことを悪く言うと
ーーー機関紙にはあまり露骨なところは問題提起として妥当な分は載せておりますが、
著作の見開き一ページが「今のキリスト教界なんかでは
○○といって××のようなことをやります」という調子でひたすら当時の教会の状況を批判していますが、
まさに、創始者のsoulは他宗排撃をしてきた日蓮に通じるものがあるかもしれません。
ーーーー
「おお!ほんとうにそうです。よくぞ言ってくれました」という批判から、
「明らかな誤解に基づく情報から」の批判・・・そして弟子筋が、先生の言うことを金貨玉条として、「カトリックとはそういうものだ」というのが続いていく・・・。
たとえば、三位一体ということをそこでは言わないのですが、
彼らのいう「三位一体」は、「三つの神様」を複雑や論理でつなぎ、とにかく神は三位一体なんだと覚えさせること。
うん、そんな神は私もなあ、と思うわけですが、
これも体験や中身が肝要であって、本当のキリスト体験は、
キリストのうちに生きることであり、父と交わることであり、それは三一神としか表現できない。
本当に情熱のあるカトリック信徒があれば、その小さな集会に一緒に混じって祈りたいと常々祈っているが、
その会話の中で、
カトリックの祈りのスタイルや腐敗や祈りのスタイルなど否定して傷つかせるようなことが一番胃がキリキリする程ストレス。
ローマ教皇がどうとかマリアがどうとか。
つまりです。
宗教生活のストレスは、
カトでは、信仰を話せる仲間がいないということ。
霊的な告白をできる人がいない、、、というよりも神父とそこまで語れる関係性をつくれていない。
熱く語ると浮く。
もう一つのところは文句なしですごいけれど、少人数の対話のある集会以外、
行くのが苦痛。
祈りが一生懸命すぎて、
まったく祈れない自分に落胆する。
今、仕事がことごとくうまくいっていなくて、
うつ病で通院中なのですが、
こういうのが、人生で、繰り返し起こりまくる。
意味が分からん!!
いや、ちょっともう、祈りたくないよ、と思う。
まじで、神様いるんだったら、そこで見守っていないで、
ちょっと何か働いてくれ
治してくれ
助けてくれ
金くれ!!
休ませてくれ!
と思う。
人生の意味とか、
宇宙の根源とか、
愛とか、
いいから、
私を楽にしてくれ!!
聖書読んでいても読めない。
全部、自分を責めている言葉にすら思えてしまう。
ちょっともう神とかもういいよ、
信仰を持つということが、辛い。
それは、
「神は生きている!信じるごとくになる!」と期待して、覚悟して、一生懸命祈る、祈ってみる。
でも、祈れない。
口だけの祈り。
形だけの祈り。
虚空に吸い込まれていく祈り。
祈っても、何も変わらない。
翌日もしんどいまま。
ちょっとだけ、しるしや奇跡がある。
感謝し、賛美する。
でも、また戻る。
自分が悪いのだ、と思う。
祈っていないからだ。
神から離れたからだ、
と自分自身にパワハラ信徒がするようなことを思う。
信仰が持てない。辛い。
こんな状況を、
恐くて、誰かに語れない。
信仰の篩にかけられ落ちた人間
脱落した人間
つまづいて聖徒の交わりから自らから出ていった人間
純粋な信仰を変質させてしまった、させようとしている、サタンの手先。
「そんなに思いつめないでくださいよ」
「あなたの信仰は立派です」
と人は慰めを言われるかもしれませんし、
逆に、
「祈りが足りない!
もっと命がけで祈って祈って祈り抜くんだ」
と愛をもって励まし、
また、祈ってくださる教友のありがたみはいかに応えうるべきか、ありがたくてもったいない限りでありますが、
なんか、もうダメだ、
と思う。
信仰の世界などというものから離れ、
すべてをいったん忘れて、休めたらどんなに楽か、
と思う。
しかし、
私の魂はすべからく神に向かって重力が向くように創られており、
この有限をこえた永遠の生命に出会わない限り落ち着くことがない。
宗教に疲れた。
こんな現代、宗教やってる人も少ないけれど、
圧倒的マイノリティなキリスト教で、
そのなかでも、いろいろ違う。
宗教の違い、とおうか、
親しくできないで論争ばかりしている状況に、
もういいやとおもう。
自分で新しく開拓するように、自宅で祈りの集まりをしている。
関西圏でもし来たい方がいたら、来てくださるととても嬉しい。
信仰に疲れた時は、
祈りに疲れたときは、、、
まず、仲間につたえたら、「やっぱり祈る」コマンドしかないと思うので、
すみませんお薬飲んでいるため、
文章めちゃくちゃでしたらすみません。
今日も死にたい。
死にたいとか表に出しちゃいけないで元気でできる封してやってるの、
そしてしんどいことを抑え込めていることも、
偉い。
自分偉い。
死にたいのは何でかというと、
だいたい人の感情が自分のせいにあると思っているから。
あらゆる人に好かれてみおとめられないといけないとおもっているから。
ああそうか本音をだしていいんだ。
神が信じられません。
いのるのに疲れました。
うつがしんどいです。
神に感動しても、集会がしんどい。
「信じこむ」ことは、盲目な気がしますし、
「信じない」ことは、孤独なことで
「信じられない」ことは、哀しいことです。
「信じている」つもりが、
実はただ「それにとらわれていただけ」だったり
「ただ頭でそういうことにしているだけ」だったり、します。
けれども、
「信じる人」が美しい、
と思うのはなんでなんだろう。
この世界が「信じない」ゲームの駆け引きの中で動き、
徹底的な検証可能性と証拠とデータと計算と理性のみによって処理されてしまう中、
それでも、なお、やっぱり、
何か一点、
何ものにも汚されることのない処女雪のような意志、
「信じる」
という真っ直ぐな光。
「信じる」ことは、
その人を本当にその人自身にするような気がするのです。
「信じる人」は、
「信じているもの」に、その人を照らし出されている。
少しだけでも、
「信じる人」になりたい、
ちょっとだけ
そんな美しさを持ちたい。
そう憧れます。
●「彼らは皆、婦人たちや、イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちと共に、
心をあわせてひたすら祈っていた。」
(使徒言行録1:14)
弟子たちは誰も「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
(ヨハネ21:12)
結局、神って「人間のつくりだしたもの」なんでしょうか?
よく、「何で神がいるとわかるのですか?」「なぜそう確証できるのですか?」と訊かれ、
あれこれと弁明しているうちに、自分の中の実感を言葉でうまく伝えられないことにもどかし想いです。
対して、分かる人に対しては、教派に関わらず、神に出会った経験というのは近いものがあるので喜びあふれて「そうそう!」となる。
他方で、歴史の中でいろんな宗教戦争があったわけです。
様々な教派によって強調点が全く違います。
同じ神を信じているはずなのに、お互いに「あそこは違う!」「うちこそが本物だ」と言い合っています。
内向きな教派のフィルターで他の立場を断罪します。
「本物」であろうとするあまり、そうでないと感じたものに対しては「どーうしても違う!」と違和感や怒りを表明せずにはおれないのです。
その様子を見て、「やっぱり神なんかいない」と多くの人が思う。
神とは、ものすごくリアルな共同幻想かもしれない。
「わかんないけれど、長く続いてきたことだし、そういうことにしておきましょう」って誰も何も言わないけれど触れない約束事にして、ただ機構の一部としての形を続けているだけなのかもしれない。
お金や法律は実体がないみんなの決め事に過ぎないにかかわらず、みんなが「ある」というゲームの中でそれを目的にしたり、悩んだり苦しんだりする。
「神」というのも、為政者が多種多様な人種をまとめるためにつくりだした発明品なのかもしれない。
ジョン・レノンは「神というのは苦悩をはかる概念にしかすぎない」(GOD)と歌いました。
私たちの遺伝子の中には「よりパワーを持ちたい意志」こそが根源にあって、それこそが世界を自分の都合のいいように解釈しているのかもしれない。
生きるのが辛く苦悩ばかりという人は次のように考える。
現実は矛盾に満ちているのだから、完全無欠で永遠の世界というフィクションを想定して、そっちこそが本物の世界なんだと言って同じように劣等感を抱えている多数派の人の共感を得て、納得させてしまえば、世の中をひっくり返せるんだと。
現代の常識である、「人権」、「民主主義」、「命は大切」、「人に親切にしましょう」というのは本当はタテマエでしかなく、人間の本当の姿は「北斗の拳」の世界みたいに、強い人間が暴力で支配し、殺し合うのが「ほんとう」の姿なのかもしれない。
要するに目に見えない何かを信じるとか崇拝しちゃうということはそれだけ現実に対する馴染めなさや疎外感やコンプレックスがあることの裏返しなのかもしれません。
神が人間をつくったのではなく、人間の脳が神をつくりだしたのかもしれません。
あるいは、宗教というものは、「麻薬」と似たようなもので、目に見えない彼岸の世界に浸ることで一時的に癒されたり救われたり自分が特別になったような錯覚は得るけれども、結局はただの現実逃避にしか過ぎないものなのでしょうか。
「聖霊を受けた」「神から愛されている」と称する喜びの体験なども、脳内化学物質のエンドルフィンだとかドーパミンだとか「躁的防衛」だとかなんとかで説明がつくかもしれません。
本当は、宇宙も地球も人生も全く偶然の産物で、意味なんかなくて、死んだらすべてが無になって、生きていることのすべて、世界のすべての活動というのは全くの暇つぶしとごまかしでしかなく、「とにかくよくわからないけれど人生には生きる価値があるんだ」「そういうことは言わないようにしましょうね」ゲームを回しているだけなのかもしれない。
公の場では、「神は存在する」ということも、「生きることにはまったく価値がない」ということも同様に一つのタブーとされている感はあります。
「そんなこと考えても仕方ないから問うこと自体やめましょうね」と。
もしくは、単なる「生き方の知恵」や「思想」の一形態、神話や迷信の一種かもしれない。
「信じる人にはいるが、信じない人にはいない」と主観の問題で片づけることもできる。
・・・でも〈本当のところ〉は「証明のしようがない」です。
だけど、「信じる」ということ・・・誰かの愛や未来や希望を信じること・・・その愛や希望に対して心を開くこと、受け入れること、そして一歩を踏み出すこと・・・こうした人格的な次元のことは、「証明」に馴染むんだろうか、と思います。
信じている人たちは、「実際にそういう働き」を明らかに感じている。
それもありありとリアリティをもって「体験」している。
上記のような理屈や説明を提示しても、「うーん、そこには収まりきらない」何かを生きている。
頭で「たしかにそう考えると整合性が付くな」じゃなくて、本当に生きて働く存在に出会っている。
それは、本人にも「説明」はつかない。
ひとつの体験や出会いを「証し」として表明はできるが、「それはどういうこと」と理性的な説明はなじまない。
ただ、現代の私たちの文明や考え方の枠組みって、ものすごく「クール」になってしまっていて、そうじゃないことは「フール」(アホ)みたいに思われがちです。
つまり、「それどういうこと」「そういう理屈でそうなっているのね」「なるほど」を解明する世界で生きている。世界も人生も結局ぜんぶその見方で説明が付くと思っている。
つまり、「何」の世界、「どのように」「そういうこと」の世界で生きている。
他方で、「誰と」「誰に」という人格的な交わりの現場のリアリティや意味が忘れ去られて、学校でも会社でも、人は単なる数や数値やデータになっていく。
それが、「結局何か」ということは色々言えるかもしれないけれども、
「誰か」ということに関しては、「あのお方だ」ということは名指しで言える。
その「誰か」と出会って、人生が変わったことは、事実。
そういう「私にとって出会いの意味」が問われるべきだと思うのです。
心の一番深いところというか、存在全体の意味。
個人的に呼びかけられている、ということ。
恋人と目を合わせて向き合う時、人は色々分析とか「これってどういうこと」「結局この体験ってこういうことでしょ」とかあまり考えないと思うのですが、
目の前の人に意識を全力で奪われるはずです。もしくは、気遣いをしたり、想いに興味関心を向けるはずです。
神様に関しても、もちろん全理性をあげて求めるし格闘もするのですが、一番大切なのは、つまり、全人格的をあげて向き合うということです。
もし、神が存在して、自分を知ってもらいたいと思うなら、対象化できる自然や宇宙のカラクリを通してだけでなく、ハートからハートへ、心の奥底に自分を打ち明けるように愛を伝えるはず。
恋人のことを「ちゃんと知る」ためには、対象として考察したりその人の属性やデータを収集するだけでは、やっぱり何かが抜け落ちていると思うのは私だけでしょうか。
その人のことをちゃんと知るためには、「もっと愛したい」と思うこと、どういうことにときめいて、どんなことが好きで、どんなことを大切にしていてに興味関心を持ち、語りかけ、聞くこと、すなわち対話すること、交わることを通して、「知って」いく。
もし、神が生きているなら、私の心の奥底になにがあるのかすべてを極めつくしておられる。
それでも、私は自分の心で自らを神に向かって「告白」する。
神の側も、私の心の深きところを通して、自らの愛を打ち明ける。
すべてをつくりだした大いなる意志は、自分を「私はある」(出エジプト3:14)と打ち明けます。原文のヘブライ語では、「エヒエー・アシェル・エヒエー」というのですが、
「ある」というよりも、「居る」というほうがぴったりだというのです。
つまり、「居るよ、居るよ」と人間に自分の存在を知らせようとする神。
「私は必ずお前と共に居る」(出エジプト3:12)
イエスは、この神に対して親しく、「アッバ」つまり、「パパ」と呼びかけていいんだよと、言いました。
神は、優しくて善い親であり、何でも話せる友人であり、見つめ合う恋人でもあります。
同時に、私たちは、他者を愛すること、隣人になることを要請されています。
人間が生きていく上で、「一番大切なこと」がきっとそこにはある。
一緒に居ることとか、分かち合うとか、助け合うこと、自由であること、心の奥底でつながること・・・。
一人ぼっちで、神についていろいろ考えていても、どうも袋小路になってしまうと思うのです。
ある種の強靭な精神は身につくかもしれませんが。
実際に、そうした神様を信じている人が集まって互いに助け合って、
しんどい思いをしている人を受け入れて、
しっかり共感し、つながり、心もものも分かち合って、
楽しくてうれしい、「ああ、幸せだなあ」と思える現場で、人は本当の自分に出会っていく。
すべての人が同じひとつの生命を生きながら、それぞれ世界に一つしかないユニークでかけがえのない自分としてお互いに生きる。
「神って本当にいるの?」と一人でグルグル考えていて、結局答えが全く分からなくなって、それを問うことも怖くて、この答えを東京のカリスマと呼ばれるある神父に聞きに行こうと決意して教会に行ったところ、彼は忙しい。
「ホームレスの食堂の手伝いして」と言われて、
初めて出会った教会の仲間と色々話しながら教会に集まったホームレスの皆さんにお茶やご飯を提供しているうちに、なんというか、「つながった」というあたたかい感覚があったんですね。
悩んでいたこと、聞かなくてもいいかな、と思いました。
もしくは、教会学校のキャンプをしている時、交わりがとても楽しく、夢中で、お互いに優しく心がつながる現場。
あるいは、幕屋でお互いに自分の抱えている悩みを本音で吐き出して、友のためにお互いに本気で祈る時、大きな愛が流れ込んでくるのを感じ、涙が止まらなくなる体験。
その時、「神って何」とか「神っているのかなあ」という質問をすることが野暮に思われる。
その必要がそもそもない、と思うのです。
泳いでいる最中の魚が他の魚に向かって「水って何か」と訊くようなものです。
だからといって、「ああ、神とはこれだ!」とハッキリ他人に納得いく形で言葉にできるとは思わないのですが。
ミスチルの「名もなき詩」に、
「愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて、気が付けばそこにあるもの」
とありますが、
きっと「神」のようなものも、同じじゃないかな。
きっとどんなよくできた「答え」も、現場や実体験と離れたら、結局「なるほど」にしかならない。
「神って何?」とか私たちは聞く必要がなくなる。
神を「概念的に知る」みたいなことはきっと永遠にできない。
問うとしたら、自分たちのよろこびに心打たれながら、「ああ、あなたは一体何者ですか?」と、存在の深淵に向かって「もっともっと出会いたいです」と呼びかけ、聴く。
だけど、いつか、その必要もなくなっていく。
気が付いたら、いつもそこにいてくれる。
ただ、いるだけ。もう言葉はいらない。
ただ、そこにいるだけを深く味わうこと。
結局、神というなにか考えられた想像上の形を一生懸命信じようとすると、なんだか的外れになっちゃう。
神が生きて働く場所はいつも具体的。
教会の中だけとか信じる者同士の間だけとは限らない。
本当に愛があってつながりあう場所、魂が響き合う場所にどこでもいつでもだれとでも。
●「私の神、私の神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)
●「渇く。」(ヨハネ19:28)
神に見捨てられた神。
神が信じられない、という時があります。
かくいう私も、今この文章を書きながら、
「こんな自分が聖書を語っていいのか」と恐れおののきながら、告白します。
自分など無価値で誰の役にも立てないと思うのです。
自分の心の中は空っぽで、神というものがよくわからないし、
イエス・キリストがやたらと遠く、まったく救いから遠く離れ見捨てられた気分になります。
いいえ、仮に私が神から呼ばれ目を付けられていたとしても、
「愛されているからこんな試練を与えられるのだ」と励まされたとしても、
「勘弁してくれ」と思いますし、
「もう、これ以上前には進めない」と思います。
自分の信仰が間違っていて、いつも断罪されているような気分になり恐れてばかりです。
自分の信仰が間違っているから、いつまでたっても変容できないのだ、いつまでたっても同じ悩みをグルグルと繰り返しているのだと。
誰にも会わずに、ひたすら逃げて逃げて閉じこもっていたい。
もう、すべてがどうでもいいや。
神というものから逃れて忘れて自由になれたらいいなと思います。
ものすごく一生懸命祈ったり、喜びに満ち溢れている人、
誘惑に負けず祈り続けられる人、素直に神を信じられる人、
そういう人たちを見て、「私はここにいるべき人間じゃない」「ついていけない」と激しい劣等感を感じます。
そんな自分を素直に告白できない。
一時期はこのあふれんばかりの喜びを告白せずにはいられなかった
信じている風に振る舞わなければならない。
自分から神から遠く隔たっていること。
正直そんな時もあります。
その時、「私の神」はどこにもいないのです。
私を見捨てて、「誰かの神」「あの人たちだけの神」になって、私には目もくれないのです。
「その神は、あなたたちにとってはありがたいものかもしれないけれど、私にとっては受け入れがたい」
「誰かの神」はそれを受け入れられない私にとって、重い重い重圧、応援という断罪となって、迫ってきます。
その神は私のことなど知らないのです。
「私の神」はどこかに行ってしまって、呼びかけてもやってこないのです。
すべてがまやかしに思える。
もしすべてが本物だったとしたら、私は信仰の篩に振り落とされた脱落者で、裁きの日には地獄か滅びが待っている。
イエスが「なぜ私をお見捨てになったのか」「渇く」と叫ばれたとき、
「ああ!この人も、いや、あなたも同じだったのですね!」と呼ばわりたくなりました。
それも、比べ物にならないほどの絶望の中で。
涙が止まらなくなります。
私は神が信じられません。必死に求めてきたつもりなのですが、見捨てられたような気持になることは何度もあります。
ナザレのイエスという人間は、「神の子」、「救い主」であると信じられていますし、このことを信じられれば「クリスチャン」というわけですが、その救い主の姿たるや私たちの理想や憧れなどとは全く程遠い、ボロ雑巾以下の扱いを受けて絶命したみじめな最期でした。
ただ、「人間になった神」であると信じられるこの男が、十字架の上でこう叫ぶとき、
とてもとても近く近く彼を感じるのです。
「見捨てられた神」だからこそ、見捨てられた人の気持ちが分かる。
しかし、彼は、死を待つだけのどん底のおいても、なお百パーセントの愛でありつづけます。
心を開いてくれた隣の死刑囚に対しては「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」といい、
ついてきた弟子に対して自分の母マリアをさして、「この人があなたのお母さんですからね。」という。
お弟子さんはマリアを家に迎え入れ、マリアはみんなのことを祈り、面倒を見て、互いにお世話しお世話され、血縁をこえたイエスファミリーというべき家族がそこから出来上がっていくのです。
人はどんなに孤独なときでも決して一人ではないのです。
●裁いてはならない。裁かれないためである。
あなたが人を裁くように、あなた方は裁かれ、
あなた方が量るその升で、あなたがたにも量り与えられる。
(マタイ7:1~2)
あなたに嫌な人や苦手な人はいますでしょうか。
「あの人って、○○だよね」と価値判断をしてしまう人。
「あの人は、○○だから、××だ」と思ってしまう人。
または、
「あの人、あそこが悪くてここが悪くて、ここをこうすればいいのに、もどかしい!」
「伝えているのに、なんで良くなってくれないんだ」
と思う人はいますでしょうか。
私はいます(笑)
つい頭の中で、「あの人は」「あの人は」「あの人は」・・・ばっかり考えて自己嫌悪に陥ってしまう。
そして、その人からも同じ理由で「苦手」と思われているかもしれません。
それ自体は、ごくごく普通のことです。
どんな人でも無条件に「好きになりなさい」とか、「仲良くしなきゃだめですよ」と言われたら、それは少し難しいものがあるかもしれません。
本当にこれは思っちゃうものです。梅干を思い浮かべたらよだれが出るように。
他人から言われた些細なひとことや、うっかり他人に言ってしまって傷つけてしまったかなという後悔が、ずっとトゲのように心に刺さって、モヤモヤして落ち着かない。
このトゲを解消するうえでの悪手が、その場にいない人の話、つまり陰口で盛り上がる、ということです。悪口に同調させる。
それは、何の解決にもならない。それどころか、根はさらに深くなる。
たぶん、あなたがいなくなったらその同じ口で、彼らはあなたの陰口で盛り上がっているはずです。
ちなみに、陰口大会で盛り上がり始めたら私はすぐさまその場を出ることにしています。
あと、人のうわさ話や悪口への同意を求める人とも付き合わない。
「私あの人苦手だなあ」でいったん区切るのです。
あの人は「嫌な人」じゃないのです。「私にとっての」嫌な人。
何で苦手なんだろうという理由をいったん書き出してみる。
ちなみに、私の場合、苦手な人には共通点があって、
「人の話を聞いてくれない」「自分の意見を押し付けてくる」「自分のいる立場を正確に知らないくせに悪く言う」
などという人が苦手です。
で、そういう人が孤立しているかというと、そういうことはなく、別の側面から見たらかなり頼られていたり、リーダーシップを持っていたり、周りを盛り上げることに長けていたりする。
あくまでも「私にとって」の苦手なのです。
「本当はどうされたかったのか」を書き出すこともお勧めです。
「苦手に思っちゃう自分ダメだなあ」「こういうこと思っちゃダメだなあ」と思わず、それはそれでジャッジしないで、ちゃんと大切にすることです。
自分のこともジャッジしない。
価値判断をして苦しむ自分が一番しんどい。
「あの人は」「あの人のここが・・・」
自分がなぜジャッジをしてしまうかというと、
自分の中の満たされない想いを他人に満たしてほしいという「期待」があるからです。
もしくは、自分の中に、大切にしている何かがあったり、傷ついて大切に扱われたい何かがあるから。
あるいは、自分の中に「こうあるべき」「こうなりたい」という無意識の理想像があるから。
その無意識の理想像とのギャップに人はイライラしたり悲しんでしまったりするのです。
それは、幼少時に親から満たされなかった傷がそうさせているのかもしれませんし、過去に繰り返してきた失敗からの拒否反応かもしれません。
そのイライラさせたりモヤモヤする自分の中の原因に気が付くと、その瞬間すっとつきものが取れたように心が軽くなって、笑えてくるほどです。
イエスは言います。
「偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取りなさい。
そうすれば、はっきりと見えるようになり、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。」(マタイ7:5)
しんどい原因は、「丸太が自分の目に刺さってる」から(笑)
「自分の目の前の丸太」が取れる瞬間です。
私が、傷つけられたとか、あの人苦手だと思ったときにやることは、
「自分についての発見や想いをその当事者と率直にシェアする」ということです。
無理に自分の心を押し込めて仲良くする事ではありませんし、相手を裁くことでもありません。
そうしたら、一番胸の荷が落ちるのは自分自身です。
正反対に見える「苦手な人」も、同じ理由であなたのことを苦手と思っていたことが分かります。
そうすると、その苦手だった人と仲良くなれたり、という現象が起こってくるものです。
私が真に自分のことを知り、受け入れ、愛することができれば、身の回りの現象も不思議と変わってくるのです。
クレド(弱い者の信仰宣言)
原詩:ある兵士の祈り
成功を収める為に神に力を願ったのに 弱くなってしまった
ーー謙遜を学ぶように
偉大な事をする為に神に健康を願ったのに病気になってしまった
ーー神の心に叶う様に
私の願いは何一つ叶えられなかったけれど
希望した全てのことを私は受けた
幸せになる為に神に富を願ったのに貧しくなってしまった
ーー生きる厳しさ知る様に
弱い人を助ける為に権威を願ったのに無力になってしまった
ーー神に頼ることを学ぶ様に
神は私に必要な事何もかも知っておられる
ーー希望した全てのことを私は受けた
人に尊敬される為に神に手柄を願ったのに ただ失敗に終わった
ーー思い上がらない様に
聖なる人になる為に神に徳を願ったのに 罪の醜さに泣いた
ーー神の愛の深さ悟る為に
私の姿は変わらない
弱く何も出来ないけれど
喜びに満ち溢れて私は歌う


